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2012年4月

2012年4月24日 (火)

ツバキが説く観世音菩薩の教え

 今日は初夏の日差しを思わせる好天の下、午前10時から長崎県西海市の生長の家総本山で「谷口輝子聖姉二十四年祭」が執り行われた。谷口輝子聖姉を祀る奥津城前の広場には、長寿ホーム練成会の参加者のほか地元・長崎県の信徒など約160人が参集し、生前の輝子先生の御徳を偲んだ。私は御祭の最後に概略以下のような挨拶を行った--

 本日は谷口輝子聖姉二十四年祭に大勢ご参加くださり、ありがとうございました。

 谷口輝子先生が昇天されてすでに24年が過ぎたということですが、昨年の二十三年祭のひと月前には東日本大震災と原発事故がありました。そこで昨年の年祭では、私は輝子先生のご著書『めざめゆく魂』から引用して「針供養」のことを取り上げました。これは一見、物質と見える縫い針に対しても、昔の日本人はそれをぞんざいに扱わずに、捨てるときには感謝の気持を込めて供養するという習慣のことです。このような精神が大切であるということを輝子先生は本の中で説かれているのですが、今の社会では“消費”が大切であるということで、十分使えるものでもどんどん廃棄してしまう……そういう精神が蔓延して、資源とエネルギーを浪費し、自然破壊を行ってきた。そんな戦後の我々の生き方を根本的に改めて、感謝の気持を忘れずに人や物に接し、できるだけムダを出さない生き方に切り替えていかねばならないということを申し上げました。この話は、私の新刊書『次世代への決断』にも収録されています。お持ちの方は、お帰りになってから読み返してみてください。
 
 谷口輝子先生は人に対して愛が深かっただけでなく、このように物に対しても愛情豊かな生き方をされた人です。今日は、輝子先生の別の著書『こころの安らぎ』(1982年刊)から引用して、ツバキの話をしようと思うのであります。今年の春は遅かったですが、もうツバキの花は終ってしまいました。この植物は『日本書紀』や『万葉集』の昔から多くの日本人に愛されてきたもので、この本には昭和53年4月に書かれた「竹の葉と椿の花と」というご文章が収録されています。昭和53年という年は、11月にこの総本山の落慶大祭があった年です。輝子先生は雅春先生とともに、その3年前(昭和50年)に東京からこの地に移住されています。総本山とツバキとの関係では、この昭和53年当時、境内地の山にツバキを集めて植えるという計画があったようです。また、ツツジやサクラやウメも集めて植えるといい--そんな話もここには書いてあります。さらに、この長崎県と新潟県の県木はツバキだと聞いています。
 
 このご文章の前半は竹の話で、後半にツバキの話が出てきます。そこに、植物学者の牧野富太郎博士の話としてツバキの語源について書かれています。それによると、ツバキの名前は「厚葉木」(アツバキ)「光葉木」(テルバキ)「艶葉木」(ツヤバキ)から来たらしいのです。分厚くて、太陽の光をよく反射して輝く葉をもっているという意味だと思います。ツバキ科ツバキ属の植物、学名は「Camellia japonica」であり、日本原産の常緑樹で、日本の照葉樹林の代表的な樹木です。成長すると樹高は20mに達するとも言われますが、日本ではツバキの大木はほとんど伐採されて残っていない。しかし、木質は固くて緻密で、木目が目立たないため、印材や将棋の駒など工芸品や細工ものに使われます。また、ツバキ油は良質で、燃料だけでなく、整髪用、高級食用油としても使われてきました。
 
 このように人間にとって多くの恵みを与えてくれるだけでなく、ツバキが属する「照葉樹」と呼ばれる樹木からは、人間の生き方としても示唆的な、象徴的な意味を引き出すことができます。これはオークヴィレッジ代表の稲本正さんから教えてもらったことですが、照葉樹とはその名の通り、葉がよく太陽の光を反射するということです。ご存じのように、植物は太陽の光によってCO2と水から炭水化物を作ります。これには葉緑素が必要ですが、これが植物が一般に≪緑≫であることの原因です。この植物の働きによって初めて、動物が生活できます。また、この植物の光合成のおかげで、大気中のCO2の量が一定のレベルに保たれてきました。だから植物は、できるだけ多くの太陽光を吸収して、自分の体内に多くの炭水化物を作ることで成長することが、恐らく進化の上では有利に働いたはずです。ところが、照葉樹は、その大切な太陽光を反射するように進化したのです。つまり、自分で独り占めしないで、他の植物にも光を分け与えるために自分の葉を「鏡のように光らせる」という方向に進化をとげた。
 
 私は、こういう生き方をこれからの人類はしなくてはならないと思うのです。これまでの我々の生き方は、自然界から奪えるものはすべて奪い、それを独り占めして人類ばかり数を殖やしてきた。それを、個人のレベルでも国家のレベルでも行ってきたので、争いや戦争が絶えなかった。そして、自然破壊や地球温暖化を進め、ついに生物全体にとって有害な放射線まで人工的に作り出し、核兵器や原子力発電などの技術を生み出した。そういう考え方や生き方では、もう人類の進歩は望めないどころか、人類の大量犠牲が予想される時代に来ています。そんな時こそ、私たちは日本原産の植物「ツバキ」から、観世音菩薩の教えを学ぶべきではないでしょうか? その教えとは、自然界は、他から奪うのではなく、他に与えることで繁栄する植物があるということです。それも例外的に存在しているのではなく、日本列島には照葉樹に属する植物はツバキ以外にも大変多くあります。ここに、そのリストをもってきました--
 
「構成樹種として重要なものはシイ、カシ類である。他に、高木層を構成する常緑樹としては、クスノキ科のタブノキ、カゴノキ、シロダモ、ホルトノキ科のホルトノキ、モチノキ科のモチノキ、クロガネモチ、タラヨウ、ナナミノキ、ツバキ科のツバキ、サザンカ、モッコク、モクレン科のオガタマノキ、ヤマモモ科のヤマモモ、マンサク科のイスノキ、ユズリハ科のユズリハ、シキミ科のシキミ、スイカズラ科のサンゴジュ、ハイノキ科のカンザブロウノキやクロバイ、バラ科のバクチノキやリンボク、裸子植物であるマツ科のモミやツガ、マキ科のイヌマキやナギ、イチイ科のカヤ等がある」。

 輝子先生は、この照葉樹に属するツバキについて、先ほどのご文章を、次のような言葉で結ばれています--
 
「椿の林、つつじの山、桜や梅の園ができたなら、老いたる夫婦は足もとも軽々と、大地を踏んで出かけることかと、楽しいその時が待たれてならない」。(p. 27)

 私たちは、人類の仲間にこの生長の家の真理をもっともっとお伝えし、人々に対して法施を実践すると共に、自然界に対しても奪うことをできるだけ避け、さらには照葉樹の生き方に倣って自然界の仲間に“与える生活”を推し進めることによって、豊かな自然と共生する社会を建設しなければならないと思うのです。私は輝子先生が今霊界で、そういう社会を実現したときのことを「楽しいその時が待たれてならない」とおっしゃっているような気がするのであります。どうか皆さまのお住まいのそれぞれの地域で、“自然と共に伸びる運動”をさらに強力に進めていってください。

 先生の二十四年祭に際して、所感を述べさせていただきました。ご清聴、ありがとうございました。
 
 谷口 雅宣

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2012年4月19日 (木)

生まれつきの信仰者

 前回の本欄で紹介したジャスティン・バーレット氏(Justin L. Barrett)が書いた最新刊『Born Believers』(生まれつきの信仰者)を読み始めた。この本の主旨の1つは、前回書いたように「“天使”や“神”を信じる人間の性向は生来のものだ」ということである。この結論からすぐに想起されるのは、考古学などによる人類最古の記録を見ても、宗教が人間の生活に深く関わってきたという事実である。また、科学技術が高度に発達した今の時代にあっても、人類の大多数は宗教の信者であるという事実の説明にもなる。しかし、その一方で説明が難しいこともある。その1つは、生まれつきの信仰者が大多数を占めるならば、人類の歴史の中で、宗教を原因とした争いがなぜかくも長く、数多く起こっているかという問題である。

 バーレット氏はこの重要な問題について本書では触れていない。しかし、宗教を構成する心的要素を2つに分けることで、1つの宗教内部に存在する心理的緊張状態をうまく描き出している。別の言い方をすれば、同氏は前回紹介した“信仰心生来説”を使って、同じ宗教の信者であっても、その宗教が説く“神学(教え)”に忠実に考える人もいればそうでない人もいる現象を、鮮やかに説明しているのである。

 具体的には、同氏は宗教を「自然宗教(natural religion)」と「神学(theology)」の2つの要素に分ける。前者は、人類が進化の過程で獲得した“行為の主体者に敏感な性向”から生じた信仰心である。この性向は、子供が言語を話すことを覚えるように、人間であれば幼児期に誰でも自然に獲得するものだから「自然宗教」と同氏は呼ぶ。これをあらゆる宗教の“骨格”に譬えるとすると、後者(神学)はその骨格の上に形成される“肉づけ”に見立てられる。著書から引用しよう--

「子供というものは、宗教のいくつかの基本的な考え方と行動様式にごく自然に惹きつけられ、その後、両親から教えられるまま、この骨格の上に特定の宗教的、神学的伝統が肉づけされていくのである。この後者の文化的な表現形式こそ、我々が世界の宗教の信仰体系を調べる際に、途方に暮れるほど数多く出会う神学的考え方(=教義)を提供するものである」。

 この文章を読んで、読者の中には私が提唱する“宗教目玉焼き論”を思い出した人もいるに違いない。この考え方は、1つの宗教の内容を2つに分け、それぞれを卵の目玉焼きの“黄身”と“白身”に割り当てるものだ。つまり、宗教の教えには、目玉焼きの“黄身”に当たる真理の核心を説く「中心部分」がある一方、その核心を一般人に分かりやすく伝えるための方便も含んだ「周縁部分」がある。前者は各宗教に共通しているが、後者はそれぞれの宗教が生まれた時代的、文化的背景に応じた特徴をもつから、必ずしも共通していない--こういう考え方である。バーレット氏の宗教二分法をこれに当てはめれば、「自然宗教」の部分が卵の黄身であり、神学(教義)は卵の白身ということになるかもしれない。が、よく考えてみると、そういう対応のさせ方は問題を生みそうだ。(この問題については、今回は触れない)

 さて、ここまでは主として“子供の信仰心”に焦点を合わせて書いてきたが、その子供が成長すれば大人になるのだから、これまで書いてきたことは“大人の信仰心”と無関係ではない。つまり、我々大人も、普通の生き方をしてきたならば、バーレット氏の言う「自然宗教」の信者になるということだ。これは、なかなか物議をかもしそうな考えではなかろうか? では一体、「自然宗教」とはどんな内容の信仰を言うのだろう。同氏は、次の7点が「自然宗教」の内容だという--
 
 ①思想、意図、観点、感情をもった人間以上の存在(超人的存在)を仮定する
 ②岩や木、山、動物などの自然物は、この超人的存在によって目的をもって、意図的に創造されたと考える。
 ③この超人的存在は、人の目に見えても見えなくてもよいが、時間と空間を超えた存在ではない。
 ④この超人的存在は、善や悪などという人格をもっている。
 ⑤この超人的存在は、人間のように自由意思をもち、人間と交流して賞罰を与える。
 ⑥道徳的基準は、この超人的存在によっても変化することはない。
 ⑦人間は、肉体死滅後も存在し続ける。
 
 日本人はインタビューなどに答えて、よく自分を“無宗教”だと言うが、そのくせ寺社に初詣でするし、お盆には墓参をし、葬式や結婚式では神仏の前で神妙に頭を下げ、故郷の祭りは熱心に行い、クリスマスを祝い、最近ではハローウィンの祭りにまで参加する。また、占いを信じる若者も多く、霊媒や霊言に振り回される人も少なくない。こういう現象を考えると、日本人は特定の宗教に所属することはなくても、ほとんどの人がバーレット氏の言う「自然宗教」の信者だと考えれば納得いくのではないだろうか。
 
 谷口 雅宣

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2012年4月12日 (木)

科学雑誌の“神特集”

 イギリスの科学誌『New Scientist』が今年3月17日号(vol.213 No.2856)で“神特集”(The God Issue)を組んでいたので、私は興味深く読んだ。人間が抱く宗教心の謎を科学で解明しようというのだが、もちろん完全な解明にはいたっていない。が、科学による宗教の研究は、宗教を必ずしも否定せず、逆に洞察と肯定的評価を与えてくれるものが少なくないことが分かった。その1つは、人間は生まれつき信仰心をもちやすい傾向があり、そのことが進化に有利に働いてきたらしいということだ。別の言い方をすれば、“天使”や“神”を信じる人間の性向は、生来のものだということである。無神論者の中には、“神”の概念は支配者によって「上から押しつけられた」ものだと主張する人がいるが、事実はそれほど単純でなく、信仰心は人間の本性に根差していて、文明発展の原動力にもなっているらしい。

 カリフォルニア州パサデナ市にあるフーラー神学校のジャスティン・バーレット氏(Justin L. Barrett)によると、子供にとって宗教心は「教え込まれる」というよりも、むしろ言語の習得のようにごく「自然に生まれる」という。子供は生まれてまもなくの早い時期から、興味の対象や考える傾向に特別の好みがあるらしい。その中で特に重要なのは、生命のない「物体」と「行為の主体」(agent)とを判別する能力であるという。簡単に言うと、ボールや本はそれ自身では動かないが、人や動物は自分で動けるということを、赤ちゃんは早くから知っているというのだ。人間は高度な社会性をもっているから、環境の中の様々なものの中から「行為の主体者」に注目するという。そして、何かが起こった場合--特に、通常の因果関係によって説明しにくいとき--それが偶然起こったと考えるよりも、何ものかが目的をもって行った行為の結果だと考える傾向が強いというのだ。
 
 つまり、「行為者がどこかにいて、そのために何かが起きる」と考えるのである。「行為者は何かの目的のために行為する」と考え、しかも目に見えている必要はない。適者生存の原則が働く世界では捕食者を避け、獲物を捕えるためには、こういう考え方が必要なのだという。なぜなら、人間は地上の動物の中でも体は割合いに大きい方だが、武器を持たない場合は他の動物と比較して無力である。例えば、丸腰の人間が森の中でサルに遭った場合、1対1で戦えば、たぶんその人は負ける。ニホンザルは小学生より体が小さくても、鋭い歯や身軽さ、強い四肢の力などを総合すれば、人間より強いと言える。人がネコやイヌと丸腰で戦う場合も、同じことが言えるだろう。また、森の中で出遭う相手が猛獣であれば、その姿が見えた時はもう遅いかもしれない。姿が見えないうちに、相手の痕跡を素早く見つけて行動を起こす必要がある。何らかの“異常”を察知したら、それは偶然起こったと考えるのでなく、何ものかの行為によると考える方が、その逆だと考えるよりも生存に有利に働く--こう考えたとき、「物体」と「行為者」とを瞬時に、正確に判別する心の動きの必要性が分かるだろう。

 この心の動きの一種の“派生効果”として、様々な現象の背後にそれを起こした主体者がいると考える傾向が生まれるのだという。例えば、4~5歳の子供は、トラが動物園にいるのを見ると、「トラという生き物は小動物を食べたり、歩き回ったり、動物園で人間に見られるためにつくられた」と考える方が、「トラは確かにそういうことができたとしても、そんな目的のために作られてはいない」と考えるよりも“賢い”と思うという。これと同様に、一般に子供は、動物や植物は無目的にそこにいるのではなく、何らかの理由があって創造されたと考える方が“頭がいい”と思うらしい。この傾向は、何も子供だけがもっているのではなく、大人も同様だという。例えば、我々大人も、周囲の世界に一見して秩序があり、構図やデザインがあると思うと、それを持ち来した主体者がどこかにいると直感的に感じるのである。こういう考え方、感じ方が創造主である「神」への信仰に結びつくのだという。

 これは進化心理学的な興味ある分析で、この理論から導き出されるものの中には、子供の心理に関する従来の“定説”--子供の心はもともと空っぽで“白紙”であるという考え方--をくつがえすものがある。
 
 谷口 雅宣

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2012年4月 5日 (木)

大自然讃歌 (5)

天使答え給う――
欲望は
肉体維持発展のための動力にして、
生物共通の〝炎〟なり、
〝生命の炎〟なり。
これなくして生物
地上にて生活すること能わず。
これなくして
人間も肉体の維持・発達為すこと能わず。
されど汝ら、
人間の真の目的は肉体の維持・発達に非ず、
地上に神の栄光現すことなり。
肉体は神性表現の道具に過ぎず、
欲望もまた神性表現の目的にかなう限り、
神の栄光支える〝生命の炎〟なり。
炎は制御の巧拙により
善悪いずれの結果も引き起さん。
ジェットエンジンの炎正しく制御されれば、
遠方の目的地に速やかに到達せん。
されど炎、
エンジンの制御を超えて爆発に到らば、
死と破壊たちどころに襲来せん。
されば汝らよ、
欲望の正しき制御を忘るべからず。
欲望を
神性表現の目的に従属させよ。
欲望を自己の本心と錯覚すべからず。
欲望燃え上がるは、
自己に足らざるものありと想い、
その欠乏感を埋めんとするが故なり。
即ち、
欲望は自己の〝神の子〟なる本性を知らざる迷いより生ず。
汝らは神の子なり、仏子なり。
〝生命の炎〟自在に統御し、
自己の内なる神の目的に活用せよ。
しかして
内部理想の実現に邁進せよ。
そのとき、
自己内奥の〝本心〟深く満ち足りて、
「善き哉、善き哉」と
神の御声汝らに囁かん。
かくの如く人間の意識高まりて
自己内奥の神を〝我なり〟と観ずるに到らば、
自然と人間との戦いは消え、
大調和の秩序地上に顕現せん。

――かく天使語り給うとき、
森を覆う霧の帳(とばり)静かに上がり
輝く陽を浴びて
木々の葉一斉に光を宿し、
鳥たち空に舞い上がりて
色とりどりの衣裳きらめかせ、
仲間と呼び交わす声
低く緩く虚空へと遠ざかりたり。
かくの如く森の満ち足りたる姿は、
神の御国の平和と繁栄を現じたりき。
                          (讃歌終)

 谷口 雅宣

【お断り】
 本讃歌は、谷口雅春先生の「聖経 甘露の法雨」と「聖経 天使の言葉」から一部引用しています。ブログの機能の制約と読みやすさを考慮して、ページ数などの引用箇所の明示は省略しました。引用元の著作物は、谷口雅春著『四部経』(1966年、日本教文社刊)です。

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2012年4月 4日 (水)

大自然讃歌 (4)

天使答え給う――
人間は未だ意識拡がる途上にありて、
〝自然即我〟
〝我即自然〟の実相に眼(まなこ)開かず。
個にこだわり
全を見渡し得ざる故に、
自然と戦い、
自然から奪うことにより
自己の価値増すと錯覚せり。
また、欲望肥大し、
制御しがたき人未だ多き故なり。
天の童子重ねて問う。
「師よ、個の意識も欲望も
神が人に与え給いしものに非ずや。
自然破壊の因もし両者にあらば、
何故に神両者を除(と)り去り給わざらんや」。
天使答え給う――
汝、神は自らの〝似姿〟として
人を創り給いしこと忘るべからず。
神は全ての総てなるが故に、
〝似姿〟なる人にすべてを与え、
人をして
すべてを正しき位置に納めしめ、
大調和の秩序を地上に顕現せしめんとす。
されば個の意識は
人間に於いて最高度に発達せん。
汝、
人間最勝の特長忘るべからず。
人間は他者を思いはかること
地上の生物随一なり。
されば仏道にて
「四無量心これ菩薩の浄土なり」と説くに非ずや。
イエス・キリストも
「いと小さき者の一人に為したるは、
即ち我に為したるなり」と教え給う。
この自他一体の想いこそ
人の人たる所以なり。
四無量心は神の愛にして、
〝人間・神の子〟の証なり。

天の童子さらに反問す――
「師よ、神の愛・仏の四無量心は
個の意識と相容れぬに非ざるや」。
天使説き給う――
個の意識の目的は
自らの意(こころ)をよく識(し)ることなり。
自らの〝神の子〟たる本性に気づくことなり。
多くの人々
自ら本心を欺き、
他者の告ぐるままに
自ら欲し、
自ら動き、
自ら倦怠す。
自らを正しく知らぬ者
即ち「吾は肉体なり」と信ずる者は、
肉体相互に分離して合一せざると想い、
利害対立と孤立を恐れ、
付和雷同して心定まらず、
定まらぬ心を他者に映して
自らの責任を回避せん。
されど自らの意(こころ)をよく識る者は、
自己の内に神の声を聴き、
神に於いて〝他者〟なきこと知るがゆえに、
自己の如く他者も想わんと思いはかることを得。
即ち彼は、
神に於いて自と他との合一を意識せん。

天の童子続けて問う――
「されど人の尽きせぬ欲望は
いかにして自他一体の意識と両立せん」。

 谷口 雅宣

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2012年4月 3日 (火)

大自然讃歌 (3)

この時、天の童子反問す――
「されど師よ、
強者弱者を食して生き存らうるは生物界の原則にして、
例外と見ること能わざるなり」
天使答え給う――
汝ら、
目に映る自然を神の創造となすなかれ。
現象を実在と見誤るなかれ。
「感覚にて視得るものは
すべて心の影にして第一義的実在にあらず」との教え忘るべからず。
地上に現れたる自然の営みは、
神の創造そのもの(○○○○)にあらず、
神の創造の一部のみ感覚して、
汝らの信念を投影せる姿に過ぎざるなり。
「感覚はこれ信念の影を視るに過ぎず」と説けるは、この所以なり。
汝ら、
現象に殺し合いと生かし合いの姿見ゆる時、
神の創造の全相見ゆと想うべからず。
神の創造世界では
「善のみ唯一の力、
善のみ唯一の生命、
善のみ唯一の実在」と説かれたり。
生物相食(あいは)む姿見ゆるは、
神の創造と汝らの信念整合せざる結果なり。
「生かし合い」の心汝らの内に拡がり、
汝らの生活に反映さるるとき、
生物界にも「生かし合い」の姿拡大せん。

天使かく説き給えば、
天の童子天使に対(むか)いて一揖し、
重ねて問う――
「吾まさに、環境は心の影なりとの教えの意味を理会せり。
自然環境も人類の心の反映ならば、
人々の争う心、
自然界の乱れとなって表出せん。
されど師よ、
〝神の子〟なる人間互いに争わず、
平和の経済長く続けども、
自然の破壊弥増(いやまし)し進むは
如何なる理(ことわり)ならん」。

 谷口 雅宣

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2012年4月 2日 (月)

大自然讃歌 (2)

天使答えて曰く――
汝ら、
生存競争・適者生存の用語に惑わさるることなかれ。
これらの用語、
「競争に敗れしは死滅し、
他を死滅せしは適者なり」と考うる因(もと)なり。
かくも冷酷無情なる原理
自然界の生物を繁栄せしむること能わず。
かくも素朴単純なる説
生物の生息地の多様、
生存様式の多彩を説明すること能わず。
生命は神の無限の表現なり。
生命は地上のあらゆる環境に生息地を見出すこと、
科学者驚きをもって報告せり。
摂氏百度を超ゆる温泉の中、
零度をはるかに下回る永久凍土、
鉱山の強い酸性の廃水にも
極限微生物は繁栄せり。
人体では食物を溶かす胃酸の中にも
シロアリの体内にも、
宿主を助け
共生する微生物多数あること知らざるや。
生物は殺し合いではなく、
生かし合いと棲み分けによって
多様な生態系を築き上げしこと、
生物学者も認むるところなり。
生かし合いと棲み分けこそ、
神の愛と無限の表現なり。
これなくば、
生物進化の永き過程で
かくの如き多種多様の生き物
地上に栄ゆること能わざるなり。
汝ら今こそ知れ、
地球誕生して四十六億年、
生命現象皆無の中から
単細胞生物出現し、
多細胞生物さらに分岐進化し、
海から陸へと棲処(すみか)を拡げ、
湿地から乾燥地帯へ、
熱帯、温帯、寒冷地帯へと
生命繁栄の拠点を打ち立てて来し道程は、
個々別々の生命の絶えざる闘争過程にあらず。
個別生命の盲目的生存競争の結果に非ざるなり。
汝ら、
闘争から平和生るるとの妄想より醒めよ。
悪から善生ずるとの迷いを去れ。
現象生命の地上誕生と繁栄の過程は、
実在生命の描きたる一幅の書画、
大生命の演じたる一曲の楽のごとし。
汝ら、
姿形の異(こと)なるものを「異(い)なり」と見る迷いから覚めよ。
「外形は唯自己の信念の影を見るに過ぎず」
 との教えを想起すべし。
「億兆の個(み)霊(たま)も、悉くこれ唯一神霊の反映(うつし)な」り
 との真理、
すべての生命に及ぶべし。
すべての生命互いに兄弟姉妹なりと知れば、
地球生命の繁栄の過程は
神の知恵と愛と生命の表現なること
自ずから明らかとならん。

谷口 雅宣

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2012年4月 1日 (日)

大自然讃歌 (1)

或る日天使(てんのつかい)
虚空の水晶宮より出でて
緑の森へ降り立ち給う。
森には朝霧たち込め、
差し込む朝日
光の帯を幾筋も拡げ、
鳥たちの囀(さえず)る声
高く低く辺りに響きたり。

天使、自然界を讃えて歌い給う――
神は唯一の存在なれど
かくの如く多種、多様、無限豊穣を生み出し給う。
地球の自然は
個にして全、
全にして個の姿を
如実に現し
吾らに神の無限相を顕示せり。
森は一つ生命(いのち)の塊と見ゆれども、
近寄りて見れば
無数の生物種棲む
多様なる生命共存の場、
相互向上の舞台なり。
生物種互いに
与え合い、
支え合い、
共に競いつつ
厳しい中にも
動きと変化に富む
美しき調和到るところに充満せり。
個々の生物
神の無限を表現する如く
周囲へ拡がり、
高みを目指し、
深みを極めんとし、
大距離を移動し、
形態を変化(へんげ)し
他種を模倣しつつ
独自性を現したり。
これら生態系はすべての生命の共栄圏にして、
個性保ちつつ
無数に集まり
地球の表面を覆い尽くせり。
これまさに有限の中に無限現れ
無限の中に有限同居する姿なり。
神のアイディアと創造は
かくの如く汲めども尽きず、
数うれば限りなし。

かく天使(てんのつかい)歌い終ると、
一人の天童子、
森より出で来りて
天使を仰ぎ見て曰く――
「師よ、自然界の荘厳(しょうごん)と多様と
無限の不可思議は、
しばしば吾が心を圧倒せん。 
されどこれら多種多様の生態系は、
死闘と奪い合いの結果に非ざるや」と。

谷口 雅宣

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