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2012年3月

2012年3月31日 (土)

新年度の始まりに寄せて

 私は、5年前に上梓させていただいた『日々の祈り』の副題を「神・自然・人間の大調和を祈る」とした。その理由は当時のブログにも書き、またこのたびの新刊『次世代への決断--宗教者が“脱原発”を決めた理由』の序章でも、ブログの文章を引用して説明した。それをごく簡単に言えば、ヨーロッパ中世以前の世界では「神→自然→人間」の階層秩序が厳然として続いていたのに対し、産業革命以降は、この関係が急速に崩れ、今では「人間→(神)→自然」の関係に逆転してしまった。「神」の文字が括弧に入っているのは、多くの人間にとって、神はもはや存在価値がないと思われているからだ。つまり、彼らにとって「神は死んだ」のであり、だから何の恐れもなく、自然を手なずけて自分の道具や消費の対象とし、徹底的に利用する。それが、幸福を得る方法だと考えるのである。そういう人間中心主義的で、物質偏重の考え方が現代文明の基底にはある。だから現代は、神・自然・人間の三者の関係は大方が対立的であり、敵対的でさえある。
 
 2001年にアメリカで起こった同時多発テロ事件は、“神”(宗教)の名の下に現代文明の経済と政治の中心地を破壊しようとした信仰者の行動として見ることができる。もちろん「正しい」という意味ではなく、犯行者の世界観がそうだったということだ。また、その後に起こったアメリカを主体としたアフガニスタン、イラクへの報復攻撃は、“人間”(世俗主義)の側の“神権政治”への戦いとして捉えることができる。さらに、とどまることを知らない人口爆発と、経済発展の名のもとに進行している地球温暖化などの自然破壊は、人間の自然界への攻撃であり、その結果、人類が体験しつつある洪水、旱魃、大雪、大嵐などの異常気象や気候変動は、自然の側からの人間への報復とも見て取れる。そして、昨年3月11日に起こった東日本大震災とその後の原発事故は、自然と人間との衝突を最も劇的に、衝撃的に、そして象徴的に示した出来事だったと感じられるのである。
 
 私はこのことを、大震災後に発表した「自然と人間の大調和を観ずる祈り」の中で、次のように述べた--
 
「人間が自然を敵視すれば、その迷い心の反映として、自然の側から“敵”として扱われるような事態が現れてくるのである。人間が山を削り、森を切り倒し、川を堰き止め、湖や海を埋め立てて、人間だけの繁栄を画策しても、それは神の御心ではない。それは神が“はなはだ良い”と宣言された実相世界とは似ても似つかない“失敗作品”である。実相でないものは、必ず破壊と滅亡を迎える時が来る。それは偽象の崩壊であり、業の自壊である」。

 このような事態に到っている原因は、何だろうか? 私は、その原因の1つは、人間が自然から略奪したり、自然を敵視して破壊することが人間の幸福につながるとする迷妄があると感じる。また、人類の集合的無意識の中に、自然に対する愛と憎悪のコンプレックス(欲望)が渦巻いているのではないか。これらを解消し、あるいは昇華するためには、私たちが日常的に「神-自然-人間」の大調和を心に強く描くことが必要だと考える。実相においては、自然と人間は神において一体である。そのことを心に強く印象づけるために、私はすでに祈りの言葉を書き、『日々の祈り』に収録した。恐らく多くの読者は、それらの祈りを日常的に実践してくださっているだろう。

“自然と共に伸びる運動”を進めている私たちは、今後もこの方向にさらに努力を重ねていくべきだろう。明日から始まる「第二次5カ年計画」では、国際本部の“森の中のオフィス”への移転を契機として、「自然と人間の大調和」実現の方向に運動全体の焦点を合わせていくことになる。私は、今後その方向に“コトバの力”をさらに拡大していくために、これまでの「祈りの言葉」とはやや形式が異なる長編詩を書いたので、何回かに分けて本欄で発表させていただきたい。

 生長の家の詩としては、谷口雅春先生の『生命の實相』第20巻(頭注版)聖詩篇に「生きた生命」や「光明の国」「夢を描け」など十数篇が「生長の家の歌」として収録されている。その筆頭は、現在「甘露の法雨」と呼ばれている有名な長編詩だ。これの後篇が「天使の言葉」であり、これらは生長の家の真理を凝縮した「聖経」として取り扱われている。私の長編詩は、形式としてはこれら聖経に似てはいるが、それに取って代わるものでは決してない。そうではなく、むしろ聖経で説かれた真理を引用しながら、聖経では強調されていなかった方面の教義--例えば自然と人間との関係など--について補強を試みている。読者諸賢からの感想をお待ちしている。
 
 谷口 雅宣

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2012年3月20日 (火)

“内なる神の声”に従う

 今日は晴天のもと、午前10時から東京・原宿の生長の家本部会館ホールで「布教功労物故者追悼春季慰霊祭」が執り行われた。私はこの御祭の中で奏上の詞を読み、玉串拝礼を行ったあと、最後に概略以下のような挨拶をした

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 本日は、布教功労物故者を追悼する春季慰霊祭にご参列くださり、誠にありがとうございます。このお祭は生長の家の運動に幹部として活躍・献身された人々のうち、最近、霊界へ旅立っていかれた御霊(みたま)さまをお招きして、感謝の誠を捧げる大変意義ある行事であります。本日、招霊させていただいた御霊さまは204柱でありました。その中には、私も親しくおつき合いをさせていただいた人の名前が何人もありまして、感無量の思いをしているのであります。生長の家では、人間の命は不滅であると説きます。これは別に生長の家だけでなく、ほとんどの宗教でそう教えるのであります。今日の慰霊祭でも、先ほど合唱した聖歌『永遠に』には、「人はどこまでも生き続ける」という生命不滅の真理が説かれていました。
 
 しかし、私たちは肉体生活をしている間の記憶をもっていますが、霊界での生活については記憶がありません。だから、「肉体をもった間だけ生きている」という考えに陥りやすいのです。そこで、自分の家族や知人が肉体生活から霊界へと旅立っていくと、日本語でも「お亡くなりになった」という表現がありますが、その人が「失われてしまった」とか「消滅した」と考えやすいのです。しかし、「人間は“神の子”であり、生き通しの命である」と生長の家では教えます。今日、お名前をお呼びした御霊さまは皆、その教えを信じ、信じるだけでなく、それを人々に述べ伝えるお仕事を情熱をもって遂行された人たちです。きっとこの場に来られて、聖経『甘露の法雨』の真理の言葉を喜びをもって味わわれたことでしょう。
 
 今日、お名前を呼んだ御霊さまの中に、「岩谷レスリー幸於(ゆきお)・比古命」がいらっしゃいます。この方は長い間、ハワイでの光明化運動に尽力された方で、生長の家の本の英語訳に多大な貢献をされました。また、ハワイ教区の教化部長としても活躍されました。その方の奥様は、シャーリーさんとおっしゃって私も面識があるのですが、昨年9月初めにハワイで葬儀が行われたあとに礼状をいただいたのであります。それは葬儀の際、妻と私の名前で花環を贈ったからでした。礼状は、1枚のカードに短いメッセージを書いた簡単な体裁ではありますが、内容は感動的でした。ご紹介します:
 
 Dear Rev.and Mrs.Masanobu Taniguchi,
   I wish to express my heartfelt gratitude to you for the
 beautiful floral wreathe received for my husband's
 memorial service. I am so touched by your sincere
 kindness. Words are inadequate in expressing my
 deep appreciation for your thoughtfulness. Thank you
 very much.
   Life is eternal; Leslie's soul lives on forever and
 I will continue to honor his life through Seicho-No-Ie
 deeds of love.
  
 In gratitude,
 Shirley Iwatani
 
 (日本語訳)
 谷口雅宣先生ご夫妻へ:
 
  この度の夫の葬儀に際しては、美しい花環をご恵贈くださ
 ったことに心から感謝申し上げます。先生方の真心にとても
 感動いたしました。その気持を言葉で十分表現することはで
 きません。本当にありがとうございます。
  生命は永遠です。夫、レスリーの魂は生き続けます。私は
 これからも生長の家の愛行を通して、夫の人生の栄光を讃え
 ていくつもりです。
  感謝を込めて、
 シャーリー岩谷
 
 私はこれを読んで、生命の不滅を信じるということは、人を本当に強くすると感じたのであります。家族や友人の死を経験した人は、もちろん当初は、大きな悲しみと喪失感を経験すると思います。しかし、「人間の命は不滅である」という信仰を失わなければ、やがて最初の衝撃から立ち直り、自分の中に“失われない故人の命”を見出し、さらに強くなってこの人生を歩み続けることができるでしょう。
 
 このことは、個人の死について言えるだけでなく、多数の犠牲者を出す“集団の死”についても言えると思います。私は昨年のこの春の慰霊祭では、東日本大震災から何を学ぶべきかということについて、「自然と人間の大調和を観ずる祈り」を引用して述べさせて頂きました。あれから、ちょうど1年がたちました。その間、この大震災以降に私が書いた文章を主体にしてまとめた本が最近出たので、皆さんにはぜひ読んでいただきたい。『次世代への決断--宗教者が“脱原発”を決めた理由』という本です。「自然と人間の大調和を観ずる祈り」は、その本の中にも収録されています。そこから、祈りの言葉を一部引用いたします:
 
「現象において不幸にして災害の犠牲となった人々を、“神の怒り”に触れたなどと考えてはならない。神は完全なる実相極楽浄土の創造者であるから、“怒る”必要はどこにもない。人類が深い迷妄から覚醒できず、自然界を破壊し続けることで地球温暖化や気候変動を止められないとき、何かが契機となって人々を眠りから醒ます必要がある。麻薬の陶酔に頼って作品をつくり続ける芸術家には、自分の作品の欠陥が自覚されない。そんなとき、“この作品は間違っている!”と強く訴える人が現れるのである。そんな“内なる神の声”を1人や2人が叫び続けてもなお、多くの人々に伝わらないとき、それを集団による合唱で訴える役割が必要になる--“この作品は描き直し、造り直す必要がある!”と。現象の不幸を表した人々は、そんな尊い役割を果たしている。これらの人々こそ、我々の良心であり、“神の子”の本性の代弁者であり、観世音菩薩である。」

 あの未曾有の大震災と原発事故では、2万人近い人が霊界へ旅立っていかれました。その肉体の死や悲しい経験が教えてくれることを、私たちはムダにしてはいけないのです。この本の中にも書いてありますが、産業革命以後の人類の物質主義的な生き方、消費礼賛型で人間至上主義的な生き方が今、問われているのであります。大震災後も、それと同じ方向に日本社会を進めていくことは、その問題を無視することであり、“観世音菩薩の教え”を学ばないことです。私は、経済発展がすべていけないと言っているのではありません。自然破壊的なものではなく、自然と調和する方向へ、ものの考え方、開発すべき技術、育てるべき産業を切り替える必要があるというのです。この新しい文明の構築について、同じ本に収録されているもう一つの祈り「新生日本の実現に邁進する祈り」から、引用させていただきます--
 
「神は無限の富を私たちの前にすでに与え給う。高い山、深い森、豊かな水、複雑な地形、変化に富んだ気候、そして多様な生物。人間社会は、それらに支えられて存在してきた。だから、それらを破壊することで、人間社会が豊かになるはずがないのである。人間社会は助け合いによって成立しており、個人一人で生きることができないように、人間は他の生物と助け合うことで豊かな生活を初めて実現できるのである。新たな富は“奪う”ことではなく、“与える”ことによって実現する。私たちはそれを人間社会の中だけでなく、自然界においても実践し、“本当の価値”を引き出し、豊かな自然と豊かな人の心とが共存する新生日本の建設に邁進するのである」。

 今日、新たにお名前をお呼びした御霊さまは皆、この生長の家の運動に賛同し、長い間協力してくださった人々ですから、これからも私たちの運動を霊界から見守り、ご加護くださるに違いありません。顕幽手を携えて、“内なる神の声”に従って自然と共に伸びる運動、自然と共存する新しい文明の構築を皆さまと共に、力いっぱい展開してまいりましょう。

 春季慰霊祭に際して所感を述べさせていただきました。ご清聴、ありがとうございました。

 谷口 雅宣

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2012年3月 7日 (水)

「コトバ」について (2)

 前回、本題で述べたことをもう少し詳しく説明しよう。
 
Kotoba00  身・口・意の表現とコトバとの関係は、次のような図に描けるだろう。身・口・意による表現が行われる以前の想念としての「コトバ」は、図の右側に位置している。そこから出ている3本の「矢印」は、身口意の表現がコトバから形の世界に生まれることを示している。縦方向に入った破線は、それを境界にして右側が"無形の世界"(心)に属し、左側が"有形の世界"(現象)に属していると考えてほしい。
 
 簡単な例を使って説明する。例えば、ある人(Aさん)が町を歩いている時に、向こうから知り合いの「Bさん」が歩いてくるのに気がついたとしよう。Aさんの心は動き、そこに何らかの「コトバ」(心の波)が生まれるに違いない。しかしそのコトバは、実際にAさんの口からBさんに向かって発する言葉ではないかもしれない。というのは、もしAさんがBさんに対して反感を抱いていたら、その反感を正直に言葉で表現することを避ける可能性が大きいからだ。長く社会生活をしていれば、それくらいの配慮は誰でもするだろう。しかし、この時、Aさんの心に"マイナスのコトバ"が生まれたことは事実であり、そのコトバに従ってAさんは実際の行動をとることになる。それは例えば、Bさんと顔を合わせないように近くのショーウインドーの方に顔を向けてしまうとか、路地に曲がって身を隠すとか、帽子を深くかぶり直すとか……いろいろな方法が考えられる。このような行動は身体を使ったマイナスの「身業」となる。また、こんな場合は「あっ、マズイ人に会った…」などの言葉をきっと心の中で発しているだろうから、マイナスの「意業」も積むことになるかもしれない。このようにして、無形のコトバは有形の現象としてこの世に表現されるのである。

今は仮に"悪い例"を引き合いに出したが、もちろん同じ場面で"良い例"も考えられる。それは例えば、AさんはBさんを普段から快く思っていなかったとしても、その日に読んだ生長の家の普及誌の記事のおかげで「コトバの力」の大切さを知ったため、勇気を出してBさんに笑顔で語りかけることもできる。その場合は、Aさんは当初心中に起こったマイナスのコトバ(心の波)を打ち消すだけのプラスのコトバを起こしたことになり、そのおかげで例えば、
「まぁBさん、こんなところで奇遇ですね! よろしかったら、お茶でも飲みませんか?」
 などと呼びかける(口業)ことができるかもしれない。
 その時はきっと笑顔になるだろうし、また相手を受け入れる体の動き(身業)もしている。そして、もしかしたら心中でも実際にBさんに好感を抱く(心業)かもしれないのである。

 このように考えていくと、表現以前の心の動きである「コトバ」と、それから生まれる「身・口・意」による具体的表現との違いが分かるだろう。ちなみに、谷口雅春先生はこのことを『新講「甘露の法雨」解釈』(1975年)の中で次のように述べておられる(原文は旧漢字、歴史的仮名遣い)――

「さて、“コトバ”というのは、ここでは片仮名で書いてありますが、何故片仮名で書いてあるかというと、吾々の口から出る言葉でないから、その口から出る言葉をあらわす象形文字を使って書いたのではちょっと都合が悪いからであります。」(p. 98)

 このご文章は、聖経『甘露の法雨』の「神」の項を解説されているもので、神による天地創造がどのようにして行われるかという文脈で出てくるものだ。だから先生は、人間が心によって現象世界を造る場合のことに直接的には言及されてはいない。しかし、先生はこのすぐ後で、実相世界が神のコトバによって創造されたのと同じように、現象世界は人間のコトバ(想念)によって造られると説明さているから、意味上は同じことである。その該当箇所を引用しよう――

「皆さんが家を造るにしても、家を造るにはどういう目的で、どういう形の家を建てたらよかろうか、どういう間取りにしようか、壁は如何なる質のものをどんな色に塗ろうか……などと心で想うでしょう。心で想ったものが青写真となって現れ、建築技師が夫々うけもちの大工や左官や色々の工員に命令すると、それらの人たちが、最初に"想念"された通りの材料を運んで来て、想念した通りの建築が出来上るのであります。すべて形あるものは「心」が因(もと)になっていて、形はその想念を模写するのであります。」(p.99)

 このように見てくると、雅春先生が使われてきた「コトバ」という語の意味は、私の上述の説明と違わないと分かるはずだ。つまり、生長の家で「コトバは神なり」とか「コトバの力」という場合のコトバとは、第一義的には身口意の具体的な表現が生まれる前の「想念」や「心の波」のことを指すのであって、肉声による言葉や、それを録音テープに収めたもの、あるいは書籍に印刷された文字による言葉のことではないのである。ちなみに、本や雑誌の上に印刷された文字による言葉を、上掲の図に描こうとした場合、どのようになるか考えてみよう。本や雑誌ができるためには、原稿用紙やパソコンのファイルに書き込まれた文字情報が紙に印刷されねばならない。また、それ以前には、書き手がペンや鉛筆、あるいはパソコンのキーボードを使う必要がある。ということは、「身・口・意」の3つの表現手段のうち2つか、あるいは3つすべてを使った後で、本や雑誌が生まれるということだ。だから、これを図上に示そうとすると、図の左端に持ってくるほかはないだろう。

Kotoba01  この図を見てわかることは、「教典の文字通りの解釈を絶対視する」という特徴をもつ原理主義が、いかに真理から遠いかということである。私は、教典に書かれた宗教の真理は無価値だと言っているのではない。文字という表現手段は、主観的なものを客観化する大変優れた機能をもっている。そういう意味で、元々は主観的だった宗教上の悟りや真理の会得が、文字や印刷技術の発達により、さらに最近ではコンピューターと通信技術の発達により、多くの人々が共有できる可能性は飛躍的に増大した。しかし、そのことと、教典の文字通りの解釈が真理の理解を助けるかどうかの問題は、別のことなのである。

谷口 雅宣

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2012年3月 1日 (木)

“至上階の愛”の実践者となろう

 今日は午前10時から、東京・原宿の生長の家本部会館ホールで「立教83年 生長の家春季記念日・生長の家総裁法燈継承記念式典」が執り行われた。同式典で、私は本部褒賞の授与式の前に挨拶に立ち、概略以下のようなスピーチを行った:
 
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 今日は生長の家の立教記念日、誠におめでとうございます。この記念日は、今から83年前に生長の家創始者、谷口雅春先生と輝子奥様が月刊誌『生長の家』創刊号を発行された時、その奥付に発行日を「昭和5年3月1日」と記されたことから決まったものであります。創刊号が実際に入庫したのは、その前の年の大晦日ごろだったようであります。この『生長の家』誌創刊号は復刻版が出ているので、今でもその中身を手にとって見ることができます。私は毎年のように、この立教記念日には創刊号の中から引用して、お話をすることにしているのであります。なぜなら、この創刊号には生長の家を始められた当時の両先生の想いと考え方、この運動の基本的精神が大変よく出ているからであります。それをこの日に再確認することで、いつの時代にも我々の運動を立教の精神に沿って展開していきたいと思うのであります。

 今日はまた、この日付で発行された単行本も持ってきました。すでにご存知の人も多いと思いますが、ここにあるのは私がこのたび上梓させていただいた本で、タイトルは『次世代への決断ーー宗教者が"脱原発"を決めた理由』です。この本には、約1年前に起こった東日本大震災と原発事故の後に私が書いた文章と、全国幹部研鑽会での講話などを集めてあります。何を言いたいかは副題にある通りですーー「宗教者が脱原発を決めた」ということであり、その理由は何かということです。生長の家はこれまで原発について曖昧な態度をとっていたし、どちらかというと反対するよりは容認する姿勢でした。これは、ほとんどの日本人が政府や電力会社が主張してきた「原発は絶対安全」という言葉を信じてきたのと同じで、まあナイーブだったのですね。実情をよく知らなかった。しかし今回、実際に地震と津波で原発は破壊されることを目の当たりにして、原発と私たちの生活、ライフスタイルの関係を考えざるを得なくなった。その結果、今日本では大別して2つの考え方が生まれています――1つは、我々のエネルギー無駄遣いのライフスタイルはもう変えられないから、原発の安全性を高めて今後も使い続けていこうというもの。もう1つは、原発の安全生は結局保証されないから、省エネ努力を続けながら代替エネルギーの開発を急ごうというものです。生長の家は、大別すると後者の考えに属すると言えますが、ただし、後者の人たちが言わないことも言っています。

 それは、省エネ努力はもちろんだが、それ以上にライフスタイルを変えなければならないし、それを実行する思想も方法も提示しているということです。それは「日時計主義」の生活であり、「すべては神において一体」という信仰です。そういうことがこの本には具体的に詳しく書いてあるので、皆様にはぜひ読んでいただきたいのです。それで、一体この“脱原発”のことが、生長の家の立教の精神とどんな関係があるかという話を、今日はしたいのであります。

 私はもう数年前から、自然界のものに対しても四無量心を実践しようと皆様方に訴えてきました。四無量心とは、慈(抜苦)・悲(与楽)・喜(喜徳)・捨(捨徳)という仏の無量の心です。谷口雅春先生もこの四無量心が大切であることを色々なご本の中で説かれてきましたが、『生長の家』誌創刊号にも、「四無量心」という言葉は使われていませんが、同じ内容のことがちゃんと書かれているのであります。そこを紹介したいのであります。これは、「三種の愛」という題で書かれたご文章で、28~31ページにあります。ご存じのように、四無量心とは「神の無限の愛」とも呼ばれていますから、この御文章は、愛をどう実践すべきかを教えている。四無量心では4つに分類されているものを、ここで先生は3つに分けて「三種の愛」としているのです。読みます――

「愛せよ。少しも求めずに愛せよ。これが愛の秘訣である。
 こんなに愛してやっているのに相手は斯うだと批難するな。呟くな。
 愛は、その結果がどうなるからとて愛するのであってはならない
 愛すること、そのことが神の道だから愛するのだ。
 愛すること其のことが幸福だから愛するのだ。
 結果をもとめた愛は必ず不幸に終る。
 愛の三つの段階--
 第一階は愛した結果の利益を予想するところの愛である。これは功利的な愛である。利益にならなければ腹が立つ。
 第二階は、相手が喜んでくれるから愛するのである。これは功利的ではないが相手が喜んでくれなかったり、相手が自分の好意に気がついて呉れなかったら腹が立つ。
 第三階は至上階に位する愛である。第一階の愛も、第二階の愛も共に“我”がある。“自分がこうした”“自分がああした”“然るに彼は”と云う風に、“自分”と云うものを脱け切っていない。
 至上階の愛は“自分”を全然脱却している。それは飄々乎として捕えんと欲すれど捉えることが出来ない。“先刻はこんな結構なことをして頂きましてどうも有り難う”と云われても、“ヘエ、わたしが? 何時そんなことをしましたかねえ”と空とぼけるのではないが、心から自分の愛の行為を忘れて了ったような愛である。
 それは自分がしたのではない神と偕なる時、おのずから出来た愛であるから、“自分がした”と云う感じが少しも残ってない。
 これが惟神(かんながら)の愛である。神流れの愛である。神催しの愛である。神と偕なる愛である。大菩薩の愛である。
 生長せんとする家はこの大愛を目標にして進まねばならない。
 家庭の葛藤は、姑と嫁との争いは、夫婦親子間の紛争はすべて“自分が斯うしてやったのに、彼は斯うした”と云う不平から起るのである。
 こうした不平は自分が神から遠ざかったことの証拠である。
 かかる不平起れば他を叱する前に自己を一喝せよ! 喝!」
 
 このように雅春先生は、自我を放下した愛、無償の愛を実践するのが、「生長せんとする家」――つまり、生長の家の信徒――の生き方であると説かれているのです。こういう愛は「仏の四無量心」と同じ意味ですから、今の私たちの運動は創刊号の精神に則っていると同時に、そこから現代の要請に応じて発展していることがお分かりだと思います。では「現代の要請」とは何でしょう? それは、我々の資源やエネルギー浪費の生活によって自然破壊と地球温暖化が進行し、そのために多くの人々が犠牲になっているし、これからの次世代の人々も困難な状況に陥る。これを何とかしなければいけないという問題です。そのことについて、私の新刊書の一節を紹介します。これは、81~82ページにある文章です――

「“天災”が起こることと関連してもう一つ、私が講習会の話で触れたことに“人間の活動”がある。これは、人間の活動によって地球温暖化が起こるという事実を考えれば理解しやすいだろう。今や世界の人口は70億人を超えたという。これだけの数の人々の大多数は河口や海岸近くに集中して住んでおり、都市化と近代化の波に乗って化石燃料を大量に使い、二酸化炭素を大気中に大量に放出しつつある。これによってヒマラヤやアルプスの高山の雪が溶け、氷河は後退し、極地の氷は溶けて海中に流れ出し、全世界で海面上昇が観測されている。言うまでもなく、海面上昇は河口や海岸に住む人々の生活に直接影響する。また、科学者の研究では、地球温暖化は台風やハリケーンを巨大化させ、集中豪雨や旱魃を深刻化させることが指摘されている。こういう事実を踏まえて考えてみると、いったい“災害”とはどこまでが本当の意味で“自然に”起こる現象(天災)であり、どこからを“人間の活動”の結果--つまり、人災--と見なすべきかは、きわめて判断がむずかしくなる。

 そういう状況下で、“人間は神の子である”という信仰をもって生きるということは、どう考え、どう行動することなのだろうか? これは“すべては自己の責任である”という自覚をもって生き、行動することだ。“天災”というような、自分と関係のない“巨大な怪物”が突然、自分を襲うのではなく、自分を含めた人類の過去からの行動が積み重なって生じた結果を(一部は予測できていたにもかかわらず)、我々は不本意にも摘み取りつつあるのである。だから、この種の災難を避けるためには、正しい知識にもとづいて正しく判断し、行動することが大切である。我々の行動の基準を“欲望”に合わせるような生き方は改め、化石燃料を使わない、また生態系を破壊しない生き方へと転換することが求められているのである。」
 
 ここに引用したことは、つまり「欲望優先」の生き方はもうやめて、他の人々や国々、さらには次世代の人々、そして自然界の動植物にも心を遣った「四無量心」を実践することが結局、長期的には人類のため、子孫のため、そして自分の魂の向上のためになるということです。ぜひ、この「生長の火」をさらに高く掲げて、より多くの人々にみ教えを伝え、“至上階の愛”を実践する人々を増やしていこうではありませんか。

 立教記念日に当たって所感を述べさせていただきました。ご静聴、ありがとうございました。

 谷口 雅宣

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