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2012年3月 7日 (水)

「コトバ」について (2)

 前回、本題で述べたことをもう少し詳しく説明しよう。
 
Kotoba00  身・口・意の表現とコトバとの関係は、次のような図に描けるだろう。身・口・意による表現が行われる以前の想念としての「コトバ」は、図の右側に位置している。そこから出ている3本の「矢印」は、身口意の表現がコトバから形の世界に生まれることを示している。縦方向に入った破線は、それを境界にして右側が"無形の世界"(心)に属し、左側が"有形の世界"(現象)に属していると考えてほしい。
 
 簡単な例を使って説明する。例えば、ある人(Aさん)が町を歩いている時に、向こうから知り合いの「Bさん」が歩いてくるのに気がついたとしよう。Aさんの心は動き、そこに何らかの「コトバ」(心の波)が生まれるに違いない。しかしそのコトバは、実際にAさんの口からBさんに向かって発する言葉ではないかもしれない。というのは、もしAさんがBさんに対して反感を抱いていたら、その反感を正直に言葉で表現することを避ける可能性が大きいからだ。長く社会生活をしていれば、それくらいの配慮は誰でもするだろう。しかし、この時、Aさんの心に"マイナスのコトバ"が生まれたことは事実であり、そのコトバに従ってAさんは実際の行動をとることになる。それは例えば、Bさんと顔を合わせないように近くのショーウインドーの方に顔を向けてしまうとか、路地に曲がって身を隠すとか、帽子を深くかぶり直すとか……いろいろな方法が考えられる。このような行動は身体を使ったマイナスの「身業」となる。また、こんな場合は「あっ、マズイ人に会った…」などの言葉をきっと心の中で発しているだろうから、マイナスの「意業」も積むことになるかもしれない。このようにして、無形のコトバは有形の現象としてこの世に表現されるのである。

今は仮に"悪い例"を引き合いに出したが、もちろん同じ場面で"良い例"も考えられる。それは例えば、AさんはBさんを普段から快く思っていなかったとしても、その日に読んだ生長の家の普及誌の記事のおかげで「コトバの力」の大切さを知ったため、勇気を出してBさんに笑顔で語りかけることもできる。その場合は、Aさんは当初心中に起こったマイナスのコトバ(心の波)を打ち消すだけのプラスのコトバを起こしたことになり、そのおかげで例えば、
「まぁBさん、こんなところで奇遇ですね! よろしかったら、お茶でも飲みませんか?」
 などと呼びかける(口業)ことができるかもしれない。
 その時はきっと笑顔になるだろうし、また相手を受け入れる体の動き(身業)もしている。そして、もしかしたら心中でも実際にBさんに好感を抱く(心業)かもしれないのである。

 このように考えていくと、表現以前の心の動きである「コトバ」と、それから生まれる「身・口・意」による具体的表現との違いが分かるだろう。ちなみに、谷口雅春先生はこのことを『新講「甘露の法雨」解釈』(1975年)の中で次のように述べておられる(原文は旧漢字、歴史的仮名遣い)――

「さて、“コトバ”というのは、ここでは片仮名で書いてありますが、何故片仮名で書いてあるかというと、吾々の口から出る言葉でないから、その口から出る言葉をあらわす象形文字を使って書いたのではちょっと都合が悪いからであります。」(p. 98)

 このご文章は、聖経『甘露の法雨』の「神」の項を解説されているもので、神による天地創造がどのようにして行われるかという文脈で出てくるものだ。だから先生は、人間が心によって現象世界を造る場合のことに直接的には言及されてはいない。しかし、先生はこのすぐ後で、実相世界が神のコトバによって創造されたのと同じように、現象世界は人間のコトバ(想念)によって造られると説明さているから、意味上は同じことである。その該当箇所を引用しよう――

「皆さんが家を造るにしても、家を造るにはどういう目的で、どういう形の家を建てたらよかろうか、どういう間取りにしようか、壁は如何なる質のものをどんな色に塗ろうか……などと心で想うでしょう。心で想ったものが青写真となって現れ、建築技師が夫々うけもちの大工や左官や色々の工員に命令すると、それらの人たちが、最初に"想念"された通りの材料を運んで来て、想念した通りの建築が出来上るのであります。すべて形あるものは「心」が因(もと)になっていて、形はその想念を模写するのであります。」(p.99)

 このように見てくると、雅春先生が使われてきた「コトバ」という語の意味は、私の上述の説明と違わないと分かるはずだ。つまり、生長の家で「コトバは神なり」とか「コトバの力」という場合のコトバとは、第一義的には身口意の具体的な表現が生まれる前の「想念」や「心の波」のことを指すのであって、肉声による言葉や、それを録音テープに収めたもの、あるいは書籍に印刷された文字による言葉のことではないのである。ちなみに、本や雑誌の上に印刷された文字による言葉を、上掲の図に描こうとした場合、どのようになるか考えてみよう。本や雑誌ができるためには、原稿用紙やパソコンのファイルに書き込まれた文字情報が紙に印刷されねばならない。また、それ以前には、書き手がペンや鉛筆、あるいはパソコンのキーボードを使う必要がある。ということは、「身・口・意」の3つの表現手段のうち2つか、あるいは3つすべてを使った後で、本や雑誌が生まれるということだ。だから、これを図上に示そうとすると、図の左端に持ってくるほかはないだろう。

Kotoba01  この図を見てわかることは、「教典の文字通りの解釈を絶対視する」という特徴をもつ原理主義が、いかに真理から遠いかということである。私は、教典に書かれた宗教の真理は無価値だと言っているのではない。文字という表現手段は、主観的なものを客観化する大変優れた機能をもっている。そういう意味で、元々は主観的だった宗教上の悟りや真理の会得が、文字や印刷技術の発達により、さらに最近ではコンピューターと通信技術の発達により、多くの人々が共有できる可能性は飛躍的に増大した。しかし、そのことと、教典の文字通りの解釈が真理の理解を助けるかどうかの問題は、別のことなのである。

谷口 雅宣

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コメント

合掌、ありがとうございます。28日の代表者会議でのお言葉にしごく感銘し胸詰まる思いでした。当日の「恵味な日々」を見ますと、同様の感想が述べられており、また嬉しくなりました。そこで感じましたことは、まさに「私は、教典に書かれた宗教の真理は無価値だと言っているのではない。」そして、「教典の文字通りの解釈が真理の理解を助けるかどうかの問題は、別のことなのである。」と結ばれているこの言葉でした。本物にロックオンできる精進をと肝に銘じた次第であります。ありがとうございます。再拝

投稿: 永田良造 | 2012年3月 8日 (木) 00時07分

永田さん、

>>本物にロックオンできる精進を……

 なかなか当を得た表現ですね。釈尊がハスの花を掲げて目をしばたたかせた時、迦葉尊者のみが破顔微笑した……という有名な話は、雅春先生もしばしば講話で取り上げられていましたね。これはまさに、「コトバとコトバが直接触れ合う」ことで、真理の伝達が行われた瞬間だったのだと思います。文字も教典もなくても、真理を伝達できるということを、仏教はきちんと説いてきました。原理主義から脱けられない人には、雅春先生の真意も伝わらないのです。残念なことです。

投稿: 谷口 | 2012年3月 8日 (木) 21時47分

総裁先生                     コトバと言葉について、実相と現象を詳しくわかりやすくお示しくださいましてありがとうございます。 原理主義などに陥ることがないよう、このページを繰り返し読んで実にしていきたいと思います。合掌 

投稿: 赤嶺里子 | 2012年3月 9日 (金) 08時07分

合掌 ありがとうございます。岐阜教区の横山です。本日は愛知県の日本ガイシスポーツプラザにて行われた講習会に行って来ました。午前中と午後の二回に渡って丁寧に分かりやすくご指導を賜りありがとうございました。四無量心の意味を勘違いしていた事に気が付きました。又、犯罪の件数が減ってきていると言われた事は興味深く聞きました。このブログを通して普段からご指導頂いているお陰で良く理解する事が出来ました。今日の講習会に参加出来て良かったと思っています。これからの人生が好転してくるという確信が持てました。11月は岐阜での講習会がありますし、4月には全国幹部研鑽会がありますので。両方ともスクリーンを通じての参加になりますが総裁先生の声を聞く事が出来るので、楽しみです。再拝

投稿: 横山啓子 | 2012年3月11日 (日) 16時37分

総裁先生
とても分かりやすく、楽しくて印象に残ります。原理主義の方は正しい本物の真理の尊さがわからなのでしょう。御気の毒です。島根教区の大講習会は6月24日に皆さんと御待ち申し上げております。
『次世代への決断』拝読させて頂きました。来月の講師研修会に使わせていただきます。ありがとうございます。   足立拝

投稿: 足立冨代 | 2012年3月15日 (木) 23時11分

横山さん、
 講習会への参加、ありがとうございました。感想もありがとう。

足立さん、
 拙著を読んでくださったのですね。分厚い本で固い内容でしたが、講師研修会では“やさしく”説明していただけると有り難いです。(ずいぶん、勝手ですが……)どうもありがとうございます。

投稿: 谷口 | 2012年3月17日 (土) 22時36分

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