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2012年2月28日 (火)

「コトバ」について

 今日は東京・原宿の生長の家本部会館において「生長の家代表者会議」が開催され、4月から始まる新年度の運動方針理解のために、7カ国から生長の家の幹部約800人が集まってディスカッションの時がもたれた。私は会議の最後に結語のスピーチをしたが、その内容そのもの発表は別の媒体に譲るとして、本欄では話した内容を補う意味で、生長の家で使われる「コトバ」という語の意味について少し書こうと思う。

  生長の家では「言葉の力」というものを大切にすることは、多くの信徒はよく知っている。これに関連して、新約聖書の『ヨハネによる福音書』の冒頭の有名な聖句が引用されることもある。そこには、こうある--

「初めに言(ことば)があった。言は神と共にあった。言は神であった。この言は初めに神と共にあった。すべてのものは、これによってできた。できたもののうち、一つとしてこれによらないものはなかった。」(1:1-3)

  また、聖経『甘露の法雨』では「神」の項に「心動き出でてコトバとなれば、一切現象展開して万物成る」とも書かれている。前者は天地創造に関連した表現で、後者は実相世界の成り立ちに関するもので、とても重要視されている。このように生長の家では、言葉に重要性を与えてきたので、あまり教えを知らない初心の人々の間には、誤解が生じる余地も出てきている。それはどういう誤解かというと「書かれた言葉は絶対である」と考えることだ。また、生長の家は「文書伝道」を重視してきたため数多くの書籍が刊行されており、そこに「書かれた言葉」を尊重するのはいいが、絶対視する傾向も一部で生まれてきているようだ。

 これは別に、生長の家に限られたことではなく、宗教一般に言えることだ。ご存じのように、宗教の世界には「聖典」「経典」「教典」などと呼ばれる数々の立派な書物があり、そこに書かれた文字によって宗教上の“真理”や“教義”が示されているという考えが昔から一般的に存在している。そのため、「聖典の言葉=絶対の真理」という単純な理解で宗教の教えを捉えている人が案外多いのである。しかし、実際にそういう教典や聖典を注意して読んでみると、同じ教典の中に一見相互に矛盾した表現や用語、論理などが散見される。この現象は、仏典や聖書、イスラームの『コーラン』にも共通しており、その教典が大部であればあるほど一見した“矛盾”や“不整合”は多く見られるのである。

 このようなことが起こる理由について、私はかつて『信仰による平和の道』の中で宗教上の「原理主義」が抱える問題に関連させて述べたことがある。が、その本も発行後すでに9年がたっていて、読んでいない人や、読んでも内容を忘れてしまった人もいると思うので、この場で再確認したいのである。宗教の書物の内容に矛盾撞着したように見える言語表記が散見される理由を簡単に言えば、それは宗教が扱う主題が“この世”を超えているのに対し,我々が日常的に使う言語は“この世”のものを主たる対象にしているからだ。“この世”の道具によって“この世ならぬもの〟を表現する――これが宗教的な言語表現に与えられた困難な使命である。私はこのことを、『信仰による平和の道』では次のように書いた:

「普通我々が使う言葉は、日常的に普通に存在する事物や人、それらの関係を表現するためのものである。それに対して、宗教で取り扱う重要なことの多くは、“神”や“仏”や“霊”というような日常生活とは少し次元の違うものである。言い換えれば、普通の言葉は日常の“俗事”を表現するためのものだが、宗教は“聖事”を取り扱うのである。しかし、何によって“聖事”を取り扱うかというと、それは言葉による以外にないから、“俗を扱う道具によって聖を説明する”という一種の“離れ技”を行うのである。これが、宗教の教典や聖典の使命である。」(p. 10)

 この困難な使命を一応達成して残っているのが、世界各地、各宗教の聖典であり、教典である。だから、そういう宗教的書物に記録された音声や文字表現が「重要である」ことは言を俟たない。しかし、その重要性は、あくまでもその文章が書かれた人・時・処においてのものであり、その文章を読む人や時代や場所が変われば、重要度に変化が生じてくる可能性があるのである。そのことを考慮せずに聖典に書かれた文章を文字通りに解釈し、それを“絶対の真理”だと考えると、大きな間違いを犯すことにもつながる。この「聖典の文字通りの解釈」が宗教上の原理主義の大きな特徴であるということを、私はもう何年も前からいろいろなところで述べてきた。だから、生長の家の考えでは、「書かれた言葉は絶対である」というのは間違いなのである。

 さて、このことを理解した上で、生長の家で説かれている「コトバの力」とは何かを考えてみよう。この話は講習会でもよくしているので大方の人は、すでにご存知だ。生長の家では言葉について、普通では使わない表記をすることがある。それは、「コトバ」と片仮名3文字で表記する場合だ。この表記についても講習会ではよく話していて、仏教的な表現を借りて「身・口・意」の3つの手段を使った表現のことだと説明する。つまり、何か自分の心中にあるものを表現する場合、私たちは身体を使い(身)、あるいは口から声を出して(口)、または心の中で想念を起こすことで(意)、それをしている。もちろんこの3つの手段をすべて同時に使うこともある。ということは、「コトバの力」とは「表現力」という意味であり、さらには、我々に身口意の表現を起こさせる元になる、一定の指向性をもった心中のエネルギーのことを指しているとも言える。

 谷口雅春先生は著書の中で、これを「波動」「振動」「想念」などの言葉に置き換えて説明されている。例えば、先に触れた聖経『甘露の法雨』の一節を説明している『新講「甘露の法雨」解釈』の中には、「コトバとは想念のこと」(p. 98)とはっきり書いてあるし、『ヨハネ伝講義』には、「 天地にミチていて、事物のハジメを成しているものが言(ことば)即ち、波動であり」( p.18)と書かれている。また、『真理』第4巻青年篇には、次のように記されている--

「これは宇宙に満つる霊の振動であり、生命の活動であります。……想念の波を起すということであります。……宇宙に満つる大生命の波動が想念即ちコトバであって、それがやがて形の世界にあらわれて来るのであります。だから事物の本質とは何かというと、此のコトバでありまして、形ではないのであります。」(p.185-187)

 生長の家の教えの特徴の1つは、このような意味での「コトバの力」の重視なのである。生長の家は、発祥の初めから「文書伝道」を特徴として発展してきたが、同時に「日時計主義」というものを高く掲げてきたことはご存じの通りである。日時計主義は「朗らかに笑って生きよう!」ということだから、ここには文字による表現だけでなく、笑顔になったり、声を出して笑うことも含まれている。つまり、「身・口・意の善業をすべて動員して真理を伝える」――講師や信徒は「生活の全面を通してみ教えを伝える」――それが我々の本来の運動なのである。そういう意味からも、私たちが現在行なっている「技能と芸術的感覚を生かした誌友会」や『日時計日記』の活用、肉食の削減、さらには二酸化炭素の排出削減などの活動が、みな「コトバの力の活用」であることが理解できると思うのである。我々の運動の原点は形に現れる前の「コトバの力」の活用であるから、形にとらわれてはいけない。ある1つの形が行き詰ったならば、同じコトバを使って別の形、別の表現に向かっていけばいいのである。この点が、原理主義を標榜している信仰とは大きく異なると言えるだろう。
 
 谷口 雅宣

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コメント

合掌 ありがとうございます。隣県である愛知県の講習会が3月11日に迫ってきました。既に教化部を通じて入場券は手に入れています。ブログを通してでなく、直接ご指導頂ける事を楽しみにしています。日頃からコトバの力というものを実感しております。実相と現象の世界の違いについていろいろ煩わしい事ばかりですが、ブログを通してご指導頂いている事でだいぶ理解出来るようになりました。文書伝道を通してもっと多くの人に生長の家の良さをお伝えして行けたらと思っています。講習会に参加したら翌日にでもコメントします。再拝

投稿: 横山啓子 | 2012年3月 1日 (木) 00時44分

谷口雅宣先生

 本当に多くの信徒が陥りやすい部分を的確にご指導下さり有り難うございます。
 聖典「生命の実相」に「生長の家は古来、不立文字と言われた宗教的真理を言葉で表現する事に成功したのである。」という主旨の事が書かれていますので私も生長の家はこれだけの本を雅春先生が残してくれているのだから、雅春先生がいなくなっても生長の家の真理は確実に残る。先生のお書きになった本を読んでその通り信仰していれば良いと何となく思っておりましたし、そう思っている信徒も多いだろうと思います。
 でも、本当の真理はやはり不立文字で、形に現れた真理の言葉の行間を読むという事をしなくてはならないのですよね。それは雅春先生も「生命の実相」の別の所で「この宇宙の真理は現象の事を表現する言語ではとても表現しきれるものではない」とか「真の宗教運動は古い形を破って、どんどん時代に応じて新しい表現、形を作って行かなくてはならない」という事も述べられてますね。でも所謂原理主義の人達はそうした所を読まないで「生長の家は言葉の宗教だ。雅春先生が昔、こう仰っているからこうだ」と主張し、かつ、他の一般信徒も何となくそれと同じ様な考えの人が多かったと思います。

投稿: 堀 浩二 | 2012年3月 2日 (金) 10時24分

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