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2012年1月 1日 (日)

“竜蛇を定める”大切さ

 読者の皆さん、新年おめでとうございます。
 
 本日は午前10時から、東京・原宿の生長の家本部会館において新年祝賀式が挙行された。今年の祝賀式は、初めての試みとしてインターネットによる複数会場への中継を行い、本部会館のほか長崎西海市の生長の家総本山、京都府宇治市の生長の家宇治別格本山、そして山梨県富士河口湖町の生長の家富士河口湖練成道場の3カ所と連結して新春の到来を寿いだ。教化・講師部の報告によると、参列者数は総本山を除く3会場合計で約900人だそうだ。総本山での参列は、長崎北部、同南部教区のほか近県からも多数参加したため現在、その数は調査中という。
 
 祝賀式では、総本山の龍宮住吉本宮歳旦感謝祭で「みくにきよめの舞」を奉納する様子などが中継されたので、参加者の感動を深めたと思う。私は、例年のように式典の最後に挨拶に立ち、概略以下のような話をした。
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 皆さん、本日は新年おめでとうございます。

 関東地方は昨年末から好天に恵まれていまして、元旦も穏やかなよい天気の中で迎えることができました。皆さんと一緒につつがなく平成24年、2012年の新年を迎えられますことを心から感謝申し上げます。ありがとうございます。
 
 すでにご存知のように、今日の新年祝賀式は少し新しい趣向を凝らしています。これまでこの行事は、東京の本部会館だけで行われていましたが、今回の祝賀式は長崎・西海市の生長の家総本山など3会場をインターネットで結んで行い、音声と映像を同時中継しています。プログラムにもこれが反映されていまして、総本山の新年の儀式の一部を、参加者の皆さんにご覧に入れたところであります。このような方式を使うことで、大勢の信徒の皆さんがこの祝賀式に参加し、新しい年の最初の日に同じ想いを共有しよう、というのが目的であります。また、それと同時に、布教活動から出る二酸化炭素の排出量を少しでも減らそうという意図もあります。今回は実験的な試みですが、この方式が「よい」ということになれば、生長の家本部がまもなく八ヶ岳南麓へ移転したあとの各種行事のやり方にも、取り入れていくことになるでしょう。
 
 さて、過ぎ去った2011年、平成23年は“激変の年”でありました。このことは『聖使命』紙などの挨拶の中にも書きましたが、いわゆる“アラブの春”という中東・北アフリカ地域の民主革命が年初から起こっただけでなく、ヨーロッパの信用不安が起こり、また日本では東日本大震災とその後の原発事故が起こり、さらに歴史的な円高が続いています。これらの“激変”は、一回きりの単発のものでなく、現在にも引き続いて、今後もしばらくは継続するだろうというので、私たちの生活のみならず、日本全体の政治・経済に大きな影響が出ているところであります。しかし、「変化」というのは必ずしも“悪い”ばかりではありません。これらの変化を通して、現象世界に神の御心である“実相”がより明らかに顕現するのであれば、変化は望ましい“進歩”ということになります。ですから、私たちはこの機会をとらえて、“実相の顕現”に資するような活動や生き方を益々、勇気をもって展開していくことが必要です。
 
 そういう意味では、今年が十二支では「辰年」であることはなかなか示唆的であり、興味深いものがあります。「辰」はご存じのように「竜」に喩えられています。十二支には12種類の動物が当てはめられますが、この中で「竜」はただ一つ、想像上の動物です。ほかの動物(鼠、牛、虎、兎、蛇、馬、羊、猿、鳥、犬、猪)は皆、現実に存在する動物です。このことから、中国や日本では、「竜」に特別の意味を付して宗教や諺などで使ってきました。昨年はウサギ年だったので、ウサギを使った諺を2つ紹介しましたが、今年は「竜」の諺を紹介しましょう。それは、「竜頭蛇尾」です。この諺の意味は、何でしょうか?
 
 これは、「初めは勢いが盛んだが、終わりになると衰えて振るわない」ということです。竜の頭は立派ですが、ヘビの尻尾は貧弱だからです。この諺の中には、「竜は立派だが、蛇はつまらない」という考え方が含まれています。さらにこれが発展して、「竜は本物だが、蛇はニセモノである」とか「竜は善だが、蛇は悪である」いう考え方につながっていきます。出典の1つは禅宗の書である『碧巌録』です。これをひもといてみると、「竜蛇(りゅうじゃ)を定める」とか「竜蛇混雑」などの言葉が出てきます。これは「正邪を分ける」とか「玉石混交」というのと同じ意味に使われています。こういう宗教的、文化的な伝統を考えてみると、今年が辰年であるということは、今年こそホンモノが現れるべき年であり、正邪がハッキリ分けられるべき年だということになるでしょう。
 
 谷口雅春先生の『碧巌録解釈』から、第35則「文殊前(ぜん)三三」という公案のところを紹介します--

 【垂示】垂示に云く、竜蛇を定め、玉石を分ち、緇素(しそ)を別ち、猶予を決す。若し是れ頂門上に眼あり、肘臂(ちゅうひ)下に符あるにあらずんば、往々に当頭に蹉過(しゃっか)せん。只如今(ただいま)見聞不昧。声色純真。且(しばら)く道(い)へ。是れ皂(そう)か是れ白か、是れ曲か、是れ直か。這裡(しゃり)に到って作麽生(そもさん)か弁ぜん。
 
 これは難解な文章で、ほとんど外国語のようでありますが、谷口雅春先生が分かりやすく解釈してくださっているので、そこを朗読いたします--
 
 「さて、この垂示に示されている“竜蛇を定め”は、相手が、天神の使いであるところの竜であるか、それともただの蛇であるか、それともまた人間をまどわして“知識の樹”の果を食らわせて人類をエデンの楽園から追放せしめるに至った“サタンなる蛇”であるかを見分けなければならぬというのである。宗教にも色々あって、正信もあれば淫祀邪教もある、玉石を混淆し、黒白を曖昧にしてはならぬので、“玉石を分ち、緇素を別つ”能力がなければならぬというのである。“緇”というのは“黒”ということである。僧侶のまとう墨染めの黒衣のことを緇衣(しい)と称する。“猶予”(ゆうよ)の猶というのは、疑い深い獣(けもの)の一種の名だということで、疑い深いために、善悪の判断を截然とつけることが出来ず、これは本当は白か黒かと疑って狐疑逡巡している動物だが、人間はそのようなことではいかぬ。一分の猶予もすることなく、炬火の炎の如き明らかなる眼をもって善悪の判断をキッパリ決せねばならぬというのが“猶予を決す”である」。
 
「ある説には猶は犬に似た形の疑い深い主人に忠実な動物で、飼主に伴われて道を行くとき、予め自分が前に進んで飼主を害するような敵がいないかを見定め、見定め終ってから飼主の許に来って飼主を迎える、そして又次の地点に行くと予めまた自分が前に進んで危害の有無を観察してから飼主を伴う--その間に予め時間を要する。それだから“猶予する”という熟語が出来たのだともいう。しかし人間はそんなのろまなことではいかぬ。明眼をもって、直ちに黒白を明らかにし、玉石を甄別(けんべつ)し、竜蛇いずれかを見別けなければならぬ。それだから、人を導く宗教人や、一国の政治外交を司る総理や閣僚の椅子に坐るような人間は“頂門上に眼ある”如きものでなければならぬ、そうでなければ、何か宗教上の信仰をもっていて護符を肘臂(ひじ)に結びつけて、その護符を媒介として神又は守護霊の導きを受けなければならぬ--もし、そうでなかったら、“往々に当頭に蹉過せん”--頭を壁にぶち当てて、せっかくの好機会に行きちがいになって、機会を看のがすことが度々あるぞと、この垂示は吾々に注意を促しているのである。“頂門上に眼あり”というのは、両眼のほかに額の入口に、もう一つの眼があるということであって、両眼は物質界のことを見る眼だから、物質界に起こる以前の“心の世界”に於ける“兆”(きざし)を観ることは、“頂門上の、もう一つの眼”を以って観なければならぬのである」。(同書、pp.291-293)
 
 このように説かれていまして、変化の時代に大切なことは、玉石混交した情報を前に躊躇逡巡することではないのです。「頂門」とは神想観をするときに精神を集中するところですから、そこにある「眼」で見るとは、「神の御心に聴く」ということです。多くの人々は変化にとまどい、あっちに行ったりこっちに来たりとウロウロするかもしれませんが、私たちは決して狼狽することなく、神想観をしてさらに信仰を深め、迷わずに“実相顕現”の正しい道に向かって勇気をもって進んでいく--それが“竜蛇を定める”ということです。本年はそういう年にしたいと念願するしだいであります。

 谷口 雅宣

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コメント

新年お芽出とうございます。本年もどうぞ宜しくお願い致します。画期的な試みの恩恵に浴する事ができました。有難うございました。総本山でリアルタイムで歳旦祭に参加する事ができ慶び一杯です。7時半に家を出て総本山には9時半過ぎには着きました。御国浄めの神楽が舞われた時 司会より「本山に切り替わります」と案内があり 目の前で見ながらスクリーンにも写って何て素晴らしいんだろうと正直思いました。「よい」となってこれからも どんどん取り入れられるようになったらいいなぁと思いました。毎年干支に関するお話をなさって下さり 知識が豊かになります。有難うございます。「竜頭蛇尾」が碧巌録からも由来していたとは驚きでした。まさに へぇ~きぃがぁ~ん!!!
今年も皆で正しく変化していきたいと思います。桝谷拝

投稿: 桝谷栄子 | 2012年1月 1日 (日) 22時25分

新年あけましておめでとうございます

どうしても現象に惑わされれることがありますが、心の目で、しっかり実相をみて、今年も生きていきたいと思いました。ありがとうございます(合掌)

投稿: 水野奈美 | 2012年1月 3日 (火) 13時15分

新年おめでとうございます。
兵庫教区教化員相愛会の山森と申します。初めての投稿に緊張いたします。先生の『耳学問ではいけない』という昨年からの御言葉と、辰年は『正邪がはっきり分けられる』という御言葉に背筋が伸びる思いです。今年の御神籤では『今年は心重く苦しいことがあるが、信心してがまんしてじっと時をまて』と厳しいものでしたが、神想観を実修すればそれも気に病むことなく『自然を尊び愛で育むこころ』を神様と家族と信徒の皆さんとで養って行きたいと思います。恐縮ですが今年は何度か投稿させていただいて、自らの励みにさせていただきたく、よろしくお願いします。(合掌)

投稿: 山森 明 | 2012年1月 3日 (火) 22時39分

桝谷さん、
スゴイ駄洒落ですねぇー、今年もよろしくお願いします。

水野さん、
山の生活では現象に学ぶことも多い気がします。本年もよろしく。

山森さん、
初めてまして。こちらこそ、よろしく。まずは、気軽にいってみましょう。

投稿: 谷口 | 2012年1月 4日 (水) 09時30分

合掌有り難うございます。
本年もブログを通じてこのようにご指導いただけますこと、心より感謝申し上げます。

こうしてコメントさせていただくことは、一体今自分がどの程度雅宣先生から発せられるメッセージを正しく理解し受け止めているのかを客観的に知ることもでき、改めて画期的ですごいシステムだなと思っています。きっと、フェイスブックですと、より一層そういう認知が深まるのだろうと思います。

他の方のコメントからもいつも多くの刺激を受けます。皆さん考えが深くよく勉強なさっていて、自分が考え感じたことなど稚拙で、何だか恥をかいたような気になることもあります。でもそれこそが勉強なのだと、めげずに挑戦していきたいと思います。(主人からはいつも、あんたは恥のかき方が足りないと言われてますので‥^ロ^;)

投稿: 前川 淳子 | 2012年1月 7日 (土) 02時06分

総裁先生、新年あけましておめでとうございます。本年もよろしくお願いします。今年も一年、このブログを通して環境問題について勉強させて頂きます。3月には愛知県の講習会でお目にかかれる事を楽しみにしています。ご指導ご鞭撻賜りますようよろしくお願いします。合掌

投稿: 横山啓子 | 2012年1月 8日 (日) 10時35分

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