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2012年1月

2012年1月23日 (月)

“便利な機器”は国を亡ぼす?

 生長の家講習会で高知へ行くために乗った航空機の機内誌に、作家の浅田次郎氏が技術社会に厳しい目を向けた随筆を書いていた。浅田氏はこの雑誌に毎号機知に富んだ随筆を書いていて、中には冗談か本気か分からないものもあるので、私は今回も冗談半分の一文かと最初は疑った。が、この号の内容は真面目で理にかなっているので、私も氏の訴えを真面目に受け止めようと思った。浅田氏は、「民に利器多くして国家滋昏(ますますくらし)」という老子の言葉を引用して、「国民生活に便利な道具が増えれば国は暗くなる」と述べている。そして、「科学は人間の幸福を求めて日々進歩するが、この恩沢を蒙る人間は、利器が幸福とともにもたらす実害や精神の退行について、謙虚に誠実に考え続けねばならない」と説いている。氏は、現代の便利な機器は、人間精神の退行をもたらすという、見落としやすい、しかし重要な問題を提起しているのである。

 もっと具体的に言うと、浅田氏は自動車をモデルチェンジなどですぐに買い換えたりせず、1台の愛車を10万キロ走行して使い切り、最近の便利な機器であるETCもカーナビも使わないのだという。そして、その理由が上に述べた“老子の教え”によるらしいのである。私も、自動車をモデルチェンジのたびに買い換えるのは資源の浪費であり、商業主義への敗北だと考えている。で、95年型のホンダ・オデッセイを今でも運転していて、走行距離は10万キロに達する。が、その理由の大きなものは、燃費のいいハイブリッド型のSUV(多目的スポーツ車)が出ないからで、それが発売されればすぐにでも買い換えるつもりだった。また、ETCは早々と導入したが、カーナビは設置していない。カーナビを使わない理由は浅田氏のように哲学的なものではなく、実利的なものた。つまり、私の場合、知らない土地に自動車を運転して行く機会が少ないからである。
 
 では、ETCやカーナビが「国を暗くする」とはどういう意味だろう。浅田氏のETCへの反感は、この装置を取り付けるのが「利用者負担」だという点にあるようだ。ETCの導入を道路会社が勧めるのは経営合理化が目的だが、それはそもそも道路会社自身の努力が前提であるべきなのに、利用者にコストを負担させるのはケシカランというわけだ。カーナビがマズイ点は、それに頼った運転者が増えることで、ドライバーが方向感覚を磨くのをやめるからだという。これらの理由は、確かにそれなりに理解できる。が、それがなぜ「国を暗くする」という大きな問題につながるのだろう。それについて、氏は「この言はわれわれの生きる時代にも、怖いくらい当てはまる。ことに(中略)“利器多くして”は、原発から携帯電話機に至るまで、老子が、二千年後の世界を予見していたとしか思えぬ」と書いてあるだけで、詳しい理由は述べていない。

 そこで私は、勝手に考えることにした。原発の問題がここで指摘されているのは、我々が戦後、原発の構造やエネルギー生産の仕組み、危険度等について何も知らないまま、「原発は安全で豊富なエネルギー源だ」という政府や電力会社の宣伝を信用し続け、国民として国のエネルギー政策に無知・無関心のままだったことを指しているに違いない。これは確かに、「国を暗くする」という大変な問題を今、引き起こしている。日本は国家として、エネルギー政策をどう進めればいいのか“真っ暗闇”の中にいるからだ。
 
 では、携帯電話はどのようにして「国を暗くする」のか。私は携帯電話をもっていない。その理由はどこかにも書いたが、第一に「自由を束縛される」と考えるからだ。携帯電話を買う人は、恐らく「自分から相手に連絡する」という“外向き”方向の通信の便利さを重視するのだと思うが、電話は双方向の通信機だから、「相手からかかってくる」という“内向き”の通信を無視できない。「地球上どこにいても誰かから呼び出される」という可能性を、私は排除したいと考えている。第二の理由は、携帯電話によってもたらされる“ながら族”の生き方は、日時計主義に反すると考えるからだ。これについて詳しくは、拙著『日時計主義とは何か?』や『太陽はいつも輝いている』を参照してほしい。
 
 しかし、これらは皆、個人生活に注目した考察で、そういう個人がどんどん増えてくることで、「国が暗くなる」かどうかの問題まで、これまであまり考えたことはなかった--そう書こうとして、「いや、書いたことがある」と思い出した。それは、本欄の前のブログ「小閑雑感」で「情報の質」について考えたときだ。その時、私はアメリカ軍が現在パキスタンなどで多用している無人偵察攻撃機を取り上げ、科学技術の最先端を行くこの兵器が一見、情報収集能力に長けているように見えても、実は本当の意味での“正しい情報”を得ることはできない、という見解を述べたのだった。長い話をごくごく簡単に縮めて言うと、「高性能ビデオカメラによっても、人間の心中は見ることはできない」ということだ。そんな機器によって“敵味方”の判別は正確にはできず、よし判別できたとしても、人間同士の接触による相互理解のような、本当に重要な情報伝達(心の理解)などできないということだった。
 
 携帯電話の利用から一気に現代の軍事戦略にまで話題が飛躍してしまったが、しかし、私は浅田氏が指摘するように、“便利な機器”が抱える問題には国家レベルのものもあると考える。現に昨年来、中東を中心に起こっている“アラブの春”革命は、携帯電話やスマートフォンの利用と密接に関係していると言われているし、日本でも最近、国会議員の電子メールが海外からのアクセスで盗まれた痕跡が発覚した。また、国内の軍事産業に関わるコンピューター内の情報が中国からアクセスされた疑いも出ている。
 
 私は実は“便利な機器”大好き人間であるが、浅田氏の一文を読んで、それらの機器の利便性だけでなく、限界や危険性も十分に理解して、正しく使うこと(あるは使わないこと)が、今後ますます重要になってくると感じたのである。

 谷口 雅宣

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2012年1月 9日 (月)

現代の“知恵の木の実”(2)

 科学界では、昨年12月26日の本欄で書いた“人造ウイルス”の是非をめぐる問題が、年が明けても論議されている。『ニューヨーク・タイムズ』紙(電子版)は、1月2日、6日、7日付でこれに関する記事を載せた。

それによると、今回の研究データーを一部の責任ある科学者にだけ限定するという案については、科学者はおおむね否定的である。その理由は、科学技術上の知識を秘匿することは、戦争や兵器開発との関係で17世紀から行われてきたことだが、あまり効果がないからだという。これまでは数学や暗号技術、物理学、核科学、光学、生物学の知識がこの分野で使われており、そして今、ウイルス学の領域でも同じことが起こっているのだという。今回の研究を行なった一人、ロッテルダム市のエラスムス医療センターのロン・フッシャー博士(Ron A. M. Fouchier)によると、この種の情報を得る資格のある科学者は、「世界の100以上の研究機関などで働く1000人以上」の人々だといい、「10人以上に知らせれば、その情報はすぐ誰でも入手できるようになるだろう」と指摘している。だから、検閲はすべきでないというのだ。

 また、ラトガース大学の化学教授で生物兵器の専門家であるリチャード・エブライト博士(Richard H. Ebright)は、「生物兵器として使うことができるタイプの細菌の情報は、これまで意図せずに何百回もアメリカの研究所から漏洩している」と指摘し、今回のケースも「やがて必ず洩れる、10年以内に……」と断言する。

  科学者がこのように“規制反対”の傾向なのに対し、ジャーナリストは“規制すべし”という見方が多いようだ。特に『ニューヨークタイムズ』は7日付の社説で、「そもそもこのウイルスは開発されるべきではかった」と明確に反対の意思を表明している。リベラルな論調が特徴的な同紙の論説としては、なかなか踏み込んだ表現である。この社説によると、研究が行われるべきでなかった理由は、「人間へ危害を及ぼした場合、その規模は壊滅的なものとなるのに対し、研究によって得られるメリットは仮定的で、効果が疑わしい」からだとしている。そして、科学界がもっと説得力のある研究のメリットを提示しないならば、この“人造ウイルス”は破壊されるべきだとする。もしそれがだめならば、政府の監視下にあるいくつかの研究所に隔離し、「レベル4」という最高レベルで防護すべきだという。そして、今後この種の研究は、事前にその危険性をもっと真剣に検討する必要があり、そのためには国際監視機関のようなものを作るのが望ましい、と述べている。

  上の社説の中に、ウイルスが人類に及ぼす被害について「壊滅的」という表現が使われているが、これは恐らく次のような事実にもとづくのだろうーー

今回の研究では、「A(H5N1)」というタイプの鳥インフルエンザ・ウイルスを、遺伝子操作によって人間に感染しにくい型のものから大気感染するタイプに変異させた。このタイプのインフルエンザに人が感染した場合、過去の例では約600人に感染し、うち半数以上が死亡している。この50%という率は、1918年に約1億人が死亡したインフルエンザの大流行(死亡率2%)と比べて、はるかに高いのである。

さて、私は昨年12月26日の本欄を次のような文章で結んだ--
 
『科学的知識や技術は、人類の生存を助け、人間社会を豊かにする目的で探求される。しかし、その同じ知識や技術は、客観性をもち再現可能であるというそのことにより、悪意をもった人によって目的外の使い方をされる可能性が常に存在する。「“知恵の木の実”を食べた人間が楽園から追放される」という神話が、現在もなおリアリティーをもっているゆえんである』

 本件についての明確な態度表明とは言えないかもしれないが、私の考えは『神を演じる前に』(2001年)の出版当時から基本的には変わっていない。その本の「はしがき」で、私はカール・せーガン博士の言葉を引用して、「人類や地球環境を破壊するような科学技術を生むな」と訴えた。そして、この本の結論は、「利己心や欲望を最大の動機として、21世紀の科学技術が使われてはならない」というものだった。この「はしがき」を書いたのが2000年11月14日で、その約1年後に「9・11」が起こった。だから、私はこの時、科学技術が“宗教的目的”に使われる際も、人類に甚大な被害を及ぼすことがありえるという事実を見落としていた。また、昨年3月11日の“事件”を思い起こせば、科学技術は、まったくの善意で使われている場合も、人類に甚大な被害を及ぼし得るという事実を承認しなければならないだろう。
 
谷口  雅宣

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2012年1月 1日 (日)

“竜蛇を定める”大切さ

 読者の皆さん、新年おめでとうございます。
 
 本日は午前10時から、東京・原宿の生長の家本部会館において新年祝賀式が挙行された。今年の祝賀式は、初めての試みとしてインターネットによる複数会場への中継を行い、本部会館のほか長崎西海市の生長の家総本山、京都府宇治市の生長の家宇治別格本山、そして山梨県富士河口湖町の生長の家富士河口湖練成道場の3カ所と連結して新春の到来を寿いだ。教化・講師部の報告によると、参列者数は総本山を除く3会場合計で約900人だそうだ。総本山での参列は、長崎北部、同南部教区のほか近県からも多数参加したため現在、その数は調査中という。
 
 祝賀式では、総本山の龍宮住吉本宮歳旦感謝祭で「みくにきよめの舞」を奉納する様子などが中継されたので、参加者の感動を深めたと思う。私は、例年のように式典の最後に挨拶に立ち、概略以下のような話をした。
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 皆さん、本日は新年おめでとうございます。

 関東地方は昨年末から好天に恵まれていまして、元旦も穏やかなよい天気の中で迎えることができました。皆さんと一緒につつがなく平成24年、2012年の新年を迎えられますことを心から感謝申し上げます。ありがとうございます。
 
 すでにご存知のように、今日の新年祝賀式は少し新しい趣向を凝らしています。これまでこの行事は、東京の本部会館だけで行われていましたが、今回の祝賀式は長崎・西海市の生長の家総本山など3会場をインターネットで結んで行い、音声と映像を同時中継しています。プログラムにもこれが反映されていまして、総本山の新年の儀式の一部を、参加者の皆さんにご覧に入れたところであります。このような方式を使うことで、大勢の信徒の皆さんがこの祝賀式に参加し、新しい年の最初の日に同じ想いを共有しよう、というのが目的であります。また、それと同時に、布教活動から出る二酸化炭素の排出量を少しでも減らそうという意図もあります。今回は実験的な試みですが、この方式が「よい」ということになれば、生長の家本部がまもなく八ヶ岳南麓へ移転したあとの各種行事のやり方にも、取り入れていくことになるでしょう。
 
 さて、過ぎ去った2011年、平成23年は“激変の年”でありました。このことは『聖使命』紙などの挨拶の中にも書きましたが、いわゆる“アラブの春”という中東・北アフリカ地域の民主革命が年初から起こっただけでなく、ヨーロッパの信用不安が起こり、また日本では東日本大震災とその後の原発事故が起こり、さらに歴史的な円高が続いています。これらの“激変”は、一回きりの単発のものでなく、現在にも引き続いて、今後もしばらくは継続するだろうというので、私たちの生活のみならず、日本全体の政治・経済に大きな影響が出ているところであります。しかし、「変化」というのは必ずしも“悪い”ばかりではありません。これらの変化を通して、現象世界に神の御心である“実相”がより明らかに顕現するのであれば、変化は望ましい“進歩”ということになります。ですから、私たちはこの機会をとらえて、“実相の顕現”に資するような活動や生き方を益々、勇気をもって展開していくことが必要です。
 
 そういう意味では、今年が十二支では「辰年」であることはなかなか示唆的であり、興味深いものがあります。「辰」はご存じのように「竜」に喩えられています。十二支には12種類の動物が当てはめられますが、この中で「竜」はただ一つ、想像上の動物です。ほかの動物(鼠、牛、虎、兎、蛇、馬、羊、猿、鳥、犬、猪)は皆、現実に存在する動物です。このことから、中国や日本では、「竜」に特別の意味を付して宗教や諺などで使ってきました。昨年はウサギ年だったので、ウサギを使った諺を2つ紹介しましたが、今年は「竜」の諺を紹介しましょう。それは、「竜頭蛇尾」です。この諺の意味は、何でしょうか?
 
 これは、「初めは勢いが盛んだが、終わりになると衰えて振るわない」ということです。竜の頭は立派ですが、ヘビの尻尾は貧弱だからです。この諺の中には、「竜は立派だが、蛇はつまらない」という考え方が含まれています。さらにこれが発展して、「竜は本物だが、蛇はニセモノである」とか「竜は善だが、蛇は悪である」いう考え方につながっていきます。出典の1つは禅宗の書である『碧巌録』です。これをひもといてみると、「竜蛇(りゅうじゃ)を定める」とか「竜蛇混雑」などの言葉が出てきます。これは「正邪を分ける」とか「玉石混交」というのと同じ意味に使われています。こういう宗教的、文化的な伝統を考えてみると、今年が辰年であるということは、今年こそホンモノが現れるべき年であり、正邪がハッキリ分けられるべき年だということになるでしょう。
 
 谷口雅春先生の『碧巌録解釈』から、第35則「文殊前(ぜん)三三」という公案のところを紹介します--

 【垂示】垂示に云く、竜蛇を定め、玉石を分ち、緇素(しそ)を別ち、猶予を決す。若し是れ頂門上に眼あり、肘臂(ちゅうひ)下に符あるにあらずんば、往々に当頭に蹉過(しゃっか)せん。只如今(ただいま)見聞不昧。声色純真。且(しばら)く道(い)へ。是れ皂(そう)か是れ白か、是れ曲か、是れ直か。這裡(しゃり)に到って作麽生(そもさん)か弁ぜん。
 
 これは難解な文章で、ほとんど外国語のようでありますが、谷口雅春先生が分かりやすく解釈してくださっているので、そこを朗読いたします--
 
 「さて、この垂示に示されている“竜蛇を定め”は、相手が、天神の使いであるところの竜であるか、それともただの蛇であるか、それともまた人間をまどわして“知識の樹”の果を食らわせて人類をエデンの楽園から追放せしめるに至った“サタンなる蛇”であるかを見分けなければならぬというのである。宗教にも色々あって、正信もあれば淫祀邪教もある、玉石を混淆し、黒白を曖昧にしてはならぬので、“玉石を分ち、緇素を別つ”能力がなければならぬというのである。“緇”というのは“黒”ということである。僧侶のまとう墨染めの黒衣のことを緇衣(しい)と称する。“猶予”(ゆうよ)の猶というのは、疑い深い獣(けもの)の一種の名だということで、疑い深いために、善悪の判断を截然とつけることが出来ず、これは本当は白か黒かと疑って狐疑逡巡している動物だが、人間はそのようなことではいかぬ。一分の猶予もすることなく、炬火の炎の如き明らかなる眼をもって善悪の判断をキッパリ決せねばならぬというのが“猶予を決す”である」。
 
「ある説には猶は犬に似た形の疑い深い主人に忠実な動物で、飼主に伴われて道を行くとき、予め自分が前に進んで飼主を害するような敵がいないかを見定め、見定め終ってから飼主の許に来って飼主を迎える、そして又次の地点に行くと予めまた自分が前に進んで危害の有無を観察してから飼主を伴う--その間に予め時間を要する。それだから“猶予する”という熟語が出来たのだともいう。しかし人間はそんなのろまなことではいかぬ。明眼をもって、直ちに黒白を明らかにし、玉石を甄別(けんべつ)し、竜蛇いずれかを見別けなければならぬ。それだから、人を導く宗教人や、一国の政治外交を司る総理や閣僚の椅子に坐るような人間は“頂門上に眼ある”如きものでなければならぬ、そうでなければ、何か宗教上の信仰をもっていて護符を肘臂(ひじ)に結びつけて、その護符を媒介として神又は守護霊の導きを受けなければならぬ--もし、そうでなかったら、“往々に当頭に蹉過せん”--頭を壁にぶち当てて、せっかくの好機会に行きちがいになって、機会を看のがすことが度々あるぞと、この垂示は吾々に注意を促しているのである。“頂門上に眼あり”というのは、両眼のほかに額の入口に、もう一つの眼があるということであって、両眼は物質界のことを見る眼だから、物質界に起こる以前の“心の世界”に於ける“兆”(きざし)を観ることは、“頂門上の、もう一つの眼”を以って観なければならぬのである」。(同書、pp.291-293)
 
 このように説かれていまして、変化の時代に大切なことは、玉石混交した情報を前に躊躇逡巡することではないのです。「頂門」とは神想観をするときに精神を集中するところですから、そこにある「眼」で見るとは、「神の御心に聴く」ということです。多くの人々は変化にとまどい、あっちに行ったりこっちに来たりとウロウロするかもしれませんが、私たちは決して狼狽することなく、神想観をしてさらに信仰を深め、迷わずに“実相顕現”の正しい道に向かって勇気をもって進んでいく--それが“竜蛇を定める”ということです。本年はそういう年にしたいと念願するしだいであります。

 谷口 雅宣

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