現代の“知恵の木の実”
しばらく本欄から遠ざかっていたが、来春に出版が予定されている新刊書の原稿書きなどで余裕があまりなかった。その間、大きな出来事はいくつかあったが、本欄の主題にふさわしくないなどと考えながら、つい“筆無精”してしまった。しかし、人と自然との関係を考えさせられる話題として、ウイルスの開発に関わる最近の出来事には言及しておいた方がいいと思い、キーボードを叩いている。
「ウイルスの開発」と言っても、コンピューター・ウイルスのことではない。本物の生きたウイルスを人間が作る話である。日本のメディアではあまり大きく取り上げられなかったが、12月22日付の『インターナショナル・ヘラルド・トリビューン』が第1面で報じたことだ。有名な科学誌『Science』と『Nature』に対して、アメリカ政府への諮問機関がウイルス研究の一部情報を公表しないように働きかけているらしい。学問の自由、表現の自由を重んじるアメリカ社会では、かつてないことだというのでニュースになっている。
その記事によると、問題となっている研究は、アメリカとオランダで行われた「A(H5N1)」という鳥インフルエンザ・ウイルスの研究で、科学者たちは毒性が高く、かつ感染力がきわめて高い種類のウイルスを作成したらしい。フェレットというイタチの一種を使って作成されたインフルエンザ・ウイルスで、通常は人から人への感染は起こらないが、感染した場合、致死性はきわめて高いという。このウイルスは1997年に発見され、その後約600人が感染して半数以上が死亡した。これまでのほとんどの症例は、鳥を媒介としてアジア地域で起こっている。
この諮問機関とは、アメリカの国家保健研究所(National Institute of Health)の傘下にある「生物安全保障のための国家科学諮問委員会」(National Science Advisory Board for Biosecurity)で、研究の結論部分は公表されるべきだが、「実験と遺伝子変異の詳しいデータは、実験を再現可能とするため公開すべきでない」としている。これに対して、『Science』誌のブルース・アルバーツ編集長は、一部の情報の公開を控える用意はあるとしつつも、「正当な理由でそれを必要とする科学者に対しては、非公開の情報も得られる制度を政府が作るならば…」との条件を付けているという。
しかし、科学者の側も、この技術が生物兵器製造などの間違った目的に使われる危険性が現実にあることを了解している。アルバーツ博士は、「この研究でわかったのは、このウイルスをきわめて危険な状態に変化させることが比較的容易だということで、そうなると、誰も気づかないうちにエーロゾル(煤霧質)などに混入させて空気中にバラまくこともできるだろう」と言っている。この状態になれば、ウイルスは咳やクシャミによって人々に次々と感染していくことになる。
この研究に関わっているのは、オランダのロッテルダム市にあるエラスムス医療センターと米ウィスコンシン大学のマディソン校で、双方ともアメリカのNIHから助成を受けている。研究の目的は、どのような遺伝的変化がウイルスの感染力を決めるかを突き止めることだという。それが分かれば、自然界にあるウイルスの遺伝的変異を観察して危険な大流行の兆候を事前に察知し、対策を講じたり、場合によっては治療に役立てることも可能になるからだ。
これに対し、同諮問機関の委員であり、米陸軍の生物防衛研究所(defensive biological lab)の前所長、デービッド・フランツ博士(David R. Franz)は、今回の答申についてこう語るーー「私の懸念は、大変な損害をもたらすような知識が素人やテロリストの手に渡ったらどうなるかということです」。同博士は、「今後、我々が直面する事態に対処するための情報を、最良の、責任ある科学者だけがもつ」べきだと強調している。しかし、インターネットが発達した今日の社会で、情報の流れを規制することはなかなか難しい。事実、今回問題となっている研究でもオランダのものは、すでに今年9月にウイルス学の学会で発表されており、また研究論文も審査のために複数の科学者の手に渡っているという。
科学的知識や技術は、人類の生存を助け、人間社会を豊かにする目的で探求される。しかし、その同じ知識や技術は、客観性をもち再現可能であるというそのことにより、悪意をもった人によって目的外の使い方をされる可能性が常に存在する。「“知恵の木の実”を食べた人間が楽園から追放される」という神話が、現在もなおリアリティーをもっているゆえんである。
谷口 雅宣