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2011年11月

2011年11月22日 (火)

すべての中に“光”はある

 今日は午前10時から、長崎県西海市にある生長の家総本山で「谷口雅春大聖師御生誕日記念式典」が厳かに執り行われた。私は祭文を奏上したほか、概略以下のような言葉を述べた:
 
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 皆さん、本日は「谷口雅春大聖師御生誕日記念式典」に大勢お集まりくださり、ありがとうございます。
 
 谷口雅春先生は昭和60年6月に満91歳で昇天されましたが、まだこの世にいらっしいましたならば、今日で118歳のご誕生日を迎えることになります。肉体はお亡くなりになってすでに四半世紀たちましたが、私たちは「400冊」とも言われるご著書によって、今でも先生のお心に接することができる。これは誠にありがたいことであります。先生の最後のご著作は『碧巌録解釈』という上下2分冊の本であります。この本の後篇の最後にある「『碧巌録』終講の辞」というのが、先生の絶筆であります。
 
 この『碧巌録解釈』の後篇に収められた第86則「人人(にんにん)光明」という公案から、今日は学びたいのであります。この「本則」の中に、「作麼生(そもさん)か是れ諸人の光明」という言葉が出てきます。これは、雲門和尚という禅宗の偉い坊さんがある日、説教壇に立って並み居る学僧の前で問いかけた言葉です--「人には皆、光明が宿っているというが、これはどうだ? 何か言うことはあるか?」と訊いたのであります。しかし、学僧たちは何も言えないでいる。そこで和尚自らがこう言った--「厨庫(づく)三門」「好事も無きに如かず」。厨房があり三門(山門)がある。寺には僧達の食事をつくる厨房があって、それは敷地の脇の目立たないところにある。これに対して三門は正面のよく見える所に、目立つように建てられる。寺院には、そのどれもが必要であるから、それぞれが自分の特長はこうで、他より自分は素晴らしいなどと主張しない方がいい--そういう意味のことを谷口雅春先生は、解説文の中で書いておられます。それを読みます。
 
「好事などといって自分の特色を自己宣伝みたいに振り回されると、鼻持ちならぬことになるから、そんな特色など無い方がましである。当り前が当り前に整っているだけでそれで、各自それぞれの個性ある光が輝いているのである。茶碗は飯を盛れば、それで茶碗相応の光を輝かしているのであり、椀は味噌汁を淹れるだけで、椀相応の光を発しているのである。別にこれらの物は光を発しようと分別擬議し工夫して光っているのではないのである。寺院でいうならば正面から参詣すれば仏殿三門があり、その背後には眠るための寝堂があり、日常生活に便するための方丈がある。これらが皆、それぞれ、その物の光である。別に光ろうとして光っているのではない。此処では“厨庫三門”とあるが、厨庫のことを日本の寺院では庫裡(くり)と称している。台所ことである。山門のように高く聳えてはいないけれども、台所があるので僧院の美味しい食事が整えられるのである」。(同書、pp. 794-795 朗読)
 
 このあと「頌」(じゅ)というのが続きます。頌とは、本則で示された真理の讃辞のようなものです。それを『碧巌録』を編纂した重顕禅師が付け加えているのです。
 
「頌に云く。自照孤明を列す。君がために一線を通ず。花謝して樹に影無し。看る時誰か見ざらん。見不見。倒まに牛に騎って仏殿に入る」。

 この「頌」に対する先生の解釈を読みます--
 
「すべての生物は皆それぞれ自己の個性ある光を備えていて、その光は他の者が模倣出来るものではないからそれを孤明というのである。各自はその孤明ある独自の光を発揮していて自己を照しているのである。自己の光を、自己が見れば、自分が列聖の一人であって、誰にも劣る者ではないとわかるのであるが、肉体の瞳をもって光を見ようと思っても、その聖(とうと)い光は肉眼には見えないのである。そして自分が尊い“神の子”であるとうことが却って見えず、肉屋にぶらさがっている牛肉の肉塊の一片のようにしか、自分には“自分の実相”が見えないのである」。

 少しとばして796ページのおしまいの方へ行きます--
 
「春が来たって桜花爛漫、夏が来たって夾竹桃が紅白の絢爛とした花をつけると、それを観賞する人は外面的な花の美のみに心を捉えられて、その樹木の幹の中を流れている“生命の流れ”を視ようとする人はいないのである。ところが、秋雨来たって花謝って散り、冬来って悉く落葉し、幹も枝も真っ裸になって、それに冬の日が照っている、どこにも影はない花のかげりも葉のかげりもない。それでも枯れた木と、枯れないで一陽来復の春が来たったときに再び爛漫とした花を咲かせようと、黙々として樹木の根幹には、種々の個性ある樹木それぞれの生命の尊い営みが行われているのである。恐らく、斯ういう時には、花爛漫の時には看なかった“樹の生命”を誰でも見ることが出来るのである」。(同書、pp.796-797)
 
 このようにして雅春大聖師の解釈を学んでみると、私たちの普段の“ものの見方”が浅薄であることがよく分かります。例えば今、総本山の境内では木々が美しく紅葉していますが、私たちはその中でもっとも目につく、紅葉が美しい木の下へ行って、写真を撮ったり絵を描いたりしがちです。しかしそれは、「人人光明」「自照孤明」の真理を忘れているのではないか? むしろ枯れたようになった木の前に立って、そこに流れる見えざる生命を見る「見不見」をすべきではないか? そういう問いかけがここにはある。皆さんも今回、この大祭と式典に参列されたのですから、このあと、ご自分で枯れたようになった木の前に立って何が見えるか、そこで心が何を感じるかを確かめてみてください。きっと新しい発見があるはずです。
 
 この記念式典では、このあと本部褒賞の授与があります。そこで表彰される方々は皆、生長の家の光明化運動に永年にわたって素晴らしい活躍をされた人たちです。生長の家本部は、それを認め、絶大な感謝の気持を込めて表彰させていただきます。それはそれで素晴らしいことです。しかし、表彰されなかった人々は素晴らしくないかといったら、決してそうではありません。「人人光明」「自照孤明」ですから、私たちが触れるすべての人々は、それぞれの個性を通した光明が輝いているのです。それが見えないのは、私たちの側に一種の“偏見”があるかもしれない。自分勝手の“色メガネ”をかけているからかもしれない。「厨庫三門」「好事も無きに如かず」です。

 これと同じことは、自然界を見るときにも言えます。私のブログの文章を集めた『小閑雑感』の19巻目が最近出ましたが、その中の「キノコ採りで考える」という文章に、自然界の3大生物群--動物、植物、菌類ーーの間の微妙で重要な関係が書いてあります。そこを紹介いたします。

「日本菌学会会長を永く務めた生物学者の今関六也氏は、生態系の中での菌類の役割について『日本のきのこ』という本の中で興味深い話を書いている。それによると、地球の生態系は、無機物でできた環境界と有機物による生物界から成っているが、キノコを含む菌類は、その中で有機物を無機物に変換する2つの重要な流れの1つを担っているという。もう1つの流れは、動物が担っているが、動物による有機物から無機物への分解能力には限りがあるので、菌類がそれを補っている。これに対して植物は、光合成を使って無機物を有機物に変換するとともに、菌類と動物とによる有機物を分解して無機物に変換する。この双方向の流れがバランスよく働いているために、生物の繁栄に必要な稀少量の無機物が無限に循環する生態系が成り立っているというのである。そして、今関氏は次のように言う--
 
“生物の出現は35億年前といわれるが、35億年の長い生命の歴史は、植物・動物・菌の共同生活によって築かれ、その永い歴史を通して生物は進化に進化を重ね、ついに人類は誕生した。人類が今日あるのは、35億年の生命の歴史のおかげであり、この歴史を築いた三つの生物群の一糸乱れぬ共同生活を続ける限り、人類の永遠?の繁栄も約束されるはずである”。」

 こういう事実を知ってみると「すべてが一体である」「自然界は神の命、仏の命の表れである」という生長の家の教えが、より深く理解されると思うのであります。私たちは、表面の派手な出来事に目を眩まされてはいけない。本当にあるものは肉眼や感覚を超えている。このことは、人と人との関係においても、人と自然との関係においても言えることです。すべての中に“光”はあるのです。私たちは雅春大聖師の教えをさらに深く学びつつ、その上に立って、現代喫緊の課題である自然と人間との調和する世界の実現に向かって、これからも勇気と信念をもって力強く進んでまいりたいと思うのであります。
 
 谷口雅春大聖師御生誕日に当たって、所感を述べさせていただきました。ご清聴、ありがとうございました。

 谷口 雅宣 

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2011年11月10日 (木)

森はカラマツ色

Karamatufall  休日を利用して大泉町の山荘へやってきた。町の中心部は紅葉・黄葉が美しい盛りだが、標高のあるわが山荘付近は、木々はだいぶ葉を落としてしまっている。それでも庭で育っているメグスリの木やカエデ類は、黄緑から黄色、橙、赤へと続く美しいグラデーションを見せている。カラマツの黄葉を期待していたが、山荘近くでは大半がすでに地に落ちていた。しかし、カラマツの葉のいいところは、地に落ちても変色が少ないことだ。だから、黄葉が地面を染めることになる。
 
「黄葉」と書いてはみたが、カラマツの黄葉は決して普通の「黄色」ではない。光が当たれば黄金色に輝くが、地に散り敷いたときの色はサーモンピンクに近く見える。1枚の葉は長さ数センチの太めの糸状だから、それが大量に落ちると、辺り一面をサーモンピンクに染めてしまう。そんな森の中をのんびりと散策していると、ほのかな芳香をかぐことができる。以前にも書いたことがあるが、私はカラマツが放つ微かな香りが好きで、散り敷いた葉をKaramatuleaves 集めて東京の家に持って帰ったこともある。今日も朝食前の時間に付近を散歩した。曇り空だったため、赤や黄色の鮮やかな色は後退し、サーモンピンクの山道がまっすぐに続く景色が目に飛び込んできた。顔に当たる山の空気は冷たく、手袋なしの手はやがてかじかんでくる。しかし、その清冽な冷気が、私の心を内側から昂揚させてくれるのがわかる。歩いて3~4分のところに隣家の別荘があるが、人気はない。その黒い屋根がサーモンピンクの砂糖をまぶしたように見えるのがいい。黒くなった古い切り株の上に積もった葉も、趣がある。表面を指でこすってみると、切り株が柔らかになっている。苔が生えているのだ。

 朝食後に、山荘西側のデッキの前に伸びていた細めのクリの木を1本、切り倒すことにした。眺望を妨げていたし、一部が枯れて枝が腐ってきていた。また、枝振りにも難があったからだ。もちろん、これらの理由は皆、人間の勝手な都合だ。寒風の中、ここまで一所懸命に生きてきたクリの木の身になれば、とんでもない話だ。が、込みすぎて生えている木は、互いに栄養分を取り合ってひょろひょろになる。実は、クリよりも山荘に近接して立っていたヤマザクラの木は、先に枯れてしまった。春には白い花をつけて私たちを楽しませてくれたし、幹に鳥の巣箱をゆわえておいたので、ヒガラなどが出入りする様子が観察できた。しかし、理由がわからないまま枯れて、幹の表面にあまり美しくない苔が一面に生えてきたので、管理会社の人に伐採してもらった。が、クリの木は、それより細く、自分で切り倒せると思ったのだ。
 
Kurinokicut  チェーンソーで切り倒す作業は、簡単だった。が、その後が案外、大変だった。枝を払い、焚きつけにできる長さに切り、幹も約1メートルの長さに切って、一箇所に集めておく。この作業に小一時間かかった。この過程で、クリはカラマツよりも硬く、重いことを知った。木の内側の色も、前者は黄色っぽいのに対し、後者は赤っぽい。いずれの木も、伐採後は薪にして燃やしてしまうというのでは、いかにも勿体ない。用途をゆっくり考えてみようと思う。
 
 谷口 雅宣

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2011年11月 3日 (木)

動物の心について (8)

 前回、本題で書いた文章に登場したゴキブリのシーダーには、心があったのだろうか? その答えは、きっと「心とは何か」という定義如何による。しかし、その定義自体がきわめて難しい、と私は思う。『広辞苑』の定義は「人間の精神作用のもとになるもの。また、その作用」ときわめて簡単である。三省堂の『大辞林』も、昆虫に心があるとは認めていないようだ。なぜなら、いくつもある定義のどれもが「人間」のことにしか触れていないからだ。例えば、最初の定義は「人間の体の中にあって、広く精神活動をつかさどるもとになると考えられるもの」を心だとしている。この定義では、心は昆虫の体の中にあってはいけないことになる。
 
 同じ三省堂の『新明解国語辞典』(第4版、1989年)では、心を次のように説明する--
 
「特に人間に顕著な精神作用を総合的にとらえた称。具体的には、対象に触発され、知覚・感情・理性・意志活動・喜怒哀楽・愛憎・嫉妬となって現われ、その働きの有無が、人間と動物一般、また敬愛・畏怖の対象となる人と憎悪・けいべつすべき人間を区別するものと考えられる。古くは心臓がこれをつかさどるものとされた」。

 この定義によると、心は「特に人間に顕著な精神作用」とされているから、人間以外の動物も「顕著でない程度」において、精神作用があることが前提になっていると読み取れる。ただし、その場合は「心」とは呼ばないということか。ところが、この辞書では、上記の説明のすぐあとに使用例を示しており、そこには「ペットとの心の触れ合い」と書いてあるのだ。つまり、ペットにも心があると読み取れるのだ。すると、この定義は自己矛盾を冒している。
 
 英語で心を意味する語は「mind」だが、その定義を見ると、心をもつものが人間であるか否かに触れないものもある。次の定義は、2000年版のランダムハウス・ウェッブスターの大学辞典(Random House Webster's College Dictionary)のものである--
 
「推論し、思考し、感じ、望み、知覚し、判断などをする要素や部分、あるいは精神過程のことで、人間または意識をもった存在の内部にある」(the element, part, or process in a human or other conscious being that reasons, thinks, feels, wills, perceives, judges, etc.)

 この定義で興味深いのは、人間以外の動物であっても「意識をもつ」場合は心ももちえるとしている点だ。こういう見解は、恐らく最近の心理学や認知科学の知見を取り入れているのだろう。これらの定義の背後には、しかし総じて「人間」とその他の動物とを“別もの”として分離しようとする動きが感じられる。それはなぜか……と考えてみると、「擬人化(anthropomorphism)」という言葉に突き当たるのである。
 
「擬人化」とは、人間ではない動物や植物、その他の存在に対して、人間と同様の形態や性質をもたせようとする考え方で、科学者にとってタブーとされる。もちろん、科学以外の分野では--例えば、イソップ童話の動物たち、ミッキーマウス、ピノキオ、ミツバチ・マーヤ、ハロー・キティーなど--擬人化は世界中で行われてきたし、童話やアニメの分野では今も大々的に行われている。こういう分野では、動物が心をもつことにいちいち目クジラを立てるような野暮な批評家は、恐らく存在しないだろう。では、科学の分野では、なぜ擬人化が厳しく規制されるのか? その理由は、それほど明確でない。
 
 私の想像では、科学者が擬人化を嫌うのは、本来別のものを同一視しようとする考え方を、科学は基本的に嫌うからだろう。別の言い方をすれば、生物種Aと生物種Bがあった場合、AとBとが同種または近種であるという証明がない限り、科学はAとBを別種とすべきだと考えるのだ。これは科学特有の慎重さであり、これによって科学は早急な誤った結論を未然に防ぐ努力をしてきた。私はそれを評価するのに吝かでない。が、この慎重さによって誤った結論を防ぎきれたわけではないし、この慎重さがすべての分野の判断に必要なわけでもない。また、この慎重さに固執することで、かえって自由な発想が妨げられ、大胆な仮説の提出を妨げる場合もあるだろう。
  
 本シリーズの7回目で紹介した昆虫学者のウイリアム・ジョーダン氏は、「擬人化」という言葉の正当性に疑問を投げかける。彼に言わせると、「“擬人化”という言葉は、人間と動物の心のあいだに、橋をかけようもない大きな割れ目、一種の聖なる深淵があると想定しなければ使えない」という。擬人化を徹底して否定することは、人間と他の生物種の間に先験的に共通点を認めないことを意味する。科学者は、すべての可能性に対して開かれた心をもっているべきなのに、まるで宗教の教義のように、なぜ「人間と他の生物は異なる」という前提にしがみつかねばならないか、とジョーダン氏は批判しているように見える。彼は、そんな“教条主義”を捨てて、新しい発想に向かうべきだと次のように訴えている--
 
「擬人化という概念は、妙な具合に生物学と対立する。知識として当然とされてきたものをひっくり返してみたらどうだろう。つまり、人間の思考を動物の心(マインド)にあてはめるのではなく、動物の機能を人間の心にあてはめてみたらどうだろう。われわれが動物から進化したものなら、人間の心だって動物の衝動の延長線上にあるのではないか」。(『カモメの離婚』、p.143)

 ここでジョーダン氏が言っていることは、「人間が考えるように動物も考える」という擬人化(“人間→動物”という方向への同一化)が許されないならば、動物の中で起こることが人間の心の作用にも潜んでいると、逆方向(“動物→人間”という方向)に考える必要があるのではないかということだ。そういう思考過程をへて彼がたどりついた結論は、なかなか刺激的であるーー
 
「単純な昆虫たちを飼育しているあいだに、私はふいに特定の場所で生きるための行動の適切さやそこに見られる良識、つまり、本能がそなえている知性に気づいた。そして、人間が良識と呼んでいるものは、根源までたどれば良い本能以外のなにものでもないという結論に至った。われわれが意識をもつ心と呼んでいるものは、本能、つまり意識のない神経が生まれつきそなえている知性の上に重なっていて、それらが機能するのを見まもっているプログラムにすぎないのかもしれない」。(前掲書、p.151)

 谷口 雅宣

【参考文献】
○ウィリアム・ジョーダン著/相原真理子他訳『カモメの離婚』(白水社、1994年)

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