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2011年11月 3日 (木)

動物の心について (8)

 前回、本題で書いた文章に登場したゴキブリのシーダーには、心があったのだろうか? その答えは、きっと「心とは何か」という定義如何による。しかし、その定義自体がきわめて難しい、と私は思う。『広辞苑』の定義は「人間の精神作用のもとになるもの。また、その作用」ときわめて簡単である。三省堂の『大辞林』も、昆虫に心があるとは認めていないようだ。なぜなら、いくつもある定義のどれもが「人間」のことにしか触れていないからだ。例えば、最初の定義は「人間の体の中にあって、広く精神活動をつかさどるもとになると考えられるもの」を心だとしている。この定義では、心は昆虫の体の中にあってはいけないことになる。
 
 同じ三省堂の『新明解国語辞典』(第4版、1989年)では、心を次のように説明する--
 
「特に人間に顕著な精神作用を総合的にとらえた称。具体的には、対象に触発され、知覚・感情・理性・意志活動・喜怒哀楽・愛憎・嫉妬となって現われ、その働きの有無が、人間と動物一般、また敬愛・畏怖の対象となる人と憎悪・けいべつすべき人間を区別するものと考えられる。古くは心臓がこれをつかさどるものとされた」。

 この定義によると、心は「特に人間に顕著な精神作用」とされているから、人間以外の動物も「顕著でない程度」において、精神作用があることが前提になっていると読み取れる。ただし、その場合は「心」とは呼ばないということか。ところが、この辞書では、上記の説明のすぐあとに使用例を示しており、そこには「ペットとの心の触れ合い」と書いてあるのだ。つまり、ペットにも心があると読み取れるのだ。すると、この定義は自己矛盾を冒している。
 
 英語で心を意味する語は「mind」だが、その定義を見ると、心をもつものが人間であるか否かに触れないものもある。次の定義は、2000年版のランダムハウス・ウェッブスターの大学辞典(Random House Webster's College Dictionary)のものである--
 
「推論し、思考し、感じ、望み、知覚し、判断などをする要素や部分、あるいは精神過程のことで、人間または意識をもった存在の内部にある」(the element, part, or process in a human or other conscious being that reasons, thinks, feels, wills, perceives, judges, etc.)

 この定義で興味深いのは、人間以外の動物であっても「意識をもつ」場合は心ももちえるとしている点だ。こういう見解は、恐らく最近の心理学や認知科学の知見を取り入れているのだろう。これらの定義の背後には、しかし総じて「人間」とその他の動物とを“別もの”として分離しようとする動きが感じられる。それはなぜか……と考えてみると、「擬人化(anthropomorphism)」という言葉に突き当たるのである。
 
「擬人化」とは、人間ではない動物や植物、その他の存在に対して、人間と同様の形態や性質をもたせようとする考え方で、科学者にとってタブーとされる。もちろん、科学以外の分野では--例えば、イソップ童話の動物たち、ミッキーマウス、ピノキオ、ミツバチ・マーヤ、ハロー・キティーなど--擬人化は世界中で行われてきたし、童話やアニメの分野では今も大々的に行われている。こういう分野では、動物が心をもつことにいちいち目クジラを立てるような野暮な批評家は、恐らく存在しないだろう。では、科学の分野では、なぜ擬人化が厳しく規制されるのか? その理由は、それほど明確でない。
 
 私の想像では、科学者が擬人化を嫌うのは、本来別のものを同一視しようとする考え方を、科学は基本的に嫌うからだろう。別の言い方をすれば、生物種Aと生物種Bがあった場合、AとBとが同種または近種であるという証明がない限り、科学はAとBを別種とすべきだと考えるのだ。これは科学特有の慎重さであり、これによって科学は早急な誤った結論を未然に防ぐ努力をしてきた。私はそれを評価するのに吝かでない。が、この慎重さによって誤った結論を防ぎきれたわけではないし、この慎重さがすべての分野の判断に必要なわけでもない。また、この慎重さに固執することで、かえって自由な発想が妨げられ、大胆な仮説の提出を妨げる場合もあるだろう。
  
 本シリーズの7回目で紹介した昆虫学者のウイリアム・ジョーダン氏は、「擬人化」という言葉の正当性に疑問を投げかける。彼に言わせると、「“擬人化”という言葉は、人間と動物の心のあいだに、橋をかけようもない大きな割れ目、一種の聖なる深淵があると想定しなければ使えない」という。擬人化を徹底して否定することは、人間と他の生物種の間に先験的に共通点を認めないことを意味する。科学者は、すべての可能性に対して開かれた心をもっているべきなのに、まるで宗教の教義のように、なぜ「人間と他の生物は異なる」という前提にしがみつかねばならないか、とジョーダン氏は批判しているように見える。彼は、そんな“教条主義”を捨てて、新しい発想に向かうべきだと次のように訴えている--
 
「擬人化という概念は、妙な具合に生物学と対立する。知識として当然とされてきたものをひっくり返してみたらどうだろう。つまり、人間の思考を動物の心(マインド)にあてはめるのではなく、動物の機能を人間の心にあてはめてみたらどうだろう。われわれが動物から進化したものなら、人間の心だって動物の衝動の延長線上にあるのではないか」。(『カモメの離婚』、p.143)

 ここでジョーダン氏が言っていることは、「人間が考えるように動物も考える」という擬人化(“人間→動物”という方向への同一化)が許されないならば、動物の中で起こることが人間の心の作用にも潜んでいると、逆方向(“動物→人間”という方向)に考える必要があるのではないかということだ。そういう思考過程をへて彼がたどりついた結論は、なかなか刺激的であるーー
 
「単純な昆虫たちを飼育しているあいだに、私はふいに特定の場所で生きるための行動の適切さやそこに見られる良識、つまり、本能がそなえている知性に気づいた。そして、人間が良識と呼んでいるものは、根源までたどれば良い本能以外のなにものでもないという結論に至った。われわれが意識をもつ心と呼んでいるものは、本能、つまり意識のない神経が生まれつきそなえている知性の上に重なっていて、それらが機能するのを見まもっているプログラムにすぎないのかもしれない」。(前掲書、p.151)

 谷口 雅宣

【参考文献】
○ウィリアム・ジョーダン著/相原真理子他訳『カモメの離婚』(白水社、1994年)

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