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2011年10月14日 (金)

耳学問だけではいけない

Hokutosite_001  フェイスブックの私のページに書いたことだが、12日には山梨県北杜市の“森の中のオフィス”の建設現場を視察した。造成工事が進んでいて、2階建ての大型木造建築物4~5棟が並ぶ空間が、森の中にポッカリと口を開けていた。完成予定のスケッチ画(想像図)はすでに何度も目にしていたし、生長の家講習会でもパソコンを使って受講者にそれを披露してきたから、現場の風景は私にとって“新しいもの”ではないと思っていた。が、想像図と本物との違いは圧倒的だった。
 
 建設現場は八ヶ岳南麓のなだらかな斜面で、その勾配を数字で表すと平均で「10対1」なのだそうだ。つまり、南北に10メートル進むと高低差が1メートルになる勾配だ。これは一見「なだらか」な気がするが、実際に足で歩くと結構きつい。数字上でも、40メートル歩けば4メートルの高低差が出る。現時点の建物設計図では、南北に4棟並ぶ建物の北の端から南の端までの距離は約150メートルだから、その高低差は約15メートルということになる。5階建てのビルの高さだ。そういう空間の凸凹の大きい土地を歩いてみて、「山は大きい」と感じた。
 
 これはキノコ採りをしていても感じることだが、キノコ採りでは専ら木と地面を見ながら山の大きさを感じるのに対し、この日は、森を切り拓いた空間と、その上にひろがる青空を見てそれを感じた。建物のために伐採した空間は、オフィスの敷地全体の4分の1にも満たない。そして、オフィスの敷地は、八ヶ岳の裾野全体から見ると「点」にすぎないのである。
 
Worktoday101311  翌日の13日には、自分の山荘の裏にある森の整備をした。今夏は大型台風が2つも来たので、周囲の山では出水や倒木が顕著だった。出水は私の手に負えないが、倒木は細いものならチェーンソーで輪切りにして、一箇所にまとめておくことぐらいはできると思った。それで午前中にそれを始めたのだが、頭の中で「できる」と思うことと、実際に体を使ってやることは大いに違っていた。私の持っているチェーンソーは小型のものだが、それでも片手で持って森の凸凹の斜面を歩くのは楽ではない。倒木を輪切りにするにはコツがいり、下手をすると切りかけの幹にチェーンソーの先が挟まれて動かなくなってしまう。切ったあとも、雨をたっぷり吸い込んだ木は石のように重く、運ぶのにエネルギーを消耗する。が、どうにかこうにか一区切りをつけて、妻の作ってくれた野菜ほうとうをおいしく食べることができたのである。
 
 山などへ行き自然と直接触れ合うと、自分の“想像”や“考え”などとても及ばないのが自然界だ、と思い知らされることが多い。それは、より正しい情報の取得であるから、ありがたい学習過程といえる。このように、いわゆる“耳学問”と実際の経験との違いは、とても大きい。そのことは学校でも教わっているはずだが、実際に経験してみないと、両者に「違いがある」ことの重要性を我々は忘れがちだ。
 
 私は以前のブログ「小閑雑感」で、このことを“左脳的情報”と“右脳的情報”という表現を使って細かく検討したことがある。それは「情報の質について」という題のシリーズで、昨年6月に5本書き、単行本では『小閑雑感 Part 19』に収録されている。“左脳的情報”とは意味的、言語的情報で、例えば「森の中の倒木は一箇所に集めて通風をよくすれば、森の若返りに役立つ」という種類のものだ。これに対し“右脳的情報”は、実際に体を使って倒木処理をするときに得られる感覚的、体験的な情報である。例えば、直径40センチのカラマツの倒木を長さ1メートルに切ったとき、それを10メートル運ぶのにどのくらいの力が必要か……という類の体感である。これはもちろん数字でも表現できるが、その数字を読むのと、実際にそれを運んでエネルギーを使うのとでは、体が受け取る実感はまったく異なるのである。

 私たちが「自然を知る」と言ったとき、これら2種の情報のうちどちらを得ることをいうのだろうか? もちろん、それは双方を得ることを指すはずだ。片方だけの情報は不完全であり、不完全な情報にもとづく判断は間違う可能性が大いにある。そういう意味からも、自然を体感できる環境にいない人間が「自然を愛する」と言ったり、「自然と共に伸びる生き方」を考えても、“机上の空論”となる危険性が大いにあるのである。

 谷口 雅宣

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コメント

 以前に勤めていたところでチェーンソーで木を切る仕事がありました。
 反対方向(逆方向)を少しカットしてから切るのですが、それでもチェーンソーが挟まれることがありました。また、その作業は結構疲れました。
 チェーンソーを長く使用した際は、清掃等が必要になってきますので、刃をはずし、清掃しましてまた刃を付けますが、正常に付けたと思っても刃の方向を間違えて付けることが時々あり、そういう場合は木が全然切れませんでした。後、燃料に入れるオイルの量をチョット間違えてもエンジンが始動しないことがありました。

投稿: 志村 宗春 | 2011年10月15日 (土) 07時58分

本当にそうですね
今年の6月頃に仕事でやむを得ず木の伐採をしました。
残った木を燃料用として運搬しに行った時
本当に重かったことを思い出しました。
「自然を体感する」
北海道に住む私も本当のところ
自然を体感していると言えるかどうか
わかりません。
「机上の空論」のほうは
たまに体感しているように思いますが。

投稿: 小田 知伸 | 2011年10月15日 (土) 11時28分

まさに「百聞は一見にしかず」です。
私も自然がすきで、よく山や海に行きましたが、実際に住んでみると、たまに山に行くのとは全くちがうことに驚きました。森の中オフィス、期待大です。

投稿: 水野 | 2011年10月16日 (日) 09時14分

前回のゴキブリの話は続編があるのでしょうか?
気になるので、是非、続けて下さい!

投稿: 辻井映貴 | 2011年10月16日 (日) 23時57分

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