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2011年10月

2011年10月28日 (金)

谷口清超先生の「大慈意」に学ぶ

 今日は澄みきった青空のもと、午前10時から東京・原宿の生長の家本部会館ホールで「谷口清超大聖師三年祭」がしめやかに挙行され、参列者は聖経読誦の中、谷口清超先生の御写真の前で玉串拝礼、あるいは焼香によって、静かに先生の遺徳を偲ぶ時間をもつことができた。
 
 私は御祭の後、大略次のようなあいさつを述べた。

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 皆さん、本日は谷口清超大聖師三年祭に大勢お集まりくださり、ありがとうございました。

 今日の祭文にもありました通り、谷口清超先生はおくり名を「実相無相光明宮弘誓通達大慈意大聖師」と申し上げます。「弘誓通達」という意味は、「真理を弘めずにはおかない」という誓願を徹底されたということです。「弘」は「弘法大師」の弘法の意味で、真理を弘めることです。それを誓願する熱意が貫徹しているという意味です。また、「大慈意」とは「大いなる慈悲の心」です。このおくり名のように、谷口清超先生は真理の伝道を大いなる愛の心をもって徹底して実践された、そういう信仰の先達として実に模範的な人生を送られました。このことは、追善供養祭のときにお話した通りです。今日はこの大聖師をお偲び申し上げ、おくり名の「大慈意」という点について先生のご著書から皆さんとともに学びたいと思うのであります。
 
 先生の著書に『愛は凡てを癒す』という本があります。この本にはいくつもの版がありますが、最近のものは平成4年(1992年)に出た「谷口清超ヒューマンブックス」(全10巻)に収録されています。一見比較的新しい本のようでありますが、初版は昭和29(1954)年です。ですから、清超先生が34歳のころに書かれたご文章が集められているのです。私はその頃はまだ小さい子供で、昭和29年には2~3歳です。それで、清超先生がこの本の原稿を書いておられたころは、まだ1~2歳ということになります。そういうまだ右も左も分からないような子供だった私のことが、実はこの本に少しだけ出ているので、まずそこを紹介いたします:
 
 これはこの本の最後の方の18章にあり、「子供は天真爛漫である」という小見出しがついた文章ですーー
 
「私の一番下の子が雅宣という男の子で、この子は今は11カ月目になりましたが、何時か何かいたずらをして、姉娘の邪魔をした事があります。すると姉娘が“チッチッ”と雅宣を叱ったのですが、雅宣は“チッチッ”と叱る言葉が面白いらしく、キャッキャッと笑いながら姉娘にふざけるのであります。だから彼には姉娘の叱責はちっともこたえないので、姉弟で遂にふざけ出して“チッチッ”“キャッキャッ”と騒ぎ出したのでした。幼な児は何でも善意に解釈して、叱られていても叱られているとは思わないで喜んでいるのであります」。(同書、pp. 252-253)
 
 まあ、私にもこのように天真爛漫な頃があったようでありますが、清超先生はこんなうるさい子供たちを観察して、その様子を原稿に書いておられたのですね。その頃は、子供に個室など与えられていませんでしたから、子供たちは先生が原稿を執筆されているところで騒いでいたのかもしれません。また、別の部屋で先生が原稿書きをしている時に、人の都合など気にしない幼い私は、先生の部屋に勝手に入っていったことがあるかもしれません。そんな時に、父親である先生はどのように応対したのか……と考えさせられます。たぶんずいぶん迷惑をおかけしたと思います。しかし先生は、そういう時のご自分の対応を考察されて、「真に愛するとはどういうことか」を文章に書いておられるのです。このご文章に、谷口清超先生がいかに「愛」を大切にされる大慈意の方であったかが表れていると思います--

「真の愛は吾々から自己の劣等なる心を偽装している口実を奪い去るのである。吾々が何か仕事をしている時、いと小さき幼な児が笑顔をもって走り込んで来る時、吾々の愛がいかに大きく崇高で純粋なものであるかを見ることが出来るのであります。その“仕事”なるものが果たしてどれだけ“幼な児の生命”より偉大でありうるであろうか。幼な児を愛し保護し養育するなどという事は名声を博することでもなければ金儲けになることでもないのであるが、真に吾々が幼な児を愛する時、すべてをなげうってでもこの一個の小さな生命を保護したい気持になります。果して吾々は自分のしたいと思っていることがさまたげられた時、いらだたしい気持で“偉大なる生命”を冒涜し、彼を心の中で傷つけはしなかったであろうか。吾々が真に幸福になる時は、かくのごとき口実をすべて洗い流して、全てを神にゆだね、神の御意(みこころ)の愛をたゆみなくほどこして行く時であります。自分が神の心を起す時、神の国が吾が周囲にあらわれて来るのであって、この逆ではないのです。神は別に名声を求めるのでもなければ、知識を求めるのでもなければ、いわんや金を儲けるのでもなく、ただ惜しみなく愛を与えて全ての有情非情を育てて行くのであります」。(pp. 40-41)

 この先生の愛の心は、決して自分の家族や人間の範囲だけに留まっていたのではありません。我々人間が他の動物をもっと愛さねばならないということを切々と説いておられる文章も、この本には収録されています。
 
「大体現代の世界的不安というものは、色々と手近かな原因もありましょうけれども、根本的には社会の人々が、あまりにも残忍になって、平気で生き物を殺しているというところに根本の原因があるのであります。吾々の現象世界は“因果律”の支配している世界であって、従って吾々人間が他の動物の生命をうばえば、自分の生命も奪われることになるのは当然であります。人間は凡ゆる下等動物の生命を平然と奪っているが、果してこれが神の御心にかなった行為であろうか。例えば捕鯨船が鯨をうつが、その時、捕鯨船の射手は子供の鯨を目標にして銛(もり)をうつと、その親鯨は子供が銛をうたれて引き摺られるのをみて可哀そうになって、どうしても子供を捨ててにげて行くことが出来ないで、自分の身が危険にさらされるのもかまわず捕鯨船について泳いで来て、遂に自分も捕獲されてしまう。そうして捕(と)って来た鯨の肉を、人間はうまいうまいと言ってたらふくたべるのであります。(中略)
 こういう事を平気でしていて、人間だけ殺されずに火にもやかれずに生きていたいなどということは少し虫が好すぎるのであります。ですから、このような残忍な心をそのままにして置いて、それで一方的に、人間同士だけの戦争をなくしようと努力したり、火事にあうまいと思って努力してみても、人類全体の業が流転して来て、大量の人類殺戮場たる戦争があらわれ、原子爆弾で人類の大量火あぶりが起るというのも当然のことなのであります」。(pp. 34-35)

 このご文章は半世紀以上も前に書かれたものですが、それを現代に引き寄せて考えてみても少しも“古く”なっていません。我々人類がクジラどころか、ウシやブタなどを殺した数は、この半世紀ほどで激増しています。数字でこれを表すと、世界の食肉生産量は1961年から2008年までの47年間で「約4倍」に増えています。その間に人口も増えていますが、それを勘案して1人当たりの食肉生産量を見ても、世界平均で「1.8倍」、先進国平均で「1.56倍」、途上国平均では「3.3倍」になっています。それだけ多くの高等動物の生命を人類が犠牲にしてきていて、「殺すものは殺される」という因果の法則から逃れられると考えるのは間違いです。
 
 私はもう何年も前から、食肉生産の増加が地球環境問題に深刻な影響を与えるということを書いたり、言ったりしてきました。そして私たちの光明化運動でも、「肉食を減らす」ことを1つの目標としてきました。皆さんもそれぞれ、そういう努力をしてきていると思いますが、世界全体としては、先ほど数字を申し上げたように、肉食の増加はすごい勢いで続いています。人類はそろそろ、そういう悪業を刈り取る時期に来ているのではないでしょうか?
 
 本年は、世界は大変動期にあるということを痛感するのであります。先進国の深刻な不況、“アラブの春”、東日本大震災、パキスタン洪水、タイ洪水など、気候変動と関係があると思われる現象がたて続けに起こっています。こういうときにこそ、有情非情に愛を注がれた谷口清超先生の「大慈意」を見ならって、私たちは自然に四無量心を行じる生き方を大々的におし進め、自然と共に伸びる運動を実現していかねばなりません。

 谷口清超先生の三年祭に当たり、所感を述べさせていただきました。ありがとうございます。

 谷口 雅宣

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2011年10月24日 (月)

映画『猿の惑星 創世記』

 最近、ハリウッド映画の『猿の惑星 創世記』というのを観た。作家の中島京子氏が『日本経済新聞』に書いていた記事を読んで、興味が湧いたからだ。それによると、「開発中のアルツハイマー治療薬を実験的に投与したことによって、チンパンジーの頭脳が飛躍的に進化してしまうという話なのだが、進化した猿たちが人間の支配と制御を超えていく描写に、ものすごい迫力のある映画である」という。

さらに中島氏によると、「科学への妄信や、人類があらゆる事象をコントロールできると考える驕りへの反省」を描いており、『アバター』と同様に「人類は人類以外のものにとって脅威である」というメッセージを含んでいるという。それならば、私が問題視してきた人間中心主義への批判であると同時に、本欄のテーマである「自然と人間の共存」の問題とも関係が深いーーというわけで、休日の木曜日に妻を誘い、期待をもって新宿の映画館へ行った。

 しかし、実際に映画を観たあとの私は、「暴力過剰でリアリティーがない映画だ」と思った。これは、中島氏を批判しているのではない。映画は小説や料理と同じように、人それぞれの好みがあって全く問題ない。また、年齢によっても好みは変わる。料理の場合、20代や30代のころの私は、濃厚で脂っこい外国料理を好んだが、最近はめっきり薄味の和食に惹かれる。また、映画は視覚と聴覚に訴えかける表現芸術だから、若いころはドギモを抜くような視覚効果や大音響に興奮しがちだ。が、還暦に近づけば自ずから「結局、何を言いたいのだ?」というように、メッセージ性の方に興味をもつようになる。

それで、この映画が訴えるメッセージなのだが、中島氏曰くーー「人の叡智が、人の思惑を超えてこれまであったはずの地球の秩序を根本から破壊していってしまう」というのがテーマだという。私は、映画の最後の部分で「地球の秩序が根本から破壊される」ようには思えなかったが、科学技術が人の思惑を超えて暴走するという程度の意味であれば、その通りだと同意できる。しかし、そういことは、私がもう何年も前から論文や小説の形で繰り返し訴えてきたことだ。だから、もう少し「先」を考えてほしかった。人類は今後、科学技術とどうつき合うべきかという問題にまで、踏み込んでほしかったのである。

 人間が自分のつくったもののおかげで悲劇を招くというモチーフは、相当古いもので、現実問題としても武器や兵器開発の歴史の中で昔から繰り返されきたことだ。敵を倒すための武器は、それを奪われれば味方の脅威になる。この問題を科学技術に限定して考えてみても、メアリー・シェリーの1818年のゴシック小説『フランケンシュタイン』の中にもそのモチーフがある。また、この小説に「あるいは現代のプロメテウス」(or The Modern Prometheus)という副題がついているように、ギリシャ神話に出てくるプロメテウスの話自体が、「神の創造した者が神から火を盗む」という創造主にとっての脅威を表しているから、「自分がつくったものが悲劇を招く」というモチーフは“古典的”と言っていいだろう。だから、「どうすべきか?」という点にもっと焦点を当ててほしかった。

 映画評論家の瀬戸川宗太氏は、本作品のパンフレットの中で、中島氏とは違うモチーフを読み取っている。その理由は、この作品に霊長類保護施設のシーンが多く出てくるからで、「それによって人間が動物に対して繰り返してきた虐待を動物の側から描くことに主眼がおかれている」と分析する。私はこの映画を見ながら、むしろこちらのモチーフを強く感じていた。この施設に収容された類人猿たちは、あまりにも人間的なのである。これに対して、実験動物として彼らを扱う人間の側は、看守のように振る舞い、実に非人間的である。こういう明確な対比はいかにもハリウッド的で、やがて虐待されてきた“いいもの”が堪忍袋の緒を切らせて、“悪もの”の人間たちに大反乱を起こす。しかし、それだけであれば、ヤクザ映画とモチーフはそんなに変わらない。観客は類人猿たちに自己同一化してスッキリした気分になる。だから、娯楽映画としてはまあまあの出来栄えなのだろう。
 
 たぶん私は、ハリウッド映画に多くを求めすぎているのだ。が、1点だけ「いいな」と思ったことがある。それは、主人公の相手役である女性獣医師、キャロライン(フリーダ・ピント)が、主人公がチンパンジーに対して遺伝子組み換え薬品を使おうとすることに対して何度も、戒めるシーンがあることだ。それをインド人の女優が演じるという点に、監督の見識が表れているのかもしれない。フリーダ・ピントは、映画制作後のインタービューで、そういう役柄に満足したと言っている。この作品の倫理面のメッセージ、そして人間と科学の関係について聞かれたとき、彼女はこう答えている--
 
「改ざんされるべきでないことがあるということだと思う。科学は素晴らしいものだけど、手をつけないでおくことが必要なこともある。自分たちがシーザー(チンパンジー)にしていることが正しいことなのか、それとも間違っていることなのかを問うことが好きだったから、私はキャロラインを演じることを満喫したの」。

 キャロラインは、だからこの映画全体の中で“良心”のような役割を果たす。その“良心”の声が聞かれないまま物語が大きく展開していくところに、残念ながらこの映画のリアリティーがあるのである。
 
 谷口 雅宣

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2011年10月19日 (水)

動物の心について (7)

 ところが、ジョアン・ローク氏はゴキブリを“不潔”だとする人間の共通認識は誤りだと、次のように述べている--
 
「じつはこの穏やかな生き物は、咬んだり刺したり、直接人間を傷つけたりする力は持っていないのだが、それよりもゴキブリと汚物、つまり私たちが出す汚物との関連ばかりがことさら注目されるようだ。そんななか、生物学者ロナルド・ルードは、ゴキブリが人間に害をおよぼすことはなく、人間に悪影響を与える細菌を媒介することもめったにないと主張している。
 文化が生んだゴキブリへの嫌悪感を正当化しようとするかのように、多くの研究者がゴキブリと特定の病気を結びつけようとしてきた。しかし結果はどれも二義的なものだった。ゴキブリが伝染病の伝播に直接関わったことはなかったのである。事実、大半の科学者はゴキブリが病気を媒介するという噂は不当だと認めている。(中略)ゴキブリには過剰反応する人がとにかく多いので、現在わかっている4000種類のゴキブリのうち、人間の生活圏内だけで生きている4~5種類のために、アメリカ全体の殺虫剤使用量のおよそ25パーセントが費やされているのである」。(前掲書、pp.113-114)
 
 ゴキブリと病原菌やウイルスの関係について、ローク氏はこの虫が「伝染病の伝播に直接関わったことはなかった」と書いているが、これはゴキブリの体が無菌状態だとか清潔だという意味ではない。昆虫学者の朝比奈正二郎氏は『世界大百科事典』(平凡社、1988年刊)のゴキブリの項で、人家に棲むようになった種類について次のように書いているーー
 
「住家性の種類は食品や汚物を食べるのでその体内には各種のウイルス、バクテリア、カビ類、原虫、寄生蠕虫類などが、実際にもまた実験的にも証明され、またその媒介を行う。(中略)バクテリアでは赤痢、腸チフス、腸カタル、夏下痢、食中毒、発疹チフス、ペスト、癩などが自然状態で発見され、アジアコレラ、脳脊髄炎、肺炎、ジフテリア、波状熱、結核なども証明された。ただし、これらの疾患流行の直接原因にゴキブリがなったという証明はない」。

 この引用文の最後のところを、ローク氏は強調しているのだろう。つまり、ゴキブリのいわゆる“光明面”を見ようとしているのだ。それはそれでいい。なぜなら、ゴキブリはあまりにも多くの人間から敵意を向けられているからだ。が、ローム氏が指摘するように、自然界ではゴキブリにもちゃんとした役割がある--「ゴキブリの大半の種類は赤道直下に生き、そこで植物の受粉を助け、ゴミを再生処理し、食べ物を他の生物に分配している」(前掲書、p.135)のである。

 とはいうものの、ゴキブリに意識や知性があると考える生物学者は、少数のようだ。ローク氏によると、その中の一人であるウィリアム・ジョーダン氏(William Jordan)は大学院生のときにゴキブリの飼育係をしていた。この虫は、敏感な触角と大きな細胞でできた神経系を備えているので、神経細胞の機能を研究するのに理想的な動物らしい。ジョーダン氏はそういう何種類ものゴキブリを観察しているうちに、彼らが食べ物を探したり、縄張りを主張したり、社会的地位や伴侶を求めたりするのを知り、「ゴキブリには知性があり、人間との共通点もあるのではないかと考えるようになった」(前掲書、p.133)という。ローク氏は、その根拠について詳しく書いていない。が、ローク氏自身がマダガスカルオオゴキブリと接した経験が書いてあり、その内容が興味深い。
 
 このゴキブリは体長が10センチもあり、磨かれた木のような外殻をもち、空気を切り裂くようなシューシューという鳴き声を発するという。ローク氏は、そんなゴキブリに「シーダー」という名前をつけて飼っていたが、ある日、自分が教えている高校の授業に持っていったという。すると、クラスでお調子者のブライアンという生徒がローク氏を横目で見ながら、「踏んづけたら、そいつの体はつぶれるの?」と訊いたという。
 
 ローク氏はその乱暴な言い方をたしなめて授業を続け、生徒たちの手にゴキブリが乗るかどうかの実験をした。飼い主であるローク氏の手には、シーダーは安心して乗るが、その手から生徒の手に乗り移るかどうかを試してみようというわけだ。興味をもった生徒たちが列を作って順番を待ったが、その先頭がブライアンだった。ローク氏は彼に「あなたの手には乗らないかもしれない」と言ったが、彼はその言葉をまるで信じない顔をしていたという。以下は、ローク氏の本から引用する--
 
「ブライアンは腕を伸ばし、手のひらを上にして私の手の隣に並べた。シーダーは私の開いた手の端に上ってきたが、触角が一瞬ブライアンの手に触れたとたんに後ずさりして向きを変え、離れていってしまった。ブライアンはがっかりしたが、ゴキブリが気づくわけがないという確信が急に崩れたようだった。彼はその場に留まり、つぎつぎと子供たちがやってきては私の隣に手を出すようすを観察した。シーダーはゆっくりと動き、ためらうことなく子供たちの手に乗り移り、くまなく探検している。
 しばらくするとブライアンは列にもどり、もう一回やってみたいと言った。私はうなずき、もう一度手を並べた。またシーダーは私の手の縁に上り、触角を動かした。だがブライアンの手に達すると、立ち止まって向きを変え、また歩き去った」。(前掲書、pp.141-142)
 
 このゴキブリの行動が、意識や心をもつ証拠だとは言えないかもしれない。その理由は、このブライアンという生徒の手には、何かゴキブリの嫌いな臭いがついていたかもしれないからだ。しかし、このあとしばらくたって授業が終わりに近づいた時、ブライアンはもう一度だけチャンスがほしいと言い、「本当に真剣に考えて準備ができたのだ」と訴えたという。そしてシーダーは、やっと3度目に彼の手に乗ったのだった。
 
 谷口 雅宣
 

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2011年10月17日 (月)

耳学問だけではいけない (3)

 10月10日付の『インターナショナル・ヘラルド・トリビューン』紙は、「無人機の拡散は新たな地球規模の脅威を生む」(Proliferation of drones poses a fresh global threat)という題の記事を掲載した。これは、アメリカが多用してきた無人攻撃機を他国が自ら開発し、実戦配備しようとしていることを伝えたもので、それによる今後の国際政治の変化を考察している記事だ。

 この記事はまず、昨年11月に中国南東部の町で行われた航空ショーを訪れたアメリカ人が、中国の企業から遠隔操縦できる無人航空機25種と、ミサイル搭載の無人機がアメリカの空母を攻撃するアニメビデオを見せられた話を紹介する。中国の技術レベルは、もうそこまで届いている。そうであればイスラエル、ロシア、インドなどが無人攻撃機を持つまでに、そう時間はたたないし、すでに持っている可能性もある。その記事によると、問題は、アメリカ国内でテロリストが無人攻撃機を使うということ--これに近い事件が、実は最近あったが--よりも、他国が自国内の“反対派”や“分離独立派”を無人機で攻撃した場合、アメリカはどう対応すべきかということだという。
 
 アメリカはすでに、自国民を外国領土において“テロリスト”の名目で無人機により殺害している。となると、中国がカザフスタン国内に無人機を送って、そこを拠点として独立運動をするウイグル人を攻撃した場合、あるいはインドが、カシミール地方の独立運動を同じように攻撃した場合、またはロシアがコーカサス地方にいるチェチェン独立派を同様の理由で攻撃した場合、アメリカは従来のような“人権擁護”の理由で反対声明を出すことはできなくなるだろう。とすると、国家主権の遵守をもとに、領空侵犯を禁ずる国際法の枠組みはくずれていく。無人機が他国の領空へ飛ぶことが許されるならば、領海への侵入も禁止できなくなる。中国や北朝鮮の無人船が日本の領海内に出没する時代も、そう遠くないかもしれない。そんな社会を、我々はつくろうとしているのだろうか?
 
 この新たな“無法社会”を生み出す危険に加え、私が危惧しているのは、無人攻撃機が情報収集能力としては本質的に“左脳的情報”に偏していることだった。これを言い換えれば、この無人機の操縦者は、一種の“耳学問”のみで相手の価値を判断するのだ。彼(女)は、機体から何千キロも離れた安全な地点でビデオゲームとほとんど変わらない画面を見ながら、生身の人間を攻撃するのである。攻撃者は、攻撃にさらされる人間がどんな顔で、どんな人物か知らず、苦しみの叫びも聞こえず、血潮の臭いもかがず、必死の抵抗を受ける恐れが全くないところで、ただ上官の命令により、ミサイルの発射ボタンを押すのである。相手が、自分と同じように、愛する家族をもった人間だと感じないかもしれない。そんな状況で、人が人を殺す行為を続ける世の中が、人権を尊重したり、良心が活かされたり、他者に愛を感じる倫理的な社会であるはずがないのである。
 
 にもかかわらず、無人攻撃機の需要はふえている。なぜなら、これによる偵察が楽であり、攻撃は精確であり、コストは比較的安く、そして操縦者に生命の危険がまったくないからだ。これまでこの種の無人機を攻撃目的に使った国は、アメリカとイスラエル、イギリスの3国しかない。しかし、無人機を製造したり、購入した国は50以上になるという。人間の人間たるゆえんの1つが、他者への共感を覚えるエンパシーの能力にあるという真理を生物学が発見した時代に、国家は、その逆のことを国民に強いようとしているのだろうか。そういう非人間的殺戮手段を最大限に使っている国が、人権保護の市民運動をしてきた人物を軍の最高司令官にもつという事実を、私はどう解釈していいか分からない。
 
 私はオバマ大統領に声を大にして訴えたい。あなたは自国を守る手段として、最悪の兵器を使っている。人間の本性は愛であり、慈悲であり、他者に共感するようにつくられているのに、それを否定することによって世界に平和が来ることは決してない、と。

 谷口 雅宣

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2011年10月16日 (日)

耳学問だけではいけない (2)

 私は前回、「自然を知る」ということに関連して“左脳的情報”と“右脳的情報”の双方の必要性を述べた。が、これと同じことは、知る対象が何であっても言えることだと思う。宗教の世界にも真理や教義を“左脳的”に理解するのが得意な人と、“右脳的”な理解が好きな人がいるが、本当の信仰を得るためには、やはりどちらか一方ではなく双方が必要である。ただ、人には得手不得手があるから、どうしても自分の得意な方面の探求に偏りやすい。そのことを意識して、時には自分の不得手な方面の研鑽や探求に努力することは、正しい信仰の必須条件だろう。

 世界的IT企業「アップル」の創始者、スティーブ・ジョブス氏が亡くなったあと、彼が最後に手がけたアイフォーン4Sが発売され、“追悼効果”もあって世界中で注文が殺到しているらしい。日本では、ソフトバンク社の独占販売体制が崩れ、KDDIとの販売競争が始まった。世の中では、この iPhone や iPad に代表されるタブレット型携帯端末が、今後はパソコン(PC)に取って代わるだろうと言われている。私は仕事や私生活でPCや携帯端末の恩恵を得てきた一人だから、この世界的潮流に反対する気持はない。しかし、その反面、情報のIT化やデジタル化がもたらす弊害に気づき、数年前からブログなどで注意を喚起してきた。前回の本欄でも触れた「情報の質について」というシリーズは、そういう心配を述べた最近のものである。
 
 IT化やデジタル化の問題といっても、それは個人への影響だろう、と読者は思うかもしれない。が、私は国際政治の分野でも深刻な影響が生じると考えている。そのことは、すでに昨年の6月10日11日のブログ--「情報の質について」の3~4回目--で触れている。簡単に言えば、IT技術の発達と際限のないデジタル化の進展は、世界を不安定にすることを危惧している。今年の初めから続いている“アラブの春”という民主革命の動きが、IT技術の普及を背景にして起こっていることは、読者もすでにご存知だろう。また現在、アメリカの大都市等で起こっている若者の“反貧困”“反体制”のデモも、この技術なくしては起こらないタイプの新しい市民運動である。これらは今、既存秩序の間隙をぬう形で行われているが、潜在的には、エジプトやチュニジアでそれが起こったように、既存秩序を転覆する動きになり得ると私は思う。
 
 IT化とデジタル化は、このような秩序転覆を「兵器」の分野にももたらしつつあり、そのことによって国際政治の枠組みの一端が崩れる可能性があるのである。私が昨年6月のブログに書いたのは、アメリカがアフガニスタンやパキスタンで使っている無人攻撃機のことだった。それが、テロリストの動きを追って同盟国であるパキスタン国内に入り、そこで当の同盟国の意思に反してテロリストを攻撃する。このような攻撃方法は、朝鮮戦争でもベトナム戦争でも、さらに最近のボスニア紛争でも考えられなかった新しいものである。「新しい」とは、決して「良い」という意味ではない。前代未聞ということだ。なぜなら、このような戦闘方法は、従来の国際法の枠組みにおいては「違法」である可能性が高いからだ。
 
 アメリカは近年、相手が“テロリスト”であるというだけの理由で、簡単に国際法を無視する行動をとっている。9・11後のアフガニスタンとイラクへの攻撃がそうであり、またキューバのガンタナモ捕虜収容所や、東ヨーロッパでの“テロ容疑者”への拷問であり、さらには、“テロとの戦争”の主犯とされるオサマ・ビンラーデンのパキスタンでの暗殺攻撃である。もっと最近はこの9月、テロ先導容疑者として、アンワール・アルアウラキ氏(Anwar al-Awlaki)とサミール・カーン氏(Samir Khan)の2人のアメリカ人をイェメン国内で無人攻撃機によって殺害した。この事件はアメリカ国内でもさすがに問題になり、以前からある「暗殺禁止」を定めた大統領令、合衆国憲法上の殺人の禁止、国の市民保護の義務、市民の裁判を受ける権利などに違反すると批判されている。
 
 かつては“民主主義の擁護者”として、また“人権擁護の推進者”として世界の憧れを集めてきたアメリカ合衆国が、なぜここまで自らを貶めるにいたったのか? 私は、その原因の一つが、情報のIT化やデジタル化に依存しすぎていることにあると考えている。アメリカが“テロリスト殺害”に多用してきた無人攻撃機は、IT化とデジタル化の最先端を集めた兵器である。それによって、かつては不可能であったいろいろいろなことが可能となった。その1つが、他国の上空での諜報活動と長期の監視・攻撃態勢の維持だ。人命の危険を冒さずにこれができるのは、無人攻撃機のおかげである。しかし、その代わり“左脳的情報”(敵か味方か)が優先され、“右脳的情報”(同じ人間であり、人権がある)が軽視される結果になっている。この辺の説明は分かりにくいかもしれないので、詳しくは昨年6月10~11日のブログ「小閑雑感」を読んでほしい。
 
 しかし、この世界には動反動の法則があり、親和の法則も働いているから、アメリカが他国に対してとった行動は、必ず他国からもアメリカに向けて返されるのである。既存の国際法秩序を破った国は、必ず同じ性質のシッペ返しを食うことになるだろう。
 
 谷口 雅宣

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2011年10月14日 (金)

耳学問だけではいけない

Hokutosite_001  フェイスブックの私のページに書いたことだが、12日には山梨県北杜市の“森の中のオフィス”の建設現場を視察した。造成工事が進んでいて、2階建ての大型木造建築物4~5棟が並ぶ空間が、森の中にポッカリと口を開けていた。完成予定のスケッチ画(想像図)はすでに何度も目にしていたし、生長の家講習会でもパソコンを使って受講者にそれを披露してきたから、現場の風景は私にとって“新しいもの”ではないと思っていた。が、想像図と本物との違いは圧倒的だった。
 
 建設現場は八ヶ岳南麓のなだらかな斜面で、その勾配を数字で表すと平均で「10対1」なのだそうだ。つまり、南北に10メートル進むと高低差が1メートルになる勾配だ。これは一見「なだらか」な気がするが、実際に足で歩くと結構きつい。数字上でも、40メートル歩けば4メートルの高低差が出る。現時点の建物設計図では、南北に4棟並ぶ建物の北の端から南の端までの距離は約150メートルだから、その高低差は約15メートルということになる。5階建てのビルの高さだ。そういう空間の凸凹の大きい土地を歩いてみて、「山は大きい」と感じた。
 
 これはキノコ採りをしていても感じることだが、キノコ採りでは専ら木と地面を見ながら山の大きさを感じるのに対し、この日は、森を切り拓いた空間と、その上にひろがる青空を見てそれを感じた。建物のために伐採した空間は、オフィスの敷地全体の4分の1にも満たない。そして、オフィスの敷地は、八ヶ岳の裾野全体から見ると「点」にすぎないのである。
 
Worktoday101311  翌日の13日には、自分の山荘の裏にある森の整備をした。今夏は大型台風が2つも来たので、周囲の山では出水や倒木が顕著だった。出水は私の手に負えないが、倒木は細いものならチェーンソーで輪切りにして、一箇所にまとめておくことぐらいはできると思った。それで午前中にそれを始めたのだが、頭の中で「できる」と思うことと、実際に体を使ってやることは大いに違っていた。私の持っているチェーンソーは小型のものだが、それでも片手で持って森の凸凹の斜面を歩くのは楽ではない。倒木を輪切りにするにはコツがいり、下手をすると切りかけの幹にチェーンソーの先が挟まれて動かなくなってしまう。切ったあとも、雨をたっぷり吸い込んだ木は石のように重く、運ぶのにエネルギーを消耗する。が、どうにかこうにか一区切りをつけて、妻の作ってくれた野菜ほうとうをおいしく食べることができたのである。
 
 山などへ行き自然と直接触れ合うと、自分の“想像”や“考え”などとても及ばないのが自然界だ、と思い知らされることが多い。それは、より正しい情報の取得であるから、ありがたい学習過程といえる。このように、いわゆる“耳学問”と実際の経験との違いは、とても大きい。そのことは学校でも教わっているはずだが、実際に経験してみないと、両者に「違いがある」ことの重要性を我々は忘れがちだ。
 
 私は以前のブログ「小閑雑感」で、このことを“左脳的情報”と“右脳的情報”という表現を使って細かく検討したことがある。それは「情報の質について」という題のシリーズで、昨年6月に5本書き、単行本では『小閑雑感 Part 19』に収録されている。“左脳的情報”とは意味的、言語的情報で、例えば「森の中の倒木は一箇所に集めて通風をよくすれば、森の若返りに役立つ」という種類のものだ。これに対し“右脳的情報”は、実際に体を使って倒木処理をするときに得られる感覚的、体験的な情報である。例えば、直径40センチのカラマツの倒木を長さ1メートルに切ったとき、それを10メートル運ぶのにどのくらいの力が必要か……という類の体感である。これはもちろん数字でも表現できるが、その数字を読むのと、実際にそれを運んでエネルギーを使うのとでは、体が受け取る実感はまったく異なるのである。

 私たちが「自然を知る」と言ったとき、これら2種の情報のうちどちらを得ることをいうのだろうか? もちろん、それは双方を得ることを指すはずだ。片方だけの情報は不完全であり、不完全な情報にもとづく判断は間違う可能性が大いにある。そういう意味からも、自然を体感できる環境にいない人間が「自然を愛する」と言ったり、「自然と共に伸びる生き方」を考えても、“机上の空論”となる危険性が大いにあるのである。

 谷口 雅宣

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2011年10月11日 (火)

動物の心について (6)

 昆虫に存在意義があることは頭でわかっても、どうしても好きになれない虫はどう扱うべきか、と読者は問うかもしれない。実はこれと似た疑問を、私はかつて生長の家の青年から投げかけられたことがある。それは、次のようなものだった--
 
「“ゴキブリやカラスやネズミも気味悪い”ので、いつも“神様が造られたものだから、何か意味があるだろう”と考えるようにしているのですが、夏になると、蚊とかゴキブリには本当に頭を悩まされるので、存在理由が正直わかりません。」(『足元から平和を』、pp.334-335)

 私はこの時、私たちが特定の生物に対する嫌悪の感情(repugnance)をもつことは「進化の過程で獲得してきた自然からの“贈り物”だろうと思う」と答えて、そういう“本能的価値判断”を容認した。が、その一方で、こう述べたのだ--
 
「我々はやはり知性を神から頂いているのだから、 repugnant の感覚は十分尊重しながらも、なぜ repugnant なのかを知性によって理解し、判断すべきだろうと思うのです。」(前掲書、p.337)

「repugnant」という英語は普通「嫌な・不快な」とか「矛盾する・両立しない」などと訳されるが、理性的に説明がむずかしい生理的な嫌悪感を意味することが多い。人間は、ヘビなどの特定の生物に対してそういう嫌悪感をもつと言われ、進化心理学などでは、そういう性向は人類の祖先からの遺伝的遺産だと考えてきた。つまり、人類の祖先が森の中に棲んでいたころ、ヘビへの嫌悪感をもつことが生存上有利に機能したため、その性向が遺伝子の中に保存され、現代人にも引き継がれていると考えるのである。私が先に、「進化の過程で獲得してきた自然からの“贈り物”」と表現したのは、その可能性のことである。しかし、人間がある特定の生物に対して例外なく、先験的に、本当に嫌悪感をもっているかどうかは、大いに議論の余地があると思う。

Amalogo2  例えば、ヘビに対する感情でも、私が実際に自分の山荘でヘビに遭遇したときも、私の中で起こった感情と、妻が示した拒絶感との間には相当の差があった。また、中国から伝わり日本に受け入れられた「十二支」の考え方の中に、ウサギやイヌ、ウマなど人間と親しい関係の動物に混じってヘビが入っていることや、アメリカ医学協会(American Medical Association)のシンボルマーク(図参照)がヘビであることなどを考えると、人類にとってヘビは必ずしも忌み嫌い、排除すべき存在ではなかったと考えられるのである。
 
 だから、特定の昆虫に対しても、多くの人々が“直感的”に強い嫌悪感を示すことがあったとしても、その昆虫が本当の意味で人類にとって“害虫”であり、したがって撲滅すべきものであると考えてはいけないと思う。私たちの心の中に起こる感情は、すべてが遺伝的、先験的なものではなく、文化的、社会的、教育的、さらには政治的に作られたものも多くあることは、歴史の経験が示している通りである。
 
 さて、ここまで小むずかしい一般論を長々と述べてきたのは、これから登場させる昆虫との関係が“難物”であるからだ。私たちがよく知っていて、しかも毛嫌いしている昆虫の存在意義を考えるには、事前準備が必要と思ったのだ。その昆虫とはゴキブリである。
 
 最初に正直に言わせてもらえば、私はゴキブリが好きではない。また、好きな人にこれまで出会ったことがないし、そんな人がいれば気が知れないと思う。実際、1980年にアメリカのイェール大学で行われた生物の人気ランキング調査では、ゴキブリはカ(蚊)よりも下の最下位だったという。この話は、環境問題教育家のジョアン・エリザベス・ローク氏(Joanne Elizabeth Lauck)の『昆虫 この小さきものたちの声』(甲斐理恵子訳、日本教文社、2007年刊)に出てくる。ゴキブリはその流線型の体躯と濃い茶色、脂ぎった光沢、人間の目を盗むすばしこい動作、恐るべき繁殖力……などから、ほとんどの人間に嫌われる。しかも、台所や食堂に姿を現すことから、病原菌をバラ撒くと考えられて憎まれている。こういう理解は、恐らく日本だけでなく世界的なものだろう。
 
 ゴキブリは“不潔”だとする理解で思い出すのは、十数年前に家族5人でヨーロッパ旅行をした時のことだ。私たち家族はみなカレー料理が好きなので、ロンドンではインド料理店にカレーを食べに行った。薄暗い店の窓際の席にすわり、注文の品を待っている時だった。隣のテーブルには、イギリス人とおぼしき若い男女のカップルがいて会話を楽しんでいた。と、その女性の方がいきなり席を蹴って立ち上がり、
「アイ・キャント・スタンド・イット!」
 と大声で言った。「こんなのがまんできない」という意味だ。
 私は最初、2人がけんかを始めたと思ったのだが、女性客が見つめるテーブルの脇に目をやると、中くらいの大きさの茶色いゴキブリが1匹、周囲の雰囲気を警戒しながらゆっくり動いているのが見えた。私たちはすぐに、その女性客の言葉の意味を了解し、自分たちの席の周囲にも同じ虫が潜んでいないかと緊張の面持ちで視線を走らせたのだった。レストランに入ってゴキブリを見つけることは、その店が衛生状態に気を遣っていないことを意味する。なぜなら、多くの私たちの心の中では、ゴキブリは「汚物」と同一視されているからだ。そんなものが這い回っている料理店で食事をすることは「がまんできない!」というのが、この女性客の怒りの理由なのだ。日本とイギリスは互いに地球の反対側に位置するが、ゴキブリに対しては共通の認識がそこにあった。

 谷口 雅宣

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2011年10月 7日 (金)

動物の心について (5)

 さて、昆虫に意識や心がないとしても、だから昆虫には存在価値がないとは決して言えない。このことは、我々の近くで生活する昆虫のことを思い出してみれば、すぐに納得できるだろう。まず、人間の生活にとって不可欠な昆虫は、ハチやチョウ、ガの仲間である。これらの虫は、果樹や作物を実らせる役割をひたすら果たしてくれている。ここで「ひたすら」という意味は、「ただそれだけ」とか「いちずに」ということだから、あえて擬人化した表現を使えば「私心なく」とか「脇目もふらずに」と言い換えられる。こういう行動をする生物には、意識や思考が働くことはかえって邪魔ではないだろうか。チョウがいつも来るミカンの木に飛んできて、その白い花の蜜を吸おうと思ったけれども、そこで自分の行動を意識して「いつもミカンの蜜だけではつまらない」などと考えて、別の植物の花を捜しにいったとしたら、どうなるだろう。それも1匹や2匹でなく、大規模に多種のチョウがこんな気まぐれな行動をしたら、恐らく自然界の基礎をなす植物の生殖活動が乱れて、生態系の秩序は崩壊するのではないか。
 
 昆虫は、動物の中で最も種類が多い。その数は75万種とも言われ、全動物の種類の4分の3以上を占める。ということは、地球上の多種多様な自然環境に最も適応している生物種である。このことを逆に言えば、彼らの1種に注目すれば、生活が最も固定的で、行動に自由度が少ないということではないだろうか。
 
 例えば、イチジクコバチ(Blastophaga psenes)という昆虫がいるが、この成虫は体長1.8ミリという小ささで、雌は黒色で翅があるが、雄は褐色で翅がない。名前のとおりイチジクの実に寄生して生活し、それ以外の植物とは関係をもたない。この虫のイチジクとの1対1の関係は徹底していて、イチジク属(Ficus)の植物は全世界で900種近くあるのに対し、各種にそれぞれ別種のイチジクコバチ類が寄生し花粉を媒介しているという。この事実から、昆虫の生態が不変で一貫性をもっていることで、植物の多様性も保たれていると考えることができる。これを言い換えれば、昆虫に意識がなく心がないことで、生物界の安定が保たれているということだろう。

 このことに関連して、私は2008年9月29日のブログにダニの生態について書いたことがある。ダニは、哺乳動物の血液を吸うことで子孫を殖やすが、その方法は我々人間の想像を超えている。彼らは、木の繁みの中に隠れていて、その下を通過する動物の上に飛び降りるか、繁みが動物に触れることで目的を達成する。しかし、ダニには視覚がないし、聴覚もない。ということは、動物が近づいて来ても見えないし、その音も聞こえない。その代り、動物の皮膚から漂ってくる汗の成分である「酪酸」を嗅覚で感知して行動を起こすのである。動物行動学者の日高敏隆氏は、その様子を次のように描いている--
 
「運がよければ、ダニはそのけものの上に落ち、皮膚の温かさでそのことを知る。そしてなるべく毛のない場所をみつけ、皮膚に食いこむ。そしてダニはけものの温かい血液をたっぷり飲みこみ、卵を産む。ダニの一生はこれで終わる。ダニには味覚もないので、けものの血液の味はわからない。血の温かさだけがその印なのだ。(中略)茂みの枝から手を放したダニが、うまくけものの上へ落ちなかったとき、ダニはまわりの冷たさでそのことを知り、多大の努力をしてもとの茂みの枝へ這いあがる。そして、またじっと、けものの匂いを待つのである」。(岩波文庫編集部編『読書のすすめ』第12集、p.31)

 ダニは、動物の通過をどれだけ待つか……という話も、人を驚かせる--
 
「ダニのとまっている枝の下を哺乳類が通りかかるという幸運な偶然がめったにないことはいうまでもない。茂みで待ち伏せるダニの数がどんなに多くても、この不利益を十分埋め合わせて種の存続を確保することはできない。ダニが獲物に偶然出合う確率を高めるには、食物なしで長期間生きられる能力もそなえていなければならない。もちろんダニのこの能力は抜群である。ロストックの動物学研究所では、それまですでに18年間絶食をしているダニが生きたまま保存されていた。ダニはわれわれ人間には不可能な18年という歳月を待つことができる」。(ユクスキュル/クリサート著『生物から見た世界』岩波文庫、2005年、p.23)

 哺乳動物の血を吸い子孫を残すためだけに、林の中で獲物の接近を待つ虫のことを想像してほしい。彼らにもし意識や心の働きが存在していたとしたら、18年もの間、別のことを思わず、行動せず、ただひたすら待ち続けることなどできるだろうか? 私には、昆虫に意識や心がないというそのことに、重要な意味があるような気がするのである。
 
 谷口 雅宣

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2011年10月 3日 (月)

動物の心について (4)

 経験則に従った動物の自動的行動が、一見すると思考の結果のように見える例として、ドーキンズ氏はアンリ・ファーブル(Jean Henri Fabre)のジガバチの研究を紹介している。それによると、雌のジガバチは産卵の時期になると砂に穴を掘り、それから生まれてくる自分の幼虫の餌として、生きたまま麻痺状態にした別の昆虫(コオロギなど)を穴まで引いてくる。そして獲物をいったん穴の入口すれすれの位置に置いてから、穴の中に調べに入っていき、それから地表に出てきて獲物を中に運び込むという。なかなか複雑な行動だから、ジガバチは「考えて」行動しているように見える。ところがファーブルは、このジガバチが穴の中に調べに入った隙に、獲物を穴から数センチ離してみた。その結果はこう書かれている--
 
「ファーブルが手出しをした後に穴から出てきたジガバチは、獲物のコオロギが自分が最初に置いた場所になくなっているのを発見し、コオロギを元の場所まで運ぶ。だがすぐ穴の中に埋めないで、穴近くの地表にそのコオロギを残したまま、穴を調べに潜ってしまう。ファーブルがまたそのコオロギを動かすと、ジガバチはまたそれを元の位置に戻して、穴を再度調べに潜る。ファーブルは同じジガバチに対して40回以上も同じことをし、そのたびにジガバチはただコオロギを元の位置に戻しただけで、穴に戻ってしまった。ファーブルが手出しをやめてコオロギをそのままにしておくまで、このジガバチは一度もコオロギを穴の中に引きこまなかったが、コオロギをそのままにしておいたら、すぐに埋めにいった。」(p.135)

 この研究によってわかることは、人間以外の動物の行動の中にもし複雑なものがあったとしても、それは必ずしも「心」や「意識」の働きによるのではないということだ。特に昆虫について、ドーキンズ氏は「いままで行なわれた昆虫研究はすべて、昆虫は経験則を大いに取り入れているものの、真の思考をする能力がないことを示唆している」(p.134)と述べている。この点は、記憶に留めておいていいかもしれない。
 
 それでは、心の存在を暗示する意識的行動と、単に経験則に従った行動との違いはどこにあるのだろうか。この問題について、ドーキンズ氏は「思考」という概念を導入する。「思考」はもちろん「意識」と同じではない。私たちは無意識のうちに考え込んでいることもあれば、意識はあっても考えていない時もある。が、与えられた経験則に自動的に従うのと比べれば、「思考する」という行動は、意識している状態により近いといえるだろう。ということで、彼女は「思考とは何か」というドナルド・グリフィン氏(Donald Griffin)の定義を紹介する。それによると、「思考とは対象または出来事の内部映像または表出に気づく過程である」という。「考える」という過程は、「自分の向き合う外的状況に対してある種の内部表出をもつこと、または記憶や将来の状況への予想を持つこと」だという。だから、「思考によって、2つまたはそれ以上の表出が比較され、また起こりそうな結果の評価にもとづいて、次に何をなすべきかの選択がなされる」という。
 
 この引用部分は翻訳書の表現のままなので、なかなか難解である。それを私なりに理解した範囲で、次に説明してみよう。

 グリフィン氏が言う「対象または出来事の内部映像または表出」の意味は、恐らくこういうことだ。私たち人間の前にリンゴが一つあったとする。それを「見ている」だけでは、人間は何も思考していない。その人の目には、リンゴの皮の表面の1点が見えているだけだ。網膜上にはリンゴの映像(内部映像)が写っているが、それを「○○である」と気づかないかぎり、その人の思考は始まらない。この気づきは、必ずしも「リンゴである」というものでなくてもいい。リンゴの表面の1点に黒ずんだ穴があるのを認めて「穴がある」と気づく場合も、思考の始まりと言えるだろう。この気づきから、次に「なぜ穴があるのか?」とか「なぜ黒ずんでいるのか?」とか「実の中に虫が入っているのか……」「どんな形の虫か……」「リンゴを食べたら虫が出てくるのか……」「リンゴの味は大丈夫か……」などという様々な考えが、その人の心に染み出てくる。それが「思考」だ--と言っているのだろう。
 
「記憶や将来の状況への予想を持つ」という意味は、過去にその人がリンゴの中に虫がいるのを見た記憶とか、自分では実際に見なくても、写真の中、図鑑の中、テレビ番組などでリンゴを食べる虫を見ていた場合は、それを記憶の中から呼び出して、「リンゴを食べたら虫が出てくるのか……」と考えることを指すのだろう。こういう心の動きを通して、「2つまたはそれ以上の表出が比較され、また起こりそうな結果の評価にもとづいて、次に何をなすべきかの選択がなされる」のである。

 このグリフィン氏の思考の定義を採用すれば、ファーブルが観察したジガバチは、自分が置いた場所から獲物が40回以上も動かされても、その記憶にもとづいて将来を予測することなく、同じ行動を繰り返し続けた。だから、ジガバチは思考しているのではなく、経験則に従った行動をしているだけだということになる。
 
 谷口 雅宣

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