谷口清超先生の「大慈意」に学ぶ
今日は澄みきった青空のもと、午前10時から東京・原宿の生長の家本部会館ホールで「谷口清超大聖師三年祭」がしめやかに挙行され、参列者は聖経読誦の中、谷口清超先生の御写真の前で玉串拝礼、あるいは焼香によって、静かに先生の遺徳を偲ぶ時間をもつことができた。
私は御祭の後、大略次のようなあいさつを述べた。
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皆さん、本日は谷口清超大聖師三年祭に大勢お集まりくださり、ありがとうございました。
今日の祭文にもありました通り、谷口清超先生はおくり名を「実相無相光明宮弘誓通達大慈意大聖師」と申し上げます。「弘誓通達」という意味は、「真理を弘めずにはおかない」という誓願を徹底されたということです。「弘」は「弘法大師」の弘法の意味で、真理を弘めることです。それを誓願する熱意が貫徹しているという意味です。また、「大慈意」とは「大いなる慈悲の心」です。このおくり名のように、谷口清超先生は真理の伝道を大いなる愛の心をもって徹底して実践された、そういう信仰の先達として実に模範的な人生を送られました。このことは、追善供養祭のときにお話した通りです。今日はこの大聖師をお偲び申し上げ、おくり名の「大慈意」という点について先生のご著書から皆さんとともに学びたいと思うのであります。
先生の著書に『愛は凡てを癒す』という本があります。この本にはいくつもの版がありますが、最近のものは平成4年(1992年)に出た「谷口清超ヒューマンブックス」(全10巻)に収録されています。一見比較的新しい本のようでありますが、初版は昭和29(1954)年です。ですから、清超先生が34歳のころに書かれたご文章が集められているのです。私はその頃はまだ小さい子供で、昭和29年には2~3歳です。それで、清超先生がこの本の原稿を書いておられたころは、まだ1~2歳ということになります。そういうまだ右も左も分からないような子供だった私のことが、実はこの本に少しだけ出ているので、まずそこを紹介いたします:
これはこの本の最後の方の18章にあり、「子供は天真爛漫である」という小見出しがついた文章ですーー
「私の一番下の子が雅宣という男の子で、この子は今は11カ月目になりましたが、何時か何かいたずらをして、姉娘の邪魔をした事があります。すると姉娘が“チッチッ”と雅宣を叱ったのですが、雅宣は“チッチッ”と叱る言葉が面白いらしく、キャッキャッと笑いながら姉娘にふざけるのであります。だから彼には姉娘の叱責はちっともこたえないので、姉弟で遂にふざけ出して“チッチッ”“キャッキャッ”と騒ぎ出したのでした。幼な児は何でも善意に解釈して、叱られていても叱られているとは思わないで喜んでいるのであります」。(同書、pp. 252-253)
まあ、私にもこのように天真爛漫な頃があったようでありますが、清超先生はこんなうるさい子供たちを観察して、その様子を原稿に書いておられたのですね。その頃は、子供に個室など与えられていませんでしたから、子供たちは先生が原稿を執筆されているところで騒いでいたのかもしれません。また、別の部屋で先生が原稿書きをしている時に、人の都合など気にしない幼い私は、先生の部屋に勝手に入っていったことがあるかもしれません。そんな時に、父親である先生はどのように応対したのか……と考えさせられます。たぶんずいぶん迷惑をおかけしたと思います。しかし先生は、そういう時のご自分の対応を考察されて、「真に愛するとはどういうことか」を文章に書いておられるのです。このご文章に、谷口清超先生がいかに「愛」を大切にされる大慈意の方であったかが表れていると思います--
「真の愛は吾々から自己の劣等なる心を偽装している口実を奪い去るのである。吾々が何か仕事をしている時、いと小さき幼な児が笑顔をもって走り込んで来る時、吾々の愛がいかに大きく崇高で純粋なものであるかを見ることが出来るのであります。その“仕事”なるものが果たしてどれだけ“幼な児の生命”より偉大でありうるであろうか。幼な児を愛し保護し養育するなどという事は名声を博することでもなければ金儲けになることでもないのであるが、真に吾々が幼な児を愛する時、すべてをなげうってでもこの一個の小さな生命を保護したい気持になります。果して吾々は自分のしたいと思っていることがさまたげられた時、いらだたしい気持で“偉大なる生命”を冒涜し、彼を心の中で傷つけはしなかったであろうか。吾々が真に幸福になる時は、かくのごとき口実をすべて洗い流して、全てを神にゆだね、神の御意(みこころ)の愛をたゆみなくほどこして行く時であります。自分が神の心を起す時、神の国が吾が周囲にあらわれて来るのであって、この逆ではないのです。神は別に名声を求めるのでもなければ、知識を求めるのでもなければ、いわんや金を儲けるのでもなく、ただ惜しみなく愛を与えて全ての有情非情を育てて行くのであります」。(pp. 40-41)
この先生の愛の心は、決して自分の家族や人間の範囲だけに留まっていたのではありません。我々人間が他の動物をもっと愛さねばならないということを切々と説いておられる文章も、この本には収録されています。
「大体現代の世界的不安というものは、色々と手近かな原因もありましょうけれども、根本的には社会の人々が、あまりにも残忍になって、平気で生き物を殺しているというところに根本の原因があるのであります。吾々の現象世界は“因果律”の支配している世界であって、従って吾々人間が他の動物の生命をうばえば、自分の生命も奪われることになるのは当然であります。人間は凡ゆる下等動物の生命を平然と奪っているが、果してこれが神の御心にかなった行為であろうか。例えば捕鯨船が鯨をうつが、その時、捕鯨船の射手は子供の鯨を目標にして銛(もり)をうつと、その親鯨は子供が銛をうたれて引き摺られるのをみて可哀そうになって、どうしても子供を捨ててにげて行くことが出来ないで、自分の身が危険にさらされるのもかまわず捕鯨船について泳いで来て、遂に自分も捕獲されてしまう。そうして捕(と)って来た鯨の肉を、人間はうまいうまいと言ってたらふくたべるのであります。(中略)
こういう事を平気でしていて、人間だけ殺されずに火にもやかれずに生きていたいなどということは少し虫が好すぎるのであります。ですから、このような残忍な心をそのままにして置いて、それで一方的に、人間同士だけの戦争をなくしようと努力したり、火事にあうまいと思って努力してみても、人類全体の業が流転して来て、大量の人類殺戮場たる戦争があらわれ、原子爆弾で人類の大量火あぶりが起るというのも当然のことなのであります」。(pp. 34-35)
このご文章は半世紀以上も前に書かれたものですが、それを現代に引き寄せて考えてみても少しも“古く”なっていません。我々人類がクジラどころか、ウシやブタなどを殺した数は、この半世紀ほどで激増しています。数字でこれを表すと、世界の食肉生産量は1961年から2008年までの47年間で「約4倍」に増えています。その間に人口も増えていますが、それを勘案して1人当たりの食肉生産量を見ても、世界平均で「1.8倍」、先進国平均で「1.56倍」、途上国平均では「3.3倍」になっています。それだけ多くの高等動物の生命を人類が犠牲にしてきていて、「殺すものは殺される」という因果の法則から逃れられると考えるのは間違いです。
私はもう何年も前から、食肉生産の増加が地球環境問題に深刻な影響を与えるということを書いたり、言ったりしてきました。そして私たちの光明化運動でも、「肉食を減らす」ことを1つの目標としてきました。皆さんもそれぞれ、そういう努力をしてきていると思いますが、世界全体としては、先ほど数字を申し上げたように、肉食の増加はすごい勢いで続いています。人類はそろそろ、そういう悪業を刈り取る時期に来ているのではないでしょうか?
本年は、世界は大変動期にあるということを痛感するのであります。先進国の深刻な不況、“アラブの春”、東日本大震災、パキスタン洪水、タイ洪水など、気候変動と関係があると思われる現象がたて続けに起こっています。こういうときにこそ、有情非情に愛を注がれた谷口清超先生の「大慈意」を見ならって、私たちは自然に四無量心を行じる生き方を大々的におし進め、自然と共に伸びる運動を実現していかねばなりません。
谷口清超先生の三年祭に当たり、所感を述べさせていただきました。ありがとうございます。
谷口 雅宣