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2011年10月11日 (火)

動物の心について (6)

 昆虫に存在意義があることは頭でわかっても、どうしても好きになれない虫はどう扱うべきか、と読者は問うかもしれない。実はこれと似た疑問を、私はかつて生長の家の青年から投げかけられたことがある。それは、次のようなものだった--
 
「“ゴキブリやカラスやネズミも気味悪い”ので、いつも“神様が造られたものだから、何か意味があるだろう”と考えるようにしているのですが、夏になると、蚊とかゴキブリには本当に頭を悩まされるので、存在理由が正直わかりません。」(『足元から平和を』、pp.334-335)

 私はこの時、私たちが特定の生物に対する嫌悪の感情(repugnance)をもつことは「進化の過程で獲得してきた自然からの“贈り物”だろうと思う」と答えて、そういう“本能的価値判断”を容認した。が、その一方で、こう述べたのだ--
 
「我々はやはり知性を神から頂いているのだから、 repugnant の感覚は十分尊重しながらも、なぜ repugnant なのかを知性によって理解し、判断すべきだろうと思うのです。」(前掲書、p.337)

「repugnant」という英語は普通「嫌な・不快な」とか「矛盾する・両立しない」などと訳されるが、理性的に説明がむずかしい生理的な嫌悪感を意味することが多い。人間は、ヘビなどの特定の生物に対してそういう嫌悪感をもつと言われ、進化心理学などでは、そういう性向は人類の祖先からの遺伝的遺産だと考えてきた。つまり、人類の祖先が森の中に棲んでいたころ、ヘビへの嫌悪感をもつことが生存上有利に機能したため、その性向が遺伝子の中に保存され、現代人にも引き継がれていると考えるのである。私が先に、「進化の過程で獲得してきた自然からの“贈り物”」と表現したのは、その可能性のことである。しかし、人間がある特定の生物に対して例外なく、先験的に、本当に嫌悪感をもっているかどうかは、大いに議論の余地があると思う。

Amalogo2  例えば、ヘビに対する感情でも、私が実際に自分の山荘でヘビに遭遇したときも、私の中で起こった感情と、妻が示した拒絶感との間には相当の差があった。また、中国から伝わり日本に受け入れられた「十二支」の考え方の中に、ウサギやイヌ、ウマなど人間と親しい関係の動物に混じってヘビが入っていることや、アメリカ医学協会(American Medical Association)のシンボルマーク(図参照)がヘビであることなどを考えると、人類にとってヘビは必ずしも忌み嫌い、排除すべき存在ではなかったと考えられるのである。
 
 だから、特定の昆虫に対しても、多くの人々が“直感的”に強い嫌悪感を示すことがあったとしても、その昆虫が本当の意味で人類にとって“害虫”であり、したがって撲滅すべきものであると考えてはいけないと思う。私たちの心の中に起こる感情は、すべてが遺伝的、先験的なものではなく、文化的、社会的、教育的、さらには政治的に作られたものも多くあることは、歴史の経験が示している通りである。
 
 さて、ここまで小むずかしい一般論を長々と述べてきたのは、これから登場させる昆虫との関係が“難物”であるからだ。私たちがよく知っていて、しかも毛嫌いしている昆虫の存在意義を考えるには、事前準備が必要と思ったのだ。その昆虫とはゴキブリである。
 
 最初に正直に言わせてもらえば、私はゴキブリが好きではない。また、好きな人にこれまで出会ったことがないし、そんな人がいれば気が知れないと思う。実際、1980年にアメリカのイェール大学で行われた生物の人気ランキング調査では、ゴキブリはカ(蚊)よりも下の最下位だったという。この話は、環境問題教育家のジョアン・エリザベス・ローク氏(Joanne Elizabeth Lauck)の『昆虫 この小さきものたちの声』(甲斐理恵子訳、日本教文社、2007年刊)に出てくる。ゴキブリはその流線型の体躯と濃い茶色、脂ぎった光沢、人間の目を盗むすばしこい動作、恐るべき繁殖力……などから、ほとんどの人間に嫌われる。しかも、台所や食堂に姿を現すことから、病原菌をバラ撒くと考えられて憎まれている。こういう理解は、恐らく日本だけでなく世界的なものだろう。
 
 ゴキブリは“不潔”だとする理解で思い出すのは、十数年前に家族5人でヨーロッパ旅行をした時のことだ。私たち家族はみなカレー料理が好きなので、ロンドンではインド料理店にカレーを食べに行った。薄暗い店の窓際の席にすわり、注文の品を待っている時だった。隣のテーブルには、イギリス人とおぼしき若い男女のカップルがいて会話を楽しんでいた。と、その女性の方がいきなり席を蹴って立ち上がり、
「アイ・キャント・スタンド・イット!」
 と大声で言った。「こんなのがまんできない」という意味だ。
 私は最初、2人がけんかを始めたと思ったのだが、女性客が見つめるテーブルの脇に目をやると、中くらいの大きさの茶色いゴキブリが1匹、周囲の雰囲気を警戒しながらゆっくり動いているのが見えた。私たちはすぐに、その女性客の言葉の意味を了解し、自分たちの席の周囲にも同じ虫が潜んでいないかと緊張の面持ちで視線を走らせたのだった。レストランに入ってゴキブリを見つけることは、その店が衛生状態に気を遣っていないことを意味する。なぜなら、多くの私たちの心の中では、ゴキブリは「汚物」と同一視されているからだ。そんなものが這い回っている料理店で食事をすることは「がまんできない!」というのが、この女性客の怒りの理由なのだ。日本とイギリスは互いに地球の反対側に位置するが、ゴキブリに対しては共通の認識がそこにあった。

 谷口 雅宣

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コメント

 私もゴキブリは大キライです。トテモ好きにはなれません。
 ですから、出てきたらたたき殺したり・踏みつぶしたりして殺すこともあります。
 そのようなことを、させないため、ゴキブリには人間が生活している居住空間等には出てきてもらいたくないのです。ゴキブリだけではなく、その他お目にかかりたくない生物はかなりあります。
 こう考えるのは悟りを開いていないからでしょうか?
 でも私は、そうとは思いたくないのです。
 私たちの生を脅かしてもらいたくないのです。
 ゴキブリには多分、何の迷惑も掛けてはいないのに、突如として現われ威嚇するのは止めてもらいたいのです。
 お互いの生を脅かさない生き方が何処かにあると思いますので、そういう生き方をしてもらいたいものであります。

投稿: 志村 宗春 | 2011年10月12日 (水) 18時19分

イギリス人女性の気持ちがわかります。シュッバイツァー博士は蚊をコップで捕らえて外へ出したとか、ゴキブリはどうしたの?と聞いてみたいです。

投稿: 小澤悦子 | 2011年10月12日 (水) 20時22分

合掌ありがとうございます。ゴキブリが出て来るという事は、部屋の中に餌になるものが放置してあるという事ですから片付けの目安になるのではないでしょうか。私の職場は無認可の保育所ですので、ゴキブリを一匹でも見かけたら大騒動です。子供達は昆虫が大好きな子はいないようです。先日はコオロギが紛れ込んできて。子供達がゴキブリだと騒ぐので見に行ってみたらなあんだという事で殺されないうちに苦労して捕まえて外に逃がしてやりました。コオロギにはいい迷惑だったようです。ところでゴキブリはいつからいたのでしょうか?世界共通の嫌われ者のようですね。次回のブログが楽しみです。再拝

投稿: 横山啓子 | 2011年10月13日 (木) 22時50分

つい先日、山の中に建てた施設の軒下に、クマンバチの巣があるから大きくならないうちに駆除したほうがいいよ、と近くを通った人に忠告されました。

以前でしたら、「そりゃいけない。刺されたら困る」と思って何のためらいもなくすぐに駆除するという行動に出たと思いますが、そう忠告された時すぐに思ったのは、「何とか蜂を殺さずに済む方法はないか」ということでした。そして、そのためには、蜂の生態について詳しく調べてみて、その上でベストな選択をしたいと思ったのです。

調べていくと今まで知らなかったことが色々と分かり、凄く面白く勉強になりました。いかに自分が無知であったために昆虫に対して誤った印象を持っていたのかということもよく分かりました。

これは、雅宣先生のブログを読んできたことで、自分の意識が大きく変わった出来事のひとつです。

これからも沢山学ばせて頂き、自然と共に生きるための知恵を身につけていきたいと思います。有り難うございます。

投稿: 前川 淳子 | 2011年10月17日 (月) 20時31分

何度も失礼します。

以前、雑誌のインタビュー記事にNHKいのちドラマチックという番組でお馴染みの福岡伸一氏の文章があり、その中でゴキブリについてこう書いておられました。「‥3億年も前から地球に暮らし、夜な夜な台所の床をはい回るゴキブリも、熱帯雨林の分解者として生物の死骸やふんを食べて有用な有機物に変換している立派な生物です。‥」と。
そこだけ読むとゴキブリも自然界の中では立派に役割を果たして生きているんだな、と思うのですが、確かに人間の居住空間に姿を現された日には、ギョッとしてしまいます。そう感じるのは、ゴキブリが「分解者」なのにハッキリとその姿が目に映るくらいに大きいから?同じ分解者のダニでも肉眼で見えないものは傍にいたとしても何も感じないと思うので‥。でも、やはりよく分かりません。

投稿: 前川 淳子 | 2011年10月18日 (火) 23時49分

合掌 ありがとうございます。

>最初に正直に言わせてもらえば、私はゴキブリが好きではない。また、好きな人にこれまで出会ったことがないし、そんな人がいれば気が知れないと思う。

ちょっと疑問に思うところがあります。
ゴキブリ嫌いは本能的なものとして持ってくるものでしょうか?

現文明は衛生を気にしますが、昔はゴキブリと一緒に暮らしていたのではないでしょうか。
今も、まだまだ衛生のことは全く知らず、ゴキブリを気にせず一緒に暮らしいる地域などがあるのではないかと思います。

私ごとになりますが、
ある日、小学生の子が泣きながら学校から帰ってきました。
学校の友達がゴキブリを殺そうとするところを見て、ゴキブリを守ろうとしたらもみ合いが始まりまして、
子供は「私が大きくなったらゴキブリが住む家を作ってあげて、ゴキブリをみんなから守る」と言ったそうです。すると、みんなが「バカだ」とからかいはじめたそうで泣いていました。

実は、私はゴキブリは好きではないけど嫌いでもないです。家の中で見かけても私の上や食卓にあがらなければ気にしませんが、周囲の目を気にして家に入ってこない様にしています。

確かに、食事の中に入ると気持ち悪いです。けれども、食事に自分の髪の毛が入っていて、知らない料理人の毛だと思えば同じように気持ち悪いのじゃないでしょうか。

みんながゴキブリ嫌いのは、最初から嫌いではなく、現代の教育から押しつけられたものじゃないかと思いますが、私だけがおかしいのでしょうか。

投稿: erica | 2011年11月29日 (火) 13時45分

erica さん、

>>みんながゴキブリ嫌いのは、最初から嫌いではなく、現代の教育から押しつけられたものじゃないかと思いますが……<<

 その可能性は大いにあると思います。私も、ゴキブリを妻の攻撃から守ろうとしたことがあります。(笑)

投稿: 谷口 | 2011年11月29日 (火) 17時59分

総裁先生

合掌 ありがとうございます。
お忙しいところ、ポイント外れなコメントをしてしまい、大変失礼致しました。

実は、“動物の心について”シリーズを何度か読み始めましたが、理解できず進むことができていませんでした。

文章が難しいとかの問題ではなく、「なぜ動物に心があるか検討されるの?」という疑問に引っかかっておりました。私は、動物は神の創造の一つであるため、心(なんらかの形での魂)があるのは当たり前だと思っておりました。

ですが、拝読を進めば、進むほど「心がない」という結論にたどりつき、総裁先生は何をおっしゃりたいのでしょうかと、自分の理解するところと、総裁先生のお言葉とのギャップを感じておりました。

・ここで言う「心」というものは何を意味しているのでしょうか。

・私たちが生長の家で学ぶ「心」とはどうのような関連があるのでしょうか。

・ポルトガル語を母国語とする私には、心=mente=mind だと理解していましたが、日本では少し考え方が変わり、心=mente + coração = mind + heart、つまり、思考と感情の両方だと段々と理解してきました。でも、ご文章では思考しないから心がないという結論になり、益々分からなくなっていました。

・思考しないから心はないと言いますと、思考停止する精神病などの人には心がないということになるのでしょうか。

・感情をもつことは心があるといえないのでしょうか。たとえば、獲物とされる直前に動物が恐怖しているような状態になり、逃げようとするのは、人間がいう恐怖ではないでしょうか。恐怖と見えるのはただの擬人化でしょうか。
  
・「心が肉体を造る」と教わってきましたが、動物に心がないなら、動物はどのようにこの世に現れたのでしょうか。


そのように、自分に疑問を問いかけている内に、一つ理解できましたかと思います。

動物には科学のいう思考する個別化した心はない。人間の体の各部と同じように思考はなく、ただプログラムされた通り作動している。だから、思考がないから生きる意味がないということではない。全体からみて一つの重要な役割を果たすためにある生き物だ。汚い動物だから消滅させるのは、人間の腸は汚いもの好きだから削ろうということと同じようなものだ。

そう気づきましたとき、各動物は自然の「体」の一部分であること、すべては一つだということがより明確に理解できました。

ありがとうございました。
再拝

投稿: erica | 2011年11月30日 (水) 13時35分

erica さん、

 『TIME』誌の11月28日号に、「意識がない」とされていた植物状態の人間にも、部分的には意識があるという最近の発見について、詳しく書いてあります。

 また、同じ『TIME』誌の「意識」についての特集記事を読んでも、「心」「意識」「無意識」の研究の難しさがよく分かります。「心」という日本語は、こういう化学の研究が行われる前に作られ、使われてきた言葉です。その意味するところは、だから厳密に何かを指していることにはならないと思います。下の英語サイトを参考にしてください:

http://www.time.com/time/magazine/article/0,9171,1580394-1,00.html

投稿: 谷口 | 2011年11月30日 (水) 23時11分

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