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2011年9月

2011年9月30日 (金)

動物の心について (3)

 私は、この2つの主張の“中間点”のどこかに真実があるような気がする。第一の主張は、科学で言う「擬人化(anthropomorphism)」に陥る危険が大いにある。この主張は、自分の目の前にいる動物が人間と同等の感覚や心をもっているとの認識である。これが極端に走ると、イソップ童話の中に出てくるような世界が本当の世界だとする誤謬に近づいていく。私はそういう擬人的視点に与しないが、さりとてどんな動物の行動も、学習や条件反射のような、刺激に対する自動的反応にすぎないとは考えない。それは、あまりにも単純なものの見方だと思う。私は、高校生のころに柴犬を飼っていたことがあり、家族をもつようになってからはブンチョウを飼ったこともある。また、現在も自宅の庭では池にコイが泳いでいるし、野良ネコと遭遇することも案外多い。そんな時、彼らと少しばかり“交流”するのだが、彼らの人間に対する反応が、まったく条件反射的であり機械的であると考えることには、かなり無理を感じるのである。
 
 次の文章を読んでほしい--
 
「私たちは皮膚の内側での自分の経験は分かるけれど、他の身体の中での経験について知ることは厳格に制限されている。従って他の動物の意識を研究しようとしても必ず失敗の運命にあるように見えてしまうのだ。」

 --この言葉は、動物行動学者のマリアン・S・ドーキンズ氏(Marian S. Dawkins)の著書『動物たちの心の世界』(長野敬他訳、青土社、1995年)の一節である。ドーキンズ氏は、頭痛を訴える人を目の前にした自分を想像し、相手の感じている痛みを自分が感じられないという事実を指して、「他の身体の中での経験について知ることは厳格に制限されている」と言っているのだ。もちろん、相手の表情や仕草を見て、その人が味わっている苦しみを想像することはできる。また、自分がかつて経験した頭痛を思い起こして、痛みを追体験しようと努力することも可能だ。しかし、その想像上の痛みと、相手が現に感じている痛みがまるで別ものであるという可能性は常にある。この「痛みを意識する」という一見単純な行為ひとつを取り上げてみても、人間同士の間でも、すでにこれほどの“知の断絶”がある。だから、人間以外の生物の意識について我々が知ることは、ほとんど不可能と思われる--そうドーキンズ氏は言っているのである。
 
 が、ここで「不可能である」と断定すれば動物行動学は成り立たない。だから彼女は、人間が他人の心を理解するための想像力の活用や感情移入を援用して、動物の“立場”や“状況”を詳しく知る努力をすれば、動物の心--もしそういうものがあるとすれば--の状態を類推することは可能だと考えるのである。これに対し、人間とは異なる動物の事情を考慮することなく、単なる“直感”に頼って動物の心を仮定する擬人化は、人を誤った判断に導く、とドーキンズ氏は警告する。
 
「他人を真に理解することは、その人の視野からものを見、何が起こったのかを見つける労を惜しまないことによって、はじめて実現する。同様に、他の生物を理解するはるかにむずかしい仕事は、その生物が私たちとすっかり同じであると考えたくなる誘惑を抑えるために、その生物の生物学と生活様式の事実について知り得るすべてを用いて、同じ労を厭わずに行なってはじめて可能になる。他の生物を人間とそのまま同じように見る“擬人化”は、人間と動物の類似をまったく認めないのと同じくらい誤りである。」(前掲書、pp.30-31) 

 ここで強調しておきたいのは、ドーキンズ氏が「その生物が私たちとすっかり同じであると考えたくなる誘惑」と呼んでいる力が、我々人間にとっては相当強力であるという点だ。それは例えば、人間は何の因果関係がないところにも、因果関係があると「思いたい」という理由で因果関係を見ることが多い。これは占いやオミクジの類いが、未だに人気があることからも明らかである。Aという出来事の後にBという出来事が起これば、AはBの原因であると考えやすい。しかし、本当はCという別の出来事が原因でAとBが起こった場合でも、「Aの後にBが起こる」ことはあり得るし、Cという共通の原因などなくても、「Aの後にBが起こる」ことは確率的にはあり得るのである。
 
 我々人間が因果関係のないところにも因果関係を見る傾向について、ドーキンズ氏はこう言っている--「私たちの頭脳はパターンを検出するように進化してきた。パターンがない場合にも検出しようとする。(中略)このことは、秩序や予測性が存在しない場合にも、それを見いだそうとする私たちの性向を証明している。」(p.115)
 
 このことが、学習や経験則に従ったほぼ自動的、反射的な動物の行動と、「考える」ことから生まれる行動との区別を難しくしている。そして、動物が物事を考えて行動しているような--したがって動物に心があるような--“直感”を我々に与えることが多いのだ。しかし事実は、動物は「考えて」いるのではなく、学習によって得た行動を単純に繰り返している場合が多いのである。そういう区別を考えながら、ドーキンズ氏は様々な動物が示す一見複雑な行動の背後に、「心」の動きがあると判断すべきかすべきでないかを、この本の中でていねいに確認していくのである。
 
 谷口 雅宣

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2011年9月27日 (火)

害虫の“自動死”は望ましいか?

 自然と人間との共存を考える本欄では、様々な角度から両者の関係を検討していくつもりだが、その中で科学が果たす役割は2重の意味で重要だと思う。1つは、「自然を知る」うえで生物学や医学、気象学を含む科学の力は不可欠だからだ。もう1つは、自然を知ったのちに、それに「どう働きかけるか」についても、科学的知見にもとづいた技術の力は大きいからである。自然科学は、自然に内在する法則について仮説を立て、それを検証することを継続しながら、今日の大きな成果に到達している。この営みは自然を「知り」、それに「働きかける」という2つの動きの連続であり、積み上げだと見ることができる。

 人間が扱う自然が、自然全体のごく一部である場合には、この2サイクルの動きは問題なく機能してきた。例えば、人間は樹木の性質を知り、それを家などの建築物や工芸品の材料としたり、薪にして暖をとってきた。この動きが小規模であれば、自然の再生力が新たな樹木を生み出せるから、人間には持続可能な生活が可能だった。が、今日のように、世界人口が70億人に近づいて人間の要求が肥大化し、加えて技術の発達で広範囲の森林が一挙に伐採されるようになると、自然の持続可能性は破綻を来すことになる。その場合、生態学などの助けを借りて、植林や育林をすることで、自然の持続可能性を回復しなければならない。これは、人間の自然への働きかけを無制限に行うのではなく、一定の範囲内に制御しなければならないということだ。だから、人間の欲望の制御は、21世紀の人類と自然の共存にとって欠くべからざる条件となる。
 
 このことを確認して、次の問題を考えてみよう。人間に害を与える生物がいるとする。この生物を絶滅させることは、人間と自然の共存にとって良い結果をもたらすだろうか。それとも悪い結果を招来するだろうか。人間を、他の生物と本質的に同等のものと考えた場合、人間にとって有害な生物をすべて絶滅させるという行為は、自然との共存に背反する。なぜなら、“天敵”がいなくなった生物は爆発的に増殖することが多く、そうなると自然界のバランスを乱し、他の生物に悪い影響を与えると思われるからだ。自然界では、人間以外の生物が異常発生することは珍しくない。が、その場合、異常発生した生物の“天敵”も増殖するから、やがてバランスの回復が行われる。しかし、人間の場合、科学技術の力によって“天敵”をも撲滅させるだろうから、自然界のバランスは永久に回復しない可能性がある。そんな時、自然界(人間もその一部である)では何が起こるのだろうか?
 
 そんなことを考えさせる記事が、イギリスの科学誌『New Scientist』の9月10日号(vol.211 no.2829)に載っていた。いわゆる“害虫”や“害獣”を駆除するために、遺伝子組み換え生物を野に放つことが真面目に検討されているというのだ。その方法も変わっていて、これまでよく行われてきたように殺虫剤や殺鼠剤のようなものを使うのではなく、駆除する対象の生物の遺伝子を組み換えて“自動死”させるというのだ。これと似た“オスの不妊化”という方法は、半世紀以上前から使われてきたらしい。これは、生殖能力のないオスを大量につくり出して自然界に放つという方法だ。これによってメスは子孫を設ける機会が減るため、やがてその生物種は絶滅するというのである。
 
 が、遺伝子組み換えによる“自動死”は、これより有効な方法らしい。イギリスのバイテク企業「オクシテック」(Oxitec)は2006年、アメリカ政府の認可を経て、綿の実を食べるワタノミムシの遺伝子の一部を改変して生殖能力を失わせ、それを大量に自然界に放つ試験を3年続けて行ったという。これによって2千万匹を超える遺伝子組み換えワタノミムシがアメリカ国内に放たれた。記事には、これが「成功した」とあるから、恐らく綿の実への被害は減ったのだろう。これに続き同社は、デング熱を媒介するカ(蚊)に遺伝子組み換えを行った。デング熱は、熱帯に発生するウイルス性の熱病で毎年、5千万人から1億人が感染する。普通これにかかっても死ぬことはないが、それでも20人に1人は深刻な病状を呈するという。まだワクチンは存在せず、治療法もない。だから、ウイルスを運ぶカを殺すことで感染防止を図るほかはない。が、問題のカは、殺虫剤に対する抵抗力をつけ始めているという。

 同社は、このカにはワタノミムシとは違う遺伝子組み換えを行った。それは、サナギの段階でメスのカだけが自動死する組み換えである。こうしておくと、組み換え種はオスもメスもサナギになるまでは普通に成長するから、自然界の仲間と競争してその一部を駆逐する。そして、組み換え種のオスは自然界のメスと交尾して“自動死”の遺伝子を次世代に渡すことになるという。この過程が何世代にもわたって続くと、問題のカの数は激減するというわけだ。同社は、この方法の実験を2009年からカリブ海のケイマン島で始めており、結果は良好という。そこで今、ブラジルのジュアゼイロ(Juazeiro)で大規模な試験が行われているらしい。このほかにも、同社は、同じカのメスだけを飛べなくさせるという遺伝子組み換えを行い、子孫を絶やすことも考えているという。
 
 遺伝子組み換えの技術の影響力が大きいのは、一つの種の植物や動物で成功した方法は、他の種にも援用できることが多い点だ。だから、この“自動死”遺伝子によるカの撲滅は、別の動物--魚類や両棲類など--にも援用できる可能性が大きい。また、魚類については、ホルモンの分泌を制御する遺伝子を組み換えて、オスだけを産生することができるといい、この方法を使えば、有害な外来種の魚を撲滅することも可能だという。琵琶湖で繁殖して迷惑視されているオオクチバスやブルーギルの対策にも、役立つ可能性がある。

 しかし、このようにして、人間中心の視点から自然界の生物種の数を減らしていくことが、短期的にはともかく、長期的にどのような影響を生態系に与えるかは、まったく未知の話なのである。また、ある地域で“有害”とされる生物が、別の地域ではまったく問題ないことも多い。その場合、“有害種”を絶滅させるための遺伝子組み換えは、別の地の“有益種”を撲滅する結果になる危険性もある。例えば、日本や中国に普通に棲息する魚類のコイやカミキリムシは、アメリカに渡ってその地の生態系に被害を及ぼしているという。それらを駆除するために、アメリカが“自動死”や“オスだけ産生”の遺伝子組み換えを大々的に行った場合、日本の生態系に悪影響を及ぼす危険性はないと言えるかどうか……。問題はなかなか複雑であり、科学の生態系への影響力は計り知れないと感じるのである。

 谷口 雅宣

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2011年9月26日 (月)

動物の心について (2)

 私は、この小林氏の体験と似たような状況に置かれたことがある。それは、日暮れ時に大泉町の山荘にもどるため、八ヶ岳南麓の斜面の舗装道路を車で下っていた時だ。片道一車線の道路から、車の速度を緩めて舗装のない砂利道へ入り、10メートルほど進んだところで一匹のキツネの姿を見た。路地の端の草むらで頭部を上げ、両耳を立ててこちらを見ている。私たちが走ってきた舗装道路は、大泉町周辺の人々が生活道路として使っているから、結構交通量がある。そこからほんの十数メートルの地点で野生動物に遭うことなど珍しかった。だから、私は車の速度をさらに下げてキツネに近づいた。キツネはこちらを見ながら後ずさりし、やがて危険を感じたのか体を大きく翻して数メートル離れ、そこで再びこちらを見てから林の中へ消えていった。
 
 この時のキツネの行動から、私は“彼”が人間に対して「疑惑と好奇心」を抱いていたかどうかを判断することはできない。10秒にも満たないほんの短い時間の出来事だったからだ。小林氏の文章を読むと、キツネとの邂逅の時間はもっと長かったと想像できる。しかし、5メートルの距離をおいて見つめ合った相手の心に「好奇心」があったかどうかを判断するのは、人間の場合でも簡単ではないだろう。
 
 装幀家で随筆家でもある荒川じんぺい氏は、私たちの山荘がある大泉町から遠くない小淵沢に永年住んでいて、釣りやキノコ採りなどで森の中をよく歩いてきた。その荒川氏は、ある冬の深夜、自宅裏の雪の積もった草原でキツネが「ケーン」と鳴く音を聞き、カメラを持って外へ飛び出した時のことを書いている。鳴き声の方向に歩いていくと、夫婦とおぼしき2匹のキツネが雪原の縁でじゃれ合っていたという。風向きが幸いして、荒川氏はキツネに気づかれずに150メートルほどの距離まで接近することができたという。そして、不思議な光景を目撃するのである。
 
 「夫婦ギツネなのだろうか、横に逃げ前に進み飛び上がり、じゃれて咬(かみ)合っている。月光に体毛が光り、絹の衣装を纏っているようである。初めて見るじゃれ合うキツネの生態に、僕は感動し寒気など感じなくなっていた。それは、アイスアリーナで舞うスケーターの演技を見ているような錯覚さえ感じていた。
 ときどき円を描くように逃げ追い回り、僕との距離も縮まる。僕は気付かれまいと、ますます身を屈める。そんな演技を見ているうち少しずつ円が僕の方へ寄って来て見つかってしまった。
 逃げ回っていたキツネは、僕に気付くと前足を踏んばり一回転して止まった。目はピンク色に染まり、真ん丸に輝いていた。僕と顔が合った瞬間、雪原の真ん中に向かって駆け出していた。二百メートル程離れると、振り向き僕を見ている。
 安全圏に入ったとでも感じているのか、今度は僕が見られる番になった。手を振り口笛を鳴らし、おいでおいでをするしか思い付かなかった。2匹のキツネはしばらく立ち止まって僕を見ていた。」(荒川じんぺい著『週末は森に棲んで』1994年、講談社、p.107~108)
 
 このあと荒川氏はカメラのストロボを何回も焚いたので、キツネたちは逃げていってしまう。だから“彼ら”が好奇心をもっていたのか、それとも単に警戒していたのかは読者が想像するほかはない。荒川氏もキツネの“内心”の想いについて何も書いていないのである。
 
 野生のキツネと人間との不意の出逢いについて3例を示したが、どの場合もキツネの行動に大きな違いはないような気がする。キツネは人間の動きに注目し、目を合わせても逸らさない。しかし、人間との距離が縮まると、あるいは人間が目を逸らすと、身を翻して距離をとり、そこで再び人間の方を見る--この行動だけを考えれば、それが「好奇心」を示しているのか「警戒心」なのかは分からないのではないか。例えば、昆虫のゴキブリは、人間に見つかると一瞬体の動きをピタリと止める。そして人間がアクションを起こすと素早い動作で身を隠そうとする。この「静止」の行動を好奇心の表れだと解釈することは難しい。では、ゴキブリが人間の近くに現れることは好奇心からか? そうではあるまい。食事にありつこうとするごく自然の欲求が背後にあることは明らかだ。キツネに好奇心があるように感じられるのは、ゴキブリと違って人間と同じ哺乳動物であることから、耳を2つもち、目と鼻のつき具合が人間と似ており、さらに首を回して後方を向くことができるからではないか。つまり、外見や体の構造が人間に近いものを、我々は自己同一化して見るのである。そういう可能性は否定しきれないと思う。

 動物に人間と似たような「心」や「意識」があるかどうかの検証は、科学的には大変難しい問題であるようだ。だいたい人間のもつ意識でさえ、それが何であるかという確かな定義も、それを客観的に測定する方法もまだ見つかっていない。ましてや、動物に意識があるとしたらそれがどんなものであり、人間のそれとどう違うか、あるいはどう似ているかなど、今の科学では検証不能なのである。となると、動物の意識については、勢い2つの正反対の考え方が主張されながら、平行線をたどることになる。1つは、動物好きの人々が直感的にとらえているように、動物にも人間とそう変わらない意識があり、心があるとする主張である。もう一つは、それとは対照的に、動物は意識などもたず、外部からの刺激に対してただ本能的に反応しているのを、人間が感情移入して見るから、意識があるように感じるだけだという主張だ。

 谷口 雅宣

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2011年9月22日 (木)

動物の心について (1)

「疲労は回復したな……」
 と思いながら、私はゆっくりとソファーに腰かけ、すぐ前にある低いテーブル上に両脚を投げ出して、天井を見上げる。正面の壁から天井にかけて一面に横張りされた木材は、十年経過して落ち着いた飴色に変じ、目にやさしい。左手の広いガラス戸からは、晩夏の森を通り抜けて朝日が差し込んでいる。
 
 前日の夕方に東京を車で出発し、約2時間運転して山梨の北杜市に入り、夕食後に山荘に着いた。9月半ばというのに、東京は32℃から33℃の猛暑日が続いていたので、体の奥に疲労がたまっていた。私は熱中症というのを経験したことがなかったから、暑さには負けないと思っていた。が、前々日に涼しい北海道の出張から帰ったばかりで、暑さをひときわ感じていた。前日は朝から下痢をして調子が悪く、「もしかしたら……」と疑っていた。昼間執務していても疲れを感じ、体を動かすのがおっくうだった。
 
 そんな経緯があったので、山荘に着いて数日滞在分の荷物を車から運び込み、ひと息入れたあとは、すぐに布団の上に横になった。疲労回復のためには睡眠がいちばんと思ったからだ。あとから妻に聞いた話では、午後9時ごろには、私はすでに寝息を立てていたという。
 
 夜中に2回目を覚ました。最初は時計を見なかったので正確な時刻はわからないが、妻がまだ起きていて風呂に入っていたから、午後11時前後のはずだ。2回目は時計を見たら午前3時半すぎだった。喉がかわいていたので、コップ1杯半ぐらい水を飲んだ。そして次に起きたのが朝の5時半ごろで、もう眠くなかった。都合、8時間ほど眠ったからスッキリした気分で、体力も充実していた。
 
 そんな私がソファーに体を委ねて天井を見上げていた時、視界の左隅に小動物の影が映った。驚いてそれを見ると、白と黒の模様のネコがガラス戸近くまで来て、部屋の中を覗き込んだのだ。私と目が合い、あわてて身を翻した。私は体を起こして前のめりの姿勢になり、ガラス戸から外を見て、ネコの姿を探した。するとネコは、私から遠ざかりながら、一度半身の姿勢で振り返り、林の中に姿を消していった。
 
 標高1200メートルの高地にあるこの山荘付近で、ネコを見かけたのは初めてだった。だから少し驚いた。それに、白と黒の模様のネコは東京の自宅の庭にやってくるネコと、大きさも外見もよく似ていたから、「まさか!」という意外性も手伝った。この周辺で見かける動物は、野鳥と昆虫以外では、シカ、ノウサギ、トカゲ、ヘビ、キツネ、リスなどの野生動物だったから、ネコと会うなど予想外だった。しかし考えてみれば、山荘から歩いていける範囲内には定住者の家もあるのだから、そこでネコを飼っていれば、私の山荘までそれが歩いて来られないわけではなかった。が、そのためには、起伏の大きい山道を1キロほど歩かねばならないはずだった。だから、そのネコを見たとたん、私は「野生化したネコか?」と思ったのだ。しかし、“野生のネコ”などというものは日本では動物園か沖縄ぐらいにしかいないはずだから、どう考えればいいか分からなくなった。
 
 この疑問は、まもなく解けることになる。というのは、その後数時間して、私たちが山荘から下の町へ車で用足しに降りていった際、山荘から最も近い定住者の家の前で、黒と白の模様のネコが尻を上げてじっとしている姿を見たからだ。車が近づいていっても、動こうとしない。だから、至近距離までネコに近づき、それが大便をしている最中であることを知った。気まずい表情をして、「困った」というような目がこちらを見ていた。そのネコが、山荘で見合ったネコと同一であるかどうか100%の保証はできない。しかし、ネコの外観と表情、それに周囲の状況から考えて、別のネコである確率はほとんどゼロと言えるだろう。
 
 このネコと目を合わせて、私は何か「懐かしさ」のようなものを感じたのだ。それは、久しぶりに友人に会った時--と言えば誇張になるが、すでに知っている“何か”と心を通わせた時の懐かしさである。この感覚が一種の“短絡”であることは、自分でも分かっていた。それは、東京の庭に来るクロシロと外見が似ているという事実がもたらした短絡である。これは、人間の心理の自然な動きだ。我々は、外見がよく似た2つの物を、時間的あるいは空間的に離れて見た場合、同じ物が“移動した”と感じるようにできている。これは、簡単に実験で確認することができるし、映画やテレビの中で人や物が移動するように見えるのは、この錯覚にもとづくものだから、誰もが毎日経験していることだ。

 しかし、たとえ東京のネコと、そこから160キロ離れた山梨県の高地で会ったネコが無関係であったとしても、2つの地点でネコと人間とが互いに興味を示し合ったという事実は、偶然ではない。この2つの生き物は、過去何千年、いや何万年もの間、この種の相互関係を結びながら進化してきたはずだからだ。
 
 同じことは、もちろんイヌにも言える。また、ヒツジ、ヤギ、ウシ、ウマなどの家畜についても、ある程度言えるだろう。“彼ら”は、永年にわたって人間と生活圏をともにしてきたからだ。では、そういう“先祖の記憶”を遺伝子中にもたないはずの野生動物と人間との関係はどうなのだろう。これについては、私が最近見たテレビ番組で、ガラパゴス諸島に棲むゾウガメやイグアナは、人間を知らないため、人間が近づいても全く警戒しないと言っていたのを思い出す。しかし、「警戒しない」ことと「興味を示す」こととは違う。前者には人間に対する意欲や意志が欠けているが、後者にはある。山荘のガラス戸まで歩いてきたネコは、明らかに後者の例である。
 
 こういう見方に対して、野生動物も人間に興味を抱くものだという意見もある。日本では珍しい女流キノコ画家である小林路子氏は、キノコのスケッチのために全国の山々を歩いていて、野生動物と接する機会も多い。その小林氏が北海道の阿寒湖でキタキツネに遭遇した時のことを、こう書いている--
 
「私は川に沿って養魚池のほうへ歩いて行った。養魚池は川の水を引き込んで作ってある。水は、池から別の小さな流れとなって番小屋の裏手を流れ、湖に注いでいた。養魚池には、幻の魚・イトウが飼われているという。(中略)
 それから、ケヤマハンノキの実がたくさん落ちている岸辺に行って川の流れを見た。ふと、顔を上げると向こう岸にキタキツネがいた。私達の目が合った。5メートルも離れていない。キタキツネには何度か出会ったが、こんな近くは初めてだ。ほんらい野生動物は、人間が驚かさないかぎり好奇心満々なものである。絵を描いているとリスが出てきて、後足で立って伸びるだけ首を伸ばし、私を観察していたこともある。
 考えてみれば、この世に人間ほど不可思議な行動をする動物はいない。彼らが、人間達の怪しい振る舞いに疑惑と好奇心を抱くのは当然なのである。キタキツネは身じろぎもせずこっちを見ていたが、私がほんの少し目をそらした隙に、かき消えるように姿を隠した。」(小林路子著『森のきのこ採り』白日社、2003年、p.26)

 谷口 雅宣

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2011年9月18日 (日)

はじめの一歩

 読者の皆さんには永年、私のブログ「小閑雑感」をご愛顧いただきありがとうございます。そのブログの2011年9月14日に書いたように、何事も“十年一日”ではいけないと思い、このほど新ブログ「唐松模様」を始めた。新ブログは従前のブログのようには頻繁に更新できないが、内容の濃いものにしたいと思っている。「スローライフ」という言葉があるが、それと同じように、何事もガムシャラにやる時代というのは終わりつつある……いや、終わらせねばならないと考えているので、「スローブログ」というのもあっていいと思うのだ。
 
Ichimatsu_2   さて、このブログの名前だが、もちろん造語である。「唐草模様」とか「市松模様」というのはあるが、唐松模様という言葉はない。だから、自分で作ってしまおうというわけだ。
 
 カラマツにこだわっている理由を書こう。
 
Karakusa  カラマツは「唐松」のほか「落葉松」とも書かれるように、常緑樹が多いマツ科の高木の中では珍しく、黄葉し、落葉する。標高1000~2800mの高地の日当たりのいい土地に生え、まっすぐ天に向かって伸び、高さは30mに達する。本欄のタイトルバックの写真に、晩秋の候のカラマツが写っている。私の山荘がある八ヶ岳南麓で撮ったもので、黄葉が見事だ。これが落葉すると、道路一面が黄褐色に彩られる。それを手ですくって鼻を寄せると、気分が一新するような爽やかな芳香がする。
 
 「唐松」という表記は、江戸末期の植木屋が、この木の新葉の形が唐絵の松に似ているというので使った、という説がある。つまり、「中国から来た松」という意味ではないようだ。英語でも「Japanese larch」というので、日本原産ではないかと想像する。「larch」はカラマツ属全体の呼称で、海外では北半球の亜熱帯に10種あまり分布するほか、ヨーロッパカラマツ、シベリアカラマツ、ダフリアカラマツ、アメリカカラマツなどがある。中国にも、イヌカラマツという近種がある。
 
 ということで、私はこれからカラマツの話ばかり書くのかというと、そのつもりはない。カラマツは戦後、焼け野が原になった首都圏一帯の復興を期して、周囲の山々に大量に植えられた。また、北海道では人工林面積の4割強を占めるという。特に、長野・山梨両県とこれを取り巻く高地には数が多く、今やそれが育って伐採期に入っている。しかし、林業が衰退して間伐が行われてこなかったため、ヒョロヒョロと高い木ばかりが山々を埋めていて、強風で倒れたり、密集して日光を遮るため、森を荒らす大きな原因になっている。もちろん、カラマツが悪いのではない。それを植えたまま“心変わり”をし、放置している人間の側に責任がある。
 
 カラマツは、日差しの強い荒れ地でもよく発芽して伸びる陽樹であり、耐寒性もある。成長が速く、体内に油分が多いため、水の浸透にも強い。だから、戦後植林した当初は、坑木、土木・建築材のほか、町々に必要な電柱や、鉄道の枕木用として使うことが考えられていた。ところがご存じのように、コンクリートの発明で電柱と枕木用の需要が減った。また、国際貿易の発達で安価な外材が大量に輸入されるようになり、国内での出番が大幅に減ってしまった。戦後の復興を支えてくれた優秀な樹木が、今や“お荷物”となっているのである。これを間伐して何とか利用し、森を整備して空気を入れることで広葉樹を育て、森林のCO2吸収率を上げ、さらには山を土砂崩れから守ることが必要になっている。
 
 生長の家の“森の中のオフィス”は木造2階建ての大型建物が7~8棟並ぶ。これの外壁にはカラマツ材を大量に使うことになっている。また、木材チップを燃やすバイオマス発電の利用も決まっており、このチップにはカラマツも多く使われるはずだ。こうしてカラマツの現状や今後の行方を追っていくと、生長の家の“森の中”の活動との接点が多くあることが分かるだろう。この「唐松模様」では、そういう自然と人間との関係を考え、さらには私たちの“森の中”での活動模様、生活模様、人生模様も取り上げていくブログにしていこうと思う。
 
 谷口 雅宣

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