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2011年9月26日 (月)

動物の心について (2)

 私は、この小林氏の体験と似たような状況に置かれたことがある。それは、日暮れ時に大泉町の山荘にもどるため、八ヶ岳南麓の斜面の舗装道路を車で下っていた時だ。片道一車線の道路から、車の速度を緩めて舗装のない砂利道へ入り、10メートルほど進んだところで一匹のキツネの姿を見た。路地の端の草むらで頭部を上げ、両耳を立ててこちらを見ている。私たちが走ってきた舗装道路は、大泉町周辺の人々が生活道路として使っているから、結構交通量がある。そこからほんの十数メートルの地点で野生動物に遭うことなど珍しかった。だから、私は車の速度をさらに下げてキツネに近づいた。キツネはこちらを見ながら後ずさりし、やがて危険を感じたのか体を大きく翻して数メートル離れ、そこで再びこちらを見てから林の中へ消えていった。
 
 この時のキツネの行動から、私は“彼”が人間に対して「疑惑と好奇心」を抱いていたかどうかを判断することはできない。10秒にも満たないほんの短い時間の出来事だったからだ。小林氏の文章を読むと、キツネとの邂逅の時間はもっと長かったと想像できる。しかし、5メートルの距離をおいて見つめ合った相手の心に「好奇心」があったかどうかを判断するのは、人間の場合でも簡単ではないだろう。
 
 装幀家で随筆家でもある荒川じんぺい氏は、私たちの山荘がある大泉町から遠くない小淵沢に永年住んでいて、釣りやキノコ採りなどで森の中をよく歩いてきた。その荒川氏は、ある冬の深夜、自宅裏の雪の積もった草原でキツネが「ケーン」と鳴く音を聞き、カメラを持って外へ飛び出した時のことを書いている。鳴き声の方向に歩いていくと、夫婦とおぼしき2匹のキツネが雪原の縁でじゃれ合っていたという。風向きが幸いして、荒川氏はキツネに気づかれずに150メートルほどの距離まで接近することができたという。そして、不思議な光景を目撃するのである。
 
 「夫婦ギツネなのだろうか、横に逃げ前に進み飛び上がり、じゃれて咬(かみ)合っている。月光に体毛が光り、絹の衣装を纏っているようである。初めて見るじゃれ合うキツネの生態に、僕は感動し寒気など感じなくなっていた。それは、アイスアリーナで舞うスケーターの演技を見ているような錯覚さえ感じていた。
 ときどき円を描くように逃げ追い回り、僕との距離も縮まる。僕は気付かれまいと、ますます身を屈める。そんな演技を見ているうち少しずつ円が僕の方へ寄って来て見つかってしまった。
 逃げ回っていたキツネは、僕に気付くと前足を踏んばり一回転して止まった。目はピンク色に染まり、真ん丸に輝いていた。僕と顔が合った瞬間、雪原の真ん中に向かって駆け出していた。二百メートル程離れると、振り向き僕を見ている。
 安全圏に入ったとでも感じているのか、今度は僕が見られる番になった。手を振り口笛を鳴らし、おいでおいでをするしか思い付かなかった。2匹のキツネはしばらく立ち止まって僕を見ていた。」(荒川じんぺい著『週末は森に棲んで』1994年、講談社、p.107~108)
 
 このあと荒川氏はカメラのストロボを何回も焚いたので、キツネたちは逃げていってしまう。だから“彼ら”が好奇心をもっていたのか、それとも単に警戒していたのかは読者が想像するほかはない。荒川氏もキツネの“内心”の想いについて何も書いていないのである。
 
 野生のキツネと人間との不意の出逢いについて3例を示したが、どの場合もキツネの行動に大きな違いはないような気がする。キツネは人間の動きに注目し、目を合わせても逸らさない。しかし、人間との距離が縮まると、あるいは人間が目を逸らすと、身を翻して距離をとり、そこで再び人間の方を見る--この行動だけを考えれば、それが「好奇心」を示しているのか「警戒心」なのかは分からないのではないか。例えば、昆虫のゴキブリは、人間に見つかると一瞬体の動きをピタリと止める。そして人間がアクションを起こすと素早い動作で身を隠そうとする。この「静止」の行動を好奇心の表れだと解釈することは難しい。では、ゴキブリが人間の近くに現れることは好奇心からか? そうではあるまい。食事にありつこうとするごく自然の欲求が背後にあることは明らかだ。キツネに好奇心があるように感じられるのは、ゴキブリと違って人間と同じ哺乳動物であることから、耳を2つもち、目と鼻のつき具合が人間と似ており、さらに首を回して後方を向くことができるからではないか。つまり、外見や体の構造が人間に近いものを、我々は自己同一化して見るのである。そういう可能性は否定しきれないと思う。

 動物に人間と似たような「心」や「意識」があるかどうかの検証は、科学的には大変難しい問題であるようだ。だいたい人間のもつ意識でさえ、それが何であるかという確かな定義も、それを客観的に測定する方法もまだ見つかっていない。ましてや、動物に意識があるとしたらそれがどんなものであり、人間のそれとどう違うか、あるいはどう似ているかなど、今の科学では検証不能なのである。となると、動物の意識については、勢い2つの正反対の考え方が主張されながら、平行線をたどることになる。1つは、動物好きの人々が直感的にとらえているように、動物にも人間とそう変わらない意識があり、心があるとする主張である。もう一つは、それとは対照的に、動物は意識などもたず、外部からの刺激に対してただ本能的に反応しているのを、人間が感情移入して見るから、意識があるように感じるだけだという主張だ。

 谷口 雅宣

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コメント

ミラーニュウロンという鏡のような働きをする脳のことについて先生はかいてくださった事がありますが、動物にもあるのでしょうか?動物にもあるとしたら、人間のような感情でなくても、感情というか心があるような気がしますが?

小澤 拝

投稿: 小澤悦子 | 2011年9月26日 (月) 21時59分

小澤さん、

 いい着眼点ですね。ミラーニューロンは、私の記憶ではマカク属のサル(ニホンザルも含む)の脳には存在するようです。だから、少なくともサルには“心”があると考えていいのではないでしょうか?

投稿: 谷口 | 2011年9月26日 (月) 23時14分

総裁谷口雅宣先生
 有難うございます。 科学的見地から様々な学びがで き感動です。機関誌にも載せていただきましたが、ミ ラー二ュロン細胞、"森の中へ行く" empathy等でブ ログを立ち上げて 僅かな文章ですが やっています。          

投稿: 稲田姫 | 2011年9月29日 (木) 11時03分

合掌ありがとうございます。久しぶりにブログを覗いてみてびっくりしました。“森の中のオフィス”が出来る八ヶ岳の山麓の環境が私の実家とよく似ている事が分かり親しみが持てました。狐の事を取り上げておられますが、いろんな野生動物がいてこのブログにも登場するのではないかと期待しています。私の実家が有ります岐阜県揖斐川町という所は野生動物の種類が豊富な地域として有名です。狐は勿論、狸・鹿・猿・猪・オオタカ等様々な野生動物の宝庫だと聞いています。最近、オオサンショウウオも発見されたと聞いています。人間が環境破壊しない限り住みかが失われる事はないと思います。徳山ダムの建設によってオオタカの営巣地が失われるという危機もありましたが、最近になって雛が確認されていてホッとしました。このブログで環境問題の勉強も出来たらと思います。再拝

投稿: 横山啓子 | 2011年10月 4日 (火) 15時08分

横山さん、
 野生動物との出逢いというのは、何かドキドキするものがありますね。“彼ら”に心があるか? という問題は、動物保護の問題とも深く関わっています。貴女の経験で参考になることがあれば、機会をみて教えてください。

投稿: 谷口 | 2011年10月 4日 (火) 16時32分

「意馬心猿」という言葉もありますね。

投稿: 田原健一 | 2011年10月 4日 (火) 21時08分

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