« はじめの一歩 | トップページ | 動物の心について (2) »

2011年9月22日 (木)

動物の心について (1)

「疲労は回復したな……」
 と思いながら、私はゆっくりとソファーに腰かけ、すぐ前にある低いテーブル上に両脚を投げ出して、天井を見上げる。正面の壁から天井にかけて一面に横張りされた木材は、十年経過して落ち着いた飴色に変じ、目にやさしい。左手の広いガラス戸からは、晩夏の森を通り抜けて朝日が差し込んでいる。
 
 前日の夕方に東京を車で出発し、約2時間運転して山梨の北杜市に入り、夕食後に山荘に着いた。9月半ばというのに、東京は32℃から33℃の猛暑日が続いていたので、体の奥に疲労がたまっていた。私は熱中症というのを経験したことがなかったから、暑さには負けないと思っていた。が、前々日に涼しい北海道の出張から帰ったばかりで、暑さをひときわ感じていた。前日は朝から下痢をして調子が悪く、「もしかしたら……」と疑っていた。昼間執務していても疲れを感じ、体を動かすのがおっくうだった。
 
 そんな経緯があったので、山荘に着いて数日滞在分の荷物を車から運び込み、ひと息入れたあとは、すぐに布団の上に横になった。疲労回復のためには睡眠がいちばんと思ったからだ。あとから妻に聞いた話では、午後9時ごろには、私はすでに寝息を立てていたという。
 
 夜中に2回目を覚ました。最初は時計を見なかったので正確な時刻はわからないが、妻がまだ起きていて風呂に入っていたから、午後11時前後のはずだ。2回目は時計を見たら午前3時半すぎだった。喉がかわいていたので、コップ1杯半ぐらい水を飲んだ。そして次に起きたのが朝の5時半ごろで、もう眠くなかった。都合、8時間ほど眠ったからスッキリした気分で、体力も充実していた。
 
 そんな私がソファーに体を委ねて天井を見上げていた時、視界の左隅に小動物の影が映った。驚いてそれを見ると、白と黒の模様のネコがガラス戸近くまで来て、部屋の中を覗き込んだのだ。私と目が合い、あわてて身を翻した。私は体を起こして前のめりの姿勢になり、ガラス戸から外を見て、ネコの姿を探した。するとネコは、私から遠ざかりながら、一度半身の姿勢で振り返り、林の中に姿を消していった。
 
 標高1200メートルの高地にあるこの山荘付近で、ネコを見かけたのは初めてだった。だから少し驚いた。それに、白と黒の模様のネコは東京の自宅の庭にやってくるネコと、大きさも外見もよく似ていたから、「まさか!」という意外性も手伝った。この周辺で見かける動物は、野鳥と昆虫以外では、シカ、ノウサギ、トカゲ、ヘビ、キツネ、リスなどの野生動物だったから、ネコと会うなど予想外だった。しかし考えてみれば、山荘から歩いていける範囲内には定住者の家もあるのだから、そこでネコを飼っていれば、私の山荘までそれが歩いて来られないわけではなかった。が、そのためには、起伏の大きい山道を1キロほど歩かねばならないはずだった。だから、そのネコを見たとたん、私は「野生化したネコか?」と思ったのだ。しかし、“野生のネコ”などというものは日本では動物園か沖縄ぐらいにしかいないはずだから、どう考えればいいか分からなくなった。
 
 この疑問は、まもなく解けることになる。というのは、その後数時間して、私たちが山荘から下の町へ車で用足しに降りていった際、山荘から最も近い定住者の家の前で、黒と白の模様のネコが尻を上げてじっとしている姿を見たからだ。車が近づいていっても、動こうとしない。だから、至近距離までネコに近づき、それが大便をしている最中であることを知った。気まずい表情をして、「困った」というような目がこちらを見ていた。そのネコが、山荘で見合ったネコと同一であるかどうか100%の保証はできない。しかし、ネコの外観と表情、それに周囲の状況から考えて、別のネコである確率はほとんどゼロと言えるだろう。
 
 このネコと目を合わせて、私は何か「懐かしさ」のようなものを感じたのだ。それは、久しぶりに友人に会った時--と言えば誇張になるが、すでに知っている“何か”と心を通わせた時の懐かしさである。この感覚が一種の“短絡”であることは、自分でも分かっていた。それは、東京の庭に来るクロシロと外見が似ているという事実がもたらした短絡である。これは、人間の心理の自然な動きだ。我々は、外見がよく似た2つの物を、時間的あるいは空間的に離れて見た場合、同じ物が“移動した”と感じるようにできている。これは、簡単に実験で確認することができるし、映画やテレビの中で人や物が移動するように見えるのは、この錯覚にもとづくものだから、誰もが毎日経験していることだ。

 しかし、たとえ東京のネコと、そこから160キロ離れた山梨県の高地で会ったネコが無関係であったとしても、2つの地点でネコと人間とが互いに興味を示し合ったという事実は、偶然ではない。この2つの生き物は、過去何千年、いや何万年もの間、この種の相互関係を結びながら進化してきたはずだからだ。
 
 同じことは、もちろんイヌにも言える。また、ヒツジ、ヤギ、ウシ、ウマなどの家畜についても、ある程度言えるだろう。“彼ら”は、永年にわたって人間と生活圏をともにしてきたからだ。では、そういう“先祖の記憶”を遺伝子中にもたないはずの野生動物と人間との関係はどうなのだろう。これについては、私が最近見たテレビ番組で、ガラパゴス諸島に棲むゾウガメやイグアナは、人間を知らないため、人間が近づいても全く警戒しないと言っていたのを思い出す。しかし、「警戒しない」ことと「興味を示す」こととは違う。前者には人間に対する意欲や意志が欠けているが、後者にはある。山荘のガラス戸まで歩いてきたネコは、明らかに後者の例である。
 
 こういう見方に対して、野生動物も人間に興味を抱くものだという意見もある。日本では珍しい女流キノコ画家である小林路子氏は、キノコのスケッチのために全国の山々を歩いていて、野生動物と接する機会も多い。その小林氏が北海道の阿寒湖でキタキツネに遭遇した時のことを、こう書いている--
 
「私は川に沿って養魚池のほうへ歩いて行った。養魚池は川の水を引き込んで作ってある。水は、池から別の小さな流れとなって番小屋の裏手を流れ、湖に注いでいた。養魚池には、幻の魚・イトウが飼われているという。(中略)
 それから、ケヤマハンノキの実がたくさん落ちている岸辺に行って川の流れを見た。ふと、顔を上げると向こう岸にキタキツネがいた。私達の目が合った。5メートルも離れていない。キタキツネには何度か出会ったが、こんな近くは初めてだ。ほんらい野生動物は、人間が驚かさないかぎり好奇心満々なものである。絵を描いているとリスが出てきて、後足で立って伸びるだけ首を伸ばし、私を観察していたこともある。
 考えてみれば、この世に人間ほど不可思議な行動をする動物はいない。彼らが、人間達の怪しい振る舞いに疑惑と好奇心を抱くのは当然なのである。キタキツネは身じろぎもせずこっちを見ていたが、私がほんの少し目をそらした隙に、かき消えるように姿を隠した。」(小林路子著『森のきのこ採り』白日社、2003年、p.26)

 谷口 雅宣

|

« はじめの一歩 | トップページ | 動物の心について (2) »

旅行・地域」カテゴリの記事

認知科学・心理学」カテゴリの記事

生物学」カテゴリの記事

自然と人間」カテゴリの記事

コメント

この記事へのコメントは終了しました。