2012年5月26日 (土)

観世音菩薩について (10)

 ここ数年にわたり、私は幹部研鑽会で人間の左右の脳の機能の違い、また現在意識と潜在意識の違いなどを、都会と自然での生活と関連させて話してきたのだった。その一覧を図にまとめたものを、ここに掲げよう。
 
Summary0_2  読者はこれを見ればお分かりと思うが、私は人間に備わる左脳と右脳の機能のどちらかを「価値なし」として否定しているのではない。人間の左右の脳は、正常な発達の結果として形成されるものだから、それらの一方を否定したり、使用を禁止したりできるものではない。私が問題視しているのは、本来2つあるものの一方だけに偏重した生き方なのである。これと同じように、私はまた都会生活を全面的に否定して、「自然に帰れ」と言っているのでもない。そうではなく、人間のごく自然な欲求として、この表の「自然」の欄に掲げたような心の傾向や、ものの見方が実際に我々の一部として存在しているのであり、我々の先祖は、それらを用いた生き方を何千年、何万年もの間、営々と行ってきたという事実をないがしろにすべきではないということである。
 
 別の言い方をすれば、この表の「都会」の欄に書いた考え方、生き方、環境との関係、エネルギー消費のあり方などは、人間存在の半分しかカバーしておらず、それをいかに大量に手に入れ、あるいはマスターしたとしても、人間に幸福などもたらされないということだ。
 
 私は休日に渋谷や新宿の駅周辺に行くことがあるが、最近とみに感じるのは、駅で出会う人々のほとんどが携帯電話やスマートフォンを見つめている光景の異様さである。私の休日は木曜日であるから、普通の人たちにとっては平日である。そんな日には、渋谷や新宿の駅周辺は人で溢れているが、人々は手元の小さな画面に見入っていて静かである。その中の多くの人たちは耳にイヤフォンも挿しているから、たぶん自分だけで音楽を聴いているのだろう。こうして周囲から自分を切り離し、周りの景色や人々に注意を払うことなく、自分の選んだ情報や映像の中に沈潜しているのである。そして、その姿勢のまま、立ったり歩いたりする。だから、こちらが注意を払っていないと、歩いてくる人に正面からぶつかったり、前を歩く人が突然立ち止まって衝突する恐れがある。

 これが都会の人々の“普通”の姿なのだ。前表の「都会」の欄に掲げたすべての項目が、駅の一場面に見事に収まっている。つまり、人々は左脳でデジタルに考え、排他的な行動をとり、自分と他人との違い(非対称性)を主張し、効率優先で環境と遊離した疑似空間の中を泳いでいる。電力使用量はもちろん多い。こういう生き方が人間にとって幸せでないことは、人々の不安な表情と虚ろな目、時々見せる神経質な動作を見ればよく分かる。皆、落ち着きがなく、何かに取り憑かれたように手元の四角い画面に見入り、それによって自分と外界とを隔離しようとしている。自分が選んで来た都会の何がそんなに怖いのか、何がそんなに嫌なのか……と私は思う。もちろん、この都会生活の一コマに、人々の心のすべてが表れているわけではない。同じ環境にいても、もっと心豊かな生活をしている人もいるに違いない。いや、きっといる。が、ここに描写したような方向に人々が進んでいくことは誤りだ、と私は考えるのである。
 
 最近、渋谷の東京メトロ副都心線渋谷駅で中年男性がナイフで切りつけられ、重傷を負ったが、容疑者として逮捕された32歳のアルバイト男性は、警察の調べに対し、「相手を追い抜く時にひじがぶつかったが、その後、相手が追い抜きざまに自分にぶつかってきたので、頭にきた」と供述しているという。(5月25日『朝日新聞』)人がひしめき合う狭い空間で、都会の人々は追い抜いたり、追いついたり、ぶつかったりしながら、相互に競い殺気立っている。このような都会の排他性、効率至上主義、他より先んじようとする競争の文化は“過剰”と言わずに、何と言うべきか。

 私は、この過剰な都会文化をもっと薄め、自然が提供してくれる包容的、協調的な視点からより深く学び、自他の境界を減らし、潜在意識の豊かな流れからアイディアを得つつ、五感が受け取る自然界の情報を活用して環境と密着した生き方をするような道を、今後の人類は確保し、かつ広げていくべきだと考えるのである。そういう意味で、今回の渋谷の不幸な事件も、その他もろもろの都会生活の問題も“反面菩薩”の説法として謙虚に聴くべきだと思うのである。

 谷口 雅宣

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2012年5月25日 (金)

観世音菩薩について (9)

 5月初めの幹部研鑽会において、私は脳卒中で「左脳」の一部が機能しなくなった脳科学者の体験について紹介した。その目的は、我々誰もがもつ「右脳」の働きが、宗教上の体験や“悟り”と呼ばれる感覚や洞察と関係があることを示すためだった。それはまた、左脳優位になっている我々の日常生活の問題点とともに、左脳の重要性を再認識してもらうためでもあった。

 この脳科学者とは、アメリカのインディアナ医科大学の神経解剖学者、ジル・ボルト・テイラー博士(Jill Bolte Taylor, Ph.D.)である。彼女は、ハーバード大学の医学校で権威あるマイセル賞という、優れた研究に授与される賞を取った1996年、30代半ばの若さで脳卒中に襲われたのだった。左脳の側頭部の出血により、自分の意識が変容していく様子を、『奇跡の脳』という本で克明に描写している。その中に、こんな箇所がある--

「出血中の血液が左脳の正常な機能を妨げたので、知覚は分類されず、細かいことにこだわることもなくなりました。左脳がこれまで支配していた神経線維の機能が停止したので、右脳は左脳の支配から解放されています。知覚は自由になり、意識は、右脳の静けさを表現できるように変わっていきました。解放感と変容する感じに包まれて、意識の中心はシータ村にいるかのようです。仏教となら、涅槃(ニルヴァーナ)の境地に入ったと言うでしょう。
 左脳の分析的な判断力がなくなっていますから、わたしは穏やかで、守られている感じで、祝福されて、幸せで、そして全知であるかのような感覚の虜(とりこ)になっていました。わたしの一部は、痛みでズキズキしている肉体の束縛から完全に解放されたがっています。ですが、そんな絶え間のない誘惑のさなかでも、自分自身を救うための方法を探し続けていました。右脳の誘惑に屈しなかったことが、最終的にわたしの命を救ったのでした。」(同書、pp.40-41)
 
 テイラー博士は、この本の各所で、このほかにも左脳の損傷によって意識の前面に現れた“右脳による世界認識”の様子を描いていて、それらは宗教的なイメージに満ちているのだ。その部分を抜粋しよう--
 
「肉体の境界の知覚はもう、皮膚が空気に触れるところで終わらなくなっていました。魔法の壺から解放された、アラビアの精霊になった感じ。大きな鯨が静かな幸福感で一杯の海を泳いでいくかのように、魂のエネルギーが流れているように思えたのです。」(p.70)

「瞬間、瞬間は泡のように消えるものではなくなり、端っこのないものになったのです。ですから、何事も、そんなに急いでする必要はないと感じるようになりました。波打ち際を散歩するように、あるいは、ただ美しい自然のなかをぶらついているように、左の脳の“やる”意識から右の脳の“いる”意識へと変わっていったのです。小さく孤立した感じから、大きく拡がる感じのものへとわたしの意識は変身しました。」(p.72)

「左脳は自分自身を、他から分離された固体として認知するように訓練されています。今ではその堅苦しい回路から解放され、わたしの右脳は永遠の流れへの結びつきを楽しんでいました。もう孤独ではなく、淋しくもない。魂は宇宙と同じように大きく、そして無限の海のなかで歓喜に心を躍らせていました。」(p.73)

 テイラー博士は8年間のリハビリの後に、左脳の損傷から完全に回復した。そして、この時の体験から「深い心の平和というものは、いつでも、誰でもつかむことができるという知恵をわたしは授か」ったと書いている。そして自分が得た新たな発見を、次のような言葉に凝縮している--
 
「頭の中でほんの一歩踏み出せば、そこには心の平和がある。そこに近づくためには、いつも人を支配している左脳の声を黙らせるだけでいい」。(p.132)

 ここに「左脳の声を黙らせる」と書いてあるが、これは左脳の機能を否定しているのではない。その証拠に、テイラー博士は8年を費やして左脳の回復に努力したのである。これは多分、「左脳の機能は必要だが、それに振り回され、支配されるな」ということだ。左脳は、物事を細分化して部分に注目し、全体の把握を怠る。自分や世界が「そのまま」では満足せず、「何かをする」ことに意欲を燃やす。自分と他人、自分と社会を分離し、自己拡張を図る。そういう生き方だけでは、人間は決して満足できないことを、この本は雄弁に語っている。私はここに、第一級の“観世音菩薩の教え”を見出すのである。
 
 谷口 雅宣

【参考文献】
○ジル・ボルト・テイラー著/竹内薫訳『奇跡の脳』(新潮社、2009年)

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2012年5月21日 (月)

観世音菩薩について (8)

 話が本シリーズの主題から少し逸れてしまった。いま解明すべきことは、我々の心の中の“良心の囁き”が、なぜ「神」や「観世音菩薩」の概念と結びつくかという問題だった。4月12日の本欄で、生まれてまもない赤ちゃんが、命のない物体と、生命をもった「行為の主体者」とを見分ける能力を獲得し、前者よりも後者に注目することを書いた。しかし、その理由について、あまり詳しく説明しなかった。が、その理由は、たぶん母親と赤ちゃんの関係を思い起こしてみることで理解できるのではないだろうか。

 自ら立って歩けず、言葉も話せない段階の赤ちゃんが生き延びるためには、母親とのコミュニケーションが最も大切だ。赤ちゃんは最初、泣くことしかできない。泣くと母親がやってきて、抱き上げてくれたり、おっぱいをくれたり、オムツを替えてくれる。それだけでなく、話しかけたり、笑いかけたり、ガラガラをくれたり、頭をなでてくれたり……と、赤ちゃんを優しく包んでくれる。母親は事実上、赤ちゃんが望むことをすべて与えてくれるのだ。だから赤ちゃんにとって、「母」とは無限能力をもった“行為の主体者”--恐らく「神」に等しい存在なのである。それに比べて、自分の手が届かない位置にあるガラガラや哺乳ビンは、いくら泣いても、呼びかけても、赤ちゃんの手元にはやって来ない。また、汚れて居心地の悪いオムツも、泣いても叫んでも尻から外れずにベタベタと貼りついたままだ。
 
 そういう経験を積んでいくうちに、赤ちゃんは、自分の周りの世界には大別して、行為の主体者と、行為の客体(物)という2種類のものがあるという認識に達するのだ。もちろん赤ちゃんはまだ言葉を知らないから、頭の中でこんな難しい言葉を使って考えるわけではない。言葉を使わずに「世界には原因と結果がある」ということを直観するのだ。すなわち、この世界では「行為の主体者」が原因として存在する一方で、客体である「物」や、物が組み合わさった「状態」や「条件」などが、行為の結果として変化する--これを言わば世界の“大原則”として理解する。そうすると、赤ちゃんは次に、自分が好む物や、状態、あるいは条件を得たい場合には、その原因となる「主体者」に呼びかければいいという理解に達するのだ。
 
 もっと具体的に言おう。例えば、テーブルの上のオハジキがあり、それがほしくても手が届かないとき、赤ちゃんは母親の手をつかみ、それを使ってオハジキをかき寄せる必要はない。言葉を知らなくても「オハジキを取ってほしい」という意味のサインを送れば、母親はきっとそれに気がついて赤ちゃんの希望どおりにしてくれる。赤ちゃんはそのことを知り、生後3カ月ごろには、人が目の前にいるときは笑いかけたり、小声を出したりして、相手に盛んに働きかけるようになるという。では、人が目の前にいない場合はどうだろう。赤ちゃんと母親の関係では、母親は赤ちゃんから姿が見えなくても、赤ちゃんがしばらく泣けば、大抵の場合、跳んできて希望をかなえてくれるだろう。赤ちゃんはそういう経験を積むことで、たとえ“行為の主体者”が自分の目に見えなくても、必ずどこかに存在するという理解に達するようである。
 
 こうして赤ちゃんは、母親との密接な関係を確立したころには、母親の行動を通して、この世の“大元の主体者”--神や仏ーーの存在を前提にした世界観を形づくる。あとは、やがて成長してから自分の中に生じる“良心の囁き”と“大元の主体者”の存在の感覚が重なり合えばいいわけで、その過程はさほど難しいとは思えないのである。

 谷口 雅宣

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2012年5月17日 (木)

観世音菩薩について (7)

 4月19日の本欄では明確に書かなかったが、ジャスティン・バーレット氏が指摘した“自然宗教”の信仰内容7カ条は、生長の家が説く真理と同一ではない。具体的に言えば、第3項と第5項は生長の家の教えとは明らかに違うし、第2項、第4項、第6項も厳密に考えると「全く同一」とは言えない。私が先に自然宗教の概念について「万教帰一の考え方を支持する知見」だと言ったのは、この7カ条が人類普遍の救いの原理そのものだという意味ではなく、歴史上、世界各地に宗教を生み出してきた原理(原因)は人類に共通しているという意味である。別の言い方をすれば、宗教が生み出されてきたことには人類学的な共通原因があるということだ。この点は重要なので、読者は誤解しないでほしい。

 自然宗教の信仰7カ条が人類普遍の救いの原理だということになると、奇妙な結論になる。なぜなら、それら7カ条は子供が普通に、それこそ“自然に”獲得する信仰だから、地球上の子供はほとんどすべて、人生のスタート時点ですでに“救われずみ”ということになるだろう。これでは、親の教育も社会生活も不要であり、人生それ自体が子供の魂の救済にとっては“無用の長物”になってしまう。また、世界中の教会やモスク、ヒンズー教や仏教の寺院、神社などで営々と行われてきた宗教儀式や神学の研究も、人間の救いにとっては“ムダな努力”と見なされてしまうだろう。
 
 バーレット氏も、そんなことを主張しているのではない。その逆に、同氏は自然宗教の信仰を“骨格”に喩えて、その上に神学(教義)を“肉づけ”していくことで世界の宗教は成立したと考えている。これは、神学(真理の探究)は宗教の成立にとって不可欠だということだ。ただ、同氏が訴えているもう1つのポイントは、自然宗教の信仰が人類一般にとって“自然”であるのに対し、神学が時代的、文化的色彩を強く帯び、かつ高度の抽象性、論理性をもって築き上げられてきたものであるため、一般の人々に対しては“不自然”な様相を呈しているということだ。そのことが大きな原因となって、特定の宗教の信者であっても、多くの人々は自分が選んだ宗教の教義(神学)とは矛盾する内容の感覚をもったり、体験をしたりするというのである。
 
 私は、バーレット氏のこの分析は当たっていると思う。私はこれまで、生長の家の講習会などで信仰に関する体験発表を数多く聞いてきたが、時々、生長の家の教えとは違うことを堂々と語る人がいた。体験発表をする人は、信仰の深浅にいろいろの段階があっていいから、発表内容をあまり厳密に審査することは却って逆効果になる。だから、そんな時も、私は大抵“聞き流す”ことにしている。しかし、教義にまっこうから反する場合は、その後の私の講話で訂正することもあった。バーレット氏の分析は、こういう現象の理解に役立つと思う。
 
 ところで、このことと関係があると思われる私の最近の体験を、ここで紹介しよう。
 
 それは私が谷口輝子聖姉二十四年祭に参加するために、長崎県西海市の生長の家総本山の公邸に泊まったときのことである。祭当日の朝、私は頭上に飛来したカラスの声で目を覚ました。カラスは寝室の上の屋根にいて、何かを呼ぶようなあの「カァカァ」という鳴き声を何回か繰り返した。時計を見るとちょうど午前5時ごろだった。いつもなら目覚まし時計が鳴る時間である。が、その日は寝場所が変わったことで、目覚ましを鳴らす時刻の設定が少しズレていたのかもしれない。まだ鳴っていないのである。そこで私は、「ああ、これはちょうどカラスが“起きろ”と言っているのだ」と思って、起床することにしたのである。

 読者は、この私の思考法や行動に何か問題を感じるだろうか? こういう心の動きは、日常生活のいろいろのところに、ごく自然に出てくるものではないだろうか。が、現実に起こりえることとの関係を合理的に考えてみると、これはまったく現実離れした発想である。つまり、こんなことは事実としてまず起こり得ないのだ。日本中に数多くいるカラスのうち1羽が、これまた数多くある人家の特定の一軒の上まで目的をもって飛んできて、その家の人間が起きようと思っていたまさにその時刻に、「朝だから起きろ」といって鳴く--そんなことはあり得ない。が、私はこのように考えることによって、周囲で起きるいろいろな現象の1つを、自分へのメッセージとして解釈する道を選んだのである。その時、恐らく私の中にはもう一人の私がいて、「眠いからもっと寝ていたい」という願望をもっていたのである。が、もう一方では、「予定通りに起床すべきだ」と考える自分もいて、この後者の自分が“カラスの鳴き声”を材料に使って前者の自分を説得したのだろう。

 バーレット氏がいう自然宗教の信仰とは、この場合の「カラスが“起きろ”と言っている」と感じる感性のことを指すのではないか。この感性を多少延長・発展させれば、「神がカラスを遣わして、私に“時間通りに起きなさい”と告げられた」という感性になる。また、「あのカラスは、私に呼びかける観世音菩薩の教えだ」という感性とも近い。しかし、この2つの感性が宗教上の真理を正しく反映しているかどうかという問題になると、私は「そうではない」と言わざるを得ない。だが、これらいずれの感性も「まったくの誤り」であるかというと、そうは言えないのである。この辺が、宗教のむずかしいところである。

 谷口 雅宣

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2012年5月15日 (火)

観世音菩薩について (6)

 本欄の前々回までの検討で、我々の肉体(脳)には動物と共通する欲望醸成器官(脳幹と視床下部)が備わっていると共に、それを抑制するための巨大な制御器官(大脳)が存在することが分かった。これはほとんど生得的なものであるから、「自然にある」と言える。そうすると、我々の心の中にいわゆる“良心の囁き”が起こることは、きわめて「自然な」ことであり、進化生物学的には「必要な」ことであったと言うことができる。
 
 では、次の段階として、その〝良心の囁き〟が自分より高次の存在である“神の導き”や“観世音菩薩の教え”のように感じられるのはなぜだろう--この理由を考えよう。
 
 これについて今年の全国幹部研鑽会では、私はアメリカの認知科学者、ジャスティン・バーレット氏(Justin L. Barrett, Ph.D.)の新刊書の内容を紹介した。この本の題名は「Born Believers (生まれつきの信仰者)」といい、副題は「the science of children's religious belief (子どもの信仰心を科学する)」である。本欄では、すでに4月12日19日付でこの本の概要を紹介しているから、多くの読者はご存知だ。初耳の人、内容を忘れてしまった人は、どうか読み返していただきたい。以下は、この2つのブログの記述を前提として話を進めていく。
 
 バーレット氏の主張の1つは、我々人間は通常の環境で生まれ育ったならば、幼児期のごく初期の段階で誰もが信仰心をもつようになり、その信仰の内容は普遍的--つまり、世界共通であるというものだ。同氏はこの信仰に「自然宗教(natural religion)」という名前をつけ、その内容を次の7カ条にまとめている--
 
 ①超人間的存在がある。
 ②それが目的をもって自然界の物質や生物を創造した。
 ③それは時間・空間に制約されるが、
 ④人格をもち
 ⑤自由意思で人を裁く。
 ⑥道徳的基準は不変であり、
 ⑦人間は死後も生き続ける。
 
 そして同氏は、この自然宗教の基盤の上に、世界各地の地理的、歴史的、文化的、政治的などの要請に応える形で、現在我々が知る組織的宗教(organized religions)が築き上げられたと考えるのである。そのことを図示したものを、ここに掲げよう。
 
Natlreligionb  この図を見て分かることは、昨今の宗教をめぐる国際情勢から受ける印象がどうであれ、「宗教の根源は1つ」ということだ。これは生長の家が古くから掲げてきた「万教帰一」の考え方を支持する知見と言える。そして、谷口雅春先生の次の言葉が、バーレット氏の著作より40年以上も前に書かれたことを思うとき、先生の卓越した洞察に頭を下げるほかはない--
 
“あらゆる人間の救いの原理は1つでなければならない。それは人間の生命の起源が1つであるから、その救いの原理も1つでなければならないのは当然である。しかるに世界には多くの宗教があり、互いに排擠(はいせい)して、自己のみ真の救いの原理を把握するのだと主張する。それはなぜであろうか。それは各民族に、また各地域に、また各時代にはそれぞれの雰囲気があり、民族精神があり、時代精神があり、それに連関せずに「救いの原理」を説いても、あまり時代や、民族に懸絶(けんぜつ)せるものは理解しえないがために、教えが時代および民族に意識的または無意識に適するように説かれるようになったのである。そこに人類の唯一なる「本源」と「救いの原理」とが幾多の時代的、場所的、民族的粉飾または付加物をもってつつまれ、その粉飾や付加物の方があたかも宗教の神髄のごとく考えられ、その粉飾と付加物との相違によって、互いの宗教は対立しはじめたのである。(中略)今ほど人類が「一」に結合さるべき要請の強い時代はないのである。したがってまた、今ほど、世界の宗教がその個々の粉飾と付加物とを捨て去って裸になって「一」真理とならなければならない時代はないのである。”
                  (『生命の實相』頭注版第39巻仏教篇「はしがき」)
 
 谷口 雅宣

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2012年5月14日 (月)

電子版『今こそ自然から学ぼう』が発刊

Imakososcreenshot  私が2002年に出した『今こそ自然から学ぼうーー人間至上主義を超えて』の電子版がこのほど、N&H Publishing から発行された。アップル社の iPhone、iPad、 iPod touch上で読めるもので、同社の iTunes App Store から入手できる。ニュース・リリースのページは、ここから見られる。10年前に出たこの本の書籍版は税込みの定価が1,300円だが、電子版は1,000円である。本欄の読者の中にアイフォンやアイパッドのユーザーがどれほどいるか知らないが、移動先での読書や、講師の講話の補助などに使っていただければ幸いだ。また、スマホやアイパッドを使いこなす若い人々の中には、この本の存在すら知らない人もいるだろうから、そういう人々に勧めていただければ、生長の家が推進している“自然と共に伸びる運動”のよき理解者となってくれるかもしれない。
 
 電子本と紙の本はそれぞれに長短があるが、この電子版の優れた点は図版や写真のほとんどがカラーであるのと、目次から各ページに画面のタップで跳んでいけること、さらには脚注もタップで気軽に見れることだろう。これらは電子本一般の特長である。また、電子本最大の特長は、重さが実質的に「ゼロ」だから持ち運びに便利であり、さらに紙を使わないことで森林破壊を防げる。さらに、何回ページをめくっても「擦り切れる」心配はない。出版社側のメリットは、在庫をもたなくてすむから省資源、省エネ、省スペース、そして在庫管理の手間が不要となる。いいことずくめのように聞こえるが、私は紙の本も大好きであり、とても捨てることができない。紙やインクの匂い、手に持ったときの手応え、表紙や背表紙の存在感、ページを広げて眺める一覧性などは、電子本には望めない。
 
 ということで、気に入った本は、私は電子本と紙の本の両方を買うことになる。日本語の電子本はまだ種類が少ないのが難点だが、英語の本はかなりの数が電子化されてきたから、紙と電子の双方で同じ本を読む機会も多くなった。今後、日本語書籍の電子化が進んでいけば、紙の本が傷まなくなってくるという“予想外”の効果を生むかもしれない。

 電子本についてのご意見や注文は、このブログ以外にもフェイスブックの出版社のページに書き込んでいただいてもいい。
 
 谷口 雅宣

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2012年5月12日 (土)

観世音菩薩について (5)

 谷口雅春先生が前掲の文章に「吾は素直に外の導きにも内の導きにも従うのである」と書かれたからといって、それを読んだ人が「だから自分は悪友からの誘いにも、自分の欲望の求めにも素直に従うことにした」と言ったならば、その人はそもそも宗教の基本を知らない愚者である。人間の心中に起こる様々な欲望の中には、従うべきものもあれば拒否すべきものもあるくらいのことは、小学生でも知っている。先生もそのことを後続の「5月10日法語」の中できちんと説かれているから、それを次に引用しよう--
 
「人間は神の造りたまえる最後の最高の自己実現であるから、人間以下のあらゆる動物の段階の各要素を自己の内に含んでいる。最後の最高の神的実現にまで生活を高めることも出来れば、あらゆる種類の動物的状態を実現することも出来るのである。肉慾食慾のみに快感を求めるものは、人間でありながら動物の状態に退歩することである。仏典にも人間の内部には、地獄、餓鬼、畜生、人間、天人の各要素を自己の内部に包蔵すると説かれている。その要素の中(うち)のどれを発揮するかは人間の自由である。」(前掲書、pp.133-134)

 さて、脳科学の分野では、人間の心にいわゆる“動物的欲望”が起こる現象をどのように説明するのだろうか? それを理解するためには、まず人間の脳の基本的構造について知らなければならない。脳はきわめて複雑な器官であるから、その細部を知る前に基本構造を頭に入れておく必要がある。しかし、一口に「基本構造」と言っても、前脳、中脳、後脳というように発生過程に即して見る方法もあれば、右脳、左脳というように機能・解剖学的に見る場合もあれば、前頭葉、頭頂葉、側頭葉、後頭葉というように、大脳だけを外側から見て分類する方法もある。私が生長の家の講習会などでよく使う構造図は、そのいずれでもなく、脳全体を正面から見て、それを頭頂部から脊髄にかけて上下に“輪切り”にしたときの物理的な構造を単純化したものである。(図参照)
 
Brainmap3  この図を使う理由は、これが人間の心の多層性、あるいは重層性をよく示していると思うからだ。多層とか重層などという表現を使うとむずかしく聞こえるかもしれないが、これは「人は悩む」という簡単明白な事実を指しているだけだ。つまり、人間の心には欲望が生まれる一方で、それを抑える葛藤が生まれること、感情が昂ぶっても理性が働くこと、害意が生まれても良心がそれを止めようとすること……そういう二律背反的な動きが生じることを意味する。私は、この心の中の葛藤が宗教や芸術を生み出す“元”だと考えるから、それを構造的に分かりやすく示すこの図を好むのである。

 図を見ると、中央の下から上に向かって「脊髄」「脳幹」と続いて「視床下部」に至る。これは、我々の脳が脊髄(背骨)の上に載っていて、脳幹を介して視床下部に連結していることを示している。脳幹と視床下部は、発生学的に髄脳、後脳、中脳、間脳に分けられ、これらの脳はあらゆる脊椎動物が共通してもっている。つまり、これらの脳内で起こる反応は、人間だけでなく、イヌやネコなどの哺乳動物はもちろん、魚類、両棲類、爬虫類の脳の中でも起こるのである。脳科学者の山本健一氏によると、両棲類や魚類では、間脳は行動の内的要因(欲望)の中枢であり、終脳、中脳(視床下部と脳幹の一部)は外的要因(感覚入力)のうちのそれぞれ嗅覚、視覚の中枢であり、後脳、髄脳は聴覚、平衡感覚を含めた機械的感覚と運動の中枢であるという。
 
 人間の脳では、この脳中心部の共通構造を大脳が覆うように包んでいる。大脳とは、図にある辺縁皮質(古皮質と旧皮質)と新皮質を加えたものである。この大脳の発達の仕方は、動物の種類によって特徴的だ。爬虫類では嗅覚と運動能力を反映して大脳核の発達が顕著であるが、空を飛ぶ能力を獲得した鳥類はさらに大脳核が発達している。哺乳類の脳では、「大脳皮質の異常な発達がみられる」と山本氏は言う。それも大脳核というよりは「嗅覚の分析を司る旧皮質の両側に付け加わった古皮質(海馬)と新皮質の発達」が著しいという。海馬は、記憶に関する重要な役割を果たしており、人間の記憶の量は他の動物に比べて圧倒的に多いという。また、視床下部について山本氏は、これは「“欲望の中枢”ともいわれ、内的要因のセンターである。この部分の電気刺激により、攻撃行動や摂食行動などあらゆる完了行為を誘発できる」(p.66)と書いている。
 
 これらのことから分かるのは、我々人間の内部には、あらゆる脊椎動物に共通する本能的な欲望を起こす機能が備わっているが、それを覆い包むように発達した大脳が、それら欲望の発現を規制しているということだ。だから「人間らしく生きる」ということは、「本能のままに生きる」ことでは決してないのである。
 
 谷口 雅宣
 
【参考文献】
○山本健一著『脳とこころ--内なる宇宙の不思議』(講談社選書メチエ、1996年)
○渡辺茂著『ヒト型脳とハト型脳』(文春新書、2001年)

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2012年5月 9日 (水)

観世音菩薩について (4)

 ここまでの議論では、観世音菩薩についてその“出自”に即して仏教の文脈で考えてきた。しかし、今年の全国幹部研鑽会に参加した読者はご存知だが、私はこの菩薩に関連づけて全く別の分野の話もした。それは脳科学(神経科学)の話だった。そこで本欄でもこの分野に踏み込んで議論を続けたいと思う。つまり、宗教と科学との接点を見出し、考えてみたいのである。具体的には、もし観世音菩薩が我々の“内部”にある人間の「本性」だと宗教で言うならば、脳科学的にはその本性が脳のどの辺に位置しているのか、あるいは脳のどのような機能として説明できるのかという問題を考えてみたい。もちろん私は脳科学者ではないから、ここで何かオリジナルな研究成果を発表するつもりはない。そんなことは不可能である。私にできることがあるとすれば、それは近年の脳科学の研究成果の中から、人間の「良心」や「宗教心」と関係のありそうなものを紹介するくらいである。そして、すべての人間の脳がそのような特徴的な構造と機能をもつのだから、「人間は神の子である」あるいは「人間の本性は仏である」という宗教上の主張は、単なるナイーヴな理想論ではなく、きちんとした科学的な裏づけがあることを示したい。
 
 脳科学的な説明に入る前に、人間の心の素晴らしさと複雑さについて、谷口雅春先生の御文章から確認しよう。まずは、『新版 光明法語<道の巻>』から「1月20日の法語」を引用する--
 
「吾が全ての願いは吾が中(うち)に宿り給う神が内よりもよおし給う願いである。されば吾が願いは決して成就しない事はないのである。吾と神と一体であるという事を自覚するが故に如何なる願いも必ず成就しないということはないのである。吾は吾が中(うち)に宿る神のもよおしに対していと素直にそれに従うのである。神よりの導きは内からも外からも来るであろう。吾に何事でも勧めてくれる人は神が遣わし給いし天の使(つかい)である。吾は素直に外の導きにも内の導きにも従うのである。吾はあらゆるものにすなおに喜びをもって従うのである。」(同書、p.43)

 この本は、引用した箇所ほどの短い文章を毎日読み進めていくことで、読者が神我一体の自覚を深めていく目的で編まれている。だから、短い文章中のリズムや勢いを重視する代わりに、論理性や汎用性が犠牲になることもある。引用箇所はその典型で、「人間・神の子」の自覚がある程度深まった人が読めば、さらに自覚が深まり、勇気と信念をもってその日を送ることができるに違いない。私が特にこの文章を引用した理由は、現下のテーマである観世音菩薩と関係が深い表現があるからだ。それは「吾は吾が中に宿る神のもよおしに対していと素直にそれに従うのである。神よりの導きは内からも外からも来るであろう」というくだりで、雅春先生はここで「観世音菩薩の教えは自分の内にも外にも溢れているから、そこから学べ」と仰っているのである。
 
 しかし、そういう深い意味を読み取るに至らない読者もいる。例えば、自分の選択に自信がもてず、かつ他の選択肢にも魅力を感じていたり、さらには周囲の人々の意見に振り回される傾向のある人などは、引用箇所だけを読んだ場合、誤った印象をもつ可能性がないわけではない。また、自我意識が強く、周囲の人々の意見を無視して物事を押し進める傾向のある人も、間違った解釈をしかねない。なぜなら、引用の最初の部分を文字通りに解釈すれば、「自分の希望はすべて神の御心だ」という浅薄な読み方もできるからだ。さらに引用の最後の文章も、生長の家の教えをよく知らず、物質的な誘惑に弱い人は、誤った解釈をする可能性を否定できないだろう。もちろん私は、雅春先生の文章に欠陥があると言っているのではない。そもそも文章とは、読む人の知識のレベルや心境によって、内容の理解や解釈が変わってくるものである。学術論文であれば、そういう違いが最小限に留まるだろうが、宗教や芸術に関わる文章の場合は、読み手の力量が理解度を大きく左右することになる--そう言いたいのだ。
 
 谷口 雅宣

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2012年5月 6日 (日)

観世音菩薩について (3)

 さて、「観音経」に描かれた観世音菩薩の救いの偉大さを読み、十一面観音像や千手観音像を脳裏に想い浮かべてみると、このような超人的救済者が我々の“外部”にいて、我々が困難に遭遇した際に救いの手を差し伸べてくれる--そういう印象を強くもつ人もいるに違いない。しかし、すでに述べたように、観世音菩薩は我々の「本性」のことだから、我々の“内部”にある。それならなぜ我々自身の顔写真や絵、あるいは彫像を目の前に置いて、それに向かって救いを求めることをしないのだろう? 我々自身が“仏”であり“神の子”ならば、我々自身の神性・仏性が人生万般の問題解決と成功の方法を知っているはずではないか?
 
 この疑問に答えるためには、先に述べた観世音の「観」の意味を思い起こす必要がある。この意味は、「ある対象を心の中に思い浮かべ、それと自分とが同化することを念じ、実践すること」だった。これは即ち、相手の立場に自分の身を置くことであり、相手に感情移入することである。そのことを人生のどんな場面に於いても、どんな相手に対しても自在に実行できるのが観世音菩薩であり、観自在菩薩だった。現象生活を送る我々は普通、そんな生き方を常に実行することはできない。どうしても自分と対象(他者)との分離を感じ、自分と他人との利害は相反すると考えがちだ。そういう自他や自分と社会との差別感、対立感から人生万般の問題が生じやすい。否、問題が生じる前から、倫理や法律、慣習などの社会制度の相当部分が、差別感や分離、対立を前提として組み上げられている。
 
 このことを私は、過去の全国幹部研鑽会などで「デジタル」と「アナログ」という言葉を使って説明した。詳しくは『次世代への決断』の第4章などを読んでほしい。が、簡単に言うと、デジタルとは「離散的」という意味で、アナログは「連続的」「類似的」などと訳される。前者は、物事を互いに分離した部分に切り分けて考え、それらの部分の集まりとして全体を把握する。これに対し後者は、物事は一見分離して見えても、それを全体の中の連続した変化として捉えようとする見方である。多人数を抱える社会の運営には「わかりやすさ」や「効率性」が求められるから、勢い物事をデジタルに切り分け、少数の部分から成るとして制度を作ることが多い。例えば、人を「男」と「女」に分けて「結婚」という制度を作る。同様にして「成人」と「未成年」、「自国民」と「外国人」、「障害者」と「健常者」、「与党」と「野党」、「昼」と「夜」、「及第」と「落第」、「善人」と「悪人」……などと2つの範疇に分け、実際には両者の間に“中間値”がいろいろあってもそれを無視するか、重要視しないことが多い。
 
 そんな中で生きてきた人間が、宗教的素養が不十分のまま「自分に神性・仏性が宿る」と言われた場合、その「自分」とは他人や社会と分離した「個人」(肉体人間)のことだと誤解する可能性が高いのである。そして「自分」は神性・仏性を体現しているが、「他人」や「社会」はそうではないから間違っており、したがって軽蔑や否定、ひどい場合には攻撃の対象にすべきだなどと考えるようになれば、これはもう宗教上の信仰ではなくて、幼稚で独善的なナルシシズムと変わらない。こういうエゴトリップ(自己本位の振る舞い)を防止するための一種の“心理的安全装置”として、宗教の世界では自分を超えた超人間的救済者や慈愛者、審判者を“外部”に仮構して、それを礼拝の対象としてきたのである。
 
 礼拝の対象を“外部”に仮構し、それに対して「観」の心を起こして実践することは、利己心や増上慢を防ぐことになる。なぜなら、それは自分(肉体的自我)ではナイものを理想化し、それに対して自分を同一化するからだ。別の言い方をすれば、「自分でないものになろう」とするところから利己心は起こりにくいからである。それだけでなく、同一化をはかる対象が“仏”や“菩薩”であり、その心の内容自体が利己心を否定するものである場合、それは二重の“エゴトリップ防止装置”となるだろう。私が言っているのは「仏の四無量心」のことである。観世音菩薩や勢至菩薩など、仏教でいろいろの名前をつけて呼ばれる「菩薩」とは、釈迦が悟りに到るまでの修行の内容を人格化したものと考えられているから、それらを心に描いて観ずることは、最終的には「仏の四無量心」へと向かう努力である。つまり、慈・悲・喜・捨の心へと向かうことになり、これは利己心とは反対方向である。

 このような「観世音菩薩」の概念は、仏教の長い歴史の中でしだいに煮詰められ結実したものだろうが、人間心理の複雑な動きをよく考慮した宗教上の傑作の1つだと私は思う。
 
 谷口 雅宣

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2012年5月 3日 (木)

観世音菩薩について (2)

 「観自在菩薩」とは観世音菩薩の別名である。と言うよりは、仏教が最初に文字で記録されたのはサンスクリットによってだから、より正確には、このサンスクリットで観世音菩薩に該当する語の漢訳(中国語訳)が2種類あるということだ。そのことを私は『次世代への決断』の中で次のように書いた--
 
“「観世音菩薩」という語は、古代インドの文語であるサンスクリットの「Avalokitesvara bodhisattva」の漢訳である。この原語を、インド人を父にもつ中国人翻訳家のクマラジーヴァ(鳩摩羅什、344~413年)は「観世音菩薩」と訳したが、『西遊記』で有名な玄奘(602~664年)は「観自在菩薩」と訳した。この原語の「avalokita」までが「観」に該当し、ある対象を心の中に思い浮かべ、それと自分とが同化することを念じ、実践することを指す。”(同書、p.76)

 だから観世音菩薩とは、世の中の音(ひびき、世音)を敏感に感じて、それに自己を同一化する能力に秀でた修行中の求道者(菩薩)を意味する。世の中には多くの種類の人々がいるから、この翻訳では「多様性」や「多面性」が強調されていると見ることができる。これに対して観自在菩薩では、自らを他の対象に同一化するという面での自在性が強調されている。つまり、どんな対象にも自己同一化できるという側面である。いずれの用語も原語は同一だから意味上の違いはないはずだが、翻訳者それぞれの思い入れが感じられる。また、観世音菩薩の彫像を見ると、十一面観音や千手観音のように、冠上に多種の化仏をいただくもの、何本もの腕と手をもつものなどが数多く製作されてきた。私見だが、これらは「人を救う」に際しての局面の多様性、救う対象や方法の多面性を「多くの顔」が象徴し、救済力の大きさ、救済の巧みさや機敏性、誰をも救わずにはおかないという徹底した弘誓などを「多くの手」が表現しているように思える。
 
 一般に「観音経」と呼ばれている『妙法蓮華経』の観世音菩薩普門品偈には、この菩薩の救済力の偉大さが微細にわたり克明に描かれているから、経文の意味を考えながらこれを読み進めていくと、観世音菩薩が多面多手で多様な形象で描かれてきた理由が納得されるのである(以下の経文はごく一部。括弧内は拙訳)--
 
 假使興害意 (もし悪意を抱く者がいて)
 推落大火坑 (火が燃えさかる穴の中に突き落としても)
 念彼観音力 (観世音菩薩の救いの力を念ずれば)
 火坑変成池 (火の穴は池に変わるだろう。)
 或漂流巨海 (あるいは大海を漂流していて)
 龍魚諸鬼難 (竜や怪魚などの怪物が襲ってきても)
 念彼観音力 (観世音菩薩の救いの力を念ずれば)
 波浪不能没 (荒波に呑まれて海中に没することはないだろう。)
 或在須弥峰 (あるいは須弥山の高嶺から)
 為人所推堕 (誰かに突き落とされても)
 念彼観音力 (観世音菩薩の救いの力を念ずれば)
 如日虚空住 (太陽の如くに空中に浮かぶことができるだろう。)
 或被悪人逐 (あるいは悪人に追われ)
 堕落金剛山 (金剛山の頂から転落したとしても)
 念彼観音力 (観世音菩薩の救いの力を念ずれば)
 不能損一毛 (髪の毛の一本も傷つかないだろう。)
 ………

 谷口 雅宣

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