観世音菩薩について (10)
ここ数年にわたり、私は幹部研鑽会で人間の左右の脳の機能の違い、また現在意識と潜在意識の違いなどを、都会と自然での生活と関連させて話してきたのだった。その一覧を図にまとめたものを、ここに掲げよう。
読者はこれを見ればお分かりと思うが、私は人間に備わる左脳と右脳の機能のどちらかを「価値なし」として否定しているのではない。人間の左右の脳は、正常な発達の結果として形成されるものだから、それらの一方を否定したり、使用を禁止したりできるものではない。私が問題視しているのは、本来2つあるものの一方だけに偏重した生き方なのである。これと同じように、私はまた都会生活を全面的に否定して、「自然に帰れ」と言っているのでもない。そうではなく、人間のごく自然な欲求として、この表の「自然」の欄に掲げたような心の傾向や、ものの見方が実際に我々の一部として存在しているのであり、我々の先祖は、それらを用いた生き方を何千年、何万年もの間、営々と行ってきたという事実をないがしろにすべきではないということである。
別の言い方をすれば、この表の「都会」の欄に書いた考え方、生き方、環境との関係、エネルギー消費のあり方などは、人間存在の半分しかカバーしておらず、それをいかに大量に手に入れ、あるいはマスターしたとしても、人間に幸福などもたらされないということだ。
私は休日に渋谷や新宿の駅周辺に行くことがあるが、最近とみに感じるのは、駅で出会う人々のほとんどが携帯電話やスマートフォンを見つめている光景の異様さである。私の休日は木曜日であるから、普通の人たちにとっては平日である。そんな日には、渋谷や新宿の駅周辺は人で溢れているが、人々は手元の小さな画面に見入っていて静かである。その中の多くの人たちは耳にイヤフォンも挿しているから、たぶん自分だけで音楽を聴いているのだろう。こうして周囲から自分を切り離し、周りの景色や人々に注意を払うことなく、自分の選んだ情報や映像の中に沈潜しているのである。そして、その姿勢のまま、立ったり歩いたりする。だから、こちらが注意を払っていないと、歩いてくる人に正面からぶつかったり、前を歩く人が突然立ち止まって衝突する恐れがある。
これが都会の人々の“普通”の姿なのだ。前表の「都会」の欄に掲げたすべての項目が、駅の一場面に見事に収まっている。つまり、人々は左脳でデジタルに考え、排他的な行動をとり、自分と他人との違い(非対称性)を主張し、効率優先で環境と遊離した疑似空間の中を泳いでいる。電力使用量はもちろん多い。こういう生き方が人間にとって幸せでないことは、人々の不安な表情と虚ろな目、時々見せる神経質な動作を見ればよく分かる。皆、落ち着きがなく、何かに取り憑かれたように手元の四角い画面に見入り、それによって自分と外界とを隔離しようとしている。自分が選んで来た都会の何がそんなに怖いのか、何がそんなに嫌なのか……と私は思う。もちろん、この都会生活の一コマに、人々の心のすべてが表れているわけではない。同じ環境にいても、もっと心豊かな生活をしている人もいるに違いない。いや、きっといる。が、ここに描写したような方向に人々が進んでいくことは誤りだ、と私は考えるのである。
最近、渋谷の東京メトロ副都心線渋谷駅で中年男性がナイフで切りつけられ、重傷を負ったが、容疑者として逮捕された32歳のアルバイト男性は、警察の調べに対し、「相手を追い抜く時にひじがぶつかったが、その後、相手が追い抜きざまに自分にぶつかってきたので、頭にきた」と供述しているという。(5月25日『朝日新聞』)人がひしめき合う狭い空間で、都会の人々は追い抜いたり、追いついたり、ぶつかったりしながら、相互に競い殺気立っている。このような都会の排他性、効率至上主義、他より先んじようとする競争の文化は“過剰”と言わずに、何と言うべきか。
私は、この過剰な都会文化をもっと薄め、自然が提供してくれる包容的、協調的な視点からより深く学び、自他の境界を減らし、潜在意識の豊かな流れからアイディアを得つつ、五感が受け取る自然界の情報を活用して環境と密着した生き方をするような道を、今後の人類は確保し、かつ広げていくべきだと考えるのである。そういう意味で、今回の渋谷の不幸な事件も、その他もろもろの都会生活の問題も“反面菩薩”の説法として謙虚に聴くべきだと思うのである。
谷口 雅宣



