“第一言語”を大切にしよう
9月3日の本欄で、日本人の早期からの英語教育に関しての私の意見を述べたが、中途半端な日本語を話したり書いたりする日本人になることは、本人にとっても、日本文化の発展にとっても不幸なことだと思う。ところで、ちょうどそんなことを考えていた時に、人が使う言語とその人の思考との関係について書いた記事に遭遇した。我々が考えるときに何語を使うかによって、思考の内容に違いが出てくる--こういう考え方について、マンチェスター大学のギー・ドィシャー氏(Guy Deutscher)が8月29日付の『ニューヨークタイムズ』(電子版)に書いていたのだ。
この問題は1940年、イェール大学で人類学を教えていたベンジャミン・ウォーフ氏(Benjamin Lee Whorf)が短い論文を発表し、「我々は何を母国語とするかによって、思考の内容が限定される」と主張したことから始まったという。特に注目されたのは、ウォーフ氏がアメリカの原住民の言語を詳しく分析して、彼らは西洋人とは全く異なる世界を見ていると主張した点だ。ウォーフ氏によると、アメリカ原住民は彼らの使用言語の構造に縛られて、時間の流れや、対象とその動きとの区別ができないとしたのだ。その理由は、使用言語の語彙にない対象や概念は、話し手には理解できないというのだった。こういう考えに飛びついた別の人々は、この論法をさらに発展させて、「アメリカ原住民の言語は、アインシュタインの時間の概念を四次元として直感的に把握させる」とか、「ユダヤ教の性質は、古代ヘブライ語の時制体系によって決定された」などという考えを打ち出したという。
しかし、これは常識で考えても論理の飛躍しすぎである。だから、やがて「言語は思考や思想を決定する」という種類の考え方は、学問の世界では人気がなくなり、ウォーフ氏の権威は失墜することになったそうだ。ウォーフ氏の誤りは、母国語というものは我々の心を支配して一定の考えをもつことを「妨げる」と考えた点だ。特に、ある言語に、ある概念を表す単語がない場合、話し手はその概念を「理解できない」と考えた。例えば、ある言語の動詞に未来形がないならば、それを母国語とする人間には「未来」という時間の流れは理解できないと考えた。これはあまりにも単純な考えで、英語でも未来形を使わずに未来を表すことができる--例えば、「Are you coming tomorrow?」--ことを無視していた。
ところが、ウォーフ氏の問題論文から70年ほどたったここ数年、同氏の考えの“修正版”が発表されつつあるという。それによると、言語は、話者の思考や思想を限定したり、決定したりしなくても、それ相応の影響力はもつというのである。「母国語は話者の思考を限定する」のではなく、「話者の思考に影響を与える」--これならば、我々の知っている事実とも矛盾はなく、実験によっても確認できるということだ。こういう話を聞いて思い出すのは、私が大学で第二外国語としてフランス語を履修したときのことだ。フランスを含むヨーロッパ系の言語の多くには、名詞に男女の区別がある。しかし、英語には例外的な場合を除いて、それはない。英語に慣れていた私は、この違いだけでも驚きだった。英語の名詞以外に、新たなもう1つの言語の名詞を憶えるのも大変なのに、それらの1つ1つ--「椅子」や「石」や「山」など--が、男なのか女なのかまで憶えるのは「とてもかなわない」と思い、中途で挫折してしまった。
ドィシャー氏の記事にもそのことが触れられていて、この「男性名詞」「女性名詞」の区別をすることが、その言語を母国語とする人の考え方に微妙な影響を与えることは、事実のようだ。
本来生命をもたない物体についても男性か女性いずれかの“性”を当てはめねばならない言語は、フランス語だけでなく、スペイン語、ドイツ語、ロシア語、ヘブライ語など数多くある。生まれつきそういう言語を使ってきた人は、物体について語るときも、人間の男性か女性に対するのと似た扱いをするようになるという。そして、その言語をマスターすると、そういうクセから離れることは相当むずかしいらしい。
1990年代に行われた心理学の研究では、母国語をドイツ語とする人と、同じくスペイン語とする人の「物」に対する態度が比較された。不思議なことに、この2つの言語の間には、“性別”がまったく逆になる物の名前がたくさんあるのだ。例えば、ドイツ語の「橋(die Brucke)」は女性名詞であるが、同じ言葉のスペイン語(el puente)は男性名詞だ。同様のことが「時計」「アパート」「(食器の)フォーク」「新聞」「ポケット」「肩」「スタンプ」「切符」「バイオリン」「太陽」「世界」「愛」についても言える。そこで、この2つの言語をそれぞれ母国語とする人に対して、そういう物がもつ特徴を指摘してもらうと、スペイン語を話す人は、「橋」や「時計」や「バイオリン」に、「強さ」などの男性的イメージを感じる一方、ドイツ語を話す人は、それらに対して「繊細」とか「エレガント」などの女性的イメージをもっていることが分かった。
ドィシャー氏の記事には、このほかにも興味ある研究結果が多く紹介されている。それらを見ると、我々が何語を“第一言語”としたかによって、我々の感情や思考が影響を受けることは確かなようだ。これを「国」のレベルに引き上げて考えると、「人々の第一言語は、その国の文化の形成に重要な役割を果たす」ということだから、第一言語をしっかりと身につけていない国民が増えることは、その国の文化の崩壊につながる危険性があるのである。
谷口 雅宣