2011年9月 1日

人間の“死”の意味

 私は生長の家講習会で「神は悪をつくりたまわず」という話をするとき、「死も悪ではない」ことを例として使うことがある。これはもちろん“肉体の死”のことで、その前提として「人間は肉体ではない」という教えが説かれなければならない。つまり、肉体の死は必ずしも“悪”ではないということだ。すると、驚いたような顔をする人がいる。しかし、私がそう言ったあと、肉体が死ななくなったときの社会を想像してほしいといって、超高齢化社会の到来、人口爆発の問題、社会や企業・団体・家庭における世代交替の必要性、医療費の負担問題などを挙げると、納得してくれたような顔になる。肉体の死は、このように現象世界の秩序維持のためには必要なのである。
 
 が、もちろん、人間が自分や近親者の死を感情的に受け入れることはなかなか難しい。それは、自分が最も大切だと考えかつ信じてきたものが、肉体の死によって永遠に失われると考えるからである。が、ほとんどの宗教が、「肉体の死は人間の終わりではない」と説いている。生長の家の場合、「死はナイ」という端的で強烈な表現によって、多くの人々を死の不安や悩みから救ってきたのである。

 この“肉体の死”は文明にとって必要だと訴える意見が、30日付の『インターナショナル・ヘラルド・トリビューン』紙の論説面に載っていたので、興味深く読んだ。書き手は哲学者であり、外交官でもあったスティーブン・ケイヴ(Stephen Cave)というイギリス人だ。ケイヴ氏は、哲学のみならず心理学、脳科学、宗教の分野の知識を駆使して、人間の文明を動かしている根源を探求した『Immortality(不死)』という本を書き、これが来年春の発売前から話題になっているらしい。この論説は、その著書の主旨をまとめたものという。

 それをひと言で表現すれば、「人間は“死ぬ”という意識を克服するために文明をつくり出してきた」ということだろうか。別の言い方をすれば、もし“肉体の死”がなくなってしまえば、それは“文明の死”でもあるというのだ。イギリスではBBCテレビが『トーチウッド:奇蹟の日』という連続ドラマを夏休みの期間にやっていて、これが9月で終わるらしい。このドラマの中で「奇蹟」と読んでいるのは、死がなくなることだという。ケイヴ氏によると、大方の予想とは異なり、人類は死の消滅による人口過剰の問題を物質的には克服することができるが、心理的にはそれができないという。その理由は、人類の文明は「不死」を実現しようとする情熱によって形成されてきたからだという。

 この“不死への情熱”が宗教を生み出し、詩を書かせ、都市を建設させるなど、我々の行為と信念の方向性を決定している、とケイヴ氏は言う。このことは、昔から哲学者や詩人によって言われてきたが、科学的な検証は、最近の心理学の発達によって初めて可能になってきたらしい。この論説には、その初期の実験の1つが紹介されている。
 
 それは1989年に始まったアメリカの社会心理学者たちの研究で、これによって「自分は死ぬ」という事実を思い出すだけで、人間は政治的、宗教的考え方を大きく変えることが分かったという。この研究は、アメリカのアリゾナ州ツーソン市の裁判官たちの協力のもとに行われた。この裁判官のグループのうち半数には、心理テストを行いながら「自分は死ぬ」ということを思い出させ、残りの半数にはそうしなかった。その後、彼らがよく扱うような売春をめぐる仮想の事件を判断させたという。すると、死について思い出した裁判官たちは、そうでない裁判官たちよりも重い--平均で9倍もの--罰金を科す判断を下したという。

 この結果をどう解釈するかが、興味深い。ケイヴ氏によると、この実験の背後にある仮説は、「我々人間は、死は避けられるとの感覚を得るために文化や世界観をつくり出す」というものだ。しかし、死はいずれやってくるから、それを思い出した人間は、自分の信念に以前より強固にしがみつき、それを脅かすものに対して、より否定的な態度をとる、と考えるのである。だから、これまでにも売春を罪として裁いてきた裁判官は、自分の死を思い出すと、その科料を引き上げることで、裁判官としての信念や世界観を守り通そうとするわけだ。
 
 「恐怖管理理論(Terror Management Theory)」として知られるこの仮説は、シェルドン・ソロモン(Sheldon Solomon)、ジェフ・グリーンバーグ(Jeff Greenberg)、トム・シジンスキー(Tom Pyszczynski)という3人の心理学者によって提唱され、これまで400例を超える検証が行われてきたという。その分野も宗教から愛国心にいたるまで幅広く、検証の結果は一貫して正しいことが認められているという。つまり、我々の考え方のある要素は、死への恐怖を和らげる必要から生まれる--言い換えれば、我々の文化や哲学、宗教などの様々な心理体系は、我々が「死なない」ことを約束するために存在するというのだ。
 
 こういう観点から世の中を見てみると、なるほどとうなずけることが多い。ケイヴ氏は、エジプトのピラミッドやヨーロッパ各地の大聖堂、現代都市にそびえる超高層ビル群などを例として挙げているが、これらの物理的な構築物が“死を超えた世界”を描いているだけでなく、そういう建物の中で説かれる教えや、そこに設置される施設、そこで提唱されるライフスタイルも、「死後も生きる」ことや「死の到来を延期させる」希望によって彩られている、と考えることができるのである。
 
 このように見ていくと、今後、再生医療やアンチエージング医療が急速に進歩し、もし本当に “肉体の死”がなくなる日が来たとしたら、人間は死の恐怖から解放されるから、これらすべての文化的、宗教的、社会的な営みの原因も消滅し、人類の文明は崩壊することになる。だから、人類がこれまで“不死の薬”の開発に成功しなかったことに我々は感謝すべきなのだ--これがケイヴ氏の結論である。
 
 谷口 雅宣

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2011年3月25日

原子力発電について (4)

 私は3月20日の本欄で今、大事故になっている福島第一原発と同タイプの原子炉は、「構造上の問題が1972年ごろから繰り返し指摘されてきたらしい」と書いた。この原子炉は、米GE社が開発したBWR(沸騰水型軽水炉)というタイプで、その後に現れたPWR(加圧水型軽水炉)よりも構造上、圧力容器の強度が低いという点を指摘した。私は原子炉の専門家ではないから、この評価は17日付の『インターナショナル・ヘラルド・トリビューン』(IHT)紙から借りたものだ。ところが、その後も、IHTは23日付で、また『ウォールストリート・ジャーナル』(WSJ)は24日付で、さらに米誌『タイム』も3月28日号で、今回の大事故の背後には、このような構造上の問題以外にも、いろいろな問題があることを指摘している。
 
 23日のIHTの指摘には、福島第一原発の1号機の予備用ディーゼル発電機に強圧によるヒビ割れが発見されていたことが挙げられている。この1号機は、大震災の約1カ月前に10年間の使用期限延長が認められたばかりだったという。さらに、この政府の承認後7~8週たって、東京電力は、6基の原子炉の冷却水ポンプ、ディーゼル発電機を含む原子炉冷却システムに関連する33カ所の点検を怠っていたことを認めたという。このことは原子力安全委員会のウェブサイトに発表され、その後に大地震と大津波が福島第一原発を襲ったのだ。
 
 この事実を取り上げて、同紙は「原発の運営会社と政府監督官庁の不健全な関係」があると指摘している。具体的には、旧式の原発の使用延長を認めた同委員会の専門委員は、監督官庁から雇用されていて、その決定にお墨付きを与えこそすれ、反対することなどめったにないという。さらに、原発に対する抵抗が強い日本では、新規の原発建設は年々難しくなっている。このため電力会社は、旧式原発に問題があっても、原子炉の「40年」という法定使用期限を延長することによって、しのいできた。一方、政府も、海外の化石燃料への依存度を減らす目的で原子力発電の拡大を進めてきたから、電力会社のこの措置には概ね同情的だったという。
 
 同紙はまた、福島第一原発の原子炉の設計を担当した技師の話として、この原子炉で特に問題なのは圧力抑制室が小さいことで、そのため原子炉内の圧力が上昇しすぎる危険性があると指摘している。この欠陥は、改良型の原子炉ではなくなっているという。が、この技師は、そういう点が改善されたとしても、システム全体が--配管も、機械類も、コンピューターも原子炉自体が--古いから交換時期に来ていたのだという。そういう原発に、今後10年間の使用延長を認めた監督官庁を、我々は信頼してきたのだ。
 
 九州大学副学長の吉岡斉(ひとし)氏は、25日付の『朝日新聞』に原発事業者と政府との“癒着”の危険性を次のように指摘している--

「日本の原子力発電事業の特徴は、政府のサポートが、他の国に比べてずっと強いことだ。所轄官庁と電力業界がほとんど一体になっている。(中略)他の国では、支援することはあっても、政府が事業計画まで細かく介入したりはしない。
 原子力安全・保安院は経産省傘下だから、安全行政も経産省が事実上握っている。特に2001年の中央省庁の再編以来、(中略)経産省が推進も規制もするという今の仕組みができてしまった」。

 24日付のWSJは、これとは別の「非常用復水器(isolation condenser)」の増設の必要性について書いている。これは、電力に頼らずに原子炉の冷却を行う装置で、今回のように地震と津波によってすべての電源が失われた場合、数日間、原子炉の加熱を和らげることができるとされている。だから、この間に外部電源を復旧しなければならない。昨年10月、原子力安全委員会で長期計画を検討する会合があったとき、ある関係者がパワーポイントを使い、この技術が「地震と津波から来る危険を追加的に減らす」効果があると説明したという。が、この発表は、福島第一原発のためではなく、今後の新規増設の際のものだったそうだ。非常用復水器は、すでに同原発の1号機に設置されていた。ただし、他の5基にはなく、1号機のそれも、今回は高熱のため使用不能となったと思われている。つまり、危険性は認識されており、それを回避する技術もあったのだが、残りの5基に設置する必要性は認められていなかった。
 
Bwr_structure 『タイム』誌が注目しているのは、予備電源を供給するためのディーゼル発電機の位置のことだ。福島第一原発では、これを1階のレベルに置いたことで、4台あったすべての発電機が津波によって使用不能に陥り、原子炉の冷却が不能になった。1階レベルに置いたのは、津波が来ても防潮壁で防げると考えたからだ。これを2階レベル以上の高さに設置しておけば、今回の惨事は防げたかもしれないというのである。また、放射線漏れを深刻化させた要因の1つに、使用済み核燃料プールの位置と形状が指摘されている。福島第一原発では、原子炉の加熱によって水素爆発が起こり、原子炉建屋の屋根が吹き飛んだ。このため、覆いのない核燃料プールが外部に露出することになり、冷却機能の停止もあいまって、プールから放射性物質が直接外気に発散される事態が疑われているのである。

 このように見てくると、「原子力発電は安全」という主張には相当な誇張があると考えねばならないだろう。
 
 谷口 雅宣

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2010年11月21日

都市化は環境にやさしい? (2)

NewScientist』誌はイギリスの有数な科学誌だから、これまでにも極端に飛躍した論理を使った研究や論文は取り上げなかった。今回の特集記事でも、前回取り上げた記事の不足を補うために、「自然を養う(Nurturing nature)」という題の記事を並べて掲載し、「人間の幸福にとって自然は必要だ」という点を訴えている。ここでは、主として医学や心理学、疫学などの研究から、その証拠を引き出している。

 例えば、シアトルのワシントン大学の研究者、ジャニス・ベル氏(Janice Bell)らは、子供たちが家でゲーム機の前にすわっているのと、外で遊んでいるのとの違いが健康状態に関連していないかどうかを調べるため、3,831人の子供の肥満度(Body Mass index)を2年間にわたって追跡した。それによると、緑の多い地域に住む子供の方が、そうでない地域の子供よりも体重の増加がゆっくりと進むことが分かったという。例えば、16歳の子供で比べてみると、緑豊かな地域に住む者は、都会の真ん中に住む者よりも、体重が平均で6kg少ないという。この差は、子供たちの家庭の社会的地位や収入の違いを超えているそうだ。つまり、食事の内容や広い公園の有無などの違いにも影響されない、共通の傾向である可能性があるのである。この結果から、ベル氏らは、「子供たちは居住地域が緑豊かであればあるほど、よく外で遊び運動する」という結論を引き出している。

 緑豊かな自然環境が人間の生理機能や免疫系によい影響を与えることについては、今年7月に行われた生長の家教修会でも一部発表されたが、この記事には「林の中をゆっくりとリラックスして散歩すれば、気持の良い都市空間を歩くよりも、血液中のコーチゾル、脈拍数、血圧、交感神経系の活動のすべてが減少する」とある。また、田舎の散歩は、NK細胞などの免疫系の活動を活性化させることが確かめられている。ただ、こういう健康上のメリットが長期にわたって続くかどうかは、最近まで確認されていなかったらしい。が、昨年の研究で、その傾向が明らかになった。オランダの96人の医師が受け持った34万5,143人の治療記録を調べたところ、15の普通の病気の罹患率が、患者の住居から1km以内に緑地がどれだけあるかによって変わってくることが分かったという。
 
 これらの15の病気とは、冠状動脈疾患、首・背中の不具合、激しい背骨の痛み、首・肩の激痛、肘・手首・手の激痛、うつ病、不安神経症、上部呼吸器系感染疾、喘息、頭痛・偏頭痛、めまい、腸管感染症、医学的に説明できない症状、急性泌尿器感染症、糖尿病である。これらの症状をもつ人が、人口千人中に何人いるかを調べたところ、周囲に10%しか緑地がないところと、周囲の90%が緑地である地域とでは、15のすべての項目で前者の数が後者の数を上回った。例えば、うつ病の症状の人は、前者は32件、後者は24件、呼吸器系感染症は、前者84件、後者68件だったという。疫学的に言えば、両者の違いは若者と老人の差に匹敵するという。
 
 ここでは、同誌の記事が取り上げた研究結果のすべてを紹介できないが、都市の環境にいるよりも自然環境の中にいる方が、人間に治療的効果をもたらすことが、このほかにも多くの研究によって示されているのである。ということは、「都市化は環境にやさしい」という前回の理論には、何か基本的な欠陥が隠されているように思う。その1つは、本欄の読者がコメントで示してくれたように、現時点でのいわば“出来上がった都市空間”から排出されるCO2の量と、自然環境の中で人間が排出するCO2の量を比較して、前者が後者より少ないとしている疑いがある。都市空間が出来上がるためには、長期わたるインフラ整備が必要で、都市と田舎を正しく比較するためには、それに要するCO2の排出量を参入する必要がある。また、その過程で森林は伐採されるから、伐採によって吸収されなくなるCO2の量を、都市が排出するCO2量に加算する必要もある。こういう計算が、前回取り上げた研究に含まれているかどうかは不明だ。
 
 また、仮にそういう計算をすべて行った後の比較であっても、都市化にともなう社会問題の発生や、今回取り上げた健康被害の増大などを考慮すると、私は都市化が「環境にやさしい」とか「人間の幸福に貢献する」などという理論は瓦解してしまうと思うのである。
 
 谷口 雅宣

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2010年10月 4日

iPS細胞と“神の子” (2)

 前回の本欄で書いたことの説明をしよう。
 
 iPS細胞の作製で分かった最も驚異的なこととは、人間の(そして、恐らくすべての多細胞生物の)体内には、最も原初的な“初期状態”にもどる能力のある細胞が多数存在するということである。それまでの研究では、もっとも原初的な“初期状態”にある細胞は、ES細胞(胚性幹細胞)だけだと思われていた。ES細胞とは、受精卵が分裂を始めて1週間から10日たった頃にできる「胚盤胞」と呼ばれる状態の時、その中核部に形成される細胞塊を取り出して増殖可能の状態にしたものである。「胚から取り出した幹細胞」という意味で、この名がある。この細胞の特徴は、身体を構成するどんな種類の細胞にも分化する能力があるという点だ。だから、このES細胞に化学的な刺激を与えて各種の組織や臓器を作製することで、難病の治療や再生医療に役立てようとする研究が行われている。
 
 しかし、ES細胞には大きな問題が2つある。1つは、それを得るためには受精卵を破壊しなければならないということ。もう1つは、それを治療に使うには、拒絶反応をなくすために免疫抑制剤を使わねばならず、これが患者の感染症への抵抗力を弱めるという点だ。この2つの問題点は、しかしiPS細胞にはないのだ。
 
 iPS細胞の「iPS」とは、「induced pluropotent stem cells」という英語の頭文字を取ったもので、日本語では「人工多能性幹細胞」と訳している。「induce」は、外から手を加えるという意味で、「pluropotent」の「pluro」は「plural(複数)」の省略形で、「potent」は「能力」とか「有能」という意味だから、「複数種の細胞に分化する能力がある」ということだ。「stem cells」は「幹細胞」である。
 
「幹細胞」の説明は本欄ですでに何回もしているが、重要な概念なので簡単に繰り返す。幹細胞の「幹」は、そこから枝や葉や花が伸びてくるように、いろいろな特徴をもった部分が分化して出てくるための「元」になる細胞という意味だ。例えば、私たちの皮膚の奥には「真皮」と呼ばれる部分があって、そこにある皮膚の幹細胞から、新しい表皮が作られる。指の爪の元には、爪を作る幹細胞がある。髪の毛にも、皮膚の組織中に埋まった部分に幹細胞があり、そこで新しい髪の毛の細胞が作られるため、髪は伸びるのである。このほか、神経組織を作る神経幹細胞、血液中の様々な細胞を作る造血幹細胞、骨の幹細胞など、たくさんの種類がある。しかし、ほとんどの幹細胞は、単一種か、多くても2~3種の細胞にしか分化できない。これに対して、ES細胞とiPS細胞は、身体のどんな組織や臓器の細胞にも分化する能力をもっていると言われているため、“万能細胞”と呼ばれることもある。

 こういう細胞レベルの活動を念頭に置いたうえで、今度は、人間の体を外側から外観してみよう。人間の体は、60兆個から100兆個の細胞で構成されている。日本人は70兆個ぐらいであるという。私たち人間の「意識」は、これらの夥しい数の細胞が何をしているのか、また何をしていないかについて全く関知しない。にもかかわらず、私たちの体の細胞は、24時間休みなく、それぞれに与えられた役割を忠実に果たしている。心臓は血液を全身に送り、血液中の数多くの免疫細胞は外敵と戦ったり、傷口や故障を修復したりしている。内臓からは栄養素が体内に吸収され、毒物や不要成分は肝臓や腎臓で中和され、膀胱へ送られる。これらの臓器や組織の仕事は、分子レベルでは皆、細胞が行っているのだ。しかも、これらの細胞は、私たちの肉体の死活にかかわる重要な仕事をする中で、役割を果たしたものは死んでいき、また新たに生まれてくる。ごく大雑把に言えば、人間の体内では細胞分裂によって24時間中に約1兆個の細胞が生まれ、それとほぼ同数の古い細胞が死んでいく。これを私たちは「新陳代謝」と呼んでいる。
 
 私は『日々の祈り』の「“肉体なし”の真理を自覚する祈り」の中で、新陳代謝の具体例として、「皮膚は1カ月ごとに、胃の内層は4日ごとに、食物とじかに接する胃の表面は5分ごとに新しくなる」と表現した。また、「肉体を構成する物質原子の98%が、1年前にはそこに存在しなかった」ものだとの見解を紹介した。このように複雑かつ組織的な細胞の入れ替わりが体内で行われていることを、私たちの「意識」は全く知らないし、意識的に制御することもできない。にもかかわらず、体中の数多くの幹細胞がこれを行っているのである。これは一体何者の仕業と考えるべきだろうか?
 
 この幹細胞の中の特殊の種類のものを人工的に取り出して、一定の化学的刺激を与えると「iPS細胞」ができるのである。しかしこれは、人間が人工的に“魔法の細胞”を創り出すのではない。もともと細胞がもつ万能性を人間が少し手を加えて発現させるだけだ。「分化していた細胞の機能をリセットして始原状態にもどす」と言ってもいいかもしれない。そうすることで恩恵を得るのは、神経系の難病などにかかった人たちだ。が、翻って考えてみると、そういう病気にかからずに、毎日を平穏に、健康に生きている圧倒的多数の人間は、この偉大な幹細胞の恩恵に常に、完全に浴しているのである。では、1つ1つの幹細胞が意思をもっていて、私たちに恩恵を与えてくれるのか? そうではあるまい。数多くの幹細胞を有機的に、秩序だてて、統一意思のもとに機能させている“何者か”がどこかにいると考えざるを得ない。それは、人間の意識の能力を超えているから、人間業ではない。だから、「神業」という言葉を使いたくなる。
 
 iPS細胞の登場は、私たちの肉体の当り前の機能の中に、“神の子”のような偉大な働きが隠されていることを改めて教えてくれると思うのである。
 
 谷口 雅宣

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2010年10月 3日

iPS細胞と“神の子”

 今日は佐世保市三浦町にある複合施設「アルカスSASEBO」で長崎北部教区の生長の家講習会が行われた。佐世保地方は朝から「大雨洪水警報」が出されていたから、受講者の足に影響が出ないか心配したが、幸いにも離島からの船も出て、前回より40人多い3,008人の方が参加してくださった。稲田賢三・教化部長を初めとした同教区幹部・信徒の皆さんの熱心な推進活動が実を結び、誠に喜ばしいことである。また当地は、生長の家総本山の“お膝元”であるから、同本山の職員や家族の方々の日ごろの活動が運動の伸展に結びついているのだろう。この場を借りて、心から感謝申し上げます。
 
 ところで、今日の講習会の午前中の講話で「iPS細胞」のことに触れて、この働きが明らかになったことで、“人間・神の子”の素晴らしさが医学的にも示されつつあるという意味のことを話した。すると、さっそくこれについて、佐世保市からの54歳の女性参加者から質問を受けた。次のようなものである--
 
「iPS細胞と人間神の子の真理との考え方について、もう少しくわしく教えて頂きたいと思います。私達真理を知っている者として、iPS細胞をどのように考えればよろしいのでしょうか」

 私がiPS細胞に言及したのは、ちょうどこの前日の2日に、この“万能細胞”の作製者である京都大学の山中伸弥教授が都内で講演会を開いて、現在の研究状況や今後の見通しを話したことをニュースで知ったからだった。今日の『日本経済新聞』によると、同教授は、これを使った治療法の開発時期について、「何らかの病気で10年以内に臨床研究を始める目標を掲げながら研究に取り組んでいる」と語っているが、私は、これをニュースで聞いて、「10年とは案外時間がかかるなぁ」と感じた。また、同教授がこれを使った治療の問題について、「ガン化する危険性を除かなければならない」と言っていたのを憶えている。しかし、この治療法は、ES細胞のような倫理的に問題のある方法よりも優れているから、本欄などを通して、私はこれまでも山中教授の研究を応援してきたのだった。しかしその反面、この技術も、使い方によっては深刻な問題を惹き起す可能性を否定できない。それについては、「万能細胞がもたらす“深い問題”」と題して、過去3回(2008年1月12日同13日同15日)に分けて書いた。
 
 本欄ではこれまで、iPS細胞に関してこのような経緯があったが、それらを振り返りながら、私はこの分野の研究成果から学んだことを、この日の講話で簡単に触れた。すると上記の質問が出されたため、それに答える形で少し詳しく話したのだった。しかし、時間の関係もあり言葉を尽くせなかったので、ここに言いたかったことを書こうと思う。
 
 私はこの“万能細胞”の知識を通して、「細胞」という生物の最小単位がもつ驚異的な潜在能力を知ることができた。そして、その活動が、ヒトのように複雑な多細胞生物の中では、何によって制御されているかを考えると、その背後に、どうしても“超人間的”なコントロール・センターの存在を想定せずにはいられない。別の言葉で言えば、我々の肉体は、まさに“神業”と言うべき複雑、かつ精妙な組織と秩序によって細部まで制御されていて、それを制御する主体は、いわゆる「自分」でないことは明らかなのである。このことを私は、“人間・神の子”の素晴らしさが医学的にも示されつつある、と表現したのだった。

 谷口 雅宣

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2010年7月17日

微生物の偉大な力

 15日付の『インターナショナル・ヘラルド・トリビューン』紙に、動物の体内に棲む細菌の働きの偉大さを感じさせる記事が2本載っていた。細菌と宿主生物との間には通常、共存共栄の関係があるのだが、それが崩れると病気の様相を呈してくる。そのことを多くの人は知識として知っているから、ヨーグルトや納豆などの細菌を含んだ発酵食品を進んで食べる人も多い。が、そういう“善玉”の細菌の代わりに“悪玉”が体内に入るとどうなるのか--その例として、次の話を読んでほしい。
 
 2008年のこと、ミネソタ大学病院で消化器病を専門としているアレクサンダー・コーラッツ博士(Alexander Khoruts)は、胃腸へのひどい感染症で苦しむ女性患者の治療に苦慮していた。彼女は下痢が止まらず、ついにオムツをつけた車椅子生活を余儀なくされていた。コーラッツ博士は、彼女に何種類もの抗生物質を処方してみたが、下痢を止めることはできなかった。下痢は長く続いていたから、患者の体重は8カ月で27キロも減っていた。そこで博士は“移植”を決意したのである。「移植」といっても他人の臓器や組織の移植ではなく、細菌の移植である。患者の夫の便を少量採り、それを生理食塩水で溶いたものを彼女の結腸に入れたのだった。すると驚いたことに、下痢はほとんど1日で止まってしまったという。それだけでなく、細菌の感染も恒常的に消えてしまった。この方法を「細菌治療」(bacteriotherapy)とか「便移植」(fecal transplantation)というそうだ。過去数十年間で数例しか実施されていない珍しい治療法だ。加えて、過去の実施例にはなかった新しい過程も付加された。それは、患者の内臓の細菌の遺伝子検査を移植の前と後とで行ったことだ。これにより分かったことは、移植前の患者の内臓には、通常人の胃腸に棲みついている細菌はまったく存在せず、その代り、本来人間の内臓にいるべきでない細菌群で覆われていたという。移植後2週間たって、再び患者の胃腸内を調べてみると、夫から移植された細菌群が全面に繁殖しているのが分かった。これらの細菌が“悪玉”を駆逐し、数日の間に彼女の内臓の機能を正常にもどしたのだ。
 
 人間の体内に棲む細菌の数は、体の細胞の総数(60兆~100兆個)の10倍ほどもあるという。だから、人間にとってこれらは別の“臓器”だと考えていい。しかし、それらの細菌群が体内でどのような働きをしているかは、医学的にもまだほとんど分かっていないらしい。だいたい体内細菌の種がどのぐらいの数かも分かっていない。口腔内だけも500~1000種類の細菌がいて、体の部分部分で棲む細菌の種類が異なるという。本来細菌はいないと考えられていた肺の中にも、128種の細菌が見つかっており、数的には1平方センチ当たり2000個の細菌がいるという。このような情報を知ってみると、我々の健康は数多くの細菌の協力によって守られていることが分かる。「天地のすべてのものに感謝せよ」という教えの正しさが分かると思う。
 
 ところで、もう1つの細菌の話は、地球温暖化に関係するものだ。微小のものが極大のことに関与している。それは、オーストラリアで飼われているウシの内臓に棲む細菌のことだ。石炭の産地であるオーストラリアは、それを発電に使っていることもあり、1人当たりの温暖化ガス排出量は世界最高レベルにあるという。その温暖化ガスのうち1割以上は、ウシやヒツジが排出するゲップ(メタンガス)だ。これらの家畜は、牧草を食べている間中ゲップをしているそうだ。メタンの温室効果はCO2の21倍もあるというから、深刻な問題である。そこで同国では、この“家畜による排出量”を減らすために、餌を工夫したり、排泄物の処理方法を改善したり、家畜の胃腸内に棲む細菌の調整をしたり、ゲップの排出が少ない種を選択的に殖やしたり、様々な検討がなされている。
 
 この“改善策”の1つに、カンガルーの利用がある。カンガルーは草食で、ウシとほとんど同じものを食べているが、メタンガスを口から出さないそうだ。そこで、カンガルーの胃腸内の細菌を牛に移植する方法が考えられているらしい。が、そんな不自然な方法は“邪道”だとして、ウシの代りにカンガルーの肉を食べるべきだと言う人も出てきている。同国では実際、カンガルーの肉が一部ですでに食されているが、量はそれほど多くない。その理由の1つは、カンガルーは基本的に野生動物であり、家畜のように柵の中に囲って飼うことはできないからだ。また、肉の量もウシの10分の1ほどしかないという。

 本欄では、牛肉を食することの様々な問題については何回も書いてきたから、もう繰り返さない。ウシの体内細菌の構成を変えてまでその肉を食べようとするのは、明らかに過剰な執着心である。代りにカンガルーを食べるというのも、不殺生の立場からあまり賛成できない。肉食への執着を放たない限り、人間にとって好ましくない結果がやってくることは、今回の宮崎県での口蹄疫の問題も示している。細菌などの微生物でさえ、人間に多くの恩恵を与えてくれているのだから、すべての生物に感謝し、その命を敬う心をもっと拡大していきたい。

 谷口 雅宣

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2010年5月21日

人工細菌ができるとしたら……

 21日の新聞朝刊は大きな出来事がいくつも報道されていたから、新聞の切り抜きを日課としている私にとっては忙しい朝となった。国内では口蹄疫の対策が遅れて被害が深刻化していること、海外では韓国の哨戒艦沈没の問題で同国と北朝鮮の関係が緊迫していること、ソニーとグーグルがインターネットTV開発で提携したこと、日本でまもなく発売されるアップル社の多機能携帯端末「iPad」向けに、講談社が京極夏彦氏の新作を書籍より安く提供すること……などで、切りぬいていくと新聞がバラバラになってしまうほどだった。口蹄疫と電子書籍の問題については、すでに書いた。韓国と北朝鮮の問題は日本の安全保障とも密接な関係にあり、看過できない。が、きわめて流動的で今日、予定されている米国務長官の来日の影響で、さらに変化するだろう。だから、何を書いてもすぐ古くなる--というわけで、今回は、リストに挙げなかったもう1つの問題について、触れたい。
 
 それは、アメリカの科学者のチームが、一部のDNAの組み換えや加工ではなく、ゲノム全体を人工的につないで細菌を作ったという話である。ゲノム以外の細胞の部品は自然のものを使ったから“人工生命の誕生”とはまだ言えないが、そこまで「あと一歩」の状況だ。この研究を発表したのは、ヒトゲノムの解読にも携わったクレイグ・ベンター博士の研究所のチームで、遺伝情報が少ない細菌のゲノムをまねてDNAの断片をつなぎ合わせ、それを別の細菌のゲノムと入れ替えることで、自己増殖を繰り返す細菌を生み出す段階に到達したということらしい。簡単に言えば、従来のような“遺伝子組み換え”の細菌ではなく、“遺伝子全とり替え”で細菌を生み出したのである。21日付のアメリカの科学誌『サイエンス』の電子版に発表されている。
 
『朝日新聞』はこれについて、「この技術を応用して遺伝情報を効率的に設計すれば、医薬品の原料やバイオ燃料など、人間が欲しい物質を人工細菌に作らせることも可能になる」と肯定的評価をする一方、「生物兵器などへの悪用も心配される」だけでなく、「人工的に作られた生命体が、意図せずに自然界に出た場合、生態系や人体などへの影響も懸念され」るなどと、問題点も挙げている。『日本経済新聞』は、肯定的評価は『朝日』とほぼ同じだが、否定的側面については、「テロに悪用できる細菌兵器や生態系を破壊する生物などもできる」と書いている。
 
 この問題は結局、科学技術は“諸刃の剣”だということで、その“剣”を人間が“善”の目的に限って利用できるかどうかという、古くからの疑問に帰着するのである。そして、その疑問の基底には、「自然」というものを我々がどう見るかという宗教的・哲学的視点の違いがある。きわめて概括的に言えば、「自然は、人間によって改善されるべきものだ」という考えの人たちは、科学技術を利用して人間が自然に手を加えることを肯定する。しかし、「自然は、このままで何も不都合はない」と考える人は、科学技術の利用に懐疑的になる。前者の人たちは、人間の本質について楽観的だ。つまり、人間は多少の過ちを犯したとしても、いずれ自分たちの努力で善を実現すると考えるのだ。これに対して後者の人々は、人間は基本的に過ちを犯す存在だと悲観的に考える。だから、強力な技術の無制限の利用は、人類の自滅へとつながると恐れるのである。「理想」という言葉を使えば、自然懐疑派の人は人間を理想化し、人間懐疑派の人は自然を理想化する。
 
 私の立場は後者である--こう書くと、誤解を招くかもしれない。なぜなら、生長の家では「人間は神の子である」と教えているからだ。だから、「神の子」を懐疑的に見ることは教えに反する。しかし、その一方で、生長の家では「現象は不完全である」とも教えている。不完全なものを懐疑的に見ることには問題がない。だから、私が生長の家は後者の立場だという時は、「現象論としては」という修飾語を加えなければならない。つまり、生長の家では、現象論(現象処理の処方箋)としては後者の立場をとるのである。その理由は、このブログの最初に書いた現在進行形の“大きな出来事”のいくつかを振り返ってみればわかるはずだ。
 
 口蹄疫の蔓延は、現象人間としての我々が、動物の生命を奪って肉を食いたいと欲望していることが原因だ。北朝鮮と韓国の間の政治・軍事的対立は、お互いが相手を“敵”だと見なし、不信感を深めていることが原因だ。つまり、双方とも、人間の「神の子」なる本性が深く覆い隠されていることが原因だから、この原因が除かれるまでは“人間懐疑論”にもとづいて現象処理をするのである。ただし、これは文字通りの意味での“人間懐疑論”ではない。人間の本性は「神の子」であると信じながら、現象は完全でなく、悪因からは悪果が生じるとの認識をもって考え、行動するという意味である。本当の人間懐疑論ではなく、現象人間懐疑論を採用し、それと並行して「人間の実相は神の子である」という真理を広く伝えることで、“神の子”の自覚をもった人間を増やし、懐疑の対象となる人間を減らしていく。そういう2段階の手続きが必要である。
 
 今回の“人工細菌”の開発でも、現在のように国家間の不信感が存在し、憎悪に満ちた爆弾テロなどが起こっている間は、また、人間が自らの快楽増進のために他の生物の命を奪うことに一顧もしない状態であるうちは、悪用が行われる可能性は高いと思う。医薬品開発に使えるというが、現在のほとんどの医薬品の元になったのは、もともと自然界にある植物である。その夥しい数の植物種のうち、医薬品の原料として研究されてきたものは、きわめてわずかだ。また、バイオ燃料の製造に役立つといっても、この分野でも自然界にある藻類などの研究で、バイオ燃料の生産に有力視されているものがすでにいくつもある。だから、私は、“人工細菌”の開発には賛成できないのである。
 
 谷口 雅宣 

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2010年4月 1日

「わかる」ということ (7)

 3月28日の本欄では、私たちは、覚めた意識で非対称的関係として扱うものを、無意識の世界では対称的関係として捉える傾向があることを述べた。また、翌29日には、私たちの意識は世界の一部を切り取って、部分間の関係を見るのに対し、無意識は「世界から切り取られた部分を元へもどす」傾向があると言った。同じことを別の言い方で表現したのだが、ここでのポイントは、意識と無意識は「相補的」--互いに補い合う関係にある--ということだ。この点を基礎の1つにしているのが、カール・ユングの精神分析である。ユング派の精神分析医であり文化庁長官も務めた河合隼雄氏(故人)は、夢の分析について次のように述べている:
 
「なぜ、ユングが夢の分析を重んじるかはすでに述べた。そして、そのもっとも根本的な支えとなるのは、人間の心に存在する統合性、あるいは、意識と無意識の相補性の考えである。(中略)ユングにおいて、心とは、無意識と意識の両方を含み、これら両者は相補って、一つの全体性を有していると考える。それで、一つの夢に対するとき、まずそれはいかなる自我の状態を補償せんとして生じたものであるかを考えてみる。だから、夢の分析を、その人の、そのときの意識の状態を知らずに正しく行うことは、まず不可能といっていい」。(『ユングと心理療法』pp. 37-38)

 夢とは、意識が眠っているときに無意識(潜在意識)の中で起こる出来事である。だから、私たちが睡眠から目覚めると、夢の記憶は、砂浜から潮が引いていくように、音もなく忘却の彼方へ去っていくのが普通だ。しかし、そういう夢の中でも、覚めている時の記憶に残るような強い印象をもった夢がある。また、夢から覚めたときに、見た夢をすぐノートなどに記録すれば、夢の記憶はある程度残る。そのようにして残した夢の“隠された意味”を、分析医と患者とが協力して捜し出すのが夢分析だ。夢の意味が“隠されている”のは、それが「無意識の中で起こる」からである。別の言い方をすれば、夢を見る人に夢の意味が明らかに分かるのでは、それは「意識されている」ことになり夢ではない。夢は、本人の意識からその意味を隠すことでその目的を達成する。多くの場合、その目的は現実問題からの逃避である。が、その仕方は単に問題の存在を否定するのではなく、問題によって実現が阻まれている不満や不足を、一種の“暗号”によって補填するのである。この暗号化の過程で、現実の非対称的関係が対称的関係に置き換えられたりする。
 
 具体例を示そう。上掲書には、不登校に悩む中学2年生の治験例が挙げられている。その子は、治療の初期に次のような夢を見た:
 
「自分の背の高さよりも高いクローバーが茂っている。その下を歩いていくと、大きい大きい肉の渦があり、その渦に巻き込まれそうになって叫び声をあげ、目を覚ます」(p.52)

 河合氏は、この夢に出てくる「肉の渦」とは、母親のこの子に対する強い愛着心の変形だという。現実世界では、「愛着心」と「肉の渦」(そんなものが存在するとしたら)はまったく別物であるから、この2つは非対称的関係にある。が、夢(無意識)の中ではそれらが対称的関係--つまり、同一視されている。このような暗号化が行われずに、母親が出てきてその子をつかまえようとする夢を見たならば、そのメッセージは本人にとって明白である。が、そういう関係があると認めたくない何かが、夢を見る本人の中にあるのだろう。彼の無意識は、母親を別のイメージに擦り変える暗号化によって、意識からその意図を隠しつつ、「表現する」という自分の目的は達成するのである。
 
 こういう複雑な仕掛けのある無意識の作品が「夢」である。本シリーズの前回、「我々の心の“隠れた領域”には、これらの“非合理”をわかる部分が存在する」と私は書いた。この“隠れた領域”とは無意識のことであり、“非合理”とは母親を「肉の渦」と同一視する暗号化のことである。しかし、それが何を意味するかを本当の意味で「わかる」ためには、夢を見た本人の理性(意識)が、無意識が暗号化したメッセージを解読しなければならない。その作業が、「夢分析」とか「夢判断」と呼ばれるものである。
 
 谷口 雅宣

【参考文献】
○河合隼雄著『ユングと心理療法--心理療法の本(上)』(講談社α文庫、1999年)

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2009年10月29日

映画『私の中のあなた』

 水曜日の夕方、久しぶりに映画を見た。生命倫理を扱う真面目な映画だと子供から聞かされたからだ。キャメロン・ディアス扮する母親が、自分の娘(アビゲイル・ブレスリン)の骨髄性白血病を治すために、遺伝子操作の技術を使って骨髄型が一致する妹を産む--という想定だ。つまり、姉の病気治療のために妹を生み育て、妹の肉体が医療に利用されるという状況の中で、家族はどうあるべきか? こういう重い問いかけが背後にある、と私は思いながらこの映画を見た。しかし、この生命倫理の問題は「背後にある」ままで物語は終ってしまう。正面に出てくるのは、3人の子供のうち、死にかけている1人だけに全力集中して愛を注ぎ込む母親と、その周囲の家族の“愛の葛藤”である。こう書くと、この映画は“暗い作品”との印象が生まれるかもしれないが、驚くほど明るい。それは多分、家族全員が、白血病の姉娘(ソフィア・ヴァジリーヴァ)を愛し、彼女のために尽くす気持を共通してもっているからだろう。
 
 原作は、大ベストセラーになったジョディ・ピコー(Jodi Picoult)の小説『私の中のあなた』(My Sister's Keeper)ということだが、私はその小説を知らなかった。また、映画は原作と重要な点でいくつか違うらしい。だから、もしかしたら原作は生命倫理の問題にもっと突っ込んだ考察をしているかもしれない。が、映画を見たかぎりでは、これは親子の愛、家族の愛の物語である。そういう作品になった理由を、ニック・アサヴェテス監督(Nick Cassavetes)は、インタビューの中でこう語っている--
 
「映画のもとになった小説を読んだらとても感動的だったけど、スタジオが映画化したいと言った時はまだ迷いがあったんだ。でも、家族が子供の死とどう向き合うかというシンプルなストーリーなんだと考え始めて、これなら出来ると思ったんだよ」。

 つまり、監督自身が、この作品を生命倫理の問題として描かなかったのだ。その理由について、同監督は詳しく話していない。が、アメリカでの幹細胞の研究について同監督が考えを述べているのを読むと、人間の判断力に相当の信頼をおいているのが分かる--
 
「これはあくまでもぼくの個人的な意見だけど、幹細胞のリサーチは進めるべきだと思う。ホルモンと幹細胞は医療の未来だよ。すごく多くの倫理的問題や道徳的問題を生み出すことになるだろうけどね。人間として自分たちが正しい選択をする能力があると信じるべきだよ。もし文明が進んで、人がもっと長く生きることになり、今の人類が変化していくことになってもそれを怖れるべきじゃない。それは子供たちの、孫たちの世界であって、ぼくたちは少なくともよりよいところにしようとするべきだよ」。

 この人間への信頼と楽観主義とが、重い主題をもったこの映画を、明るく、救いのある作品に仕上げているのだろう。その点で、私は読者にこの作品をお薦めする。ただし、私の不満を言わせてもらえば、これはきっと“理想的な家族像”だということだ。自分自身が生きるためにではなく、兄弟の生命維持のために生まれたと知った子供が皆、この物語のように素直に、愛深く生きるかどうか……それは近い将来、小説ではなく、現実が語ることになるに違いない。

 谷口 雅宣

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2009年8月20日

神は偉大でないか? (5)

 『God is Not Great』の第5章は、“病気治し”をめぐる宗教の問題である。ここには、生長の家の信仰者にも無縁でないことが書かれていて、興味深い。簡単に言えば、「信仰で治すか、医学で治すか?」の問題だ。特に、病気の原因が医学的にハッキリしている場合、宗教がそれを否定すると、信仰者に悲惨な結果を招く可能性が大きくなる。だから、宗教(あるいは信仰)は有害である、というのが著者、ヒッチェンズ氏の主張である。

 具体的な事例を読むと、世の中にはずいぶん極端な主張をする宗教もあるものだと驚く。もちろん、生長の家では医学を否定しない。が、医学だけでは健康は回復しない、と考える。投薬や手術が健康をもたらすのではなく、人間の内部にある自然治癒力が発揮される必要があり、そのためには「心」の要素が非常に大きい。このことは医学でも認めているから、我々の信仰では「医者を取るか信仰を取るか?」という二者択一の問題は発生しないことが多い。ただし、一度「医者」を選択すると、最近では検査、検査、投薬、投薬……という事態になりかねない状況でもあるから、「できることなら、信仰だけで治したい」という患者の気持も充分理解できるのである。
 
 さて、ヒッチェンズ氏が示す事例をいくつか掲げよう。

 インド北東部のベンガル地方で、著者の友人のカメラマンがユニセフの仕事の一環として子供たちのために小児麻痺のワクチン接種を進めていた時のことだ。どこからともなく妙な噂がひろがってきたという。それは、この薬は西洋の諸国の謀略であって、ワクチンを飲めば生殖機能が不能となり、下痢が続くというのである。その噂の出どころが、イスラーム主義者なのだった。小児麻痺のワクチンは同一人に2回接種しなければならないが、この噂のおかげで、心配した多くの親たちが接種をためらうこととなり、その地方からこの病気を排除することができなくなるのだった。この例は「信仰で治せ」というものではないが、「西洋医学を疑う」という点で、その効果は似ている。
 
 ナイジェリアでは、もっとヒドイことがあった。同じ小児麻痺予防のワクチンの接種について、イスラーム法学者の一団がそれを「イスラームに対するアメリカと国連の陰謀である」というファトワ(イスラーム法にもとづく見解)を出したのだ。ワクチンは、真の信仰者の胤を絶やすためのものだというのである。この法的見解のおかげで、小児麻痺が一時消えていた同国に、数カ月後にはこれが復活した。そればかりでなく、旅行者やメッカへの巡礼者が感染したまま外国へ行ったため、この病気がすでに撲滅されていた他の国--アフリカ3国と遠くイェメンまで--へと小児麻痺は広がったのだ。
 
 これと似たことが、コンドームとエイズとの関係で世界各地で起こったという。それをいちいち書くことは控えるが、問題のポイントだけを言えば、エイズウイルスの感染防止のためにコンドームは有効だという医学的見解に、医学不信と避妊禁制を盾に取って、イスラーム法学者のみでなく、カトリック教会までが声をそろえて反対したのである。その反対理由はばかげている--「すべてのコンドームには、密かに目に見えない細かい穴が開けてあるから」というのである。つまり、コンドームはエイズを感染させるために作られた、と信じているようなのである。しかし、コンドームは避妊具の1つであるから、穴が開いていれば欠陥商品であり、場合によっては訴訟の原因にもなる。だから、「すべてのコンドーム」に穴が開いているはずはない。
 
 アフリカなどでのエイズの蔓延は、こうした宗教的見解の愚かさにも原因がある。
だから、ヒッチェンズ氏は「宗教は、公衆衛生に対する緊急な脅威であり続けている」と手厳しい。また、この章では、ユダヤ教の「割礼」の習慣についての批判もあるが、その詳細は本欄で取り上げるのに相応しくないと考えるので、割愛する。

 谷口 雅宣

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