2009年11月 5日

ミカンを採る

 今日は休日を利用して、自宅の庭のミカンを収穫した。今年はミカンの実のつきが良く、その重みで枝が垂れ下がっているのが何か可哀そうだし、そろそろ鳥につつかれるようになってきたので、黄色に色づいてきたものから採ることにした。大小さまざまな大きさがあるのを、まず園芸用の鋏で伐る。低い位置のものから採っていったが、高い位置にあるもMikan2009 のの方が色づきがよいのである。アルミ製の梯子を出してきてそれらを採ることは採ったが、ミカンの樹は斜面に生えていて、しかもきちんと剪定していないので、梯子でも採れないものが多く残った。すると妻が、「高枝伐りを使えば採れる」と言ってそれを持ってきてくれた。これはなかなか便利な道具で、3mぐらいの高さにあるものも採ることができた。こうして採ったミカンを数えると、150個くらいあった。そして樹上には、黄緑色の状態のものや、高くて採れないものなどが、同じ数ほど残った。なかなかの豊作である。

 今年は、ミカンの隣にあるユズもいっぱい実をつけているし、粒が例年より大きい。しかし、冷夏の影響もあってブルーベリーは少なく、ビワも数えるほどで、イチジクときたらほとんど実をつけなかった。同じ環境にあっても、果樹の種類によってこれだけ結果が違うから、不思議である。多様な種があることで、何かが不作でも別のものが不足を補ってくれるのが「自然」の状態なのである。このことは、安定的な組織運動の発展にも必要な、重要な要素だろう。

 谷口 雅宣

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2009年10月30日

ハローウィン・カボチャ

Jackolan2  暇をみて作っていたハローウィン・カボチャを完成させた。とは言っても、本物のカボチャをくり抜いたのではなく、粘土をカボチャ型に成形したものに、色を塗って仕上げたのだ。何を物好きな……と思われるかもしれないが、この工作は子供が家にいたころからやっているし、何となく愉快な気分になれるので、この時期が来るとやりたくなる。昔は、大きなカボチャを買ってきたくり抜いたが、今回は“腐らないカボチャ”を作ろうと思ったのだ。ハローウィンの由来等についてはよく知られるようになったし、私も本欄で2005年昨年に書いたので、今日は粘土細工の方法を述べよう。

Jackolan1  粘土は、乾燥後に固まるものなら何を使ってもいいのかもしれない。が、私は手が汚れないし、細かい成形がしやすい樹脂粘土を使った。新日本造形の「ハイクレイ」という製品だ。10月15日に箱根に行った話を書いたが、実はその時に、半分作りかけのカボチャを持参して、夜中に形を完成させた。この粘土は真っ白な色をしていて、彩色するには、生地の中に絵具を塗り込んでおくのと、乾燥後に着色する方法の2つがある。私は後者を用いたわけだ。
 
 絵具は、ホルベイン社のアクリラ・ガッシュを使った。絵を描くときに使うので慣れているからだ。小さい方のカボチャは、粘土を丸めただけのものだ。これは中身が詰まっているので、表面に目鼻を描いた。2つを組み合わせると、親子のようで愉快である。
 
 ところで、ハローウィンの習慣は古代ケルト文化からアメリカへ渡ったものというが、2007年のピュー・リーサーチセンターの調査によると、アメリカ人の68%は、天使や悪魔はハローウィンの時に限らず日常的に活動していると考えているそうだ。そんなことはあり得ないと考える人は、14%にすぎないのだそうだ。その内訳を見ると、モルモン教徒の88%、福音派のキリスト教徒の87%、黒人教会信者の87%が、天使や悪魔の存在を信じているのに対し、ユダヤ教徒の73%、仏教徒の56%、ヒンズー教徒の55%、特定の宗派に属さない人の54%は、そういう考えに反対するそうだ。日本ではどんな数字になるのか、興味深い。

 谷口 雅宣

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2009年10月22日

キノコ採りと柴刈り

Jigobo09f  休日を利用して大泉町の山荘へ妻と行った。好天のおかげで紅葉はすばらしかったが、逆に山は乾燥していて、キノコは期待していたほど採れなかった。それでもハナイグチ(=写真)とチャナメツムタケを2人で2食分ほど収穫できた。妻はさっそく酢の物と佃煮にしてくれた。

 10月初めに生長の家講習会で小樽へ行ったとき、寿司に添えられてこのハナイグチに似たキノコの酢の物が出てきたのを思い出す。それを見て、2人で驚いたのだった。この種類のキノコは栽培できないと思っていたからだ。そこでキノコの名前を店の人に聞いてみると、「ラクヨウ(落葉)」だという。聞いたことのない名前だった。その店は、キノコを八百屋さんで買ったというが、その八百屋さんは山から採ってくる人から仕入れるそうだ。別のキノコかとも思ったが、後で調べてみると、北海道ではハナイグチをそう呼ぶらしい。我々はもっぱら、山梨風に「ジゴボー」と呼ぶ。何となく親しみが湧く発音だからだ。
 
Jigobo09f2  わが家では、ジゴボーはもっぱら味噌汁に入れて食べていたが、今回は小樽風に酢の物を所望した。独特の香りが引き立つが、これには好き嫌いがあるかもしれない。さらに大根おろしで食べると、香りも柔らかになって美味しかった。チャナメツムタケの方は、佃煮がいい。私はナメコより美味しいと思っている。今回のキノコ採りは、特にジゴボーの収穫は妻の手柄だ。私の方は、ジゴボーをさっぱり見つけられず、古くなりかかったチャナメの“巣”を見つけただけだった。それでも、食べられるのが5~6本あったから嬉しい。

 キノコ採りのほかに、山荘の建つ土地の南側斜面の柴刈りと剪定をやった。山荘はできてから9年目になるから、建った当時にそこにあった木々の中には、8年間で3メートル以上に伸びたものもある。それらが、南の空に見える南アルプスの山影を隠しそうになっていた。直径が10~15センチの立木2本を伐り倒し、枝をはらって片づけた。これが案外の大仕事だった。その他の灌木も、不要なものは伐ってスッキリさせた。普段あまりしない力仕事で、快い汗をいっぱいかいた。妻は、『理想世界』用の原稿を書き上げたのち、山荘北側の林の中で、未生からいつの間にか伸びたクリの木を何本も伐ったという。

 谷口 雅宣

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2009年10月15日

箱根で一泊

 すでに妻がブログに書いているが、誕生日祝いに母を箱根一泊旅行に招待した。写真好きの母だが、最近出した写真集『木の声がきこえますか』(生長の家刊)の中で「東京に住み、公園や御苑を散歩するだけですので、大自然の感動を味わえないのが残念です」と書いている。それではどこかへ……と思ったが、大泉町の私たちの山荘では足元がキツイし、自然は厳しい。というわけで、妻が「箱根行き」のアイディアを出してくれた。伝統のある観光地で、道路も諸設備も整っているということで、いわゆる“クラシック・ホテル”の1つへ案内した。一泊して明けた今日は幸いにも好天で、大涌谷から仙石原、湿生花園というコースでゆっくりと回った。意外にも母は、大涌谷が初めてだった。険しい山腹から何本も硫黄臭い蒸気が吹き上げる雄大な光景がいたく気に入ったらしく、何回も立ち止まってカメラを構えていた。また、湿生花園では、歩き疲れてへたり気味の私たちを尻目に、山野草やその花たち、花に来る虫たちを熱心に撮影していた。
 
 ところで、こういう環境に置かれた私は、動物との“出逢い”について考えた。「当り前のことを大袈裟に言っている」と思ってくれていい。私もデジカメで写真を撮ったが、花にとまるチョウやハチたちは、人間がすぐそばでカメラを構えていても、あまり反応しない。近づき過ぎれば、もちろん飛び立っていくが、それは条件反射的で“感情”を示さない。これに比べて、ホテルの池にいたコイたちは、私が近づくと向こうから寄ってきて、カメラを構えると、ますます寄って来て、水面から顔を突き出して大口をパクパク開ける。これには“感情”のようなものを感じ、人間の方も何となくうれしくなる。エサを持っていれば、きっとあげてしまうだろう。コイは、人間の動きに明らかに反応し、自分の意思を伝えることができるのだ。コイだけでなく、湿生花園の池にいたアブラハヤという小魚も、人間の足音に反応して集まってきた。
 
 これらの動物は、自分の生存に直接関係する相手を認識し、それに反応するのだ。その反応の仕方に“感情”のようなものを感じるのは、人間の側の独断かもしれない。が、その一方で、動物のもつ脳の大きさや複雑さが原因で、反応の仕方にも複雑さが生じ、それとともに本当に“感情”が彼らの脳内で起こっている可能性もある。魚類までは、その程度の理解でいいような気がする。が、哺乳類となると、“感情”の存在は疑うのが難しい。
 
 泊まったホテルの庭を散歩していたら、近くで小さい子供の鳴き声のようなものがした。私はすぐそばの灌木の茂みの向こう側を見ていたが、突然、私の足元で柔らかい感触がした。子ネコが1匹、体を擦りつけているのだ。相手が望んでいることは、はっきり分かる。で、少し遊んでやった。が、どうせ“行きずり”の関係であることが分かっているから、深入りしないようにお別れする。子ネコも、何となくそれを察知して行ってしまった……と私は思っていた。ところが、庭を一周して同じところへ戻ってきたところ、同じ子ネコが、今度はフルスピードで駆け寄ってきたのだった。私はその時、何か“罪の意識”のようなものを感じたのだった。それには、理由があった。
 
Catme  この子ネコと一度別れて庭を巡っているときに、別の子ネコが死んでいるのを見つけた。それは、ホテルの従業員宿舎に近い砂利敷きの道路の上だった。白い小さな体が横たわっていて、鮮血が滲んでいるのが見えた。近くに寄って見ると、轢死のようだった。さらに庭を歩いていると、作業服に竹かごをかついだ中年女性と会った。庭の世話をしている人だと思い、「上の方で子ネコが死んでいますよ」と声をかけた。するとその女性は、「ああ、野良ネコの子でねぇ、何匹かいて……」と答えた。それで私は、彼らの厳しい状況を理解したのだった。親から離れた何匹かの子ネコたちは、この広いホテルの庭で独力で生きていかねばならない。自然界では当然のことだ。他の動物は皆、そうして生きている。が、ネコは、人間との関係の中で生存を維持してきた動物である。飼いネコになれば、生存は保証される。が、野良ネコでは保証されない。時には轢死することもある。それを知っている子ネコは、必死の思いで人間に取り入ろうとするのだ。そんなネコの真剣な“気持”を、私は玩びはしなかったろうか……。
 
 動物と出逢うことは普通、「一期一会」とは言わない。が、そういう関係が成り立つ出逢いもきっとある、と私は思った。都会の雑踏の中ですれ違う人と、箱根の山中ですれ違う子ネコを比べてみると、どちらも無視できない関係を秘めていると言えないだろうか。
 
 谷口 雅宣

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2009年10月 1日

山のキノコと対面

 休日を利用して、妻と2人で山梨県・大泉町の山荘に来た。前日の雨天とはうって変わって、雲間から青空がのぞく好天なのがうれしい。しかも、キノコの成長には湿気が必要なので、晴天の前の雨天は誠に好都合である。が、キノコはすぐに地中から出るわけではなく、2~3日の成長期間が必要なため、山荘裏の林を初め、近辺ではあまり姿が見られなかった。それでも、玄関の前に灰白色の傘のキノコが6~7株かたまって出ていたUtsukushijg。シロヌメリイグチである。また、山荘近くの砂利道の真ん中には、ニガクリタケが束になって顔を出していた。このキノコは毒入りだから、要注意だ。
 
 天女山と美しの森へも足を延ばしてみたが、ジゴボーが2~3株と、アイシメジが分散して7~8株、それにカワムラフウセンタケとおぼしき種を何株か収穫しただけだった。それ以外は目ぼしいものはほとんどなかった。キノコの季節は、まだこれからということだろう。Efuto0909302

 収穫したキノコは、よい形のものを選んで山荘でスケッチすることが多い。今回は、アイシメジ(緑色のもの)とカワムラフウセンタケ(茶色の3株)を絵封筒にした。採る本数が少なくても、こうして絵にEfuto090930_2 描いていると、それぞれ特徴あるキノコとじっくり対面することになるので、たくさん収穫した時のような充足感を味わえる。食用キノ コでも、食べない味わい方もあるのである。

 谷口 雅宣

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2009年8月27日

ちょっと夏休み

Villadest1  26~27日の2日間、短い夏季休暇で山梨県・大泉町の山荘へ行った。今回は、キノコ採りや庭の草刈りは省略し、長野県の東御市(とうみし)まで足を延ばした。ここは市町村合併をする前は「東部町」と呼ばれていた場所を含んでいて、そこに玉村豊男氏が経営するガーデン・ファームとワイナリー「ヴィラデスト」がある。
 
 玉村氏のことは拙著『太陽はいつも輝いている』(2008年)にも紹介したが、私に絵を描くことを教えてくれた人の一人だ。とは言っても、直接教わったわけではなく、本や作品展を通してである。東京から、北アルプスを望む標高850mの高地に移り住み、野菜を作りながら、絵を描き、本を書き、展覧会をし、ブドウを栽培し、それでワインを作り、ついにレストランまで始めてしまったというマルチ人間である。その奥さんが、実は私の小学校時代の同学年で、いつかはご挨拶に行こうと考えていたのである。昼食時に予約して行ったが、観光バスまで来ていて、店内は人でいっぱいだった。玉村氏も店におられたが、客の案内や指図に忙しく、声を掛けるのは遠慮した。が、帰りがけに奥さんと話す機会があり、35年前の小学生の顔を覚えているか心配だったが、名前を言うと思い出してくださった。ありがたかった。
 
Efuto0908261  ヴィラデストでは数多くの野菜と果物を作っているが、レストランに隣接したオリジナルグッズ販売コーナーで、色とりどりの各種トウガラシを袋に入れて売っていたのが、面白くかつ美しかったので、買って帰った。辛さの段階を記した説明書もあって、とても親切だ。山荘に帰ってから、絵封筒に描いたものをここに掲げよう。

 谷口 雅宣

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2009年6月12日

ビワを食べる

 今日、朝食時に家の庭にできていたビワの実を食べた。カラスに先を越されないために、妻が数日前、3~4個の実がついた枝を葉と一緒に採ってきて花瓶に挿してあった。そこから、1個だけちょうだいしたのである。その実は少し傷みかけていたので、食べなければ棄てるだけと思った。市販の実よりひと回り小さかったが、薄い香りがして、案外おいしかった。
 
 このビワの木は昔、どこからかいただいた実の中にあった種を植えて、育てたものだ。ビワは強い植物なので、少々条件が悪いところでも育つ。が、実が成るかどうかは別問題だ。わが家の場合、南側の庭に植えたのだが、そのさらに南にケヤキの大木やその他のBiwa 高い立木が何本もあって、それらの蔭になっていた。だから、ビワの木は2メートルほどに成長して日光を受けるようになるまでは、実が成らない年もあった。毎年実がつくようになったのは、ここ7~8年ぐらいだろう。今年は、春に剪定したときに少し切りすぎたこともあり、実の数は驚くほど少なかった。
 
 そんな貴重なビワの実なので、カラスから避難させ、人間が目で楽しむために近くに置いてあったのである。妻は、それを絵手紙に描き、私はここに掲げた手描きのPC画に記録した。夕食には、妻が渋谷で買ってきた別のビワをいただいた。味は、もちろんこちらの方がいいが、絵に描いたものの方に愛着を感じるから、不思議なものだ。

 谷口 雅宣

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2009年6月 4日

妻のブログ・デビュー

 妻がこっそり作成していたブログが、ようやく公開する運びとなった。名づけて「恵味(めぐみ)な日々」。彼女の得意分野の1つである料理を写真に撮り、短文を添えたもの。文章は料理のレシピーの場合もあれば、写真とまったく関係ないこともある。わが家の“内幕”が暴露されないかと、こちらはヒヤヒヤしているが、彼女の良識を信じることにした。「当り前の日常をワクワクと楽しく生きる」というのがテーマらしい。私のブログにとっつきにくい読者は、彼女のブログにコメントしてあげてほしい。コメントは、彼女が見てから公開される方式である。
 
 出だしは去年の3月に1本、その後は8月にいくつか、それからブランクがあって、今年の4月から“本格的”に書きはじめた。まだ操作に慣れない面があるので、また間が空いたり、コメントにナシのつぶてであってもご容赦いただき、暖かく見守ってほしい。

 谷口 雅宣

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2009年5月26日

特大シュークリーム

 昨日は夕食時の私たち夫婦の会話を紹介したが、今日は、夕食のデザートのことである。今朝、妻が銀座に行くというので、私は「何かおいしいものを……」と言って、土産を所望した。それで買ってくれたものがシュークリームだった。

 妻は、初めからそれを買うつもりだったわけではない。が、昼前に、ある洋菓子店の前を通りかかったら短い人の列ができていて、「12時から限定販売いたします」というアナウンスがあったとかで、興味をもって並んだという。本を読みながら待っていたら、彼女の後ろにはいつの間にか長い列。そのうちに店員が注文を聞きにきたので、“最小単位”はいくつかを尋ねたら、「3個セットで630円」だったそうだ。だから、それを買って帰ってきたのだそうだ。
 
Etegm090526  夕食後、焦げ茶色の直方体の紙箱から出てきたそれは、楕円形の長径が10㎝、短径が8㎝もある大きなシュークリームだった。皮の表面にはクランベリーの小片と粉砂糖が振りかけられていて豪華だ。また、皮の一部から中身のカスタードクリームが少し見えているところが、またおいしそうだ。丸ごと1個は大きすぎるので、私たちはそれを半分に分けた。かじってみると「甘い!」と思いきや、クリームは案外薄味で上品な甘さだったのがまた良かった。ごちそうさまでした。
 
 谷口 雅宣

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2009年5月25日

自然エネルギーは無限?

 夕食時に帰宅した私に向かって、妻がやや紅潮した顔で今日の英語のレッスンで学んだことを教えてくれた。ニュース記事等をもとにしたヒアリングと読解、ディスカッションの教室だが、まずカナダ人の先生が作ったクイズを生徒みんなでやったところ、彼女は全問正解だったというのである。そのクイズとは、地球上で得られる自然エネルギーの量と、現在、地球全体で人類が消費しているエネルギー量を比較して、どのエネルギーがどのくらいの量かを当てるものだという。ここでいう自然エネルギーとは、①水力、②風力、③太陽光、④地熱、の4種類で、これらの利用可能量と、人類全体のエネルギー消費量(⑤)がそれぞれどれほどか、というのである。

Squares  もちろん、専門家でもなければそれらの数字をすべて覚えていないから、5つのエネルギーの数値が概数で示されている。だから、それら5つの数字が、それぞれどのエネルギーに当てはまるかを言えばいいのである。エネルギーの単位は「ワット(W)」であるが、量が大きいので、「1兆ワット」を意味する「テラワット(TW)」の単位で表記する。すると、ここに掲げた図のように、それぞれのエネルギーは「86,000」「870」「32」「15」「7.2」のうちいずれかに当てはまるという。図の中の「 a~e」の四角にエネルギーの名前を記入せよ--こういう問題である。
 
 エネルギー量の見当をつけるために、例を挙げると、1960年代から1990年代にかけて製造された最も強力なレーザー照射装置の出力が、だいたい「数TW」だという。ただし、照射は、何10億分の1秒しか続かなかった。また、雷が生み出すエネルギー量は最大で「1TW」ほどだが、この場合も3万分の1秒の間だけだという。読者は、どの箱にどのエネルギーが入るか分かるだろうか? 頭をひねって挑戦してみてほしい。
 
 1つヒントを言おう。私はかつて(5~6年以上前に)太陽光発電に関する専門家の本を読み、「現在、日本全体で消費するエネルギー量を太陽光発電だけから得ようとして、発電パネルを敷き詰めていくと、四国の3分の1ほどの面積があればいい」ということを知った。そして、「なんだ、それならエネルギーの自給はできる」と驚いたものだ。このクイズの解答を知ったときも、この時と同じような驚きを感じたのである。
 
 谷口 雅宣

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2009年5月14日

横浜でバラを愛でる

Rosegarden2  今日は、休日を利用して“親孝行”に出かけた。とは言っても行き先は横浜で、本欄の読者はご存じのように、我々夫婦が足繁く行く町だ。しばらく行っていなかったこともあり、またバラの美しい季節なので、花好きの母が喜ぶ顔が見たかったのである。お目当ての場所は、横浜・山手の「港の見える丘公園」。午前9時過ぎに東京を出ると、幸い道路は空いていて、40分ほどで目的地に着いてしまった。

Redroses  バラは、横浜市の“市の花”である。この公園には8千平方メートルの市営のローズガーデンがあり、約80種の千八百株のバラが植えてある。横浜開港当時、この山手の丘にはフランス軍とイギリス軍が駐屯し、その後、フランス領事館やイギリス総領事公邸などが建設された。この英総領事公邸を市が買い取り、現在の「イギリス館」となった。そして、イギリスの国の花がバラであることに因み、市政100周年を記念して、平成元年に“市の花”が制定されたという。

Artistroses  好天だったこともあり、公園にはすでに多くの中高年男女が来ていて、カメラを構えたり、スケッチブックを広げたりして、一年のこの時季にしか見られない“バラの美”を記録しようとしていた。バラ園のど真ん中に椅子を置き、カンバスを立て、色とりどりのバラたちを描いている画家もいた。私も、さっそくデジカメを使って同じ行動をとることにした。母も妻も、それぞれに花々を記録したことは言うまでもない。

Rosegarden  その時の記録のいくつかを、ここにご披露する。
 
 谷口 雅宣

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2009年4月12日

家族で夕食会

 日曜日の今日は、久しぶりに家族5人が集まって夕食会をした。たいていの場合、日曜日は日本のどこかで生長の家の講習会があるから、妻と私は東京にいないことが多い。一方、3人の子供たちは、普通に月曜から金曜までが仕事の生活をしている。家族が集合するのは、だから今日のような“普通でない”日曜日になってしまう。特に何かの記念日というわけではないが、新年度も始まった好天の日に集まって楽しいひと時をすごした。
 
 夕食会は「母さんの手料理」を望んだ長男の要望にこたえて、わが家でやった。彼は仕事上、人との付き合いが多いので、外食主体の食生活だから、たまにはということだろう。私は「母さん」だけでは“男の名折れ”とばかりに、にわか“寿司職人”を名乗り出た。本欄では何年も前に私の寿司をご披露したことがあるが、最近は台所に立つ機会がめっきり減ったので、あれから特に進歩しているわけではない。ただ親の気持を表現したかったのである。
 
Sushi0409  もう1つ、したいことがあった。それは、旬のタケノコとシイタケを使った“野菜寿司”なるものに挑戦したかったのである。これは、妻が持っている弁当作りの本の中に写真入りで載っていたものだ。料理研究家の中村成子さんの本で、中村さんの母親が「田舎の姑から教わった」という野菜ばかりの祭り寿司がいかにも美味しそうだった。中村さんによると、当時はシイタケ、ニンジン、レンコン、サトイモ、ゴボウなどの煮しめを作った“残り物”を使ったという。しかし私の場合、“残り物”をまず作るというわけにもいかないので、庭で掘ったタケノコと妻の父が原木栽培で作ったシイタケを使おうと思ったのである。妻は、その他の具として、タイ、ハマチ、カツオ、ホタルイカ、ウニを用意してくれた。

Sushi04092  ところで“野菜寿司”の出来栄えだが、正直「成功」とは言いがたかった。煮しめと酢飯の合わさった味はおいしいのだが、ご飯と具とがくっつかずに分離してしまう。それでもシイタケの場合、肉詰め式にキノコの傘でご飯を包めばうまくいく。が、タケノコはご飯の上に載せたまま、落ちないように注意して食べるほかなかった。しかし、これらは“愛嬌”ということで、誰も文句を言わないで食べてくれるところは、家族のありがたさである。
 
 谷口 雅宣
 
【参考文献】
○中村成子著『お弁当絵日記1000日』(文化出版局、1987年)
 

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2009年4月11日

タケノコを掘る

 サクラが散るころはタケノコの収穫期--わが家の春の言い伝えにしたがって、今朝はタケノコを掘った。今年は全国的に桜の満開が例年より1~2週間遅れたとテレビなどで言っていたから、本当にタケノコが出るのも遅れたと思った。にもかかわらず、結構太いのがあったので安心した。実は、6日にも“初物”を3~4本掘ったが、この時はそれほど太いものではなかったのだ。妻は、私の所望に応えて、さっそく「孟宗汁」を作ってくれていた。
 
 読者のご記憶にまだあると思うが、「孟宗汁」は昨年の本欄で映像によって作り方を紹介した。もし見逃した方は動画サイトにある「原宿のタケノコ」をご覧あれ。ところで、このムービーの登録の日付は、今から約1週間後の「4月18日」になっている。ということは、昨年のその頃の様子がそこに映っているのである。それを見て今日の様子と比べてみると、今年のタケノコの出が特に遅いわけでもなさそうだ。人間の記憶は、あまり頼りにならないものである。
 
Bambooshoots  写真を見るとお分かりと思うが、今日採ったタケノコは全部で6本。ミニが1つあるが、その他は直径が10~15センチある。わが家の竹林は、竹が結構密に生えているので、地中に這う地下茎も高密度になってきた。するとタケノコは、張り廻らされた地下茎の間から無理に出ようとするので、形がいびつに曲がったり、茎が扁平になったりする場合もある。また、私の場合、中型のスコップを使って掘り出すから、周囲に太い地下茎があると歯が立たない。そういう“障害物”がない方向からタケノコの根元にスコップを入れ、できるだけ深いところから掘る。この作業に没頭していると、体は熱くなり、時間を忘れてしまう。
 
 採ったタケノコは、夫婦2人に6本は多いので、隣家に何本か寄贈した。
 
 谷口 雅宣

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2009年4月 8日

夜桜を見る

 水曜日は私にとって“週末”……ということで、夕方、妻と2人で明治神宮外苑にあるレストランへ行き、ゆっくりと夕食をいただいた。数カ月前にオープンした店で、新聞にも紹介が出ていたので、席が空いているか心配した。が、客の数は意外に少ない。そうなのだ。昨今の厳しい経済事情のおかげで、このごろ街のレストランは空いているし、道路を走る自動車の数も減った。人々は生活防衛に必死なのだ。
 
 食後、青山通りを六本木方向へ渡り、さらに路地に入ってゆっくりと散歩した。このあたりは飲食店が多いのだが、どの店も客はまばらである。そのうちに、目の前がボォーッと明るくなったのは、満開のサクラ並木のせいだった。都内の“サクラの名所”の1つである青山墓地まで来ていた。と、この付近はなぜか人通りが多いのである。我々は、街灯の光を受けて夜空に白く光るサクラを愛でながら墓地内を進んだ。
 
Cherrynight  夜、墓場を歩くことはあまりない。が、満開のサクラが頭上を覆い、足元に続く白い花びらの絨毯を踏みしめて歩いていると、そこが「墓場だ」という気があまりしないのである。それでも、照明の当たらない側道は暗く、不気味な感じがするので、我々は街灯のある道を行くことにした。と、道の両側で人の声がするのである。それも、1人や2人ではなく、大勢が談笑している風情である。また、沿道の所々に、二人連れなどがしゃがみ込んで何かを食べている。夜桜見物の人々だった。

 好奇心に惹かれた私は、ためらう妻の腕を引いて側道へ入った。すると、暗がりのあちこちに10人、20人と円陣を構えて人々が座っているのである。「こんな暗いところに…」と私が言うと、妻は「目が慣れてきたら、そうでもないのかも…」と言う。私は彼らの写真撮影を試みたが、ストロボを発光させなかったためか、暗さに強いデジカメにも、ほとんど何も写らなかった。
 
 側道を引き返しながら、ふと「もし迷った霊が付近にいたら…」などと思う。また、「10人のグループで来たはずなのに、よく数えてみたら11人いたとか…」などと想像する。いや、今見た人々は皆、地べたに座っていたから、ひょっとして地縛霊…?

 夜桜には、妄想を起こさせる力があるのかもしれない。
 
 谷口 雅宣

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2009年4月 2日

休日のベンチ

 休日に妻とショッピングに出かけた。春休みであるうえ、サクラの満開が報じられているせいか、家族連れのほか男女のカップルも多く、街のにぎわいは普段の木曜日とは様変わりなのに驚いた。が、それと同時に何か懐かしさを感じた。私は、生長の家本部に勤める前は、長い間、大多数の人同様に日曜日が休日である生活をしていたから、その時代を思い出したのである。当時は、まだ小さかった子供を連れて、にぎやかな公園や混雑したデパートを歩いたり、ファミレスの入口にできた人の列にも並んだものだ。子供は、家族と一緒に行動するのが普通だし、それが当り前だった。
 
Playinggames  ところが今日、ショッピング・モールの片隅に並んだベンチを見て、「へぇ~」と思った。子供たちだけが座っているのはよしとしても、その彼らが全員、持参した小型ゲーム機に熱中しているのである。私の子供にもゲーム機に熱中する時代はあったが、友達と一緒に遊んでいるときに、各人がゲームをしているという光景はなかったと思う。最近のゲーム機では「対戦」ができるからか……とも考えてみたが、機械を通した友達関係とはいったい何だろう……と何となく納得できない。が、とにかく、その様子を記録した。
 
 谷口 雅宣

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2009年3月27日

コイを買う

 昨日は木曜日の休日だったので、妻と2人で多磨霊園へ墓参に行った。国道20号線から入る霊園前の道路沿いには、立派なサクラ並木が枝をアーチ状に拡げて続いているが、まだ開花し始めたばかりだった。それでも、園内のシダレザクラの中には満開のものがあり、青空を背景に白く堂々と輝いていた。墓参を終り、近くのホームセンターに寄った。妻がこまごまとした日用品を買ったあとで、2人でペット売場へ行って小型の錦鯉を3尾買った。庭の池に入れて飼うためである。
 
 わが家の池には、すでに大型のコイが1尾、中型が1尾、小型のコメットが3尾いた。これらは、池の南側の間際に大型ビルが建った中でも生き抜いてきた。私は、このビルが池全体に影を落とすので、今後池には魚は育たないと思っていた。が、5尾はどうにか育ってくれており、特にコイは明らかに成長しているので、仲間を増やそうと思っていたのである。
 
Fishpond  3尾のコイは、女性店員が2つのビーニール袋に水槽の水と一緒に入れ、その上から酸素を注入して密閉してくれた。この酸素がどのくらいもつか訊かなかったが、私たちはその後、深大寺近くのソバ屋へ向かった。このソバ屋が案外混んでいて待たされたので、食事中もコイたちに必要な酸素量が気になっていた。が、幸い、家に帰って3尾を池に放すと、最初は戸惑った様子のコイたちも、すぐに2尾が“先輩”のコイたちと合流した。ところが残りの1尾は、岩陰に身をひそめてじっとしている。まるで「知らないところはコワイ」と感じ躊躇しているように見える。個々の魚に「性格」のようなものがあるとは考えにくいが、このコイは明らかに“臆病者”に見えるのである。結局、5分ほど後に、3尾目のコイも体を動かし出し、やがてゆっくりと池の中央へ進んでいって、新しい仲間と合流したのである。恐らく水温の差が大きかったので、この1尾については、体の諸機能の調整に時間がかかった--というのが私たちの解釈である。
 
 3尾のコイたちの、これからの成長が楽しみである。

 谷口 雅宣

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2009年3月 3日

雛祭り

 今日は雛祭りということで、わが家では“女性軍”が活躍した。とは言っても、女性は当初は妻一人だ。彼女は2週間前ぐらいから、妻の実家から贈られた雛人形を箱から出して来て床の間に飾り、それでは足りないのか、小さい置物の男女雛を2セット、どこからか出してきて、玄関のカウンターと居間のテレビの上に飾っていた。例年のことなので、私は驚かず騒がず、「もう3月だなぁ~」という感慨に浸るだけだ。が、今晩は恒例の雛祭り料理に娘を呼ぶというので、多少影響を考えた。彼女は仕事の帰りにわが家に寄って、食後に帰宅する。それだけだ。が、仕事が終わる時間が分からないので、我々夫婦は先に食事をして彼女を待つことになった。

 食事は、豪華なちらし寿司、海老とホタテのフライ、青菜の白和え、雛カマボコHinaryoriにハマグリの吸い物である。これに加えて、長崎へ行ったときにいただいた「桃カステラ」というデザートがあったから、フルコースの食事である。これら全部を用意するために、せっせと立ち働く妻のエネルギーには、男の私には計り知れないものがある。男の祭りである「端午の節句」の方は、わが家ではもうとっくに有名無実化しているというのに……「桃の節句」ではこうして伝統が守り続けられる。この辺は“男女の違い”でしか説明できそうもない。
 
 やがて仕事帰りの娘が来て、食事が始まる。私は、食卓に出され小皿が雛人形を象っているのに気づき、それを絵に描き始める。女二人は、にぎやかに会話を楽しんでいる。私はそれを聞きながら、娘が家族をもてば母親と同様に雛祭りの伝統を守っていくのだろう、などと考える。妻は、伝統行事を大切にするタイプの人間だから、「桃カステラ」のこともウィキペディアでちゃんと調べていた。長崎はカステラの本場だから、桃の実を模したカステラを焼くのだそうだ。長崎の人たちは、県外でも当然そうすると思っているらしいが、長崎にしかない習慣だという。

 もっと興味あることが、妻の持っている本に載っていた。雛祭りは「上巳(じょうし)の節句」といって、もともとは中国伝来のものだ。「上巳」とは3月の最初の巳(み)の日のことで、古代中国では「忌み日」で、川で身を浄める習慣があったそうだ。この考えを受けた日本では、この日に紙で人形を作り、これで体をなでてから、川や海に人形を流して穢れを祓う行事が行われていたという。これを「上巳の祓え」とか「雛送り」といい、雛人形の原型になったという。現代でも地方によっては、この日に「流し雛」をする習慣が残っているそうだ。しかし、この“原型”の背後にある考え方と、現在の豪華な段飾りの雛人形の考え方とはずいぶん違う。一方は忌み事、他方はお祝事だ。「伝統行事」といえども、歴史の流れの中では大きく変遷するものだと改めて感じた。
 
 谷口 雅宣
 
【参考文献】
○大泉書店編集部編『和ごよみの暮らし』(2007年、大泉書店)

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2009年2月17日

古い記録 (9)

 1月13日の本欄で、私は大学に入学した1970年に、最初の海外旅行をしたことに触れた。そして、この旅行で撮った写真について「いずれ、まとまった形でご覧に入れることができるかもしれない」と書いた。このほど、その写真39枚を本欄読者に公開することにした。このブログのサイドバーで絵封筒を小さく表示しているが、そこをクリックしても見ることができるが、その場合は少し複雑な手続きが必要なので、39枚を一覧できるサイトのリンクを下に掲げた。これらは「First overseas trip」(初めての海外旅行)という題のアルバムに収められている。すべてモノクロ写真で、当時の私や父母の写真もある。

 初めての海外旅行のアルバム

 谷口 雅宣

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2009年2月14日

バレンタインデー

 今朝、6時前のNHKのラジオ放送を聞くともなく聞いていたら、女性の気象予報士が「今日の天気は昨日と同じように荒れて、強い風も吹くでしょう」と言ったあとで、
「チョコレートを届けに行くかたは、十分気をつけてください」
 と言った。
「えっ、何に気をつけるの?」
 と私が言うと、妻が何か答えたが私には聞きとれなかった。だから、「風に飛ばされないように」ってことだろうと思って、私は大声で笑った。
 発言したご本人がユーモアのつもりで言ったならば、なかなかセンスがある。が、そうでなかった場合は、相当やせ型の人なのかと思ってしまう。

 この不況の中でも、チョコレートは売れ続けていると聞いた。最近は“逆チョコ”というのがあるそうで、男から目当ての女性に渡すのがはやっているらしい。女性の経済力がつき、相対的に男性の立場が弱くなってきたことと関係があるに違いない。が、バレンタインデーには「女性から男性に贈る」という決まりは日本だけのようだし、私たち夫婦のように商業主義に懐疑的な人間は、チョコレートの授受にこだわらずに、ゆっくりと2人の時間をもつことにした。何をしたかは、今回は言わないことにしておく。
 
Mtimg090214  仕事場でもらったチョコレートを眺めながら発想したイメージを、絵に描いた。今日の世界同時不況は、人間の期待や欲望を実際の価値以上にどんどん膨らませてきたことから起こった。それらがいつかは崩れると知りながらも、目の前の短期的利益を得ることで満足し、期待が外れ、無理な想定が破綻することから目を背けてきた我々の心は、きっとこんな感じの“肥大した心臓”で表すことができる。日没は近い。こんな生き方を変えなければ、我々に明日は来ないかもしれない。
 
 谷口 雅宣

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2009年2月13日

生命は伸びる

 列島に春一番が吹き荒れた今日、妻がダイニング・テーブルの上に飾っていたフキノトウが伸びあがっているを見つけた。今月6日、東京・赤坂の末一稲荷神社で初午祭があったときに、境内に出ていた“芽”を何本もお土産にもらった。妻はそれを天婦羅と蕗味噌に加工し、残りの2~3本をガラス器に挿して飾っていたのだ。
 
Mtimg090213  フキノトウは食べるだけでなく、眺めていてもいい。生命力が旺盛だから、1週間やそこらは目に見えて伸び続ける。今では採ったときの倍ほどの高さに伸びて、両手足をひろげた子供のような恰好をしている。その成長ぶりを見ていると、子育て時代の記憶がよみがえってくる。
 
 そう言えば最近、庭を歩き回るノラネコたちの動きがとみに盛んだ。早歩きを急に止めたかと思うと、耳を立て、鼻で空気をさぐって、誰か相手を探す風情である。1匹が姿を消すと、次の1匹がどこからか現れる。彼らは、人間などまったく眼中にないようだ。また、池の中には、ヒキガエルが残した細長い寒天状の卵が、ヘビのように這っている。玄関脇のサザンカはピンクの花を盛り上げて、惜しげもなく花弁を周囲に振り落としている。スイセンも咲いたし、白玉ツバキも可憐な花をつけている。こうして、息苦しいほどに生命が動き出す季節を「春」という。人間だって進歩し、伸びるほかはないのだ。
 
 谷口 雅宣

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2009年2月12日

カキフライを食べる

 今日は木曜日で休日だったので、妻と連れ立って絵の展覧会を見に京橋へ行った。妻が単行本の製作で世話になったデザイナーの作品が展示してあるというのである。その展示をしっかりと見てから会場を出ると、同じビルの階下では水彩画展をやっているというので、せっかくなのでそれも見た。水彩用紙の白い地肌を存分に生かした、明るく、透明感のある風景画が数多く展示されていて、妻と2人で「ああ、いいなぁ~」と言いながら鑑賞した。気がついてみると、私は近ごろきちんとした風景画を描いていない。これらの絵を見ていると、そのことが、何か大切なものを粗末に扱ってきたような反省の気持を、私に起させるのだった。

Img_3335s  画廊を出た時は、まだ11時半になっていなかった。昼食をどこで食べるかの見当はつけてあったが、時間がまだ早いので近所を散歩するともなく2人で歩いていたら、1軒の店の前に15~16人ほどの人の列ができている。どうやらレストランらしい。こんな時間に人が並ぶほどの店があるのかと思いながら、私はどんなメニューがあるのか、入口のディスプレイを覗いてみた。ミンチカツ・ランチ、ハンバーグ・ランチ、カキフライ、鶏肉のコンフィ……など、それほど珍しいものではない。いわゆる“日本の洋食”かと思って妻の方を振り返ると、彼女は人の列の中にいて、その後ろにもう4人ほど若い女性が並んでいるのである。「そうか、ここで食べるつもりか」と私は思い、彼女のそばへ行くと、妻は自分もメニューを見たいと言うのだった。
 
 最初は、2人とも冗談半分で列に入ったのである。ところが、我々の後にも次々と人が来て列が延びていくのを見ると、当初の計画を変更して、この店で食べるのも面白いかもしれない、と考えが変わってきた。で、結局、11時半の開店まで5分以上待って、他の客とともにゾロゾロと店へ入っていった。入口脇のカウンターには、その店のことを記事にした雑誌が数冊、カラーグラビアを見せて広げてある。「そうか、雑誌で有名な店なんだ……」と了解して、期待に胸を膨らませた。しばらくして席へ案内され、私は予定通りカキフライを注文した。
 
Mtimg090212  最初に、コーヒーカップのような容器に入った、キャベツのスープが出された。外で待っていて冷えた体を、それを飲んで温める。次に、白い大皿に盛ったカキフライが出てきた。トンカツに添えられるような、付け合わせの千切りキャベツが山盛りになっている。その脇に、丸々と太ったカキのフライが4個並んでいる。フライの下にはタルタルソースが敷かれ、そのほか半切りのトマト、ポテトサラダ、レモン2切れが、同じ皿に盛りつけてあった。妻の料理が来るのを待って、私はレモンを絞ってフライにかけ、食べはじめた。カキフライは、1口で食べられないほど大きかった。そんな場合、安い店では“衣”を分厚くしてあるのだが、この店の“衣”は薄く、ジューシーなカキの味が口の中に広がった。「なるほど、人が並ぶはずだ」と私は思った。
 
 旬の食材を使ったボリュームのある昼食をいただいて、2人は満足して店を出た。難を言えば、店の混雑と忙しさが気になった。また、我々の年齢では、昼食としてはボリュームがありすぎる。しかし、若いビジネスマンや女性にはピッタリの内容なのだろう。「もう一度来るか?」と訊かれたら、多分、昼にはもう来ないだろう。休日のアドベンチャーとしては、味だけでなく、スリルも十分楽しめた。
 
 谷口 雅宣

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2009年2月 3日

早くも節分

 このあいだ新年になったばかりと思っていたら、もう節分だそうだ。日本の伝統を重んじる妻には、「忙しいから…」という理由で節分を省略することは許してもらえない。夕方に帰宅したら、食堂のテーブルの上にはきちんと料理が整えられている。それを見て、私は思わず、
「わぁー、きれい!」
 と言ってしまった。
Setsushi  関西方面では、節分に豆まきをするだけでなく、お寿司を食べるのだという。ごらんのように、太巻きに酢蓮根、金目鯛の澄まし汁、菜花の白和えの並んだ食卓を、妻は用意しておいてくれた。ここまでしてもらったので、私は豆まきで“鬼役”を演じようと心に決めたのである。
 
 食事の話題は、季節のめぐりの速さである。妻は、庭の紅梅の花のついた枝を、隣家の母宅へ持っていったことを話し、私は今日、街でフキノトウを見つけたことと、庭の池の周りにまたヒキガエルが出て、コロコロと鳴いていたこと、門を入った暗がりで1匹を踏んでしまったことなどを話した。
 
 夕食の後は、古式にのっとり豆まきの儀式--ということになるところ。しかし、何せものの本によると、豆まきの起源である宮中の追難式(ついなしき)では、殿上人が鬼に扮した舎人(とねり)を追い回し、桃の弓に蘆(あし)の矢をつがえて射るという大がかりなもの。とてもそこまでできない我々は、妻が殿上人、私が鬼になって、ごくごく簡単に、奇妙な豆まき遊びをしたのだった。

 節分や豆から逃れ蟇を踏む

 谷口 雅宣

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2009年1月15日

休日のモーニングサービス

 休日を利用して、自動車運転免許証の更新をした。更新場所は、家からいちばん近い「新宿センター」という所へ行くことにした。公安委員会から来た案内葉書によると、都庁の第二本庁舎2階にあるという。5年前も確かそこで更新したはずだが、記憶が定かでない。ただ、大勢の人が列をつくっていて、手続きに時間がかかったという印象があったから、朝一番で行って午前中にすませられれば幸いと思った。受付は午前8時半から始まるというので、それなら朝食を新宿駅周辺でとり、その足で更新場所へ行くのが効率的だと考えた。同行してくれるという妻に「待ち時間は長いかもしれないよ」と警告すると、「読みたい本を持っていくから大丈夫」という答えだった。
 
 平日の朝の新宿駅は大混雑だと覚悟して行ったが、まだ7時半すぎだったので、案外楽に歩けた。妻は月2回、西口の住友ビルへ古典文学の講義を聞きにいっているので、土地勘がある。それにひきかえ私は、新宿駅の混雑が苦手で、特に迷路のような地下街は敬遠してきた。そこで、朝食場所探しを彼女に任せると、妻はすぐにコーヒーショップやレストランのある場所へ私を連れて行ってくれた。
 
Mtimg090115  喫茶店でモーニングサービスを食べるなど、何年ぶりかと思う。前回、モーニングサービスを食べた時の記憶はまったくない。ひょっとしたら記者時代以来かもしれない。何かわくわくした気持で妻の見つけた店に入り、それをメニューから注文する。出てきたのは、側面が波を打った楕円形のグラタン皿のようなものの中に、サラダとオムレツとトーストを盛り上げた“豪華版”だった。名古屋の喫茶店のモーニングサービスはスゴイと聞いているが、それほどではなくても、私には十分な量だった。

「時間がかかる」と思っていた免許証更新は、流れ作業のような手続きによってテキパキと進み、9時半すぎには終ってしまった。交付された新しい免許証にはICチップが埋め込まれていて、そこに個人データが記録されているという。その代り、免許証の表面にある「本籍地」の欄が空欄である。説明によると、本籍地の情報はICチップには記録されていても、表示されないのだという。今回は本籍地が空欄だが、次回以降の更新で「住所」も「氏名」も順次表示されなくなるとか。個人情報保護のための措置だというが、何となく奇妙な感じだ。最終的には、「普通」とか「中型」などという免許の種類と、顔写真だけが表示されるようになるらしい。

 都庁から新宿駅へもどる途中で、発売されたばかりの小型ノートパソコンのデモをやっていた。ソニーのVAIO「タイプP」という製品で、“ポケットスタイルPC”と銘打ち、「ズボンのポケットに突っ込んで持ち運べる」という触れ込みだ。私はこの類の小型パソコンを待望していたから、さっそくキーボードのテストをしてみた。ソフトなタッチで打ちやすいことは打ちやすい。が、使いなれている現有のレノボ製品のような“指応え”がなくて、頼りないといえばいえる。また、小型化しているだけあって、キーの配置がやや不自然だ。特に、頻繁に使う[Enter]キーの位置が現有のものと若干ズレているのが気になった。が、これらは慣れの問題かもしれない。気に入ったのは、重さが「640g」と軽い点。ただ、問題はその価格が「約10万円」と高いことだ。他社の動きを見てから、また考えようと思った。

谷口 雅宣

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2009年1月14日

父と息子

 前回の本欄で、父が18歳の私を海外への講演旅行に誘った理由について触れた。これは、本人に直接訊いたことではないので断定はできないが、子供の教育や教団運営における父の「自由尊重」の精神を実地に体験している立場から考えると、「もっと広い世界を見せてやろう」という父の愛と子への期待が背後にあったと信じる。
 
 1970年の父母のブラジル講演旅行の翌年に発刊された父母の共著『通い合う愛』(日本教文社刊)の中に、父が自分の父(荒地清介)について書いている文章がある。私の父は、結核療養所に入っていた時に自分の父が亡くなったことを、次のように表現している--
 
「私が療養所に在所中、父が山口市で死没したという報を受けましたので、私は急いで帰郷致しましたが、父の死に目には会えませんでした。私の成育を楽しみとし、私の行動にたいして全面的に信頼して、私の自由を完全に許してくれた父が死ぬ迄に私は何一つ親孝行の行ないをせず、未だ社会に出て安心させることもなく、遂にあの世へ旅立たせてしまったかと思うと、私は涙が流れて仕方がありませんでした」。(p. 250)

「息子に自由を与える」という教育法は、だから父が荒地の祖父から学んだものであることが分かる。父の場合、それによって紆余曲折はあったものの結局、生長の家の信仰にたどりついき、そして「この生長の家の大真理を、全人類に向かって宣布する使命を戴いたことを、誠に幸せであると思うものであります」(谷口雅春大聖師追善供養祭での言葉)との実感を得たのである。だから、父には「自由を与える教育は正しい」との信念があったことは疑う余地がない。
 
 ところで、父は1970年の14前、36歳の時にもブラジル等へ講演旅行をしている。この際は足かけ5カ月間の長旅で、しかも初めての海外旅行である。そして、その印象を、後の著書『キリスト』の「はしがき」にこう記している--
 
「私がブラジル、ペルー、アメリカ等に講演旅行を続けていたとき、本書の出版計画が私に知らされたのであった。私はその頃、痛切にキリストの偉大な御教えとその業績に打たれていた。ブラジルの街々を訪問すると、先ず第一目につくのが、高くそそりたつキリスト教会であり、キリストの像であった。凡ての国民によって日曜日は教会へ行く日と定められ、カナダ等では酒類の一般販売も禁じられ、日曜日のスポーツ、娯楽等も制限せられて聖なる信仰の集いが護られている州も沢山あった。私はこれら新大陸に於て今もなおキリストが生きつづけているのを感じた」。
 
 このような強い印象を、息子にも味わわせてやりたいと思ったに違いない。当時の日本は政情不穏が続き、学生は勉強などせずデモや投石を繰り返しているばかりだ。そんな中で、狭量な右翼少年のまま大学生活に入ってほしくない。もっと広い世界を知れ!--私には、そんな父の声が今も聞こえるような気がするのである。

 父が最初に出した本は、谷口雅春先生との共著『世界光明思想全集』である。これは、小冊子ではあるが全40巻ある。この全集が完結した年に、私が生まれた。その一部は、後に谷口清超宗教論集第5巻『光明思想の先駆者』(1971年、日本教文社刊)に収録されるが、その本の「はしがき」に父はこう書いている--
 
「これは“光明思想”の源流をさぐり、それを要約・紹介したものであり、この仕事もまだ完成されているわけではないが、既刊の中からも、その全部をここに収録することは出来なかった。それ故、世界の光明思想家の中のごく一部の人々の紹介にとどまるけれども、これらの人々は非常にすばらしい“神の子・人間”の境地に達せられた人々であり、吾々の信仰ときわめて近似しているのである。そこで、この一篇をひもとくことによって、きっと広大な光明思想の霊的裾野の原野を眺望し、その頂上のいかに高きかを推察して頂けることを確信する」。

 この文章が書かれたのは、父が息子を連れて海外講演旅行を行った翌年の秋である。生長の家を、東洋の小国に生まれた狭量な右翼的信仰運動だと考える視点は、ここにはない。このような“広い視点”を息子にもたせたいという願いが、父の本心だったと私は思う。
 
 谷口 雅宣

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2009年1月12日

古い記録 (6)

 今日は「成人の日」の休日であったが、わが家の子供たちはみな“成人済み”であるので、1日静かに過ごした。こういう日には昔の記録の整理をすることにしているので、ちょうど私が成人した頃の写真をネガ専用のアルバムに収納する作業をした。それらの写真が今から37年も前のことだと思うと、自分も年をとったものだと、苦いような、懐かしいような、複雑な感慨が湧いてくる。

 昨年12月26日に、18歳のころの私の様子を少し書いたが、写真の整理をしながら思い出したその続きの話をしよう。私が青山学院高等部を卒業して、同学院の大学に入学したのは1970(昭和45)年の4月である。この直前に書いた私の文章を前回に少しご披露したが、相当カタブツで尊大な“右翼少年”であったことが窺われる。当時の騒然とした世相の危機を感じ、学生運動を初めとした左翼の動きを亡国的革命運動としてとらえ、その原因はすべて“占領憲法”にあるとの単純な論理に心酔していた感がある。そんな高校3年生が大学に入れば、当然、反左翼の学生運動--当時は“民族派”と呼んでいた--に身を投じるはずである。が、私の場合はそうならなかった。その理由の詳しいことは、いずれ書く機会もあるだろうから、その時に譲ろう。

 今回は、私と写真との関わりについて書く。それは、あれから35年以上たった今、何日もかけて整理しなければならないほどの写真が、そもそもなぜあるのかという理由になるだろう。父の追善供養祭の時には、故人の「自由を愛する」信条について述べ、それがなければ今の私はないという話をした。これは、父の精神的遺産であるが、これに対して“技術的な遺産”とも呼べるものが写真である。父が写真を数多く撮ったことは、本欄の読者はご存じと思う。父のほとんどの著書の表紙カバーには、自分で撮った写真が使われており、毎年の日めくり型“日訓”の表紙にも、父の写真が使われてきた。父はこれらの写真を、何台ものカメラと交換レンズを組み合わせて撮ってきただけでなく、フィルムの現像を--モノクロだけでなく、カラーも--自分で行った。そのための暗室が家にあるが、この場所は父の手作りである。私は、高校生の頃から、父に誘われてカメラをいじり、大学入学後は暗室作業もするようになった。

 だから、私が高校時代、新聞を発行する出版部に所属することになったのは、父の影響があると言える。写真を撮ることは新聞記者の仕事の一部だからだ。自宅に保存されている写真のネガで、私が撮った一番古いものは、1967年のものだ。私が高校1年の夏、青山学院高等部の生徒会の研修会が高峯高原であり、その様子を35ミリのハーフサイズのカメラで撮っている。その後、前に本欄でも紹介した大学での学生運動の写真、修学旅行で九州へ行った時の写真、生長の家の青年会全国大会、学校の文化祭、クラブ活動、教室のスナップ写真などが、20本ほどのネガの中に収められている。3年間で20本というのは、大した数ではない。だから、高校時代の私の写真の趣味は、それほどのものではなかったといえる。
 
 しかし大学に入ると、その数はいきなり幾何級数的に増えるのである。その契機になったのは、初めての海外旅行だ。これは、18歳の私にとっては“海外旅行”だったが、生長の家の運動ではその年のきわめて大きな行事であった。『生長の家五十年史』(1980年、日本教文社刊)によると、この騒然とした“70年安保”の年の7月20日から9月4日までの47日間、当時、生長の家副総裁だった父は、白鳩会副総裁だった母とともにブラジルへ講演旅行を行った。私は、その両親について行ったにすぎない。一大学生であった私には、生長の家の公式の役職は何もない。なぜついて行ったか私は憶えていないが、そのとき51歳だった父の方からアクションがなければ、私の同行はあり得なかったに違いない。この時、私は使っていた「アサヒペンタックスSP」という一眼レフ式カメラと交換レンズを数本もって、旅先でスナップ写真を撮りまくった。その時の写真はすべてモノクロだが、36枚撮りフィルムで22本が残っている。平均すると、1日当たり18枚ほど撮ったことになる。
 
 谷口 雅宣

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2009年1月11日

ジャガイモ2色

Mtimg090110  妻の実家からジャガイモが送られてきていたのを見て、その形と色に惹かれた。特に赤皮のジャガイモはあまり見たことがなかったので、「サツマイモみたいだなぁ~」などと思いながら絵に描いた。

 ものの本を調べてみると、ジャガイモは日本には明治以降、もっぱら欧米から導入されたものの、最初の栽培は西暦500年ころの中央アンデス中南部の高地だったという。ジャガイモの名称は、「ジャカトラ(現在のジャカルタ)港からオランダ船によって来たイモ」という説があり、これによるとわが国への伝来は江戸初期になるが、その頃の著作には名前が出て来ないらしい。栽培記録として最古のものは、宝永3(1706)年に北海道の瀬棚で植えたというものがあり、本州では明和年間(1764~72年)に甲斐(山梨県)の代官が栽培を奨励したというのがあるらしい。とにかく、寒冷地でもよく育つので、昔から食糧として世界中の人々から愛されてきたものだ。

 どこかにも書いたと思うが、妻はサツマイモ党であるのに対し、私はどちらかというとジャガイモ党だ。別にサツマイモが嫌いというのではないが、子供の頃から煮っ転がしやポテトサラダを食べていたからかもしれない。
 
 ところで、この赤皮の品種を特定しようと思ってネットで調べたが、写真を見てもなかなか分からない。赤い皮のジャガイモは珍しいと思っていたが、「ジャガイモ品種解説」のサイトを覗いたら、紅丸、ベニアカリ、花標津、スタールビー、レッドムーン、アイノアカなど、結構たくさんあることを知った。家にあるのは赤皮で黄肉だから「スタールビー」ではないかと思うが、自信がない。博学の読者からの御教示を待つ。
 
谷口 雅宣

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2008年12月22日

映画『PARIS』

 今日は夕方、渋谷の Bunkamura のル・シネマで封切りとなった『PARIS』という映画を見に行った。フランスの首都・パリを舞台とした現代のいくつもの人間模様を、同時並行的に描いていくセドリック・クラピッシュ監督(Cedric Klapisch)の作品である。私はこの監督のことをよく知らなかったが、クラピッシュ氏は「群像ドラマに長けた映像作家」ということで、『百貨店大百科』『猫が行方不明』『スパニッシュ・アパートメント』などの作品が日本でも人気だそうだ。ところが、これらの作品はパリを舞台としていても、「パリ」という街そのものを描いていなかった。また、都市を描いている作品は、同氏の母国・フランスではなく、ロンドンやバルセロナ、サンクトペテルブルクなどの外国の都市だったという。が、今回の作品で、同氏は初めてパリ自体を描いた。同氏自身の言葉によれば、この作品は「僕の過去の全作品と響き合っている」し、「今までやってきたことを総括したかった」のだという。
 
 映画に出てくる“人間模様”とは--①ソーシャルワーカーの姉とダンサーの弟、②ファッション業界にいる姉妹、③歴史学者の兄と建築家の弟、④市場の商人たち、⑤パン屋の女主人とエジプト人の使用人、⑥アフリカにいるカメルーン人、⑦魅力的女学生、などだ。映画の導入部では、これらの人々がパリを舞台に無関係に描かれていくが、やがて一部が重なり合い始める--ファッションモデルはカメルーン人に声をかけ、ソーシャルワーカーは市場に買い物に行き、ダンサーはパン屋でパンを買うために並ぶ。そして歴史学者は、教え子である美しい女学生に惹かれていく……。クラピッシュ監督に言わせると、「パリのポートレイトを創りたいなら画一化してはダメだ。複雑なパリの街並みを認めること」が大切だという。この言葉の通り、映画の前半はなかなか複雑である。
 
 主人公は、上の①の関係にいる「ダンサー」で、彼は致命的な心臓病が発見されて、移植手術を待つ身となる。すると、彼の中に人生に対する“新しい視点”が生まれる。それは、一種の“旅人の視点”だ。まもなくこの人生の全てを置いて旅立つかもしれない彼にとっては、人生の出来事のすべてが、美しく楽しいものはもちろん、生きていくための人々の不満も、いさかいも、心配も、苦しみも……すべてが愛おしく、貴重なものに感じられるのである。そして、ダンサーは、エッフェル塔の見えるアパートの高層の部屋からバルコニーへ出て、パリ全都で行われている人々の営みを見るともなく、想像する作業に身を委ねる。

 クラピッシュ監督は、この手法によって描きたかったことを、こう表現する--「孤独な人々にも互いに交差する道はあるものだ。多くの映画はひとりの人生を描くが、この映画では様々な人の生活の断片を追うことで、たくさんの道があることを描きたかった。個々の道が集合的な感情を創り上げているんだ」。私は、この意図は本作品において見事に実現されていると思う。映画の最終部では、主人公が移植手術のためにタクシーで病院へ向うシーンがあるが、その時、彼が車窓から見るパリの風景の中に、①から⑦までの登場人物すべてがあり、それぞれが独自の人生を生きつつあることが巧みに表現されていく。そして、困難な手術に直面して「死」を覚悟しているはずの主人公が、人生のすべてを容認する心境を得て幸せな顔をしていることに、映画鑑賞者は気づくのである。

 私は、パリには一度しか行ったことがないが、本作品を見てまた行きたくなった。フランス映画は、憂鬱で暗い作品が多いと言われるが、この作品は人へのニヒルな愛情に溢れていて好感がもてる。個々の登場人物の生き方にはいろいろ問題があるが、それら人間相互の様々な営みのすべてを受け入れ、愛しむ視線がある。それは日時計主義にも通じる所があると思うのだ。
 
 谷口 雅宣

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2008年12月21日

柿とハエ

 最近、自宅1階の北側のトイレの窓に、ハエが2匹いるのを見かける。正確に言うと、窓ガラスの内側に張った網戸にとまっているのだ。体長1センチほどで、イエバエやキンバエのように胴は丸くなく、全体がほっそりしているので、「スマートなハエだな」と何となく好感がもてる。冬のハエらしく、飛び回らないで静かにそこにいるだけである。トイレで見つける前に、実は居間にも数匹が飛んでいるのを妻が見つけ、「どうしてこんな所にいるの!」と言いながら追いかける姿を私は見ていた。だから、そのときのハエがトイレに避難してきたのだと解釈する。ハエは、「うるさい」という言葉の漢字表記に「五月蠅」を使うくらいだから、春は人間の迷惑になるが、静かにしていればどうということはない。それに、食堂や居間ではなく、トイレにいるのだから「所を得ている」ように思われ、そっと放置している。
 
 私がこの2匹のハエに妙な慈悲心を向けるのには、もう一つ理由がある。それは、わが家の軒先に下がっている干し柿と関係がある。この干し柿は、数カ月前、皮を剥いてまだ干してない“ナマ”の状態のものを信徒の人からいただき、それを干しているところだ。当初、美しい橙色をして丸かった実は、もうしぼんでシワも深くなり、黒っぽくなっている。つまり、干し柿は完成間近なのだ。が、送ってくださった人には申し訳ないのだが、吊るしている間にいくつかにカビが発生し、またハエが来てなめていた。それを見て私も妻も恐れをなしたが、まだ吊るしている。途中で投げ出したくないからだ。ハエが半ナマの柿にとまってしばらくたってから、家の中にハエがいくつか侵入したのである。わが家の窓にはすべて網戸がしてあるから、普通はハエは入らず、入っても1~2匹だから、すぐ追い出されるか退治される。が、侵入バエは少し小型で、なかなかつかまらない。私の想像は、侵入バエは柿から生まれた“柿太郎”ではないかというものだ。
 
 歌人の小池光さんが、今日の『日本経済新聞』に「蠅--立ち向かう世の悪意の象徴」という題で一文を書いている。その中で、ハエの“二面性”を鮮やかに対比しているのが面白い--①人間にとって撲滅するよりない運命を負わされている生き物の典型にして永遠の代表、②動物の遺骸をすみやかに処理、消滅せしめる……途方もない生命力、繁殖力そして飛行能力も、きわめて優秀な昆虫マシーン。私は、この中間の見方をすることもできると思うのだ。それは、一茶の「やれ打つな……」の句にあるような見方である。小池さんは歌人だから、もちろんそれを知っているのだが、あえて言葉にしないのだろう。
 
 8月11日の本欄でも触れたが、私は庭で生ゴミからコンポストを作っている関係から、ハエ(の幼虫)にはずいぶん世話になっている。そんなわけで、冬のハエからも静かに立ち去る気持になれるのかもしれない。因みに、「冬の蠅」は冬の季語である。
 
 少し動きおのれ確かむ冬の蠅 (川端麟太)
 冬の蠅網戸に映る柿黒し
 
 谷口 雅宣

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2008年12月19日

3色サンドイッチ

 今日は午後1時半から東京の多磨霊園で納骨があるため、妻と私は早昼を食べることになった。諸準備が混むこんな日には、妻はよくサンドイッチを作ってくれる。朝食時に作ってしまい、タッパウェアに詰めて冷蔵庫に入れておく。あとは時間が許すかぎり2人とも仕事や準備をして、食べるときには皿に盛りつけるだけ。すこぶる簡単だ。食後も、洗いものは最小限ですむ。私は、料理は妻にまかせ、時間ぎりぎりまで机の前にすわっていたが、妻が中皿に盛りつけたサンドイッチを見て、その配色のよさに感心した。
 
 普通の白い食パンのほかに、カボチャを練り込んだ黄色い四角いパンと、ゴマやナッツ、穀類の入った黒っぽい楕円形のパンをそれぞれ薄切りにしたものの間に、いろいろの具が挟んである。レタス、マッシュポテト、トマト、キウリ、サーモン、コエビなどだ。パンも“耳”を切り落とさずに使ってあるので、その茶色がアクセントになっている。サンドイッチはもちろん食べるためにあるのだが、食べてしまえばせっかくの“配色”もなくなる。何かすごく惜しい気がしたので、3個を残しておいた。妻が「どうするの?」と訊くので、「いいことを思いついた」と答えた。これで多分、妻も察したと思う。
 
Mtimg081219s  納骨を終り帰宅した夕方、食べ残した3個のサンドイッチを絵に描いた。初号にも満たない小さい正方形のカンバスを使おうと思っていたので、妻が普及誌のために原稿を書いている間に、さっさと完成させるつもりだった。が、予想外に時間がかかった。暖房した部屋で描くから、サンドイッチはしだいに乾燥してパンが反り返ってくる。まあ、それでもいいと思いながら、夜の10時ごろに完成した。妙な趣味と思われるかもしれないが、見るためのサンドイッチがあってもいいと思うのだ。

 谷口 雅宣

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2008年12月 4日

都会の紅葉狩り

 今日は木曜日の休日だったので、母を誘って紅葉狩りへ行った。こう書くと、都心から郊Momiji081 外などへ出かけたように聞こえるかもしれないが、都心も都心、明治神宮外苑へ行っただけである。本欄にも書いたことがあるが、ここは私のジョギング・コースに入っているから、決して珍しい場所ではない。実際、2日の火曜日に、私はここを走った。が、今日は親孝行が目的だった。父が亡くなってから、母は原宿の家を離れることが少なくなった。しかし最近、「紅葉が見たい」との希望を漏らす余裕を見せてくれるようになったので、好天の休日を逃す手はないとの妻の提案を、私も二つ返事で受け入れたのである。

 3日前のジョギングの際、有名なイチョウ並木の下を、私は左右に体を跳ばせながら、Momiji082 かろうじて人にぶつからずに走れた。それほど多くの人々が各地からやってくる。観光バスも5~6台いたと思う。多くは中高年の女性だが、長いレンズ付きのカメラを提げた男性も、デート中の若い男女もいた。今日も同様の状況だった。人々は、黄金色の葉が散り敷いた並木道で目を輝かせてカメラを構え、また天の方向を仰ぎ見ている。鉛筆のように上端部を尖らせた銀杏の木々が、頭上に列を作って並んでいる。水平方向に目をやると、どこまでも続く金色のトンネルだ。私たちも人々の仲間に入り、何枚か写真を撮ってから、開いていた門を抜けて並木道から脇へ入った。
 
Momiji084  黄色一色のイチョウ並木とは異なり、ここは人通りも少なく、豊富な色が満ち溢れた空間だった。イチョウのほかケヤキ、カエデ、サクラ、クスノキ、スズカケなどが、それぞれの持ち味のある色を誇らしげに、惜しげもなく、空中に、地上にばら撒いている。私たちは、ここでしばらく時を過すことにした。その際に撮った写真を何枚かここに掲げよう。初冬でありながら、やさしく、豊かな秋をしみじみと感じたよい半日だった。

谷口 雅宣

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2008年11月28日

27・28・29

 今日は「28日」ということで、こんな題をつけてみた。前後に「27」と「29」の数字があるが、これは昨日が11月「27日」で、妻と私の「29回目」の結婚記念日だったからである。もう1つ「27」について言えば、妻も私も27歳のときに結婚した。そんなわけで、27日には、私たちは休日の木曜日を利用して、新婚生活の思い出がある横浜まで足を延ばし、ひと時を過ごした。

 横浜をめぐる私たちの若い頃の話は、2005年の5月と7月の本欄に少し書いたから、興味のある人はそちら(5月18日同19日同23日7月7日)を参照してほしい。今回の記念日は、あいにく雨模様の寒い1日だったが、私たちは雨がかからない「みなとみらい地区」で散歩や食事をしたり、車の中から日本大通りや海岸通りの黄金色のイチョウ並木を鑑賞した。
 
 横浜市は来年、1859年(安政6年)の開国・開港からちょうど150周年を迎えるというので、みなとみらい地区をメイン会場とした「開国・開港Y150」という大イベントの準備に大忙しの様子だった。これでまた周囲の風景が大きく変化することになると思うと、古い記憶を懐かしがる(私のような)ご仁には、ますます眩しい場所になっていくのかもしれない。
 
Mtimg081128_2  昔、横浜港の遊覧船に「赤い靴号」というのがあったが、今はなくなり、代りに市営観光バスの「赤いくつ号」というのが走っている。桜木町からみなとみらい地区、山下町、中華街、元町、山手あたりを回る。この「赤い靴」とは、野口雨情が作った「赤いくつはいてた女の子~」という歌の発祥がこの辺だということで、横浜ではいろいろの用途に使われている。これにちなんだチョコレート菓子もあり、私はそれを土産として買って帰ったのである。

 谷口 雅宣 

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2008年10月28日

谷口清超先生、ご逝去される

Seichoemiko  生長の家総裁、谷口清超先生は、10月28日午後10時21分に老衰のため、東京・渋谷の生長の家総裁公邸にて亡くなられました。満89歳でした。ここに謹んでご生前のご法恩に篤く深く感謝申し上げるとともに、これからの生長の家の人類光明化運動・国際平和信仰運動を高き霊界からお導き下さることを心から祈念申し上げます。先生、永い間、本当にありがとうございました。
 
 谷口清超先生は、2005年2月20日に長崎・西彼町(当時)の生長の家総本山で行われていた団体参拝練成会の際に倒れられ、長崎市の原爆病院に入院され、その後帰京して静養生活をされていた。先生は静養中も、生長の家の普及誌や機関誌の原稿を執筆されていたが、機関誌3誌の本年4月号に掲載されたご文章「本当の愛について」が、発表されたものとしては最後のものとなった。このご文章の末尾には、「平成二十年一月十日」という日付が書かれている。
 
 谷口清超先生は、1985(昭和60)年に生長の家創始者、谷口雅春先生のご逝去にともなって2代目の生長の家総裁を襲任され、以後23年間、全世界の生長の家の中心者として、世界では20世紀末から21世紀にかけて、日本では昭和から平成へ移る激動の時代に、不変の真理を説き続けられた。特に、1948(昭和23)年9月から1994(平成6)年3月まで46年間続けられた生長の家講習会では、毎年日本の全教区を回られるなどして、大勢の人々に真理を宣布され、数多くの救いを成就された。海外にも1956(昭和31)年にハワイ・北米・南米へ、1970(昭和45)年にブラジルへ、1977(昭和52)年には南北アメリカ大陸へご巡錫されるなど、万教帰一の教えを世界に述べ伝えられるとともに、海外の信徒に多くの救いと励ましをもたらされた。
 
 また清超先生は、国内の組織運動を改革されることで、女性信徒の組織である生長の家白鳩会が飛躍的に伸びる体制を作られた。これは、かつての単位組織だった誌友相愛会が、男性が女性を使う形で運営されてきたことで、女性の個性を生かした運動が生まれにくかった点を改革されたもの。これによって女性信徒が自立し、主体性をもって真理宣布の運動に取り組むことが可能となり、教勢は大いに拡大した。また、地方講師会を“組織の血液”として位置づけられることにより、相愛会、白鳩会、青年会の三者協力体制と「教え」との関係を明確化された。さらに先生は、政治活動に偏っていた1970年代の運動の弊害に気づかれ、1983(昭和58)年、政治団体であった生長の家政治連合の活動停止を決意されたことで、今日の生長の家の「信仰運動」としての基盤を確立された。

 谷口清超先生は、執筆、講話、組織運営以外の方面でも、今日の生長の家の運動発展に多大な貢献をされている。それは、生長の家の聖歌の作詞・作曲である。谷口雅春先生は多くの素晴らしい聖歌を作詞されているが、作曲はされなかった。清超先生は自らバイオリン、ピアノ、オルガンを弾かれ、作曲もされた。今日の生長の家の聖歌の3分の1弱が先生の作である。詳しく言えば、2003(平成15)年発行の『新版 生長の家聖歌歌詞』(日本教文社刊)に収録されている68曲の聖歌のうち、20曲が清超先生の作詞であり、そのうち15曲は自ら作曲もされている。先生の作品は形式に囚われず、独特の宗教性に溢れていて、歌うものに深い感動を与える。これは歌詞のことだけではなく、曲そのものについても言える、と私は感じている。
 
 清超先生は音楽だけでなく、写真や書もたしなまれた。特に写真では、生長の家の講習会で各地を回った際などに撮られた写真が多くあり、自著の表紙カバーに使われたり、写真集『何となく写した 谷口清超写真集』(1991年、世界聖典普及協会刊)として残っている。また、日めくりである『ひかりの言葉』の表紙写真も毎年担当されてきた。その日めくりの「平成21年版」の表紙写真が、発表されたものの中では最後の写真となった。この写真は、昨年秋、ご自宅の書斎の外に車椅子で出られて、南西の竹林方向にレンズを向けて紅葉のある風景を撮られたもの。

 谷口 雅宣

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2008年10月22日

歯磨きを使いきる

 仕事場で使っていた歯磨きがなくなった。別に珍しいことでも何でもない。世界中の数えきれないほど多くの家庭で毎日、起こっていることだ。私自身、過去に何回もしてきたはずのことだ。しかし今回は、なぜか爽快な気分がする。理由はたぶん、チューブの中身をほぼ完全に使いきったからだ。

 ひと昔前の歯磨きチューブは柔らかい金属製だった。その中身を使いきるためには、絞り出し口とは反対側の端からチューブを巻き上げていって、最後には、絞り出し口付近にたまっている歯磨きを力を込めて絞り出す。これがなかなか難しい作業で、どうしても中身のペーストが残ってしまう。まあ、それはそれでいいのだけれど、この力まかせの作業が大変だった。

 その次に出てきた歯磨きチューブは柔らかいプラスチック製で、今の歯磨きや化粧品のチューブは、ほとんどがこれである。この柔らかいチューブは、中身を絞り出すのは楽でいいのだが、その代り弾力があるので元の形状にもどってしまう。ということは、金属製のように巻き上げることができず、従って、中身がどれほど残っているかが外見からは分からない。また、チューブの内側に歯磨きが付着しやすいようである。だから、ペーストを完全に使い切るのは至難の技だった。少なくとも私には、そう思えた。

 そこでいつか、もう中身を使いきったと思った歯磨きチューブを妻に渡して、「新しいのを買っておいてよ」と頼んだら、
 妻曰く--
「あら、こんなの中にまだいっぱい残ってるわ」
 見えないのにどうして分かるのか、と不思議に思ったところ、
「この部分に、たくさん残ってるはずよ」
 と言って、妻はチューブの絞り出し口近くの、硬い部分を指差した。しかし、その部分は絞ろうとして指でつまんでも、どうしても小さい空間が内側に残り、その部分のMtimg081022ペーストは絞り出すことができない。そう言って口を尖らすと、
 妻曰く--
「あら、そんなの簡単よ。チューブを半分に切って内側から使えばいいのよ~」
 私はその時、妻の顔を尊敬の眼差しでまじまじと眺めたのだった。
 
 この妻の教えを守って、仕事場で使いきった歯磨きチューブの第1号が、今日私の目の前にあったのだ。清々しい秋の日、ハッカの香りを残し、中身がきれいになくなったチューブの、輪切りにされた姿を見て、私は思わず絵筆を取った。
 
 谷口 雅宣

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2008年10月16日

カボチャをくり抜く

 今日は休日を利用して、カボチャをくり抜いた。例のハローウィンの飾りのためである。最近は、このアメリカ産の秋祭が日本の街にもすっかり定着した感がする。あちこちのショーウィンドーや花屋の店先に、黄色いカボチャが飾られている。私が子どもの頃は、ハローウィンが何であるかを知る人は少なく、知っている人間は、こっそり“舶来製品”を身につけているような、何か妙な特権意識をもっていたものである。

 私がハローウィンのことを初めて知ったのは、恐らく中学の2~3年(15歳)の頃だ。それは、淡い初恋の思い出と重なっている。当時、私が通っていた青山学院中等部では毎年、英語のスピーチコンテストをやっていて、私はそれに出場したことがある。その頃、東京・渋谷の宮益坂に英会話学校があり、私は両親に勧められてそこで英会話を勉強していた。そんな関係で、英語を話すことは苦手でなかったようだ。そのスピーチコンテストに1学年下の部で出場した女の子に、私は好意を寄せていた。その子は、アメリカに短期留学したか、あるいはホームステイをした時のことをコンテストで話し、そこにハローウィンが出てきたのだった。子供たちが仮装をして近所の家を回り、「Trick or treat!」(ごちそうくれなきゃイタズラするゾ!)と言う様子を彼女が楽しげに話したのを、私はドキドキしながら聞いていた。

 ハローウィンの由来については、2005年10月27日の本欄に書いたので繰り返さないが、起源は古代ケルト人のサムハイン(Samhain)祭と言われる。死の神であるサムハインを讃え、新しい年の到来と冬を迎えるための祭で、10月31日の夜には死者の魂が家に帰ると信じられたらしい。今日の日本ではそんなことは問題とされず、2月のバレンタイン・デーに次ぐ商業主義的西洋祭となっている。
 
Mtimg081016  子どもがまだ小さい頃は、私はサッカーボール大の大きな黄色カボチャをくり抜いたものだが、それを面白がってくれる人はもう妻だけになった。そこで今日は、夫婦で渋谷へ買い物に行ったついでに、花屋で売っていた直径9センチほどの黄色カボチャを2個買った。そして、“笑顔”と“怒り顔”の夫婦カボチャに仕立ててみた。作ってみて、気がついた。カボチャを人の顔の形にくり抜くという行動は、対称性論理にもとづいている。生物学的には全く異なる「人間」と「カボチャの実」という2つのものが、これによって対称性を獲得して“似たもの同士”となる。我々夫婦は、これからしばらくの間、このいずれかのカボチャに自分を同一化して生きることになるだろう。

 もう一つ気がついたことは、サムハイン祭も対称性論理にもとづいているということだ。毎年“あの世”から“この世”へ死者の魂が帰ることを宗教行事とすれば、生者と死者は、いくばくかの対称性を獲得する。日本の“お盆”の習慣とも似ているようだ。
 
 谷口 雅宣

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2008年9月 4日

黒ハトと灰ハト

 休日に横浜へ行った。天気が好かったのが幸いし、暑い中でも秋の気配が感じられるひと時をもてたことは、ありがたかった。
 
 ところで、泊まったホテルのバルコニーに出ていたら、ハトが飛んできて妙に馴れ馴れしいのである。何かを要求するような顔で私に近づいてくる。私は鳥は嫌いではないが、“初対面”の鳥が、しかもネコほどの大きさのものが無造作に近づいてくるのには慣れていない。妻は、鳥インフルエンザを警戒して部屋の中へ入ってしまったが、私はこの貴重な機会を生かして“都会の鳥”とのコミュニケーションを試みようとした。
 
 よく見ると、この鳥の足には指がないのである。人間でいうと、足首から先が潰れて丸くなっている。自動車事故かネコの襲撃によるものかと思い、かわいそうになった。が、“本人”は結構元気で、バルコニー下端の平らなコンクリートの上を軽々と歩いているのだった。が、そこへもう1羽のハトが飛んできて、いきなり“戦い”が始まった。何を争うのか私は検討もつかなかったが、弱そうに見えた足の潰れたハトは、反撃して襲撃者を追い返した。私は、その様子をカメラで捉えることができたので、ここにご披露する。

 近くに巣でもあったのだろうか。“平和の象徴”のハトも、戦うときには戦うものだと思った。

 谷口 雅宣

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2008年8月22日

生物多様性に注目 (2)

 宇治の大祭からもどってきたとたんに、東京地方は涼しくなった。昨日は休日だったおかげで1日ゆっくりできたが、夕方、食事をしに妻と渋谷へ出かけようとしていたら、雷が鳴りはじめ、稲妻がまぶしく閃いて、勢いよく雨が降り出した。夕方のスコールだからそのうち上がると思い、家の中で小一時間待ってみたが、なかなか上がらない。そこで2人は、傘をしっかり握りながら出発した。夕食が終わったら、幸い雨は上がっていた。が、その代わり寒いほどの涼しさだった。ポロシャツ1枚しか着ていなかった私は、体温を逃がさぬよう両腕を胸の前に組んで歩いた。その日の夜は、久し振りに布団を掛けて眠ることができた。
 
 17日の本欄で「生物多様性」について書いたら、ムカデやスズメバチがいる中で暮らしてKemumpus いる読者から、「人間の都合と生物の凌ぎ合いは、なかなか一筋縄ではいかない」とのコメントをいただいた。その通りだと思う。実は昨日、私もそれを実感する経験をした。毎朝の日課である生ゴミの処理のため、庭のコンポストへ行った私は、その近くに立っている若いクヌギの木を見て驚いた。若緑の葉が繁る枝の上を、体長20センチほどの濃紅色の体をくねらせた毛虫が、いっぱい這っているのである(=写真)。数を正確に数えなかったが、20匹以上はいた。体一面に生えたその灰色の毛の長さが、いかにも毒々しく見える。私は一瞬途方に暮れたのである。

 わが家の庭には、クヌギの木はこれ1本しかない。そう断言できるのは、この木は私が「実」の段階で植えたものだからだ。子供たちがまだ小さい頃、神奈川県か東京の三多摩地区の自然公園に行った際、そこに落ちていたクヌギの実を拾って植木鉢に植えた。それが成長して、今や2メートルを超える高さに育った。そんな思い出のある木を、醜い姿の毛虫が寄ってたかってイジメテいる--そう考えると、「生物多様性」を喜ぶ気持などどこかへ行ってしまうのである。それで結局、こう考えた。毛虫が死ぬことでその親であるガが死滅することはないだろう。しかし、ここに1本しかないクヌギの葉が全部食われてしまえば、クヌギはこの地から消滅する。したがって、毛虫を殺すことは生物多様性を傷めることではなく、守ることである。一応こう考えたが、この論理が本当に正しいかどうか、私は分からない。それよりも、毛虫に対する自分の嫌悪感が先に立ち、論理は後からついて来たのかもしれない。
 
 クヌギについた毛虫たちは、こうして殺虫剤の攻撃を受けることになる。1~2匹ぐらい残しておこうかとも思ったが、クヌギの葉はすでに大半が食べられてしまっていたから、毛虫を残しておくと食いつくされる可能性があると思った。その後、しばらくして現場を見に行った妻の報告によると、木から落ちた毛虫たちが固まっている場所に、1匹の大きなヒキガエルがいたそうだ。普通彼らは、人間の姿を見ると身を隠そうとするが、そのヒキガエルは彼女の姿など眼中になかったのだろう、という。ヒキガエルが毛虫を食べるかどうか、私は調べていない。が、食べるとしたら、そのヒキガエルの命がどうなるか、私は心配になった。殺虫剤の種類や毒性によっても影響は違うだろうが、カエルまで巻き添えにしたくなかった。
 
 殺虫剤は、一般には果物の栽培時にもよく使われている。そうしないと、見栄えや生産効率の面で商品価値が下がるからである。が、自家用のものは、一般の農家では農薬の使用を最小限にとどめるらしい。わが家でできる果物--ミカン、レモン、イチジク、ブルーベリー、キーウィー--は、もちろん無農薬だ。だから、虫や鳥が来て食べる、という話はすでに書いた。今年のブルーベリーの収穫は終った。でき栄えは昨年並みだった。これからはイチジクの収穫の時期だが、これはカラスとの知恵比べとなる。すでに1個を人間が食べ、1個をカラスに持って行かれた。

 果物のことでもう1つ言えば、今日、ジョギングの帰途に、狭い路地で青柿を拾った。涼しい日に青柿を拾うと、暑い夏もさすがに終りだとの気分になる。
 
 青柿の割れずに落つをみつけたり
 青柿の落ちる小路や力あり
 
 谷口 雅宣
 

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2008年8月 3日

赤塚不二夫さんを偲ぶ

 マンガ家の赤塚不二夫さんが亡くなった。中学・高校と「おそ松くん」や「天才バカボン」を読んで育った私としては、赤塚さんが私より1回り以上年長であるにもかかわらず、「一時代が終わった」と寂しく感じる。1日の本欄を読んだ読者は、高校時代の私は学校の新聞紙上で論陣を張る“硬派”のような印象をもったかもしれない。しかし私は、その一方で、教室や出版部の部室で友人と『少年サンデー』や『少年マガジン』を読んで笑い転げる普通の高校生でもあったのである。また、授業の合間に、ノートの隅にチビ太やイヤミ、デカパンの絵を描いていたことも憶えている。
 
 私は若い頃に赤塚さんのナンセンス・ギャグから“笑い”を大いに頂戴したのだが、結婚後にも“父親”として再びお世話になった。というのは、子どもが小学校へ通いだすと当然、テレビを見たり、マンガを読むようになるが、巷には質の良いマンガが少ないのが親の悩みだった。特に子どもに小遣いをあげるようになると、彼らは本屋へ行って自分でマンガが買えるから、エロ・グロや大人のマンガに触れる機会が生まれる。そういうリスクをできるだけ減らそうと思い、考えついたのが、父親が自分で選んだマンガをどんどん買ってしまうという方法だった。
 
 私は子供のころ、赤塚不二夫だけでなく、横山光輝、桑田次郎、石ノ森章太郎、白土三平、水木しげる、手塚治虫……などのマンガに親しんだ。これらの作家の作品は、スケールの大きさや物語性、人生の描き方、絵の質などで優れていると感じていたので、それらを先に子供たちに味わわせれば、二流・三流のマンガには興味を向けなくなるだろう、と考えたのだ。「悪貨良貨をくじく」と言われるが、その逆も可能であるに違いないと思ったわけだ。成長過程にある子供の心は、実際にはそんな単純にいかないのだが、親としてはそう思うことで安心したかったという面もある。そんなわけで、心配性の父親は、自分が子供の頃に読んだマンガの単行本を、機会を見つけてはいそいそと本屋で買い、子どもたちの本棚を埋めていったのである。
 
 こうしてわが家には、子供にとっては“一時代前”のマンガ文庫ができ上がった。その中でも、子供たちから最も人気のあった作品の1つが「天才バカボン」だった。特に2番目と3番目の子がこれの愛読者となり、同じマンガを何回でも読んだ。休日に部屋で静かにしていると思えば大抵、ベッドの上でマンガを開いてニヤニヤしているのだった。
 
 “恩人”と言えば大袈裟だが、こんな具合にわが家で二代続いてお世話になった赤塚さんの冥福を、心からお祈り申し上げます。
 
 谷口 雅宣

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2008年8月 2日

スズムシが鳴きだした

 2~3日前から、家で飼っているスズムシが鳴きだした。最初は小さく、たどたどしく鳴いていたものが、やがてリーン、リーンという大きな音で、他のスズムシと羽を合わせて合奏するようになる。その音を聴いていると、不思議と涼感を覚える。スズムシは「鈴虫」と書くのが本当だが、「涼虫」という文字がつい頭に浮かぶのである。
 
 わが家では、スズムシを昆虫飼育用の透明プラスチックのケースに土を入れて、飼っている。こうしておけば、秋になって死に絶えた後も、ケース内の土を残して掃除した後、冷暗所に置いておくだけで、土中に産みつけられた卵から翌年また子孫が生まれる。その前に、ケースの土に霧吹きで湿り気を与えることが必要だが、今年は、その作業の手違いから、白カビが発生してしまい、孵化した子虫の数は少なかった。ところが、隣家の母のところでは孵化がうまくいって、「数が多すぎる」ということで、虫が大勢引っ越してきた。母の家では、スズムシをもう数十年飼っていて、子虫が生れるとわが家にも“お裾分け”が来るのである。今年は、そのおかげで助かった。これで約1カ月間、夜間に涼しい音を聞き続けることができる。

 庄野潤三氏の小説に『山田さんの鈴虫』というのがある。近所に住む山田さんから「スズムシがいっぱいかえったからいりませんか?」と電話がかかってきて、奥さんが「うれしいわ」と言うと、かごに入れて届けてくれるのである。その時期は「9月のはじめ」と書いてある。正確には9月1日で、この後、「鳴かなくなるまで」という約束で約1カ月飼い続け、10月11日に再び山田さんに返すのである。この作品が発表されたのは『文學界』の2000年1月号だから、原稿が書かれたのは、恐らくその前年の10月ごろだろう。私がなぜこのように時期にこだわっているか、賢い読者はもうお分かりだろう。今日はまだ8月2日なのだ。ということは、庄野氏がこの文章を書いた今から9年前と比べると、スズムシが鳴き始める時期が1カ月早いことになる。庄野氏は川崎の生田に住んでいるから、気候は東京とほぼ同じと考えていい。とすると、これは温暖化の影響か?
 
 スズムシが卵からかえる時期は、もちろん年によって多少違うことはあるだろう。また、自然にかえすのでなく、人工的に孵化させる場合は、霧吹きを始める時期や、卵の入った土を保管してある部屋の温度とも関係があるだろう。さらに、私の手元にある百科事典には、スズムシの「成虫は8月ごろから出る」とあるから、庄野氏が上の作品を書いた年が、たまたま孵化が遅かっただけかもしれない。
 
 今日も暑かった。東京は32℃ぐらいになっただろうか。東海より西では、さらに気温が高くなるとの予報だったが、実際どこまで上がったか私は知らない。読者の方々も熱中症などにならぬよう、気をつけてお過ごしください。暑さがこたえる時はスズムシの鳴き声でも聴いて、涼気を感じていただければ幸甚である。その一助として、わが家のスズムシの合唱を以下に掲げる。

 谷口 雅宣

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2008年6月15日

父の日に感謝する

 今日は「父の日」であるから、父に感謝の思いを表すために贈り物をした。とはいっても、読者もご存じのように、私の父はまったく欲のない人であるとともに、自分の必要なものは自分で買うし、すでに何でももっている。だから、私たちのこれまでの選択は、夏物のシャツやパジャマ、父が好きなクラッシック音楽や落語CDなどだった。が、近ごろはそういうものも揃ってしまったので、今年は別のものを考えた。それは、最近ブラジルで出版されたポルトガル語版の拙著『日々の祈り』(Oracoes Diarias: Pela Grande Harmonia entre Deus, a Natureza e o Ser Humano)である。ポルトガル語は父も私も読めないから、贈り物として意味がないかとも考えたが、この本がブラジルでも読まれるようになることを父に知ってほしかったのである。その旨を本の扉に書き、朝の挨拶の時に父に手渡した。父はベッドの上で仰向けになったまま、両手を天井に向けて突き出した格好で本を眺め、ページを開いて文字の上に目を走らせていた。父は英語は読めるから、ポ語の単語でもその意味をある程度推測できるのだろう。
 
Etegm0805152  実は、私はこの本の装丁が気に入っている。表紙は黄土色で革のような重厚感があり、背の部分が焦げ茶に切り替えてある。一見すると革表紙で背が布貼り風だ。その感じを、紙に印刷するだけでよく出している。表紙の文字は金箔押しで高級感がある。大きさは、日本の新書判より幅がわずかに広いだけで、手によくなじむ。ブラジルの人々に大いに利用していただければ幸甚である。
 
 夕食は、久々に3人の子どもが自宅に集まり、妻の手料理で家族パーティーとなった。家族5人での食事は、半年ぶりである。大いに会話がはずみ、料理はどんどんなくなった。一段落して、デザートの時間になると、今度は私が子どもたちから贈り物をもらった。Efuto080615 麻のシャツと手帳サイズのスケッチブックである。また、長男はバリ島に行ってきたということで、お土産としてネコの形をした木製の置物をもらった。このネコは緑色で、大・中・小の相似形の3匹が1セットになっている。その顔を見て、私は驚いた。以前、私が国内で買ったネコの置物と同じ顔をしていたからだ。顔は同じだが、格好がうんと違った。以前からのものは、大人しく座った形だが、今回のネコは前足を前方に突き出し、尻を上げて伸びをしている。なかなか愉快な格好なので、絵封筒のデザインに拝借した。
 
 天気もよく、清々しい夜の空気の中、楽しくありがたい一日が終ろうとしている。
 
 谷口 雅宣

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2008年5月29日

ゆったりと休日

 雨の休日は普通、「あいにく」と形容したくなるが、今日は「幸い」と言える日だった。前日の天気情報で「朝から雨」と言っていたから、まず「どこかへ行こう」と思う必要がない。前日はちょうど、朝から午後3時すぎまで会議をしていて、そのあとは生長の家の機関誌の締め切りに間に合わそうと、根をつめて原稿を書いていて、午後6時ごろにそれを仕上げて編集部へ送信……というような仕事だったから、今日は息抜きがしたかった。その通りになったから「幸い」なのである。それで、朝食後、長年の懸案だった本とDVDの整理をすることにした。
 
 子供が家を出て行ってから、もう何年にもなるが、彼らの置いていった本と、その後に夫婦がそれぞれ買った本、また私が録画してためていたDVDとが同じ本棚の中でひしめいたのである。DVDにはABC、BBC、CNNなどの英語のニュースが記録してあり、ごくたまにだが、それを原稿の材料に使ったこともある。そのほかにもドキュメンタリーや映画の録画もあった。これらは皆プラスチック・ケースに収めて、その本棚に並んでいた。が、これらは利用頻度が少ないから、別の形で保管することにした。しかし、すべて一度に本棚から撤去するわけにはいかなかったから、今日はまず1段分を取り除いて、別のケースに収納した。これによって空いたスペースを利用して、本を文庫、新書、四六判にそれぞれ棚を分けて収納することができた。
 
 実は、この作業の途中で、古いVHSのビデオがまだ随分家に残っていることに気がついた。このうち重要だと思うものは残し、それ以外を廃棄するつもりでダンボールの箱に入れていくと、1箱がいっぱいになった。こういう作業をしながら考えたことは、「本当に必要な情報は、そんなに多くない」ということだった。好奇心が旺盛の若い頃は、「知らないものはみんな知りたい」と思って情報をできるだけ記録していくが、楽しむための映画の録画であっても、同じ映画を2回以上見たものがないことはないが、その数は本当に少ない。このことは本についても言える。だから、本や映画のビデオを手元に取っておくのは、実用的な理由からよりも、むしろ感情的(あるいは感傷的)な理由からの場合の方が多いのではないか。その感情とは、「一度感動を与えてくれた情報は、そのまま消えてしまっては寂しいから、物理的な形で取っておきたい」--というものだろう。

 午後からは、妻を連れ出してジョージ・クルーニー主演の映画『フィクサー』(Michael Clayton)を日比谷に見に行った。“典型的なアメリカ映画”という感じだった。善人と悪人が出てきて、映画の中途から終盤にかけて悪が猛威を振るうが、最後にどんでん返しで善が勝利してメデタシメデタシ……というわけだ。エンターテイメントとしてはこれでいいのだが、「どこか薄っぺらいなぁ~」という感想をもって映画館を出た。この映画のプロデューサーは、つい最近亡くなったシドニー・ポラック氏(Sydney Irwin Pollack, 1934-2008)だ。彼は、この映画で俳優としても出演していて、主人公の上司として悪の執行を指示している。その役柄と73歳の死とは直接関係があるとは思わないが、死因はガンだという。

 5月28日付の『ヘラルド・トリビューン』紙によると、ポラック氏の両親はロシアからの移民1世で、ともにプールドゥー大学に在学中に出会ったという。ポラック氏の作品のうち、私の記憶にあるのは『追憶』(The Way We Were, 1973年)と『トッツィー』(Tootsie, 1982年)、それに『コンドル』(Three Days of the Condor, 1975年)ぐらいだろうか……。妻は『追憶』が大好きで、VHSでもDVDでも何回も見ていた。私も、それが母校のコロンビア大学を舞台としているので数回見た。アカデミー賞で監督賞をとった『愛と哀しみの果て』(Our of Africa, 1985年)は昔、VHSに録画したがまだ見ておらず、DVDに移行してある。近いうちに見ようと思う。

 谷口 雅宣

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2008年5月20日

どんなご縁で……

 今日の朝食後の食器洗い中、妻と会話をしながら介護の話題になった。その時に妻が教えてくれた“ある作家”のエピソードが心に残ったので、読者の皆さんと共有したいと思い、ショート・スピーチ(約2分)をやった。このとき妻は“ある作家”の名前が思い出せなかったが、後で調べてくれたところによると、その人は耕治人(こう・はると)氏で、このエピソードが載っている本は、耕治人著『そうかもしれない』(晶文社、2007年)である。ただし、このエピソードの解釈は私たち2人のものであって、耕氏の本には書かれていない。
 
 谷口 雅宣

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2008年4月17日

原宿のタケノコ

 タケノコがおいしい季節である。このところの長雨のおかげで、わが家の庭の孟宗竹林からも三角形の黒い頭がニョキニョキと出て、日ごとに成長している。というわけで、休日を利用してタケノコ掘りをした。食べる分だけ採るのが原則だが、時に2つ並んで頭を出したり、とんでもない場所に出たタケノコは、掘られることになる。タケノコは、今年出た所から地下茎が伸びて来年新しく出るから、どのタケノコを掘るかは、竹林の全体の形を考えながら決めなければならない。面倒臭そうに聞こえるかもしれないが、クイズを解くつもりでやれば面白いものである。あの柔らかい口当りを保つために、掘ったタケノコはすぐに煮るのが原則。だから流れ作業のように、私が掘り、妻が料理した。
 
 小説『秘境』を書いたとき、取材のために山形県の鶴岡に何度か行ったが、そこでタケノコ料理の絶品とも言える「孟宗汁」に出会った。酒粕と味噌で味付けをした煮物で、「汁」とは呼ぶが水分はそう多くないから「煮つけ」に似ている。妻に所望して、採りたてのタケノコの「孟宗汁」をいただいた。山形県は孟宗竹の北限と言われているが、そこで生えるタケノコはアクがなく、刺身にできるそうだ。しかし、東京産の場合はアク抜きをした。その点、“本物”の孟宗汁とは違うかもしれない。

 谷口 雅宣

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2008年3月27日

幸せなひととき

 桜の開花宣言が出てしばらくたった休日ということで、横浜まで夫婦で足を延ばHanam03271した。花 見に期待していたことは言うまでもないが、主目的は5月初めの生長の家の組織の全国大会を期して出される単行本の校正や原稿書きだった。「旅先で校正する」と言うと奇妙に聞こえるかもしれないが、要するに“缶詰状態”に自分を置くためだ。自宅での休日はどうしても気が緩むし、周囲にいろいろのものがあるので誘惑が多いのである。「これさえ終えれば、後は花見!」と思いながら、周囲に何もないところで神経を集中する……ということで、とにかく形を整えるところまで仕事を終え、人々に混じってほんの少しだけ花見ができた。ありがたいことである。
 
 横浜港の大桟橋には、ちょうど上海から豪華客船の「飛鳥Ⅱ」(5万0142t)が入港したところだった。昼前には、これに「にっぽん丸」(2万1903t)も加わって、見物客もかなり出て、大桟橋周辺は華やかな雰囲気になっていた。が、私たちは、そういう混雑から少し距離をおいて、山手の丘の上へのぼり「港の見える丘公園」付近で午後の数時間を過ごした。私は、そHanam03272 の公園に日時計があるのを覚えていて、ついでに写真を撮りたいと思っていた。生長の家の講習会で「日時計主義」の話をする際に、実物の写真を見せるのが効果的と考え、これまでは十勝の帯広中央公園にある日時計の写真を使っていたが、そろそろ別のものに変えたいと感じていたのだ。

 公園にも、平日にしては多くの人々がいたが、大桟橋付近のように「列をつくる」ほどのHanam03273 人出ではなかったので、ゆっくりと写真が撮れた。まだ五分咲き程度のものがある一方で、満開のサクラが何本もあった。そういう木の周囲はほの白くなっているので、遠くからでも分かる。近づいていくと、必ずといっていいほど、高級な一眼レフ式のデジタルカメラを提げた中高年の人(男も女も)がいて、熱い目で満開のサクラを眺めているのだった。公園の外れに近代文学館があるが、その付近のサクラが何本も見ごろを迎えていたので、私も“中高年”の一員としてデジカメを構えて何枚か写真を撮った。そのあと妻と2人で、公園内の「山手111番館」という市が管理する木造の洋館へ入り、コーヒーとハーブティーを飲みながらケーキをつついた。幸せなひとときであった。

 旅に出て桜ケーキで花見かな
 
 谷口 雅宣
 

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2007年11月 2日

キノコ採りしませんか (3)

 10月31日の本欄を読んだ読者から、「キノコを採りたくても、近くに生えてないから……」という不満気な声が聞こえてきたので、ここで“裏ワザ”を公開する。それは「自分で栽培してしまう」のである。風通しのいい日陰があれば、シイタケはほぼ間違いなく栽培できる。だから、都会でもキノコ採りは楽しめる。JマートなどのDIY店で売っているホダ木を買ってきて、風通しいい日陰に立てかけておく。乾燥しすぎないように注意する。朝夕の寒暖の差が大きくなる春と秋の2回、シイタケは出てくる。自然に出るのを待つ方法と、ホダ木に刺激を与えて驚かせ、“芽”を出す方法がある。
 
 好きな時期にまとめて食べたいときは、“刺激法”がいい。わが家ではこのあいだ、刺激法で出したシイタケをおいしくいただいた。“芽”が出てから傘が成長する様子を動画にしたので、興味のある人はご覧あれ。

 谷口 雅宣

 

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2007年10月30日

ピーマンとショウガ

 稔りの秋は今たけなわ--ということで、ピーマンとショウガを描いた。どちらも必ずしも「秋の作物」ではないが、入り組んだ曲線と肌の輝きが魅力的なピーマンと、瑞々しい赤紫とピンク、緑の調和が美しいショウガを組み合わせてみた。
 
Peamanm  妻は今年、パプリカの苗を買ってきて植木鉢に植えかえ、家の東側の庭に置いた。オレンジや黄色の鮮やかなパプリカの実は私も好きで、食べる前に何回か絵に描いたことがある。が、この苗はぐんぐん育ったのはいいが、実ができてもなかなか色づかない。やっと1つ赤くなったのを最近採ったが、そのほかのいくつかは、緑のまま収穫した。この絵にあるのはそのパプリカではないが、外観はそっくりである。

 また、妻は最近、伊勢の実父から立派な新ショウガを4株ほどもらい、よく料理に使う。今日の私の弁当の中にも、香の物として入っていたので、おいしくいただいた。妻の父は、有機農法による野菜栽培に凝っている。それも素人の趣味の範囲を超えて、市場に出すほどになっている。私たちもそのおかげで、ときどき“産地直送”の新鮮な野菜をいただくのである。今回のショウガも単独でもらったのではなく、ジネンジョ、サツマイモ、サトイモ、ナス、キュウリ、ムカゴなどと一緒に、ダンボール箱に入って送られてきた。ありがたいことである。

 谷口 雅宣

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2007年6月 7日

ネコが子を生んだ

うちの庭に出入りしていた
ネコが子を生みました。

妻が朝食の準備のために
台所に立っていたとき、
ミャーミャーという鳴き声に気づいて
窓ごしに庭を見ると、
ツツジの潅木の下に横たわった
母ネコの乳に食らいついて、
子ネコが何匹も蠢いていたのです。

うちのノラたちは毎年子を生みつつ
世代交替していきますが、
生まれた子すべてが
生き残るとは限りません。
都会の自然ですが、
なかなか厳しいものがあるのでしょう。
母ネコの表情がそれを表しているようです。

谷口 雅宣

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2007年4月24日

谷口輝子先生に学ぶこと

 今日は午前10時から、長崎県西海町の生長の家総本山にある谷口家奥都城において「谷口輝子聖姉十九年祭」が行われ、私は妻とともに墓前に玉串を捧げ、参列者の方々と聖経の一斉読誦をしたあと、概略次のような挨拶をした。

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 皆さま本日は、谷口輝子先生の19年祭にお参りくださいまして、誠に有難うございます。谷口輝子先生は、生長の家創始者・谷口雅春先生の奥さまとして、また初代の生長の家白鳩会総裁として、深い愛と知恵をもって私たちの運動を導いてくださいました。我々の運動の“お母さま”と呼んでもさしつかえないと思いますが、輝子先生は単に優しい「お母さん」ではなく、間違ったこと、曲がったことには断乎として「ノー」という意志を明確にされる方でしたから、ときに“厳父”ならぬ“厳母”のような態度を示されるところが、また素晴らしいかったと思います。谷口雅春先生の追善供養祭のときに、輝子先生が「涙がこぼれる方はどうぞこの長崎の総本山のお庭に涙を捨てていって下さいませ」「お泣きになるような暇があったら人類光明化運動を一所懸命なさっていただきとう存じます」(『生長の火をかざして』世界聖典普及協会刊)と挨拶されたことは有名です。
 
「知恵」と「愛」とは神の御徳の中の重要な2つでありますが、そのバランスを保つことは簡単なようでいて、とても難しいことです。知恵ばかりが優れていて愛が伴わない場合、正しいか正しくないかで相手を裁いてしまい、そういう心で指導しても却って相手の反発をかうことがよくあります。また、愛が豊かにあっても知恵が伴わない場合、いわゆる“溺愛”する状態になってしまい、相手の誤りを正せずに、自分が相手とともに誤りを犯すような結果になることもあります。子供の教育でも、部下の指導でも、また夫婦関係、親子関係でも、相手の心境をよく見て、知恵と愛との双方をバランスよく発動することが重要であることは、皆さんも経験からよくご存じのことと思います。

 輝子先生の御著書に『こころの安らぎ』(1982年、日本教文社刊)というのがあります。そこに戦後まもない頃、輝子先生が東京の自宅で経験された話が書いてあります。今日はその話をご紹介して、輝子先生が知恵と愛をどのようにバランスさせて現実の問題を解決されたかを学びたいと思うのであります。
 
 (同書、pp. 72-75 を朗読)
 
 このエピソードがあった時代は、今日の日本の状態とはかなり違っていますが、人を指導するという面では、重要な点で共通していると思うのであります。それは先生の最後の文章にあるように、「叱ることも讃めることも、相手に対して愛をもって行う」ということです。正しいと思うことをゴリ押しするのでは叱るだけになってしまう。それでは足りなくて、その背後に愛があることを相手に示すことが必要です。特に昨今は、核家族化と都市化が進んでいる所では、親子の関係が近すぎて過保護になってしまったり、その逆に自由を履き違えた放任主義、不干渉主義になったりしがちです。また、隣近所との関係が薄くなり、家庭が孤立しがちです。さらに、社会が子を“次代の担い手”として見る視点に欠けているために、社会教育が軽視されていることが指摘されています。

 私の職場である生長の家本部は、東京の真ん中の「原宿」と呼ばれるファッション街にあり、周囲はかなり観光地化しています。そこへ修学旅行の高校生などが制服姿で歩く姿をよく見かけます。また、首都圏各地から見物に来る学生や若者も多いのですが、そういう青年の多くがあまり社会教育を受けていないようなのですね。社会の一員としての公衆道徳を教えられていないので、人が多く通る通路の階段に腰掛けてクレープやアイスクリームを頬ばっていたりします。人が通れるような隙間がない場合もある。私も一度「ここは通路だから、人が通れるようにしなさい」と注意したことがありますが、そう言われると気がついて「すみません」と言って移動するのです。だから、彼らとしても、わざと人が嫌がることをやっているのではなく、単に教えられないから気がつかないのです。

 教育の問題は今、盛んに議論されていますが、私は谷口輝子先生が示された愛と知恵をバランスさせた指導の中に、時代を超えた教育の原理があると思うのです。その基本には、すべての人間を「神の子」として見る生長の家の信仰があります。相手も自分と同じ神の子だと感じられれば、そこに温かい愛の感情が生れます。「自他一体」の感情です。これが基本となり信頼関係が成立します。そうすれば相手を単に批判するのでなく、相手の身になって批判すべきは批判し、援助すべきは援助するための愛の言葉が出てきます。愛に溺れず、知恵ある行動が生れます。
 
 だから今日、生長の家の信仰を多くの人々に伝えることは、以前にも増して重要になっています。ぜひ多くの人々に「人間・神の子」「自他一体」の信仰を伝える活動を展開して、輝子先生の御心に応えたいと思うしだいであります。本日は、お参りくださり、誠にありがとうございました。
 
谷口 雅宣

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2007年2月14日

愛の交換日

 バレンタインデーだというので、街にはチョコレートが溢れている。我々夫婦もこの日にあやかり、休日前の夜を静かに過ごさせてもらった。とは言っても、家の中にこもったのではなく、外出して夕食を六本木のホテルのレストランでゆっくりいただいた。こんな日の夜だから混雑しているに違いないと思ったが、意外にもガラガラに空いていた。窓際の席に案内され、つましくカレーとピッツァとサラダをメニューから選んだ。2人とも近年は、油こいものや食後の満腹感を避けるようになってきた。「腹八分目」の健康法である。外は小雨模様で、傘を差したコート姿の人々が通り過ぎる。朝の天気予報では、西から来る低気圧が夕刻には発達して、夜は大荒れになると言っていたが、今回も当たらなかった。

 バレンタインデーについては、本欄の前身で、ブログを始める前の2002年の「小閑雑感」に書いた(世界聖典普及協会発行『小閑雑感 Part 3』に収録)ので、言うことはあまりない。が、この国の“チョコレート騒ぎ”には食傷気味だ。「○○の日には○○をしなければならない」というのは、一種の社会的強迫観念だ。それでも、クリスマスや正月などは、その意義が十分あるから、自分なりのやり方で積極的に参加できる。しかし、「チョコレートをあげる」というのは、見え透いたコマーシャリズムが背後にある。それを知りながら、多くの人々がどうして熱意をもって参加するのか、不思議に思う。本家本元の欧米では、この日は一般に「愛情を表現する日」だから、男女双方から自分たちのやり方で愛を表現すればいいのである。また男女でなくても、親子や友人間の愛の表現でもいいのである。「この日は女から男へ」「あの日は男から女へ」などと決め、しかもチョコレートの色まで「黒はいつ」「白はいつ」と規定するなど、学習指導要領みたいで息がつまりそうだ。

Mtimg070214  とはいうものの、もらってみると決して悪い気持はしない。今年は2人の女性からいただいた。1人は妻だが、もう1人はあえて公開しない。妻はイタリア産のワイン、もう1人はフランス製のチョコレート。舶来の習慣には舶来の製品がいいということだろう。私は双方に素直に謝意を表した。チョコレートとワインの組み合わせも、なかなかいい。「味がマッチする」という意味ではなく、並べてみると絵になるのである。もともとは、カカオとブドウの実という自然食材である。が、双方とも原形をとどめないほど加工され、高度な技術を通して嗜好品に生れ変わっている。また、こういう食品としての“内側”に劣らず、容器や包装などの“外側”にも手をかけている。このような手の込んだ品であるために、「愛情」や「友情」の表現である贈物に使われるのだろう。

 ところで、人間の愛の交換日に合わせたわけではないだろうが、今夜は家の庭で、冬を越したヒキガエルたちが大いに活躍していた。彼らは、すでに先週の金曜日(9日)から出没しはじめていたが、今日の雨で一斉に出たのかもしれない。池の周囲、石段の途中に、体長12~13センチの茶色の丸っこい塊が、いくつもうずくまり、近づいていくと、次々に腰を上げて逃げる。コロコロという鳴き声は、彼らの見かけとは裏腹に、人間の耳にも案外快く響く。それが、輪唱のように微妙にズレながら、四方八方から聞こえてくる。
 
 2001年の『小閑雑感』では、2月28日にヒキガエルが出たと書いた。5年後の昨年は、2月16日に書いた「春の兆」という文の中でヒキガエルが出たことに触れている。そして、今年は2月9日で、だんだん早くなる。そう言えば、先週の月曜日(12日)に、庭の東側斜面でフキノトウをいくつも摘んだ。昨年の本欄では2月16日に「ちょうどよい大きさのものがいくつも頭を出していた」と書いている。自然界の生物たちは、地球温暖化に呼応して生き急ごうとしているようだ。

谷口 雅宣

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2007年1月21日

若き妻との再会

 夕方、事務所から帰宅し、着替えのため2階の寝室へ入ると、四ツ切りサイズに引き伸ばした若い女性の写真が、整理ダンスの上で私の顔を見つめていた。見憶えのある白黒のバストショットは、私が結婚前に撮影した妻の写真だった。もう長らく紛失したと思っていたのが、目立つ位置に置いてある。妻の仕業に違いなかった。着替えをすませた私は、それを小脇に抱えて階下へ行き、経緯を妻に尋ねた。

 納戸の整理をしていたら、偶然見つけたのだという。最近、なぜか彼女は整理ずいている。この前も、古い本や雑誌を大量に出した。私もつられて、子どもたちに買い与えた古いマンガ本をダンボール箱いっぱいにまとめて出したら、「それを捨てるのはもったいないから、小学生の子がいる妹家族に送ってあげる」と言った。私が気づかないことをいろいろ考えているようだ。
 
 問題の“若き妻”の白黒写真は、私が自分で撮影しただけでなく、現像・焼付も自分でやり、木製パネルまで買ってきてそこへ貼った。それほど“ご執心”だったということか。一昨年の5月23日の本欄に少し書いたが、学生時代の私は写真に凝っていて、父から手ほどきを受けて白黒写真の現像・焼付け・引伸ばしをやっていた。そんな経験を生かして、結婚前の妻にプレゼントしたものだ。記憶力のいい妻に訊くと、この写真は結婚する年の8月、妻の実家へ“挨拶”に行った際に撮影したものという。1枚だけ撮ったわけではなかろうから、何枚かの写真の中で私が最も気に入ったものを選んで引き伸ばしたのだろう。ということは、当時の私は、この写真のような雰囲気の彼女に惹かれていたのだ。

 そう思って写真を見つめると、「へぇー」という気持になる。現在の妻の雰囲気とずいぶん違う。中年の私は“若き妻”に惚れ直しそうだったが、彼女自身はこの顔を「あまり好きでない」と言う。理由は、「ふにゃ~」としていて「不安そうな顔」だからだそうだ。しかし、結婚前の彼女に不安がなかったと言えばウソになるだろう。結婚とは、不安の中にも喜びを見出し、期待を膨らませて飛び込んでいくものではなかろうか。

Yjunko015ms  最後にその写真を掲げるが、普通の白黒ではつまらないので、セピア調に色をつけてみた。この写真と彼女の今の写真を並べ、“使用前-使用後”式の比較をしないように、とは妻からのお願いである。

 谷口 雅宣

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2007年1月18日

スパゲッティーは日本食?

 休日だったので1日ゆっくりと過ごした。と言っても、1日中家にいたわけではなく、昼から妻と2人で原宿・青山方面へ散歩に出かけた。直接の目的は昼食だが、帰りがけにブラブラするつもりだった。比較的暖かな日で、マフラーなしで快適に歩けただけでなく、昼休みでオフィスから出てきた人の中には、コートを着ない人も多かった。明治通りから狭い路地を入って青山通りの方向へ行く道は、どれも上り坂になっている。そのうちの1本を選び、カーブをたどりながらゆっくり歩く。周囲の家並みや庭木、街路樹、店のディスプレイ、家の造りなどを、旅人のような気分で眺めながら歩くと、普段は見えないものがいろいろと見えてくるから不思議だ。
 
 国連大学に隣接するオーバル(楕円)ビルの地下に、生めんのスパゲティー専門店がある。1週間ほど前に見つけて、機会を見て行こうと思っていた所だ。そこへ入り、和・洋・中の3種類のメニューから2人で好きなものを選んだ。店内がはっきりと“分煙”されているのがうれしい。やがて出てきた注文の品は、いずれも新しく複雑な味。妻は和風のソースを頼んだが、バター入りだったので和洋ミックスの味。私は洋風ピリ辛ソースだったが味噌が混じっていたので、これまた和洋ミックスである。いずれもコクがあっておいしい。それらを互いに取り分けて食べながら、日本文化談義になった。

 日本人は昔から、海外の文物を自分の生活に取り入れるのに熱心で、それらをいつのまにか“日本的”なものに変えて使っている。古くは仏教や中国の律令制度に始まり、朝鮮の文化、キリスト教、欧米の法制度、行事・習慣、野球、その他のスポーツ、学問、芸術、技術、そして料理……。この柔軟性が2千年の昔から続いてきたおかげで、幕末の未曾有の危機にも対応することができた。それでいて“日本的”なものが消えてしまったかというと、そうではなく、“日本的仏教”“日本的キリスト教”“日本的法制度”“日本的野球”“日本的学問”“日本的技術”……などがちゃんと残っている。無原則、無方針などと批判されることもあるが、翻ってみれば、「外からの刺激を内に取り込んで自己の一部にする」という原則や方針がある、と考えることもできるのである。云々……。
 
 そんな談義の場であるこの店にしてから、「靴を脱いで上がる」形式は和式であるが、私たちが案内された禁煙室にはテーブルと椅子が並ぶ。ところが喫煙者用には、掘り炬燵式の畳席が用意されている。食べ物であるスパゲッティー自体は洋式。しかし、ソースは和・洋・中のいずれもある。それを食べる食器は和食器であり、塗物の木製スプーンと割り箸がついている。ああ、これを何と表現したらいいのだろうか! 「こういう形式や様式にこだわらないのが日本式である」とさえ言いたくなる。形にこだわらず、「良い」と感じるものを積極的に取り入れてきたのが日本社会だから、それが今日の日本の繁栄をもたらしたと同時に、様々な問題ももたらしている--そんな感想をもった。
 
 ところで、様式が自由すぎるということにも、問題はある。私たちはこの日、家を出る時からスパゲッティーを食べるつもりだったので、携帯用の箸を持って来なかった。西洋麺をスプーンと箸で食べることなど、まったく思いつかなかった。しかし、ここでひるんではならないと思い、私は意を決して店の配膳人にフォークを所望してみた。配膳人は一瞬、不思議そうな顔をしたが、すぐに対応してくれた。しかし、なぜ割り箸なのか? 私たちが行き着いた結論は……塗物のスプーンを左手で持ち、スパゲッティーを右手のフォークで取ってスプーンの上でグルグル巻くと、しだいに塗物がはげてくるから……。しかし、そうまでして和食器にこだわるスパゲッティーは、もはや日本食ではないか?
 
谷口 雅宣

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2007年1月 4日

おかげ参り

 前回「おかげ横丁」のことに触れたので、もう少し詳しく書こう。この一画は、往年の「おかげ参り」の賑わいを復活させたいという地元の人々によって整備された「おはらい町」に、平成5年にできた商業区域である。約3千坪の広さがあり、おかげ参りが盛んだった昔の伊勢の町に似せた建物群が集まっていて、老舗の味や名産品、物産品を提供してくれる。
 
「おかげ参り」とは、慶安3(1650)年、宝永2(1705)年、明和8(1771)年、文政13(1830)年の4回、伊勢神宮参拝者が特に多かったことを指す。約60年周期で繰り返されると言われ、近代では明治23(1890)年にもそれがあったとされる。明和のときは2カ月で370万人、文政のときは半年で500万人が伊勢を目指したという。これらの“お伊勢参り”がブームになった背景には、平安後期から続いた「御師(おんし)」と呼ばれる人々の存在があると言われている。これらの御師は、伊勢から各地に派遣され、祈祷願いを受け付けて、伊勢への参拝を勧めたらしい。例えば『吾妻鏡』には、源頼朝が伊勢の外宮権禰宜、度会光親(わたらい・みつちか)を「年来の御祈祷師」としていたことが書いてある。

 御師は当初、神職で内宮が荒木田姓、外宮が度会姓の権禰宜であったが、時代が下るにつれて条件は緩和され、その他の神職、さらには商人などにも範囲が広げられた。江戸時代の最盛期には、宇治に271家、山田に615家もの御師があったという。『検定 お伊勢さん』という本には、彼らの仕事について次のように書いてある--
 
「江戸時代の街道整備とともに、代参や抜け参り、あるいはおかげ参りという形で、多くの人々が伊勢参宮をするようになった。檀家の参宮に当っては、六軒(松阪市)や明野(小俣町)あたりまで迎送し、御師邸に宿泊させ、お神楽をあげ、酒とともに伊勢の山海の珍味、羽二重の布団でもてなし、両宮参拝、朝熊・二見などの名所旧跡、古市を案内して、あこがれの伊勢参宮を演出した」(p. 101)

「代参」とは代りに参拝することであり、「抜け参り」とは女、子ども、使用人などが、一家の主人に無断で参拝することだから、“お伊勢参り”がいかに盛んであったかが想像できる。

 ところで、いきなり現代の話にもどるが、我々は今日、昼食時に、外宮のすぐ近くの中国料理店へ行った。車2台で行ったのはいいが、交通渋滞のために5キロほどの道のりを走るのに50分もかかってしまった。おかげで予約の時間に30分ほど遅れてしまった。それほど、正月のお伊勢参りは人気があるのだ。この混雑にはもう一つ理由がある。今日は、安倍総理が伊勢神宮参拝をするというので、大幅な交通規制が布かれたらしい。自動車専用の高速道路を経由して同じ料理店を目指していた私の義父は、なんと4時間もの交通渋滞に巻き込まれ、結局、食事を諦めて帰宅した。幸運だった我々は、義父のためにドギーバッグを用意したことは言うまでもない。

 現代の“お伊勢参り”は、難行苦行で何が“おかげ”なのかよく分からない。それは、江戸時代より一時の参拝客が増えたことも一因だが、我々が「自動車」という鉄の鎧を着込んで占有場所を広げるとともに、人と人との触れ合いを避けるようになったことにも原因があると思う。数や形だけの復活では、“おかげ参り”の“おかげ”はもどって来ないかもしれない。

谷口 雅宣

【参考文献】
○伊勢商工会議所、伊勢文化舎編集・発行『検定 お伊勢さん<公式テキストブック>』(2006年)

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2007年1月 3日

お伊勢参り (2)

 正月の伊勢行きの目的は、親戚同士の懇親と伊勢神宮の参拝である。昨年1月3日の本欄でも「お伊勢参り」の題で書いたので、今回は(2)とした。午前中に総勢15人が車3台に分乗して、内宮へ行った。午後からだと混雑すると思ったのだが、すでに十分混雑していた。今日は空もよく晴れ、初詣には絶好の“小春日和”で、夜中に雨が降ったのか玉砂利の参道がしっとり湿っていたので、気持よく歩けた。昨年より2~3割増しの人出だったと思う。拝殿前の“人間渋滞”の長さは昨年の1.5倍ほどあり、長さにして50メートルぐらい、ほとんど動かない幅広の列ができていた。その後尾に並んで中央の鳥居をくぐり、拝殿正面から参拝するためには、恐らく30分は待たねばならないだろう。だから、我々は昨年と同じく、拝殿の右側へ抜けるコースをたどって参拝を果たした。

 参拝後は、「おかげ横丁」と呼ばれる飲食店や土産物店が集まった一角で、昼食をとるのが恒例になっていた。その横丁へ続く参道の雑踏の中で、丸傘をかぶり灰色の衣を着た托鉢僧がボソボソ口を動かしていた。長身の肩から上が人混みの中から突き出している。近くへ行くと、はっきりした日本語の発音で経文を唱えている。私と目が合ったとき、その青い目が視線を逸らさないので、私の方が軽く会釈した。実は、昨年の伊勢参りの時も外国人の僧がそこに立っていたのだが、別人に違いなかった。その人が黒い僧服だったのと、立ち居振る舞いにもっと奥ゆかしさが感じられたからだ。この僧はもっと若く、修行も短いのだろう。真剣さは感じられても“角”があった。
 
 日本に仏教を学びに来る外国人がふえているという話をどこかで読んだが、どんな動機で、どんな修行をするのだろう、と私は思った。名古屋から伊勢までの列車内にも、西洋人の僧が1人いた。しかしこの僧は、僧服姿なのに隣席の日本人女性と妙に親しげに談笑していた。2人は、たまたま隣合わせたという感じではなく、恋人同士のように、体を寄せ合い、うれしくて仕方がないという様子だった。私は、何か見てはいけないものを見たように感じた。最近の僧は恋愛もするのか。では、出家の動機は何か? そもそも本当に出家しているのか……などの疑問を抱いたまま、私は列車を降りた。その僧の笑顔と、参道で托鉢中の僧とのイメージが重なり、不協和音のように心に残った。

Tekonesanma 「おかげ横丁」では、家族で好きな食事を買って持ち寄り、互いに分け合って少しずつ食べる。いろいろある地元の名産を味わうためだ。私は、カツオの手こね寿司、さんま寿司、とろろソバをおいしくいただいた。写真は、さんま寿司(手前)と手こね寿司。

谷口 雅宣

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2007年1月 2日

ゲームに興じる

 正月の日本の家庭では、家族や親類縁者が集まってゲームに興じる人も少なくないだろう。最近はゲームセンター、カラオケボックス、ボーリング場などの娯楽施設が数多くあるが、そういう家庭外での娯楽は正月でなくてもできることだ。やはり、「正月」という特別な時季に人が集まる家庭の温かさは、何ごとにも替えがたい。1年前の本欄では、わが家でする正月恒例のカルタ遊びのことを書いたが、今年も元日の夜にそれをした。
 
 2日の今日は、妻の実家がある伊勢市へ家族5人で移動した。JR品川駅から東海道新幹線の「のぞみ号」で名古屋へ行き、近鉄に乗り換えて伊勢市駅で降りる。人間は、普段と違う時間の流れに身を置くと、普段とは違うことを考えたりしたりするものである。伊勢の妻の生家へ着くと、もう二十歳を過ぎている3人の子どもたちは、小学生の従兄弟と一緒に歓声を上げながらゲームに興じて始めた。私はその目の前で、コタツに足を突っんで寝そべりながら、クロスワード・ゲームなどを作りはじめたのである。普通のものでは面白味がないので、生長の家の教えを取り入れたものにしようと思ったが、想像以上に難しかった。以下にそれを掲げるので、時間のある方はやってみて感想を聞かせてほしい。

Cwp6x6001 【縦のカギ】
(イ) 求道の過程にある人の古称。(ロ) 一般に公開されない本尊。(ハ) 都合よくいくこと。(ニ) 新約聖書の最初の4書。(ホ) 人間の神性が覆い隠された状態。(ヘ) 神来のメッセージ。(ト) 神の御徳の1つ。(チ) 神を「光源」に喩えた時の人間。

【横のカギ】
(イ) 人間が追い求めてやまないもの。(ヘ) 神の御徳の1つ。(リ) 深い好意。(ヌ) 仏が衆生を深く思う心。(ル) 在るように見えてナイもの。(ヲ) 日本の神話にある神の名の1つ。

谷口 雅宣

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2006年12月28日

鳥小屋を解体する

 今日は、年末の大掃除の一環として、庭の鳥小屋の取り壊しをした。読者は憶えているだろうか。私の家ではかつてブンチョウを飼っていたことがあり、そのことは『ちょっと私的に考える』(1999年、生長の家刊)にも書いた。鳥の数はどんどん殖えたので、普通の鳥籠では間に合わなくなった。そこで、高さ1.8メートル、幅1メートル強の木造の鳥小屋を作って、庭に置いたのだった。そのことは「ブンチョウ小屋」と題して写真付きで本欄(2001年8月5日)に書き、『小閑雑感 Part 2』(2002年、世界聖典普及協会刊)にも収録されている。ブンチョウ小屋は、杉の角材で枠を作り、金網の壁を張った頑丈なものだ。できた当初は、「これで、鳥をネコ襲撃から護れるだろう」と自慢に思ったものだった。
 
 それから約5年間、鳥小屋は実際、よくブンチョウをネコから護ってくれた。風雪にも耐えていたが、今年の初めごろから床のベニア板がそっくり返り始めていた。私は毎朝、鳥小屋の脇を通って生ゴミをコンポストに棄てにいきながら、修繕の必要を感じていた。最盛時には10羽いたブンチョウは、だんだん数が減っていき、今年、最後の1羽が死んだ。ネコにやられたわけではなく、“自然死”なのだろう。2羽の番(つがい)から10羽に殖えたため、遺伝的な弱さがあったのかもしれない。鳥小屋の構造はしっかりしていたから、私は一時、別の鳥を飼うことも考えたが、妻の賛同が得られなかった。そんなわけで、空の古い鳥小屋は、しばらくそこに立っていたのだ。

 秋になって、私はこれを取り壊して山荘の薪ストーブの燃料にしようと思った。ところが、いざ解体作業に入ると、この小屋がきわめて頑丈であることに気がついた。製作当時は「ネコからの防護」を念頭においていたから、補強金具や釘をふんだんに使い、金網を止める間隔も密だった。まとまった自由時間が少ない私にとって、解体作業を進めることは他の仕事を犠牲にすることになる。というわけで、年末のこの時期になってようやく取り壊しができたのである。手に何箇所か擦り傷ができたが、午前中いっぱい使って慣れない作業は終った。
 
 それをしながら、「プロは釘をどの程度打ち込むのだろう」と思った。私は、製作当時は「解体」のことなど全く考えずに釘を力まかせに打ったが、この釘の頭が、材木から数ミリ出ているのと出ていないのとでは、釘抜きの作業に大変な違いが生じるのである。また、金網を止める間隔でも、鳥の体の大きさや金網の強度を考えれば、これほど詰めて釘を打つ必要はなかったかもしれない、などと思った。人間は勝手なものである。同じ釘に対して、5年前は「ガンバッテくれよ」と励ますような気持だったが、今は「そんな深く木に食い込むな」などと批判的に思っている。本当は「5年間、ご苦労さま」と感謝の気持を起こすべきなのだ。
 
 ところで、解体作業のおかげで1ついいことがあった。鳥小屋の脇には、シイタケのホダ木が数本立てかけてあったのだが、もうシーズンが終ったので来春用に別の場所へ移動しようと考えていた。ところが鳥小屋を取り除いたおかげで、そのホダ木の1本の根元の落ち葉の陰に、直径3㎝ほどの小さなシイタケが2本出ているのを妻が見つけた。“狂い咲き”ならぬ“狂い発芽”だ。数日前の大雨と、それに続く暖かさ(最高気温18℃)のおかげである。「それなら、別の場所のホダ木にも?」と思った私は、そこから西南の方向の、木製ベンチの下に立てかけたホダ木の所へ行った。そこには、もっと大きなシイタケがこれまた2本出ていたのである。傘はまだ開いていないから、これからまだ大きくなる。正月に生シイタケが食べられるのは、珍しい。そう言えば、妻の自家の伊勢でも最近、大きなシイタケが採れたといって送ってきてくれた。温暖化時代には、キノコは忙しくなるのかもしれない。

谷口 雅宣

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2006年12月25日

わが家のクリスマス

 昨夜は、子供3人を含めた家族全員で、私と長男のそれぞれの誕生会、そしてクリスマス・パーティーを兼ねた集いを自宅でもった。わが家に家族全員が集まるのは久しぶりで、妻は腕によりをかけてご馳走を作り、私も海苔巻きとハタハタの握り寿司を作った。食事が終ると、恒例のプレゼント交換をした。その際、5人のうち誰が先にプレゼントをもらうかを抽選で決める。これを、ジャンケンやアミダ籤などで決めるのでは面白味がないので、前年までは「ダイナマイト・ショック」という黒い爆弾型のタイマー付きクラッカーを使って決めていた。タイマーをセットしてカチカチと音をたてる爆弾を各人に回し、それが爆発した時に手に持っていた人がプレゼントをもらうのだ。ところが今年は、それに必要なクラッカーが販売終了だというので、息子たちが新しい抽選装置を買ってきた。
 
 それは、知る人ぞ知る「黒ひげ危機一発」というゲーム器だった。黒ひげを生やした海賊がウイスキーの樽の中に入っているのを、周囲からナイフを1本ずつ刺していく。ある所へ刺すとバチーンという音とともに、黒ひげが跳ね上がるのだ。そのナイフを刺した人が、プレゼントをもらう幸福者だ。そんなものに興じながら、親も子どもも小中学生にもどって騒いでいるうちに、時計は10時半を回ってしまった。翌日は皆、仕事があるので子どもたちは退散し、我々夫婦も後片付けもそこそこに就寝準備となった。

 日本のクリスマスでは、宗教色のないこのような親睦会のような集まりが、それこそ全国各地で行われる。よく考えてみると、キリスト教がマイノリティーである社会にあっては不思議な現象である。私はこのことを昨年11月17日の本欄で触れ、日本に於いては「盆や正月と同じような年中行事としてクリスマスを祝う」ことを肯定的に評価した。なぜなら、その時説明したように、「ある宗教が文化や時代を超えて広く伝播し、多くの人々に受け入れられるためには、発祥地の習慣や、発祥当時の決まりごとに修正を加え、伝播地の文化を取り入れ」ることは普通に行われているからだ。

 この話を、どこかの生長の家講習会でしたとき、「日本ではクリスマスが商業主義に堕していることは、嘆かわしいではないか?」という意味の質問をもらったことがある。私は、極端な商業主義は好ましくないが、そうでない場合は必ずしも嘆かわしいとは思わない。家族団欒や職場の親睦のための機会は、クリスマス以外にもあると思うが、それを“商業主義”として批判する人は少ないと思う。年末年始のセールも“商業主義”と言えばいえないこともない。では、初詣客目当ての露天商は商業主義ではないのか? 神社仏閣で大きな行事があるときに「門前市が立つ」ことはどうか?……などと考えていくと、1つの宗教的行事をどの程度真剣に「信仰」の問題として捉えるかには、かなりの個人差があることが分かる。その個人差を狭めていく方向がよいかどうかの判断は、案外むずかしいと思う。これは1宗教にとってむずかしいだけでなく、人類全体にとってもむずかしい。しかし、これにある程度の“幅”を認めないと、どこかの原理主義国家のような堅苦しい社会になるのではないだろうか。

 話が少し脇へズレた。最近、家の整理をしていた妻が、子どもがまだ小さい頃に私が作ったという“手描きの絵本”を見つけた。画用紙にクレヨンで描いた稚拙なマンガだが、クリスマスに関係する内容なので、ご披露する。

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谷口 雅宣

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2006年10月 6日

飼いネコをどうする?

 ネコなどペットと人間の関係については、本欄でも何回も触れてきた。例えば、5月26日にはノラネコに餌をやるべきかの話、8月25日には飼いネコに避妊手術をするより、生まれた子ネコを殺すという人の話などだ。人口の多い都会などでは、人間との関係が近いペットとのつき合い方が社会問題になる場合もある。また、人間のペットへの愛着が“ペット市場”や“ペット産業”を成立させ、ついにはペットの“不死”を夢見て、クローンを得たいと望む人も登場している。そんな中で、カリフォルニア州サンディエゴ市のバイテク企業が最近、人間にアレルギー反応を起こさない種類のネコを提供すると発表して話題を呼んでいる。10月6日付の『ヘラルド・トリビューン』紙が伝えている。

 それによると、この企業は「アラーカ(Allerca)」という名前で、この計画を10月初めに発表して以来、85カ国から問い合わせが殺到した。1匹の値段は4千ドル(約47万円)もするが注文が多く、入手までの期間は米国内で12~15カ月、ヨーロッパでは15~18カ月という。購入も簡単ではない。事前に同社の社員からインタビューを受けて、ネコを飼う動機、ネコへの態度、家族の状態、家の構造から敷物にいたるまで、飼い主の側の“適合度”がテストされるそうだ。ネコ好きの人はアメリカにも多く、推定で3千万匹のネコが飼われている。しかし、家に出入りする親戚や友人の中にネコ・アレルギーの人もいるから、飼いネコに薬を与えたり、空気清浄機を設置したりする出費がばかにならないという。だから、アレルギーを起こさないネコに4千ドルを支払うことは、さほど不合理ではないらしい。

 ネコが起こすアレルギー反応のほとんどは、ネコが体内で産生する「fel d 1」という蛋白質が原因だという。アラーカの科学者は、ごく少数のネコがこれを生み出す遺伝子に変異があることを発見し、その場合、変異遺伝子が生み出す蛋白質に対しては、人間がアレルギー反応を起こしにくいことを突き止めた。アラーカでは、多くの種類のネコの遺伝子を調べて、変異遺伝子をもつ種を特定して、その繁殖を行った。この変異種のネコを通常のネコと掛け合せると、子ネコはアレルギーを起こしにくいことも分かった。そこで、ここ数カ月間というもの、アラーカ社のネコたちは、秘密の場所で子孫の繁殖のために忙しい毎日を送っている。生まれた子ネコたちは、10~12週で去勢手術をされたうえで、注文先へ送られるという。

 ところで、9月23日付の『New Scientist』誌に、ペットと子どもの健康について興味ある話が載っていた。ネコやイヌを飼っている家の子どもは、そうでない家の子よりも健康状態がいいという結果が出ているのである。ウエスタン・オーストラリア大学(University of Western Australia)の研究によるもので、『Epidemiology and Infection』という医学誌(vol 134, p.926)に発表された。研究者らは、オーストラリア南部の4~6歳の子ども1千人近くにインタビューして、吐き気、下痢、嘔吐がないかどうかをを6週間にわたって調べたという。その結果、ペットのいる家の子はそうでない子に比べて、こういう症状が30%も少ないことが分かった。また、これより先に行われた研究(New Scientist, 7 September 2002, p. 24)では、最低2匹の動物を飼っている家の子どもは、そうでない子よりも最高で77%もアレルギー症状を示す確率が少ない、という結果が出ているらしい。

 アレルギー源であるはずのペットを飼っている家の子どもの方が、健康状態もよく、アレルギー反応も少ないという研究結果と、アレルギー源となる蛋白質を産生しないネコを売る商売は、矛盾しているように思える。イヌやネコは人間の胃腸炎の原因になるとの一般的な見方があるが、上記の研究をした科学者の解釈では、ペットのいる環境で育った子どもは、幼い頃から低レベルの細菌と接触してきたことで、免疫系が強化された可能性があるという。読者だったら、どちらの対策を講じるだろうか? (イヌ・ネコを飼わない私にとっては、興味本位の質問で申し訳ないが……)

谷口 雅宣

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2006年9月 5日

夫の死後に妊娠する (2)

 凍結保存した夫の精子を使って、夫の死後に妊娠して子を生み、それを夫の子と認知するように求めた裁判の最高裁判決が初めて出た。今朝の新聞各紙が伝えている。それによると、最高裁第二小法廷は「民法は父親の死後の妊娠・出産を想定していないことは明らかで、死亡した父との法律上の親子関係は認められない」として、認知を認めた二審判決を4裁判官の全員一致で破棄、請求を棄却した。逆転敗訴である。私は昨年10月3日の本欄でも、東京地裁であった同様の判決について触れている。この場合は、内縁の夫の死後、体外受精によって妻が女児を生んだケースだったが、今回は、正式に結婚した夫の死後、体外受精で出産した5歳の男児の認知が否定され、確定した。

 この男児の(生物学上の)父親は、白血病にかかって放射線治療を受けていたが、その副作用で無精子症になる恐れがあったため、治療に先立って精子を凍結保存していた。この方法は、受精卵の凍結より容易のため、不妊治療でも広く使われているという。精子を保存液と混ぜ、マイナス196℃の液体窒素で凍結することで、半永久的に保存できるらしい。父親は1999年に白血病で死亡、その後に母親が凍結精子で妊娠し、2001年5月に男児を出産、嫡出子として出生届を出したが認められず、2002年6月に提訴したという。一審の松山地裁は2003年、母親の請求を棄却。二審の高松高裁は2004年に「自然血縁的な親子関係が存在するうえ、夫は生前、死後の凍結精子の利用に合意していた」と認定して、認知を認める判決を下していた。

 『日本経済新聞』によると、日本受精着床学会は2004年に、凍結精子を使った体外受精や人工授精に際して「現状では、実施者がその都度、婚姻中であること、夫が生存していることを確認する必要がある」との見解を出しているため、夫の死後の妊娠と出産は現在、事実上禁止されているという。その一方、見解には法的拘束力がないから、実際の医療現場では今回のような事態が今後も起こる可能性はある。フランスやドイツでは、夫死後の体外受精は法律で禁止されているが、イギリスでは夫の同意書があれば認められるという。さらに『産経』によると、スペインは夫の事前同意と死後6ヵ月以内を条件に容認し、イスラエルでは保管後1年以内で裁判所の許可があれば認めているという。アメリカとギリシャは、夫の事前同意だけを条件としている場合が多いという。(アメリカは州法で規定のため)
 
 この問題は、なかなか複雑である。私がよく分からないのは、死後の夫の子として認知されることが、その子に法律上どのようなメリットを与えるかという点である。今回の判決でも「父から扶養を受けることはあり得ず、父の相続人にもなり得ない」としているから、祖父母が死んだ時の相続権の問題を考えてのことなのだろうか。『朝日新聞』によると、認知を求めた母親は「この子に父親がだれかを教えてやりたい」と訴えていたというが、教えるだけだったら、母親が「あなたのお父さんはこの人よ」と写真やビデオを見せてあげれば済む話のようにも思える。しかし、この子の戸籍の父親欄が空欄であるという問題を考えての提訴であれば、これは法整備を促す提訴でもあるのだろう。

 夫婦の晩婚化と少子化が進む中で、生殖補助医療の需要はますます拡大している。少子化対策という面では、できるだけ子を持てるような方向に法整備をすることになるだろう。しかしその反面、精子、卵子、受精卵、胎児という“生命の萌芽”に対しては、それを他人の目的に利用する動き--つまり“道具化”が広がるだろう。私は、この“道具化”に反対している。なぜなら「人間の生命発達のどの段階から人権を認めるか」という問いへの答えは、科学技術の発達によって変化するからである。アナログ的な生命発達の過程を扱うのに、デジタルな考えで「ある一点」から人間が始まると考えることには、無理がある。受精卵形成後から「人」として尊重する生命倫理の確立が望ましいと思う。
 
谷口 雅宣
 

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2006年5月27日

日本の温暖化ガス 3年ぶりに減少

 5月26日の『日本経済新聞』の夕刊を見ていて、“ビッグニュース”を危うく見落とすところだった。なぜなら、それは1段という小さな見出しで書かれ、記事はわずか9行だったからだ。内容は次のようなものだ--日本で排出される温室効果ガスの2004年度の総量がこのほど環境省から発表され、3年ぶりに前年比でマイナスの数値になった。しかし、京都議定書の基準年である1990年との比較では、まだ8%上回っている。

 地球温暖化防止の運動に取り組んでいる者にとっては、「前年比マイナス」の成果が生まれたことは喜ばしい“ビッグニュース”なのだが、新聞社の判断基準はこの程度で、『日経』以外の新聞ではどうも報道さえしなかったようだ。多分「8%上回っている」という点を厳しく評価したのだろう。

 環境省のウェッブサイトには25日発表の詳しいデータが掲載されているが、それによると、2004年の温室効果ガスの排出量はCO2換算で13億5500万トンで、前年より300万トン(0.2%)減った。議定書の基準年である1990年の排出量は12億5500万トンだから、それより約8%上回っている。日本が議定書で約束した削減量は基準年比で「-6%」だから、あと14%の排出削減が必要である。

Greenhouse2004  1990年以降の日本の温室効果ガスの排出量は、途中でバブル崩壊などの影響はあっても徐々に増加している。1993年に一度減少したものの、その後3年連続で増加、97年に再び減少したあと翌年も減少した。しかし、1999~2000年で再び上昇し、2001年にいったん下がったあとは2年連続で上昇していた。今回の13億5500万トンという数字は、1996年のレベル(13億5300万トン)にほぼ等しい。

 環境省は、温室効果ガスの排出源別に次の8部門に分けて排出量を出している:①産業、②運輸、③業務その他、④家庭⑤エネルギー転換、⑥工業プロセス、⑦廃棄物、⑧燃料からの漏出。このうち、基準年時から増加しているのは「廃棄物」(59.9%)、「業務その他」(37.9%)、「家庭」(31.5%)、「運輸」(20.3%)、「エネルギー転換」(17.4%)の4部門で、逆に基準年から減少しているものは「工業プロセス」(15.8%)「燃料からの漏出」(4.4%)「産業」(3.4%)の3部門だ。これを見ると、一般消費者の立場でも、家庭生活や交通・運輸、そして廃棄物処理に関して、もっともっと努力しなければならないことが分かると思う。

 特に「家庭」部門では、世帯数が基準年に比べて20.5%も増えているうえ、世帯あたりの排出量も同じく8.6%増加している。家庭からの排出の6割を占めているのが電力消費で、これだけで基準年より45.8%増加している点に留意しなければならないだろう。また「運輸」部門では、前年比で0.1%減少したことが特筆に値するが、「貨物」と「旅客」の基準年との比較では、前者が基準年より3.2%減少しているのに対し、後者は基準年比で42.5%も増えている。これは自家用車からの排出量の増加(基準年比52.6%増)が著しいためだ。

 我々の日常生活での選択が、地球温暖化防止にとっていかに大切かが分かると思う。

谷口 雅宣

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2006年3月15日

カプチーノで「ありがとう」

 今春から東京で大学生活を始めるため、甥とその母(妻の妹)が伊勢から上京していた。今夜は、彼の入学祝いということで、お台場のホテルでささやかな夕食会を催した。東京湾に臨む窓辺の席からは、ブルーライトで薄化粧したレインボー・ブリッジが大きく見え、その下方で、赤提灯を満載した屋形船が何艘も漂っている。遠景には、ワイヤーフレームのような輪郭を光らせた高層ビル群が並ぶ。東京という街は、やはり昼よりも夜が美しいとの感を強くした。

 妻は5人姉妹の長女で、今回上京した義妹は上から4番目である。彼女は、私たち夫婦が横浜で新婚生活をしていた頃、近くに住んでいて行き来していた。また彼女が結婚した後も、私たちの子供が旅行ができるほど大きくなると、休暇中に伊勢で預かってもらったり、それぞれの子が18歳になった時、自動車の運転免許の取得でお世話になっていた。そして、私たちの末娘は今春、21歳で学校を卒業した。義妹の子供は2人いて上が女、下が男だが、その2番目の子がもう大学に行く年頃になったのである。この彼は、私たちの方で預かったことも何回かある。そんな時は、後楽園遊園地や横浜のラーメン博物館などへ連れて行ったものである。彼は今、見上げるような身長180㎝の茶髪青年となり、腰から抜け落ちそうなジーンズをはいている。光陰矢の如しである。

「地中海料理」を出すレストランで、魚介を中心とした食事をゆっくりいただいた。平日のためか店内の客はまばらで、静かな時間を過ごせた。最後のデザートには、義妹と甥は紅茶を注文し、妻はカプチーノ、私は普通のコーヒーを選んだ。紅茶とコーヒーが先に出され、私たちは妻の頼んだカプチーノの到着を待った。
 数分後に、ウェイトレスがそれを持ってきたが、妻は何を思ったのか、
「Oh, thank you!」
 と、大きな声で礼を言った。
 私は、「何を気取って……」と彼女の反応を疑った。いくら英語を話すからといって、日本のホテルで日本人の店員に向って英語で言う必要はない。アルコールも飲んでないのに酔っ払いのようだ、と思ったのである。
 そのウェイトレスは、目を光らせて
「ありがとうございます」
 と言ってから、私たちのテーブルから去っていった。
 
 義妹と甥は、しかし妻のキザな言葉に抗議や批判をしなかった。私も、それを口にするほどではないと思い、デザートを食べながらコーヒーを啜っていた。妻は、なぜかカプチーノになかなか口をつけない。私は、自分のコーヒーが半分ほどなくなってから、妻のカプチーノを要求した。私たちは、よくこういうことをする。味や香りを2倍楽しもうというわけだ。

 目の前に来たカプチーノのカップを見て、私は驚いた。口まで白い泡が盛り上がっているのは普通のカプチーノと同じだが、その泡の表面にチョコレート色の模様が浮き出している。それを見ると「Thank you.」という英字が読め、その後にハートのマークが2つ並んでいるのである。私はこの時やっと、妻の奇矯な行動の理由を了解した。
 
「料理は口と目で食べる」とはよく言うが、こういう演出に遭遇したのは今回が初めてである。私たちは、コーヒーカップのあの狭い円形の中に、どうやって文字を浮かべるかを議論しながら、その店を後にしたのである。
 
谷口 雅宣

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