2009年12月11日

絵封筒とグラフィティ

 この2つの間に何か関係があるだろうか? 絵封筒とは、もちろん封筒の表面に大きな絵を描いて出す手紙のことだ。グラフィティとは、工事中の壁や街の塀などに描くメッセージや絵のことだ。前回の本欄に実物を何点か掲載した。普通、この2つは何の関係もない。一方は、手紙の受取り人を驚かせてやろうという茶目っ気と、少しの絵心があれば誰にもできる。

 が、もう一方は、街に出て、人目を気にしながら、別の用途に造られた平面に、勝手に自分のメッセージを描く。結果的に、他人や公共の財産を汚すことが多く、この場合は不法行為である。が、“グラフィティ作家”があえてそれをする理由は、それがどこに描かれるかということも、彼らの表現の重要な一部だからだろう。ある街の風景の“調和した一部”として、自分の痕跡を残すのはまだいい。が、思いがけない隠れた場所に……息を呑む高所に……自分が反対する企業の建物の壁に、軍事基地の塀にグラフィティが描かれる場合、そのこと自体がメッセージである。そして、メッセージの発信の仕方は“ゲリラ的”だ。

 考えてみれば、絵封筒にも“ゲリラ性”がある。まず第一に、郵便局が定めた「封筒の書き方」をほとんど無視している。郵便番号を書かない。差出人を省略する。宛先人の住所や名前を、決まりどおりの位置には書かない。切手の位置もめちゃくちゃである……等々。もちろん、郵便局の定めどおりに書くべきものを書いた絵封筒もありえる。が、私の経験から言わせてもらえば、そういう絵封筒は自由度が少ないから、堅苦しくて、デザイン上限定され、したがって受取人への訴求力が小さい。「封筒」という狭い空間に、自分のメッセージを思い切って描こうとすると、いろいろの「決まり」や「規格」は障害になるのだ。だから、そういうものを破って表現される点で、ゲリラ的である。

 グラフィティは“ゲリラ芸術”と呼ばれるものに含まれているが、イラストレターのケリー・スミス氏(Keri Smith)は、その概念を通常より少しひろげて、こう定義している--「創造的、または刺激的な方法で世界に影響を与えるため、公共の空間に導入され、演じられ、あるいは付加された無名の作品」。この定義は、絵封筒には大げさすぎる。しかし、よく考えると、結構あてはまる部分が多い。なぜなら、絵封筒は、創造的、または刺激的な方法で宛先人に影響を与えるため、郵便配達システムという“公共の空間”を利用した(一見)無名の作品であるからだ。

 もう一つ、“ゲリラ芸術”についてスミス氏が指摘するのは、それが「無常」である点だ。こんなところに仏教の概念が出てくると奇異に感じるかもしれないが、英語では「impermanence」という語が使ってある。つまり、“ゲリラ芸術”の作品はすぐに消えてしまうのである。グラフィティは、「落書き」としてすぐに消される運命にある。路上パーフォーマンスも、終わってしまえば何も残らない。それらが消えてしまわないように、写真やビデオなどの記録に残そうとする人がいるかもしれないが、そうではなく「なくなっていい」「変わっていい」と考えて制作する。そこから、制作の「結果」よりも「過程」に注目した新しい展開が始まる。作品そのものに執着しないから、常に新しい発想で次なる作品を創出する可能性が生まれる。

 絵封筒や絵手紙には「手元に残らない」という性質がある。相手に届いても、もしかしたら捨てられるかもしれない。だから、制作の過程に価値を置くようになる。そんな点も“ゲリラ芸術”に近いことがわかる。そんなエキサイティングな制作の“旅”に、読者も参加してはいかが? (PostingJoy.com の「絵手紙・絵封筒グループ」より)

谷口 雅宣

【参考文献】
○Keri Smith,The Guerilla Art Kit: Everything You Need to Put Your Message Out Into The World,(New York: Princeton Architechtural Press, 2007)

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2009年12月10日

グラフィティのこと

Graffiti_bra2  私は今夏、ブラジルのサンパウロ市に行ったとき、その街の真ん中に、道路脇の塀やビルの壁などに、巨大なグラフィティがいくつも描かれているのを見て、驚いた。それを写真に撮って本欄(7月28日)で紹介したこともある。グラフィティが珍しかったからではなく、何か“懐かしい”思いがしたのであり、そんなものを地球の反対側で今ごろ見るなど、予想もしていなかったからだ。私が学生の頃の1970年代には、東京にも、ニューヨークにもグラフィティは多く描かれていた。特に、ニューヨークの地下鉄の車体のグラフィティは、若い私に強烈な印象を与えた。

Nyc0923  私は当時、マンハッタンの西120丁目あたりの学生寮に住んでいて、116丁目にあるコロンビア大学に通っていた。ダウンタウンから地下鉄に乗ってこの寮へ帰るためには、西125丁目の駅で降りるのが一番近いのだが、この駅は地下にはなく、高架橋の上にあった。つまり、地下の路線をアップタウンに向かって北上する地下鉄は、この駅の手前で地下から姿を現し、道路の高さを超えて、さらに地上数メートルの高さにある125丁目の駅ホームに入るのである。この過程で、坂を上ることが得意でない地下鉄は、急にスピードを落とし、キイキイ、ガタガタと苦しげに車体を軋ませながら、ゆっくりと駅に入る。その時、グラフィティが塗りたくられた車体を白日の下に晒すのだった。

 その西125丁目の駅が、ハーレムの入口に当たっていた。そこから東に延びる黒人街は、今はだいぶ安全になったようだが、当時は「あまり行くな」と言われていた。実際、在学中、私は必要がない限り、その駅から東側へ行くことを避けていた。そういう“不気味”な印象と、“秩序への反抗”を思わせる地下鉄のグラフィティのイメージが、青年時代の私の中では重なっていた。手っとり早く言えば、グラフィティは一種の“禁断の芸術”であり、“近づくな!”という警告の印。さらには、“不可解なアメリカ”の象徴のようにも感じられたのである。

Nyc0919  それが今夏、ブラジルへ行って30年ぶりに“再会”を果たし、その帰途にニューヨークに寄った際にも、また出会った。そのときの印象は、若い当時のものとは少し違っていた。それは“禁断の芸術”なんかではなく、何か懐かしい、当たり前のポップアートだと感じた。もちろん、このアートが反社会性を含むときは好ましいとは言えないが、許された場所で、他人の財産を無断で汚したりしない場合は、面白い表現手段だと感じたのである。その時に撮影したグラフィティの写真を何枚か、ここに掲げてある。
 
 谷口 雅宣

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2009年12月 1日

小中高生の“問題行動”

 今日の新聞各紙は、文部科学省が各地の教育委員会を通じて毎年行っている「児童生徒の問題行動調査」の昨年度の結果を大きく取り扱っている。『朝日新聞』の見出しは「小中高生の暴力6万件、08年度3年間で7割増」で、『産経新聞』のそれは「暴走中学生」「暴力行為激増、小学生も最多」であり、これだけを見れば“大事件”のように感じる。

 リード文も、見出しに負けずにセンセーショナルだ。『朝日』は「児童生徒の暴力行為は5万9618件と、前年度比で13%増、7千件増えて過去最多を更新した」と書き、さらに「学校別では小学校で24%増、中学校で16%と著しい。報告件数はこの3年間で1.75倍になった」としている。『産経』のリード文は、「平成20年度は5万9618件で前年度より11.5%増え、小学校、中学校ともに過去最多だった」とし、続けて「特に中学生は初めて4万件を超えるなど増加が目立った」と書いている。

 これだけ読めば、両紙の読者はきっと「ああわかった。全国の小中学校で暴力事件が急増しているのだ」と思うだろう。ところが、記事の隅まで読んでみると、それほど明確な数字ではないことがわかる。『朝日』の解説記事によると、06年度の調査は、05年度とはやり方が違うというのである。それを同紙はこう書いているーー「いじめできめ細かな報告を求めたのにあわせ、文科省が暴力についても行為の軽重を問わず報告を求めたことが背景にある」。これで06年度の数値が前年比で一気に32%も増えた。だから、「3年間で7割増」とか「1.75倍」というのはゲタを履かせた表現なのだ。

 ところで、暴力行為の件数が1年間で「約6万件」というのは、とんでもない数のように聞こえないだろうか? 私も第一印象としては「ずいぶん多い」と感じた。しかし、今回の調査対象となったのが全小中高校「約3万9千校」であると知れば、1校当たり年間に「1.5件」の割合である。もちろん、学校で暴力行為などないに越したことはない。が、私が子供の頃を振り返ってみると、乱暴な生徒はいたし、ケンカもあった。暴力行為とはどこまでを言うかにもよるが、1校年間「1.5件」がとんでもない数字かどうかは、議論の余地があるように思う。 

 では、暴力ではなく、イジメの統計はどうなっているかというと、「8万4648件で、前回から約1万6千件、16%の減」(『朝日』)なのだ。これは、大きな改善と言えないだろうか? 『産経』はこれに加えて、「いじめ件数は減少する一方で、いじめを認知した学校数も同6.9ポイント減って40%」と書いている。つまり、全体の6割の学校ではイジメはなかったということだ。うれしい話ではないだろうか。

 ほかにも“明るいニュース”はある。それは、高校で暴力行為が減ったことだ。これは、前年度比で3%減であり、実数では356件減だ。また、自殺も減った。児童生徒の自殺は、前年度から23人減の136人だった。これは割合にすると14.5%だから「大幅の減少」と言っていいだろう。

 私はここで、「新聞はウソを伝えている」と言いたいのではない。また、「学校教育の現場に問題はない」と言っているのでもない。ただ、「改善している点は、そう伝え」「統計上に比較できない点があれば、そう伝える」のが正しいジャーナリズムの姿勢ではないか、と言いたいのだ。また、学校からは生徒の暴力やイジメをできるだけ減らすべきだ、ともちろん思う。さらに本当に言いたいのは、「よい点を認めて強調することで社会はよい方向へ進む」ということだが、これは恐らく日時計主義を理解する人にしか分からないだろうから、今のマスメディアにはあまり期待していない。

 谷口 雅宣

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2009年11月27日

動物への愛

 人間が動物を愛することは普通、あまり問題視されない。そして一般には“善いこと”だと思われることが多い。「動物を愛する人」などというと、私も「ドリトル先生」とか「アンリ・ファーブル」とか「ジェーン・グッドオール」などの名前を思い出す。つまり、いわゆる“動物愛護”の精神は善いものであり、時には尊敬に値すべきものと考えられてきたのではないだろうか。が、それが極端に走ったときどうなるのか? それを今日の新聞記事から教えられた。

 本欄では、あまり暗い話を取り上げないことにしているが、今回は読者に例外を許していただきたい。その話とは、昨年11月半ばにさいたま市と東京・中野区で起こった連続殺人事件のことだ。この実行容疑者として逮捕されたK被告(47)の初公判が昨日行われ、K被告が起訴事実を認めた上で犯行の理由を述べたことが、今日付の『産経新聞』に載っている。それによると、K被告の言い分は「私が殺したのは人ではなく、心が邪悪な魔物だ」からだという。

 K被告の弁護側は、「事実関係は基本的に争わない」としているから、検察側の犯行動機をそのまま認めたらしい。『産経』によると、その動機とは次のようなものだ:

「子供のころに飼い犬が行方不明になったのは保健所の野犬狩りに遭ったせいだと信じ込み、“保健所を所管するのは厚生省”と思ったことから、一方的に厚生省を恨むようになった…(中略)…その上で、“組織に対する恨みを晴らすためにトップの次官経験者を狙うことにした。経験者ならば誰でもよかった”と述べた。」

 さらにこの記事は、もう一つの動機を次のように記している:

「検察側は冒頭陳述で、動機について飼い犬のあだ討ちのほかに、“動物の命を粗末にすれば、そのまま自分に返ってくることを思い知らせてやるための犯行だった”と指摘。(…中略…)また、K被告が飼い犬の毛が入ったお守りを身につけていたとし、“命より大事なもの”と知人に話していたことを明らかにした。」

 これらの描写が真実ならば、K被告が自分の飼っていた犬を愛していたことは否定できない。が、この場合の「愛」とはいったい何だろう、と私は思う。それは「執愛」(執着の愛)以外の何ものでもないのではないか。K被告は、自分と昔の飼い犬とを余りにも強く同一視してしまったために、その犬の命を奪った(と本人が信じる)人間とその家族の命を奪うことに、罪の意識を少しも感じていないようなのだ。実際、法廷では被告自ら大声でこう言ったそうだ:
 
「“人を殺していいのか”というが、だったら犬を殺していいのか。あだ討ちを批判する前に説明しなさい」

 また、同じ日の『日本経済新聞』の記事では、K被告は「50歳になったらできるだけ多くの厚生次官経験者を殺害し、死刑になりたい」と考えていたという。が、自分の預金が減って生活の見通しが立たなくなったので、決行の時期を早めたらしい。
 
 これらの言葉は、明らかにK被告の性格の異常さを示している。彼には、自分の考えや主張の中にある偏執的な不合理さがまったく見えていない。まず「あだ討ち」というのは、現在の法律では許されていない。それに、普通のあだ討ちは、個人が自分と深い関係にある別の人を殺された場合、その仕返しに殺した本人に対して仕返しをすることを言う。が、K被告は、人間ではなく「犬」を殺されたと信じ、その仕返しを“下手人”とはほとんど無関係である、後の時代の複数の厚生省高官に対して行った。それに、自分が子供の頃に飼っていた犬は、検察側によると行方不明になったのであり、殺されたという証拠はないし、ましてや「野犬狩り」が殺したという証拠もない。単に交通事故に遭ったのか、あるいは逃げ出しただけかもしれないのである。が、どんなに理を尽くして説明しても、恐らく彼は自分がいったん信じたことを絶対に曲げないに違いない。そういうところが異常である。

 が、K被告の「異常さ」が例外的であることを認めたとしても、この残虐な犯行の動機が「執愛」であることを見逃してはいけない。彼の場合、性格の異常さが目立って動機が見えにくくなっているが、「動物への愛」も極端に走れば、同類である人間への自己同一感を否定するほどイビツな形で表現されることがあるのだ。そういう稀なケースが、この事件ではないかと私は感じた。仏教が「愛」を煩悩の1つとして捉えていることは、こういう視点から見れば極めて合理的である。動物を愛する読者諸賢にはこのような可能性がないことを、私は信じる。
 
 谷口 雅宣

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2009年11月18日

肉食の温室効果は51%

 人類が肉食をすることで地球温暖化が進行することは、いろいろな方面から指摘されてきたから、すでに多くの読者はご存じだろう。生長の家でも「肉食を減らす」ことを温暖化抑制の方策の1つとして、信徒や社会に訴え、また自ら実行してきた。具体的には、本部事務所や総本山での重要な会議や集会や、各地で開かれる練成会での食事を“ノーミート化”したり、ノーミートブログなどで、肉を使わない料理の献立や、それを食べさせるレストランを紹介してきた。が、肉食をすることで、実際にどれほどの量の温室効果ガスが大気中に排出されるのかは、詳しくわからなかった。ところが、このほどワールドウォッチ研究所(World Watch Institute)の求めで行われた研究では、食肉産業全体から排出される温室効果ガスは全体の「51%」、という高い数値が出た。17日付の『ヘラルド・トリビューン』紙が伝えている。
 
 それによると、この研究をしたのは、かつて世界銀行で環境分野の顧問を務めたロバート・グッドランド氏(Robert Goodland)と、世界銀行系のインターナショナル・ファイナンス社(International Finance Corp.)の環境問題専門家、ジェフ・アンハン氏(Jeff Anhang)。両氏の報告には「家畜と気候変動:もし気候変動の鍵を握るのが牛やブタ、鶏…だったら」(Livestock and Climate Change:What if the key actors in climate change are...cows, pigs and chickens?)という題がつけられている。研究では、生きた家畜から出るメタンなどの温室効果ガス、家畜の飼料を栽培するため、あるいは牧草地を造るための森林伐採など、食肉産業全体から排出される温室効果ガスの量をCO2に換算して算出した結果、上記の数値を得た。特にメタンは、CO2に比べて23倍もの温室効果があるため、深刻な影響がある。国連の食糧農業機関(Food and Agriculture Organization)が2006年に出した報告では、家畜からの排出量は全体の「18%」とされていたが、今回の数値は産業全体を含んだため、大幅に拡大したようだ。
 
 15日付の本欄では、森林伐採による温室効果ガスの排出量は全体の「17%」--という数字を紹介したが、これの3倍の量を食肉産業が排出していることになる。ということは、航空機の使用を減らしたり、自動車をガソリン車から電気自動車へ替えるよりも、また森林を守ったり植林をすることよりも、我々が肉食を減らすことの方が地球温暖化抑制のために効果的だと言えるだろう。この数値には、目を覚まさせられないだろうか。我々は動物を苦しめ、その命を犠牲にして自分の欲望を満たしてきたことで、気候変動を起こし、自ら苦しみ、多くの命を犠牲にしつつあるのである。「因果晦まさず」という言葉は真実である。
 
 地球温暖化以外にも肉食が抱える諸問題を意識して、マクロビオテックなどでは、肉食をせずに「肉の味」を楽しめるテンペ(大豆)、セイタン(小麦)などの食肉代替品が開発されている。が、最近では、先端的な再生医療から得た技術により、個体から分離した家畜の細胞を増殖させて“培養肉”(cultured meat)を製造する研究が行われているらしい。同紙の記事には、それが10年以内に実現するという研究者の談話が載っている。その研究者は、培養肉の製造により、温暖化ガスの発生は9割ほど抑えられるから、自動車をすべて自転車に替えるよりも効果があり、しかも家畜の肉よりも衛生的だとしている。私は、そんな方向に人類が進むと思うと、暗澹たる気持になる。

 谷口 雅宣

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2009年11月 3日

右脳しびれて

 快晴ながら寒波に包まれた文化の日だったが、私は妻と恒例の生長の家聖歌隊チャリティーコンサートへ行ってきた。今年は27回目で、京王井の頭線の駒場東大前駅の近くにある「こまばエミナース」のホールで午後1時45分から行われた。第1部の前半は、谷口清超先生の曲を中心とした聖歌が合唱され、後半はホームソングメドレー、そして観客も共に立ち上がって「紅葉」を合唱した。休憩をはさんだ第2部では、前半が特別ゲストによるフルート演奏、後半は聖歌隊による「心の四季」の合唱だった。
 
 想像していたよりも立派な会場で、音響効果もよかった。私たちは最近、コンサートへ行く機会などなかったから、じっくりと音楽の中に浸かって過ごす時間は、格別にありがたかった。音楽は、言葉を使わなくても感情や思想を伝えてくれる。そういう意味で、右脳から入る強力な情報だ。聖歌は、それに「歌詞」という言葉が加わって左脳の共鳴を呼ぶという点で、幅広く、また深い感動が味わえる。私は今回の聖歌の中では「無限を称える歌」に特に心を動かされた。この歌は、神に対して歌い手が二人称で語りかける形をとっている点で、祈りに似ている。そして、転調の後に、神が応える言葉が続くから、オペラのような構造でもある。しかし、その神の言葉は、あくまでも短く、重く、圧倒的だ。その言葉に対して、歌い手は感動に震え、神性の自覚を深めていく--そういうストーリーが背後にある。歌詞は1番から3番まであるが、それを読むだけでは出てこない感情的な高まりが、音楽に乗せて歌を唄うと心底から湧き出てくるから不思議だ。
 
 オペラと言えば、ズィーチンスキーの「ウィーンわが町」を聴いたとき、ミュージカルのフィナーレを観ているような気分になった。私はウィーンに行ったことはないが、ヨーロッパの明るい町並みを背景に、人々が大勢集まって「人生には喜びも悲しみもあるけれど、すべてよく、みな素晴らしい」と歌っている--そんな光景が私の瞼の裏側で展開しているようだった。分析的な頭でものを考えるクセがついている私のような人間には、分析とは全く別の方向から感情が怒涛のように押し寄せ、どこかへ連れて行かれるようで、しかもそのことが全く不安でなく、まるで心地よい波乗りをしているような気分だった。
 
 このような“右脳しびれる”体験を与えてくださった聖歌隊員の皆さん、また生長の家の音楽愛好家の皆さん、どうもありがとうございました。ちなみに、この日の入場者数は357人で、平成18年以降ではいちばん多かったそうだ。収益金は、例年のようにフジネットワークチャリティーキャンペーン事務局を通して、日本ユニセフ協会へ寄付され、西アフリカのシェラレオーネの子供たちのために使われる。
 
 谷口 雅宣

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2009年10月26日

終末論の宗教 (4)

 この題で本欄を書くきっかけとなった高校生の質問に対して、私の答えをひと言で表現すれば、「終末論の宗教は本物ではない」ということだった。なぜそう言えるかということは、「唯神実相」と「唯心所現」という生長の家の教義から本欄ですでに説明した。生長の家創始者、谷口雅春先生は、ありがたいことに心霊学的立場からもこれを明快に説明されているので、今回はそれを紹介しよう。

「終末論」は「預言」や「予言」と密接に関係している。キリスト教の教典で終末論を扱った代表的なものは、『ヨハネの黙示録』である。この書は英語では「The Revelation of St. John the Divine」とか「The Revelation to John」などと表記され、略称は「Revelation」である。「revelation」は動詞の「reveal」(啓示する)の名詞形で、日本語の「啓示」の意味だ。「黙示」という日本語は、「黙ったままで相手に意思を表明する」という意味だが、宗教的な文脈では「啓示」と同じである。神は人間に対して、普通は誰にでも聞こえるような声によって“お告げ”をしないから、黙示すると考えられるのだ。

 この『ヨハネの黙示録』には、英語では「The Apocalypse」という別称がある。この語は、ギリシャ語の「apokalupsis」から来ていて、「~から離れる」という意味の接頭語「apo-」と「包み」の意味の「kluptein」からなっている。つまり、「包みから離れる」→「包み隠されていたものが現れる」という意味から、「秘密を暴露する」とか宗教的な「啓示」の意味に使われてきた。特にキリスト教の文脈では、再臨のキリストによる“最後の審判”と、“御国の到来”を説く秘密の書の内容が開示されることが「Apocalypse」であった。この「秘密の書」とは『ヨハネの黙示録』や『ダニエル書』などのことだ。

 このように、“最後の審判”によって世界や歴史の終末が来ることを預言者が語り、また予言が行われることで、ユダヤ=キリスト教信者の間で終末論が時間をかけて形成されてきた。この過程で、何人もの預言者が“世界の終り”についての啓示を受け、それを発表し、ユダヤ民族や世界に対して警鐘を鳴らしてきた。だから、ここで扱う「啓示」には2つの意味があるのである。1つは、代々の預言者が受ける啓示であり、もう1つは、すでに記された“秘密の書”の意味内容の啓示(開示)である。谷口雅春先生は、このうちの前者について、ユダヤ=キリストの文脈を超えた一般論として、私たちがどう判断すべきかを『新版 生活と人間の再建』(2007年)の中に明記されている。(pp.301-302)
 
 先生はここで預言者の質を問題にされている。なぜなら、宗教の開祖らの中には、「我は神の自己実現なり」という高度な霊的自覚に達していないにもかかわらず、憑依霊が「お前は神の子だ」とか「お前は○○神だ」と囁く声を聞いてその気になり、予言や預言をして人々を迷わす者があるからだ。このような質のよくない預言者は、次の4点から判別できるという:
 
 ①「世の終り」を宣言して人心を恐怖に陥れる者は、おおむね憑依による。
 ②動物霊など人間以外の自然霊が憑依した預言者は、人間らしくない奇行を伴う。
 ③憑依現象による預言は、論理的な一貫性がなく、猥雑な語句が交錯する。
 ④憑依による預言は偏執的で、他者に対して強圧的である。

 この4項目の最初に、「終末の預言はおおむね危険である」と示されていることに私たちは注意しなければならない。また、一部の宗教指導者の中に奇行癖があったり、性的な異常行動があったり、他者への旺盛な支配欲があったりする理由が、これによって分かるのである。

 谷口 雅宣

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2009年10月20日

終末論の宗教 (3)

 2日前の本欄のコメント欄をご覧になった方はお分かりだが、山梨教区での生長の家講習会で本件について質問してくれた16歳の高校生本人から、私のここでの回答を読んでくれたとのコメントがあった。私としてはこれで“約束”が守れたので、ひと安心の思いである。
 
 ところで、この高校生のような質問が出ることにはもっともな理由がある。それは、終末論は多くの宗教の教えや考え方の中に含まれているからだ。このことを私は、『心でつくる世界』の中で次のように書いた:
 
「この思想は、キリスト教ばかりでなく、その“兄弟分”とも言えるユダヤ教を初め、イスラム教、仏教、ゾロアスター教にも表われている。また、アメリカ・インディアンやエスキモーの神話や伝説の中にも、メラネシア、ポリネシア、アフリカ民族の間にも、同様の考え方が古くから伝わっている」(p.125)
 
 講習会では、私は「万教帰一」の意味を「あらゆる宗教の教えの神髄は共通している」と表現した。この表現を表面的にとらえて、「あらゆる宗教に共通した部分は、宗教の神髄である」と理解すると、「終末論も真理である」という誤った結論にいたる可能性がある。私は前回、そのことを指摘したのだった。

 宗教の「神髄」とは、表現された言葉のうわべの意味のことではない。むしろ、うわべの意味からは必ずしも理解されず、したがって次の表現に向かわせる力をもっているが、その表現においてもうわべの意味からは必ずしも理解されず、したがってさらに次の表現に向かわせるが、その表現においてもうわべの意味からは必ずしも理解されず……というように、言葉での表現は(不可能でなければ)かなりむずかしいものである。このことは、仏教では禅宗の考案の中によく表れている。「仏とは何か?」「○○に仏性ありや?」という類の問いに対する答えは、必ずしも一定していないし、「不立文字」という言い方もある。また、聖書に記されたイエスの教えでは、「神の国」とか「御国」を説明するのに、言葉の表面の意味からはなかなか解らない比喩が数多く使われている。

 これに対して終末論は、言葉の表面の意味からもすぐに分かる考え方である。だから、私も前回、その意味を表した文章を既刊の拙著から引用し、読者もそれを読んで意味が分かったはずである。そして、現代の人類が抱える核拡散や地球温暖化の問題を深刻に考えたとき、人は終末論的な見方に引き寄せられる可能性があると述べたのだった。
 
 しかし、生長の家の教えは終末論ではない。人間の能力を超えた巨大な“悪”の力や、神や天使と互角の戦いをするサタン、そして、天使とサタンとの恐怖に満ちた闘争が来るなどとは考えない。そうではなく、もし我々人類の前に今、核テロリストや気候変動による大災害、あるいは資源枯渇から来る戦争勃発の危険があるとしたならば、それらは人類自らの“迷い”の産物だから、人類自らの“覚醒”によってその危険を取り除くことができる、と生長の家では考えるのである。
 
 谷口 雅宣

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2009年10月19日

終末論の宗教 (2)

 話が前後してしまったが、「終末論」とは何かについて私は前回定義しなかった。これについては、拙著『心でつくる世界』の中では「世界の終末への信仰」のことだと書き、次のように補足説明している:
 
「ここで言う“終末”とは単なる“世界の終り”ではなく、多くの場合、“最後の審判”と“因果応報”の考え方を伴っている。つまり、やがてこの世界は終末を迎えるが、この世の終りには、神あるいは救世主が再び現われて、これまで放置されてきた世の中の“悪”や“罪”のすべてを裁き、(時には壮絶な戦いの末に)それを滅ぼすことによって、新しい理想的な“善なる世界”(神の国、天国、浄土など)が到来する--こういう考え方である」(pp.124-125)

 私はこのとき、キリスト教について「このような終末論を教義全体の中心的位置に据えている」と表現した。このことと、前回本欄で書いたこと--「キリスト教は終末論である」という理解は、控え目に言っても不十分なのである--とは矛盾しているかもしれない。が、この違いは、キリスト教に対する私の認識の変化を表している。また、宗教の教えを“中心部分”と“周縁部分”に分けて捉えた場合、終末論は前者に属さないという私の考えにもとづいている。が、これらの点については、今回はこれ以上触れない。

 さて、講習会での質問者の問いは、「終末論を唱えている宗教は万教帰一に入るのか?」だった。この問いは、しかし何かが欠けている。つまり、質問の意味が今一つ明確でない。世界の宗教は、「万教帰一」という概念に含まれるか含まれないかというような、二者択一的な分類はすべきではない。が、質問者はそういう考え方をしているようにも受け取れる。万教帰一の意味は、「あらゆる宗教の教えの神髄は共通している」というものだから、終末論を唱えていても、共通した神髄を説いている教えはあり得るし、その逆に、終末論など唱えていなくても、共通した神髄を説いていない教えも(万教帰一の対象から外れるが)あり得る。だから私は、この問いを読み変えて、「宗教における終末論の考え方は、宗教共通の神髄(中心部分)の中に入るのか?」という意味に受け取った。前回の「ノー」という答えは、そうではない--終末論は宗教共通の教えの神髄ではない--という意味である。
 
 前掲の拙著とその後に出した『ちょっと私的に考える』(1999年刊)で、私は終末論が宗教共通の教えの神髄とは言えない理由を詳しく書いているから、興味のある読者はそちらを読んでほしい。が、生長の家の立場から終末論の不合理性を簡単に述べれば、こうなる--完全なる神が創造された世界は、完全である。完全なものは時間的経過を経ても不完全になることはない。しかるに、終末論の前提は、世界には悪があり、このためしだいに世界が不完全さを増してくるから、神が“最後の審判”を通して悪を滅ぼさねばならない--というものである。これでは事実上、神の完全性を否定しているから不合理である。

 神と(実相)世界との関係はこうなるが、我々の目の前の現象を説明するに際しては、終末論は案外説得力がある。例えば、今日の人類が直面している核拡散や人口爆発、地球温暖化の問題を“悪”と見立てれば、これらの問題がしだいに深刻化していくのは人類の“罪”のためだと考え、そういう罪をなくすために、“最後の審判”として、やがて核戦争や海面上昇による都市や国の消滅が起こらなければならない--こんな教義を掲げた宗教を信じる人がいても、私は驚かないのである。
 
 谷口 雅宣

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2009年9月30日

「生命は不死」は危険な教え? (2)

 私は前回の本欄で、「神は悪を創りたまわず」という唯神実相論に立つ生長の家では、「生命は不死なり」という教えは自爆テロや現世軽視に結びつくことはない、と書いた。しかし、前回取り上げた質問者のように、「来世信仰は危険行為の原因になる」と考える人は案外多いようだ。私は最近、脳機能学者であり認知心理学者である苫米地(とまべち)英人氏の本を読んでいて、驚いたことがある。苫米地氏は、米カーネギーメロン大学で計算言語学の博士号を取り、様々な先進的な仕事に従事しているだけでなく、天台宗ハワイ別院の国際部長もしているから、宗教にも理解が深い人だと考えていた。ところが、オカルティズムや霊感商法を非難するのはいいのだが、「来世がある」という考え方自体を全面否定しているように思える記述があったのだ。そこを引用すると--
 
<私が昔からスピリチュアリズムを批判し、テレビに出演する占い師や霊能力者を厳しく糾弾してきたのは、彼らの言葉が荒唐無稽だというだけではなく、「害毒」を社会にもたらしていると考えるからです。
 彼らは「人間には来世がある」といったデタラメを世の中に撒き散らしました。それを信じた人々の一部が「現世を捨てても来世があるから」と、捨て鉢な犯罪を犯したり、自殺してしまったりといったことが現実に起きています。彼らの本を読んで「来世に行ってきます」といって自殺した人が現に何人もいるのです。
 日本ではここ10年以上連続で、毎年3万人という途方もない数の人たちがみずから命を絶っています。その原因の一つに「死んだら生まれ変わる」「来世は存在する」といったオカルト思想の蔓延があるように思います。>(『テレビは見てはいけない』、p.90)

 これでは、「人間の生命は不死である」と説くすべての宗教は、捨て鉢の犯罪や自殺を増やす原因である、と言っているようなものである。そして、「人間は輪廻転生する」と説く仏教やヒンズー教の教えも「デタラメ」ということにならないだろうか? それとも、最近の天台宗では、「人間の生は一回限り」と教えているのだろうか? また、毎週、生長の家講習会で「人間の生命は不死」と話している私は、社会に害毒を撒き散らしている“オカルト思想家”になってしまうのだろうか? 苫米地氏の見解を、ぜひ聞いてみたい。
 
 私の想像では、苫米地氏はここで、オカルティズムを批判したいあまりに、筆の勢いが余って英語でいう「qualification」を忘れてしまったのではないか。「qualification」とは日本語では「制限」とか「限定」とか「条件づけ」などと訳され、物事を注意深く考える人には欠かせない一種の“修飾語”である。しかし、「文脈から話者の真意を知れ」的な考え方が背後にある日本語では、これが省略されることがある。というよりは、「省略されることが多い」と言った方がいいかもしれない。例えば、「宗教は儲かる」と言えば、世の中には欲深い宗教家ばかりがいて、宗教活動にかかる収益が非課税であることを利用して暴利を貪っているかのような印象を受ける。しかし、実際には、檀家のために身銭をきって奉仕活動をしているため、ちっとも儲からない僧侶も(少ないかもしれないが)存在するだろうから、この言い方は正確とは言えず、正しい文章にするためには「制限」や「限定」が必要である。すなわち、「日本の宗教では、一般に収益率が企業より高い」ぐらいの表現の方が正確であり、妥当である。この場合の「日本の」とか「一般に」とか「企業より」などという言葉が「qualification」に当たる。

 私は、苫米地氏はアメリカで博士号を取った人だから、英語で話したり書いたりするときにはきっと「qualification」を忘れないのだろうが、日本語のときは、(多くの日本人がそうしているように)そんなものは省略してしまうのだと、ここでは解釈したいのである。
 
 谷口 雅宣
 
【参考文献】
○苫米地英人著『テレビは見てはいけない--脱・奴隷の生き方』(PHP新書、2009年)

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