2009年11月 3日

右脳しびれて

 快晴ながら寒波に包まれた文化の日だったが、私は妻と恒例の生長の家聖歌隊チャリティーコンサートへ行ってきた。今年は27回目で、京王井の頭線の駒場東大前駅の近くにある「こまばエミナース」のホールで午後1時45分から行われた。第1部の前半は、谷口清超先生の曲を中心とした聖歌が合唱され、後半はホームソングメドレー、そして観客も共に立ち上がって「紅葉」を合唱した。休憩をはさんだ第2部では、前半が特別ゲストによるフルート演奏、後半は聖歌隊による「心の四季」の合唱だった。
 
 想像していたよりも立派な会場で、音響効果もよかった。私たちは最近、コンサートへ行く機会などなかったから、じっくりと音楽の中に浸かって過ごす時間は、格別にありがたかった。音楽は、言葉を使わなくても感情や思想を伝えてくれる。そういう意味で、右脳から入る強力な情報だ。聖歌は、それに「歌詞」という言葉が加わって左脳の共鳴を呼ぶという点で、幅広く、また深い感動が味わえる。私は今回の聖歌の中では「無限を称える歌」に特に心を動かされた。この歌は、神に対して歌い手が二人称で語りかける形をとっている点で、祈りに似ている。そして、転調の後に、神が応える言葉が続くから、オペラのような構造でもある。しかし、その神の言葉は、あくまでも短く、重く、圧倒的だ。その言葉に対して、歌い手は感動に震え、神性の自覚を深めていく--そういうストーリーが背後にある。歌詞は1番から3番まであるが、それを読むだけでは出てこない感情的な高まりが、音楽に乗せて歌を唄うと心底から湧き出てくるから不思議だ。
 
 オペラと言えば、ズィーチンスキーの「ウィーンわが町」を聴いたとき、ミュージカルのフィナーレを観ているような気分になった。私はウィーンに行ったことはないが、ヨーロッパの明るい町並みを背景に、人々が大勢集まって「人生には喜びも悲しみもあるけれど、すべてよく、みな素晴らしい」と歌っている--そんな光景が私の瞼の裏側で展開しているようだった。分析的な頭でものを考えるクセがついている私のような人間には、分析とは全く別の方向から感情が怒涛のように押し寄せ、どこかへ連れて行かれるようで、しかもそのことが全く不安でなく、まるで心地よい波乗りをしているような気分だった。
 
 このような“右脳しびれる”体験を与えてくださった聖歌隊員の皆さん、また生長の家の音楽愛好家の皆さん、どうもありがとうございました。ちなみに、この日の入場者数は357人で、平成18年以降ではいちばん多かったそうだ。収益金は、例年のようにフジネットワークチャリティーキャンペーン事務局を通して、日本ユニセフ協会へ寄付され、西アフリカのシェラレオーネの子供たちのために使われる。
 
 谷口 雅宣

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2009年10月26日

終末論の宗教 (4)

 この題で本欄を書くきっかけとなった高校生の質問に対して、私の答えをひと言で表現すれば、「終末論の宗教は本物ではない」ということだった。なぜそう言えるかということは、「唯神実相」と「唯心所現」という生長の家の教義から本欄ですでに説明した。生長の家創始者、谷口雅春先生は、ありがたいことに心霊学的立場からもこれを明快に説明されているので、今回はそれを紹介しよう。

「終末論」は「預言」や「予言」と密接に関係している。キリスト教の教典で終末論を扱った代表的なものは、『ヨハネの黙示録』である。この書は英語では「The Revelation of St. John the Divine」とか「The Revelation to John」などと表記され、略称は「Revelation」である。「revelation」は動詞の「reveal」(啓示する)の名詞形で、日本語の「啓示」の意味だ。「黙示」という日本語は、「黙ったままで相手に意思を表明する」という意味だが、宗教的な文脈では「啓示」と同じである。神は人間に対して、普通は誰にでも聞こえるような声によって“お告げ”をしないから、黙示すると考えられるのだ。

 この『ヨハネの黙示録』には、英語では「The Apocalypse」という別称がある。この語は、ギリシャ語の「apokalupsis」から来ていて、「~から離れる」という意味の接頭語「apo-」と「包み」の意味の「kluptein」からなっている。つまり、「包みから離れる」→「包み隠されていたものが現れる」という意味から、「秘密を暴露する」とか宗教的な「啓示」の意味に使われてきた。特にキリスト教の文脈では、再臨のキリストによる“最後の審判”と、“御国の到来”を説く秘密の書の内容が開示されることが「Apocalypse」であった。この「秘密の書」とは『ヨハネの黙示録』や『ダニエル書』などのことだ。

 このように、“最後の審判”によって世界や歴史の終末が来ることを預言者が語り、また予言が行われることで、ユダヤ=キリスト教信者の間で終末論が時間をかけて形成されてきた。この過程で、何人もの預言者が“世界の終り”についての啓示を受け、それを発表し、ユダヤ民族や世界に対して警鐘を鳴らしてきた。だから、ここで扱う「啓示」には2つの意味があるのである。1つは、代々の預言者が受ける啓示であり、もう1つは、すでに記された“秘密の書”の意味内容の啓示(開示)である。谷口雅春先生は、このうちの前者について、ユダヤ=キリストの文脈を超えた一般論として、私たちがどう判断すべきかを『新版 生活と人間の再建』(2007年)の中に明記されている。(pp.301-302)
 
 先生はここで預言者の質を問題にされている。なぜなら、宗教の開祖らの中には、「我は神の自己実現なり」という高度な霊的自覚に自ら達していないにもかかわらず、憑依霊が「お前は神の子だ」とか「お前は○○神だ」と囁く声を聞いてその気になり、予言や預言をして人々を迷わす者があるからだ。このような質のよくない預言者は、次の4点から判別できるという:
 
 ①「世の終り」を宣言して人心を恐怖に陥れる者は、おおむね憑依による。
 ②動物霊など人間以外の自然霊が憑依した預言者は、人間らしくない奇行を伴う。
 ③憑依現象による預言は、論理的な一貫性がなく、猥雑な語句が交錯する。
 ④憑依による預言は偏執的で、他者に対して強圧的である。

 この4項目の最初に、「終末の預言はおおむね危険である」と示されていることに私たちは注意しなければならない。また、一部の宗教指導者の中に奇行癖があったり、性的な異常行動があったり、他者への旺盛な支配欲があったりする理由が、これによって分かるのである。

 谷口 雅宣

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2009年10月20日

終末論の宗教 (3)

 2日前の本欄のコメント欄をご覧になった方はお分かりだが、山梨教区での生長の家講習会で本件について質問してくれた16歳の高校生本人から、私のここでの回答を読んでくれたとのコメントがあった。私としてはこれで“約束”が守れたので、ひと安心の思いである。
 
 ところで、この高校生のような質問が出ることにはもっともな理由がある。それは、終末論は多くの宗教の教えや考え方の中に含まれているからだ。このことを私は、『心でつくる世界』の中で次のように書いた:
 
「この思想は、キリスト教ばかりでなく、その“兄弟分”とも言えるユダヤ教を初め、イスラム教、仏教、ゾロアスター教にも表われている。また、アメリカ・インディアンやエスキモーの神話や伝説の中にも、メラネシア、ポリネシア、アフリカ民族の間にも、同様の考え方が古くから伝わっている」(p.125)
 
 講習会では、私は「万教帰一」の意味を「あらゆる宗教の教えの神髄は共通している」と表現した。この表現を表面的にとらえて、「あらゆる宗教に共通した部分は、宗教の神髄である」と理解すると、「終末論も真理である」という誤った結論にいたる可能性がある。私は前回、そのことを指摘したのだった。

 宗教の「神髄」とは、表現された言葉のうわべの意味のことではない。むしろ、うわべの意味からは必ずしも理解されず、したがって次の表現に向かわせる力をもっているが、その表現においてもうわべの意味からは必ずしも理解されず、したがってさらに次の表現に向かわせるが、その表現においてもうわべの意味からは必ずしも理解されず……というように、言葉での表現は(不可能でなければ)かなりむずかしいものである。このことは、仏教では禅宗の考案の中によく表れている。「仏とは何か?」「○○に仏性ありや?」という類の問いに対する答えは、必ずしも一定していないし、「不立文字」という言い方もある。また、聖書に記されたイエスの教えでは、「神の国」とか「御国」を説明するのに、言葉の表面の意味からはなかなか解らない比喩が数多く使われている。

 これに対して終末論は、言葉の表面の意味からもすぐに分かる考え方である。だから、私も前回、その意味を表した文章を既刊の拙著から引用し、読者もそれを読んで意味が分かったはずである。そして、現代の人類が抱える核拡散や地球温暖化の問題を深刻に考えたとき、人は終末論的な見方に引き寄せられる可能性があると述べたのだった。
 
 しかし、生長の家の教えは終末論ではない。人間の能力を超えた巨大な“悪”の力や、神や天使と互角の戦いをするサタン、そして、天使とサタンとの恐怖に満ちた闘争が来るなどとは考えない。そうではなく、もし我々人類の前に今、核テロリストや気象変動による大災害、あるいは資源枯渇から来る戦争勃発の危険があるとしたならば、それらは人類自らの“迷い”の産物だから、人類自らの“覚醒”によってその危険を取り除くことができる、と生長の家では考えるのである。
 
 谷口 雅宣

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2009年10月19日

終末論の宗教 (2)

 話が前後してしまったが、「終末論」とは何かについて私は前回定義しなかった。これについては、拙著『心でつくる世界』の中では「世界の終末への信仰」のことだと書き、次のように補足説明している:
 
「ここで言う“終末”とは単なる“世界の終り”ではなく、多くの場合、“最後の審判”と“因果応報”の考え方を伴っている。つまり、やがてこの世界は終末を迎えるが、この世の終りには、神あるいは救世主が再び現われて、これまで放置されてきた世の中の“悪”や“罪”のすべてを裁き、(時には壮絶な戦いの末に)それを滅ぼすことによって、新しい理想的な“善なる世界”(神の国、天国、浄土など)が到来する--こういう考え方である」(pp.124-125)

 私はこのとき、キリスト教について「このような終末論を教義全体の中心的位置に据えている」と表現した。このことと、前回本欄で書いたこと--「キリスト教は終末論である」という理解は、控え目に言っても不十分なのである--とは矛盾しているかもしれない。が、この違いは、キリスト教に対する私の認識の変化を表している。また、宗教の教えを“中心部分”と“周縁部分”に分けて捉えた場合、終末論は前者に属さないという私の考えにもとづいている。が、これらの点については、今回はこれ以上触れない。

 さて、講習会での質問者の問いは、「終末論を唱えている宗教は万教帰一に入るのか?」だった。この問いは、しかし何かが欠けている。つまり、質問の意味が今一つ明確でない。世界の宗教は、「万教帰一」という概念に含まれるか含まれないかというような、二者択一的な分類はすべきではない。が、質問者はそういう考え方をしているようにも受け取れる。万教帰一の意味は、「あらゆる宗教の教えの神髄は共通している」というものだから、終末論を唱えていても、共通した神髄を説いている教えはあり得るし、その逆に、終末論など唱えていなくても、共通した神髄を説いていない教えも(万教帰一の対象から外れるが)あり得る。だから私は、この問いを読み変えて、「宗教における終末論の考え方は、宗教共通の神髄(中心部分)の中に入るのか?」という意味に受け取った。前回の「ノー」という答えは、そうではない--終末論は宗教共通の教えの神髄ではない--という意味である。
 
 前掲の拙著とその後に出した『ちょっと私的に考える』(1999年刊)で、私は終末論が宗教共通の教えの神髄とは言えない理由を詳しく書いているから、興味のある読者はそちらを読んでほしい。が、生長の家の立場から終末論の不合理性を簡単に述べれば、こうなる--完全なる神が創造された世界は、完全である。完全なものは時間的経過を経ても不完全になることはない。しかるに、終末論の前提は、世界には悪があり、このためしだいに世界が不完全さを増してくるから、神が“最後の審判”を通して悪を滅ぼさねばならない--というものである。これでは事実上、神の完全性を否定しているから不合理である。

 神と(実相)世界との関係はこうなるが、我々の目の前の現象を説明するに際しては、終末論は案外説得力がある。例えば、今日の人類が直面している核拡散や人口爆発、地球温暖化の問題を“悪”と見立てれば、これらの問題がしだいに深刻化していくのは人類の“罪”のためだと考え、そういう罪をなくすために、“最後の審判”として、やがて核戦争や海面上昇による都市や国の消滅が起こらなければならない--こんな教義を掲げた宗教を信じる人がいても、私は驚かないのである。
 
 谷口 雅宣

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2009年9月30日

「生命は不死」は危険な教え? (2)

 私は前回の本欄で、「神は悪を創りたまわず」という唯神実相論に立つ生長の家では、「生命は不死なり」という教えは自爆テロや現世軽視に結びつくことはない、と書いた。しかし、前回取り上げた質問者のように、「来世信仰は危険行為の原因になる」と考える人は案外多いようだ。私は最近、脳機能学者であり認知心理学者である苫米地(とまべち)英人氏の本を読んでいて、驚いたことがある。苫米地氏は、米カーネギーメロン大学で計算言語学の博士号を取り、様々な先進的な仕事に従事しているだけでなく、天台宗ハワイ別院の国際部長もしているから、宗教にも理解が深い人だと考えていた。ところが、オカルティズムや霊感商法を非難するのはいいのだが、「来世がある」という考え方自体を全面否定しているように思える記述があったのだ。そこを引用すると--
 
<私が昔からスピリチュアリズムを批判し、テレビに出演する占い師や霊能力者を厳しく糾弾してきたのは、彼らの言葉が荒唐無稽だというだけではなく、「害毒」を社会にもたらしていると考えるからです。
 彼らは「人間には来世がある」といったデタラメを世の中に撒き散らしました。それを信じた人々の一部が「現世を捨てても来世があるから」と、捨て鉢な犯罪を犯したり、自殺してしまったりといったことが現実に起きています。彼らの本を読んで「来世に行ってきます」といって自殺した人が現に何人もいるのです。
 日本ではここ10年以上連続で、毎年3万人という途方もない数の人たちがみずから命を絶っています。その原因の一つに「死んだら生まれ変わる」「来世は存在する」といったオカルト思想の蔓延があるように思います。>(『テレビは見てはいけない』、p.90)

 これでは、「人間の生命は不死である」と説くすべての宗教は、捨て鉢の犯罪や自殺を増やす原因である、と言っているようなものである。そして、「人間は輪廻転生する」と説く仏教やヒンズー教の教えも「デタラメ」ということにならないだろうか? それとも、最近の天台宗では、「人間の生は一回限り」と教えているのだろうか? また、毎週、生長の家講習会で「人間の生命は不死」と話している私は、社会に害毒を撒き散らしている“オカルト思想家”になってしまうのだろうか? 苫米地氏の見解を、ぜひ聞いてみたい。
 
 私の想像では、苫米地氏はここで、オカルティズムを批判したいあまりに、筆の勢いが余って英語でいう「qualification」を忘れてしまったのではないか。「qualification」とは日本語では「制限」とか「限定」とか「条件づけ」などと訳され、物事を注意深く考える人には欠かせない一種の“修飾語”である。しかし、「文脈から話者の真意を知れ」的な考え方が背後にある日本語では、これが省略されることがある。というよりは、「省略されることが多い」と言った方がいいかもしれない。例えば、「宗教は儲かる」と言えば、世の中には欲深い宗教家ばかりがいて、宗教活動にかかる収益が非課税であることを利用して暴利を貪っているかのような印象を受ける。しかし、実際には、檀家のために身銭をきって奉仕活動をしているため、ちっとも儲からない僧侶も(少ないかもしれないが)存在するだろうから、この言い方は正確とは言えず、正しい文章にするためには「制限」や「限定」が必要である。すなわち、「日本の宗教では、一般に収益率が企業より高い」ぐらいの表現の方が正確であり、妥当である。この場合の「日本の」とか「一般に」とか「企業より」などという言葉が「qualification」に当たる。

 私は、苫米地氏はアメリカで博士号を取った人だから、英語で話したり書いたりするときにはきっと「qualification」を忘れないのだろうが、日本語のときは、(多くの日本人がそうしているように)そんなものは省略してしまうのだと、ここでは解釈したいのである。
 
 谷口 雅宣
 
【参考文献】
○苫米地英人著『テレビは見てはいけない--脱・奴隷の生き方』(PHP新書、2009年)

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2009年9月28日

「生命は不死」は危険な教え?

 9月27日には、福岡教区での生長の家講習会が行われ、光回線を使った4会場同時開催という形式で、合計1万人を超える大勢の受講者が参加してくださった。講習会では午前中の私の講話に対する質問を受け付けているが、今回は小学生から高齢者までのあらゆる年齢層の受講者から、質問用紙18枚が届けられ、とてもバラエティーに富んだ内容だった。が、時間の関係から、すべての質問にはお答えできなかった。そこで、未回答に終った質問の中から重要と思われるものを、本欄で取り上げて回答しよう。

 久留米市に住む52歳の男性の受講者は、「人間の生命は不死」の考え方と「万教帰一」についての説明を聞いて次のような質問を寄せられた--
 
「生長の家の万教帰一というのは非常に感銘を受けるところですが、生き通しの命の教えは、イスラムテロ組織タリバンの“死して来世で幸福となる”という考え方で、死を恐れぬ危険があります。又これは、太平洋戦争の特攻隊の精神にもつながります。もっと命の重さ、人間のすばらしさ(仮の姿の現世でも)を教えるべきと思いますが、いかがでしょうか?」

 上の質問には、この質問者の言いたいことが一部省略されているように思う。それを補うと、恐らくこういうことだ--すべての宗教の神髄は一つであるとする「万教帰一」の考え方には共鳴できるところはあるが、この「一つ」とされる共通の教えの中に「人間の生命は生き通しである」というものを含めるのは、危険だと思う。なぜなら、イスラーム過激派のメンバーは、現世を否定して来世の幸福を成就するために自爆テロを行うのだから、「生命は不死」の教えはそれを正当化してしまう。また、特攻隊の場合も、「生命(魂)の不死」を信じて「靖国神社で会おう!」と誓った若者が、現世を犠牲にして自殺攻撃に突き進んだのである。そういう現世軽視の考え方よりも、現世での生命尊重や、今生の人生のすばらしさを宗教は強調すべきと思うが、どう考えるか?
 
 私は、「生命は不死」の教えが直ちに「自爆テロ」や「現世軽視」につながるとは思えない。それどころか、「生命は不死」という前提からは、いろいろな教えを導き出すことができるのだ。例えば、これに「因果の法則」を組み合わせて、現世で犯した罪は来世にも引き継がれるのだから、罪のない多くの人々を傷つけ、殺した悪業は、来世における幸福ではなく、悪果となって現れる、と説くことができる。また、すべての人々の「生命は不死」なのだから、今、目の前に“敵”として現れている人も、前世においては“味方”であったかもしれず、“恩人”だったかもしれない。だから、殺すなどもってのほかだ、とも説くことができる。さらに、「生命は不死」なのだから、現世においてすべてのものを得ようと焦る必要はない。自分のことだけでなく、他人のために何かすべきである、と諭すこともできるだろう。つまり、「生命は不死」の教えは、「現世軽視」や「他人軽視」の考え方と直接、論理的につながってはいないのである。
 
 それがつながって見えるのは、なぜだろう? その理由は、現世を否定的にとらえるからだ。特に、目の前にいる“敵”が自分をはるかに凌駕する力をもっていると考える場合、現世軽視、現世否定の傾向が強まると思われる。自爆テロリストの場合は、敵が多く、汚辱したこの世界は否定すべきものだと考えて、テロ行為に走るのである。特別攻撃隊の場合も、戦局が日本に不利なことが明確になってから登場した戦法である。つまり、敵の力を思い知ってから、やむを得ないギリギリの戦法として採用された--ということは、現世を否定的にとらえて考えついた手段なのだ。
 
 これに対し、生長の家の教えでは、現世を「現象世界」と呼んではいても、否定的にとらえないのである。それは「日時計主義」の言葉を思い出してもらえば明らかだろう。我々は、現世を「神の子の実相を表現する場」として極めて肯定的にとらえる。また、“悪”や“敵”は実相においては存在しないと考える。だから、現世において“悪”や“敵”が現れたように見えても、それらは「心の影である」として存在を否定してしまう。したがって、「生命は不死」の教えは、生長の家においては「自爆テロ」や「現世軽視」に結びつくことはないのである。
 
 谷口 雅宣

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2009年9月24日

『産経新聞』は大丈夫か?

 私は若い頃、『産経新聞』のお世話になったことは本欄等に書いたと思う。だから、私は同紙に個人的な恨みなどなく、むしろ感謝している。が、最近の同紙の外交に関する報道姿勢には“疑問符”がつきまとってならない。特に、アメリカに民主党のオバマ政権が誕生し、日本でも民主党への政権交代が起ったころから、思いあまって感情に流されるのか、報道記事が評論記事のようである。事実をそのまま伝えればいいものを、エモーショナルな見出しを付けて、読者が記事を読む前から論評してしまうのである。これは、ジャーナリズムとして邪道であり、まるで新聞が“売らんかな”の週刊誌化しつつあるようで、嘆かわしい現象だ。

 先の総選挙で、『産経』が自民党政権の維持を訴えたことを私はそれほど問題にしていない。同紙はもともと「産業経済新聞」であり、産業界と経済界とのつながりが太く、それらの業界の意見を無視しえない立場にあることは理解できる。が、同時に、新聞は“公器”として国民の考えを重視しなければならない。そして、今回の総選挙での国民の選択は明瞭だった。自公政権に対して「ノー」と言ったのである。それは、必ずしも「民主党にイエス」ではない。が、まだ試運転を始めた真新しい政権に対して、初めから疑いの眼差しをもって報道する姿勢には、一流の報道機関にふさわしくない“やっかみ”が感じられ、好感がもてない。特に、外交政策の分野でそれをやることは、『産経』がこれまで重視してきたと主張する“国益”にも反することになる、と私は思う。
 
 もっと具体的に言おう。最も近い例では、今日(24日)の第1面で鳩山首相とオバマ米大統領の初めての会談を伝える記事に、「気まずい“信頼構築”」という見出しをつけた。いったい何が「気まずい」のかと思って記事の中身を読んでみたが、日米首脳の間に「気まずい」空気が流れたなどということはどこにも書いていない。それどころか、首相は会談後に「全体として温かい雰囲気があった。大統領と私との間に何らかの信頼関係のきずなができたのではないか」と評価している。では、大統領の方から何か不満が表明されたのかというと、そういう言葉はなく、『産経』は第3面でオバマ氏の「同盟関係が20世紀後半において強かったように、21世紀もさらに強くなるチャンスだと確信している」という言葉を引用し、「新政権との協力に期待感を表明した」と自ら書いているのである。もちろん、それらを100%額面通りに受け取る必要はないが、「気まずい」ことが事実として起こったのでなければ、そんな表現を使うべきではない。

『産経』は結局、ここで記者の「憶測」を見出しに取っているのである。何を憶測しているかといえば、「民主党が在日米軍再編の見直しなどを公約にしたことで米側の不信が蓄積されている」(第1面記事)ことであり、日本側は今回、「信頼構築」を最優先に掲げていて「緊迫した場面こそなかった」(同)が、「それは懸案を事実上先送りさせたためで、“忍耐”のオバマ政権がいつ態度を硬化させるかはわからない」(同)ということである。つまり、『産経』が言いたいのは、こういうことだろう--日米新首脳の初顔合わせは大過なくスムーズに行われたが、それはオバマ大統領が民主党政権に不信感をもっていても忍耐の人であり、本当に言いたいことをガマンして言わなかったからだ。だから、2人にとっては気まずい初顔合わせであったに違いない。私は、こういうことを『産経』が言ってはいけないとは思わない。しかし、言うのであれば、事実報道を装って記事の本文に紛れ込ませて言うのではなく、堂々と「主張」などの論説欄で言うべきである。また、あくまでも事実報道として言いたいのであれば、「米側の不信が蓄積されている」ことや、オバマ氏が特別に「忍耐の人」であること、または「言いたいことをガマンしている」ことなどの証拠をきちんと記事中に示すべきである。それをやらずに断定的に書くことは、読者の知性を侮った“世論操作”に近いと思う。
 
『産経』は同じ日の第3面でも、第1面と同様のことをしている。それは「“現実統治”迫る米」という見出しの記事である。この記事は、今回の日米首脳会談の解説記事であるが、見出しだけを見ると、今回の首脳会談でオバマ大統領が鳩山首相に対して「もっと現実的な統治をしろ」と迫ったような印象を与える。が、そんな事実は一切ない。「現実的な統治」を迫っているのは、オバマ氏でもなく、国務長官のクリントン氏でもなく、その部下である国務省の日本担当者でもなく、何とこの記事を書いた『産経』の記者なのだ。アメリカ側はそんな注文を一切していないにもかかわらず、『産経』の記者はアメリカに成りかわって、鳩山首相に「現実統治」を迫っているのだ。ということは、この記者は不思議なほどアメリカ大統領に近く、アメリカの外交政策に通暁しており、オバマ氏の心中も知悉していることになる。ところが、記事の最後尾に書いてある次の文章を読めば、そうでないことがわかるのだ--

「今回や11月の訪日の際の首脳会談を通じ、大統領が鳩山首相に“現実の政治”を迫り説得できるかどうか、手腕が問われている」

 なんのことはない。この記者は鳩山首相の政治は非現実的だから、それを修正するためには、アメリカの大統領が「現実政治をしろ」と日本の首相に迫ることが必要であり、それができれば大統領の手腕を認めるというのだ。一介の日本人記者が、アメリカ大統領の手腕をそんなことで判断するのは失礼だし、第一それをやりたいのなら、他国の大統領の手など借りずに、自分が新聞記者として言論によって自らの紙面を使ってやるべきだ。また、それができないのなら、「できない」という現実の中に自分の力不足の原因を認めるべきである。

 最近の『産経』の見出しの取り方は、このように主観的である。これはほんの一例であり、鳩山首相が日本の温室効果ガス削減の中期目標を国連で発表したときも、同じような手法を使って「一般記事の見出しによる意見表明」を行った。それは23日付の同紙の第1面に載った「高過ぎる公約の呪縛」という見出しだ。「高過ぎる」はすでに意見表明だが、「呪縛」は感情の露出でなくて何であろう? 繰り返しになるが、私はこれは新聞の邪道だと考える。意見表明は論説欄で堂々とやればいい。「それをしたがまだ足りないから、一般記事の見出しで警鐘を鳴らすのだ」では、スポーツ新聞とどこが違うのか。また、戦前・戦中の新聞とも似ている。『産経』が今後もそういう方向へ流れていくのであれば、より客観的な情報を求める多くの読者を失うことになるだろう。
 
 谷口 雅宣

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2009年9月23日

“求道と伝道”で芸術的人生を

 お彼岸の中日に当たる今日は、東京・原宿の生長の家本部会館ホールで午前10時から「布教功労物故者追悼秋季慰霊祭」がしめやかに執り行われた。私は奏上の詞を朗読し、玉串拝礼をするなど斎主として勤めさせていただいた。以下は、慰霊祭の最後に私が述べた挨拶の概要である。

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 本日は、布教功労物故者を追悼する秋季慰霊祭にお参りくださいまして、誠にありがとうございます。
 このお祀りは、永年にわたり生長の家の幹部活動をしてくださった方々で、地上での使命を終えられて霊界に旅立っていかれた方々をこの場にお迎えして、ご生前のご活躍を偲び、感謝の誠を捧げるためのものです。今回は182柱の御霊さまを新たにお祀りいたしました。
 
 今年の秋は、例年より早く来たように感じられます。「夏が早く過ぎた」と言ってもいいかもしれません。その証拠に、例年、ちょうどこの秋のお彼岸に時を合わせたように、私の家の庭には白と赤の2種類のヒガンバナが咲きますが、その咲き初めが2週間ほど早かったのです。近ごろは天候不順ということがよく言われるので、その影響かもしれません。しかし、つい数日前に講習会で伊勢に行ったときには、ちょうど赤いヒガンバナが田んぼ脇のあちこちに沢山咲いていたので、それほどの“気候変動”ではないのかもしれません。ただ、日本の農業地帯である北海道は、今年は雨が多く、日差しも少なかったようで、この間、函館へ講習会で行った時には、今年の北海道の小麦の収穫量は例年より2割ほど少なく、ダイズに至っては4割も少ないと聞きました。

 さて、生長の家の神示の中に「帰幽の神示」というのがあります。宇治の大祭などで朗読されるので、ご存じの方も多いと思います。そこには人間の一生を音楽に喩えて、人間の生命の永遠性が説かれています。神示の言葉を引用すると「汝の肉体は汝の念弦の弾奏せる曲譜である」と書かれています。これは「肉体」という一見頑丈そうな物質の塊が、実はピアニストやバイオリニストが演奏する音楽のように、心の状態によって変化し、流動する柔軟な存在でもあるという意味であります。だから、演奏のために普段から練習を積んでおかないと、音程を外したり、テンポを間違えたりすることもあるように、我々の肉体も心の調子を整えておかないと時々、調子をくずすわけです。そのことを神示では「念弦の律動にただ調和を欠きたるのみなるを病いという」と説いています。つまり、私たちが病気になるのは、あらかじめ定められた人生音楽の曲をまだ完全にはマスターしていないで、演奏を間違えてしまうのに似ているというわけです。だから、そういう場合には、また練習を重ねて、より完全な演奏ができるように努力すればいいのであります。
 
 このように「帰幽の神示」では、人生を表現芸術に喩えています。このことは、私たちに「人生を表現者として楽しめ」という教えでもあるのです。この間の20日に、三重県の講習会が伊勢でありましたが、そこで沢山の質問が出ました。その中の1つの、50歳の会社員の男性からの質問ですが、こういうのがありました--
 
「生長の家の教えを学ぶに当って、組織に属しながら実践する方が早いと思いますが、(その反面)組織の役につく事によって行事にふり廻されることがあります。谷口雅春大聖師の真理を自由に宇治等に行って学ぶために、組織の行事等に費やす時間を、それに当てたいと思う。一切の役を辞退しようと思いますが、いかがでしょうか?」
 
 この質問は、求道と伝道との関係についての一種“古典的な”問題を指摘していますね。「自分はもっと求道をしたいのだが、組織からは伝道の要請があって充分求道ができないから、伝道の役目はやめてしまいたい」ということだと思います。私はこの質問に答えるのに、「自他一体」ということを話しました。宗教の悟りには、また、宗教運動には、この「自他一体」の要素がなければならない。自分だけが生きているのではなく、すべての人々や環境との間に“愛”で結ばれているのが自分である、そういう自覚が必要です。つまり「すべては一体」の自覚です。これは、言葉で聞いてすぐに分かるものではなく、また頭で分かっても、実際生活の中で実践し、実感するのでなければ本物ではありません。生長の家の「大調和の神示」の中にも、そのことが次のように書かれています--
 
「神に感謝しても天地万物に感謝せぬものは天地万物と和解が成立せぬ。天地万物との和解が成立せねば、神は助けとうても、争いの念波は神の救いの念波をよう受けぬ」
 
 他の人々とも一体であるという愛の自覚が生まれたならば、何かの形で「光明化運動をしたい」「組織の仲間とともに伝道をしたい」という気持が起こるはずです。自分だけ求道のための勉強に集中するのがよくて、他の人々へのお世話や伝道などご免こうむるというのでは、自他が対立していますから、「神の救いの念波をよう受けぬ」ということになるでしょう。また、聖経『真理の吟唱』には、「生長の家の礼拝の本尊は観世音菩薩である」と書かれていますが、この観世音菩薩の最大の役割は「菩提心を起して己れ未だ度(わた)らざる前に、一切衆生を度(わた)さんと発願修行する」(『聖使命菩薩讃偈』)ことです。「自分さえ早く教えの神髄に到達すればいい」というのは一種のエゴイムズでもあるわけです。その道そのものが悪いわけではありませんが、それだけでは充分ではない。他の人や行事への参加者が真理によって救われるのを目撃することで、喜びは倍加し、本当の意味での自他一体の愛が自覚されるものです。その実感が、本当の悟りに私たちを導いてくれるのです。
 
 このことは仏教においては「上求菩提・下化衆生」という言葉でも説かれていることで、今日、このお彼岸の慰霊祭で招霊し、お祀りした人々はよく心得ておられたことだと思います。なぜなら、これらの御霊さまは皆、講師や組織の幹部として光明化運動に生涯を捧げられた人々だからです。すなわち、自分が教えを受けたい、真理を知りたいと、上へ上へと精進するだけでなく、受けた教えを、まだ完全には理解していなくても一般の人々に伝えて、他を助けたいとの願を起こして一所懸命に運動をされた人々であります。先ほど、人生は表現芸術に喩えられるという話をしましたが、これら御霊さまの人生は「求道と伝道」をともに実践された“芸術的人生”とも言えると思います。私たちも、この御祭を契機として、これら運動の諸先輩の人生から学び、顕幽手を携えて、これからも人類光明化運動を益々盛んに展開していきたいと思います。
 
 本日は、お参りいただきまして誠にありがとうございました。
 
 谷口 雅宣

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2009年9月15日

自然と人間 (5)

 前回、この題で本欄を書いたとき(9月9日)、私は次の点を強調したのだった--人間の自然観は相矛盾していて、自然を克服すべき“対立物”と考える一方、人間を自然の一部として捉え、自然を尊ぶ考え方もあり、これら双方が同じ宗教の中に共存している場合がある。この「共存している」例として挙げたのが、聖書の『創世記』第1章と第2章に記述された2つの天地創造の物語だった。ただし、この「同じ宗教」が具体的には何であるかについては触れなかった。読者の中には、それはキリスト教であろうと考えた人が多いに違いない。しかし、『創世記』はキリスト教徒だけの教典ではなく、ユダヤ教徒もイスラーム教徒も、そこにある記述を大変重視している。ということは、いわゆる「一神教」の教えの元となる教典には、相矛盾した自然観が含まれているということである。私は、そのことが今日の人類が直面している地球環境問題の解決について、何らかの示唆を与えていると思うのである。

 私は今夏、ブラジルのサンパウロ市で行われた「世界平和のための生長の家教修会」で、アメリカの社会学者、リン・ホワイト(Lynn Townsend White, Jr., 1907-1987)が『創世記』第1章26~28節の記述を引用して、今日の自然破壊と環境問題の元凶はユダヤ=キリスト教の神学であると非難したことに触れ、その反証を試みた。なぜなら、神道や仏教の思想に親しんできたこの日本社会でも、人間による自然破壊や深刻な環境問題が起こったからである。いや、まだ着々と起こりつつあると言っていいだろう。それは例えば、永い自民党政治の中で制度下された「道路特定財源」の地方へのバラ撒きと、それを消化するための不必要な道路建設である。これが、ユダヤ=キリスト教の神学と関係しているとはとても思えない。それよりも、私企業や個人が、自然や環境、日本国民将来や生物多様性よりも、自分たちの生活や短期的な経済的利益を優先しているという、宗教とは関係のない「欲望」や「無責任」が原因だろう。
 
 が、そういう人々も、休日などには家族や友人と連れ立って、自然豊かな日本の山や河川でレジャーを楽しんでいるに違いないのだ。それはつまり、同じ1人の人間が、自然を人間の“対立物”と考える一方で、自然を愛し、自然の恵みを享受しているということだ。ただし、この場合の「自然を愛する」とは、「自然から搾取する」という意味に近い。自分にとって見て美しく、聞いて快く、食べて美味しく、肌に触れて快いものを自分の近くに引き寄せて愛し、あるいは消費するのであって、自然の中の醜いもの、耳障りなもの、まずいもの、不快なものは排除し、破壊していいと考える傾向がある。これは「神学」のような高級な精神的営みの結果、起こるのではなく、何か別の、もっと“動物的”で“感覚的”な衝動の発露ではないだろうか。
 
 このような「自然から搾取する」生き方は、自然を“対立物”として見なくとも、“対象”として、人間から突き放して“別物”として見ている。言い換えれば、人間と自然とを等しいものとしてではなく「非対称」(等しくない)ものとして考える。これに対して、人間を自然の一部として見る考えは、双方を対称的(等しく)に捉えるのである。宗教学者の中沢新一氏は、地球上の生態系のバランスはこのような対称的自然観が生んだ倫理によって保たれてきたとし、「今日、人類が知性を結集してつくりださなければならないのは、このような倫理なのではないか」と呼びかけている。
 
 谷口 雅宣
 
【参考文献】
○中沢新一著『対称性人類学』(講談社、2004年)

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2009年9月13日

倫理的消費者の潮流

 今回の世界的金融危機とそれに続く経済不況の後に、現れるものは何か? かつてと変わらぬ大量生産・大量消費・大量廃棄を奨励する物質主義的資本主義なのか、それとも、地球温暖化抑制や経済格差の是正を視野に入れた、もっと倫理的な経済システムなのか?

 --こういう質問をすれば、恐らく大部分の人は「後者が望ましい」と答えるに違いない。私もそれを希望する。が、「希望する」だけではその実現は保証されない。なぜなら、人間の心には習慣性があり、そういう人間が集まって構成された社会や経済にも、その習慣が色濃く反映されるからである。希望しながら、「でも実現は無理だろうなぁ~」と手をこまねいているだけでは、習慣の力から脱することはできない。
 
 従来の消費生活に疑問を感じ、別の生活を模索しつつ、自らの消費に何らかの倫理を導入する人々を「倫理的消費者」(ethical consumers)と呼ぶらしい。同じようにして、単に金儲けを目的とするのではなく、社会に倫理的なインパクトを与える目的で企業や団体に投資する人々とを「倫理的投資者」(ethical investors)という。そういう人々は、今回の経済危機より前から存在していたことはいた。が、数は少なく、特殊例外的であり、大金持ちの人もいたから、一部には“売名行為”ではないかと批判されることもあった。つまり、社会の“潮流”になることはなかったと言える。が、この経済危機後には、多くの普通のアメリカ市民が、倫理を重視した投資や消費に参加しつつあるようだ。

 アメリカの時事週刊誌『TIME』は、9月21日号に「倫理的消費者の台頭」(The Rise of the Ethical Consumer)という特集記事を載せ、この新しい潮流に注目している。それによると、厳しい経済不況下の今年であっても、アメリカの人々はガソリンの燃費が悪いSUVからプリウスに買い替えたり、フェアトレードのコーヒーを選んで買ったり、かつてない高率で社会的責任を重視する企業に投資したりしているという。『TIME』誌が行った世論調査では、今年1月以降、オーガニック製品を買ったアメリカ人は、10人のうち6人以上という。また、大勢の人々が省エネタイプの電球も買った。さらに、それらの商品の購入動機は、「オーガニック」とか「省エネ」などという商品の性質によるだけでなく、その出所にもよるという。今夏、同誌が1,003人の成人を調査したところ、その82%は、地元や近隣の企業や団体を支援することを意識して、お金を使ったという。また、40%近くの人が、今年商品を買った理由として、それを生産している企業や団体が掲げる社会的、あるいは政治的価値に賛同したことを挙げている。

 アメリカでは1995年以降、企業の社会的責任(SRI)を重視する投資信託が急増している。この種の投資信託は、一般にタバコや、石油、小児労働に関係する企業への投資を避けるところに特徴があるが、そういう投資信託の数は1995年当時は55しかなかったものが、現在は260もあるという。そして、それらへの投資総額は約2.7兆ドルに上り、アメリカの金融市場全体の11%ほどを占めるらしい。このような“倫理的潮流”がつくられつつある要因の一つは、オバマ氏が大統領選挙のキャンペーン中から環境配慮型の製品や産業を称揚し、利益と倫理原則は両立しうることを強調してきたことだが、オバマ大統領の誕生により、社会的責任を重視する人々の活動はさらに盛り上がりを見せているらしい。
 
 生長の家でも“炭素ゼロ”運動の一環として肉食を減らしたり、マイ箸、マイバッグ、マイボトル、グリーン購入のような個人レベルでの活動に加え、太陽光発電装置の設置、会館や道場の建設に際しての設備のグリーン調達などを進めている。企業が社会的責任を果たすことで利益が出るためには、我々消費者の意識が高まることが必要だ。そういう動きが日本のみならず、消費超大国のアメリカでも生まれていることを知って、心強く思った。
 
Wedding  ところで、私は12日に生長の家講習会のために函館市へ行ったが、宿舎となったホテルで面白い光景に遭遇した。ホテルの正面玄関にいたとき、1台の真っ白なリムジンカーが目の前に横づけし、中から着飾った新朗新婦が現われたのだ。そのリムジンカーときたら、普通の高級乗用車2台分の長さだったから、さも大量のガソリンを消費するに違いない。こういう豪華な演出の結婚式をするのが今の若者の“潮流”かと、私は口をあんぐりと開けたのだ。が、中から出てきた2人の幸せそうな姿を見ると、つい赦してあげたい気持にもなった。ところで、上掲の『TIME』誌によると、かの国では「倫理的な結婚式」(ethical weddings)を実現するための活動も行われているという。近々結婚式と縁がある予定の読者は、ぜひ参考にしてほしい。
 
 谷口 雅宣

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2009年9月11日

フランスが炭素税導入へ

 フランスが炭素税の導入に向けて動き出した。サルコジ大統領が10日、2010年からの実施を正式に表明したからだ。『朝日新聞』が11日の夕刊で報じている。それによると、税率はCO2の排出量1トン当たり17ユーロ(約2,200円)で、ガソリンの場合、1リットル当たり約4ユーロセント(約5円)が課税される。当初はこの税率でいくが、段階的に引き上げる方針も示したという。12月に開催される国連の気候変動枠組み条約の第15回締約国会議(COP15)に向けて、主導権をとる意味もあるようだ。
 
 私がこれに注目するのは、フランスは主要先進国としては初めて炭素税の実施に踏み切るからだ。ただし、同国には特殊事情もある。それは、同国が電力の大半を原子力発電に頼っていて、火力発電の割合が少ないということだ。だから、今回の炭素税も電力には適用されないという。しかし、このことは、CO2の排出が少ない原子力発電を大幅に採用している国でもなお、CO2削減をしなければならないという認識がヨーロッパにはあることを示している。また、そうすることが、政治的にも重要な意味をもっているということだ。
 
 炭素税では、北欧の国々が先を行っている。11日付の『ヘラルド朝日』紙によると、炭素税に先鞭をつけたのはスウェーデンで、1991年に導入した。この時はCO2の排出量1トン当たり28ユーロという比率での課税だったが、現在をそれを(例外はあるが)128ユーロにまで上げて実施している。それならば、日本経団連が言うように経済が停滞しているかというと必ずしもそうでなく、導入以来の経済成長率は「44%」だから、年率にすると「2.4%」だ。デンマークはスウェーデンの翌年に炭素税を導入し、その後、フィンランド、ノルウェー、スイス、そしてカナダの一部が導入した。専門家の中には、今後ヨーロッパでは、フランスに続いて炭素税の導入が進むと予測する人がいる。その理由は、最近の経済不況によって、先進各国は企業からの税収が激減したうえ、経済対策で大量の資金を投入して、新税の必要に迫られているからだという。

 サルコジ大統領の炭素税導入の発表は、しかし、フランス国民からは歓迎されていない。8日に『パリ・マッチ』紙に発表された世論調査では、対象者の65%が炭素税に反対しており、55%がその効果を疑っていて、84%が「税負担が重くなる」と感じているという。導入に賛成している環境保護団体も、新税導入から実際のCO2排出量の減少には時間がかかることを認めているという。なぜなら、温暖化ガスを出さないために、一般の国民は省エネ製品に切り替えたり、設備の変更をしたり、車を買い替えたりすることになるが、これにはどれも時間がかかるからだ。しかし、いったんこの動きが始まれば、産業構造にも変化が起らざるを得ないから、簡単には止められないだろう。
 
 日本では民主党への政権交代により、「環境税」の実施に現実味が出てきている。同党の政権公約には、ガソリン税と軽油引取税を一本化する「地球温暖化対策税(仮称)」が掲げられている。また、来年度には自動車関係税の暫定税率の廃止により、新たな財源確保が必要となる。この機会に、新政府が「炭素税」の考え方に近い環境税を導入することは合理的であり、私はぜひ実施してもらいたいと思う。ただし、国民の税負担が多くなることはほぼ確実だろうから、「それでも、地球温暖化を全力で抑制しなければならない」ということを国民が納得するように、「今後の日本経済は“脱化石燃料”の方向に進むことで発展する」というメッセージを明確に打ち出してほしいのである。

 谷口 雅宣

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2009年9月 7日

「温暖化ガス25%減」を貫こう

 民主党の鳩山由紀夫代表が、日本の温室効果ガス排出を「1990年比で25%減」らすとの2020年までの中期目標を宣言した。この数字は、民主党の選挙公約にあったものと変わらないが、これを掲げる前提として「すべての主要国の参加による意欲的な目標の合意」を条件とした点で、より現実的となっている。分かりやすく言い直せば、「今後の交渉で、アメリカを初め、中国やインドなどの温暖化ガス主要排出国が、自ら意欲的な削減目標を設定した場合、日本もこのような規模で温暖化抑制に貢献する」という態度を明確にしたのだ。総選挙後、次期首相となる鳩山氏がこう宣言したことで、麻生首相が6月に表明した「2005年比15%減」(1990年比8%減)の政府目標は事実上、変更されたことになる。都内で行われた「朝日地球環境フォーラム2009」(朝日新聞社主催)での講演で発表したもの。

 私は、同代表が選挙公約通りに、野心的な温室効果ガス削減目標を明確化したことを大いに歓迎する。また、「政治の意思として、あらゆる政策を総動員して実現をめざす」との決意表明も清々しい。ただし、これはまだ“大きなアドバルーン”の段階であるから、それを現実の政策に反映させることは簡単でなく、経済界からの反対があり、時間もかかるに違いない。が、日本の首相(候補)としては近年に珍しい明確な態度表明であり、方向性も間違っていないから、国民として今後、このアドバルーンが落ちてしまわないように、温暖化ガス排出削減に引き続き努力していきたい。

 今回の総選挙のみならず、選挙公約というものは一般に“人気取り”を目的として実質を伴わないものが多い。だから、選挙後に政治・経済の現実に直面し、知らぬ間に“看板を下ろす”ことになったり、下ろさなくても“羊頭狗肉”の政策を実行したりするケースは少なくない。しかし、「地球温暖化抑制」の目標は、国民のためにも、国のためにも、国際平和のためにも、そして地球生命全体のためにも必要不可欠のものである。これが「家計」や「年間所得」や「景気」や「業界」のために、一時的にはマイナスの効果をもたらすことがあっても、国政の中心にある人は看板を掲げ続け、その示す方向に制度を改革し、人材や資源の再分配を行い、国民精神を鼓舞しながら進み続ける必要がある。鳩山氏がそのことを指して「あらゆる政策を総動員」すると言ったのならば、拍手を送りたいのである。また、この大きな目的達成のためには、人気取り政策の一部を(例えば、高速道路無料化政策を)下ろす勇気も必要である。

 『朝日新聞』は9月6日の第1面で、民主党の高速道路無料化の公約の元となったと思われる経済効果の試算が、国土交通省で2年前に行われていたことを報じている。その試算によると、経済効果は高速道路の渋滞増加などで年間「-2.1兆円」になるものの、一般道の渋滞緩和で「+4.8兆円」が見込まれ、差し引きで「2.7兆円」の経済効果が新たに生まれるという。しかし、CO2の排出量がどう変化するかは部分的試算しかしておらず、一般道の渋滞緩和により「1.8%(310万トン)減」という数字があるだけだ。しかし、政府が実際に行った休日の高速料金の「上限千円化」の経験から分かるように、高速道路上の渋滞によってもCO2の排出量が増えることは明白である。こういう細かい点も加えた本格的な試算を行うことにより、高速無料化によってCO2排出量の増加が予想されるならば(私はきっと増加すると思うが)、この時代遅れの人気取り政策をとり下げてほしいのである。国民もきっと納得してくれるに違いない。
 
 谷口 雅宣
 

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2009年8月25日

幸福の方程式 (4)

 前回の本欄で使った「分厚い米国産のビーフ・ステーキ」の喩え話は、少し難解だったかもしれない。単に食品として味わい、また栄養のことを考えれば足りるような例を使えば、説明は大幅に単純化できた。例えば、代りにこれが「鮭フレークが入った握り飯」であり、それを「友人宅に行ったとき手料理として出された」のであれば、ほとんど手放しで喜び、感謝することに問題はないだろう。食べている時にも、味のこと、食感のことに心を集中することができるから、単純においしくいただけるに違いない。では、なぜ「分厚い米国産のビーフ・ステーキ」ではそれをするのが難しいのだろう?

 答えは、簡単である。その理由は、「食べる」という行為以外のことを、いろいろ考えるからである。では、前回、思考実験で行ったような複雑でややこしいことを、我々は考えるべきではないのだろうか? 答えは「否」である。そういうことを考えながら「自他一体感」を得ること(あるいは失うこと)を問題にするのが、人間が人間としてある意味だ。そんなことを全く問題にせずに、どんな場合にも、目の前の牛肉にかぶりついて満足している姿は、あまり人間的だと思えない。そんなことは、イヌやネコがいつもやっていることだ。

 が、ここに1つ、彼ら(イヌやネコ)にも学ぶべきことがある、と私は考える。それは、前回扱ったような複雑でややこしい人間社会の種々の問題を考えてばかりいると、“せっかくのご馳走”もマズくて食べられなくなる、という事実である。このことは、食事だけでなく、我々の生活のあらゆる面で言える。最近は「マルチタスク」などというようだが、アイポッドで音楽を聴きながら通勤する人、ケータイで話しながら街を行く人、携帯ゲーム機に熱中しながら観光バスに揺られる人……これらの人々は、機械によって結ばれているバーチャルな場所に注意を引かれるから、自分が物理的に置かれているリアルな場所との関係が希薄になる。すると、前回の例と同じように、“せっかくのご馳走”が目の前にあっても気づかず、感じられない、という状況が生まれてしまうのである。
 
 本欄の読者ならば、私がここで言っていることは“初耳”でないはずだ。すでに本欄で何回も扱ったし、単行本でも説明したこと--「意味優先」対「感覚優先」、あるいは「左脳的見方」対「右脳的感じ方」のこと--を、私は別の角度から書いている。ブラジルの全国大会でも、私は「幸福とは何か」を論じる際に、右脳と左脳の役割分担の違いについて簡単に触れた。つまり、「左脳」はたいていの人では「言葉による思考」を担当し、「右脳」は感覚器官を通じて物事を感じる際によく使われる。ということは、我々人間は、論理性と感覚認識とを統合させることで、人間らしい生き方ができるように造られているということだ。それが、神が我々に与えた"地上生活の青写真"であろう。言い換えれば、我々は、この双方の脳を十分使ったときに、本当の意味での幸福や生き甲斐を感じるのである。

 この幸福論は、脳科学の言葉で表したが、これと同じことを宗教的に表現すれば、「もっと神の恵みに感謝しよう」ということだ。我々現代人の生活は、“意味過剰”で“左脳偏重”に陥っていることが多い。もちろん「左脳」も神からの恩恵だから、感謝して使わなければならない。しかし、左右の脳のどちらかに偏重した生活は、神の御心ではない。言い換えれば、何でも論理的に理解してすますのでは、人間は満足できないのだ。もっと直接的に、感覚を通して“他者”との一体感を得るところに、我々の幸福のカギが隠されていることもある。そういう意味で、“すでに与えられた神の恵み”を右脳を通して再発見し、感謝し、心に留めるだけでなく、押し広げて他者とそれを共有する「日時計主義」の生き方こそ、幸福生活への道だと言えるのである。

 谷口 雅宣

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2009年8月24日

幸福の方程式 (3)

 前回の本欄に掲げた思考実験の意味を、読者には理解してもらえただろうか? 「分厚い米国産のビーフ・ステーキ」を3つの社会的文脈の中に置いた場合の、人間の幸福とは何かを考え、感じてもらおうというのである。それを再掲すると--

 ① インド・ムンバイの外資系ホテルのレストランで、現地の人におごってもらった。
 ② 北朝鮮政府の招待により、平壌の政府施設でご馳走になった。
 ③ 日本の友人宅に行ったとき、友人の手料理として出された。

 ①の状況下で米国産ビーフ・ステーキが出てくることが実際にあるかどうかは、今は問わない。が、仮に出てきたとすれば、「インド」という国名と「外資系ホテル」というのがキーワードである。インドは、ご存じの通りヒンズー教の国であり、そこでの「牛」は神聖な動物である。それを食することは一種のタブーである。にもかかわらず、「外資系ホテル」(つまり、ヒンズー教徒でない人が多く宿泊し、その客の嗜好に合わせた食事が出る可能性がある場所)ならば、ステーキが出ることがあるかもしれない、と私は考えた。が、仮にそうであっても、ホテル従業員の多くはヒンズー教徒であることが予想される。そういう人々の前で、そういう人々の感情を無視して、我々は本当に「ああ、今日は予想もしていなかったステーキをいただける。ああ有り難い。うれしい!」などと考えながら、幸福感を味わえるだろうか?
 
 ②の場合は、もっと複雑である。北朝鮮政府が日本人を食事に招くなどということは、通常はない。もしあるとしたら、元アメリカ大統領、ビル・クリントン氏が最近、彼の地で金将軍から大歓迎を受けたように、かなり高度な政治的な“手駒”としての利用価値がある、と判断されたからだと考えねばならない。また、現在の状況下では、日本政府は北朝鮮に核開発を断念させる目的で、六カ国協議の枠組みを外さないように注意して交渉している最中である。そんな中で、北朝鮮とは国交がなく、“仮想敵国”とさえ見られているアメリカで生産された牛肉を、北朝鮮が日本人に提供すること自体が奇妙である。これはもしかしたら、北朝鮮側の「我々は日本人の知らないところで、すでにアメリカと直接交渉をして牛肉を入手している」というメッセージかもしれない。そういうものを目の前にして、「ああ、今日は予想もしていなかったステーキをいただける。ああ有り難い。うれしい!」などと手放しで喜び、幸福感を得る日本人がいたとしたならば、そういう人は帰国後、「オメデタイ」を通り越して「アホカ!」と言われるかもしれない。
 
 さて、最後に残った③の場合は、どうだろうか。この状況は、我々には充分ありえるものだから、読者も思考実験をしやすいに違いない。各人の自由な想像にもとづいて「自分だったらどう感じるか」を考えていただけばいいのである。で、私はどうするかと自問してみると、やはりここでも「ああ、今日は予想もしていなかったステーキをいただける。ああ有り難い。うれしい!」という幸福感に包まれることはできない。それよりも、この友人に対して自分が「肉を食べない」ということを知らせなかったことを後悔するだろう。その上で、友人の好意を無にしないために、あえて肉を食べるかどうかを判断しなければなるまい。この場合は、私とその友人との関係がどういう性質であるかによって選択が変わるだろう。いずれにしても苦渋の決断になるような気がする。それを幸福感に昇華させることができるかどうか、今の私には何とも言えない。状況があくまでも「仮想」であるからだ。

 が、理論的に言えば、「お気持は大変ありがたい」と感謝し、しかし「肉は食べません」と言ってその理由をきちんと説明する、という選択肢はあるだろう。また、その逆に、ステーキをいただいてから、「実は、こういう理由で普通肉食はしません」と説明する選択も、あるかもしれない。それを「H=T」の幸福と呼ぶことができるかどうかは、むずかしい。多分、(思考実験の中ではなく)実際の状況においてのみ判断ができると思う。

 結局、私がここで言いたいことは、人間の心に生まれる“幸福感”なるものは、社会的文脈なしには考えられないということである。言い換えれば、人間は、自分個人が客観的にどんなに“幸福な状態”にあるように見えても、その状態が、他人や他の生物の犠牲のもとに成り立っていると感じられる場合は、幸福感は得られないのではないか。これが、人間に与えられた「自他一体感」の意味だろう。そういう感性に優れている人が追求する幸福と、そうでない人のそれとは、相当異なることが予想できるのである。
 
 谷口 雅宣

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2009年8月23日

幸福の方程式 (2)

 私が「H=R-E」の方程式に引っかかった理由は、もう一つある。それは、6月10日付の『ヘラルド・トリビューン』紙に載った別の幸福論を読んでいたからである。それについては、6月14日の本欄ですでに触れているので詳述しないが、簡単に言うと「幸福とは、我々の環境条件にあるのではなく、そこから何を得るかにある」という主旨だ。元国際ジャーナリストのピコ・ライヤー氏(Pico Lyer)が書いていたもので、「幸福は、それを追求しないときに最も自然に現れ」、「自分の望みを必要に合わせることでやってくる」(Happiness comes from matching your wants to your needs.)という内容だった。前回紹介したエリック・ワイナー氏の幸福論と似てはいるが、同一ではない。
 
 ワイナー氏の「H=R-E」という考え方は、「期待すると失望するから、期待しないでいよう」というのだから、物事に対して一種“憶病”であり、消極的だ。目の前で起こる出来事から身を離して、「できるだけ関わりにならなければ、ケガも少ない」と、電車の中の酔っ払いに対するような、「触らぬ神に祟りなし」の態度である。が、ライヤー氏の得た幸福は、物理的、環境的には“不足”の状態に置かれていても、「そこから得られるもの、否、そこからしか得られないものの中にもある」というのだから、環境に対して人間が働きかける積極性、能動性が感じられる。私は、しかしもう一歩突っ込んだ幸福論を提案したかった。

 そのためには、「幸福はどこから来るか?」という根源的問題に答えねばならない。この問いに対しては、ワイナー氏もライヤー氏も同じ答えのように思われる。それは「個人の心」から来るという答えだ。ワイナー氏は「期待しない」という個人の心が、その“反動”として「期待以上の」幸福を生み出すと考える。一方、ライヤー氏は、必要以上に「望まない」「求めない」ことで、目の前の物事の中に幸福を見出す。だから、これらは「個人の心」の中で完結した幸福論と言える。が、これでは、個人と個人をつなぐ「社会」や、社会と社会の間の「国際」問題について、何も語れないのではないか。

 例えば、我々日本人が、世界的には“豊かな生活”といえる中で、米国産のビーフステーキを目の前にして、「H=R-E」の方程式を援用すれば、こんな幸福感(私の幸福感ではないが)を得るのだろうか--
 
「ああ、今日は予想もしていなかったステーキをいただける。ああ有り難い。うれしい!」

 これに対して、ライヤー氏の幸福論では、こんな反応になるのだろうか--
 
「おっ、今日は望んでもいなかったステーキをいただける。国産牛よりは身は固いというが、その代り、悪玉コレステロールは少ないに違いない。それに、こんな値段で分厚い肉が食べられるなんて、実に有り難いことだ!」

 しかし、これら2つの幸福感には、人間として何かが欠けているように私は思う。それは“他者”との関わりである。この場合の“他者”とは、必ずしも「他の人間」だけではなく、「他の生物」とそれを含む「自然」や「環境」も含まれる。人間の中の幸福感は、それを感じる個人の内部で完結するものではなく、その人を含む“他者”との関係において得られるものであるはずだ。それを知るためには、次の思考実験をしてみるといい。つまり、自分が上の架空的人物になり代り、次のような状況下で、部厚いステーキを目の前にしていると想像してほしい--
 
 ① インド・ムンバイの外資系ホテルのレストランで、現地の人におごってもらった。
 ② 北朝鮮政府の招待により、平壌の政府施設でご馳走になった。
 ③ 日本の友人宅に行ったとき、友人の手料理として出された。

 この思考実験をすれば、①~③にある“他者との関係”に応じて、心の中に起こる反応は皆、違ってくると思うのだが……。読者はどうお考えか?
 
 谷口 雅宣

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2009年8月22日

幸福の方程式

 本欄にこんな題をつけると、今回の総選挙に急遽、大量の候補者を出して臨んでいる特定の宗教政党のことを思い出す人がいるかもしれない。が、「幸福」とは基本的に心の中の問題だから、私は政治で簡単に幸福が実現できるとは思っていない。私がこれから書こうとしているのは、8月にブラジルで開催された生長の家ブラジル全国大会での私の講話についてである。ここで私は、実は“幸福の方程式”なるものを提案した。それは、こういうものである:
 
 F = V (Felicidade igual Verdadeira Imagem)
 
 これは、ポルトガル語による表記だから、英語を使えばこうなる:

 H = R (Happiness equals Reality.)
 
 この場合の「Reality」とは「現実」ではなく、生長の家で説く「実相」のことだ。英語圏では、この言葉を「True Image」とも訳しているので、上の方程式は、
 
 H = T (Happiness equals True Image.)
 
 と書き直すこともできる。
 
 この方程式は、「実相が幸福である」とか「幸福は実相から来る」とか「幸福は実相の反映である」という意味である。だから、日本語で方程式を書くとすれば、さしずめ
 
 幸福 = 実相
 
 となる。
 
 私がなぜ、海外での講演で、こんな見慣れない方程式を持ち出したかというと、海外読者の多いニューヨークタイムズ紙の国際版『インターナショナル・ヘラルド・トリビューン』に、これとは違う“方程式”が提案されていたからだ。否、もっと正確に言うと、「方程式」自体ではなく、方程式に表せるような単純化された幸福の定義が掲げられていたからだ。私はそれに異議を唱えるとともに、「生長の家が幸福について何か語るとしたらどうなるか」をブラジルの信徒の方々にお伝えしておきたかった。
 
 私が異議を唱えた記事は、今年7月22日付の上掲紙にあるエリック・ワイナー氏(Eric Weiner)による「Happiness is low expectations」(幸福は期待を下げること)という論説記事である。この題を見ればわかるように、ワイナー氏のポイントは明確で、「現実を見るのに、期待をもたずにすれば幸福が来る」ということだ。ワイナー氏がこの結論に達した理由として挙げているのは、数々の国際調査の結果、デンマーク人が世界で一番幸福だと考えられることだ。もっと詳しく言うと、各国の対象者に幸福であるか否かについて聴き取り調査を行うと、デンマーク人の3分の2が、「人生にとても満足している」と答えるのだそうだ。それも、最近の傾向ではなく、ここ30年間というもの、ずっとこの傾向が続いているという。その原因についてワイナー氏は、「デンマーク人は物事にあまり期待しない性格だから」と分析している。つまり、「期待せずに現実を生きれば、幸福感を味わえる」ということだ。この考え方は、次のような方程式で表現できるだろう:

 H = R - E
 (Happiness equals reality minus expectation)
 
 私はこの記事を読んで、「?」と思ったのである。これは「幸福」の定義というには単純すぎないか。また、「幸福」の定義というよりは、「諦め」とか「無頓着」(indifference)の定義ではないか、とも思った。
 
 谷口 雅宣

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2009年8月20日

神は偉大でないか? (5)

 『God is Not Great』の第5章は、“病気治し”をめぐる宗教の問題である。ここには、生長の家の信仰者にも無縁でないことが書かれていて、興味深い。簡単に言えば、「信仰で治すか、医学で治すか?」の問題だ。特に、病気の原因が医学的にハッキリしている場合、宗教がそれを否定すると、信仰者に悲惨な結果を招く可能性が大きくなる。だから、宗教(あるいは信仰)は有害である、というのが著者、ヒッチェンズ氏の主張である。

 具体的な事例を読むと、世の中にはずいぶん極端な主張をする宗教もあるものだと驚く。もちろん、生長の家では医学を否定しない。が、医学だけでは健康は回復しない、と考える。投薬や手術が健康をもたらすのではなく、人間の内部にある自然治癒力が発揮される必要があり、そのためには「心」の要素が非常に大きい。このことは医学でも認めているから、我々の信仰では「医者を取るか信仰を取るか?」という二者択一の問題は発生しないことが多い。ただし、一度「医者」を選択すると、最近では検査、検査、投薬、投薬……という事態になりかねない状況でもあるから、「できることなら、信仰だけで治したい」という患者の気持も充分理解できるのである。
 
 さて、ヒッチェンズ氏が示す事例をいくつか掲げよう。

 インド北東部のベンガル地方で、著者の友人のカメラマンがユニセフの仕事の一環として子供たちのために小児麻痺のワクチン接種を進めていた時のことだ。どこからともなく妙な噂がひろがってきたという。それは、この薬は西洋の諸国の謀略であって、ワクチンを飲めば生殖機能が不能となり、下痢が続くというのである。その噂の出どころが、イスラーム主義者なのだった。小児麻痺のワクチンは同一人に2回接種しなければならないが、この噂のおかげで、心配した多くの親たちが接種をためらうこととなり、その地方からこの病気を排除することができなくなるのだった。この例は「信仰で治せ」というものではないが、「西洋医学を疑う」という点で、その効果は似ている。
 
 ナイジェリアでは、もっとヒドイことがあった。同じ小児麻痺予防のワクチンの接種について、イスラーム法学者の一団がそれを「イスラームに対するアメリカと国連の陰謀である」というファトワ(イスラーム法にもとづく見解)を出したのだ。ワクチンは、真の信仰者の胤を絶やすためのものだというのである。この法的見解のおかげで、小児麻痺が一時消えていた同国に、数カ月後にはこれが復活した。そればかりでなく、旅行者やメッカへの巡礼者が感染したまま外国へ行ったため、この病気がすでに撲滅されていた他の国--アフリカ3国と遠くイェメンまで--へと小児麻痺は広がったのだ。
 
 これと似たことが、コンドームとエイズとの関係で世界各地で起こったという。それをいちいち書くことは控えるが、問題のポイントだけを言えば、エイズウイルスの感染防止のためにコンドームは有効だという医学的見解に、医学不信と避妊禁制を盾に取って、イスラーム法学者のみでなく、カトリック教会までが声をそろえて反対したのである。その反対理由はばかげている--「すべてのコンドームには、密かに目に見えない細かい穴が開けてあるから」というのである。つまり、コンドームはエイズを感染させるために作られた、と信じているようなのである。しかし、コンドームは避妊具の1つであるから、穴が開いていれば欠陥商品であり、場合によっては訴訟の原因にもなる。だから、「すべてのコンドーム」に穴が開いているはずはない。
 
 アフリカなどでのエイズの蔓延は、こうした宗教的見解の愚かさにも原因がある。
だから、ヒッチェンズ氏は「宗教は、公衆衛生に対する緊急な脅威であり続けている」と手厳しい。また、この章では、ユダヤ教の「割礼」の習慣についての批判もあるが、その詳細は本欄で取り上げるのに相応しくないと考えるので、割愛する。

 谷口 雅宣

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2009年8月19日

神は偉大でないか? (4)

 ヒッチェンズ氏の『God is Not Great』は、第3章で「ブタ」の問題を取り上げている。この章は「ちょっと脇道に反れ、ブタについて」という題がついていることから分かるように、短くて5ページしかない。が、中身はとても“濃厚”である。ここで言う「濃厚」の意味は、「内容が充実している」というよりは、「味が濃くて口に合わない」というニュアンスがある。2006年の生長の家の教修会では、宗教がもつ「食物規程」について学んだが、この中でも、ユダヤ教とイスラームがブタについての禁忌をもつことが話題となった(本欄では2006年7月5日参照)。ヒッチェンズ氏はこの章で、ユダヤ教とイスラームの厳しい“ブタへの禁忌”は、実は“ブタへの偏愛”の裏返しであるとの説を展開する。
 
 心理学を学んだ人ならば、人間の心中にある「愛」と「憎」とは、実は同じコインの表と裏であるとの説明を聞いたはずだ。それと同じように、宗教の教えにある“禁忌”も、それが度を超えている場合は、逆に対象がもつ“魅力”を示しているとするのである。で、イスラーム世界でブタへの禁忌が「度を超えている」と言えるのは、ジョージ・オーウェルの『動物農場』(Animal Farm)1945年8月17日に刊行されたジョージ・オーウェルの小説。 を子供が読むことを禁じているし、ヨーロッパのイスラーム主義者は、『3匹の子ブタ』や『ミス・ピギー』『クマのプーさんのピグレット』など、昔からある童話やキャラクターを子供の目から隠せと要求しているからだという。まあ、私としては、昔から特にブタとのつき合いはなかったし、ブタ肉も食べることはないから、この件についての判断は差し控えたい。
 
 が、ヒッチェンズ氏の指摘の中で1つだけもっともだと思うことを言おう。それは、“ブタへの禁忌”を宗教のドグマとして異常なまでに強調しなくても、ブタの生態や屠殺場での彼らの恐怖と苦しみの様子を知り、我々人間とDNA構成がきわめて近いこと、さらに人間への移植用の臓器としてブタのものが使われている事実等を冷静に考えてみれば、ブタを人間と無関係の「蔑むべき動物」と考えるよりは、地球生命を構成する仲間のうちでは、サルに次いで“近種”であると考える方が正しいという点だ。著者はこのことを宗教で強制しなくても、「理性と思いやりの感情から明らか」(in the plain light of reason and compassion)だというのである。私も同感である。

 谷口 雅宣

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2009年8月18日

神は偉大でないか? (3)

 クリストファー・ヒッチェンズ氏は『God is Not Great』の第2章に、「Religion Kills」という題をつけている。その意味は、もちろん「宗教は殺す」という厳しい批判だ。が、そこに挙げられている数々の実例は、ほとんどが政治がらみの話である。前回の本欄で、私は16世紀ヨーロッパのカトリック教会のことに簡単に触れたが、その当時の社会は“祭政一致”が普通だった。が、これによって政治目標が宗教的熱意(熱狂)によって追求されたり(例えば十字軍)、科学的研究が弾圧される(例えばガリレオ裁判)という大きな弊害が生じたために、近代国家は政教分離を統治原則の重要な柱の1つに据えることになった。だから、それ以前に起こった宗教がらみの政治的対立を、21世紀の現代社会に持ち出して宗教を批判することは不公平であり、不合理である。この点を1つ押さえておきたい。だから、政教分離が適用されないイスラーム社会においては、この問題は現代においても存在する。その場合、そういう政治的対立の責任を「宗教」のみに嫁すことは、やはり不合理と言わねばならないだろう。人間の欲望や野心--つまり、政治的利害が、宗教と同じ程度に関与しているに違いないからだ。

 さて、こうは言ったものの、ヒッチェンズ氏がここで宗教批判の材料として挙げている例の多くは、現代社会での事例である。ボスニア紛争において“民族浄化”政策を冷酷に実行したラドヴァン・カラジッチ(Radovan Karadzic)やラトコ・ムラディッチ(Ratko Mladic)両氏を、ギリシャ正教の大主教が熱心に応援したこと。アイルランドの独立問題で同じキリスト教の“カトリック”と“プロテスタント”が武装組織を結成して殺し合いを演じたこと。レバノンにおける“宗教対立”、パレスチナ問題、インドのボンベイでのヒンズー民族主義の横暴、イラン=イラク戦争、サダム・フセイン統治下のイラクにおける“宗教弾圧”……。これらの中で、宗教的権威が「暴力反対」の意思を全く表明しなかったわけではないが、特に紛争の帰趨に影響力をもつメジャーな宗教(例えば、ローマ教皇庁)の一般的態度は「躊躇」であった。このことに加え、そういう暴力行為に率先して参加した宗教信者が多数あることに、ヒッチェンズ氏は「嫌悪感を覚える」というのである。

 これらの例は、宗教が政治と結びつくことで起こる悪い影響を示している、と私は考える。宗教は、人の信念や感情を動かす力をもっているから、政治の側からは利用したい重要な“資源”の1つである。一方、宗教の側からも、宗教的信条にもとづいた社会改革を実現したい場合、政治は手っ取り早い手段の1つである。政治と宗教は、こうして一種の同盟関係を結び、いわゆる“宗教政党”が結成される。だから、政教分離がされたはずの欧米諸国の中にも、「キリスト教民主同盟」とか「キリスト教右派」などという呼称がいまだに存在するし、日本の政治にも公明党のような政党が大きな影響力をもっている。ここで重要になるのは、政治的対立が深刻化したときに、宗教勢力がそれを沈静化する役割をはたすのか、それとも先鋭化する側に回るのか、の違いである。前者が好ましいことは言うまでもないが、宗教がすでに政治に深く関与している場合、その宗教が前者を選ぶことは大変むずかしい。それよりも、後者を選ぶ方が自分の利益になると考えがちである。つまり、“神の目線”で--すべての存在の福祉実現を目的として--物事を考えることができにくくなり、“宗教の目線”--1宗教団体の利害優先--でしか考えられなくなる。この点で、政教一致は危険な形態と言わねばならない。
 
 ヒッチェンズ氏は、政党政治に関与しなくても宗教が危険である実例として、サルマン・ルシュディー氏(Salman Rushidie)の著作『悪魔の詩』(The Satanic Verses)をめぐる暗殺事件を挙げている。私は、こういう問題になってくると、宗教の教義とその解釈が大変重要な位置を占めてくると思う。ある宗教が神仏に対抗する力をもった「悪」や「魔」の存在を説いている場合、信仰者は周囲の状況によっては、善悪が対立した世紀末的な世界観をもつようになり、激しい暴力に訴えることがある。この件について、私は『心でつくる世界』に実例を出して詳しく書いたから、ここでは説明を省略する。日本ではオウム真理教の事件を思い出していただければ、理解してもらえる読者はいるだろう。ヒッチェンズ氏はしかし、こういう“一部”の過激派宗教の暴力行為だけでなく、その行為に対して他のメジャーな宗教が非難することをせず、または逆に、この宗教的言論弾圧の「被害者」に対して、宗教を冒涜したと非難したことに怒りを表明している。殺人者を非難しない者は、共犯か、少なくとも幇助犯だという論理だろう。

 谷口 雅宣

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2009年8月16日

神は偉大でないか?

 ニューヨークで買った本の中に、クリストファー・ヒッチェンズ(Christopher Hitchens)という人の書いた『God is not Great:How Religion Poisons Everything』がある。まだ全部は読んでいないが、なかなか面白い。初版が2007年だから、すでに邦訳書も出ているだろう。この本の題を訳せば「神は偉大ではない」となるから、イスラームの信仰者がよく使う「神は偉大なり」という言葉に(多分意識して)反対する形になっている。副題はもっと露骨であり、「宗教はどうやってすべてに毒を入れるか」という意味だ。つまり、宗教組織のもたらす害悪を数え上げてこっぴどく批判する内容の本だ。著者は自らを「無神論者」と呼んでいるが、職業はジャーナリストらしい。私がこんな本をなぜ買ったかというと、宗教組織の内外には批判に値することが実際、たびたび起っており、そういう批判をきちんと受け止めて改善することは必要だと感じているからである。
 
 が、ジャーナリストが書いただけあって、世界の宗教の悪い面には非常に詳しいが、善い面はほとんど書いてない。また、私が今日までに読んだ範囲には、神学や哲学に触れる深い考察はまだ出てきていない。だから著者は、題から想像されるような「神」の概念や観念をしっかり検討したうえで、「神は偉大でない」との結論にいたったというよりは、組織をもつ宗教の弊害が目に余るので、批判本を書いたと言えるかもしれない。生長の家も組織運動をする宗教だから、私はヒッチェンズ氏が批判する側面が我々の周辺にないかどうか気にしながら、この本を読み始めた。すると意外にも、著者の指摘の中には、私が普段から感じていることとさほど違わないものが多いのだった。これは恐らく、著者が宗教の中では“原理主義的”とか“迷信的”といわれる考え方を批判しているためだろう。生長の家はもちろん原理主義ではない。が、そういう考え方をする人が信徒の中にいても、不思議はない。
 
 著者は、人生の初期の段階で宗教に疑問を抱いたきっかけになったエピソードを紹介していいる。それは彼が9歳ぐらいのとき、学校の聖書の時間に、女教師が「植物の葉が緑色をしている」ことについてこんな説明をしたという:
 
「ほら皆さん、神さまは実に偉大なお力をもち、慈愛に満ちていらっしゃるか分かりますね。神さまは、すべての木や草を緑色にされています。この緑色こそ、私たち人間の目がいちばんの安らぎを感じる色です。もしそうでなく、植物がみんな紫色、あるいはオレンジ色だった場合を想像してみてごらんなさい。こんなヒドイことはありません」

 私は、9歳の子供に向かって教師が聖書の時間にこういう説明をすることは、さほどヒドイとは思わないが、著者は論理的思考に優れた子だったのだろう、この教師の言葉は間違っていると直感したそうだ。彼はこの時、「人間の目は自然界に適応しているのであり、その逆ではない」と思ったという。

 彼はその後、13歳になるころまでに、これに類したいろいろの疑問を“神”に対して感じるようになったという。例えば、聖書にはイエス・キリストが数々の“奇蹟”を行ったことが記されていて、キリスト教の“三位一体”の教義によるとイエスは「神」と同義であるので、イエスの奇蹟は神の行為と見なされる。そういう理解のもとで福音書を読むと、イエスは、通りかかった盲人の目を癒したとあるが、神が盲人を癒すことが素晴らしいなら、初めから盲人など創るべきではないと感じた。また、いろいろと真面目な話をした校長が、最後に、「この(キリスト教の)信仰の意味について、君たちはまだ分からないことが多いだろうが、そのうちに、君たちの愛する人々が亡くなる時期が来れば、きっと分かるようになる」と言ったそうだ。それを聞いた彼の心には、怒りがこみ上げてきたという。なぜなら、これは宗教が言っていることは本当じゃないかもしれないが、気休めには役立つと言っているようなものだ、と感じたからだ。

 ヒッチェンズ氏が物事を考える際の基準は、次のように明確に表現されている--「我々は科学と理性だけを信頼しているのではないが、科学に矛盾し理性に反するものは何ごとも信じない」。これは、科学と理性によてすべてが説明できるという意味ではなく、すべてを今説明できなくてもいい、という意味だ。なぜなら、「我々が尊重するのは自由な探究、開かれた心、そして理解そのもののための知の探究である」からだという。私は、このような同氏の態度には、生長の家創始前に『神を審判(さば)く』を著した谷口雅春先生に共通したものがあると感じ、(すべてには賛同しないが)むしろ好感を覚えたのである。
 
 谷口 雅宣

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2009年7月 3日

7月2日の「産経抄」

 6月30日の本欄で、自民党政府の長年の重要政策とされてきた「非核3原則」なるものが、実は「2原則」に過ぎなかったとの新聞各紙の報道を取り上げ、「ウソをつくのはもうやめよう」と書いたが、2日の『産経新聞』は、国家の機密保護のためにはウソもやむを得ないし、「正義は国を滅ぼす」と「産経抄」で述べている。まさか本欄に向かっての発言ではないだろうが、ジャーナリズムに籍を置いたものとしては看過できないので、ひと言述べさせていただく。
 
 外交に機密事項があるのは当り前、と私は書いた。しかし、そのことと、政府が「機密事項はない」と国民に向かってウソをつき続けることとは、まったく性質が違う。今回の問題は、元外務次官が「核持ち込みの密約があった」と認めたこと自体がニュースなのではなく、(これは私の考えだが)現在の内閣官房長官が「密約はないというのが歴代の政府の立場なので、ないというほか仕方がない」などと、バカなウソをつき続けていることなのだ。しかし、「産経抄」はこう書くのだーー
 
▼密約の存在を否定する政府を、「嘘つき」と非難するのはたやすい。しかし、国家の安全保障に関するやむを得ない機密は、どこの国にも存在する。それを一切認めないという姿勢は、山本(夏彦)の代表的な名言につながる。「正義は国を滅ぼす」▼

 何か支離滅裂な論理のように、私には感じられる。自民党政府は、1967年12月に「非核3原則」を方針として発表し、それを“堅持”するのが日本の外交政策だ、と今日まで言い続けているのだ。冷戦時代においては、日本は国家防衛の基本戦略として「アメリカの核の傘に依存する」との方針を掲げ、国民の大半もそれを支持していた。が、冷戦後の現在は、ソ連の後継国であるロシアや、中国の持つ核兵器よりも、北朝鮮やその他のテロ集団がもつ核兵器の方が日本の安全にとってより大きな脅威なのである。そういう大きな時代の変化、国際情勢の変化の中で、大方の専門家がウソだと分かっている「非核3原則」なるものを堅持し続けることは政治家として「愚か」であると同時に、国民に対して「不誠実」であり、「国益」にも反する、と私は思う。
 
 また、上に「産経抄」から引用したような言葉は、政府の高官の発言ならいい。なぜなら、この文は事実上、「核の持ち込みがあるかどうかは機密事項である」と言っているのだから、「機密事項はある」ことを認めているのだ。しかし、官房長官は今回も「機密(密約)はない」と発言し、ウソを重ねた。この場合、「機密がある」というのが真実であり、「機密はない」というのはウソである。これらのことを全く問題にしないで「取るに足らない出来事」と評価するのは、ジャーナリズムとしての役割を忘却した態度ではないだろうか。歴代の政府が採用してきた外交方針を、単に「外交には機密がある」という理由だけで擁護し続けることがジャーナリズムの使命ではあるまい。

 外交や国際政治には、国民の目から一時的に隠さなければならないことはある。が、30年もの間隠すことがあってはならない。そういう隠蔽体質の権力が長く政権の座にあるときに、「真実を言え」というのがジャーナリストであり、言わないときには自ら危険を冒してでも「真実を報道する」のがジャーナリストである。28年前、私にそれを教えてくれた『産経新聞』が、今日まるで“御用新聞”のようなことを書くのが悲しくてならない。
 
 谷口 雅宣

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2009年6月26日

宗教の社会的貢献

 地球温暖化抑制や貧困撲滅という人類的・国際的要請との関係で近年、企業の社会的責任が注目されている。英語ではコーポレート・ソーシャル・レスポンシビリティー(corporate social responsibility)といい、「CSR」と略称される。企業が国際化し巨大化すると、一国の法律では規制できない数々の“網の目”をかいくぐって、多国籍企業が利潤追求のために“不正”を行える可能性が増えてくる。また、大企業は、工場や事務所の進出や撤退、投資、M&Aなどを通じて、地域社会や一国の経済にも影響を与える可能性をもっている。そういう点に着目して、企業活動に倫理的な判断を要請する考え方である。宗教の世界では、あまりそういうことが言われないが、私は公益法人である宗教こそ、そういう視点に敏感であるべきと思う。
 
 現在、宗教法人を含めた公益法人制度の見直しが行われているが、その背景には、きっと上記のような企業活動に対する社会的要請とのバランスの問題があるのだと思う。つまり、現在、宗教法人は原則的に収益に対して非課税である。その理由は、「宗教活動=公益」という古い、単純な考え方によって、宗教が“公益”を目的とした法人(公益法人)だと見なされていてるからだ。しかし、実際の宗教活動の中には、必ずしも公益とは呼べないようなものも含まれるとともに、「宗教法人」という看板を隠れ蓑にして、公益目的でない(もっとありていに言えば、詐欺的な意図をもった)団体が活動する余地が残されているからだろう。私はもちろん、宗教は公益に貢献していると信じる。しかし、宗教は基本的に「心」を扱うものだから、外からは分かりにくいところがあり、それが「うさん臭さ」や「教団の利益優先」というようなマイナスの印象を生んでいることも事実である。
 
 そこで、そういう誤解を払拭するためにも、社会的貢献の“客観的な指標”があるならば、宗教団体はそれを活用して、わかりやすい形のCSRを行う義務があるのではないか、と私は思う。生長の家が、環境経営の国際指標である「ISO14001」の取得に乗り出したのも、そういう視点があったからである。今日、生長の家は国内にあるすべての事業所で「ISO14001」を取得しただけでなく、海外に於いても取得への取り組みを進めている。が、この取り組みだけで社会的責任が果たせているとは思えない。そこで、現下の喫緊の課題である地球温暖化抑制のために“炭素ゼロ”(二酸化炭素の排出をゼロにする)という高い目標を掲げた運動が開始されたのである。その考え方にのっとり、生長の家は排出権を購入し、信徒の移動で排出されるCO2を金銭的に相殺するカーボン・オフセットを一部で実行し、さらに植林活動などを展開している。
 
 が、この“炭素ゼロ”を目指した運動は、しかし1つの矛盾を抱えている。それは、現在の社会全体が、まだ化石燃料を主要エネルギーとする産業構造と政治制度を温存しているからである。この環境の中では、何かを強力に推進しようとすると、必ず化石燃料を燃やすことにつながる。その逆に、化石燃料を燃やさないようにすると、宗教活動を推進することが困難になりがちである。この矛盾を乗り越えるためには、宗教団体内部の努力だけでは、どうしても限界がある。社会に対して、化石燃料を燃やさない方向へ動くように、何らかの働きかけをする必要が生じてきているように思う。
 
 谷口 雅宣

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2009年6月18日

映画『路上のソリスト』

 休日を利用して、妻と日比谷へ映画を見に行った。イギリス人監督が、ロサンゼルスの路上生活者と新聞記者の心の交流を描いたドキュメンタリー調の映画で、実話にもとづいている。騒々しい路上で一人でバイオリンを弾いている黒人のホームレスの男に注目した新聞記者が、ふと相手に声をかけてみると、その男がニューヨークの名門音楽学校に通っていた、と漏らす。プロの“勘”で「面白い話」が書けると感じた記者は、取材を進めていくうちに、そのバイオリニストはチェロの奏者であり、プロになれなかった事情がしだいに明らかになる。そこで記者は、プロへの復帰の道を開こうとするが……というような筋だ。クラッシク音楽--特にベートーヴェンが好きな人には、お勧めだ。また、ロサンゼルス市の「スキッド・ロウ地区」と呼ばれるスラム街の様子(ただし、実写ではない)がふんだんに出てくるから、社会見学もできる。が、考えさせられたのは、心に病のある人を、社会として、また個人としてどう扱うべきかという点だった。
 
 これは、あくまでも私の個人的見方である。ついでに、もう一つ個人的な観点を言わせてもらえば、私はこの作品を見ながら、記者と取材対象の精神的距離はどうあるべきか、を考えた。これは、私が実際に記者をした経験と比較して感じたことだ。ものを書く人間は、作品中の“主人公”に自分を投影しがちである。フィクションならそれでいい。が、ジャーナリズムでこれをやると、事実が事実でなくなる危険がある。そこで、取材対象と書き手の間には“一定の距離”が必要になるのだが、取材する相手はその“距離”に対して不信感を抱くことがある。その不信感を取り除くために、一線を超えるべきかどうかの判断は難しい。この映画の場合、相手は心に病をもつ社会的弱者だから、なおさらそれが難しいと思う。作品中の記者は、この判断を一度誤って危険な目に遭う。が、その後、お互いの心の交流がとりもどせた様子が描かれるところは、感動的である。
 
 昨今の経済活動の大幅後退で、日本でもアメリカでも多くの人々が仕事を失い、路上生活者の数は増えているだろう。そういう一人一人の背後には、この映画のソリストと似たような人生劇が隠されているに違いない。それに気づくためにも、本欄の読者には本作品をお勧めする。
 
 谷口 雅宣
 
 

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2009年6月16日

臓器移植の先に見えるもの (2)

 イギリスの科学誌『New Scientist』は6月6日号(vol.202 No.2711)で、体細胞を利用した再生医療技術の現状を特集している。私がそれを読んで驚いたのは、再生医療研究の先端では、すでに臓器移植を不要とする技術が完成に近づいているということだ。もう1つ新たに知ったのは、ここでは動物の臓器と人間の臓器とを“合体”ないし“融合”させることで、新しい臓器の生産に結びつかせる道筋が有望視されているという点だ。つまり、今流行の言葉を使えば“ハイブリッド臓器”の生産が現実化しつつあるということだ。
 
 臓器提供者の不足を補うための1つの方法は、ブタなどの動物の臓器を人間に移植する「異種移植」(xenotransplant)だった。しかし、この方法は、それだけでは移植患者の免疫系が動物の臓器を激しく拒絶する反応が起こるため、移植後は免疫抑制剤を半永久的に使わねばならない問題があった。また、動物の細胞がもつウイルスに感染するリスクがあった。これらの問題を避けて、必要な臓器を作成する方法がほぼ完成に近づいている。その技術の概要は、次のようなものだ--
 
 ①必要な臓器を入手する
 ②臓器を洗浄して細胞を除去し、コラーゲンでできた“枠組”だけを残す
 ③この“枠組”に幹細胞を流し込む
 ④幹細胞が分化を始め、必要な臓器を形成する
 ⑤できた臓器を患者に移植する

 アメリカのミネソタ大学のドリス・タイラー博士(Doris Taylor)らのグループは、2008年1月、ラットの心臓の枠組に、生れたばかりのラットの心臓の幹細胞を流し込むことで、血管や筋肉も備えた拍動する新しい心臓を生み出した。その後、この心臓を別のラットに移植できれば技術の“完成”となるが、できた心臓はまだ筋肉の量が少ないため、体内で役割を果たすところまで行っていないらしい。タイラー博士のチームは、ラットの次には、この方法を使ってブタの心臓と肝臓を作成する研究を行うことを考えているという。そして、この分野の多くの研究者が最終的に目標としているのは、もちろん人間に使える臓器を患者自身の幹細胞から再生産することだ。これは必ずしも夢物語ではなく、気管のような単純な形状の臓器であれば、イギリスのブリストル大学の研究者が、この技術を使ってすでに人間の気管の再生と移植に成功しているという。また、心臓弁などの小型の組織などでは、ブタの組織の“枠組”を使った“ハイブリッド組織”を体内に移植した患者が、欧米ではすでに多数存在するらしい。

 ということで、見えてきた1つの道筋はこういうものだ--上記の①にある「必要な臓器」は、人間のものでもブタのものでも可となる。また、人間の場合、脳死でも心臓死でも大差ないだろうから、後者の人の臓器の利用が増えるだろう。となると、将来の再生医療の行く先は、脳死段階での臓器移植を増やす方向へではなく、病院や専門ラボで患者の幹細胞を使って再形成された新しい臓器の移植である。これによって、脳死段階での臓器移植がもつ様々な問題は回避できるようだが、その代り“ハイブリッド組織”や“ハイブリッド臓器”を体内にもつ人々が増えていくのだろう。これを人間の「幸福の増進」と言えるかどうかは、また別問題と私は思う。
 
 谷口 雅宣

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2009年6月15日

臓器移植の先に見えるもの

 6月9日同13日の本欄で、臓器移植法の改正をめぐる動きについて少し書いた。この問題は、臓器の提供側と受け手側の利害が必ずしも一致しないところに、基本的な問題がある。提供側が前もって提供の意思と時期(心臓死か脳死か)を示していれば、両者の利害は一致するから、問題は起こりにくい。それでも、提供者本人でなく、家族の感情の問題は残るかもしれない。これに対して、事前に提供者の意思が示されていない場合、家族にそれを決める責任と負担が生じる。家族全員が一致した判断を下せれば、それでも負担は少ない。が、そうでない場合、家族構成員の間に感情的なシコリが残ることも考えられる。

 これが提供側の問題だが、受け手の側では少し種類の違う問題が生まれる。それは「他人の死を待ち望む」という心理状態になることである。倫理感が確立していない子供の場合、この心理状態はさほど負担でないかもしれないが、成人した人間にとっては、個人差はあるにしても倫理的ジレンマは感じられるだろう。これを克服し、幸いにも移植臓器を得た人は、提供者に対して感謝の念を強くもつに違いない。が、感謝しようとしても本人は死亡しているのだから、その思いは、提供者の家族に対して、手術をした医師に対して、あるいは移植を可能とした社会に対して向けられるかもしれない。これはよいことだ。また、他人に助けられたことで、社会への奉仕を志す人も出てくるかもしれない。これも、よいことだろう。しかし、これとは反対に「臓器を得る権利がある」などと考える人も出てくるだろう。

 以上は、臓器移植にかかわる個人の問題だが、社会全体を見るとどうなるだろうか。現在の臓器移植法が扱っている範囲は、死んだ人(心臓死と脳死)の臓器だから、社会全体では一種の「臓器のリサイクル」制度のようなものだ。この言い方が悪ければ、「臓器を使えるうちに他人に回す」制度である。摘出された1個の臓器は、基本的には1個のまま他の人に移植される。そういう「1対1」の関係がある。ところが、提供される臓器が足りないと考える人の間では、臓器の「リサイクル」ではなく、「創出」の技術も開発されつつある。つまり、新しく臓器をつくるのである。これができれば、臓器の提供側の問題はもちろん、受ける側の倫理的ジレンマの問題も軽減するし、移植にかかわるコスト削減につながる可能性もある。

 そんな技術の確立を目指しているのが、いわゆる「再生医療」と呼ばれている分野である。この技術は一見、倫理的な問題が少なく理想的に思えるかもしれないが、そう簡単ではない。本欄で何回も言及してきた「ES細胞(embryonic stem cells)」や「iPS細胞(induced pluropotent stem cells)」の技術が、まさにこの分野の先端である。が、ES細胞には「受精卵を使う」という問題があり、iPS細胞には「ガン化のリスク」があることを書いてきた。本欄では、卵子や精子などの生殖細胞を除く「体細胞」を利用した再生医療の進展に期待を示してきたが、iPS細胞の研究はこの分野に属する。が、それ以外の体性幹細胞(成人幹細胞)を利用した再生医療の研究も進んでいる。次回の本欄では、それを紹介しよう。
 
 谷口 雅宣
 

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2009年6月13日

臓器移植法改正は不要である (2)

 9日の本欄で、国民の間に合意が存在しない中で、臓器移植法改正を急ぐ現政権のやり方に対して疑問を呈したが、今日(13日)の『朝日新聞』は「見切り採決に“訳あり”」という見出しで、法改正を急ぐ側の“事情”を説明している。これを読むと、現在の政治というものが、民意の汲み上げや、国民の将来、倫理観などの大所高所を見据えた立場から行われるよりも、国会対策とか政治家個人の特殊事情などを優先して行われている様子がよく分かる。実に嘆かわしいことだ。

 その中でもきわめつけは、いわゆる“A案”を提出した富岡勉・衆議院議員が法改正を急ぐ理由として、「選挙後にはたくさん法案が出て、2、3年先になってしまう」とコメントしている点だ。1997年施行の現行の同法に、3年をめどとした見直し規定があるのに、一度も見直しをしていないことに良心の呵責を感じているらしいのだが、前述したように、WHOが渡航移植を規制する動きを示したことで、見直しには「絶好の機会」と感じたようだ。ところが、改正案の審議時間は97年には26時間かけたのに対し、今回は8時間で打ち切られ、自民党のある国会対策幹部は、「採決は中間報告から間を置かない方がよい。(議員が)地元に帰る回数が増えれば意見を言われて判断が揺らぎ、棄権が増える」などと発言したそうだ。つまり、国民の意見をよく聞くと議員の考えがグラつくから、衆院厚生労働委員会からの中間報告が出た時点で、法案はすぐ採決してしまった方がいいというお考えのようなのだ。これが、自民党政治家が考えている“民主主義”の実態である。
 
 また、少し信じられないのは、息子から生体肝移植を受けた河野洋平・衆院議長が、この法案の通過を引退の“手土産”にしたいとの熱意に燃えているからだという話だ。その動きに、与党側も「唯一首相になれなかった“元自民党総裁”へのはなむけにしたい」と合意したというのだ。この話がもし本当なら、今の与党政治は「公私混同もはなはだしい」と言わねばならない。その上で『朝日』はこう書いている--「与党はすべてが廃案になることも覚悟し本会議での採決に突っ込む構え」。これらの情報を総合すれば結局、こうなるだろう--現在の政権と与党は、現行の臓器移植法に定められた「3年後の見直し」を先延ばしにしてきた怠慢を糊塗するために、「人の死」という重要な問題に関して国民の間に合意ができていないにもかかわらず、かっこうだけ「国会で見直した」形を作って総選挙に入ろうしている。その方が、いろいろな意味で(政治家の私的な都合も含めて)好ましいと考えている。
 
 私は、こんな解釈は間違いであってほしいと思う。臓器移植法改正案の見切り採決について“正しい解釈”があれば、どなたか教えてください。
 
 谷口 雅宣

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2009年6月 9日

臓器移植法改正は不要である

 臓器移植法改正の案づくりが混迷をきわめている。法案の提案順にA案からD案までの4つの案が国会に提出されていること自体が、この問題に対する国民の意見がバラバラであることを有力に示している。にもかかわらず、今の時点で同法を改正しなければならない理由は何か? それは、最初の改正案(A案)が出された経緯を見ればわかる。この法案を推しているのは日本移植学会や臓器提供を求めている人々など、移植手術の件数を増やすことで利益を得る(と考えている)人々だと思われる。6月6日の『朝日新聞』の表現では、「今回の改正論議が、世界保健機関(WHO)が渡航移植の規制に乗り出す見通しに加え、移植経験者の河野洋平衆院議長の勇退が迫っていることでにわかに盛り上がった」のである。渡航移植とは、脳死段階での臓器移植が難しい日本人などが、アメリカや中国などの海外へ行って臓器提供を受けることだ。これが規制されると、移植手術への道が閉ざされるとの危機感がA案提出の背後にある。しかし、このWHOの規制のための決議は、最近の新型インフルエンザへの対応の影響などで延期されたことから、雲行きは怪しくなっている。
 
 A案の骨子は、「脳死は人の死である」と一律に定める改正で、さらに、現行法では臓器提供者の年齢を「15歳以上」に限定しているものを撤廃して「0歳」からの提供を可能とする改正である。つまり、制限を最大限に撤廃して移植手術を増やすという意図が明白だ。これに対して、それはやりすぎだから「12歳以上」に限定しようというのがB案、その逆に、脳死の定義を厳格にしようというのがC案、それらの中間的規制がD案、と言えるだろう。現行法の特徴は、一般的な人の死については心臓死のままにしておき、本人が臓器提供の意思を明確にしている場合に限って「脳死を人の死」と認める点だ。これは論理的には矛盾している。が、この考えは、医学の進歩によって出現した「脳死」という新しいタイプの死を、“本当の死”だと認める合意が日本人の間にできていない中で、臓器提供を表明した人の意志を尊重し、それを待ち望む患者や家族の希望もかなえようとした“苦肉の折衷策”である。
 
 私は、現時点での現行法の改正の必要を認めない。特にA案は、改悪ではないかと思う。心臓が拍動し、体がまだ温かい肉親を前にして、そこから「臓器を摘出して他人に提供する」という気持になる日本人は、まだ少ないに違いない。4歳の子供の場合、急性脳症で脳死になった女の子は、人工呼吸器を着け、見た目は眠っているような状態の中で、身長は伸び、体重も増え、涙を流し、排泄もするから、45歳の母親は「脳死は人の死では絶対ありえない」と『産経新聞』に訴えている。(6月8日付)さらに、A案で明確でないのは、この改正で「脳死は人の死」とした場合、大人を含めて、こういう状態の患者の治療が法改正後も継続されるのかどうかという点だ。継続されないのであれば、これは日本人の死生観に反する法改正と言わざるをえない。臓器を“取られる側”も“得る側”も同じ日本人(が多いの)だから、両者が対立するような法改正は“悪法”と言わざるをえない。
 
 ところで、あらためて書く必要はないかもしれないが、生長の家では「脳死は人の死」とは認めないどころか、「心臓死は人の死」とも認めない。「人間は不死である」というのが生長の家の教えであり、多くの宗教もそのように説いている。つまり、「肉体の死」は「人間の死」を意味しない。ということは、臓器提供の意思がある人は、そのことを明確に示しておけば、移植手術への協力はできるし、そのような愛他精神は称賛に価すると言える。しかし、そうでない場合、後に残される親族の気持を無視して脳死者の肉体を傷つけることは、宗教や信仰以前の問題だと思う。刑法に死体遺棄罪や損壊罪があるのは、死者の遺族のそういう気持を慮っているからではないだろうか。
 
 谷口 雅宣

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2009年5月21日

“若者撃退器”を足立区が導入?

 本欄で4年前に紹介したイギリス製の“若者撃退器”が、いよいよ日本の足立区(東京都)で今日から実験的に使われるらしい。20日付の『朝日新聞』が夕刊で伝えている。これは、若者の耳にしか聞こえないとされる18キロヘルツ前後の高い周波数の音を発生させる装置で、昆虫のカを意味する「モスキート(mosquito)」という名前のもの。カが発声する高音が不快であることから、開発者が名付けたらしいが、日本での商品名は記事中にはない。
 
 記事によると、足立区がこの実験に踏み切るのは、夜中に若者たちが北鹿浜公園に集まって騒ぎ、トイレの便器や事務所の窓ガラスを壊したりするほか、周辺住民から「騒音で眠れない」との苦情が後を絶たないためらしい。同区公園管理課で半年間議論を重ねたすえ、実験的導入に踏み切るという。破壊のあった事務所と公衆トイレがならぶ付近に設置して、午後11時以降、翌朝5時まで高周波数音を鳴らす。議論があるのは、やはり「公園」という公共施設の中に、一部の人間(若者)の入場を妨げるような装置を設置するからだろう。が、同公園管理課の増田治行課長は、「憩いの場のはずの公園が、安眠を奪う迷惑施設になってはいけない」(同記事)と考えて導入するという。

 足立区のウェブ上の説明では、北鹿浜公園は足立区内に2箇所ある交通公園の一つで「交通広場」と「公園部分」の領域に分かれ、前者にはミニ列車、自転車、バッテリーカーなどがあるため入場の規制があるが、後者は常時開放されている。ここへ夜間、若者たちが集まって騒ぎたてるのだろう。私は、この機械の効果をよく知らないが、4年前の本欄によると、それを設置したら「若者が耳を押さえながら店内に入って来て、“あの音を止めてくれ”と頼んだ」というから、若者には「耐えがたい音」であることは確かだ。しかし、若者は店内に入ってきたのだから、彼らを「寄せつけない」音ではなさそうだ。ということは、耳栓をしたり、ヘッドフォンを付けた若者には、あまり効果はないのではないか。また、彼らが「自分たちを排除するため」という設置目的を知ったならば、かえって反発して騒ぎを大きくしないか、と心配する。
 
 『朝日』の記事では、この機械は1台20万円もするそうだが、この公園での昨年度の被害額は約70万円という。3台の設置で被害がなくなれば「効果あり」と言えるだろうが、私としては、公園を夜間閉鎖すればすむ話ではないかと思う。そうすれば「若者だけ締め出す」という公共面からの問題も生まれないと思うのだが……。
 
 谷口 雅宣

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2009年5月11日

矢印探偵は行く (4)

 サブローは、今度はタカシに従わなかった。
「ぼくは、もう帰るよ」
 そう言うと、彼はすまなさそうな顔でタカシを見た。そして、
「時間もおそくなってきたし……」
 と付け加えた。
Arrow10  その言葉が、タカシの気に障った。サブローの家は自営業で、両親はたいてい家にいた。それに比べ自分の家は、両親が共働きで留守がちだった。サブローが家に帰れば、温かい夕食の支度ができているのだろうが、自分は鍵を開けて薄暗い家に入り、冷蔵庫の中の料理を暖めてから、一人で食事する。そう思うと、何だかサブローが憎らしくなってきた。
「そんなの、約束破りだ!」
 タカシはこう言ってサブローをにらんだ。
 サブローは、タカシの態度の急変に驚いて、相手を見ていた。
 タカシは、さらに続けた。
「十個さがすって言ったじゃないか。それができないのは弱虫だからだ」
 思わず強い言葉が出たので、タカシは自分でも驚いた。
 サブローは下を向いて、体を左右に揺らして何も言わない。
 それを見ると、タカシは、
「もういい!」と言って、「ボクはひとりで行くからね」という言葉を残して、地下道へ続く階段に向かってズンズン歩き始めた。
 階段を1段、2段……と降りながら、タカシは後ろからサブローに追いつかれるのはいやだと思い、小走りになって階段を駆け降りた。矢印のことは、忘れてしまっていた。階段が終ると、さらに下へ行くエスカレーターが回っていた。それにポンと跳び乗ってから、タカシはふと思った。
(ボクは、何のためにエスカレーターで下へ行くんだろう?)
 それから、矢印のことを思い出した。そして、階段の途中で矢印をさがさなかったことに気がついた。でも、エスカレーターはタカシをどんどん下へ運んでいた。「逆のぼり」は危険だから絶対いけない、と学校では教わっていた。タカシは、斜めに動いていくエスカレーターの天井を見上げていた。そんなところにも矢印が描いてあるか、と思ったのである。すべすべした天井は、しかし金属質の光を放っているだけで、表面には何の印もついてなかった。
 エスカレーターを降りたタカシは、地下鉄日比野線の改札口に向かって歩き始めた。通路の左右に気を配って歩いていく小学生の姿に気づいた何人かの大人は、不思議そうにタカシの方を見た。親の姿を捜して立ち止まる婦人もいた。が、頭を左右に振りながら下を向いて歩いているタカシは、そんなことに一向気がつかず、足は改札口に向かって進んでいた。
 切符売り場の前で立ち止まったタカシは、困った顔で周囲を見回した。そこから先、どこへ行くべきか分からなかったからだ。その時、「7」という数字と「矢印」という言葉が、タカシの頭の中を駆け巡っていた。「7番目の矢印」を見つけたらもう帰ろう、と彼は思った。
 と、改札口を入った先の天井近くに、タカシは地下鉄のホームを示す大きな看板が掛けてあるのに気がついた。それを見た彼の表情が急に明るくなった。その看板には、横書きで「日比野線」と書いた文字と、その路線の頭文字「H」をあしらった銀色の太い円、そして、乗降ホームの方向を示す大きな矢印が描かれていたからだ。
Arrow16  タカシはその看板を見ながら、自分の考えが正しかったと思い、うれしくなった。サブローは、矢印が何のためにあるかを考えてからたどるのがいいと言ったが、自分は、そんなことは矢印をたどっていけばあとで分かると考えた。そして今、サブローは家に帰ってしまったけど、実際に矢印をたどった自分の方が、矢印の意味にたどりついた、と彼は思った。目の前の看板に描かれた立派な矢印は、そんなタカシの考えを「確信」にまで導いてくれる力強さをもっていた。道路上にあった鳥の足跡のような矢印は、みんなこの立派な矢印のためにあったのだ。
(もう、ひょろひょろとしたチョーク書きの矢印に従う必要はない。立派な矢印について行こう)
 とタカシは思った。
(ここで切符を買って改札口を通れば、8番目の矢印も、9番目も10番目もすぐに見つかるに違いない)
 こう考えたタカシは、ポケットから百円玉を2枚出して、日比野線の切符を買った。

(終り)

 谷口 雅宣 

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2009年5月10日

矢印探偵は行く (3)

 その時、
Arrow12 「あったぞ、ここにあるぞ」
 というサブローの声が、後ろの方から聞こえてきた。振り返ると、サブローが道路脇のプランターの所を指差している。4番目の矢印は、ちょっとだけ考えごとをしていたタカシの目に入らなかったのだ。タカシは小声で「クソッ」と言うと、サブローがいる方へ走っていった。
 その矢印は、用水池とは別の方角にある路地の方向を指していた。そしてその路地は、表通りに続いていることを二人の子供は知っていた。
「大通りに行くなら、もっと近道があるのに……」
 と、サブローは不満そうにボソボソと言った。
「でも、何か意味があるから矢印を書いたんだよ」
 と、タカシはやや低い声で言った。そして、「とにかく、十個見つけるまでやってみよう」と付け加えた。
 二人の子供はもう走らなかった。自分たちが通学路として毎日通っている表通りへ行くのだから、予想外のことはあまり起らないと感じたのだ。
 表通りに面した酒屋さんの一軒ほど手前に、自動販売機が数台並んでいるが、そのかげに潜むようにして5番目の矢印があった。
「あっ、ほら……」
 と言ってそれを指差したサブローは、
「大通りに出ろっていっている」
 と、あまり熱意のない声で言った。
「ほんとだ。でも、大通りには宝が隠してありそうもないね……」
 と、タカシも自嘲気味に言った。
Arrow9  二人は大通りに出ると、付近の歩道を見回して、次の矢印のありかを探した。歩道にはブロックが敷かれていて、車道と段差ができていたが、その境界を仕切る細長い縁石の上に、直角に曲がった小さな矢印が白い文字で描かれていた。
「こんなところにある!」
 それを見つけたタカシが、かん高い声で言った。
 サブローは、矢印の示す方向を見ていた。そして、
「地下鉄の駅だ」
 と言った。
 二人の目の前には、地下鉄日比野線の駅へ続く地下道が大きな口を開けていた。二人は顔を見合わせた。地下鉄に乗ることに躊躇を感じたからだ。ポケットにお金がないわけではなかったが、大事なお小遣いを使ってまで矢印さがしを続けるべきかどうか、迷っていたのである。
「下まで行く?」
 と、サブローが訊いた。
「どうしよう……」
 今度は、タカシも自信がなさそうだった。
 サブローは、自分が心配していた事態が起こりつつあると思った。矢印が描かれている理由を知らずに、それが示す方向へただやみくもに進んでいく。そんなことを続けていれば、きっと迷子になってしまう。
「もう帰ろうよ」
 サブローはタカシに言った。
「でも……」
 タカシは足をモジモジさせてこう言うと、
「6番目まで見つけたんだから……あと4つだよ」
 と言って、地下道の入口を見つめた。
 
 谷口 雅宣

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2009年5月 9日

矢印探偵は行く (2)

 タカシは、サブローを納得させようと思って、自分の“名案”のよさの説明Arrow5を始めた。
「これがほんとに矢印だったら、矢印の方向には何かがあるんだよ。もし何もなくて、かわりに別の矢印があれば、やっぱりこれは矢印ってことになる。矢印も何もぜんぜんなかったら、これは矢印じゃないってことになるだろ? とにかく行ってみなけりゃ何もわかんないじゃないか」
 サブローはうなずきながらタカシの話を聞いていたが、話し終わるのを待って、こう言った。
「でもさ、矢印の先に矢印があって、さらにその先にも矢印があって……って、ずーっと矢印が続いていたら、どこまで矢印をたどって行くつもり?」
「そりゃ……どこまでもさ」
 とタカシは言った。
「家(うち)へ帰るのおそくなるよ」
 と、サブローは心配そうな顔をした。
「じゃあ、適当に十個ぐらいみつけたらやめにすればいい」
 と言って、タカシは肩をすくめた。
「どこか知らない所へ行っちゃったら、帰れなくなるかもしれない……」
 と、サブローはまだ不安顔だ。
 タカシはそんなサブローに向かって、笑顔でこう言った。
「道に迷うことは、ぜったいない。だって、矢印をたどってきたんだから、逆にたどって帰ればいいんだ」
 それを聞いて、サブローの顔も明るくなった。
「わかった。いくつあるか知らないけど、どにかく十個たどってみよう」
 それから、黄色い帽子と黒いランドセル姿の二人は、競争して“矢印さがし”を始めた。夕方の都会の路地を、黄色い二つの帽子が人とぶつかりそうになりながら、前後になったり、左右に揺れたり、突然止まったりして進んでいくのが見えた。

Arrow6  三番目の矢印は、先を走っていたタカシが見つけた。
「ほらほら、こんなところにあった。先が曲がってるぞ!」
 その矢印は、犬が立ち寄りそうな、ひんやりとしたコンクリートの電柱の下に描いてあった。それは、「ここで右に曲がれ」とでも言うように、上向きの矢印がまんなかで直角に右に折れていた。
 追いついてきたサブローが、
「右へ行ったら用水池の方だぞ」
 と言った。
「その前に路地がいくつもあるから、そっちへ行くかもしれない」
 と、タカシは言って走り出した。サブローは、その後ろ姿を目で追いながら、
「用水池はあぶないから、行っちゃいけないって先生が言ってたぞ!」
 と声を張り上げた。
 タカシはその声を聞きながら、
(もし矢印が用水池の方を指していたら、どうしよう?)
 と考えた。、
(先生がいけないと言ってた場所へ、矢印が行けと言ってたら、それは先生の言うことをきくべきだ)
 とタカシは思ったが、その一方で、
(せっかくここまで矢印をたどったのに、途中でやめるのはつまらない)
 とも思った。
 
 谷口 雅宣

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2009年5月 8日

矢印探偵は行く (1)

 小学生のタカシは、学校からの帰りみちでその印を見た時、一緒にいたサブローにこう言ったのだった。
「ほら、これは鳥の足跡みたいだろ?」
 でも、サブローはそれを見て、
「少し形がへんだなぁ。それに、鳥は二本足なのに、印は一つしかない」
 と言った。
 二人は、学校の教室にいる時から、このマークの話をしていた。タカシはそれを何か秘密の印じゃないかと言った。学校の周辺にあるアスファルトの道路の隅に、チョークか何かで描いた白っぽい太い線で、三本指の鳥の足跡のような印が描いてある。それも、ていねいに描いたのではなく、勢いよく書きなぐったように、三本の線が互いに交差していたりする。そんなマークが、一カ所でなく、何カ所にもあるようなのだ。
「数えてみたの?」
 と、サブローが聞いた。
「ううん、まだ」
 タカシは首を横に振った。
「じゃあ、帰りに二人で数えてみようか?」
 サブローの提案に、タカシは二つ返事で賛成した。何か探偵ごっこのような、また宝さがしのような、ワクワクした気持になってきた。
Arrow1  二つ目のマークの所へ行った時、サブローは、
「これ、矢印じゃないの?」
 と言った。
 鳥の足の指だったら、三本の指の長さに違いはあまりない。でも、目の前にある印は、真ん中の指が一本だけ長い。
「ああ、ほんとだ!」
 マークをはさんでサブローの反対側に立っていたタカシは、ポンと両手を打って大声で言った。
「こっちから見たら、矢印に見える」
 そう言ったタカシは、「じゃあ、矢印の方向へ行ってみようよ」と、サブローの顔をのぞき込んだ。
 でもサブローは、そのマークを見ながら考えていた。タカシがそばへ行ってサブローの袖を引っぱっても、まだ考えていた。
「何、考えてんの?」
 と、タカシは言った。
「どうしてかなぁ……」
 とサブローは言って、「なぜ道路に矢印なんて書くんだろう……」と付け加えた。
「そんなこと、考えてもわからないよ」
 とタカシは言って、「矢印をたどっていけば、きっとわかるよ」とサブローをさそった。
 タカシは、自分が今言ったことは「すごい名案」だと思った。何でも、考えるよりはやってみるというのが、タカシの行動パターンだった。それに比べてサブローは、よく考えて、わかってから始めるタイプだった。だから、タカシが引っぱって、サブローがついていく--そんなやり方で物事が進むのは、今回だけでなかった。
 
 谷口 雅宣

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2009年4月24日

“誠意ある表現”の大切さ

 今日は午前10時から、長崎県西海市にある生長の家総本山の谷口家奥津城の前で、「谷口輝子聖姉二十一年祭」がしめやかに行われた。お祭には、この日、最終日を迎える長寿ホーム練成会の参加者を初め、近隣教区の信徒等約320人が参集して、生前の輝子先生の御徳を偲びながら焼香、聖経『甘露の法雨』読誦を行った。私は、お祭の最後に概略、次のような挨拶をした:

 ------------------------------------------
 皆さん、本日は谷口輝子先生の二十一年祭にお集まりくださいまして、ありがとうございます。輝子先生は92~93歳で亡くなられ、それからもう20年たったということですから、時がたつのは速いものです。私はこの間、3月1日に生長の家総裁を襲任させていただきましたが、その関係で輝子先生に久しぶりにお会いしたような気分を経験しました。というのは、東京の生長の家本部会館内で、前総裁の谷口清超先生が使っておられた部屋へ私が移ることになり、執務室を引っ越したのです。正確に言うと、まだ書籍等の移動がすべて終っていないので、まだ引っ越しの途中にあります。谷口清超先生の使っておられた総裁室には本がいっぱい残っていて、その中に輝子先生が書かれた『愛の相談室』というのもありました。
 
 この本は昭和59(1984)年の3月7日--つまり、輝子先生のお誕生日--に世界聖典普及協会から発行されたものです。もう25年も前の本です。この本は、実は私が作った本と言ってもいい。当時、私は世界聖典普及協会で出版担当の部長をしていて、部下と一緒に本や講話のカセットテープづくりをしていたのであります。そのことを思い出しました。今日は、その本から引用しながら輝子先生の御徳をお偲び申し上げたいと思うのです。
 
『愛の相談室』の本には、輝子先生のところに来た人生相談や信仰相談の手紙に対して、先生がお答えするという形式の文章がたくさん載っています。その中に「手紙は誠心で」という題のものがあります。この「まごころ」や「誠意」というものを輝子先生は大変重視された方でした。例えば、この相談の少し前のところで、厚化粧をする人について、こんなことを書いておられます--

「こういう人は、その厚化粧を剥した時に、ちょうどお面を取ったように、全く違う人が現われてくると思います。そういうお面を被ったようなお化粧をして、お見合いをしたりしましたならば、その方の結婚生活では死ぬまでお面を被っているわけにはまいりませんから、やがて子供の一人もできた時には、お面どころか薄化粧もしないで、襟垢だらけで汚い汚い女房になってしまいます。その時に、“お面”を見て美しいと思って結婚した男は、その婦人から心が離れてしまうのでございます。
 私は、何事もありのまま正味の姿で、生地そのままの姿でありたいと思います。お見合いの時でさえも、素顔であって欲しいと思うぐらいであります」(p.54)
 
 これは、「人と接するときはウソや見かけ倒しではいけない。誠意をもって接しなければ、いずれウソがバレて、人間関係が破綻する」--そういうことを仰っているのであります。この「厚化粧ではだめだ」というお考えは、手紙については、「真心をもって書けば、多少下手な字でも大丈夫」というお考えにも通じます。この本の94ページに、相談が書かれています--
 
 (相談の箇所を朗読)
 
 これに対して、輝子先生はこう答えておられます--
 
 (pp. 95-96 を朗読)
 
「虚栄心から字をうまく見せようとせずに、少々下手と思っても、誠意をもってていねいに書けば、それは相手に通じる」--そういうご指導です。輝子先生は、そういう生き方をされて来た人でありました。

 この「字をていねいに書く」ということは、最近のようにパソコンやケータイが頻繁に使われるようになってくると、あまり重要でなく感じられるかもしれませんが、そうではないと私は思います。というのは、私のところに手紙をくださる人の中にもいろいろおられて、直筆で書いてくる人が多いのですが、たまにパソコンのプリンターから打ち出した文字だけで、手紙をくださる人もいます。そういう手紙は非常に読みやすいという点ではありがたいのですが、「一体、誰が書いたのか?」と疑問を感じます。つまり、誰が書いてもプリンターで打ち出せば同じだからです。本当にご本人が書いたのならば、自筆のものの方がプリンターで打ち出したものよりも、受け取った相手は「誠意」を感じます。それが多少、下手な字であっても、ていねいにさえ書いてあれば「誠意」を感じます。
 
 それから、最近ではメールを多く使うようになってきました。皆さんの中にも、たいていのことはメールですませてしまう人もおられると思います。私も毎日、メールを使って人と連絡をしています。しかし、自分の「誠意」を示そうと思うときには、メールのような、手っ取り早く機械で作った文字では不十分ですね。また、誠意だけでなく、「好意」「感謝」「尊敬」「ユーモア」などを表現するときも、メールやパソコンよりも、自分の手を使い、下手でもいいから心を込めて書いたものが数段優れています。そういう意味からも、私は講習会の際には「絵封筒」というのをよく描きます。封筒に大きな絵を描いた中に、手紙を入れて出すのです。これは、絵手紙と同じように、ちょっと練習すれば誰にもできるものです。これをするには、メールを打つよりもはるかに多くの時間がかかりますが、その代り、相手に伝える内容は、大変豊かなものとなります。
 
 受け取った相手は、きっと驚くし、喜んでもらえます。これも「まごころ」や「誠意」の表現であります。誠意というのは必ずしも真面目なだけではなく、楽しいものも、ユーモアにあふれたものもあります。ですから、皆さんも光明化運動の中で、あるいはご自分の人間関係の中でも、表面を飾るのではなく、心の中にあるものを素直に表現しながら、誠意をもった生活をしていただきたい。それが、谷口輝子先生が教えてくださった生き方だと思います。
 
 谷口輝子先生の二十一年祭にあたって、所感を述べさせていただきました。ありがとうございます。

谷口 雅宣

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2009年4月15日

ウサギとカメ (2)

 カメをバカにして笑っていたウサギは、しかし、顔がだんだん歪んできました。かと思うと、口が大きく開いて大アクビの顔になりました。ウサギは両腕を思いっきり空に突き出して、
「フューワァーアー……たいくつだぁ……」と言ったのです。
 そして、伸びがおわると、
「この島では、やることが何もない……」
 と、低い声でボソボソと付け足しました。
 それを聞いたカメは、ウサギに言いました。
「やることが何もないなんて、おかしなことを……」
 ウサギは、上目づかいでカメを見て、
「オカシもカカシもないよ。何もないんだからしかたがない」
 と言いました。それから息を胸いっぱい吸って、ウサギはアメリカの大統領のように、顔を半分空に向けて演説をはじめました--
「ノロマのおまえさんには分からないと思うけど、ぼくはこの島のすみずみまで、もう行ってしまったんだ。どこにも知らないところはない。この速い足と、よく聞こえる長い耳で、ぼくはこの島のすべてを知ってしまった。何も新しいことはない。何も不思議なことはない。何も驚くことはないんだ。ぼくはこの島のすべてのものに名前をつけて、分類して、頭の中にきれいに整理してしまった。その結果、世界の中のすべてのものは、たった3つの種類に分けられるという偉大な真理を発見したんだ。まぁ、こんなことを言っても、頭の回転の遅いおまえさんにはわからないだろうけどね……」
 ここまで一気に言うと、ウサギはカメの方を横目で見て、相手の反応をたしかめました。
 カメもその時、空を見上げていて、口を開けると、細い舌をペロリと出して、すぐに引っ込めました。そして、
「おいしいぞ」と言いました。
 ウサギはそれを聞きのがさず、
「何をひとりで言ってるの?」とカメに言いました。そして、「空気はおいしくなんかない」と続けました。ウサギは自分が見つけた偉大な真理を、今こそカメに伝えるべきだと感じました。
「おまえさんは、何もわかっちゃいないね。世の中のすべてのものには結局、3つの意味しかないんだ。“おいしい”とか“まずい”とかいうのは、その3つがわかる前の、とちゅうの感じだ。中途半端な結論、と言ってもいい。もし空気に味があるとしたら、“おいしい”のは“よい空気”で、“まずい”のは“悪い空気”だ。それ以外の味は、どんなに複雑で微妙な味でも気にすることはない。よくも悪くもないものは結局、おまえさんにとって何の意味もないからだ。それは、おまえさんにとって“関係ない空気”だから、無視するのがいちばんいい」
 カメはそれを聞いて、
「そんな考えはツマラナイ!」と言いました。
 すると、ウサギはムキになって、
「ツマルもツマルも大ツマリだ。おまえさんは、人生の先輩の言うことを聞くべきだ!」
 と主張しました。
 カメもゆずりません。
「おいしいものを“おいしい”と言うのが、ぜったい正しい」
 と言うと、目をむいてウサギをにらみました。
 
 谷口 雅宣

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2009年4月14日

ウサギとカメ

 ある島に、ウサギとカメが住んでいました。ウサギはすばしこくて、走るのが得意で、いつも競争相手をさがしていました。カメはゆっくり動くのが好きで走るのは遅かったですが、自分のまわりのものによく気がついて、ていねいで、根気が強いのでした。
 
 ウサギは島にすむイヌやネコと競走しても、足の速さでは負けません。だから時々たいくつすると、イヌやネコをからかって自分を追いかけさせ、一緒に走りながら運動不足を解消するのでした。
「ぼくは、島いちばんのランナーさ!」
 と、ウサギは大得意でした。
 
 カメはウサギがそんな競走に熱中しているのを見ても、いつも知らん顔をしていました。そして、天気がいい日には天に向かって首を伸ばして、じっと日光浴をしていました。時々、イヌやネコがカメに近づいてきて、ちょっかいを出そうとすると、カメは素早く首や手足を殻の中に引っ込めて、“石”になったマネをするのでした。ウサギみたいに走って逃げなくても、首や足を引っ込めるだけでいいのです。カメの堅い甲羅には、イヌもネコも歯がたたないのでした。だからカメは、
「あたしは、島いちばんのカタブツさ!」
 と、大得意でした。

 ある日、日光浴をしているカメのところへウサギが来て、言いました。
「おーい、カメさんよ。こんなところで空を見上げて、何かおもしろいものが見えるかね?」
 カメは、目をしばたたいて、ちょっとウサギのほうを見ました。
 ウサギは、そんなカメに向かって、
「空には何も見えないだろう。見えたとしても、鳥が飛んでるぐらいだ。ノロマのおまえさんには関係ないけどね……」
 と言って、ニッと白い歯を見せました。よい考えが浮かんだからです。ウサギは、たいくつしのぎにカメをからかってやろうと思いました。
 カメは、自分が鳥と関係ないなどと言われたのが気に入らなかったので、口をあんぐりと開けてウサギをにらみました。
「おや、カメさん。小さいお口をパクパクさせて、何かご不満かね。ぼくは、鳥と競走しても勝てるほど速い。でもお前さんは、アリと競走しても負けるほど遅い。だから、怒ってもムダなんだよ」
 と、ウサギは憎まれ口をたたきました。すると、カメはゴツゴツとした声で言いました。
「カメはウサギに勝ったぞぉ!」
 ウサギは、カメの予想外の言葉に驚いて半歩下がりました。しかし、すぐに反論しました。
「あぁ、それは昔のことですねぇ~。おまえさんの先祖があんまり遅いんで、ぼくの先祖が途中で昼寝してしまったって話ね。それは昔のことでね、ぼくは先祖みたいにウカツじゃないから、レースの途中で昼寝なんかしない。だから絶対負けないんだよ。いや、昼寝はするかもしれないけど、それはゴールに入ってからさ。おまえさんが来るまでには、きっと日が暮れてしまうからね」
 ウサギはこう言うと、カメを指差してカラカラと笑いました。

 谷口 雅宣

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2009年3月21日

なぜ今「地球環境工学」か?

 私は最近、「ジオエンジニアリング」(geoengineering)という言葉が気になっている。アメリカの外交専門誌『Foreign Affairs』(フォーリン・アフェアーズ)が3~4月号の表紙の見出しにこの言葉を使ったし、イギリスの科学誌『New Scientist』が2月28日号(vol.201, No.2697)の論説の見出しに、やはりこれを使っている。

 ジオ(geo)とは「地球の」とか「地理に関する」という意味の接頭語だ。従って、ジオグラフィー(geography)は「地理」であり、ジオロジー(geology)は「地質学」、ジオポリティックス(geopolitics)は「地政学」である。エンジニアリングはもちろん「工学」のことだから、「地球」や「地球環境」を工学の対象とするのが「ジオエンジニアリング」である。新しい言葉だから、私の使う英和辞典にも英英辞典にもまだ載ってない。
 
 ご存じのように、遺伝子工学(genetic engineering)は、人間が生物の遺伝子を操作することによって、生物を人間の目的に合わせて制御したり、改変する学問だから、ジオエンジニアリングは「地球や地球環境を人間の目的に合わせて制御し、改変する学問」ということになる。私はそれを「地球環境工学」とここでは訳した。
 
 賢明な読者はすでにお気づきと思うが、著書や本欄などを通して遺伝子工学に疑義をはさんできた私にとって、「地球環境工学」はさらに疑わしい考え方である。それは私が、宗教家であるからではない。多くの科学者が「地球環境を人間の力で操作するためには、遺伝子操作よりもさらに慎重な配慮が必要だ」ということをよく知っている。第一、「今日の深刻な地球温暖化の原因は、人間の活動による温室効果ガスの増大である」という事実が、地球環境工学の難しさを証明していると言えるからだ。産業革命によって、我々は当初まったく意図せずに、地球環境を悪い方向に変える技術と文明を創造した。そして今日、悪いと知りながらも、この方向を逆転できないでいる。自分の行動の過ちを正せない人間が、何を今さら「地球環境工学」か?
 
 私が「ジオエンジニアリング」という言葉を目にした最初の印象は、そういうものだった。ところが今日、生長の家講習会のために滋賀県大津市に向かう新幹線の中で上記の『New Scientist』誌を読んだ私は、この学問が今、科学者の間では“最後の手段”として論議の対象になっていることを知った。私が言っているのは、経済危機とか北朝鮮のミサイルのことではない。現在の人類の意識と世界の政治・経済制度では地球温暖化を止めることができないから、人類の犠牲を最小限に食い止めるために、科学技術を動員して地球環境の操作に、あるいは少なくともそういう技術の研究に着手すべしという議論が、環境学者や気象学者の間で行われているのである。
 
「4℃の上昇」というのが、ここでのキーワードである。つまり、地球の平均気温の上昇がこのレベルに達すると、地球環境の変化は後戻りできない状態になるらしい。そして、何年後にこの段階に達するかといえば、あるコンピューター・モデルは「2050年」にはなるという。が、それは悲観的予測で、多くの科学者は「2100年」までにはそうなると予測しているようだ。我々の子や孫の時代だ。これはもちろん、現在の京都議定書での取り決めが実現せず、さらなる政治的努力も効果がないという前提に立っているのだろう。つまり、“最悪の事態”の到来を予測して、今から準備を始めるべきだとの考え方である。
 
 科学者がそれほどの危機感を抱く理由は、「4℃の上昇」が起こった場合の地球環境のシミュレーションを知れば了解できる。が、そのことは、次回以降に譲ろう。

谷口 雅宣

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2009年3月20日

誠実な“間借り人”として

 春分の日の今日は、午前10時から東京・原宿の生長の家本部会館ホールにおいて「布教功労物故者追悼春季慰霊祭」が約2時間にわたってしめやかに行われた。私は、斎主として奏上の詞を述べ、参列者に大略以下のようなご挨拶を申し上げた:
 
-------------------------------------
 本日は、布教功労物故者を追悼する春季慰霊祭にお参りくださいまして、誠にありがとうございます。

 このお祀りは、永年にわたり生長の家の幹部活動をしてくださった方々で、地上での使命を終えられて霊界に旅立っていかれた方々をこの場にお迎えして、ご生前のご活躍を偲び、感謝の誠を捧げるという意義深いものです。今回は196柱の御霊様をお祀りいたしました。

 昨年の同じ時期にも話したと思いますが、私は、春のこの時季にお彼岸があり、慰霊祭が行われることは大変時宜にかなったよい習慣だと感じています。というのは、自然界では冬が終って、虫が地上に現れ、植物の花が一斉に咲き出し、鳥や動物が活発に動き出すからです。つまり、この時季には“生命の再生”ということが私たちに如実に感じられるからです。そんな時に、死者の霊をお祀りするのがなぜふさわしいのでしょうか? それは、“死者”とは、本当の意味では死者でないからです。生長の家はもちろん、その他の多くの信仰では、肉体の死は本当の人間の死ではなく、霊界や死後の世界への生まれ変わりだと考えます。ですから、生命の再生のときなのです。
 
 死は、霊界への生命の「再生」であると同時に、この世に残された者にとっては「移行」や「継承」が行われるときであります。

 ご存じのとおり、私の父は昨年10月に亡くなりました。そして、私は去る3月1日に生長の家総裁を襲任させていただきました。近々、谷口清超先生が使っておられた執務室を私が使うことになるので、最近、そこへ行って、自分ならその部屋をどう使おうかなどと考える時をもちました。すると、その部屋には先生が使っておられたものがまだ数多く残っているのですね。父は物を大切に使う人でしたから、古いカナ専用のタイプライターとか、パソコンがそれほど普及していない時代に使われていたワープロ専用機も置いてありました。そのほかにも、旧式のラジオやテレビが残っていました。私はこういう古い機械を今後もすべて使うわけにはいきませんが、中にはまだ十分使えるものもあるので、そういうものはできるだけ使っていこうと考えています。

 私は、古いものが嫌いではありません。実は、私が副総裁の頃から十数年間使っていた部屋は、初代の総裁である谷口雅春先生が使っておられた部屋なのです。この本部会館が建てられた当時の「総裁室」を、私はずっと使わせていただいていました。ですから、そこには建設当時からある古いデスクや洋服ダンスがあり、私はそれをそのまま有り難く使っていました。ですから、今回の執務室の交替でも、古いものが使えるのは有り難いことだと感じています。なぜならそこには、大げさに言えば“伝統の継承”がきわめて具体的な形で実現しているからです。別の言い方をすれば、前任者の気持や雰囲気を大切にしながら、新しいものを導入していくことが、とても自然な形でできるのです。
 
 こういうことは、私が特殊な立場にいるから可能であった、と見ることもできます。しかし、よく考えてみると、どんな人の一生も結局、“前任者”と“後継者”が適切に混じり合うことで、成り立っているのではないでしょうか。私達は両親のDNAを半分ずつ引き継いでいるだけでなく、DNAを超えたところの人生観や生き方、ものの考え方、遺産、家訓、商習慣、顧客、市場、商店、工場、農地……なども両親、あるいは前任者から受け継いでいます。それを消し去ることは不可能だし、また無意味なことです。先人から受け継ぐべきものは素直に受け継いで、その上に自分に合った、また新しい時代にふさわしい何かを加えていく……そういう営みが、私たちの人生の基本形ではないかと思います。
 
 このように考えていくと、親や先輩や先任者を肉体の死によって失うことは、今回の私のように、“部屋”を交替することに似ています。かつて親がいた位置に、自分が座るのです。親が握っていたハンドルを、自分が握るのです。そして交替したならば、そのまま自分が未来永劫にわたってその“部屋”に居座るのではありません。それは、次の人に交替するまでの一時期にすぎません。交替の時期がいつくるかは分かりませんが、自分はそれまでの間だけ部屋を使わせてもらう“間借り人”にすぎないのです。なぜなら、私たちの“本当の部屋”“本当の家”は実相世界であるからです。別の言い方をすれば、私たちの肉体は地上の一時期を使命遂行のために使う“仮りの衣装”にすぎないのです。そういうことを、谷口雅春先生は『続 真理の吟唱』にある「新たに生まれる言葉」の中で説いておられるので、一節を朗読し、紹介いたします。
 
 (「新たに生まれる言葉」『続 真理の吟唱』pp. 59-61 を朗読)

 --このように説かれていまして、私たちの実相は霊的実在であるというのが、生長の家の人間観であるのであります。今日お祀りした御霊さまは皆、この教えを宣布することに人生を捧げられた私たちの大先輩であります。私たちはこれからも、御霊さまの遺志を継いで、次の時代の後継者に真理宣布の志を伝えるとともに、この世に生あるかぎり誠実な“間借り人”としてベストを尽くし、人類光明化運動に邁進していきたいと思います。
 
 春のお彼岸のお祭に際して、所感を述べさせていただきました。ありがとうございます。
 
 谷口 雅宣

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2009年3月18日

透明性の魅力

 ペットボトルは手軽で、持ち運びに便利であるため、人気は衰えない。その中に入れて持ち運ぶ液体も、水やお茶、清涼飲料水などいろいろあって、それぞれの中身にふさわしい色や装飾をほどこされ、コンビニやスーパーの棚に並んでいる。

 しかし、なぜペットボトルは透明なのか? それは多分、外から中身が見える方が、見えないよりも信頼できるからだ。「はい、このように中身にいつわりはありません」と容器自体が宣言しているのだ。それに加えて、透明なものには何となく清潔感がある。
 
Mtimg090316  私は最近、ホテルに備え付けのアメニティーグッズの中に、ペットボトルと同じ素材の透明プラスチックの容器を見つけた。普通の背の低い清涼飲料用の容器の4分の1ほどの大きさだ。3つの瓶の中にそれぞれ黄、緑、白色の液体が入っていて、3つ並ぶと実にかわいく、色の組み合わせが美しい。そのうち1本を使ったので、容器を持ち帰った。具体的に何に使うかなど頭にないまま、この瓶自体の魅力に逆らえなかったのである。ガラス瓶にも清潔感はあるが、重くて、割れる危険性がある。その点、ペットボトルは軽くて、頑丈である。加えて、栓が付属しているのもいい。好天の朝、窓辺に置くと、明るい光を反射して輝いて見えた。そんな様子をスケッチした。
 
「透明性」は、人格や政治、企業経営においても好ましいとされる。外から分かる様子と中身とが変わらないことは、一般的に美徳なのだ。「ウソをつかない」とか「約束を守る」という徳目も、透明性と関係があるに違いない。我々の道徳評価には、視覚からの影響が少なからずあるようだ。
 
 谷口 雅宣
 

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2009年3月16日

裁判員として“罪”をどうするか?

 昨日東京で行われた生長の家講習会で、裁判員制度との関連で興味ある質問が出た。川崎市高津区から来られた49歳の女性の、こういう質問である--
 
「午前の部のご講話より、ずっと心にひっかかっている問題がございます。“人間本来罪なし”と教えて下さる生長の家のみ教えにふれていますと、5月から始まる裁判員制度でもし(裁判員に)選ばれました時、罪なし、罪なしでみんな神の子さんに見えて、とても極悪犯でも裁くことがむずかしく、冷静に判断できません。本当は死刑にしたいと思えるのに、という場合もあります。どうしたらよいでしょうか?」

 私は、これに対して「実相と現象の区別」をポイントに置いて答えたが、言いたいことがどれだけ伝わったか定かでない。そこで、この場を借りて、少し補足させていただきたい。

 まず、「人間本来罪なし」という場合の宗教上・道徳上の罪と、裁判員制度を含む法律上の罪とは、若干意味が異なるのである。英語でも、前者を「sin」といい、後者を「crime」と呼んで区別している。宗教上・道徳上の罪は、一般的には創造主である完全なる神に比較して、人間は本質的に不完全であるという意味で使われる。これに対して法律上の罪は、単に法律に違反しているという意味だ。だから、前者は後者より広い意味をもつ。例えば、日本では大麻(マリファナ)を個人が栽培することは法律で禁じられているが、アメリカの一部の州では禁じられていない。この場合、大麻栽培者は、日本では法律上の罪人であるが、アメリカのその州ではまったく自由人だ。このように、法的な罪は国や州によって異なるが、宗教上の罪は、そのような地域的な差異は認められない。例えば、「他人の不幸や死を願う」ことは宗教的・道徳的罪とされることがあるが、そういう傾向のある人は、どこの国へ行っても同じような心を抱くだろうから、地域的な差異は生じない。
 
 以上は、2種類の罪の一般的な説明である。そして、5月から始まる裁判員制度では、我々は宗教上・道徳上の罪を裁くのではなく、もっぱら法律的罪を裁くのである。大麻栽培の例を使えば、ある人が日本国内で大麻を栽培したかしないかの事実認定にもとづき、法律に照らして罰則を適用する--それだけのことである。法律に「禁固1年」と書いてあったら、それ以下の罪になるのであり、決して「禁固2年」や「懲役刑」にすることはできない。また、ある人が国内で実際に大麻の栽培をしていたのであれば、生長の家でどんなに「罪はない」と説いていても、その人は「有罪」とならざるを得ない。ただし、量刑(罰則の適用)については、罪の程度が軽微であれば--例えば、大麻と知らずに、別の植物だと思って栽培していた場合、事実上は刑を免除する「執行猶予」となることもある。それでも、法律的にはあくまでも「有罪」だ。
 
 ところが、宗教上・道徳上の罪という観点では、生長の家では「人間本来罪なし」であるから、有罪判決を受けた人に対しても、「あなたは本当は罪人ではありません」と断言するのである。大麻栽培者に対してだけでなく、詐欺師にも、放火犯にも、殺人犯にも、そう言うのである。ここで重要なのは「本来」という2文字であり、これは「実相においては」という意味だ。「人間本来罪なし」をこの文脈の中で言い直せば、「現象的には殺人犯でも、実相においては神の分身として完全である」ということになる。裁判員になった生長の家信徒は、一方では法律的意味での罪の有無をきちんと判断すると同時に、宗教的な意味での罪は「本来ない」ということを信じるのだ。まるで“ダブル・スタンダード”のように聞こえるかもしれないが、「実相と現象を分けて考える」というのは結局、そういうことになるだろう。
 
 谷口 雅宣

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2009年2月14日

バレンタインデー

 今朝、6時前のNHKのラジオ放送を聞くともなく聞いていたら、女性の気象予報士が「今日の天気は昨日と同じように荒れて、強い風も吹くでしょう」と言ったあとで、
「チョコレートを届けに行くかたは、十分気をつけてください」
 と言った。
「えっ、何に気をつけるの?」
 と私が言うと、妻が何か答えたが私には聞きとれなかった。だから、「風に飛ばされないように」ってことだろうと思って、私は大声で笑った。
 発言したご本人がユーモアのつもりで言ったならば、なかなかセンスがある。が、そうでなかった場合は、相当やせ型の人なのかと思ってしまう。

 この不況の中でも、チョコレートは売れ続けていると聞いた。最近は“逆チョコ”というのがあるそうで、男から目当ての女性に渡すのがはやっているらしい。女性の経済力がつき、相対的に男性の立場が弱くなってきたことと関係があるに違いない。が、バレンタインデーには「女性から男性に贈る」という決まりは日本だけのようだし、私たち夫婦のように商業主義に懐疑的な人間は、チョコレートの授受にこだわらずに、ゆっくりと2人の時間をもつことにした。何をしたかは、今回は言わないことにしておく。
 
Mtimg090214  仕事場でもらったチョコレートを眺めながら発想したイメージを、絵に描いた。今日の世界同時不況は、人間の期待や欲望を実際の価値以上にどんどん膨らませてきたことから起こった。それらがいつかは崩れると知りながらも、目の前の短期的利益を得ることで満足し、期待が外れ、無理な想定が破綻することから目を背けてきた我々の心は、きっとこんな感じの“肥大した心臓”で表すことができる。日没は近い。こんな生き方を変えなければ、我々に明日は来ないかもしれない。
 
 谷口 雅宣

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2009年2月11日

“建国の理想”を虚心で読む

 今日は午前10時から、東京・原宿の生長の家本部会館ホールで「建国記念の日祝賀式」が開催され、国歌斉唱、伊勢皇大神宮・橿原神宮遥拝などの後、私は概略次のようなスピーチを行った:

---------------------------------
 皆さん、本日は日本国の誕生日を祝う建国記念の日です。誠におめでとうございます。
 すでにご存じの通り、この日は、日本の古典である『日本書紀』などにこの国の始まりとして記されている日を、太陽暦になおして定めたものであります。日本の場合は、世界でも珍しく、国の始まりが“神話の世界”にまで遡らねばならないほど、永い歴史をもっています。このため一時期には、この2月11日を“日本の誕生日”として祝うことに、「歴史的事実でない」などという理由で反対する人々もいたのですが、最近ではそういうことを言う人は大部少なくなっています。この日が“日本の誕生日”である理由は、『日本書紀』などに、初代の天皇である神武天皇が、橿原の地に都を定めたのがこの日だと書いてあるからです。何千年も前のことは、そのことが正確な歴史的事実であるかどうかよりも、それが象徴する意味の方が重要なのであります。
 
 これは、日本だけに当てはまることではない。例えば、イエス・キリストが誕生した日がいつであるかは、歴史学的には特定できていません。もちろん、12月25日がその日だと考える人は世界中に多いのでありますが、そんなことは聖書にも書いてないし、歴史家の間では否定されています。さらに言えば、その日は、古代ローマで崇められていた太陽神のお祭りの日に合わせて、当時のローマ教皇が作為的に定めた日だという説さえあります。しかし、現代を生きる我々は、キリスト教徒はもちろん、そうでない多くの日本人も、クリスマスには“愛の教え”を説いたイエスという聖人がかつてこの世に誕生したということに思いを馳せ、我々の愛する人々と会ったり、プレゼントの交換をしたり、また知らない人にも愛を与えたりして、人間のもつ愛の素晴らしさ、ひいては神の愛のありがたさを実感する時をもとうとするのです。イエスの誕生日が考古学的にも、歴史学的にも定まっていなかったとしても、多くの人類は12月25日にクリスマスを祝うのです。それで何も問題はない。
 
 イエスは約2000年前に活躍した人です。古典に記された日本の建国は紀元前662年になっていますから、神武天皇はイエスより昔の“神話の世界”に生きた人です。だから、日本の建国の日が歴史学や考古学によって特定できなくても、それを祝う行事を日本人が古典に記された日にもつことに何も不思議はないし、クリスマスを祝うよりもっと自然であり、本当は何もやましいところはないのであります。
 
 しかし、日本の誕生日の場合は、一つ不幸な特殊事情があり、それが「建国記念の日」を全国民がこぞって祝うに至っていない理由になっています。それは、かつて行われた日中戦争と大東亜戦争において--この日は当時「紀元節」と呼ばれていましたが--この2月11日の国の誕生日が、隣国である朝鮮や中国を武力で支配しようとする試みに、大いに利用されたということです。もっと具体的に言えば、『日本書紀』巻第三に書かれている神武天皇の「橿原奠(けん)都の詔」の中に書かれた「六合を兼ねて都を開き、八紘をおおいて宇(いえ)となさん」という言葉が、日本による異民族支配の口実に使われたのであります。これも皆さんがよくご存じの通りです。だから戦後は、このことを嫌う大勢の人が、神武天皇のこの詔勅に、あるいは神武天皇という人物そのものに拒否感を抱きつづけてきました。これは、誠に不幸なことだと言わねばなりません。なぜなら、古典に記された自国の誕生の意義を否定することは、自分を否定することにつながるからです。
 
 生長の家はもちろん、そのような立場ではありません。生長の家は、いわゆる「八紘一宇」や「八紘為宇」という言葉が、政治的スローガンとして戦前の日本の侵略行為に利用されたことは認めますが、神武天皇の詔勅そのものは少しも侵略的でないと考えます。これは、詔勅の文章をよく読んでみれば分かります。また、神武建国を記した古典の内容をきちんと読めば分かります。この2つのことの違いを、もうはっきりと言うべきときに来ていると私は思います。かつての政治スローガンは、古典が記していることとは意味が違うのです。当時の軍部と政治家が、古典の記述を拡大解釈し、さらには曲解して政治目的に利用したということです。
 
 しかし、もうそういう時代は半世紀以上も昔に過ぎ去りました。だから、この21世紀初頭の我々は、偏見や先入観のないスッキリとした頭で古典の文章を読んで、そこから建国の理想や理念を汲み取るべきなのです。どのような理想を汲み取るかということについては、私は数年前からこの建国記念日で申し上げている通りです。これはすでに3年前の『小閑雑感』(Part 6)に書きましたが、思い出していただくために繰り返して申し上げましょう:
 
 (2006年2月11日の文章から引用する。同書、pp.246-247)
 
 このように、「背に日の神の御心を負いたてまつる」ということと「刃に血ぬらずして」というのが日本建国の理想であると、ここには書いてあります。また、「八紘為宇」という言葉に関しては、『日本書紀』巻の第三にこうあります。これは神武天皇の「橿原奠都の詔」の中にある文言です:
 
「上は乾霊(あまつかみ)の国を授けたまいし徳(みうつくしび)に答え、下は皇孫(すめみま)の正しき道を養いたまいし御心を弘めむ。しかうして後に、六合(くにのうち)を兼ねて都を開き、八紘(あめのした)をおおいて宇(いえ)にせんこと、また可(よ)からずや」

 この文章は、明らかに2つの部分に分かれています。つまり、「まずAをして、その後にBをすることが良い」と書いてあります。そして、Aとは、「我々の先祖や神々が日本という国を徳によって打ち立てたことを確認して感謝し、我々の子孫には、その御先祖からいただいた正しい道を実現していくという精神を、しっかりと人々に弘め伝える」ということです。そして、その後に初めてBをする--すなわち「国の天地と四方を統合して都を開き、八紘--国の隅々までを覆って家にする」のです。AとBとの間に「しかうして後に」という接続詞がきちんと入っていることを見落としてはいけません。Aとは、「神の御心に聴いて、その徳を人々に広める」ことです。これは建国の理想の周知徹底であり、一種の道徳教育と言えるかもしれない。それをした後に、初めて周囲を統合して都をつくり、統一的な政治を国内のすみずみまで及ぼす--それが理想であると書かれている。この順序を間違ってはいけないのに、かつての日本はAもBも同時にやろうとし、しかも天皇の意志を軽視して、刃に血を塗ることを先行させて中国大陸で泥沼の戦争をしたわけです。

 我々はその間違いを再び犯してはいけない。日本建国の理想とは、あくまでも平和裡に諸民族の共存を進めることです。そして、それに当たっては「背に日の神の御心を負いたてまつる」--つまり「神の御心に沿う」ということが絶対条件なのです。そういう高邁な理想が日本の古典に書いてあるということを、私たちは忘れてはいけない。生長の家は、この「神の御心に従う」生き方を推し進めていく運動です。だから、日本建国の理想を実現する運動でもあるのです。軍隊や政治が先行するのではいけない。神の御心が先行して初めて「刃に血ぬらずして」物事が決着する。そういう意味で、今日の建国記念の日に当って、あらためて生長の家の国際平和運動の重要性と、その使命の大きさを感じるしだいであります。
 
 ご清聴、ありがとうございました。
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 谷口 雅宣

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2009年2月 4日

牛は名前で呼ぼう

 ロンドンに住む生長の家の信徒、ジョン・フラッドさん(John Flood)から興味ある情報が舞い込んだ。乳牛についての研究結果で、「牛は名前で呼ぶ方が、そうでない場合より乳の出が多い」のだそうだ。ニューキャッスル大学の農業食糧地域開発学部(School of Agriculture, Food and Rural Development)がイギリス各地の農業者516人を対象にして行った研究で、人間と動物との関係を研究する専門誌『アンスロズース』(Anthrozoos)誌に発表された。

 それによると、牛に名前をつけて呼んでいる農家(46%)では、名前をつけていない54%の農家よりも1頭当たりの牛乳の収量が相当多いという。この研究の中心となったキャサリン・ダグラス博士(Catherine Douglas)に言わせると、その増加量は「250リットル」になり、平均的な大きさの牛では1日「2パイント」(1.14リットル)の増量になるらしい。同博士は、「この研究によって、牛に優しくて面倒見のいい多くの農家の人たちが昔から信じていたことが、証明された」という。さらに同博士は、「この研究で分かったことは、牛という動物は、複雑な感情を体験できる知性をもった存在だと、イギリスの農業者は大体において考えているということ。また、個々の牛をよく理解し、それぞれに名前をつけて呼ぶだけで、牛乳の生産量を相当増やすことができるということです」と言っている。
 
 ところで、なぜそうなるかという理由だが、BBCのニュースの説明では、名前をつけて飼われている牛は、飼い主から愛され、自分の価値を認められていると感じるから、そうでない牛よりもストレス・ホルモンであるコーチゾルの分泌が少ない。これによって安心して牛乳を生成することができる--というのである。このニュースに登場する牧畜家、デニス・ギッブ氏(Dennis Gibb)は、個々の牛を“個性をもった存在”として扱うことが非常に大切だと言い、自分の飼っている牛たちを「娘たち(girls)」とか「レディーたち(ladys)」と呼ぶだけでなく、個々の牛に「サラ」とか「ウェンディー」「ハイライト」などと名前をつけて呼んでいる。

 私にこの研究を教えてくれたフラッド氏は、「この話は、牛乳生産にとどまらず、あらゆる生物にとって調和が大切であることを教えてくれます。ロンドンの生長の家では、生長の家の哲学と環境を敬うことの大切さについて語ることが多いので、このニュースについて皆に伝えました」と報告してくださった。彼の妻であるソニアさんも、「このニュースを見たとき、これは生長の家の教えと同じことを言っていると思いました。つまり、“コトバの力=愛”ということです。こういう方法で、もしイギリス中の農家の人々や乳牛生産者が動物愛護を実践すれば、人工的な方法で、例えば、牛乳生産のためにだけに妊娠を強要したりする必要はなくなります」と感想を述べている。
 
 家畜と飼い主との心の交流については、日本でもいろいろ美しい話を聞くことがある。だから、今回の話にはそれほど驚かないが、科学的な研究成果としてイギリスで認められたということは評価したい。というのは、イギリスの人々は牛肉をたくさん消費するからだ。かつて狂牛病がイギリス全土に不安を引き起こしたことで、イギリスの食肉消費量は一時下がった。その後、また上向いているだろう。乳牛に愛を与える人は、肉牛にも愛を与えるに違いないから、肉食の減少に結びつくことを私は願っている。
 
 谷口 雅宣

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2009年1月31日

ネットで祈り懺悔する

 ネット社会の発展は、宗教の世界にも影響を与えずにはおかない。生長の家でも昨年の12月、谷口清超先生の追善供養祭の模様をリアルタイムで全国にネット配信したが、そういう情報の“一方通行”だけでなく、“双方向”で、しかも心の深部に関わる情報さえ、ネットを経由させようとする試みが始まっているようだ。1月28日付の『ヘラルド・トリビューン』紙によると、先日、旧暦の正月にあたる「春節」を迎えた中国では、香港の黄大仙(Wong Tai Sin)寺院に初詣に参拝する人が数多くあるが、今年はパソコンの画面を通した“ネット参拝”ができるようにしたところ、2万人を超える人々がログインして参拝したという。この寺院は、香港で最大の道教寺院で年間に約300万人の参拝客が訪れるという。

 “ネット参拝”の試みは、院内の神殿修復のために参拝スペースが狭くなったため、その不足分を補う目的もあって昨年12月から始まったという。が、それだけでなく、伝統とネット技術をうまく組み合わせることで、現代人の参拝をより便利にすることも考えたらしい。ネット参拝のためには、参拝者はサイトにログインし、名前とメールアドレスを登録後、何を祈るかを「健康」「繁栄」「家庭調和」などのオプションから選択する。これが終ると、画面には神殿の前で線香を備える手がアニメーションで現れ、「あなたの願いを黄大仙にお祈り申し上げます」という意味の文字が出てくるという。そして、実際に祈願が行われている様子が、毎週、サイトでは放映されているらしい。
 
 このネット参拝設置により、同寺院のサイトに海外や中国本土からアクセスする人が増え、寺院への寄付金も増加しているという。ちなみに、12月のサービス開始以来、7万人以上の“ネット参拝者”がサイトを訪れたというから、この試みは今のところ成功しているといえるだろう。
 
 アメリカには、カリフォルニアを本拠地とする「ゴッドチューブ」(GodTube)という動画登録サイトがあり、ここには毎月300万人のユーザーが訪れるという。この名前は、もちろん「ユーチューブ」(YouTube)を意識したもので、サイトの構成もユーチューブとよく似ている。ただし、ここでは「自分のメッセージ」を発信するのではなく、「神のメッセージ」を動画として発信する点で違うのだろう。
 
 アメリカの時事週刊誌『TIME』の2月9日号には、“匿名告白サイト”とも“懺悔サイト”とも呼べそうなネットサービスが取り上げられている。これらは 「DailyConfession.com」(日ごとの告白)や 「GroupHug.us」(仲間と抱き合おう)などで、特定の宗教色のないものとして発足したが、人気を博したため、そのアイディアを教会が一部採用して自分たちのサイトに導入したものもあるらしい。この種のサイトの特徴は、匿名で書き込む代りに、書き込んだ内容はすべて公開されるから、世界中のネット利用者が読むことができる点だ。これは従来、教会の密室で牧師や神父にだけ“罪”を告白するのとは大いに違う。教会での告白は、聖職者が仲介となって「神」に向かって告白し、罪の赦しを乞うのだが、告白サイトでは、「一般大衆」に向かって自分の恥部をさらけ出すのだから、宗教的な意味はあまりない。それよりも、「真実を隠してきた」という自分の“罪の意識”が多少なりとも軽くなるという心理的な効果があるだろう。しかし、同記事も指摘しているが、告白は完全な匿名だから、その内容が真実であるかどうかは全く不明だ。だから、露出狂的な傾向のある人が針小棒大な告白をしたり、まったくデタラメの告白も排除できないだろう。
 
 これに対して、「PostSecret.com」(秘密の掲示)というサイトは少しヒネリを入れ、オフラインとオンラインを連動させている。ここでは、メールによる告白に加え、サイトの住所と宛名を印刷した葉書をオフラインで人々に配布して、その葉書に告白を書いて送り返してもらう方式を採る。そして、返ってきた葉書をスキャンしてサイトに掲げてある。それを見ると、絵や写真を使ったデザイン的で、多様な葉書が多く、書かれた告白の深刻さよりも、絵柄や文字の組み合わせなどの創造性が表面に出ていて面白い。
 
 これらのサイトを眺めてみると、生長の家で運営している「ウェブ版日時計日記」や「絵手紙」のサイトとの共通点が感じられるとともに、そこからさらに発展させたネット利用が考えられるような気がするのである。
 
谷口 雅宣

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2009年1月24日

オバマ政権と生命倫理

 「アメリカ初の黒人大統領」という鳴り物入りで発足したオバマ政権の動きに今、世界が注目している。アメリカにも責任がある現下の深刻な経済問題に、緊急に対処しはじめたことは当然ながら、それ以外にも矢継ぎ早に新しい政策を打ち出している。その中で、宗教とも関係が深い生命倫理に触れる重要な決定が早期になされたことを、私は驚いている。その決定とは、次の2つである--①人工妊娠中絶への制限措置の撤廃、②人のES細胞の利用規制の緩和。これらは、共和党のブッシュ政権下では“宗教的理由”による反対派の声を考慮して、抑制されてきたものだ。私は、ブッシュ氏の地球温暖化対策の軽視や“テロとの戦争”など多くの政策に反対してきたが、「中絶反対」と「ES細胞の利用規制」については大いに評価していただけに、オバマ氏の今回の決定は残念に思う。

 今日の新聞各紙によると、オバマ大統領は23日、人工妊娠中絶を支援する団体などへの資金援助の規制を撤回する大統領令に署名した。これによって、ブッシュ政権下で中止されていた国連人口基金への予算拠出も再開される見通しだ。これに先立ち、オバマ氏は「私は女性の選択する権利を擁護する」という声明を出す一方、「我々は立場は違っても、中絶の削減に向けて結束する」とも述べた。中絶を容認しつつ、避妊の拡大などで中絶数の削減を目指す考えらしい。また、オバマ氏は23日の声明では、アメリカの国論を二分しているこの問題について、「政治問題化に終始符を打つ時だ」とし、「家族計画に関する新鮮な議論をして、世界の女性のためになる一致点を見出す」考えを示したという。
 
 ES細胞の利用促進に関しては、オバマ氏の直接の声明の形ではなく、政府の食品医薬品局(FDA)の判断として政策が実行された。23日の『朝日新聞』夕刊によると、FDAは、カリフォルニア州のバイオベンチャー「ジェロン」が申請していた、ES細胞を使った臨床試験を認可した。この試験を受けるのは、脊髄損傷で歩けなくなった患者8~10人で、神経細胞を保護する機能をもつ細胞を人のES細胞から分化させて、損傷部分に注入する治療を行うという。同社は昨年、この試験実施の申請を出したが、FDAは実施の留保を指示していた。実施されれば、世界初のES細胞の人への医療応用になるらしい。
 
 今朝放映されたABCニュースによると、オバマ大統領は来週にもES細胞の研究を促進する意図を表明し、ブッシュ政権下で禁止されていたES細胞研究に対する連邦政府の資金援助を開始するという。このニュースの中でインタビューを受けていたハーバード大学の幹細胞研究所(Harvard Stem Cell Institute)のデビッド・スキャデン博士(David Scadden)は、「これによって、人々には将来の仕事の方向性が見えてくるので、大いなる変化が訪れるでしょう」と言っていた。
 
 これらの件についての私の考えは、本欄をはじめ『神を演じる前に』や『今こそ自然から学ぼう』などの著書で繰り返し表明してきたが、ブッシュ氏の考えに近い。その理由をここで詳しく述べないが、簡単に言うと、妊娠中絶への反対は、この世での人間生命の開始を受精後まもなくだと考えるからであり、ES細胞の利用に反対する理由は、まさにその「受精後まもなく」の時期に破壊された受精卵から、ES細胞は作られるからである。今の医学の主流では、人間が苦痛を感じるのは神経細胞によると考えるから、その神経細胞が未発達の段階である受精卵は、破壊しても苦痛はないという結論になる。しかし、そのようにして、未来世代の人間である受精卵や胎児を、現世代の人間の幸福増進の手段にしたり、また研究材料に使うこと自体が、世代間倫理の観点から間違っている、と私は思う。別の言葉を使えば、我々は、未来の人間になるはずの生命を自己目的に利用しようとしているのである。自己実現の障害になるとして幼い命を抹殺するのが人工妊娠中絶であり、自己実現や延命のためにそれを利用するのがES細胞の医療応用である。

 私は、オバマ氏の大統領就任演説を聞いて感動した一人だが、その演説の最後に、子孫の自由と幸福のために今の困難を耐え抜こうと呼びかける言葉があった。それは、次のようなくだりである--
 
「子々孫々が今を振り返った時に、我々が試練の時に旅を続ける意志を貫き、引き返すことも、たじろぐこともなかったということを語り継がせようではないか。地平線に視線を定め、神の慈悲を身に浴びて、我々は自由という偉大な贈り物を運び、将来の世代に安全に送り届けたということを」。

 成長過程にある幼い生命の発生過程を中断することは、その生命の「自由」を最も根源的に奪い去る。だから、彼の今回の決定は、就任演説の最後のこの決意に反する結果になることを、オバマ氏は気がついていない。
 
 谷口 雅宣

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2009年1月16日

上を向いて歩こう (3)

 これまで本題でこのブログを書くとき、私は“大不況”とか“経済危機”などと呼ばれる今日の困難な経済状況にも「良い面」があるから、それを認めて明るく前進することを訴えてきた。例えば、昨年10月11日の本欄にはこう書いた--
 
「株価の下落は消費マインドを減退させるというが、それはそのままCO2の排出削減になるし、自然破壊の速度が鈍ることを意味する。人間の諸活動の“過剰”な部分が削り取られて、もっと自然と共存できる技術や生き方、諸制度が新たに工夫できる素地が整えられるかもしれないのである。いや、まさに今、そちらの方向に人類は大きく舵を切るべきだ。枯渇する資源を争奪して富を増やすことから、枯渇しない自然エネルギーの利用と、他国や自然との共存に向かって産業構造を切り替える時期に来ているのだ」

 また、私の生活と仕事の場である東京・原宿のきらびやかな“繁栄”については、「ヴァニティー・ストリート」(虚栄通り)と呼んで批判したり、作家の工藤美代子さんが命名した「欲望の街」という表現に賛同したりした。私がブログでいくら批判しても、世界の高級ブランド・ショップにとっては痛くもかゆくもない。が、世界的経済不況がやってくると、さすがにダメージが大きい。贅沢品や装飾品は、消費者の購入リストから真っ先に削られるからだ。その証拠に、ルイ・ヴィトンは最近、豪華な大型店の東京への出店を取りやめた。シャネルも、200人の臨時雇用者の自宅待機を決定した。が、仕事が減るだけでは必ずしも“良い面”とは言えない。仕事の内容そのものが“自然共存型”や人間の“精神向上型”に変化していくべきである。

 ところが、そうした贅沢品や装飾品の“発祥地”のように言われるフランスで、「これから精神性の向上を重視した生き方が始まる」として不況を歓迎する声が上がっているという。16日の『ヘラルド・トリビューン』紙が伝えている。それによると、『ル・フィガロ』誌は最近号の12ページを割いて、慎ましい生活のための手引を特集し、人々は今年、仕事を減らして家族との時間を大切にするだろうと予測している。専門家に言わせると、これはフランスでの“価値観の革命”だという。また、世界5大宝飾店に挙げられるモーブッサン(Mauboussin)の会長は、今回の不況からフランスの贅沢品産業を救うためには、価格の大幅引き下げをしなければならないと主張し、自ら「愛の機会」(Chance of Live)という名の1カラットのダイヤの指輪の値段を、通常より3分の1安くしたという。
 
 フランス言論界ではもっと厳しい反省が行われ、贅沢品産業が死滅することが国家の浄化に必要だという意見さえ出ているらしい。また、アメリカ式資本主義の信奉者で、就任時には、より多く稼ぐためにより多く働こうと訴えたサルコジ大統領も、考え方を変えたようだ。同大統領は先週、世界経済に道徳的価値を導入することをねらった政治家・経済人の会合で演説し、古い金融秩序は「非道徳的で制約のない資本主義によって悪用された」ため、「富の象徴が富自体より尊重されることになった」と現状を批判した。そして、国家には資本主義の過剰を規制する役割があると述べたという。

 あるインタビューの中で、シャネルのデザイナーであるカール・ラゲルフェルド氏(Karl Lagerfeld)などは、「今のような劇的な変化がなければ、創造的な進化というものは起こらない。華美や虚飾の時代は終わった。人造ダイヤを散りばめた赤い絨毯は、もういらない。私はこれを“新しい節度”と呼びたい」と言う。が、シャネルの人員整理は騒がれ過ぎた、と同氏は言い、先週同社がパリとモスクワで行ったオートクチュールのショーでは、2007年のパリとロンドンのショーより17%も売り上げが伸びたことを強調したそうだ。
 
 原宿の表参道に象徴される世界の贅沢品業界が今後、どうなるか私には分からない。しかし、虚飾や過剰な消費を反省する動きは現に世界中で起こっているのだから、この流れを生かした“自然共存”“精神向上”の産業が育っていくことを、私は心から願っている。
 
 谷口 雅宣

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2009年1月10日

無神論を広告する (2)

 前回本欄で紹介した「無神論者バスキャンペーン」(Atheist Bus Campaign、ABC)の動きは、欧米で大きな論争に発展しつつあるようだ。キリスト教信者が多いこれらの国々では、無神論者であることは、ひと昔前のゲイの人々がそうであったように、何か“肩身の狭い”思いがともなってきたようだ。しかし、イギリスを起点としたこのキャンペーンを契機にして、無神論者の“カミングアウト”が始まったとの見方もある。
 
 ネット上には、すでに無神論者バスのオフィシャル・ウェブサイトが作られていて、大手SNSのフェースブック上でもそのグループが活動している。10日夜の時点で、そのグループの会員数は1万5千人を超えている。さらに、各地にバス広告を走らせるための資金カンパ用のグループもできている。これに対して、同じフェースブックに「無神論者が進めるバス広告に反対する」(Against Atheist Promoting Bus Adverts)というグループも作られている。

 1月7日付のイギリス紙『ガーディアン』によると、ABCの活動は、伝統的にカトリック信者の多いスペインにも広がっている。今週、同国で初めてのキャンペーンがバルセロナ市で行われるという。バスに掲げる広告文は、イギリスでのものの忠実な翻訳らしい。そして、その後、マドリッドやヴァレンシアでもキャンペーンが行われる予定だ。
 
 これに対し、バルセロナのカトリック大司教は、「神への信仰は心配のもとにはならないし、人生の楽しみの障害にもならない」と反論している。また、教会関係者の中には、この広告キャンペーンを「すべての宗教に対する攻撃だ」と非難し、それに許可を出した政府に対して怒りを振り向ける人もいる。
 
 同紙は、スペインのカトリック教会側のこういう動きに関連して、教会がしだいに政治問題に関わるようになってきたことを指摘している。同教会は、サパテーロ首相の社会党政府が同性婚を認め、離婚手続きを簡略化し、学校の授業から宗教教育の時間を減らそうしていることに一貫して反対してきたし、妊娠中絶法の改正の動きにも反対しているという。同国では国と教会は形の上では分離しているが、教会は政府の資金援助を受けている。だから、スペインにおけるABCの活動は、イギリスにおけるよりも物議をかもし出す可能性がある。

 谷口 雅宣

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2009年1月 9日

無神論を広告する

「悔い改めなさい」「神を信じなさい」--年末の渋谷や原宿の駅頭には例年、そんな声が響きわたる。昨年末にもそんな光景を私は何回も見た。彼らはどこからともなく姿を現し、プラカードにそんな言葉を掲げ、プラカードに付けたスピーカーから録音の声を響かせて、駅頭に立つ。これは言わば「神」を広告しているのだ。私にとっては一種の“同業者”だから、それはそれでいいのだが、広告の方法にもっと工夫があっていいと、いつも思う。今日の我々は、あらゆるものが広告物となり、また広告媒体になる時代に生きているから、こんな形での「神」の広告も許されて当然だ。が、「神はいない」という広告はどうだろう? 日本のように表現の自由が許されている社会では、もちろんそんな広告があってもいいはずだが、私はまだお目にかかったことがないし、聞いたこともなかった。が、イギリスで昨年、そんなキャンペーンが展開されたという。8日付の『ヘラルド・トリビューン』紙が伝えている。

 同紙によると、この広告キャンペーンは、『ガーディアン』紙のウェブサイトから生まれたそうだ。ある日、コメディー作家のアリアン・シェリーン氏(Ariane Sherine)は、このサイトに短い評論を書いて、宗教の宣伝とは逆のことをしてもいいはずだ、と日頃の不満を漏らしたという。というのも、彼女がバスの側面に貼った広告を見て、ある宗教サイトにアクセスしたところ、「不信仰者は永遠の業火に焼かれる」などと書かれているのを見て、根拠も示さずにヒドイ言い草だ、とカチンと来たのである。すると、彼女の評論を読んだ人の間に共感者のグループが生まれ、「神はいない」というメッセージをバスに貼る「無神論キャンペーン」の計画ができ上がった。昨年10月にこの計画が発表された時、この有志グループは8千ドルほどの資金が集まればいいと考えていた。が、この計画には、『利己的遺伝子』で有名になった無神論科学者のリチャード・ドーキンス氏(Richard Dawkins)や、哲学者のA・C・グレーリング氏(A. C. Grayling)、英国ヒューマニスト協会(British Humanist Association)などが乗ったため、わずか4日間で15万ドルが集まり、すぐに20万ドル以上の資金になったという。

 そして昨年末、800台のバスを使って英国全土をめぐるキャンペーンが行われた。そこに使われたのは、こんな広告文だった--

「たぶん神はいない」
「だから安心して人生を楽しんで!」

 これはかなり直接的な表現だが、同様の趣旨で昨年11月にアメリカのワシントンで行われた広告キャンペーンでは、サンタクロース姿の男の写真の上にこんな文字をかぶせた、もう少し婉曲な表現が使われたという--

「なぜ神なんか信じるの?」
「ただ“善い”だけでいいじゃない」

 イギリスの広告を仕掛けたグループは「無神論者バスキャンペーン」(Atheist Bus Campaign)という名前で、来週には、ロンドンの地下鉄に1千枚の広告ビラを掲示する計画だという。

 上の広告文は、もちろん英語からの翻訳である。原文は、最初の2本が「There's probably no God.」と「Now stop worrying and enjoy your life.」。2番目の2本は「Why believe in a god?」と「Just be good for goodness's sake.」だ。2番目の2本目の英語は訳しにくいので、かなり自由訳にしたが、意味はそう変わらないと思う。

 イギリスの広告文の背後にある考え方は、興味深い。人々は「神がいて見ている」という意識のもとにビクビクとして生きているというのだろうか? 「神の存在」と「人生の享受」とが両立しないとの前提が透けて見える。これに対しアメリカの広告文は、アメリカ的な明るい楽観主義が感じられる。神など信じなくても、人間は善なる生活ができるという前提があるようだ。そこで、私がこの広告キャンペーンに反論を試みるなら、どんな文章を掲示するか考えてみた--
 
「人生は素晴らしい」
「だから神は無神論者も愛される」

「なぜ神を疑うの?」
「自分の“良心”は疑わないのに」

 読者も、反論広告を考えてみては?
 
 谷口 雅宣

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2008年12月26日

古い記録 (5)

 前回の本欄では、私が高校時代の1969年に大学構内で撮った写真をご披露した。当時の私が学校の新聞を作るクラブに所属していたことはすでに書いたが、高校の新聞が大学の学生運動を記事にすることはないだろうから、私はクラブ活動とは離れた所で、自ら選んでそういう写真を撮っていたのである。しかも、自分が“谷口一派”の御曹司だと知られたら危険であろう環境の中で、高校生の身でありながら大学生の写真を撮っていた。こんな向こう見ずで好奇心の強い性格が、私には高校生の頃からあったのである。現場へ行って取材をし、帰って来て記事を書くというのは、ジャーナリストの仕事そのものである。だから、私は“ジャーナリストの卵”ではあったかもしれないが、その時点ではそんな仕事につきたいなどと思っていなかった。
 
 この頃、高校の新聞や生高連の機関誌以外にも、私の文章を掲載してもらえる媒体があった。それは、今は生長の家から分かれた財団法人「新教育者連盟」が発行していた『新教育者通信』という月刊小冊子だった。私はそこに高校2年の時から見開き2頁の文章を書くことを許された。教育者の立場からではなく、教育される側の立場からの“現場報告”といった感じの文章である。その雑誌の1969年3月号に、私は「大学紛争の背景」という題の文章を書いている。高校2年生のくせに、いかにも物知り顔のタイトルだ。だから、そこに書かれていることは、事実に即しているかどうかよりも、当時の私が大学紛争をどのように見ていたかを示す文章として、意味があるだろう。そこには、こうある--
 
「大学紛争が現在の大学制度、ひいては教育制度全体の矛盾を示していることは事実であり、その矛盾に反対するために学生が立ち上っているという見方は間違っていないが、この素朴な学生の感情を利用しているものがいるということも事実であり、戦後の価値感(ママ)の崩壊によって心の支えのなくなった学生が、共産主義によってもたらされるであろう理想社会を信じ、その実現のために戦っているという見方をしてはいけないだろうか。
 来年の七〇年を目当てに、左翼学生運動はいよいよその暴力革命的色彩を濃くしていくであろう。もはや傍観や利己主義的発言は許されない。各人は国家的視野に立って、真剣にこれらの問題を考えるべきである」。
 
 これは、全国の学校の教師が読む小冊子に高校2年生が書くべき言葉ではない。当時の私は、雑誌に文章を書くということの意味をよく分かっていなかったから、まるで高校生を相手にしたような文章を大人に向かって書いてしまっている。が、そういう知ったかぶりで未熟な点を黙認して読んでみれば、この文章の背後にある高校2年生の考え方の“大筋”が見えてくる。それは、当時の教育制度には問題があり、その解決に努力する学生運動には意味を認めるが、その反面、こういう学生の純粋でナイーブな感情を利用する政治勢力があり、左翼の学生運動はそれによって暴力革命の方向に誘導されている。この危機に際してもはや傍観できないから、もっと真剣に解決策を考えよう--そういうことを訴えている。

 つまり、左翼の暴力革命の可能性が高まっているという危機感が、当時の私の日常生活にも影を落としていたのである。「何を大袈裟な……」と思う読者がいるかもしれないが、各地の大学がヘルメット姿の学生に占拠され、授業は行われず、紺色の防護服を着た機動隊員と放水車が町角の風景となった異様に緊迫した社会状況は、今日の平穏な社会からは想像が難しい。そして、この緊迫感は安保改定の節目となる1970年に入ってからは、さらに募っていくのである。同年の2月号に書いた私の文章は、社会を“右側”から見た紋切型で矛盾に満ちたものでありながら、そんな緊迫感だけはよく伝えていると思う--
 
「ここで我々がはっきりと認識しなければならないのは、現在に於てもこの占領政策の遺恨が種々の定着した形で日本の精神を隠蔽しているということである。それは占領軍に与えられたままのこの現行教育体制とそれに便乗した日共・進歩的文化人の亡国教育であり、乱闘国会であり、日教組教育であり、青年層の祖国喪失であり、国防意識の消滅であり、性道徳の退廃である。実際、現代日本の精神的荒廃は極限に達した感がある。朝夕の新聞の三面記事はそのほんの一例であるが、三億円事件のようなサスペンスに富んだヒロイックな事件の不安定な周期の合間に、(…中略…)親殺し、小児殺し、祖父殺しなどの記事が濃縮されて掲載され、それが余りに頻繁であるが為に読者を道徳的不感症に陥れている。そしてこのような戦後的情況の集大成として押しつけられた日本国憲法と称する占領憲法が未だに温存され、一部の人々から平和憲法などとして崇められている現状を見るにつけ、私は日本の危機を叫ばずにはいられない」。

 社会の“悪”に注目して憤りの念に燃え、その原因を特定の政治体制に帰して危機を叫ぶ--典型的なデマゴギーの論理が、悲しいかな、高校3年の私の心中に忍び込んでいるのが分かる。

 谷口 雅宣

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2008年12月20日

「破れ窓理論」は正しいか?

 生長の家で「親和の法則」と呼んでいるものがある。「同類親和の法則」ともいい、簡単に言えば「互いに似た心の人が集まって物事を成就する」ということだ。例えば、日曜日に生長の家の講習会に来る人々は、パチンコやゴルフよりも神仏に関心があるという点で“互いに似た心”をもっている。そういう人々が集まることで、講習会は成就すると言える。また、競馬や宝くじが行われるのも、そういう「一発で儲けよう」という“似た心”をもった人々が馬券売場や宝くじ売場に集まるからである。さらには、戦争が起こるのも、「相手をやっつけよう」という心をもった人々(軍隊)が国境線近くに集まるからである、と言える。(ただし、戦争の場合は、もっと複雑で数多くの要因が関係している。)

 日本の諺にも、「泣きっ面に蜂」とか「笑う門には福来たる」というのがあるし、英語の諺にも、Like attracts the like. というのがある。これらは皆、「親和の法則」を表現していると言えるから、人類は昔からこの現象に気づいていたのである。では、科学はこの法則を認めているかどうかといえば、この方面の研究は比較的新しい。
 
 この法則は、科学的には「破れ窓理論」(The Broken Window Theory)と呼ばれているものに相当すると考えられる。この理論は、1982年に政治学者のジェームズ・ウィルソン氏(James Q. Wilson)と犯罪学者のジョージ・ケリング氏(George L. Kelling)がアメリカの雑誌『アトランティック』(The Atlantic)に発表したもので、大ざっぱに要約すると「人々を取り巻く環境は、その人々が反社会的行動に走るかどうかに影響を与える」とするものである。何かずいぶん難しい表現だが、要するに「悪い環境では、人は悪い行動に走りやすい」ということ。逆に言えば、「環境をよくすれば、犯罪は起こりにくくなる」ということだろう。
 
 この「破れ窓理論」については、谷口清超先生が『コトバが人生をつくる』(2004年、日本教文社刊)の中で言及されているが、詳しい解説はない。同書の28ページには、茨城県の大学生が2003年7月の『産経新聞』への投書の中でこの理論を紹介していたものを、“孫引き”の形で引用されているだけだ。そこでの説明は、こうだ--「犯罪増加に悩む米国で1982年に採用されたという。平成14年版警察白書によると、落書き、酔っ払いなどの軽犯罪でも徹底的に駆逐することで、犯罪全体を減少させようという取り組みである」。投書氏はさらに言う--「破れた窓が放置されていれば、管理が行き届いていないことが明らかとなり、いたずらや犯罪の格好の餌食となり、瞬く間にビル全体に及ぶ」。「瞬く間」というのはいかにも大袈裟だが、まあ言いたいことは分かる。同じ2つの空家でも、一方の窓ガラスだけが割れていれば、そちらの空家の方が早く壊されるということだろう。

 しかし、「本当にそうなるのか?」というと、この理論を具体的に検証する研究はつい最近まで行われていなかったらしい。その最近の研究とは、オランダのグロニンゲン大学(University of Groningen)で行われたもので、アメリカの科学誌『Science』のオンライン版に掲載された。また、この研究をまとめて紹介した文章が、同誌の今年11月21日号(vol 322 21 November 2008)に載っている。それによると、「破れ窓理論」の正しさは証明されたという。
 
 同記事によると、オランダの研究では、「一つの規範や規則が守られていないところでは、別の規範や規則も破られやすい」ことが分かったという。もっと具体的に言えば、違法な落書きや駐車違反がある場所では、ゴミの不法投棄や窃盗も起こりやすいということだ。
 
 この研究では、落書きが描かれた路地に停められている何台もの自転車のハンドルに、ダミーの広告チラシを巻きつけて、持ち主がそのチラシをどう処理するかを調べたという。その路地の壁には「落書き禁止」の表示があり、ゴミ箱は置かれていなかった。研究者は人々から見えないところにいて、広告チラシが路上に捨てられるか、それとも持ち帰られるかを調べたという。これに対比するために、研究者は別の日に、「落書き」以外はこれと全く同じ状況を作って人々の行動を調べたという。その結果、両者の違いは歴然としていた。落書きのない環境では、自転車に乗る77人中の3分の1がチラシを路上に捨てたのに対し、落書きを加えたところでは、3分の2以上がチラシを捨てたという。
 
 また、こういう実験もした--路上にある公共の郵便箱を1つ選び、その投函口から5ユーロ紙幣を一部はみ出させておく。そして、そこへ郵便を入れに来る人や、付近を通る人の行動を分からないように観察するのである。この実験を、郵便箱の周囲が散らかっている場合と、きれいに掃除されている場合とでやり、両者を比べてみたという。すると、きれいな環境では13%の人が紙幣を取ったのに対し、汚れた環境では23%が紙幣を持っていったそうだ。
 
 生長の家の男性組織である相愛会では今、“クリーンウォーカー”を増やす運動をしている。クリーンウォーカーとは、町を歩くときに落ちているゴミなどを拾って町を美化する人々のことだ。谷口清超先生はご生前、自宅から仕事場まで歩いて通われる途中で、落ちている空き缶などを掃除されたから、クリーンウォーカーのさきがけと言える。この一見“小さな善行”が、より大きな善を導き悪を防ぐことを、科学は証明してくれたのである。がんばれクリーンウォーカー諸君!

 谷口 雅宣 

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2008年12月11日

タバコ増税は腰くだけ

 タバコ税の引き上げが、見送られるようだ。今日の新聞各紙が一斉に報じているが、私が期待していた“当り前の政治”がまたも挫折した。喫煙が健康に悪いということは、科学的にも常識的にももはや疑う余地はない。駅や空港などの公共の施設が続々と禁煙となり、歩きタバコも他人への危害を及ぼすという理由で“違法”となりつつある中で、先進国の基準では低い税率が維持されてきた日本のタバコを、今後も放置しておくという決定が下されたのだ。さらに不思議なことは、その決定を下したのが「タバコ増税」を唱えてきた麻生首相自身らしいということだ。
 
 健康上の理由だけでも、喫煙を減らす努力をすべきなのに、今回は、高齢化にともなう社会保障費の伸びを2200億円抑えるという小泉時代の閣議決定を反故にしそうなだけでなく、景気後退によって税収が6兆円減ると見込まれている中で、タバコへの増税が見送られたのである。今日の『産経新聞』によると、麻生首相は周囲に「2個パック1000円でいいじゃないか」と漏らし、「1箱500円」を考えていたらしい。また、12月2日には「タバコ税をやればいいじゃないか」と言っていたのに、腰くだけもはなはだしい。

 民主政治の“最悪”の側面が出てきたのではないか。今回の増税見送りの理由について、『産経』は「葉タバコ生産農家や小売業者をバックにした議員の強い抵抗を受け、自民党税調幹部が頑として譲らなかったためだ」と書いている。さらに、「公明党が次期衆院選をにらみ“大衆増税になる”と難色を示した」かららしい。これでは、圧力団体や支持母体の短期的な利益に奉仕する政治でしかない。ほとんど衆愚政治と言っていいだろう。
 
 タバコ増税反対派の反対理由が、またふるっている--「増税しても税収が増えるとは限らない」というのだ。この意味は、タバコ税を値上げすれば、喫煙者が吸う本数を減らすからタバコの消費量が減り、タバコ税トータルで増収につながるとは限らないということだろう。私は、それならそれで益々いいと言いたい。喫煙者が吸う本数を減らし、禁煙に踏み込む人も出ることは、日本の将来にとって大変いいことだ。中・長期的には、これによって気管支系の疾患やガンが減るから、医療費が抑制されるのである。世代間倫理の立場から考えても、高齢化時代の医療費抑制は必要なのである。そういうことを考えるのが、政治家の本来の仕事なのではないか。
 
 今の自民党は、解散・総選挙になったときに如何に票を減らさないかに汲々としているだけで、国の将来など考えていないように見える。が、国民はバカではないから、そういう“票集め”に走る政治家にはますます愛想をつかせるのである。
 
 谷口 雅宣

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2008年11月21日

良心的な人は長寿?

「憎まれっ子世にはばかる」という諺があるが、人に憎まれるような人間が、世間ではかえって幅をきかすという意味で、これは「悪者は長生きする」という意味にも解釈できる。英語の諺にある「Ill weeds grow aspace.」(雑草ははびこりやすい)というのと似ている。だから、いわゆる“善い人”や“良心的な人”は長生きしないと考えている人がいるかもしれない。ところが、良心的な人はそうでない人よりも長寿だということが、このほど8900人が関係する調査で明らかになった。10月25日号のイギリスの科学誌『New Scientist』(vol.200 No.2679)が伝えている。

 それによると、カリフォルニア大学リバーサイド校のハワード・フリードマン氏(Howard Friedman)とマーガレット・カーン氏(Margaret Kern)は、既発表の20の研究データの中の8900人の良心的な傾向とそれらの人々の死んだ年齢の関係を調査した。すると、どんな年齢層でも、良心的傾向が弱い人は強い人よりも、50%死ぬ確率が高いことが分かった。この違いの大きさは、寿命に影響があるとされる「社会的地位」と「知性」によっても説明しきれない幅だという。両氏は、さらにこのデータの内訳を細かく調べたところ、「社会的に成功した人」が長生きする確率が最も高いことが分かった。これらの人々は、社会的に尊敬され、自分の時間とエネルギーを社会のために注ぎ込み、同僚や隣人とよく協力し、信頼されているような人々だという。こういう人たちの生活は、より安定していて、ストレスが少ないというのが、長寿の原因の1つらしい。

 考えてみれば当り前のことかもしれないが、「社会的な成功」を早く得ようとして不正や不義を働く人が結構いるところを見ると、「社会的成功」は人生の目的ではなく、良心的生活を実践したことの結果であり、それに随伴して「長寿」というもう一つのご褒美もやってくる--こう考えればいいのである。つまり、「憎まれっ子世にはばかる」という諺は短期的には真理のように見えても、長期的には成立しないのだ。そう言えば、福岡県の米菓会社の和菓子に殺虫剤を混入した人は、良心の呵責に耐えかねて自殺したという。新聞報道によると「40代の男性社員」ということだ。和菓子に殺虫剤を入れてから良心を発動させるのではなく、入れる前に良心の囁きを尊重してほしかった。そうすれば、死ぬことはなかったのである。
 
 また、音楽的才能が豊かで若くして大いに富み、社会的成功をおさめた音楽プロデューサーのK氏(49)が、経営において失敗し、詐欺の容疑でつかまった。K氏は取り調べ中に反省し、係官にこう語ったという--
 
「生活が豪奢になり、お金がどんどん入るそばから思うように使っているうちに“裸の王様”になってしまった。誰にも意見をされず、そんな生活を疑問に思いつつ、ずっと続けた」。(『朝日新聞』)

 この反省を今後の生活の指針にし、“内在の神”の囁きである良心をくらますことなく生きていけば、K氏にも再び社会的成功の道は開けるに違いない。
 
 谷口 雅宣

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2008年11月12日

モルジブの決意

 地球温暖化による被害は様々な形で現れているが、その最も劇的な形は海面上昇による国土の喪失である。北極の氷原が失われつつあるため、ホッキョクグマが絶滅の危惧に瀕していることは、すでに多くの映画や写真で世界中に伝わっているだろう。が、動物のことではなく、我々人類の同胞が国土を失う可能性について、当事者を除き、いったいどれだけの人間が真剣に考えているのだろうか。昨今の“金融危機”や“経済危機”をめぐるドタバタ騒ぎのために、温暖化対策が忘れられる傾向が出ていることを、私は悲しく思う。日本では産業界の顔色をうかがって、環境省が環境税の導入を実質見送ろうとしていることを、昨日の本欄で伝えたが、この例など“恥さらし”の部類に入るだろう。

 インド洋に浮かぶ千二百もの島から構成されるモルジブという国は、南太平洋のツバル共和国と並び、海面上昇による“消滅”の危機が深刻化している。この国では最近、大統領が新しく替わったが、新大統領、モハメッド・ナシード氏(Mohamed Nasheed)は、モルジブ国民が移住するために外国の土地を買う基金を創設する計画を進めているという。12日付の『ヘラルド・トリビューン』紙が伝えている。それによると、ナシード大統領は観光産業から得た資金を基金に回し、スリランカとインドの土地を移住先として購入することを検討中らしい。同大統領の報道官は、「地球温暖化と環境問題はモルジブ国民にとって大きな関心事」だと言い、「我々の国土は、海面からわずか1メートルの高さにあるから、これ以上の海面上昇は国民に悲惨な結果をもたらし、国の存在自体を脅かすもの」だという。

 モルジブの首都・マレは、日本の資金援助で建設された堤防によって周囲を護られているが、そんな備えがない他の多くの島々は、2004年の大津波で海水を被ってしまったという。この国は観光産業で発展してきたが、そのおかげで、20年前には20万人だった人口が今は40万人に達しようとしていて、浸水被害は深刻な問題になっているのである。モルジブのような島嶼国は、自国に責任がないにもかかわらず、先進国が排出する温室効果ガスの増加によって存立の危機に直面しているため、1992年に島嶼国同盟(Alliance of Small Island States)を結成、先進国に排出量を下げるよう訴え続けている。同同盟は現在、ツバル、モルジブのほか、バハマ諸島、マーシャル群島、キューバ、シンガポール、ドミニカ共和国、フィージー、トンガ、ハイチなど43カ国が加盟しており、グワムなど4カ国がオブザーバーに登録されている。人口では、世界の5%を含むという。

京都議定書での約束が守れないような先進国には、少なくとも道義的に、海面上昇で国土を失う人々を受け入れる義務が生じる、と私は思う。
 
 谷口 雅宣

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2008年11月10日

理性と教典解釈 (2)

 前回は、茅ヶ崎市の男性からの質問に答えたので、今回は厚木市の女性の質問に答えよう。まず、ここでのテーマは「教典の解釈」であって「真理の解釈」ではないことを確認しておく。

 厚木市の女性は、古い時代に書かれた教典を現代人が読む場合、その解釈が昔のものから変わる必要があることは認める。が、そうやって打ち出された新しい解釈が正しいか否かをどうやって判断するか?--という点を質問したのだ。私はこの時、黒板に「理性」という文字を書いた。人間には理性があるから、それによって判断することができるという意味である。そして、理性をめぐるイスラーム内部の考え方の違いについて触れたのだった。
 
 昔からの本欄の読者ならば、イスラームの中の「理性主義」について私がやや詳しく書いたことをまだ覚えておられるだろう。このテーマは、6日の本欄で紹介した私の新刊書『衝撃から理解へ--イスラームとの接点をさぐる』(生長の家刊)の中にも含まれているから、ここでは同書のページを示しながら説明していく。
 
 あえて大ざっぱに言えば、イスラーム内部の二大宗派である「スンニ派」と「シーア派」の違いの1つが、教典解釈における理性の位置づけなのである。宗教の教義を導き出す元になるものを一般に「法源」(真理の源の意)と呼ぶが、イスラームにおける法源は、①コーラン、ハディースなどの教典、②イスラーム共同体の合意、③理性、などが挙げられている。このうち①と②は、スンニ派でもシーア派でも共通しているが、③の理性については、前者よりも後者の方が尊重度が高い。また、スンニ派の中でもムータジラ派の流れをくむものは、理性を重んじる法解釈の立場を現在もとっている。このへんの話は、前掲書の144~161ページに詳しい。しかし、今日の問題は、中東などのイスラームの考え方が、スンニ派の中でも理性を法源として認めないワッハーブ主義であるということなのだ。
 
 現在、ニュース報道などで「イスラーム原理主義」という言葉が使われるときは、ほとんどがワッハーブ主義か、それに準じた考え方のことを指す。ワッハーブ主義の説明は、前掲書の53~60ページにあるが、それをひと言でいえば、上記の法源のうち、①を極端に重んじ、他を無視ないしは軽視する考え方であり、①を適用するのに厳格な「字義どおりの解釈」を行うところに特徴がある。これによって、現代のイスラーム社会でどんな問題が起こっているかは、多くの読者はご存じのことだろう。
 
 私が今なぜ、イスラームのことを引き合いに出しているか、賢明な読者は気づかれているに違いない。宗教の教典を「字義どおりに解釈する」ということは、解釈の余地を最小限に狭めるということである。これを行っている実例が今、目の前にあるのだから、そこから学ばねばならないのである。つまり、法源から理性を排除した信仰によって、平和はもち来されることはないと言える。前掲書の225~226ページには、現代のイスラーム原理主義国家で禁止されていることが列挙されているが、このリスト(下掲)を見れば「理性ぬきの信仰」がいかに息苦しく、心の平安をもたらさないかが、理解されると思う--
 
 ・あらゆる形態の歌舞音曲を楽しむこと
 ・宗教番組を除くテレビ番組を視聴すること
 ・花を贈ること
 ・拍手喝采すること
 ・人間や動物の姿を描くこと
 ・劇に出演すること
 ・小説を執筆すること
 ・動物や人間が描かれたシャツを着ること
 ・あごひげを剃ること
 ・左手でものを食べたり書いたりすること
 ・立ち上がって人に敬意を表すこと
 ・誕生日を祝うこと
 ・犬を飼ったり可愛がったりすること
 ・死体を解剖すること
 
 谷口 雅宣

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2008年10月23日

ギャオの独り言 (3)

 きょうは、ウサギのぬいぐるみのデカパンのことを話す。

 ミー君のつくる世界では、デカパンはいい役でボクはあく役だってことは、もう話した。それから、ボクとデカパンは友だちってことも、話した。もんだいは、友だちのデカパンを、ボクはどうしていじめるかってことだ。そのわけも、もう話したと思うけど、もっとせつめいしたい。これには、ふかいジジョーがあって、それを知ってほしいからだ。

Mtimg081023  ボクはミー君をよろこばすために、デカパンをいじめる。そんなボクは、デカパンのほんとの友だちとはいえないかもしれない。でも、デカパンもボクのジジョーをしってるから、がまんしてくれると思うんだ。それに、ずっとがまんしてなくていい。ボクがデカパンをいじめてると、すぐにカシキンマンが出てきてボクとたたかう。それまでのしんぼうだ。カシキンマンは、あぶないところでギンコーへにげこみ、パワーアップしてボクをやっつける。ミー君は、それがうれしいんだ。で、ボクはミー君がよろこぶのがうれしい。だから、友だちのデカパンがすこしのあいだ、つらい思いをすることには目をつぶる。ショーガナイから。

 でも、ミー君がいなくなったとき、デカパンはときどきボクにこういう--

デカパン「ギャオは甘えんぼうで、いくじなしだ。なぜって、よくないと分かってることを、ミー君のためにするから」
ギャオ「ごめんよ、デカパン。でも、おまえもボクもミー君が好きだから、ツライことをがまんしてやってるんだ。そうだろ?」
デカパン「わたしはがまんしてないよ。ギャオがいじめてツライから、たすけてー、くるしいーって、大声だすの。するといつも、カシキンマンが出てきてたすけてくれる」
ギャオ「それは、えんぎだろう? ツライふりだろう?」
デカパン「わたしはえんぎしてない。ほんとにツライのよ」
ギャオ「でも、カシキンマンが出てくるためには、あく役がひつようなんだ。あく役のボクは、きみをいじめないといけない」
デカパン「そんなの、おかしい。ぜったいにおかしい!」
ギャオ「これはコーキューなロンリだから、きみには分からないかもしれない」
デカパン「ぜんぜんわからない。ぜったいにおかしいわ」

 ボクは、このロンリをデカパンに分からせることができない。でも、デカパンもボクもミー君のことを好きだから、そこのところで、だまってしまう。ロンソーは、いつもここでおわりだ。
 
 この世界では、悪いことをしなければいいことは出てこない--これが、世の中のふかいジジョーだ。これが、コーキューなロンリなんだ。ボクらのことに当てはめれば、ボクがデカパンをいじめなければ、カシキンマンは出てこないんだ。これはうごかせないジジツだから、ショーガナイ。でも、デカパンはちがうことをいう。ボクとかのじょがなかよくしてても、カシキンマンはきっと出てくるだろうって。そして、たたかうんじゃなくて、ボクたちといっしょにあそべるだろうって。

 ボクは、そんなのは甘いロンリだと思う。みんながなかよくあそぶなんて、ミー君が好きなわけがない。ミー君は、セーギのみかたカシキンマンになりたいんだ。セーギが生まれるためには、悪がなくてはだめだ。そして、セーギは悪をくじくんだ。ボクは、そうやってミー君がよろこぶために、なみだをのんであく役をする。ボクは悪い「役」をするんだから、「悪」じゃない。ボクは恐竜だから、ぜったいカイジューじゃないんだ! 友だちのデカパンには、このふくざつでコーキューなロンリをぜひ知ってほしいと思う。
 
 谷口 雅宣

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2008年10月22日

歯磨きを使いきる

 仕事場で使っていた歯磨きがなくなった。別に珍しいことでも何でもない。世界中の数えきれないほど多くの家庭で毎日、起こっていることだ。私自身、過去に何回もしてきたはずのことだ。しかし今回は、なぜか爽快な気分がする。理由はたぶん、チューブの中身をほぼ完全に使いきったからだ。

 ひと昔前の歯磨きチューブは柔らかい金属製だった。その中身を使いきるためには、絞り出し口とは反対側の端からチューブを巻き上げていって、最後には、絞り出し口付近にたまっている歯磨きを力を込めて絞り出す。これがなかなか難しい作業で、どうしても中身のペーストが残ってしまう。まあ、それはそれでいいのだけれど、この力まかせの作業が大変だった。

 その次に出てきた歯磨きチューブは柔らかいプラスチック製で、今の歯磨きや化粧品のチューブは、ほとんどがこれである。この柔らかいチューブは、中身を絞り出すのは楽でいいのだが、その代り弾力があるので元の形状にもどってしまう。ということは、金属製のように巻き上げることができず、従って、中身がどれほど残っているかが外見からは分からない。また、チューブの内側に歯磨きが付着しやすいようである。だから、ペーストを完全に使い切るのは至難の技だった。少なくとも私には、そう思えた。

 そこでいつか、もう中身を使いきったと思った歯磨きチューブを妻に渡して、「新しいのを買っておいてよ」と頼んだら、
 妻曰く--
「あら、こんなの中にまだいっぱい残ってるわ」
 見えないのにどうして分かるのか、と不思議に思ったところ、
「この部分に、たくさん残ってるはずよ」
 と言って、妻はチューブの絞り出し口近くの、硬い部分を指差した。しかし、その部分は絞ろうとして指でつまんでも、どうしても小さい空間が内側に残り、その部分のMtimg081022ペーストは絞り出すことができない。そう言って口を尖らすと、
 妻曰く--
「あら、そんなの簡単よ。チューブを半分に切って内側から使えばいいのよ~」
 私はその時、妻の顔を尊敬の眼差しでまじまじと眺めたのだった。
 
 この妻の教えを守って、仕事場で使いきった歯磨きチューブの第1号が、今日私の目の前にあったのだ。清々しい秋の日、ハッカの香りを残し、中身がきれいになくなったチューブの、輪切りにされた姿を見て、私は思わず絵筆を取った。
 
 谷口 雅宣

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2008年10月17日

ギャオの独り言 (2)

 ミー君のことを少し話そう。
 
 ミー君は、ボクらのご主人だ。ご主人は、けらいよりえらい。でも、けらいのめんどうを見てくれる。ボクらと遊んでくれるし、ボクらをそうじゅうしてくれる。「そうじゅう」というのは、ボクらに命をくれることだ。ボクらを動かし、ボクらにことばを話させ、ボクらに「生きている」と思わせてくれる。つまり、ミー君は神さまみたいなものだ。ご主人は神さまで、ボクらはけらいだ。
 
 だから、ボクもデカパンも、ミー君が「やれ」といったことを喜んでする。いい役かあく役かはもんだいじゃない。でもたいてい、デカパンがいい役で、ボクがあく役だ。つまり、デカパンは弱くて、ボクは強い。その強いボクをこらしめるために、カシキンマンが出てくる。じつは、コイツがもんだいなんだ。
 
Mtimg081017  ミー君は、神さまみたいにボクらをそうじゅうすることはできるけど、ぬいぐるみの世界にそのままでは入れない。ミー君は、ぬいぐるみより大きいからだ。あっとうてきに大きい。だから、ぬいぐるみをあやつることで、ボクらの世界にやっと入れる。だから、カシキンマンをあやつるときは、カシキンマンがミー君なのだ。カシキンマンはキザなヤツだけど、ミー君が中に入っているのだから、しかたがない。ボクは、カシキンマンにやられたふりをする。でもほんとうは、ヤツにやられるんじゃなくて、ヤツになりきっているミー君にやられてあげるのだ。そう思えばがまんできるし、うれしい。
 
 もんだいなのは、ミー君がカシキンマンになりながら、ボクらのきもちをわかってくれてるのかってことだ。たとえば、ボクがあく役になってデカパンをいじめているとする。そこへカシキンマンがやってくる……

カシキンマン「おい、らんぼうもののギャオ。デカパンをいじめるな!」
ギャオ「何だ、このキザ男。デカパンはボクのけらいだから、いじめるもいじめないも、ボクのじゆうだ」
カシキンマン「ぬいぐるみは、みんな平等だ。デカパンもじゆうに生きるけんりがある」
ギャオ「何だ、そのけんりってのは? そんなものがあるなら、見せてみろ」
カシキンマン「けんりは見えないけど、みんなにある」
ギャオ「ボクは、見えないものなんか信じない。信じないものは、あいてにしない」
カシキンマン「それじゃ、おかねは信じるか?」
ギャオ「おかねは見えるし、使える。だから信じる」
カシキンマン「では、ここに1万円ある。これをやるから、デカパンを自由にしてやれ」
ギャオ「何、1万円だと。それで何が買えるんだ?」
カシキンマン「人魚のあんパンが100個ぐらい買えるぞ!」
ギャオ「そいつはいい。で、人魚のあんパンって、どこに売ってる?」
カシキンマン「渋谷の『小さい人魚』というパン屋にある」
ギャオ「じゃあ、今すぐ買ってこい。買ってきたら、デカパンを逃がしてやる」
カシキンマン「おれはカシキンマンだから、金を出すだけだ。自分で買いに行け!」
ギャオ「渋谷まで行くのは、めんどーだ!」
カシキンマン「じゃあ、タクシー代も出してやる」
ギャオ「タクシーひろうのも、めんどーだ!」
カシキンマン「なんてヤツだ、このカイジュウは!」

 ボクは恐竜のぬいぐるみで、カイジュウじゃない。カイジュウといわれるのが、いちばんきらいだ。だから、ここで頭にきてカシキンマンにおそいかかる。

 ギャオーーーーーーーーーーーー

 たとえば、こんなぐあいになって、カシキンマンとボクは戦う。で、さいしょはボクが勝って、それからヤツがギンコーへ逃げて、そこでパワーアップして、ボクにいろんな術をかける。で、ボクがけっきょく負けるんだ。そして、カシキンマンがいつものように、こうさけぶ--

「オレのかねのいりょくは、シジョーいちだ!」

 でもさ、ボクはこんな役、ほんとはきらいなんだ。デカパンはボクの友だちだから、いじめるのはいやなんだ。でも、ミー君が「いじめろ」というから、しぶしぶいじめる。あく役っていうのは、心で泣きながら悪いことをする、好きな人のために。だから、こういう劇が終わったら、ミー君には小さな声でいいから、こう言ってほしいんだ--
 
「ごめんね、ギャオ。ほんとはいいやつなのに……」
 
 谷口 雅宣 

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2008年10月14日

ギャオの独り言

 ボクは恐竜のぬいぐるみ、ギャオだ。
 このところ、ずっと押入れの中にいたから、カビくさい。
 きょう、ひさしぶりにウチのダンナさんに出してもらって、
 明るい場所に出られた。
Mtimg081014_2   うれしいぞぉー、ギャオー!
 でも、ダンナさんがボクをテーブルの上に置いたら、
 奥さんが、こう言った--
「そんなきたないの、上に置かないでよぉー」
 ダンナさんは、何も言わない。
 何とか言ってほしい。ボクがきたないだなんて、ひどいぜ。
 ボクは、ダンナさんと奥さんの子供といっぱいあそんだから、よごれた。
 よごれることが、ボクの仕事だった。よごれることが、うれしかった。
 なぜって、よごれるのは人気があるからだ。遊んでもらえるからだ。
 
 ボクの友だちに「デカパン」って名前の、ウサギのぬいぐるみがいた。
 でっかい空色のパンツをはいた、ピンクのウサギで、いっしょによく遊んだ。
 ヤツは、ついにかおが灰色になった。まくらがわりにされたからさ。
 それでもヤツは、ひと晩じゅう、ミー君といっしょだったから、満足してた。
 ボクはあくやくで、「ギャオー」とさけんで、デカパンをおそった。
 すると、せいぎのみかたの「カシキンマン」というのが、出てくる。
 目がタマゴみたいで、赤と銀の光るジャンプスーツを着た、キザなヤツだ。
 自分のことを、ウルトラマンだと思っている。
 そのカシキンマンと、ボクはたたかう。
 さいしょは、ボクがヤツをこらしめる。こてんぱんさ。
 でも、カシキンマンは、ギンコーへ行くとパワーアップする。
 そして、ボクにひざげりとか、アッパーカットでおうせんする。
 ボクはほんとは、カシキンマンなんかにまけない。
 でも、大すきなミー君が「まけろよ」というから、まけたふりをする。
 すると、キザなカシキンマンは、
 「オレのかねのいりょくは、シジョーいちだ!」
 と言って、しょうりをさけぶ。

 ボクは「シジョー」って何のことか、よくしらない。
 でも、たぶん世界と同じだ。
 世界一なのは、ほんとはお金なんかじゃない。
 デカパンやボクみたいに、よごれながらミー君と遊ぶぬいぐるみがいるから、
 ミー君はまんぞくするんだ。
 ミー君はカシキンマンになりきって、デカパンを助け、ボクをやっつける。
 でも、デカパンはボクの友だちだから、ボクはヤツに手かげんしてる。
 ぶっても、ほんとはぶってない。
 かみついても、ほんとはかんでない。
 デカパンもボクも、はいゆうと同じだ。
 ミー君が「やれよ」ということを、よろこんでする。
 だって、ボクらはミー君が好きだからだ。

 そんなミー君は、おとなになって、ボクらを置いて出ていった。
 ショーケンガイシャに入ったと、奥さんがいっていた。
 そんなカイシャでも、ミー君は、
 「かねのいりょくはシジョーいちだ!」
 とさけんでいるのだろうか。
 だれがいいやくで、だれがあくやくをやってるのだろう。
 こんど、ダンナさんにきいてみたい。
 
 谷口 雅宣

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2008年10月11日

上を向いて歩こう (2)

 今朝の新聞各紙の第1面には、まるで“世界恐慌”を予言するかのような見出しがデカデカと躍っている。短期間で大幅の「円高」と「株安」が同時に進行したことを、『日本経済新聞』は「1年間で日本人一人当たり200万円の『富』が消えた計算だ」という。が、ちょっと待ってほしい。株式への投資が多い人は「株安」でそうなるかもしれないが、「円高」の方は輸入品の単価を下げることになるし、円資産の多い人は対外的には財産が増えたことになるのである--こっちの方の話をなぜ書かないか、と思う。前回、本題で書いたときの言葉を繰り返せば、“落ちていくもの”を見るのではなく、“上がっていくもの”に目を向けよう。
 
 株価の下落は消費マインドを減退させるというが、それはそのままCO2の排出削減になるし、自然破壊の速度が鈍ることを意味する。人間の諸活動の“過剰”な部分が削り取られて、もっと自然と共存できる技術や生き方、諸制度が新たに工夫できる素地が整えられるかもしれないのである。いや、まさに今、そちらの方向に人類は大きく舵を切るべきだ。枯渇する資源を争奪して富を増やすことから、枯渇しない自然エネルギーの利用と、他国や自然との共存に向かって産業構造を切り替える時期に来ているのだ。

 谷口雅春先生著『生命の實相』第37巻幸福篇上に、貯金していた大金を株式投資に回して失敗した人の話が出てくる。この「K氏」は、貯財の大半を1日でなくしてしまったというのである。当時の値段で「約1万円」だから、現在は「100万円」とも「1千万円」とも考えてみることができる。K氏は、これに執着して、失った金を何としても取り戻したいと考えあぐね、治ったはずの高血圧症も再発させてフラフラの状態になったという。
 
 雅春先生の解説は、こう続く--
 
「K氏の身体(からだ)が失われたわけでもない。氏の心が失われたわけでもない。また、氏はその金がなければ生活に困るのでもなかった。氏の身体にも心にもなんらの関係のない“金”というえたいの知れぬもの、しかもそれは金貨という固い確実なものでもない、ただ氏の名義から、他の人の名義に金額を表わすある数字が書き換えられたということだけで、心がこんなに悲しみ、身体がこんなに苦しむとはどういうわけなのだろう。悲しむべき理由がないのに悲しく、苦しむべき理由がないのに苦しい--これを妄想というのである。その妄想のために幾千万の人間が苦しんでいるのである。K氏もいつの間にかこの妄想の中に墜落したのだ」(同書、p.97)

 現在の世界的金融危機も、これとさほど変わらない性格をもつ。実際には生産されていない“価値”に値段をつけ、これをさらに「期待」や「希望」や「儲け心」で膨らませて売買するのが金融取引であり、株式売買である。その値段のつけ方は、おおむね人間至上主義的であり、化石燃料優先であり、自然破壊的であることは、本欄で何回も書いてきた通りである。このような誤謬と欲望で膨れ上がった地球大のバブル(風船)に、アメリカのどこかで穴が開いたのである。だから、日本発の誤謬や欲望も同時にしぼんでいくことは当然だろう。その誤謬や欲望に加担していた資金が消えていくことに、なぜ苦悶し、悲しむのか。「悪業は悪果として現れたとき消滅する」と考えれば、バブルがしぼんだ時こそ、新たに善業を積む機会の到来である。
 
 さて、問題のK氏だが、彼は大金喪失の苦しみから逃れるために聖経『甘露の法雨』を仏前で朗誦したという--
 
「氏は心の苦悶を忘れるために大声を挙げて読んでいるうちに、少しく心が静まってきた。その時氏は自分の声が“物質に神の国を追い求むる者は夢を追うて走る者にして永遠に神の国を建つる事能(あた)わず”
 と朗々と誦しているのを聴いた。それはまったく天籟(てんらい)の声のようであり、神啓の韻(ひび)きのように聞こえた」(p.98)
 
 こうして、「心は物質に捉えられたとき直ちに地獄へ転落するものであることがK氏にはわかったのであった」と、先生は書かれている。金融資産それ自体は「物質」でさえない。それは「物質やサービスに交換できる価値」として、銀行や証券会社のコンピューターに数字で登録されているものでしかない。そして、その交換率は、人間の心によって変化するのである。我々は今、唯心所現の法則の展開を目撃しているのだ。
 
 谷口 雅宣

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2008年10月 6日

対称と非対称 (5)

 今日(6日)の『朝日新聞』紙上で、哲学者の梅原猛氏と分子生物学者、福岡伸一氏の対談を興味深く呼んだ。梅原氏は、「人間は自然の一員として生きている」という世界観が日本の“基層文化”である縄文文化からアイヌ社会へと引き継がれ、それがさらに鎌倉仏教の天台本覚論の思想にも流れていると言っている。天台本覚論とは「草木国土悉皆成仏」の思想で、「万物が仏性を持っていて、仏になれる」という考え方だ、と梅原氏は言う。生長の家では、この言葉を「仏になれる」ではなく「成れる仏である」と解釈するが、いずれにしてもこの思想は人間中心主義とは異質な考え方で、インド仏教にはない日本仏教独自の思想だという。

 しかし梅原氏は、こういう一種の“自然中心主義”の考えは、日本独自のものではなく、古代エジプトなどの「かつて人類に共通していた文化、思想的伝統」であり、それが日本に残ったものとしてとらえている。私は、この考え方に賛成である。自然と人間との一体感を大切にする文化は、昔から日本以外にも存在していたことは明らかだからだ。それは、古くは後期旧石器時代にヨーロッパの洞窟で描かれた動物や人の絵に始まり、ヒンズー教や仏教における輪廻の思想の中にある。また、ケルト文化やドイツ神秘主義のマイスター・エックハルト、カトリック大司教だったニコラウス・クザーヌス、17世紀の啓蒙主義哲学者、バルフ・スピノザなどの思想の中にも、「神は自然の中に内在する」という考え方がある。さらにまた、南北アメリカやオーストラリアの原住民らも同様の思想をもっていたし、アメリカ人ではソローやエマーソンの哲学にも自然を愛する考えは顕著に表れている。

 私は、このような事実から、自然中心主義の起源を地球上の一定の「地域」とか「民族」に対応させる考え方には、説得力も魅力も感じない。「東洋人」や「日本人」だけが自然との一体感を有し、「西洋人」や「欧米人」は自然との一体感を感じないなどという理論は、事実からほど遠いだけでなく、一種の人種的偏見だろう。それよりも、マテ=ブランコや中沢新一氏が捉えたように、人間なら誰もがもつ潜在意識の中に「対称性論理」が宿っていて、そういう“深い心”が自分を自然の一部としてとらえ、自然の中で充足する心を発現するのだと考える方が事実に則していて、説得力があり、したがって魅力的である。
 
 対称性論理と関係が深いと思われるものに「罪」と「罰」の概念がある。我々人間は、何か不幸なことに遭遇すると、それは自分が間違ったことをした結果だと考えがちである。この考えには、何か明らかな具体的失策があって、それが原因でかくかくしかじかのことが起こり、最終的に自分にふりかかる不幸となった……などという論理性があるのではなく、自分がある日、腹痛になったら、自分が何か悪いことをしたからだと“直感”するのである。食べたものが中国製のギョーザであり、その中に毒物が混入していたために腹をこわしたとしても、「中国製の食品を食べた自分が悪い」などと思うのである。論理的に考えれば、この場合の“悪者”は、ギョーザに毒物を混入させた中国人の誰かであることは疑いがない。その人が加害者であり、自分は被害者であることは明らかだ。しかし、被害に遭ったのは自分のせいだ、と考えがちである。
 
 これがどうして対称性論理か? それは、「誰かが自分に対して悪いことをした」ということを、潜在意識では「自分が誰かに対して悪いことをした」と置き換えて考えるからである。この場合、「誰か」と「自分」は別だと考えるのが非対称性論理であり、通常の理性的判断である。しかし、我々の潜在意識の中には同時に対称性論理が働いているから、そこでは「誰か」と「自分」とが同一のものとして捉えられる。そして、人間の心はマテ=ブランコがいう“二重論理構造”(bi-logical structure)をもっているから、腹痛を起こした本人は、覚めた意識では「毒物を入れた中国人が悪い」と思いながらも、心のどこかで「それを食べた自分も悪い」などと考えるのである。
 
「罪」と「罰」は宗教上の概念でもある。神を信じる人々は、昔から自分たちの不幸の原因を創造主である「神」に帰することはなく、自分たちに原因があると考えた。自分たちに罪があるから、その結果として神が罰を自分たちに下される--こういう考え方は、『創世記』の“禁断の木の実”の昔から現代にいたるまで続いている。それは「真理」というよりは、対称性論理で動く我々の潜在意識の創作なのである。

 谷口 雅宣

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2008年10月 3日

対称と非対称 (4)

 前回、この題で書いてから10日ほどたってしまったが、その時に立ち戻れば、私は対称性論理(対称的関係)について、それは無意識の領域だけでなく、神話や宗教の教えの中にも多く含まれることを、例を挙げて示していたところだった。対称性論理を例示すれば、それは「Aは非Aではない」というように物事を截然と切り分けずに、「A」と「非A」の間に、別の「X」という共通点を見出し、それに注目して「Aは非Aでもある」と考える論理である。簡単な例を示せば、「日本人も中国人も同じ東洋人だ」などと考えることだ。これに対し、「日本人と中国人はものの考え方がまったく違う」などと考えるのが非対称性の論理である。

 私は、この例に限定しない一般論として、いずれの考え方も必要だと思う。なぜなら、どちらの考え方もそれなりに正しいからだ。双方がそろって、初めて正解と言えるだろう。だから、どちらか一方を選ばねばならないと考えるのは、間違いだ。ただし、それぞれの論理の適用場所を誤ると、現実社会においては大事に至ることがある点に留意しなければならない。例えば、「日本人も中国人も同じ東洋人だからパスポートなどいらない」と考えて成田空港へ行ったり、その逆に「日本人と中国人はまったく別だから、目を合わせてもいけない」などと考えて国際スポーツ競技に参加すれば、問題が起こることは容易に想像できる。

 クマと人間との関係にも、このことは言える。クマは人間にとって“敵”であることもあれMtimg081003 ば、“仲間”であることもあるのである。地球温暖化を警告するのに、融けかけた氷原を行くホッキョクグマの写真が使われることがある。また最近、このクマは絶滅危惧種に指定された。これらの事実は、外見は大いに違う人間とホッキョクグマの間に共通点を見出し、それに注目して「人間も彼らと同類だ」あるいは「彼らも人間と同類だ」と考える対称性論理にもとづいている。これに対し、山菜採りやキノコ採りの際、鈴やラジオを腰に下げて山へ入るのは、「彼らは人間とは異質だ」という非対称性論理にもとづく行動である。このどちらの論理も人間にとって必要だ、と私は思う。そして、普通の人間は双方を同時並行的に使って生きている。このことを、マテ=ブランコは「二重論理」(bi-logic)と呼んだのだろう。

 ブタやウシなどの家畜の場合は、この関係が怪しくなる。私は、先進国の都会に住むほとんどの人間は、これらの家畜に対して非対称性論理のみを使っていると考える。その意味は、「ブタやウシは人間とは異質だ」という考えを徹底させて生きているということだ。彼らは、動物性蛋白質の摂取源としてしか見られていない。現代の食肉産業には、彼らも我々と同じ生き物であり、喜怒哀楽の感情を抱くという事実を無視するための配慮が随所に施されている。まず屠殺場が、一般人から隔離されている。そこへ送られる家畜たちが、どのような反応をするかは隠されている。食肉工場での解体作業も、一般社会から隔離されている。もちろん労働者は一般人であるが、そこでの解体作業は、機械的な流れ作業の中で、喜怒哀楽を感じることのないように整然と行われねばならない。

 こうしてできた肉製品は、ハム、ソーセージ、ハンバーグ、ミートボールのように、できるだけ原形を残さないように加工される。そして、ワックスで光る果物や、泥の痕跡がまるでない野菜と同じ店で売られている。我々の子供たちには、まさにそういう肉製品が与えられるから、彼らは家で飼っているイヌやネコと変わらない哺乳動物を、毎日殺して食べていることなど知らずに育つのだ。このような社会のシステムは、人間として生きるのに必要な「対称性論理」を身につける機会を、子供たちから奪ってきた、と私は考えるのである。
 
 谷口 雅宣

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2008年9月21日

イオマンテを考える

 北海道の旭川市で行われた生長の家講習会からの帰途、この文章を書き始めている。私はかつて本欄(2005年3月27日5月21日)で、北海道のアイヌの儀式である「イオマンテ」について触れたことがある。この儀式は、アイヌの村で飼っていたヒグマの子が成長すると“神”として森に送り返すものだ。こう書くと聞こえがいいが、別の表現を使えば、これは「山から生け捕りにしてきた子グマを育て、1~2年後に殺して食べるときの祭」なのである。村民は子グマを取り囲んで矢を放ち、2本の丸太で首を挟んで息の根を止める。「残酷だ」という理由で今ではほとんど行われなくなっているらしい。

 しかし、アイヌの信仰では、ヒグマはもともと山の神であるから、人間社会の中にいつまでも留めておくことはできない。それを一時村で育てた後は、本来の場所へ返さねばならない。その際、肉体から魂を分離させて、前者からは毛皮や肉などの恵みをいただく代りに、後者は“神”として尊敬申し上げ、厳かな儀式の中で送り出すことが必要なのだ。アイヌの伝統的自然観では、「自然は生命の連続であり、そのことを感じ、恐れ、感謝しながら、すべての生物を同僚とし、背後の命の流れを神として生きる」--こういう自然との一体感と信仰は、まさにマテ=ブランコのいう「対称的関係」の自覚である。

 この儀式は、本当に非難すべきものだろうか? 「毛皮と肉が必要ならば、単に殺してそれをもらえばいい」という考え方が、成り立つかもしれない。しかし、この考え方こそ、人間とクマとを「非対称的関係」として捉えるものなのだ。我々の覚醒時の論理的認識は、人間とクマとを“別物”として捉える。したがって、人間の利益とクマの利益は必ずしも一致しない。だから、人間がクマを殺して毛皮と肉を得ることは場合によっては必要である。それができるのは、人間がクマより優れているからだ。優れているものは、劣っているものを尊敬する必要はないし、ましてや“神”として扱うことは無意味である。だから、イオマンテの儀式は不要である。

 これは確かに“理性的”な考え方かもしれないが、マテ=ブランコが指摘しているように、人間は醒めた意識による理性的判断だけをしているのではなく、無意識中で顕著に働く“感情”を備えている。そして、このもう一方の人間的側面において、我々はクマに対して感情移入するのである。「残酷だ」という感情が生まれるのは、その証拠である。つまり、人間はクマを自分と同じ生き物として捉え、クマの身になって考えることができる。クマは人間と同じように、親を必要とし、食べ物を与えれば喜び、喜怒哀楽を表現し、恐怖や苦痛を感じるのである。このようにして、クマと人間を“対等”のものとして感じることが「対称的関係」である。そういう感じ方を我々の心は本来もっているのだが、それを抑圧して“理性的”にのみ考え行動することは、言葉の本来の意味からして「人間らしい」とは言えない。
 
 先に私は、我々の無意識は「非対称的関係を対称的関係として取り扱う」ことを述べた。すると、アイヌのイオマンテの儀式は、この無意識の働きを宗教的行事として結実した貴重な文化遺産だと見ることができるだろう。
 
 谷口 雅宣

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2008年9月15日

メディアの責任を問う

 13日の本欄で、アメリカが主導する“テロとの戦争”の基礎となっている「ブッシュ・ドクトリン」について言及したが、私はこの考え方に対して早い時期から反対の意思を表明してきた。その理由をここで繰り返すつもりはないが、「9・11」の後に発想されたこの政治・外交方針の危うさについて、マイケル・ボンド氏(Michael Bond)が8月30日付のイギリスの科学誌『New Scientist』に「頭を冷やせ(Keep your head)」という題で興味ある分析を書いていた。
 
 それによると、「9・11」後の12カ月間、大勢のアメリカ人は国内の移動に航空機を使うのをやめて、長時間であっても自動車を運転することに切り替えたそうだ。その結果、この期間に交通事故で死亡した人の数が約1600人も増えたというのだ。この数は、同事件でハイジャック機に乗っていて死んだ人の数の6倍に相当するそうだ。これは、恐怖心にもとづく意思決定が正しく行われないことを有力に示しており、この事実を発見したドイツの研究者に言わせると、多くのアメリカ人は恐怖すべきハイジャックの危険を避けようとして、「フライパンの上から逃れて火の中に飛び込んだ」のだそうだ。
 
 人間は不確かな事態に遭遇したとき、大別して①理性的判断、②直感的判断のいずれかによって対処するという。いずれの方法もそれぞれ長所と短所があるが、②を行う場合、強い恐怖心が働くと、最善の策を採ることが難しくなるという。特に、めったに起らないが、起こると重大な結果を招くような状況に直面した場合、この“恐怖による危険”が生まれるという。テロリストの攻撃、ガンの脅威などが、これに当たる。前者の例はすでに触れたが、後者の例では、ガンで悲惨な闘病生活をした近親者がいる人は、自分がガンになる可能性を過大に考える傾向があり、そのため危険性の高いガン検査をすることもあるという。

 我々の意思決定を歪める要素は、恐怖心だけではないという。強い記憶--特に、強烈なイメージを思い出す場合--は、それと関連した事件が実際より頻繁に起こると考えやすくなり、正しい判断が難しくなる。航空機事故に遭ったり、テロに遭遇したり、あるいはサメに噛みつかれることなどが、この部類に入る。というのは、こういう事故や事件については、メディアが同じことを何回も報道し、現場の残酷な映像などを繰り返し伝えるからだ。その逆に、病死については、強い記憶は残りにくい。なぜなら、病人の映像や葬式などはメディアではあまり取り上げられず、その代り、統計的な数字を使って報道されることが多いからだ。
 
 ここまで書いてくると、我々の個人的判断のみならず、社会全体の意思決定に及ぼすメディアの影響が重大であることが分かるだろう。“悪”を探し、“悪”に注目して、その強いイメージを社会に発信する現在のメディアの報道姿勢は、社会全体の意思決定を間違った方向へ引っ張っていく危険性があるのである。私は本欄で、これまで何回か日本の犯罪が「増加」しておらず、「凶悪化」しておらず、「低年齢化」もしていない事実を、警察庁発表の犯罪統計を使って述べてきた。が、一般の人々の印象では、日本の犯罪は増加し、凶悪化し、低年齢化している。このことは、イギリスについても言えるようだ。
 
 同誌の記事によると、2006~2007年の調査では、イギリスに住む人の65%は犯罪が全体として増加していると信じているが、実際の統計では、1995年以降の10年間で犯罪件数は42%減少し、その後は同レベルを維持しているという。アメリカでも似たような現象が見られる。2001年のある調査では、1990年から98年の9年間で、犯罪の記録は20%減ったのに対し、テレビの犯罪報道は83%増加したという。特に顕著なのは、この期間中、殺人事件を扱った番組が473%増えたのに対し、実際の殺人事件は33%減ったという。アメリカ社会は銃規制に消極的であり、それが一つの原因となって銃犯罪がなかなか減らないという悪循環があるが、そこにはメディアの責任があると考えられる。日本社会でも、メディアが悪事の報道ばかりを続けていることと、経済や政治に明るさが出てこないこととの間には関係があるかもしれないのである。
 
 谷口 雅宣

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2008年9月 8日

脳波計は真実を語るか?

 脳波計による犯罪捜査が実際の裁判で初めて認められ、論争を呼んでいる。とはいっても、日本のことではなくインドでの出来事だ。8日の『ヘラルド・トリビューン』紙が伝えている。「機械が人間の心を読めるか」という論争は、ウソ発見器の登場以来つづいているが、今回の件は、ウソ発見器より精確で複雑な、脳波計とコンピューターを組み合わせた脳波検査が、殺人事件での証拠の1つとして採用されたということだ。今後の犯罪捜査などで世界的な影響が広がるかどうか、「心の問題」に関心のある私としては興味あるところだ。
 
 同紙の記事によると、今年6月、インドのマハラシトラ州での刑事事件で下された判決では、裁判官が脳波計の測定結果に明確に言及し、被疑者(女性)は犯罪について、犯人でなければもちえない“経験的知識”(experiential knowledge)をもっているとして、終身刑を言い渡したという。ところが、この分野で最先端をいっているアメリカの脳神経学者の間では、この技術が科学的に正式に検証されていないということで、「すごい」とか「ばかな」とか「恐ろしい」という、3種類の反応が出ているらしい。

 この事件では、24歳の女性が前の許婚を殺した容疑で捕えられた。2人は同州のピューンという場所でしばらく同棲生活をしていたが、女性の方が別の男と駆け落ちしてデリーへ行ってしまったという。数カ月後、女性はピューンにもどって来て、前の許婚にマクドナルドで会おうと誘った。そして、食べ物にヒ素を盛って毒殺した--というのが検察側の主張である。女性は殺人を否定している。

 これが真実であるかどうかを、脳波計によってどう検査するのか? 上記の記事には、こうある--被疑者の頭に32個の電極を付け、脳波計につなぐ。その状態のまま、捜査官は被疑者の前で、犯罪がどう行われたかを描いた文章を読み上げる。この文章には、「私はヒ素を買った」とか「私はマクドナルドで彼と会った」などと被疑者の行動が一人称で細かく表現してある。被疑者がもし犯人ならば、文章を聞いている間に過去の記憶がよみがえって来るだろう。すると、それに対応した脳の部分が反応して脳波計に信号を送るというのだ。脳波計はその信号をコンピューターに伝え、コンピューターはそれらを解析して、被疑者が犯罪行為の細部--臭いや音など--も思い出したかどうかを判断するという。この解析に使われるプログラムは、ある行動を被験者自身が実際に行ったのか、それとも単に目撃しただけかの違いも分かるとされている。
 
 この検査法は、脳内電位振動解析法(Brain Electrical Oscillations Signature, BEOS)と呼ばれ、インドの国立精神神経科学研究所の臨床心理学部門にいたインド人神経科学者、チャンパディ・ラーマン・ムクンダン博士(Champadi Raman Mukundan)によって開発されたもの。
 
 今回の事件では、従来の方法では厳しい取り調べが行われることを見越して、被疑者の女性はこの新しい検査法に同意したという。頭に電極を付けるだけで、肉体的にも精神的にも苦痛を伴わないからだ。この点に注目する人は、検査場でのテロリストの割り出しや、捕虜やスパイからの情報収集に有益だと期待しているらしい。拷問の必要性がなくなってしまうからだ。しかし、その反面、機械的誤診断から無実の罪が生まれたり、意図的にデータが捏造される可能性が心配される。私は、それに加えて、犯罪実行前の準備段階でも、「犯人でなければもちえない経験的知識」がある程度発生する可能性を考える。つまり、準備はしたけれども、最終段階で思い止まった人が犯行グループの中にいた場合、どうなるかという問題だ。また、この同じ技術が、犯罪ではない“経験的知識”の有無を調べるために使われれば、特定のグループに属する人間を選び出したり、個人の政治思想や宗教的信念を割り出す手段となる可能性を危惧する。
 
 とにかく、人の「心の中を覗く」ための技術は、好意的に見ても“諸刃の剣”であり、否定的に見れば、危険な誘惑に満ちているような気がするのである。
 
 谷口 雅宣

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2008年8月29日

集中豪雨は何を語るか?

 昨夜から今日にかけて、日本列島の各地で記録的な大雨が降り、河川の氾濫、土砂崩れが起こり、家屋や商店の損壊や人的被害も起こった。気象庁によると、24時間の最大雨量は愛知県岡崎市で302.5ミリ、埼玉県久喜市で227.0ミリ、東京都八王子市で218.0ミリ、同青梅市で148ミリを観測した。
 
 1時間当たりの雨量では、東京都八王子市とあきる野市で昨日午後11時が110ミリ、日の出市で100ミリを観測。愛知県岡崎市では29日零時までの1時間に146ミリの雨量があったため、同市は今日未明、市内の約14万世帯(約37万6千人)に対して一時、避難勧告を出し、県を通じて自衛隊に災害派遣を要請した。また、神奈川県相模原市は952世帯に、東京都八王子市は150世帯に一時、避難勧告を出した。
 
 今日の『日本経済新聞』が夕刊でまとめている被害状況(総務省消防庁発表)によると、愛知県や関東地方など10都県で床上浸水が519棟、床下浸水は390棟。JR中央線は八王子-大月間の上下線で始発から運転を見合わせ、京王線は土砂崩れの影響で普通電車の一部が脱線し、29日の始発から一部で運行ができなかった。また、自動車専用道路では、圏央道のあきるのIC-八王子ジャンクションの間と、中央道の上野原-八王子間が一時通行止めとなった。
 
 今年の夏は東海や関東だけでなく、金沢や神戸などでも集中豪雨による浸水被害が出ている。問題はその原因だが、専門家は地球温暖化との直接的関係には否定的だ。上記の『日経』では、東京大学気候システム研究センターの木本昌秀教授の談話として、「例年、亜熱帯性の高気圧がある日本列島の南海上に、冷たい低気圧が居座った状態が続いている。南からの湿った風が入りやすく、各地で集中豪雨を招いた」という分析を載せている。つまり、「例年通りの出来事」というわけだ。ところが同教授は、「温暖化が進むと今回のような集中豪雨型の雨の降り方が増える」とも語っている。私は、この点が重要だと思う。気候変化のパターンは変わらなくとも、それぞれの変化が“激化する”ということだ。
 
 私は、昨年の生長の家講習会で集中豪雨の増加に関する気象庁の統計を紹介したことがあるが、それは地球温暖化と関係していると思っている。この研究は、2006年8月27Gouu2b 日の『北海道新聞』にも報道されたが、1日の雨量が400ミリを超える降雨の発生回数をまとめた統計だ(=グラフ参照)。それを見ると、そういう豪雨の発生回数は1年ごとではかなりバラツキがあるものの、10年単位で見ると、近年目立って増加していることが分かるのである。気象庁がアメダス(地域気象観測システム)を開始した1976年から85年までの10年間の平均では、この回数は「6.4回」で、次の10年間は「5.1回」といったん減るが、96年から2005年までの10年間の平均は「15回」と、一気に3倍の数になる。
 
 なぜ集中豪雨が増えるかも、温暖化の影響で説明できる。私は昨年10月5日の本欄で、「北極の海氷が最小になった」ことを書き、この年の氷の減少率がここ数十年間の平均値を大幅に超えていることに触れた。専門家の中には、今年の9月には北極海から氷が消えると予測している人もいる。このことが地球上の水の循環システムに何をもたらすかは、明らかである。地球上には、極地や高地に年間を通して融けずにいる「氷」が大量にある。それは「万年雪」とか「永久凍土」「氷河」「氷床」などと呼ばれているもので、この大量の氷が「氷」として地上や海上に固定されている限り、地球上の水の循環システムに乗ることはない。南極やグリーンランドの氷床などは、何千年もの間、そこに固定されてきたのだ。ところが、今やこれらの氷が融け出して海に流れ込んでいる。それが蒸発して水蒸気となって雲をつくる。これらの水が再び地上に降りてくれば、それは以前より多くの水量となることに何の不思議もない。
 
 私がこのブログを書いている間も、背後の窓からは、間断のない激しい雨音と頻繁に轟く雷鳴が聞こえる。今後、我々が体験するであろう水害や土砂崩れは、“天災”という分類から“人災”の分類へ移行すべき性質を色濃く帯びてくる。世界の人々が早くそのことに気づき、“国益”とか“ナショナリズム”に熱中するエネルギーを、地球温暖化の抑制と低炭素社会への移行に振り向けてくれることを、私は心から念願している。
 
 谷口 雅宣
 

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2008年8月17日

生物多様性に注目

 今日は午後、東京に小雨が降った。最近、日本各地で頻繁に起こる“ゲリラ豪雨”ではなく、春雨を思わせる細かい霧雨である。気温も急に下がり、前日から10℃近く低い25℃の涼しさは、まるで高原に来たようである。夕方、傘をさして仕事場からもどると、門から玄関まで続く飛び石のあちこちに、あわてて私に道をあけるヒキガエルの姿が多いのに驚かされた。彼らは、小虫を食べて大きくなるのだろうから、庭にはそれだけ数多くの昆虫がいるのである。今、自宅のリビングルームでキーボードを叩いているが、部屋の隅に置いた透明プラスチックケースからは、50匹以上のスズムシが盛大に鈴の音を響かせている。

 このスズムシのことは8月2日の本欄に書いたが、隣家の母が昔から飼い続けているものだ。母はこれまで、何度も庭に放して、自然の環境でスズムシの音を聞きたいと思ったそうだ。しかし、放した後、数日はその音が聞けても、やがて聞こえなくなり、不思議に思って探してみると、放した場所には大きなヒキガエルがいる--そんな経験をしたので、やめてしまったという。だから、わが家のスズムシは“自然”から隔離されて生き延びているのである。
 
 そうはいうものの、ここには昆虫は結構多くいる。昨夜は、庭に近いサンルームで夕食をとっていた際、目の前の網戸をつたって体長10センチほどのヤモリがぬうーっと姿を現した。ヤモリは昆虫を捕食するために出てきたので、網戸の向こう側には緑色のコガネムシが何匹も貼りついていた。コガネムシは、我々人間が果物を食べていると、その香りに誘われて飛んでくるのである。彼らのことはかつて本欄にも書いたことがあるが、ここ数年の“猛暑”の影響かどうか知らないが、夏になると大発生して我々を困らせる。樹木の葉を食べつくしてしまうのだ。今年はまず、キーウィーの葉がやられ、次にブルーベリーの葉と実がやられた。彼らは今はそこからスモモの木へ移り、ゴーヤにまで取りついて葉を盛んに食べている。
 
 昆虫は、もちろん“困りもの”だけがいるのではない。今時々、庭先に飛んできて我々の目を楽しませてくれるのがアゲハチョウである。ここには普通の黄色主体のアゲハチョウだけでなく、クロアゲハも、アオスジアゲハも飛んでくる。ハチの種類では、ミツバチもアシナガバチもクマバチも来るし、この間は、妻が大きなスズメバチを見たと言った。これに加えて、今は毎日セミの大合唱が庭中に響いている。種類も豊富で、アブラゼミやミンミンゼミは言うに及ばず、ツクツクボウシもクマゼミもヒグラシも鳴く。このほか、庭に出て目につくのは、糸をかけて巣をつくるクモ、軒下の乾いた土に擂り鉢をつくるアリジゴクなどだ。私の目につかない所には、この数倍、いや数十倍の種類の昆虫がいるはずである。だから、鳥もよく飛んできて、木の枝を巡りながら何かをついばんでいる。

 東京のど真ん中にいながら、これだけの生物多様性がある環境で過ごせることは、実に幸運である。それもこれも、わが家では私の祖父の時代から樹木を大切にし、植物を育て、農薬などで昆虫をむやみに殺さなかったからだ、と私は考えている。こういう環境を守るための生物多様性基本法が、この6月から施行されたことで、最近は企業もこの点を意識した開発計画を策定するようになったらしい。今日(17日)付の『日本経済新聞』によると、森ビルや富士通、三井物産、リコーなどの大手企業は、生物多様性の保全を目指した開発や再開発を行うことを、温暖化ガス削減に次ぐ環境経営の柱として取り入れていくという。
 
 記事によると、森ビルは東京・虎ノ門地区の再開発事業で地上46階の複合ビルなどを建設するが、この際に動植物の種類の多さを考慮して緑化地域を設計するらしい。また、富士通は2020年までの中期環境計画の目標の一つに生物多様性の保全を盛り込み、三井物産は今年度中に、5カ所の社有林で生物多様性の調査を行って森林管理に役立てる計画という。
 
 私はこのような傾向を大いに歓迎するが、企業イメージ向上のための“装飾的”な活動に終らないよう希望する。生物多様性とは、少しぐらい木を植えれば実現するような簡単なものではない。また、生物多様性が豊かな環境とは、人間に便利で、住むのに快適な環境では必ずしもない。カやハチや毒虫に刺されるかもしれないし、セミの騒音が耳障りかもしれないし、落ち葉や鳥のフンの掃除でコストがかかるかもしれない。人間の都合を最優先する現代の企業経営の考え方で、解ける問題と解けない問題がある、と私は思う。
 
 谷口 雅宣

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2008年8月15日

南オセチア紛争が拡大 (2)

 8月10日の本欄でこの問題について触れたが、事態は急速に変化している。この時書いたことが、一部誤解を招く恐れがあるので補足したい。それは、この紛争の大きな要因として「グルジア共和国内の南オセチア自治州が、“分離独立”を目指してナショナリズムを拡大していること」を挙げたことだ。この表現だと、ロシアはこの“分離独立”の運動と関係がないような印象を受ける。が、そうではなく、オセチアの分離独立派はロシアを庇護者と考え、ロシアはグルジアの西寄り姿勢を牽制するために、オセット人(オセチアの多数民族)を支援してきたのである。また、グルジアからの分離独立を求めているのは、オセット人だけでなく、西部のアブハジア自治共和国も同じである。
 
 8月12日付のアメリカの公共ラジオニュース(NPR )がこの辺の事情を詳しく説明している。それによると、黒海の東端から東へ広がるコーカサス地方には、昔からグルジア人のほか、オセット人とアブハジア人がいた。ロシア革命後、ソ連はグルジアを吸収した際に、これら3民族にそれぞれ自治権を与えた。現在ロシアとグルジアにまたがるオセット人居住地域は、1922年に北オセチア共和国と南オセチア共和国に明確に分断されたが、旧ソ連の領土に収まっていた。

 ところが、1980年代末にソ連が崩壊し始めると、オセット人とアブハジア人はグルジアに含まれることを拒否して、ロシア側へ庇護を求めるようになった。つまり、オセット人の自治拡大運動や南北統合の要求が盛り上がり、これに反対するグルジアとの間で武力紛争が起こるようになった。その一環として、1990年に本格的な武力衝突が起こったのが「南オセチア紛争」である。この紛争は1992年に停戦が合意され、ロシア、グルジア、南オセチアの三者で構成する平和維持軍が、この地域の停戦監視をすることになった。が、三者間の不信感が消えないため、その後も衝突が散発して、双方に多数の難民が生じていたのである。
 
 一方、ロシアにとっては、ソ連崩壊後に東欧が西側に移り、グルジアも独立して“緩衝地帯”が失われていくことが問題だった。特に、2004年に西向きの姿勢を鮮明に示すミハイル・サーカシビリ氏がグルジア大統領に選ばれたことで、ロシア指導部は危機感を抱いた。同大統領は、ロシアを潜在敵国とするNATO(北大西洋条約機構)への加盟の意志を明確にし、それを念頭においてアメリカの“テロとの戦争”に協力してきた。だから、つい最近まで、イラクに2千人の地上部隊を派遣していたのである。
 
 このような中で、8月の初めの週に、南オセチアの民兵とグルジア軍との間で銃撃戦が勃発した。7日になって、サーカシビリ大統領は、南オセチアの民兵が停戦合意を破って重火器を使って攻撃していると批判した。また、この頃から南オセチアの中心都市であるツヒンバリから住民の避難が始まった。そして8日、同大統領は軍に対して、ツヒンバリを確保するよう命令した。これに対し、ロシア軍は南オセチアに増援部隊を派遣し、グルジアの首都トビリシ近郊を含むグルジアの要所を攻撃するなど、本格的な軍事介入を行ったのである。

 このロシアの動きに対して、欧米が態度を硬化していることとその事情については、10日の本欄に書いた通りである。ロシアの攻撃の速さと作戦の巧みさが浮き彫りとなり、一部には、冷戦後のアメリカ一極支配が終わった象徴的出来事であるとか、新しい冷戦時代が始まったなどという評価が聞こえる。

 今日はわが国では“終戦記念日”と呼ばれる日だ。しかし、ご覧のように、世界では新しく戦争が始まった。今回の南オセチア紛争の拡大を見れば分かるように、民族意識(ナショナリズム)を鼓舞することは、現代においても依然として戦争の原因になりやすい。また、「往年の栄誉の回復」を目指すことによっても、平和は簡単に乱されることがある。この日にもう一度、戦争の原因と日本の将来について深く考えてみよう。
 
 谷口 雅宣

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2008年8月14日

本欄が書籍に (6)

 すでに一昨日の本欄で触れたが、このブログの文章等を集めた単行本の11巻目、『小閑雑感 Part 11』(=写真)がまもなく世界聖典普及協会から出版される。正式の発行日はPart11_bg 9月1日だが、版元では宇治の大祭に間に合わせようと諸準備を急いでいる。今回の本が扱う時期は、約1年前の2007年7月から10月までの4カ月間で、81篇が収録されている。特徴と言えるのは、イスラームに関する文章を初めとして宗教や哲学に関するものが全体の65%(53篇)と多いこと。それにともない、地球環境問題に関する記述が相対的に減った。しかしこの問題は、すでにマスメディアが日常的に取り上げるようになっているので、私でなければ言えないことは、それほど多くない。
 
 ただ、地球温暖化とそれにともなう気候変動は、ノーベル平和賞をとった国連のIPCC(気候変動に関する政府間パネル)が、受賞当時に予測したよりも急激に進んでいる可能性が高い。だから、本書の「はじめに」にも書いたように、各国の指導者たちはこれを“非常事態”として認識し、強力なイニシアティブによって低炭素社会への産業構造の抜本的変革を行ってほしいのである。以下、「はじめに」から引用する--
 
 地球温暖化は、(人類にとって)巨大で複雑な地球全体の気候システムが「温暖化」へ向っていく現象だから、個人や1国の努力だけではどうにもならない側面をもっている。が、逆に、少しでも多くの個人と国家が温暖化抑制の方向に動かなければ、止められない現象である。また、現在の気候システムには“引き返せない地点”(a point of no return)があると言われていて、その地点まで温暖化が進めばシステム全体が従来とは変質してしまい、もとへもどれなくなると考えられている。これを譬えれば「滝に向かって進む船」のようなものだ。滝から逸れるために舵を切るのでは、間に合わないかもしれないのだ。船の速度が速く、滝の流れが急激であれば、落下から免れる唯一の方法は、左や右へ“舵を切る”のではなく、船を逆行させることだ。そのためには船全体に負担がかかり、転倒したり、マストから落下して犠牲者が出るかもしれない。しかし、船全体と乗組員の大多数は助かるのである。

 --私がここで「船を逆行させる」と言っているのは、化石燃料の利用をやめることを指す。いきなりやめるわけにはいかないから、「増やさない」ところから始めて、早く「減らす」方向へ産業全体を誘導すべきである。これは日本1国のことではなく、地球全体でその方向へ進む合意に達する必要がある。そのための途上国への技術支援と、制度的枠組みの整備を先進国は一致団結して進めるべきと思う。

 この文脈の中で、宗教運動に何ができるだろうか? 現在の資本主義経済は一種の“欲望増幅装置”のような役割をはたして地球資源の枯渇を加速させている。だから私は、宗教はその欲望を沈静化し、「足るを知る」倫理を広め、さらには「与える」喜びを拡大していくべきだと思う。すでに与えられている全てのことを十分味わって感謝し、余分のものは他へ回していく。そういう布施や、菩薩行、愛行の原動力として、宗教は進むべきである。地球温暖化時代には、宗教者の役割は実に大きいと言わねばならない。
 
 谷口 雅宣

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2008年8月13日

水木しげるの“妖怪”

 8月3日の本欄では、先ごろ亡くなった赤塚不二夫さんのマンガと私との関係について、少し書いた。その時に、同じマンガ家の水木しげるさんの名前も出したが、『墓場の鬼太郎』や『ゲゲゲの鬼太郎』等の水木作品については触れなかった。記憶をたどってみると、子どもの頃の私は、マンガの中の“絵”の質にも興味をもっていたから、赤塚マンガとは対照的な水木マンガの“絵”--つまり、根気のいる点描や緻密な線描によって絵に現実味をもたせた作風--には、いつも感心していた。また、それによって描き出される日本の田舎の風景や、そこに溶け込んでは現れる数々の妖怪にも、一種のリアリティーを感じていた。
 
 水木さんがなぜ、墓場や妖怪のマンガばかりを描いてきたのか、私は知らない。が、12日の『朝日新聞』夕刊に載った水木さんのインタビュー記事を読んで、何となくその理由の一端を理解できたように思った。水木さんは、20歳で軍に召集され、21歳のとき陸軍二等兵としてラバウルのあるニューブリテン島の最前線で、何度も死線を潜る経験をしたすえ帰還したそうだ。その時の話を、私は興味をもって読んだのである。
 
 6月19日の本欄で、「ふと思いつくこと」と“高級神霊”の導きとの関係について書いたが、水木さんが九死に一生を得た背後にも、そんな不思議な力が働いていたと解釈できるのである。記事によると、水木さんはある日、10人の小隊で最前線に送られ、不寝番をしながら海から来る敵を見張っていたという。そして、「望遠鏡であちこちのぞいていたら、きれいな色のオウムがいたんですよ。見とれてね、戻る時間がちょっと遅れた」という。この少しの遅れのおかげで、後ろの山から来た敵が小隊の兵舎を襲ったとき、その場に居合わせなかったのだ。水木さんだけが生き残り、やっとの思いで中隊に合流したそうだ。この後、敵の爆撃に遭って左腕を失ったため、水木さんは後方の野戦病院に送られる。このことも、生還できた大きな理由だろう。
 
 いつ敵の攻撃があるかもしれない最前線で、オウムの色の美しさに感動する心境になるというのは、「ふと思いつく」のと似ている。言い換えれば、これは「ふと美に振り向き」、戦う心をしばし忘れることであろう。それによって、水木さんは敵の攻撃を擦りぬけた。その後、左腕は失ったが、後方へ回されたことで、今度は“玉砕”を免れた。この際の水木さんの心境について、本人は次のように語っている--
 
「後方では、現地住民と友達になって、毎日のように集落に通いました。彼らは、食べて、昼寝して、畑を耕して、うまくいっている。規則なんかでがんじがらめじゃない。本当の自由がありました。私の理想の生活ですねえ。しまいには、“畑も家も嫁さんも世話するから残らないか”と真剣に言われたくらい、なかよくなりました」。

 このような水木さんの心境が、憎しみがぶつかり合う戦場や、その「憎しみ」の具象化である爆弾や弾丸から、水木さんを遠ざけていたに違いない。そのために左腕を失ったが、これが右腕でなかったおかげで、私も、私の子供たちも、そして戦後の多くの人々が水木マンガを楽しみ、またそこから多くのことを学ぶことができた。戦争では、何十万、何百万もの命が失われる。しかし、その中の「1人」であっても決して“虫ケラ”でないことを、この話は教えてくれる。「人間1人が生きる」ということの価値を改めて知るとともに、水木さんの戦後の活動の背後には、生還できなかった多くの戦友たちへの想いを感じる。水木しげるが描く“妖怪”は、そんな戦友たちの“魂”ではないだろうか。
 
 谷口 雅宣

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2008年8月10日

南オセチア紛争が拡大

 8月8日、63年前の長崎への原爆投下を想いながら、日本では多くの人々が“平和への誓い”を確かめ合っていたころ、ロシアは隣国グルジアへの軍の増派を開始、プーチン首相は「事実上、南オセチアでは戦争が始まった」と宣言した。同首相は、“平和の祭典”と呼ばれるオリンピックの開会式に出席していて、ちょうど同じ場所に同じ目的で居合わせたアメリカのブッシュ大統領と顔を合わせて、そう言ったのだ。ブッシュ氏はこれに対し、「誰も戦争を望んでいない」と早期の事態収拾を期待する考えを示した--9日付の『日本経済新聞』はそう伝えている。両者の心中がどうであるかは分からないものの、世界の大多数の人々が平和を望んでいても、戦争は起こるということを如実に示す象徴的な1コマではないだろうか。

 戦火拡大の大きな要因には、グルジア共和国内の南オセチア自治州が、“分離独立”を目指してナショナリズムを拡大していることが挙げられる。ここは人口が10万人で、うち6~7割がイラン系の言語を話すオセット人で、他はグルジア人だ。この自治州の北方のロシア領内には同じ民族が住む北オセチアがあり、民族的に分断されている。一方、グルジアは旧ソ連崩壊とともに独立した国だが、独立後には欧米への接近を強めているため、ロシアはそれを快く思っていない。特に、グルジアの現政権は“国家統一”のナショナリズムを掲げ、対ロシア軍事同盟であるNATO(北大西洋条約機構)に加盟する動きを示している。ロシアはこれに対し、南オセチア自治州への接近を図り、そこの住民にロシア国籍を与えるなど、政治的・軍事的な牽制を行っている。
 
 こういう複雑な事情のある中で、欧米諸国は“西側”への加盟を目指すグルジアを支援している。これはイデオロギー的親近感だけが理由ではなく、エネルギー問題が密接にからんでいる。本欄でも何回か書いたが、ロシアは旧ソ連から分離独立して“西寄り”に動いたウクライナ共和国に対して、石油の大幅値上げを行い、これに従わない同国に一時、石油の供給を止めた。が、ロシアからウクライナを通る石油のパイプラインは、その先がヨーロッパに続いているから、これによってドイツやフランスなどへの石油の供給にも不安が生じたのだった。エネルギーを政治目的に使うロシアの外交姿勢に不安を感じた西ヨーロッパ諸国は、ロシアの影響が少ないルートを確保する動きに出ているが、その1つがグルジア領内を通っている。これは、BTCパイプラインと呼ばれ、カスピ海のバクー沖から産出される原油を、グルジアのトビリシ経由でトルコの港・ジェイハンまで運ぶルートだ。これを主導するのが、イギリスのBPやアメリカのシェブロンなどの石油メジャーである。日本の伊藤忠商事や国際石油開発も、このルートに権益をもっている。
 
 このように見てくると、最初に描いたブッシュ大統領とプーチン首相の会話が、普通の挨拶ではないことが分かるだろう。2人は「平和を望んでいる」ことはその通りかもしれないが、その「平和」とは、自国や同盟国の“国益”に反する場合には、犠牲になっていい種類の平和なのである。今回のロシアによる紛争拡大は、そのことを有力に示している。9日付の『日経』は、こう書いている--ロシア政権筋は「グルジア内の紛争状態を続けることがロシアの国益」と指摘。この数カ月間に分離派自治州への経済支援の強化と同時に、グルジア政府軍偵察機の撃墜や同国への領空侵犯などを繰り返していた。
 
 こうして、人口10万人の“小国”のナショナリズムは大国ロシアに見事に利用され、それに対して、グルジアのナショナリズムは自国統一のために“小国”攻撃に乗り出し、それに対して大国ロシアは戦線拡大を行って、西側諸国に揺さぶりをかけているのである。ロシアのこの“危険な賭け”も、かつて自国の“配下”だったウクライナやグルジアが西側へ動き、NATOが拡大する動きに対するナショナリズムだと見ることができる。すなわち、“往年の栄光の回復”である。だから、ナショナリズムを利用する国際政治は、戦争への危険を孕んでいることを忘れてはいけない。
 
 谷口 雅宣

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2008年8月 1日

古い記録 (2)

 前回見たように、昭和42(1967)年当時、私が入学した青山学院高等部ではいわゆる“左翼的”言論が普通に行われていたが、その出版部に私が何月に入部したかは、はっきり覚えていない。しかし、新学年は4月始まりで、5月までを“クラブ探し”の期間と考えれば、入部は5月中か6月からと推測していいだろう。その年の『高等部新聞』の7月20日号(第96号)には、文化祭に向けて、クラブ活動の紹介記事が掲載されているが、出版部については、「現在の出版部は1年生男子1名、2年生男子3名女子2名、3年生1名の計7名からなっていて」と書いてある。この「1年生男子」というのが、どうも私らしい。
 
 そう言える理由は、その号の新聞の第4面の編集スタッフとして「谷口(雅)」という文字が見えるだけでなく、その面の下2段通しで書籍広告が掲載されていて、スポンサーは日本教文社だからだ。書籍だけでなく『理想世界』と『理想世界ジュニア版』の月刊2誌の広告も載っている。入部後すぐにこんなことができたのは、恐らく部員が少なかったことと、部長が寛容だったか、もしくはいい加減だったのかもしれない。高校生だから、思想性などより紙面のバラエティや広告が採れることを優先したのかもしれない。

 その次に発行される9月23日号(第97号)では、もっと驚くべきことが起こる。第1面に7段組みで「日本国憲法をさぐる」という論説が掲載されるのだ。これが“左翼的”論説でないことは、書き出しの数行を読めばすぐ分かる--
 
「現行の日本国憲法は正しい憲法ではない。と言ったら、多くの人達は驚くことだろう。それは本当にそうなのである。その理由の一つは、現行憲法の制定の方法に非常な不正と矛盾があるからである。(後略)」

 論説はこれ以降、現憲法が大日本帝国憲法の「改正」という形で制定されたものの、外国軍の占領下であり、かつ改正範囲を逸脱した改正であったから正しくない……などという点を掲げて論陣を張るのである。入部したての一年生部員にすぐに「論説」を書かせるというのも驚きだが、その内容が従来とまったく正反対だというのには、もっと驚かされる。こんなところは、高校生の出す新聞ならではの“自由さ”(あるいはいい加減さ)が表れているのだろう。この号の第一面下には、日本教文社の3段半分の書籍広告が再び掲載されているが、本の題名には我々にとって馴染み深いものがある--
 
 谷口雅春著『青年の書』、同『第二 青年の書』、同『能力と健康の開発』、同『若人のための78章』、谷口清超著『生きる』、林房雄著『日本への直言』
 
 こうは書いたが、私が入部して以来、『高等部新聞』の論調が全く“逆立ち”してしまったわけではない。12月12日号(第99号)では「君のベトナム戦争に対する沈黙は人間的罪悪ではないか?」という大見出しの特集記事が載った。その次に出た2月22日号(第100号)では「70年闘争への展望」という“新左翼”まがいの論説が第2面に掲載されたかと思うと、第4面ではソ連の不正を糾弾する北方領土問題の記事や、国旗掲揚の意義を訴える記事が載っている。
 
 私は、この第100号に「建国記念日について」という論説を書いている。そのサワリの部分を再掲すれば--
 
「米国にしても1776年7月4日の独立宣言の日を“建国の日”としているが、これも単に時間的起源を意味するものではなく、国家誕生の精神、意義、内容を重視しているからである。日本の場合も同じで、たまたま日本の建国が太古の昔であるから何年何月何日と断言できないだけで、日本建国の精神という史実より重要なものは、古事記、日本書紀等の古典によって、厳然として今日に伝えられているのである。」
 
 こうして『青山学院高等部新聞』は記念すべき第100号に近づくにつれて、内容の分裂が際立っていく。それは同時に、私の母校の外で起こっている日本社会全体の国論の分裂と呼応していたことは、言うまでもない。
 
 谷口 雅宣

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2008年7月29日

宗教運動と環境保全

 地球環境保全を目指した取り組みについては、生長の家が日本で初めて国際評価基準であるISO14001の認証を取得したことは、本欄の読者なら旧聞に属することと思う。このことはまた、スイスのジュネーブに本部を置く国際標準化機構(International Isomag78_2008 Management Systems)が発行する機関誌『ISO Management Systems』の2002年1~2月号にも大きく取り上げられた。あれから6年たって、世界の主要な企業や団体がこの“環境ISO”を取得するのは当り前になってきたが、宗教団体の意識としてはまだそこまで達しない場合が多いようだ。ところが、このたび発行された同誌の今年7~8月号(=写真)によると、世界の宗教団体の中にも、環境意識を自分たちの“本業”に生かすために、ISO14001やISO9001(品質管理の基準)の認証を取得する動きが広がりつつあるという。
 
 同誌は、ドイツのミュンヘンにあるメディアデザイン応用科学大学のアレクサンダー・ムーチニク氏(Alexander Moutchnik)による国際記事として、8ページを割いて宗教団体のISO認定取得の動きを取り上げている。それによると、これらの認証取得は「教会や宗教団体にとって、信徒への説明責任を改善し、寄付を増やし、環境破壊を減らし、社会的責任を果たしていることを示す強力な道具」となりつつあるという。ムーチニク博士は、この動きには、①主な宗教のすべてが含まれ、②宗教団体のタイプは多種多様であり、③世界的な現象である、と3つの特徴を挙げている。
 
 具体例的には、ドイツでは2010年までに千以上の宗教団体に環境基準を導入させようとしていること、フィンランドでは2001年2月以来、100カ所以上のルター派教会が環境証書を得ていること、スコットランドでは2001年以来、130の教会のうち40の教会が「エコ教会賞」(Eco-Congregation Award)を獲得したこと、オーストリアでは農業森林保水省が設けた2007年の環境マネージメント賞を、宗教団体として初めてセントバージル成人教育センターが受賞したことなどだ。この中に日本の例として、生長の家が2007年までに全国の66の事業所でISO14001を取得し、さらに世界の主要3国(ブラジル、アメリカ、台湾)での認証取得に向けて運動を進めていることが書かれているのである。また、これ以外では、ブラジルのユダヤ教系病院、ブルネイのイスラミック・センター、マレーシアのヒンズー教寺院、フィリピンのカトリック系大学、アメリカのカトリック系病院が紹介されている。
 
「宗教運動がなぜ環境重視なのか?」--最近は、日本の宗教団体も環境保全に取り組む動きがあるものの、この疑問は生長の家が環境保全への取り組みを始めた当初は内外にあった。この記事でもそれを短く取り上げているが、説明の仕方は、いかにも国際機関らしい。それによると、宗教団体は、経済活動の参加者として相当大きいからだという。世界の11の主な宗教が抱える信者数は、世界人口の85%にもなり、機関投資家としては3番目に大きいという。だから、これだけの人々と資金とが、環境保全や効率的運営を目的として動けば、地球環境や世界経済に大きな影響が及ぶというわけだ。

 また、上にも触れたが、信者に対する「説明責任(accountability)」や教団運営の「透明性」が記事では重視されている。これはつまり、生長の家を含めた多くの宗教団体は信徒からの献金や寄付によって成り立っているからで、信徒の立場からすれば、自分の献金や寄付が何のために、どのように使われるかがよく分かる場合と、分からない場合とでは、信頼度、帰属意識、信徒としての動機づけなどの面で、大きな違いが出てくるからだ。簡単に言えば、自分の献金する団体が、ムダなく効率よく運営されており、その活動が環境に害を与えていないと分かっている場合とそうでない場合では、団体の魅力が違ってくるのである。だから、環境保全への取り組みを真面目に進めていると認められることは、宗教団体にとっても大いに意味がある。時代の流れは、そのように変わりつつあるのである。

 谷口 雅宣

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2008年7月27日

コンビニの深夜規制に賛成する

 コンビニエンスストアの深夜営業を規制するかしないかが論議されている。私は、端的に言って規制賛成である。が、他の深夜営業業種とともに段階的に行うのは、どうだろうか。CO2の排出量という点では、コンビニ店の排出量は全体の割合ではわずかだそうだ。だが、全国にある約4万2千店を24時間回転させるための工場や運輸部門のCO2排出まで含めると、結構な割合になるのではないか。本来は、CO2の排出自体にコストを生じさせるための炭素税や環境税が望ましい。そうすれば、ある特定の業種だけが規制によって不利益を被るという不平等は避けられる。しかし、それができないのであれば、次善の策としては、どこからか排出削減を始めなければならないのだ。恐らくそれが理由で、夜中に煌々と電気をつけ通しているコンビニ店が“目立つ対象”として槍玉に挙げられているのだろう。

 25日付の『朝日新聞』が、この問題について“規制賛成派”と“規制反対派”の言い分を比較している。賛成派の角川大作・京都市長は、この規制によって「ライフスタイルの変更」を目指していると述べる--「『禁欲的な生活をしろ』というつもりはない。訴えたいのは、今までの『利便性や利益を最大化しよう』という方向性が本当に幸せだったのかということ。昼よく働き、夜もよく遊ぶが、深夜には帰って寝るという暮らしが、ワーク・ライフ・バランス(仕事と生活の調和)の観点からも望ましい。行政がコンビニを『規制』するという理解は違う。京都市では、市民参加の議論を経て、深夜営業の『自粛』を呼びかけていく」。

 これに対し、反対派の諸富徹・京大大学院准教授は、「温室効果ガスを抑える有効性で見ても、社会経済的コストがどの程度かかるかという費用対効率性で見ても、疑問が多い」という。諸富氏は、業務部門全体のCO2排出量を下げる必要性は認めるが、「なぜコンビニだけ対象にするのか、説明がつかない」と言う。上記したような“目立つ対象”だからだとの説明に対しては、それは“象徴的環境政策”であり、「人々の耳目を引く政治的アピールでもある。深夜営業規制が意味を持つとすれば、業務部門全体の排出量に対する論議を巻き起こし、政策に前進をもたらす場合のみだ」と言う。同氏は、ライフスタイルの変更が必要との見方には反対しないが、「市民の行動の自由や多様なライフスタイルと両立できる政策でないと、結局は社会に受け入れられず、効果を発揮しない」と述べる。
 
 これを読むと、“規制賛成派”は「便利さ優先からワーク・ライフ・バランスへ」との生活スタイルの変更を目指しているのに対し、“規制反対派”は「そういう規制は現代人の生き方の多様性と両立しない」と考えているようである。また、この記事には、コンビニチェーンの本部ではなく、末端の加盟店サイドの意見も載せている。それによると、午前1~5時の売り上げは1日の5%しかなく、深夜に店を開けている精神的負担が大きいから、「せめて数時間、安心して眠れる時間がほしい」との意見もあるらしい。さらに、約1千店の加盟店でつくる全国FC加盟店協会は、この6月に声明を出し、24時間営業を一律に強いる現在の契約方式を改めるよう求めたという。
 
 また同記事によると、2005年に内閣府が行った世論調査では、深夜営業の必要性を問う質問に対して、「必要」は57%で「不要」は35%だった。3年後の現在、この割合がどれほど変わっているかは分からない。また、「深夜営業」はコンビニだけではないから、この数字をそのままコンビニ規制の適否の議論には使えない。しかし、コンビニ支持者が多いことは事実で、『日経』の26日夕刊にも読者からの賛否両論が掲げられている。それによると、“規制反対論”にはコンビニの「防犯と利便性」を挙げるもの、「生活の一部である」ことや「雇用を創出」すること、また「行政は営業時間に口をはさむな」との意見もある。“規制賛成論”には、コンビニは「便利さ以上に従業員が大変」「用もないのに子供が群れる」「地方都市では過当競争」「規制は一律でなく、臨機応変に」との意見がある。

 私の“段階的規制論”を述べよう。私は東京都心のファッション街・原宿の真ん中にいる。が、これまでコンビニは何度も利用しているが「深夜利用」はしたことがない。深夜は寝ることにしているからだ。それでも、若者は深夜に利用するかもしれないが、その理由は「必要だから」ではなく「他に行くところがないから」だと思う。原宿の街は、昔から夜には店が閉まることになっているから、本当に行くところがないのだ。ところが、コンビニだけが開いていて電気を煌々とつけているので、そこへ渋谷や新宿から流れて来た若者が惹かれて行く面が多い。今年の正月には、妻の故郷である伊勢の田舎町へ行った。そこには片道2車線の通りに沿って、互いにさほど遠くない位置に、コンビニが2店建っていた。が、夜暗くなって近くを歩いたら、中にいるのは若者が1人か2人で、雑誌を立ち読みしているだけだ。これは午後8時前のことだから、深夜になれば利用者はもっと減るだろう。だいたい、この地方には若者の絶対数が少ないのである。それでも24時間電気をつけて営業をしなければならない、というのは不合理である。
 
 日本は今後、人口減少の中でますます都会と地方の人口差や経済格差が広がる。それを無視して、全国一律で24時間営業をしなければならないというのは、経営的に考えても合理的とは言えない。ましてや、CO2の排出削減が喫緊の課題である中で、「ごく例外的に利用される時間帯にも、昼間と同じ電力を使う」という経済不合理性が許されるのは不思議である。「炭素税」や「環境税」を導入しないのならば、全国FC加盟店協会の求めるように、都会と田舎の需要の違いに合わせてサービスを供給することから始め、しだいに「深夜は静かに眠る」領域を拡大していき、都会での規制も“盛り場周辺”を除いて、徐々に進めていくのがいいのではないだろうか。「便利であれば何でもいい」という考え方は地球温暖化時代には通用しない、と私は思う。

 谷口 雅宣

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2008年7月26日

イチローからの手紙

 米大リーグ、シアトル・マリナーズのイチロー選手が、日米通算で3千安打することが待ち望まれているが、23日はレッドソックス戦で1安打して残り「5安打」としたものの、25日のブルージェイズ戦では5打数無安打で足踏みしている。“大記録”の前では、やはり緊張してしまうということなのか。私は特にイチローのファンということではないが、野球の本場・アメリカで現地チームをリードする役を引き受けてきた彼を見ると、同国の“51番目の州”のような外交政策を伝統とする国に住んでいても、「まぁ、いいか……」という気がするのである。彼個人としては、インタビューに答えて「妻は今ごろ、味噌汁をつくっています」と言ったり、「ぼくは何でもできますから」などと発言したことが気になるが、これまでの本業での功績を考えれば、これも「まぁ、いいか……」と思ってしまう。

 そんな最近、「宗教界のイチロー」を自任する人から手書きのお手紙をもらった。この人には、仕事で7月の半ばにお世話になったので、お礼の手紙を絵封筒に入れて送った。それに対する返事である。届いた封筒を見て驚いたのは、ご自分の顔写真が切手として貼ってある。近頃、郵便切手にユーザーが撮った写真を刷り込むサービスがあるとは知っていたが、実物を見るのは初めてであり、しかも自分の写真を使うという発想には恐れ入った。背広姿にベレー帽を被り、薄く色のついた眼鏡がストロボの光を反射している。ふと、「ぼくは何でもできますから」というイチローの言葉が脳裏を過ぎった。
 
Efuto080717  手紙の内容もふるっていた。私はこの人に用意していただいたのと同じデザインのペットボトル入り飲料水を絵封筒に描いた(=画像参照)。それを見たご本人の感想が書いてある--
 
「実を申しますと最初、住所が左側に記載されていたり、切手が右下に貼ってあるし、裏を返すと差出人の住所が無いので“ハハーン、これはキット時々ある無記名投書に違いない、後日ゆっくり”とばかり、一旦は文箱に入れかけたのですが、虫の知らせというか“以前確か見た事のある絵封筒だな”と気付き開封して仰天しました。私の中の忠実な腹の虫に功労賞デス。」

 絵封筒には、どこに住所や宛名を書き、切手を貼るかなどという堅苦しいルールはない。私も今回、もっぱらデザイン上の都合からそれらの位置を決めた。郵便番号を書かなくていいし、差出人の名前を書かなくても配達してくれる。ただし、配達の過程で機械的処理が一切できないから、通常の郵便より時間がかかって相手に届く。この絵封筒の場合、東京都内を移動しただけであるが、ポストへの投函から配達まで約1週間かかったようだ。

 この人の手紙は、最後に次のように結んでいる--
 
「話しは変わりますが、仰せの如く、今後もシアトルのライバルに負けない様に頑張ります。彼の打率は三割ちょっとですので、私は四割を目指します。
  平成二十年七月二十一日
          宗教界のイチローこと ■■イチロー」

 ご本人のプライバシーを守るため、一部“伏せ字”にしているが、「仰せの如く」という意味は、私が手紙で「シアトルのライバルに負けないように」と書いたことを指す。要所で確実にヒットを打ち、チームの勝利に貢献することを期待したのだが、イチロー選手の場合、チームが弱くても個人記録を伸ばす傾向がないとも言えない。宗教界のイチローさんがどちらを目指しているのか聞いていないが、私の意図は十分ご承知に違いない。

 谷口 雅宣

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2008年7月 1日

“郊外型”は廃れる?

 前回の本欄では、「原油の高騰」「高齢化」「人口減少」などが、地方都市の中心街に再び活気を呼びもどす契機になるなどと書いた。“予言”のつもりではなく、半ば期待を込めて地方の再起を促したかった。事情もよく知らないのに勝手なことを書くなと言われそうだが、私の期待には、まったく根拠がないわけではない。というのは、アメリカでは、郊外の住宅を売って都市にもどる傾向が生まれているらしいからだ。
 
 6月26日の『ヘラルド・トリビューン』紙によると、彼の国では、ガソリンを含む燃料代の高騰が都市郊外の生活をしだいに困難にしつつあるというのだ。コロラド州デンバーの郊外に家をもつある夫婦は、デンバー市南部の仕事場まで車で1時間の通勤をしていたが、ガソリンが1リットル当り1ドルを超えたころから、ディーゼル車の小型トラックに毎月121ドル(約1万3千円)の燃料代が必要になった。また、スペースの大きい郊外型住宅を暖めるにも燃料代がかかり、3月は566ドル(約6万円)を支払ったという。この暖房費は5年前の2倍だ。そして、今は市内に移住することを真面目に考えているそうだ。
 
 こうして、アメリカで半世紀前に始まった都市から郊外への移住の動きが、止まりつつあるという。アトランタ、フィラデルフィア、サンフランシスコ、ミネアポリスなどの大都市では、都市圏を超えた郊外の住宅の値段は、都市内のそれより値下がり幅が大きくなっている。ある経済学者の最近の調査では、シカゴ、ロサンゼルス、ピッツバーグ、ポートランド、タンパでも、同様の傾向が見られる。これには様々な理由があるだろうが、その中でも大きなものは、燃料費の高騰だと経済学者や不動産業者は考えているという。今年の3月、アメリカ人が自動車で走った距離は、1年前に比べて180万Km(4.3%)少なかったらしい。だから、多くの地方自治体は、大都市の中心街に焦点を合わせて再開発を進めつつあるという。
 
 日本とアメリカの事情は、もちろん同じではない。日本はアメリカよりも公共交通機関が発達しており、自動車の燃費は良好である。しかし、アメリカは人口増加が問題なく続いているのに対し、日本は人口減少の時代に入った。しかも高齢化が進んでいる。ということは、地方都市の郊外は、住環境としてアメリカより有利であるとは思えないのである。郊外型の立地を得意とする大手スーパーなどは、車を運転しない高齢者の客を誘致するために無料バスを運行しているところもあるが、燃料代の値上がりが続けば、それとていつまでもつか分からない。アメリカほど急激でないとしても、郊外型の大型店舗はいずれ日本の地方都市から撤退するのではないだろうか、と再び期待を込めて予測するのである。
 
 が、別の予測もしてみよう。それは、日本かアメリカが、あるいは双方の国で政権が交代し、化石燃料に頼らない自然エネルギーを主体とした低炭素社会へと急旋回した場合である。化石燃料の値段は下がるだろうが、それは需要が減るからだ。その時、郊外型の大規模小売店舗がどうなっているか、私には今、残念ながら想像できない。

 谷口 雅宣

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2008年6月26日

生長の家は温暖化抑制に努めている

 地球温暖化抑制のための対策として、京都議定書で定められた温室効果ガスの排出権取引があることは、本欄の読者ならばすでに十分ご承知のことだろう。これについては本欄で何回も取り上げ、必ずしも諸手を挙げて賛成はしていないものの、その一部については、実質的な温室効果ガス排出削減の効果があると認めてきた。洞爺湖サミットの開催を直前に控えて、政府内部でも排出権取引の方針が煮詰まりつつあるようだ。ただし、あくまでも企業の「自発的な参加」を原則とするうえ、「自主的削減目標」しか設定しないようであり、効果はきわめて限定的だ。6月25日付の『朝日新聞』などが伝えている。私は、東京都が25日に可決した環境確保条例改正案のように、一定規模以上の企業に温室効果ガスの削減を「義務化」するのでなければ、実質的な効果はあまり望めないと思う。

 22日に富山市で行われた生長の家講習会では、参加者の質問の中に生長の家の環境問題への取り組みが不十分ではないかと、疑問を呈する内容のものがあって、私は驚いた。それは62歳の自営業の男性からのもので、こういう内容である--
 
<「生長の家」の信仰を多くの人々に知ってもらうには、マスコミ等による宣伝が少ないと思います。又CO2の削減のアピールも少ないと思います。今のままでは少しもの足りないと思います。>

 そこで私は、生長の家が日本の宗教界では最初に、環境経営の国際基準である「ISO14001」を取得したことや、今年の1月には韓国のフロンガス工場から排出される強力な温室効果ガスの排出削減に貢献して排出権を獲得したこと、また、現在は“炭素ゼロ”運動を強力に推進していることなどを話して、この質問者の誤解を解こうとしたのだった。そんな中で、本欄の読者、濱田貴博さんから、1月10日の本欄へのコメントの形で、生長の家の排出権取得を評価する文章が、最近発刊されたビジネス書に書かれていることを教えていただいた。うれしいニュースである。この本は、北村慶著『排出権取引とは何か--知っておきたい二酸化炭素市場の仕組み』(PHPビジネス新書)で、初版発行日は今年の7月2日(!)であるから、まさに出来たてホヤホヤである。
 
 この本の25ページには、こうある--
 
<日本で初めて「排出権」を信託方式により小口化した三菱UFJ信託銀行の「排出権信託」を購入した先には、企業だけではなく、「生長の家」という宗教法人もあります。「生長の家」は、信者数200万を超える日本を代表する宗教団体です。>

 このあと、生長の家の公式サイトに発表された文章を一部引用してから、さらにこう書いてある--

<「排出権」については、温室効果ガスを排出できる権利--すなわち、地球を汚す権利--と捉えると、環境問題に真摯に取り組んでこられた人々や団体から、環境問題をカネで解決するものではないか、という疑義を受けやすいという側面があります。
 しかし、私たちが生活し、活動していく以上、それが個人の活動であれ、企業活動であれ、宗教活動であれ、温室効果ガスは発生してしまいます。
 その意味で、「生長の家」のように、地球環境への負荷を軽減する自助努力をまず行い、それを補う形で国連で認められた「排出権」を補完的に用いるという考え方は、十分に受け入れられて然るべきものであると思われます。>
 
 私は著者の北村氏について何も知らないが、この書の略歴には、「慶応義塾大学卒、ペンシルベニア大学経営大学院留学。大手グローバル金融機関勤務。日本証券アナリスト協会検定会員、ファイナンシャル・プランナー1級技能士。日米欧で、投資ファンド、M&A仲介・コーポレートアドバイザリー業務、および環境関連のプロジェクト・ファイナンスや金融商品開発に携わる」とあるから、現役のファイナンシャル・プランナーなのだろう。これまで何冊も著書があり、北村氏自身のブログには「金融ビジネス書作家」との肩書きが使われている。

 排出権取引のことが分かりやすく書いてあるので、読者諸賢にも一読をお勧めする。
 
 谷口 雅宣

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2008年6月16日

“後ろの目”をどうする?

 だいぶ前の本欄で、私がアイポッドを使い出した話を書いた。正確に言えば、それは2006年12月27日の本欄で、「ながら族へ転向?」という題のものだ。しかし最近では、私はアイポッドをあまり使っていない。理由は、大きく分けて2つある。1つは、パソコンを換えたこと。もう1つは、やはり私は“ながら族”のライフスタイルに馴染めないからだ。

 アイポッドは、自分で使うパソコンの内容と“同期”させて使う。この意味は、パソコンの特定のフォルダー上にあるファイルと、アイポッド内のファイルとは正確に対応している必要がある、ということだ。これによって、パソコン上で加除されたファイルが自動的にアイポッド上にも反映される。私は当初、この機能は「使いやすい」と感じていた。ところが、パソコンを新しくすると、新しいパソコンに古いパソコンのファイルを全部複写しておかないと、アイポッド上のファイルが自動的に入れ替わってしまう。これは実に「使いにくい」のである。もう1つ不便なのは、妻がアイポッドをもらったので、その中に私のパソコンの音楽ファイルから選んで複写しようと考えたが、これが事実上不可能なのである。理由は、上に書いたように、PCとアイポッドは“同期”が原則だからだ。しかも、1つのアイポッドに対して同期できるのは、特定のパソコン1台きりだ。別のパソコンから好きなファイルだけ選んで複写することは、(不可能でないとしても)非常に面倒くさいのである。
 
 “ながら族”が好きになれない理由は、拙著『日時計主義とは何か?』か『太陽はいつも輝いている』を読んでくださった読者なら、簡単に想像がつくだろう。イヤフォンを両耳に挿して街を歩くことは、少なくともその時間帯は、“感覚優先”の世界を拒否することになるのだ。音楽を聴くことは“感覚優先”であることは事実だが、その代わり、聴いている音楽以外の音は耳から入りにくいから、外界で起こる出来事に対する“現実感”が大分薄らいでしまう。別の言い方をすれば、肉体のもつ五感のうち聴覚だけが別のものに向いているから、心の中で他の感覚との間で注意の奪い合いが起こるのである。そして、「考えごとをしながら街を歩いている」のと似た結果になる。つまり、「心ここに有らざる」状態だから、私の言う“感覚優先”の生き方とは全く異なるのである。空の青さ、風のさわやかさ、道端の花の美しさ、すれ違う人々の表情、新しい店飾り……などに、この状態では気がつくことができない。
 
 今日の『産経新聞』には、もっと危ない話も載っていた。それは、人間が歩行中などに普通に使っている“後ろの目”が、イヤフォンで音楽を聴いている人には使えない、という話だ。いわゆる“後ろの気配”を私たちが感じるのは、聴覚によるらしいが、イヤフォンから来る音を聴いている人には、それが感じられない。同じことは、携帯電話で話している人にも言える。意識が片耳から来る音に集中しているからだ。だから、道路を歩いていて突然、ケータイを耳に当てながら立ち止まる人がいて、私もぶつかりそうになったことがある。こういう人々は、歩道を猛スピードで走る自転車にぶつかる確率も、ぐんと増えるに違いない。さらに物騒なのは、さいたま市では、イヤフォンをして歩く女性ばかりを後ろから狙ったひったくり事件があり、今月4日に少年が逮捕されたという。さらに想像すれば、秋葉原での通り魔事件で刺された人のうち、イヤフォンで聴いていたり、ケータイを使っていた人の割合はどのくらいか、が気になる。
 
 日時計主義を標榜する私が、あまり暗い想像をしてはいけないが、“文明の利器”と言われるものも、使い方を間違えば不幸の原因になるのである。上記の通り魔事件の容疑者は、自分が“ケータイ中毒”であることを認めている。機械は「使うもの」であり、「使われるもの」ではないのである。
 
 谷口 雅宣

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2008年5月27日

権威と権威主義 (3)

 昨日の本欄で紹介したSASの見解に対して、アブ・エルファドル氏はイスラーム法の解釈としては間違っていることを、様々な角度から解き明かしている。
 
 まず全体的な問題として、SASの見解は、自分たちの考えが『ハディース』に示された神の意思そのままであるかのような印象を与えているが、これは厳に慎むべきことだという。イスラームの法解釈では、法学者が神の法について言及する場合は、厳密かつ慎重に、そしてもっと真剣な自己への問いかけが義務づけられるという。ある事象に対して、それが神の法に従っているか否かの判断は、その事象に対して肯定的か否定的かを問わず、存在するあらゆる記述を調べ、相互の軽重や矛盾を勘案したうえで結論を出さねばならないという。
 
 例えば、前回書いた「尊敬の念を表すために立ち上がる」ことについての『ハディース』の使い方だが、SASの見解では、これについて『ハディース』に記述があることによって、問題はすべて明確に解決するかのように書かれていた。しかし、本当は、そこから問題が始まるのだ、とエルファドル氏はいう。なぜなら、次の段階として、その引用箇所の権威と、目的について語らなければならないからだ。その後には、その教えによってモスレムにどういう義務が生じるか、また生じないか。生じる場合は、その義務の本質とは何か。また、その義務は、他の法的義務や原則に対して、どうバランスさせていくべきか……などが検討されねばならないという。
 
 煩雑さを避けるために、「人の前で立つ」ということだけに問題を絞ろう。エルファドル氏によると、「人の前で立つ」ことにも、状況によっていろいろの意味があるという。例えば、信仰や崇拝の意味でなく、社会的な儀礼やエチケットに従うための場合もあり、すべての場合で禁止されているわけではない。
 
 仮に『ハディース』のある箇所に、モハンマドが、自分に対して人が立ち上がることを禁じたという記述があったとしても、それには理由があり、「立つ」という肉体的行為そのものが問題なのではなく、その「理由」や「目的」の方が重要である。モハンマドは、自分が傲慢にならないために、あるいは神の前で慎む心を失いたくないために、そう命じたのかもしれない。その場合、立つことを禁じる目的は、個別・具体的であるから、どんな場合にも、どんな人に対しても適用されるべき法とは言えない。事実、『ハディース』の中には、モハンマドが自分の弟子に尊敬の念を示すために立ち上がったという記述があり、また、モハンマドの前で、弟子たちが互いに尊敬の念を表すために立ち上がったという記述もあり、その際、預言者は弟子たちにそれを禁じていないのである。
 
 このように、「人の前で立つ」ということだけに限って考えてみても、これだけ様々な場合があり、伝統的にはいろいろな評価が下されてきているのである。そのことに全く触れずに、「人の前で立つ=禁止行為」という単純な図式を描いてみせたSASの見解は、イスラーム法解釈としてはまったくお粗末なのである。さらに言えば、今回問題になったのは「人の前で立つ」ことではなく、「国歌の前で立つ」ことである。両者は同じでないのに、SASは同じに扱っている。また、「人の前で立つ」ことは対人関係に影響を与える行為であるが、今回の“事件”は対人関係の場で起こったのではなく、スポーツ・イベントの中で起こったことである。また、イスラーム国の内部で起こったのではなく、非イスラーム国(アメリカ)で起こったことだ。このような違いに全く触れずに、法解釈を行うことは間違いなのである。、
 
 また、エルファドル氏によると、預言者の言動にも法的拘束力を生む(legislative)ものとそうでないものとがあり、その2つを正しく分けることがイスラーム法の正当な解釈法だという。スンナ(イスラームの慣習)のうち法的拘束力を生じさせる意図がないとされるものは、例えばモハンマドの個人的な行動や医学、貿易、農業、戦争に関する専門的、技術的知識などである。また、預言者の独特の行状(例えば、妻を7人もったこと)も、一般人に対する法的拘束力は意図されていないという。

 『ハディース』とは、預言者とその弟子の言行録であるが、キリスト教の聖書にも『使徒行伝』がある。この書は28章に分かれ、私の持っている口語訳の聖書では、細かい活字の2段組みで50頁以上ある。が、『ハデーィス』はボリューム的には『使徒行伝』をはるかに凌駕する。『使徒行伝』どころか、旧約・新約を含めた聖書全体とほぼ同じか、それより大部の書である。ちなみに日本の口語訳の聖書は、旧約が1326頁、新約が409頁で合計1735頁あるが、『ハディース』は牧野信也訳、中公文庫のもので、約500頁の本が全部で6巻ある。この中に、モハンマドらがいろいろなTPOで、何を言って、何をしたかということが緻密、綿密に書かれているのである。だから、「人の前で立つ」ことについての記述も様々なものがある。にもかかわらず、SASは自分の解釈に都合のいいものだけを引用したと言わねばならない。
 
 谷口 雅宣 

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2008年5月26日

権威と権威主義 (2)

 前回、本題で書いた文章で行き着いた結論は、宗教上の教典解釈においては--とりわけ大部の書物として成立している教典の解釈においては--宗教上の権威を重視しなければならない一方、権威主義に陥らないように細心の注意が必要である、ということだった。ここでいう「細心の注意」とは、教典解釈には、解釈者の主観が入り込む危険性が常にあるから、そのことを十分意識して、できるだけ忠実に教典を解釈しなければならない、ということだった。が、その一方で、教典の文字通りの意味ばかりにこだわって、その教えが説かれた文脈を考えずに解釈すると、教えは硬直化し、応用範囲が狭まり、実用性が失われてしまう。それにもかかわらず、「教典にこう書いてあるのだからこれが正しい」と主張することは、権威主義へ堕落する道である、ということだった。

 前回取り上げた本の中で、イスラーム法学者のアブ・エルファドル氏は次のような実例を紹介している。1996年の3月、アメリカのプロフットボールリーグ(NFL)の試合前に国歌が演奏されていたとき、アフリカ系のフットボール選手、マハムード・アブドゥル・ラウフ氏(Mahmoud Abdul Rauf)は、起立して国歌を歌うことを拒否した。その理由は必ずしも明確でないものの、当時言われたのは、アメリカ合衆国の国歌はアフリカ系アメリカ人の抑圧と奴隷制度を体現しているから、それに対して尊敬の念を表して起立することはモスレムである自分の信条に反する、ということだったらしい。NFLは、ラウフ氏に出場停止措置をとったが、24時間後に、彼は態度を変えたという。
 
 エルファドル氏は、ラウフ氏のモスレムとしての帰趨についてではなく、この“事件”に反応して、アメリカのイスラーム組織の1つである「スンナ忠実協会」(Society for Adherence to the Sunnah, SAS)が出した見解を取り上げて、イスラーム法がどのようにして現実生活に適用されるべきかを論じている。その全容は、我々素人にはあまりにも複雑で、専門的で、細密な議論なので、本欄では紹介できない。しかし、ここから教典解釈法の大要だけを抽出して示すことができれば、イスラームを理解するためにも、また我々の聖典解釈に際しても有意義なことだと思う。

 エルファドル氏は、SASが出した見解は、その語調、記述スタイル、結論から見て事実上、イスラーム法におけるファトワ(fatwa)に当たる、と指摘している。つまり、これがアメリカでなく、イスラーム国であったならば、一種の“判決”が下されたことになるというのだ。そのファトワはまず、「崇拝(ibadah)」を定義して--崇拝とは、心による、舌による、手による行動で、神が喜ばれるすべてのもの、とする。そして、イスラームのスンナは、誰に対しても尊敬の念を表すために立ち上がることを禁じているとした。そして、そう判断する根拠として、2つの教えを『ハディース』から引用する--①モスレムにとって神の使徒(モハンマドのこと)より尊崇に値する人はいないにもかかわらず、モハンマドを見ても弟子たちは立ち上がらなかった。なぜなら、彼らはモハンマドがそれを嫌うと知っていたからだ。②モハンマドの弟子の1人が自分を見て立ち上がった人に対して、こう言った--かつて預言者(モハンマドのこと)が「自分の前で人が立ち上がるのを見て喜ぶ輩には、地獄が用意されている」と言ったのを、私は聞いた。
 
 さらにSASは、別の『ハディース』を引用し、預言者は誰に対しても尊敬の気持からお辞儀をすることを禁じているとした。そして、さらに次のような『ハディース』を引用した:
 
 モハンマドのある弟子が師のもとに来て、ひれ伏して言った--「シャムの人々は、僧侶に尊敬の念を示すためにひれ伏すのを見たことがあります。神の使徒はそんな僧侶よりもはるかに尊敬に値すると思います」。すると、預言者は答えた--「私がもし、誰かに対して相手が誰であれひれ伏すことを命じるとするならば、その妻に対して、夫にひれ伏せと命じたであろう」。

 これらの前例を引き合いに出し、SASはそれぞれの場合、「崇拝」と呼ぶほど強い意味のことは意図されていないとした。にもかかわらず、それを示すような動作をすることは禁じられている、とした。したがって、尊敬の念をもって立ち上がることは、イスラーム法によって明確に禁じられていないとしても、少なくとも非難の対象にはなる、とした。そして、SASは最後に、忠誠心や忠実さは、不信仰者に向けられてはならないとした。つまり、それは神に対してのみ向けられるべきものだから、不信仰者(とその国や国旗)に対するのは論外である、というわけだ。こうして、アメリカ国旗の前で、アメリカのモスレムが国歌斉唱のために立ち上がることはすべきでない、との判断が正当化されたのである。
 
 谷口 雅宣

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2008年5月17日

自動車減少の時代

 昨日(16日)付の『日本経済新聞』の第1面を見て、私は驚いた。題字横に「自動車保有 初の減少」という白抜き文字が目立っている。日本国内を走る車の台数が減り始めたというのだ。が、よく考えてみると、日本の人口が減少に転じたのだから、当然と言えば当然かもしれない。また、大都市への人口集中が進めば、そこでは自動車の代りの交通手段があるから、保有台数が減少しても不思議はない。それに加えて、昨今のガソリン代の高騰で、自動車を利用するためのコストが上がっている。理屈はそういうことなのだが、「自動車はどんどん増えるもの」という固定観念が強かったのだろう、見出しを何回も読むことになった。記事のリード文には、「3カ月連続の前年割れは自動車普及が加速し始めた1960年代前半以降初めて」とある。

 記事から実際の数字を示せば、排気量660cc以下の軽自動車、二輪車を合わせた全国の自動車保有台数は、今年の2月末の時点で7943万台となり、前年同期比で0.2%減少したという。前年同期比での減少は、昨年12月末、今年1月末に続き3カ月の連続で、戦後初らしい。『日経』は、経済新聞らしく、これによって国内の自動車産業だけでなく、「年25兆円を超す幅広い関連産業」にも影響が生じるとしている。が、私はプラス面を見る--①大気汚染の減少、②温室効果ガスの排出減、③交通事故の減少、④道路政策の見直し--などにつながるのではないか。4番目の点は、記事でも特に指摘されていて、現在の道路整備中期計画の前提は“交通量のピークは2020年”として策定されたものだから、そのままの前提で道路建設を進めることが難しくなるだろう。これは、環境保全のためにはプラスの要素である。
 
 しかし、CO2排出量という点から見れば、日本国内を走る車の台数が減っても、中国やインドなどで車が増えれば、人口の多さから見て排出削減にはならないだろう。また、石油の値段が下がれば、自動車の利用を始める人も出るだろうから、排出削減になるかどうか分らない。こういう言い方をすると怒る人がいるかもしれないが、私は石油の値段が下がらないことを願っている。なぜなら、石油が現在のような高値にあるがゆえに、代替エネルギーを使う技術開発が諸方面で進行しつつあるからである。
 
 15日の『ヘラルド・トリビューン』紙は今、世界各地で自転車ブームが起きていることを伝えている。それによると、台湾の自転車メーカー「ジャイアント(Giant)」は昨年、550万台の自転車を生産したが、今年はそれより1割増を予測しているという。自転車は、環境にいいだけでなく、運動不足の解消のための手軽なスポーツとして、先進国で人気が出ている。これは、EU諸国の環境政策とも関係がある。自動車の代りに自転車の利用が奨励されていて、パリやバルセロナには貸し自転車の制度がある。だから、最大の生産地は中国本土であり、それを買うのは主としてヨーロッパ諸国ということになる。世界の自転車生産は約1億台で、そのうち7300万台が中国で造られ、うち7割がEU諸国へ輸出されるらしい。このブームには、ガソリン価格の上昇が一役買っていることは言うまでもない。
 
 日本でも自転車の利用は盛んだが、放置自転車の問題や、最近では歩道での無謀運転から来る交通事故も増えていることは、ご存じの通りである。市民・行政ともどもにいろいろの工夫をし、制度を整え、マナーを守って、手軽で安全で、そしてクリーンな交通手段として、減少する自動車の代りに育てていきたいと思う。
 
 谷口 雅宣

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2008年5月13日

楽曲『生命の栄え』

 今日は突然、ブラジルから電子メールが届いた。ダニエル・リンドーソ(Daniel Lindoso)という人からで、生長の家の青年会員らしい。英語のメールだったので内容を大体理解できたが、先方も英語は使い慣れていないようで、意味が一部不明である。が、分かった範囲で内容を要約すると--「アマゾナスの青年会では昨年、初めて歌を作って、(ポルトガル語のほか)英語、スペイン語版のものも正式にCD化する考えです。ところが、日本語版がなぜか作られなかったのです。だから、私はこの曲を先生に贈ります。喜んでもらえれば幸いです」というものだ。
 
 メールに添付されたファイルを開くと音楽が流れてきた。私はポ語の歌が聞こえてくるのかと思っていたが、意外にも日本語の歌だった。そこで歌詞を聴いて書き取ったものを、次に掲げる--

*1
 われわれは ほんの一瞬だけ
 ここに過ごしてる
 この大地には 魂があり
 子孫に残すべき
*2
 世界はわが家だ 自然も公園も
 すべてがわれわれだ
 リサイクルをして クリーンな地球を
 みんなで築きましょう。

 (*1と*2を繰り返す)

*3
 川がかればむ 大気が叫ぶ
 世界のこうきゅう
 地球を動かす
 大自然を愛してるよ
 その魅力に引かれるよ
 人生に目覚めよう
 愛の世界では命こそ大切

 (*1を繰り返す)

 (*3を繰り返す)
 命こそ大切 命こそ大切

 問題が2カ所残った。それは、上記の歌詞で「かればむ」と「こうきゅう」と書いてある所だ。私には意味が取れなかった言葉で、聞こえた通りに平仮名で表記している。この歌詞には、このほかにもいくつか不自然な表現が見られるから、恐らく日本語が母国語でない人の作詞だろう。そこで、私は勝手に次のような歌詞に変えてみたのである。原作の意図にできるだけ沿うように心がけた。また、原題は『命こそ大切』というものだったが、私は『生命(いのち)の栄え』とした。この方が、日本語として自然だと思うからである。

--------------------------------------
 『生命の栄え』
*1
 私たちは ほんの一瞬
 地球で生きている
 生命(いのち)溢れる この地球を
 子らに伝えよう
*2
 地球はわが家(や)だ 自然も公園も
 すべては一体だ
 不要なものが ない生き方を
 ともに築きましょう。
*3
 川が涸れていく 風は叫ぶ
 私たちの心が 地球を動かす
 大自然はわがすみか
 その懐に抱かれ
 使命に目覚めよう
 神の御心は 命の栄え
---------------------------------------
 歌を送ってくれたリンドーソ氏には、上の“翻訳”を提案してみようと思うが、読者からのフィードバックもいただけたら幸甚である。日本語の歌詞入りのオリジナルの楽曲を下に掲げる。
 
 谷口 雅宣

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2008年5月11日

庄野潤三氏の日記

 生長の家の出版・広報部の人が興味あることを教えてくれた。作家の庄野潤三氏が日時計日記をつけている可能性が大きい、というのである。とはいっても、生長の家が出版物として『日時計日記』を発刊したのは2007年版からで、庄野氏の芥川賞受賞はそれより半世紀も前のことだ。だから、もしこの可能性が事実だとしても、我々よりもこの大作家の方が“大先輩”ということになる。で、その可能性を有力に示しているのが、2002年11月にマガジンハウスから発行された『ku:nel』(くうねる)のインタビュー記事だというのである。
 
 私は、『太陽はいつも輝いている』(生長の家刊)の中で庄野氏の小説を取り上げて「小説版の日時計日記」と形容し、そこには「日時計主義と共通する“人間の本性への信頼と讃美”が貫かれている」と書いた。が、庄野氏がもし日時計日記のような「よいことばかり書く日記」をつけていたとしたならば、氏の作品の比類のない質の秘密を知ったような気がして、うれしくなった。

 そこで問題のインタビュー記事だが……インタビューアーの女性が、庄野氏の書斎の机の上に何冊も重ねてある日記のことを、こう書いている。

「毎朝、この部屋に入るといちばんに、前の日のできごとを詳細につける。……そして、日記を開き、それを見ながら原稿にしていく。たいてい、ほぼそのままが原稿になる」。

 さらに、こうある--

「この日記には、嫌なことは書かない。うれしいことだけを取り上げる。だからこそ、小説には“おいしい”“ありがとう”という感謝の言葉が並ぶ」。

 このあと、庄野氏自身の言葉が次のように続く--

「人間が生きていく以上、不愉快なことにも必ず出会うわけですけど、それを大きく取り上げない。それを無視したいという気持ちがあるわけですね。それから、人間は必ず死ぬものですけれど、死ぬってことも考えちゃいけないと、自分に言い聞かせているんですよ。自分が死んだら、家族はどうなるだろうかとか、お葬式はどうかなんてことはね、考えないようにしてる。ありがとうと言えるような事柄が、毎日起こることだけを期待しているわけですね。」(同誌、pp.84-85)

 この「ありがとう」という言葉が、形式ではなく、心から出ることの難しさは、私が『ぱすわあど』でも取り上げた通りである。庄野氏も、そのことにインタビューで触れている。
 
「“ありがとう”というのは、年月の積み重ねでできあがったものです。実生活の経験がまだ少ない人たちは、どんなふうに読むのかなぁと、ちょっと見当がつかないんですけれども。だけど、ぼくは難しいことを書いているわけじゃないから、ぼくが“ありがとう”と言えば、“ほんとに庄野さんはありがとうと思ってるんだろうな”と。それは通じているかもしれません」(同誌、p.85)

 人生の暗黒面を見ないという点については、庄野氏は9・11後の11月に行われた作家の江國香織さんとの対談で、次のように言っている--
 
江國--(前略)さっき炭疽菌の話がでましたが、今、世界ではテロが起きたり、狂牛病騒ぎがあったり、親が子供を殺してしまったりと、陰惨な事件がひっきりなしにあって、新聞やテレビの報道を追っていると、どうしてもそういったことに目が行きがちですが、庄野さんのお書きになるものを読むと、じつはそういうことは本質ではない、大切なことはもっと別な身近なところにあると教えられます。僭越ですが、御自分にとって大切なことと、そうでないことをきっちり分けていらっしゃいますね。

庄野--それはありますね。炭疽菌とかテロとか、そういうことはあっても見ないのです。自分とはかかわりがない。自分に大事なのは、脂身をつつきにくるシジュウカラだという、そういう気持があります。

 これだけの会話では、庄野氏が人生の暗黒面を「見ない」という意味が、「臭いものに蓋」式のことか、それとももっと深い理由があるのかは分からない。が、私は、氏の作品群について「小説版の日時計日記」と書いたことは、それほど間違っていなかったと知り、安心したのである。

谷口 雅宣

【参考文献】
○庄野潤三著『孫の結婚式』(講談社、2002年)

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2008年5月 9日

電子本『ぱすわあど』を登録

 4月下旬に本欄で連載した童話「ぱすわあど」のスタンドアローン版を作ったので、ここに登録する。IBM互換パソコン専用なので、マックでは動作しない。本のページの上で左右のマウス・クリックをすると、ページをめくるというだけの簡単なものである。プログラム・ファイルをできるだけ小さくしたかったので、最小限の機能にした。使ったソフトは「Neobook」というアメリカ製のオーサリング・ソフトである。興味のある読者は、電子本を使ってみて感想を聞かせてください。(下のリンクでマウスを右クリックすればいい)

電子本『ぱすわあど』をダウンロード
 
 谷口 雅宣

追伸:『ぱすわあど』のβ版をVersion 1.0 にアップグレードし、本のページをめくる音をしこみました。ファイルのサイズはほとんど変わっていません。(5月10日記)

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2008年5月 5日

白い飛沫

 5月1~3日に行われた生長の家の4組織の全国大会で、私は22秒間のごく短い動画を披露した。それは、私たちが“左脳”を使った意味優先のものの見方をするときと、“右脳”による感覚優先のものの見方をするときとで、同じものがどれほど違って見えるかを示すためだった。多忙な現代社会では、多くの人々が前者のものの見方を偏重する傾向があるから、後者のものの見方を取り戻すことで、私たちの毎日の生活が、より豊かに、味わい深いものになる、という点を強調したかった。その際、昨年8月19日の本欄で最初に使ったカラスの糞の写真を加工して動画にし、それに音楽を被せた。この写真は、拙著『太陽はいつも輝いている』(生長の家刊)の127ページにも使われているから、多くの読者にはすでにお馴染みのものだ。大会の講話では、この動画が案外好評だったので、大会後に静かな場所で自由時間がもてたのを利用し、他の写真やナレーションを加えて補足したバージョンを制作した。題して「白い飛沫」である。
 
 谷口 雅宣

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2008年4月27日

ぱすわあど (7)

 ぼくのおばあちゃんは、ぱすわあどを思いだした。
 それは「ありがとう」ということばを、ばんごうにしたものだ。それはひみつのことばで、うまくつかえるとお金がもらえる。おかあさんは、「こどもは知らなくていいのよ」といったけど、ぼくは知りたい。おばあちゃんはアイスクリームをくれるといったけど、ぱすわあどもおしえてくれるかな、とぼくは思った。
 おばあちゃんは、ぼくをちかてつのえきのそばの、おみせにつれてってくれた。
 おばあちゃんは、めにゅうをぼくに見せて、
「なにがほしいの」ときいた。
 ぼくは、アイスクリームより大きくて、いちごとばななもはいってるフルーツパフェをゆびさした。おばあちゃんは、にこにこして「わかったよ」といってから、はなしだした。
 おばあちゃんは「ありがとう」をいうのをわすれてたから、ぱすわあどもわすれてしまった、といった。「ありがとう」はとてもかんたんなことばだけど、それを使うのをわすれる人がおおいんだって。なぜかというと、そんなかんたんなことばで、なにかがおこるとみんな思わないからだって。それから、じぶんがえらいとか、正しいとか思ってると、「ありがとう」をわすれてしまうんだって。そんなときは、ちがうことばをつかってなにかをしようと思うけど、いろいろむずかしくなるんだって。
 でも、これはみんなおとなのせかいのことで、ぼくみたいな子どもは、えらいとか正しいとか思わないから、「ありがとう」がすぐいえる。すると、いいことがかんたんにおこるんだって。
 ぼくは、おばあちゃんのいうことが半分ぐらいしかわからなかった。でも、さいごのところはよくわかった。ぼくがおばあちゃんに「ありがとう」っていったら、お金は出てこなかったけど、お金よりおいしいフルーツパフェが出てくるんだ。いまぼくは、じぶんが「えらい」とか「正しい」とか思ってない。だから、もしかしたら、ほんとのぱすわあどは、「ありがとう」のばんごうじゃなくて、「ありがとう」のことばなのかもしれない。
 そのとき、アイスクリームみたいなまん丸のかおのおねえさんがきて、たべきれないぐらい大きいフルーツパフェを、ぼくのまえにおいた。ぼくは大きなこえで、
「ありがとう!」といった。
 おばあちゃんは、大にこにこだし、いちごとばななもはいっている。
 すぷーんをにぎると、ぼくはばんごうのことをわすれてしまった。(完)
 
 谷口 雅宣

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2008年4月26日

ぱすわあど (6)

 ぼくのおばあちゃんは、ぱすわあどをわすれた。
 おばあちゃんとぼくは、それを見つけるために本やさんへ行った。そこで、