ドイツでの国際教修会について (5)
前回の本欄では、マルカス・フォクト氏の“人間中心主義”について若干の疑問を呈したが、私は彼の神学者としての立場を理解しないわけではない。神学者は、聖書の記述にもとづいて教義の解釈をしなければならないのは、当然だからだ。そして、『創世記』には確かに人間中心主義的な解釈ができる聖句がいくつも含まれている。また、生長の家でも「人間は神の自己実現である」と説いていて、我々人間が動植物とまったく同等の関係で「神の御徳を表現している」とは考えない。生長の家では、人間が他の生物に優れているのは「自由を許されている」という点で、それによって初めてこの世界に「善」を実現することが可能になる、と考える。なぜなら、自由意思のないロボットのような存在は、どのような行動をしても「善悪」の責任を問われることはないからだ。
ところで、フォクト氏が「ものの価値は人間によって創られる」と言ったとき、それはある意味では正しい。その「ある意味」とは、経済学における需要と供給の関係のように狭義で短期的な視点から離れて、生態学で扱われるような広域にわたり長期的な視点から評価した場合の価値である。私たちの日常生活の中でも、あるものをどちらの視点から見るかによって、その価値の評価は変わることがある。
簡単な例を挙げれば、レストランに入ったときのメニュー選びである。我々は一般に安くて、豪華で、良質なものを好むと思われるが、それを「空腹である」という個人的で、短期的な視点--空腹なのは自分であり、空腹の状態は短期的である--だけから見れば、高蛋白、高カロリーで見栄えがよく、比較的安価なメニューを選ぶ人が多いかもしれない。しかし、生長の家の教えを知っていて、地球温暖化や食糧問題に我々の食生活が大いに関係していることを学んでいる人は、より広く、長期的な視点から自分の食生活を考えるだろうから、多少ボリュームは少なくても、肉食を避け、野菜や海産物を主体としたメニューを選ぶようになる。その場合、メニューの中では比較的値段の高いものを選ぶことも十分ありえるだろう。
こういう例などは、社会が決めた価値と個人の決めた価値とが食い違う場合で、個人が自由意思を行使したのである。そして、高蛋白で肉主体のボリュームのあるメニューは捨てられ、それより値段は高くても、地球環境や世界の食糧供給に害の少ないメニューが選ばれた。だから、ものの価値は人間によって決まるというキリスト教の価値論は当たっている。が、この場合、このレストランでの、この個人の選択が、社会全体の価値観を変えたとは言えない。一個人の一回の食事の選択だけでは、社会全体の価値観は変わらない。では、同じ1つのメニューに対して“複数の価値”があると考えるべきだろうか。となると、その同じメニューを選択する人の数は事実上“無数”だと考えられるから、世界には無数の価値がバラバラに存在するということか。しかし、そう考えてしまうと、世の中で起こるあらゆる出来事の価値は相対的だということになり、「善悪」を評価すること自体が無意味になってくるる。そして、法律や倫理・道徳、宗教の存在価値はなくなってしまう。
だから、神学者が「ものの価値は人間によって創られる」と言うときは、人それぞれがバラバラの価値基準をもっているという意味ではなく、人間には共通する価値基準があり、それがものの“本当の”価値を決めるという意味でなければならない。我々が使っている例にしたがって言えば、安価でボリュームたっぷりのハンバーグ定食を選ぶ人(Aさん)にも、高価だがより低カロリーで、野菜も比較的多いカツオのたたき定食を選ぶ人(Bさん)も、この人類共通の価値基準にしたがって行動したのではないが、食品をめぐる知識をより多く得て、さらに地球環境や食糧・人口問題などの知識も豊富に得たうえで、倫理的判断をせよと言われたならば、AさんもBさんも同様な--本当の--判断をする、ということではないだろうか。これは、実際に今そうなるという話ではなく、そうなる可能性が将来予見できるという話である。つまり、現実には存在していないが、条件が整えばそのようになるはずだという想定された状況である。
こうなってくると、「ものの価値は人間によって創られる」というのと「ものの(本当の)価値は神によって与えられている」というのと、内容的には違いがなくなってくるのである。とりわけ、人間を“神の似姿”としてとらえるキリスト教においては、そうならざるを得ないのではないかと私は思う。
谷口 雅宣