2011年7月22日

フェースブックへどうぞ……

 妻のブログに、本欄の読者から私の安否を心配するコメントがあった。2週間もブログを更新していないので、健康上の問題が発生したか……と気遣ってくださったようだ。しかし、妻も書いているように、私はすこぶる元気です。ただし、ここ数日の激しい気温の変化も影響して、ややカゼ気味というのが正直なところだ。ブログを更新していない理由は、ドイツとイギリスでの行事の準備に奔走し、余裕を失っているからである。
 
 これまで本欄では、できるだけきちんとしたメッセージを書きたいと思っていたので、“軽い話題”や“つぶやき”の類いは書くのを避けていた。そして、そういうものは専らフェースブックの私のファンページに書いてきた。だから、私の動静に興味がある方はフェースブックに登録して、ファンページの「いいね」欄(日本語モードの場合)または「Like」(英語モードの場合)欄をクリックしてもらいたい。すると、“ファン”の一人となって、私のつぶやきやスナップ写真などが見れるし、コメントも書き込める。

 私は26日に日本を発つが、海外へ出た際も、フェースブックの方が気軽に書き込めるので、たぶん本欄ではなく、そちらへの書き込みが多くなると思う。フェースブックは、自分のメールアドレスとパスワードを登録すれば誰でもメンバーになれるし、世界中の人々との交流ができるから、本欄の読者にもお勧めする。私のページは、いちおう英語で書くことになっているが、ポ語の人、スペイン語の人、そして日本語の人もいる。国際色豊かなので、居ながらにして海外旅行の気分が味わえる。

 それでは、フェースブックでお会いしましょう……。
 (新規登録の方は「こちら」へ)
 
 谷口 雅宣

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2011年5月13日

太陽光で生活する

 本欄で書き次いでいる「太陽光でパソコンを使う」というシリーズをアップグレードする時期に来たようだ。というのは、通常のパソコン使用だけならば、太陽光のみをエネルギー源とする試みは今のところ成功しているからだ。

 読者の参考のために、この「通常使用」の様子についてまとめてみるーー

 私は朝6時半ごろから、自宅の太陽光発電装置を“自立モード”に切り替えて、自分のノートパソコンに充電する。通常の使用では、私のパソコンのリチウムイオン電池の残量は半分ほど残っている。それに朝から“太陽充電”すると、曇りの日でも約2時間でフルチャージされる。この際、補助機として使っているアイポッドタッチや通信端末(EMobile D25HW)の電池の残量が少ない場合、それらも同時に充電する。こうしてパソコン関連の機器をすべて“満タン”にして仕事場へ行く。

 仕事場では、パソコンをACアダプターにつながずに電池だけで使用し、使っていない時には、小まめに休眠モードにするか、シャットダウンする。私のパソコンでの仕事の大半は文章書きだが、雑誌やブログ用の書き下ろしの原稿は、下書きをパソコンでやらずに原稿用紙に書く。また、紙に書いている原稿が、文の挿入や削除、訂正等で読みにくくなってきたときは、それを機会にアイポッドやポメラでの入力(電子化)を始める。もちろん締め切りが迫っている時は、パソコンに入力することになるだろう。その方が、早く仕上がるからだ。また、講話やスピーチの録音から起こした書き下ろしでない文章は、たいてい編集部からメールで届くから、これもパソコン上で仕上げることになる。

 補助機の電源が乾電池の場合は、予め交換用に必要な数をそろえておき、前に本欄で紹介したソーラー充電器で昼間充電しておく。また、仕上げた原稿の印刷はできるだけ避け、職場の電力使用量も減らしたい。

 こんなパソコンの使い方で、私はここ数週間、自分のパソコンを太陽光エネルギーだけで動かしてきた。しかし、これではまだ“炭素ゼロ”で文章を書いているとは言えない。なぜなら、パソコンは太陽光で動いていても、そのパソコンを置いたデスクや、参考書を拡げたテーブルなどは、電燈によって照らされているからだ。これらの電力も太陽から得ようと考えると結局、自分の生活全般で電力を太陽光から得なければ、という話になる。

Led_lightstand  これは流石に簡単でない。しかし、全部の“炭素ゼロ化”ではなく、一部を太陽光に置き換えるのならば、そんなに難しくない。ということで、LEDの電気スタンドというのを買った。また、わが家の白熱電球はほとんど省エネタイプの電球(電球形蛍光管)に変わっているが、さらに電力消費量の少ないLED電球に替えようと思い、とりあえず1個を買った。前者は「Twinbird」というブランドのLED Desk Light(LE-H615)という製品であり、後者はパナソニックの「エバーレッズ」シリーズのLED電球(LDA7D-G)である。電気スタンドは、渋谷駅東口のビックカメラで“売り上げ第1位”となっていたもの。LED電球は、5月12日付の『日本経済新聞』で東芝の「ライテック」シリーズと共に“人気商品”として評価されていたものだ。値段は、前者が約1万円、後者は約3,500円だ。
 
Led_lightbulve  LED電球は高価に見えるが、電力消費量は普通の白熱電球の6分の1で、寿命は約40倍と言われているから、計算すると白熱電球より安価である。また、LEDの電気スタンドは通常の電球で「40W」ぐらいの明るさで消費電力が少ない。ということは、“太陽充電”したバッテリーを使って夜間使用すれば、結構長く使えるのではないか。これらの方法で、どれだけ“炭素ゼロ”に近づけるか楽しみである。

谷口 雅宣

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2010年8月30日

日本の地方は衰えない

 昨日は滝川市のたきかわ文化センターで生長の家講習会が行われ、前回を129人(6.5%)上回る2,125人の受講者が各地から参集してくださった。会場は、後部の座席がせり上がっていく大きな“階段教室”といった雰囲気で、演壇上の私は、真正面を見ながら話ができるという稀な機会を得た。稀ついでにもう一つ言えば、午前中の妻の講話の最中に、会場から「ワン、ワン」という声が響いたのには驚いた。受講者の1人が、膝の上に愛犬を載せて参加していたのである。その後、イヌの声は聞こえなくなったが、私の講習会経験で初めての出来事だった。講話に対する質問も10個と、この規模の講習会では多く出たのはよかった。ただし、1人で4つの質問を書いた人の分も含む。また、「質問ではありません」という注釈付きで、次のような感想をよこしてくださった千歳市の70代の女性の言葉が印象に残った--
 
「平成の時代となり22年間、この間、平成の子供達は成長し、その世代に合った年齢の方々がこの教えに関心を持ち始めている様に思います。日本が平和でも、テレビ等、あらゆる面で世界の戦争が見える時代。今こそ若い世代に教えを伝える責任があると思う。」

 空知地方は、例にたがわず高齢化と過疎化が進み、人口の減少が続いているが、その中で、このような気骨ある多くの先輩信徒・幹部の皆さんが、今回も熱心に講習会を推進してくださったおかげで、前回を上回る数の受講者が来てくださったのだと思う。この場を借りて、皆さんに心から感謝申し上げます。
 
Bookshelf  ところで、ここに掲げた写真は、滝川の町を妻と散策している時に、商店の中を窓の外から撮影したものだ。なかなか立派な本棚があるのを見つけて、思わずシャッターを押した。よく見ていただくと分かるが、この本棚と中に並んだ本は本物ではなく、ミニチュアである。8月13日の本欄でご披露した私のミニチュア本棚より、数段すぐれている。「やはりプロの仕事は違う」と思った。こういう感覚とウデをもつ人々がこの地に残っているということは、私に希望を与えてくれた。そう言えば、宿泊したホテルのことでも、妻と笑顔で合意したことがある。それは、毎回利用するこのホテルが、年を経るとともに外観だけでなく室内の設備も古びてきているのが寂しかったのだが、今回は違った。1階にあるレストランが新しくなっていて、東京の渋谷や原宿近辺でもザラにはないような美味で、上品なイタリア料理を出してくれた。しかも、値段は半額ほどだ。北海道ならではの地元の新鮮な食材が使われていたこともあるが、やはりそれを使う料理人が優れているからだ。

 こういう体験をしてみると、私は「日本の地方が衰える」というのは、一種の“ニセ伝説”ではないかと思う。伝説を信じる者はそれに縛られるが、信じずに自分のベストを尽くし、人々の求めるものを与えられる者は成長し、繁栄するに違いない。

 谷口 雅宣

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2010年8月27日

“マルチタスク”はほどほどに

 6月15日の本欄で「情報の質」について書いたとき、情報機器を駆使していわゆる“マルチタスク”をする人の問題点に触れた。その1つは、情報刺激によるドーパミン系の活性化が起こることで一種の「中毒症状」を起こす危険性があることだった。この中毒症状とは具体的にどんなものか、詳細は分からない。が、想像するところ、新しい情報を求めて次から次へとネットサーフィンをするうちに、気がついたら1時間たっていて……などというものだろうか。この程度だったら、あまり実害はなさそうにも思える。ところが、そういう“中毒”は、気がつない形で我々を疲労に追い込んでいるということになると、大いに実害があることになる。
 
 26日の『インターナショナル・ヘラルド・トリビューン』に載った記事は、「疲労」だけでなく「記憶の阻害」も起こるらしいことを伝えているから、マルチタスクのお好きな読者は注意した方がいいだろう。それによると、トレーニング中に音楽を聴いたり、ビデオを見たりするなど、休む間もなくデジタル情報で脳を刺激している人は、“何もしていない時間”の脳の働きを阻害するというのだ。妙な表現を使ったが、今“何もしていない”と書いたが、その時間は、我々の意識が「何もしていない」と感じているだけで、脳自体はこの時間に「学習」や「記憶」を行い、さらには新しい「発想」に向けて活動しているらしい。
 
 カリフォルニア大学サンフランシスコ校で行ったネズミを使った実験では、知らない場所へ行くなどの新しい経験をさせると、脳内に新しいパターンの活動が生まれるが、それが記憶につながるためには、その経験から一度離れて休息をする必要があるという。これと同じことが人間にも言える可能性が高い。同大学のローレン・フランク氏(Loren Frank)は、「暇な時間というものは、脳が過去の経験を復習して、確かな形に整理し、長期記憶の中に焼き付ける時間だとほぼ確実に言える」という。だから、ひきりなしに脳を刺激するだけでは、学習の妨げになるのである。また、ミシガン大学での研究では、自然の中を散策した後と、混雑した街中を歩いた後とでは、学習の結果にかなりの違いが出ることがわかっている。もちろん、前者の方が結果がいいということだ。街中は広告や信号、自動車のクラクション、音楽、人々の会話などで満ちているから、一種のマルチタスクになるということだろう。
 
 こういう話を聞いてみると、我々が一見ボーッとして、何もしていないような時間が、実は脳にとっては大切な情報整理と記憶の時間だということが分かる。
 
 もう1つ、マルチタスクの危険を思わせる記事が、同じ日の同じ新聞に載っていた。それは、イヤフォンから聴く音楽との関連を強く思わせるものだ。簡単に言えば、アメリカのティーンエージャーの5人に1人が、聴力に衰えがあるという話だ。10年前の調査では、この率は7人に1人だったというから、変化は大きい。アメリカ医学協会の紀要の最新号に発表された研究で、12歳から19歳までの若者1,771人を2005~06年に調べた記録と、1988~94年の調査データを比べたものだ。研究者は、これらの若者が特定の騒音源と関係しているかどうかを突き止めることはできなかったというが、若者からは、「騒音があったとしても自分には聞こえないはずだ。なぜなら、いつも大きな音で音楽を聴いているから」という答えがしばしば返ってきたという。
 
 谷口 雅宣

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2010年8月13日

木で工作をする

 このところ“左脳”を酷使して文章を書いてきたと感じたので、“右脳”の活動に専念することにした。妻がブログで書いているように、私たちは今、夏休みをとって山梨県大泉町の山荘に来ている。標高1200mの高地なので雲か霧かよく分からないが、昨日から周囲は曇天続きで、時々雨が降る。妻が原稿書きに専念しているあいだ、私は木工をした。山荘ができて9年ほどになるが、建てた当時に使い残した木材をいくつか取っておいたので、それを見ていると何か作りたくなったのだ。それに、7月23日の本欄に書いたように、山荘のロフトに自家製の本棚を取り付けたあとの木材も、まだ残っていた。今回山荘に来た際、その本棚に入れる蔵書の一部を運んできたが、そういう本たちを眺めているうちに、急にミニチュア本と本棚を作りたいという気持になった。

 まず、本棚作りから始めた。といってもミニチュアだから、横幅が12cm、奥行き6cmほどの代物である。それにあくまでもオモチャだから、棚が何段もある必要はないと思った。材料を必要な大きさに切るところは比較的やさしい。案外大変なのは、切り出した各部品がピッタリと隙間なく接合するように、ヤスリがけをする作業だった。釘を使わずにボンドで貼り合わせるつもりだったから、部品間に隙間があると接着力が弱くなる。まっすぐの平面同士を接合させる必要がある。また、部品の要所要所はきちんと「直角」が出ていなければ美しくない。そのための作業をしていると、以前から気づいていた人工物のもつ不思議さを、改めて感じた。
 
 それは、人間の造るものには「四角」とか「直角」とか「平面」が多いということである。これに対し、自然界に存在するものの中には、四角や直角や平面は少ない。というよりは、純粋な四角や直角、平面は存在しないと言っていいだろう。針葉樹の多くは天に向かって垂直に立っているように見えるが、近くへ寄って調べてみると、人間が建てるビルのように垂直ではなく、若干の“揺らぎ”があるものである。また、自然の石に「箱」のように四角いものはない。石や岩だけでなく、90度の角をもった体の一部を有する動物や植物を、私は知らない。「四角い雲」などもちろんなく、雪や塩や砂糖の結晶で「四角」のものも見たことはない。もちろん、水晶などの宝石類は“四角い結晶”のように見えることがあるが、それは人間が原石を削って四角く細工するのである。大平原や砂漠地帯などは、自然がつくった平面のように見えるが、それは遠くから見るからで、近くに寄ってよく見ると、それらの表面には多くの隆起があることが分かる。

 これに比べて、人造物・人工物は四角、直角、平面のオンパレードだ。切手、名刺、カード、ノート、本、スケッチブック、キャンバス、机、テレビ、窓、タンス、額縁、冷蔵庫、黒板、看板、プラカード、畳、障子、ボックスカー、家屋、ビル、駅のホーム、桟橋、田んぼ、街の区画……。これらは、基本的にすべて「四角」「直角」「平面」で構成されている。だから、木工をする際も、私は人類の一員として、人類の基本的性向に即して行うほかはない--そんなことを考えながら、本棚を作り、次に本の製作にかかった。ミニチュア本は、作った本Minibooks 棚にきちんと納まるサイズに木材を切ればいい。簡単な作業だが、これだけではつまらないので、厚手の表紙の上製本ににせて、背面に緩いカーブをつけ、その反対面には緩い窪みをつけた。あとは塗装である。
 
 塗装には、本棚部分をオイル系で、本はトールペインティング用の水性塗料を使った。ミニチュア本は8冊作り、妻と私の著書の題名をラベルに書いて、それぞれに貼りつけた。仕上げに上からニスを塗ったが、本の題名が少し滲んでしまったのが残念だった。
 
 谷口 雅宣

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2010年7月23日

本棚を製作する

 水曜日の夜から山梨県・大泉町の山荘に来ている。今回は、小さめの段ボール箱に本を詰めて持って来て、それらを収納する本棚を作る予定だった。この山荘は約9年前、あくまでも“仮の住まい”として造ったものだから、本は最低限の数が収納できればいいと思い、造りつけの6段の本棚しか置いていなかった。ところがご存じのように、あと3年もすれば、私たちは仕事場ごとこちらに移転する。となると、東京の自宅にある大量の本も移動しなければならない。狭い山荘には、それらすべてを収納するスペースはもちろんない。が、一部でもいいから、収納できる場所を用意しておくべきだと考えたのだ。
 
 市販の本棚を入れる選択肢は、もちろんあった。しかし、外壁も内壁も、天井も階段も床も木でできた建物の中に、化粧合板の既成の本棚を入れても、周囲とマッチするかどうか疑わしかった。それに、本棚を置きたい場所がロフトのような所で、上方が切妻屋根に沿って傾斜していて、低い。そういう所に置ける本棚を見つけるのは難しいと思った。

 中央道の長坂インターを降りてすぐの所に、DIY店がある。昨日の午後、そこで棚板や捻じ込み式の棚ダボなどの材料を買い、製作を開始した。もう大分長い間、木工らしいことをしていない。2001年の8月5日の本欄に、当時飼っていたブンチョウのために小屋を造ったことを書いているが、たぶんそれ以来だ。だから、頭では「簡単にできる」と考えていたことが、実際に体を動かし、材料を正しく整形して組み立てるとなると、予想外にエネルギーと手間がかかることを思い知った。東京では、熱波のため気温が「35℃」になったというニュースを聞いたが、こちらも朝夕は涼しいものの、日中は東京に勝るとも劣らない高温になる。そんな中で汗をいっぱいかきながら、慣れない作業に没頭した。没頭しながら、金属で木材を加工するための、全身の大小の筋肉を使った作業が、パソコンで文章を書いたり、スケッチブックに絵を描くのとどれほど違うかを痛感した。そして「大工さんは偉い!」と思った。
 
Bookshelf  結局、昨日の夕方と今日の日中を使って、山荘のロフトに造りつけた横長の簡単な本棚を一応、完成させた。(=写真)「一応」と書いたのは、木材の色が白っぽすぎて、板壁の飴色から突出して見えるので、塗装したいと考えているからだ。また、この上にさらに2段分ぐらいの本棚があってもいいと思う。が、そういう作業は、別の機会に譲ることにした。
 
 谷口 雅宣

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2010年6月24日

ワイヤレス・キーボード

 妻もブログに書いているが、今日は休日を利用して渋谷のアップル・ストアーに買い物に行った。目指すものはワイヤレスのキーボードで、これを4月に買ったアイポッド・タッチの入力用に使うためである。4月12日の本欄にも書いたが、私はアップル社のこの携帯型多機能端末をパソコンの補助機として買い、使っている。2カ月あまり使ってみて、その小ささと軽さ、またパソコンとしての使いやすさ、そして軽快な使用感に満足していた。ところが、この機械の最大の難点は文字入力の困難さなのだ。あの小さな画面の下半分にキーボードの絵が出てきて、それに指先で触れることで文字を入力するのだが、画面に出るキーの大きさは指先のサイズより小さいから、打ち間違いが多く出て困るのである。このほかの入力方法もあるにはあるが、私のようにキーボードに慣れっこになっている人間には、それと違う入力方法を新しく覚える気にはなかなかなれない。すると、アイポッドで何かを書きたくても、最少限の言葉数でまとめることになり、ブログや原稿の下書きなどの長文はとても書けないのだった。

 ところが、アップル社の製品について知識が増えてくると、同社のパソコン用にはワイヤレスで使えるキーボードが用意されていて、それが近々アイポッドでも使えるようになるという。普通のパソコンのキーボードで、携帯型端末への入力が可能となるのである。本欄ではすでに触れたが、私は1年半ほど前に、文章作成だけのためにキングジムの「ポメラ」という小型の電子メモ機を購入した。この機械は、キーボードが折りたたみ式なので小型軽量であるだけでなく、スイッチオンから文章作成が可能になるのに、ものの数秒しかかからない。それが非常に便利で、私は出張の機内や会議の席上などで使ってきた。が、画面がモノクロで見にくいのと、作成した文章をパソコンに移す作業が新たに必要になるのが難点だった。アイポッドがキーボードで使えるようになれば、この問題は一挙に解決するのだった。それだけでなく、アイポッドには通信機能もあるから、出張などに重いノートパソコンを持って行く機会を減らすことができる可能性もあった。

Appkeyboard  というわけで、いろいろな期待を込めて、今日は初めてアップル用のキーボードを購入し、妻と待ち合わせたコーヒーショップの中で設定作業をした。その作業はいたって簡単で、あっけないほど少ない操作で完了した。そしてさっそく、明治通りを見下ろす窓辺で、このブログの文章の下書きとなった文章をサクサクと書き始めたのである。使用感はなかなかいい。「ああこれで、ポメラは使わなくなるなぁ…」と思うと一抹の寂しさが残る。しかし、「合理化のために買った機械なのだから、合理化するのが合理的だ」などと自分に言い聞かせている。

 谷口 雅宣

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2010年5月27日

バイキン・クッキー

 今日は休日を利用して、妻とのドライブがてらに冬仕様から夏仕様にタイヤを交換した。「今ごろ?」と言われるかもしれないが、時間がとれずにいたからだ。その帰りがけに、20年ほど前に住んでいた世田谷・駒沢の地へ寄った。地下鉄の駒沢大学駅から歩いて7分ぐらいの所にあったマンションに、3年住んでいた。すでに2人の息子がいたが、そこで長女が生まれた。マンションはもちろん風呂付きだったが、広い風呂の快適さを子供にも味わわせてあげようと、たまに近くの銭湯に連れていったものだ。銭湯から上がり、菓子店でアイスクリームを買って食べるのが最高だった。その銭湯も菓子店も今はもうなくなっていたが、「大菊」という蕎麦屋が残っていたので、そこで昼食をいただいた。妻は、そこの店員の顔を何となく憶えているというが、私は憶えていなかった。
 
 食後、蕎麦屋のすぐ脇を通る遊歩道を小泉公園の方角へ歩き、季節の花と緑を楽しんだ。この公園では昔もよく遊んだが、子供たちが走りまわるスペースが狭くなり、代りに年配の人が静かに休めるような空間ができていた。そして実際、そういう人々が2~3人休んでいた。もちろん、砂場やブランコ類の周辺には、若いお母さんと学齢前の子供もたくさんいた。「ドラえもんパン」のことを妻がブログに書いているが、それを製造していたパン屋の前で彼女を車から降ろし、私は道路脇で他の車の通過を気にしながら待っていた。そして、しばらくたって帰ってきた彼女から、目的のパンが入手できなかった話を聞き、代りに買ったアンパンマンとバイキンマンのクッキーを見せてもらった。Baikincookie
 
 私は、国道246号線を渋谷方向に走る車の中で、ハンドルを握りながら考えた。パン屋の店主の代替わりがあったに違いない。そんな関係で、「ドラえもん」のキャラクターを菓子パンに使うのをやめ、アンパンマンに乗り換えたのだろうか? 著作権使用料が関係しているのか。それとも、製造方法とコストの問題か? しかし、客の入りもよかったそうだから、“横丁のパン屋さん”として続いているのはうれしい。帰宅後、クッキーの1つを絵に描いた。
 
 谷口 雅宣

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2010年5月14日

本物とニセモノ

 私が再びアイポッドを使い出したことを4月12日の本欄に書いたが、音楽を聴くのにはあまり利用していない。というよりは、この機械には音楽をまだ1曲も入れていないのである。音楽を聴きながら何かをするという習慣がないからだ。だから、アイポッドやそれに類する携帯音楽プレーヤーの音楽が、実は昔のレコードやCDのそれより劣っている、などということは知らなかった。聴き比べる機会がなかったからだ。ただ、デジタル音源がアナログ音源に比べて繊細さに欠けるという話は、聞いたことがあった。これは、デジタルとアナログの違いからいって当然のことなのだが、相当“耳のいい人”にしか分からない程度の差だと理解していた。そして、CDで聴くのとアイポッドで聴くのとでは音質に違いがない、などと漠然と考えていた。
 
 ところが、そうではないと知った。現在、我々がアイポッドを含めた携帯音楽プレーヤーで聴く音楽は、“本当の音楽”ではないらしい。別の言葉で言えば、それらは劣化したニセモノであるし、中にはオリジナルの演奏から意識的に変えて作られているものもあるという。11日付の『ヘラルド朝日』紙が伝えている。それによると、この“劣化”の主な原因は、携帯音楽プレーヤーに収められた音楽ファイルが「圧縮」されているという点にある。その結果、それらの機械から再生される音楽は、割れたような感じの、より金属質で、薄まった音になるという。では、そんな音楽に満足しない人が文句を言って、もっと良質の録音をした媒体を要求するかと言えば、そういう現象はあまりないのだ。なぜか? その理由を記事はこう説明している--
 
「コンピューターやアイポッドに音楽を収録する容易さによって、1世代にわたるファンは、ダウンードの簡便さと持ち運びの便利さを取り、音楽の質と再現性を喜んで放棄した。このことが、より良質でより高価な音楽の聴き方を音楽産業が創造する努力の阻害要因となっている」。

 要するに、音楽は今、CDやアップル社の音楽サイト、その他のインターネット上のサイトから簡単にダウンロードできるので、その容易さと、携帯音楽プレーヤーの携帯性を重視したユーザーが、音楽の質を要求しなくなったというのである。これに伴い、音楽の聴き方にも大きな変化が起こったという。音楽は最早、「それ自身を聴く」ことはされずに、何か別のことをしながら「背後に流れる」BGMの役割しかしていないことが多い。私の言葉を使えば、音楽は「ながら族」の聞き方しかされていない。それが今の趨勢らしい。もちろん、この動きに異を唱える人々もいる。そういう人々は、約10年前に音楽CDより良質の「DVDオーディオ」とか「SACD」(Super Audio CD)の規格を作り出した。しかし、この努力は実っていない。両規格の音楽は、2003年にはアメリカで170万タイトルが売れたものの、2009年には20万タイトルにまで減ってしまった。
 
 携帯音楽プレーヤーから聞く音楽は、このように「劣化」しただけでなく「変質」もした。それは、イヤフォーンで聴く音楽とスピーカーで聴く音楽の違いにもよるらしい。イヤフォーンでは、繊細な音よりも「大きな音」が好まれるらしい。特に、ポピュラー音楽については、録音業者は音量を限界近くにまで上げて録音するようになったらしい。
 
 私は、こういう一連の動きを知ってみると、“文明の劣化”が起こっているような気がしてならない。変化がめまぐるしい現代社会では、人間の「注意」の期間も短くなる。ある事象Aが起った翌日に別の事象Bが起った、と伝えられると、Aはすぐに忘れ去られ、Bに注意が向けられる。これと同じ現象が、アーティストAとアーティストBの間にも起る。そういう“流行の先端”を追いかける人々は、1人のアーティストとじっくり付き合うことはない。簡便なダウンロードによって、劣化した音楽を早く入手し、次々とアーティストを変える。どうせBGMを聴くのだから、音楽の質は問題ではないのだ。ニセモノでも何でも構わないから、“流行の先端”にいるという実感さえあればいい。こんな動きがもしあるとしたら、私は、それは技術が文明を劣化しつつある現象だと思う。
 
 すでに与えられた数々の“神の恵み”をしっかり味わい、ホンモノに感謝する日時計主義とは、ずいぶん違う動きではないだろうか。

 谷口 雅宣

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2010年3月14日

名古屋で植物画を見る

 今日は暖かな好天のもと、名古屋市の日本ガイシスポーツプラザで生長の家講習会が行われ、1万2,140人という大勢の受講者が集まってくださった。会場は、昼前にはほぼいっぱいになったが、市内ではちょうどアジア大会の代表選考会を兼ねた名古屋国際女子マラソンが行われていたためか、午後からの参加者の足が鈍り、前回よりわずかに(-1.1%、135人)少なかった。しかし、会場は終日和やかな雰囲気で、話し手の立場から言わせていただけば、受講者からの反応もよく感じられる“手ごたえ”のある講習会だった。質問も用紙の数にして30枚ぐらいと多く出たが、時間の関係で3分の1ぐらいしか答えられなかった。講習会後に行われた同教区の幹部との懇談会では、活発な発言が続いたため、予定時間を10分も超過することになった。

 前日夕方、宿泊先のホテルに隣接した名古屋ボストン美術館で開催されている「永遠(とわ)に花咲く庭」という企画展を鑑賞する機会があった。これは17~19世紀のヨーロッパで発達した植物画の展覧会で、同時に進行していた印刷技術の進歩にともない、画家の技法が変化していくのがよく分かった。また、植物への興味がやがて植物学へと結びつき、科学的な興味にもとづいた写実的な細密画と、花器に活けられた豪華な花束を描く芸術的志向へと分化していく過程も示されていた。私が驚いたのは、初期の植物画の大きさと色彩の鮮やかさである。植物画の多くは書物の形で残されているが、その大きさは我々が使う事務机の半分以上のものだったりする。それは恐らく、木版や銅板で細密に植物を描こうとすると、実際の植物の大きさでは難しく、拡大せざるを得ないという事情があったからだと想像する。また、初期の植物画は単色刷りをした上に、手でていねいに彩色してある。その顔料に何が使われたか知らないが、数百年後の現代でも色褪せが少なく、当時の花の美しさを残してくれている。

Efuto031310  これらの植物画の中にツバキがあった。ツバキは、18世紀の初めに日本からヨーロッパに輸入されて人気を呼んだらしい。展覧会のカタログには、輸入後に「51点もの植物画に取り上げられ、19世紀の芸術と文学に幅広く描かれている」とある。この頃、日本は鎖国時代だから、わずかに海外とつながっていた長崎の出島あたりから、オランダ人を経由してヨーロッパに渡ったのだろう。赤、白、しぼりなどの大輪の花が豪華に描かれていたが、私の知らない形のものも少なくなかった。その絵を見て思ったのは、日本では、何輪ものツバキの花を1枚の絵に描く場合、1つぐらいは、花が形を崩さずに丸ごと落ちている様子--ツバキの特徴--を描くだろうということだ。が、そういう落花の絵は、西洋の植物画には見られなかった。

 ホテルにもどると、これらの植物画に刺激されてヒマワリの花を絵封筒に描いた。
 
 谷口 雅宣

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