2009年9月30日

「生命は不死」は危険な教え? (2)

 私は前回の本欄で、「神は悪を創りたまわず」という唯神実相論に立つ生長の家では、「生命は不死なり」という教えは自爆テロや現世軽視に結びつくことはない、と書いた。しかし、前回取り上げた質問者のように、「来世信仰は危険行為の原因になる」と考える人は案外多いようだ。私は最近、脳機能学者であり認知心理学者である苫米地(とまべち)英人氏の本を読んでいて、驚いたことがある。苫米地氏は、米カーネギーメロン大学で計算言語学の博士号を取り、様々な先進的な仕事に従事しているだけでなく、天台宗ハワイ別院の国際部長もしているから、宗教にも理解が深い人だと考えていた。ところが、オカルティズムや霊感商法を非難するのはいいのだが、「来世がある」という考え方自体を全面否定しているように思える記述があったのだ。そこを引用すると--
 
<私が昔からスピリチュアリズムを批判し、テレビに出演する占い師や霊能力者を厳しく糾弾してきたのは、彼らの言葉が荒唐無稽だというだけではなく、「害毒」を社会にもたらしていると考えるからです。
 彼らは「人間には来世がある」といったデタラメを世の中に撒き散らしました。それを信じた人々の一部が「現世を捨てても来世があるから」と、捨て鉢な犯罪を犯したり、自殺してしまったりといったことが現実に起きています。彼らの本を読んで「来世に行ってきます」といって自殺した人が現に何人もいるのです。
 日本ではここ10年以上連続で、毎年3万人という途方もない数の人たちがみずから命を絶っています。その原因の一つに「死んだら生まれ変わる」「来世は存在する」といったオカルト思想の蔓延があるように思います。>(『テレビは見てはいけない』、p.90)

 これでは、「人間の生命は不死である」と説くすべての宗教は、捨て鉢の犯罪や自殺を増やす原因である、と言っているようなものである。そして、「人間は輪廻転生する」と説く仏教やヒンズー教の教えも「デタラメ」ということにならないだろうか? それとも、最近の天台宗では、「人間の生は一回限り」と教えているのだろうか? また、毎週、生長の家講習会で「人間の生命は不死」と話している私は、社会に害毒を撒き散らしている“オカルト思想家”になってしまうのだろうか? 苫米地氏の見解を、ぜひ聞いてみたい。
 
 私の想像では、苫米地氏はここで、オカルティズムを批判したいあまりに、筆の勢いが余って英語でいう「qualification」を忘れてしまったのではないか。「qualification」とは日本語では「制限」とか「限定」とか「条件づけ」などと訳され、物事を注意深く考える人には欠かせない一種の“修飾語”である。しかし、「文脈から話者の真意を知れ」的な考え方が背後にある日本語では、これが省略されることがある。というよりは、「省略されることが多い」と言った方がいいかもしれない。例えば、「宗教は儲かる」と言えば、世の中には欲深い宗教家ばかりがいて、宗教活動にかかる収益が非課税であることを利用して暴利を貪っているかのような印象を受ける。しかし、実際には、檀家のために身銭をきって奉仕活動をしているため、ちっとも儲からない僧侶も(少ないかもしれないが)存在するだろうから、この言い方は正確とは言えず、正しい文章にするためには「制限」や「限定」が必要である。すなわち、「日本の宗教では、一般に収益率が企業より高い」ぐらいの表現の方が正確であり、妥当である。この場合の「日本の」とか「一般に」とか「企業より」などという言葉が「qualification」に当たる。

 私は、苫米地氏はアメリカで博士号を取った人だから、英語で話したり書いたりするときにはきっと「qualification」を忘れないのだろうが、日本語のときは、(多くの日本人がそうしているように)そんなものは省略してしまうのだと、ここでは解釈したいのである。
 
 谷口 雅宣
 
【参考文献】
○苫米地英人著『テレビは見てはいけない--脱・奴隷の生き方』(PHP新書、2009年)

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2009年9月20日

キノコの神さま

 その石像は、泰二たちの山荘の裏の、カラマツ林の中にあった。

 泰二はそれを「石像」と言わずに、「キノコの神さま」と呼んだ。仏像を「仏さま」と呼んだり、観音像を「観音さま」と呼ぶのが許されるのだから、実際には「神さま」そのものではなく、それを形に表したものを「神さま」と呼ぶことも許されると思った。だいいち「神さま」には一定の形がないのだから、それと似せた像を造ることは困難なのだ。にもかかわらず、人間は太古の昔から、数限りない神像や仏像を造ってきた。これは、目に見えないものを一つの形に固定し、代表させることで、自分たちの心に何がしかの安定を得るためなのだろう。

 それは、財布の中に、愛する人の写真を忍び込ませる心境にも似ている。愛する人は、いろいろな表情や仕草をして心の中に生きているのだが、そのうちの一つを「写真」として固定し、それに愛する人の全体を代表させるのだ。そうすると、その一枚の写真を媒介として、愛する人の全体と交流するような気持になれる。もっとも最近は、財布に替って携帯電話がそういう写真の保管場所にもなっているが、とにかく、多くの恰好や表情をする「Aさん」でも、一枚の写真で代表させることができるのだから、夥しい種類と数のキノコを、一体の「キノコの石像」に代表させることもできる。そして、その像を「キノコの神さま」と呼ぶのに何も不都合はない--泰二はそう思った。

 そのキノコの神さまを拝みに行こう、と彼はふと思ったのである。彼は特に信心深い人間ではなかったから、「拝む」というより「様子を見に行く」といった方が正確かもしれない。

 泰二がその石像を建てたのは、裏山と自分との関係を示す「形」がほしかったからだ。彼が「裏山」と呼ぶ場所は、地図上の位置では「一定の場所」だと言えるが、それ以外のことは、何も一定していなかった。四季の移ろいとともに植生は変わり、姿を表す動物や鳥の種類は変わり、出現するキノコの種類も変わった。同じ一本のカラマツでも、地図上の位置は変わらなくても、枝の高さは変わり、シカに皮をはがされた幹の傷痕の高さも変わった。こういう自然の営みは、まるで川の流れのようだ、と彼は思った。それを遠くから見ていると、揺れず動かず、安定した「一つの流れ」のように見える。しかし、近づいてよく見てみると、そこでは何ひとつとして一定のものはない。水の分子、土の粒子、プランクトン、小石、魚、虫の死骸……そこを通過するすべてのものが刻一刻と変わり続けている。それと同じことが、裏山でも起こっている。去年、おいしいタラノメを提供してくれたタラの木は伸びすぎて、もう先端に手が届かない。美しい木陰を作っていたアカシヤの低木は、シカに皮をむかれて枯れてしまった。その代り、花をつけなかったヤマボウシの木が、今年は花を咲かせ、今は赤い実をいっぱいつけている。春が来てまもなく、林の中の太いカラマツが一本倒れた。外見はとても頑丈に見えた木だったが、幹の根元に空洞ができていて、自分の重さを支え切れなかった。

 こうして、林の中の物事の違いを探せばきりがない。林の中のほとんどすべてのものが、これほど激しく変化していても、「林」と呼ばれる空間の全体は変わらないように見える。いや、人間には林全体を一望することはできないのだから、「見える」のではなく、「林」と呼ばれる空間の全体を、勝手に人間が変わらないと「考えている」にすぎないのだ。

 そういうことに気がついてから、泰二は何か一定の「形」あるものを裏山に建てて、その林全体を代表してもらい、自分の心中の一つの“拠り所”にしたいと考えるようになっていた。

 谷口 雅宣

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2009年8月24日

幸福の方程式 (3)

 前回の本欄に掲げた思考実験の意味を、読者には理解してもらえただろうか? 「分厚い米国産のビーフ・ステーキ」を3つの社会的文脈の中に置いた場合の、人間の幸福とは何かを考え、感じてもらおうというのである。それを再掲すると--

 ① インド・ムンバイの外資系ホテルのレストランで、現地の人におごってもらった。
 ② 北朝鮮政府の招待により、平壌の政府施設でご馳走になった。
 ③ 日本の友人宅に行ったとき、友人の手料理として出された。

 ①の状況下で米国産ビーフ・ステーキが出てくることが実際にあるかどうかは、今は問わない。が、仮に出てきたとすれば、「インド」という国名と「外資系ホテル」というのがキーワードである。インドは、ご存じの通りヒンズー教の国であり、そこでの「牛」は神聖な動物である。それを食することは一種のタブーである。にもかかわらず、「外資系ホテル」(つまり、ヒンズー教徒でない人が多く宿泊し、その客の嗜好に合わせた食事が出る可能性がある場所)ならば、ステーキが出ることがあるかもしれない、と私は考えた。が、仮にそうであっても、ホテル従業員の多くはヒンズー教徒であることが予想される。そういう人々の前で、そういう人々の感情を無視して、我々は本当に「ああ、今日は予想もしていなかったステーキをいただける。ああ有り難い。うれしい!」などと考えながら、幸福感を味わえるだろうか?
 
 ②の場合は、もっと複雑である。北朝鮮政府が日本人を食事に招くなどということは、通常はない。もしあるとしたら、元アメリカ大統領、ビル・クリントン氏が最近、彼の地で金将軍から大歓迎を受けたように、かなり高度な政治的な“手駒”としての利用価値がある、と判断されたからだと考えねばならない。また、現在の状況下では、日本政府は北朝鮮に核開発を断念させる目的で、六カ国協議の枠組みを外さないように注意して交渉している最中である。そんな中で、北朝鮮とは国交がなく、“仮想敵国”とさえ見られているアメリカで生産された牛肉を、北朝鮮が日本人に提供すること自体が奇妙である。これはもしかしたら、北朝鮮側の「我々は日本人の知らないところで、すでにアメリカと直接交渉をして牛肉を入手している」というメッセージかもしれない。そういうものを目の前にして、「ああ、今日は予想もしていなかったステーキをいただける。ああ有り難い。うれしい!」などと手放しで喜び、幸福感を得る日本人がいたとしたならば、そういう人は帰国後、「オメデタイ」を通り越して「アホカ!」と言われるかもしれない。
 
 さて、最後に残った③の場合は、どうだろうか。この状況は、我々には充分ありえるものだから、読者も思考実験をしやすいに違いない。各人の自由な想像にもとづいて「自分だったらどう感じるか」を考えていただけばいいのである。で、私はどうするかと自問してみると、やはりここでも「ああ、今日は予想もしていなかったステーキをいただける。ああ有り難い。うれしい!」という幸福感に包まれることはできない。それよりも、この友人に対して自分が「肉を食べない」ということを知らせなかったことを後悔するだろう。その上で、友人の好意を無にしないために、あえて肉を食べるかどうかを判断しなければなるまい。この場合は、私とその友人との関係がどういう性質であるかによって選択が変わるだろう。いずれにしても苦渋の決断になるような気がする。それを幸福感に昇華させることができるかどうか、今の私には何とも言えない。状況があくまでも「仮想」であるからだ。

 が、理論的に言えば、「お気持は大変ありがたい」と感謝し、しかし「肉は食べません」と言ってその理由をきちんと説明する、という選択肢はあるだろう。また、その逆に、ステーキをいただいてから、「実は、こういう理由で普通肉食はしません」と説明する選択も、あるかもしれない。それを「H=T」の幸福と呼ぶことができるかどうかは、むずかしい。多分、(思考実験の中ではなく)実際の状況においてのみ判断ができると思う。

 結局、私がここで言いたいことは、人間の心に生まれる“幸福感”なるものは、社会的文脈なしには考えられないということである。言い換えれば、人間は、自分個人が客観的にどんなに“幸福な状態”にあるように見えても、その状態が、他人や他の生物の犠牲のもとに成り立っていると感じられる場合は、幸福感は得られないのではないか。これが、人間に与えられた「自他一体感」の意味だろう。そういう感性に優れている人が追求する幸福と、そうでない人のそれとは、相当異なることが予想できるのである。
 
 谷口 雅宣

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2009年8月23日

幸福の方程式 (2)

 私が「H=R-E」の方程式に引っかかった理由は、もう一つある。それは、6月10日付の『ヘラルド・トリビューン』紙に載った別の幸福論を読んでいたからである。それについては、6月14日の本欄ですでに触れているので詳述しないが、簡単に言うと「幸福とは、我々の環境条件にあるのではなく、そこから何を得るかにある」という主旨だ。元国際ジャーナリストのピコ・ライヤー氏(Pico Lyer)が書いていたもので、「幸福は、それを追求しないときに最も自然に現れ」、「自分の望みを必要に合わせることでやってくる」(Happiness comes from matching your wants to your needs.)という内容だった。前回紹介したエリック・ワイナー氏の幸福論と似てはいるが、同一ではない。
 
 ワイナー氏の「H=R-E」という考え方は、「期待すると失望するから、期待しないでいよう」というのだから、物事に対して一種“憶病”であり、消極的だ。目の前で起こる出来事から身を離して、「できるだけ関わりにならなければ、ケガも少ない」と、電車の中の酔っ払いに対するような、「触らぬ神に祟りなし」の態度である。が、ライヤー氏の得た幸福は、物理的、環境的には“不足”の状態に置かれていても、「そこから得られるもの、否、そこからしか得られないものの中にもある」というのだから、環境に対して人間が働きかける積極性、能動性が感じられる。私は、しかしもう一歩突っ込んだ幸福論を提案したかった。

 そのためには、「幸福はどこから来るか?」という根源的問題に答えねばならない。この問いに対しては、ワイナー氏もライヤー氏も同じ答えのように思われる。それは「個人の心」から来るという答えだ。ワイナー氏は「期待しない」という個人の心が、その“反動”として「期待以上の」幸福を生み出すと考える。一方、ライヤー氏は、必要以上に「望まない」「求めない」ことで、目の前の物事の中に幸福を見出す。だから、これらは「個人の心」の中で完結した幸福論と言える。が、これでは、個人と個人をつなぐ「社会」や、社会と社会の間の「国際」問題について、何も語れないのではないか。

 例えば、我々日本人が、世界的には“豊かな生活”といえる中で、米国産のビーフステーキを目の前にして、「H=R-E」の方程式を援用すれば、こんな幸福感(私の幸福感ではないが)を得るのだろうか--
 
「ああ、今日は予想もしていなかったステーキをいただける。ああ有り難い。うれしい!」

 これに対して、ライヤー氏の幸福論では、こんな反応になるのだろうか--
 
「おっ、今日は望んでもいなかったステーキをいただける。国産牛よりは身は固いというが、その代り、悪玉コレステロールは少ないに違いない。それに、こんな値段で分厚い肉が食べられるなんて、実に有り難いことだ!」

 しかし、これら2つの幸福感には、人間として何かが欠けているように私は思う。それは“他者”との関わりである。この場合の“他者”とは、必ずしも「他の人間」だけではなく、「他の生物」とそれを含む「自然」や「環境」も含まれる。人間の中の幸福感は、それを感じる個人の内部で完結するものではなく、その人を含む“他者”との関係において得られるものであるはずだ。それを知るためには、次の思考実験をしてみるといい。つまり、自分が上の架空的人物になり代り、次のような状況下で、部厚いステーキを目の前にしていると想像してほしい--
 
 ① インド・ムンバイの外資系ホテルのレストランで、現地の人におごってもらった。
 ② 北朝鮮政府の招待により、平壌の政府施設でご馳走になった。
 ③ 日本の友人宅に行ったとき、友人の手料理として出された。

 この思考実験をすれば、①~③にある“他者との関係”に応じて、心の中に起こる反応は皆、違ってくると思うのだが……。読者はどうお考えか?
 
 谷口 雅宣

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2009年8月22日

幸福の方程式

 本欄にこんな題をつけると、今回の総選挙に急遽、大量の候補者を出して臨んでいる特定の宗教政党のことを思い出す人がいるかもしれない。が、「幸福」とは基本的に心の中の問題だから、私は政治で簡単に幸福が実現できるとは思っていない。私がこれから書こうとしているのは、8月にブラジルで開催された生長の家ブラジル全国大会での私の講話についてである。ここで私は、実は“幸福の方程式”なるものを提案した。それは、こういうものである:
 
 F = V (Felicidade igual Verdadeira Imagem)
 
 これは、ポルトガル語による表記だから、英語を使えばこうなる:

 H = R (Happiness equals Reality.)
 
 この場合の「Reality」とは「現実」ではなく、生長の家で説く「実相」のことだ。英語圏では、この言葉を「True Image」とも訳しているので、上の方程式は、
 
 H = T (Happiness equals True Image.)
 
 と書き直すこともできる。
 
 この方程式は、「実相が幸福である」とか「幸福は実相から来る」とか「幸福は実相の反映である」という意味である。だから、日本語で方程式を書くとすれば、さしずめ
 
 幸福 = 実相
 
 となる。
 
 私がなぜ、海外での講演で、こんな見慣れない方程式を持ち出したかというと、海外読者の多いニューヨークタイムズ紙の国際版『インターナショナル・ヘラルド・トリビューン』に、これとは違う“方程式”が提案されていたからだ。否、もっと正確に言うと、「方程式」自体ではなく、方程式に表せるような単純化された幸福の定義が掲げられていたからだ。私はそれに異議を唱えるとともに、「生長の家が幸福について何か語るとしたらどうなるか」をブラジルの信徒の方々にお伝えしておきたかった。
 
 私が異議を唱えた記事は、今年7月22日付の上掲紙にあるエリック・ワイナー氏(Eric Weiner)による「Happiness is low expectations」(幸福は期待を下げること)という論説記事である。この題を見ればわかるように、ワイナー氏のポイントは明確で、「現実を見るのに、期待をもたずにすれば幸福が来る」ということだ。ワイナー氏がこの結論に達した理由として挙げているのは、数々の国際調査の結果、デンマーク人が世界で一番幸福だと考えられることだ。もっと詳しく言うと、各国の対象者に幸福であるか否かについて聴き取り調査を行うと、デンマーク人の3分の2が、「人生にとても満足している」と答えるのだそうだ。それも、最近の傾向ではなく、ここ30年間というもの、ずっとこの傾向が続いているという。その原因についてワイナー氏は、「デンマーク人は物事にあまり期待しない性格だから」と分析している。つまり、「期待せずに現実を生きれば、幸福感を味わえる」ということだ。この考え方は、次のような方程式で表現できるだろう:

 H = R - E
 (Happiness equals reality minus expectation)
 
 私はこの記事を読んで、「?」と思ったのである。これは「幸福」の定義というには単純すぎないか。また、「幸福」の定義というよりは、「諦め」とか「無頓着」(indifference)の定義ではないか、とも思った。
 
 谷口 雅宣

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2009年6月29日

多様なる幸福

 アメリカの黒人音楽を世界に広めたポップ界の“スーパースター”、マイケル・ジャクソンが亡くなった。50歳の突然の死で、薬物の過剰摂取が疑われている。子どもの頃から才能を認められ、数々のヒットを飛ばし、巨万の富を得たが、やがて様々な奇行やスキャンダルが報じられ、巨額な訴訟費用で財産を減らし、そして、再起を期している時、突然の死を迎えた。才能も、名誉も、富も得た彼だが、はたして幸福な人生だったろうか、と思う。
 
 6月14日の本欄では、元米時事週刊誌『タイム』の国際問題担当記者だったピコ・ライヤー氏(Pico Lyer)の「幸福とは、我々の環境条件にあるのではなく、そこから何を得るかにある」という考え方を紹介して、日時計主義との共通点を指摘した。日時計主義は、すでに与えられているものを十分に感謝して受け、人々と共有するところに幸福を見出す。この考え方によると、幸福とは、「神の恵みへの感謝と、それを他者と共有するときに味わう一体感」と言えるだろう。となると、幸福とは一種の“主観的感覚”というようにも聞こえる。別の言い方をすると、客観的条件がどんなに(悲惨)であっても、本人が幸福だと感じていれば、そしてその幸福感を(少数であっても)他者とともに味わうことができれば、それが幸福ということになる。
 
 この論法をジャクソン氏の生涯に適用させると、彼の人生が幸福であったかどうかは本人に聞いてみないと分からない、ということになる。しかし「死人に口なし」だから、本当のことは分からない。わずかに分かるとしたら、彼が死ぬ間際にダイイング・メッセージでも残していて、そこに「私は幸福だった」という意味のことが書いてあれば(あるいは録音されていれば)、本人の公私の生活がたとえどんなに荒んでいても「マイケル・ジャクソンの人生は幸福だった」と言える。こういう言い方に何か問題があるだろうか? あるとしたら、それは何か?
 
 読者は、この論法に違和感を感じるだろうか。私は少し感じる。その理由は恐らく、一般に「幸福」を考えるときに、我々はそれを測定するための何らかの“標準”や“基準”があると考えているからだ。まったく基準がなく、「本人が幸福だと思えば幸福」なのでは、「幸福を追求する権利」などというものは、ほとんど意味がなくなるような気がする。なぜなら、人間というものは、奇妙なことを含めて、ほとんどあらゆることに幸福を感じるからだ--「爪を噛む」「吊革を集める」「ガンダムを収集する」「皿を割る」「女装をする」「公園で裸になる」「バンジー・ジャンプをする」……等々。
 
「幸福は死ぬ時に決まる」という考え方がある。ある人が若い頃からどんなに成功し、名声をほしいままにし、大金持ちになり、美女と結婚し、幸福な家庭をもち、社会のために尽くし、人々に尊敬されたとしても、歩道橋に落ちていたバナナの皮で足を滑らせて転落死したならば、その人は不幸だということになる。少なくとも、古代ギリシャ人はそう考えた。哲学者のサイモン・クリッチリー氏(Simon Critchley)は25日付の『ヘラルド朝日』紙に、そういう意味のことを書いている。この考え方は、上で触れた“幸福主観論”と180度異なるものだ。幸福とは、本人の主観とは関係なく、他人がその人をどう語るかによって決まるというのである。だから、死に方が愚かであれば、その人は幸福とは言えなくなる。

 この考えを“客観的幸福”と呼べば、前に書いたのは“主観的幸福”といえるだろう。この両方の意味で幸福な人は、本当に幸福なのかもしれない。
 
 谷口 雅宣

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2009年6月 6日

恐るべし、ノーシーボ効果

 本欄では、医学でいう「プラシーボ効果」について何回か(最近では2009年2月15日2006年4月3日など)書いたことがある。これは医学的に何の効果もないものを服用しても、それを服用者が「効果がある」と信じた場合に治病的効果が生じることを言う。「服用」と書いたが、必ずしも体内に物質を摂取しなくてもよく、身体に一定の刺激を与えたり、何かの儀式をした場合でも、同様の効果が生じるものもプラシーボ効果と呼ばれることがある。このような健康回復の効果とは逆に、医学的には無害なものでも、それを「有害だ」と信じた場合に、病気になったり、苦しんだり、あるいは死に至るものを「ノーシーボ効果」と呼ぶ。

Ns051609  これら2つの現象は、人間の「信念」や「信仰」と肉体の健不健が密接に関係していることを有力に示しているから、宗教の世界とも関係が深く、その原因やメカニズムについて興味がつきない。ただし、医学が発達した現代においても、これらの詳しいメカニズムはまだ分かっていないようだ。イギリスの科学誌『New Scientist』は、5月16日号の表紙(=写真)に、何カ所にも針を刺された縫いぐるみの人形を描いて、「How beliefs can harm you」(信念はどうやってあなたを傷つけるか)という特集記事を載せている。この絵は、医学的には何の効果もないはずなのに、人形に擬せられた人が苦しみ傷つく……日本では「藁人形に五寸釘を刺す」のと同じイメージだ。
 
 この記事で紹介されていた実例を2つ、以下に掲げる--
 
①ガールフレンドと別れたデレク・アダムズは、人生に希望を失ったために、手元にあった抗鬱病剤を全部服用したという……が、薬を飲んでしまってから、「しまった!」と後悔した。彼は死にたくなくなって、隣に住む人に頼んで病院へ連れていってもらった。が、病院についたとたんに倒れてしまった。体はガタガタ震え、顔面蒼白となり、意識は朦朧とした。血圧は下がり、息は速くなった。しかし、病院でいくら検査しても異常はなかった。体内から毒物も発見されなかった。入院後4時間にわたって、アダムズは生理食塩水を体内に入れる洗浄を行ったが、体調はほとんど改善しなかった。

 そんなところへ、一人の医師がやってきた。アダムズが参加していた抗鬱病剤の臨床試験の担当医だった。アダムズは約1週間前から、この試験のために薬を飲んでいた。飲み始めた当初、彼は気分がウキウキした。が、別れたガールフレンドとの言い争いのために、彼は残っていたその錠剤29個を全部飲んでしまったのだ。臨床試験の担当医の話によると、アダムズは照査実験のグループの中にいた。このグループは、実際の薬の効果を試すグループと比較するために、ダミーの薬を服用させるためのものだ。つまり、彼が飲み過ぎたと思った薬はニセモノで、医学的には無害なものだったのだ。その話を聞いて、アダムズは驚いて涙ながら安心したという。それから15分もたたないうちに、彼の体調はしっかりとし、血圧も心拍数も平常にもどった。
 
②1998年の11月、アメリカのテネシー州の高校で、ある教師がガソリンのような異臭がするのに気がついた。やがて頭痛を覚え、吐き気がし、息苦しさと目まいを感じるようになった。そこで学校は閉鎖され、その後1週間のうちに100人以上の職員や学生が、最初の教師と同様の症状を訴えて、病院で受診することになった。ところが、いくら検査しても、それらの症状の医学的な原因は分からなかった。その1カ月後、アンケート調査を行って分かったことは、症状を訴えた人はほとんどが女性で、クラスメートが同じ症状を覚えたことを見ていたか、知っていたという。英ハル大学(University of Hull)の心理学者、アーヴィン・カーシ博士によると、「我々が知るかぎり、学校の環境には有害物質は一切なかったのに、人々は苦痛を訴え出した」。だから、これは大規模な「ノーシーボ効果」だという。

 カーシ博士の考えでは、クラスメートが症状を訴える様子を見ることで、他の学生の心の中に「病気の予感」が起こり、それが心因性の病気に発展して大規模に広がったのだという。こういう突発的な病気の流行は、世界のどこでも起こる。1998年にはヨルダンでワクチンの集団接種をしたとき、800人が副作用のようなもので苦しみ、そのうち122人は入院治療をした。が、そのワクチンには何も問題がなかったという。

 --このような例を知ってみると、人生の明るい面に注目して生きる「日時計主義」が健康にもいいことが了解できるだろう。
 
 谷口 雅宣

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2009年5月30日

信仰による戦争の道 (2)

 これに対して、もっと厳しい評価をしているのが、前回の本欄で言及したジェームズ・キャロル氏の論説である。彼によると、この資料カバーの一件は外部に知られようが知られまいが、政治的・軍事的判断を誤らせる極端な種類のキリスト教信仰が政権トップにあった証拠だとし、9・11以後のブッシュ政権の外交政策全体に疑問を投げかけているように見える。
 
 キャロル氏が指摘する宗教的狂信の危険性とは、次のようなものだ--

①目的遂行に固執した宗教的熱狂は、宗教についてだけでなく、政治・軍事方面にも批判的精神を受けつけない。

②軍の内部で改宗を進める者は、部隊の結束を築くために、「イエス」のような宗教的シンボルを利用して個々の兵士が作戦の目的、指令、そしてそれに従う自己に対する疑念を払拭させようとする。しかし、疑念というものは、他の選択肢への道であるから、軍指導者の最大の友である。

③死後の世界や死後の救いを最高の価値とする信仰は、現世を生きる価値を低く見る。特に、破壊と暴力の後に来る“神の国”を望む終末への信仰は、そういう破壊と暴力を惹き起こす要素となる。

④宗教的原理主義は、教典に書かれた言葉の一言一句を文字通りに尊重して、その言葉が書かれた文脈を無視する傾向がある。そして、そこからは、これと似た“軍事的原理主義”を生む可能性がある。それは、目の前にある軍事的脅威にのみ注目し、それが生まれてくる原因--例えば、「なぜこれだけの数の自爆攻撃志願者が生まれるのか?」などという、より広い社会的・政治的“文脈”を無視する傾向である。

⑤自分を“神の意志を実行する軍隊”として見るものは、戦場でも“神”のようにふるまう傾向がある。すなわち、遠方から自らの手を汚さずに、非戦闘員を含めた敵地の住民に対して過大な力を行使する傾向である。

⑥世界を“善”と“悪”に二分して見る宗教的視点は、敵地の住民の本当の意志や感情を見誤らせる。

⑦3つの一神教の聖地がある中東地域は、この種の宗教的狂信による武力行使を許す場所としては最悪の場所である。

 私は上の分析に概ね賛成するが、⑤については異議を唱えたい。なぜなら、ここで指摘されている「神のような振る舞い」とは、「残虐で無答責」という意味だからだ。旧約聖書に出てくる“神”は、確かにそのような振る舞いをするのだが、そのような神への信仰は、生長の家とは無縁である。しかし、人間を罪深く、価値の低い存在として見る信仰では、全能の絶対神は、人間を虫ケラのように殺戮して何ら顧みることはない。だから、そういう「特定の神」への信仰が問題なのであって、「神への信仰」一般が残虐行為を生むと考えるのは間違いである。また、⑥については、本欄ですでに何回も書いてきたように、「唯神実相論」の生長の家ではありえない考え方である。

 このように考えてくると、「神への信仰」一般が政治や軍事面での正しい判断を誤らせるのではなく、その信仰の内容が問題であることが分かる。神のほかに“悪”があると信じたり、神は罪人を容赦なく罰するという種類の信仰に身を任せる人々は、いったん“悪”のラベルを貼った人に対しては、人権無視の残虐な仕打ちをする傾向がどうしても出てくるだろう。それは、相手に対する自信というよりは恐怖心の裏返しなのだ。そして、アブグレイブやガンタナモ収容所での数々の悲劇が起っていった。私には、そう思えるのだ。
 
 谷口 雅宣
 

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2009年5月29日

信仰による戦争の道

 2001年9月11日の同時多発テロ事件以後、本欄ではアメリカの前大統領ジョージ・W・ブッシュ氏がイラク戦争を開始した“理由づけ”に関して、懐疑論を唱えつづけてきた。ブッシュ氏によると、イラク戦争は一種の“自衛”のための戦争であり、したがって正当化される。その主な理由は、①9・11の首謀者であるオサマ・ビンラーデンをイラクが支援してきた、②イラクは核兵器を含む大量破壊兵器(WMD)を開発している、の2点だった。ただし、これだけでは、伝統的な自衛戦争の開始要件を満たさないので(つまり、イラクからの攻撃は受けていないから)、これらに加えて、③その国家がアメリカないしアメリカ国民を攻撃する意図をもっている、という要件を満たした場合は、実際に攻撃を受ける前であっても(または、攻撃を受ける前にこそ)“先制攻撃”または“防衛的介入”を行う権利がある--こういう新しい戦略理論を打ち出したのだった。これが有名な「ブッシュ・ドクトリン」である。さらに、この理論にもとづいてアメリカの攻撃対象になりうる国を“悪の枢軸”として特定した。

 これらの理論は、9・11後のアメリカの“テロとの戦争”に向けた“新しい戦略”として、純粋に政治的な観点から策定されたように見える。私も長い間、そう思っていた。しかし、その一方で、ブッシュ氏はキリスト教右派の強力な支援を受けてきただけでなく、本人が「神」や「宗教」を信仰することを公然と認めてきた。このことは、政策としては人工妊娠中絶反対やES細胞の研究への制限など、好ましい結果に結びついていた。私は、そのことを評価するのにやぶさかでない。しかし、ブッシュ政権の最大の問題は、アフガニスタンとイラクで2つの戦争を始め、それが大統領退陣後も継続され、現在に於いても多くの人々に死や苦しみをもたらしていることだ。だから、この2つの戦争を生み出したブッシュ氏の戦略理論には、どこかに問題があるのである。私は、その問題点は「悪を認める」という同氏の、宗教的な信念とも思える強い態度であると指摘してきたが、その態度が個別具体的にどのような誤った判断を生み出したかについては、よく分からなかった。
 
 ところが、最近になって、イラク戦争開始当時の大統領近辺の情報が明らかになるとともに、この疑問に一部光を当てると思われる文書が発見され、アメリカのメディアなどで取り上げられている。それを簡単に言えば、「ブッシュ氏は聖書の言葉からヒントを得て戦争を始めた可能性がある」ということだ。アメリカにいかにキリスト教信者が多いとしても、大統領が聖書の言葉に触発されて戦争を始めたとすると、アメリカの“国是”とも言われる「政教分離」の原則と矛盾するばかりか、アメリカという国家の情報処理能力や判断の信頼性にも疑問が出る事態にもなりかねない。
 
 私は、5月26日付の『ヘラルド・トリビューン』紙に載ったジェームズ・キャロル氏(James Carroll)の論説から、このことを知った。キャロル氏によると、『ジェントルマンズ・クォータリー』(Gentleman's Quarterly)という季刊誌の最新号にロバート・ドレイパー氏(Robert Draper)が書いた記事が、最初にこのことを伝えた。この記事には、ブッシュ時代の国防長官だったラムズフェルド氏が政権内部においてどれほど嫌われ、また一度決まった方針でも、自分の気に入らないものの実施をどうやって遅らせてきたなどという、“ラムズフェルド悪玉論”が展開されている。が、その記事の最初のところに、イラク戦争開戦前後、国防総省が大統領のブリーフィングのために使った文書の中に、戦場の兵士などの写真を聖書の言葉で飾った資料が含まれている、との指摘があるのである。
 
 記事によると、この資料の作成者はラムズフェルド氏自身ではなく、統合参謀本部と国防長官に直接情報を提供する立場にある空軍のグレン・シャッファー少将(Glen Shaffer)の発想によるもので、開戦前の段階では、戦いを前にした政権中枢部の緊張感をほぐす目的で、ユーモアのつもりで作られた資料カバー(cover sheets)だったそうだ。が、戦争が始まり、死者が出はじめると、クリスチャンであるシャッファー氏は資料カバーに聖書の言葉を使うのがいいと考えたらしい。しかし、同省上層部にはイスラーム教徒の分析官もいたから、国防総省内の何人もの同僚はこれに反対した。が、シャファー氏は「上司のリチャード・マイヤーズも国防長官も、それに大統領自身がこれをお好みだ」と答えたという。
 
 ここで問題になるのは、戦争の開始や目的遂行に必要な冷静な判断と宗教的信念とが両立するか、ということだ。記事を書いたドレイパー氏は、「このことが知れたら、このようなイメージは“ブッシュ政権は宗教戦争を遂行しようとしている”との印象を強め、イスラーム世界との緊張感を高めることになる」として、疑義を表明している。

 谷口 雅宣

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2009年5月21日

“若者撃退器”を足立区が導入?

 本欄で4年前に紹介したイギリス製の“若者撃退器”が、いよいよ日本の足立区(東京都)で今日から実験的に使われるらしい。20日付の『朝日新聞』が夕刊で伝えている。これは、若者の耳にしか聞こえないとされる18キロヘルツ前後の高い周波数の音を発生させる装置で、昆虫のカを意味する「モスキート(mosquito)」という名前のもの。カが発声する高音が不快であることから、開発者が名付けたらしいが、日本での商品名は記事中にはない。
 
 記事によると、足立区がこの実験に踏み切るのは、夜中に若者たちが北鹿浜公園に集まって騒ぎ、トイレの便器や事務所の窓ガラスを壊したりするほか、周辺住民から「騒音で眠れない」との苦情が後を絶たないためらしい。同区公園管理課で半年間議論を重ねたすえ、実験的導入に踏み切るという。破壊のあった事務所と公衆トイレがならぶ付近に設置して、午後11時以降、翌朝5時まで高周波数音を鳴らす。議論があるのは、やはり「公園」という公共施設の中に、一部の人間(若者)の入場を妨げるような装置を設置するからだろう。が、同公園管理課の増田治行課長は、「憩いの場のはずの公園が、安眠を奪う迷惑施設になってはいけない」(同記事)と考えて導入するという。

 足立区のウェブ上の説明では、北鹿浜公園は足立区内に2箇所ある交通公園の一つで「交通広場」と「公園部分」の領域に分かれ、前者にはミニ列車、自転車、バッテリーカーなどがあるため入場の規制があるが、後者は常時開放されている。ここへ夜間、若者たちが集まって騒ぎたてるのだろう。私は、この機械の効果をよく知らないが、4年前の本欄によると、それを設置したら「若者が耳を押さえながら店内に入って来て、“あの音を止めてくれ”と頼んだ」というから、若者には「耐えがたい音」であることは確かだ。しかし、若者は店内に入ってきたのだから、彼らを「寄せつけない」音ではなさそうだ。ということは、耳栓をしたり、ヘッドフォンを付けた若者には、あまり効果はないのではないか。また、彼らが「自分たちを排除するため」という設置目的を知ったならば、かえって反発して騒ぎを大きくしないか、と心配する。
 
 『朝日』の記事では、この機械は1台20万円もするそうだが、この公園での昨年度の被害額は約70万円という。3台の設置で被害がなくなれば「効果あり」と言えるだろうが、私としては、公園を夜間閉鎖すればすむ話ではないかと思う。そうすれば「若者だけ締め出す」という公共面からの問題も生まれないと思うのだが……。
 
 谷口 雅宣

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2009年4月20日

ウサギとカメ (5)

 ウサギは、カメには“言葉の力”を理解することができないと思い、岩を見つめて首をかしげているカメに向かって言いました。
「人間の世界には“岩の上にも3年”って言葉あるんだ。おまえさんは日向ぼっこをしている間、その意味でも考えたらいいよ。ぼくはもう行くからね」
 カメはそれを聞いて、
「ああ、その意味はすぐわかる」
 と言いました。
「ホントか?」
 と、ウサギは疑わしそうに言いました。
「ほんとさ」とカメは言うと、「岩は3年では割れないってことさ」と続けました。
「ちがう、ちがう」
 とウサギは言いました。そして、
「おまえさんには、5年たってもその意味はわからないさ!」
 と言うと、くるりと背中を向けて行ってしまいました。
 ウサギがいなくなると、カメはまた空に顔を向けて日向ぼっこのポーズをとりました。そして、目を細めると、
「ああ、太陽の光は暖かくて、気持いいなぁ~」
 と言って口をパクパクさせました。
 カメはそのままじっと動かないでいると、ブゥーンという音をさせながら1匹のハエが飛んできて、カメの背中の上に留まりました。
「ああ、この音、この音……」
 と、カメは目を閉じたまま思いました。何とも心地のいい音でした。カメはよくわかっていました。この音は、“ごちそう”の音なのでした。でも、背中にいるハエを食べることはできません。だから、そのハエが目の前に飛んでくるか、それとも背中をつたって頭まで上ってくれば、電光石火の早業でつかまえてしまおうと思っていました。
 そのうちに、プゥーンという音をさせて、今度はカが飛んできました。1匹のあとにもう1匹が遅れて来る音も、耳のいいカメには聞こえました。遠くでは、池に注ぎ込む水の音も聞こえています。時々、池から跳ね上がる魚が、水飛沫をたてる音がするのもわかりました。カラスが頭上高く、鳴きながら飛んでいきます。周囲の梢では、スズメたちがにぎやかに囀っています。カメは、幸せな気分になっていました。
「ああ、この世界は、ゆかいな音で満ちている……」
 と、カメは思いました。
「ウサギはなぜ、岩を割るなんてことを考えるんだ……」
 と、眠気の中でカメは思いました。
 暖かい日光があり、のんびりと泳げる池があり、頑丈な岩があり、探し回らなくても向こうから飛んでくるエサがあり、美しい音が満ちている。その世界をこわすのが“言葉の力”だったら、そんなものはいらない、とカメは思いました。
 
 谷口 雅宣

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2009年4月18日

ウサギとカメ (4)

 ウサギに比べると少し頭の回転が遅いカメには、「言葉が人間の最大の武器」ということが、よく分からないのでした。カメを煙に巻いたウサギは、そこで大得意になって自論の説明を始めました--
「あのねカメさん、言葉というものには、物を音に置き換える役割があるのさ。例えば、目の前にある小石だが、これを拾うのは簡単でも、おまえさんが乗っている岩は重くて動かすこともできない。でも、“こいし”や“いわ”という言葉は、簡単に動かせるだろう?」
 カメは目をパチパチさせて、自分のいる岩を見つめています。
「こんな説明じゃ、わからないか……。それなら“言葉を動かす”のではなく、“言葉を付け加える”と言えばいい。おまえさんが上に乗っている岩は、実際は重くて動かせなくても、“オレは岩を持ち上げた”と言葉で言うことは簡単だろう?」
「ああ、それならわかる。簡単だ」
 と、カメは頭を上下に揺らしてうなずきました。
 ウサギは、つづけました--
「つまり、言葉をつかえば、本当にはできないこともできたように思える。それができるのは、実際には重くて頑丈で動かしたり割ったりできない岩を、“いわ”という音に置き換えてしまうからだ。そして、“岩が真っ二つに割れた”と言えば、本当にそうなったと思える。ここまでは、わかるね?」
「よくわかる」
 と、カメはうれしそうに言いました。
「こうして、物を音に置き換えることで、人間は頭の中で自分の好きな世界を簡単につくってしまうんだ」
 とウサギは言って、カメの顔を覗き込みました。
 カメは、自分の足元を見ながら、
「でも、岩はほんとは割れてない……」
 と言いました。
「そのとおり」とウサギは言って、さらに続けました--
「でも言葉の威力は、そこから始まるんだ。人間は“岩”“二つに”“割る”という3つの言葉を使って、それを仲間に伝えることで、大勢が同じ目的で動くようになる。つまり、“岩を二つに割りたい”というアイディアが社会に広まり、そのための機械や方法を大勢の人間が工夫するようになり、やがて、本当にそれができてしまうんだ」
 カメは、不満そうな顔でウサギを見ています。
「なんだよ、そんな目でオレを見て……」
 と、ウサギは言いました。
 するとカメは、
「ボクらの仲間だって、大勢が岩に上ることはある。でも、岩はちっとも割れないぞ!」
 と言いました。
「ああ、これだからカメはダメなんだ!」
 と、ウサギは空を仰いで溜息をつきました。
 
 谷口 雅宣

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2009年4月17日

ウサギとカメ (3)

 ウサギとカメは、しばらくにらみ合っていましたが、やがてカメがウサギから目を逸らして、
「ああ、アホらしい」
 と言いました。そして、「このみどりの風のおいしさを認めないなんて、動物のくせに情けない……」と続けると、また日向ぼっこの姿勢にもどりました。
 するとウサギは、
「“バカメ”という言葉は名言だね」
 と言いました。そして、「カメのおまえさんには、その名前がピッタリだ」と言って、相手の様子をうかがいました。
 カメは聞こえないふりをしていたので、ウサギはさらに続けました。
「“動物のくせに”なんて言うのは、動物であることを誇りに思っている証拠だ。そんなんだから、いつまでたっても人間が支配者でありつづけるんだ。人間を超えるためには、人間のもっている最大の武器を自分のものにしなけりゃ……」
 カメはその言葉に興味をもった様子で、
「人間の最大の武器ってなんだ?」
 と、ウサギに聞きました。
 ウサギはニヤッと笑って、
「何だと思う?」
 と言って、カメをじらせました。
「ミサイルのことか? それとも、毒ガス?」
「ぜんぜん違う」と、ウサギは得意顔。
「それじゃ、バイオテクノロジー?」
 ウサギは首を横に振るばかり。
「えぇい、それなら無人攻撃機!」
「ハ、ハ、ハ、ハハハ……」
 と、ウサギは愉快そうに笑ってから、言いました。
「おまえさんは、見ている方向が違うんだよ。“武器”と言ったって、別に戦争するための道具とはかぎらない。高価なものともかぎらない。もしかしたら、人間だったら誰でももっているものかもしれない」
「クイズはもうやめた。早く教えてくれ!」
 カメはそう言うと、ウサギをうらめしそうに見ました。
「それじゃ、答えを言おうか……」とウサギはもったいをつけてから、
「それは、言葉だ!」
 と言いました。
 カメはしばらく目を丸くしていましたが、やがて、
「そんなものが……武器になる?」
 と言いました。
 
 谷口 雅宣

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2009年4月15日

ウサギとカメ (2)

 カメをバカにして笑っていたウサギは、しかし、顔がだんだん歪んできました。かと思うと、口が大きく開いて大アクビの顔になりました。ウサギは両腕を思いっきり空に突き出して、
「フューワァーアー……たいくつだぁ……」と言ったのです。
 そして、伸びがおわると、
「この島では、やることが何もない……」
 と、低い声でボソボソと付け足しました。
 それを聞いたカメは、ウサギに言いました。
「やることが何もないなんて、おかしなことを……」
 ウサギは、上目づかいでカメを見て、
「オカシもカカシもないよ。何もないんだからしかたがない」
 と言いました。それから息を胸いっぱい吸って、ウサギはアメリカの大統領のように、顔を半分空に向けて演説をはじめました--
「ノロマのおまえさんには分からないと思うけど、ぼくはこの島のすみずみまで、もう行ってしまったんだ。どこにも知らないところはない。この速い足と、よく聞こえる長い耳で、ぼくはこの島のすべてを知ってしまった。何も新しいことはない。何も不思議なことはない。何も驚くことはないんだ。ぼくはこの島のすべてのものに名前をつけて、分類して、頭の中にきれいに整理してしまった。その結果、世界の中のすべてのものは、たった3つの種類に分けられるという偉大な真理を発見したんだ。まぁ、こんなことを言っても、頭の回転の遅いおまえさんにはわからないだろうけどね……」
 ここまで一気に言うと、ウサギはカメの方を横目で見て、相手の反応をたしかめました。
 カメもその時、空を見上げていて、口を開けると、細い舌をペロリと出して、すぐに引っ込めました。そして、
「おいしいぞ」と言いました。
 ウサギはそれを聞きのがさず、
「何をひとりで言ってるの?」とカメに言いました。そして、「空気はおいしくなんかない」と続けました。ウサギは自分が見つけた偉大な真理を、今こそカメに伝えるべきだと感じました。
「おまえさんは、何もわかっちゃいないね。世の中のすべてのものには結局、3つの意味しかないんだ。“おいしい”とか“まずい”とかいうのは、その3つがわかる前の、とちゅうの感じだ。中途半端な結論、と言ってもいい。もし空気に味があるとしたら、“おいしい”のは“よい空気”で、“まずい”のは“悪い空気”だ。それ以外の味は、どんなに複雑で微妙な味でも気にすることはない。よくも悪くもないものは結局、おまえさんにとって何の意味もないからだ。それは、おまえさんにとって“関係ない空気”だから、無視するのがいちばんいい」
 カメはそれを聞いて、
「そんな考えはツマラナイ!」と言いました。
 すると、ウサギはムキになって、
「ツマルもツマルも大ツマリだ。おまえさんは、人生の先輩の言うことを聞くべきだ!」
 と主張しました。
 カメもゆずりません。
「おいしいものを“おいしい”と言うのが、ぜったい正しい」
 と言うと、目をむいてウサギをにらみました。
 
 谷口 雅宣

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2009年4月14日

ウサギとカメ

 ある島に、ウサギとカメが住んでいました。ウサギはすばしこくて、走るのが得意で、いつも競争相手をさがしていました。カメはゆっくり動くのが好きで走るのは遅かったですが、自分のまわりのものによく気がついて、ていねいで、根気が強いのでした。
 
 ウサギは島にすむイヌやネコと競走しても、足の速さでは負けません。だから時々たいくつすると、イヌやネコをからかって自分を追いかけさせ、一緒に走りながら運動不足を解消するのでした。
「ぼくは、島いちばんのランナーさ!」
 と、ウサギは大得意でした。
 
 カメはウサギがそんな競走に熱中しているのを見ても、いつも知らん顔をしていました。そして、天気がいい日には天に向かって首を伸ばして、じっと日光浴をしていました。時々、イヌやネコがカメに近づいてきて、ちょっかいを出そうとすると、カメは素早く首や手足を殻の中に引っ込めて、“石”になったマネをするのでした。ウサギみたいに走って逃げなくても、首や足を引っ込めるだけでいいのです。カメの堅い甲羅には、イヌもネコも歯がたたないのでした。だからカメは、
「あたしは、島いちばんのカタブツさ!」
 と、大得意でした。

 ある日、日光浴をしているカメのところへウサギが来て、言いました。
「おーい、カメさんよ。こんなところで空を見上げて、何かおもしろいものが見えるかね?」
 カメは、目をしばたたいて、ちょっとウサギのほうを見ました。
 ウサギは、そんなカメに向かって、
「空には何も見えないだろう。見えたとしても、鳥が飛んでるぐらいだ。ノロマのおまえさんには関係ないけどね……」
 と言って、ニッと白い歯を見せました。よい考えが浮かんだからです。ウサギは、たいくつしのぎにカメをからかってやろうと思いました。
 カメは、自分が鳥と関係ないなどと言われたのが気に入らなかったので、口をあんぐりと開けてウサギをにらみました。
「おや、カメさん。小さいお口をパクパクさせて、何かご不満かね。ぼくは、鳥と競走しても勝てるほど速い。でもお前さんは、アリと競走しても負けるほど遅い。だから、怒ってもムダなんだよ」
 と、ウサギは憎まれ口をたたきました。すると、カメはゴツゴツとした声で言いました。
「カメはウサギに勝ったぞぉ!」
 ウサギは、カメの予想外の言葉に驚いて半歩下がりました。しかし、すぐに反論しました。
「あぁ、それは昔のことですねぇ~。おまえさんの先祖があんまり遅いんで、ぼくの先祖が途中で昼寝してしまったって話ね。それは昔のことでね、ぼくは先祖みたいにウカツじゃないから、レースの途中で昼寝なんかしない。だから絶対負けないんだよ。いや、昼寝はするかもしれないけど、それはゴールに入ってからさ。おまえさんが来るまでには、きっと日が暮れてしまうからね」
 ウサギはこう言うと、カメを指差してカラカラと笑いました。

 谷口 雅宣

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2009年4月 4日

王様の顔

Blackking  昨日の本欄に続き、私が撮ったスナップ写真を掲げて、私がなぜシャッターを押したかなどの感想を読者に紹介しよう。ただし、今回は文章によるのではなく、私の“語り”を聞いてください。
 
 谷口 雅宣

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2009年3月31日

急須が見ている…

 昨日はコイの置物を描いたが、今日は電動カミソリを描くつもりだった。ゴツイ体躯の機械で、ヒゲが濃くない私に似つかわしくなく、いかにも大袈裟なところが面白かった。が、木のテーブルの上にそれを置いてフト気がついた。目の前に白い急須があり、その佇まいが私の気を惹くのである。妻が選んだ急須で、毎日使っている代物だから、高価なものではない。ところが、シンプルなデザインでありながら、変化に富んでいるように見える。こういう時は、当初の計画にこだわらず柔軟に対応すべきなのだ……ということで、私は電動カミソリを脇に置いて、急須を描きはじめた。
 
Mtimg090331j  描きながら気がついた。この急須が私を惹きつけた理由は、それが置かれた角度と関係がある。つまり、急須の注ぎ口がこちらを向き、その左右に円形模様が1つずつ配置されている様子が、まるで「ロボットの頭部」のように見えるのである。円形模様はロボットの「目」であり、急須の注ぎ口はまるで「象の鼻」か「突き出した口」のように見える。この「顔」のイメージが。私を惹きつけたに違いない。
 
 本欄では何度も書いているが、人間の脳の視覚野と呼ばれるところには、「顔」のような模様を見たときに敏感に反応する神経細胞があるらしい。これを「顔細胞」と呼ぶ人もいる。急須を見たときに私が感じた“魅力”には、恐らくこの顔細胞からの通信が関与している。言い換えれば、私は急須を見たとき、無意識のうちにそれを「顔のあるもの」--つまり「生きもの」と感じたに違いない。電動カミソリは、確かに電気で動くが、生きたものではない。急須も生き物ではないが、ロボットの顔に似て見えたことで、私の潜在意識が生き物として感じ、惹きつけられた、と考えられる。もっと簡単に言えば、私は「急須が見ている…」と感じたのだ。

 それ以外にも、私が急須に惹かれた理由はあるだろう。が多分、この「顔がある」という要素は大きいに違いない。
 
 谷口 雅宣

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2009年3月18日

透明性の魅力

 ペットボトルは手軽で、持ち運びに便利であるため、人気は衰えない。その中に入れて持ち運ぶ液体も、水やお茶、清涼飲料水などいろいろあって、それぞれの中身にふさわしい色や装飾をほどこされ、コンビニやスーパーの棚に並んでいる。

 しかし、なぜペットボトルは透明なのか? それは多分、外から中身が見える方が、見えないよりも信頼できるからだ。「はい、このように中身にいつわりはありません」と容器自体が宣言しているのだ。それに加えて、透明なものには何となく清潔感がある。
 
Mtimg090316  私は最近、ホテルに備え付けのアメニティーグッズの中に、ペットボトルと同じ素材の透明プラスチックの容器を見つけた。普通の背の低い清涼飲料用の容器の4分の1ほどの大きさだ。3つの瓶の中にそれぞれ黄、緑、白色の液体が入っていて、3つ並ぶと実にかわいく、色の組み合わせが美しい。そのうち1本を使ったので、容器を持ち帰った。具体的に何に使うかなど頭にないまま、この瓶自体の魅力に逆らえなかったのである。ガラス瓶にも清潔感はあるが、重くて、割れる危険性がある。その点、ペットボトルは軽くて、頑丈である。加えて、栓が付属しているのもいい。好天の朝、窓辺に置くと、明るい光を反射して輝いて見えた。そんな様子をスケッチした。
 
「透明性」は、人格や政治、企業経営においても好ましいとされる。外から分かる様子と中身とが変わらないことは、一般的に美徳なのだ。「ウソをつかない」とか「約束を守る」という徳目も、透明性と関係があるに違いない。我々の道徳評価には、視覚からの影響が少なからずあるようだ。
 
 谷口 雅宣
 

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2009年3月 7日

リンゴとミカン

 英語の表現に「リンゴとミカンは比べられない」という言い方がある。どちらも収穫の時季が違うし、味も違うし、それにともなって用途も違ってくる。リンゴは料理やパイなどのお菓子に使うのに対し、ミカンはジュースが主体だ。だから、「どちらが好きか?」と聞いて選択を迫ると、「どちらも好きだ。両方ともほしい」という意味合いを込めて、この表現が使われる場合が多い。双方の違いを強調し、どちらの存在も価値ありと認める考え方だ。
 
Mtimg090303  これに対して、ここでは共通点を認めるものの見方を提案してみた。リンゴもミカンも丸い、色も共通なものが含まれるし、大きさもわざわざ同程度に描いた。また、味わってみると、どちらにも酸味と甘味が含まれる。それに、双方とも植物の果実である点は同じだし、フルーツコンポートにも一緒に載っているではないか!……という具合にだ。このように考えていくと、「なるほど似ているなぁ~」という気がしてくる。
 
 それでは、「どちらか選べ」と言われたらどうするだろう? たぶん、違いを強調した場合よりも選びやすいのだ。
 
 谷口 雅宣

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2009年2月27日

友だちはどこにでもいる

Mtimg090226  昨日、羽田から長崎まで飛んだ。
その航空機の中で眠気と戦っている私の前に、こんな顔が出現した。
彼も眠くて仕方がない風情だ。
「ああ、同類はいるものだなぁ……」
と思いながら、私は夢の中に引き込まれていった。

I was almost asleep when I saw this sleepy face in front of me in an airplane.

 谷口 雅宣

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2009年2月15日

信仰は健康によい

Time090223  アメリカの時事週刊誌『TIME』が、2月23日号で「信仰はどう癒すか」(How Faith Can Heal)と題し、健康をめぐる心と体の相互関係について特集記事を載せている。簡単に言ってしまえば「信仰をもつことは健康にいい」というのが、その記事の結論だ。この種の“心身相関”の話を、私はここ数年、本欄に書く機会がなかった。目立った発表に遭遇しなかったからだ。しかし、この特集記事は最近の医学的知見をまとめているので、大いに参考になる。

 私が前回この問題に触れたのは2006年4月3日の本欄で、その時は「祈りには治病効果がない」という研究結果を紹介した。この研究は、プラシーボ効果について詳しい心臓外科医、ハーバート・ベンソン博士(Herbert Benson)が主任となって行われた信頼性のあるものだったので、その結論に私は少なからずショックを受けた。が、今回の記事で紹介されているコロンビア大学のリチャード・スローン博士(Rchard Sloan)の見解では、祈りの効果を科学的に立証することは“愚者の夢”(fool's errand)だといい、ベンソン氏の研究方法そのものに疑問を呈している。その理由は、祈りの受け手がどれだけ祈られたかは知ることができないし、それが分からなければ祈りの効果は測定できないからだという。
 
 ベンソン氏の研究の詳しい内容は上記の本欄を参照してほしいが、スローン博士のポイントは、患者にとって重要なのは、その人が実際に祈りの対象になったかならなかったではなく、患者本人が、自分が祈りの対象にされたと「思う」か「思わない」かだというのである。もし自分が祈られていると思うならば、そこからプラシーボ効果を起こすメカニズムが患者の心身で働き出し、ある時には“奇蹟的”と思われる効果も発揮するというのである。
 
 プラシーボ効果とは「偽薬効果」とも訳されるが、医学的には1780年代から知られている現象で、砂糖の丸薬など、医学的には全く治療効果のないものでも、それを服用する人が「効果がある」と信じて飲めば、実際に効果が生じることをいう。このことは拙著『心でつくる世界』(1997年)にもやや詳しく書いたが、「信仰によって病気が治る」という場合でも、相当数はこのプラシーボ効果によると思われるのである。が、このことからは、「だから宗教はインチキだ」という結論へ向かうべきではなく、「だから、人間の自然治癒力は驚嘆に値する」とか「人間の心の力は偉大だ」という方向に進むべきだろう。

 この特集記事も、その方向に論を進めている。もし、“砂糖の丸薬”によっても奇蹟的治癒が起こるならば、神への信仰や宗教の教義のように、人々の心を深く動かすものに治病効果がないと考える方が不自然なのだ。こうなると、定期的に教会へ通う人々とそうでない人々との健康状態を統計的に比較する研究が意味をもってくる。テキサス大学の社会人口統計学者、ロバート・ハマー氏(Robert Hummer)が1992年から続けているこの分野の研究成果には、動かし難いものがある。それをまとめると、次の2つに集約される--
 
 ①教会など宗教行事にまったく行かない人は、毎週教会へ行く人に比べて、8年後までに死ぬ確率は2倍である。
 ②まったく教会へ行かない人と毎週行く人との中間段階にある人々の寿命は、両者の中間的位置にある。
 
 このような統計結果が出る理由には、様々なものが考えられる。例えば、教会は一種の社交場であり、コミュニティーを形成するから、そこに集まる人々の間には親しく近い関係が生じるだろう。すると、普段の互いのコミュニケーションも密接になるだろうから、心臓発作や脳梗塞で倒れたときも、教会メンバーの方がそうでない人よりも速く病院に連れて行ってもらえるかもしれない。そうなれば、医学的理由ではなく、社会的理由でも平均寿命は長くなる--という具合にだ。しかし、その一方で、宗教が肉体の一部である脳に影響を与えることで、ストレスに対する心身の反応自体が、宗教を信じる人とそうでない人との間で違ってくることも考えられるのである。
 
 神経科学の発達により、宗教的体験や感性が脳の頭頂葉や前頭葉でのニューロンの活動に関係していることが明らかになってきた。これに、脳の可塑性(変形する性質)を加味して考えると、祈りや瞑想を定期的に行う人と、そうでない人との間には、長い間のうちに脳に構造的な差異が生れるとしても、不思議でない。そして、この記事によると、実際にその通りになるらしいのだ。
 
 ペンシルバニア大学のアンドリュー・ニューバーグ博士(Andrew Newberg)の研究では、100人以上の人が様々な方法の瞑想や祈りを行う中で脳をスキャンして調べたところ、前頭葉が主体となって活動していることが分かったという。そして、祈りや瞑想が深まってくると、頭頂葉がしだいに静かになる--この状態のときに、人は地上的なことから解放された気分になるという。また、称名を唱え続けたり、誦行をしていると前頭葉の活動が静まり、自分が唱えている言葉が、自分とは別の力によって発せられているような気持になるという。そして、このような瞑想を15年以上続けている人の前頭葉は、そうでない人よりも分厚くなっていることが分かったそうだ。また、自分は宗教性が高いと考える人の脳の視床は、非対称的である傾向があるが、対称的な視床をもつ普通の人も、瞑想を8週間実修すると、視床に非対称性が現れることがあるという。
 
 このような研究と、ここには書かなかった様々な研究や発見により、「信仰は健康によい」というのが、今や医学者と宗教者の1つの合意点であるらしい。
 
 谷口 雅宣

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2009年1月30日

“テロとの戦争”は終った

 私がかねてから願っていたように、アメリカが主導してきた“テロとの戦争”は終ったようだ。快哉を叫びたい。私は今年に入って1月8日、20日、21日の本欄で、アメリカの新しいオバマ政権は、前任のブッシュ政権が始めた“テロとの戦争”をやめるのではないかと期待を込めて予測してきたが、その通りになった。26日、ホワイトハウスから送られたアラビア語テレビ局「アル・アラビア」(Al Arabiya)とのインタビュー番組で、オバマ大統領は、「私の仕事は、イスラーム世界には、自分の人生を生き、子供らに自分以上の人生を送らせたいと願うだけの素晴らしい人々が満ちていることを、アメリカ国民に知らせることだ」と述べたという。28日付の『ワシントンポスト』紙などが伝えている。同大統領は、このインタビューで「イスラーム世界に対する私の仕事は、アメリカ人はあなたがたの敵ではないと伝えることだ。我々はときに間違いを犯すし、我々は完全ではなかった」とも発言したから、前政権のイスラーム世界に対する政策に誤りがあったことを認めたとも言える。
 
 このインタビューでの詳しいやりとりの記録をネットで捜したが、見つからなかった。しかし、29日付の『ヘラルド朝日』紙にロジャー・コーエン氏(Roger Cohen)が書いている論説の中に、結構詳しい引用がある。それによると、大統領は「我々の使う言葉は重要だ」と“言葉の力”の大切さを指摘したうえで、「私は、アルカイーダのような暴力を使い、テロを行う組織と、我々の政権やその行動に単に反対する人々、あるいは自国がどう進むべきかという点で特定の視点をもっている人々とを明確に分ける。我々には意見の不一致があって当然だし、その場合も互いに敬意を払うことはできる」と述べたという。コーエン氏はこれらの発言を聞いて、「9・11後のブッシュ・ドクトリンを新大統領がひっくり返したことは、重大な進展である」と評価している。そして、イスラーム社会に対するブッシュ政権の態度が、ぶっきらぼうで、攻撃的で、尊大で、イスラエル一辺倒だったのに対し、オバマ氏の態度に配慮があり、敬意が込められ、自己に厳しく、バランスがとれているとして、「驚くべき変化」(a startling departure)だと誉めている。
 
 同氏は、もちろん「言葉だけでは問題は解決しない」と言っているが、言葉を大切にする生長の家の立場からすれば、アメリカ大統領からイスラーム世界への“好意”や“尊敬”の念がテレビ画像を通して示されることで、今後の世界の動きに大きな変化が訪れる“種”が確実に植え付けられた、と評価できる。これからは、多少時間がかかっても、対立する双方でこの“種”を大切に育てていってほしい。

 日本のメディアがこのことをほとんど伝えていないのは残念だが、28日付の『日本経済新聞』は、これがオバマ氏の大統領として最初の外国メディアとの単独会見であったと述べ、「オバマ政権は発足から1週間で中東重視の外交姿勢を具体的に明示し、アラブ・中東の親米国にも協力を促す格好となっている」などと書いている。「格好となっている」というのは妙な表現だが、恐らく「そういう解釈もできる」という意味だろう。つまり、深刻な情勢となっているガザ紛争を解決するための手段として、アラビア語のメディアを使ったという、何となく懐疑的な視点である。しかし、この件に対するホワイトハウスの発表は、「アメリカとイスラーム世界との関係に大胆な変化を提供した」というものだから、オバマ氏自身にはそういう意図があると考えていいだろう。
 
 オバマ政権は、地球環境問題への本格的な取り組み姿勢を示していることに加え、今回のイスラーム社会への態度の変化、特に実質的に“ブッシュ・ドクトリン”の廃止宣言を行ったことは、大いに評価したい。
 
 谷口 雅宣

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2009年1月20日

英外相が“テロとの戦争”を批判

 1月8日の本欄で、まもなく始動するアメリカのオバマ新政権では、ブッシュ政権下で盛んに使われた「テロとの戦争」(war on terror)という用語が廃止されるのではないかとの期待を表明した。が、アメリカと共にこれを推進してきたイギリスでは、ミリバンド外相がすでにこの用語や考え方は「間違いだった」とはっきり言っているという。今日の『朝日新聞』が社説で取り上げている。
 
 それによると、同外相が「テロとの戦争」を批判したのは1回だけでなく、「先週、インド・ムンバイでの演説やBBC、英紙でそう明言した」のだそうだ。そこで、BBCのウェブサイトを調べてみると、1月15日付で「ミリバンド、“テロとの戦争”を批判」(Miliband criticises 'war on terror')というインタビューがあり、そこからさらに調べると、1月15日付の雑誌『ガーディアン』に外相本人が寄稿していることが分かった。その内容は、『朝日』の社説が簡潔にまとめている通りだ。
 
 ミリバンド外相が挙げる「テロとの戦争」の用語が間違っている理由は、3つある--①テロを政治手段とする集団は多様であるのに、それらを十把一絡げにすることで、テロ集団を相互に団結させる、②軍事手段を重んじるあまり「法の支配」を軽んじて民衆の支持を失う、③そもそも団結の基礎となるのは、何かに「反対する」ことではなく、共通の価値を「支持する」ことである。
 
 私は2005年6月1日の本欄で、「“テロに対する戦争”という言葉は、問題の立て方が間違っている」と書いた。なぜなら、「テロ(terror)」とは「恐怖」という意味であり、恐怖は、第一に恐怖する人の心の中にあるのだから、それと戦うのに実際の兵器はさほど役に立たないのだ。さらに続けてこう書いた--「恐怖は“外”にあるのではなく“内”にある。“外”をいくら叩いても“内”にあるものは壊れない。或る“敵”を外に見出しそれを倒しても、次なる“敵”が内部の(恐怖の)投影としてまた外に現れる。否、“テロとの戦争”という言葉を使う限り、自ら“敵”を外側に作り出さざるを得ないのだ。戦争には、具体的な“敵”が必要だからだ」

 この文章は、“テロとの戦争”を「する側」の心理を描いたものだが、これをテロとの戦争を「仕掛けられる側」の立場から描けば、上記のミリバンド外相の①の分析になる。つまり、“テロ集団”の側から見れば、アメリカのような超大国(イランでは“大悪魔”と呼ばれている)から宣戦布告されたのだから、イスラーム社会は「小異を捨てて大同につく」ことが至上命令になるのである。日本の諺に「窮鼠猫を噛む」というのがあるが、より多くの人々を「窮鼠」の心境に追いやることは暴力拡大の道なのである。
 
 私は2007年1月14日15日の本欄で、当時のイギリス首相、トニー・ブレアー氏(Tony Blair)の“テロとの戦争”を推進する考え方に反対した。同氏は、地球環境問題への取り組みの姿勢は称賛に値するが、戦争の問題については“ブッシュのプードル”などと揶揄されるほど、ブッシュ氏の考えに近かった。あれから2年たって、イギリスも外相が交代して「テロ」に対する考え方が変わってきた。大いに歓迎したい。あとは、アメリカの新大統領、オバマ氏の「テロ観」がどうであるかが重要になってくる。
 
 谷口 雅宣

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2009年1月18日

聞こえない“名演奏”

 15日の本欄に私が新宿駅の雑踏を好きでないことを書いたら、久保田裕己氏から興味ある情報をいただいた。駅の雑踏の中では、名演奏家による名曲の演奏も、ほとんどの人には分からない--そういう事実を示す実験が行われたというのだ。これは、「認めないものは存在しない」という唯心所現の教えにも通じるし、また「光を見る者に光は訪れる」という日時計主義の生き方の効果を実証している。なかなか面白い実験である。
 
 この実験は『ワシントンポスト』紙が2007年1月12日に行ったもので、同年4月8日の同紙に掲載された。それによると、この実験は同日の朝、7時51分から43分間にわたって首都ワシントンの地下鉄の駅「ランファン・プラザ」で行われた。この日は金曜日で、駅周辺は東京では「霞が関」のような連邦政府の役所が建ち並ぶ官庁街だ。ちょうどラッシュアワー時で、駅からは勤め先に急ぐ人々が毎時千人以上吐き出される。そんな所で、ジーンズにTシャツを着、野球帽を被った若づくりの男がバイオリンを弾く。その様子を、ビデオカメラが見えないところから撮影する。曲目はすべてクラッシクで、腕前はなかなかいい。このような音楽に、いったいどれほどの人が気づき、また耳を傾けるだろうか? また、この男の前に置かれたバイオリン・ケースには、どれだけの寄付が投げ込まれるか?--そういう実験である。

 結論から言ってしまうと、立ち止まって一瞬でも音楽に耳を傾けた人は7人、金を投げ入れたのは--ほとんどが立ち止まりもせずに--27人。そして、43分間で若者が稼いだ金額は、約32ドルだったという。「なんだ、そんな当り前の結果か……」と読者はガッカリしないでほしい。問題は、この“若づくりの男”が誰であり、その演奏はどの程度のものかということなのだ。
 
 同紙の記事では、この演奏家はアメリカで人気のバイオリニスト、ジョシュア・ベル氏(Joshua Bell)で、弾いていた楽器は350万ドル(3億5千万円)もしたという世界的な名器「ストラディバリウス」だそうだ。私は、ベル氏のことはよく知らないが、記事によると、この実験の2日前にボストンで開催されたコンサートはすべて売り切れており、入場料は平均100ドルだったそうだ。ウィキペディアによると、彼は当年41歳で、「インディアナ州ブルーミントンに生まれ、12歳の頃から地元インディアナ大学の名教師として知られるジョーゼフ・ギンゴールドの薫陶を受ける。14歳で、リッカルド・ムーティ指揮するフィラデルフィア管弦楽団と共演し、1985年にセントルイス交響楽団と共演してカーネギーホールにデビューを果たした。それからは世界中の主要なオーケストラや指揮者と共演している」そうだ。
 
 一流の演奏家が名器を使って弾く音楽も、「心そこに非ず」の状態の千人の人々にとっては「存在しなかった」のである。そういう意味では、私は新宿駅の雑踏が好きでなくても、モーニングサービスやノートパソコン以外にも、駅頭でもっと周囲に注目し、耳をそばだてるべきだったのか?
 
 ところで、この実験のダイジェスト版は、ユーチューブの『ワシントンポスト』のぺージで見れるから、興味のある読者はぜひ一見されたい。
 
 谷口 雅宣

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2009年1月 8日

「テロとの戦争」をやめよう (2)

 まもなく始動するオバマ新政権下の駐日大使に、ハーバード大学教授、ジョセフ・S・ナイ氏(Joseph S. Nye, Jr.)が起用されるらしい。今日の『朝日新聞』夕刊が1面トップで伝えている。政権発足前に駐日大使が決まるのはきわめて異例であるだけでなく、すでに名前が上がっている国家安全保障会議(NSC)のアジア上級部長、国務省の東アジア・太平洋担当次官補、ペンタゴン(国防総省)のアジア・太平洋担当次官補などの顔ぶれと合せて見ると、「日本に厚い配慮をした布陣」であり、オバマ政権の東アジアにおける“日本重視”の姿勢が明らかになったというのが『朝日』の分析である。これまで『産経新聞』などは、オバマ政権は日本よりも“中国重視”だとの予測をしていたようだが、そういうわけでもなさそうである。
 
 日米は長い同盟関係にある一方、米中の間に同盟関係はないから、アメリカの“日本重視”は当り前といえば当り前である。しかし、一国の影響力という点では、人口や経済力、軍事力の面で中国が日本に勝ることも自明だから、アメリカが“中国軽視”をすることもないだろう。中国は核兵器をもち、アメリカの国債を大量に保有しているから、軽視などできるはずがない。外交や国際関係は、“重視”とか“軽視”などという単純な言葉で表すことはできないものである。
 
 そんなことよりも、ナイ氏の起用によって、アメリカが唱導してきた“テロとの戦争”が終わるのではないか、と私は期待している。というのは、『朝日』も指摘しているが、同氏は外交に軍事力などの“ハードパワー”を多用するよりも、価値観や文化などの“ソフトパワー”を活用することを唱えてきた人だからだ。ブッシュ氏は、ご存じのように、国際関係の中に“善”と“悪”の二項対立の考え方を持ち込み、かつてはイラク、イラン、北朝鮮などを“悪の枢軸”と決めつけて、それらとは交渉も拒否し、軍事力をもって対峙する外交政策を展開した。理由は、それらの国が「テロを支援している」というのである。そして、9・11以降は、それら“支援国家”を含めた“テロとの戦争”を唱導して、圧倒的な軍事力によってアフガニスタンのタリバン政権を倒し、イラクのフセイン政権を転覆した。が、この“ハードパワー”優先の政策が何をもたらしたかは、今の我々はよく知っている。“悪”を認めて、それに大量のミサイルを撃ち込んでも、“悪”は破壊されなかったのである。
 
 これに対して、ナイ氏は、文化の違いや考え方の差、心理的な行き違いなどからも紛争が生じることがあるから、そういう“ソフトパワー”の活用によっても紛争の処理や仲裁は可能だとするのである。私は、同氏の論文を数多く調べたわけではないが、2007年2月10日の本欄で紹介した論文には、そういう考え方がよく表れている。この論文でナイ氏は、2005年7月のロンドンでのテロ事件に関連して、“テロとの戦争”という言葉の使い方に大きな問題があることを指摘している。当時の本欄の文章から引用すると--
 
「ナイ教授によると、イギリスの情報機関であるMI5がテロリストを取り調べたところ、彼らの心の軌跡には共通したパターンがあることに気がついたという。それぞれのテロリストは、過激思想や、様々な社会的・政治的不満をもっていることは確かだが、そういう若者に宗教的使命感にも似た精神の高揚や、より大きな目的意識をもたせて行動に至らせるものは、“戦争”という言葉や、“戦い”をめぐる物語なのだという。アルカイーダは、そういう単純だが強力なメッセージをメディアやインターネットを通じて伝達する能力に優れているらしい。テロ行動に出た人々の間には、<イスラーム社会は今、西側諸国から一斉攻撃を受けている。だから、イスラーム信者は世界中で、イスラーム共同体を敵の攻撃から護るのが信仰者個人としての義務だ>という考え方が浸透しているというのだ。そんな中で、西側諸国が“戦争”や“”戦い”という言葉を使えば、彼らの信念をより強固にし、テロ活動への参加者を増やすことになる」。

 もう2年も前の分析だが、このようなイスラーム社会内部の「心の問題」に注意を払いながら外交を展開していくことが重要だと考える人は、きっと日本社会内部の「心の問題」にも留意して日米関係を考えてくれるものと私は期待する。とにかく、「テロとの戦争」という“悪”の存在を前提とした看板は、早急に下してもらえるとありがたい。
 
 谷口 雅宣

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2008年12月20日

「破れ窓理論」は正しいか?

 生長の家で「親和の法則」と呼んでいるものがある。「同類親和の法則」ともいい、簡単に言えば「互いに似た心の人が集まって物事を成就する」ということだ。例えば、日曜日に生長の家の講習会に来る人々は、パチンコやゴルフよりも神仏に関心があるという点で“互いに似た心”をもっている。そういう人々が集まることで、講習会は成就すると言える。また、競馬や宝くじが行われるのも、そういう「一発で儲けよう」という“似た心”をもった人々が馬券売場や宝くじ売場に集まるからである。さらには、戦争が起こるのも、「相手をやっつけよう」という心をもった人々(軍隊)が国境線近くに集まるからである、と言える。(ただし、戦争の場合は、もっと複雑で数多くの要因が関係している。)

 日本の諺にも、「泣きっ面に蜂」とか「笑う門には福来たる」というのがあるし、英語の諺にも、Like attracts the like. というのがある。これらは皆、「親和の法則」を表現していると言えるから、人類は昔からこの現象に気づいていたのである。では、科学はこの法則を認めているかどうかといえば、この方面の研究は比較的新しい。
 
 この法則は、科学的には「破れ窓理論」(The Broken Window Theory)と呼ばれているものに相当すると考えられる。この理論は、1982年に政治学者のジェームズ・ウィルソン氏(James Q. Wilson)と犯罪学者のジョージ・ケリング氏(George L. Kelling)がアメリカの雑誌『アトランティック』(The Atlantic)に発表したもので、大ざっぱに要約すると「人々を取り巻く環境は、その人々が反社会的行動に走るかどうかに影響を与える」とするものである。何かずいぶん難しい表現だが、要するに「悪い環境では、人は悪い行動に走りやすい」ということ。逆に言えば、「環境をよくすれば、犯罪は起こりにくくなる」ということだろう。
 
 この「破れ窓理論」については、谷口清超先生が『コトバが人生をつくる』(2004年、日本教文社刊)の中で言及されているが、詳しい解説はない。同書の28ページには、茨城県の大学生が2003年7月の『産経新聞』への投書の中でこの理論を紹介していたものを、“孫引き”の形で引用されているだけだ。そこでの説明は、こうだ--「犯罪増加に悩む米国で1982年に採用されたという。平成14年版警察白書によると、落書き、酔っ払いなどの軽犯罪でも徹底的に駆逐することで、犯罪全体を減少させようという取り組みである」。投書氏はさらに言う--「破れた窓が放置されていれば、管理が行き届いていないことが明らかとなり、いたずらや犯罪の格好の餌食となり、瞬く間にビル全体に及ぶ」。「瞬く間」というのはいかにも大袈裟だが、まあ言いたいことは分かる。同じ2つの空家でも、一方の窓ガラスだけが割れていれば、そちらの空家の方が早く壊されるということだろう。

 しかし、「本当にそうなるのか?」というと、この理論を具体的に検証する研究はつい最近まで行われていなかったらしい。その最近の研究とは、オランダのグロニンゲン大学(University of Groningen)で行われたもので、アメリカの科学誌『Science』のオンライン版に掲載された。また、この研究をまとめて紹介した文章が、同誌の今年11月21日号(vol 322 21 November 2008)に載っている。それによると、「破れ窓理論」の正しさは証明されたという。
 
 同記事によると、オランダの研究では、「一つの規範や規則が守られていないところでは、別の規範や規則も破られやすい」ことが分かったという。もっと具体的に言えば、違法な落書きや駐車違反がある場所では、ゴミの不法投棄や窃盗も起こりやすいということだ。
 
 この研究では、落書きが描かれた路地に停められている何台もの自転車のハンドルに、ダミーの広告チラシを巻きつけて、持ち主がそのチラシをどう処理するかを調べたという。その路地の壁には「落書き禁止」の表示があり、ゴミ箱は置かれていなかった。研究者は人々から見えないところにいて、広告チラシが路上に捨てられるか、それとも持ち帰られるかを調べたという。これに対比するために、研究者は別の日に、「落書き」以外はこれと全く同じ状況を作って人々の行動を調べたという。その結果、両者の違いは歴然としていた。落書きのない環境では、自転車に乗る77人中の3分の1がチラシを路上に捨てたのに対し、落書きを加えたところでは、3分の2以上がチラシを捨てたという。
 
 また、こういう実験もした--路上にある公共の郵便箱を1つ選び、その投函口から5ユーロ紙幣を一部はみ出させておく。そして、そこへ郵便を入れに来る人や、付近を通る人の行動を分からないように観察するのである。この実験を、郵便箱の周囲が散らかっている場合と、きれいに掃除されている場合とでやり、両者を比べてみたという。すると、きれいな環境では13%の人が紙幣を取ったのに対し、汚れた環境では23%が紙幣を持っていったそうだ。
 
 生長の家の男性組織である相愛会では今、“クリーンウォーカー”を増やす運動をしている。クリーンウォーカーとは、町を歩くときに落ちているゴミなどを拾って町を美化する人々のことだ。谷口清超先生はご生前、自宅から仕事場まで歩いて通われる途中で、落ちている空き缶などを掃除されたから、クリーンウォーカーのさきがけと言える。この一見“小さな善行”が、より大きな善を導き悪を防ぐことを、科学は証明してくれたのである。がんばれクリーンウォーカー諸君!

 谷口 雅宣 

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2008年11月21日

良心的な人は長寿?

「憎まれっ子世にはばかる」という諺があるが、人に憎まれるような人間が、世間ではかえって幅をきかすという意味で、これは「悪者は長生きする」という意味にも解釈できる。英語の諺にある「Ill weeds grow aspace.」(雑草ははびこりやすい)というのと似ている。だから、いわゆる“善い人”や“良心的な人”は長生きしないと考えている人がいるかもしれない。ところが、良心的な人はそうでない人よりも長寿だということが、このほど8900人が関係する調査で明らかになった。10月25日号のイギリスの科学誌『New Scientist』(vol.200 No.2679)が伝えている。

 それによると、カリフォルニア大学リバーサイド校のハワード・フリードマン氏(Howard Friedman)とマーガレット・カーン氏(Margaret Kern)は、既発表の20の研究データの中の8900人の良心的な傾向とそれらの人々の死んだ年齢の関係を調査した。すると、どんな年齢層でも、良心的傾向が弱い人は強い人よりも、50%死ぬ確率が高いことが分かった。この違いの大きさは、寿命に影響があるとされる「社会的地位」と「知性」によっても説明しきれない幅だという。両氏は、さらにこのデータの内訳を細かく調べたところ、「社会的に成功した人」が長生きする確率が最も高いことが分かった。これらの人々は、社会的に尊敬され、自分の時間とエネルギーを社会のために注ぎ込み、同僚や隣人とよく協力し、信頼されているような人々だという。こういう人たちの生活は、より安定していて、ストレスが少ないというのが、長寿の原因の1つらしい。

 考えてみれば当り前のことかもしれないが、「社会的な成功」を早く得ようとして不正や不義を働く人が結構いるところを見ると、「社会的成功」は人生の目的ではなく、良心的生活を実践したことの結果であり、それに随伴して「長寿」というもう一つのご褒美もやってくる--こう考えればいいのである。つまり、「憎まれっ子世にはばかる」という諺は短期的には真理のように見えても、長期的には成立しないのだ。そう言えば、福岡県の米菓会社の和菓子に殺虫剤を混入した人は、良心の呵責に耐えかねて自殺したという。新聞報道によると「40代の男性社員」ということだ。和菓子に殺虫剤を入れてから良心を発動させるのではなく、入れる前に良心の囁きを尊重してほしかった。そうすれば、死ぬことはなかったのである。
 
 また、音楽的才能が豊かで若くして大いに富み、社会的成功をおさめた音楽プロデューサーのK氏(49)が、経営において失敗し、詐欺の容疑でつかまった。K氏は取り調べ中に反省し、係官にこう語ったという--
 
「生活が豪奢になり、お金がどんどん入るそばから思うように使っているうちに“裸の王様”になってしまった。誰にも意見をされず、そんな生活を疑問に思いつつ、ずっと続けた」。(『朝日新聞』)

 この反省を今後の生活の指針にし、“内在の神”の囁きである良心をくらますことなく生きていけば、K氏にも再び社会的成功の道は開けるに違いない。
 
 谷口 雅宣

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2008年11月19日

右脳と左脳

 今年5月に出させていただいた拙著『太陽はいつも輝いている--私の日時計主義実験録』(生長の家刊)の中で、私は“右脳”と“左脳”の働きについて専門家の研究などに触れながら、少し詳しく書いている。研究の内容は難解なので読者には不評を買っているかもしれない。が、簡単に言えば、案外単純なことでもある。それは、我々の脳は解剖学的に右と左に大きく分離されていて、それぞれが異なった役割を担っているが、普通の場合、右側の脳は感覚の受容に優れていて、左側の脳は言語の働きで優れている--そういうことだ。この左右の脳の役割分担については、「左脳は論理的思考」「右脳は直感的思考」などという表現が使われることもあるが、だいたい同じ意味だろう。
 
 このような分析と発見を前提にして、次の段階へ進めば--左脳が得意とする論理的思考はコンピューターによってある程度肩代わりできるから、人間は右脳の働きを磨くことでもっと向上する、と考えることもできる。2005年に『A Whole New Mind』(新しい全体脳)という本を出したダニエル・ピンク氏(Daniel Pink)は、そう考えた。彼によると、コンピューターを使った情報時代を何世代か経験した我々は、論理的思考にばかり慣れ親しんできたおかげで、高度な直感を得るような右脳の能力が委縮してしまっているから、再び鍛え直す必要があるというのである。なぜなら、プログラミングや経理処理などの左脳的な仕事は、欧米で始まり、欧米で発達してきたものの、今やそれらの多くはインドや中国などの人件費の安い国々に移転してしまっているし、移転しないものはコンピューターで代用できるからだという。

 これもまた『太陽はいつも輝いている』の中で触れているが、右脳で絵を描くための具体的方法を開発した人に、ベティー・エドワーズ氏(Betty Edwards)がいる。この人はカリフォルニア州立大学の美術教師だったが、1998年に退職して息子のブライアン・ボマイスラー氏(Brian Bomeisler)に後を譲っている。このボマイスラー氏のところには毎年、フォーチュン誌のトップ500社に入る企業の研修やワークショップの申し込みがあるという。今年4月7日付の『ヘラルド・トリビューン』紙によると、ボマイスラー氏が教えるのは「箱の外で考える」ことだという。「絵を描くことを通して、私はまったく新しいものの見方を教えます」と彼は言う。「彼ら(教わる人々)は自分の箱から抜け出して、そこに本当にあるもの--その複雑さと美しさのまるごと--を吸収するのです。研修後に彼らが決まって言うことの1つは、“世界がすごく豊かに見える”ということです」。

 こんな脳の話と宗教と、いったい何の関係があるか--と読者は考えるだろうか? サイエンスライターの竹内薫氏は、10月11日の『産経新聞』で興味ある話を書いている。竹内氏は今、脳卒中で倒れた脳科学者の体験記を翻訳しているそうだが、その脳科学者は、左脳の言語野が出血で侵され、言葉がしゃべれなくなり、他人の言葉も「犬の鳴き声みたいに聞こえた」という。このように左脳の機能が低下し、右脳の機能が目立つようになった時に感じる世界について、竹内氏は次のように描いている--
 
「物事を論理的に筋道だって考えることができなくなる。他人の言っていることが理解できない。身体の境界がわからなくなり、周囲と渾然一体となり、まるで“流れる”ような感覚に陥る。つまり、空間の感覚が消えてしまう。また、過去・現在・未来という直線的な時間もなくなり、あるのは“今”だけ。……(中略)……また、宇宙と一体化し、とてつもない幸福感に浸れるそうだ」。

 宗教的な体験の中には、上に描かれたようなものが確かにある。が、これだけでは、日常生活に支障が出る場合があるだろう。だから、左脳が得意とする言語による表現や論理的思考も、我々はおろそかにしてはいけないのである。

 谷口 雅宣

【参考文献】
○B.エドワーズ著/北村孝一訳『改訂新版 脳の右側で描け』(1994年、エルテ出版)

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2008年11月 3日

絵封筒、届きました。

 最近、島根県の白鳩会員さんから絵封筒をいただいた。収穫なった稲を丸太に掛けて乾燥させる「稲掛け」を近景とし、遠景には民家とその背後に広がる山々を全面に描いたF_hosh103108 大胆な構図で、受け取った私は「へぇー」としばし見とれてしまった。この方(仮にHさんとする)は、姑の介護などで多忙な毎日を送っておられたが、私の妻が夕食後の短い時間に毎日絵手紙を描いていることを本で読み、また、島根教区の中内英生・教化部長も、実家の母上に絵手紙を送っている話を聞いて、一念発起して自分でも絵手紙を描くことを決意され、夕食後の短い時間にそれを始めたという。今年の6月から開始したと手紙に書いておられるが、なかなかの腕前である。
 
 Hさんは絵手紙を描いているときの心境について、「絵筆をとっていると、いやな思いもいつしか消えてしまいますので不思議です」と書いている。また、私に送ってくださった絵封筒については、次のように述べている--
 
「今回、絵封筒は初めて描いてみました。『光のギャラリー』の本を参考に、絵の中に切手をどう取り込むか考えましたが、ちょっと時間がかかるのが難ですが、絵手紙とは又違ったおもしろさ楽しさがあると思いました」。

 初めて描いたにしては、見事ではないだろうか。
 
 私は、最近の生長の家講習会では、『太陽はいつも輝いている--私の日時計主義実験録』(生長の家刊)から引用しながら、我々の“右脳”が外界の情報を感じたまま受け取っていても、“左脳”がそれを無視したり、解釈によって抑圧したり、捻じ曲げることが多いから、たとえ現象世界であっても、我々はそこから正しいメッセージを受け取っていないことが多い--という話をする。Hさんが上で「絵筆をとっていると、いやな思いもいつしかきえてしまいます」と言っているのは、「いやな思い」というのが、我々の“左脳”の勝手な解釈から来ることを有力に示している。絵を描くことは、普通は“右脳”で行う作業であり、そこで美しいもの、面白いもの、楽しいもの等を感得したときに行われる。そして、そういう「明るいもの」に注意を集中しているときには、我々はその反対の「暗いもの」や「醜いもの」を心中から排除してしまう傾向があるのである。

 そのことを、私は講習会で「我々は対極のものを同時同所に認められない」などと言って説明している。有名な諺の「坊主憎けりゃ袈裟まで憎い」という性向を、少しむずかしく表現しているだけだ。「憎い」という一方の極端な評価が「坊主」にくだされている時には、その同じ場所にある「袈裟」も(どんなに愛すべき袈裟であっても)同種の極端な評価がくだされる--そういうことである。我々の“左脳”は、主として言語による世界の解釈に使われている。そして、言語情報のかなりの部分を、我々はマスメディアから受け取っている。そして、本欄でもしばしば指摘しているように、マスメディアから来る情報のほとんどは“暗く”“悪い”情報である。こうして、“右脳”を活性化して「明るいもの」に注意を振り向けることは、“左脳”がつくり出す過剰に暗い世界のイメージを打ち消す効果を生む、と言っていいだろう。

 谷口 雅宣

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2008年10月 8日

対称と非対称 (6)

 ユング派の精神分析学者で文化庁長官もつとめた河合隼雄氏の『ユング心理学と仏教』という本に、本題について示唆に富んだ記述がある。6日の本欄で私が書いたのは、「自然との一体感」は昔から洋の東西を問わず人間の心に存在するものであって、これを“日本人特有”とか“東洋特有”と考えるよりは、人間の心の「対称性論理」と「非対称性論理」の関係で説明する方が事実に即しており、説得力があるということだった。これを別の言葉で表せば、「自然との一体感」は程度の違いはあっても人類に共通するものだということだ。その前提の下で東西を比較すれば、“東”は対称性論理が非対称性論理に勝っていて、“西”はその逆であるかもしれない、ということだ。

 河合氏はこれを「自我」と他者との関係に置き換えて、次のように述べている--
 
「他と区別し自立したものとして形成されている西洋人の自我は日本人にとって脅威であります。日本人は他との一体感的なつながりを前提とし、それを切ることなく自我を形成します。(…中略…)非常に抽象的に言えば、西洋人の自我は“切断”する力が強く、何かにつけて明確に区別し分離してゆくのに対して、日本人の自我はできるだけ“切断”せず“包含”することに耐える強さをもつと言えるでしょう」。(同書、p.40)

 河合氏は、このように“自我”の共通点を認めながらも“東西”の違いを把握するという複眼的な認識をしている。目に見えない心の問題については、十把一絡げの論理よりも、こういう丁寧な分析が必要と思う。また、このような共通点に立った上での日本的特徴として、河合氏は“母性原理”の強さを指摘しているのが興味深い。同氏は、「否定的な太母のコンステレーション(布置)が(…中略…)日本全土にわたってできていると直覚した」といい「その顕われのひとつとして、日本に不登校が多く発生するという現象がある」と述べている。
 
 河合氏のいう母性原理の強さとは、「母なるもの」(母だけではない)への依存度が強いということだろう。精神分析の治療者とクライアントとの関係では、「治療者が無際限に何でも受けいれる太母であることが期待されるのです」(p.47)と同氏は書いている。このことから、同氏は日本神話では太陽の女神である天照大神の重要性を挙げている。宗教活動の中では、個人指導における講師と相談者の関係がこれに該当するだろう。また、運動組織における上位者と下位者の関係にも当てはまるかもしれない。
 
 多くの読者は、天照大神と須左之男命の物語をご存じだろう。その内容を思い出していただければ、両者の関係が密接であるにもかかわらず必ずしも円満でなく、やがて悲劇につながっていくことの中に、現代の日本社会の母と子の関係に共通するものを感じるに違いない。これなどは、対称性論理の過剰を示しているのではないだろうか。
 
 谷口 雅宣

【参考文献】
○河合隼雄著『ユング心理学と仏教』(1995年、岩波書店)

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2008年9月29日

環境と「環世界」 (2)

 27日の本欄では、動物学者のユクスキュルが提案した「環世界」の考え方を概説した。が、彼が書いた『生物から見た世界』の面白さは、そういう観点だけでなく、動物たちが実際にどのような世界を感じているかを描いた部分にある。例えば、「ダニの環世界」を描いた文章は、我々の目を開かせてくれる。
 
 ダニは、哺乳動物の血液を吸うことで子孫を殖やすことはよく知られている。が、そのダニが哺乳動物の血液にありつく方法については、それほど知られていない。ユクスキュルによると、彼らは、木の繁みの中に隠れていて、その下を通過する動物の上に飛び降りるか、繁みが動物に触れることができれば、目的を達成できるのである。普通、何かの上に飛び降りるためには、飛び降りる側に目がなくてはならないが、ダニには視覚がないし、聴覚もない。ということは、動物が近づいて来ても見えないし、その音も聞こえない。その代り、動物の皮膚から漂ってくる汗の成分である「酪酸」をダニの嗅覚が感知して行動を起こす。

 その行動ぶりを、日高敏隆氏は次のように描いている--
 
 「運がよければ、ダニはそのけものの上に落ち、皮膚の温かさでそのことを知る。そしてなるべく毛のない場所をみつけ、皮膚に食いこむ。そしてダニはけものの温かい血液をたっぷり飲みこみ、卵を産む。ダニの一生はこれで終わる。ダニには味覚もないので、けものの血液の味はわからない。血の温かさだけがその印なのだ。(中略)茂みの枝から手を放したダニが、うまくけものの上へ落ちなかったとき、ダニはまわりの冷たさでそのことを知り、多大の努力をしてもとの茂みの枝へ這いあがる。そして、またじっと、けものの匂いを待つのである」。(岩波文庫編集部編『読書のすすめ』第12集、p.31)

 ダニは、動物の通過をどれだけ待つか……というユクスキュルの話も、人を驚かせる--
 
 「ダニのとまっている枝の下を哺乳類が通りかかるという幸運な偶然がめったにないことはいうまでもない。茂みで待ち伏せるダニの数がどんなに多くても、この不利益を十分埋め合わせて種の存続を確保することはできない。ダニが獲物に偶然出合う確率を高めるには、食物なしで長期間生きられる能力もそなえていなければならない。もちろんダニのこの能力は抜群である。ロストックの動物学研究所では、それまですでに18年間絶食をしているダニが生きたまま保存されていた。ダニはわれわれ人間には不可能な18年という歳月を待つことができる」。(『生物から見た世界』、p.23)
 
 このような記述から分かることは、ダニの環世界は、我々人間の知っている世界とまったく異なるということである。ここで注目すべきことは、ダニの世界には光も色も音もないというだけでなく、時間の感覚も、我々人間の環世界とは相当異なるということである。ユクスキュルはこのことを、次のように表現している--
 
「時間はあらゆる出来事を枠内に入れてしまうので、出来事の内容がさまざまに変わるのに対して、時間こそは客観的に固定したものであるかのように見える。だがいまやわれわれは、主体がその環世界の時間を支配していることを見るのである。これまでは、時間なしに生きている主体はありえないと言われてきたが、いまや生きた主体なしに時間はありえないと言わねばならないだろう」。(前掲書、p. 24)

 賢明な読者は、ここで聖経『甘露の法雨』の一節を思い出されるだろう--
 
 生命は時間の尺度のうちにあらず、
 老朽の尺度のうちにあらず、
 却って時間は生命の掌中にあり、
 これを握れば一点となり、
 これを開けば無窮となる。
 
 谷口 雅宣

【参考文献】
○岩波文庫編集部編『読書のすすめ』第12集(岩波書店、2008年)

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2008年9月27日

環境と「環世界」

 本欄ではかつて「“百万の鏡”が映すもの」と題して5回にわたって現象顕現の法則について書いた。現象顕現の法則とは、一見“客観的”に存在していると思われる私たちの周りの世界(外界)は、実はそれぞれの人の“心の反映”としてある--という原則のことである。聖経『甘露の法雨』では、このことを「感覚は信念の影を見るにすぎず」などと表現している。仏教的には、「三界唯心」「唯心所現」などと言われる。この原則を言い換えれば、人間は人間の感覚でつくった世界に住み、動物や植物は、それぞれのもつ感覚に相応した世界に棲むということになる。しかし、自然科学の分野では、そういう考え方をせずに、私たちの外側には自然法則に支配された客観的で堅固な世界(外界)が存在しており、その中に個々の生物が棲んでいる、と考えることが多い。
 
 そう思っていたところ、生物学者の中には「唯心所現」に近い考え方をもつ人もいることを知った。この人は、エストニア出身のヤーコブ・フォン・ユクスキュル(Jakob von Uexkull, 1864~1944)で、ドイツで動物学や動物比較生理学の研究をして「環世界」(Umwelt)という考え方を打ち出した人だ。ユクスキュルの『生物から見た世界』(岩波文庫、2005年)を翻訳した動物行動学者の日高敏隆氏によると、この「Umwelt」というドイツ語は、もともと客観的な「環境」のことを意味していて「Umweltprobleme」といえば「環境問題」のことだという。ところが、このドイツ語はドイツで発祥したオリジナルな言葉ではなく、デンマークの詩人による1800年あたりの造語であるというから、「環境」という考え方自体が世界的に新しいものであることが分かる。なお、「環境」を意味する英語は「environment」、フランス語は「milieu」であるが、ユクスキュルのいう「Umwelt」に相当する英語は存在しないという。したがって、日高氏は「環世界」という言葉を造語して、この本の中で使っている。

 では「環境」と「環世界」とはどう違うのか? 前者は、冒頭で述べたように、自然法則に支配された客観的な世界である。ここで「客観的」という意味は、人間ならば誰でもそう感じるという意味より、もっと広い意味での「客観的」である。つまり、「どんな生物にとっても等しく感じられる世界」を仮定しているのである。しかし、この仮定が成り立つ根拠はきわめてあやふやだと言わねばならない。もちろん、人間ならば誰でも(色弱、色盲の人を除いて)「空は空色である」ことに同意するだろう。が、ほとんどの動物は人間とは異なる色覚をもっているか、あるいは色覚などもっていないので、空を空色とは感じない。また、雲を「白」や「灰色」とは感じないし、植物の葉は「緑」ではないし、「赤いバラ」も「黄色いキク」も存在しない。その場合、広義の意味での「客観性」という概念そのものの根拠が薄弱となる。その代り、各生物が種それぞれに様相の異なる世界を感覚していて、その感覚したものを自分の外側に「存在」として感じている--という事態が想定される。この事態を分かりやすいイメージとして描けば、それはちょうど、各生物が自分の周りをシャボン玉のような不可視の“膜”で覆っているような状態である。それは、自分の周りを“環”のように包み込む世界だから、「環世界」と呼べるのである。
 
 日高氏は、この2つの概念の違いを、こう述べている--
 
「客観的に記述されうる環境(中略)というものはあるかもしれないが、その中にいるそれぞれの主体にとってみれば、そこに“現実に”存在しているのは、その主体が主観的につくりあげた世界なのであり、客観的な“環境”ではないのである。(中略)それぞれの主体が環境の中の諸物に意味を与えて構築している世界のことを、ユクスキュルは Umwelt と呼んだ。それは客観的な“環境(Umgebung)”とはまったく異なるものである」(同書、pp. 163-164)。
 
 ユクスキュルは、こういう考え方にもとづいて、人間以外の生物の感覚に肉薄して、生物の環世界を人間に理解できるように再構成しようとした稀有な学者である。私は、『心でつくる世界』(1997年)などの中で、ユクスキュルと同様の考え方を生長の家が主張しているだけでなく、それと同じものが仏教にもあることを指摘した。しかし、そこからさらに一歩進んで、別種の生物の感覚を理解しようなどとは考えなかった。なぜなら、そんなことは不可能だと思ったからである。が、その不可能に挑戦して、別種の生物の感覚を我々人間の理解に近づけようと努力した生物学者がいたという事実は、驚きだった。

 谷口 雅宣

【参考文献】
○ユクスキュル/クリサート著、日高敏隆・羽田節子訳『生物から見た世界』(岩波文庫、2005年)

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2008年9月22日

対称と非対称 (3)

 前回、アイヌ民族のイオマンテの儀式を取り上げたのは、それが無意識の機能の1つである「非対称的関係を対称的関係として取り扱う」分かりやすい例だと思ったからである。
 
 宗教学者の中沢新一氏は、神話や宗教の教えの中には対称性論理(対称的関係)と非対称性論理(非対称的関係)とが上手に組み込んである、と指摘している。例えば、神話の世界では、対称性論理が支配的である。日本の神話に登場する数多くの神々も、ギリシャ=ローマの神話の神々も、その他の多くの神話の神々も、人間との区別がつけにくい。つまり、人間のように泣き、笑い、怒り、嫉妬し、殺し、また悲しむ。このことの裏を返せば、これらの神々は人間にとても理解しやすく、“仲間”として感じやすい。神は人間のようであり、人間は神のようなのだ。このことは、日本神話に出てくるスサノオミコトやオオクニヌシノミコト、ヤマトタケルノミコトなどの話を思い出せばわかるだろう。
 
 また、日本神話での対称性を顕著に示すものとして、私は神々の連続的関係を指摘したい。そこに登場する幾多の神々は、他の神々から截然と分離独立しているのではなく、むしろ流動的につながり合っているのである。どこかにもこのことは書いたが、イザナミノミコトが火の神であるヒノカグツチノカミを産んだことがもとで死んでしまうと、夫のイザナギノミコトは痛恨のあまり自分の子であるヒノカグツチノカミの首を刀で切って落とす。すると、その流れ出る血から次々と8柱の神が生まれてくるのである。また、切られた首や手足や胴体からも別の8柱の神が生まれてくる。これらの神々には人の生活に役立つ機能を表すような名前が、また、山や谷や山麓を表すような名前がそれぞれについている。つまり、火の破壊力を制御することで人間の生活に利便を供したり、自然の山野を(落雷や野火から)守ったりすることができるというメッセージがそこから読み取れる。

 また、これらの神々の関係は“善”と“悪”というような非対称的で、相容れないものとして描かれていない。火の破壊力は否定されるのではなく、その形を変えれば人間や自然に恩恵を与えるものとして肯定されている。そして、“火の神”から生まれるすべての神々は、それぞれの役割がゆるやかに重なり合い、どれかが抜群に秀でているのではなく、みな対等に何らかの積極的機能を果たしている。これらは互いに対称的関係にあると言っていいだろう。
 
「Aは非Aではない」という論理は、我々にとって当り前だろう。それは例えば、「人間はサルではない」ということであり、「赤はピンクではない」ということだ。しかし、人間とサルは遺伝子が98%以上共通しており、ピンクの中には赤が混ざっている。そういう共通性に注目して「人間はサルではないがサルでもある」と言ったり、「赤はピンクではないがピンクでもある」と言うことはバカげているだろうか? 後者の考え方が対称性の論理であるが、神話はこういう考え方に満ち溢れている。そして、宗教の教えの中にも、対称性の論理は数多く見出されるのである--「自他一体」「今即久遠」「相即相入」「即身成仏」「身心一如」「修証一如」「言葉は神なりき」「天国は今ここにあり」「唯心所現」……そして、「人間は神の子である」。

 谷口 雅宣

【参考文献】
○中沢新一著『対称性人類学』(2004年、講談社刊)

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2008年9月18日

対称と非対称 (2)

 我々の無意識が「非対称的関係を対称的関係として取り扱う」というのは、どういう意味だろうか。前回本欄で書いたことは、我々の覚醒時の論理的認識だった。こういう精神活動は、我々が「理性」と呼んでいるものが行うとされている。これに対して、我々の精神活動のもう一つの側面である「感情」は、必ずしも理性の束縛を受けない。このことは、我々自身の日常の中でもよく体験されることだ。例えば、我々は理性ではマズイと分かっていることも、感情に任せて言ってしまうことがある。また、理性的には不合理だと考えることも、感情的に納得してしまうこともある。そういう人間の感情的側面が無意識と関係しているとしたら、マテ=ブランコの指摘は看過できないものを含んでいるのである。
 
「非対称的関係を対称的関係として取り扱う」例として、前回の本欄で掲げた非対称的関係を逆転して対称的関係にしてみよう--
 
 彼は電話をくれる  → 電話が彼をくれる
 雨が空から降る   → 空が雨から降る
 彼女は空腹を感じる → 空腹は彼女を感じる
 あなたは生長の家の会員である  → 生長の家はあなたの会員である
 私は犬を飼っている   → 犬はあなたを飼っている
 日本は世界の一部である  → 世界は日本の一部である

 これらの表現は、一見論理的には破綻していて無意味に感じられる。しかし、何回も味わって読んでみると、何か不思議な含意があるような感覚に到達しないだろうか?
 
 例えば、こんな物語が読み取れるかもしれない--
 
 彼に恋い焦がれていた彼女は、ここ1週間というもの、彼から電話がかかって来ないことに疲れ果てていた。毎日でも彼の声を聞き、できたら彼と会って、たくさんの話がしたいと思っているのに、彼はなぜか、そんな彼女の気持に一向無頓着で、自分の好きなスポーツに熱中しているのである。そんなある日の午後、彼女の部屋の電話が鳴り、心踊らせて受話器を取った彼女の耳に、彼の弾んだ声が飛び込んできたのだった。
「今から、遊びに行ってもいい?」
 断る理由は何もなかった。でも、すぐにOKするのは口惜しかった。だから彼女は、
「えぇ……そんな突然……」
 と言葉を濁した。
 でも、心の中は幸福でいっぱいだった。部屋に電話があることが、これほど嬉しいことはなかった。電話が彼を彼女にくれたのだ。

 2番目の例は、こんな場合を暗示していないだろうか--
 
 私が“ゲリラ豪雨”というものに襲われたのは、その日が初めてだった。
 家を出たつい10分前には、青空が見えていた西の方角に、見る見るうちに積乱雲が積み上がっていった。でも、渋谷駅まではほんの少しだと高をくくっていたのが、いけなかった。雷鳴が遠くに聞こえた、と思うと、ポツリポツリと冷たいものが降ってきた。人々が小走りになり、傘を広げたり、雨宿りできる軒下を探しているのが分かった。が、私は人と会う約束があったから、立ち止まるわけにはいかなかった。私は、持っていた鞄を頭に載せて、走った。雨が直接顔に当たらないように、うつむいた姿勢で、水溜りを避けて走った。空にこんな大量の水があることが不思議だった。その雨は、まるで空全体が地上に降っているようだった。

 --私がここで言いたいことは、人間はいわゆる「理性的」に世界を理解することと併行して、それとは別の論理(あるいは仕組み)によって「感情的」にそれを理解することができるということだ。マテ=ブランコは、そのことを「二重論理」(bi-logic)という言葉で表現し、それが我々の無意識が行っている仕事だと捉えたのである。
 
 谷口 雅宣

【参考文献】
○I.マテ-ブランコ著/岡達治訳『無意識の思考--心的世界の基底と臨床の空間』(新曜社、2004年)

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2008年9月17日

対称と非対称

 無意識の研究については、シグムント・フロイト(Sigmund Freud, 1856-1939)やカール・ユング(Carl Gustav Jung, 1875-1961)が有名だが、チリで生まれ、イギリスで精神分析・精神医学を学び、アメリカで研究を深め、ローマでも活躍した精神分析家、イグナシオ・マテ=ブランコ(Ignacio Matte-Blanco, 1908-1995)が行った、数学や論理学を駆使した研究は、多くの示唆に富んでいる。彼はその中で、無意識には覚醒中の論理とは異なる独特なものがあるとして、13の特徴を挙げたが、その分析の基本に数学の集合論を用いた点、心の研究にフロイトやユングにない新たな地平を開いた人物として評価できるだろう。
 
 難しいことをできるだけ平易に表現してみると、マテ=ブランコによると、我々の思考は世界から2つの概念(集合)を切り出して、それらの関係性を組み立てることで行われるという。簡単な例を挙げれば、私は今、ノートパソコンを使って文章を書いている。この認識(思考の産物)を形式化すると--
 
 私(A)は  文章(B)を  ノートパソコンで書いている(C)
 
 --となる。
 
 Aという事物と、Bという事物があり、その関係はCで表される。文法的に言えば、Aが主語、Bは動詞(書く)に媒介された目的語である。この関係を逆転させると--
 
 文章(B)は  私(A)を  ノートパソコンで書いている(C)
 
 --となり、世界の実情とは違う意味不明の文章となる。
 
 このように、関係の逆転が成立しないような関係を「非対称的関係」(asymmetrical relationship)とマテ=ブランコは呼んだ。これに対して、世界を構成する2つの要素の関係Mtimg080918_2 を逆転しても意味が変わらないものもある。それは例えば、私と本欄の読者が共に日本人であるという関係である。(これには少数の例外もあるが、今はそのことを問題にしない)この認識を形式化すると--
 
 私(A)と  読者(B)は  日本人である(C)
 
 --となり、これを逆転すると、
 
 読者(B)と  私(A)は  日本人である(C)
 
 --となって、意味は変わらない。
 
 このような、関係の逆転が同じ意味であるような関係を「対称的関係」(symmetrical relationship)と彼は呼んだ。こうして、我々が周囲の世界を概念(集合)の集まりとその関係として見るならば、あらゆる認識が対称的または非対称的関係の中に収まる--
 
 彼は電話をくれる (非対称)
 雨が空から降る (非対称)
 彼女は空腹を感じる (非対称)
 あなたは生長の家の会員である (非対称)
 私は犬を飼っている (非対称)
 日本は世界の一部である (非対称)
 鳥と獣は違う (対称)
 …………
 これらの例では、「非対称」が「対称」的関係より多い。そのことから分かるように、我々の周囲の世界では、一般に対称的関係は非対称的関係ほど多く見られない。そういう認識が我々が通常--つまり、目が覚めている時に--見る世界である。ところが、マテ=ブランコによると、我々の無意識は、非対称的関係を対称的関係として取り扱うことが多いというのである。
 
 谷口 雅宣
 
【参考文献】
○I.マテ-ブランコ著/岡達治訳『無意識の思考--心的世界の基底と臨床の空間』(新曜社、2004年)

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2008年9月16日

睡眠と思考

 人が目を閉じてじっと動かないときは、沈思黙考しているのか、それとも眠っているのか分からないことがある。当の本人も、目をとじて考えているつもりでいて、ふと眠ってしまうこともある。その一方で、人は夢の中で何かを考えることもできる。眠りと思考との間には、だから截然とした境界はなさそうに思える。
 
Mtimg080916  しかし、目を覚ましていて考えるのと睡眠中の思考とは、使っている“心の領域”が違っている--こう断言するのが不安ならば、少なくともそう言われているとしておこう。つまり、覚醒中の思考は現在意識が行い、睡眠中のそれは潜在意識あるいは無意識が行う。心理学では、よくそう考える。では、睡眠中の思考は、目覚めている時のそれと同じ論理で行われるのだろうか? 
 
 この問いに答えるためには、どうしたらいいか。睡眠中に見た夢を覚えておくことは至難の業だ。だから、夢の中の思考が目覚めている時の思考と同じかどうかなど、確かめようがない。そう思う人がいるかもしれない。が、「夢そのもの」が睡眠中の思考だと考えてみれば、夢の世界の一般的な特徴を思い出すだけで、先ほどの疑問にある程度答えることができるだろう。
 
 夢の世界の特徴は、論理性がなく、ほとんど支離滅裂である--そんな印象が圧倒的である。しかし、心理学者は、多くの人の見る夢を詳しく研究することで、一見、何の脈略もなく物事が生起し、覚醒時の論理を受け付けないように見える夢の中に、一定のパターンや独特の論理性を発見してきた。そういう夢の中の隠れた“鍵”を使って、それを見た本人とともに夢の意味を考えることで、本人の心や肉体上の病気が癒されることがあることも分かってきた。これが、精神分析による夢判断である。
 
 ということは、眠りと思考の間には“境界”がなさそうに感じられたとしても、そこでは心に何らかの“モード変換”が起こると考えられる。心が“覚醒モード”から“睡眠モード”へと切り替わり、それと同時に、思考の論理も変換する。こう考えると、夢の研究や、それを見る無意識の中の論理を探究することに、何らかの意味があることが分かってくるのである。
 
 谷口 雅宣
 

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2008年9月12日

逆立ちした「9・11」

 2001年9月11日にアメリカで起こった同時多発テロ事件から7年がたったというので、被害国・アメリカを中心に、その後の“テロとの戦争”などの諸対策の効果をめぐって様々な議論が起こっている。私はその中で、10日付の『ヘラルド・トリビューン』紙に載ったマイケル・スラックマン記者(Michael Slackman)のカイロからのレポートを読んで驚いたと同時に、人間の心の不思議さを改めて感じた。我々日本人を含む“西側”の立場から見るこの事件と、“イスラーム側”--特に、アラブ人--から見たこの事件の意味が、あまりにも違うからである。
 
 エジプトのカイロだけでなく、ドバイ(アラブ首長国連邦)のショッピング街、アルジェ(アルジェリア)の公園、リヤド(サウジアラビア)のカフェで普通の人々が語り合う「9・11事件」は、我々の考えるものとほとんど“正反対”だ。西側では“陰謀説”と呼ばれ、ごく少数の人間が唱えているものが、彼らの間の“通説”になっている。つまり、「9・11」はアメリカ政府とイスラエルの合作であり、これをイスラーム過激派やイラクのせいにして中東に軍を送り込み、そこを支配下に置くための陰謀である--そう固く信じている人が大半だというのである。

 私はかつて本欄でも、この“陰謀説”を紹介したことがある。2年前の今ごろに書いた「大悪が大事件を起こすのか?」というブログだ。また、この説は、オサマ・ビンラディンのアメリカへの“宣戦布告文”と主旨が同じであるから、“テロとの戦争”を7年間戦ったすえに、イスラーム人口の大半がビンラディンの世界観に同調するようになったとも解釈できる。もしそうであるなら、たとえ武力によって“敵”を制圧したとしても、この戦争では“西側”が勝利しているとはとても言えないと思う。少なくとも“思想戦”の分野においては“西側”の敗北ではないだろうか。

 どこかにも書いたことがあるが、人間は基本的に「信じたいことを信じる」のである。この記事にもあるように、アラブ世界の一般民衆は、あの精密・強力な電子兵器で武装した核超大国であるアメリカが、自らの富の源泉である国際金融センターのニューヨークや国防総省の真上に旅客機が侵入することを防げないなどということはあり得ない、と考えるのである。しかも、それを指揮したのが、アフガニスタンの山奥に住むアラブ人の小グループであることなど信じられない、と彼らは言う。また、物事が起こる時間的序列は、因果関係を示すと見られがちだから、「9・11」(A)が起こった後にアメリカによる「アフガニスタン侵攻」と「イラク戦争」(B)が起こったのだから、Aの目的はBである--つまり、アメリカは原理主義イスラームを打倒するために、自分自身で「9・11」を演出した--と見なされるのである。そして、Bによって何が実現しているかというと、アフガニスタンとイラクに親米政権が樹立され、そこからの石油の(アメリカへの)輸出が保障され、さらにはイスラエルの安全が向上する。こうして、原因に始まり結果に終わる因果関係の輪はきれいに閉じて、世界はとても分かりやすくなる。だから、この“陰謀説”は、アラブの民衆の“認知の不協和”を解消する便利な道具でもあるのだ。
 
 私はもちろん、こんな安物の陰謀説にくみしない。この説の最大の難点は、「アメリカ人によって選ばれたアメリカ政府が、何千人という大勢のアメリカ人とその友好国の人々を犠牲にして、国の一部の勢力と外国(イスラエル)の利益のために行動する」という前提が、現実離れしているからである。また、もし仮に政府上層部と一部の利益団体がそのような動きをしようとしても、それを見抜き、反対できないばかりか、そういう政策に積極的に協力していくような愚か者としてアメリカ人を--いや、民主主義が機能しているどんな国の国民も--見ることができないからである。これに対して、民主主義が機能しない独裁的な政治が行われている国の人々は、自国政府の姿をアメリカ政府にごく自然に投影できる。つまり、自国がそうなのだから、アメリカもそうであるに違いないと考えるのだ。スラックマン記者は、それを次のように説明している--
 
「それ(陰謀説)は、彼らが国家の指導者を--ワシントンの指導者だけでなく、ここエジプトを初め中東全体の政治指導者を--どう見ているかを反映している。彼らは、政治指導者を信じない。国営の報道機関も信じない。だから、政府がビンラディンが事件の背後にいたと主張するのであれば、それは本当はいなかったに違いないと考えるのである」。

 このような事実を見ると、我々人間は、個人のレベルで“心でつくる世界”に棲んでいるだけでなく、国家や国際関係のレベルでも、自らの“心の投影”をつくり上げて、それと格闘するという愚を犯していることが分かる。「戦争は迷いと迷いとのぶつかり合い」と言われる所以である。
 
 谷口 雅宣
 

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2008年9月 8日

脳波計は真実を語るか?

 脳波計による犯罪捜査が実際の裁判で初めて認められ、論争を呼んでいる。とはいっても、日本のことではなくインドでの出来事だ。8日の『ヘラルド・トリビューン』紙が伝えている。「機械が人間の心を読めるか」という論争は、ウソ発見器の登場以来つづいているが、今回の件は、ウソ発見器より精確で複雑な、脳波計とコンピューターを組み合わせた脳波検査が、殺人事件での証拠の1つとして採用されたということだ。今後の犯罪捜査などで世界的な影響が広がるかどうか、「心の問題」に関心のある私としては興味あるところだ。
 
 同紙の記事によると、今年6月、インドのマハラシトラ州での刑事事件で下された判決では、裁判官が脳波計の測定結果に明確に言及し、被疑者(女性)は犯罪について、犯人でなければもちえない“経験的知識”(experiential knowledge)をもっているとして、終身刑を言い渡したという。ところが、この分野で最先端をいっているアメリカの脳神経学者の間では、この技術が科学的に正式に検証されていないということで、「すごい」とか「ばかな」とか「恐ろしい」という、3種類の反応が出ているらしい。

 この事件では、24歳の女性が前の許婚を殺した容疑で捕えられた。2人は同州のピューンという場所でしばらく同棲生活をしていたが、女性の方が別の男と駆け落ちしてデリーへ行ってしまったという。数カ月後、女性はピューンにもどって来て、前の許婚にマクドナルドで会おうと誘った。そして、食べ物にヒ素を盛って毒殺した--というのが検察側の主張である。女性は殺人を否定している。

 これが真実であるかどうかを、脳波計によってどう検査するのか? 上記の記事には、こうある--被疑者の頭に32個の電極を付け、脳波計につなぐ。その状態のまま、捜査官は被疑者の前で、犯罪がどう行われたかを描いた文章を読み上げる。この文章には、「私はヒ素を買った」とか「私はマクドナルドで彼と会った」などと被疑者の行動が一人称で細かく表現してある。被疑者がもし犯人ならば、文章を聞いている間に過去の記憶がよみがえって来るだろう。すると、それに対応した脳の部分が反応して脳波計に信号を送るというのだ。脳波計はその信号をコンピューターに伝え、コンピューターはそれらを解析して、被疑者が犯罪行為の細部--臭いや音など--も思い出したかどうかを判断するという。この解析に使われるプログラムは、ある行動を被験者自身が実際に行ったのか、それとも単に目撃しただけかの違いも分かるとされている。
 
 この検査法は、脳内電位振動解析法(Brain Electrical Oscillations Signature, BEOS)と呼ばれ、インドの国立精神神経科学研究所の臨床心理学部門にいたインド人神経科学者、チャンパディ・ラーマン・ムクンダン博士(Champadi Raman Mukundan)によって開発されたもの。
 
 今回の事件では、従来の方法では厳しい取り調べが行われることを見越して、被疑者の女性はこの新しい検査法に同意したという。頭に電極を付けるだけで、肉体的にも精神的にも苦痛を伴わないからだ。この点に注目する人は、検査場でのテロリストの割り出しや、捕虜やスパイからの情報収集に有益だと期待しているらしい。拷問の必要性がなくなってしまうからだ。しかし、その反面、機械的誤診断から無実の罪が生まれたり、意図的にデータが捏造される可能性が心配される。私は、それに加えて、犯罪実行前の準備段階でも、「犯人でなければもちえない経験的知識」がある程度発生する可能性を考える。つまり、準備はしたけれども、最終段階で思い止まった人が犯行グループの中にいた場合、どうなるかという問題だ。また、この同じ技術が、犯罪ではない“経験的知識”の有無を調べるために使われれば、特定のグループに属する人間を選び出したり、個人の政治思想や宗教的信念を割り出す手段となる可能性を危惧する。
 
 とにかく、人の「心の中を覗く」ための技術は、好意的に見ても“諸刃の剣”であり、否定的に見れば、危険な誘惑に満ちているような気がするのである。
 
 谷口 雅宣

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2008年8月31日

頭の回路を切り替える

 JALグループの機内誌『スカイワード』の8月号に、アニメーション作家の宮崎駿氏がインタビューに答えて、自らの制作過程に触れた話をしているのを、興味深く読んだ。

 宮崎氏は、所沢市の自宅から武蔵野の仕事場までの曲がりくねった道を歩いていくことがあるという。いつもではなく「たまに」というニュアンスである。それが2時間半の道のりというから相当な運動量と思うが、「たいした距離じゃないですよ」と言っている。15分で1キロを歩くとすると、10キロの行程である。記事は、そのあとこう続く--
 
「歩いているうちに、何も考えなくなる。とても単純な感じになって、同時に、だんだんと風景が見えてくるのだそうだ。束の間の、自分の時間。頭の回路を切り替えるための、大切な時間だ」。(同誌、p.80)
 
 今日は北海道の空知教区での生長の家講習会だった。私はその中の午後の講話で、人間の“右脳”と“左脳”の働きについて触れ、知覚や芸術的感覚との関係が深い“右脳”の機能をもっと活かした生き方が、現代人には必要であることを訴えた。そのことが、我々にすでに与えられている自然の恵み、さらにはその背後にある神の愛を感受し、感謝する生き方につながるからだ。また、そのような生き方を人類が取り戻すことが、地球環境問題の“根っこ”にある欲望至上主義を脱却する道だと考えるからである。そんな話をした後、千歳から羽田へ飛ぶ機上で宮崎氏の長距離歩行の記事を読んだのだ。だから、氏が「頭の回路を切り替える」のは“右脳モード”への切り替えだと合点した。
 
 上の引用で私が特に重要だと感じたのは、「何も考えなくな」って「だんだんと風景が見えてくる」という点だ。人間が考えるのは「言葉」による。一般に言語処理は“左脳”が得意とすることだから、自然の中で体を動かし、歩行を続けていけば“左脳”はやがて沈黙し、何も考えなくなる。そのとき“右脳”が活性化しているのだ。つまり、言わば“言語優先モード”から“感覚優先モード”に切り替わる。だから、周囲の自然界から送られてくるメッセージを感受しやすくなり、「だんだんと風景が見えてくる」のに違いない。これは、それまで風景に目をやらないで歩いていたという意味ではなく、風景に目をやっていながら、心は別のことを考えていたということだろう。つまり、私が『太陽はいつも輝いている--私の日時計主義実験録』(生長の家刊)の中で使った左脳による“自動運転モード”にあった心が、自然との一体感を得る“感覚優先モード”に切り替わるのだと思う。宮崎氏は、その時の感覚を次のように語っている--
 
「なんとなくできた道って、スーッと曲がっていて、いい感じなんです。歩いていると前から風景が仕掛けてくる。思わぬ路地が現れたりしてね。楽しいし、気が楽になります」(p.80)
 
 東京の都心に住む私は、宮崎氏のように山道や田舎道を2時間半も歩くことはできないが、約30分のジョギングで心が結構解放される。このことは、上掲の拙著に書いた通りである。これで“右脳”が活性化するから、句を作ったり、創作の構想が湧いたり、スケッチしたくなる風景が見えてくるのである。もちろん、宮崎氏はその道のプロで、私はそうでないから、右脳の活性化の程度にはずいぶん差があるかもしれない。また、発想の豊かさや、関心の方向にも違いがあるだろう。しかし、同じ人間であるから、芸術制作に必要な心の持ち方という点では、共通したものがあるはずである。その一端を覗いたような気がして、うれしくなった。

 もう1つ、気がついたことを言おう。それは、“左脳”の活動とは違う“右脳”の働きを私はここまで描いてきたのだが、それをするのに言語のみを使っているという点だ。つまり、“左脳”は“右脳”を表現できるのである。人間の左右の脳は--そして、心も--このように複雑に一体化している。実に有用で、ありがたい道具を我々は使わせていただいていると思う。
 
谷口 雅宣

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2008年8月28日

“百万の鏡”が映すもの (5)

 本シリーズは、8月25日の本欄で結論が出たと考えた読者がいるかもしれない。が、本当は結論は出ていない。ここ数日、シリーズ“最終回”(本当に最終になるかどうか自信がないが)をどう書くかに、私は迷っていた。が、今日は休日であることもあり、不安がありながらもとにかく書いてみることにした。このブログは、これまでにもそういう“半煮え”の心境でも書き継いできたから、たとえ文章が不完全なものになっても寛大な読者は大目に見てくださるだろう……などと期待している。
 
 私は聖経『天使の言葉』にある“百万の鏡”の喩え話について、シリーズ前回の最終部を下記の文章で締めくくった:
 
 我々は今、この瞬間にも、上下左右四方四維を“百万の鏡”に取り囲まれているのである--「汝ら億兆の現象も、悉くこれ自己の心の反映(うつし)なることを知れ」ということである。
 
 しかし、聡明な読者は、この文章は“現象”が我々の心にどう映るかを説明していても、“実相”については何も語っていないことに気がついたに違いない。『天使の言葉』では、この比喩が使われるに先立って、次のような文章がある:
 
 汝らの先ず悟らざるべからざる真理は、
 『我』の本体がすべて神なることなり。

 このあとに、「汝ら億兆の個霊(みたま)も、悉くこれ唯一神霊の反映(うつし)なることを知れ」という文章が続くのである。この文脈から考えると、ここで言われているのは人間の実相が神であり、その神(または我々の実相)は唯一神霊の反映として存在する、ということだ。つまり、聖経での“百万の鏡”の喩え話は「実相」の説明に使われているのである。ところが、私の説明は、「現象は皆、それを感じる人の心の反映である」という現象顕現の法則を述べているにすぎない。別の言い方をすれば、聖経は「神と人間との実相における関係」を説いているが、私は「個人とその周りの現象世界との関係」を述べただけなのである。
 
 読者には、この違いを理解してもらえただろうか? では私はなぜ、最初から直接“実相論”(実相についての議論)を語らずに“現象論”(現象についての議論)を先にしたのかといえば、それはまず「唯心所現」の現象顕現の法則がどのように発動するかを確認しておくことが、実相の理解には必要だと思ったからである。

 我々がこれまで確認したことは、「窓枠」ないしは「田の字」のように見える図形の見え方は、その図形の客観的様相にかかわらず、見る人の心の状態に左右される、ということだった。「窓枠」を知っている人だけが「窓枠」を見、「田の字」を知っている人だけが「田の字」を見たのである。図形は、我々の心の内容を映し出す“鏡”の役割をはたした。これと同様に、現象世界に感覚されるすべてのものは、我々の心の内容を映す“鏡”と言える。ということは、現象世界の存在のすべては、「自己の心の反映」すなわち“自己の心の作品”という点で共通している--つまり、1つである。そこに仮に“敵”と“味方”が見えたとしても、あるいは“悪”と“善”とが見えたとしても、それらは“自己の心の作品”の中の“登場人物”、あるいは“舞台装置”にすぎず、作品全体にとって掛け替えのないもの--つまり、「1つ」の全体に対する部分である。
 
 これらはしかし、現象顕現の法則であって、実相のことではない。実相は、唯一神霊(神)が“自心の反映”としての世界を享受している状態である。それがどんな状態であるかは、聖経に次のように書かれている--
 
 悉くこれ唯一神霊の反映(うつし)にしてすべて1つなれば
 これを汝ら互いに兄弟なりと云う。
 すべての生命(いのち)を互いに兄弟なりと知り、
 すべての生命を互いに姉妹なりと知り、
 分ち難くすべての生命が一体なることを知り、
 神をすべての生命の父なりと知れば、
 汝らの内おのずから愛と讃嘆の心湧き起らん。
 
 読者は、我々が心でつくる現象世界の違いと、唯一神霊の心の反映としての実相世界との違いを感じ取っていただけただろうか? 我々はとかく「自己は肉体なり」との誤った認識から“敵”や“悪”を現象世界に映し出すが、神はそのような誤りを犯し給わないから、実相世界は善一元、美一元、真一元なのである。その実相においては、「すべての生命が一体」であるから、「調和おのずから備わり、一切の生物処を得て争うものなく、相食むものなく、病むものなく、苦しむものなく、乏しきものなし」(『甘露の法雨』)ということになる。
 
 谷口 雅宣

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2008年8月25日

“百万の鏡”が映すもの (4)

 さて、本シリーズも4回目になったので、そろそろ結論を出さねばならない。が、幸いなことに、読者のコメントの中に“結論”らしきものがあるので、これについてまず述べよう。2人の読者が「図形自体には意味がなく、それを見る人の心の中に意味が想起される」という主旨の答えを述べられた。この答は、谷口雅春先生が『新版 真理』第7巻悟入篇の、問題の図形を提示された箇所に書かれている次の言葉と、ほとんど同じ意味である:
 
「外から来る光線の刺戟は、実は自分の心の内にある無限の相(すがた)のなかから、或る相を浮かび上がらせる契機を与えるだけである。」(同書、p.79)
 
 そうすると、「窓枠」や「田」の字のように見えた図形は、それを見る人の心を映す“鏡”の役割をはたしていることになる。では、その図形が、ここで言う心の“鏡”の役割をはたしているのは、それが何か人為的な工夫を凝らした特殊な図形だからだろうか? それとも、どんな図形でも、同様の役割を果たすと言えるのだろうか? この質問に対する答えは、上に引用した雅春先生の言葉を理解する人は、簡単に分かるだろう。我々の周りにあるどんな図形も皆、我々内部の相を映し出す“心の鏡”である--こう考えていいだろう。
 
 では、「図形」以外のものについてはどうか? ここで「図形」というのは、「描かれた形」あるいは「面・線・点などの集合から成ったもの」(いずれも『新潮国語辞典』の定義)の意味に使おう。換言すれば、図形とは、人為的に平面に描かれた形、または人為的に形成された立体ということになる。そうすると、「図形以外のもの」とは、二次元と三次元上に人為的に形成されなかったもの--つまり、(人間を除いた)自然界の現象すべてを指すことになる。これには、例えば「山」や「木」「草」「川」「海」「岩」「動物」……など無数のものが含まれる。これら無数の自然現象は、はたして「我々内部の相を映し出す“心の鏡”である」と言えるだろうか?
 
 この質問に対する答えを読者に考えてもらっている間に、「自然物」という考え方について少し述べたい。「自然物」という言葉は上掲の辞書では「自然界に存在する有形物」と定義されていて通常、人工物は含まない。これは、自然的(natural)なものに対して人工的(artificial)なものを考える我々の心のクセから来ているのだろう。が、1つ指摘しておけば、我々人間も「自然界に存在する有形物」であることに変わりないのだから、高層ビルのような人工的な建物であっても、サンゴ虫が形成したサンゴ礁と同じように「自然物」と呼んでも間違いではないはずだ。しかし、議論がややこしくなるので、今はそのことを問わずに、“自然”と“人工”を対比させる習慣に従うことにする。
 
 では、自然物とは具体的に何だろうか? それは、上に例示した「山」「木」「草」「川」「海」「岩」「動物」……などだろう。しかし、「山」が本当に自然物であるかどうかは議論の余地が十分あると思う。私の言う意味は、現代においては地球上のほとんどの「山」には人間の手が入っているというようなことではない。そもそも「山」などというものが自然界に存在するか、という問題である。誤解のないように言っておくが、私は一般に「山」と呼ぶものが現象界に存在しないと考えているのではない。そうではなく、「山」に対して「平地」や「里」や「丘」を別のものとして捉える考え方は、人間の独断であり、不自然ではないかということである。
 
 説明しよう。地球の“外皮”に該当する部分を「地殻」と呼び、その表面に堆積したものを「表土」とか「土壌」と呼ぶ。これらは均一でなく、地殻変動や河川の活動などによって隆起したり陥没しているのが自然状態だ。が、その隆起のうち一定の高さ以上のものを、我々は周囲の地殻から視覚的に分けて取り出し、それを「山」と呼んでいるのである。「山が在る」のではなく、何か別のものを「山と呼んでいる」のである。「一定の高さ」がどれだけであるかは、人間が勝手に決めており、それより低いものは「丘」と呼んだり「盛り土」と呼んだり、「堆積」と呼んだり……つまり、これらは、もっぱら人間の心の中の独断的分類であって、その言葉に正確に対応するものが自然界に存在するわけではない。したがって、「山」は自然物として存在しているのではなく、人間の心の反映の一部であるに過ぎない。
 
 この議論に賛成してくれる読者は、同じ論法によって、「草」「木」「川」「海」「岩」「動物」……なども人間の心の反映であって、自然界にそのまま存在するものではない、という議論にも賛成してもらえるのではないか? この結論に達するまでにはもっと説明が必要かもしれないが、スペースの関係で省略する。私がここで言いたいのは、人工物のみならず、自然物も「我々内部の相を映し出す“心の鏡”である」ということだ。このことが分かれば、『天使の言葉』にある“百万の鏡”が何を意味するかも了解されるに違いない。
 
 我々は今、この瞬間にも、上下左右四方四維を“百万の鏡”に取り囲まれているのである--「汝ら億兆の現象も、悉くこれ自己の心の反映(うつし)なることを知れ」ということである。
 
 谷口 雅宣

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2008年6月20日

「ふと思いつく」こと (2)

「高級神霊の導きを受ける祈り」には、こうある--「ふと思いつかせる神秘者は、人間の脳髄の中には居ないのである。それは霊界から何らかの霊がわれわれに霊波を送って来てふと思いつかせるのである」。

 これを読むと、「A」という人がふと思いつくことは、それとは全く別の人格をもった「X」とか「Y」などの“霊界の人”からの通信による、と解釈されやすい。しかし、同じ祈りの別の箇所では、「放送霊波に波長が合うときアイディアを感受する」という考え方が明確に述べられているから、AがXからアイディアを感受する時、両者は「全く別」ということではないのである。我々の通常の人間関係でも、「気が合う人」と「気が合わない人」がいる。これは、ものの考え方、感じ方、興味の対象、嗜好、趣味……などで、互いに共通点が多いのが前者であり、少ないのが後者である。AとXが前者の関係にあるとき(つまり、気が合う友人同士であるとき)、AとXは同一の人格ではないが、かといって「全く別」の人格でもない。だからこそ、XのアイディアをAが喜んで採用することになるのである。

 ここのところは見逃しやすい点かもしれない。「Xの放送霊波をAが受信する」と表現すると、Aはもっぱら受身の立場で、Xの放送霊波を一方的に受けて、Xの思うままになるというような隷属関係を思い浮かべやすい。しかし、このように、一方が他方を“操縦する”と考えるのは間違いである。そうではなく、Xのアイディアを受け取るAは、自ら選んでXと同じ“波長”になるのである。これがあって初めて、Xからの通信を受けることができる。だから両者は「操縦・被操縦」の関係ではない。むしろ、トランシーバーで会話をするときのように、対等に近い関係である。両者のトランシーバーが同一波長に設定されれば、「X→A」の通信だけでなく、「A→X」の通信もできるのである。この時、両者のもつトランシーバーは「全く別」とは言えない。それらは「同一」ではないが、少なくとも「同波長」であり「同型」である。
 
 この辺りの関係を、谷口雅春先生は『新版 幸福生活論』(2008年、日本教文社)の中で、次のように説明されている--

「“フト”思いつくと云うのは決して“偶然”ではないのであります。“フト”と云うのは心理学的に云うならば、“潜在意識”の世界であります。心霊学的に云いますと、これを守護霊(guardian angel)の導きと云うのです」。(p.76)

 心理学で「潜在意識」という場合は普通、ユングのいう「集合的無意識」(collective unconscious)も含まれる。とすると、「ふと思いつく」という現象は、個人の意識に対して集合的無意識が働きかける場合を含むことになる。これは、私たちが絵を描いたり、写真を撮ったり、詩作したり、作曲したり、工業デザインを制作するときに普通に起こることだ。ある森の一画を無性に絵に描きたくなったり、ある町角がどうしても写真に撮りたくなったり、歩行中に詩の言葉が浮かんできたり、曲の一部が脳裏に流れたり、あるタイトルの本を書店の本棚から取り出したくなったり……そんな経験はごく日常的にあるもので、いわゆる“心霊現象”ではない。

 こういう角度から見れば、私たちの霊界との関係は日々当り前に起こっていることになり、異常現象や超常現象などではないことが理解されるだろう。
 
 谷口 雅宣

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2008年6月19日

「ふと思いつく」こと

 前回の本欄で言及した「高級神霊の導きを受ける祈り」を読んだ読者は気づかれたと思うが、ここには私たちの日常生活にしばしば現れる“重要な選択”の秘密が書かれている。この祈りから引用すれば、“重要な選択”とは例えば次のようなものである--
 
「人間の運命は“ふと思いつくことを行動する”ことによって、おのずから結果が展開して行くのである。ある人は、良きアイディアを“ふと思いつく”ことによって、それを行動に移して大成功したが、ある人は“ふと思いつく”ことを実行したために大火災を起こして大変な損失を蒙(こうむ)ったのである。ある人は、“この自動車で鎌倉へ行こう”とみずからタクシーを呼び留めてそれに乗ったために、その自動車がトラックと正面衝突して重症を蒙ったのである。(中略)まことに“ふと思いつく”ということで大抵、人の日常生活は行なわれ、その人自身の運命を決定しつつあるのである」。(『続 真理の吟唱』、pp. 193-194)

 私たちの日常生活は、限りない数の選択の連続によって進んでいくが、不思議なことに、私たちは普段、そのことをあまり意識していない。そして往々にして、1日の終りに「変化のない単調な日だった」などという感想を抱くのである。そんな時、私たちは“単調な日”という何か一定した客観的なものを、外から与えられたような印象を受けているのだが、本当は、限りない数の選択を「無意識に任せて行っている」に過ぎない。私は『太陽はいつも輝いている』(2008年、生長の家刊)で、「自動運転」(automatic pilot)という言葉を使ってそのことに言及している(pp.66-72)。長距離をいく航空機や船舶には、コンピュータで制御した“自動運転”のモードがあるというが、それと同じように、私たちは1日の始まりに当たって、「いつもと同じ」「従来通り」「繰り返しの」などという無意識モードに自分の心を設定して、“変化のない単調な日”を自ら作り出していると言える。
 
 だから、「新鮮な日」「人生で1回きりの日」「新たな出発の日」などをつくるためには、この自動運転の“眠った心”を目覚めさせ、人生の主体者として自らが日々の選択に積極的に関与していく必要がある。その時に重要なのが、この「ふと思いつく」ことである。これは能動的な表現であるが、受動的に表現すれば「アイディアを感受する」ことである。ただし、前回も触れたように、感受するアイディアには善いものと悪いものがある。では、“悪いアイディア”を避け“善いアイディア”を感受するにはどうしたらいいのか? 上掲の祈りには、次のようにある--

「人は往々にして物質的欲望や、肉体の快楽追求の欲望に心の波長を狂わせて、自分の心の波長が正守護神や特命守護神の放送霊波に波長が合わなくなり、守護指導のアイディアを感受し得なくなることがある。そのとき迷える亡霊や怨霊の如きものの放送霊波を感受して、それをみずからの“思いつき”として行動して失敗するのである。その失敗を避けるためには、人は毎日、必ず神想観を実修して自己の心の波長を正しく調律し、神より遣わされたる高級守護霊の導きのみを感受し得る正しき“心の状態”に維持することが必要なのである」。(pp. 196-197)

 日々、神想観を実修することの大切さが、再確認される。それとともに、私たちが日常的に接する様々な情報が、私たちの運命をどう形成していくかも理解されるのである。つまり、「情報の選択」は「運命の選択」に結びつく人生の重要事項なのである。
 
 谷口 雅宣

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2008年6月16日

“後ろの目”をどうする?

 だいぶ前の本欄で、私がアイポッドを使い出した話を書いた。正確に言えば、それは2006年12月27日の本欄で、「ながら族へ転向?」という題のものだ。しかし最近では、私はアイポッドをあまり使っていない。理由は、大きく分けて2つある。1つは、パソコンを換えたこと。もう1つは、やはり私は“ながら族”のライフスタイルに馴染めないからだ。

 アイポッドは、自分で使うパソコンの内容と“同期”させて使う。この意味は、パソコンの特定のフォルダー上にあるファイルと、アイポッド内のファイルとは正確に対応している必要がある、ということだ。これによって、パソコン上で加除されたファイルが自動的にアイポッド上にも反映される。私は当初、この機能は「使いやすい」と感じていた。ところが、パソコンを新しくすると、新しいパソコンに古いパソコンのファイルを全部複写しておかないと、アイポッド上のファイルが自動的に入れ替わってしまう。これは実に「使いにくい」のである。もう1つ不便なのは、妻がアイポッドをもらったので、その中に私のパソコンの音楽ファイルから選んで複写しようと考えたが、これが事実上不可能なのである。理由は、上に書いたように、PCとアイポッドは“同期”が原則だからだ。しかも、1つのアイポッドに対して同期できるのは、特定のパソコン1台きりだ。別のパソコンから好きなファイルだけ選んで複写することは、(不可能でないとしても)非常に面倒くさいのである。
 
 “ながら族”が好きになれない理由は、拙著『日時計主義とは何か?』か『太陽はいつも輝いている』を読んでくださった読者なら、簡単に想像がつくだろう。イヤフォンを両耳に挿して街を歩くことは、少なくともその時間帯は、“感覚優先”の世界を拒否することになるのだ。音楽を聴くことは“感覚優先”であることは事実だが、その代わり、聴いている音楽以外の音は耳から入りにくいから、外界で起こる出来事に対する“現実感”が大分薄らいでしまう。別の言い方をすれば、肉体のもつ五感のうち聴覚だけが別のものに向いているから、心の中で他の感覚との間で注意の奪い合いが起こるのである。そして、「考えごとをしながら街を歩いている」のと似た結果になる。つまり、「心ここに有らざる」状態だから、私の言う“感覚優先”の生き方とは全く異なるのである。空の青さ、風のさわやかさ、道端の花の美しさ、すれ違う人々の表情、新しい店飾り……などに、この状態では気がつくことができない。
 
 今日の『産経新聞』には、もっと危ない話も載っていた。それは、人間が歩行中などに普通に使っている“後ろの目”が、イヤフォンで音楽を聴いている人には使えない、という話だ。いわゆる“後ろの気配”を私たちが感じるのは、聴覚によるらしいが、イヤフォンから来る音を聴いている人には、それが感じられない。同じことは、携帯電話で話している人にも言える。意識が片耳から来る音に集中しているからだ。だから、道路を歩いていて突然、ケータイを耳に当てながら立ち止まる人がいて、私もぶつかりそうになったことがある。こういう人々は、歩道を猛スピードで走る自転車にぶつかる確率も、ぐんと増えるに違いない。さらに物騒なのは、さいたま市では、イヤフォンをして歩く女性ばかりを後ろから狙ったひったくり事件があり、今月4日に少年が逮捕されたという。さらに想像すれば、秋葉原での通り魔事件で刺された人のうち、イヤフォンで聴いていたり、ケータイを使っていた人の割合はどのくらいか、が気になる。
 
 日時計主義を標榜する私が、あまり暗い想像をしてはいけないが、“文明の利器”と言われるものも、使い方を間違えば不幸の原因になるのである。上記の通り魔事件の容疑者は、自分が“ケータイ中毒”であることを認めている。機械は「使うもの」であり、「使われるもの」ではないのである。
 
 谷口 雅宣

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2008年5月 5日

白い飛沫

 5月1~3日に行われた生長の家の4組織の全国大会で、私は22秒間のごく短い動画を披露した。それは、私たちが“左脳”を使った意味優先のものの見方をするときと、“右脳”による感覚優先のものの見方をするときとで、同じものがどれほど違って見えるかを示すためだった。多忙な現代社会では、多くの人々が前者のものの見方を偏重する傾向があるから、後者のものの見方を取り戻すことで、私たちの毎日の生活が、より豊かに、味わい深いものになる、という点を強調したかった。その際、昨年8月19日の本欄で最初に使ったカラスの糞の写真を加工して動画にし、それに音楽を被せた。この写真は、拙著『太陽はいつも輝いている』(生長の家刊)の127ページにも使われているから、多くの読者にはすでにお馴染みのものだ。大会の講話では、この動画が案外好評だったので、大会後に静かな場所で自由時間がもてたのを利用し、他の写真やナレーションを加えて補足したバージョンを制作した。題して「白い飛沫」である。
 
 谷口 雅宣

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2008年4月15日

『太陽はいつも輝いている』について

Taiyo3_dg2  3月27日の本欄で少し触れたが、5月初めの生長の家の組織の全国大会を期して出版される拙著の見本を今日、受け取った。題は『太陽はいつも輝いている』というもので、副題を「私の日時計主義実験録」とした。内容は、昨年秋に上梓させていただいた『日時計主義とは何か?』の続編と考えていただいたらいい。この本も前著と同じく2部構成で、第1部が“理論編”、第2部が“実践編”と言えるだろう。特に第1部は「続 日時計主義とは何か?」と題していて、前著の第1部「日時計主義とは何か?」を補完する内容となっている。人生の光明面を見るこの生活法を実践する際のテキストとして、前著とあわせてご利用いただけたら幸甚である。

 副題から類推できるように、この本では、私が日時計主義をどのように考え、どのように実践しているかを実例をもって示している。日時計主義の理論的説明としては、すでに前著で「悪は実在しない」ことや「感覚優先と意味優先」のものの見方などについて書いている。本書ではこれに加えて、“右脳”と“左脳”の機能的差違や「偶然はない」という生長の家の考え方、さらに「奇蹟」と「当り前」をめぐる一般的な考え方の誤りなどについて書いている。また、生長の家とは特に関係がなくても、日時計主義に合致する「人生の光明面を描く」文学がすでに存在していることも具体的に示している。この第1部の中で、「偶然」と「奇蹟」をめぐる論考の大部分は、本欄に書いたいくつかの文章をもとにしている。

 第2部はこれら論文調の文章とはまったく趣を異にし、私の「スケッチ画集」と「谷口雅宣句集」で構成されている。スケッチ画は1999年以降に描いたもの38点で、うち6点は絵封筒、9点は絵具や紙を使わずパソコンだけで描いた“PC画”である。句集は、2000年以降に作った句99首を集めてある。絵画が日時計主義の手段たりえるのは、一見何でもない出来事や風景の中に美や愛を見出す心を養い、またそれらを具体的に提示することによって、自分の感動を見る人の心の中に送り込めるからである。同じことは言葉によっても可能だが、言葉には“国境”があるのに対して、絵画にはそれがない。

 言葉の芸術では、俳句は世界最短の形式である。それが日時計主義の実践になりえるのは、「人生や自然の“ひとコマ”や“一瞬”を言葉で固定する」というその独特な機能による。詩や小説は、ある程度の長さの言葉の流れを必要とするため、人生の“ひとコマ”や“一瞬”は描けても、それを主題とはせず、ストーリーや構成の確かさで勝負する。そのため、描かれるものはどうしても複雑化する。しかし俳句は、“ひとコマ”や“一瞬”をスナップ写真のように固定することが目的である。だから、作句後には写真アルバムを見るように、そこに固定された瞬間を再体験することができる。これによって人生の味わいは2倍にも3倍にも深まると思う。また、日時計主義による他人の句を読むことにより、自然の素晴らしさや人生の明るさを、自分の心で追体験できる。それによって、周囲のものへの感性が養われ、ものを見る目が肥えることにもなる。こういう目的のためのメッセージは、長く複雑なものでは困難であり、簡潔で短い方がいいのである。

 最後に本書の題名についてだが、「太陽はいつも輝いている」とは「実相は常に完全である」という言葉のメタフォーである。詳しくは本書の序章に書いたが、地上では夜が来たり、台風に襲われたり、濃霧に進路をふさがれることがあっても、その瞬間にも「太陽は輝いている」という事実を我々は知っている。それと同じように、人生の一見暗く、困難で、苦しい出来事のただ中にあっても「実相は常に完全である」ことを忘れない生き方--これが日時計主義の生き方であり、それを読者にお勧めするのが本書の目的である。

 谷口 雅宣

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2008年4月 3日

花盛りの庭

 前回の本欄では、むずかしい議論にヘキエキした読者もいたかもしれない。簡単に言えば、「色は人間(を含む動物)と植物とを“橋渡し”するメッセージを運んでいる」ということだ。色は、我々の感情に直接訴えかけてくるから、芸術の有力な手段としても使われてきた。が、今回は、そういうメンドーな議論は脇に置いて、色そのものを楽しんでいただきたい。我々が色の組み合わせを楽しむことができるということは、人間は個人として孤立していないばかりか、生物種としても孤立していない証拠である。花は、実と同じように、植物が動物に対して発しているメッセージである。それを受け取っていただきたい。今年3月、我が家の庭を撮影した画像や映像を合体させて、1本の動画にしたものをお届けする。
 
 谷口 雅宣

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2008年4月 2日

芸術表現について (4)

 美についての議論で前回までに明らかになったことの1つは、美感が生じるためには、それを感じる主体(心)と、感じられる対象の双方が必要であるということだった。これを言い直せば、美は人の心の内部に生じるものだが、その契機となるものは人の“外”(外界)に存在するということだ。つまり、“内”と“外”とが響き合って一体感を醸し出した状態が美感だと言うことができる。このことを『新版 幸福生活論』では、「いのちといのちと触れ合っ」た「いのちを表現」したものと形容しているのである。この場合の「いのち」とは、必ずしも生物学的な意味での命だけでなく、気象や山、川、波などの自然現象、さらに天体や砂漠、岩石などの自然物のほか、人間がつくった芸術作品や建物、工業・商業製品なども含まれるだろう。なぜなら、それらはみな「命の表現」と考えられるからである。
 
 例えば、私がもし鳥の飛翔を見て感動するならば、私の命とその鳥の命とが“触れ合った”からである。これは、私が物理的に鳥に触れたという意味ではなく、飛翔する鳥の姿にその鳥の生命の発露を見、その生命力に感動したという意味だ。では、感動の対象が生物でなく航空機であった場合は、どうか? その場合は、その航空機の設計者、製造するに至った多くの人間、さらに人類が「空を飛びたい」と永年にわたって熱望し、その夢の実現を追究してきたという事実の背後に大きな生命力を感じているのである。前者の場合は、鳥と人間の生命の“一体感”を感じるのだが、後者の場合は、それに加えて、航空機製造にいたる人類の歩みの“総体”に感動すると言える。もちろん、そのほかにも航空機のデザインや色、形、性能、製造技術などに感動することもあるが、それらも結局、「命の表れ」であることに変わりはない。
 
 拙著『神を演じる前に』(2001年、生長の家刊)の中で、私はアメリカの哲学者、ダニエル・デネット博士の言葉を引用して、「色」が生物間の“いのちの触れ合い”から生まれたことを説明した(pp.65-67)が、この際は「クオリアが起こる原因」という言葉を使った。クオリアとは「直接感覚」とも訳されるが、例えば、「赤のクオリア」と言えば、色彩の「赤」を見たときに我々が心で感じる、「黄」でも「青」でも「緑」でもない、あの独特の色の感覚であり、その際に心中に醸し出される感情も含まれている。人間の体の外部にある色によって、そういう独特の感覚と感情が人間の内部に生じる理由は、人間の体の神経系の働きだけでは説明できない。私がいう意味は、「赤」く見える光は、光のスペクトルの中のどれだけの範囲のものを指す--という種類の説明のことではなく、その特定の波長の範囲をもった光がなぜ「青」や「緑」ではなくて「赤」でなければならないか、という説明である。

 デネット博士は、その謎を次のように解いている--
 
「リンゴの実が、少なくとも何種類かのリンゴ好きの動物によく見えることは、リンゴに対する単なる“危険”(リンゴの立場からは!)ではなく、リンゴが存続するための一条件である。(中略)色によって区別をつけられない果実は、自然界のスーパーマーケットの棚では競争力が乏しい。しかし、嘘の宣伝は罰せられる。よく熟れた(栄養素が豊富な)果実は、そしてそのことを宣伝している果実はよく売れるだろう。しかし、その宣伝内容は、対象とする消費者の視覚的能力と嗜好によく合致していなければならない」(同書、p.66)

 この引用文は、少しわかりにくいので解説を加えよう。--色彩の「赤」は、画材店の棚やコンピュータの画面に出現する前に、まずリンゴの実の色であった。と同時に、様々な植物の実の色として自然界に存在してきた。しかし、植物の実は、花から成長し始める最初の段階から赤いのではなく、栄養素を結集して熟し、ちょうど動物が食べるにふさわしくなった頃に、緑から黄、そして赤へと変化する。そして、「おーい、ボクを食べてくれよぉ~」と言わんばかりに、生い茂った緑の樹冠の中から鳥や昆虫に呼びかける。それは、その果実にとっては取って食われる“危険”を冒しているようだが、実はそうではなく、自然界にはゴマンと溢れている他の植物の様々な実の中から、動物が“自分”を採ってもらうことで子孫を殖やそうとしているのだ。このことをデネット博士は「自然界のスーパーマーケット」という言葉で表現している。ここで“消費者”(動物)に採ってもらうためには、偽装や嘘の宣伝は効果がない。なぜなら、一度騙された動物は、次の機会には別の植物の実を選ぶに違いないからだ。だから、植物の方も、自分の子孫の繁栄に最も有利な場所へ種を運んでくれる動物に対して、その最も必要とする栄養素と最も好む味と香りを用意して“消費者”の到来を待つのである。

 「色」とは、このような植物と動物との永い共存共栄の過程で形成された、植物が動物に発する一種の“暗号”である。動物の側は、この色の暗号を素早く解読するための“高速暗号解読装置”として色覚を発達させてきた。このように考えれば、色とは、人間を含めた多くの生物種の「いのちといのちが触れ合って生まれたいのちの表現」であることが分かるだろう。臭いや味にも、同様のことが言えるのである。
 
 谷口 雅宣

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2008年4月 1日

芸術表現について (3)

 3月18日の本欄では、芸術表現が行われる過程を図で示してみた。その過程は、(A)表現者が対象から受けるクオリアに感動すること、と(B)表現者がその感動を媒体上に客観化すること、の2段階に大別できた。そして、生長の家で行う新しいタイプの誌友会では、BよりもAの過程を重視することを提案した。これは、もちろん「Bを軽視せよ」という意味ではない。AもBも共に重要だが、宗教活動としてはAに力点を置くべきだということであり、芸術運動を志す人は、大いにBを探究していただいていいのである。

 新しいタイプの誌友会に関して、最近、奈良県の地方講師の方から手紙をいただいた。本部で制作した誌友会のデモビデオを見、私の文章を読んで「納得し、共感しました」と賛同して下さった。私の文章とは、恐らく3月3日の本欄のことだろう。「素晴しいご指摘で、日々実践し、誌友会の活性化に役立てたく存じます」と書いて下さっている。その文章の下に、お地蔵さんの両脇にカエルがすわった絵を描き、
 
 心うずく人の心に花衣
 
 という句まで添えられている。絵心も詩心も開花した明るい文面に、感激した。
 
 このK講師の手紙に導かれて谷口雅春先生の『叡智の断片』(日本教文社刊)を開くと、ちょうど「美の本質に就いて」という素晴らしい文章があった。この箇所は、『新版 幸福生活論』の第12章とともに、新しいタイプの誌友会で学ぶのにふさわしいと思う。『新版 幸福生活論』では、芸術とは「いのちといのちと触れ合って、いのちを表現したもの」と定義されていたが、ここでは、美感が生じるためには「“美”として感じられるところの対象とそれを“美”として感ずるところの心とが必要である」(p.104)と説かれている。そして、「客観(対象)と主観(心)とが互いに相会うことが必要なのである」と書いてある。さらに、雅春先生は美について、「“ものそのもの”(客体)に内在する美を、“感ずる心”(主観)が触発することによって、意識界に浮かび上がらせたのが美である」と定義されている。これは、まさに上記のAの過程を別の言葉で描いている。「いのちといのちが触れ合う」こと、「客体に内在する美を主観が触発する」こと、「対象から受けるクオリアに感動する」ことは、みな同じことを別の言葉で表現しているのである。
 
 では、なぜ我々は、何かを見たり、聴いたり、触れたりして感動するのだろうか? あるものに感動し、別のものには感動しないのはなぜだろうか? サクラの開花には感動するが、ゴキブリの腹を見て感動しないのはなぜだろうか? 雅春先生のお答えを次に引用する--
 
「或る物が吾々の生命に“快さ”の感じを起させるのは、その物が、生命そのものの在り方に順応した、ふさわしい生命の本来のあり方の傾向に一致するものがあるからであり、或る物が吾々の生命に“不快”の感じを起させるのは、その物が生命そのものの本来の有り方に逆い、生命本来の傾向を抑圧又は搔き乱すところの傾向があるからだと言わなければならない。」(p.107)
 
 この文章はなかなか難解であるが、含蓄深い。その意味については、私は3月18日の本欄で『神を演じる前に』から引用する形で、すでに少し触れている。曰く--「クオリアが起こる原因は、動物と植物との長期にわたる共生関係である」(p.67)「色のクオリアばかりではない。我々が五つの感覚器官を通じて体験するすべてのクオリアは、我々の生物としての生存に必要であるばかりでなく、知的で、豊かな生活を可能にするすべての文化活動の基盤にあるものである」(p.68)--が、これらの解説は次回以降に譲ることとする。

谷口 雅宣

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2008年3月31日

命はどこにある?

 我々人間には「命がある」というほど明確な実感はないのではないか。デカルトの有名な言葉--「我思う、ゆえに我有り」は、「我思う、ゆえに我に命あり」と言い直すことができる。なぜなら、命のない死体は、そこに確かに存在していても、「我思う」という意識をもたないから、「ゆえに我有り」の結論を出せないからだ。言い換えると、自分が存在するかどうかを判断する意識をもたないものは、それ自身「我有り」と結論できない。だから、「我有り」という否定しがたいデカルトの実感は、意識の有無と深く関係している。では、命があっても意識をもたない者の存在は、どうやったら確認できるだろうか。この点、デカルトは必ずしも明確でない。

 生物学では、「自己意識」--自己を他とは異なる独特の存在であると思う意識--をもつものは、人間と高等な哺乳動物の一部だけだと考える。それを証明するために、動物に鏡を見せて、その行動を細かく観察する実験などをしてきた。では、意識が生まれる元である命の有無は、どのようにして「有り」と結論できるのか。例えば、アメフラシの命の有無は、どうやって判断するのだろうか。生物学者は、アメフラシの神経系を研究し、そこに微弱な電流が起こるか起こらないか、あるいは神経伝達物質が流れるか流れないかを測定するのかもしれない。では、神経系をもたない植物や菌類の命は、どのようにして有る無しを判断するのか。私はその答えを知らない。
 
 しかし、植物の種(たね)が古い地層の中から発見され、それを適切な環境に置いて光や熱を与えると、発芽して成長したという話は珍しくない。そういう“太古のハス”の花が咲いたと、新聞やテレビで報道されたこともある。だから、命の有無は、現代の科学技術においても直接測定することはできないと考えるべきだろう。我々が大病院の治療室で目撃する様々な機械装置は、「命そのもの」を測定しているのではなく、「命の働き」で生じた電流や磁気、物質成分の変化を測定していると考えるべきなのだ。「命そのもの」はそこにあっても、それが動いて作用を生じる場合とそうでない場合があると考えると、古代エジプト人がミイラを保存することにも、キリスト教で土葬を行うことにも、それなりの合理性があるといえる。が、現代の科学ではこれを一般に不合理だと考えている。

 そんなところへ、植物だけでなく、動物も一種の“ミイラ状態”から甦ることを示した研究成果が報告された。アフリカに棲む「ネムリユスリカ」という蚊に似た昆虫の幼虫は、完全に干からびた状態で10年以上たった後にも甦る例があるという。3月25日の『日本経済新聞』が夕刊で伝えている。それによると、この幼虫が乾期の間に完全に干からびても、雨期になると生き返ることは以前から知られていて、その仕組みをこのほど、東京工業大学と農業生物資源研究所のグループが解明したという。その仕組みとは、体中に行き渡らせた糖類をガラスのように固めることで、体の組織を保護するらしい。この研究を参考にすれば、「ヒトの組織を長期間保存したり、乾燥に強い植物を作ったりする」ことが可能になるかもしれない、と記事は書いている。
 
 この例をみても、「命はどこにあるか」という疑問への答えは、科学の力によってもそう簡単に出てこないことが分かる。私たちは今、「命萌え出づる春」を目の前にして、それがどこにあり、どこから来るかをじっくり考えてみるのはどうだろうか? 
 
 聖経に曰く--
 空間の上に投影されたる
 生命の放射せる観念の紋、
 これを称して物質と云う。
 
 谷口 雅宣

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2008年1月25日

“火星人”の幻影

 地球にとっては“隣国”ならぬ“隣星”である火星には、なぜか「人がいる」あるいは「生物がいる」という説が昔から途絶えることがない。21世紀の現代には、さすがにタコのような形をした「火星人」を信じる人はいないだろうが、火星の表面では今も探査車が走り回っていて、様々な映像を送ってきているのは、そういう人類の“夢”がなせる仕業でもあるだろう。ところが、その火星上の探査車が送ってきた写真の1枚に「火星人の姿」を捉えたと思われるものがあり、最近、アメリカの動画共有サイト「ユーチューブ」などに掲載されて話題になっている。
 
 私は2005年6月11日の本欄などで火星の“人面岩”について書いたが、そのポイントを簡単に言えば、「人間は自分の内にあるものを外に見る」ということだ。これは「唯心所現」の原理を言い直したものだが、特に「顔」のような形については、それに敏感に反応する神経細胞が人間の脳の中にあることが分かっているから、科学的にも立証されたと言えよう。が、今回話題になっている映像は「顔」だけでなく「全身」である。しかも、デンマークのコペンハーゲン港にある人魚像のように、脚を半ば組んだ女性のような姿をしているのだから、見る人を驚かせる。

 私が見た映像は、イギリスのテレビ局ITNが1月23日にユーチューブに登録した番組で、2日後の25日の12時15分の時点で16万7千回視聴され、3057件のコメントが書き込まれていた。すでに“人面顔”事件を経験している人々が多いから、この“人魚像”を信じているようなコメントは少なく、「ねつ造だろう」とか「影の方向がおかしい」とか「大きすぎる」とか「別の角度からの写真がない」とか「本物だったらNASAがもう発表しているはずだ」などと疑念を示すものがほとんどである。しかし、中には「米政府は宇宙人に関する情報を隠し続けている」とか「砂人間が棲んでいるとしたらスゴイ」などの毛色が変わったコメントもある。

 私が思うに、火星探査車が撮った写真の中には、この“人魚”のような映像以外にも、地球上の様々なものを連想させる形が数多くあるのではないか。NASA(米航空宇宙局)の科学者は、そんなものをいちいち発表しているヒマはないのだ。だいたい、NASAがすでに発表済みの古い写真の中にも、「ピラミッド」とか「町の広場」などの名前のついた形が堂々と存在している。今回、彼らが何も言わないのは、“人魚”の映像がそこにあることを科学的に説明する必要はもうない、と考えてのことだろう。これは航空宇宙学や惑星物理学の問題ではなく、簡単な心理学の問題だからだ。しかし、それにしても、人間は「見える」ということに如何に影響されるかを実感する写真である。そして「写真」という言葉が、今回ほど皮肉に聞こえることはない。
 

 谷口 雅宣

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2007年12月14日

日本の犯罪は減っている (3)

 本欄でこの題を使うのは、これで3回目だ。初回は2005年11月10日、2回目は2006年12月15日だった。読者は、この日付の規則性に気づいてほしい。このところ毎年この時期になると、警察庁はその年の1~11月の全国の犯罪統計を記者発表するようになった。私は、その数字を新聞紙上で知って、そのつど本欄で読者の注意を喚起するようにしてきた。なぜなら、多くの日本人は、戦後の日本社会はどんどん悪くなっているとの印象をもっていて、その前提のもとに考えたり、行動していると思われるからだ。この印象は、本欄で何回も書いてきたように、第1にマスメディアが醸成してきたものだ。そして第2には、私たちの「悪を認める」心のクセがつくり上げてきたと考えられる。事実は必ずしも「小説より奇」ではなく、私たちが「犯罪小説を好む」だけかもしれない。

 今日(14日)付の『産経新聞』に載った記事が、全体をよくまとめている--「今年1~11月の刑法犯の認知件数は、前年同期比7.0%減の176万1993件となったことが13日、警察庁のまとめで分かった。年間では5年連続の191万件台と見込まれ、平成9年以来、10年ぶりに200万件を下回る見通し」。認知件数の大幅な減少の理由について、吉村博人・警察庁長官は「全国警察による街頭犯罪抑止対策や、自治体や防犯ボランティアによる取り組みが大きく寄与した」(『日経』)と分析しているようだが、何となく納得しきれない。もちろん、そういう地道な努力も奏功しているに違いないが、すると昨年はそういう努力が十分でなかったということか? 
 
 罪種別の認知件数を見ると、「重要犯罪」と呼ばれるものが「8.7%減」の1万5760件で4年連続で減少した点が注目される。この内訳は、殺人が6.8%減の1119件、強盗が10.4%減の4207件など、略取・誘拐(10.5%増)を除きすべて減少した。また、窃盗も7.0%減の131万7309件、詐欺は8.6%減の6万2284件、その他、車上狙いが19.5%減、ひったくりが11.4%減となったが、暴行は3.8%増の2万9502件だったという。また、社会の高齢化にともない、高齢者の刑法犯の検挙人員が増加しているのが、気になる。この数字は、昨年同期比で4.5%増の4万4928人だが、罪名は万引きが過半数を占めるというから、経済的な事情が反映しているのかもしれない。
 
 私は、7月14日の本欄で今年1~6月の犯罪統計を取り上げ、全体の認知件数が昨年同期比7.1減で、「凶悪犯(殺人や強盗など)が6.8%、詐欺犯が13.4%、窃盗犯が7.5%、粗暴犯が3.4%、それぞれ前年同期で減っている」と述べ、通年でも「5年連続減少」の可能性が大きいと書いた。予想通りの結果になったことは、嬉しいかぎりである。刑法犯の認知件数が戦後のピークを打ったのは2002年だ。海外からの人口流入はこの後も続いているはずだから、その中でも犯罪が減少し続けていることは大いに注目すべきことではないだろうか。比較文化論や社会学的考察をきちんと行えば、日本社会の安全性を海外へも普遍化できるかもしれないと考えるのは、“手前味噌”すぎるだろうか?
 
 谷口 雅宣

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2007年12月13日

目覚むる心地

 最近、仕事から帰宅した私に、妻が古典文学の教室で聞いたという話を興奮気味に語った。彼女は、文筆家の清川妙さんが講師をしている教室に通っているのだが、清川さんはよく講義の最初に、ご自分の体験を語りながら、その日の講義に出てくる古典の1コマや、そこで語られることと、現代の我々の生活とを見事に関係づけられるそうだ。その日の講義は、兼好法師の『徒然草』だったのだが、そこに“旅人の目”について書いた件があって、清川さんの説明が素晴らしかったというのである。私は『徒然草』については高校の知識程度しかもっていなかったが、“旅人の目”については、生長の家の講習会などで実地に体験しているので、半分興味をもって聞いていた。が、そのうち、妻の言わんとしていることが自分にも大いに関係していると知って、彼女の話を傾聴している自分を発見した。
 
『徒然草』の第十五段に、次のようにある--

「いづくにもあれ、しばし旅立ちたるこそ目覚むる心地すれ。
 その辺(わた)り、ここかしこ見歩き、田舎びたる所、山里などは、いと見慣れぬことのみぞ多かる。都へ便り求めて文遣る、“その事かの事、便宜に忘るな”など言ひ遣るこそをかしけれ。」
 
 妻は、この文章の冒頭にある「目覚むる心地」というのが日時計主義の心境と同じだというのである。旅に出ると、日常の心の持ち方から離れられるので、普段は注目しない“瑣末”と思えることを含め、旅先のいろいろの事物に新鮮な驚きをもって接することができる。そんなことから、家に残してきた家族への思いが募り、「あれはこうしろ、あのことは忘れるな」などと細かい気配りをした手紙を書くことになるのは面白い--こういう意味の文章だろう。
 
「なるほど……」と私は思い、昔も今も、人間にとって旅の効用はあまり変わらない、と感じた。と同時に、妻が旅先から親や子供に便りを出す心境と、400年前の兼好の心境とが、清川さんの“仲介”によって共鳴したように感じた。ご存じの読者も多いと思うが、妻は毎日、伊勢にいる自分の両親宛に絵手紙を描いている。また、生長の家の講習会で各地に行くと、宿舎から3人の子供に絵葉書を出す。妻だけではない。私もかつて、妻や子供を家に残して旅していた頃には、私自身がFAXや電子メールを使って兼好と似たようなことをやっていた。そして今は、旅先でスケッチをしたりする。その理由を、兼好は上の短い文章の中に巧みに描いている。それは「いと見慣れぬことのみぞ多かる」ことに気づく心境だ。それが「目覚むる心地」を引き起こす重要な要素であるに違いない。

 しかし、そうは言っても、交通機関が発達していない400年前に、兼好法師が都から山里へ旅することと、航空機や新幹線による現代の旅行とは、だいぶ違う。外国旅行なら「目覚むる心地」を味わえたとしても、国内の旅行は、どこへ行っても大企業の看板、駅前開発、ファーストフード店、ファミレス、居酒屋チェーン、流行のスタイル……そういう画一性が横溢していることを、私は本欄でも嘆いて書いたことがある。しかし、着眼点を変えれば、都会の真ん中でも「目覚むる心地」を味わうことができる、ということも本欄には書いた。そのことを妻は、思い出させてくれたのである。これらのことは、すでに『日時計主義とは何か?』の本に収録されているが、本欄でそれを読みたい読者は、「わが町--原宿・青山(2)」と「意味と感覚」の文章を参照されたい。
 
 谷口 雅宣

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2007年12月 6日

アメリカのイラン政策の誤り

 アメリカのブッシュ大統領が推めてきたイランの核開発に対する制裁論議の根拠が、怪しくなってきた。このほど出された国家情報評価(National Intelligence Estimate, NIE)が、「イランは2003年秋に核兵器開発計画を停止し、今年中ごろまでその計画を再開していない」し、「現在も核兵器開発を意図しているかどうか分らない」という内容の評価をしていることが明らかになったからだ。ブッシュ氏は今年10月に、「第三次世界大戦を防ぎたいならイランに核兵器製造の知識を与えてはならない」などと物騒な警告を発し、12月1日には、パリで開かれた国連安保理常任理事国とドイツの6カ国の局長級会合で、イランへの制裁強化決議案の早期策定が合意されたばかりだ。アメリカの情報機関の判断と大統領の判断に食い違いがあるという事実は、イラク戦争開戦に際しての大統領の判断の誤りを想起させるもので、今後のアメリカの中東政策に影響を与えそうだ。
 
 6日付の『朝日新聞』によると、ブッシュ氏は4日の記者会見で、今回のNIEについて「報告書の内容を知ったのは先週のことだ。マコネル国家情報長官から今年8月に“新しい情報がある”とは知らされていたが、内容は聞かなかった。分析に時間がかかるとのことだった」と弁明したというが、野党・民主党の議員たちは「それは信じられない」と一斉に反発し、イラク攻撃開始前の大量破壊兵器開発疑惑に似た情報操作だとの批判も上がっているという。
 
 問題は、このNIEという文書の性格だ。5日付の『ヘラルド・トリビューン』紙によると、NIEとはアメリカにある16の情報機関すべての合意した見解(consensus view)を表しており、今回の合意はここわずか5~6週間前(several weeks)に達成されたという。そして、この見解に至る原因となった情報は、今年の夏に諜報活動から得られたもので、この新情報により、米議会に提出されるNIEの時期が今春から今月に遅れたらしい。この遅れは、2002年に出されたNIEが、イラクの大量破壊兵器開発計画について誤った見解を出し、それがイラク戦争の原因の1つになったことを反省し、慎重な判断を選んだためという。今回のNIEも米議会の要望を受けたもので、その内容は、ブッシュ大統領の判断よりも国際原子力機関(IAEA)の判断に近い内容になっている。IAEAのエルバラダイ議長は、イランの核開発計画が「発電だけが目的なのか、兵器への使用も意図しているのか確認できなかった」と結論している。

 6日付の『産経新聞』は、今回のNIEに対するイギリスのシンクタンク、国際戦略研究所(IISS)のフィッツパトリック上級研究員の評価を掲載しているが、それによると「通常NIEは機密扱いだが、今回、イランの核兵器計画の評価が大きく変わり政策決定への影響が避けられないため、広く知らせることが大切だとの情報機関の明確な意思決定に基づき公表された。リークではない。政治的意図もない」という。もしそうだとすると、2005年に同じNIEが出した「国際的な責務や国際社会の圧力にもかかわらず、イランは核兵器の開発を決断した」(同紙)という評価が明らかな誤りであったことを示しており、アメリカの情報機関の信頼性に(イラクに続いて)再び疑問を投げかけるものとなる。国家安全保障担当の大統領補佐官、スティーブン・ハドレイ氏(Stephen Hadley)は、記者会見でこの点を指摘され、「イランは、諜報活動をするには世界有数の困難な国だ。機密保持の点では、彼らは極めて優れている」と言ったという。(5日付『ヘラルド・トリビューン』)
 
 私は学生時代に国際政治を勉強したとはいえ、現在は素人並みの知識しかない。だから、今回の問題についてアメリカの情報機関の責任を問うつもりは毛頭ない。それよりも読者に気づいてほしいことは、アメリカのように国力、技術力において優れている国でも、他国--特に、文化や政治体制が大きく異なる国については、その実情を知ることは困難であるということだ。また、そういう相手国に対して、国家元首たる大統領が“悪の枢軸”などと断定的に決めつけることが、どれほど危険なことかを知らなければならない。相手を一度“悪”呼ばわりすれば、キリスト教文化の文脈の中では、よほどのことがない限り、その相手と戦わなければならないからだ。そういう心理的“足かせ”を作り上げた中での諜報活動が、客観的判断を妨げることは十分考えられるだろう。その点で、ブッシュ氏の外交政策は、イラクに続き、イランに対しても誤りだったと言わなければならない。

 しかし、今回のNIEの発表にも“善い面”がある。それは、これによって、イランへのアメリカの武力攻撃の可能性が遠のいたことである。また、頑固なブッシュ氏の“心変わり”を示すとしたら、喜ばしい。少なくとも、国連を舞台とした武力制裁は当面なくなった。そして、国連の枠組みを外れた武力制裁は、イラク戦争を経験したアメリカ国民が許さないだろう。我々も、「平和維持のためには外交努力の積み重ねが重要である」ことを学ぶのである。
 
 谷口 雅宣

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2007年11月 9日

『日時計主義とは何か?』について

Sundialismm  『日時計主義とは何か?』という単行本の色校正が終わった。今月下旬の生長の家の秋季大祭を期して発行される拙著だが、実物はまだできていない。しかし、生長の家の講習会のテキストとする予定なので、色校正の用紙と束見本を使って実物に似せたサンプル(=写真)を作った。並製の新書判の本で、表紙カバーの白が目立つ仕上がりになっている。カバーに使われている絵は、私が今年、生長の家教修会のためにニューヨークに行ったさい、ホテルから本部事務所宛に出した「絵封筒」である。また、この本の中には、本ブログに登録されている「わが町--原宿・青山」のスケッチ画が一部、カットとして使われている。

「絵封筒」とは封筒に絵を描いたもののことで、これをもらうと胸がワクワクする(はずである)。その由来は、6月8日の本欄で詳しく紹介したが、フランス在住の絵本作家、デビッド・マッキー氏(David McKee)が元祖で、彼は当初、絵手紙を封筒に入れてロンドンの出版社に送っていたのが、絵心があふれて封筒にまで描くことになったという。私は、芸術やスポーツのこういう自然発生的登場の話が好きだ。そこには自由さと、自発性と、生命の躍動を感じるからである。人間が本来もつ「明るさ」が、そこにある。それは「日時計主義」の展開でもあると、私は思う。

 表紙カバーの絵は、教修会の準備の合間にホテルの部屋で、備え付けの封筒にフルーツを描いたものだ。桃やイチゴ、サクランボなど、日本とは違う格好のフルーツが面白かったし、ホテルの封筒のデザインも面白かった。そう思った時に、むずかしいことは何も考えずに「面白い、面白い」と思いながら描く。それでいいのだと思う。描いた絵封筒に次のような感想文を入れて、投函したのだった。
 
「NYCのホテルでいただいたフルーツを描きました。桃が上から押しつぶしたような格好で面白かったのです。チェリーは赤黒く“美味しい”という感じではありません。イチゴは皮が乾燥していて固いのです。従って日本のイチゴのようにすぐ崩れてしまわず、何日ももちます。果物に対する考え方が違うと思いました」

 現在、この絵封筒は、絵を趣味とする生長の家の仲間が集まっている「光のギャラリー~アトリエTK」の絵封筒ギャラリーに収録されているので、興味のある方はご覧あれ。

 本書にこのことを書く余裕がなかったが、私は「絵を描くこと」自体を日時計主義の実践としてとらえている。さらに言えば、絵だけでなく、俳句も短歌も写真も書も……およそ「表現芸術」と呼ばれているものは皆、それを通して日時計主義を実践する--つまり、世の中に実相世界の「真・善・美」を反映する--ことができる有力な手段だと考えている。ただ、芸術では「真・善・美」の反対である「偽・悪・醜」やその他もろもろのものも表現することができるから、そちらの方を“有意義だ”とか“高級だ”と考える人々が、日時計主義とは異なる創作活動をしているという事実はある。それはそれで表現の自由の問題だから、この社会では許されていいと思う。が、生長の家を知った人々は、自己の“神性表現”の喜びの場として、もっともっと表現芸術を拡大していってもいい……否、拡大していくべきだ、と私は思うのである。

 この本はまた、本欄を揺籃として生まれたと言うことができる。本書は2部構成で、第1部は「日時計主義とは何か?」というその題の通り、日時計主義がどのような考え方で、どんな哲学的、宗教的前提から成り立っているかを解説している。その際、本欄で最近1~2年にわたって書いた文章を土台にした。具体的には、昨年の文章では「狭い戸口」(11月上旬)、「悪を放置するのか?」(3月上旬)、「“悪を認めない”でいいのか?」(6月中旬)などで、今年の文章では「“悪を認める”とは?」(1月下旬)、「感覚と心」(同)、「意味と感覚」(2月上旬)、「わが町--原宿・青山」(同)、などである。これらの文章を書きながら、私は結局、日時計主義についていろいろ考えていたことになる。
 
 第2部には「日時計主義講演録」という題がついている。その名の通り、私の過去の講演や講話のうち、日時計主義に触れたものを集めてある。時期的にいうと、2005年以降のものである。第1部が論文であるのと比べ、話し言葉で書かれているので読みやすいはずだ。

 生長の家からは『日時計日記』が出ていることは、多くの読者がご存じのとおりである。また、2008年版の『日時計日記』もすでに出ているので、本書を読みながら、これらを大いに活用していただければ幸甚である。
 
 谷口 雅宣

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2007年11月 5日

肉体は“炎”である (2)

 前回の本欄では、「川」と「肉体」のアナロジーを使って、「肉体はナイ」という考え方の説明をしたが、肉体の「炎」としての側面については十分触れなかったので、ここでそれを述べよう。肉体の生理機能の一つである「呼吸」や「消化・吸収」について考えるとき、「炎」の比喩はより説得力を増すだろう。呼吸とは、「生物体が、酸素をとって細胞内で有機物を酸化し、炭酸ガスを体内に吐き出す働き」(『新潮国語辞典』)である。人間が属する哺乳動物では、この呼吸によって体温を一定に保っている。ということは、人間の肉体は外界から酸素を吸って体内で燃やしているのだから、その点がローソクの炎と似ている。が、ローソクの炎は「軸」の可燃成分を吸い上げて燃やす(酸化する)だけのことしかしないのに比べ、人間は体外から酸素を得て燃やした後に、そのエネルギーを使って大変多くのことを行う点が違っている。それら多くの仕事の中の1つは、内臓に溜められた食物や水分から栄養素を取り出し、さらにそれらの栄養素を分子のレベルにまで細分化して、全身の細胞の中へ送り込むことだ。これを「消化・吸収」と呼ぶことは、読者もご存じのとおりである。
 
 この「消化・吸収」の過程は、実に神秘的だ。私たちは普通、胃袋は胃酸を出して食物の一部を消化・吸収し、大腸・小腸は膵液、腸液などを分泌して消化・吸収を継続する、と考える。その際、胃や腸などの消化器官そのものには変化が起こらないと思うだろう。つまり、胃や腸などの消化器官は一種の“袋”であり、消化された食物はその“袋”の内側に開いた微細な“穴”から吸収されて、どこか別の所へ運ばれていき、袋そのものにはすぐには影響しない、と思わないだろうか? が、実際は、この吸収の過程は私たちの想像以上に高速で、物質分子が入れ替わる程度は驚くほど徹底しているらしいのである。
 
 分子生物学者の福岡伸一氏が書いた『生物と無生物のあいだ』(講談社刊)がベストセラーになっているが、この中にルドルフ・シェーンハイマー(Rudolf Schoenheimer)というユダヤ系アメリカ人の医学者が1930年代後半に行った実験が、「生命観を転換する」画期的なものとして紹介されている。それによると、シェーンハイマーは、外から食事として入ってきた物質分子がどれほどの速度で体内の分子と置き換わるかを、ネズミを使って調べようとした。そのため、タンパク質を構成するアミノ酸に含まれる窒素原子を、重窒素に置き換えた餌をネズミに与えた。この「重窒素」というのは窒素の同位体(アイソトープ)で、それを含む餌(タンパク質)は外部から計器によって特定することができるという。つまり、重窒素を含む餌をネズミに与えた後、ネズミを解剖して体の各所を計器によって調べると、どこの部位に餌の成分がゆきわたっているかが測定できるのである。その実験の結果を、福岡氏は次のように書いている:
 
「重窒素で標識されたアミノ酸は3日間与えられた。この間、尿中に排泄されたのは投与量の27.4%、約3分の1弱だった。糞中に排泄されたのはわずかに2.2%だから、ほとんどのアミノ酸はネズミの体内のどこかにとどまったことになる。では、残りの重窒素は一体どこへ行ったのか。答えはタンパク質だった。与えられた重窒素のうちなんと半分以上の56.5%が、身体を構成するタンパク質の中に取り込まれていた。しかも、その取り込み場所を探ると、身体のありとあらゆる部位に分散されていたのである。特に、取り込み率が高いのは腸壁、腎臓、脾臓、肝臓などの臓器、血清(血液中のタンパク質)であった」。(上掲書、p.158)
 
 そして、これらの実験結果を総合して、福岡氏は次のように述べる:
 
「肉体というものについて、私たちは自らの感覚として、外界と隔てられた個物としての実体があるように感じている。しかし、分子のレベルではその実感がまったく担保されていない。私たち生命体は、たまたまそこに密度が高まっている分子のゆるい“淀み”でしかない。しかも、それは高速で入れ替わっている。この流れ自体が“生きている”ということであり、常に分子を外部から与えないと、出ていく分子との収支が合わなくなる」。(同書、p.163)

 ここまで読んできた読者には、「肉体」と「炎」との類似性はもう明らかであるに違いない。「炎」というものが、高速で酸化しつつある可燃性物質の通過する痕跡の一部であるのと同じように、私たちの「肉体」は、高速で生化学反応をする物質分子が通過する痕跡の一部である。「川」という名前の実体は存在せず、そこには水の分子の流れがあるだけだと前回書いたが、これと同じように、「肉体」という実体は存在せず、そこには物質分子の流れがあるのみである。だから、「肉体はナイ」のである。
 
 谷口 雅宣
 
【参考文献】
○福岡伸一著『生物と無生物のあいだ』(講談社現代新書、2007年)

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2007年9月30日

山梨県立文学館にて

 甲府市で行われた生長の家講習会が終わってから、同市にある山梨県立文学館で「宮沢賢治 若き日の手紙--保阪嘉内宛73通--」という展示を見た。私は、宮沢賢治にも保阪嘉内にも詳しくないが、主として前者への興味からこの企画展に足を運んだ。宮沢賢治も保阪嘉内も明治29(1896)年の生まれで、前者は昭和8(1933)年、後者は同12(1937)年に他界している。2人は20歳から盛岡高等農林学校で共に学ぶようになり、翌年に同人文芸誌『アザリア』を発刊し、25歳までは頻繁に手紙を交換し合う親友だった。が、賢治の国柱会入会を境にして音信が途絶え、大正14年(29歳)に賢治から出した手紙を最後に交流は終った、というのが定説らしい。

 宮沢賢治は、大正13(1924)年に詩集『春と修羅』第1集と『注文の多い料理店』を刊行している。また、月刊雑誌『月曜』(大正15年1月刊)の創刊号に「オツベルと象」、2月号に「ざしき童子のはなし」、3月号に「寓話 猫の事務所」を発表した。しかし「セロひきのゴーシュ」「風の又三郎」「銀河鉄道の夜」などの多くの作品は、没後の発表である。
 
 保阪嘉内は、22歳で盛岡高農を除名処分された後、上京。23歳で1年志願兵として入営。満期除隊後は甲府にもどり、山梨教育会書記、電気会社勤務をへて、28歳で山梨日日新聞に入社し文芸部記者となる。翌年、結婚して同社をやめ35歳まで農業を営む。その間、藤井青年訓練所を開き、禊教の講師となり、村会議員に選ばれたり、陸軍中尉に任官する。35歳で東京・久留米村に転居し、日本青年協会武蔵野道場主任、武蔵女学院講師となる。

 今年7月21日付の『盛岡タイムス』に載った岡澤敏男氏の記事によると、「嘉内はキリスト教に通じる宗教的情感を土台に民衆の救済を説くトルストイアンだった」のに対し、「賢治は仏教を土台に衆生と無上道をめざそうとしていた」らしい。しかし、賢治の国柱会入会ごろから関係が徐々に悪化し、「賢治は嘉内を道連れにしようと日蓮宗に帰正を迫り、手紙は日増しに激しく“日蓮大聖人門下になってくれ”としつこく勧誘し」たという。こういう信仰上、思想上の対立で2人は袂を分ったらしい。
 
 今回の展示で私の目を惹いたのは、22歳のときに賢治が嘉内宛に出した手紙である。そこには「人間が生物を食する」ことについての若い賢治の純粋な煩悶の軌跡があった。5月19日付のその書簡には、こうある:
 
「私は春から生物のからだを食ふのをやめました。けれども先日『社会』と『連絡』を『とる』おまじなゑにまぐろのさしみを数切たべました。……食されるさかながもし私のうしろに居て見てゐたら何と思ふでせうか。『この人は私の唯一の命をすてたそのからだをまづさうに食つてゐる。』『怒りながら食つてゐる。』『やけくそで食つてゐる。』『私のことを考へてしづかにそのあぶらを舌に味ひながらさかなよおまへもいつか私のつれとなつて一緒に行かふと祈つてゐる。』『何だ、おらのからだを食つてゐる。』まあさかなによつて色々に考へるでせう。……(中略)……私は前にさかなだつたことがあつて食はれたにちがひありません。」
 
「又、屠殺場の紅く染まつた床の上を豚がひきずられて全身あかく血がつきました。●倒した豚の瞳にこの血がパッとあかくはなやかにうつるのでせう。忽然として死がいたり、豚は暗い、しびれのくる様な軽さを感じやがてあらたなるかなしいけだものの生を得ました。これらを食べる人とても何とて幸福でありませうや。」

 これらの文章の背後には、仏教の輪廻転生の思想があることは明らかだ。宮沢文学の背後に流れる「人間と動物との一体感」の源が、ここにあると感じた。
 
 谷口 雅宣

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2007年9月25日

トンデモ科学にご用心 (2)

 前回の本欄で、私はあまりにも簡単な質問を発してしまっただろうか。さっそく、読者の1人が正解を与えてくださった。人間が心で想うことと、水の物質的成分に直接的な相関関係は「ない」というのが正解である。蒸留水を前にして人間が「これは甘い」と強く念じたところで、その水中に糖分が生じるなどということは「ない」と答えるのが、我々のような一般的な教育を受けた現代人の正解である。これはまた“常識”とも言えるが、その一方で、きちんとした科学的理論と実験との積み重ねによって得られた人類の知識の成果でもある。しかしもし、肩まで髪とヒゲを伸ばし、いかにも“宗教家然”とした風体の男が、鋭い眼光を向けて大音声とでこう言ったとする--

「人間は神の子であって、無限力である。神に不可能がないのと同じように、人間にも不可能はない。たとい蒸留水であっても、人間が信念をもって強く“甘い、甘い”と念じれば、その蒸留水は甘くなるのである!」

 読者は、この男の言葉を信じるだろうか? 言葉の前半は信じるが、後半は信じないだろうか? 前半を信じるなら、後半も信じるべきだろうか? もしそう感じるなら、それはなぜだろう? この言葉をもし、小学校5年の息子の友人が言ったとしたら、どうだろう? 生長の家の地方講師が言ったなら、どうだろう?……
 
 ある言葉の内容が正しいか否かは、それを誰が言ったかによって決まるのではなく、その言葉の内容自体によって決まる、と私は思う。また、ある言葉の一部が正しいとしても、それは全体が正しいことを必ずしも意味しないと思う。さらに言えば、ある人が生長の家の教義と似たようなことを言ったとしても、その人の言うことすべてが正しいことを意味しない。「是是非非」という言葉があるが、信仰者にもそういう慎重な態度が求められると私は思う。
 
 では、次の質問へ移りたい。ある人が次のような意味のことを本に書き、その証拠としてカラー写真を何枚も掲載し、その本が日本のみならず、海外でも翻訳されてよく売れていたとする。読者は、この人の言うことを信じるだろうか? それとも信じないだろうか?
 
「水は人間の心に感応して、美しい結晶を作ったり、醜い結晶を作ったりする。そのことは、実験によって示すことができる。これは世界がすべて心の波--波動でできているからである。即ちこの世界は、心でつくられているのである」

 生長の家の「唯心所現」の教義から考えれば、上のような主張は誠に興味深い。しかし、その反面、人類が何万年にもわたって積み上げてきた科学研究の成果から考えれば、簡単には納得できない種類のものである。もしこのようなことが日常的に起り得るならば、もっと別のことも起り得るはずである。例えば、「水」だけでなく「油」も「金属」も「空気」も人間の心に感応して、それなりの変化を生じるはずである。なぜなら、油も金属も空気も、物質としては水と本質的に等価であるからだ。つまり、水(H2O)に含まれる水素(H)原子は、油や空気中に含まれる水素と物質的にはまったく同一である。水にだけ働き、他の物質には働かない物理学の法則や化学の法則など存在しないはずである。これを逆に言えば、水の結晶の形成に人間の心が影響を及ぼすことができるなら、それこそ文字通りの“錬金術”も可能なはずである。

「信じたい」と思っていることが、必ずしも真実ではない。しかし、人間はまず「信じたい」ことを信じるのである。この難しい関係を正しく解きほぐして真理に近づくために、科学は「科学的方法」というものを考案した。その1つが論理性(理性)であり、また1つが再現性である。ある真理に到達するためには、その真理を論理によって仮説化し、その仮説が誰によっても実験的に再現できるかどうかを確認する。この確認ができれば法則を発見して真理に至る、というわけである。

 もう何年も前に遡るが、私は上の「水の結晶」の話を聞いて興味をもち、半信半疑ながら実験によって結晶の再現を試みた。例の水を入手し、シャーレも買って、冷蔵庫の中へ入れた。結果は、何ごともなかった。そこで本の出版元に電話して理由を訊いたのだが、答えはこうだった--

「結晶は、うまくできる場合とできない場合があります」

 私は、この答えを聞いて実験をやめた。なぜなら、この答えは実験の元になっている仮説が正しくないことを証明しているからだ。“偶然”によってできた美しい結晶と、これまた“偶然”によってできた醜い結晶を、あとから人間が書いた言葉と組み合わせて写真を撮ったとも解釈できる--こんな安手のトリックを「科学」と呼ぶ人がいたら、私はそれを「トンデモ科学」と呼びたい。生長の家の講師がもしそんな「トンデモ科学」に与していたとすれば、それこそトンデモナイ話である。
 
 谷口 雅宣

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2007年9月24日

トンデモ科学にご用心

 8月末から9月初めにかけて、私は4回にわたり「奇蹟について」と題する文章を本欄に掲載した。ここでは、宗教的な意味での奇蹟を「自然界の法則を超えて、倫理的道徳的秩序を現わすために起る現象」と定義した。そして、この定義を採用すれば、生長の家を含む多くの信仰団体の中で「奇蹟的治癒」とか「奇蹟的救済」などと呼ばれるものの中には、奇蹟でないものも多く見出されるという意味のことを書いた。これはもちろん宗教を否定したり、信仰を嘲笑するためではない。むしろそれは、生長の家が「法則」を重んじるという点を強調するためである。生長の家では(そして、他の多くの信仰でも)、法則は神の創造の1つとして大いに尊重されているのである。

 このことは、聖経『甘露の法雨』冒頭の「神」の項に、「創造の神」の属性として以下のように書かれていることからも明らかだ--
 
 創造の神は
 五感を超越している、
 六感も超越している、
 聖
 至上
 無限
 宇宙を貫く心
 宇宙を貫く生命
 宇宙を貫く法則
 真理
 光明
 知恵
 絶対の愛。
 
 この点は、強調しても強調しすぎることはない。神はもちろん、法則以外にも「聖、至上、無限……知恵、絶対の愛」などの属性をもち給うが、人間が法則を無視することを望んではおられず、神はむしろ法則それ自身であるから、法則に従うことを望まれる。そのことの意味を、谷口雅春先生は『新版 真理』第9巻生活篇の中で、次のように平易に説かれている:
 
「茄子(なす)を播けば茄子が発芽し、瓜を播けば瓜が発芽するのは“法則”によるのであります。“法則”と云うものは“一定の条件に於いては一定の事物が出現する”と云う律でありまして、神が吾々にそれを利用し得るように一定の相(すがた)をもってあらわれられたのが“法則”であります。若し神が変幻自在で、一定の条件に於いて一定の結果を来さないのであるならば、私たちは迚(とて)も生活することは出来ないのです。今日は飯を食べれば、腹がふくれるが、明日は却って腹が減る、明後日はどうなるかわからないのでは御飯一杯食べることも出来ないで生活が成り立たないのであります。また在る人に対しては同じ条件で法則は左と作用し、或る人に対しては右と作用して一定の結果が得られないならば科学は成り立たないのです。だから神のあらわれとしての法則は愛憎なく平等に作用します。」(p.35)

 上の引用文の中に「科学」の2文字があることに読者は気づいてほしい。生長の家は科学を否定しないのである。科学が成り立つことは、神の御心の一部であると考えている。そのことの意味を、私はさらに詳しく「法則としての神の御徳を讃える祈り」の中で解説しているから、読者は参考にしてほしい。

 ところが、信仰に入って間もない人の中には、宗教とは科学や法則を無視した形で何かが起ることだと勘違いし、そうでなければ宗教に値しないと考える人がたまにいる。そして「医者から見離されれば、信仰しかない」などと思ったりする。こういう人に限って、科学や法則を無視した形の奇術的現象(例えば、某似非宗教家が行った空中浮遊など)を宗教の本質だと見誤り、迷信に陥っていく危険性があるのである。
 
 ここで1つ質問しよう。人間が心で想うことと、水の物質的成分に直接的な相関関係があるだろうか? 例えば、蒸留水を前にして人間が「これは甘い」と強く念じれば、その水中に糖分が生じるなどということがあるだろうか? もしあるとすれば、それは科学ではどういう名前の法則として認められているだろうか?
 
 谷口 雅宣

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2007年9月19日

念力の可能性

 8月30日の本欄に簡単な「コイン並べ」のゲームを掲載して奇蹟について考える一助としたが、その後の9月3日には、パラサイコロジー(超心理学)が成立する可能性にも触れた。読者の中には「コイン並べ」を繰り返して、一定の数列(例えば"12345")が出ることを念じた人がいるだろうか? 目的の数列が「120分の1」の確率より多く出たら一応、パラサイコロジーが成立したことになると思うが、結果はどうだったろうか? 
 
 “念力”には個人差があると思う。また、自分の念力を信じるか信じないかで差が出てくることも考えられる。ただし、この種の“凝念”は神への信仰とは関係がないということを知っておくべきである。それどころか、超心理学的な力が自己目的に濫用されると、むしろ神の御心とは異なる方向へ人間を迷い込ませる危険性がある。これらを心得たうえで、純粋に知的な興味から超心理学的な可能性を実験してみたい人のために、もう一つのプログラムを作ってみた。名づけて「ウィルパワー・バージョン1.0 Kaminoko.exe」である。

「Kaminoko.exe」は普通のウィンドウズのアプリケーションである。上のプログラム名が表示された箇所にマウス・カーソルを当てて右クリックすると、自分のPCにプログラムの保存(ダウンロード)ができる。好きなフォルダーに「Kaminoko.exe」を保存した後は、通常のアプリケーションと同様に実行すればいい。前作の「コイン並べ」では、「PUSH」ボタンを押すと1から5までの数字がランダムに並んだが、今回は「人間神の子」という5文字が画面にランダムに(「神人の間子」「間子人の神」「の人子間神」……などと)表示される。それだけのプログラムである。

 いわゆる“念力”が働く可能性があるとしたら、「PUSH」ボタンを押す際に「人間は神の子である!」という念を込めて押した場合だろう。統計的には、偶然に「人間神の子」と出る確率は「120分の1」である。また、「神の子人間」と出る確率も同じだから、両者を同じ“念力”が働いた結果と考えた場合、ボタンを60回押して2回以上、意味のある言葉が画面に並べば、超心理学的力が働いたと考えていいかもしれない。ただし、「5つの文字をランダムに選ぶ」ために使った関数が、コンピューターの内部で実際にどのように働いているか私は知らないので、この関数自体が偏った結果を生む場合は、念力がなくても念力があったような結果が出る可能性もある。
 
 さらに、ボタンを60回とか120回押した結果を書きとめておくのは大変だから、「Kaminoko.exe」には表示された文字を数字化して記録しておく機能も付け加えた。「数字化」といってもごく単純なもので「人」「間」「神」「の」「子」の5文字をそれぞれ「1」「2」「3」「4」「5」の数字に置き換えただけのものである。だから、プログラム終了後に「Kaminoko.dat」というテキストファイルを開いて調べてみて、「12345」と「34512」が書き込まれていれば、その箇所が“当たり”ということになる。

 これはあくまでも“気楽な実験”として作った。だから、結果が“偶然”の確率より低いものであっても、読者は「私は信仰がない」などと落胆されないように。また、これによって信仰が数量化されるなどとも考えないようにお願いする。繰り返しになるが、念力と信仰の質とは関係がないのである。
 
 谷口 雅宣

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2007年9月17日

迷いはどこから来る? (7)

「善」と「自由」との関係は、本シリーズに通底する重要なテーマである。ところが、「迷いはどこから来るか?」という疑問に対して、私が自由の話をしたところ、「迷いが自由から来るならば、迷いをなくすためには自由をなくせとの結論になる」と誤解した読者がいたようである。私は、上記の鈎括弧内の文章の前半のことは確かに言ったが、後半部分を言ったり書いたことはない。なぜなら、ことはそれほど単純でないことをよく知っているからだ。本シリーズで私が「北朝鮮」と「日本」の食堂の例を使ったのも、自由のない北朝鮮をほめたたえる目的ではなく、むしろその逆であることは、普通の読者なら文脈から理解してもらえると考えていた。「ブログ」などという自由な発言を重視する媒体を積極的に使っている人間が、言論統制の厳しい不自由な国の方が、悟りに至る道に近いなどと考えるはずがないのである。

 善は倫理学における最も基本的な主題の1つであるし、古来、哲学上の重要問題でもあった。私は本シリーズでは、「自由」を「選択肢の多い状態」の意味で使っているが、「自由がなければ善はない」としているのだから、この善とは「道徳的善」の意味である。どこかでもこの例は使ったことがあるが、例えば、銀行強盗に拳銃を突きつけられて自由を奪われた銀行員が、他人の預金の一部をその強盗に渡したとしても、彼または彼女の「道徳的善」は問われないし、刑事責任も問われないだろう。その理由は、我々が一般に「自由がなければ善も悪もない」と感じているからだ。だから、動物が自由のない“本能”にもとづく行動をしても、普通は「善悪」の問題にはならない。(通俗的には「悪いサル」などという言い方はされるが、それは道徳的な善悪の問題ではない)一方人間は、他の動物や植物に比べて、大幅に自由な生き方ができる存在だから、それだけ「善」や「悪」の問題が生じるのである。

 本シリーズの3回目で紹介した『新版 真理』第10巻実相篇の谷口雅春先生のお言葉は、この人間のもつ「自由」が“神の子”としての徳性の1つであることを明白に教示されている。『生命の實相』全集の中でも第13巻倫理篇上の最終部分(pp.176-188)や第14巻倫理篇下/教育篇のpp.20-21などに、同様の趣旨のご文章が載っている。因みに倫理篇下のご文章をここに掲げよう:

「人間が悪をも犯しうる自由をなぜ神が与えたのだろうかという疑問は読者からたびたび提出せられる疑問である。善とはなんであるか。それは真っ直なというだけではない、善とは人格(すなわち自由の主体)が、その自由なる生命の発露として正しい道に乗ったことを善という。強制されて正しい道にのったのは善ではない。それは人格的自由なしに、ただ外面がやむをえず正しい姿をしているというだけにすぎない。本当の善と、似て非なる強制された正しさとの区別は、肉筆で描いた線の美と、定規で描いた線の美との相違のようなものである。(中略)もし、人間が正しい道にのるほかになんらの自由もないならば、われわれの行為は定規をあてられたと同じことになり、真っ直には歩めるかもしれぬが、定規で描いた直線と同じようにすこぶる興味なく生命なき人間の動きとなってしまうのである。」

 それでは、迷いが自由から来るならば、迷いをなくすためにはどうすべきか? この問いに対する答えは、すでに本シリーズ前回までの中に書かれている。すなわち、迷いは「人間は肉体である」とする謬見から来るのだから、社会に向っては「人間は神の子である」との真理を伝え、また自身においてはその自覚を深め、その自覚にもとづいた行動を起こすことが重要である。そうすることによって、数多くの選択肢がある現代社会の中にあっても、人・事・処に応じた正しい行動が多様な形で遂行できるに違いない。そして、それが「善」を表現することになる。神の御徳の1つである「善」は、こうして人間の自由な判断によって最も完全に表現されるのである。
 
「しかし……」と読者は不満に思うだろうか? 「理論的にはそうかもしれないが、実際は真理の伝道は難しいし、“神の子の自覚”もなかなか得られない……」。もし読者が、そういう“迷い”の渦中にあるならば、それは「実際の社会」「実際の自分」をアルと認めているからではないか? 現象は唯心所現であるから、「迷った社会」も「迷った自分」も本当はナイ。それらは、自らが描き出した“作品”である。蜃気楼から目を逸らして、昇りゆく太陽をしっかりと認めよう。あなたの“太陽”は、定規で引いたように真っ直ぐ昇らなくてもいいのである。

 谷口 雅宣

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2007年9月15日

迷いはどこから来る? (6)

「趙州勘婆」の公案で、老婆が言う「真っ直ぐに行け」とはどういう意味かについて、読者からいろいろコメントをいただいた--①迷った自分の心を信じないで心の主(仏心)になること、②欲するところに従って矩(のり)を超えないこと、③自分の行く道が正しい道であって、実はその道しかナイと信じること、④内に神の国があると自覚すること、などである。それぞれが“正解”の要素を含んでいると思う。が、映画『厨房で逢いましょう』の主人公の立場に当てはめてみた場合、これらがどんな解決策を具体的に示しているのかは、判然としないものもある。①は「自分の人妻への恋心を信じるな」ということだろうか。また②は、人妻への恋の料理は続けてもいいが、「やりすぎるな」ということだろうか。一方③は、逆に人妻への恋を自信をもって貫徹せよということになるのか。また④は、人妻との関係に“神の国”を求めるなということなのだろうか。

 この公案に対する谷口雅春先生の解釈は、「真っ直ぐに行け」とは「実相を直視せよ」の意だ、と極めて明快である。しかし、そのことが具体的にどのような選択になるのかは、それほど明快ではない。先生の言葉を引用すれば、「2つの道を超えた真直の道であるから、右か左かの選択ではない。そのどちらをも超えたところの真実一路である」ということである。(『無門関解釈』pp.242-243)
 
 雅春先生は「2つの道」の喩えとして、病人が医薬品の服用を続けるか、薬を捨てるべきかに迷った場合を取り上げられ、このような「2つある道のうちの1つを選ぶと云うような、現象道の選択ではないのである。どちらの道をも放ち去って、ただ驀直に、本来一つしかない唯一路を往けと云うことである」と説かれている。迷いながらの選択であれば、薬を捨てることも、薬の服用を続けることも“迷いの道”であり、そのような心境では本来の自然治癒力が発揮されないとも書かれている。そういう意味では、『厨房で……』の主人公は、美人の人妻との関係を断とうが断つまいが、彼女への執着心を放下しないかぎり心の自由を得られず、したがって「迷い」から解放されないだろう。

 では、どのようにすれば執着心が放下できるのか? これは恐らく、一般論では片付けられない。「彼女から物理的に離れる」という選択肢が有効な場合も、そうでない場合もある。また、彼女の夫との“三角関係”に突入し、互いに傷だらけになった挙句に執着が放下できる場合もあれば、そうでない場合もある。あるいは、神想観を繰り返し実修することで、自分の特技で人妻を誘い自己の生を確認しなければならないような、そんな歪んだ生き方をしなくても、自分がそのまま“神の子”である実相を観ることができれば、「2つの道」のいずれも選択せずに彼女への執着心から解放されるだろう。この最後の選択肢が生長の家のお勧めだが、この映画の中ではそれは実現されない。この映画の実際のストーリーは、1番と2番の選択肢の中間あたりで展開していくのである。
 
 さて、ここで本シリーズのメイン・テーマにもどろう。「迷い」はどこから来るのだろうか? 聖経『甘露の法雨』には「真相を知らざるを迷いと云う」とあるが、この「真相」とは何の真相だろう? 「快苦は本来物質の内に在らざるに、物質の内に快苦ありとなして、或は之を追い求め、或は之より逃げまどう、かかる転倒妄想を迷いと云う」とも示されている。味や食感や香りの中に快苦があると思い、それを追究するのが料理人であるが、聖経のこの一節は、美食を否定したり戒めているのだろうか? 私はそうは思わない。生長の家は快楽主義ではないが、禁欲主義でもない。食事は肉体維持のために必要な営みであるが、それを人生最大の目的にするような生き方は、人生の真相を知らないと言わねばならない。一方、人を喜ばせる美味しい料理を作ることは「愛の表現」の一形態として充分有意義であり、芸術表現の1つでもある。しかし、芸術表現にも節度が必要で、これを人妻を絡め取る手段として使うことは、愛の真相を知らず、愛と執着とを混同した「迷い」である。
 
 これらの「迷い」は結局、「人間は肉体である」とする謬見から来たものだ。聖経にあるように、在るものを無いとし、無いものを在るとする転倒妄想が迷いである。つまり、人間の本質は神性・仏性であるのに、それが自分ではなく肉体が自分だと考え、実在でない肉体がここに在ると考える。そのような謬見は自ら選び取ったものであり、神が強制されたものではない。我々は常に謬見を棄て去り、神の膝にかき上がる自由をもっているのだが、自らそれをしないだけである。その意味で、迷いは「謬見をもつ自由」から来ているとも言える。いま謬見を棄てて真理を取れば迷いは無くなるが、神はそれを我々に強制し給わないのである。なぜなら、自らの意思で真理を取ることが最高の善であるからだ。
 
 谷口 雅宣

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2007年9月14日

オウムのアレックス、死す

 12日の本欄で、最近の脳科学の発見について触れたが、そういう科学的研究によってもよく理解できないことは、自然界には多くあるようだ。鳥は、状況に応じて複雑な鳴き声を発することはよく知られているが、そういう鳴き声が人間の言語のように複雑なメッセージを伝えているかどうかについては、科学者の間ではまだ論争がある。たいていは「言語」ではなく「ものまね」か「単純な要求」程度の意味しかないと考えられてきたようだ。ところが、アメリカの心理学者、ペッパーバーグ博士(Irene M. Pepperberg)が育てたアレックスというオウムは、100を超える英語を覚えて話すことで有名になり、テレビ番組などに出ていたという。そのアレックスの死亡記事が12日付の『ヘラルド・トリビューン』紙に載った。
 
 同紙の記事によると、このオウムは先週まで、飼い主のペッパーバーグ博士と一緒に合成語や、発音が難しい単語の練習を続けていたそうだ。そして6日の夜、自分のカゴにもどる際に博士の方を見て、「You be good, see you tomorrow. I love you.」(いい子でね、また明日。愛してるよ)と言ったそうだ。その翌朝、博士はアレックスがカゴの中で死んでいるのを見つけたという。この鳥は31歳だった。記事の見出しは「A thinking parrot's loving good-bye」(考える鳥の愛を込めた別れ)である。まぁ、本当に「愛」まで込められていたかどうかは定かでないが、人間の言語を操る鳥がいることを科学はまだ説明できていない。

 アレックスが話した英語が人間の言語と本質的に同じであるかについては、否定論もある。オウム類は基本的な表現手段として人間の音声を真似ることはできても、そのことは、人間がすでに幼児期に得る論理性や、物事を一般化する能力をオウムがもっていることを示すわけではない、と考える科学者もいる。しかし、この記事によると、アレックスは紙製の青い三角形を見ると、紙の色、その形、そして(三角形に触れたあとで)それが何でできているかを言葉で話すことができたという。この種の実験を実際に観察した心理学者の渡辺茂氏は、『ヒト型脳とハト型脳』という本の中で、その様子を次のように描いている:
 
「このオウムは英語の質問に英語で答えることができる。このオウムに黄色い紙の五角形と灰色の木の五角形、緑の木の三角形と青い木の三角形など、色や形、材質のどれかが同じである2つの物を見せる。そして“何が同じか?”“何が違うか?”と質問する。この問題は見本合わせよりはるかに難しい。なぜなら、オウムは見せられた物を色、形、材質といった様々な性質に分解してから、何が“同じ”で何が“違うか”を判断しなくてはならない。三角形という形が同じだった場合の正しい答えは“三角形”ではなく“形”である。つまり、どの属性が同じだったのかを答えなくてはならない。オウムがよく知っている物を用いたテストで、正答率は約77%だった。さらに、はじめて見る物のテストでの正答率反応率は85%だった」。(p.21)

 アレックスという鳥は、何かの突然変異で人間の言語を獲得した特殊中の特殊のケースなのだろうか。それとも鳥類は一般に、言語を操る能力を備えているが、アレックスのような特殊の訓練を受けないのでしゃべらないのだろうか。もし鳥類が言語能力を潜在的にもっているとしたら、類人猿やサルはどうか。イルカやゾウなどの高等哺乳動物はどうか……など、疑問が次々に湧いてくる。そんな時、「ヤマメにニジマスを産ませる」実験に東京海洋大学の研究グループが成功したというニュースが飛び込んできた。今日の新聞各紙が報道している。ニジマスの精原細胞(精子の元細胞)をヤマメの稚魚に移植すると、ニジマスの精子と卵子をもつ雌雄のヤマメができるそうだが、その雌雄からニジマスを誕生させたのだという。こんなアクロバットまがいの研究をする理由は、この技術を利用して「5年後にはマグロを産むサバをつくりたい」からだという。管理しやすい小さな魚から、大きな魚を得るためらしい。
 
 私はこのような科学者の動機には倫理性が欠けていると思うし、人間至上主義が透けて見える。魚類で得た技術が一気に哺乳類に応用されることはないだろうが、人間のために動物を利用することに何も問題がないのであれば、現在の技術をもってすれば、サルや類人猿、あるいはブタを代理母として、人間の子を産ませることもできるに違いない。精子や卵子を物質と同等に考えれば、それらの遺伝子を操作して、人間の“親”が望む形質のデザイナー・ベビーを動物に産ませる。そうすれば“優秀人間”の増産ができ、不妊治療の負担が軽減され、少子化対策にもなるだろう--こんな怖ろしい考えに結びつかないように、科学研究における倫理規定を早急に整えることが必要である。

 谷口 雅宣

【参考文献】
○渡辺茂著『ヒト型脳とハト型脳』(文春新書、2001年)

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2007年9月12日

宗教の必要性

 イギリスの科学誌『New Scientist』が9月1日号で「宗教の必要性」を問いかける特集記事を掲載した。「人間の道徳性が生来のものであるならば、宗教を信じることの意味がどこにあるのだろう?」という書き方である。こういう特集の裏側には、宗教を理由としたテロや戦争が現に行われていることへの批判があることは言うまでもない。私がここに「生来の」と訳したところは、原語では「hard-wired in the brain」である、直訳すると「脳に直に配線されている」とでもなるのだろうか。つまり、最近の脳科学の研究によると、善と悪を識別するなどの道徳性や倫理性の判断は、人間の脳の一部が直接行っているらしいのだ。ということは、どんな人間でも、脳に異常がないかぎり、宗教など信じなくても良心があり、善悪の判断ができるということだから、テロや戦争の元になるような信仰をもつ必要はないというわけである。もっと端的に言えば、「無神論者も道徳的・良心的でありえる」ということだ。

 この記事は、宗教を「争いの元」として単純に否定しているのではない。宗教と道徳性や、信仰と幸福度が正比例し、宗教と喫煙・薬物中毒が反比例するなどの科学的研究にもきちんと触れたうえで、宗教の教えと道徳意識が必ずしも一致しないこと、宗教が憎悪や戦争を正当化する傾向があること、宗教の信者が多い国において、殺人や未成年者の死、性感染症の患者が多いことなどを示す科学的研究に言及し、現代における宗教の意味を問いかけているのである。
 
 私がこの記事を読んで興味をもったのは、米テネシー州のヴァンダービルト大学の社会学者、ガーリー・ジェンセン教授(Gary Jensen)の研究である。この研究では、殺人という社会現象に焦点を当て、それが起る頻度(割合)と、その地域で支配的な信仰の内容に関係があるかどうかを調べた。その結果、善悪二元論的な信仰が強い地域では、殺人事件が多いことが分ったという。例えば、アメリカは最も殺人事件が多い国だが、そこでは96%の人が神を信じると答える一方で、76%が悪魔の存在も信じると答えるそうだ。これと同様の傾向を示す国はフィリピン、ドミニカ共和国、南アフリカだった。しかし、神への信仰はあっても悪魔をあまり信じない国--例えば、悪魔を信じる人が18%しかいないスウェーデン--では、殺人事件と信仰との相関関係は低いことがわかったという。この研究などは、「善一元」の信仰の重要性を示しているように思う。

 また、宗教を信じる“動機”と信仰者の行動に関係があるとする研究も興味深い。こちらはカンザス大学の社会心理学者、ダニエル・バットソン氏(Daniel Batson)によるもので、同氏は信仰の動機を“内的宗教性”(intrinsic religiosity)と“外的宗教性”(extrinsic religiosity)に二分した。前者は、神を信仰することや教会へ行くことそれ自体が信仰の目的であるが、後者は、それらを社会的活動の一種として捉え、しばしば個人の利益が信仰の目的になっている。このような二者間で対比すると、内的宗教性は他人への思いやりや偏見の少なさと関係しているが、外的宗教性は逆に、偏見の多さと関係していることが分かったという。つまり、後者の傾向のある人は、他人を助けるのは、その人にとって“正しい”(自己目的にかなう)人である場合だけということになる。これなどは、いわゆる“ご利益信仰”の弊害を示しているのかもしれない。

 現在の科学は「神を信じるか否か」などの単純な違いで人を分けるのではなく、「どんな神を信じるか」「信じる目的は何か」などのより深く、意味のある視点から、信仰の意味や宗教の存在意義を問うているようだ。私はこれを、歓迎すべきことと思う。
 
谷口 雅宣

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2007年9月11日

迷いはどこから来る? (4)

 この題で2回目に書いた本欄(7月29日)で、北朝鮮と日本の食堂のメニューを比較して質問した際、多くの読者からコメントをいただいたことは本当にありがたい。それに対して、私はまだロクに答えていないので、この場でそれを試みようと思う。その時の質問は、北朝鮮の食堂の乏しいメニューを①とし、日本の食堂の豊かなメニューを②とした場合、下の2つの設問の正誤を判断するものだった:

 ①は②に比べて「欲望」を引き出さないから、神の意思に近い → [正・誤]
 ②は①に比べて「欲望」を多く引き出すから、神の意思に遠い → [正・誤]

 また、その後に続けて次の質問をした--

【問い】人間の欲望をより多く実現する環境の方が、そうでない環境よりも神の意思に近いのか、それとも遠いのか?

 私はここで暗に、北朝鮮社会と日本社会とを対比して、「どちらの社会の方が神の御心をより明らかに反映しているか?」と問うているのである。同様の比較は“イスラーム社会”と“西洋社会”との間にも、“中世”と“現代”との間にも成り立つだろう。また、万民の平等と共同利益の追求により成立するとされる社会主義・共産主義社会と、自己の利益の最大化を目的として発展するとされる資本主義社会との比較も、この線に沿ってできるかもしれない。まぁ、あまり難しく考えずに、素朴に「正」と「誤」を選ぼうとすると、恐らく多くの人は「こんな二者択一は乱暴だなぁ」と感じなかっただろうか?
 
 ポイントは、「選択肢が多い」ということと「欲望」との関係である。この設問をよく読むと、その背後には「選択肢が多ければ欲望を多く引き出す」との前提がある。しかし、それは本当だろうか? 読者のコメントの中にもあったが、豊富なメニューを見て欲望を燃え立たせる人もいれば、そうでない人もいる。その逆に、貧しいメニューを見たときも、豊かな食生活を知っている人の中には、知らない人よりも不満を感じ、「もっと別のものを食べたい」と不満に感じる人もいるに違いない。その場合、現象世界に於いて人の欲望を引き出すものは、「選択肢が多い」といういわゆる“客観的条件”であるよりも、“客観的条件”に対する人の評価--すなわち主観的判断によると考えるべきだろう。そうなると、上記の[正・誤]を選ぶクイズにおいては、「そんな単純な二者択一はできないから、設問は不適当」と言って、回答を拒否するのが正解なのだ。
 
「なんと意地悪な設問か!」と読者は怒るだろうか? 正解のない設問を出すことは確かに意地悪かもしれない。しかし、この設問に答えようとする中で、明かになったことがないだろうか? その1つは、迷いは「自由」(選択肢が多い状態)からのみ来るのではなく、人間の欲望とも関係しているということである。これも読者のコメントの中にあったが、どんなに豊かな(自由な)食事ができる環境にあっても、「すべてのメニューを食べなければ……」などと欲望に引きずられる人には、本当の自由はなく、そこには迷いと苦痛とがあるばかりである。我々は、いわゆる“食べ放題”のレストランに入ったときに、そんな欲望に引きずられたことはないだろうか?

 上に書いた“客観的条件”は、“物質的条件”と言い換えることができるだろう。そうすると、人間は物質的条件を変えることで自由を得たり、迷ったり、あるいは迷いから解放されると必ずしも言えないことがわかる。例えば、お腹をすかせた人がたまたま飛び込んだ食堂のメニューに「カツ丼」と「野菜炒め」と「ざるソバ」しかなかったとする。この人が「何だこの店には3品しかないのかっ!」と不満に思えば、その人は不自由である。しかし、「そうだ、野菜炒めこそ今、自分が食べたいものだ!」と思えば、その人は自由である。無理にそう思うのではなく、本当にそう感じた場合だ。この例を、北朝鮮と日本の食事に当てはめれば、北朝鮮で“貧しい”食生活をしている人も、「この食事こそ私の求めているものだ」との心境に常にある場合は、日本の食べ放題のレストランで10回目に皿を持って立った“豊かな”人よりも、よほど自由であり、迷いが少なく、かつ神の御心に近い生き方をしていると言えないだろうか?
 
 もちろん私は、人間の幸福の実現に物質的条件は全く関係がないとは言わない。多くの人は、独房に入れられて肉体的な自由を奪われた場合は、幸福感を覚えたり悟りの境地に達することは難しい。しかし、ごく少数の人はそういう不自由な条件下でも(例えばソクラテスのように)精神を高めたり、悟りの境地に近づくことができるのである。そこで改めて問おう--迷いはどこから来るか? 現時点での答えは、こうなる……「欲望追求のために自由を行使せんとするところから来る」。

谷口 雅宣

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2007年9月 3日

奇蹟について (4)

 前回の本欄では、10個の数字からなる数列が出る確率の問題を通して、私たちが毎日経験するいわゆる“日常”や“当たり前”の生活が、少なくとも数学的な意味においては全く“日常”でも“当たり前”でもなく、「毎日毎日が奇蹟的にユニークな体験であることが100%確実」であることを示した。この「100%確実」という判断は、今の人間の肉体的一生が80年前後であるという事実を踏まえたうえでの表現であることをお断りしておく。
 
 ところで、8月28日の本欄では「宗教的な意味での奇蹟」とは何かを考え、谷口雅春先生の『真理』第10巻とキリスト教神学を参考にしながら、生長の家では、単に稀な現象のことを奇蹟とは認めず、それが「自然法則を超える」場合に奇蹟として認めていることを指摘した。そして、宗教的意味での奇蹟を「自然界の法則を超えて、倫理的道徳的秩序を現わすために起る現象」と定義した。すると、0から9までの10枚のコインが「7286519034」の順序で並ぶ場合と「0123456789」の順序で並ぶ場合は、どちらが宗教的な意味での奇蹟であって、どちらがそうでないのだろうか? 読者にはもう、答えは明白だろう。いずれの場合も自然法則を超えていない(つまり、出る確率がゼロではない)から、宗教的には奇蹟でないのである。
 
 だから、この厳密な意味での奇蹟の定義を採用すれば、「毎日毎日が奇蹟的にユニークな体験」だという上記の表現は正しくない。しかし、その一方で、「奇蹟」という言葉の意味には「常識では考えられない不思議なできごと」(『新潮国語辞典』)とか「常識では理解できないような出来事」(『大辞林』)が含まれていることを考えれば、「常識」のレベルが変わることによって、同じ現象が「奇蹟」として扱われたり、扱われなかったりすることがあり得るのである。そして私は、本欄の仮想実験で10枚のコインが、わずか1回のトライアルで「7286519034」と並んだり、あるいは「0123456789」と出る理由が「常識」では理解できないと思うので、この実験のすべての結果を「奇蹟的」と呼ぶことは許されると考える。さらに言えば、これと同じ理由で、私は毎日の体験を(緩い意味で)「奇蹟的」と呼ぶことも許されると思う。
 
 何かすごく面倒な言い方になってしまったが、ここで再び「偶然」とは何かを考えよう。辞書的な意味(『新潮国語辞典』)では、偶然とは「予期しなかったさま」であり「たまたま」である。これをもっと厳密に哲学的に表現すると、偶然とは「因果律によってあらかじめ知ることができない事件が起ること」(『新潮国語辞典』)であり、「事象の因果系列に対して、それに含みえない事象が生起すること」(『大辞林』)である。前者と後者の意味は微妙に異なる。『新潮国語辞典』の意味では、「原因がわからない事象が起った」ときに使う言葉が「偶然」である。ところが『大辞林』では、「原因がなく事象が起った」ときに「偶然」というらしい。私には前者の意味は分かるが、後者の意味は採用できない。なぜなら、何ごとにも原因があるというのが因果の法則だからだ。
 
 そこで前者の意味を採用すると、「原因がわからない」という言葉の代わりに使うのが「偶然」ということになる。何のことはない、これではコイン並べの第1回で「7286519034」が出るのも「0123456789」が出るのも「偶然だ」とすることは結局、「原因がわからない」と言うのと同義なのだ。つまり、「君、それは偶然だよ!」とまことしやかに述べることは「原因がわからない」と言っているに過ぎないのである。谷口清超先生は前回触れた論文の中で、そのことをきちんと指摘されている:
 
「実験的に2という数字を選ぶときは、それは第1回目に出てくることもあり、6回目に出てくることもあり、14回目に出てくることもある。では何が原因で、ある時は1回目に出、ある時は6回目に出、ある時は14回目に出るのであるか。それは決して“偶然に”出るのではない。偶然に第1回目に出るのではなく、それが第1回目に出るには出るだけの理由があって出るのである。ただその原因を吾々はしらない、それで偶然に出ると名づけるだけなのである。“偶然”をかつぎ出すのは、人間の無智の告白以外の何ものでもないのである」(谷口清超新書文集2『神は生きている』、p.157)
 
 そして、先生がこの引用文の次に書かれている言葉に注目しよう--「吾々はその原因に或る偉大なる叡智者を確信するのである。その叡智者を名づけて吾々は“神”と呼ぶのである。“凡ての原因”を名づけて“神”と呼ぶ」。したがって、「神の子」である人間が、コイン並べの結果に影響を与えることが「できない」とは言えない、と先生はいう。
 
「そこで実際の操作において吾々がもし“0123456789という数列を引き出そう”と心に思って、実験をする場合と、何も思わずに、ただ無意識的に数列を引き出す場合と、果たしてそれは同一の結果を得るであろうか。これは非常に重大な問題である。(中略)唯物論者が偶然に帰している原因の中にも、実はこの人間の心の作用があるのではないか。若し心が物質や環境に作用を及ぼすものであると考えるならば、明かにこの心的原因は見逃すことの出来ない問題である」(同書、pp.158-159)

 なかなか注意深い表現であるが、ここにはパラサイコロジー(超心理学)が成立する可能性が示されていると考えていいだろう。
 
 谷口 雅宣

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2007年9月 1日

奇蹟について (3)

 前回の本欄で「コイン並べ」のプログラムを掲示したが、一時うまく動かなかった点はご容赦いただきたい。この「コイン並べ」と同じ考え方で“奇蹟”を論じることで、ある興味ある結論にたどりつくことができるということを、生長の家総裁・谷口清超先生が説かれている。実は、清超先生が青年時代に書かれた「偶然と宇宙意志」という論文の中に、この仮想実験と似たものが出てくる。ただし、私の「コイン並べ」では5つ数字を使った数列を問題にしたのに対し、清超先生は、その論文で「0」から「9」までの10個の数字の組み合わせが出る確率について論じておられる。また、私の仮想実験では、数字の繰り返しを許さない順列であるのに対し、先生の論文では数字の繰り返しが許される順列(例えば、「1111111111」も許される)である点が違う。が、実生活に当てはめてみると、これらの違いはほとんど解消するだろう。先生は、「7286519034」が出る確率と「0123456789」が出る確率とは全く同じで、それは「ものすごく少ない」のだという。数字で表せば、それは10の-10乗(100億回に1回)で、ほとんど0に近いから「これを0とみなした方がよい」とも書かれている。つまり、同じ数列が出る確率はほとんど「0」というわけだ。
 
 さて、次にこう考えてみよう。私の仮想実験では5つの数字を使ったが、これを清超先生のように「10個」まで増やしてみる。そして、本欄の仮想実験の方法を使って引き出した最初の10個の数列が「7286519034」だったとする。また、2番目に引き出した数列は「5472908631」だったとする。そして、3番目は「2910547863」、4番目は「7863294105」……と、異なる数列を3,628,800個まで書くことができる。これら約360万回の実験のたびに目撃しているのは皆、生起する確率が「ほとんど0」の結果である。生起する確率が「ほとんど0」の現象を「奇蹟」と呼ぶことが許されれば、この360万回の実験のすべてで、実験者は「あぁ、奇蹟が起った!」と感動していいのである。ところが、普通の人間はそんなことでは感動せず、「当たり前だ」と退屈に思う。そして「0123456789」や、その逆の配列が出たときにだけ感動する。これは一体どうしたことだろう?
 
 さらに、次のように考えてみる。私たちの仮想実験では、10個の数字の組み合わせで360万通りの異なる(ユニークな)結果を得た。それでは、私たちが毎日経験している「実生活」は、一体どれくらいの“変数”で構成されているだろうか? 別の訊き方をすれば、私たちの実生活の1日を構成する要素は、どれくらいの数になるだろうか? 試しに、朝起きたときからの“要素”を列挙してみると……目覚ましの音、ラジオのニュース、配偶者の声、トイレの音、窓外の景色、鏡に映る自分の顔、子どもの顔、挨拶の声、俎板を包丁が叩く音、掃除機の音、テレビのアナウンサーの顔、その服装、トーストの焼け具合……たちまち10個以上挙げてしまったが、まだ1日のごく始まりにすぎない。つまり、私たちの1日の構成要素は「ほとんど無数」である。10個の数字の組み合わせで360万個のユニークな数列ができるのだから、「ほとんど無数」の構成要素をもつ私たちの実生活の1日が、全く同一の組み合わせで繰り返される確率は、どれほどだろうか? それは100%確実に「0」と言えるだろう。
 
 にもかかわらず、どうして私たちは「当たり前の日常」とか「単調に繰り返される日々」などと言うのだろう? 毎日毎日が奇蹟的にユニークな体験であることが100%確実なのに、「退屈」で「つまらない」などと言うのだろうか? その理由は、私たちが「7286519034」を“当たり前”と感じる一方、「0123456789」を“奇蹟的”と感じるのと同じ--つまり、完全な錯覚なのである。これらのことをじっくり考えてみると、「当たり前の奇蹟」という言葉の意味がより深く理解されるだろう。そして、それらの「1日」が24時間で構成され、「1時間」が3600秒で構成されていることを思い出せば、「今を生きる」ことの大切さがさらに実感されると思うのである。
 
 谷口 雅宣

【参考文献】
○谷口清超著『神は生きている--青春の苦悩と歓喜』(日本教文社、1976年)

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2007年8月30日

奇蹟について (2)

 8月22日と25日の本欄に提出した「コイン並べ」の仮想実験を書きながら、私は「頭の中だけでの実験では現実味がないなぁ~」と感じていた。読者の誰かに実際に実験してもらい、「120分の1」の確率というのが統計として実証できたらいいのだが、忙しい読者諸賢にそんな負担をかけるわけにもいかない。かと言って、私自身がそれをやっても「本当にやったの?」と疑問視されるかもしれない。いや第一に、そんな時間をとってはいられないだろう。そこで考えついたのが、このブログ上でパソコン用のプログラムを走らせて、興味のある読者に「コイン並べ」をやってもらい、「120分の1」の感触を味わってもらえたらどうか、ということだ。しかし、それにはプログラマーの助けが必要かもしれないし、これまた他人の負担を増やすことになる……。
 
 そんなことをブツブツ考えながら、私は時間を見つけてシコシコとプログラムを書いてみた。そして、上記の目的に合いそうなものをどうにかこうにか作ってみたのである。興味のある人は、下に掲げたプログラムで遊んでほしい。

 このプログラムを実行するには「RandCoins.pkg」というファイルを読者のPC上にダウンロードしなければならない。その後、下の四角い枠内のどこかをクリックすれば、プログラムが実行できる。「PUSH to draw」のボタンを押すと、灰色のウインドーが現われて5文字の数列が表示される。ウインドーの左上に「Trial」と書かれているが、これが「何回目」の実験であるかを示している。5文字の数列が出たら、その数字のどれかをクリックすると、次の実験をすることができる。やめる場合は「END」を押せばいい。ごく単純な実験である。
 
 谷口 雅宣

【注意】上記のプログラムは、都合により削除しました。   (08.05.18 記)

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2007年8月28日

奇蹟について

 前回の本欄で「宗教の世界における“奇蹟”を単なる“思い込み”から救い上げる視点はないか?」と問いかけたら、読者の1人が「宗教の世界における奇蹟とは何かを、記述してみたらいい」とコメントしてくださった。その助言に従おうと思う。とは言っても、これはなかなか簡単ではない。しかし、これまで例に挙げてきた“糞跡”や“コインの並び方”、あるいは“火星の人面岩”は、宗教的な奇蹟ではないと言えるだろう。なぜなら、これらは皆、自然法則に則って起った現象だからだ。それを、人間の側で勝手に「奇蹟だ!」と解釈しても、それを「宗教的な奇蹟」と言うわけにはいかないだろう。
 
 まずはこう言ってみたが、しかし、次のような場合を考えてみてほしい--ある青年が、困難な資格試験に合格したいと願い、毎朝、近くの神社に祈願の参詣をしていたとする。いよいよ試験当日となり、配られた問題用紙を見た青年は、思わず小さく声を上げた。なぜなら、前日に一所懸命に勉強した箇所が、ほとんどそのまま出題されていたからである。こうして、この青年は難しい試験に見事合格したとする。上の定義からすると、この場合は自然法則にのっとっているのだから--つまり、前日に勉強したことが試験に出題される確率は「0」ではないから--宗教的な奇蹟とは言えない。しかし、この青年本人にとっては、まさにこれこそ、神様が自分の祈りに答えてくださった宗教的奇蹟でなければ何であるのか!
 
 この試験の例と本質的に変わらないことは、墜落事故を起こした航空機に乗ろうとしていて乗らなかったか、あるいは乗れなかった人にも当てはまる。また、成功率が低い医療行為によって健康を回復した人、仲間と一緒に食事をしながら、自分だけ食中毒にならなかった人、交通事故でペシャンコに潰れた車中から、かすり傷だけで救出された人などにも言えるだろう。これらの人が宗教心をもっていた場合、きっとその人は「あぁ、これは奇蹟だ。神様に救われた」と感じるに違いない。これを“宗教的奇蹟”と呼ばないで、何と呼べばいいのだろうか? 事実、この種の話は、生長の家でも、他の宗教でも、「信仰体験」としてもてはやされる傾向があることは否めない。しかし、これらは「単なる思い込み」と呼ぶべきだろうか?
 
 奇蹟が成立するためには、「自然法則を超える」という要素が必要だという考え方は、キリスト教に強い。キリスト教神学者のトマス・アクィナス(Thomas Aquinas)は、奇蹟を3つに分類した:①様式上の奇蹟、②客体的奇蹟、③本質的奇蹟、である。①は、自然法則を超えてはいないが、自然的手段の助けなしに起るもの。②は、自然法則上では不可能のことが客体に起るもの。③は、本質的にすべての自然法則を超えて起るもの、という。カトリックの神学では、奇蹟は「超自然の唯一の絶対的原理である神が、その絶対能力を有限な自然秩序領域に適用することによって生起した現象である」とする。それが起るのは、自然界を変革するためではなく、倫理的因果律を守り、道徳的秩序を維持するためだとされる。そのような奇蹟を起こすことで、神は人間の信仰深化と、道徳の向上を期待するとともに、神自身が自らの存在を人類に示す。そういう意味で、奇跡は神の徴表(sign)と見なされるのである。
 
 実は、生長の家の立場もこれに近い。谷口雅春先生は『真理』第10巻実相篇で、次のように説かれている:
 
「善人が国を護るために戦いながら敵弾に中って死ぬ。其処には自然界の物理的法則があるだけであって、道徳的法則は見出されない。善人が人を救(たす)けようと思って寒中に水の中に跳び込む。そしてそのために彼は肺炎を起こして死ぬ如きことも自然界の物理的法則で起り得る。自然界の法則は、人の動機の善悪に対して差別なく作用するのである。それは冷厳に作用して善人悪人によって其の作用を異にすると云うことはない。このような場合には“自然界の法則”は決して神の意志をあらわしていないのである。法則が自働して、結果を導き出しているだけである。そんな危急の時に、超越内在神が働き出せば、車輪に触れながらでも傷つかず、寒中に冷水中に跳び込んでも感冒(かぜ)を引かず、肺炎にもかからないと云う奇蹟が生ずることになるのである」(pp. 142-143)

 これらのことから考えれば、自然界の法則を超えて、倫理的道徳的秩序を現わすために起る現象を、ここでは「奇蹟」と定義していいだろう。その一方で、一般に“宗教的奇蹟”と考えられるものの中には、「奇蹟紛い」のものもあることを認めねばならない。

谷口 雅宣

【参考文献】
○小口偉一、堀一郎監修『宗教学辞典』(東京大学出版会、1973年)

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2007年8月25日

「偶然はない」ということ (5)

 本欄で前回、本題を扱った文章の中で読者にクイズのようなものを出したので、その“正解”を書かねばなるまい。ただし、私は統計学の専門家ではないので、私の答えが統計学的に正しいかどうかは保証できない。
 
 まず、6種類の“糞跡”の話だが、それぞれの“糞跡”はみなユニークな形をしている。ここで言う「ユニーク」の意味は、原語である英語の「unique」の本来の意味で「ユニークである」ということだ。つまり、この世に1つしか存在しない形と言えるだろう。別の言い方をすれば、これらどの“糞跡”の形も、まったく同一のものを同じ条件下で“糞跡”によって再現することは不可能である。そういう意味では、それぞれの“糞跡”がこの世で再び生じる確率は限りなく「0」に近い。その一方で、最初にご覧に入れた人型の“糞跡”が起る確率はどうだろうか? 他の6つの“糞跡”が起る確率とどう違うだろう? 私は、まったく同じ--つまり、限りなく0に近い--と考える。もし我々が、「人型」になる確率の方が「非人型」になる確率よりも小さいと考えたならば(そして、その判断は間違っていないが)、それは「非人型」である6つの糞跡を我々が頭の中で1つのグループの中に括った(言い換えれば、類似物と見なした)からである。どうして我々は、「人型」を特別扱いするのだろう? その答えは、“糞跡”という現象(外界)そのものの中にあるのではなく、我々の心の中(内界)にあるのである。
 
 次に、5種類の紙コインを使った仮想実験の話に移ろう。これについても、上の糞跡の話と同じことが言える。5種類のコインの並ぶ順番は、120通り(5×4×3×2×1=120)が考えられる。そして、それぞれの順番が「ユニーク」である(つまり、他の順番とは違うそれ独自の順番である)。糞跡と比べて違う点は、糞跡の場合、まったく同一の糞跡を再現する確率が限りなく0に近いのに対し、コイン並べの場合は、実験を繰り返しているうちに同じ並び方が実際に再現される点である。その確率は、統計的に計算できる。そしてその確率は、どの並び方であっても同一のはずだ。つまり、「①②③④⑤」の順序となる確率も、「⑤④③②①」になる確率も、「②④①⑤③」「③②⑤④①」「⑤④③①②」「②⑤④③①」……などになる確率も皆同じ(数字で表せば0.83%=120分の1)である。ということは、最初の2つの順序になったときにだけ「何か特別な現象に出会った」と感じることは、統計学的には正しくない。しかし、心理学的には“正しい”と言えるかもしれない。
 
 読者は、“糞跡”とコイン並べの2つの問題に共通する要素を理解されただろうか? 我々の心は、ランダムな現象、無秩序な現象の中にも、無意識のうちに何らかの規則性や秩序や意味を見出そうとしているのである。例えば、我々の視覚(とその延長である脳)は、自然界に存在するものの中から「人の形」に似たものを敏感に感知し、それに特別な意味を付与する働きを無意識のうちに行っている。そのことが、「人型」の糞跡をそれ以外の糞跡と本質的に違うものとして認知させるのだろう。また、紙コインの示す数列は、数字自体には特別の意味がないにもかかわらず、少数の特定の数列に我々の視覚と脳とが特別な意味を付与するので、それらが現われる機会を、それ以外のものが現われる機会と区別して、“奇蹟”とか“神秘”とか“不思議”な現象に感じさせるのである。ということは、“奇蹟”や“神秘”や“不思議”は外界で起るのではなく、内界(心の中)で起るのである。

 こうなってくると、読者の1人がおっしゃっていたように、「考える」人間が介在して初めて“奇蹟”や“神秘”が存在するというのが、どうも正解のようである。「唯心所現」の教えから言えば、ごく当たり前の結論になってしまった。が、問題が1つある。それは、別の読者がおっしゃったように、「ある人が、ある現象を“奇蹟”と思うなら、すべての現象は奇蹟と言える」か、という問題である。私は、この意見は文学的表現としては充分成り立つし、それなりの真理を含んでいると考える。しかし、これを全面的に認めると、宗教の世界における“奇蹟”も「単なる思い込み」のレベルに落とされてしまうと思う。“奇蹟”を“思い込み”から救い上げる視点はないだろうか?
 
 谷口 雅宣

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2007年8月22日

「偶然はない」ということ (4)

 本シリーズで前回、私が発した質問に対して答えてくださった読者の多くは、鳥の糞が作った“人型”は、普通の意味での「奇蹟」ではないとのお考えのようである。その反面、「すべての現象はみな奇蹟である」という正反対の意味にも取れる言葉も出ているところを見ると、私の質問の意図が正確に伝わっていないかもしれない。「奇蹟」という言葉の意味は、「実際に起こるとは考えられないほど不思議な出来事」(三省堂『新明解国語辞典』)、「常識では考えられない神秘的な出来事。既知の自然法則を超越した不思議な現象で、宗教的真理の徴と見なされるもの」(『広辞苑』)である。この2つの意味から考えると、奇蹟であるか否かを決める要素の1つに「起る確率がきわめて低い」ことが挙げられると、私は思う。だから、読者の中から「どんな現象でも遭遇した人が奇蹟と思えば奇蹟だ」などという、言葉本来の意味を考慮しないご意見が出るなど、予想しなかった。(それこそ奇蹟である!)

 私はやはり、日本語の正確な意味を尊重したいので、「どんな現象も奇蹟」という詩的な定義はここでは採用せず、辞書の意味に則して議論を進めていくことにする。これは、「どんな現象も奇蹟」という表現に全く真理が含まれないからではなく、現時点での議論の方向に制約をもたせたいからである。この詩的表現には、別の側面から見れば部分的に真理が含まれていることを、私は否定しない。
 
 さて、上記の辞書の定義によると、鳥の糞の潰れた跡が“人型”になることが「実際に起こるとは考えられないほど不思議」であるかどうか、あるいはそれが「常識では考えられない神秘的な出来事」であるかどうか、がここでは問題になるだろう。「神秘的」の意味が、「既知の自然法則を超越している」という意味であるならば、糞が“人型”になるのは神秘的ではない。地球上で糞のような粘体が高所から落ちれば、ニュートン力学の法則に基づいてアスファルトの道路上で四方八方に飛び散るに違いない。そういう意味では、糞が飛び散ることは神秘的ではなく、奇蹟ではない。しかし、それが“人型”になるのは、どうだろうか? それは「実際に起こるとは考えられないほど不思議」なことだろうか?
 
 かつて本欄でも何回か(例えば、2005年6月11日)扱ったことのある“火星の人面岩”の話を思い出してほしい。アメリカの火星探査船が撮影した火星表面の写真の中に、人の顔の形をした大きな岩が写っていたことから、「いったい誰が何の目的で、そんな岩を造ったか?」で大きな話題になったのだ。火星にも大気があるから嵐も吹き、地殻運動もあるから、いろいろな形の岩や山が形成されるのは何も不思議でないし、自然科学の法則を超えてはいない。しかし、よりによって“人の顔”の形をした岩があったとしたら、そのような岩が自然現象の中で“偶然に”形成される確率はきわめて低い--と多くの人が考えたのだ。そして、そんな“奇蹟的”な現象を生ずる背後には、既知の自然法則を超越したような何か--例えば、未知の知性をもった存在、あるいは火星人!--が力を及ぼしているに違いない……。が、結局、この“人面岩”は、撮影の際の光の具合で“偶然に”人の顔のように写真に写っただけで、その後に行われた、より精密な写真撮影では、何の変哲もない、普通に隆起した岩であることが証明されたのである。
 
 読者は、“人型”の糞の跡と“人面岩”との共通性に気づかれただろうか? 両者とも、①視覚にもとづく判断であり、②人間の肉体の形態に関係しており、かつ③問題の現象Whitemen が起こる確率が低いとされる3点が共通しており、ここから“奇蹟”とか“神秘”が想起されるようだ。①と②については、すでに本欄に書いたので省略する。③についてだけ述べると、この「偶然に起る確率はきわめて低い」という判断そのものが、正しくないと私は考える。もちろん私は一時、実際にそう考えて、あの“人型の糞跡”を写真に撮ったのである。が、よくよく考えてみると、前回(19日)の“糞跡”が生じる確率と、ここ(=写真)に掲げる6つの異なる“糞跡”(すべて同じ時に撮ったもの)ができる確率とは、統計的に有意な差はないと思うのである。

 この最後の点が分かりにくいと思うので、別の角度から質問をしてみたい。ボール紙を10円玉大に切り抜いたものを、5つ用意する。これらの紙製コインの表裏に、それぞれ「1」「2」「3」「4」「5」と書き込んで、「1円玉」「2円玉」「3円玉」「4円玉」「5円玉」を作る。これらの紙コインを菓子箱の中に入れ、蓋をしてよく振り、中の紙コインを充分に混ぜる。次に目をつぶるか、目隠しをして、菓子箱の中の紙コインを1枚ずつ抜き出し、自分の前に左から右へ並べる。並べ終わるまで見てはいけない。5つをすべて横に並べたあとで、コインの数字を見る。こうして並んだコインが「①②③④⑤」の順序となる確率と、「⑤④③②①」になる確率は、どちらが高いだろうか? 次に、その確率と「②④①③⑤」「③②④⑤①」「⑤③①④②」「②④⑤③①」などになる確率は、どちらがどう違うだろうか?

 我々は、上の実験で「③②④⑤①」が出ても別に驚かないが、「①②③④⑤」が出ると、何か神秘的な体験をしたと感じないだろうか? もしそうなら、それはなぜだろうか?
 
 谷口 雅宣

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2007年6月16日

善人の不幸はなぜ?

 前回の本欄では「生れつきの障害」をもつことの原因について書いたが、そこに掲載した講習会の録画映像では、「善人に不幸が起こるのはなぜか」という、もう1つの疑問が提出されている。前回は、これを前世からの業との関係で答えている。しかし、前世からの原因によらなくても、善人が不幸に見舞われることはある。「見舞われる」というよりも自ら「引き寄せる」と表現した方がいいかもしれない。谷口雅春先生はこのことを、旧約聖書の『ヨブ記』に出てくるヨブの物語を例に引きながらよく話された。自己に厳しい善人は、「自分は罪深い存在だ」と考えることが多いので、その場合、艱難を歓迎する「自己処罰の意識」によって自ら艱難を引き寄せることがある。

 『真理』第9巻生活篇では、雅春先生は「自己犠牲」という言葉を使われて、同じ趣旨のことを次のように説かれている--
 
「徳」とは自己犠牲を必要とするものだというような考えが、あなたの潜在意識の何処かにありますと、個人の潜在意識は宇宙の潜在意識につながっており、自分の願望するところのものを宇宙意識に伝え、宇宙意識は一切の所に遍満していて、その願望にふさわしきものを、その人のところへ持って来てくれますから、自己犠牲を必要とするような事件がその人の身辺に集まって来てその人は不幸になるのです。「徳」と「福」とは両立しないという潜在意識の観念を打ち破らなければなりません。そのためには『生命の實相』を繰り返し繰り返し読んで、「神の国」即ち「実相世界」には犠牲がない、従って「実相世界の秩序」があらわれたら現象世界にも犠牲がなくなり、共存共栄の世界があらわれて来るものだということを潜在意識の底の底までも徹底せしめることが必要なのです。(pp.320-321)

「徳と福とは両立しない」という意味は、「有徳の人は幸福であってはいけない」ということだ。この場合の「幸福」とは「物質的に恵まれている」ことを含むだろう。これをさらに言い換えれば、「善人は豊かな財産をもってはいけない」ということにもなる。確かにこの世界には、そういう社会通念が存在する。逆に言えば、「財産家はきっと何か正しくないことをしている」という“ヤブ睨み”の物の見方が、それである。週刊誌の記事などは、ほとんどそういう立場から書かれている。そして、そういう週刊誌が大部数売れ続けている現状を考えると、世間の多くの人々が同種のストーリーを求めていることが分かる。つまり、それが人類の潜在意識(人類意識)の一端である。また実際に、アコギな方法で莫大な財産を手に入れる人も少なくないのだから、我々は誠に“心でつくる世界”に棲んでいると言えるのである。

 さらに言えば、上の引用文にある「徳は自己犠牲を必要とする」という観念は、宗教運動とも関係している。この観念は「信仰者は自己犠牲を必要とする」という考え方にも通じるから、この人類意識に支配された信仰者は、「信仰すればするほど不幸になる」という“ヨブの逆説”を演じたり、あるいは「自己犠牲をしない人は信仰者に値しない」という意識で他人を裁く傾向が現れる。こうなると、宗教運動は自己犠牲を競い合う苦しい運動となり、信仰運動としての魅力が薄れていくのである。
 
 谷口雅春先生は、こういう「善と福との共存」の問題を扱った『善と福との実現』(1974年、日本教文社刊)という素晴らしい本を書いてくださっているから、読者はぜひ参照されたい。

谷口 雅宣

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2007年4月17日

デジタルからアナログへ (2)

 4月12日の本欄で、私は免疫系の働きなどを例に挙げながら、デジタルなものの感じ方や考え方は“理性的”“科学的”というよりは“本能的”だとの示唆をした。この点は、もう少し説明を加える必要があると思う。通常、コンピューターやCDプレーヤーなどの「デジタル機器」は先端技術との関係で捉えられるから、真空管や弦楽器のような「アナログ装置」よりも進歩していて科学的だと考えられがちだが、私はその逆だと言っているのである。デジタルな情報処理の仕方は、原始的であり、人間的というよりはむしろ動物的なのである。その理由を説明しよう。
 
 イギリスの科学誌『New Scientist』が3月17日号で、このことを心理学の研究を紹介しながら指摘している。そこでは、「我々の心は人間の世界をほとんど自動的にいくつかのはっきりしたグループに分けて捉えるように作られているようだ」というミシガン大学の心理学者、ローレンス・ハーシフェルド博士(Lawrence Hirschfeld)の言葉が引用されている。また、英ブリストル大学の心理学者、ヘンリ・タジフェル博士(Henri Tajfel)も、もし人間の集団を「赤と青」、「北と南」などの2つに分ければ、自分が所属する集団へのバイアスがほぼ自動的にかかる、と指摘している。昨年、政治学の専門誌『Journal of Conflict Resolution』(vol 50, p. 926)に発表された研究では、このようなものの見方は、同一グループ内の協力を高めるだけでなく、グループを横断した全体の協力関係をも促進するという結果が出たという。
 
 ハーシフェルド博士らの研究では、肌の色を重視して人をグループに分ける傾向は、すでに3歳の子供の時から始まっているという。これは1993年に行われた研究で、警察官の服装をした太った黒人の子の絵を見せたあと、6人の大人の写真を見せて、その子が大人になった時の姿はどれかを聞くという研究である。この6人の大人は、最初の絵にあった子がもつ3つの属性--警官の服装をしていること、太っていること、黒人であること--のうち2つをそなえているという。記事には写真の詳細は描かれていないが、具体的な姿を想像すると、警官の服装をした太った白人の大人、スーツ姿の太った黒人の大人、警官の服を着たやせた黒人の大人……というような組み合わせだろう。結果は、写真の大人が警官の制服を着ていなくても、また太っていなくても、ほとんどの子が選んだのは「黒人の大人」の写真だったという。これは、我々大人が考えれば当たり前の結果だが、3歳の子がそう考えたということが重要らしい。つまり、すでに3歳のときから、我々は「肌の色が、人間の種類を決める最大の属性である」と感じていることが示されたというのである。

 また、2000年に行われた脳の画像診断による研究では、自分は人種差別をしないと公言する大人でも、脳内には自動的に、無意識に相手の肌の色が記録されることが分かっているという。これは、マサチューセッツ州のアムハースト大学(Amherst College)のアラン・ハート博士(Allan Hart)らが行った研究で、人間が原始的な感情を覚えたときに反応する大脳扁桃核(amygdala)の血流を調べると、白人と黒人が互いの顔を見たときには、本人が感情的に何も変化しないと答えたとしても、実際には血流量が増えるという。さらに、同じ年にニューヨーク大学のエリザベス・フェルプス博士(Elizabeth Phelps)らが行った研究では、人種差別を示す心理テストで高得点だった人ほど、大脳扁桃核の血流量が増えるという結果が出ているらしい。この他の様々な研究結果を総合して、同誌の記事は、我々が外観にもとづいて人間を差別する傾向は、むしろ“自然”であり“本能的”であることを示している。
 
 それでは我々は、“自然な”反応である人種差別を大いに歓迎すべきだろうか? 私がそう思わないことは、言うまでもない。この場合の“自然な”という意味は「本能的」とか「原始的」とか「動物的」という意味である。また、人間の脳の構造から言えば、大脳扁桃核を含む大脳辺縁系は「旧哺乳動物の脳」とも呼ばれていて、人間以外の哺乳動物に共通している。人間の脳は、大脳新皮質という大きな脳がこの「旧哺乳動物の脳」を覆い包んでいる点に於いて、「人間らしい」構造なのである。大脳新皮質は、理性の働きや、芸術的創造活動と深く関係していて、ここが動物的衝動を制御し、複雑な社会生活を可能ならしめている。だから、人間として“自然な”ことは、外観にもとづいて人間を差別する感情を制御して、より高度な視点から社会生活を調和あらしめていくことにほかならない。
 
 このように考えていくと、デジタルな判断の仕方が人間としては不十分であることが、より深く理解できるのではないだろうか。
 
谷口 雅宣

【参考文献】
○立花隆著『脳を究める--脳研究最前線』(1996年、朝日新聞社)

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2007年2月22日

クロスワードを解く (7)

 2月15日の本欄に掲載した「教義クロスワード No.7」の解答を発表しよう。

【縦の答え】
(イ)未完成。(ロ)祈り。(ハ)暇。(ニ)ノア。(ホ)長髄彦。(ヘ)ナタデココ。

【横の答え】
(イ)美濃。(ロ)イザナミ。(ト)仮の姿。(チ)姉。(リ)施肥。(ヌ)ヒルコ。(ル)今ここ。

 今回のクイズは、日本の神話から多く取材していることに気づいた読者は多いだろう。“ひねった”設問はほとんどなく、あえて“ひねった”と言えるとしたら、縦の(ロ)と(ハ)、それから横の(ル)だろうか。
 
 祈りとは「命の宣りごと」である、と谷口雅春先生は教えてくださった。これは「心の底からの宣言」という意味である。これに対して、祈りというものを「凝念」だと考える人の方が多いのではないだろうか。凝念とは、いわゆる“念力”のことだ。心で何かを一所懸命に唱えることで、そのことが現実に起こるとする考え方である。しかし、これによって一時的に小さい物体が動いたとしても、心身は疲弊して日常生活に差し支える。そんなことをするくらいなら、肉体の手や腕を使って物を動かす方がはるかに優れている。
 
 また、凝念を使うことは、「心で認めるものが現象に現れる」という心の法則を逆用する危険がある。例えば、病床にいる家族の平癒を祈るときなど、「神さまどうぞ治してください」と祈ることは、その家族がいま「大変な状態にある」ということが前提にあるから、そう強く祈れば祈るほど、心の底から「ああ現状は大変だ」と宣言することになりやすい。これでは、心で認めているのは「大変な状態」だから、その状態が消えることを心でわざわざ妨げていることになる。だから生長の家では、病気の平癒を祈るときは、本来完全健康であるその人の実相を心で強く思い描くという方法をお薦めする。このへんの心の持ち方については、谷口雅春先生の『詳説 神想観』(1970年、日本教文社刊)165ページ、谷口清超先生の『愛と祈りを実現するには』(1986年、同社刊)の191~194ページなどを参照されたい。
 
 これに関して、祈りの効果を科学的実験によって確かめる試みが何度か行われたことを思い出す。このことは昨年4月3日の本欄でも取り上げたが、こういう科学の実験では、被験者の心的態度まで厳密に確認しない点、どうしても明確な結果が出てきにくい。が、この実験では「祈りの効果なし」という結論になった。しかし、病気平癒の祈りではなく、祈りによって人工受精による妊娠の確率を上げる効果を調べた実験(2001年10月16日の本欄で紹介)では、「祈りに効果あり」という逆の結果が出ている。
 
 縦の(ハ)の答えは、「貧乏暇なし」という諺を思い出せば簡単に解ける。しかし、本当に貧しい人はヒマがないのだろうか、と私は疑う。これを逆に言えば、所得の高い人はヒマということになるが、現代の大企業の経営者でヒマをもてあましている人は、皆無とは言わないまでも例外的だと私は思う。私が知っているネコ好きのホームレスのおじいさんは、明治公園のベンチに寝そべって週間誌やマンガ本を読んでいることがほとんどだから、「貧乏暇あり」と言えるだろう。だから、この諺の「貧乏」とは、恐らく「極貧」の貧乏ではなく、「収入が平均以下」という程度の人、あるいは「生活に追われて働き通しの人」なのだ。

「実相はどこにあるか」という問いかけは、禅の公案にも多くある。有名なのは玄沙(げんさ)和尚の「膿滴々地」の話で、これについては昨年5月6日の本欄でも触れた--唐の時代にいた禅僧、玄沙が誤って薬を服したところ、全身が赤くただれて、膿(うみ)が体からポタポタと滴る状態になってしまったという。それを見た僧が、「いつも先生が説いている堅固法身(けんごほっしん)はどうなったのですか?」と問う。すると玄沙和尚は、「それは膿滴々地だ」と答える--こういう話である。谷口雅春先生は『日常生活の中の真理(仏典篇)』の中で、これを解釈されて「膿が滴々と流れているこの肉体そのままに堅固法身であると云う意味であります」(p.295)と説かれている。別の言葉でいえば、現象の状態に関わりなく、実相は「今ここ」にあるということになる。谷口雅春先生の聖歌『今ここに新たに生まれ』では、神の子の自覚を深めることで「今ここ」に新生することが説かれ、谷口清超先生の聖歌『悦びの歌』にも「神の国は今ここにあり」とある。

  第8問を以下に掲げる:
 
Cwp6x6008 【縦のカギ】
(イ)生滅・変遷がなく永久に続くこと。
(ロ)他の侵害から守り大事にすること。
(ハ)頭で知るだけでなく、体験を通して自分のものにすること。
(ニ)屋根を共有すること。
(ホ)人生に起こる吉凶のめぐりあわせ。
(ヘ)神の別名。
(ト)植物の体の中軸。

【横のカギ】
(ハ)人と対面して話し合うこと。
(チ)何かに心をもっぱら集中すること。
(ホ)苦しんで声を出すこと。
(リ)聖経『甘露の法雨』では、人間の肉体が死ぬことを詩的にこういう。
(ヌ)「こうでなければならない」と心に掴むと、この状態になる。
(ル)神想観の時の気合いの元になった2語のうちの1つ。
(ヲ)神社等で神がすむとされる場所。

谷口 雅宣

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2007年2月10日

「テロとの戦争」をやめよう

 アメリカが「テロに対する戦争(the war on terrorism)」という呼称を廃止するかもしれない--と私は期待している。なぜなら、アメリカに最も近い同盟国、イギリスでは、この呼称の使用が最近禁じられたらしいからだ。2月9日の『ヘラルド・トリビューン』紙にハーバード大学のジョセフ・S・ナイ教授(Joseph S. Nye, Jr.)が論説を寄せて、そのことを論じている。ナイ教授は、外交・国際関係の分野では一流の学者だ。
 
 私は2005年6月1日の本欄で、「“テロに対する戦争”という言葉は、問題の立て方が間違っている」と書いた。なぜなら、「テロ(terror)」とは「恐怖」という意味であり、恐怖は、第一に恐怖する人の心の中にあるのだから、それと戦うのに実際の兵器はさほど役に立たないからだ。その時に書いた文章から引用する:
 
「恐怖は“外”にあるのではなく“内”にある。“外”をいくら叩いても“内”にあるものは壊れない。或る“敵”を外に見出しそれを倒しても、次なる“敵”が内部の(恐怖の)投影としてまた外に現れる。否、“テロとの戦争”という言葉を使う限り、自ら“敵”を外側に作り出さざるを得ないのだ。戦争には、具体的な“敵”が必要だからだ」

 実際には自分を傷つけようと意図している“敵”が存在しなくても、本人が恐怖心をもって周囲を見ていれば、あらゆる人々の視線や行動が自分への“敵意”を表しているように見える。この心理状態が昂じると、「被害妄想」という病名がつく。また、この妄想にもとづいて周囲に敵意を撒き散らせば、周囲の人々がそれに応じて敵意を示すことにもなる。こうして“妄想上の敵”は“本物の敵”になるのである。

 この矛盾を、少なくともイギリスは気づきはじめているようだ。ナイ教授によると、イギリス外務省は昨年遅く、ブレア内閣の閣僚と外交官らにこの用語の使用をやめるよう指示したという。このことを評して、ロンドン発行の『オブザーバー』紙は「イギリス政治の考え方が1つの岐路にさしかかっている」とし、イスラム過激派によるテロ事件が一向に終息しないことに対し、「英米の考え方に差が広がりつつある」と分析している。

 イギリスでは、2005年7月にロンドンでの交通機関を対象にしたテロ事件があり、それ以降も自爆テロ事件、あるいはその未遂事件が起こっている。最近も、イギリス政府は重大なテロ計画を16も発見し、追跡調査をしていると発表した。ある世論調査によると、上記のロンドンでのテロ事件について、イギリス在住のイスラーム信者のうち10万人が「攻撃は正当」と答えたという。だから、イギリスでの“テロとの戦争”では、イギリス政府は“負け”の側にあると言える。その理由の1つが、“言葉の力”の悪用にあると結論したのだ。
 
 ナイ教授によると、イギリスの情報機関であるMI5がテロリストを取り調べたところ、彼らの心の軌跡には共通したパターンがあることに気がついたという。それぞれのテロリストは、過激思想や、様々な社会的・政治的不満をもっていることは確かだが、そういう若者に宗教的使命感にも似た精神の高揚や、より大きな目的意識をもたせて行動に至らせるものは、「戦争」という言葉や、「戦い」をめぐる物語なのだという。アルカイーダは、そういう単純だが強力なメッセージをメディアやインターネットを通じて伝達する能力に優れているらしい。テロ行動に出た人々の間には「イスラーム社会は今、西側諸国から一斉攻撃を受けている。だから、イスラーム信者は世界中で、イスラーム共同体を敵の攻撃から護るのが信仰者個人としての義務だ」という考え方が浸透しているというのだ。そんな中で、西側諸国が「戦争」や「戦い」という言葉を使えば、彼らの信念をより強固にし、テロ活動への参加者を増やすことになる--そう考えるに至ったらしい。
 
 “言葉の力”の大きさを示した一例である。ブッシュ大統領もこのことに早く気づき、イギリスに倣ってこの種の“火のついた言葉”を消す側に回ってほしいのである。キリスト教を信仰する大統領なのだから、「敵に譲歩する」などと思わなくていい。『ヨハネによる福音書』の冒頭にある次の聖句を「思い出した」と言えばいいのである:
 
「初めに言(ことば)があった。言は神と共にあった。言は神であった。この言は初めに神と共にあった。すべてのものは、これによってできた。できたもののうち、1つとしてこれによらないものはなかった」

谷口 雅宣

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2007年2月 9日

クロスワードを解く (5)

 遅ればせながら、1月30日の本欄に掲載した「教義クロスワード No.5」の解答を発表する。

【縦の答え】
(イ)母系。(ロ)強さ。(ハ)和子。(ニ)罪の子。(ヘ)至妙。(ホ)理路。(ト)祈祷師。

【横の答え】
(イ)菩薩行。(チ)国家意識。(リ)水戸。(ヌ)牛。(ル)岩海苔。(ヲ)心の眼。

 今回悩んだのは、縦のカギの(ニ)である。ややこしい表現になってしまった。「ある宗教で……」という表現を使い、さらに「人間を“性悪”と考えるとき」という条件まで加えた。もっとストレートに「キリスト教で……」と書けばいいのに、と思う読者がいるかもしれない。しかし、そうしなかった理由がある。すべてのキリスト教で「人間は罪の子」と説いているわけではないからだ。最近、NHKのドラマ『芋たこなんきん』で、小料理屋の女将役をやっているイーデス・ハンソンが「人間はみな神の子や」と言ったのを聞いて、私は妻と顔を見合わせた。原作にこんな台詞があるかどうか知らない。また、彼女がキリスト教信者なのかどうか分からない。あるいは、自ら考案した台詞なのかもしれない。が、何となくピッタリ来る言葉だったと思う。

 生長の家の講習会でもこのことに触れることがあるが、実は聖書の『マタイによる福音書』には、間接的な表現ではあるが「人間は神の子である」という意味のことが書いてあるのだ。まず第一に、イエスが弟子たちに教えた“模範的祈り”ともいうべき「主の祈り」(6章9~13節)の冒頭には、神への呼びかけの言葉として「天にいますわれらの父よ」と祈れとある。「われら」とは一般の信者が自分を指して使う言葉だから、「われらの父」が天にいるのならば、子である一般信者はみな「神の子」ということになるだろう。そういう表現をイエスが“模範的祈り”の中で使えと言っているのだから、少なくともイエス自身は「人間は罪の子だ」とは考えていなかったと推測できる。
 
 それだけではない。以下に列挙する聖句をじっくり味わってほしい:
○敵を愛し、迫害する者のために祈れ。こうして、天にいますあなたがたの父の子となるためである。(5:44-45)
○あなたがたの天の父が完全であられるように、あなたがたも完全な者となりなさい。(5:48)
○あなたがたの父なる神は、求めない先から、あなたがたに必要なものはご存じなのである。(6:8)
○もしも、あなたがたが、人々のあやまちをゆるすならば、あなたがたの天の父も、あなたがたをゆるして下さるであろう。(6:14)
○空の鳥を見るがよい。まくことも、刈ることもせず、倉に取りいれることもしない。それだのに、あなたがたの天の父は彼らを養っていて下さる。(6:26)
○あなたがたの天の父は、これらのものが、ことごとくあなたがたに必要であることをご存じである。(6:32)
○あなたがたは悪い者であっても、自分の子供には、良い贈り物をすることを知っているとすれば、天にいますあなたがたの父はなおさら、求めてくる者に良いものを下さらないことがあろうか。(7:11)

 こうやって続けて読んでみると、「人間はみな神の子や」という台詞の説得力が伝わってくるだろう。

 第6問を以下に掲げよう:

Cwp6x6006 【縦のカギ】
(イ)あなたの肉体は?
(ロ)手で直接渡すこと。
(ハ)仏教の宗派の開祖。
(ニ)インドの想像上の植物。花は三千年に一度咲くとされる。
(ホ)不幸や戦争の原因の1つ。
(ヘ)中生代の標準化石の日本名。イカやタコの仲間と言われる。

【横のカギ】
(イ)宗教教典でよく使われる説明の仕方。現象的に存在しないものを、これで暗示する。
(ロ)仏教で心を込めて善業を修めること。転じて肉食をしないこと。
(ト)「馬の骨」と「吹く風」に共通するもの。
(チ)人間にしかない能力の1つと言われている。最近、チンパンジーやイルカにもあるという研究も出た。
(リ)講師試験の結果も、これによって分かる。
(ヌ)人間が愛し、また憎むもの。
(ル)死者からのメッセージを伝えるとされる人。
(ヲ)肖像や偶像のこと。キリスト教では聖母像や聖画像を指す。近頃はコンピュータでも使われる。
(ワ)三重県の都市。

谷口 雅宣

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2007年2月 8日

意味と感覚

 一昨日(6日)の本欄では、七面倒くさい議論で読者を煙に巻いてしまったかもしれない。私が絵を描く動機を理解してもらおうと思ったのだが、かえって誤解の種になってはいけないと思い、別の角度から説明したい。
 
Mtimg070208  休日の今日、私はある生活雑貨店へ妻とともに行った。そこにはいろいろな趣向を凝らした食器、洗面用具、文具、絵本、玩具などが並んでいて、手に取ったり、眺めているだけでも十分楽しめる。そんな中に、私はここに掲げた絵にあるようなものを見つけたのである。左側のマグカップのことではなく、その右に並んだ大きなテントウムシのようなものだ。最初、私はこれをテントウムシの縫いぐるみだと思った。ところが、近くに置いてある説明書きを読むと、「パソコン・ディスプレイの埃を拭くためのクリーナー」だという。私は「参ったなぁ~」と思った。
 
 何に参ったかというと、この商品ほど「意味」と「感覚」のズレが大きいものに、私は近年出くわしたことがなかったからだ。簡単に言えば、デザインが意表を突いているのである。パソコンのディスプレイには静電気で埃が付きやすい。それを取り除くためには、私はティッシュペーパーを使ったり、その目的で売られている薬を浸み込ませた布で拭いたり、もっと無精なときは、着ているセーターの肘で拭ったりする。だから、こんな縫いぐるみ型のクリーナーがあるなど想像もできなかった。これで埃を除くには、テントウムシの“お腹”の部分をディスプレイの表面に当ててこするのである。そのために、手でつかみやすい大きさになっている。つかみ心地も悪くない。そして、“お尻”の脇に細いリボンのリングが付いていて、突起状のものに吊るすことができる。パソコンのディスプレイの上に置いたり、脇に吊るしておける、ユーモア溢れたマスコット兼掃除用具というわけだ。

 この商品と、あの七面倒くさい議論の間に何の関係があるのだろう? こんなふうに考えてみてほしい--この商品を見たことのない客がこの店に電話をして、「そちらに何かバレンタインデーの贈物にできる商品がありますか?」と訊いたとする。電話に出た店員は、そのとき別のことに気を取られていて「パソコンのディスプレイ用のクリーナーがありますが、どうでしょうか?」と答えたとする。これは“意味優先”の説明の仕方であり、店員の答えは決して間違っていない。しかし、電話口の客は恐らく、そんなものはいらないと考えるだろう。なぜなら、ディスプレイ用クリーナーをバレンタインデーに贈るなど無粋だからだ。ところが、同じ店員が「バレンタインデー」という言葉にピンときて、少し気を利かせて「かわいいテントウムシの縫いぐるみがありますが、これはパソコンのディスプレイの埃取りなんです」と“感覚優先”の説明をしたとしよう。これならば、電話口の客が興味を示す可能性はグンと増すはずである。

 客にもっと興味を持たせるには、この店のインターネットのサイトに、テントウムシ型のクリーナーの実物の写真を大きく掲げることだ。この方法は、「他人の目」と「言葉」を介さずに、客に直接商品を見せることになる。それを一見して「わぁ、かわいい!」と思った人は、それから「これは一体何?」と、その商品の「意味」を考えるだろう。目から入った「感覚」が先で、それを「ディスプレイ用クリーナー」という意味に結びつけるためには、言葉が必要だ。その言葉を聞いて(あるいはパソコンの画面で読んで)「なぁーんだ」と落胆する人はこれを買わないだろう。が、「かわいい」という印象をもち続ける人や、「へぇー、面白い」と思う人は、値段しだいでは買ってくれる可能性がある。買うということは、価値を認めることだ。
 
 この例では、“意味優先”の視点で見るとつまらないものでも、“感覚優先”の視点に切り替えると、その価値が認められる場合があることが示されている。都会の生活に価値を認めるためにも、これと似た方法が有効だと思う。言葉を介さずに、都会の事物を直接感覚で受け取るのである。言葉が我々を導いていく先は「意味の世界」であることが多い。これに対して、感覚は我々を直接感動へと導くことができる。

 例えば、読者は毎日、新宿3丁目を経由して仕事場へ行くとする。そのとき、1軒の喫茶店の前を通るとしよう。この店を「通勤路の新宿3丁目にある喫茶店」として捉えるのが“意味優先”の視点である。こういう見方では、この店への関心はほとんど生じないだろう。しかし、ある日、その通勤路で「西日を浴びて、木の肌を克明に見せた板壁の店」が見えたとしよう。もちろん、この喫茶店がそう見えたのである。その時、「なんだ、いつも通る店じゃないか」と考え直して“意味の世界”へもどってしまわずに、見えたとおりの光景をじっと味わってみるのはどうだろう。その板壁の文様が心を打ったならば、それをしっかりと見て、心に留めるのである。そして、その感動を絵に描けばいい。

 私のいう“感覚優先”の視点を、理解してもらえただろうか。忙しい都会人は、大抵“意味の世界”で生きている。そこから“感覚の世界”へ移って都会を見れば、そこにはまだまだ感動すべきものが沢山ある、と私は思うのである。

谷口 雅宣

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2007年2月 6日

わが町--原宿・青山 (2)

 2月からオープンした表題の欄に、読者(鑑賞者?)からいろいろなコメントをいただき、有り難く感謝している。絵画やスケッチの類は、見る人によっていろいろな感想があっていいと思う。だから、私がスケッチに表現した街並みを見て「ひしめきあっていて息苦しい」とか「馴染みにくい」などと言ってもらって一向に構わないのである。東京の町並みがひしめきあっているのは事実であるし、東京に多くある奇をてらった建物は馴染みにくいのが普通だからだ。そういう町並みや建物を描けば当然、息苦しく、馴染みにくい絵になる。

 でも、どうしてこれだけの数の人間が息苦しく、馴染みにくい町に住んでいるのだろう? 毎朝、電車や駅の殺人的な混雑を修行僧のように黙々と潜り抜けて、職場でも忙しく時間に追われる仕事をし、疲労して家路につく。それが、給料のためだけとは私には思えないのである。もっと何か、「生き甲斐」と言えば大げさだが、「夢」とか「憧れ」とか「希望」みたいなものを、人々は大都会に抱いているのではないか。自分の仕事にそれを抱く人もいる。が、それができなくても、アフターファイブや、まだ遭えない恋人には抱ける。また、ロードショウとか、大美術館とか、最近話題のナントカヒルズとか、ナントカプレースなどへ行けば、そこには綺麗に演出され、ガラスの飾り棚に入れられて「夢」「憧れ」「希望」が並んでいる。手を伸ばせば、まるでつかめそうな距離に……。
 
 夢、憧れ、希望は、小さいガラスケースにも収められるが、大きな建築物にも表され、街並みにも表現できる。こうして表現されたものが、自分の抱く夢、憧れ、希望とは違っていても、それぞれの表現物はそれぞれの“良さ”を持っていないだろうか? キラキラした夢であっても、ケバケバしい憧れでも、キャンキャンと騒がしい希望であっても、それらを少し距離をおいて外から眺めるとき、普段気づかなかった人間の温かさ、人生の素晴らしさや愛おしさが伝わってこないだろうか? そんな良さは、新しいものの中にあるだけでなく、朽ち果てそうな古いもの、あるいは全く普通の平凡な、当たり前のものの中にもあるのではないか? それを獲物探しの“ハンターの目”になって物色する--私はスケッチの際、こんな心境になっているような気がする。
 
 直感的で、分かりにくい表現になってしまったので、論理的な説明を試みよう。物事には大別して2つの側面があるように思う。1つは「意味」を伝えるもの。もう1つは「感覚」を通して訴えるものである。例えば今、私の執務室の窓から外を見れば、隣接地の工事現場に、山吹色の穴掘り用の機械が聳え立っているのが見える。これを見て「景観を壊す工事用機械」という「意味」を脳裏に刻む人もいれば、その機械の色と形が昔、子供のころ自分が割り箸で作ったゴム鉄砲に似ていると感じ、「巨大なゴム鉄砲が空を向いて立っている」と感じる人がいるかもしれない。前者は“意味優先”のものの見方であり、後者は“感覚優先”のものの見方と言える。私たちは、この2つのものの見方を、その時の気分によって組み合わせて使っているのではないだろうか。
 
 “意味優先”のものの見方をする場合、私たちは目の前にあるものを自分の現在の目的との関係で意味づけ、価値判断する傾向がある。例えば、朝の通勤時に先を急いでいる時、駅前広場でバインダーを抱えた青年が近づいて来ると、私たちはその人を「行く手をさえぎる邪魔者」として見る。この場合、その人を含めた私たちの周りの“外界”は、どうしても「自分の手段」のように目に映っている。自分との利害関係の有無で「善」と「悪」と「無関係」の3種類の意味づけを行う傾向が出てくる。自分の現在の目的に貢献するものは「善」であり、それを妨げるものは「悪」となり、無関係のものは「非存在」の中に消えてしまうのである。これでは、私たちはいったい何を見ているのか分からない。多分、周囲のもの「そのもの」など全く見ていないから、素晴らしいもの、美しいものがあっても気がつかない。そこに何十万色の豊かな色彩があっても、自分の心で白(善)、黒(悪)、灰色(無関係)のたった3色に減色した世界を見ているかもしれないのだ。
 
 都会の生活はどうしても“意味優先”になりがちだ。だから、“感覚優先”のものの見方に切り替えることで、普段見えなかった何か素晴らしいものが、モノトーンの、平板な意味の裂け目から顔を出してくれないだろうか……そんな期待を込めて街を歩くのも悪いことではない、と思うのである。

谷口 雅宣

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2007年1月29日

「悪を認める」とは? (2)

 前回は、生長の家で「悪を認めない」というのは、「悪を実在として認めない」という意味が含まれる、と書いた。が、それだけの意味ではないので、さらに補足しよう。

 「悪を実在として認めない」だけであれば、悪を「現象」としては認め、その内容を微細に検討したり、その原因を細かく分析するのが、善を実現する正しい方法だ、という議論が成り立つ。しかし、生長の家では、そういう方法はお勧めしていない。なぜなら、これは「類は類をもって集まる」という心の法則の逆用になるからである。「悪い」ものに心の焦点を合わせることによって、私たちには「悪い」現象が次々に見えてくるのである。このことは、私たちがニュース報道の世界でよく経験することだ。例えば、どこかで「17歳の少年が人殺しをした」というニュースが大きく報道されると、不思議なことに、連鎖反応が起こるのである。「悲惨な自爆テロで大勢の人が殺された」と報道されると、同種の事件がそれに続いて起こることがある。これは、航空機事故についても観察されることがある。社会心理学の研究テーマとして興味ある現象だ。
 
「悪」はこうして社会的に伝播すると同時に、個人の心の中にも拡がる傾向がある。誤解のないように言っておくが、私はここで仮に「悪」という言葉を使っても、それは実体をもった“悪の塊”のようなものを想定しているのではなく、(前回使った言葉を採用すれば)「人間の心の中に生じる否定的な力(拒絶感)」のことを便宜上そう呼んでいるのである。人間の心は、対極にあるものを同時同所に感じることが困難にできている。例えば、「悪」と隣り合わせに「善」が存在することを容認することが難しい。「悪」を思っているときに「善」を同時に思うことが難しい。否定的に見ているものを、同時に肯定することは難しい。だから、悪に心を集中し、悪を分析していれば、その周囲のものも悪として感じ、さらにその周囲に隣接する、より広い領域にあるものも悪として感じやすい。こうして彼の心には“暗黒”なるものが次々と広がり、それがまるで黒々とした実在であるかのような印象が生まれるのである。

「悪を認めない」ことは、だからこのような心中の悪(否定的印象)の拡大を未然に防止する優れた方法でもあるのだ。「悪を認めない」どころか、心を実相の光明円満完全のイメージで満たすことは、「類をもって集まる」という強力な心の法則を発動して、私たちの心が現象の奥に光明・円満・完全を見出す契機を与える優れた方法である。谷口雅春先生は、この素晴らしい方法を用いられて数多くの聖典のページを、力強い光明の言葉で埋められている。例えば、『真理の吟唱』の「想念感情を浄める祈り」には、次のような件がある:
 
「今より後、決して私は悪しき事を思わず、悪しき事を言わず、人を呪うことなく、怒ることなく、現象の悪に心を捉えられることなく、ただ善のみ、光のみ、美のみ、幸福のみ、豊かさのみ、調和のみ、平和のみの実相を心に見、コトバに発し、常に想念感情を浄めて、この世界の実相たる天国浄土を地上に実現せんことを期するのである」

 私たちは、この教えに従って“日時計主義”を生きることにしている。だから『日時計日記』では、悪い出来事は書かないのが原則である。悪いことを書かない、印象しない、記録しない、思い出さない、という方法によって、多くの人々は「悪はない」という実感がもてる。加えて、「よいこと」のみを書き、印象し、記録し、思い出すことによって、多くの人々は「善が満ちている」という実感を抱き、その実感を通して、現象の背後にある善一元の世界の実在を確信することができるようになる。そういう宗教的実感や悟りへ到達するための優れた方法が「悪を認めない」という生き方である。
 
 以上のように、私たちが「悪を認めない」ということには、①現象世界における「悪を実在として認めない」という認識論的(静的)意味と、②「善一元の実相を観ずる」という宗教的実践(動的)の意味があるのである。

谷口 雅宣

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2007年1月28日

「悪を認める」とは?

 今日、松山市で行われた生長の家講習会では、よい質問が多く出た。私はそれに丁寧に答えようとし、また質問が多かったこともあり、講話の時間が予定をオーバーしそうになった。それでもすべての質問に対して答えられず、また答えの内容も十分意を尽くしたという自信がない。そこで、この場を借りて少し補足させていただこう。
 
 午前中の講話で「唯心所現」の原理を説明したとき、私たちの世界観や人生観が、マスメディアから得る情報にいかに大きく左右されるかを示すために、犯罪統計に関する簡単なクイズをした。日本の犯罪は減っているのに、ほとんどの人は増えていると感じている。また、犯罪の質も「凶悪化」しているわけではないのに、凶悪化していると感じている。その理由は、私たちが“悪いニュース”に注目し、マスメディアも“悪いニュース”を大きく扱うだけでなく、何回も繰り返して報道し、さらに「続報」と称するその後の話を延々と流し続けるからだ、という意味のことを言った。これでは、私たちは社会を挙げて「悪を認める」運動をしているようなものだから、唯心所現の原理によって現象世界から悪はなくならない。そして、生長の家は「悪いことを心に記録しない」という日時計主義の生き方であることを話し、ついでに『日時計日記』の宣伝もした。

 これに対し、3通の質問が来たが、最も的を射て分かりやすいものを次に掲げよう。新居浜市に住む42歳の男性の質問である。:
 
「一般論では、ものごとを良くしようとした場合、欠点を認め、それを改善するのが最も良いとされています。生長の家でも地球環境問題にとりくんでいるのは、地球温暖化現象という悪を認めているからではありませんか? 唯心所現という意味は良く分かりますが、実際の応用(の仕方)が良く分かりません」

 この問題は、実は昨年3月5日7日の本欄で「悪を放置するのか?」という文章で検討している。しかし、説明が中途半端なので、ここで改めて解説を続けることにする。3月の説明を繰り返せば、この世界には「悪そのもの」や「悪という実体」は存在せず、ある対象を評価する人間の心の中に否定的な力(拒絶感)が生じたときに、その対象を仮に「悪」と呼ぶのである。つまり、「悪」とは人間の心の中に生じる否定的な評価を外部に投影したもの、と言えるのである。
 
 上の質問者が挙げた例を使えば、私たちは地球温暖化現象を否定的に評価して「悪い」と思うのであるが、しかしどこかに何か黒々とした「悪」という実体があるわけではない。大気中の温室効果ガスが増加していくという「状態」があるだけである。温室効果ガスの主成分である二酸化炭素(CO2)は、それ自体は善でも悪でもない。また、大気中にCO2を排出する行為そのものも「悪」とは言えない。その証拠に、私たちは常にCO2を鼻や口から吐いているが、誰からも咎められない。さらに言えば、工場や自動車からCO2を排出することも、それ自体が悪というわけではない。なぜなら、産業革命の初期に蒸気機関や工場から排出されるCO2のことを「悪い」と評価した人はいないと思われるからだ。
 
 現在それが「悪い」ことのように扱われているのは、大気中のCO2の濃度が上昇し続けていて、その結果、地球の平均気温が温室効果によって上昇を始め、地球環境や生態系にマイナスの影響を与えている、と大多数の人間が評価しているからである。そして、私たちが地球環境問題の解決に努力しているのは、そういう「マイナスの評価」を私たちも共有していて、そのマイナスの度合いを減らすことが、人間社会のみならず、地球環境や生態系全体にとってプラスになると考えるからである。これを簡単に言えば、「欠けた部分を補い、より完全に近づける」努力をしているということだ。地球環境問題の背後に“悪”がいると認め、その“悪”に向って宣戦布告をするのとは、少し意味が違うのである。

 生長の家で「悪を認めない」というのは、「悪を実在として認めない」という意味が含まれる。現象としての人間には欠陥や欠点はある。しかし、それを指摘して「お前はだからダメだ」と断定することは、事実上「現象の欠陥が永続する」と宣言することになるのである。これでは、欠陥を実在同然のものとして扱っている。つまり、欠陥(悪)を実在として認めている。そんなことでは、その人の欠陥(悪)はなかなか消えない。それよりは、「貴方はこの方面で優れているから、その優れた面を他のこういう側面にも応用すれば、もっとうまくいく」と助言し、相手の隠れた能力(実相)の顕現を信じて待つのである。この最後の部分が特に重要である。現象として欠点や欠陥が目の前に見えていても、実相がその背後にあるから必ず良くなるという強い信念・信仰がないかあるかで、「悪を認める」か「悪を認めない」かの違いが出るのである。このような言葉の微妙なニュアンスの違いは、講話ではうまく伝わらなかったかもしれない。

谷口 雅宣

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2007年1月20日

感覚と心

 人間の視覚が生む数々の錯覚については、私は『心でつくる世界』(1997年、生長の家刊)などで取り上げ、「目に見える」ことが必ずしも本当でないという点を強調したことがある。人間の脳の領域の7割もが、視覚から入る刺激の処理に使われているということを考えると、人間の肉体的生存にとって視覚情報がいかに重要であるかが分かる。しかし、その視覚から入る情報の処理が、必ずしも正しく行われないという事実は、我々に多くのことを語っている。
 
 1つは、我々が「目の前にある」と思っている世界は、実は案外アヤフヤで、本物ではない可能性が大いにあるということだ。哲学ではこのことを「認識論」という分野で論じるが、仏教では昔から「唯心所現」とか「三界唯心」などという言葉を使ってそれを指摘してきた。また現代の科学では、認知心理学などがそれを扱っているし、素粒子論などを通じて理論物理学がそれに触れることもある。「人間の感覚する世界」と「本当にある世界」が異なるという考え方は、だから古くから人類の間で共有されてきたものだ。生長の家では、前者を「現象世界」、後者を「実相世界」と呼んで区別してきた。そして、人間の感覚と心が密接な関係にあることを前提に、現象世界は人間の“心の影”であると言う。
 
 図式的に示すと:
       ____現 象 世 界____
         ↑ 人間の心 ⇔ 感覚 ↑
 となる。
 これを言葉で表せば、「人間は、感覚を通して心によって現象世界を形づくる」とでも言えるだろうか。この場合、「現象世界」は「現実世界」と言い直しても大過ない。すると「現実世界は、人間の感覚と心によって形づくられる」と表現することができる。
 
 もし上記の命題が正しければ、我々が「現実」と呼んでいる世界は、頑強で変えがたい世界ではなく、我々の「感覚」と「心」によって変えることができることになる。しかしここで問題になるのは、感覚と心との関係だ。①感覚が心を生み出すのか。それとも、②心が感覚を生み出すのか。あるいは、③両者は互いに影響し合うのか……。私は③が正しいように思う。①だけを認めれば唯物論に陥り、②だけを奉じれば極端な精神主義に行き着くからだ。しかし、一般論として③を採用するにしても、個々の現象については、①しか成り立たないもの、あるいは②だけが成立するものもあるだろう。
 
 上記の本の「視覚の中のプログラム」という項で紹介したいくつかの例は、①があることを有力に示している。しかし、人間の心が感覚に影響を及ぼす(②の)場合があることも事実である。例えば、今日は「大寒」だというので、日本各地の宗教施設で「寒行」というのが行われた。気温が2~3℃という寒い中で、裸になった人々が冷水に浸かったり、水をかけ合ったりするのである。そういう人々の中には「寒い」と感じない人がいるのである。これは、修験道などで「火渡り」をする場合にも当てはまる。「心頭滅却すれば火もまた涼し」である。ということは、現象世界(現実)を変えるためには、「心」だけを相手にしているのでは不十分で、「感覚」についてもしっかり考察しなければならないのである。

 何かすごく面倒くさい言い方をしてしまったが、要は「感覚」と「心」のいずれか一方に偏ってしまっては幸福は得られない、ということだ。現代文明は前者に比重を置きすぎて発達してきたために、様々な問題を引き起こしている。現代の宗教は、だから後者を正しく人々に提示する使命と責任があるのである。
 
Image0011  ところで最近、ニューヨーク在住の生長の家全国講師、安藤比叡さんから不思議な画像(=写真)がメールで届いた。これはまさに、上記の①を示した画像だが、人間の顔に表れた喜怒哀楽の感情が、実は錯覚によっても生じることを示しているという点で、大変珍しいと思う。これはグラスゴー大学のフィリッペ・シーンズ(Phillippe G. Schyns)とアウデ・オリヴァー(Aude Oliva)両氏の作品と言われるが、詳細は不明だ。添付された英文には、「机の前のコンピュータでこれを見れば、左側に怒った男、右側に冷静な女が見える。でも、立ち上がって40センチ下がって見れば、2つの顔は入れ替わってしまう!」と書いてある。読者自身の目で確かめてほしい。
 
谷口 雅宣

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2007年1月15日

ブレア首相の論文を読む (2)

 ブレア論文の中で驚かされたことの1つは、イスラム原理主義をめぐる今日の世界的な混乱には、“西洋社会”(the West)はまったく責任がないとの立場を貫いていることだ。もちろん「疎外」(alienation)、「犠牲」(victimhood)、「植民地化」(colonization)、「政治的抑圧」(political oppression)をイスラム社会が経験したことには触れているが、それはまるでイギリスとは関係のない、どこかの国の仕業のような書き方である。そういう様々な困難を乗り越えようとしたイスラム社会の人々の中に、たまたま間違った、非合理な解釈を採用したグループがいて、それが西洋社会の価値を否定することで自己目的を達成しようと“暴力のイデオロギー”を広めている--そんなニュアンスの論文である。

 もっと具体的に指摘しよう。ブレア論文にはこんな箇所がある--「私にはほとんど信じられないことだが、西側の多くの意見の中には、このような世界的テロの台頭には我々にも責任の一端があるという考え方があることだ」。「イスラム主義者によるテロが貧困の産物だというのも馬鹿げている」。「我々は彼らの残虐行為を拒否するだけではなく、西洋社会に対する間違った抗議の感情も、彼らの暴力の責任は彼ら自身にあるのではなく、誰か別の人にあるという議論をも拒否しなければならない」。
 
 ブレア氏は、このように一方的に間違っているイスラム過激主義の“運動”に対しては、西洋社会は傍観していることは許されず、「方法」と「考え」の両面で積極的に立ち向かうべきだという。「イスラム主義のテロは、我々が過激派の方法に立ち向かうだけでなく、その考えに立ち向かうのでなければ、打ち負かすことはできない」。「考えに立ち向かうとは、テロリストの活動は間違っていると言うだけでは十分でない。それは、彼らのアメリカに対する態度はバカげており、彼らの統治方法は封建制以前の時代遅れのものであり、彼らの女性や他の宗教に対する態度は反動的だと言葉を出して言うことである」。そして彼は、今日のグローバリゼーションの時代には、この反動的過激主義と進歩との戦いの結果が未来を左右するという。「我々は気候変動を無視することができないのと同じように、この戦いをしないわけにはいかない。行動しないこと--つまり、アメリカ1国に責任を押しつけ、あるいはこのテロの活動は、1つの世界的運動ではなく、個々別々の事件だと幻想することは、深く、根本的に間違っているのである」。

 もちろんブレア氏は、イスラム世界全体を敵に回すつもりはない。近代的で穏健なイスラム世界の主流と協力して、“反動的”な勢力を排除することを提案している。この考えには、私は諸手を挙げて賛成する。ただし、「排除する」とは思想として否定するということであり、その思想を抱く人々を武力で攻撃したり、この世から抹殺したりするという意味ではない。ワッハーブ主義にイスラム世界を席捲させてはならない。イスラムとはそれほど狭量で歴史の浅い宗教ではない。また、“イスラムの価値”と“西洋の価値”とを対立的に捉えるのではなく、双方の中に“地球的価値”を認めよというブレア氏の提案にも賛成である。しかし、現代の中東問題に西洋の植民地主義が関係しており、さらにはパレスチナ問題が深く関係していることは事実なのだから、米英その他の関係諸国はこれら“蒔いた種”の結果をきちんと刈り取る--つまり、間違いは間違いとして認める必要がある。
 
 原理主義は、とかく世界を二項対立的に捉える傾向がある。これはイスラム原理主義がそうであるだけでなく、キリスト教やユダヤ教の原理主義も同じである。今回のブレア論文は、確かに宗教的用語は使っていないが、「民主主義」対「暴力」、「進歩」対「反動」などの言葉を使って二項対立の世界を描き出している。この世界は心で描く通りの世界だから、“悪”を描けば描くほど“悪現象”が現れてくることを知らねばならない。我々はイラク戦争でそのことを学んだはずである。だから、一部宗教の悪現象を拡大・強調するのではなく、多くの宗教に共通する真や善や美をお互いが誉め称える仕事に、もっと時間と労力をかけるべきだと私は思う。
 
谷口 雅宣
 

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2007年1月14日

ブレア首相の論文を読む

 私は12日の本欄で、ブッシュ米大統領の新しいイラク政策に関する演説を聞いた感想を書いた。その時、「イスラム過激思想とのイデオロギーの闘争を物心両面で長期にわたって行う」というブッシュ氏の考え方に反対した。それではイスラム全体を敵に回す可能性があるから、“文明の衝突”をまさに地で行く愚行であり、さらに「悪を認めれば悪が現れる」という心の法則を無視している、と思ったのである。私は、このようなブッシュ氏の考え方はアメリカでは少数派であることはもちろん、世界的にもきわめて特殊なものと考えていた。ところが、アメリカの外交専門誌『Foreign Affairs』の最新版(Jan-Feb 2007)に載ったイギリスの首相、トニー・ブレア氏(Tony Blair)の論文を読んで、“ブッシュのプードル”などと批判された彼が、実はブッシュ氏に輪をかけて「イデオロギー闘争」論者であることを知って驚いたのである。

 このブレア論文は「地球的価値のための戦い」(A Battle for Global Values)という題で、12ページにわたるもの。ブレア氏はまず、イスラム過激主義の根源を分析し、現在の世界的な闘争の背後にある“本質”を指摘、この闘争を完遂するためには“二正面作戦”が必要だとして、アメリカとヨーロッパを中核とした自由民主主義の陣営の結束を呼びかけている。これは、同じ雑誌の1947年7月号に「X」というペンネームで発表されたジョージ・ケナン氏(George F. Kennan)の歴史的論文「ソ連の行為の源泉」(The Sources of Soviet Conduct)を思い出させる、と言えば言いすぎだろうか。

 ブレア氏の見るイスラム過激主義の根源とは、ルネッサンスを経て啓蒙主義がヨーロッパを席捲した後の20世紀初頭から始まる。イスラム世界ではヨーロッパの変革を目のあたりにして不安を感じ、植民地主義に対するナショナリズムが生まれ、逆に政治的抑圧が進んだり、その反動として政治的、宗教的過激主義も生まれたという。このイスラムの過激主義に対して、権力の座にある者は過激派指導者層の一部と急進的思想の一部を取り込んで懐柔を図ったが、その結果はほとんど「失敗だった」という。なぜなら宗教的過激主義は尊敬すべきものとされ、政治的急進主義は抑圧されたからだという。その結果、多くの人々は、「イスラム世界に自信と安定を取りもどすためには、宗教的過激主義と人気取り政治を組み合わせ、“西洋社会”とそれに協力するイスラム支配層を敵に仕立てる」方法を採用したというのである。
 
 ブレア氏が上で言っていることは必ずしも明確でないが、モスレム同胞団に始まりワッハーブ主義に至るイスラムのスンニ派原理主義のことを指しているのだろう。さらには、ワッハーブ主義を国教としながらも、“異教徒”であるアメリカの基地を国内に認めたサウジアラビアに宣戦布告したオサマ・ビンラディンと、その後継者たちのことを指しているのだろう。このアルカイーダの思想がアラビア半島から海外に広まることで、9・11事件その他の宗教テロリズムが世界中で起こったと考えているのだ。

 その影響力が「世界中」に及んでいることを示すために、ブレア氏はアメリカだけでなく、インド、インドネシア、ケニア、リビア、パキスタン、ロシア、サウジアラビア、イエメン、アルジェリアなどの国々、地域ではチェチニアやカシミールの名前まで挙げている。そして「今日では30から40の国々で、テロリストたちはこのイデオロギーと緩くつながった行動を取ろうとしている」というのである。ブレア氏は、この動きを1つの“運動”として捉え、「それはイデオロギーと、一定の世界観と、深い信念と、狂信的な決意」をもっており、「多くの点で、初期の革命的共産主義に似ている」と言う。すでに触れたが、ブレア氏のこのような物の見方が、ケナン氏の共産主義に対する見解を彷彿させるのである。

 ケナン氏の場合は、ソ連の世界共産化の動きに対して、「平和で安定した世界の利益を侵食する兆しがあるならば、それがどこであっても、頑強な反発力によってロシア人に立ち向かうための堅い封じ込め政策」を提案したのである。

谷口 雅宣

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2007年1月12日

気がかりなブッシュ演説

 アメリカのブッシュ大統領のイラク政策についてのテレビ演説を聞いた。肩を上げ、眉間に力を入れ、緊張した面持ちでほとんど一本調子で原稿を読み上げた、という感じの演説だった。内容はすでにご存じのとおり、「2万1千人の兵員の増派で、イラク大統領の治安回復を助ける」というものだ。しかし、これは「方針通り継続」と言ってきたこれまでのイラク政策と本質的に変わらない。派兵は、イラクの“若い民主主義”(young democracy)が確立するまで維持するとしているから、これから先何年もアメリカ軍はイラクの治安維持のために中東に留まることになるだろう。この演説は、昨年の下院選挙で示されたアメリカ国民の意思を、明らかに無視した形になっている。
 
 この点をアメリカのメディアは大いに批判している。が、だからと言って、内戦状態のイラクからすぐに兵力を引き揚げるわけにはいかない。そうすれば、アメリカの失敗と無責任を世界に示すことになり、各国との同盟関係にも深刻な影響を及ぼす可能性があるからだ。アメリカは今、何とも困難な状況にあると言えよう。
 
 私はしかし、ブッシュ氏の演説の内容に大いに気がかりなものを感じた。それは「急進的なイスラム過激派(radical Ismalic extremists)」とか「テロリスト」を敵として見据え、その敵とはまったく交渉の余地がなく、武力で破壊する以外に仕方がないとの考え方が、見え隠れしていたからだ。ブッシュ氏によると、現在のアメリカの中東での戦いは、単なる武力紛争ではなく、「我々の時代を決定するイデオロギーの闘争(a decisive ideological struggle of our time)」であると定義される。その闘争とは、一方に「自由と穏健を信じる人々」が置かれ、他方には「罪のない人々を殺し、我々の生き方を破壊する意志を明確した過激派」が対峙している。そして、ブッシュ氏の考える「アメリカ国民を守る最も現実的な方法」とは、敵のもつ憎悪のイデオロギーに代わる“希望の思想”を提供することであり、それは中東に自由を広めることだ、というのである。

 この明確な「2項対立」の世界観がブッシュ氏の本心ならば、それは9・11後のアフガン侵攻やイラク戦争開始時のブッシュ氏と少しも変わっていない。かつてこの「味方でなければ敵」「自由でなければテロリスト」という単純明快な2分法が世界では受け入れられず、ヨーロッパからも反対され、国連でも認められなかったのである。しかし、ブッシュ氏は「①イラクはイスラム過激派を支援して、②大量破壊兵器の製造を推進し、③それが9・11を起こした」という論理のもとにイラク戦争を始めた。そして、我々が知っているのは、この3つのうち2つまでが間違いだったということだ。(正しかったのは、“イスラム過激派”がテロの実行犯だったことだけである)
 
 そのことから、ブッシュ氏が学んでいないように見えるのは、誠に残念である。私は特に、上記のブッシュ氏の考え方にある「イデオロギーの闘争」という言葉に危機感を覚える。アメリカは、新しい“冷戦”を作り出そうとしているのだろうか? 「イスラムの過激思想」を敵として捉え、かつて「共産主義」と対峙したように、それとの長期にわたる物心両面での闘争を、21世紀の「最も現実的な方法」として遂行するのだろうか? そんな選択は間違っている、と私は言いたい。

 現代のイスラム思想に関して私は何回(例えば、昨年8月1213日15日)か本欄に書いてきたが、中東の多くの国々の考え方は、過激なスンニ派ワッハーブ主義なのである。第一、アメリカの同盟国・サウジアラビアの国教はワッハーブ主義である。これを自由・民主主義に変えるまで戦うことが「最も現実的な方法」だと、ブッシュ氏は本気で考えているのだろうか。それとも、この演説はあくまでも“表向き”で、裏ではイランやシリアとの交渉も視野に入れた“リアルポリティーク”(現実政治)をするつもりなのか。ライス国務長官の中東訪問が始まったが、ブッシュ氏の本心は次第に見えてくるだろう。
 
谷口 雅宣

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2006年12月21日

グーグルで火星を眺める

 アメリカのインターネット検索大手、グーグル(Google.com)は話題に事欠かないが、パソコンと衛星からの地上の写真を一挙に近づけた「グーグル・アース」(Google Earth)というサービスに続いて、「グーグル・ムーン」(Google Moon)や「グーグル・マース」(Google Mars)というのを始めるらしい。12月20日付の『ヘラルド・トリビューン』が伝えている。

 グーグル・アースは、地球上のどの地点も衛星写真を使ってパソコン画面に表示するサービスで、軍事施設も表示させることで問題になったことがある。我々のような一般人にとっては、自分の故郷や海外の有名な都市、ニュースで話題の場所などを実際に上空から“見ている”ような仮想現実感を与えてくれるため、きわめて興味深く、かつ有用である。私も、興味半分で自宅を上空から見たり、小説の取材を補強したりすることに利用させてもらったことがある。この画期的なサービスを提供してきたグーグルが、こともあろうにアメリカ政府の1機関であるNASA(航空宇宙局)と組んで、今度は「月」や「火星」の上空からの画像をパソコン上に表示するサービスなどが可能な、広範囲な提携の契約を18日に締結したという。
 
 その記事によると、この契約によって、月や火星の表面を歩く宇宙飛行士の見る風景と同じような克明な画像を、地上の誰もがパソコン上で見ることができる可能性が開けるという。また、スペースシャトルや宇宙ステーションの動きをリアルタイムに見ることも可能になるかもしれない。火星については、グーグルは現在、限定的な二次元画像を「Google Mars」として提供しているが、これがもっと細かく、鮮明な画像として、我々が火星上空を飛んでいるかのような現実感をもって見えるようになるのだ。これは大変な“進歩”あるいは“変化”と言わねばならないだろう。が、その反面、“逆効果”も生まれるのでは、と私は想像する。
 
 私は、昨年6月11日の本欄で、火星にある“人面岩”の話に触れたことがある。また、本欄の前身である『小閑雑感 Part 1』では、2001年6月1日に「火星の顔」と題して少し詳しくこの話を紹介したので、ここでは簡単な説明に留めよう。火星の“人面岩”とは、火星の「シドニア(Cydonia)」と呼ばれる地域にある全長3kmほどの台地のような地表の隆起で、これが上空のある角度から見ると「人間の顔」のように見えたことから、「火星上の顔(Face on Mars)」と呼ばれるようになった。そして、「そんなものが偶然にできるはずがないから、知性のある何者かが造ったに違いない」という議論が起こって、一時騒がれたのである。

 しかし、よく考えてみると、火星は地球とまったく環境が違う惑星だから、そこにたとえ高等生物がいたとしても、その顔(もしそんなものがあるとしたら)が、地球上の動物がもつ「顔」と似ている--つまり、目が2つ横に並び、その間に鼻が縦にあり、鼻の下には横長の口がついている--保証はどこにもないのである。別の言い方をすれば、火星の動物には目が5つあったり、鼻がなかったり、口が上と下に2つついていても、それはそれで「顔」と言えるはずである。また、イソギンチャクを上から見たような恰好の「顔」があってもいいはずである。にもかかわらず、写真上にありありと“人間の顔”のようなものが写っていると、それが別の天体で撮影されたものであっても、我々は「顔だ」と考えてしまう。これは結局、我々の心の中にある「顔」のイメージを火星上に投影しているにすぎず、「客観的な判断」とは言えないのである。

 そういう騒ぎが実際に起こったのであるから、今後、グーグル・アースが鮮明な画像によって提供されることで、「火星人はいる」という議論が再燃する可能性がある。「月のウサギ」説はまさか出ないとは思うが、グーグル・ムーンによっても「知性ある生物がいる」との議論が起こるかもしれない。そんな事態が起こったら、それは宇宙科学ではなく、心理学の問題だと考えた方がいいだろう。火星には“ピラミッド”とか“町の広場”と呼ばれている所もある。我々は結局、自分の心の中にあるものを“外界”に投影するのである。

谷口 雅宣

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2006年11月 8日

狭い戸口 (2)

 この喩え話の文脈を示すためには、少し長くなるが、全文を『ルカ』から引用しなければならない。

「さてイエスは教えながら町々村々を通り過ぎ、エルサレムへと旅を続けられた。すると、ある人がイエスに、『主よ、救われる人は少ないのですか』と尋ねた。そこでイエスは人々にむかって言われた、『狭い戸口からはいるように努めなさい。事実、はいろうとしても、はいれない人が多いのだから。家の主人が立って戸を閉じてしまってから、あなたがたが外に立ち戸をたたき始めて、“ご主人様、どうぞあけてください”と言っても、主人はそれに答えて、“あなたがたがどこからきた人なのか、わたしは知らない”と言うであろう。そのとき、“わたしたちはあなたとご一緒に飲み食いしました。また、あなたはわたしたちの大通りで教えてくださいました”と言い出しても、彼は、“あなたがたがどこからきた人なのか、わたしは知らない。悪事を働く者どもよ、みんな行ってしまえ”と言うであろう。あなたがたは、アブラハム、イサク、ヤコブやすべての預言者たちが、神の国にはいっているのに、自分たちは外に投げ出されることになれば、そこで泣き叫んだり、歯がみをしたりするであろう。それから人々が、東から西から、また南から北からきて、神の国で宴会の席につくであろう。こうしてあとのもので先になるものがあり、また、先のものであとになるものもある』。」(口語訳、第13章22~30節)
 
 この文章を読むと、全体から得られるのは、「主人」が家の戸を閉じてしまったならば、かつてその主人と一緒に飲み食いをし、また教えを聞いた人々であっても「神の国」に入ることはできず、かえって遠くのあらゆる方向から来た人々が先に「神の国」に入ることになる、という意味合いである。つまり、「神の国」に入るのは「大勢」か「少数」かが問題ではなくて、「狭い戸口」を見つけなければ、かつて近くにいた人々でも、遠くにいた人々に先を越されるということである。「近くにいた人々」が誰かと言えば、それは「アブラハム、イサク、ヤコブやすべての預言者たち」の近くにいて、しかも主人と「一緒に飲み食い」した人々であるから、これはユダヤ人のことを指すと解釈できる。そうすると、東西南北から来て「神の国で宴会の席につく」のは、ユダヤ人以外のすべての民族だと解釈できる。したがって、「狭い戸口から入れば、民族や文化の違いを超えて人は救われる」という意味になるのである。

 私は、この喩え話は生長の家の「万教帰一」の教えに通じるものだと考える。なぜなら、宗教上の救いは、ある特定の民族や文化を前提とせず、「狭い戸口から入る」という共通点から生じる、とこの喩えは教えているからだ。福音書の成立は紀元70~150年と考えられているから、国際化が進んだ現代ではなく、今から1800年も前の中東で、このような考えが述べられたという事実は驚くべきことである。
  
 それでは、多くの人々が見出せずにいる「狭い戸口」「狭い門」とは一体何だろうか? これは大いなる公案と言えるだろう。青山玄氏は、「ひたすら神の愛と憐れみにすがる謙虚で素直な心になる」ことと解釈したが、私は「神の恵みを常に感じて感謝する」ことと捉えたい。『マタイ』の喩えの中に「それを見いだす者が少ない」と書かれていることに私は注目する。「狭い門」は、体の大きさに対して小さいから入りにくいのではなく、「見出す」のが難しいのである。また、『ルカ』の喩えの中の「狭い戸口」は、外に立って戸をたたいても追い返される人々がいる一方、別の人々は先に入ってしまうのである。これは「見つけにくい」というよりは、「入る条件を問われる」と考えるべきだろう。その条件は物理的なものではなく、心的なものであるに違いない。そう考えると、「狭い門」と「狭い戸口」に共通する入門の条件は、「心に何を見るか」という心的態度にかかると解釈できるのである。

 日常生活の中で「不足」を見て求める人、「恵み」を見て感謝する人。どちらが神の国で宴会の席につくのかは、もはや明らかだろう。
 
谷口 雅宣

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2006年11月 7日

狭い戸口

 出張先の岐阜市で読んだ『中日新聞』(11月5日)に、青山玄氏が『ルカによる福音書』第13章にある次のようなイエスの言葉を解説していた:
 
「人々が東から、西から、北から南からやって来て、神の国で食事の席に着くであろう」

 この言葉は、「主よ、救われる人は少ないのですか」と訊いた人に対して、イエスが「狭い戸口からはいるように努めなさい」と答え、そのあとに続けて説いた喩え話の中に出てくる。青山氏は、この「狭い戸口」とは「自分を子供のように小さくすること」だと解し、上の聖句の意味を次のように解説する:
 
「己を無にして、神の御前に幼子のように小さくなり、ひたすら神の愛と憐れみにすがる謙虚で素直な心になるなら、民族や文化の違いを超えて、非常に多くの人が救われ、神の国に入れてもらえるのではなかろうか」

 このような解釈は確かに可能だ。が、私はここで少し異なる見方を提示したい。

 この聖句は『ルカ』の第13章29節にあるのだが、よく知られているのは、これと似た喩えが『マタイによる福音書』の第7章13~14節にもあることだ。新約聖書の最初の4つの福音書は「共観福音書」と呼ばれていて、互いに呼応する似通った物語や喩え話がいくつも含まれている。多くの聖書研究者は、これらの福音書には共通する“元の文書”、あるいは“元の言い伝え”があって、それから派生したものが現在の4福音書だと考えている。とすると、イエスの喩え話を解釈する場合、似通った話が他の福音書にあるものは、複数の話の意味を総合的にとらえる方法が望ましいかもしれないのである。
 
 そう考えると、『ルカ』の話の意味を『マタイ』の話を参照しながら考察することができるだろう。そこで、『マタイ』にあるイエスの言葉を日本語訳で2種掲げる--

「狭い門からはいれ。滅びにいたる門は大きく、その道は広い。そして、そこからはいって行く者が多い。命にいたる門は狭く、その道は細い。そして、それを見いだす者が少ない」(口語訳)
「狭い門から入りなさい。滅びに通じる門は広く、その道も広々として、そこから入る者が多い。しかし、命に通じる門はなんと狭く、その道も細いことか。それを見いだす者は少ない」(新共同訳)

 こちらは2つの訳がともに「狭い門」であるのに対し『ルカ』の方は、口語訳も新共同訳も「狭い戸口」という語を使っている。また、英語の Good News Bible という聖書でも、『マタイ』は the narrow gate であるのに、『ルカ』は the narrow door となっている。そこから想像すると、原語のギリシャ語では『マタイ』と『ルカ』では違う言葉が使われていたと推定できる。しかし、『ルカ』の喩え話では、この戸口は「神の国」への戸口であり、『マタイ』では「狭い門」は「命にいたる門」だと表現している。だから両者は、違う言葉を使いながらも、だいたい同じことを言っていると解釈できるだろう。すなわち、宗教的な魂の喜びにいたる道は狭く、そこを行く人は少ない、ということだ。
 
 それならば、なぜこの「狭い戸口」へ向って「人々が東から、西から、北から南からやって来て、神の国で食事の席に着く」のだろうか。青山氏は「民族や文化の違いを超えて、非常に多くの人が救われる」と解釈しているが、「非常に多く」という意味の言葉は、聖書の原文のどこにもない。『ルカ』の喩えが『マタイ』のそれと同じことを表現しようとしているならば、むしろ反対に、その戸口は「見いだす者が少ない」とはっきり書いてあるのである。
 
 私は、この『ルカ』の話は、青山氏の解釈から「非常に多く」を除いた意味を表現していると解釈したい。つまり、「狭い戸口」は見つけにくいが、そこへ入れば「民族や文化の違いを超えて人は救われる」ということだ。そう考える理由は、『ルカ』の喩え話の全体の文脈からを知れば分かるのである。
 
谷口 雅宣

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2006年9月23日

「死」は人生の“収穫”なり

 秋分の日の今日は、午前10時から東京・原宿の生長の家本部会館ホールで「布教功労物故者追悼秋季慰霊祭」が執り行われ、私はお祭の斎主として奏上の詞を読み、ご挨拶を申し上げた。以下は、私の挨拶の概略である。

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 本日は恒例の秋季慰霊祭に大勢お集まりいただきまして、誠にありがとうございます。このお彼岸の季節は、秋の到来がひとしお明らかに感じられます。「猛烈な」という枕詞がついた台風14号が日本に近づいていますが、幸い本土上陸はないとの予報です。私の家の庭にあるヒガンバナも白い花、赤い花が咲き乱れて実に美しいし、キンモクセイの香りがどこからともなく流れてきます。これからは日増しに秋が深まってきて、作物も、紅葉も、運動会も、遠足も、文化祭も……というように、自然界・人間界の活動は“収穫期”を迎えるわけで、私は個人的にはこういう「秋」が大好きです。
 
 自然界に収穫期があるのと同じように、我々人間の人生にも収穫期があります。ときどき人は、人生の収穫期とは退職金をもらう時期だとか、その後の自由な老年期だと考えることがありますが、本当は「死」が収獲をもたらすのです。「帰幽の神示」の中では、人生を音楽の1曲に喩えて次のように教示されています:
 
「すべての人の仮有(けう)は念の異なるに従って、その顕現を異にする。念の形式に大変動を生ずれば、汝の仮有は他界に顕現し、今迄の念の顕現たる肉体は速やかに自壊自消する。これを人々は死と呼ぶが死ではない。それは『生命』が念の弦をもって1曲を弾じ終ってそれを止め、他の奏曲に移らんとするにも等しい」
 
「仮有」とは現象身のことです。肉体や霊体などの媒体によって現れている姿です。肉体をもって生活する時期が終ったならば、私たちは次の現象身を使った生命表現をしなければなりません。それを音楽に喩えれば、「1曲を演奏し終る」ということです。音楽の種類によっては、1曲のクライマックスが来ても必ずしも音楽は終らない。そして、クライマックスを上手に弾いても、最後の部分で音程を外してしまっては演奏の価値が下がってしまう。楽譜で言えば、最後の音符を弾き終わった後に、その演奏家の、その演奏の価値が決まりますね。それと同じように、我々も肉体生命が終ったときに、その人の、その人生の収獲が定まる。そういう意味で、「死」が到来することは必要であり、大変価値あることなのです。

 我々日本人は、仏教の考え方に親しんでいるので、人の生れ変わりについてあまり疑問をもっていません。生長の家でも、人間は何回も生れ変わってきて、様々な人生で異なった体験を積むことで、「神の子」としての実相をより明らかに顕現していくのだと教えています。ということは、死によって人間の生命は終らないということですから、死への恐怖は少ないのです。しかし、欧米では、生れ変わりを認めないキリスト教の教えが長いあいだ盛んだったため、「死」を極端に恐怖する人々もいて、そこから過剰な延命治療の問題も出てきているようです。科学は普通、物質的証拠を基本とするので、生れ変わりを否定するのですが、最近は心理学の分野から、「生れ変わり」を研究する人々が出て来ていることは興味あることです。私は、講習会などで「前世を記憶する子どもたち」の話をすることがありますが、最近、日本教文社から出た『転生した子どもたち』(ジム・B・タッカー著/笠原敏雄訳)という本の中に、面白い例が出ているので紹介します。
 
 (同書にある「戦死した日本兵の記憶をもつミャンマーの子どもの話」を紹介)
 
 日本では近頃、テレビや本を通じて“前世ブーム”があるようですが、生長の家では霊界の話や前世の話は「深入りしない」ようにお勧めしているのは、ご存知のことと思います。その理由は、そういう話は客観的な立証ができないので、“言いたい方題”という側面があるからです。つまり結局、霊能者を「信じるか信じないか」ということになるからです。生長の家は「人間は皆、神の子」という教えなのに、それを忘れて「霊能者は神の子だが自分はダメ」と考え、詐欺まがいのこと引っかかる“心の隙”が生まれる。さらに言えば、前世が気になって、現世を過ごすことに支障が出てくることもあるからです。
 
 しかし、我々が自分や他人の前世に捉われるのではなく、「生れ変わり」があることや「生命の不滅」を信じることは、大いに意味があることです。先ほど紹介した本の著者も、このことを次のように指摘しています:
 
「哲学的に聞こえるのをあえて承知したうえで推測を重ねると、(中略)人生の目的は生涯ごとに変わる可能性があることもわかる。私たちは、“人生の意味”をひとつしか持っていないわけではなく、生涯ごとに違う目的をいくつか持っているのかもしれない。ある人は、他の人とはまるで違う感情的問題に取り組んでいるかもしれない。そのため、全エネルギーを愛する人たちとのつながりに傾注することで満足する人たちもいる。また、人から離れて仕事の世界に没頭することで満足している人たちもある。おそらく私たちは誰しもが、自らのさまざまな側面に順番に取り組み、正しい認識に近づこうとするのだろう」(同書 p.270)

 この「正しい認識」について、科学者である著者は何も言っていません。しかし、我々はそれが人間は「神の子」であり「仏」であるという宗教的真理の把握である、と教わっています。それを得ることで、我々は現在の生を真に「意味あるもの」「価値あるもの」と知るとともに、他の人々の生がどんなものであっても、同様に「意味あるもの」「価値あるもの」であることが分かる。同書の著者はまた、「一度の人生であらゆる種類の経験や成功をしなければ、人生が価値あるものにならないということではないのだ」と言っています。このことは、経済的、社会的成功を急ぐあまり、かえって不幸な人生を送る多くの現代人に必要なメッセージと思います。

 皆さんは「人間は死なない」という生命不滅の教えをひろめることで、執着を放つ“ホトケの人生”の意義を、これからも益々多くの人々に伝えていただきたいと思います。本日は、お参りくださいまして誠にありがとうございました。
 
谷口 雅宣
 

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2006年9月14日

色覚の起源

 私は各地で行う生長の家講習会の講話で、「人間は世界の本当の姿を感覚では捉えられない」という話をよくする。いわゆる「実相」と「現象」は違うということだ。そんな時、「空は本当は何色ですか?」などとトリッキーな質問をすることもある。常識的には「空は空色だ」と考えるが、空に特別な色などついていないことは、航空機に乗ったことのある人はよく知っている。航空機の窓に何色かがべったり付くことはないからだ。空には一定の色などない。様々な波長を含む太陽光の中で、どのような波長のものが人間の視覚に入りやすいかによって、空の色は変化する。いや、もっと正確に言えば、人間の視覚の中で発生する色の感覚に変化が生じる、のである。変化するのは「空の色」ではなく、「人間の色の感覚」である。--このへんの解説は結構わかりにくいので、上記の説明に納得できない人は拙著『心でつくる世界』の第2章を参照されたい。
 
 ところで、我々のもつような色覚を哺乳動物のほとんどの種はもっていない、と言うと驚く人がいるだろうか? 犬、猫、牛、馬、山羊、羊、ネズミ……などは、ほとんど色盲であるという。哺乳動物では、人間と人間の属する霊長類--ゴリラ、チンパンジー、ヒヒ、オランウータンなど--そしてサルにだけ色覚が発達している。科学者の間では、その理由がいろいろ考えられてきたが、なかなか決定的なものがなかったそうだ。そこへ最近、有力な新説が提示されたらしい。9月12日付の『ヘラルド・トリビューン』紙に、カリフォルニア大学の人類学者、リンヌ・イスベル博士(Lynne A. Isbell)がその説を紹介している。

 まず“旧説”を振り返ると……これらのサルたちは熱帯の樹上で生活してきたから、そこから落ちたり滑ったりしないために優れた視覚が必要だった、というのが初期のものだ。この説は20世紀初頭から半世紀にわたって使われてきたが、1970年代になって、リスなどサル以外の多くの哺乳類が樹上生活をしていて色覚が発達していないことが指摘され、権威を失った。次に登場したのが、サルは昆虫を捕食するために色覚を発達させた、という説である。昆虫のように動き回り、保護色などを使う動物を捕らえるためには、優れた目が必要と考えられたからだ。しかし、昆虫を捕らえるためには、聴覚や嗅覚だけでも十分役に立つ。そこで90年代に発案されたのが、「何でもできるため」という説だ。つまり、昆虫も果実も食べ、遠くの枝につかまるためにも目がよくなければならない、というわけだ。

 これらの説は皆、「食べる」ことに有利な方向に感覚が発達するという前提で考えられた。しかし、動物にとって「食べる」ことと同じように重要なのは「食べられない」こと--つまり「捕食者から逃れる」ことである。その視点から霊長類やサルの色覚について研究したことが、新説登場の契機となったようだ。霊長類の脳を研究してみると、視覚を担当する脳の部分で最も発達しているのは、「目で見てものを捕らえる」ための領域らしい。具体的には、前方を注視し、近くのものを背景から浮き上がらせ、また保護色によって隠されたものを見つけるための部分だ。新説は、このような脳の領域は、「誤ってヘビを踏みつけないため」に発達したというのである。

 イスベル博士は、人間を含めたほとんどの霊長類はヘビを極度に嫌うこと、加えて毒ヘビのいないマダガスカル島のキツネザルはヘビを恐がらず、その視覚は最も単純であることなどを証拠に挙げて、新説を擁護している。簡単に言ってしまえば、我々人間が現在、“天然色”の自然を見て「美しい!」と感動できるのは、大昔にヘビの祖先が我々の祖先の生存を脅かしてくれたおかげ……ということになる。

 ところで、私はヘビを好きではないが、姿を見て「恐怖」するようなことはない。しかし私の妻は、ヘビを見ただけでムシズが走るらしい。一方私の息子の1人は、小さい頃、どこかの動物園でヘビを肩から掛けて大騒ぎを起こしたことがあるが、私はヘビと接触したいとは思わない。私もその息子も視力が良いとは言えないが、妻の視力は長いあいだ左右とも「2.0」で、ほとんど完璧だった。この事実は、何かを説明しているだろうか?

谷口 雅宣

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2006年9月 9日

大悪が大事件を起こすのか?

 アメリカの時事週刊誌『TIME』が9月11日号で、「世界を変えた」と言われる5年前のこの日に起こったテロ事件の特集をしている。それを読んで、あの事件は実は米政府高官の陰謀だという説を相当数のアメリカ人が信じていることを知って驚いた。先の大戦への日本の参戦、ケネディー大統領暗殺など、歴史的な大事件をめぐっては、この種の“陰謀説”がよく出るものだが、人間心理の複雑さと想像力の多様さを表しているのだろう。

 同誌に載ったレヴ・グロスマン氏(Lev Grossman)の記事によると、ある調査機関がこの8月にアメリカの成人1,010人に聞いたところ、政府高官があの事件が起こることを知っていて放置したか、あるいは政府高官自身があの事件を起こしたという説について、「多分そうだ(very likely)」と答えた人と「あり得ることだ(somewhat likely)」と答えた人の合計は、対象者全体の36%に達したという。もしこの調査がアメリカ国民の考えを正しく反映しているならば、アメリカ人の3分の1以上が9・11のテロを「自国の政府の陰謀によるかもしれない」と考えていることになる。アメリカ国民の政府不信がそこまで達しているとは、私は知らなかった。

 ところで、グロスマン氏が伝える陰謀説の根拠は、次のようなものである。当時、撮影された世界貿易センタービル崩壊直前の映像を見ると、航空機が突っ込んで破壊されたフロアーより下方で、ビルの側面から白い煙のようなものが吹き出している。これは、事件前に何者かが注意深く仕掛けた爆発物による煙で、この爆発によって、あの頑丈な高層ビルは崩壊したのであって、航空機の衝突と上層部の火災程度で、ビル全体が崩壊することなどあり得ないというのである。

 また、国防総省ビルの破壊は、ハイジャック機によるのではなく、ミサイルあるいはもっと小型の飛行機によるものだ、と陰謀説は考える。なぜなら、建物の外壁に開いた穴の横幅は約23メートルだが、ハイジャック機の両主翼を拡げた幅は38メートルある。この幅より広い穴が開くのならまだ分かるが、それより15メートルも狭い穴がどうやって開くのか。また、事件直後の現場付近の状況は、大型機が墜落したにしては機体の散乱などがなく、きれいに整っている。衝突前に機体が滑ったはずの芝生もほとんど無傷だし、大型機は5本の街燈をなぎ倒すはずだが、これも驚くほど被害が少ない。そして最後に、国土防衛のための28の空軍基地から戦闘機が1機も発進しなかったのはなぜか。それは、発進命令が上層部から出されなかったからである。すなわち、政府上層部には戦闘機が飛んでは困る理由があった、というのである。

 一見つじつまが合わない現象を見つけて、そこから想像力を働かせ、次のつじつまの合わない現象を探し、さらに想像を広げる。一枚の写真、ワンカットの映像は、めまぐるしく遷り変わる無数の現象の中のさらに細かい一部である。それをもとに壮大な物語を組み立てるのは、小説家のよくやることだ。芸術や表現活動では、これもいいだろう。しかし、それによって現実世界を解釈するのは間違いである。とりわけ、様々な文化や価値観が複雑に関わり合っている国際問題を、そういう“微視的”“単眼的”なメンタリティーで捉えることは危険である。にもかかわらず、そういうものの見方に一国の3分の1以上の国民が影響されるのは、きっと理由があるだろう。
 
 グロスマン氏もそのことに触れ、この記事の中で心理学的視点からこんな説明をしている--人間には「大きな出来事の背後には大きな原因がある」と考える傾向がある。だから、21世紀初頭の世界を変えた9・11事件は、決意に燃えた少数のテロ集団が起こしたと考えるよりも、超大国の政府高官が、中東の油田独占等をねらい、綿密なる計画によって、国民の犠牲など構わずに起こした陰謀である、と考える方が納得がいくのである。もっと簡単に言えば、「大きな悪現象の原因は大きな悪である」ということだ。そう考える方が、心が落ち着く。その反対に「大きな悪も小さな悪から起こる」と考えることは、我々の心を不安にさせる。

 ここまで書いてきて思い出したのは、ブッシュ大統領が最近始めた演説キャンペーンのことである。9月4日の本欄でも書いた通り、彼は自分が始めたイラク戦争を正当化するために、「イデオロギーの戦い」という言葉を使い、ナチスや冷戦まで引き合いに出して、戦う相手を巨大化し、悪魔化している。この行動の背後にも「大きな悪現象の原因は大きな悪である」と信じる心理的傾向が潜んでいるようだ。しかし、私はこう訴えたい。小さなボタンの掛け違いからでも大きな誤解は生まれ、大きな対立へ向うことはある。夫婦ゲンカのきっかけは、大抵小さなものだ。それが普通「夫婦ゲンカ」で終り、裁判沙汰や殺し合いに発展しないのは、夫婦が基本的に相手を信頼し、愛しているからだろう。あるいは、少なくとも相手を“悪”と見ていないことは確かだ。しかし、相手を“悪”として全面否定することになれば、小さな誤解が大きな事件に発展する。“悪”を認める者は結局、自ら“悪”を現すのである。

谷口 雅宣

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2006年9月 2日

二千円札の悲哀

 9月に入って初めての旅で羽田空港へ行くと、1週間前とは打って変わり、混雑のない快適な空港がそこにあるのを知った。レストランにしても、ロビーにしても人は半減し、テロ対策で厳しくなったセキュリティー検査所も、入口の半分以上が閉鎖している。「あぁ、夏は終ったのだ」との感を深くした。生長の家の講習会で広島へ飛ぶJAL機の中も、席はゆったりと空いていた。座席前のポケットに収まった機内誌は「9月号」に変わったばかりで、手が切れそうに新しく、インクの匂いがほのかにする。

 最初のページからゆっくり繰ると、懐かしい名前が目に飛び込んできた。「写真家 森山大道」「山形 酒田」「コン・リー」……森山氏は、私が学生時代に憧れてその写真をマネて撮影していた。山形県酒田市は数年前、小説の取材で妻と訪れた町。コン・リーは映画『SAYURI』で主役の向うを張って熱演した中国人女優……そして「浅田次郎」……この雑誌のレギュラーの書き手で、私も妻も彼のエッセーを読むのを楽しみにしている。9月号のエッセーの題は「消えた二千円札」である。
 
 “奇妙な一致”というのは、世の中にはあるものである。実は、私はちょうど1週間前、北海道滝川市へ行ったとき、ホテルでの夕食の釣り銭の中に二千円札が入っていたので驚いたのだった。この紙幣は、もうとっくに使われなくなっていたと思っていたからだ。それを目の当たりにして、私は一瞬困ってしまった。「この紙幣を受け取るべきかどうか……」と考えたのである。結局、受け取って札入れの中に注意深くしまった。折り目もついていない“新品同様”の札だったからだ。妻がそれを知って「珍しいからほしい」と言った。私は持っていても使わないだろうと考え、妻との両替えに同意したが、あいにく彼女はそのとき細かい金を持っていなかった。そこで、その二千円札は数日、私の札入れの中に納まっていて、つい数日前、彼女の手に渡ったばかりだった。
 
 浅田氏は、エッセー中で二千円札が流通しない理由を、ユーモアあふれるタッチで分析していた。①「発行手数料がかからない」との噂からタンス預金になっている、②肖像画がないから有難味に欠ける、③勘定しにくいので銀行員が流通させない……の3つを指摘するのだが、私は2番目の理由が最も説得力があるように思う。ただし、紙幣の流通には「有難味」よりは「親しみ」が重要ではないか。ところで、二千円札を忘れてしまった読者のために確認しておけば、この札には人間がまったく描かれてないわけではないが、いわゆる肖像画ではなく、細い線画で屏風絵風の「紫式部」が小さく描かれている。が、パッと見の感じでは、それは人物ではなく模様のように見える。そして裏面には、琉球王朝時代の沖縄の立派な門が描かれている。

 私は、昨年6月11の本欄で“顔細胞”のことに触れた。後頭部の視覚情報を処理する脳の一部に、「顔」のような形のものを見ると敏感に反応する細胞のことである。これがあるおかげで、我々は素早く相手の表情を読み、相手の感情を推測し、人間関係を成立させることができる。相手が口では「はい」と言っていても、表情は「いや」と言っている……などという複雑な理解が、これによって可能となる。社会的動物である人間にとって、この能力の発達如何が、その人の生存を左右したことが容易に想像できる。だから我々は、人間を「顔」によって憶えるのである。もちろん「名前」によっても憶えるが、恐らく「顔」が先で「名前」は後だ。「顔と名前が一致しない」という時は、「顔」の方が頭に浮かんでいる場合が多いだろう。
 
 このことを裏返しにすれば、我々は「顔のない紙幣」よりも「顔のある紙幣」の方を素早く識別し、自分との関係を成立させる。これは「嫌いな顔」であっても、である。浅田氏は「500円札の岩倉具視は誰も好きになれない悪役顔ではあった」と書いているが、我々は「悪役顔」であっても「顔がない」よりも親しみを抱くだろう。だから、二千円札の流通の失敗は、当時の財務省印刷局の幹部が“顔細胞”のことを知らなかったことが原因ではないか、と私は疑うのである。

 さて、浅田氏はこのエッセーに「ATMから二千円札が出てくるためしはめったになく、両替機にも二千円札が入っていないものは多い」とも書いている。しかし、私の娘の言によると、コンビニ大手のローソンの機械からは二千円札がよく出て来るそうだ。真偽のほどは定かでないが、興味のある方は試してみては?
 
谷口 雅宣

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2006年8月23日

脳細胞はどんどん再生する?

 今年に入って再生医療の分野での新しい研究成果が相次いで発表されている。本欄でも、それらを発表のつど報告するようにしているが、きっと漏れているものもあるだろう。以下、本欄で扱ったものを古いものから順に列挙すると……

①ドイツの研究グループが、マウスの精原細胞からES細胞に似た多分化能のある幹細胞を作成することに成功--4月6日。
②ヒトES細胞から効率よく神経細胞を得る方法を理化学研究所と京都府立医科大学の研究グループが開発。人間の羊膜上で培養することで、9割以上の確率で神経幹細胞を育てることに成功。--6月6日。
③日本政府は従来、“クローン人間”作成につながるとして人のクローン胚研究を禁じていたが、厳しい条件を付けたうえで、不要となった卵子を使うES細胞作成に道を開こうとしている--6月20日。
④京都大学の山中伸弥教授が、マウスの皮膚細胞の遺伝子を操作することで、ES細胞に酷似した状態(人工幹細胞)を実現--7月17日。
⑤体細胞の遺伝情報を初期化・再プログラム化して作成する人工幹細胞と毛包細胞は、再生医療に有望--7月18日。
⑥ブッシュ大統領、ES細胞研究の財政支援拡充法案に初めての拒否権を行使--7月20日。
⑦再生医療に使える幹細胞は脳、骨髄、髪、皮膚、脂肪、歯胚、臍帯血,生殖器……など相当の種類に及ぶ--7月27日。

 この流れを見ると、受精卵や卵子を使ったES細胞の研究と併行して、体中にある幹細胞を利用した再生医療、さらに最近では普通の体細胞(この場合は皮膚)の遺伝子操作で人工的に幹細胞をつくる方法も開発されつつあることが分かる。ただし、最後の例はネズミでの成功例で、人間への応用はまだこれからだ。また、再生医療の目指す方向の1つに「神経細胞の再生」があることは強調されていい。というのは、神経細胞の欠損による半身不随や痴呆などの障害は永く「治らない」とされてきたからだ。これが再生可能になれば、多くの人々に光明を与える。アメリカのレーガン元大統領、俳優のクリストファー・リーブやマイケル・J・フォックスがES細胞の研究推進派の“広告塔”のようになってきたのも、彼らが「神経系」の障害をもっていたことが大きな理由である。
 
 とすると、「神経細胞を再生させる」方法が見つかれば、卵子や受精卵を使うES細胞研究の意味の大半は失われてしまうのではないか。特に卵子や受精卵を使う場合、患者の遺伝子に適合性させるためのクローン胚作成の過程は、非常に効率が悪い。ここから様々な倫理的問題も過去には生まれている。そう考えると、患者の神経細胞を直接操作して再生を促す方法に活路を見出そうとする人がいても、おかしくない。8月16日付の Newswise と同18日付の『New Scientist』のニュースは、まさにそんな研究で驚くべき成果が出ていることを報じている。

 しかし……この方法は「人間の脳細胞をマウスの脳の中に入れる」というのだから、私は考え込んでしまう。またこの方法は、卵子や受精卵などの生殖細胞を一切使わず、大人の患者の脳をそのまま使うのだから、拒絶反応の問題も生じないようだ。上記の報道によると、フロリダ大学のマックナイト脳研究所(McKnight Brain Institute)のデニス・スタインドラー博士(Dennis Steindler)らの研究グループは、人間の大人の脳細胞をマウスの脳に入れると、人間の脳は新しい神経細胞を生み出し、ネズミの脳の様々な部分に適合するように分化したという。また、この研究グループは、1個の人間の大人の神経細胞を培養操作することで、何百万もの新しい神経細胞が生成されることも確認した。このことから、同博士らは、普通の人間の脳細胞には幹細胞と同等の自己再生力と分化能力がある、と結論している。これは、神経細胞についてのこれまでの医学の常識を覆す研究と言えるかもしれない。
 
 この方法によって、体外で脳細胞を大量に増殖できることになれば、アルツハイマー病やパーキンソン病で欠損した脳の治療に、患者自身の脳が利用できる可能性がある。そうなれば、前述したES細胞研究に与える影響も少なくないだろう。科学技術の研究からは、本当に何が飛び出すか分からないとつくづく思うのである。
 
谷口 雅宣

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2006年7月15日

肉食を考える (5)

「人間は他人(ひと)の身になって考えることができる」とよく言われる。また、それができない人のことを「ジコチュー」(自己中心的)など言って非難することがある。また、「隣人を愛せよ」とか「自分にしてほしくないことを他人にもするな」という教えは、キリスト教を含む多くの宗教にある。いずれの場合も、人間には「自己を相手に同一化して相手の感情を推し量る」能力があることが前提になっている。この能力を「感情移入」(empathy)といい、人間の人間たるべき特徴の1つだと考えられてきた。また我々は、この感情移入ができるために、演劇や映画を楽しんだり、スポーツを観戦したり、小説に熱中したり、講演や漫才に出かけるのだ。

 ワールドカップのサッカーの試合で、フランス・チームのキャプテンであるジダン選手が、対戦相手のイタリア選手に頭突きを食らわしたことが、世界中の耳目を集めた。これは観戦者が同選手に感情移入して、「ベテラン中のベテラン選手が有終の美を遂げるべき試合でわざと反則するのだから、よほどの侮辱を受けたに違いない」と考え、その理由に関心が集まったからだ。これに比較して、ブタやウシやヒツジやウマ……つまり、家畜のような動物は、同種の仲間に対して感情移入することはない、というのが常識だった。ところが最近、アメリカの科学誌『Science』(vol 312, 30 June 2006)に発表された研究では、ネズミが仲間に対して感情移入する可能性が指摘されている。

 この研究は、カナダのモントリオール市にあるマクギル大学の心理学者、ジェフリー・モーギル(Jeffrey Mogil)教授らによるもので、マウスは、よく知っている仲間のマウスが痛みを感じているとき、自分自身も痛みを感じやすくなる、との実験結果を得た。これを「感情移入」と呼べるかどうか判然としないが、仲間のマウスの様子を見て自分の反応を変えるという点は、何となくそんな気もする。
 
 この研究では、モーギル教授はマウスの腹に酢酸の薄い水溶液を注射した。単独で飼われていたマウスは、この注射後、予想通り身をよじって苦しむ反応を示した。しかし、最低1週間、別のマウスと一緒に飼われていたマウスは、同じ濃度の酢酸水溶液を2匹同時に注射されても、苦悩を示す時間が単独で飼われていたマウスよりも長くなったという。これに対し、一度も一緒にいたことがない2匹のマウスで同じ実験をすると、苦悩を示す時間が有意に長くなることはなかった。また、モーギル教授は、マウスが足に熱を感じて引っこめるまでの時間を測定する実験もした。この場合、仲間が目の前で酢酸水溶液を注入されて苦しむのを見ているマウスの方が、単独で熱を感じたマウスよりも速く足を引っ込めることが分かった。同教授によると、この実験が重要なのは、マウスは単に仲間の動作をマネているのではなく、自分は酢酸など注入されていないのに、仲間の苦しみを見ることで自分の痛覚が敏感になったと考えられるからだという。
 
 モーギル教授らは、これがマウスの感情移入の証拠だとしているが、反対意見もある。しかし、「感情の感染」(emotional contagion)が起こった証拠だと解釈する人は多い。この感情の感染とは、例えば、病院の新生児室で一人の新生児が泣き出すと、それにつられて多くの赤ちゃんが一緒に泣く現象だそうだ。この場合、一人ひとりの赤ちゃんは、最初の赤ちゃんがオムツが濡れたために泣いたと理解できなくても起こる。多くの研究者は、この感情の感染は、もっと複雑な感情移入が成立するための過程で起こると考えているらしい。だから、マウスは、親しい仲間の感情を自ら直感的に感じる、ということではないか。
 
 マウスは、同じ哺乳動物であるブタやウシより優れた脳をもつわけではない。マウスが感じることは、恐らくブタやウシも感じている。だから、屠殺場へ曳かれていくウシは直感的に脚を止めて抵抗し、恐怖で小便を漏らすのだろう。我々人間の多くは、この事実を見てはいない。しかし、感情移入というものがすぐれて人間的な心の特徴であるならば、我々は殺される家畜たちの恐怖や苦しみを「無視する」のではなく、感情移入によって「追体験する」ことが人間らしい生き方と言えるのではないか。だから、肉食は人間的にも問題なのだ。
 
谷口 雅宣

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2006年5月28日

じゃんけんロボ、ほしいですか?

 5月25日付の新聞各紙に“じゃんけんロボ”の記事が載った。人間の脳内の信号を読み取って、その人が出す「グー」「チョキ」「パー」と同じものを機械の手が出すのだという。自動車メーカーのホンダと国際電気通信基礎技術研究所(ATR、京都府)の共同研究によるもので、医療機器として使われている機能的磁気共鳴断層撮影装置(fMRI)によって脳内の血流量の変化を読み、それを解析して、85%の精度で人間と同じ動作をロボットの手にさせることができたという。

『朝日新聞』には、さらにこうある--「1年以内をめどに、手を動かさなくても念じただけでロボットハンドを操れる技術に発展させ、脳情報の読み取り装置を帽子サイズに小型化した上で、8~10年後の実用化を目指す」。これは素晴らしい技術だ、と私は驚いた反面、恐ろしい技術が開発された、とも思った。「素晴らしい」理由は、明らかだ。この技術により、重度の身体障害者用の様々な支援装置が実現する可能性が大きいからだ。また、28日付の『日本経済新聞』によると、ホンダは歩行型ロボットASIMOと組み合わせた介護ロボットを目指しており、ホンダ・リサーチ・インスティチュート・ジャパンの川鍋智彦社長によると、「分身として以心伝心で動くロボットになる」という。

 では、「恐ろしい」理由は?--人間の脳の活動を解析して「グー」「チョキ」「パー」のどれが出るのかが直前に分かるならば、それを負かすことは容易だろう。現在の“じゃんけんロボ”は、脳の活動を読み取ってから手の動作の再現までに7秒ほどかかるそうだが、この時間が短縮されれば、人間に絶対負けない“じゃんけんロボ”ができる。この装置をさらに洗練させていけば、現在の“ウソ発見器”など比較にならないほど精巧な“読心ロボット”のようなものも造れるに違いない。今のウソ発見器は、被験者の皮膚の電気抵抗を測って、その人がある言葉を発するときに興奮しているかどうかを判断するという大雑把なものだが、被験者が出す「グー」「チョキ」「パー」の別まで機械で精確に分かるならば、その人の言うことの信憑度が「信頼できる」「やや疑わしい」「相当疑わしい」「まったくのウソ」などと、何段階もの精度で測定できるかもしれない。警察の取調室には欠かせない装置になるだろう。

 裁判所がもしこれを採用すれば、偽証罪の立証に人間は不要となる。そうなってくると、国会への証人喚問や参考人への質疑の際に、この装置を使うべしとの声が上がってこないだろうか? もしそれが実現すれば、離婚訴訟などの民事裁判、企業や学校での内部調査、就職時の面接、入学試験、お見合い……というように用途がエスカレートしていく危険はないだろうか? まぁ、「入試」や「お見合い」などに使われることはすぐにはないだろう。なぜなら、上記のfMRIという装置は、まだトンデモなく高価だからだ。しかし、その他の用途に使われないという保証は、今のところない。

 ところで、fMRIよりも安価な方法で同様のことを行う研究も進んでいるようだ。それは「脳波計」で脳波を測定する方法で、理化学研究所ではこれによって、考えるだけでコンピューター画面のカーソルを左右へ動かす段階まで、研究を進めているという。また、NTTドコモやキャノン、ダイムラー=クライスラー、アメリカのカリフォルニア工科大学などでも、脳内の変化を測定して機器を動かしたり、人間の好みに合わせた製品開発をしようとしているらしい。
 
 科学・技術の発達で生活が「便利になる」ことを疑う余地はない。しかし、便利さの裏側に何があるのかをしっかり考え、用途を規制するための倫理基準をきちんと定めておかなければ、大変な事態を招くことになりかねない。脳の活動を測定する技術は、人間の究極のプライバシーである脳の内部をのぞく技術でもあるのだ。

谷口 雅宣

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2006年2月 9日

ヒツジとヤギの共存

 昨年6月11日の本欄で、私は「内外一如」と題して“顔細胞”のことに触れた。それは、大脳の一部(側頭連合野の一部)にある細胞で、外界にある「顔」の形に似たものに敏感に反応するので、この名がある。この細胞があるおかげで、我々は実際には「顔」でないもの--例えば、雲の塊り、壁のシミ、自動車のフロント周り、火星の岩など--にも「顔」を見るのである。だから、我々の内部と外部は全く別物ではなく、むしろ内部のものを外部に見たり、外部のものが内部に映ったりする「内外一如」の状態にある--そんな話だった。

 ここで問題にしたのは、①我々の内部に“顔細胞”がまずあったから、存在しない顔を外部に見るようになったのか、それとも、②我々の外部にまず顔があったから、やがて内部に“顔細胞”ができたのか、ということだった。もちろん、正解は②である。しかし、②によって①の効果が生まれたのだ。では、次に問題を拡げて考えよう。我々人類が太古の昔から、「神」や「仏」というような見えないものを、見えるものの背後に見たり、感じたりするのはなぜか? それは、①我々の内に“信仰の種”がまずあったから、存在しない神仏を外部に感じるようになったのか、それとも、②我々の外にまず神仏があったから、やがて内部にも“信仰の種”ができたのか? 上記の文章では、私は②を支持したのだった。
 
 心理学者を初めとした多くの科学者は、しかし①を支持しているようだ。つまり、人類は進化の過程で脳の内部に複雑な情報処理機構を作り上げてきた結果、存在しない神仏や超常現象を、あたかも存在するかのごとく感じるようになった、というのである。イギリスの科学誌『New Scientist』は1月28日号で「信仰の科学(The science of belief)」という12ページの特集を組んで、信仰や神の起源をさぐっている。

 その中で面白かったのは、人間には神仏や超常現象を信じやすい“ヒツジ型”とそれらを疑う“ヤギ型”の2タイプがあるという話だ。前者は、神仏を信じるだけでなく、自分の周りで起こる現象の中に一定のパターンを見つけやすく、後者はそういうパターンの存在を疑うというのである。今風に表現すれば、前者は「シンクロニシティー」を肯定し、後者はそれを「偶然」や「確率」の問題として理解するのである。そして、この2つの傾向は一人の人間の中にも程度の差をもちながら共存しているという。そして、どちらか一方の傾向が強すぎると、普通の日常生活が困難になる場合が多いというから、ますます興味深い。
 
 また、“ヒツジ型”は右脳を使うことに優れ、“ヤギ型”は左脳をよく使うという。多くの脳科学者によると、右脳は創造活動や“横断的思考”(lateral thinking、互いに離れた概念を関係づけて見る傾向)を行い、左脳は言語活動や論理的思考に使われるようだ。ということは、“ヒツジ型”は神を信じやすいだけでなく、迷信や占いや超常現象をも信じやすいということで、“ヤギ型”は論理ずくめで考える傾向が強いために無神論的、懐疑主義的になるということだ。もっと専門的な表現を使えば、“ヒツジ型”はパターンがない所にパターンを見るという「タイプ1」の間違いを犯しやすく、“ヤギ型”はパターンがあるのに、それを見落とすという「タイプ2」の間違いを犯しやすい。
 
 こういう書き方をすると、神仏を信じやすい人々は何か劣っているように聞こえるかもしれない。しかし、そうではない。統計的に言うと、信仰者は不信仰者よりも幸福で健康な生活をしており、しかも長寿であることが分かっている。また、信仰者は不信仰者よりも社会によく適応しており、暖かい人間関係をもっているのである。だから、進化生物学的に言えば、宗教を信じることは生存に有利であり、そのために人類は宗教を生み出したのかもしれない。

 そこで最初の質問にもどろう。人間は宗教を生み出したときに神や仏も生み出したのか、それとも神や仏がまずあったから、それを信仰する宗教を後から人間が生み出したのか? 現代科学では物質的に測定できない「神」や「仏」の存在を認めないから、科学者は当然前者を唱えるだろう。しかし、宗教者は後者を支持する以外にない。ここに科学と宗教の間の超えられない“溝”を感じる人もいるだろう。でも、この双方の議論はいずれも「時間」の概念の枠内にある。もし、時間を含んだより高次の次元が宇宙の本当の姿だとしたら、双方の対立はなくなるだろう。また、我々人間の体では“右脳”も“左脳”も発達しているのだから、双方の得意とする考え方が調和的に共存することが、人間の幸福にとって必要なのだ。

 ところで、聖書にはイエス・キリストが“ヒツジ”と“ヤギ”との明らかな違いを説いている箇所がある(『マタイによる福音書』25章31-46節)。関心のある方はぜひ、ご一読あれ。
 
谷口 雅宣

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2005年12月27日

暴力ゲームから子供を守ろう

 「ゲーム脳」という言葉を使って、テレビやパソコンのゲームに熱中する人の脳が異常になることを訴える人がいる一方、旧来どおりの「表現の自由」を楯にとってゲームの規制に反対する人もいる。有害図書の規制問題にも似た対立だが、脳が発達途上にある若年者に、異常な刺激を長時間にわたって与え続けることが「表現の自由」の名のもとで許されるのはオカシイと思う。喫煙や飲酒が若年者に禁じられている理由を考えれば、それは明らかだと思うのだが、これまでは「ゲームをすること」と「暴力を振るう」こととの因果関係が明らかでないとして、日本でも規制は緩やかだった。昨今の機器の高性能化と通信技術の飛躍的向上によって、ゲームの世界は現実に限りなく近づいてきているし、一部では現実を超えているものもある。早期の社会的合意が望まれるところだ。

 最近、私が知って驚いたのは、今日のインターネットを使ったパソコン・ゲームでは、そのバーチャルな世界で使われる様々な物品等を売買するために、国際的に盛んに金銭の移動が行われているということだ。そしてさらに驚いたのは、そういうゲーム上の物品を先進国の参加者に売るために、中国にいる若者たちが“ゲーム漬け”の生活をしているということだ。12月9日付の『ヘラルド朝日』紙が、そのことを詳しく報じている。それによると、中国南東部の福州市(Fuzhou)の古い倉庫の地下には、パソコン数十台を背中合わせに何列も並べた部屋があり、そこで若者たちがインターネット・ゲームを仕事としてやっているそうだ。1日12時間交替、休日返上でやっているというから、普通の“遊び”ではない。

 このゲーマーたちは、画面上に現れる怪物を殺したりして得た“金貨”や得点を集めて、それをインターネットを介してソウルやサンフランシスコにいる韓国人やアメリカ人のゲーマーに売るのである。韓国やアメリカのゲーマーたちは、それを買うと「低いレベル」でのゲームを省略して「高いレベル」からゲームに参加することができるという仕組みだ。具体的には、彼らは中国人から買った“金貨”で、ゲーム上の「剣」「魔除け」「魔力」などを入手し、より強力なキャラとなってゲームに参加する。これによって、中国人ゲーマーたちは月250ドルほど稼ぐという。今、こういうオンライン・ゲームには毎日、世界で1億人もの人々が参加しているらしい。そして、中国にはこのような秘密の“ゲーム工場”が何百、何千もあり、そこで10万人以上の若者がフルタイムでゲームをしているというのだ。
 
 ところで最近、アメリカで暴力的なコンピューター・ゲームが実際の暴力行為に関係しているとの研究結果が発表された。ゲームをすることと暴力との「相関関係」は、これまでにも数多く指摘されてきたが、今回の研究は、ゲームをすることで暴力的になるという「因果関係」を示すと考えられている。12月12日の科学誌『NewScientist』のニュースサービスが伝えている。
 
 これまでの研究で、ゲームと暴力との「相関関係」が指摘されても、「もともと暴力的な性向の人が暴力ゲームをよくするだけで、ゲームが人の性格を変えたとは言えない」との反論ができた。しかし、ミズーリ大学の心理学者、ブルース・バーソロー博士(Bruce Bartholow)らのチームが行った研究では、暴力的ゲームをよくする人は、例えば、銃による攻撃のような現実の暴力行為を目の前にしても脳の反応が鈍くなる一方、死んだ動物や病気の子供を目の前にしたときの反応は鈍化しないことがわかった。この研究では、ゲーム好きの39人を被験者とし、まず被験者がどれだけ暴力的ゲームをするか調査票で訊いた後、現実に起こった出来事の写真--大半は暴力と無関係の写真を見せるのだが、ときどき暴力的シーンや暴力的ではないが否定的意味をもった写真を混入させて見せたという。すると、暴力的ゲームをする機会の多い人ほど、実際の暴力シーンの写真を見ても脳波に反応が起こらない一方、その他の否定的な場面の写真には、普通の人と変わらない反応が起こったという。

 当たり前といえば当たり前の結果かもしれないが、こういう科学的研究が数多く発表されていても、「それじゃ、暴力ゲームを規制しよう」とならないところが不思議である。だから、現時点では、良識ある親たちが意を決して、子どもに暴力ゲームを「させない」「買わない」「見せない」努力をするほかはないと思う。
 
 犯罪心理学者で精神鑑定医の福島章氏が書いた『子どもの脳が危ない』(PHP新書、2000年)の中には、次のような指摘がある:
 
「日本のように、毎日どぎつい暴力描写がくりかえされるテレビを見ながら育った子どもたちが、やがて思春期や青年になったときに、ある種のささいな刺激やストレスが加わったとき突然に暴力行為に移るのは、けっして不思議ではない。(…中略…)暴力的な映像には、その攻撃性を『代理満足』によって昇華させる働きと、学習によって増強する作用の二面があることも考察した。マクロで見れば、子ども番組といわずおとな番組といわず、これほど暴力が氾濫する日本で、ここ数十年、たとえば少年の殺人数が増加していないのは、おそらく代理満足の効果が発揮されているからであろう。しかし、その反対にミクロのケースを詳細に調べれば(暴力非行を犯した少年を調べてわかることは)ほとんどの場合彼らの問題行動のモデルが、広く視聴されているビデオや大部数を稼いだコミックスの中にあることがわかる。これは、学習効果による模倣の結果である。」(p. 186)
 
 特定の予備校の特定の先生だけがオカシイのではなく、刺激の強い暴力シーン、セックス描写を「売らんかな」の目的でテレビ放送、パソコン・ゲーム、そしてコミック中に描き続けてきた大人社会全体がオカシイのである。
 
谷口 雅宣

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2005年12月 1日

若者撃退器

 ネズミが人間には聞こえない“恋の歌”をうたっていることが、ごく最近わかったという話を11月7日の本欄で取り上げた。人間の聴覚があやふやである証拠と言えようが、正常な聴覚をもった人間同士の間でも、聞こえる音と聞こえない音があるそうだ。それも、子供や若者には聞こえても、中年以降の人間には聞こえない音があるというのだから、不思議である。30日付の『ヘラルド朝日』紙が伝えている。

 それによると、ネズミだけでなく、30歳以下の人間にも周波数の高い領域の音が、中年以降の人間よりもよく聞こえるそうだ。これに気づいたのはイギリスのハワード・スタプルトン氏(Howard Stapleton)で、12歳のときに父親が経営する溶接工場に入ろうとした際、内部の騒音がひどくて入れなかった経験から学んだという。スタプルトン氏は39歳になった今、この原理を応用して“若者撃退器”を製作し、実験段階にあるという。この器械は小型で人をイライラさせるので、「モスキート」(蚊)という名前にしたそうだ。器械は現在一台だけ、ウェールズ南部のバリー市にあるコンビニ店に取り付けられているが、効果はまずまずらしい。
 
 かつてその店の前には、いつも若者がたむろしてタバコを吸ったり、酒を飲んだり、客に向って罵声を発したり、時には店内に入って暴れたりしていたという。そこで店主は一度、外の駐車場に向けたスピーカーからクラッシック音楽を流して若者を撃退しようとしたが、うまくいかなかった。ところが、この器械を据えつけてまもなく、若者は店の前に集まらなくなったという。それが器械の効果であることは、当初、これまで通りにやってきた若者が耳を押さえながら店内に入って来て、「あの音を止めてくれ」と頼んだことから明白だという。しかし店主は、「あれは、鳥が来ないようにするためだ。鳥インフルエンザは困るからね」と言い張って応じなかった。
 
 この記事を書いた記者には、その音が聞こえなかったそうだ。しかし、店に来た若者に尋ねてみると、確かに「キーキーという、体の中を突き抜けるような大きな音がする」という。だから、大人には聞こえなくても実際に音がすることが分かる。オックスフォード大学の神経生理学者、アンドリュー・キング博士(Andrew King)によると、人間の聴覚は事実、加齢とともに高い周波数帯の音が聞こえなくなってくるが、それは非常にゆっくりとした過程だから、20歳を過ぎた人でもこの器械の音が聞こえる人はいるという。だから、実際に店舗に設置する効果には、疑問が残るようだ。それよりも、痴漢や強盗撃退用になら、限定的な効果はあるかもしれない。
 
谷口 雅宣

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2005年9月16日

痛みは心がつくる

 8月19日付の本欄で、『天使の言葉』の中にもある催眠による鎮痛法が今は病院でも使われていて、催眠中に痛みを制御することができることを書いた。ところがこの「痛みの制御」は、催眠など行わなくても覚醒した意識下で、心で“期待する”ことでできる、という実験結果が公表された。ウェーク・フォーレスト大学バプテスト医療センターで行われた実験で、9月初めにオンライン版『アメリカ科学アカデミー紀要』(Proceedings of the National Academy of Sciences)に掲載された。

 研究チームの中心となったテツオ・コヤマ博士は、「期待することは、痛みに対して驚くほど大きな効果を与えることが分かりました。積極的な期待は、痛みの感覚を28%ほど和らげます。これはモルヒネを打った場合と同じです」と言う。またチームの一員であり、神経科学者のロバート・コグヒル博士(Robert Coghill)は、「我々は何もないところに痛みを感じるわけではない。痛みというものは、傷ついた体の部分から送られてくる信号だけで起こるのではなく、そういう信号と各個人に特有な認知情報との相互反応から起こるものです」と言う。
 
「認知情報」(cognitive information)とは難しい言葉だが、「自分はこういう状態だ」と考えることを指すのだろう。自分が強い痛みを与えられていると考える人には、物理的な強さがさほどない痛みでも「痛い」と感じ、自分は弱い痛みを与えられていると思う人には、物理的に強い痛みでも「あまり痛くない」と感じるということだ。この実験で面白いのは、「痛み」の測定に被験者の主観的判断を使っただけでなく、それと同時にfMRI(機能的核磁気共鳴映像法)によって客観的に、被験者の脳の痛覚に反応する部分の変化を調べてみたことである。すると、被験者の積極的期待(つまり「痛くないぞ」という期待)は、主観的な痛さだけでなく、脳内の反応も和らげたというのだ。

 この「脳内の反応」を和らげるのに「エンドルフィン」と呼ばれる脳内化学物質が一役かっていると思われる。いわゆる“脳内モルヒネ”と呼ばれているものだ。8月24日付の医学誌『Journal of Neuroscience』(神経科学雑誌)には、ミシガン大学の分子行動神経科学研究所(Molecular and Behavioral Neurosciences Institute)で行われた「プラシーボ効果」の研究が発表されている。それによると、プラシーボ効果が起こる際には人間の脳内でエンドルフィンが生成され、これが痛みを和らげる効果を生むという。そのとき、被験者が「痛み止めの薬を処方された」と知らされれば、(実際はそうでなくても)痛みはさらに軽減するという。これを被験者の主観だけでなく、PETやMRIという装置を使って脳内の変化を映像化して客観的に確認した点が重要である。というのは、プラシーボ効果とは、単なる心理的(主観的)な感覚の違いだと考える人がいるからだ。しかし、この研究の中心となったジョンカー・ズビータ博士(Jon-Kar Zubieta)は、「脳の痛みに関する領域にエンドルフィン系が作用し、被験者が『痛み止めが処方された』と聞くとその活動がさらに増加し、さらに痛みは和らぐのです。心と体の繋がりは明白です」と言っている。心が物質を生成するのである。

 簡単に言ってしまえば、「痛いと思えば痛く、痛くないと思えば痛くない」ということだろう。こういうことは、我々も経験したことがあるのではないだろうか。「これから怪我をするな」と思って怪我をするのと、何の前触れもなく怪我をするのとでは、怪我の瞬間の痛みが違う。(怪我を見てしまった後は、また別だが……)前者の方が痛く、後者は痛くないことが多い。前回も引用した『天使の言葉』の一節--「物質にあり得べからざる痛苦を物質なる肉体が感ずるは、唯『感ずる』と云う念あるが故なり」--を思い出し、さらに『甘露の法雨』にある「感覚はこれ信念の影を視るに過ぎず」という言葉を反芻してみよう。なかなか味わい深いではないか。
 
谷口 雅宣

出典:http://www.newswise.com/articles/view/514158/
    http://www.newswise.com/articles/view/513897/

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2005年8月19日

催眠鎮痛法の不思議

 宇治の盂蘭盆供養大祭の4つの御祭を終えた。聖経を1日4回読むことは珍しいが、30℃を超える暑さの中で読誦していると、一種の“トランス状態”に近くなって却って暑さを感じなくなるものである。そんな時、気がつくと『天使の言葉』に出てくる催眠術の話の箇所を読んでいたりする--

 肉体に若し催眠術を施して
 彼の念を一時的に奪い去れば、
 針にて刺すとも痛みを感ぜず、
 メスにて切るとも痛みを感ぜず、
 無痛刺針、無痛施術等自由自在に行わるるに非ずや。

 子供のころ『天使の言葉』を読んでいて、この箇所とロンブロゾーの実験の箇所が印象に強く残っていたのを思い出す。「催眠術」という言葉は、「忍術」とか「妖術」とか「交霊術」のような何か“異様”で“異常”な手段のようなニュアンスをもっているが、最近はその医学的効果が認められて、きちんとした医療行為の一部としてヨーロッパの一部の病院で利用されているらしい。『NewScientist』の8月6日号が、4ページを使ってその報告記事を書いている。

 ベルギーのある病院では、「催眠鎮痛法」(hypnosedation)という処置によりすでに4800例を超える手術をしているという。これは、局部麻酔と微量の麻酔剤を併用することで全身麻酔をせずに手術する方法らしい。全身麻酔には、手術後の認知や記憶能力に悪影響が出たり、傷の回復が遅れるという副作用があるため、別の方法を模索していたという。また、全身麻酔を経験した人は、後年になってアルツハイマー病やパーキンソン病のような神経細胞が退縮する病気を発病しやすいとの研究結果もあるらしい。さらに、麻酔剤は体の免疫系にも悪影響を与えるとの報告もあるという。これに対し、催眠鎮痛法の長所には、出血が少ないので手術がしやすいという点が挙げられる。麻酔剤を使うと、体に傷をつけると血管が収縮するという自然の反応が麻痺してしまうので、出血が多くなるらしいが、催眠鎮痛法ではそれがない。また、全身麻酔の際は人工呼吸器をつけねばならないが、この機械は胸に圧力をかけるので出血を促進してしまう。しかし、催眠鎮痛法では、患者は自分の力で呼吸するので、この問題がない。さらに催眠中の患者は意識があるので、体の位置を変えるとか、瞼を動かすなどして手術に協力することもできるという。

 催眠術が痛みを和らげる理由については、実はまだよく分かっていないらしい。最近脚光を浴びているfMRI(機能的核磁気共鳴映像法)による脳の研究では、催眠中とそうでない人の痛みに対する脳内の反応には大きな違いがあることが分かっている。痛みが直接伝わる脳の領域の反応は、両者の間に大差はなくとも、高度な機能を司る脳の領域には大きな違いが見られるらしい。また、痛みの感覚は催眠中に制御することもできるという。例えば、心の中に痛みを調節する“ダイヤル装置”を思い描き、そのダイヤルを心の中で操作して痛みを和らげる方向に回すことで、実際に痛みが減少するとの実験結果もあるらしい。こういう医学上の実験のことを知ってみると、『天使の言葉』にある「物質にあり得べからざる痛苦を物質なる肉体が感ずるは、唯『感ずる』と云う念あるが故なり」という言葉の重たさがよく分かるのである。

 体の中にメスを入れる手術でさえ、心の持ち方で痛みを制御できるのだから、夏の暑さでヒーヒー言ってばかりいてはいけないのだ。聖経読誦に限らずとも、何か生産的なことに熱中して夏の暑さを吹き飛ばそう。

谷口 雅宣

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2005年6月19日

政治家と顔

6月11日の本欄で、人間の脳内にある“顔細胞”の話をして、我々の視覚がいかに“顔”のような形に敏感であるかを書いた。そこから考えると、「美容院」や「化粧品」「眼鏡」「顔写真」「隈取」「お面」など、顔と関わりが深いものが人間にとって重要であることが分かる。先に挙げたものに、結構我々は高額なお金を支払うことを厭わないのである。「人を外見から判断するな」とよく言われるが、そのこと自体、我々が人を外見--その重要な要素としての顔--で判断する傾向があることを暗示している。また「男は顔じゃない」と言う人もいるが、私の妻などは「男は顔よ!」とよく言って私を苦笑させる。(「女は顔」なんでしょうか?)

「政治家は顔か?」という命題はどうか。小泉首相、石原親子、橋本知事、JFK、レーガン大統領、ウクライナのユーシェンコ大統領……などの例もあるが、逆に大平正芳首相、岡田(民主党)代表、シュワルツェネッガー知事などのことを考えると、「顔じゃないな」とも思う。しかし、「顔がいい」ことが選挙に有利であることは誰も否定しないだろう。それを学問的に検証した結果が、このほどアメリカの科学誌『Science』(6月10日号)に発表された。プリンストン大学の心理学者、アレクサンダー・トドロフ博士らの研究によると、人は選挙の時、候補者の顔を見て能力・力量を判断し、それを基準にして投票するのだそうだ。「所属政党や候補者の政策、さらに人格も考慮に入れて理性的に投票する」と考えられていたのとは、かなり違う結果だ。

この研究では、2000年、2002年、2004年に行われたアメリカの上下両院の選挙候補者2人の写真をペアにして被験者に見せ、どちらが「有能な政治家か」の判断をさせたという。このとき、被験者が写真の政治家のいずれかを知っている場合には、知らない政治家のみのペアに変えてやったという。だから、実験では「顔写真」だけから政治家の有能さを判断させたことになる。こうして多数の被験者から回答を得た結果と、実際に行われた選挙での投票結果を比べてみると、アメリカ上院の選挙では2000年の結果の73.3%、2002年の72.7%、2004年の68.8%が、「顔だけの判断」で説明できる結果になったという。下院の選挙との比較は、2002年が66.0%、2004年が67.7%だった。

ここで興味が湧いてくるのは、実験で使われた「ペア」の内容だ。それは“大人っぽい”(mature-faced)顔と“子供っぽい”(babyfaced)顔だという。そして、“子供っぽい顔”の特徴は、丸顔、大きい目、小さい鼻、広い額、小さいアゴなのだそうだ。読者は、鏡の前で自分の顔を眺めてみてはどうだろう? 特に政治家と、将来政治家を目指している人は!

谷口 雅宣

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2005年6月11日

内外一如の話

前日、関東地方は平年より2日遅く「梅雨入りしたとみられる」と気象庁が発表した。が、今日は青空がひろがる好天気、かと思うと小雨もパラつくなど不安定で、不思議な一日だった。帰宅のため事務所を出ると、何か冷たいものがポツリと落ちた。しかし、空を見上げると雲はまばらだ。「でも梅雨なのだから……」と次のポツリを待つ。が、なかなか落ちて来ない。空を見上げたまま歩を進めていくと、東郷神社の鳥居の脇に立つ大きな楠の葉の間から、「顔」の形をした雲がこちらを見ていた。「ふーーん、面白い顔だなぁ……」と眺めながら歩き続けると、空がゆっくり動いて、枝葉に隠れていた雲の「腕」と「胴体」も姿を現した。足は片足だけで、先の方が消えかかっている。「なるほど」と私は納得した。

何を納得したかというと、人間の脳内には“顔細胞”があるという話にだ。外界にある「顔」の形のものに敏感に反応する脳の一部分(大脳の側頭連合野の一部)をそう呼ぶらしい。進化生物学によると、こういう「顔」に特化した脳細胞が発達した理由は、人間社会の中で顔のもつ役割が大きいからだ。つまり、より速く、より正確に相手の「表情を読む」ことが生存に有利だったからだ。人間同士のあいだでは言語が重要なコミュニケーション手段であることは言うまでもないが、言語は異民族間では通じないこともあり、また人間は必ずしも言葉通りのことを感じ、考えているわけではない。そういう場合には、顔をよく見て「表情を読む」ことに長けている人の方が生存に有利となり、そういう人の遺伝子が現代人に引き継がれているというわけだ。

WoodPuzzle

しかし、こうして人間の脳が「顔」や「表情」に敏感になったおかげで副産物も生じた。それは、人間の視覚が「顔」でないものも顔として見る傾向をもつようになったことだ。私が雲の形を「顔」として捉えたのが、そのいい例だ。また、病気でベッドで寝ているときなど、天井板の木目や、壁のヒビやシミが人の顔に見えたりする経験をした人は多いのではないか。さらに自動車好きの人は、ひいきの車種について「顔がいい」などと言ったりする。自動車のフロント回りが「顔」に見えるからだ。傑作は、かつてアメリカで話題になった火星上の“人面岩”騒ぎで、火星の表面の写真の中に「人の顔をした大きな岩」が発見されたことで、すわこれはスフィンクスの火星版だと言わんばかりの議論がメディアなどで起こったそうだ。結局、この岩は撮影時の光線の加減で人の顔のように見えたにすぎず、後年、もっと精密な写真が撮れるようになった時、“人面岩”は少しも人の顔に似ていないことが判明したそうだ。

で、私は思うのだが、人間は自分の心(脳)にあるものを外に見るのである。だから、外界は内界の反映である--しかし、この世界はその言葉ほどには単純でないかもしれない。実は、人間の脳には「神」や「仏」などの宗教的な対象のことを想起すると反応する部分もあるらしい。では、神仏は人間の脳の反映なのか?

こう考えたらどうだろう--人間の脳に“顔細胞”が発達したのは、「表情を読む」という行為を人類が何十万年、何百万年も繰り返してきたからであって、その逆(顔細胞が先にあったから外界に顔が見える)のではない。大体「顔」なるものは類人猿にも、イヌにもネコにもある。昆虫や魚類にも「顔」と呼んでいいものがあるだろう。それと同様に、人間の脳の一部に神仏に反応する細胞があったとしても、それは神仏が人間の脳の創作物であることを意味しない。そうではなく、その細胞の存在は、人類が何十万年、何百万年もの長期にわたり、「神」や「仏」などの宗教的対象と関係をもち続けてきたという事実を示すにすぎない。

しかし、こうして人間の脳が「神」や「仏」に敏感になったおかげで、“顔細胞”のときと同じような副産物が生じた可能性がある。それは、本当の「神」や「仏」でないものも、すぐに「神」や「仏」だと考えてしまう傾向のことだ。その場合は、(“人面岩”が地球上の人類の“顔細胞”の反映であるように)神仏は人間の脳の反映だと言うことができるだろう。

谷口 雅宣

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