2011年9月 1日

人間の“死”の意味

 私は生長の家講習会で「神は悪をつくりたまわず」という話をするとき、「死も悪ではない」ことを例として使うことがある。これはもちろん“肉体の死”のことで、その前提として「人間は肉体ではない」という教えが説かれなければならない。つまり、肉体の死は必ずしも“悪”ではないということだ。すると、驚いたような顔をする人がいる。しかし、私がそう言ったあと、肉体が死ななくなったときの社会を想像してほしいといって、超高齢化社会の到来、人口爆発の問題、社会や企業・団体・家庭における世代交替の必要性、医療費の負担問題などを挙げると、納得してくれたような顔になる。肉体の死は、このように現象世界の秩序維持のためには必要なのである。
 
 が、もちろん、人間が自分や近親者の死を感情的に受け入れることはなかなか難しい。それは、自分が最も大切だと考えかつ信じてきたものが、肉体の死によって永遠に失われると考えるからである。が、ほとんどの宗教が、「肉体の死は人間の終わりではない」と説いている。生長の家の場合、「死はナイ」という端的で強烈な表現によって、多くの人々を死の不安や悩みから救ってきたのである。

 この“肉体の死”は文明にとって必要だと訴える意見が、30日付の『インターナショナル・ヘラルド・トリビューン』紙の論説面に載っていたので、興味深く読んだ。書き手は哲学者であり、外交官でもあったスティーブン・ケイヴ(Stephen Cave)というイギリス人だ。ケイヴ氏は、哲学のみならず心理学、脳科学、宗教の分野の知識を駆使して、人間の文明を動かしている根源を探求した『Immortality(不死)』という本を書き、これが来年春の発売前から話題になっているらしい。この論説は、その著書の主旨をまとめたものという。

 それをひと言で表現すれば、「人間は“死ぬ”という意識を克服するために文明をつくり出してきた」ということだろうか。別の言い方をすれば、もし“肉体の死”がなくなってしまえば、それは“文明の死”でもあるというのだ。イギリスではBBCテレビが『トーチウッド:奇蹟の日』という連続ドラマを夏休みの期間にやっていて、これが9月で終わるらしい。このドラマの中で「奇蹟」と読んでいるのは、死がなくなることだという。ケイヴ氏によると、大方の予想とは異なり、人類は死の消滅による人口過剰の問題を物質的には克服することができるが、心理的にはそれができないという。その理由は、人類の文明は「不死」を実現しようとする情熱によって形成されてきたからだという。

 この“不死への情熱”が宗教を生み出し、詩を書かせ、都市を建設させるなど、我々の行為と信念の方向性を決定している、とケイヴ氏は言う。このことは、昔から哲学者や詩人によって言われてきたが、科学的な検証は、最近の心理学の発達によって初めて可能になってきたらしい。この論説には、その初期の実験の1つが紹介されている。
 
 それは1989年に始まったアメリカの社会心理学者たちの研究で、これによって「自分は死ぬ」という事実を思い出すだけで、人間は政治的、宗教的考え方を大きく変えることが分かったという。この研究は、アメリカのアリゾナ州ツーソン市の裁判官たちの協力のもとに行われた。この裁判官のグループのうち半数には、心理テストを行いながら「自分は死ぬ」ということを思い出させ、残りの半数にはそうしなかった。その後、彼らがよく扱うような売春をめぐる仮想の事件を判断させたという。すると、死について思い出した裁判官たちは、そうでない裁判官たちよりも重い--平均で9倍もの--罰金を科す判断を下したという。

 この結果をどう解釈するかが、興味深い。ケイヴ氏によると、この実験の背後にある仮説は、「我々人間は、死は避けられるとの感覚を得るために文化や世界観をつくり出す」というものだ。しかし、死はいずれやってくるから、それを思い出した人間は、自分の信念に以前より強固にしがみつき、それを脅かすものに対して、より否定的な態度をとる、と考えるのである。だから、これまでにも売春を罪として裁いてきた裁判官は、自分の死を思い出すと、その科料を引き上げることで、裁判官としての信念や世界観を守り通そうとするわけだ。
 
 「恐怖管理理論(Terror Management Theory)」として知られるこの仮説は、シェルドン・ソロモン(Sheldon Solomon)、ジェフ・グリーンバーグ(Jeff Greenberg)、トム・シジンスキー(Tom Pyszczynski)という3人の心理学者によって提唱され、これまで400例を超える検証が行われてきたという。その分野も宗教から愛国心にいたるまで幅広く、検証の結果は一貫して正しいことが認められているという。つまり、我々の考え方のある要素は、死への恐怖を和らげる必要から生まれる--言い換えれば、我々の文化や哲学、宗教などの様々な心理体系は、我々が「死なない」ことを約束するために存在するというのだ。
 
 こういう観点から世の中を見てみると、なるほどとうなずけることが多い。ケイヴ氏は、エジプトのピラミッドやヨーロッパ各地の大聖堂、現代都市にそびえる超高層ビル群などを例として挙げているが、これらの物理的な構築物が“死を超えた世界”を描いているだけでなく、そういう建物の中で説かれる教えや、そこに設置される施設、そこで提唱されるライフスタイルも、「死後も生きる」ことや「死の到来を延期させる」希望によって彩られている、と考えることができるのである。
 
 このように見ていくと、今後、再生医療やアンチエージング医療が急速に進歩し、もし本当に “肉体の死”がなくなる日が来たとしたら、人間は死の恐怖から解放されるから、これらすべての文化的、宗教的、社会的な営みの原因も消滅し、人類の文明は崩壊することになる。だから、人類がこれまで“不死の薬”の開発に成功しなかったことに我々は感謝すべきなのだ--これがケイヴ氏の結論である。
 
 谷口 雅宣

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2011年5月10日

「めんどくさい」が世界を救う (6)

 私はしかし、ここで人類の将来について絶望的な見解を述べようとしているのではない。私は先に、「ネット社会の発達と音声・映像技術の進歩」に触れた時、これが環境からの直接的フィードバックの不足を「十分補える」という考えに否定的に反応した。ただし、それは全面否定ではない。人間が環境に対して全人格的な触れ合いをもてないことを、インターネットやハイビジョン放送は「十分補える」ものではない。が、不足分を「部分的に補う」ことはできると考える。そして、現にそのような事実が近年目撃され、あるいは多くの人々によって体験されている。

 今年の初めのエジプトでの反政府デモを皮切りに続いている、アラブ諸国でのいわゆる“ジャスミン革命”の動きは、インターネットや携帯電話の技術の進歩とその普及なくしては考えられない。数千キロ、数万キロも離れた土地の無名の人々が、同じアラブ系であるという理由だけで、他国の政治に重大な影響を与えるなどということは、国際政治の歴史ではかつてあり得なかったのではないか。それが大々的、連鎖的に起こり、今にいたっても継続している。その重要な原因の一つに、映像や音声情報の高品質化による生々しさ、テキストメッセージの即時性とリアリティー、フェイスブックなどのソーシャルメディアによる双方向、多方向の自在なコミュニケーションの普及があったことは、疑う余地がない。しかし、それによってこれらの民主化の動きが適切に組織され、政治的に効果的に--つまり、犠牲者を最小限に止めて--行われたかどうかは、まだ判断できないと思う。

 また、2010年1月に起こったハイチの大地震や、その後のチリ大地震でも、情報伝達や被災者救援の活動にインターネット技術が大いに役立ったことは確かである。同じことは、今年の東日本大震災についても言えることだ。が、災害当初の“初動的”な対応や救援の段階を過ぎて、中・長期的な視点に立った被災地復興をするためには、人が実際に現地に入って「環境からの直接的フィードバック」を受けながら対応し、対策を講じなければ判断を誤ることは必至だろう。

 このように考えてくれば、人間と自然とが調和し共存する世界を実現するためには、効率を優先した技術の開発や、音声・映像・通信手段の発達だけでは全く足りないのである。それらは目的達成に役立てることもできるし、その逆に目的の阻害要因にもなる。最も重要なことは、できるだけ多くの人間が、自然界と全人格的に触れ合う機会を増やすことである。効率面から見れば、その触れ合いは本質的に「めんどくさい」ことであり、「手間がかかる」ことであるかもしれない。が、それによって人間は言わば“完体”となる。人間が本来備えている多面的な能力が開発されるのである。そして、自然の一部として存在しながら、しかも自然を理性的に理解し、また感情的に共感しながら、自然を育て、自然に育てられ、自然と共に伸びる道が開けてくると私は考える。

 谷口 雅宣

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2011年5月 9日

「めんどくさい」が世界を救う (5)

 私は自分の息子がまだ1歳にならない頃、旅先の宿舎の一室で、夜中に初めて立ち上がって伝い歩きをした時のことを今でも覚えている。それまでは這うことしかできなかった小さな人間が、やっと立ち上がり、おぼつかない両脚を力いっぱい踏みしめ、両手を机に突いて体を支えながらバタバタと歩いた。その時の満面の笑みと喜びの叫び声は、環境からの直接的リアクションが、人間にとってどんなに幸福かを如実に語っていた。

 ところが、歩くことに慣れてしまった人間は、次に効率のことを考え出す。長い距離を歩くのは非効率だとか、面倒くさいなどと考えて、自転車や自動車、さらには航空機まで発明した。しかし、これによって先進諸国の人々の間には運動不足よる肥満や、成人病、神経症など、別の問題が深刻化しているのだ。

 環境から直接的なフィードバックが得られなくなることは、人間の判断を誤らせる大きな要因になる。このことは、自動車運転中の携帯電話の使用や歩行中のイヤフォンやヘッドフォンの着用などで、すでに証明済みだろう。それでも、ネット社会の発達と音声・映像技術の進歩によって、そういう情報不足は十分補えるという考え方が時々表明される。が、私はそんなことは不可能だと思う。理由はすでに縷々述べてきたが、以下、簡単にまとめよう。

 庭の芝生を刈る際に最も効率的な方法は「他人に依頼する」ことだった。これによって、依頼人への芝生からのフィードバックはほとんどゼロになる。フィードバックの減少は、「芝生から」だけではない。「芝生を刈る」という行為にともなう大部分の情報--芝生を刈る音、切り揃えられた芝生の感触、土の匂い、芝生から跳びだす昆虫やミミズ、カッコウやホトトギスの鳴き声、林を通り抜ける風の爽やかさ、飛来するチョウの可憐さ、そして、これら自然界との触れ合いによって“刈り手”の心に生まれる様々な想い--が、依頼人の脳や心には伝わらず、また生まれず、実際に芝刈りをした人間のところでストップする。筋肉と感覚と心を動員して行われる全人格的な「芝刈り」という仕事は、こうして依頼人にとっては抽象的で、価値の低い“単純労働”として認識されるようになるだろう。また「芝刈り」の場である自然界も、同じように抽象的で、どこか絵画や写真のような“装飾品”あるいは“デザイン”として感じられるのではないだろうか。

 私は、人間がそのような認識や価値判断にもとづいて下してきた決定によって、これまでどれだけ広大な生物の生息地と、どれだけ多くの生物種が失われてきたか、と心を巡らせるのである。そして,そういう人類の価値判断が正しくなかったことが今、地球規模の気候変動、“人口爆発”と食糧問題、資源の枯渇と奪い合い、生物多様性の後退などとして示されていると考える。

 谷口 雅宣

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2011年5月 7日

「めんどくさい」が世界を救う (3)

 ここに書いた「効率とは別の価値」とは何であり、それと効率とはとはどちらを優先すべきかを考えてみよう。引用文の中で描かれた「効率とは別の価値」とは、クリの木をより深く知るということだ。木の表面を観察し木肌に注意したり、木の香をじっくり味わうことだ。手引きのノコギリを使うという“面倒な方法”を用いることで、小一時間のあいだクリの木との一種のコミュニケーションが生まれる。もっと一般化して言えば、向かう対象から豊富な「フィードバックを受ける」のである。これに比べ、チェーンソーを使えば、薪作りは簡単に、短時間ですんでしまうから、対象からのフィードバックは皆無ではなくても、決して豊富なものではない。では、このような「豊富なフィードバック」は、効率性と比べて“より大きな価値”と言えるだろうか。この問いへの答えは、簡単ではない。そこで、もう一つの私の経験について述べ、この重要な問いへの答えを確かなものにしよう。

 再び私の山荘での経験を書く。私の生活のほとんどは大都会の東京で行われるから、東京での経験の中で、環境から「豊富なフィードバック」を得た例を挙げるべきかもしれないが、東京での生活は効率優先で行われがちだから、良い例があまり多く思い浮かばないのである。
 次に掲げる文章は、2010年6月4日のブログに書いたもので、原稿書きの仕事の合間に、伸び放題になった庭の芝生刈りをした時のことだ--

「 それでも3日の午前中に、庭の草刈りをする時間ができた。標高1200メートルの山荘の環境では、東京より季節回りが1カ月ほど遅く、5月初めの気候である。それでも、西洋芝が20~30センチの高さに不揃いで伸びた様子が、見苦しかったのだ。草刈り鋏で1時間ほどかけて刈っているあいだ、近くの山でカッコウがずっと鳴き続けていた。鳴き声に大小の変化がなかったから、恐らく一羽が一カ所にとどまったまま鳴いていたのだ。その合間に、ホトトギスの声も聞こえた。私は、どちらの鳥の声も耳に心地よく響くことに気づき、楽しみながら聞いていた。が、30分も過ぎてから、ハタと思い当たることがあった。それは、彼らが何のために鳴いているかということだった。普通、鳥が鳴くのは雌鳥を呼ぶためということになっている。一種の“求愛”行動だ。しかし、同じ場所で30分も相手を呼び続けていて、退屈することはないのか、と思った。人間だったら、デートの待ち合わせ場所に相手が30分も来ない場合、怒って帰る人もいるだろう。しかし、カッコウには“待ち合わせ場所”などないだろうに、一カ所で30分以上鳴いていて効果がなければ、別の場所へ行くという選択をしないのか……私はそれが不思議だった。

 私はカッコウにエンパシーを感じていたのだ。つまり、芝刈り中の私は、同じ場所でで同じことをひたすら繰り返すという意味で、カッコウと同じことをしていたから、彼の“心”(そんなものがあるとしたら……)を慮ったのだ。草刈りや芝刈りは単純労働だから、退屈と言えば退屈である。しかし、伸びた芝が鋏で刈られる時の“音”と両腕に伝わる“歯ごたえ”が心地よい。また、見苦しかった芝生の表面がスッキリしていくのを見るのは、一種の快感である。芝刈りのような単純反復運動を人間が継続することができるのは、恐らく、こういう感覚上の“ご褒美”があるからに違いない。それならば、相手がいつまでたっても現れない中で、カッコウが雌鳥目当てに延々と鳴き続ける理由は何だろうか? 私はその時、鳥は“鳴くこと自体”に楽しさや快感を覚えているのだ、と思った。歌手は歌うことに快感を覚え、演奏家は演奏すること自体が喜びである。鳥が鳴くことにも、これと似た動機があっても不思議でない。そう考えたとき、どこか寂しげに聞こえていたカッコウの鳴き声が、急に喜びの歌のように聞こえてくるのだった。」

 谷口 雅宣

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2011年5月 6日

「めんどくさい」が世界を救う (2)

 私はかつて大泉に山荘ができて間もなくの頃、自分のブログで「薪づくり」について書いた(2001年11月7日)。それは、倒れた1本のクリの木を、金属部分が30センチほどの普通のノコギリで切って薪にしたという話だが、その際、同じことをチェーンソーを使ってやるのとどう違うかを考えたのである。引用する--

「チェーンソーがあれば、わけのない作業だろう。しかし、それがない今は、持っている普通のノコギリでカットするほかはない。低くなった太陽の光を背に受けながら、午後5時ごろからノコギリを引きはじめ、小一時間かけて25本の薪をつくった。チェーンソーがあれば10分ぐらいでできるだろう。そんなことが頭をよぎった。が、思い直して、さわやかなクリの木の香りを嗅ぎつつ、全身を使っているノコギリを引く作業に熱中した。そして、その原始的な手ごたえを味わいながら、こんなことを考えた。

--自分は今、このクリという植物が何年もかけて大気中から収集した炭素の固まりを切っている。燃やして暖をとるためだ。これと同じことを大規模でやれば、森林破壊となり、温暖化が深刻化する。しかし暖をとらねば、人間が0℃の夜を無事に過ごすことは困難だ。だから、せめて森の“余剰分”と思われる倒木だけを利用させてもらう。量的には、それで十分だ。それに、手引きのノコギリを使えば、1回にちょうどそれぐらいの量しか薪は作れない。チェーンソーがあったら、どうだったろうか? 作業効率はグンと上がるから、必要以上に薪をつくってしまうか、あるいは作業を短時間ですませて家にもどれる。楽な作業をかもしれないが、そんな時、このクリの木の一生のことを考えるだろうか? 節を避けて木を切るために、木の表面をよく観察するだろうか? クリの木肌に注意したり、香りをじっくり味わうだろうか?ーーそんなことを考えてみると、不便さや苦労の中には、効率とは別の価値がしっかり詰まっているのだと思った。」 (『小閑雑感 Part 2』179~180頁)

 谷口 雅宣

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2011年5月 5日

「めんどくさい」が世界を救う

 C・W・ニコル氏が1989年に出した『TREE』という本を読み始めた。
 1~2年前に買ってあったものだが、東京で読むよりは“山”で読むべきものだと思い、大泉町の山荘に置いてあったのだ。それを4月初めのある日、山荘に来たときに見つけた。そして、
「ああ、ここにあったんだ」
 と、探し物を見つけた時のようなうれしい気持になった。というのは、ちょうどニコル氏のことをもっと知りたいと思っていたからだ。

 3月22日にオークヴィレッジ代表の稲本正氏の案内で、同氏がニコル氏と料理研究家の成澤由浩氏と共に立ち上げた“連携の集い”の記者発表会に行った時、私は初めてニコル氏と会った。ご本人と言葉を交わしていないから、正確には「会った」のではなく、「見た」と言った方がいいかもしれない。「あの東日本大震災が起きてまだ間もない時だった。3人がそれぞれの「日本の自然」への思いの丈を語ったのだが、その中でいちばんエモーショナルだったのがニコル氏で、イギリス人はクールだと勝手に思っていた私は、意外に感じたのである。氏は、大きな体に顔を紅潮させて、自分がいかに日本の自然を愛しているかを語った。その時以来、私はニコル氏がなぜ遠いイギリスのウエールズから日本に来て、あまつさえ日本国籍を取る気になったのか知りたいと思っていた。

 『TREE』という本の口絵に、ニコル氏が窓辺でタイプライターに向かっている写真がある。その機械の形を見て、私は自分が昔使っていたスミス・コロナ社製の手動式のものでは、と思った。違うかもしれないが、同じものだと思うことにした。そして、この文章をパソコンではなく、原稿用紙に手書きすることを決めた。

 これは、「わざわざ面倒な方法で文章を書くことを決めた」と言い直してもいいかもしれない。ニコル氏もパソコンではなく、電動タイプライターでもなく、手動式タイプライターを使っているのだから、自分も手書きで……というわけだ。だから“人マネ”と言われるかもしれない。確かに半分はそうである。しかし、残りの半分は違う。手書き原稿は面倒であるけれども、効率優先のパソコン書き原稿とは異なった文章を生み出す、と私は考えるからである。そして、私がこれから書こうとしていることは、まさにこの「面倒なこと」の価値についてであるからだ。

 金田一京助監修の『新明解国語辞典』第4版(1989年に、三省堂刊)によると、「めんどう」という語は、「使うことが惜しい」という意味の雅語「だうな」の前に「目」の語を付けた「めだうな」が原語で「見るも大儀な(見るだけでも大変な)」が原義であるそうだ。そこから転じて「解決するのに手数がかかる様子」のことをいうという。この「手数がかかる」とか「手間がかかる」こと自体に価値がある、と私は思うのである。

 谷口 雅宣

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2011年3月10日

自然を囲い込む

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 アメリカのSNS「フェイスブック」上に、私が英語の“ファン・ページ”を開設したとはすで に本欄に書いた。そのサイト上で最近、「Tokyo ambivalence」という写真シリーズを始め た。アンビバレンスとは、「相反(矛盾)する感情」とか「両面価値」などと訳されるが、私は東京で出会う様々な事象の中に、人間が自然に対して抱く相反する想いを感じ、それらを写真に定着したいと考えたのである。休日などに街を散歩していると、この主題に合うものが案外多いことに気づく。ほんの思いつきで始めたことだが、発表ずみの写真はすでに8枚になった。そのうち何枚かを、ここに紹介しよう。

 2009年にブラジルのサンパウロ市で行われた生長の家教修会で世 界の宗教がもつ自然観を学んだとき、仏教誕生の地である古代インドでは、「森」に代表される自然界は何か不気味で恐ろしいものとして捉えられ、これに対して「都市」には安全と平和があるとの考えが強かっ たとの発表があった。それによると、大乗仏教の『大般若経』には、未開の大自然の中に生活する菩薩は、昆虫による病気や、水不足、食料不足に苦しみ、その経験から人々に対する自他一体感を得ると説かれ、さらに、この菩薩の悟りによって出現する仏国土とは、「大都市近くの喜びの木のようであろう」と書かれてあるという。
 
Wheat  しかし、その反面、釈迦の前生物語の中には、彼が多くの動物にたいして慈悲を行じたことで、世界の人々を救う導師として生まれ変わることができたとの教えが書かれている。これは、「人間と動物の魂は互いに入れ替わる」という教えで、自然と人間との間に大きな垣根はない。また、中国へ渡った仏教は、中国人の自然観の影響を受けて、動物だけでなく、いわゆる“山川草木国土”のような非情(心をもたないもの)にも仏性が宿るという教義を獲得し、それが日本に伝わって、土着の山岳信仰や神道の自然観を吸収して、「自然そのものの中に救いがある」とする考え方に結びついたことを学んだのである。

Lacoste  つまり、最古の世界宗教である仏教の中に、自然に対するアンビバレンス(相反する感情)が内包されている。また、仏教だけでなく、ユダヤ教とキリスト教の聖典である『創世記』にも、自然界の事物に対する相互に矛盾する記述があることを、私は昨年7月の本欄(7月13日、同月16日)などで指摘してきた。だから、日本人だけでなく、人間一般の心の中には、自然界に対する忌避や恐れがあると同時に、憧憬や愛があると言えるだろう。それならば、都市空間に置かれた人間の製作物にも、このようなアンビバレンスを反映したものがあるに違いない、と私は考えたのである。
 
Inisdeout_3  そのような考えを脳裏に秘めて街を歩くと、目にする光景の中に、私の予想に合致するようなものが案外目につくのである。それは我々人間が、動物や植物などの自然界の事物を「好む」のであるが、全体を受け入れるのではなく、一部を「囲い込む」ことで自然を無害化して受け入れ、精神の安定を得る--そんなイメージを想起させる。言わば「盆栽」や「箱庭」のように自然を愛するのである。
 
 谷口 雅宣

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2011年3月 3日

人間の向上心

 2月25~26日の本欄に書いたことで、匿名希望の読者からやや長いコメントをいただいた。コメント欄で答えてもよかったが、同様の感想を抱いた読者が少なくないかもしれないと思い、ここできちんと不足部分を補うことにしよう。その時の私の論点は、「すでに知り、体験されたものだけが表現され得る」ということだった。デンマークを体験した者だけが、デンマークの良さを表現し得るのと同じように、「すでに神や法則を知り体験している者だけが、神を讃え、法則を発見し、あるいは人(自分)を超えようと努力する」という考えについて、この読者は次のようなコメント(一部抜粋)を付けてくれた--

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「神を知っているから神を表現しようとする」ということでしょうか。私は宗教を信じたいですので、この証明を肯定的にとらえたい気持があります。しかし、「本当にそうなのか?」という反論も考えてみたくなります。これは、私の信仰がまだまだ浅いためでしょう。
反論としては、小説家は自分の経験していないことを書けていることや、汚ないことを私たちが想像できることも、我々が汚ないということの証明になってしまう、などです。ただ、それでは、救われないと思い、自分を誤魔化すように、宗教に肯定的な意見を取り入れようとしてしまいます。これから、生長の家を胸を張って「信じている!」と言えるよう、信仰を深めてまいります。
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 私の説明で足りない点があったとしたら、その1つは恐らく「時間的経過」や「繰り返し」について強調しなかったことだろうか。私は人類史をとおして繰り返し、継続的に起こっていることを指摘したかったのだが、この読者は一人の個人の一時的、一回的な行為や考えについて述べているように見える。個人の心はもちろん、周囲のいろいろな状況に応じて揺れ動く。だから、ある人のことを悪く思ったり、逆に感謝したり、また汚いことを考えたり、美しいことに感動したりする。しかしそれらは、あくまでもその個人の現在意識の表層的な“揺らぎ”にすぎない。そのようなものが神や仏への信仰や、宗教の基礎となるものではないと私は考える。また、この時の私の論点のもう1つは、「表現」という言葉に表された人間の営みである。この点も、反論者は見逃しているように感じる。
 
 何かの考えや感想が心の表面(意識)にフッと浮かぶことと、それを文章や詩歌、絵画、その他の手段で表現することとは、人間の行為としては異質のものである。これは、詩や俳句、絵画や彫刻、音楽の世界を経験したことのある人なら、誰でも知っていることだ。花一輪を見て感動し、これを俳句に詠もうと思うことは簡単である。しかし、その時の自分の感動を一句の中に本当に表現することは、決して簡単でない。表現とは、主観的な感動が客観化され、句を読む人の心の中に伝わるところまでいかなければ、失敗である。我々の肉体を使った表現についても、同じことが言える。「100メートルを10秒台で走りたい」と思うことは、小学生にもできる。が、自分の体を使って実際にそれができるまでには、筋肉を作ることから始め、それこそ血の滲むのような訓練が必要である。「ピアノでストラビンスキーを弾きたい」と思うことは簡単だが、実際にそれを行うためには、努力の繰り返しと、一定の時間的経過が必要である。

 このような努力をしてもなお、やまない向上心や探求心が人間には歴史を通じて、どこの国の、どんな文化の、どんな民族にも見出されるという事実を踏まえて、私は「すでに神や法則を知り体験している者だけが、神を讃え、法則を発見し、あるいは人(自分)を超えようと努力する」と結論したのだった。
 
 谷口 雅宣

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2011年2月26日

ある日、デンマークを超えて (2)

 私は本欄で、これまで何回も「神話」について書いてきた。最近では、日本の「天照大御神」の神話について書いたが、それだけでなく、『創世記』の神話や神武天皇の建国神話、レヴィ=ストロースや中沢新一氏の神話学の一部も紹介した。神話とは、ほとんどすべての民族の内部で、太古の昔から語り継がれてきた神に関する物語である。多くの場合、それらの神々の行動は、天地の始まりや、国・民族・物事の起源の説明、あるいは人間の行動原理を表現している。そして、これらの神話は、宗教や信仰と深く関わっているため、現代人の生活とも大いに関係している。

 つまり、簡単に言うと、人間はいつの時代にも「神」の観念から逃れられない。人格的な「神」を否定する唯物論者でさえ、「法則」や「原理」のような不可視の偉大な力を認め、その発見や賞賛のためには努力を惜しまない。そのような「神」や「法則」や「原理」が支配する領域では、安定や調和、平和が実現すると考えてきた。そして、それを絵画や音楽、詩歌、建築物などを通して表現し、表現物は人々の賞賛を受けてきたのだ。そういう「人を超えた不可視の存在」がなぜ人間に理解され、表現され得るのか? この疑問に、その時の妻の言動が雄弁に答えているような気がしたのだ。
 
「すでに知り、体験されたものだけが表現され得る」--それが答えだと思った。デンマークを体験した者だけが、デンマークの良さを表現し得る。それと同じように、すでに神や法則を知り体験している者だけが、神を讃え、法則を発見し、あるいは人(自分)を超えようと努力するのである。

 そもそも我々人間が「自分を超えよう」と努力することは一見、不合理でありながら、最も真実なことではないか? 私はかつてオリンピック選手についてこの努力を取り上げ、次のように本欄に書いた。が、同じことは、芸術家や実業家、学者、技術者、農業者……にも言えるのだ--
 
「なぜ人間は、あのように“上へ、上へ”と自分を駆り立てるのか? 他人より1秒速く走れたとて、1メートル遠くへ飛べたとて、半回転よけいに体が回ったとて、その人の生存が他人より有利になるわけではない。少なくとも、そうしなければ生きられないわけではない。にもかかわらず、そういう“完全”に近づくために、人々は大きな犠牲を払い、莫大なエネルギーを費やす。それを世界中の人々が見て、興奮し、共感し、感動する。これは、人間が内部の完全性を表現しようとしている姿ではないか」。

 内部ですでに“体験”していることを、人間は努力しつつ表現する。それが本当ならば、宗教や信仰の存在そのものが、人間の本質が神性・仏性であることを証明しているのだ。
 
 --こんな想いが脳裏からこぼれ落ちてしまわないように、私はこの晩、注意深く妻のエスコートを続けていた。

 谷口 雅宣

【参考文献】
○谷口雅宣著『小閑雑感 Part 3』(世界聖典普及協会、2003年)

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2011年2月19日

都会に本当の情報はない (2)

 『秘境』のヒロインであるサヨのことを、私はこう書いた--

「年齢は15~16歳。太い眉の下につぶらな瞳が輝く一見、ごく普通の少女。だが服装は、昭和初期を描いた歴史教科書から抜け出てきたように、色あせ、すり切れた着物に身を包み、足には草履(ぞうり)をはいている。彼女はテレビを知らず、ケータイを知らず、マンガも読んだことがなく、読み書きもできない。

 その代わり、少女は自然を知っていた。太陽の位置や鳥の飛び方で時間を知り、雲の流れや虫の動きで天候を予想する。森の落ち葉の上に残された糞を見ればその動物が分かり、鳴き声で鳥を言い当て、足跡をつたってウサギの巣を見つけた。実のなる木や草の場所を正確に覚え、食べられる草、毒草の別も知っていた。池の中で湧き水が出る位置を記憶し、周囲に集まる魚をヤスでしとめる敏捷さがあった」。(pp. 39-40)
 
 こういう知識は、実際の体験と相まって、山地に住むひと昔前の日本人の多くにとっては“当たり前”のものだったはずだ。森の中では労働の負担は大きく、危険と隣り合わせで生活しなければならない。が、その代わり、人間は頭脳的知識と五感とを総動員して自然と接触した。そうしなければ、生きていけないからだ。ところが、都市と農村の分業が行われるとともに経済発展が進み、都市生活者はしだいに自然との接触を失う反面、様々な地域から、豊かな農海産物を簡単に得る機会がふえた。そして今、私たちは黒海のキャビアやアマゾンの果物をスーパーマーケットへ行けば買える環境にいる。
 
 こうして先進国の都市生活者にとって、「自然」は絵画のように抽象的な存在になった。それは、スーパーやデパートのガラスのショウケースに入った、無害、無菌で極彩色のパプリカであり、バナナであり、トマトであり、パイナップルの切り身であり、ショルダー・ベーコンであり、握り寿司である。酒類や清涼飲料は、中身ではなく、容器やパッケージの美しさや奇抜さで選ばれる。品物のそのものの価値よりは、それをどんな有名人が使っていて、どんなイメージが付着していて、それを持つことで自分がどれほどステキに見えるかなどで、売れ行きが左右される。確かに都会では、そういう情報を速く、豊富に、安価に入手することができる。が、人間にとって、そんなものが本当に必要な情報なのだろうか?
 
 昨日の稲本氏の講演の中で、ハッとするような言葉があった。それは、テレビやインターネットを通じて得る情報の、基本的欠陥についてのものだ。同氏は、「都会で得られる情報は本当ではない」というのである。これには色々の意味があるが、その1つは、都会では情報をどうやって得るかを考えると分かりやすい。それは、マスメディアとインターネットだろう。メディアにはテレビ、新聞、雑誌がある。稲本氏によると、これらが伝える情報のほとんどは視覚情報と言語情報だ。また、これに聴覚情報が加わることがあるが、あまり多くない。これらは、人間が通常得る「五感」の中の1つか、2つに過ぎない。その他の嗅覚や、触覚、運動感覚の情報は欠落している。欠落しているにもかかわらず、我々はメディアが伝える情報を“本物”だと信じる傾向がある。そして、そういう判断のもとに行動するのである。

 このことの意味を今回は詳しく示すことはできないが、単純に考えても、ニセ情報にもとづく判断や行動は間違うことが多いことは分かるだろう。例えば、目と耳だけからしか情報を得られなくなり、触覚や運動感覚が麻痺した場合、日常生活は破綻することが多い。そういう神経系の病気の人が実際にいて、そういう人たちは障害になった当初は、簡単に自分の体を傷つけてしまうのだ。例えば、簡単にドアに指をつめたり、刃物の扱いを間違ったり、熱湯を飲んだり、逆に寒冷地では凍傷になる。我々は近年、そんな不完全な認識、間違った判断にもとづいて自然とつき合ってきたのではないか……そう考えてみると、今の「都会生活」と「自然との共存」は両立が難しいことが分かるのである。
 
 谷口 雅宣

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