「生命は不死」は危険な教え? (2)
私は前回の本欄で、「神は悪を創りたまわず」という唯神実相論に立つ生長の家では、「生命は不死なり」という教えは自爆テロや現世軽視に結びつくことはない、と書いた。しかし、前回取り上げた質問者のように、「来世信仰は危険行為の原因になる」と考える人は案外多いようだ。私は最近、脳機能学者であり認知心理学者である苫米地(とまべち)英人氏の本を読んでいて、驚いたことがある。苫米地氏は、米カーネギーメロン大学で計算言語学の博士号を取り、様々な先進的な仕事に従事しているだけでなく、天台宗ハワイ別院の国際部長もしているから、宗教にも理解が深い人だと考えていた。ところが、オカルティズムや霊感商法を非難するのはいいのだが、「来世がある」という考え方自体を全面否定しているように思える記述があったのだ。そこを引用すると--
<私が昔からスピリチュアリズムを批判し、テレビに出演する占い師や霊能力者を厳しく糾弾してきたのは、彼らの言葉が荒唐無稽だというだけではなく、「害毒」を社会にもたらしていると考えるからです。
彼らは「人間には来世がある」といったデタラメを世の中に撒き散らしました。それを信じた人々の一部が「現世を捨てても来世があるから」と、捨て鉢な犯罪を犯したり、自殺してしまったりといったことが現実に起きています。彼らの本を読んで「来世に行ってきます」といって自殺した人が現に何人もいるのです。
日本ではここ10年以上連続で、毎年3万人という途方もない数の人たちがみずから命を絶っています。その原因の一つに「死んだら生まれ変わる」「来世は存在する」といったオカルト思想の蔓延があるように思います。>(『テレビは見てはいけない』、p.90)
これでは、「人間の生命は不死である」と説くすべての宗教は、捨て鉢の犯罪や自殺を増やす原因である、と言っているようなものである。そして、「人間は輪廻転生する」と説く仏教やヒンズー教の教えも「デタラメ」ということにならないだろうか? それとも、最近の天台宗では、「人間の生は一回限り」と教えているのだろうか? また、毎週、生長の家講習会で「人間の生命は不死」と話している私は、社会に害毒を撒き散らしている“オカルト思想家”になってしまうのだろうか? 苫米地氏の見解を、ぜひ聞いてみたい。
私の想像では、苫米地氏はここで、オカルティズムを批判したいあまりに、筆の勢いが余って英語でいう「qualification」を忘れてしまったのではないか。「qualification」とは日本語では「制限」とか「限定」とか「条件づけ」などと訳され、物事を注意深く考える人には欠かせない一種の“修飾語”である。しかし、「文脈から話者の真意を知れ」的な考え方が背後にある日本語では、これが省略されることがある。というよりは、「省略されることが多い」と言った方がいいかもしれない。例えば、「宗教は儲かる」と言えば、世の中には欲深い宗教家ばかりがいて、宗教活動にかかる収益が非課税であることを利用して暴利を貪っているかのような印象を受ける。しかし、実際には、檀家のために身銭をきって奉仕活動をしているため、ちっとも儲からない僧侶も(少ないかもしれないが)存在するだろうから、この言い方は正確とは言えず、正しい文章にするためには「制限」や「限定」が必要である。すなわち、「日本の宗教では、一般に収益率が企業より高い」ぐらいの表現の方が正確であり、妥当である。この場合の「日本の」とか「一般に」とか「企業より」などという言葉が「qualification」に当たる。
私は、苫米地氏はアメリカで博士号を取った人だから、英語で話したり書いたりするときにはきっと「qualification」を忘れないのだろうが、日本語のときは、(多くの日本人がそうしているように)そんなものは省略してしまうのだと、ここでは解釈したいのである。
谷口 雅宣
【参考文献】
○苫米地英人著『テレビは見てはいけない--脱・奴隷の生き方』(PHP新書、2009年)
















