本欄が抱える問題について
9月2日に本欄を書いたまま2週間ほど更新していないので、私の健康状態を心配してくださっている人がいるかもしれない。が、私は健康なのでご安心願いたい。11日に函館の生長の家講習会から帰って以来、少し疲れが出たことは告白するが、もう回復している。私の本欄への“筆無精”は、だから健康状態によるよりも、別の理由による。実は最近、本欄のような形式の文章に制約と限界を感じるようになったのである。だから、この形式を今後ずっと続けていくべきか、あるいは別の形式のものに変えるべきかを迷っている。そこで今日は、本欄を愛顧してくださってきた読者諸賢のご意見を聞くためにキーボードを叩いている。
函館の講習会の日は、アメリカの同時多発テロ事件の10周年に当たることは、読者もご存知だろう。本欄は、この9・11に先立つ2001年1月13日からスタートした。ということは、本欄も“満10歳”に達したということだ。世の中には「十年一日」という言葉があって、10年も同じことをしていては評価されないのである。もちろん私が本欄に書く内容は、10年前とは相当異なってきているし、書き方や書くジャンルについても“連載モノ”や“祈りの言葉”“短編小説”など多様なものを盛り込んできた。しかし、それにしてもこの「ブログ」という日記的な表現形式は日々の現象を追っていくことが主になるから、どうしても限界があり、例えば沈思黙考した文章というのは書けない。そんな時間がないからである。すると、読者から不満の声が寄せられる。私にとっても不満が残る文章も多いから、そういう読者の気持もよくわかる。だから、反論はしない。
はっきり言わせていただけば、私は一種の“下書き”のつもりで本欄を書くことが多い。あとから月刊誌に掲載したり、単行本に収録するさいに、内容をもっと吟味しなければ……と考えながらも、ブログだから発表することになるのである。実際、そういうブログの内容を編集、編纂して単行本の『日時計主義とは何か?』(2007年)『日々の祈り』(同年)『太陽はいつも輝いている』(2008年)『衝撃から理解へ』(2008年)『目覚むる心地』(2009年)『“森の中”へ行く』(2010年)などは出版された。しかし、本欄の読者は、そんな事情などに関心がない場合がほとんどだから、自分の求めるレベルの文章がないと、不満を漏らすのである。中には、「生長の家総裁には一分のスキも許されない」と言わんばかりの厳しいご意見を述べる人もいる。現象に完全性を求めるのである。
私はもちろん反論することもできるが、この程度のものにいちいち反論することは本欄の程度を下げるし、私の時間を浪費するし、多くの読者の気分を害することにもなりかねない。だから、黙って次の日のブログを書くのである。初めから悪意をもってするコメントもあるが、そういう低レベルのコメントはブログの機能で自動的にシャットアウトできるから、問題ない。いちばん困るのは、こちらの事情をよく理解しないまま、まったくの善意から忠告をくださる読者である。そういう人には、本当の事情を知ってほしいのだが、それを本欄に書いたり、メールで直接本人に伝えるところまでは、私にはできないのである。それほどの時間的余裕はない。私は本欄を継続するだけで、相当のエネルギーを使ってきた。そういう事情もご本人はまったく知らないだろう。私はそれに文句を言わない。一般の信徒は、生長の家総裁の仕事がどういうレベルで、どの程度多忙であるかを知る必要は、まったくない。だから、これまでの本欄のような表現形式を改める以外に方法はない、と私は考えるのである。
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谷口 雅宣

