2009年8月16日

神は偉大でないか?

 ニューヨークで買った本の中に、クリストファー・ヒッチェンズ(Christopher Hitchens)という人の書いた『God is not Great:How Religion Poisons Everything』がある。まだ全部は読んでいないが、なかなか面白い。初版が2007年だから、すでに邦訳書も出ているだろう。この本の題を訳せば「神は偉大ではない」となるから、イスラームの信仰者がよく使う「神は偉大なり」という言葉に(多分意識して)反対する形になっている。副題はもっと露骨であり、「宗教はどうやってすべてに毒を入れるか」という意味だ。つまり、宗教組織のもたらす害悪を数え上げてこっぴどく批判する内容の本だ。著者は自らを「無神論者」と呼んでいるが、職業はジャーナリストらしい。私がこんな本をなぜ買ったかというと、宗教組織の内外には批判に値することが実際、たびたび起っており、そういう批判をきちんと受け止めて改善することは必要だと感じているからである。
 
 が、ジャーナリストが書いただけあって、世界の宗教の悪い面には非常に詳しいが、善い面はほとんど書いてない。また、私が今日までに読んだ範囲には、神学や哲学に触れる深い考察はまだ出てきていない。だから著者は、題から想像されるような「神」の概念や観念をしっかり検討したうえで、「神は偉大でない」との結論にいたったというよりは、組織をもつ宗教の弊害が目に余るので、批判本を書いたと言えるかもしれない。生長の家も組織運動をする宗教だから、私はヒッチェンズ氏が批判する側面が我々の周辺にないかどうか気にしながら、この本を読み始めた。すると意外にも、著者の指摘の中には、私が普段から感じていることとさほど違わないものが多いのだった。これは恐らく、著者が宗教の中では“原理主義的”とか“迷信的”といわれる考え方を批判しているためだろう。生長の家はもちろん原理主義ではない。が、そういう考え方をする人が信徒の中にいても、不思議はない。
 
 著者は、人生の初期の段階で宗教に疑問を抱いたきっかけになったエピソードを紹介していいる。それは彼が9歳ぐらいのとき、学校の聖書の時間に、女教師が「植物の葉が緑色をしている」ことについてこんな説明をしたという:
 
「ほら皆さん、神さまは実に偉大なお力をもち、慈愛に満ちていらっしゃるか分かりますね。神さまは、すべての木や草を緑色にされています。この緑色こそ、私たち人間の目がいちばんの安らぎを感じる色です。もしそうでなく、植物がみんな紫色、あるいはオレンジ色だった場合を想像してみてごらんなさい。こんなヒドイことはありません」

 私は、9歳の子供に向かって教師が聖書の時間にこういう説明をすることは、さほどヒドイとは思わないが、著者は論理的思考に優れた子だったのだろう、この教師の言葉は間違っていると直感したそうだ。彼はこの時、「人間の目は自然界に適応しているのであり、その逆ではない」と思ったという。

 彼はその後、13歳になるころまでに、これに類したいろいろの疑問を“神”に対して感じるようになったという。例えば、聖書にはイエス・キリストが数々の“奇蹟”を行ったことが記されていて、キリスト教の“三位一体”の教義によるとイエスは「神」と同義であるので、イエスの奇蹟は神の行為と見なされる。そういう理解のもとで福音書を読むと、イエスは、通りかかった盲人の目を癒したとあるが、神が盲人を癒すことが素晴らしいなら、初めから盲人など創るべきではないと感じた。また、いろいろと真面目な話をした校長が、最後に、「この(キリスト教の)信仰の意味について、君たちはまだ分からないことが多いだろうが、そのうちに、君たちの愛する人々が亡くなる時期が来れば、きっと分かるようになる」と言ったそうだ。それを聞いた彼の心には、怒りがこみ上げてきたという。なぜなら、これは宗教が言っていることは本当じゃないかもしれないが、気休めには役立つと言っているようなものだ、と感じたからだ。

 ヒッチェンズ氏が物事を考える際の基準は、次のように明確に表現されている--「我々は科学と理性だけを信頼しているのではないが、科学に矛盾し理性に反するものは何ごとも信じない」。これは、科学と理性によてすべてが説明できるという意味ではなく、すべてを今説明できなくてもいい、という意味だ。なぜなら、「我々が尊重するのは自由な探究、開かれた心、そして理解そのもののための知の探究である」からだという。私は、このような同氏の態度には、生長の家創始前に『神を審判(さば)く』を著した谷口雅春先生に共通したものがあると感じ、(すべてには賛同しないが)むしろ好感を覚えたのである。
 
 谷口 雅宣

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2009年3月15日

東京の皆さん、ありがとう!

 今日は素晴らしい晴天の下、東京・有楽町駅前にある東京国際フォーラムにおいて、東京第一教区の生長の家講習会が行われた。東京23区を中心とした首都圏の幹部・信徒の皆さんの大いなるご努力によって、静かながら楽しい雰囲気の中での講習会になったことを心から感謝申し上げます。東京生まれ、東京育ちの私なので、講話の中では「私にとって“ふるさと”の東京だが、年末年始やお盆に“帰省”することができない。伊勢に帰省できる妻が羨ましい……」などと、つい余計な言葉を吐いてしまった。会場では、質問もかなり多く出て受講者の関心の深さを窺えたが、時間の都合で半分も答えることができなかったのは、残念だった。重要なテーマの質問については、また本欄などを通して機会を見てお答えしたいと思う。
 
Mtimg090315  会場の控室に飾られていた花々を手土産にいただいた。春先に多いフリージアなど黄色い花を主体とした“盛り合わせ”で、帰宅後、今日の記録として自由版『日時計日記』にスケッチした。

冬から早春にかけて、日本の山野に自生する花には黄色や白が多いのだそうだ。これは、植物の花の色を研究している国立博物館の岩科司氏の話として3月1日の『日本経済新聞』に書いてあった。岩科氏によると、黄色系の色は多くの昆虫に好かれる“大衆性”をもっているため、虫たちの活動がさほど活発でない早春の時期には、植物はどんな“客”にもえり好みされない色の花を咲かせて、子孫繁栄の機会を待つのだそうだ。だから、フクジュソウ、マンサク、トサミズキの花は黄色い。スイセンやフリージア、タンポポも黄色や白だ。ちなみに、マンサクの名前の由来は「真っ先に咲く」からとか。
 
 谷口 雅宣

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2008年12月20日

「破れ窓理論」は正しいか?

 生長の家で「親和の法則」と呼んでいるものがある。「同類親和の法則」ともいい、簡単に言えば「互いに似た心の人が集まって物事を成就する」ということだ。例えば、日曜日に生長の家の講習会に来る人々は、パチンコやゴルフよりも神仏に関心があるという点で“互いに似た心”をもっている。そういう人々が集まることで、講習会は成就すると言える。また、競馬や宝くじが行われるのも、そういう「一発で儲けよう」という“似た心”をもった人々が馬券売場や宝くじ売場に集まるからである。さらには、戦争が起こるのも、「相手をやっつけよう」という心をもった人々(軍隊)が国境線近くに集まるからである、と言える。(ただし、戦争の場合は、もっと複雑で数多くの要因が関係している。)

 日本の諺にも、「泣きっ面に蜂」とか「笑う門には福来たる」というのがあるし、英語の諺にも、Like attracts the like. というのがある。これらは皆、「親和の法則」を表現していると言えるから、人類は昔からこの現象に気づいていたのである。では、科学はこの法則を認めているかどうかといえば、この方面の研究は比較的新しい。
 
 この法則は、科学的には「破れ窓理論」(The Broken Window Theory)と呼ばれているものに相当すると考えられる。この理論は、1982年に政治学者のジェームズ・ウィルソン氏(James Q. Wilson)と犯罪学者のジョージ・ケリング氏(George L. Kelling)がアメリカの雑誌『アトランティック』(The Atlantic)に発表したもので、大ざっぱに要約すると「人々を取り巻く環境は、その人々が反社会的行動に走るかどうかに影響を与える」とするものである。何かずいぶん難しい表現だが、要するに「悪い環境では、人は悪い行動に走りやすい」ということ。逆に言えば、「環境をよくすれば、犯罪は起こりにくくなる」ということだろう。
 
 この「破れ窓理論」については、谷口清超先生が『コトバが人生をつくる』(2004年、日本教文社刊)の中で言及されているが、詳しい解説はない。同書の28ページには、茨城県の大学生が2003年7月の『産経新聞』への投書の中でこの理論を紹介していたものを、“孫引き”の形で引用されているだけだ。そこでの説明は、こうだ--「犯罪増加に悩む米国で1982年に採用されたという。平成14年版警察白書によると、落書き、酔っ払いなどの軽犯罪でも徹底的に駆逐することで、犯罪全体を減少させようという取り組みである」。投書氏はさらに言う--「破れた窓が放置されていれば、管理が行き届いていないことが明らかとなり、いたずらや犯罪の格好の餌食となり、瞬く間にビル全体に及ぶ」。「瞬く間」というのはいかにも大袈裟だが、まあ言いたいことは分かる。同じ2つの空家でも、一方の窓ガラスだけが割れていれば、そちらの空家の方が早く壊されるということだろう。

 しかし、「本当にそうなるのか?」というと、この理論を具体的に検証する研究はつい最近まで行われていなかったらしい。その最近の研究とは、オランダのグロニンゲン大学(University of Groningen)で行われたもので、アメリカの科学誌『Science』のオンライン版に掲載された。また、この研究をまとめて紹介した文章が、同誌の今年11月21日号(vol 322 21 November 2008)に載っている。それによると、「破れ窓理論」の正しさは証明されたという。
 
 同記事によると、オランダの研究では、「一つの規範や規則が守られていないところでは、別の規範や規則も破られやすい」ことが分かったという。もっと具体的に言えば、違法な落書きや駐車違反がある場所では、ゴミの不法投棄や窃盗も起こりやすいということだ。
 
 この研究では、落書きが描かれた路地に停められている何台もの自転車のハンドルに、ダミーの広告チラシを巻きつけて、持ち主がそのチラシをどう処理するかを調べたという。その路地の壁には「落書き禁止」の表示があり、ゴミ箱は置かれていなかった。研究者は人々から見えないところにいて、広告チラシが路上に捨てられるか、それとも持ち帰られるかを調べたという。これに対比するために、研究者は別の日に、「落書き」以外はこれと全く同じ状況を作って人々の行動を調べたという。その結果、両者の違いは歴然としていた。落書きのない環境では、自転車に乗る77人中の3分の1がチラシを路上に捨てたのに対し、落書きを加えたところでは、3分の2以上がチラシを捨てたという。
 
 また、こういう実験もした--路上にある公共の郵便箱を1つ選び、その投函口から5ユーロ紙幣を一部はみ出させておく。そして、そこへ郵便を入れに来る人や、付近を通る人の行動を分からないように観察するのである。この実験を、郵便箱の周囲が散らかっている場合と、きれいに掃除されている場合とでやり、両者を比べてみたという。すると、きれいな環境では13%の人が紙幣を取ったのに対し、汚れた環境では23%が紙幣を持っていったそうだ。
 
 生長の家の男性組織である相愛会では今、“クリーンウォーカー”を増やす運動をしている。クリーンウォーカーとは、町を歩くときに落ちているゴミなどを拾って町を美化する人々のことだ。谷口清超先生はご生前、自宅から仕事場まで歩いて通われる途中で、落ちている空き缶などを掃除されたから、クリーンウォーカーのさきがけと言える。この一見“小さな善行”が、より大きな善を導き悪を防ぐことを、科学は証明してくれたのである。がんばれクリーンウォーカー諸君!

 谷口 雅宣 

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2008年7月25日

生物の“高等”と“下等”

 草食動物は肉食動物より“下等”だろうか? この質問への答えは、その人の人生観、世界観をよく表す。「弱肉強食が世界であり、人生である」と考える人の場合、肉食動物は草食動物を捕食するから、捕食するものはされるものより“高等”だと考える。これは、単純に「力が強いものは弱いものに勝る」という思考の延長である。「食物連鎖」のピラミッドを想起して、ピラミッドの上層にある方が下層にあるよりも高等だと考える人も、恐らく同類だろう。これらの考えは、確かに「わかりやすい」かもしれないが、「事実そのまま」かどうかは疑わしい。自然界をよく観察してみると、このような単純思考では説明のできないことがたくさんあるのである。
 
 例えば、草食動物は肉食動物に食べられて絶滅してしまわないように、数多くの子孫を産み出すことが多い。また、昆虫などは「擬態」と呼ばれるカムフラージュを自らにほどこし、天敵の目から逃れる工夫をしている。1頭では天敵にかなわない草食獣は、群を作り、複数の個体で天敵に向かうなど、集団防衛術を心得ている。これには「社会性」がなければならない。また、速い足、永い持続力、高い跳躍力、飛翔力などで天敵から逃れる能力を身につけたものもいる。
 
 草食動物が自己防衛のためにこのように進化していけば、それを追う肉食獣たちも、ノンベンダラリとしていては食事にありつけなくなる。ということで、両者は互いに切磋琢磨し合いながら生きてきた、と考えられる。ということは、現在、地球上に生息する生物は、草食も肉食も雑食も、「どちらが優れているか」という種類の単純な質問には答えられないほど、多くの長所と短所をもっていると言えるのではないか。
 
 私がこんなことを考えたのは、次のような記事を今日付の『朝日新聞』で読んだからだ--
 
「米ワシントン大などが、ヒトやネズミ、パンダなど、60種類の哺乳類の糞(ふん)から、17種類の微生物の腸内での生息状況を調べたところ、肉食動物は6種類、雑食は12種類、草食は14種類と増えていた」。

 これは、アメリカの科学誌『サイエンス』に載った研究の結論部分をまとめたものだが、この結論を研究者がどう解釈したかも書いてある。それによると、哺乳類の祖先はもともと肉食だった--つまり、植物に含まれる多糖類を消化することができなかった、と考えるのである。ところが、やがて哺乳動物の腸内で生息する微生物が進化して、多糖類を分解できるようになったことで、「宿主の哺乳類もこの微生物を排除する免疫反応を起こさず、共生できるように進化し、雑食や草食になったらしい」というのである。
 
 これを言い換えると、腸内に生息する微生物の種類が多ければ多いほど、進化した生物である、ということだろう。となると、肉食よりは雑食が、雑食よりは草食が、進化のバロメーターになるとも言える。この場合、1つの生物種にとって、共存できる他の生物種の数が多ければ多いほど、その生物種は優れていることになる。こう考えていくと、我々人類が、他のすべての生物種に比べて優れているかどうかは、簡単に答えることができなくなってくる。なぜなら、我々は産業革命以降、相当数の生物種を絶滅に追い込んできたからだ。
 
 ところで、「食うもの」「食われるもの」という単純な二分法で考えたときの生物の優劣の判断と、そこへ「腸内微生物」という第3の“変数”が加わったときの生物の優劣の判断とでは、結論が大いに違ってきた。人種や文化、社会や国について“優劣”を簡単に言う人がいるが、私はそれこそまさに「疑わしい」と思うのである。人間という生物は、そんな単純思考で評価できるとは決して思わないからだ。
 
 谷口 雅宣

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2008年4月 9日

太陽と地球温暖化

 地球温暖化の主な原因は「人間の活動である」というのが、現在の世界の大多数の気象学者らの一致した見解である。このことは、昨年度のノーベル平和賞を元アメリカ副大統領のアル・ゴア氏と、国連の気候変動に関する政府間パネル(IPCC)--両者ともこの“人間原因説”を主唱している--が受賞したことが有力に示している。が、少数の科学者の間では“太陽原因説”が唱えられていることも事実だ。この少数派科学者が自説の有力な証拠として指摘するのは、「実際に観測されている地球表面の温度の上昇は、大気中のCO2濃度の上昇に先立っている」ということである。もし、人間の活動が主因で地球温暖化が起こるとしたら、CO2の濃度上昇の“後に”地球表面の温度上昇が起こらなくてはならない。観測データがその逆を示しているならば、地球温暖化は人間の活動以外のもの(例えば、太陽の黒点の変化に表される自然的な変化)が主因である--そういう論法である。
 
 私は本欄で一貫して“人間原因説”を紹介し、またそれを信じてきたが、どこかで“太陽原因説”を読んで疑念を抱いた読者から、たまに感想を求められることがあった。しかし、私は気象学者ではないから、科学的なデータや理論にもとづいた見解は出せないし、だからといって、数千人におよぶ世界の科学者たちの一致した見解が間違っているとも言えない。だから、これまで本欄では“太陽原因説”には触れなかった。そう判断した理由は、私が定期的に読んでいる科学誌やジャーナリズムのほとんどすべてが“太陽原因説”を事実上無視してきたからでもある。科学上の真理は多数決で決まるわけではないが、科学者の大多数が誤った判断を下すほど、この問題が真剣に検討されて来なかったとは思えないからである。ところが、最近送られてきたイギリスの科学誌『New Scientist』(3月22日号)がこの“少数意見”を論評していた。内容を紹介しよう。
 
 同誌によると、「実際に観測されている地球表面の温度の上昇は、大気中のCO2濃度の上昇に先立っている」という事実は正しい。しかし、それは人間の活動が気温上昇を引き起こさないということではない。イギリスのエクスター大学の気象学者、ピーター・コックス博士(Peter Cox)によると、気温の上昇/下降とCO2濃度の上昇/下降は“相乗的”に起こるという。
 
 何万年もに及ぶ実際の観測データは、気温の上昇と大気中のCO2濃度が併行して上下していることを示している。“人間原因説”に懐疑的な学者は、このデータを調べて、気温の上昇がCO2上昇よりも先に来ることを指摘している。しかし、コックス博士によると、「気温の上昇によってCO2濃度が上昇する」という因果関係は、「CO2濃度の上昇が気温上昇を引き起こす」という因果関係を否定しないという。むしろこの2つは相乗的に作用するのだから、現在、多くの気象学者が採用しているコンピュータ・モデルではその一方しか考慮されていないことを考えると、今後、地球温暖化が進行する速度は、大方の予想よりも「50%」ほど速い可能性があるのだという。

「気温の上昇によってCO2濃度が上昇する」というメカニズムは、次の通りである。①太陽の黒点の変化によって寒冷期が始まる、②これが50年ほど続くと大気中のCO2濃度が減少する、③それによって更に寒冷化が進む。③の理由は、冷えた水はCO2をより多く吸収し、冷えた大気は陸上の炭素の循環を遅らせ、したがって陸上の炭素吸収量を増加させるからという。温暖化は、この逆のサイクルである。つまり、温かい水はCO2をより少なく吸収し、暖かい大気は陸上の炭素の循環を速め、したがって陸上の炭素吸収量を減少させ、大気中のCO2の濃度を上昇させる。これの詳しい説明は記事中にない。そこで、私の解釈(あくまでも素人の)を掲げよう--

 現在、温暖化によって極地や高地の氷が大量に融けているが、これらの水は最終的には海へ入る。ということは、すでに一部で始まっているように、海面上昇が起こって地球上の陸地面積が減少する。一方、氷の融解は海上では太陽エネルギーをより多く海中に取り入れて植物性プランクトンを殖やし、陸上では高地の新たな領域で植物を育てる。これらは新たな食物連鎖を引き起こすから、地球全体で炭素の循環量が増える。そして、陸上での生物の死骸(炭素)の一部は河川を通って海へ流されるから、海への炭素の移動量が増加する。ところが、暖かい水にはCO2は溶けにくい。ということは、海中での炭素の循環が増大し、さらに陸上から流れ込む炭素量も増大した海は、吸収し切れない炭素量がふえるから、大気中にCO2をより多く排出することになる。これで、「気温の上昇によってCO2濃度が上昇する」というもう一方の環が完成する。

 繰り返しになるが、上の筋書きは私の個人的推測であり、どんな科学者の意見を聞いたものでもない。“頭の体操”のつもりで読んでほしい。しかし、専門家のコックス博士が言うように、“人間原因説”と“太陽原因説”が相乗的に地球温暖化を進行させるのであれば、後者の信奉者が地球温暖化を楽観的に考える理由はなくなってしまう。その点だけは、抑えておいていいだろう。
 
 谷口 雅宣

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2008年1月25日

“火星人”の幻影

 地球にとっては“隣国”ならぬ“隣星”である火星には、なぜか「人がいる」あるいは「生物がいる」という説が昔から途絶えることがない。21世紀の現代には、さすがにタコのような形をした「火星人」を信じる人はいないだろうが、火星の表面では今も探査車が走り回っていて、様々な映像を送ってきているのは、そういう人類の“夢”がなせる仕業でもあるだろう。ところが、その火星上の探査車が送ってきた写真の1枚に「火星人の姿」を捉えたと思われるものがあり、最近、アメリカの動画共有サイト「ユーチューブ」などに掲載されて話題になっている。
 
 私は2005年6月11日の本欄などで火星の“人面岩”について書いたが、そのポイントを簡単に言えば、「人間は自分の内にあるものを外に見る」ということだ。これは「唯心所現」の原理を言い直したものだが、特に「顔」のような形については、それに敏感に反応する神経細胞が人間の脳の中にあることが分かっているから、科学的にも立証されたと言えよう。が、今回話題になっている映像は「顔」だけでなく「全身」である。しかも、デンマークのコペンハーゲン港にある人魚像のように、脚を半ば組んだ女性のような姿をしているのだから、見る人を驚かせる。

 私が見た映像は、イギリスのテレビ局ITNが1月23日にユーチューブに登録した番組で、2日後の25日の12時15分の時点で16万7千回視聴され、3057件のコメントが書き込まれていた。すでに“人面顔”事件を経験している人々が多いから、この“人魚像”を信じているようなコメントは少なく、「ねつ造だろう」とか「影の方向がおかしい」とか「大きすぎる」とか「別の角度からの写真がない」とか「本物だったらNASAがもう発表しているはずだ」などと疑念を示すものがほとんどである。しかし、中には「米政府は宇宙人に関する情報を隠し続けている」とか「砂人間が棲んでいるとしたらスゴイ」などの毛色が変わったコメントもある。

 私が思うに、火星探査車が撮った写真の中には、この“人魚”のような映像以外にも、地球上の様々なものを連想させる形が数多くあるのではないか。NASA(米航空宇宙局)の科学者は、そんなものをいちいち発表しているヒマはないのだ。だいたい、NASAがすでに発表済みの古い写真の中にも、「ピラミッド」とか「町の広場」などの名前のついた形が堂々と存在している。今回、彼らが何も言わないのは、“人魚”の映像がそこにあることを科学的に説明する必要はもうない、と考えてのことだろう。これは航空宇宙学や惑星物理学の問題ではなく、簡単な心理学の問題だからだ。しかし、それにしても、人間は「見える」ということに如何に影響されるかを実感する写真である。そして「写真」という言葉が、今回ほど皮肉に聞こえることはない。
 

 谷口 雅宣

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2007年9月24日

トンデモ科学にご用心

 8月末から9月初めにかけて、私は4回にわたり「奇蹟について」と題する文章を本欄に掲載した。ここでは、宗教的な意味での奇蹟を「自然界の法則を超えて、倫理的道徳的秩序を現わすために起る現象」と定義した。そして、この定義を採用すれば、生長の家を含む多くの信仰団体の中で「奇蹟的治癒」とか「奇蹟的救済」などと呼ばれるものの中には、奇蹟でないものも多く見出されるという意味のことを書いた。これはもちろん宗教を否定したり、信仰を嘲笑するためではない。むしろそれは、生長の家が「法則」を重んじるという点を強調するためである。生長の家では(そして、他の多くの信仰でも)、法則は神の創造の1つとして大いに尊重されているのである。

 このことは、聖経『甘露の法雨』冒頭の「神」の項に、「創造の神」の属性として以下のように書かれていることからも明らかだ--
 
 創造の神は
 五感を超越している、
 六感も超越している、
 聖
 至上
 無限
 宇宙を貫く心
 宇宙を貫く生命
 宇宙を貫く法則
 真理
 光明
 知恵
 絶対の愛。
 
 この点は、強調しても強調しすぎることはない。神はもちろん、法則以外にも「聖、至上、無限……知恵、絶対の愛」などの属性をもち給うが、人間が法則を無視することを望んではおられず、神はむしろ法則それ自身であるから、法則に従うことを望まれる。そのことの意味を、谷口雅春先生は『新版 真理』第9巻生活篇の中で、次のように平易に説かれている:
 
「茄子(なす)を播けば茄子が発芽し、瓜を播けば瓜が発芽するのは“法則”によるのであります。“法則”と云うものは“一定の条件に於いては一定の事物が出現する”と云う律でありまして、神が吾々にそれを利用し得るように一定の相(すがた)をもってあらわれられたのが“法則”であります。若し神が変幻自在で、一定の条件に於いて一定の結果を来さないのであるならば、私たちは迚(とて)も生活することは出来ないのです。今日は飯を食べれば、腹がふくれるが、明日は却って腹が減る、明後日はどうなるかわからないのでは御飯一杯食べることも出来ないで生活が成り立たないのであります。また在る人に対しては同じ条件で法則は左と作用し、或る人に対しては右と作用して一定の結果が得られないならば科学は成り立たないのです。だから神のあらわれとしての法則は愛憎なく平等に作用します。」(p.35)

 上の引用文の中に「科学」の2文字があることに読者は気づいてほしい。生長の家は科学を否定しないのである。科学が成り立つことは、神の御心の一部であると考えている。そのことの意味を、私はさらに詳しく「法則としての神の御徳を讃える祈り」の中で解説しているから、読者は参考にしてほしい。

 ところが、信仰に入って間もない人の中には、宗教とは科学や法則を無視した形で何かが起ることだと勘違いし、そうでなければ宗教に値しないと考える人がたまにいる。そして「医者から見離されれば、信仰しかない」などと思ったりする。こういう人に限って、科学や法則を無視した形の奇術的現象(例えば、某似非宗教家が行った空中浮遊など)を宗教の本質だと見誤り、迷信に陥っていく危険性があるのである。
 
 ここで1つ質問しよう。人間が心で想うことと、水の物質的成分に直接的な相関関係があるだろうか? 例えば、蒸留水を前にして人間が「これは甘い」と強く念じれば、その水中に糖分が生じるなどということがあるだろうか? もしあるとすれば、それは科学ではどういう名前の法則として認められているだろうか?
 
 谷口 雅宣

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2007年9月12日

宗教の必要性

 イギリスの科学誌『New Scientist』が9月1日号で「宗教の必要性」を問いかける特集記事を掲載した。「人間の道徳性が生来のものであるならば、宗教を信じることの意味がどこにあるのだろう?」という書き方である。こういう特集の裏側には、宗教を理由としたテロや戦争が現に行われていることへの批判があることは言うまでもない。私がここに「生来の」と訳したところは、原語では「hard-wired in the brain」である、直訳すると「脳に直に配線されている」とでもなるのだろうか。つまり、最近の脳科学の研究によると、善と悪を識別するなどの道徳性や倫理性の判断は、人間の脳の一部が直接行っているらしいのだ。ということは、どんな人間でも、脳に異常がないかぎり、宗教など信じなくても良心があり、善悪の判断ができるということだから、テロや戦争の元になるような信仰をもつ必要はないというわけである。もっと端的に言えば、「無神論者も道徳的・良心的でありえる」ということだ。

 この記事は、宗教を「争いの元」として単純に否定しているのではない。宗教と道徳性や、信仰と幸福度が正比例し、宗教と喫煙・薬物中毒が反比例するなどの科学的研究にもきちんと触れたうえで、宗教の教えと道徳意識が必ずしも一致しないこと、宗教が憎悪や戦争を正当化する傾向があること、宗教の信者が多い国において、殺人や未成年者の死、性感染症の患者が多いことなどを示す科学的研究に言及し、現代における宗教の意味を問いかけているのである。
 
 私がこの記事を読んで興味をもったのは、米テネシー州のヴァンダービルト大学の社会学者、ガーリー・ジェンセン教授(Gary Jensen)の研究である。この研究では、殺人という社会現象に焦点を当て、それが起る頻度(割合)と、その地域で支配的な信仰の内容に関係があるかどうかを調べた。その結果、善悪二元論的な信仰が強い地域では、殺人事件が多いことが分ったという。例えば、アメリカは最も殺人事件が多い国だが、そこでは96%の人が神を信じると答える一方で、76%が悪魔の存在も信じると答えるそうだ。これと同様の傾向を示す国はフィリピン、ドミニカ共和国、南アフリカだった。しかし、神への信仰はあっても悪魔をあまり信じない国--例えば、悪魔を信じる人が18%しかいないスウェーデン--では、殺人事件と信仰との相関関係は低いことがわかったという。この研究などは、「善一元」の信仰の重要性を示しているように思う。

 また、宗教を信じる“動機”と信仰者の行動に関係があるとする研究も興味深い。こちらはカンザス大学の社会心理学者、ダニエル・バットソン氏(Daniel Batson)によるもので、同氏は信仰の動機を“内的宗教性”(intrinsic religiosity)と“外的宗教性”(extrinsic religiosity)に二分した。前者は、神を信仰することや教会へ行くことそれ自体が信仰の目的であるが、後者は、それらを社会的活動の一種として捉え、しばしば個人の利益が信仰の目的になっている。このような二者間で対比すると、内的宗教性は他人への思いやりや偏見の少なさと関係しているが、外的宗教性は逆に、偏見の多さと関係していることが分かったという。つまり、後者の傾向のある人は、他人を助けるのは、その人にとって“正しい”(自己目的にかなう)人である場合だけということになる。これなどは、いわゆる“ご利益信仰”の弊害を示しているのかもしれない。

 現在の科学は「神を信じるか否か」などの単純な違いで人を分けるのではなく、「どんな神を信じるか」「信じる目的は何か」などのより深く、意味のある視点から、信仰の意味や宗教の存在意義を問うているようだ。私はこれを、歓迎すべきことと思う。
 
谷口 雅宣

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2007年9月 3日

奇蹟について (4)

 前回の本欄では、10個の数字からなる数列が出る確率の問題を通して、私たちが毎日経験するいわゆる“日常”や“当たり前”の生活が、少なくとも数学的な意味においては全く“日常”でも“当たり前”でもなく、「毎日毎日が奇蹟的にユニークな体験であることが100%確実」であることを示した。この「100%確実」という判断は、今の人間の肉体的一生が80年前後であるという事実を踏まえたうえでの表現であることをお断りしておく。
 
 ところで、8月28日の本欄では「宗教的な意味での奇蹟」とは何かを考え、谷口雅春先生の『真理』第10巻とキリスト教神学を参考にしながら、生長の家では、単に稀な現象のことを奇蹟とは認めず、それが「自然法則を超える」場合に奇蹟として認めていることを指摘した。そして、宗教的意味での奇蹟を「自然界の法則を超えて、倫理的道徳的秩序を現わすために起る現象」と定義した。すると、0から9までの10枚のコインが「7286519034」の順序で並ぶ場合と「0123456789」の順序で並ぶ場合は、どちらが宗教的な意味での奇蹟であって、どちらがそうでないのだろうか? 読者にはもう、答えは明白だろう。いずれの場合も自然法則を超えていない(つまり、出る確率がゼロではない)から、宗教的には奇蹟でないのである。
 
 だから、この厳密な意味での奇蹟の定義を採用すれば、「毎日毎日が奇蹟的にユニークな体験」だという上記の表現は正しくない。しかし、その一方で、「奇蹟」という言葉の意味には「常識では考えられない不思議なできごと」(『新潮国語辞典』)とか「常識では理解できないような出来事」(『大辞林』)が含まれていることを考えれば、「常識」のレベルが変わることによって、同じ現象が「奇蹟」として扱われたり、扱われなかったりすることがあり得るのである。そして私は、本欄の仮想実験で10枚のコインが、わずか1回のトライアルで「7286519034」と並んだり、あるいは「0123456789」と出る理由が「常識」では理解できないと思うので、この実験のすべての結果を「奇蹟的」と呼ぶことは許されると考える。さらに言えば、これと同じ理由で、私は毎日の体験を(緩い意味で)「奇蹟的」と呼ぶことも許されると思う。
 
 何かすごく面倒な言い方になってしまったが、ここで再び「偶然」とは何かを考えよう。辞書的な意味(『新潮国語辞典』)では、偶然とは「予期しなかったさま」であり「たまたま」である。これをもっと厳密に哲学的に表現すると、偶然とは「因果律によってあらかじめ知ることができない事件が起ること」(『新潮国語辞典』)であり、「事象の因果系列に対して、それに含みえない事象が生起すること」(『大辞林』)である。前者と後者の意味は微妙に異なる。『新潮国語辞典』の意味では、「原因がわからない事象が起った」ときに使う言葉が「偶然」である。ところが『大辞林』では、「原因がなく事象が起った」ときに「偶然」というらしい。私には前者の意味は分かるが、後者の意味は採用できない。なぜなら、何ごとにも原因があるというのが因果の法則だからだ。
 
 そこで前者の意味を採用すると、「原因がわからない」という言葉の代わりに使うのが「偶然」ということになる。何のことはない、これではコイン並べの第1回で「7286519034」が出るのも「0123456789」が出るのも「偶然だ」とすることは結局、「原因がわからない」と言うのと同義なのだ。つまり、「君、それは偶然だよ!」とまことしやかに述べることは「原因がわからない」と言っているに過ぎないのである。谷口清超先生は前回触れた論文の中で、そのことをきちんと指摘されている:
 
「実験的に2という数字を選ぶときは、それは第1回目に出てくることもあり、6回目に出てくることもあり、14回目に出てくることもある。では何が原因で、ある時は1回目に出、ある時は6回目に出、ある時は14回目に出るのであるか。それは決して“偶然に”出るのではない。偶然に第1回目に出るのではなく、それが第1回目に出るには出るだけの理由があって出るのである。ただその原因を吾々はしらない、それで偶然に出ると名づけるだけなのである。“偶然”をかつぎ出すのは、人間の無智の告白以外の何ものでもないのである」(谷口清超新書文集2『神は生きている』、p.157)
 
 そして、先生がこの引用文の次に書かれている言葉に注目しよう--「吾々はその原因に或る偉大なる叡智者を確信するのである。その叡智者を名づけて吾々は“神”と呼ぶのである。“凡ての原因”を名づけて“神”と呼ぶ」。したがって、「神の子」である人間が、コイン並べの結果に影響を与えることが「できない」とは言えない、と先生はいう。
 
「そこで実際の操作において吾々がもし“0123456789という数列を引き出そう”と心に思って、実験をする場合と、何も思わずに、ただ無意識的に数列を引き出す場合と、果たしてそれは同一の結果を得るであろうか。これは非常に重大な問題である。(中略)唯物論者が偶然に帰している原因の中にも、実はこの人間の心の作用があるのではないか。若し心が物質や環境に作用を及ぼすものであると考えるならば、明かにこの心的原因は見逃すことの出来ない問題である」(同書、pp.158-159)

 なかなか注意深い表現であるが、ここにはパラサイコロジー(超心理学)が成立する可能性が示されていると考えていいだろう。
 
 谷口 雅宣

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2007年9月 1日

奇蹟について (3)

 前回の本欄で「コイン並べ」のプログラムを掲示したが、一時うまく動かなかった点はご容赦いただきたい。この「コイン並べ」と同じ考え方で“奇蹟”を論じることで、ある興味ある結論にたどりつくことができるということを、生長の家総裁・谷口清超先生が説かれている。実は、清超先生が青年時代に書かれた「偶然と宇宙意志」という論文の中に、この仮想実験と似たものが出てくる。ただし、私の「コイン並べ」では5つ数字を使った数列を問題にしたのに対し、清超先生は、その論文で「0」から「9」までの10個の数字の組み合わせが出る確率について論じておられる。また、私の仮想実験では、数字の繰り返しを許さない順列であるのに対し、先生の論文では数字の繰り返しが許される順列(例えば、「1111111111」も許される)である点が違う。が、実生活に当てはめてみると、これらの違いはほとんど解消するだろう。先生は、「7286519034」が出る確率と「0123456789」が出る確率とは全く同じで、それは「ものすごく少ない」のだという。数字で表せば、それは10の-10乗(100億回に1回)で、ほとんど0に近いから「これを0とみなした方がよい」とも書かれている。つまり、同じ数列が出る確率はほとんど「0」というわけだ。
 
 さて、次にこう考えてみよう。私の仮想実験では5つの数字を使ったが、これを清超先生のように「10個」まで増やしてみる。そして、本欄の仮想実験の方法を使って引き出した最初の10個の数列が「7286519034」だったとする。また、2番目に引き出した数列は「5472908631」だったとする。そして、3番目は「2910547863」、4番目は「7863294105」……と、異なる数列を3,628,800個まで書くことができる。これら約360万回の実験のたびに目撃しているのは皆、生起する確率が「ほとんど0」の結果である。生起する確率が「ほとんど0」の現象を「奇蹟」と呼ぶことが許されれば、この360万回の実験のすべてで、実験者は「あぁ、奇蹟が起った!」と感動していいのである。ところが、普通の人間はそんなことでは感動せず、「当たり前だ」と退屈に思う。そして「0123456789」や、その逆の配列が出たときにだけ感動する。これは一体どうしたことだろう?
 
 さらに、次のように考えてみる。私たちの仮想実験では、10個の数字の組み合わせで360万通りの異なる(ユニークな)結果を得た。それでは、私たちが毎日経験している「実生活」は、一体どれくらいの“変数”で構成されているだろうか? 別の訊き方をすれば、私たちの実生活の1日を構成する要素は、どれくらいの数になるだろうか? 試しに、朝起きたときからの“要素”を列挙してみると……目覚ましの音、ラジオのニュース、配偶者の声、トイレの音、窓外の景色、鏡に映る自分の顔、子どもの顔、挨拶の声、俎板を包丁が叩く音、掃除機の音、テレビのアナウンサーの顔、その服装、トーストの焼け具合……たちまち10個以上挙げてしまったが、まだ1日のごく始まりにすぎない。つまり、私たちの1日の構成要素は「ほとんど無数」である。10個の数字の組み合わせで360万個のユニークな数列ができるのだから、「ほとんど無数」の構成要素をもつ私たちの実生活の1日が、全く同一の組み合わせで繰り返される確率は、どれほどだろうか? それは100%確実に「0」と言えるだろう。
 
 にもかかわらず、どうして私たちは「当たり前の日常」とか「単調に繰り返される日々」などと言うのだろう? 毎日毎日が奇蹟的にユニークな体験であることが100%確実なのに、「退屈」で「つまらない」などと言うのだろうか? その理由は、私たちが「7286519034」を“当たり前”と感じる一方、「0123456789」を“奇蹟的”と感じるのと同じ--つまり、完全な錯覚なのである。これらのことをじっくり考えてみると、「当たり前の奇蹟」という言葉の意味がより深く理解されるだろう。そして、それらの「1日」が24時間で構成され、「1時間」が3600秒で構成されていることを思い出せば、「今を生きる」ことの大切さがさらに実感されると思うのである。
 
 谷口 雅宣

【参考文献】
○谷口清超著『神は生きている--青春の苦悩と歓喜』(日本教文社、1976年)

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2007年8月30日

奇蹟について (2)

 8月22日と25日の本欄に提出した「コイン並べ」の仮想実験を書きながら、私は「頭の中だけでの実験では現実味がないなぁ~」と感じていた。読者の誰かに実際に実験してもらい、「120分の1」の確率というのが統計として実証できたらいいのだが、忙しい読者諸賢にそんな負担をかけるわけにもいかない。かと言って、私自身がそれをやっても「本当にやったの?」と疑問視されるかもしれない。いや第一に、そんな時間をとってはいられないだろう。そこで考えついたのが、このブログ上でパソコン用のプログラムを走らせて、興味のある読者に「コイン並べ」をやってもらい、「120分の1」の感触を味わってもらえたらどうか、ということだ。しかし、それにはプログラマーの助けが必要かもしれないし、これまた他人の負担を増やすことになる……。
 
 そんなことをブツブツ考えながら、私は時間を見つけてシコシコとプログラムを書いてみた。そして、上記の目的に合いそうなものをどうにかこうにか作ってみたのである。興味のある人は、下に掲げたプログラムで遊んでほしい。

 このプログラムを実行するには「RandCoins.pkg」というファイルを読者のPC上にダウンロードしなければならない。その後、下の四角い枠内のどこかをクリックすれば、プログラムが実行できる。「PUSH to draw」のボタンを押すと、灰色のウインドーが現われて5文字の数列が表示される。ウインドーの左上に「Trial」と書かれているが、これが「何回目」の実験であるかを示している。5文字の数列が出たら、その数字のどれかをクリックすると、次の実験をすることができる。やめる場合は「END」を押せばいい。ごく単純な実験である。
 
 谷口 雅宣

【注意】上記のプログラムは、都合により削除しました。   (08.05.18 記)

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2007年8月25日

「偶然はない」ということ (5)

 本欄で前回、本題を扱った文章の中で読者にクイズのようなものを出したので、その“正解”を書かねばなるまい。ただし、私は統計学の専門家ではないので、私の答えが統計学的に正しいかどうかは保証できない。
 
 まず、6種類の“糞跡”の話だが、それぞれの“糞跡”はみなユニークな形をしている。ここで言う「ユニーク」の意味は、原語である英語の「unique」の本来の意味で「ユニークである」ということだ。つまり、この世に1つしか存在しない形と言えるだろう。別の言い方をすれば、これらどの“糞跡”の形も、まったく同一のものを同じ条件下で“糞跡”によって再現することは不可能である。そういう意味では、それぞれの“糞跡”がこの世で再び生じる確率は限りなく「0」に近い。その一方で、最初にご覧に入れた人型の“糞跡”が起る確率はどうだろうか? 他の6つの“糞跡”が起る確率とどう違うだろう? 私は、まったく同じ--つまり、限りなく0に近い--と考える。もし我々が、「人型」になる確率の方が「非人型」になる確率よりも小さいと考えたならば(そして、その判断は間違っていないが)、それは「非人型」である6つの糞跡を我々が頭の中で1つのグループの中に括った(言い換えれば、類似物と見なした)からである。どうして我々は、「人型」を特別扱いするのだろう? その答えは、“糞跡”という現象(外界)そのものの中にあるのではなく、我々の心の中(内界)にあるのである。
 
 次に、5種類の紙コインを使った仮想実験の話に移ろう。これについても、上の糞跡の話と同じことが言える。5種類のコインの並ぶ順番は、120通り(5×4×3×2×1=120)が考えられる。そして、それぞれの順番が「ユニーク」である(つまり、他の順番とは違うそれ独自の順番である)。糞跡と比べて違う点は、糞跡の場合、まったく同一の糞跡を再現する確率が限りなく0に近いのに対し、コイン並べの場合は、実験を繰り返しているうちに同じ並び方が実際に再現される点である。その確率は、統計的に計算できる。そしてその確率は、どの並び方であっても同一のはずだ。つまり、「①②③④⑤」の順序となる確率も、「⑤④③②①」になる確率も、「②④①⑤③」「③②⑤④①」「⑤④③①②」「②⑤④③①」……などになる確率も皆同じ(数字で表せば0.83%=120分の1)である。ということは、最初の2つの順序になったときにだけ「何か特別な現象に出会った」と感じることは、統計学的には正しくない。しかし、心理学的には“正しい”と言えるかもしれない。
 
 読者は、“糞跡”とコイン並べの2つの問題に共通する要素を理解されただろうか? 我々の心は、ランダムな現象、無秩序な現象の中にも、無意識のうちに何らかの規則性や秩序や意味を見出そうとしているのである。例えば、我々の視覚(とその延長である脳)は、自然界に存在するものの中から「人の形」に似たものを敏感に感知し、それに特別な意味を付与する働きを無意識のうちに行っている。そのことが、「人型」の糞跡をそれ以外の糞跡と本質的に違うものとして認知させるのだろう。また、紙コインの示す数列は、数字自体には特別の意味がないにもかかわらず、少数の特定の数列に我々の視覚と脳とが特別な意味を付与するので、それらが現われる機会を、それ以外のものが現われる機会と区別して、“奇蹟”とか“神秘”とか“不思議”な現象に感じさせるのである。ということは、“奇蹟”や“神秘”や“不思議”は外界で起るのではなく、内界(心の中)で起るのである。

 こうなってくると、読者の1人がおっしゃっていたように、「考える」人間が介在して初めて“奇蹟”や“神秘”が存在するというのが、どうも正解のようである。「唯心所現」の教えから言えば、ごく当たり前の結論になってしまった。が、問題が1つある。それは、別の読者がおっしゃったように、「ある人が、ある現象を“奇蹟”と思うなら、すべての現象は奇蹟と言える」か、という問題である。私は、この意見は文学的表現としては充分成り立つし、それなりの真理を含んでいると考える。しかし、これを全面的に認めると、宗教の世界における“奇蹟”も「単なる思い込み」のレベルに落とされてしまうと思う。“奇蹟”を“思い込み”から救い上げる視点はないだろうか?
 
 谷口 雅宣

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2007年8月22日

「偶然はない」ということ (4)

 本シリーズで前回、私が発した質問に対して答えてくださった読者の多くは、鳥の糞が作った“人型”は、普通の意味での「奇蹟」ではないとのお考えのようである。その反面、「すべての現象はみな奇蹟である」という正反対の意味にも取れる言葉も出ているところを見ると、私の質問の意図が正確に伝わっていないかもしれない。「奇蹟」という言葉の意味は、「実際に起こるとは考えられないほど不思議な出来事」(三省堂『新明解国語辞典』)、「常識では考えられない神秘的な出来事。既知の自然法則を超越した不思議な現象で、宗教的真理の徴と見なされるもの」(『広辞苑』)である。この2つの意味から考えると、奇蹟であるか否かを決める要素の1つに「起る確率がきわめて低い」ことが挙げられると、私は思う。だから、読者の中から「どんな現象でも遭遇した人が奇蹟と思えば奇蹟だ」などという、言葉本来の意味を考慮しないご意見が出るなど、予想しなかった。(それこそ奇蹟である!)

 私はやはり、日本語の正確な意味を尊重したいので、「どんな現象も奇蹟」という詩的な定義はここでは採用せず、辞書の意味に則して議論を進めていくことにする。これは、「どんな現象も奇蹟」という表現に全く真理が含まれないからではなく、現時点での議論の方向に制約をもたせたいからである。この詩的表現には、別の側面から見れば部分的に真理が含まれていることを、私は否定しない。
 
 さて、上記の辞書の定義によると、鳥の糞の潰れた跡が“人型”になることが「実際に起こるとは考えられないほど不思議」であるかどうか、あるいはそれが「常識では考えられない神秘的な出来事」であるかどうか、がここでは問題になるだろう。「神秘的」の意味が、「既知の自然法則を超越している」という意味であるならば、糞が“人型”になるのは神秘的ではない。地球上で糞のような粘体が高所から落ちれば、ニュートン力学の法則に基づいてアスファルトの道路上で四方八方に飛び散るに違いない。そういう意味では、糞が飛び散ることは神秘的ではなく、奇蹟ではない。しかし、それが“人型”になるのは、どうだろうか? それは「実際に起こるとは考えられないほど不思議」なことだろうか?
 
 かつて本欄でも何回か(例えば、2005年6月11日)扱ったことのある“火星の人面岩”の話を思い出してほしい。アメリカの火星探査船が撮影した火星表面の写真の中に、人の顔の形をした大きな岩が写っていたことから、「いったい誰が何の目的で、そんな岩を造ったか?」で大きな話題になったのだ。火星にも大気があるから嵐も吹き、地殻運動もあるから、いろいろな形の岩や山が形成されるのは何も不思議でないし、自然科学の法則を超えてはいない。しかし、よりによって“人の顔”の形をした岩があったとしたら、そのような岩が自然現象の中で“偶然に”形成される確率はきわめて低い--と多くの人が考えたのだ。そして、そんな“奇蹟的”な現象を生ずる背後には、既知の自然法則を超越したような何か--例えば、未知の知性をもった存在、あるいは火星人!--が力を及ぼしているに違いない……。が、結局、この“人面岩”は、撮影の際の光の具合で“偶然に”人の顔のように写真に写っただけで、その後に行われた、より精密な写真撮影では、何の変哲もない、普通に隆起した岩であることが証明されたのである。
 
 読者は、“人型”の糞の跡と“人面岩”との共通性に気づかれただろうか? 両者とも、①視覚にもとづく判断であり、②人間の肉体の形態に関係しており、かつ③問題の現象Whitemen が起こる確率が低いとされる3点が共通しており、ここから“奇蹟”とか“神秘”が想起されるようだ。①と②については、すでに本欄に書いたので省略する。③についてだけ述べると、この「偶然に起る確率はきわめて低い」という判断そのものが、正しくないと私は考える。もちろん私は一時、実際にそう考えて、あの“人型の糞跡”を写真に撮ったのである。が、よくよく考えてみると、前回(19日)の“糞跡”が生じる確率と、ここ(=写真)に掲げる6つの異なる“糞跡”(すべて同じ時に撮ったもの)ができる確率とは、統計的に有意な差はないと思うのである。

 この最後の点が分かりにくいと思うので、別の角度から質問をしてみたい。ボール紙を10円玉大に切り抜いたものを、5つ用意する。これらの紙製コインの表裏に、それぞれ「1」「2」「3」「4」「5」と書き込んで、「1円玉」「2円玉」「3円玉」「4円玉」「5円玉」を作る。これらの紙コインを菓子箱の中に入れ、蓋をしてよく振り、中の紙コインを充分に混ぜる。次に目をつぶるか、目隠しをして、菓子箱の中の紙コインを1枚ずつ抜き出し、自分の前に左から右へ並べる。並べ終わるまで見てはいけない。5つをすべて横に並べたあとで、コインの数字を見る。こうして並んだコインが「①②③④⑤」の順序となる確率と、「⑤④③②①」になる確率は、どちらが高いだろうか? 次に、その確率と「②④①③⑤」「③②④⑤①」「⑤③①④②」「②④⑤③①」などになる確率は、どちらがどう違うだろうか?

 我々は、上の実験で「③②④⑤①」が出ても別に驚かないが、「①②③④⑤」が出ると、何か神秘的な体験をしたと感じないだろうか? もしそうなら、それはなぜだろうか?
 
 谷口 雅宣

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2007年8月19日

「偶然はない」ということ (3)

 私は昨年夏の本欄(7月22日24日)で、「偶然はない」ということについて2回にわたって書いたことがある。その時の主要な論点の1つは、人間の意識の介入なしに「偶然」という認識は成立しないということだった。別の言葉で言えば、偶然の事実があったとしても、人間が「これは偶然だ」と認めない限り、その人にとって「偶然はない」のである。その逆に、ある人が「これは何という偶然だ!」と認識した時点では、その人が意識したことで「これ」が「偶然」と感じられたのだから、それは言葉の本来の意味での「偶然」ではなく、むしろ「必然」である。この2つの意味から、「偶然はない」と言うことができるのである。

 もっと分かりやすく言おう。私が(あるいは貴方が)ある日、町を歩いている時に、無意識にイヌの糞を踏んでしまったとする。この事実だけでは「偶然」は成立しない。これに加えて、その事実を私が(あるいは貴方が)意識することによって、初めて「私はイヌのウンチを偶然踏んだ」と認識されるのである。もし私(あるいは貴方)が、自分が糞を踏んだことをずっと知らないでいたら、「偶然踏んだ」という認識もずっと生まれないことになる。ということは、「偶然」は認識されず、認識されないものは、心でつくる現象世界にあっては「無い」に等しいのである。

 やはり、難しい表現になってしまっただろうか? これが分りにくい人は、私(あるいは貴方)が踏んだものを「イヌの糞」ではなく、もっと小さくて、問題のないものに置き換えて考えてみるといい。例えば、「イヌの毛」とか「千切れた枯葉の端」とか「煙草の灰の一片」とか「大腸菌」などだ。こういうものは、人間の目で簡単に「見える」ものではないから普通、我々の認識の中に入らない。しかし、現実には確かに存在している。そして、我々が町を歩いているときには、きっとそういうものを数限りなく踏みつけているに違いないのである。では、我々はどうしてそれを踏んだときに「ああ、今イヌの毛を偶然踏んでしまった」と思わないのだろうか? 「ああ、また大腸菌の上に偶然足を置いてしまった」と、ショックを受けないのだろうか? その答えは結局、我々にとって関心がないものは認識の中に入らないから、存在しないも同然なのだ。

 これに比べてイヌの糞は、我々にとって大いに関心がある。ならぜなら、そんなものを踏んだら足が臭くて困るからだ。自分が困るだけでなく、商談やデートの相手にも迷惑をかけるし、帰宅すれば家人にも嫌がられる。こうして、我々が日常生活で経験する「偶然」は客観的事実などではなく、“心の産物”であることがわかるだろう。ここまでは、前回までの復習である。次に、応用問題を掲げよう。
 
Whiteman  つい2~3日前のことだが、私が職場から帰宅する直前、自宅の門の前に来たところで、アスファルトの道路の上に、白いペンキを振り撒いたような模様がいくつもあるのに気がついた。よく見ると、その模様はペンキではなく、どうも鳥の糞が落ちてできたもののようだ。その模様の1つ(=写真)を見て、私は「へぇーっ」と感動してしまった。なぜって、それは見事に「人」の形をしていたからだ。鳥が糞を落とすことは感動に値しないかもしれない。しかし、その糞が道路に落ちて潰れた模様が「人」の形になる確率は、いったいどれほどのものか、と私は考えた。「これは何という偶然だ!」--私は奇蹟的な出来事を目撃したと感じたのだ。もしかしたら、これは神様が鳥を使って私に何かを語りかけているのではないか? そう思って、私は家からデジカメを持ってきて、その模様を写真に収めたのだった。
 
 ここで、読者に質問しよう。私はこの場合、奇蹟に出会ったのだろうか、それとも自分の心で勝手に“奇蹟”を作ったのだろうか?
 
 谷口 雅宣

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2007年8月 6日

生長の家の国際教修会が終る (2)

 国際教修会第1日目のメイン・スピーカーであったカリード・アブ・エルファドル博士は、前日にお会いした時、持病から来る疲れのために講演など不可能ではないかと疑ったほどだったが、きちんと約束通りに舞台に登壇され、前日とは別人のようなしっかりとした声で、堂々と2回の講演をこなして控え室に戻られた。イスラーム社会の現状--とりわけ中東諸国のイスラームがどうなっており、何が問題なのか、またイスラームの本質とは何であるかを、はっきりとした英語で話された。「目を醒まされた」という感じがした。アブ・エルファドル博士は毎年8月前半は、母国のエジプトに帰省し、そこでゆっくりと精神を鎮め、祈りと読書に没頭する習慣だったところ、今回は、生長の家のこの行事のために休養期間を短縮されて、カイロからニューヨーク入りし、その翌日に講演をこなして下さったのである。病人でなくても楽でない旅程なのに、何とも申しわけないという気がした。
 
 同博士は講演の中で、今回は「10年来の慣習を破って」休暇を短縮したと仰っていた。誤解のないように言っておくと、今回の講演は、生長の家の側からは無理に依頼したのでは決してない。また、同博士は、健康状態がよくないので、いろいろな所にしばしば講演に招かれる人でもない。さらに同博士は、生長の家を以前から知っていたのでもない。にもかかわらず、有名でもない“他の信仰団体”のために入門的な話さえも厭わずに、不都合や苦痛を押して来てくださったのか、正直言って私にはわからない。もちろん、事前には生長の家について一般的な説明資料は渡してあった。が、それだけである。大学構内へ何度も足を運んで講演依頼をしてくれたアメリカの教化総長の熱意に動かされた部分は、もちろんある。しかし、それだけではない“何か”を、私は今回の博士の側の熱意の中に感じている。
 
 アブ・エルファドル博士は脳腫瘍を患っておられて、歩行も自由でなく、普段の移動は車椅子である。しかし頭脳はあくまでも明晰で、大学の講義や執筆活動は続けていられる。サウジアラビアを中心としたイスラーム原理主義の批判の先鋒にあるため、テロリストからの脅迫もあるらしく、ボディーガードとして大きな猟犬を飼い、大学の研究室は公表されていないらしい。そんな立場にある人が、東洋の東の端で始まった(イスラームと比べれば)小さな宗教運動のために無理を押したり、危険を冒す必要はまったくないのである。博士に会った際、私としては、感謝してもし切れない気持を表明したつもりだが、あまり上手でない英語でどこまで伝わったか定かではない。会場を去られるときには、英語版の『甘露の法雨』『天使の言葉』を初めとした生長の家の英文書籍をお渡しして、幹部一同で見送りさせていただいた。

 ところで、私がどうやってアブ・エルファドル博士を知ったかは、実は昨年1月24日の本欄に書いてあるのである。その「ニューヨークで本を買う」という文章には、ブラジルでの国際教修会の帰途、ニューヨークに立ち寄り、そこの大手書店で買った本のリストが掲げてある。その中に、「Khaled Abou El Fadl, The Great Theft: Wrestling Islam From the Extremists (New York: Harper-Collins, 2005)」という1冊がある。私がこの書店に入らなかったならば、また、大書店の何千冊もある本の中から、私がこの1冊を見つけなかったならば、今回の教修会の内容はまったく違ったものになっていただろう。生長の家では「偶然はない」と説いているが、私は、今回ほどこの言葉の重さを感じたことはない。谷口雅春先生が生長の家を始められる直前、ふと立ち寄った書店の棚にホルムズ博士の著書を見つけたという話を思い出す。
 
 また、イスラームの聖典『コーラン』には、「徴(しるし)」(sign)という言葉を使って、この現象世界は、神から人へ送られる「徴」が満ち満ちているのに、人々はそれに気づかないと書かれている。「本との出逢い」については過去、本欄にも書いたことがあるが、本だけでなく、我々はあらゆるものに毎日出遭っているのに、その「徴」をしっかりと受け止めず、「当たり前」として棄て去っていることが多いのだ。だから今日は、私は上記の本屋とは別の古書店へ入って、注意深く“徴の本”を探したのだった。
 
谷口 雅宣
 

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2007年5月21日

宗教と科学 (3)

5.デジタルとアナログの協力
 上に例示した宗教の教えには、連続性を強調したものが3つある。一見別々の存在として映る“個人”や“個生命”は愛によって結ばれていることと、すべての存在には尊い仏性が宿るとすることは、いずれも外見の如何にかかわらず、宇宙の存在のすべては連続し、互いに深く関連し合っているという意味である。これが宗教本来の考え方だと私は思う。宗教は、存在を切り分けて孤立させるのではなく、一見バラバラに存在していると見える“個”を、“全体”に統一する働きである。私はこれを「アナログ」(連続的)の働きと呼ぶ。
 
 これに対して科学は、全体を理解するために個を取り出し、それを深く研究する。科学は、高等生物を細胞の集合体としてとらえ、細胞の研究から分子生物学を生み出した。そして、細胞の核に折り畳まれたDNAの情報を取り出し、同じ細分化の手法によって多数の遺伝子を特定した。また、分子を細分化して原子にいたり、さらに素粒子論を生み出してきたのも、科学本来の細分化の営みだと思う。「自然」や「宇宙」という統一体を研究するのに、それを部分や側面に分解して、それぞれを研究することで、科学は物理学、生物学、化学、生態学、天文学、気象学、地理学……などの様々な研究分野を派生させた。私はこれを「デジタル」(離散的)な働きと見る。

 デジタルな科学の研究では、多様で変化する物事や事象の中からいくつものサンプルを離散的に抽出して、それらを測定し、それらの値の間に法則性を見出して、その法則によって研究対象を説明しようとする。しかし、人間を組織や臓器に分解して、それぞれの組織や臓器の機能や相互の関連性を理解したとしても、それは「人間」を理解したのではなく「肉体」を理解したのである。そこからは、何か切実なものが抜け落ちてしまう。人間の理解は、無人称で無名の抽象的で、孤立した人間の理解では足りない。そのデジタルな人間に具体的でアナログ(連続)的要素を吹き込まねばならない。

 すなわち、具体的にある時代の、ある文化圏の、ある民族の、ある国の、ある階級の、ある家族の、何番目の子として生まれた特定の人間が、同じように具体的な別の人間とどのような関係をもって生きたか……。あるいは、その具体的人間が、どんな社会環境、自然環境で育ち、具体的にどんな業績を残したか……というような他との「つながり」(連続)の要素を加味して理解したとき、それはよりリアルな人間理解に達すると言わねばならない。私が言いたいのは、科学によるデジタルな理解に、文学や哲学や宗教のようなアナログの理解が加わったときに、人間はより満足できる知恵に到達するということである。

 私はこのように、宗教と科学は本来対立すべきものではなく、相互補完の関係にあると考える。科学技術の発展がめざましい現代では、科学のもつデジタルで、物事を細分化する働きが社会全体に広がり、家族が分解し、個人は孤立しつつあるように思える。それは科学が悪いというよりは、本来アナログ的役割をもっていた文学・哲学・宗教が、デジタルになりつつあるからではないか。つまり、宗教に限って言えば、物事のつながりや関連性を説く宗教が、個々バラバラの教義や儀式・祭式を立ててそれに固執し、それぞれの“殻”から出ていかないからではないか。互いの共通点よりも、相違点を自己の存在意義と考えているからではないだろうか。

谷口 雅宣

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2007年5月20日

宗教と科学 (2)

3.素朴な人間観の超克
 ここで言う「人間」とは、生物学上の概念というよりは、「これが自分という人間である」と思っている各人の素朴な人間観のようなものを指す。もちろん、各人のもつ人間観は厳密に言えばみな微妙に違っている。しかし、その中でも共通な部分があるはずだ。それは、各人が家庭や学校、社会生活を通して形成されてきた「人間とはこうである」という常識的な認識のことである。

 この認識によれば、「人間」はしばしば「自然」と対立している。「人間」は欲望をもって他人や自然を支配したり、利用しようとする。そんな周囲から奪ったり、周囲を利用することで生きる存在が人間であり、その本質はどんな人間でも変わらないとする考え方を、“素朴な人間観”と仮に呼ぼう。これを信奉する人間は、前に書いた人間至上主義に陥りやすいのである。だから、「自然の背後に人間以上の価値を認める」ためには、この“素朴な人間観”を超える「人間とは何か」の認識を、多くの人々が共有する必要があると思う。

 それは宗教、倫理、道徳教育のことだ、と人は言うかもしれない。伝統的には、確かにそうだった。しかし、21世紀初頭の今日では、科学の発見により、宗教、倫理、道徳の言葉を使わなくても、“素朴な人間観”を超えるものを提示することができると思う。もちろん私は、宗教、倫理、道徳を否定するものではない。しかし、古い徳目や、伝統的な宗教の戒律をそのままの形で、家庭を含めた教育の場に復活することは、国際化やグローバル化が進んだ現代社会では難しいことがある。そんな時、宗教、倫理、道徳の“色”に染まっていない「科学的知見」を導入することは、効果的ではないだろうか。

4.科学的知見と宗教
 私は「科学的知見が宗教や倫理・道徳の代用になる」と言うつもりはない。そうではなく、科学的知見を宗教者が自らの信仰や信念を通して見たとき、そこに何らかの“教化”や“教え”を読み取ることが可能だと思うのである。簡単な例で言えば、「諸行無常」の教えは地球物理学や医学・生理学などの言葉で語ることができるだろう。すなわち、一見堅固に見える山脈や列島や大陸さえも、生滅流転する存在であること。また、「これが私だ」と思っている人間の体は、細胞や分子レベルでは刻一刻変化していることなどは、この教えの証左である。
 
「あなたの隣人を愛しなさい」という教えは、遺伝学や分子生物学の知識を使うことで、現代人により説得力をもって伝えることができるだろう。つまり、遺伝子を比べれば、人類のどんな異民族の違いも無視できるほどのものであり、他の動物との違いでさえ百分の五程度しかない。だから、前掲の聖句に加えて、「私の兄弟の最も小さい者にしたことは、すなわち私にしたのである」という聖句も、生態学や生物多様性の視点を導入すれば、現代の重要問題への解決策を示していると見ることができる。

「悉有仏性」の教えも、マスメディアの報道からは信じにくくても、大脳生理学の知見から納得させられるかもしれない。それによると、「良心」や「理性」の座は大脳新皮質の前頭葉のどこかにある。その場所は、高等な哺乳動物に共通してあるが、人間において最も発達し、複雑な機能分化が見られる。だから人間には皆、良心や理性があり、それにしたがった生きることが人間らしい生き方である、と。

 宗教と科学が一致しない点は、もちろんある。しかし、一致点と不一致点がある場合には、一致点を重視するのが宗教本来の考え方だと、私は思う。(つづく)

谷口 雅宣

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2007年5月19日

宗教と科学

 宗教専門紙の『中外日報』からの依頼で、4回連続で短文を書いた。それぞれ5月3日、8日、15日、22日の同紙に掲載されるが、さらに1文を加筆して以下に順次掲げることにする:

1.地球環境と宗教
 地球環境問題がようやく国際政治の前面に上ってきた。しかし、この21世紀最大の問題をどう理解するかについて、人類はまだ合意に達していないようだ。私は5年前に生長の家から上梓した『今こそ自然から学ぼう』に「人間至上主義を超えて」という副題をつけて、この現代の思潮が地球環境問題の根底にあることを指摘したが、どれだけ説得力があったか分からない。
 
 人間至上主義とは、人間にとって何よりも大切なのは人間だから、人類の増殖と発展を至上価値として追求すべきとする考え方だ。「至上価値」という意味は、どんな犠牲を払っても擁護し、あるいは実現すべき価値ということだ。このような考え方にもとづいて、私たちは自然を人間の目的のために改変し、改造し、破壊してきた。今日の地球温暖化は、その結果であると言わねばならない。

 もし、この人間至上主義が問題だということを人類が合意できれば、地球温暖化や自然破壊の問題の解決は比較的容易だろう。そのためには人間至上主義的考え方を棄て、それに代る--例えば自然至上主義的な--思想や信条を採用し、拡大していけばいいからだ。そして、そういう思想・信条にもとづいた社会制度や技術、ライフスタイルを構築していくことで、ゆっくりではあるが、人類の進む方向に変化が生じていくだろう。ただし、その変化が、地球環境の悪化の速度より速くなければ、多大な犠牲が出ることは言うまでもない。

「人間至上主義を推進したのはキリスト教だ」という人が今でも時々いるようだが、責任転嫁の議論だと思う。なぜなら、“神道の国”とか“仏教国”とも言われる我が国によって、過去どれほど環境が破壊され、現在も破壊されつつあるかを、この議論は無視しているからだ。地球環境問題は人類共通の課題だから、すべての宗教が自分の問題として取り組むべきだと私は思う。

2.新しい宗教的自然観
 地球環境問題の解決を技術やテクノロジーのレベルで論じる人が、まだ多い。曰く、自動車はすべてハイブリッドや燃料電池車に変え、エネルギーは原子力の利用を中心にし、それでも排出される温暖化ガスは地下に高圧密閉し……等々。

 こういう議論は、しかし片手落ちである。これでは、それらの技術がどういう動機で開発されるかが問題にされていない。技術は人間にとって一種の“道具”であるから、“優れた道具”さえ手に入れば、人間はそれを“優れた目的”に使うと考えているかのようだ。しかし、1945年の広島や長崎で、また2001年のニューヨークやワシントンで、その期待は見事に裏切られている。しかも、さらに皮肉なことに、この2例とも、それぞれの“優れた技術”の使い手たちは、その技術を“優れた目的”に使ったと信じていたのである。

 私がここで指摘したいのは“人間の心”が技術を生み出し、技術を使うということである。そして、“人間の心”は常に正しいとは言えないのである。前回触れた人間至上主義的考え方の最大の欠陥は、この事実を真正面から受け止めないことである。人間が科学技術によって力を得て、増殖し、自然と対峙する際には、人間は正しい判断のもとにその力を行使するから、常によい結果が出て、人間はさらに進歩する……そんな楽観論を、私はその背後に感じるのである。

 私は今「人間が……自然と対峙する」と書いた。それは、そうすべきだという意味ではない。人間至上主義者はそういう態度をとりがちだからだ。私は逆に、「自然と対峙しない人間」の生き方を提案したい。それは、人間至上主義ではなく、人間自然主義、あるいは自然中心主義とも呼べるかもしれない。自然の背後に人間以上の価値を認め、その価値のために人間が欲望を律する生き方である。新しい宗教的自然観が構築されなければならないのである。(つづく)

谷口 雅宣

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2007年4月12日

デジタルからアナログへ

 前回の本欄では、科学が基礎としている唯物的生命観と宗教が前提としてきた生命観を比較してみたが、これらをひと言で表現すれば、前者を“デジタルな生命観”、後者を“アナログな生命観”ということができよう。科学では、ある時点を境にしてそれより前の生命は人間ではないが、それより後の生命は人間と見なすというように、「イェスかノーか」、「1か0か」という考え方をすることがある。その方が、ものごとが分かりやすく、また整理しやすいからだ。宗教はこれに対し、そういう人工的な境界線を引くことはせずに、受精から誕生までの過程は、初めから生命であるものが徐々に肉体を獲得して(この世の)人間となるまでの過程として考える。これは、黄色い絵具(魂)に青い絵具(物質)を徐々に混ぜていくとやがて緑色(肉体)になるように、どこまでが黄色でどこからが緑であるかは問題にしない。それよりも重要なのは、両方の色には共通部分が存在し、それが継続していると見るのだ。

 私は、後者の考え方をする方が、21世紀の人類と地球生命にとって良い結果をもたらすのではないかと思う。デジタルな考え方は物事を狭い範囲に限定して考えるため、その範囲内で「他を打ち負かし」たり、「他より抜きん出る」場合には優れている。また、簡単で分かりやすく、したがって同一グループ内での結束を図るには有利である。しかし、物事をより広い視点から考え、他との共通点を見出し、他と共存するという、より高度な--そして、地球温暖化時代に必要な--生き方には不適当である。

 多くの生物はデジタルな戦略に則って生存をはたしてきたと思われる。そのことを最も有力に示すのは、我々の体内にある免疫系の働き方とその役割である。免疫系は、我々の体を“外敵”の侵入から防ぎ、“外敵”と戦い、破損した組織を補修する重要な役割をしている。これを行う細胞の最も重要な働きは、体内にあるものを「自己」と「他者」とに区別することである。そして、「自己」に属する細胞には手を出さずに、「他者」と判別された細胞や物に総攻撃をしかける。これは、きわめてデジタルな機能と言わねばならない。
 
 私はかつて『心でつくる世界』(1997年、生長の家刊)の中で「視覚の中のプログラム」について書いた。我々の視覚には、一連の“自動判定プログラム”が組み込まれていて、目で見た瞬間に、理性的な判断を経ずに結論を出すことが案外ある。その中の一つに私が同書で「対照化の原則」と呼んだものがある。それは「互いに矛盾した要素が一つの図形の中にある」場合、「矛盾のない白黒のはっきりした世界を無意識のうちに見ようとする」(p.74)傾向のことだ。これは我々の視覚の中に一種の“デジタル回路”が存在する証拠である。どんな図形がそのことを証明しているかは同書を参照してほしい。この回路はいわゆる“本能的”なもので、人類が進化の過程で獲得したと考えられる。ということは、他の動物や植物にも程度の差こそあれ、似たような“自動判定プログラム”が存在すると類推できる。

 だから科学が、生物としてのヒトの発生過程のある時点を境にして、「それ以前は非人間」「それ以降は人間」というデジタルな判断を下す方法を採用したとしても、あながち責められないかもしれない。しかし、そのことは、この方法が特に科学的であったり、客観的であったり、優れていることを意味しない。もっと直裁に言えば、科学が提出している“デジタルな生命観”は、科学的というよりは本能的であり、暫定的であり、完全とは言いがたいのである。私はそれよりも、宗教が伝統的に把持してきた“アナログな生命観”の方が、より広範囲の物事を視野に入れているという意味で包括的であり、分かりにくくても、より正確に対象を見ているという意味で客観的だと思う。

 例によってこれを示そう。①人間の誕生も死も、時間の流れの中で段階的に進行する現象だからアナログ的である。にもかかわらず、科学はこれを、ある1点を境にして起こるデジタルな現象として捉えている。②人間と他の動物の違いはアナログ的であることが、DNAの解析や動物行動学等によって分かってきているが、科学(生物学や医学)が動物を人間と峻別する考え方や扱い方はデジタルである。③地球上の生物や鉱物も含めた生態系は、互いに密接に関連し合って(アナログ的に)秩序を形成していることが明らかになりつつあるが、科学は遺伝子組み換えや卵子の凍結保存、キメラ作成などによって、そのアナログ的な秩序をデジタル(人間至上主義的)に破る行為を行っている。
 
 また、世代間倫理の問題は、親世代 → 子世代 → 孫世代 というように前世代の人間の行為が後世代の人間に危害を与える場合に発生する。つまり、複数の世代間のアナログ(連続的)な問題である。これに対して現代民主主義が尊重する自己決定権の考え方は、「他人や社会に危害を与えない限り、個人の選択には最大限の自由が許されるべし」というのだから、自己完結的なデジタルな思想であると言える。

 こうやって考えていくと、現代の主要な問題の背後には、本来アナログな現象をデジタルに解決しようとしているという矛盾が見えてくる。だから私は、現代にアナログな思想や信仰を再構築することで、人類はよりスムーズに問題解決へと進んでいけると思うのである。

谷口 雅宣

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2007年2月22日

クロスワードを解く (7)

 2月15日の本欄に掲載した「教義クロスワード No.7」の解答を発表しよう。

【縦の答え】
(イ)未完成。(ロ)祈り。(ハ)暇。(ニ)ノア。(ホ)長髄彦。(ヘ)ナタデココ。

【横の答え】
(イ)美濃。(ロ)イザナミ。(ト)仮の姿。(チ)姉。(リ)施肥。(ヌ)ヒルコ。(ル)今ここ。

 今回のクイズは、日本の神話から多く取材していることに気づいた読者は多いだろう。“ひねった”設問はほとんどなく、あえて“ひねった”と言えるとしたら、縦の(ロ)と(ハ)、それから横の(ル)だろうか。
 
 祈りとは「命の宣りごと」である、と谷口雅春先生は教えてくださった。これは「心の底からの宣言」という意味である。これに対して、祈りというものを「凝念」だと考える人の方が多いのではないだろうか。凝念とは、いわゆる“念力”のことだ。心で何かを一所懸命に唱えることで、そのことが現実に起こるとする考え方である。しかし、これによって一時的に小さい物体が動いたとしても、心身は疲弊して日常生活に差し支える。そんなことをするくらいなら、肉体の手や腕を使って物を動かす方がはるかに優れている。
 
 また、凝念を使うことは、「心で認めるものが現象に現れる」という心の法則を逆用する危険がある。例えば、病床にいる家族の平癒を祈るときなど、「神さまどうぞ治してください」と祈ることは、その家族がいま「大変な状態にある」ということが前提にあるから、そう強く祈れば祈るほど、心の底から「ああ現状は大変だ」と宣言することになりやすい。これでは、心で認めているのは「大変な状態」だから、その状態が消えることを心でわざわざ妨げていることになる。だから生長の家では、病気の平癒を祈るときは、本来完全健康であるその人の実相を心で強く思い描くという方法をお薦めする。このへんの心の持ち方については、谷口雅春先生の『詳説 神想観』(1970年、日本教文社刊)165ページ、谷口清超先生の『愛と祈りを実現するには』(1986年、同社刊)の191~194ページなどを参照されたい。
 
 これに関して、祈りの効果を科学的実験によって確かめる試みが何度か行われたことを思い出す。このことは昨年4月3日の本欄でも取り上げたが、こういう科学の実験では、被験者の心的態度まで厳密に確認しない点、どうしても明確な結果が出てきにくい。が、この実験では「祈りの効果なし」という結論になった。しかし、病気平癒の祈りではなく、祈りによって人工受精による妊娠の確率を上げる効果を調べた実験(2001年10月16日の本欄で紹介)では、「祈りに効果あり」という逆の結果が出ている。
 
 縦の(ハ)の答えは、「貧乏暇なし」という諺を思い出せば簡単に解ける。しかし、本当に貧しい人はヒマがないのだろうか、と私は疑う。これを逆に言えば、所得の高い人はヒマということになるが、現代の大企業の経営者でヒマをもてあましている人は、皆無とは言わないまでも例外的だと私は思う。私が知っているネコ好きのホームレスのおじいさんは、明治公園のベンチに寝そべって週間誌やマンガ本を読んでいることがほとんどだから、「貧乏暇あり」と言えるだろう。だから、この諺の「貧乏」とは、恐らく「極貧」の貧乏ではなく、「収入が平均以下」という程度の人、あるいは「生活に追われて働き通しの人」なのだ。

「実相はどこにあるか」という問いかけは、禅の公案にも多くある。有名なのは玄沙(げんさ)和尚の「膿滴々地」の話で、これについては昨年5月6日の本欄でも触れた--唐の時代にいた禅僧、玄沙が誤って薬を服したところ、全身が赤くただれて、膿(うみ)が体からポタポタと滴る状態になってしまったという。それを見た僧が、「いつも先生が説いている堅固法身(けんごほっしん)はどうなったのですか?」と問う。すると玄沙和尚は、「それは膿滴々地だ」と答える--こういう話である。谷口雅春先生は『日常生活の中の真理(仏典篇)』の中で、これを解釈されて「膿が滴々と流れているこの肉体そのままに堅固法身であると云う意味であります」(p.295)と説かれている。別の言葉でいえば、現象の状態に関わりなく、実相は「今ここ」にあるということになる。谷口雅春先生の聖歌『今ここに新たに生まれ』では、神の子の自覚を深めることで「今ここ」に新生することが説かれ、谷口清超先生の聖歌『悦びの歌』にも「神の国は今ここにあり」とある。

  第8問を以下に掲げる:
 
Cwp6x6008 【縦のカギ】
(イ)生滅・変遷がなく永久に続くこと。
(ロ)他の侵害から守り大事にすること。
(ハ)頭で知るだけでなく、体験を通して自分のものにすること。
(ニ)屋根を共有すること。
(ホ)人生に起こる吉凶のめぐりあわせ。
(ヘ)神の別名。
(ト)植物の体の中軸。

【横のカギ】
(ハ)人と対面して話し合うこと。
(チ)何かに心をもっぱら集中すること。
(ホ)苦しんで声を出すこと。
(リ)聖経『甘露の法雨』では、人間の肉体が死ぬことを詩的にこういう。
(ヌ)「こうでなければならない」と心に掴むと、この状態になる。
(ル)神想観の時の気合いの元になった2語のうちの1つ。
(ヲ)神社等で神がすむとされる場所。

谷口 雅宣

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2007年2月15日

クロスワードを解く (6)

 2月9日の本欄に掲載した「教義クロスワード No.6」の解答を発表する。

【縦の答え】
(イ)非実在。(ロ)手交。(ハ)日蓮。(ニ)優曇。(ホ)自己処罰。(ヘ)菊石。

【横の答え】
(イ)比喩。(ロ)精進。(ト)どこ。(チ)自己認識。(リ)通知。(ヌ)欲。(ル)霊媒。(ヲ)イコン。(ワ)津市。

 今回“ひねり”が入った設問は、縦の(イ)と(ヘ)、横の(ヲ)だっただろうか? 生長の家の初心者が聞いて驚くのは、恐らく「肉体は無い」という教えだろう。普通我々は、自分の感覚を通じて「肉体がある」ということをイヤというほど感じている。特に病人は、「自分の肉体の特定部分が普通でない」と強く意識しているから、それが「ない」と言われると「何とベラボーな教えだ」と反発する人もいる。が、この強烈な言葉に反語的な意味を察知し、「どういう意味か知りたい」と興味を示す人もいる。そういう取っ掛かりを提供するという意味で、「肉体は無い」は強力なメッセージである。

「肉体は無い」は、「肉体は実在でない」もしくは「肉体は非実在」という意味である。『広辞苑』(第1版)には、「実在」の意味として「実際に存在するもの。単に考えられただけのものや想像・幻覚など、単なる主観の産物に対して、このような思惟或は体験・主観とは独立に客観的に存在するもの。(中略)更に自然を生滅変化の現象界と見る時は、このような現象的規定を超越する恒常不変の形而上学的実体・本体を意味する」とある。ずいぶん難解な定義だが、これが哲学で「実在」を扱うときの意味である。生長の家では、ほぼこの定義に沿った意味で「実在」という言葉を使う。我々の肉体は細胞の集まりであり、その細胞の構成元素は刻一刻入れ替り、細胞自体も新陳代謝でどんどん入れ替っているから「実在」ではないのである。

 中生代の標準化石とは「アンモナイト(ammonite)」のことで、日本語ではこれを「菊石」と呼ぶ。アンモナイトは「アメンの角」という意味で、アメンとは古代エジプトの都・テーベの守護神の名前だ。この神は雄羊の頭をもって表現されていたから、その巻いた角のことを言った。つまり一時期、アンモナイトは雄羊の巻き角の化石だと思われたのだ。が、現在では、白亜紀に絶滅した軟体動物頭足類に属するものとされる。これは、現在のオウムガイとの共通点が指摘されている。様々な大きさや形体のものが化石として残っており、成体の殻の大きさは、直径2~3センチの小さいものから2メートルを超える大型のものまである。

 イコンとは、パソコンで使う「アイコン」(icon)に通じる言葉だ。ロシア正教(東方正教会)で信仰の要となる聖母、聖人などの聖画像のことを指す。聖堂内のみならず信者の自宅にも安置されて崇敬される。木板に聖像を描いた形式のものが多く、掲げる場所によって大小さまざまなものがある。「イコン」という名称は「肖像」「似姿」「心に思う像」などを意味するギリシャ語に由来する。最も古いものは、シナイ山にあるカテリナ修道院にある6世紀ころのものという。神学上は「それを拝する者の心を不可視の原像、神の本質へ導くもの」とされる。
 
  第7問を以下に掲げる:

Cwp6x6007 【縦のカギ】
(イ)現象はすべてこの状態。
(ロ)心の底から宣言すること。
(ハ)貧しい人にはないとされているもの。
(ニ)旧約聖書の預言者の1人。
(ホ)神武天皇を苦しめた強敵。
(ヘ)ココナツの汁を発酵させて作った寒天状の食品。

【横のカギ】
(イ)岐阜県南部。
(ロ)日本神話に登場する霊界の女神。
(ト)死、悩み、苦しみのことを聖歌『神の国なり』でこう呼ぶ。
(チ)年上の女の兄弟。
(リ)植物に栄養を与えること。
(ヌ)イザナギ、イザナミの両神から生まれた神で、葦舟に入れて流された。
(ル)実相はどこにある?

谷口 雅宣

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2007年2月 9日

クロスワードを解く (5)

 遅ればせながら、1月30日の本欄に掲載した「教義クロスワード No.5」の解答を発表する。

【縦の答え】
(イ)母系。(ロ)強さ。(ハ)和子。(ニ)罪の子。(ヘ)至妙。(ホ)理路。(ト)祈祷師。

【横の答え】
(イ)菩薩行。(チ)国家意識。(リ)水戸。(ヌ)牛。(ル)岩海苔。(ヲ)心の眼。

 今回悩んだのは、縦のカギの(ニ)である。ややこしい表現になってしまった。「ある宗教で……」という表現を使い、さらに「人間を“性悪”と考えるとき」という条件まで加えた。もっとストレートに「キリスト教で……」と書けばいいのに、と思う読者がいるかもしれない。しかし、そうしなかった理由がある。すべてのキリスト教で「人間は罪の子」と説いているわけではないからだ。最近、NHKのドラマ『芋たこなんきん』で、小料理屋の女将役をやっているイーデス・ハンソンが「人間はみな神の子や」と言ったのを聞いて、私は妻と顔を見合わせた。原作にこんな台詞があるかどうか知らない。また、彼女がキリスト教信者なのかどうか分からない。あるいは、自ら考案した台詞なのかもしれない。が、何となくピッタリ来る言葉だったと思う。

 生長の家の講習会でもこのことに触れることがあるが、実は聖書の『マタイによる福音書』には、間接的な表現ではあるが「人間は神の子である」という意味のことが書いてあるのだ。まず第一に、イエスが弟子たちに教えた“模範的祈り”ともいうべき「主の祈り」(6章9~13節)の冒頭には、神への呼びかけの言葉として「天にいますわれらの父よ」と祈れとある。「われら」とは一般の信者が自分を指して使う言葉だから、「われらの父」が天にいるのならば、子である一般信者はみな「神の子」ということになるだろう。そういう表現をイエスが“模範的祈り”の中で使えと言っているのだから、少なくともイエス自身は「人間は罪の子だ」とは考えていなかったと推測できる。
 
 それだけではない。以下に列挙する聖句をじっくり味わってほしい:
○敵を愛し、迫害する者のために祈れ。こうして、天にいますあなたがたの父の子となるためである。(5:44-45)
○あなたがたの天の父が完全であられるように、あなたがたも完全な者となりなさい。(5:48)
○あなたがたの父なる神は、求めない先から、あなたがたに必要なものはご存じなのである。(6:8)
○もしも、あなたがたが、人々のあやまちをゆるすならば、あなたがたの天の父も、あなたがたをゆるして下さるであろう。(6:14)
○空の鳥を見るがよい。まくことも、刈ることもせず、倉に取りいれることもしない。それだのに、あなたがたの天の父は彼らを養っていて下さる。(6:26)
○あなたがたの天の父は、これらのものが、ことごとくあなたがたに必要であることをご存じである。(6:32)
○あなたがたは悪い者であっても、自分の子供には、良い贈り物をすることを知っているとすれば、天にいますあなたがたの父はなおさら、求めてくる者に良いものを下さらないことがあろうか。(7:11)

 こうやって続けて読んでみると、「人間はみな神の子や」という台詞の説得力が伝わってくるだろう。

 第6問を以下に掲げよう:

Cwp6x6006 【縦のカギ】
(イ)あなたの肉体は?
(ロ)手で直接渡すこと。
(ハ)仏教の宗派の開祖。
(ニ)インドの想像上の植物。花は三千年に一度咲くとされる。
(ホ)不幸や戦争の原因の1つ。
(ヘ)中生代の標準化石の日本名。イカやタコの仲間と言われる。

【横のカギ】
(イ)宗教教典でよく使われる説明の仕方。現象的に存在しないものを、これで暗示する。
(ロ)仏教で心を込めて善業を修めること。転じて肉食をしないこと。
(ト)「馬の骨」と「吹く風」に共通するもの。
(チ)人間にしかない能力の1つと言われている。最近、チンパンジーやイルカにもあるという研究も出た。
(リ)講師試験の結果も、これによって分かる。
(ヌ)人間が愛し、また憎むもの。
(ル)死者からのメッセージを伝えるとされる人。
(ヲ)肖像や偶像のこと。キリスト教では聖母像や聖画像を指す。近頃はコンピュータでも使われる。
(ワ)三重県の都市。

谷口 雅宣

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2006年12月21日

グーグルで火星を眺める

 アメリカのインターネット検索大手、グーグル(Google.com)は話題に事欠かないが、パソコンと衛星からの地上の写真を一挙に近づけた「グーグル・アース」(Google Earth)というサービスに続いて、「グーグル・ムーン」(Google Moon)や「グーグル・マース」(Google Mars)というのを始めるらしい。12月20日付の『ヘラルド・トリビューン』が伝えている。

 グーグル・アースは、地球上のどの地点も衛星写真を使ってパソコン画面に表示するサービスで、軍事施設も表示させることで問題になったことがある。我々のような一般人にとっては、自分の故郷や海外の有名な都市、ニュースで話題の場所などを実際に上空から“見ている”ような仮想現実感を与えてくれるため、きわめて興味深く、かつ有用である。私も、興味半分で自宅を上空から見たり、小説の取材を補強したりすることに利用させてもらったことがある。この画期的なサービスを提供してきたグーグルが、こともあろうにアメリカ政府の1機関であるNASA(航空宇宙局)と組んで、今度は「月」や「火星」の上空からの画像をパソコン上に表示するサービスなどが可能な、広範囲な提携の契約を18日に締結したという。
 
 その記事によると、この契約によって、月や火星の表面を歩く宇宙飛行士の見る風景と同じような克明な画像を、地上の誰もがパソコン上で見ることができる可能性が開けるという。また、スペースシャトルや宇宙ステーションの動きをリアルタイムに見ることも可能になるかもしれない。火星については、グーグルは現在、限定的な二次元画像を「Google Mars」として提供しているが、これがもっと細かく、鮮明な画像として、我々が火星上空を飛んでいるかのような現実感をもって見えるようになるのだ。これは大変な“進歩”あるいは“変化”と言わねばならないだろう。が、その反面、“逆効果”も生まれるのでは、と私は想像する。
 
 私は、昨年6月11日の本欄で、火星にある“人面岩”の話に触れたことがある。また、本欄の前身である『小閑雑感 Part 1』では、2001年6月1日に「火星の顔」と題して少し詳しくこの話を紹介したので、ここでは簡単な説明に留めよう。火星の“人面岩”とは、火星の「シドニア(Cydonia)」と呼ばれる地域にある全長3kmほどの台地のような地表の隆起で、これが上空のある角度から見ると「人間の顔」のように見えたことから、「火星上の顔(Face on Mars)」と呼ばれるようになった。そして、「そんなものが偶然にできるはずがないから、知性のある何者かが造ったに違いない」という議論が起こって、一時騒がれたのである。

 しかし、よく考えてみると、火星は地球とまったく環境が違う惑星だから、そこにたとえ高等生物がいたとしても、その顔(もしそんなものがあるとしたら)が、地球上の動物がもつ「顔」と似ている--つまり、目が2つ横に並び、その間に鼻が縦にあり、鼻の下には横長の口がついている--保証はどこにもないのである。別の言い方をすれば、火星の動物には目が5つあったり、鼻がなかったり、口が上と下に2つついていても、それはそれで「顔」と言えるはずである。また、イソギンチャクを上から見たような恰好の「顔」があってもいいはずである。にもかかわらず、写真上にありありと“人間の顔”のようなものが写っていると、それが別の天体で撮影されたものであっても、我々は「顔だ」と考えてしまう。これは結局、我々の心の中にある「顔」のイメージを火星上に投影しているにすぎず、「客観的な判断」とは言えないのである。

 そういう騒ぎが実際に起こったのであるから、今後、グーグル・アースが鮮明な画像によって提供されることで、「火星人はいる」という議論が再燃する可能性がある。「月のウサギ」説はまさか出ないとは思うが、グーグル・ムーンによっても「知性ある生物がいる」との議論が起こるかもしれない。そんな事態が起こったら、それは宇宙科学ではなく、心理学の問題だと考えた方がいいだろう。火星には“ピラミッド”とか“町の広場”と呼ばれている所もある。我々は結局、自分の心の中にあるものを“外界”に投影するのである。

谷口 雅宣

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2006年12月 4日

ID論を学ぶ

 宗教新聞社主催の講演会「進化のイコン--科学か神話か?」というのを聞きに東京・渋谷の国学院大学へ行ってきた。演題を見ただけでは何の講演会かわかりにくいが、これは昨年の本欄で何回も(8月1416日9月29日12月23日)触れてきた「知性による設計」(intelligent design、ID)論についてのもので、講演者は、ID論の“震源地”とも呼ぶべき米ディスカバリー研究所(The Discovery Institute)の上級研究員、ジョナサン・ウェルズ博士(Jonathan Wells)である。私のID論に対する態度は、これまで「付かず離れず」だったが、その1つの理由は、この理論が結構専門的であり、時間をかけてしっかり勉強しないと理解が難しいと感じていたからだ。今回、はからずも提唱者の1人の話が聞けるということで、学生にもどった気分で国学院大学の門をくぐった。
 
 ウェルズ博士は、ダーウィンの進化論では説明のできない点をいくつか指摘し、それらをID論によって説明しようとした。実際、博士の著書ではダーウィニズムの欠陥が「10個」も指摘されているらしいが、講演ではこのうち4つの指摘があった。私の理解しえた範囲で、以下にそれらを簡単にまとめる:

 ダーウィニズムでは、現在地上に存在する生物種は、植物や菌類もすべて含めて、もともとはいくつかの数少ない原始的な“先祖”から派生(descend)してきたと考える。この場合、1つの生物種が何か予め決められた方向に変化するのではなく、突然変異と自然淘汰によって別の種になるとする。このような仕方で多数の生物種が生まれるためには、少しずつの変化と長い時間とが必要になる、と博士は言う。しかし、化石からわかる実際の生物を見ると、長時間にわたって連続的な変化が起こった形跡はなく、逆に短期間に多種が生まれるのである。その最も顕著な例は、カンブリア紀の生物種の“爆発”と呼ばれているもので、この時期には、現在地上に存在するほとんどの生物種の“先祖”にあたる種が一気に出現したと言われている。また、ダーウィニズムによると、「A」という種から「B」という種が派生したのであれば、その中間的形態の「A'」がどこかで発見されるはずだ。しかし、化石による証拠を調べても、中間的形態のものは必ずしも発見されないという。

 ウェルズ博士は、次にダーウィニズムの“証拠”として挙げられる「個体発生は系統発生を繰り返す」(ontogeny recapitulates phylogeny)という原則の図を槍玉に上げた。この図は、ドイツ人の発生学者、アーンスト・ヘッケル氏(Ernst Haeckel)が描いた有名なもので、魚もサンショウウオもニワトリもヒトも、胎生期にはほとんど見分けられないほど類似した姿をしている。ダーウィニズムの信奉者は、この図によって「すべての脊椎動物は共通の先祖をもっており、その進化の過程を胎生期に再現する」と説明してきた。ところがウェルズ博士によると、この図を描いたヘッケル氏は、それぞれの脊椎動物の発生の過程で、最も類似した形になった時を選んで、それらを図上に並べたにすぎないというのである。そして、そのような“類似”が現れる前の段階では、それぞれの種は互いに相当異なる発生の過程をたどるという。このほか、博士はガラパゴス諸島のフィンチの嘴の話を紹介して、ここでもダーウィニズムでは説明できない事実が観察されていることを述べた。が、詳しくは省略する。

 ウェルズ博士が「進化は盲目的でない」証拠を示すのに使った言葉の1つに「還元不可能の複雑さ」(irreducible complexity)というのがあり、印象に残った。具体的には、博士は原生動物のような単細胞生物の「鞭毛」を例に挙げていた。鞭毛は、そういう生物が水中を移動するために使う船のオールのようなものだ。その構造を仔細に観察してみると、精密機械のように複雑で多数の“部品”から成り立っていて、実に合理的に機能するのだが、その部品は互いに関連し合っているから、そのどれ1つを除いても鞭毛は動かなくなるという。つまり、1本の鞭毛は、それ以上単純化できない一体の組織である。そのような複雑さが、盲目的な1回ないし数回の突然変異によって実現するはずがないというのである。もし変異が数多く重なって複雑で、有目的的な組織ができたのならば、そのような連続変異は一定のデザイン(事前の設計)に則って行われたのである。そのことを、ウェルズ博士らは「知性による設計」と呼んでいるようだ。
 
 谷口 雅宣

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2006年9月27日

電子文書を読む

 読者が今、本欄を読まれているように、電子化された文書を読むことはすでに日常化し、当たり前の出来事になっている。しかし時々、その可能性に驚かされることがある。インターネットの発達で、「時間と空間の制約をほとんど受けずに情報が伝わる」とはよく言われる。私も、海外の出来事をほとんどリアルタイムで、衛星放送やニュース・サイトを介して見たり読んだり聞いたりしてきた。情報の電子化とインターネット技術によって、今や「空間」の問題は克服されつつある。しかし、「時間」がなくなる体験をすることは少ない。

 それを可能にしてくれるのが文書や映像の電子化なのだ。たぶん読者の中には、図書館や博物館のサイトを愛用している人もおられるだろう。その場合、古い文書や遺跡からの出土品の映像なども、手元で見ることができるに違いない。恥ずかしながら、私はそういう経験を今日までしたことがなかった。が、9月16日号の『New Scientist』誌をパラパラと見ていたら、「オンラインの伝説」(Legends online)という題の小さな記事の横に、曇天下に凧を揚げている紳士の絵が並んでいて、「電気から電子へ」(from electric to electronic)というキャプションがついているのが目に留まった。この絵は、ベンジャミン・フランクリン氏(Benjamin Franklin)が雷は電気であることを証明した、あの有名な実験を描いたものだとすぐ分かった。
 
 この絵そのものが、ニューヨーク市立博物館所蔵と書いてあったから、恐らく電子化されたものを同誌の版元がイギリスへ送信してもらったものだ。そのこと自体は驚くことはないが、私が興味をもったのは、記事の内容だった。それによると、ロンドンにある英国王立協会(the Royal Society)は所蔵文書の電子化に取り組んできたが、このほどその一部を期間限定でインターネット上に無料公開したという。その中には、“世界最初の科学雑誌”ともいえる『Philosophical Transactions』(哲学的往来、1665年創刊)誌も含まれていて、同協会のサイトへ訪れるとフランクリンの凧の実験(1752年)を初め、エドムンド・ハレー(Edmund Halley)のハレー彗星の発見(1705年)、ニュートンの反射望遠鏡の発明、スティーブン・ホーキング博士(Stephen Hawking)の最初の論文、DNAの構造を解明したワトソン(James Watson)とクリック(Francis Crick)の1954年の論文などが読める、と書いてあった。

「へぇー」と思った私は、さっそく同サイトへ行ってフランクリンの論文を探したが、見つけたのは当該論文ではなく、同協会に提出されたその論文をめぐるコメントや、フランクリンによる実験の補足説明などを含む4つの文書だった。当時の雑誌のページをスキャナーで読み込んだものを「PDF」の方式でファイル化してある。古いもので「1751年6月」という日付があったから、それを読むと、今から255年前にイギリスの科学者が電気についてどういう考えをもっていたかが伺い知れて、面白い。フランクリンは当時、電気が生体にどのような影響を与えるかを実験していて、ハトやニワトリに電気ショックを与えるとどうなり、同じ電気を七面鳥に与えた場合はどうなり、肉を食べると柔らかくておいしいとか、人間はどの程度の電気ショックに耐えられるかなどの推測をしている。

 こういう実験の過程で、フランクリン自身が誤って電気ショックを受けた話も出てくる。それによると、彼の手から伝わった電気は、直ちに頭から足の先まで全身をかけめぐり、その後数秒間、胴体全体が激しく震え続けたという。彼の意識が正常にもどり、何があったかに思い当たるまでには数分間(some minutes)かかった。感電時には閃光など見えず、音も聞こえず、感電した手にも痛みは感じなかったという。しかし、実験に立ち会った人は、その時大きな音がしたといい、フランクリンの電気を受けた手は事後に腫れあがったという。また、彼の両腕と背中は数時間しびれた状態になり、胸は打撲傷を受けたように1週間後も痛んでいたらしい。
 
 1752年10月1日付のフランクリンの手紙には、実験に使った凧を、どうやって作るかも書いてある。それによると、スギ材で十字形を組み、その上に絹のハンカチを張って凧を作るそうだ。これに尻尾と紐と糸をつける。凧の十字形の縦骨には先の尖った針金をつけ、凧の先から30センチほど上方に出るように固定する。手元側の凧糸には絹のリボンを結び、糸と絹の接点に鍵を結びつける。この手紙には、この凧をどう揚げて、電気をどう取り出すかも書いてあるが、それをここに書くと実験したくなる人が出てくると困る。私は、そういう人の生命を危険に晒したくないので、雷雲が出ている時は、凧揚げは絶対にしないようにお願いして、本稿を終ることにする。
 
谷口 雅宣
 
 

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2006年5月14日

科学誌の広告

 少し前の話だが、本欄でも時々紹介するイギリスの科学誌『New Scientist』上で、同誌に掲載する広告をめぐって読者との間に論争があった。同誌は、論説や記事などで地球環境保護の重要性を繰り返し主張しているが、その雑誌にガソリンをガブ飲みする自動車の広告を載せるのはオカシイ、という意見が発端だった。
 
 まず、4ページをいっぱいに使ったフルカラーの自動車広告が3月25日号に掲載されたことについて、ロンドン在住のロス・ラッセル氏(Ross Russell)とウィーラル在住のマイク・ウーテン氏(Mike Wootten)が4月8日号で噛みついた。この広告には、排気量3.7リットルのベンツ車、3リットルのスバル車、4.2リットルのレンジ・ローバー車と“環境汚染車”が3台載ったのに比べ、“グリーン”な車はトヨタのプリウス1台だった、とラッセル氏が指摘。「広告主は雑誌の読者の関心度に合わせて広告をするはずだから、この比率は、読者である科学者が3:1の割合で“環境汚染車”を選ぶと考えているのか? それともこの広告は、地球温暖化の危機を叫ぶ雑誌の信頼性を突き崩すための、自動車メーカーの戦術なのか?」と書いた。また、ウーテン氏は「汚染促進車や、さらに汚染を促進する航空機による旅行に対するあなた方の嗜好(広告のこと)をもってしては、世界の政策決定者にお説教などできませんね」と皮肉たっぷりだった。
 
 これに対する雑誌側の説明は、同誌の編集部と広告部の間には「万里の長城」がある--つまり、相互不干渉の原則があるとするものだ。そして、この関係のおかげで、同誌のジャーナリストは理性的な科学研究から記事を書き、論説を書くことができる。だから、読者は二酸化炭素の排出量を増やす製品や技術を買うときには、そういう記事を読んで正しい選択をしてほしい、というものだった。
 
 この答えにカチンと来た読者が何人もいたようだ。同誌は、3週間後の4月29日号で、「第2回戦」として再び読者の反応を取り上げた。そこでは、ロンドンのジャスティン・クラウダー氏(Justin Clouder)が、同誌は「欺瞞的思考」(double-thinking)だと非難し、科学誌の編集部が営業のことを考えないというのはバカげているとし、「編集部は会社の予算審議に参加しないのか?」「社員の雇用や給与についてひと言も言えないのか?」と詰め寄る。そして、「編集部が広告の内容について倫理的責任を放棄するのは非難に値する」と手厳しい。デボン州のダグ・ドゥワイヤー氏(Doug Dwyer)は、「広告主の戦術は、環境に有害な車でも繰り返して広告することにより、社会的に有力な同誌の読者に親しみを感じさせ、毛嫌いを減らすためのものだろう」と考え、もしかしたら、「自動車による大気汚染と地球温暖化の関係が強力に立証されればされるほど、そういう車への広告出稿が増えるのかもしれない」と本気か皮肉かわからないコメントをしている。

 雑誌の編集方針と掲載広告との関係は、難しい問題を含んでいる。通常は、ここで指摘されているように、両者が矛盾しないような広告が望ましいことは言うまでもない。が、広告が集まらない場合は、ある程度の妥協をするのか、それとも妥協せずに取材費や人件費を削減すべきかが問題になる。生長の家の編集物や出版物にも、そういう問題があったし、今もあるかもしれない。例えば、月刊誌に薬の広告を載せるか載せないか? 健康器具はどうか? 健康食品はどうか?……信仰と生活の一致となると、もっと難しいのだが。

谷口 雅宣

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2006年4月17日

科学者も悩ましからずや

 1月30日の本欄で、NASA(米航空宇宙局)の科学者が研究結果やそれに基づく自分の科学者としての信念を公表することを、上層部から禁じられていると訴えた話を書いた。その信念が地球温暖化の危機についてだったので、『ニューヨークタイムズ』はブッシュ政権の政治的圧力の疑いがあるとして大きく取り上げたのだ。この科学者は、NASAの下部組織であるゴッダード宇宙学研究所(Goddard Institute for Space Studies)のジェームズ・ハンセン所長(James Hansen)だが、この“騒動”の後始末がどうやらついたようだ。4月7日付の科学誌『Science』(vol 312)によると、NASAの局長であるマイケル・グリフィン氏(Michael Griffin)は3月30日に同局のメディアへの対応方針を明らかにした文書を発表し、その中で、NASAの科学者は、「可能ならいつでも」事前にそれを報告すれば、「自分の研究についてメディアや国民に話すことができる」とした。
 
 当たり前と言えば当たり前のことだが、これ以前の暗黙のルールは、NASA職員は事前にPR部門から許可を得ねばならなかったという。これは一種の“検閲”だということで、連邦下院科学委員会のシャーウッド・ボーラート委員長(Sherwood Boehlert)などから批判されていた。ハンセン所長は新方針を「大きな変化だ」と歓迎している。私も、今後はNASAから地球温暖化についての正確な情報が、迅速に発表されることを大いに期待したい。

『Science』と言えば昨年末、韓国のES細胞研究者が偽造データーを使った論文を掲載したということで話題になったが、この論文は雑誌から“撤回された”(retracted)ことは御存じだろう。が、よく考えてみると、すでに雑誌に発表され、その雑誌が世界中に流通しているものを「撤回する」とは、具体的にどうすのか? すべての雑誌を回収して当該論文のページを破るわけにもいかない。で結局、「撤回されました」とアナウンスするだけで特に何もしないらしい。すると、その“撤回された”論文を引用して自分の論文を書く人も出現する。その中にはもちろん、ある論文がなぜ撤回されたかを自分の論文に書くための引用もある。この場合は問題がない。しかし、撤回された事実を知らずに、その論文が正しいデータや方法に基づいているとの前提で引用すると、引用した論文まで“怪しい”と思われてしまうだろう。

 上掲の『Science』によると、同誌の編集者がインターネット上の科学論文検索サイトを調べたところ、“撤回された”論文を引用している論文が何ダースもあったという。また、ネット上の論文であれば、実際に撤回することは簡単だと思うが(掲載されたサイトから削除すればいい)、ネット上には「この論文は撤回されました」と赤文字で書いたまま、その論文が掲載されているものもあるという。こんな場合は「撤回する」という言葉の誤用だ。そんな話を聞いてみると、一流の科学雑誌の論文であっても、頭から鵜呑みにしない方が賢明であることが分かる。
 
 科学者の研究にも、学問とは直接関係のない問題がいろいろあるのだと思った。

谷口 雅宣

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2006年2月13日

科学者の倫理性 (7)

 昨年の本欄で何回も扱った韓国のES細胞研究のデータ捏造事件は、その後の調査で渦中の人、ファン・ウー・ソク氏(52)に公金横領の容疑まで出て(『産経』1月13日)、依然として燻り続けているようだ。この問題は、去る1月4日、論文を掲載したアメリカの科学誌『Science』が論文の撤回について著者26人全員から同意を取り付けたと発表、10日にはソウル大学の調査委員会が最終調査報告の中で、ファン氏が作成したとするES細胞は存在せず、データは捏造されていたと結論したことで、同氏の研究の科学的価値は無に帰した。しかし、科学研究のあり方に関しては、これから解決しなければならない様々な問題を提起している。

『Science』誌は2月3日号で、韓国の生命科学関係科学者の集まりである韓国分子細胞生物学者協会のパク・サン・チュル会長の手紙を載せ、同協会が昨年10月、科学研究における倫理規定を定めたことを伝えている。この規定は次の4つのポイントからなる:①科学研究を始める前に、その研究が人間、社会、環境に与える影響を考慮しなければならない、②細胞から生物にいたるまで、研究対象となる生命の尊厳を維持し、尊重しなければならない、③実験結果を創作してはならず、研究材料や研究結果の配分は正しくなければならない、④研究成果の著作者や知的所有権を正当に取り扱わなければならない。

 この4点--とりわけ②~④--は、同協会が今回のES細胞データ捏造事件から学んだものだろう。最初のポイントは最も重要であるが、今回の事件とどう関係しているのかよく分からない。ファン氏が今回“成功した”と(偽って)発表したことは、若者から高齢者にいたるまでの「特定の人間の遺伝子を組み込んだES細胞を効率よく作成した」ということだった。これが(もし真実であれば)個人や社会に及ぼす影響は甚大だ。難病で入院している患者の遺伝子を組み込んだES細胞を作成し、そこから分化させた肉体組織や臓器を、拒絶反応を心配せずに移植することができる。これは医学の大きな進歩であり、世界中の多くの患者が恩恵を受けるに違いない。しかし、そのことは研究以前から分かっていたことである。ファン氏にもそれが充分分かっていたから、多少分野が違っていても(もともとは獣医学)この研究に飛び込んだのではなかったか?
 
 むしろ問題は、①が一見“素晴らし”すぎたため、②~④を慎重に進めることが疎かにされたということだろう。別の言い方をすれば、研究の「目的」は文句なく(倫理的にも、経済的にも)“善い”と考えられたため、研究のための「手段」の検討がないがしろにされたのである。ここに「目的のためには手段を選ばない」という初歩的な過ちが犯された、と見ることができる。『ヘラルド・トリビューン』紙の1月22日の記事によると、韓国では1980年代末までは何にも増して国益優先の政策が行われ、「目的は手段を正当化する」との考え方が繰り返し教え込まれてきたという。同紙の取材に対して、韓国高度科学技術研究所の教授は、ファン氏について「我々の多くは彼を信用していなかったが、世論や政府からの圧力に負けて彼を批判できなかった。何も言えなかった。だから、科学者たちは彼の研究への反証をウェッブサイトに匿名で掲載したんです」と話している。

 私は、昨年12月16日の本欄で、ファン氏のデータ捏造の動機について「名誉欲」を疑ったが、もう一つ、韓国のナショナリズムの高まりも無視できない要素だろう。同紙は同じ記事で、ファン氏の次のような弁明の言葉を載せている:「私は仕事に狂っていました。目の前には、他のものが何も見えませんでした。見えていたのは、韓国というこの国が、世界の中で真っ直ぐに立てるかどうかだけでした」。もしファン氏と氏周辺の人々が「国威高揚のためには、多少の無理や不正には目をつぶれ」という感覚で仕事を進めたのであれば、それは日本の戦前の雰囲気を思わせるようで不気味である。ぜひ今回の失敗から学び、冷静さと良識を取り戻してもらいたい。

谷口 雅宣
 

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2005年12月23日

ID論、法廷で敗れる

 本欄で何回か取り上げてきた「知性による設計」(intelligent design、ID)論が、アメリカのペンシルバニア州の法廷で「科学として学校で教えることは違法」と判断された。生物進化を説明するためにダーウィンの進化論に意義を唱える形で登場してきたIDだが、同国初の法的判断では「科学」とは認められず、これを科学として公立学校で教えることは、公務員が自己の立場を利用して特定の宗教を強制したり確立することを禁じる合衆国憲法修正第一条に違反する、という判決である。12月22日付の『ヘラルド朝日』紙が伝えている。

 この裁判が起こされた経緯については9月29日の本欄を参照してほしいが、その時、私が書いた感想--「論争がある」という事実を高校で教えることに、私はあまり問題を感じない--よりも厳しい判断である。記事を読む限りでは、この判決のポイントは「IDは科学に非ず」との認識にあるようだ。では、科学とは何かというと、判決では「検証可能な仮説」(testable hypothesis)の上に成り立っていなければならないという。にもかかわらず、IDは自然界の背後に超自然的な知性の存在を認めるのだから、天地創造説の別名(creationism relabeled)であり、特殊な形のキリスト教であるとされた。この判決を書いたジョン・ジョーンズ判事(John Jones 3rd)がブッシュ大統領から任命された裁判官であることを考えると、同大統領には少なからずの“痛手”を与えたのではないだろうか。

 この判決に対し、ID擁護派の人たちは「IDは科学である」との立場を崩していないようだ。ID側の主任弁護士をしたリチャード・トンプソン氏(Richard Thompson)は、「一つの法廷が千の意見を付して、ある科学的理論の無効を論じても、その理論が無効になるわけではない」と言っている。また、ID推進派の科学者の1人であるマイケル・ベヘ博士(Michael Behe)は、ジョーンズ判事が「IDは科学でない」と判断したことに不満を示し、同判事は法律家としての判断領域を超えた判決をしていると批判している。
 
 判決はしかし、ダーウィンの進化論を「完璧な科学」としているわけでもない。ジョーンズ判事はダーウィンの進化論は不完全であることを認めたうえで、「しかし、科学的理論がすべてを説明できないからといって、宗教にもとづく検証不能の代替理論を科学の授業に導入したり、充分に確立した科学的命題を誤って伝えるための口実とすることはできない」と言っている。つまり、ダーウィンの進化論が生物の進化のすべてを説明できなくても、それが検証可能である限りは科学的仮説であるから、それをすべて放棄して、代りに検証不可能の仮説を「科学」として教えるわけにはいかない、ということだろう。私もそう思う。ただし、科学として教えていけないのであれば、「唯心論」や「自然神学」などとともに、哲学や宗教・神学の中で教えるのはいいと思う。また、ガリレオなどとともに「科学思想(史)」で触れるのもいいかもしれない。今後の展開に注目しよう。

谷口 雅宣

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2005年9月29日

「知性による設計」論、法廷へ

 8月の本欄で何回かに分けて(14、16、20日)、アメリカで台頭している「知性による設計」(intelligent design、ID)論のことを書いたが、進化論に対抗するこのID論を学校で教えるべきかどうかの審理が、ペンシルバニア州の法廷で始まった。9月16日付のアメリカの科学誌『Science』が伝えている。

 訴えたのは、同州ハリスバーグ市のドーヴァーという学校区(生徒数3700人)の11人の親たちで、学校側が「ダーウィンの進化論には矛盾と問題があること」だけでなく、「ダーウィン以外にもID論を含めたいくつかの進化論があること」を教えるという方針を多数決で採択したことが発端となり、昨年12月に訴訟を起したという。ドーヴァー高校の7人の生物学教師は、この学校の方針に従わなかったので、今年の1月と6月の2回、学校側の他の教師が教室へ出向き、「ダーウィンの進化論は一つの理論にすぎない」という内容の文章を生徒を前にして読んで回ったという。

 原告側の主張では、IDを教えることは一定の宗教を確立する行為だから憲法違反だという。そのことを主張するために、原告側は哲学や神学、数学、科学教育などの専門家、そして(本欄でも取り上げた)反ID論の尖兵であるブラウン大学の生物学者、ケネス・ミラー教授やカリフォルニア大学バークレー校の古代人類学者、ケヴィン・パディアン教授(Kevin Padian)など20人を超える証人を準備しているらしい。これに対し弁護側の証人は、現在は次の2人が予定されているという--リーハイ大学の生物学者、マイケル・ベヘ(Michael J. Behe)教授とアイダホ大学の微生物学者、スコット・ミニック(Scott Minnich)教授だ。

 これによって進化論をめぐる科学論争が法廷で戦わされるのかどうか、定かではない。というのは、ID側の主張は、「ダーウィンの進化論は間違っている」とか「IDはすべての進化の現象を説明できる」という点にあるのではなく、「進化をめぐる理論はダーウィンの進化論以外にも存在しており、そのことを学校で教えるべし」という点にあるからだ。これは「IDを教えろ」という意味ではなく、「進化がどう起るかについては論争がある」ということを教えることだ。また、ドーヴァーの教育委員会も「ID論が正しい」としているのではないから、法廷では「どの進化論が正しいか」という科学論争にはならない可能性がある。

『Science』誌は、同教育委員会側が勝訴する可能性は少ないと見ているが、今後、アメリカの高校教育においては、進化を教える際にID論に言及するケースが増えてくる可能性があるようだ。日本では、ダーウィンの進化論のほかに今西錦司氏の唱えた自然淘汰によらない「棲み分け説」なども人気がある。いずれにしても、進化という現象を多角的に考えることは科学的にも意味のあることだから、「論争がある」という事実を高校で教えることに、私はあまり問題を感じない。アメリカの科学者たちは、ブッシュ政権の下でキリスト教右派と呼ばれる政治勢力が影響力を増していることと関係づけて、IDの台頭に警戒しているようだが、そんなに神経過敏になる必要があるのかどうか、私にはいま一つ疑問が残る。

谷口 雅宣

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2005年4月11日

エーテルの復活か?

エーテルを復活させるための実験が行われようとしている。と言っても、この「エーテル」とは有機化合物のことではない。1世紀以上も前に科学実験によって存在が否定された“宇宙に充満する原質”のことだ。イギリスの科学誌『NewScientist』が、4月2日号の特集でそれを伝えている。

当時の科学者は、「光は波である」ことから、海の波が海水を必要とするように、光も何かの媒体を通して空間を伝わると考えた。そして、この見えない媒体にエーテル(ether)という名前をつけた。このエーテルの名は、ギリシャの自然学に由来する。古代ギリシャ人は「真空」というものを認めずに、宇宙にはアイテルが充満していると考えたが、それを物理学の世界に持ち込んだわけだ。

ところが1887年に、アルバート・マイケルソンとエドワード・モーレイという科学者が共同してエーテルの存在を確かめるための実験をした。エーテルが実在するなら、宇宙空間を高速で飛んでいる地球には、風と同じように“エーテルの風”が当っているはずだから、この風と同方向に進む光と、それに逆らって進む光の速度には微妙な違いが出るはずだ--というわけで、精密な測定装置を作り上げて実験をしたところ、残念ながら2つの方向に進む光の速度に違いはなかった。その後、似たような実験が繰り返されたが、やはり有意な差は観測されなかった。そして、物理学の教科書には「エーテルは存在しない」と書かれるようになった。

が、この結果に満足しない科学者も少なからずいた。彼らが工夫した実験では、“エーテルの風”は地球の周りを秒速8キロのスピードで吹いていると測定された。1902年のウィリアム・ヒックスの実験、1921年のデイトン・ミラーの実験などが続き、実験のたびに“エーテルの風”の速度が微妙に違ったりしたことから、定説を覆すには至らなかった。そこで今、シシリー島にあるイタリア国立核物理学研究所のモーリツィオ・コンソーリ博士が、20万ドルをかけた大実験を行い、この“世紀の謎”の解明に挑戦しようとしているらしい。

詳しいことはよく分からないが、『NewScientist』誌によると、エーテルの存在が実験で証明されれば、アインシュタインの相対性理論も修正を余儀なくされるといい、素粒子論中の謎の一部も説明可能となるらしい。それからもう一つ、生長の家の関係について言えば、谷口雅春先生の『生命の實相』がエーテルの存在を前提としていたことで、一部から「科学的でない」とされてきたが、その評価が変わる可能性もある。

谷口 雅宣

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2005年4月 9日

原人の愛

 もしあなたが土を掘っている時、化石化した人骨を発見し、その頭蓋骨の歯がすべてなくなっていたとしたら、どう考えるだろう? 4月8日付の『ヘラルド朝日』によると、いま考古学者、人類学者の間で起こっている論争は、まさにその点に集中している。

 その人骨の化石とは、2千年とか3千年程度昔のものではない。177万年も前の直立原人(Homo erectus)のものだから興味がそそられる。旧ソ連のグルジア国コーカサス地方で発見され、科学者の鑑定の結果、年齢が40歳ぐらいの男性のものという。口の骨の再生状態から判断すると、歯が抜け落ちてから少なくとも2年間は生きていたと考えられ、歯のない期間に一体何を食べていたのか、と科学者たちは想像力を膨らませている。

 この時代の原人にとって40歳は“老人”であるという。だから、この“老人”が歯を失ってから2年間、周囲の原人たち(恐らく家族)が、歯がなくても食べられるような野菜や果実などの食物を与えたか、獣の肉を石で磨り潰して与えたりしたから“老人”は生き延びられた--こう考える科学者たちは、この頭蓋骨の化石こそ、ネアンデルタール人以前の原人も、愛情をもって家族間で助け合った証拠だと結論する。これに対し、「歯がないこと」と「愛情」とを結びつけるのは短絡だと考える科学者たちもいて、論争は続いている。

 私はもっと素朴に考える。愛情(compassion)というものを人間以外の動物が共有することは、そんなに問題なのだろうか、と。鳥や犬やネコに、子を育て、仲間を守る行動が観察されるならば、それを「愛情」と呼ぶことにそんなに深刻な問題があるのだろうか。もし問題がないのならば、猿人や原人に同様なことが起こっても何の不思議もないはずだ。しかし、科学者の間では、こんな素朴論は相手にされないのだろう。ここでの論争の焦点は、この頭蓋骨の化石が「人類の祖先の中に、真に人間的と言える行動が現われた最初の証拠」であるか否か、ということらしい。

 でもこれって、「昔は今より劣っていた」という前提がなければ言えないことではないか? また、人間至上主義的な考えが背後にないだろうか? だから、進化の結果、猿人は原人になり、原人は人間性を獲得し、人類へと移行した、と考えるのだろう。しかし、「人間性」というものがそんなに優れているなら、どうして地球環境問題など起こってくるのか? どうして生物種の絶滅が危機的な速度で進行しているのか? どうも分からないことが多すぎる。

谷口 雅宣 

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2005年3月24日

進化論が攻撃されている

アメリカでは「進化論」が攻撃されている。

とは言っても、書物や学界での議論ならば理解できるが、映画館での問題だというから首をかしげる。

3月21日付けの『ヘラルド朝日』によると、アイマックス系の映画館のいくつかでは、生物の進化を扱った映画を上映しないと決めたそうだ。「進化」ばかりでなく、「ビッグバン」や「地質学」もいけないのだそうだ。理由は、聖書の『創世記』に書かれている天地創造の物語と違う説を公共の場で流布してはいけない、とする人々の反発を恐れるからだという。だから、『Cosmic Voyage』(宇宙の旅)も『Galapagos』(ガラパゴス島)も『Volcanoes of the Deep Sea』(深海の火山群)もダメなのだそうだ。2003年にリリースされた『Volcanoes』(火山)も、主として南部の州の科学センターで上映を拒否されたという。この映画の拒否の理由は、進化論に触れて「生命の起源は海底の穴の中だったかもしれない」としたからだという。

『創世記』の天地創造神話を“真理”だとして、それ以外の説--とりわけ「生物進化」の考え方を批判する人を「創造主義者(Creationist)」というらしい。これは一種の原理主義で、宗教教典に書かれた文字の一言一句の中に真理があると考える。同じ考え方を『コーラン』に適用すれば、それは“イスラム原理主義者”といえるだろう。今のアメリカが「保守化」、あるいは「右傾化」していると聞いてはいたが、映画の内容に関してまで聖書が持ち出されるのには驚かされる。

そういえば、メル・ギブソンの『パッション(Passion of the Christ)』では、「聖書に忠実に描くと、あんなに恐ろしい映画になるのか」とわが目を疑ったが、よく考えてみると、キリストの処刑の話は4つの福音書それぞれが微妙に違っている。その4つの物語のどれを「正しい」とするかは、作者の選択に任される。また、福音書に描かれたキリスト譚は「処刑の話」で埋め尽くされているのではない。にもかかわらず、「教え」の話は大幅に省略し、「処刑」の現場を延々と描くことで、作者は、聖書への忠実を装いながら、自分のキリスト解釈を前面に打ち出すことに成功した。まあ、原理主義とはそういう性格のものなのだろう。

聖書に関しては、『ダビンチ・コード』が話題になった。あれは立派なフィクションで、著者もハッキリそう言っているのに、世界中であまりにも売れていることに驚いたローマ法王庁は、「内容がデタラメだから、カソリック信者は読むべきでない」との見解をわざわざ出した。しかし、アメリカ国内でこの本の不買運動が起こっているとは聞いていない。フィクションなら許すが、事実(あるいは科学的見解)として聖書と違う考えを出すのはマズイということか。

こと宗教に関することになると、人間はどこでも融通がきかなくなるようだ。

谷口 雅宣

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