2011年5月30日

三段階で技術社会を考える

 イギリスの科学誌『New Scientist』の5月14日号(vol.210, No.2812)に、原子力発電所の事故に関する興味ある考察が掲載されていた。米アリゾナ州立大学工学部のブレーデン・アレンビー教授(Braden R. Allenby)とダニエル・サレウィッツ教授(Daniel Sarewitz)によるもので、「今、我々が住む世界は技術的、社会的にあまりにも複雑化しているので、それらを生み出した近代啓蒙主義的な考え方は、我々の行動指標とするには危険な場合が出てきている」というのである。両教授の論旨を述べよう--
 
 例えば、今回の大地震と福島第一原発の事故をめぐっては、人々は相容れない2つの考えに分かれがちだという。1つは、「これによって原子力発電が抱える異常なほどの危険性が明らかになったから、原子力発電はやめるべきだ」とするもの。もう1つは、「これによって原発の新しい安全設計が進むのだから、地球環境のために、また人類のエネルギー需要に応えるために原発の利用を推進しなければならない」というものだ。しかし、両教授に言わせれば、これらの考えには一貫性がなく、理解困難であり、今日の複雑な技術社会をめぐる決定の指針には全くならないというのである。こういう問題が起こる原因は、それぞれの論者が技術的複雑さのレベルの違いに気づかずに、人間の理性的行動の限界について混乱を来しているからだという。
 
 第一段階では、原発は、人間の造ったシステムとしては、一定の電力を極めて安定的に供給することができる優れもの言える。この場合、原子力発電の技術はシステムの機能として捉えられる。
 
 第二段階では、1つの技術を複雑なネットワークの一部として捉えなければならない。例えば、原子炉は、それを抱える一回り大きな社会というシステムがもつ送電網に連結されていて、人々の生活の安定はこれに依存している。さらに、この送電網自体も、別の複雑なネットワーク--例えば、自動車産業など製造業のネットワーク、運輸や交通のネットワーク、また情報ネットワークにつながっている。
 
 第三段階では、複雑さはさらに拡大し、人間によるものはもちろん、それ以外の自然界にある可変的で、適応的な関係も含むことになるから、我々が正確に理解し、予測できる範囲を超えてしまう。原子力利用の問題は、この段階に至ると、地殻プレートの動きや、人間の文化や社会的変化の力ーー気候変動への恐怖、生活レベル向上の要求など--と組み合わさっている。
 
 科学技術の問題をこのような三段階に分けて捉えてみると、我々の周囲で行われている議論の中心は第一段階の問題であり、副次的に第二段階の問題が議論されていることが分かる。人間は主としてこの2つのレベルにおいて、物や技術を造り、それらを理解し、利用した結果を経験する。我々はこれらの二段階のレベルで、技術の実行可能性や好ましさ、危険度などを評価する。その限りにおいて、問題の複雑さに呑み込まれてしまうことはない。
 
 しかし、第三段階の問題は、これら2つのレベルの問題と同等に「リアル」であることを忘れてはいけない。にもかかわらず、人間はこのレベルの問題に突き当たると、とかく「想定外」だと考えるのである。しかし、これはまさに“人間が生んだ地球”(anthropogenic Earth)の問題であり、技術革新を重ねながら人間社会が生み出した必然的結果として今、我々の目の前にある。だから、我々がこの“人間が生んだ世界”の中で倫理的に、理性的に、そして責任をもって生きるためには、次の基本的な“認知の不協和”を受け入れなければならない。すなわち我々は、自らが最も信頼するものを、最も強く疑わねばならないのだ。
 
 --なかなか強烈な論旨であると思う。が、これと同様のことは、現代の科学技術が抱える問題として、私がこれまで『神を演じる前に』(2001年)や『今こそ自然から学ぼう』(2002年)などの中で何度も訴えてきたことだ。そのことを、日本の原発事故を契機として、海外の科学者が科学誌の中で指摘するようになったことに、私は何か複雑な気持を覚えるのである。
 
 谷口 雅宣
 

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2011年5月22日

大地震は“神のはからい”?

 今日は北海道の音更町文化センターで十勝教区の生長の家講習会が開催され、910人の受講者が参集した。この日の十勝地方は低気圧の北上が予想されていたため、前日の天気情報では雨模様ということだったが、幸いにも朝には高曇りの状態となり、午後は晴天になった。この地での講習会は2年前は夏の開催だったが、今年は会場の都合でこの時期に早まったため、推進活動の大部分は寒さが厳しい冬季に行われた。そんな関係もあり、受講者数は前回よりも減少したが、その代わり新たな会場で行われたことで、初めて参加することができた人も多くいたに違いない。今後の組織のさらなる活性化と、“新人発掘”が期待される。
 
 午前の私の講話に対する質問は3件と少なかったが、その中に今回の震災に関するものがあった。私はそれに答えたのだが、その場の答えが十分意を尽くしていたかと訊かれると、答えに自信がない。そこで本欄を借りて、不足部分を補いたい。質問は、70歳の女性からの次のようなものだった--
 
「神が宇宙を作られたと話されました。それならば今回の東日本大震災は、神のおはからいなのでしょうか。政治家も“神のみぞ知る”と云われましたが、終息はどうなるのでしょう。原発の放射線など人体に悪影響をもたらしています。人類の滅亡とも思われます。もし神がいるならば、宗教的にどのように考えれば良いのでしょう」

 この質問は、前半は大地震のこと、後半は原発のこととして分けて答えるべき性質のものだ。前半の質問は、大地震などの天変地異は神がもたらすものかどうか、という内容として捉えられる。後半の原発の問題は、人間の営みの一部である科学技術の問題だから、前半とは少し性質が異なる。しかし、今回はこの2つがほぼ同時に起こったため、我々の一般的な印象では「2つには同一の原因がある」と感じるのだ。そのことを、この質問者は「もし神がいるならば、宗教的にどのように考えれば良いのでしょう」という形で表現していると思われる。つまり、大地震と原発事故の2つをもたらした共通原因があると考えているのである。
 
 3月11日以降、原発事故の原因についての調査が進んできているので、本欄の読者もこの2つには共通原因はないことがお分かりだろう。すなわち、大地震の原因は地球の地殻変動であり、原発事故の原因は、その地殻変動を予見していながら、可能な限りの事故防止策を講じてこなかった人間の側の怠慢が原因である。より具体的には、福島第一原発で使われていた原子炉の構造上の問題、非常用発電機の位置の問題、津波に対する備えが不十分だったことも指摘されている。さらに、人間の心の問題を指摘すれば、地震後の大津波による被害をこれだけ大きくした原因の1つには、過去の大津波の経験を重視せず、技術力を過信した点も否めない。このように見てくると、原発事故は“人災”の側面がかなり強いと言える。
 
 では、前掲の質問の前半部分は、どう考えるべきだろうか。つまり、「地震などの天変地異は神がもたらすものか?」という質問である。私は、講習会の場では、「大きな天変地異は昔から定期的に起こっている」という話をした。ただし、この「定期的」の意味は、「人間の尺度から見た」定期的ではなく、地質学的な意味での定期的だ。読者はすでにご存知のことだろうが、地震の原因は、地球表面の地殻と最上部マントルが合わさった「プレート」と呼ばれる部分が動くからである。日本列島の真下ではいくつものプレートがぶつかり合っていて、そこに周囲から常に巨大な圧力が加わっている。そこにある程度の力が貯まると、やがてバネが弾けるようにプレートが動いて圧力が発散される。これの大きなものが何百年に1回という“定期的に”起こっている。それは“神の計らい”か? と訊かれれば、普通の意味では「そうではない」と答えるべきだろう。この「普通の意味」とは、辞書にある意味だ。三省堂の『大辞林』によれば、「はからう」とは「考えて、適切な処置をする」ことであり、「都合の良い方法を講ずる」ことである。だから、この場合は「神がそれぞれの地震に、それぞれの目的や意図をもって、都合の良いように起こす」という意味になる。そのように、「神がこの世の艱難を意図的に起こす」という考え方を、生長の家は採らない。
 
 しかし、その一方で、生長の家では「神は法則である」とも「法則の形をもって現れ給う」とも説く。この観点から考えると、地震などの地殻変動は、物理学や化学の法則にもとづいて起こるのであるから、地震の起こる所には「神が現れている」と考えることもできる。そうすると「地震などの天変地異は神がもたらすものか?」という質問には、「そう言うこともできる」と答えても完全な間違いではない。しかし、その場合、自然界の法則によるのは、「100年に1回起こる大地震」だけではなく、「99年間は大地震が起こらない」状態も当然含むのだから、「99年間の地殻の安定は神がもたらす」ということも同時に言わなくてはならない。なぜなら、“法則としての神”は、人間にとって悪いことだけをもたらすのではなく、良いこと、ありがたいことも、常にもたらしているからだ。例えば、飛行機事故が起こるのは、重力の法則なくして考えられない。しかし、その同じ重力の法則は、雨を降らし、川を流し、木々の根に水を含ませ、人間に飲料水を与え、果実や穀物を育て、動物を養っているのである。“法則としての神”は、悪い現象の中にのみ現れるのではなく、常に、あらゆるところに、幸福や繁栄ももたらしている。そのことを思い出せば、神を恐れる前に、まずはその偉大な恵みに感謝しなければならないだろう。
 
 谷口 雅宣

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2011年4月 5日

原子力発電について (5)

 イギリスの科学誌『New Scientist』の3月19日号は論説ページで、今回の東日本大震災に関連して、科学技術と自然界の関係についてよい考察をしていた。論説の細部については疑問を感じる点がないわけではないが、大まかな論旨には賛成である。それを簡単にまとめれば、「自然は人間の予測を超えている」ということだ。この「予測」というのは、我々のような普通の常識人が、日常生活の中で「明日は天気になるか?」とか「来年は円安になるか?」とか「孫は試験に受かるか?」などと憶測することではない。この予測とは、先進各国の科学者が協力して、現有の最高の科学的知識を用い、スーパーコンピューターによって最良の予測モデルを走らせて行う種類の“最良の予測”である。大地震は、過去においても人類に甚大な被害を及ぼしているから、それを事前に予測できれば被害の程度を少しでも減らすことができる。だから、地震学者を初めとした世界中の科学者は、地震予知の精度を上げることに努力を傾けている。にもかかわらず、今回の大地震は、その位置や大きさはもちろん、被災地に及ぼす影響(原発事故を含む)なども、まったくと言っていいほど予測できなかった。

 しかし、同誌の論説は「予測できないから仕方がない」とか「諦めろ」と言っているのではない。そうではなく、我々は「だからこそ、自然界への影響を最小限にするよう努力すべきだ」と言うのである。また、日本では今、福島第一原発からの放射線流出のことが大きな問題になっているが、この論説は「原発事故より地球環境改変の方が、はるかに重大だ」と結論している。この論理は一見意外に思えるが、論理的にはそれほど間違っていない(ただし、私の意見は違う)。論説は、現在の原子力科学の正確さを信頼していて、「放射線物質は最小の原子のレベルまで比較的簡単に特定でき、その拡散や崩壊(decay)の状況はモデル化することができる」という。「モデル」とは、コンピューターによる予測プログラムのことだから、モデル化できるということは「予測できる」という意味だ。論説はその一方で、「二酸化炭素の排出が今世紀、地球にどのような気候変動をもたらすかを正確に予測することはできない」といっている。

 つまり、予測できるものは抑制や制御もしやすいから、原発の危険性の問題は、地球温暖化にともなう気候変動の問題よりも深刻でない、というのである。この結論に、私はにわかには承服できない。というのは、これに至るまでに、論説者は科学技術上の問題しか考慮していないと考えるからだ。原子力発電所の建設によって生じる問題は、科学技術以外にもきわめて多岐にわたる。まずコストが膨大であるから、それを負担できる企業や団体は“大資本”でなければならない。また、電力のような公共性の高いものをめぐっては企業間の競争関係を作りにくいので、経済的には「独占」か「寡占」状態になる。そこで今回の東京電力のような行政との癒着や、政党との馴れ合いの問題が生じる。また、いったん建設した原発は、その建設コストを回収するまでに長期間の運用が必要だから、勢い抜本的改良に躊躇し、老朽後も使い続けるという危険性が生まれる。福島第一発電所の場合は、それがまさに事故原因の1つだと言える。さらに、原発は1箇所で莫大な電力量を生み出すため、大都市の電力がそれに依存し、非常時のためのリスク回避が困難になる。これは今、関東地方に住む我々が痛いほど経験していることだ。

 加えて原発は、核拡散問題やテロなどによるリスクを生み出す。簡単に言えば、原発内で生まれる核物質を元にして、兵器の開発が行われる可能性のことだ。これは、言わば治安上、国際政治上のリスクだが、今回の事故を契機として、この分野で私の脳裏に新たに浮上してきたのは、別の政治・軍事上のリスクである。今回は、観測史上まれな規模の大地震と大津波によって原発の機能が破壊された。直接的な原因は、「冷却機能の停止」である。これがM9.0の揺れとその後の大津波によって起こるのであれば、直接的にもっと大きな揺れと破壊をもたらす「ミサイル攻撃」によって起こらないと、はたして誰が言えるだろうか? 私は十分起こりえると考える。その場合、そんな悪意をもった国やテロ集団が存在するかどうかが問題になるが、読者はどう思うだろう? 

 原発の機能や構造に関しては、時間の経過とともに今後も安全対策は進んでいくだろう。しかし、上に挙げた経済上・社会上・政治上のリスクは、原発の増設にともなってより増大すると私は考える。これを言い直せば、どんなに安全で効率的な原発が開発されても、大資本の独占や政治との癒着の問題、大都市の原発依存、政治・軍事上の危険性は拡大していくということだ。そういう点を、科学誌の論説者は見逃しているのではないだろうか。だから、私はできるだけ速やかに旧式原発は廃止し、自然エネルギーの分散利用に向けてエネルギー産業の構造改革をすべきだと考える。

 ところで最後になってしまったが、「自然は人間の予測を超えている」という同誌の論説の認識は、「だから原発事故より地球環境改変の方が、はるかに重大だ」という結論に結びつくのではなく、「だから原発増設も地球環境改変も、やめるべきだ」という結論に行き着くべきだと思う。なぜなら、原発増設は人類のエネルギー消費の増大につながり、それはすなわち地球環境改変につながるからだ。原発の供給するエネルギーのおかげで、首都圏の人間がこれまで何を実現してきたかを振り返れば、このことは明白である。
 
 谷口 雅宣

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2011年3月25日

原子力発電について (4)

 私は3月20日の本欄で今、大事故になっている福島第一原発と同タイプの原子炉は、「構造上の問題が1972年ごろから繰り返し指摘されてきたらしい」と書いた。この原子炉は、米GE社が開発したBWR(沸騰水型軽水炉)というタイプで、その後に現れたPWR(加圧水型軽水炉)よりも構造上、圧力容器の強度が低いという点を指摘した。私は原子炉の専門家ではないから、この評価は17日付の『インターナショナル・ヘラルド・トリビューン』(IHT)紙から借りたものだ。ところが、その後も、IHTは23日付で、また『ウォールストリート・ジャーナル』(WSJ)は24日付で、さらに米誌『タイム』も3月28日号で、今回の大事故の背後には、このような構造上の問題以外にも、いろいろな問題があることを指摘している。
 
 23日のIHTの指摘には、福島第一原発の1号機の予備用ディーゼル発電機に強圧によるヒビ割れが発見されていたことが挙げられている。この1号機は、大震災の約1カ月前に10年間の使用期限延長が認められたばかりだったという。さらに、この政府の承認後7~8週たって、東京電力は、6基の原子炉の冷却水ポンプ、ディーゼル発電機を含む原子炉冷却システムに関連する33カ所の点検を怠っていたことを認めたという。このことは原子力安全委員会のウェブサイトに発表され、その後に大地震と大津波が福島第一原発を襲ったのだ。
 
 この事実を取り上げて、同紙は「原発の運営会社と政府監督官庁の不健全な関係」があると指摘している。具体的には、旧式の原発の使用延長を認めた同委員会の専門委員は、監督官庁から雇用されていて、その決定にお墨付きを与えこそすれ、反対することなどめったにないという。さらに、原発に対する抵抗が強い日本では、新規の原発建設は年々難しくなっている。このため電力会社は、旧式原発に問題があっても、原子炉の「40年」という法定使用期限を延長することによって、しのいできた。一方、政府も、海外の化石燃料への依存度を減らす目的で原子力発電の拡大を進めてきたから、電力会社のこの措置には概ね同情的だったという。
 
 同紙はまた、福島第一原発の原子炉の設計を担当した技師の話として、この原子炉で特に問題なのは圧力抑制室が小さいことで、そのため原子炉内の圧力が上昇しすぎる危険性があると指摘している。この欠陥は、改良型の原子炉ではなくなっているという。が、この技師は、そういう点が改善されたとしても、システム全体が--配管も、機械類も、コンピューターも原子炉自体が--古いから交換時期に来ていたのだという。そういう原発に、今後10年間の使用延長を認めた監督官庁を、我々は信頼してきたのだ。
 
 九州大学副学長の吉岡斉(ひとし)氏は、25日付の『朝日新聞』に原発事業者と政府との“癒着”の危険性を次のように指摘している--

「日本の原子力発電事業の特徴は、政府のサポートが、他の国に比べてずっと強いことだ。所轄官庁と電力業界がほとんど一体になっている。(中略)他の国では、支援することはあっても、政府が事業計画まで細かく介入したりはしない。
 原子力安全・保安院は経産省傘下だから、安全行政も経産省が事実上握っている。特に2001年の中央省庁の再編以来、(中略)経産省が推進も規制もするという今の仕組みができてしまった」。

 24日付のWSJは、これとは別の「非常用復水器(isolation condenser)」の増設の必要性について書いている。これは、電力に頼らずに原子炉の冷却を行う装置で、今回のように地震と津波によってすべての電源が失われた場合、数日間、原子炉の加熱を和らげることができるとされている。だから、この間に外部電源を復旧しなければならない。昨年10月、原子力安全委員会で長期計画を検討する会合があったとき、ある関係者がパワーポイントを使い、この技術が「地震と津波から来る危険を追加的に減らす」効果があると説明したという。が、この発表は、福島第一原発のためではなく、今後の新規増設の際のものだったそうだ。非常用復水器は、すでに同原発の1号機に設置されていた。ただし、他の5基にはなく、1号機のそれも、今回は高熱のため使用不能となったと思われている。つまり、危険性は認識されており、それを回避する技術もあったのだが、残りの5基に設置する必要性は認められていなかった。
 
Bwr_structure 『タイム』誌が注目しているのは、予備電源を供給するためのディーゼル発電機の位置のことだ。福島第一原発では、これを1階のレベルに置いたことで、4台あったすべての発電機が津波によって使用不能に陥り、原子炉の冷却が不能になった。1階レベルに置いたのは、津波が来ても防潮壁で防げると考えたからだ。これを2階レベル以上の高さに設置しておけば、今回の惨事は防げたかもしれないというのである。また、放射線漏れを深刻化させた要因の1つに、使用済み核燃料プールの位置と形状が指摘されている。福島第一原発では、原子炉の加熱によって水素爆発が起こり、原子炉建屋の屋根が吹き飛んだ。このため、覆いのない核燃料プールが外部に露出することになり、冷却機能の停止もあいまって、プールから放射性物質が直接外気に発散される事態が疑われているのである。

 このように見てくると、「原子力発電は安全」という主張には相当な誇張があると考えねばならないだろう。
 
 谷口 雅宣

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2011年3月19日

原子力発電について

 好天に恵まれた今日の午後、ジョギングに出かけた。前日は全国的にとても冷え込んだが、今朝の予報では東京地方の最高気温が17~19℃になるという話だったから、春の心地よさを味わうことができると思ったのだ。確かに心地はよかった。ジョギングコースである明治神宮外苑には、私以外にも、カラフルなトレーナー姿の多くのジョガ-たちが軽快に走っていた。風もなく、太陽の光はやさしく肌を温め、鳥たちはさえずりながら無邪気に木々の間を飛んでいる。しかし、その心地よさに私は考え込んでしまった。
 
 静かな土曜日の心地よい東京から東北へ約225キロのところでは、この東京都に大量の電気を送っていた原子力発電所が地震と津波で破壊され、人体に危険な強い放射線を吐き出している。その強烈な放射線漏れを制御しようと、大勢の専門家や技師、自衛隊員、警察官、消防官などが生命の危険を冒して努力している。また、放射線被曝の恐怖から逃れようと、ここからさほど遠くない東京武道館(足立区)と味の素スタジアム(調布市)には、原発のある福島県から避難してきた人が収容され、その数は18日午後7時現在、254人になり、さらに増え続けている。日本政府が問題の「原発から半径30キロの圏外は安全」と言うのが信じられずに、東京は安全だというので避難してきたのだろう。

 が、スリーマイル島の原発事故の経験があるアメリカでは、政府が事故現場から「半径80キロ圏内」に住む米国人に避難勧告を出した。また、日本政府よりそちらを信じた韓国、英国、オーストラリア、ニュージーランド、メキシコなどは、同様に自国民に半径80キロ圏外への避難を勧告した。東京さえ危険だと考える国もあり、イラク、バーレーン、アンゴラ、パナマ、クロアチア、コソボ、リベリア、レソトの8カ国は、外務省に対して正式に大使館の一時閉鎖を通告、ドイツやオーストリアなどは大使館の大阪移転を決断したという。これは恐らく“パニック反応”だろうが、それほど恐ろしいものを人類は造ってきたのだ。
 
 この“パニック反応”の背後は、日本政府への不信がある。テレビを見ていても、きちんとした情報を開示したうえで、責任ある立場の政治家が明確な価値判断をしているようには思えない。こんな時には大学教授や現場責任者に話をさせては、いけない。彼らは事後の自分の立場を考えて、できるだけ価値判断を避けて発言する。それは仕方がないことだ。こういう国家の危機の際には、政治家が全責任を負って国民を守るのでなければ、政治家である価値はない。「混乱を避ける」のが理由で情報を開示しないという態度は、ガン患者に告知をしないのと同じで、何の解決にもならない。患者は、医師や家族を疑いながら死んでいくことになる。

 事故現場から約45キロにある福島県三春町に住む作家で僧侶の玄侑宗久氏は、19日の『朝日新聞』にこう書いている--
 
「政府は屋内退避指示の範囲を変えていないが、本当にそれでいいのか。原発から30キロ圏外ならば、このままとどまっていても安全だという根拠は何なのか。いつまでとどまっていていいというのか。
 現場はとにかく情報が交錯している。原発近くにいる我々は、この国の指示を本当に信じていいのかどうかという、自問の渦中にある」。

 原子力発電を国家の基幹産業の一つとして採用したのであれば、その恩恵だけを喧伝するのではなく、リスクを十分に知り、それを国民に隠さずに知らせるべきである。政府の隠蔽体質は自民党時代からの遺産であるが、これは言葉を変えれば「国民不信」ということだ。今回の原発事故では、その国民不信が、逆に国民の政府不信を生んでいると言えるだろう。
 
 谷口 雅宣

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2010年12月17日

信仰者の“過激化” (2)

 今日(17日)付の『朝日新聞』は、16日にオバマ政権が発表したアフガニスタン戦略の評価について、次のように報じている--
 
「駐留米軍3万人の増派などで、反政府武装勢力タリバーンや国際テロ組織アルカイダの勢いを弱めたと成果を強調。来年7月から米軍が“責任ある撤退”を始める条件整備が進んだとし、2014年末をめどにアフガン側に治安権限を完全移譲する方針も再確認した」。

 これだけを読むと、アメリカのアフガニスタン戦略は成功しているように思える。しかし、事実はそれほど単純ではない。『日本経済新聞』の記事の方が、この点を明確に記している--

「タリバン掃討作戦の効果については“タリバンの影響力が及ぶ地域が減少”と高く評価した。いくつかの主要地域ではタリバン支配が終了したとの認識を示した。タリバンの牙城の南部カンダハル、ヘルマンド両州の掃討作戦は“明白な進展”があったと指摘した。(中略)ただ、増派による治安の好転は“元に戻りうる”とも指摘し、タリバン掃討の成果は“脆弱”と認めた」。

 この引用の後半部分が、アメリカのアフガン戦略の難しさをよく表している。タリバーンとの戦闘は、「一時的に進展しても逆戻りする可能性がある」というのが本当のところだろう。そう言える理由は、この評価発表前に出された『国家情報評価』(National Intelligence Estimates、NIE)という機密文書が、まさにアフガン戦略の困難さを強調しているからだ。NIEという文書は、アメリカ軍を除くCIAなど16の情報機関の共通した状況認識を示しているもので、軍の評価と異なるのは珍しくないという。16日付の『インターナショナル・ヘラルド・トリビューン』紙は、NIEの内容を次のように要約している--
 
「この戦争においてアメリカとNATO側に有利な進展はあったものの、パキスタン北西部の無法地帯にある武装勢力の隠れ家を、同国政府が攻撃したがらないことが深刻な障害になっている。米軍の司令官によると、武装勢力はこの地域からアフガニスタンへ自由に移動し、爆弾を仕掛けたり、米軍と戦闘したりした後、パキスタン領内に戻って、そこで休み、補給を受ける」。
 
 ここにある「無法地帯」とは、「パキスタン政府の権限が及ばない地域」という意味である。ここは、パキスタンという国家の力が完全には及ばない、いわゆる“部族支配”の地域で、その部族はアフガニスタン国内にも多く住んでいるのである。そんな地域をパキスタン軍が攻撃すれば、反米感情の強い国民からは「アメリカの片棒をかついだ国民弾圧」と見なされるだけでなく、国内の部族対立を先鋭化することにもなる。ということで、パキスタンが“テロリスト”掃討に消極的なため、CIAなどは無人攻撃機を飛ばして直接、パキスタン国内の“テロリスト”に攻撃を加えてきたのである。パキスタンは、国としてはアメリカと同盟を結んでいる。にもかかわらず、その国民をアメリカが攻撃するのだから、パキスタン国民から見れば、それは「イスラームへの攻撃」以外の何ものでもない。こうして、イスラーム信仰者の“過激化”の種は尽きることがないのである。

 私は、アフガニスタンはアメリカにとって“第2のベトナム”になりつつあると思う。だから、オバマ大統領は多少の困難はあっても、期限を切って米軍の撤退を強行しようとしていると見る。その背景には、アメリカ国民の6割もがアフガニスタンでの戦闘に反対していること、さらには同政権の人気が低迷したまま、次期の大統領選挙が近づいていることも、今回のアフガン戦略評価の、半ば強引な内容に反映されている気がする。

 谷口 雅宣

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2010年11月 6日

飛行機事故の“偶然”

 因果の法則によると、世の中にはいわゆる偶然というものはない。すべての出来事には何らかの原因があり、その原因の影響が一定の条件に達すると、結果として何かの出来事が生じる。この考え方は自然科学にも採用されていて、ある法則や原理が「科学的真理」と認められるためには、前述したような因果関係を科学者が仮説として提案し、その仮説を忠実になぞった実験を設計した後、その実験が仮説どおりの結果を出すことが求められる。加えて、その実験結果には“再現性”がなければならない。つまり、誰がその実験を行っても、同じ結果が得られなければならないのだ。

 閉ざされた研究室で実験可能な自然科学上の真理の検証には、このような厳密性が一般に求められる。しかし、研究室内での実験が不可能な、社会科学上の真理を検証するさいは、それほどの厳密さは求められない。例えば、国家間の経済関係では、これ以上の円高を抑えるために、日銀総裁が資金の流動性をさらに高める政策を発表したとしても、実際は円高が続くこともある。経済学上は円安になるはず環境にあっても、である。この場合、経済学上の真理が間違っていたとか、経済学の理論が破綻したとか言われることはなく、「円高要因が別にあった」などと言われるのである。
 
 では、航空機事故は、自然科学と社会科学のどちらの“真理”に関係していると考えるべきだろう? 飛行中のジェット機のエンジンに大形の鳥が吸い込まれた場合、かなりの確率でエンジンの故障が結果する。このことは、実験によって確かめることができるだろう。その一方で、機体や機器の整備不良でも航空機事故は起こる。この整備不良の問題には人間が関与してくるから、社会科学の扱う問題だとも考えられる。さらに言えば、機体や機器に何の問題がなくても、パイロットが操縦席でインターネットに夢中になっていれば、事故が起こる確率は増えるに違いない。これは認知科学や心理学上の問題である。こう考えてみると、航空機事故の原因究明はたいへん複雑で難しい仕事であることが分かる。それでも、航空機時代の今日は、空での事故原因を究明し、それを極力取り除く努力を続けていかなければならないことは自明である。

 ところで最近、航空機事故が続いていることを読者は気づいているだろうか? 今月に入ってからだけでも、日本時間の4日にはパキスタンのカラチの空港から飛び立ったばかりの自家用機が墜落して22人が死亡、翌5日には450人以上を乗せたオーストラリアのカンタス航空のスーパージャンボ機が、エンジンの損傷によって緊急着陸した。これと前後して、キューバでは、ハリケーンが接近するサンティアゴ空港から飛び立った旅客機が墜落し、68人が死亡した。航空機がからんだこれら3つの出来事には、それぞれ別の原因があることは確かだろう。しかし、そういう個別の原因を認めたうえで、3つの事故(あるいはニアミス)がほぼ同時に起こったことには、何か共通する“原因”があると考えてはいけないだろうか?

 航空機事故の統計を詳しく調べたわけではないが、私は大きな事故が地球のどこかで起こると、それと似たような事故が地球上の別の場所で続いて起こるような印象をもっている。今回の一連の出来事は、私のその印象を実に正確に再現したものだ。航空機関連の事故が起こる確率は、自動車事故よりもはるかに小さい。にもかかわらず、一度起こると次々に起こるような現象に接すると、「その原因は?」と考えてしまう。もちろん、「3つが重なったのは単なる偶然だよ」と答えて満足する人も多くいるだろう。読者は、どちらのタイプだろうか。
 
 谷口 雅宣

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2010年10月19日

マンデルブロー氏、逝く

「フラクタル」という複雑系の概念を生み出した数学者、ブノワ・マンデルブロー氏(Benoit B. Mandelbrot)が14日、アメリカのマサチューセッツ州の自宅で亡くなった。85歳だった。ワルシャワ生まれのフランス人で、後にアメリカへ渡り、永年IBMのトーマス・ワトソン研究所の研究員を務めた後、イェール大学に移った。フランスの大学にも籍を置いて研究を進め、1975年に初めて「フラクタル」という概念を提出し、数学を使って自然界の複雑な現象や構造の説明を試みた。それによると、円や直方体、球などのように「特徴的な長さをもつ形」ではなく、「特徴的な長さをもたない形」が自然界には存在するとし、この形の重要な性質は「自己相似形」だとしたのである。

 この概念は一見難しいようだが、日本でのフラクタル研究の第一人者、高安秀樹氏は実に明快に説明する。それによると、自己相似形とは、「考えている図形の一部分を拡大しSekiran てみると、全体(あるいは、より大きな部分)と同じような形になっている」ということだ。もっと具体的には、「たとえば、雲の形を思い浮かべてほしい」と高安氏は言う。「雲の形にもいろいろあるので、ここでは積乱雲を考えてみよう。もくもくとわき上がった雲の各部分は球に近い形に見えるかもしれない。しかし、よく観察すれば球とみなそうと思った形の中にも無視できないほどのでこぼこがあり、さらに小さな球の集まりをもってこなければよい近似にはならないことがわかる」。こういうように、部分が全体の形に似ており、全体が部分の形に似ているもの。言い換えれば、全体の中に部分があり、部分の中に全体があるような図形や構造を「自己相似形」というのである。
 
 雲だけでなく、自然界は多くのフラクタルで満ちている。海岸線の形、山や谷などの地表の凸凹、アマゾン川の形、肺や血管の構造、立木や根の構造、パセリやカリフラワー、ブロッコリーに見られる特徴的先端構造などは、わかりやすい例だ。私がこの考え方に出会ったのは20年ぐらい前だったと思うが、その時驚いたのは、こういう自然界にある当り前の自然物が、パソコンによって計算式で描けるということだった。単に「パソコンで描く」というと、今ではマウスやペンタブレットを手で操作して、画用紙にペンや色鉛筆で絵を描くような描画を想像する人が多いかもしれないが、そういう手を動かす方法ではなく、手を動かさずに「計算式で描く」のである。もちろん、それによってカリフラワーやブロッコリーそのものが描けるのではなく、それによく似た形が描けるということだ。その描画のための計算式も、とりわけ複雑なものではなく、パソコン用のプログラムにして20行程度ですんでしまう。だから当時、私はプログラムを打ち込んではフラクタル図形をパソコン上に描き、「なぜこうなるのか……」と不思議に思いながら思索に耽ったものである。
 
Mand01  そして、私が引き出した結論は、「自然界にはアイディアが満ちている」ということだった。この場合の「アイディア」とは、「定数」とか「関数」とか「バイブレーション」に近い概念である。カリフラワーの“花”は、そこに実在するのではなく、目に見えない1セットの定数や関数の命令にしたがってカリフラワーの細胞が整列したときに、そこに「出現する」のである。もともとあるのは、目に見えない定数や関数の方であり、物質的存在としてのカリフラワーは、細胞が定数や関数の指示どおりに並んだときの「表現形」であり、一時的な存在にすぎない。となれば、この考え方はプラトンの「イデア論」に近づいてくるし、「理念が物質に先行する」という考え方、さらには生長の家の「実相と現象」の区別にも比較できる。こういう哲学的、宗教的な考えが、数学によって目に見える形で証明される--その可能性に胸を躍らせLambda02 たものだ。
 
 当時、パソコンで描いたフラクタル図形をここに掲げよう。こういう知的興奮と美的経験を与えてくれた“知の巨人”の1人に心から感謝し、冥福を祈るものである。
 
 谷口 雅宣

【参考文献】
○高安秀樹著『フラクタル』(朝倉書店、1986年)

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2010年7月29日

チョウの翅の模様 (2)

 遺伝子の突然変異によってチョウの翅の上に特定の模様が生じ、それが自然淘汰の過程を経て後世に引き継がれている--こういう説明は、ある一種類のチョウに注目して、その特徴を考えたときには何となく納得する。しかし、その種以外の多くの種にも目を振り向けると、そんな単純な説明では足りないことがわかるだろう。例えば今、ジャノメチョウ科のチョウの「目玉模様」について考えているが、チョウはこのほかアゲハチョウ科、シロチョウ科、マダラチョウ科、フクロチョウ科、ワモンチョウ科、モルフォチョウ科、タテハチョウ科、テングチョウ科……など10種類もの科に分けられる。そして、それぞれが翅の模様に特徴がある。ということは、他の10種類の模様も共に、永い自然淘汰の荒波を越えて現代にまで引き継がれてきているのだから、チョウの翅の「目玉模様」だけが特別に生存に有利だったのではないことになる。
 
 そう考えると、ある一定の模様をもったチョウと、その天敵との関係を見るだけではなく、そのチョウと天敵を含んだ特定の場所の生態系全体を考えて、その特殊な条件の中で自然淘汰の原理が働く--という、より広い視点を持たねばならないだろう。もっと別の言い方をすれば、ある特定の自然環境(A)では、チョウを捕食する種類の鳥が育ちやすいが、別の環境下(B)では、もっと別の--例えば、トカゲやカエルを捕食する種類の鳥が育ちやすいということもある。そうすると、環境Aではチョウの翅の「目玉模様」が生存に有利であっても、環境Bでは別のパターンの模様がチョウの生存にとって有利になることもある。こう考えると、チョウの翅の模様に11種類のパターンがある場合、チョウは少なくとも(大別して)11種類の異なった生態系に適応して進化してきたともいえる。
 
 さて、ここで生物進化の過程において初めてチョウが生まれた時のことを考えてみよう。チョウは、ガを含む鱗翅(りんし)目の昆虫だが、生物学者の矢島稔氏によると、チョウは昆虫類の中では出現が最も新しく、鱗翅目の特殊化した一群であるという。「新しく出現した」ということは、それまでの多くの鱗翅目の昆虫(ガのこと)がすでに特定の植物との共生関係を成立させていた中で生き延びねばならなかったから、「いやなにおいや味のする植物またはアルカロイドやキノンなどの有毒成分を含む植物を食べなければ生き残れない状態であったろう。その結果特有の体臭をもつものが多く、捕食者にきらわれて生存率が高くなり同時に昼間活動できるようになったと思われる」のだそうだ。
 
 こういう厳しい環境下で生きてきた生物は、複雑で不思議な生態を発達させているようだ。矢島氏によると、シジミチョウ科のチョウには、天敵への対策だけでなく、食糧を共有するアリやアブラムシとの共存を達成しているものがある。具体的には、彼らの食用する葉にアブラムシが群れてついている場合などは、シジミチョウの幼虫は葉とともにアブラムシも食べることがある。また、そこから転じて、葉の代りにアブラムシを主食とする種類が生まれ、さらにアブラムシを食べずにその分泌物を飲む種類のものもあるという。

 アブラムシの分泌物にはアリも寄ってくるから、ここから、シジミチョウとアリの関係も生まれる。その1つは、アリと共存するために、背中から分泌物を出し、その見返りにアリから餌をもらう種類のものだ。この種類のシジミチョウは、さらに驚くべき生態を発達させている。それは、幼虫の体が大きくなると、アリがそれを巣の中に運んで、サナギから羽化するまで面倒を見てくれるらしい。また、別のゴマシジミの幼虫は、分泌物を求めるアリによって巣の中に自分が運ばれると、今度は逆にアリの幼虫を捕食するのだそうだ。
 
 このような諸々の複雑な生態は、もちろんチョウやアリが自ら考えて作り上げたものではない。では、進化論のセオリー通りに「突然変異によって偶然に生まれた」と考えるべきなのだろうか? 私は、それには納得できないのである。そうではなく、現象としての生物の背後にある「生きる力」「生かす力」が、時間の経過とともに、より多様に--つまり、鳥も、チョウも、アリも生かす形で--生物全体としては、より完全な形に表現されつつあるように思えるのだ。
 
 谷口 雅宣

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2010年7月27日

チョウの翅の模様について

Brazil048  私の眼前には今、熱帯雨林の片隅で翅(はね)を休ませているチョウの姿がある。その翅はガのように静止したままではなく、ゆっくりと上下に動いている。左右の翅が同時に上下するから、上方から見ていると翅は「開閉している」ように見え、両翅の模様が現れたり消えたりするのだ。現れるのは2つの大きな“目玉”である。いや、チョウの翅に目玉は付いていないから、本当の目玉ではない。が、これらは「目玉」という形容がぴったりするような、“白眼”と“黒目”の両方をもった円文様なのだ。チョウがゆっくり翅を動かすと、これらの目が見えたり、隠れたりするから、上方からそれを見る者にとっては、2つの目が開いたり、閉じたりするように見えるのである。
 
 このような「紋」を翅につけたチョウは案外、数が多い。日本にもいるクロヒカゲやヒメジャノメなどのジャノメチョウ科のチョウは、その名が「蛇の目」であるから、2つ以上の目玉模様をもっているものが多い。しかし、なぜチョウは翅にわざわざそんな「目玉模様」を付けているのか。その説明には、普通はこんな言い方がされる--チョウは目玉模様を翅に付けることによって、自分を獣の顔のように見せかけ、天敵の鳥類から身を守るのだ。これは、専門的には「擬態」と呼ばれる現象の1つだ。擬態の意味は、百科事典にはこうある--「ある種の生物が自分以外の何物かに外見(色、模様、形)やにおい、動きなどを似せることにより、生存上の利益を得る現象をいう」。(平凡社『世界大百科事典』)

 こういう説明は、一見わかりやすいが、厳密に考えれば奇妙である。わずかな脳機能しかもたないチョウのような昆虫が、自ら「鳥から身を守るために、翅に模様をつけよう」などと思うことはあるまい。ましてや、「翅をゆっくり開閉することで、模様を獣の“目玉”に見せかけて鳥を脅かしてやろう」などと考えるはずはない。さらに不可解なのは、彼らが一定の目的を意識して自分の体の一部の色を変化させ、目玉模様を作り出した--などということはあり得ないのだ。そんなことは、脳機能が高度に発達した人間にもできない。だから、あえてそうしたい人間は、体に刺青をしたり、ペイントを塗ったり、刺青シールを貼ったりするのである。
 
 では、どのようにしてチョウの翅に目玉模様ができるのか? 普通、この種の説明には進化論が使われる。すなわち、1羽の個体としてのチョウが何かの目的意識をもって自分の体の一部を変化させることはないが、長い時間が経過する間には、突然変異と自然淘汰の原理を通して、種としてのチョウが、様々な特徴のある模様を翅の表面に描くことは十分可能だ、というのである。さらに噛みくだいて言えば--ある日、太古の森で偶然に“目玉”のような模様を翅につけたチョウが生まれる。これは遺伝子の突然変異による結果で、チョウ以上の知性をもった何かが、目的意識をもって行った結果ではない。このチョウは、こうして偶然に、天敵である鳥が警戒する模様を翅につけたことにより、結果的にその他のチョウよりも生存に有利であった。このため、より多くの子孫をもうけることができた。さらに、そのチョウの子孫も、生存に有利な模様を遺伝的に受け継いできたために、目玉模様のないチョウよりも多くの子孫を後世に残すことになり……という状況が現在まで継続してきた。だから、この種のチョウの翅には今も目玉模様があるのである。

 多くの科学者は、こういう論法ですべての生物の特徴がなぜ今日、現状のようにあるかを説明し、満足しているようである。が、私には「何か」が足りないような気がするのである。
 
 谷口 雅宣

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