2011年9月19日

新ブログはじめました

 9月14日に本欄の“内的事情”のようなものを書き、読者からのフィードバックをお願いしたが、たくさんの貴重なご意見をいただき心から感謝します。その中に本欄、もしくは本欄に近いものを今後も継続してほしいとの意見が多かったことが、大いに励みになっている。しかし、“十年一日”はやはり私の性格に合わないので、新しい名前のもと、新しい考え方で、別のブログをはじめることにした。
 
 新ブログは「唐松模様」である。左のブログ名をクリックしてください。
 
 読者諸賢には、今後はどうか新ブログを本欄と変わらずご愛顧お願い申し上げます。なお、簡単な近況報告や“雑感”“雑談”のたぐいはフェイスブック「生長の家総裁」で継続するつもりである。こちらの方も、よろしく。
 
 谷口 雅宣

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2011年9月15日

フェイスブックへの招待

 本欄で私はこれまで何回か、このアメリカのSNS(ソーシャル・ネットワーク・サービス)を読者に紹介してきた。また、英語でよければ、ここに開設している私のページに登録してほしいとのお願いもした。そのおかげで現在、世界中で1200人以上の人が登録してくれている。しかし、英語でのコミュニケーションが苦手の人も多いだろうということで、このほど日本語専用の「生長の家総裁」のページを開設した。ここでは、本欄に書くような難しい議論はできるだけ避けて、私の妻のブログのような気軽な近況報告や、スナップ写真等を主体にした情報交換を行おうと思っている。本欄の継続は、前回書いたように一種の“暗礁”に乗り上げているから、その船が救出されるまででも、こちらの私のページをご愛顧いただけると有り難い。

 ただし、本欄に比べて、フェイスブックへの登録は少しだけ煩雑である点を、お赦しねがいたい。というのは、フェイスブックは“個人”を大切にするアメリカのサービスであり、そのために「実名登録」が原則であるからだ。また、SNSは個人相互のコミュニケーションのためのものだから、単に「他人の情報を読む」だけというのは基本的にできない。フェイスブックへの登録は、まず自分個人のページを作成したあと、そのページを一種の“自己紹介”の情報として示すことで、他人との関係を結ぶ。「私はこういう者ですが、あなたとお話ししたい」という感じである。この要望を「友達申請」とか「友人申請」といい、この申請を相手が承認して初めて、相互の情報交換がフルにできることになる。ただし、例外的に、この手続きを踏まないでも読み書きができるページがある。
 
 それは、有名人とか企業などの名の通った登録者が、コミュニケーションや市場調査目的で開設するページで、このページの情報を読んだり、そこへ何かを書き込みたい場合は、「いいね!」(英語モードでは「Like!」)というボタン(通常、画面の最上段左寄りにある)をクリックするだけでいい。私の「生長の家総裁」というページは、この特別の場合のものとして作ってある。しかし、その場合でも、自分のページは事前にきちんと作成しておかねばならない。その方法をすべてここでは説明できないが、まずは自分の「メールアドレス」と「パスワード」を入力し、次に出てくる画面の要求にしたがって、自分自身の情報を入力していけばいい。また、自分の顔写真をケータイやデジカメで撮り、パソコン内に取り込んでおいてほしい。これを登録することが、フェイスブック(顔の本)の特徴であり、本人確認の有力手段となる。入力情報は、必須のものと任意のものがあるから、すべてを入力する必要はない。メッセージは、ほとんどすべてが日本語で表示されるから心配ない。
 
 このようにして自分のページを作成し終わったら、上記の私のページへ進み、画面上方の「いいね!」をクリックすれば、私とのコミュニケ-ションが可能になる。それだけでなく、私のページに登録したすべての人とのコミュニケーションも可能となる。それでは皆さん、フェイスブックでお会いしましょう。
 
 谷口 雅宣

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2011年9月14日

本欄が抱える問題について

 9月2日に本欄を書いたまま2週間ほど更新していないので、私の健康状態を心配してくださっている人がいるかもしれない。が、私は健康なのでご安心願いたい。11日に函館の生長の家講習会から帰って以来、少し疲れが出たことは告白するが、もう回復している。私の本欄への“筆無精”は、だから健康状態によるよりも、別の理由による。実は最近、本欄のような形式の文章に制約と限界を感じるようになったのである。だから、この形式を今後ずっと続けていくべきか、あるいは別の形式のものに変えるべきかを迷っている。そこで今日は、本欄を愛顧してくださってきた読者諸賢のご意見を聞くためにキーボードを叩いている。
 
 函館の講習会の日は、アメリカの同時多発テロ事件の10周年に当たることは、読者もご存知だろう。本欄は、この9・11に先立つ2001年1月13日からスタートした。ということは、本欄も“満10歳”に達したということだ。世の中には「十年一日」という言葉があって、10年も同じことをしていては評価されないのである。もちろん私が本欄に書く内容は、10年前とは相当異なってきているし、書き方や書くジャンルについても“連載モノ”や“祈りの言葉”“短編小説”など多様なものを盛り込んできた。しかし、それにしてもこの「ブログ」という日記的な表現形式は日々の現象を追っていくことが主になるから、どうしても限界があり、例えば沈思黙考した文章というのは書けない。そんな時間がないからである。すると、読者から不満の声が寄せられる。私にとっても不満が残る文章も多いから、そういう読者の気持もよくわかる。だから、反論はしない。
 
 はっきり言わせていただけば、私は一種の“下書き”のつもりで本欄を書くことが多い。あとから月刊誌に掲載したり、単行本に収録するさいに、内容をもっと吟味しなければ……と考えながらも、ブログだから発表することになるのである。実際、そういうブログの内容を編集、編纂して単行本の『日時計主義とは何か?』(2007年)『日々の祈り』(同年)『太陽はいつも輝いている』(2008年)『衝撃から理解へ』(2008年)『目覚むる心地』(2009年)『“森の中”へ行く』(2010年)などは出版された。しかし、本欄の読者は、そんな事情などに関心がない場合がほとんどだから、自分の求めるレベルの文章がないと、不満を漏らすのである。中には、「生長の家総裁には一分のスキも許されない」と言わんばかりの厳しいご意見を述べる人もいる。現象に完全性を求めるのである。
 
 私はもちろん反論することもできるが、この程度のものにいちいち反論することは本欄の程度を下げるし、私の時間を浪費するし、多くの読者の気分を害することにもなりかねない。だから、黙って次の日のブログを書くのである。初めから悪意をもってするコメントもあるが、そういう低レベルのコメントはブログの機能で自動的にシャットアウトできるから、問題ない。いちばん困るのは、こちらの事情をよく理解しないまま、まったくの善意から忠告をくださる読者である。そういう人には、本当の事情を知ってほしいのだが、それを本欄に書いたり、メールで直接本人に伝えるところまでは、私にはできないのである。それほどの時間的余裕はない。私は本欄を継続するだけで、相当のエネルギーを使ってきた。そういう事情もご本人はまったく知らないだろう。私はそれに文句を言わない。一般の信徒は、生長の家総裁の仕事がどういうレベルで、どの程度多忙であるかを知る必要は、まったくない。だから、これまでの本欄のような表現形式を改める以外に方法はない、と私は考えるのである。
 
 読者からのフィードバックをお願いする。
 
 谷口 雅宣

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2011年9月 1日

人間の“死”の意味

 私は生長の家講習会で「神は悪をつくりたまわず」という話をするとき、「死も悪ではない」ことを例として使うことがある。これはもちろん“肉体の死”のことで、その前提として「人間は肉体ではない」という教えが説かれなければならない。つまり、肉体の死は必ずしも“悪”ではないということだ。すると、驚いたような顔をする人がいる。しかし、私がそう言ったあと、肉体が死ななくなったときの社会を想像してほしいといって、超高齢化社会の到来、人口爆発の問題、社会や企業・団体・家庭における世代交替の必要性、医療費の負担問題などを挙げると、納得してくれたような顔になる。肉体の死は、このように現象世界の秩序維持のためには必要なのである。
 
 が、もちろん、人間が自分や近親者の死を感情的に受け入れることはなかなか難しい。それは、自分が最も大切だと考えかつ信じてきたものが、肉体の死によって永遠に失われると考えるからである。が、ほとんどの宗教が、「肉体の死は人間の終わりではない」と説いている。生長の家の場合、「死はナイ」という端的で強烈な表現によって、多くの人々を死の不安や悩みから救ってきたのである。

 この“肉体の死”は文明にとって必要だと訴える意見が、30日付の『インターナショナル・ヘラルド・トリビューン』紙の論説面に載っていたので、興味深く読んだ。書き手は哲学者であり、外交官でもあったスティーブン・ケイヴ(Stephen Cave)というイギリス人だ。ケイヴ氏は、哲学のみならず心理学、脳科学、宗教の分野の知識を駆使して、人間の文明を動かしている根源を探求した『Immortality(不死)』という本を書き、これが来年春の発売前から話題になっているらしい。この論説は、その著書の主旨をまとめたものという。

 それをひと言で表現すれば、「人間は“死ぬ”という意識を克服するために文明をつくり出してきた」ということだろうか。別の言い方をすれば、もし“肉体の死”がなくなってしまえば、それは“文明の死”でもあるというのだ。イギリスではBBCテレビが『トーチウッド:奇蹟の日』という連続ドラマを夏休みの期間にやっていて、これが9月で終わるらしい。このドラマの中で「奇蹟」と読んでいるのは、死がなくなることだという。ケイヴ氏によると、大方の予想とは異なり、人類は死の消滅による人口過剰の問題を物質的には克服することができるが、心理的にはそれができないという。その理由は、人類の文明は「不死」を実現しようとする情熱によって形成されてきたからだという。

 この“不死への情熱”が宗教を生み出し、詩を書かせ、都市を建設させるなど、我々の行為と信念の方向性を決定している、とケイヴ氏は言う。このことは、昔から哲学者や詩人によって言われてきたが、科学的な検証は、最近の心理学の発達によって初めて可能になってきたらしい。この論説には、その初期の実験の1つが紹介されている。
 
 それは1989年に始まったアメリカの社会心理学者たちの研究で、これによって「自分は死ぬ」という事実を思い出すだけで、人間は政治的、宗教的考え方を大きく変えることが分かったという。この研究は、アメリカのアリゾナ州ツーソン市の裁判官たちの協力のもとに行われた。この裁判官のグループのうち半数には、心理テストを行いながら「自分は死ぬ」ということを思い出させ、残りの半数にはそうしなかった。その後、彼らがよく扱うような売春をめぐる仮想の事件を判断させたという。すると、死について思い出した裁判官たちは、そうでない裁判官たちよりも重い--平均で9倍もの--罰金を科す判断を下したという。

 この結果をどう解釈するかが、興味深い。ケイヴ氏によると、この実験の背後にある仮説は、「我々人間は、死は避けられるとの感覚を得るために文化や世界観をつくり出す」というものだ。しかし、死はいずれやってくるから、それを思い出した人間は、自分の信念に以前より強固にしがみつき、それを脅かすものに対して、より否定的な態度をとる、と考えるのである。だから、これまでにも売春を罪として裁いてきた裁判官は、自分の死を思い出すと、その科料を引き上げることで、裁判官としての信念や世界観を守り通そうとするわけだ。
 
 「恐怖管理理論(Terror Management Theory)」として知られるこの仮説は、シェルドン・ソロモン(Sheldon Solomon)、ジェフ・グリーンバーグ(Jeff Greenberg)、トム・シジンスキー(Tom Pyszczynski)という3人の心理学者によって提唱され、これまで400例を超える検証が行われてきたという。その分野も宗教から愛国心にいたるまで幅広く、検証の結果は一貫して正しいことが認められているという。つまり、我々の考え方のある要素は、死への恐怖を和らげる必要から生まれる--言い換えれば、我々の文化や哲学、宗教などの様々な心理体系は、我々が「死なない」ことを約束するために存在するというのだ。
 
 こういう観点から世の中を見てみると、なるほどとうなずけることが多い。ケイヴ氏は、エジプトのピラミッドやヨーロッパ各地の大聖堂、現代都市にそびえる超高層ビル群などを例として挙げているが、これらの物理的な構築物が“死を超えた世界”を描いているだけでなく、そういう建物の中で説かれる教えや、そこに設置される施設、そこで提唱されるライフスタイルも、「死後も生きる」ことや「死の到来を延期させる」希望によって彩られている、と考えることができるのである。
 
 このように見ていくと、今後、再生医療やアンチエージング医療が急速に進歩し、もし本当に “肉体の死”がなくなる日が来たとしたら、人間は死の恐怖から解放されるから、これらすべての文化的、宗教的、社会的な営みの原因も消滅し、人類の文明は崩壊することになる。だから、人類がこれまで“不死の薬”の開発に成功しなかったことに我々は感謝すべきなのだ--これがケイヴ氏の結論である。
 
 谷口 雅宣

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2011年8月25日

ドイツでの国際教修会について (5)

 前回の本欄では、マルカス・フォクト氏の“人間中心主義”について若干の疑問を呈したが、私は彼の神学者としての立場を理解しないわけではない。神学者は、聖書の記述にもとづいて教義の解釈をしなければならないのは、当然だからだ。そして、『創世記』には確かに人間中心主義的な解釈ができる聖句がいくつも含まれている。また、生長の家でも「人間は神の自己実現である」と説いていて、我々人間が動植物とまったく同等の関係で「神の御徳を表現している」とは考えない。生長の家では、人間が他の生物に優れているのは「自由を許されている」という点で、それによって初めてこの世界に「善」を実現することが可能になる、と考える。なぜなら、自由意思のないロボットのような存在は、どのような行動をしても「善悪」の責任を問われることはないからだ。
 
 ところで、フォクト氏が「ものの価値は人間によって創られる」と言ったとき、それはある意味では正しい。その「ある意味」とは、経済学における需要と供給の関係のように狭義で短期的な視点から離れて、生態学で扱われるような広域にわたり長期的な視点から評価した場合の価値である。私たちの日常生活の中でも、あるものをどちらの視点から見るかによって、その価値の評価は変わることがある。
 
 簡単な例を挙げれば、レストランに入ったときのメニュー選びである。我々は一般に安くて、豪華で、良質なものを好むと思われるが、それを「空腹である」という個人的で、短期的な視点--空腹なのは自分であり、空腹の状態は短期的である--だけから見れば、高蛋白、高カロリーで見栄えがよく、比較的安価なメニューを選ぶ人が多いかもしれない。しかし、生長の家の教えを知っていて、地球温暖化や食糧問題に我々の食生活が大いに関係していることを学んでいる人は、より広く、長期的な視点から自分の食生活を考えるだろうから、多少ボリュームは少なくても、肉食を避け、野菜や海産物を主体としたメニューを選ぶようになる。その場合、メニューの中では比較的値段の高いものを選ぶことも十分ありえるだろう。

 こういう例などは、社会が決めた価値と個人の決めた価値とが食い違う場合で、個人が自由意思を行使したのである。そして、高蛋白で肉主体のボリュームのあるメニューは捨てられ、それより値段は高くても、地球環境や世界の食糧供給に害の少ないメニューが選ばれた。だから、ものの価値は人間によって決まるというキリスト教の価値論は当たっている。が、この場合、このレストランでの、この個人の選択が、社会全体の価値観を変えたとは言えない。一個人の一回の食事の選択だけでは、社会全体の価値観は変わらない。では、同じ1つのメニューに対して“複数の価値”があると考えるべきだろうか。となると、その同じメニューを選択する人の数は事実上“無数”だと考えられるから、世界には無数の価値がバラバラに存在するということか。しかし、そう考えてしまうと、世の中で起こるあらゆる出来事の価値は相対的だということになり、「善悪」を評価すること自体が無意味になってくるる。そして、法律や倫理・道徳、宗教の存在価値はなくなってしまう。
 
 だから、神学者が「ものの価値は人間によって創られる」と言うときは、人それぞれがバラバラの価値基準をもっているという意味ではなく、人間には共通する価値基準があり、それがものの“本当の”価値を決めるという意味でなければならない。我々が使っている例にしたがって言えば、安価でボリュームたっぷりのハンバーグ定食を選ぶ人(Aさん)にも、高価だがより低カロリーで、野菜も比較的多いカツオのたたき定食を選ぶ人(Bさん)も、この人類共通の価値基準にしたがって行動したのではないが、食品をめぐる知識をより多く得て、さらに地球環境や食糧・人口問題などの知識も豊富に得たうえで、倫理的判断をせよと言われたならば、AさんもBさんも同様な--本当の--判断をする、ということではないだろうか。これは、実際に今そうなるという話ではなく、そうなる可能性が将来予見できるという話である。つまり、現実には存在していないが、条件が整えばそのようになるはずだという想定された状況である。

 こうなってくると、「ものの価値は人間によって創られる」というのと「ものの(本当の)価値は神によって与えられている」というのと、内容的には違いがなくなってくるのである。とりわけ、人間を“神の似姿”としてとらえるキリスト教においては、そうならざるを得ないのではないかと私は思う。
 
 谷口 雅宣

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2011年8月21日

ドイツでの国際教修会について (4)

 このテーマで前回書いたときから、しばらく日がたってしまった。ドイツのカトリック神学者、マルカス・フォクト氏によるキリスト教の世界観を学んでいる途中だった。それによると、キリスト教には神・人・自然を3つの主体として明確に区別する“三者分立”の考えが強く、さらにそれらの間に「神」「人」「自然」の順に序列がついているのだった。その根拠は、神は創造主であり、すべて原因者だから第1に価値があり、人は、その神を経験できる被造物として2番目に価値を有し、自然はそれができない被造物であるがために3番目の地位に置かれるということだった。ここまでは、論理的にはわかりやすい。が、現代の科学的研究の結果と合致させようとすると、無理が生じる部分がある。特に人間と自然とを截然と分離する考え方は、近年の生物学の発見とは相当矛盾してくるだろう。
 
 ところで、フォクト氏が「ものの価値」について語るとき、私の脳裏には疑問符がいくつも浮かぶ。同氏によると、ディープ・エコロジーでは自然界の価値は自然そのものの中にあるとするが、キリスト教的世界観では、ものの価値は人間が決めるというのである。私は、これには大いに異論がある。確かに資本主義経済の中では、ものの価値は人間によって決められる。簡単に言えば、需要と供給が一致する点でものの値段は決まる。しかし、それはあくまでも経済学であり、宗教ではない。しかし、フォクト氏は、キリスト教的視点では、ものの価値は予め与えられているもの、あるいは自然によって前もって決まっているものではないという。そうではなく、人間同士の検討によって創られるものだという。そして、「これが真に存在論的な意味での“人間中心主義”である」と言うのである。その意味は定かでないが、人間中心主義を否定していないことは確かである。が、その一方で、これは人間だけを問題にすることではないという。この重要な発言についての説明は非常に短くて、難解だ。「これは知識と倫理的判断についての存在論的な前提条件であり、自然の内在的価値を無視しているのではない」というだけである。

 この説明だけでは、同氏の真意を確かめることはできない。が、あえて想像してみるならば、こういうことだろうか--すなわち、キリスト教的見方によれば、人間が他の自然よりも価値があるのは「神を体験する」という理性があるからだ。逆に言えば、自然には理性がない。ということは、価値の存在や高下を判断するのはこの理性によるのだから、自然自体には価値判断の能力がない。だから、自然界には弱肉強食の生存競争が存在している。これをトマス・アクィナスは「自然悪(natural evil)」と呼んだ。もちろん、人間社会にも弱肉強食の現象は存在する。しかし、人間はその状態を見て「悪いことだ」と判断する能力がある。これがつまり「神を体験する」という意味だろう。別の表現を使えば、自分の良心の内に神の声を聴くということだ。そういう“神の似姿”として創られた人間が自然界の出来事の価値判断をせずに、自然自体に--自然のすべての部分に--価値があると考えることは、人間存在自体の意味を否定することになる--これが、同氏のいう「存在論的な前提条件」の意味なのだろう。簡単に言えば、人間の存在の意味を肯定するならば、人間中心主義にならざるを得ないということだろう。

 しかし、この考え方では、「自然から学ぶ」とか「自然の中に神を見出す」ということが可能であるかどうかの疑問が残る。フォクト氏は「自然の中に神性を見出す」というディープ・エコロジーの考え方を否定しているから、論理的一貫性は保たれている。しかし、このような一貫性に固執する態度は、あまりにも左脳偏重ではないかという気がする。人間は誰でも、虚心になって自然現象に相対するとき、神秘性、偉大性、壮大性など、自分を超えた価値の存在を心の中に感じるものである。その感覚は、論理によって説明し尽くせるものではない。そういう感情を“偶像崇拝への誘惑”として否定することが人間らしい生き方であり、しかも神への忠誠を誓うことになるとキリスト教では考えるのだろうか。このへんの疑問は、いつかぜひ同氏に聞いて説明を受けたいと感じる。なぜなら、氏はドイツ人であるだけでなく、フライブルグ市の出身だというからだ。ドイツ人は昔から“森”を愛することで有名であり、ドイツ国内でその“森”と人間との調和的発展が実現している町が、フライブルグ市だからだ。
 
 谷口 雅宣

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2011年8月18日

“自然とともに伸びる”方向へ大転換を

 今日は午後4時半から、京都府宇治市の生長の家宇治別格本山の大拝殿で「東日本大震災物故者追悼慰霊祭」がしめやかに挙行された。この御祭は3月11日の大震災とその後の大津波で亡くなった何万人もの犠牲者の御霊をお招きして、人間・神の子、生命無限の真理を説く聖経『甘露の法雨』を読誦し、生前の御霊の御徳を称え、感謝の誠を捧げるためのもの。招霊の後、私は奏上の詞を述べ、慰霊祭の詞に続き玉串奉奠を行った。また、今回は被災地の東北3県の教化部長も壇上で玉串を捧げ、茨城教区の教化部長が聖経の一斉読誦を先導した。
 儀式の終了後、私は概略次のような言葉を述べた:
 
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 本日は、東日本大震災物故者追悼慰霊祭に大勢お集まりくださり、誠にありがとうございました。今年3月11日に起こった東日本大震災により、大変多くの方々の命がこの世から霊界へと移りゆくことになったのは、実に残念なことでした。この大地震がなければ、まだまだこの世で活躍し、私たちと愛を深め親交を広げることのできた何万人もの人々が、自らの意思とは関わりなく、急速に霊界に移行しなければならなかったことの意味を、私たちは深く考えねばならないと思うのであります。
 
 私はその考察の一端を、4月17、18、19日の3回にわたってブログ上に書き、また2つの祈りの言葉として発表しました。「自然と人間との大調和を観ずる祈り」と「新生日本の実現に邁進する祈り」の2つです。これらはすでに機関誌『生長の家』6~7月号にも発表されているので、まだ読んでおられない方はぜひ読んでいただきたいのです。

 これらの中の大きなポイントが1つあります。それは、近年、自然と人間とが対立する現象が顕著になりつつある中で、これが起こったということです。言わば「自然と人間の対立」の最も鮮明な表現が今回の大震災である。何万人もの人の命が、大地震とそのあとの大津波によって一気に奪われた。それだけでなく、原子力発電所の事故により、大勢の生きている人々も生活の場を奪われることになっている。原発は人間が造ったものですが、原子力そのものは自然の力の一部です。

 放射線というのは、地球の大気圏から一歩外の宇宙空間へ出れば、そこらじゅうを飛び交っているものです。それが地上では生物に害を及ばさないようになっている。その理由は、生物同士が協力して、特に植物が地上で生い茂ってくれることで大量の酸素を生み出し、独特の構成の大気を形成しているからです。言わば“透明な放射線防護服”で地球全体を覆って守ってくれている。にもかかわらず、人間は自分のためだけを考えて、生命全体にとって危険きわまりない放射性物質を、地下深くから掘り出し、それをエネルギー源にして使う方法を開発した。
 
 それがちょうど、大東亜戦争の末期に行われたのです。そして広島、長崎にまず原爆として投下され、その後は核兵器の開発競争となり、さらに原子力発電所の世界各地への建設となった。その結果、今日本には54基もの原子力発電所が海岸線に並ぶという状況になっているのです。これと併行して、化石燃料の過剰な消費というのも、永年にわたって世界的に行われてきた。これもまた人間の都合だけを考えて行われている。そのおかげで、生物種が大量に絶滅し、地球温暖化現象や気候変動が起こっていて、私たちの生活を脅かしつつあるということは、皆さんもすでに十分ご承知のことです。
 
 この「自然と人間との対立」関係を解消して、大調和を実現しなければならないというのが、今回の大震災に遭遇した私たちが最も学ばねばならない大切な教えである。私はそのことを強調したいのであります。しかし、これは、大震災の犠牲となった東北地方の人々に最大の責任があるという意味では決してありません。「大震災の意味を問う」というブログのシリーズにも書きましたが、国家の政策レベルと個人の魂の進化のレベルとは、次元が違う問題であり、別に考えなければならないのです。

 大東亜戦争がそのよい例です。明日、精霊招魂神社大祭が行われますが、そこでの祝詞にも書かれているように、個人として戦地で戦った人の大部分は、自己の利益を度外視して国のため、家族のために命を捧げた人々です。その忠義と滅私奉公の精神は魂の浄化に大いに役立ったし、私たちはそういう方々のおかげで戦後を生きることができた。だから、心から感謝の誠を捧げるべきです。しかしそのことと、国家として、日本社会として、戦争を行い、戦争を推進していった責任問題は、明らかに別に存在するのです。日本はそれによって過ちを犯したのであるから、それをつぐない、再び同じ過ちを犯さないように、国家や社会の制度を改善する必要があったし、戦後の日本社会はそういう方向に動いてきたので、今は国際社会の立派な一員として認められ、活躍できるようになっている。

 それと似たことが、今回の大震災でも言えるのです。このことは4月17日のブログにも書きましたが、個人が突然に亡くなる“不慮の死”というのは、魂の成長にとって役立つことが多い。これは谷口清超先生が『新しいチャンスの時』(2002年刊)という本の中で次のように書いておられることからも、分かります。引用文は、突然の交通事故による死に関して述べられたものだが、今回のような自然災害による死についても適用できます--

「このような即死は、高級霊にもありうることだ。それは急速な肉体からの離脱は、多くの業因を脱落するから、ちょうど大急ぎで家を出る時には、ほとんど何ものも持たず(執着を放して)去るのと似ている。だから魂の進歩に役立つのである」。(p. 21)

 このようにして、今回の被災によって多くの人々の魂が執着を脱落して、急速に進歩をとげたということは大いにあり得るし、その通りだったと私は思います。しかし、このことと、人間の集団としての国家や社会が今回の大災害の後に進歩するかどうかは、別次元の問題なのです。
 
 今回は「大地震」という自然災害が直接の原因であるが、しかし、戦後の日本社会の無理な、歪んだ発展の仕方が、震災の被害を拡大したという事実は認めなければならない。それは、地球環境全体を含めた「自然破壊」という方向へ進んできたということです。もちろん、「東北」という一部の地域の人だけが行ったことではなく、政府や行政が一体となって全国的に行った政策の結果です。つまり、唯物的な価値を追い求めすぎて、それを得るためのエネルギー源を莫大な力をもった原子力に依存することを決め、広島と長崎の教訓も忘れ、原子力がもつ生命体への危険性を過小評価してきた。それとともに、生命を扱う農業よりも物質を生み出す工業を優先し、自然が豊かな地方よりも物質が豊かな都会を育成する方策を永く続けてきたのです。
 
 また、自然の力を侮った傲慢さ、そして人間至上主義の問題があります。私は今回の震災後に初めて“津波石”の話を知ったが、そういう津波の危険を訴える我々先祖の警告が無視されて、低地に街や港が建設されたことが津波の被害を拡大した。科学・技術の力を過信してきたと同時に、自然に対して「何があっても大したことはない」という傲慢な考えを持ち続けてきたということです。それは結局、人間至上主義が背後にあるからです。ここから「自然など科学や技術の力で押さえ込んで利用すればいい」という考えが生まれ、それがダム建設や護岸工事、防潮堤の建設、そして原子力発電所の構造などにも反映している。

 我々は「与えれば、与えられる」「奪えば、奪われる」という心の法則を学んでいる。個人のレベルでなく、国家や社会、さらには人類のレベルで自然との関係を振り返れば、我々はこれまで経済発展という目的のために、自然から奪い続けてきたことを反省しなければなりません。森林を切り倒し、生物種を絶滅させ、大量の家畜を毎日殺している。南九州で口蹄疫が発生したとき、我々は短期間に十万頭以上の家畜を殺処分した。そういう我々が、自然界から「奪われない」ですむということはないのです。
 
 自然から奪い、自然から徹底的に搾取するという人間の生き方は、もはや成り立たないことが今、教えられているのです。だから私たちは、“自然とともに伸びる”生き方を開発しなければいけない。このことは、地球規模の気候変動問題でも明らかになりつつあるのだから、今はそういう生き方に日本社会が転換するための貴重な機会であることを知らなければなりません。それを、今回の大震災で犠牲となった御霊さまが説く“観世音菩薩”の教えとして受け取り、御霊さまに心から感謝申し上げるとともに、私たちの生き方を現実に変革していかねばならないと信じるのであります。

 どうか皆さんも、それぞれの立場から自然の中に神を見出し、自然を敬い、自然と調和する生き方を開発し、それを広めていただきたいと念願いたします。
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 谷口 雅宣

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2011年8月16日

ドイツでの国際教修会について (3)

 前回まで本欄で見てきたキリスト教的自然観は、日本の伝統宗教である神道の自然観とはやや異なる。フォクト氏は、「人間は自然に根差した存在である」としながらも、「神を経験する」能力を神から恩寵としていただいている点を強調して、それが自然と人間とを区別するものだという。人間の方が、自然より神に近いとするのである。だから、自然を聖化する汎神論とは異なると説くのである。神道においては「万物に神が宿る」のであるから、神と人との境界が定かでないだけでなく、動植物と人、神と動植物との境界も定かでない。これに対し、キリスト教的世界観では、自然と神とは、明らかに区別された主体同士(distinct entities)として捉えられる。また、人間と神との間にも明らかな区別があるため、人間は「聖なるもの」が抱える負担を軽減されるというのである。これは恐らく、人間には完全性が要求されないという意味だろう。その結果、神と(人間を含めた)被造物との間には自由意思にもとづく関係を結ぶ可能性が生じる、と考えるのである。
 
 ここのところが、日本人にはわかりにくい。いわゆる“神との契約”説である。人間は自由意思にもとづいて神と契約を結んだのだから、神の戒めを守る義務が生じ、神も人間を救う義務が生じるという考え方だ。フォクト氏によると、この神との契約は、人間と神との間だけでなく、自然物と神との間にも同様に存在するという。そして、その根拠として、『創世記』第9章13~16節を挙げる。そこには神の言葉としてこうあるのだーー
 
「すなわち、わたしは雲の中に、にじを置く。これがわたしと地との間の契約のしるしとなる。わたしが雲を地の上に起こすとき、にじは雲の中に現れる。こうして、わたしは、わたしとあなたがた、及びすべての肉なるあらゆる生き物との間に立てた契約を思いおこすゆえ、水はふたたび、すべて肉なる者を滅ぼす洪水とはならない。にじが雲の中に現れるとき、わたしはこれを見て、神が地上にあるすべて肉なるあらゆる生き物との間に立てた永遠の契約を思いおこすであろう」。

 このような「神・人・自然」の“三者分立”の考え方が、キリスト教が環境問題を扱う際のきわめて重要な要素になる、とフォクト氏は言う。例えば、自然の中に“聖なるもの”を見るという点で神道と似ているディープ・エコロジーの立場では、自然はそのままで聖なるものだから、それを変更することは許されないことになる。自然自体が“完全な秩序”であり、“完全な平衡”を体現していると見なされる。とすると、農業も一定の自然の改変であるからできないことになり、遺伝子組み換えや、動植物を使った自然科学上の実験もタブー視されることになるという。これに対し、キリスト教の観点では、自然界の秩序に不完全な点を認める。それは例えば「死」や「闘争」のようなマイナス面である。こういうマイナス面に対して、手を加えて矯正するのが人間の使命だと考えるのである。そして、この見方は、現代の進化論的自然観と共通しているとする。なぜなら進化論では、生物界は常に生存競争による自然淘汰が行われている--つまり、未完成のアンバランスなシステムとしてとらえているからである。
 
 フォクト氏は、ディープ・エコロジーの考え方を批判して、もし自然界がそのままで“聖なるもの”であるならば、人間はその秩序を乱す“自然への最大の災害”となってしまうという。そして、自然環境は人類の滅亡によって最大の利益を得ることになってしまうとする。ディープ・エコロジーのような生命中心主義、あるいは環境中心主義の考え方を突き詰めていくと、そういう結論にならざるを得ないというのである。私は、この件を聞いて、かつて小泉純一郎氏が首相だった時代に、国会答弁で「人間の造ったものだけが地球に害を与えている」と指摘し、「人間こそが異星人と思われる」と発言したことを思い出した。しかしこれは極端な考え方で、人間には地球に害を与えないものを造る意志もあれば、能力もあり、実際にそういう製品を造り始めているという事実もある。ただ、現在の経済制度では、そういう努力がなかなか金銭的に報われない残念な側面があるのである。この点は、人間の努力で修正可能だと私は考える。
 
 谷口 雅宣

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2011年8月14日

ドイツでの国際教修会について (2)

 マルカス・フォクト氏の基調講演は、教修会参加者が同氏の論文『Sustainability and Climate Justice from a Theological Perspective』(持続可能性と気候変動の正義)を読んだ上で事前に提出した質問に答える形で行われた。この論文の内容については、すでに6月22~23日の本欄で簡単に触れた。論文が難解で多岐にわたるところから、質問も数多く、多岐にわたった。が、それに応える形のフォクト氏の講演は、うまく整理されていた。
 
 最初に氏は、現実問題である地球温暖化などの環境問題に宗教の立場から対応する場合、終末論的な危機や恐怖をあおる悲観主義に陥ることなく、人々が問題解決に勇気をもって取り組めるように積極的な希望を与えるべきだと訴えた。しかし、その希望とは、何か理想的なユートピアが今にも実現するような非現実的な夢であってはならず、人間の弱さや社会の制約などを見極めたうえで、論理的、方法論的にしっかりした目標を掲げるべきだと述べた。ただし、人間は理性的な存在だけではなく、感情や霊性を兼ね備えているから、それとのバランスが取れた方法が求められるという。
 
 その後、フォクト氏は、前回触れた聖書の教典解釈の問題に入っていく。具体的には、『創世記』第1章28節の記述をどのように解釈するか、である。その聖句とは、日本語の口語訳聖書ではこう表現されている--
 
「神は彼らを祝福して言われた、“生めよ、ふえよ、地に満ちよ、地を従わせよ。また海の魚と、空の鳥と、地に動くすべての生き物とを治めよ”。」

 ここで「彼ら」というのは、人間の男女のことである。だから、人間に対して「地に満ちよ、地を従わせよ」という神の命令をどう解釈するかで、人間の行動規範が大きく変化するのである。リン・ホワイトなどの“キリスト教悪玉論”者によれば、この聖句があるために、西洋社会が文化的、歴史的に環境破壊を行ってきたということになる。フォクト氏はこれに対し、「従わせよ」のヘブライ語(原典の言葉)である「rdh または kbs」は、確かに「踏みつける(trample)」「踏みつぶす(stamp)」「征服する(subdue)」などのほか「強姦する(rape)」という意味まで含むけれども、ここでは統治者に相応しい用語として解釈しなければらないという。つまり、責任ある統治者は国民をどう支配すべきかと考えれば、ここの解釈は「責任をもって世話する」ということになるという。そして、この解釈は、2番目の創造物語と調和したものだという。「2番目の創造物語」とは『創世記』第2章に出てくる話で、そこでは、神は人を創造され、エデンの園にすべての植物を生やさせた後に「主なる神は人を連れて行ってエデンの園に置き、これを耕させ、これを守らせられた」(第2章15節)とある。ここの表現と、「地を従わせる」行為とが矛盾していてはいけないということだ。
 
 さらにフォクト氏によれば、『創世記』第1章28節の記述は、その前節にある記述と矛盾して解釈してはならないという。前節には「神は自分のかたちに人を創造された。すなわち、神のかたちに創造し、男と女とに創造された」とある。この「神のかたちの人」(Man in God's image)が、神の被造物であり神が「良し」とされた他の生物を情け容赦なく踏みつぶしたり、征服したり、絶滅させたりすることを、神が命じられるはずがないというのである。だから、ヘブライ語の「rdh」が原典で使われていたとしても、ここでの「地を従わせる」行為は、神による理想的な支配--導き、飼い慣らす--という意味になるという。また、「従わせる」という言葉は上下関係を示しているから、人間が他の生物を支配する場合も、“上下関係をともなった仲間”(hierarchical partnership)だと考えるべきだという。

 人間が他の生物の“仲間”であり、神に準じた特権階級ではないということは、「土のちりで人を造」ったという『創世記』第2章7節の記述にも示されている、とフォクト氏は言う。この「ちり」とは、地上に属するものという意味、つまり自然界に根差すものだという。ただ1点だけ、特権的地位があるとしたら、それは「神を経験する」能力を与えられているということだとする。これが「神のかたちの人」という意味であり、これによって人間は、無条件の愛を実践し、他への責任をもつことができるという。こうして、人間は自然の一部でありながら、自然を支配し、かつ自然に対して責任をもつことが要求されると考えるのである。
 
 谷口 雅宣

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2011年8月13日

ドイツでの国際教修会について

 本欄にしばらくご無沙汰していたが、今回の海外行きについて報告しておこう。目的は、ドイツのフランクフルト市で行われる「世界平和のための生長の家国際教修会」と、ロンドンでの一般講演会のためである。いずれの行事もヨーロッパでは初めてなので、事前準備と会の運営に携わっていただいた地元の幹部・信徒の方々を初め、本部国際部の人々も大変だったと思う。が、幸いにも両行事は成功したため、関係者の方々は今、安堵とともに、大事業を成し遂げた充実感を味わっておられるに違いない。この場を借りて、心から感謝申し上げます。ご苦労さまでした!
 
 すでに妻がブログで触れているが、国際教修会は7月30日と31日の2日にわたり、フランクフルト市のマリティム・ホテルを使って行われ、11カ国から143人が参加した。内訳は、ブラジル(80人)、アメリカ(22人)、ドイツ(10人)、スペイン(8人)、イギリス(7人)、スイス(5人)、ポルトガル(4人)、パナマ(3人)、カナダ(2人)、そしてフランスとオーストリアが各1人だった。このうち、本部講師と本部講師補は34人だった。

 今回の教修会のテーマは「自然と人間との共生・共存に向けた教典解釈に学ぶ」というもので、キリスト教神学において「神・人・自然」の関係が歴史的にどのように捉えられ、それが今、どのように変化し、あるいは変化していないのかを「教典解釈」を通して学ぼうとするものである。加えて、“環境先進国”とも呼ばれるドイツの政策が、キリスト教の影響をどの程度受け、どのように形成されてきたかを、同国の若手カトリック神学者、マルカス・フォクト氏(ミュンヘン大学ルートヴィヒマクシミリアン校教授)の基調講演や本部講師の発表などから学ぶことが目的だった。さらに教修会後には、“環境都市”として世界的に有名なドイツ南西部のフライブルク市(Freiburg)を訪れ、当地の環境対策などを視察することになっていた。
 
 キリスト教と環境問題との関係については、本欄ですでに何回も扱ってきた。また、昨年の生長の家教修会でもこれが研修の一部となり、私は昨年7月11日の本欄で“キリスト教悪玉論”を紹介したから、ここでは詳しく述べない。ごく簡単に言えば、キリスト教の教義に含まれる“人間中心主義”が環境問題の元凶であるとする批判が、1960年代後半からかまびすしく唱えられてきたのである。が、それから40年以上が過ぎた今日、キリスト教の教典解釈においてどのような変化があり、それがさらに現実の環境保護運動や国の環境政策にどのように反映されてきたかを、ドイツの現場で確認しようというのが、今回の主眼だった。その結果、かなりの“教義の変更”が教典解釈によって行われてきたことが確認された。しかし、教典に示された基本的な“考え方の枠組み”は変更がむずかしいため、キリスト教文化圏での今後の環境政策や原子力発電をめぐるエネルギー政策には、必ずしも問題がないとは言えないとの印象をもった。

 例えば、今回のゲストであるマルクス・フォクト氏が加盟するドイツ司教協議会(German Bishops Conference)では、東京電力福島第一発電所の事故を経て、明確に“脱原発”の意思表明をした。これは、今年5月24日に行われた「チェルノブイリとフクシマ後の倫理」(Ethik nach Tschernobyl und Fukushima)という題のシンポジウムに提出された論文で、この中には次のように明確な記述がある--
 
「倫理的な視点から見れば、放射性廃棄物の問題が解決されず、大規模な事故の可能性をもち、さらにテロリストの攻撃に晒される可能性を考えれば、原子力エネルギーの利用は、今日的視点から正当化できるものではない。我々は、再生可能エネルギーの時代への移行を加速し、原子力エネルギーの利用をできるだけ早期にやめるべきである」。
 
 これに対し、カトリック教会の“総本山”であるヴァチカンの態度は、6月14日の本欄でも紹介した教皇ベネディクト16世のメッセージにも表れているように、原子力の利用を明確に拒否することがまだできないでいる。つい半年前に擁護していたものを、手のひらを返したようにすぐに反対するのは難しいことは理解できるが、本件のような大きな問題について発言する場合、メッセージの内容が「不明確である」ことは、マイナスの印象を与えると私は思うのである。が、ここには、教典解釈の難しさが重要な要素として含まれているとも考えられる。今後、原発問題についてのカトリック教会の態度は、世界の動向にも影響を与えると思うので、私は注目している。
 
 谷口 雅宣

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