2009年12月19日

難産だった「コペンハーゲン合意」

 11月15日の本欄で「森の大切さ」について書いた時、今回のコペンハーゲンでの第15回国連気候変動枠組み条約締約国会議(COP15)は難航するだろうと予測した。これは“大方の予測”がそうだったからだが、これほどの“難産”とは思わなかった。幸いなことに、18日になって行われた各国首脳クラスの直接協議で、「合意なし」という最悪の事態は避けられた。そして、ここで大筋が了承された「コペンハーゲン合意」が、総会でも「留意する」ことが合意されたらしい。こうして、法的義務がない“政治合意”に達したが、2020年までの各国の温暖化ガス削減目標の決定など、具体的な諸方策は先送りされた。

 上掲の本欄でも触れたが、その原因は、いわゆる“先進国”と“途上国”との利害の対立である。温暖化の責任は先進諸国の経済活動だから、それによって生じる温暖化ガスをまず先進国が劇的に減らすべきだ、というのが途上国の考えである。これに対して先進国は、温暖化ガスの削減はもちろん自ら行うが、今後は中国やインドなどの新興国の経済発展が急速に進むのだから、それらの国も排出削減の義務を負わなければならない、と主張する。ところが、それらの新興国は、自分たちの経済発展を妨げるような排出削減の義務は、不公平であるから負えないとして、法的な拘束力をもつ削減目標を拒否している。

 この基本的な立場の違いを埋めるために、2つの方策が提案された。1つは、先進国から途上国への技術支援であり、もう1つは経済支援である。この場合の技術支援とは、エネルギー効率を高めたり、非化石エネルギーを利用する技術を、先進国から途上国へ移転するためのもので、経済支援とは、それらに必要な資金や、気候変動によって生じる災害を防いだり、被害を救援するための資金だ。日本を含む先進諸国は、この2つを実施する代わりに、途上国に排出削減の義務を負わせようとした。が、この試みは不成功に終った。

 今日(19日付)の『朝日新聞』によると、18日の首脳クラスの非公式協議でたどりついた“政治合意”の主な内容は、①気温上昇は2℃以内に抑える、②各国は来年1月末までに、2020年の削減計画をリスト化し目標とする、③途上国は隔年で削減の取組み状況を国連に報告、④途上国支援は、2012年までは年100億円、2020年時点では官民合計で年1千億ドル、というもの。

 2020年までの温暖化ガスの中期削減目標の決定が来年に延ばされたことにより、「2020年までに1990年比で25%削減」という日本の中期目標は、宙に浮いた形になった。というのは、この目標は、「米中など主要排出国も含めた削減合意が達成されるならば」という条件付きだったからだ。そのため、日本経団連や自民党などは、今後きっと「日本だけ突出するな」と言って、この高い目標を下ろすように鳩山政権に強力に迫るだろう。が、私は、今は「突出すること」に意味があると思う。これは、「高い削減目標を掲げ続ける国が先進国の中にもある」ということを、中国やインドなどの新興国や、すでに温暖化の被害を被っている最貧国に示すためだ。そうすれば、新興国は削減への圧力を感じ続けるし、最貧国は日本の“誠意”を読み取ってくれるだろう。そして、日本経済を化石燃料を使わない“地上資源型”へと急速に転換していってほしいのである。
 
 谷口 雅宣

| | コメント (0)

2009年12月 4日

デンマークの電気自動車

 7日からコペンハーゲンで地球温暖化抑制のための気候変動枠組み条約第15回締約国会議(COP15)が開かれるが、その開催国・デンマークは、温暖化対策に熱心なEUの中でも、先進的な努力をしている国である。昨年12月8日の本欄では、同国に電気自動車を本格導入するための実験が行われていることを伝えたが、3日の『ヘラルド朝日』紙は、COP15を前に、その現状について同国も「苦戦している」という内容の報告をしている。

 デンマークは、米カリフォルニアのベンチャー企業「ベタープレイス」(Better Place)と組んで、電気自動車の普及に必要な充電設備等のインフラ整備を進めている。現在の蓄電技術では、車載用のリチウムイオン電池による1回の充電で「160km」までしか走れない。しかし、ベタープレイスは、この距離制限を克服するために、充電スタンドでの電池交換方式を進めている。つまり、車載の電池とフル充電した電池とをこのスタンドで交換することで、電気自動車の走行距離を短時間で、事実上無限大にまで伸ばそうというわけだ。この試みが困難に面しているというのだ。

 上記の記事によると、デンマーク政府はこのプロジェクトのために、電気自動車にかかる税金を、1台4万ドルまで無税にする措置をとっている。また、コペンハーゲンの中心街では、電気自動車の駐車料金はゼロにしているという。こういう優遇措置があっても、市民の間には懐疑的な意見が多いらしい。というのは、充電スタンドの有無によって、自分の行動が制約されるという心理的不安がまだ大きいからだという。

 デンマークのエネルギーは、すでに2割が風力によって供給されているが、同国政府は、全国に充電スタンドを設置するだけでなく、それらのスタンドに必要な電気を風力で供給することを考えている。これによって、車の使用が少ない夜間に風力で充電するという“炭素ゼロ”の理想的なパターンができ上がる。が、そのスタンドの設置が思うように進んでいない。

 昨年の1月、ベタープレイスのCEO、シャイ・アガシー氏(Shai Agassi)は、2010年には充電スタンドを10万カ所にし、電気自動車は6~7千台になると予測していたが、現時点では同社製の車は1台も走っておらず、スタンドの数は55カ所に止まっているという。主な原因は、スタンドの建設コストらしい。1カ所の建設費は100万ドルに近く、さらに車種ごとに異なる電池を用意しなければならないからだ。つまり、車載用充電地の規格がまだ不統一なのだ。同社の方式に沿った電気自動車を製造するとしているのは、今のところルノー=ニッサン社だけらしい。そして、同国で登録済みの電気自動車の数は、まだ500台に満たないという。

 こういう話を聞いていると、かつてのカセット式ビデオテープの規格不統一を思い出す。ベータ方式とVHS方式をめぐって日本のメーカーが突っ張り合いをしたため、世界中が2つの規格併存となり、やがてVHSが勝利した。ビデオテープならば単なる企業間のシェア争いですむが、地球全体の緊急要請である温暖化抑制のための新技術が、企業間競走によって普及が妨げられることは、決して好ましいことではない。世界の自動車メーカーは何とか努力して、早期に充電池の規格統一をなしとげてほしい。
 
 谷口 雅宣

| | コメント (0)

2009年11月29日

長崎で感じたこと

 今日は長崎市の長崎ブリックホールにおいて、長崎南部教区での生長の家講習会が行われた。同教区では2年前の前回の講習会では、長崎市だけでなく西海市の生長の家総本山や島原市、福江市にも会場を設けて、4会場に約6,300人の受講者が集まってくださったが、今回はなぜか長崎市だけに会場を設けたことで、受講者数は約5,200人に激減してしまった。誠に残念なことである。現在、生長の家は、全国を挙げて“炭素ゼロ”運動を推進している中で、長崎県のように離島も含めた広範囲に信徒が生活している地域では、1会場にしぼった講習会の開催はあまり理に適わない。また、大都会はともかく、過疎化・高齢化が急速に進んでいる地方に於いては、1会場にしぼっての開催は長距離の旅行を余儀なくさせるから、高齢者にとって誠に不利である。そういう点から考えても、今回の講習会は開催方法に課題を残したと言える。
 
 その反面、よい点も見出せる。それは、長崎市の中心部に近い広い会場が確保できたことで、同市を中心とした生長の家を知らない人々が来場できる機会が増えたことだ。そういう人たちが実際どれだけ参加したかは分からないが、
教区幹部の方々が各地で熱心に推進してくださったことは確かだから、きっと各所に信仰の“新しい種”が撒かれたに違いない。今後の運動の活性化に大いに期待する。講習会当日は「雨」も予想されていたが、幸い時おり日差しもあるよい天気となり、和やかな雰囲気の中で会がもてたことはありがたく、うれしかった。
 
26martyrs  2年前の前回の講習会では、メイン会場は西海市の生長の家総本山だった。私たちは今回、長崎市に久しぶりに来て、前日には「二十六聖人殉教の地」を見学した。そこの資料館にも行って、初期の日本のクリスチャンがどれほどの苦労と受難のすえに、キリスト教をこの地に定着されたかの一端をかいま見ることができた。「二十六聖人」とは、1597年2月に、豊臣秀吉の命令によって長崎の西坂の丘で十字架に張りつけられて死んだ26人の日本人クリスチャンで、後にカトリック教会から「聖人」の称号を得た人々である。詳しい情報は、日本二十六聖人記念館のサイトにある。当時の日本では、キリスト教が民衆から受け入れられなかったのではなく、受け入れられ過ぎたので為政者が脅威を感じ、弾圧したのである。1549年にフランシスコ・ザビエルによってもたらされたこの教えは、33年後の1582年には信者数が「15万人」にまで拡大したことを示す資料もある。

 その資料館を見学しながら私の脳裏にあったのは、その後の日本におけるキリスト教の信者数のことだった。このことは、今夏のブラジルでの生長の家教修会での講話の時にも触れたが、文部科学省に登録された2006年末の信者数で示せば、日本におけるキリスト教系宗教団体の信者数は、宗教団体全体の登録信者数に対してわずか「1.4%」なのである。これに対して、神道系と仏教系の宗教の信者数は全体の「94%」である。この国ではクリスマスが盛大に祝われ、結婚式が教会で普通に行われ、有名大学を初めとしたキリスト教系の教育施設が数多くある。さらに日本の歴史を振り返ってみても、二十六聖人殉教に見られるように、キリスト教に触れた多くの日本人が、厳しい禁教令にもかかわらず、自らの命と引き替えに教えを守り通してきた事実がある。にもかかわらず、現代日本においては、クリスチャンの割合が「100人に2人」に満たないというのは不思議というほかはない。

 谷口 雅宣

| | コメント (5)

2009年11月22日

「自然を愛する」とはどうすることか?

 今日は午前10時から、長崎県西海市にある生長の家総本山に於いて、「谷口雅春大聖師御生誕日記念式典」が厳かに執り行われた。この式典は、前日に行われた龍宮住吉霊宮秋季大祭と龍宮住吉本宮秋季大祭という2つの御祭に続くもので、海外代表を含む各地からの生長の家の幹部・代表者が集まって、前年の運動の成果を讃え、今後の運動のさらなる発展を誓う場である。私は本式典において祝詞を奏上し、運動の功労者へ表彰状を授与するなどしたほか、大要以下のような挨拶を行った:
 
--------------------------------------------------------
 皆さん、本日は谷口雅春大聖師御生誕日記念式典に大勢お集まりくださいまして、誠にありがとうございます。
 この11月22日は、昨年までは「谷口雅春大聖師御生誕日記念」に加えて「生長の家総裁法燈継承日記念」という枕詞がついていましたが、今回からは2番目の枕詞は消えました。その理由は説明するまでもありませんが、私が生長の家総裁の法燈を継承させていただいたのが、今年の3月1日の立教記念日だったからです。ですから、今回の秋の記念日は、例年より何かが減ったのではなく、2つの枕詞が春と秋に分かれたということをご了解ください。谷口雅春先生のお誕生日がなくなったのでも、総裁の法燈継承を記念する日がなくなったのでもありません。

 さて、今年は全国的に秋の到来が早いように思います。気象庁に問い合わせたわけでもないので確かなことではありませんが、つい数日前には日本列島は寒気に包まれて、冬の到来を思わせるほどでした。東京地方の気温も最高が「9.4℃」という日がありました。生長の家本部の近くにある明治神宮の外苑のイチョウ並木も、ちょうど黄葉が見ごろで、長崎へ来る前日などは黄金色の絨毯を楽しむことができました。ここ総本山でも、公邸のお庭のカエデが奇麗に色づいてきています。こうして美しい自然に接することができるのは、本当にありがたいことと思います。このように今は紅葉が美しい季節ですから、私はこの秋の記念日には「自然界」の話をよくするのであります。今日は「自然を愛する」とはどういうことかを、皆さんと一緒に考えてみたいのであります。

 生長の家では現在、“自然と共に伸びる運動”をしようというので、私たちは運動方法や日常生活をいろいろ工夫して、できるだけ地球温暖化が進まないように心がけています。皆さんもこのことはよく心得ておられると思います。日本では政権交替が行われて、温暖化抑制により積極的な民主党が今、温暖化問題に取り組み出したところですが、残念ながら、世界全体の動きはまだまだ経済優先で進んでいるようであります。そのおかげで、温暖化の速度はIPCCが予測した“最悪”のシナリオに近い動きを示しているのが現状です。

 私たちは“生活者”としては、できるだけCO2を排出しない生活を心がけることはもちろんです。しかし、特に経済が停滞している現状では、経済復興のためには消費をどんどんしろという人が多いのですから、“信仰者”としては、「なぜ消費によってCO2を排出してはいけないか?」という問いに、宗教の立場から確信をもって答えることができなくてはいけないと思います。それは別の言葉でいえば、「なぜ自然を愛さなかればならないか?」という問いかけでもあります。その答えは、「神の愛を実践する」ためなのであります。仏教的に言えば、仏の「四無量心の実践」です。
 
「自然を愛そう」などと言うと、皆さんの中には「自然を愛することなど昔からやっている」という人がいるかもしれません。しかし、その「愛」とはどんな種類の愛でしょうか? 産業革命以降のこれまでの人類の文明では、「自然を愛する」とはいっても、それはたいてい自然の“全体”を愛するのではなく、自然物の中から人間にとって利用価値の大きい一部のもの--例えば鉄鉱石、石油、ウラン、木材、牛肉……を取り出して、それを愛する。つまり、自分のそばへもってきて、利用する--五感を満足させる手段として消費する--という意味でありました。自然の中でも人間の利用価値がないものは、“邪魔者”と見なされ、破壊されたり、廃棄物として捨てられてきました。これが経済発展とともに地球全体で大規模に進行してきたために、自然破壊が行われ、公害問題が発生して、さらには今日のような地球規模での気候変動が深刻化してきているのであります。

 その理由はなぜなのでしょうか? 人間は「自然を愛する」のをやめたのでしょうか? 私はそうは思いません。なぜなら、今のような紅葉の季節には、大勢の観光客が紅葉狩りに繰り出します。冬にはスキー客が繰り出し、春には山菜採りに繰り出し、花見に繰り出し、夏には海や山に繰り出して自然に接することで幸福感を味わうからです。また、世界中で似たような現象が起こりますから、自然を愛するのは日本人だけではない。それではなぜ、人間は自然を愛しながら自然破壊を続けるのでしょうか? この問題に正しく答えることができなければ、自然保護や温暖化抑制の試みはきっと失敗するでしょう。

 私はこれは、「愛する」という言葉の意味をしっかり理解しないところから来ていると考えます。生長の家では、「愛」というものを皆さんに無条件でお勧めしてはいません。これは、講師の先生方ならばよくご存じのことです。仏教でも、愛は煩悩の一つに分類されています。また、キリスト教でもイスラームでも、愛には低いものから高いものまでいろいろの段階があると教えられています。「自然への愛」についても、私たちは古来からある、こういう宗教の知恵から学ぶことが大切です。

 生長の家創始者の谷口雅春先生のご著書『新版 生活と人間の再建』には、第8章に「愛の諸段階に就いて」という題をつけて、この問題に明確な答えが示されています。この本は今、生長の家講習会のテキストにもなっていますから、皆さんもお持ちの方が多いと思います。お家へ帰ったら、読み返してみてください。
 
 (同書、pp.148-150 を朗読)
 
 ここで谷口雅春先生が説かれているように、人類のこれまでの「自然への愛」とは愛着の愛であり、執着の愛だったのであります。これは煩悩の1つでありますから、愛すれば愛するほど自然から奪い、自然を破壊する結果になってしまいました。私たちは今やその「煩悩の愛」を超えて、自然に対しても仏の四無量心を表す方向へと歩み出さなければなりません。

 では、それは何をすることでしょうか? 四無量心とは「慈・悲・喜・捨」です。すなわち、「慈悲」とは「抜苦与楽」の心です。つまり、人の苦しみを見ては、その苦しみを除いて楽を与えようと思う心です。これを自然界に対して適用すれば、自然が傷つき、多くの生物種が絶滅している現状を見て悲しみ、その自然を回復させ、生物種の保存と繁栄とを実現させようとする心です。また、生物が繁栄している様子を見れば、それを自分の繁栄のように感じて喜ぶ心が「喜」です。別の言葉で言えば、「自然と我とは一体なり」という自他一体の感情を起こし、その通りに生きることです。それが、より高次の「自然への愛」であり、これによって人間は初めて自然を傷つけ、自然から収奪する従来の生き方から離れることができるでしょう。
 
 さて、それでは四無量心の4番目の「捨徳」について考えてみましょう。自然を愛するに「捨」をもってするとはどういうことでしょうか? 谷口雅春先生は次のように説いておられます--
 
 (同書、pp.156-157 朗読)
 
 これを読むとお分かりのように、人間が自然を自分の好みに合わせてつくり変えるのではなく、自然本来の活力を発揮させ、自由に解放してあげることです。それによって、人間の生活に多少不便なことが起こっても、それを「不便」とか「不都合」とか考えないのです。なぜなら、自然と我とは一体なのですから、自然にとって好都合なことは自分にも好都合と感じるからです。人類の多くがこのような心境に到達するのは、まだまだ先のことでしょう。しかし、「神の愛」を実践することの大切さ、仏の四無量心の尊さを知っている信仰者には、こういう生き方に向かって努力することの意義がよく分かるのです。
 
 生長の家は、環境運動ではありません。宗教運動であり、信仰者の生き方を広める運動です。今日、環境問題の重要さは世界的に認知されるようになっていますが、それを宗教上の信仰の問題として捉える人は、残念ながらまだまだ少ないのです。生長の家はそれを行うことによって、今、困難に直面している地球温暖化抑制を精神的・宗教的側面から強力にバックアップしていく使命があると考えます。ですから、私たちは“自然と共に伸びる運動”をぜひ実現させ、その意義を生長の家以外の多くの人々にも伝えて、神の御心を実現していきましょう。
 
 自然の美しいこの秋の記念日にあたって、所感を述べさせていただきました。ご清聴、ありがとうございました。
 
 谷口 雅宣

| | コメント (6)

2009年11月15日

森の大切さ

 今日は目の覚めるような晴天のもと、千葉市の幕張メッセ・イベントホールで千葉教区の生長の家講習会が開催された。気温も暖かで紅葉・黄葉の美しい休日でもあったから、宗教の話よりも行楽を選ぶ人も多かったろうと思うが、1万人を上回る数(10,109人)の受講者が参加してくださり、和やかな雰囲気の中で講習会がもてたことは誠にありがたかった。

 午後の部の講話で、私は地球温暖化抑制のための人類の努力がいま、どのような困難に差しかかっているかを話した。本欄の読者にもそれを知ってもらいたいので、以下に少し書くことにする。

 パリに本部を置く国際エネルギー機関(International Energy Agency, IEA )はこの10日、『World Energy Outlook 2009』(世界のエネルギー展望)という報告書を発表した。これは同機関の毎年のレポートの最新版だが、698頁もある大部のもの。それによると、世界各国のエネルギー政策が変わらずに、このまま経済発展が続いていくと、人類の化石燃料への依存は今後急速に強まり、気候変動とエネルギーの供給不安がますます深刻になるという。

 12月にはデンマークのコペンハーゲンで190カ国の代表が集まって、京都議定書に続く気候変動抑制のための条約の交渉が行われるが、そこでの合意はかなり難しいとされている。その理由は、化石燃料を基礎とした現在の文明から、風力や太陽光などの再生可能エネルギーを基にした新しい文明へ転換するためのコストを、誰がどう負担するかで、先進国と途上国の間に鋭い意見の対立が続いているからだ。

 途上国側の主張は、今日の温暖化をもたらしたのは先進国だから、原因をつくった先進国がコストを支払うべきで、途上国の経済発展を妨げる権利はないというもの。これに対し、昨年来の経済不況から立ち直れないでないでいる先進国は、高額の資金の提供や、自らのもつ環境技術の提供に消極的だ。京都議定書後の取り組みについては、先進国は中国やインドなどの新興国にも温暖化ガス削減の義務を認めさせようとしているが、それらの国々は上記の理由から、それに反対する姿勢を崩していない。

 その一方で、昨年来の世界的経済不況は、温暖化ガスの排出を大幅に減らすという意味ではよい効果をもたらした。IEAもこのことに触れ、経済の停滞によって、今年の温暖化ガス排出量は世界全体で3%減少すると予測している。これは、この40年間で最大の下げ幅という。しかし、2012年に期限切れとなる京都議定書の後に、温暖化抑制のための国際合意ができない場合、2030年には温暖化ガスの排出量は40%も増えることになるという。この増加分の半分以上は中国によるもので、残りはその他の新興国による。

 今の人類の経済活動が地球規模でどの程度の自然破壊をもたらしているかについては、アメリカの著名な評論家、トーマス・フリードマン氏(Thomas L. Friedman)が、11月12日の『ヘラルド・トリビューン』紙に寄稿した論説が分りやすい。それによると、現在の地球上で使われるすべての交通・運搬手段--列車、自動車、トラック、航空機、船舶--から排出されるCO2の量よりも、森林伐採によって発生するCO2の量の方が多いというのである。森林伐採による温暖化ガス排出量は、人間の活動全体から排出される量の17%を占めているが、これを止めることの方が、化石燃料から再生可能エネルギーへの転換を図るよりも効果的であるという。毎年、地球上から消失する森林の面積は、アメリカのニューヨーク州ほどの広さだという。同州の面積は約12万8400平方kmだが、これを日本の国土に当てはめてみると、北海道、四国、九州を足した広さ(約13万2000平方km)にほぼ匹敵する。現在の“経済成長”というものには、これだけの面積の森林を毎年消失させるという深刻なマイナス面をもっていることを、我々は知るべきである。

 私は今日の講習会で、IEAの報告書の話はしたが、フリードマン氏の論説に触れる時間がなかった。が、ここで考えてみると「森林伐採による温暖化ガスの排出」とは、チェーンソーや木材運搬用のトラックから排出される温暖化ガスのことであるよりも、「伐採によって森林に吸収されなくなるCO2の量」のことなのだ。つまり、人類が現段階以上の森林破壊をやめることができれば、CO2の排出量を「17%」も森林が吸収してくれるのである。植林や育林の重要性を改めて感じる。秋の紅葉は美しくてありがたいが、緑豊かな森の大切さも忘れてはなるまい。

 谷口 雅宣
 

| | コメント (1)

2009年10月 8日

エコカーへの転換を急ごう

 24日から千葉市の幕張メッセで開催される東京モーターショーでは、次世代エコカーの展示が“目玉”になるらしい。今日の新聞各紙が報じている。私はかねてから本欄などで、自分の乗る車として「ハイブリッド式小型SUV」の登場を希望していたが、それはなかなか出なかった。が、今回、やっと希望の車種に近いもの、さらにはその上を行くらしい車種が登場する。地球温暖化は数年前の予想以上に進行しているから、今では、ハイブリッドよりさらにCO2排出が少ない車種に切り替えたいところだ。
 
 民主党政権の減税政策等により、ガソリン・エンジンと電気モーターを兼用するハイブリッド車(HV)は、どんどん売れているらしい。特に、トヨタ自動車のプリウスは今年度の上半期(4~9月)で約11万6300台を売り、軽自動車を含む国内新車販売ランキングで初めて首位に躍り出た(7日付『朝日』)。これはきわめて喜ばしいことだが、すでに公用で何年もプリウスに乗っている私としては、この程度の燃費効率では実質的な“排出削減”にはならないのである。さらに燃費を向上させるためには、新世代のHVであるプラグイン・ハイブリッド車(PHV)か電気自動車(EV)でなければならない。

 6月5日の本欄に書いたが、HVで先行するトヨタはEVの開発に難色を示していたようだが、時代の変化を察知したのか、今度のモーターショーには「FT-EVⅡ」という超小型電気自動車を出品するという。また、同時に展示されるプリウスのPHV版は、リットル当り55キロという驚異的な燃費効率だという。トヨタとは異なる方式のHV「インサイト」を出していたホンダは、来年2月発売予定の「CR-Z」というスポーツHVを出品するという。
 
 これに対して、今年7月に「アイミーブ」を出して電気自動車で先行していた三菱自動車は、長距離走行が可能なPHVのSUV車「PXミーブ」を出すという。これは、電気だけで50km走行でき、それ以上は発電用の補助エンジンを使って走るらしい。また、EVの「プラグイン ステラ」を7月から販売開始した富士重工も、「スバル ハイブリッド ツアラー」というコンセプトHVを出すという。その一方で、EVに力を入れてきた日産自動車については、新聞記事は詳しくない。超小型EVの「ランドグライダー」が展示されるそうだが、市販は未定。2010年後半に「リーフ」というEVを発売するらしいが、これは1回の充電で160kmまでしか走れない。

 私のかねてからの希望の車種にいちばん近いのは、ホンダの「CR-Z」ではないかと思うが、三菱の「PXミーブ」も魅力的である。ただし、双方とも実物を見ていないし、詳しいデータも知らないから、それ以上は何とも言えない。私はモーターショーへは恐らく行けないから、人々の評価を聞いてから買い替えを考えるつもりである。
 
 このように、国内の自動車メーカーがこぞって「燃費重視」の新型車を開発していることは、温暖化抑制が人類的合意になったことの表れだろう。特に、政権交替した日本政府が「1990年比25%削減」という大きな目標を掲げたことで、「待ったなし!」の認識が生まれつつあることが大きい。この方向へどんどん進むことが、さらなる技術革新と新産業育成につながるのだから、国益にもなる。我々もユーザーとして大いに協力したい。
 
 谷口 雅宣

| | コメント (0)

2009年9月13日

倫理的消費者の潮流

 今回の世界的金融危機とそれに続く経済不況の後に、現れるものは何か? かつてと変わらぬ大量生産・大量消費・大量廃棄を奨励する物質主義的資本主義なのか、それとも、地球温暖化抑制や経済格差の是正を視野に入れた、もっと倫理的な経済システムなのか?

 --こういう質問をすれば、恐らく大部分の人は「後者が望ましい」と答えるに違いない。私もそれを希望する。が、「希望する」だけではその実現は保証されない。なぜなら、人間の心には習慣性があり、そういう人間が集まって構成された社会や経済にも、その習慣が色濃く反映されるからである。希望しながら、「でも実現は無理だろうなぁ~」と手をこまねいているだけでは、習慣の力から脱することはできない。
 
 従来の消費生活に疑問を感じ、別の生活を模索しつつ、自らの消費に何らかの倫理を導入する人々を「倫理的消費者」(ethical consumers)と呼ぶらしい。同じようにして、単に金儲けを目的とするのではなく、社会に倫理的なインパクトを与える目的で企業や団体に投資する人々とを「倫理的投資者」(ethical investors)という。そういう人々は、今回の経済危機より前から存在していたことはいた。が、数は少なく、特殊例外的であり、大金持ちの人もいたから、一部には“売名行為”ではないかと批判されることもあった。つまり、社会の“潮流”になることはなかったと言える。が、この経済危機後には、多くの普通のアメリカ市民が、倫理を重視した投資や消費に参加しつつあるようだ。

 アメリカの時事週刊誌『TIME』は、9月21日号に「倫理的消費者の台頭」(The Rise of the Ethical Consumer)という特集記事を載せ、この新しい潮流に注目している。それによると、厳しい経済不況下の今年であっても、アメリカの人々はガソリンの燃費が悪いSUVからプリウスに買い替えたり、フェアトレードのコーヒーを選んで買ったり、かつてない高率で社会的責任を重視する企業に投資したりしているという。『TIME』誌が行った世論調査では、今年1月以降、オーガニック製品を買ったアメリカ人は、10人のうち6人以上という。また、大勢の人々が省エネタイプの電球も買った。さらに、それらの商品の購入動機は、「オーガニック」とか「省エネ」などという商品の性質によるだけでなく、その出所にもよるという。今夏、同誌が1,003人の成人を調査したところ、その82%は、地元や近隣の企業や団体を支援することを意識して、お金を使ったという。また、40%近くの人が、今年商品を買った理由として、それを生産している企業や団体が掲げる社会的、あるいは政治的価値に賛同したことを挙げている。

 アメリカでは1995年以降、企業の社会的責任(SRI)を重視する投資信託が急増している。この種の投資信託は、一般にタバコや、石油、小児労働に関係する企業への投資を避けるところに特徴があるが、そういう投資信託の数は1995年当時は55しかなかったものが、現在は260もあるという。そして、それらへの投資総額は約2.7兆ドルに上り、アメリカの金融市場全体の11%ほどを占めるらしい。このような“倫理的潮流”がつくられつつある要因の一つは、オバマ氏が大統領選挙のキャンペーン中から環境配慮型の製品や産業を称揚し、利益と倫理原則は両立しうることを強調してきたことだが、オバマ大統領の誕生により、社会的責任を重視する人々の活動はさらに盛り上がりを見せているらしい。
 
 生長の家でも“炭素ゼロ”運動の一環として肉食を減らしたり、マイ箸、マイバッグ、マイボトル、グリーン購入のような個人レベルでの活動に加え、太陽光発電装置の設置、会館や道場の建設に際しての設備のグリーン調達などを進めている。企業が社会的責任を果たすことで利益が出るためには、我々消費者の意識が高まることが必要だ。そういう動きが日本のみならず、消費超大国のアメリカでも生まれていることを知って、心強く思った。
 
Wedding  ところで、私は12日に生長の家講習会のために函館市へ行ったが、宿舎となったホテルで面白い光景に遭遇した。ホテルの正面玄関にいたとき、1台の真っ白なリムジンカーが目の前に横づけし、中から着飾った新朗新婦が現われたのだ。そのリムジンカーときたら、普通の高級乗用車2台分の長さだったから、さも大量のガソリンを消費するに違いない。こういう豪華な演出の結婚式をするのが今の若者の“潮流”かと、私は口をあんぐりと開けたのだ。が、中から出てきた2人の幸せそうな姿を見ると、つい赦してあげたい気持にもなった。ところで、上掲の『TIME』誌によると、かの国では「倫理的な結婚式」(ethical weddings)を実現するための活動も行われているという。近々結婚式と縁がある予定の読者は、ぜひ参考にしてほしい。
 
 谷口 雅宣

| | コメント (2)

2009年9月 8日

新産業の育成に歩み出そう

 まもなく首相となる鳩山由紀夫氏が打ち出した「温暖化ガス25%減」という中期目標に対して、予想通り自民党と経済界が「反対!」の合唱を始めたが、これは驚くほどのことではない。産業革命以来の“地下資源文明”から転換して、再生可能の“地上資源文明”に移行するという人類史の長く大きな流れの中では、多少の混乱があるのはいたしかたないだろう。この流れを嫌う自民党と日本経団連が提出してきた温暖化抑制のための“代替コース”は、原子力発電の振興であるが、今回の総選挙で、このコースは国民によって否定されたと私は解釈している。それでもまだ、このコースを追求する合理的理由はもはや存在しない。別の言い方をすれば、原発の増設は、自民党政権下でさえきわめて困難だったのだから、民主党政権下でそれを進めるという選択肢は存在しないということだ。だからこれからは、日本の産業界は再生可能エネルギーの利用技術の開発と、その利用に焦点をさだめて、結束して進んでほしいと思う。

 古い産業から新しい産業への移行時には、「できない」と見えることの方が「できる」と見えることより多いのは当り前だ。だから、この移行期には、「何ができないか」を取り上げて文句を言うのではなく、当初は見つけにくいかもしれないが、「何ができるか」を探して、それを拡大していくのが責任ある正しい態度である。新産業の育成は、子供の教育とこの点で同じである。子供に向かって「お前はこれができない。あれもできない」と文句ばかり言う親は、その子の将来を摘み取ってしまう。少し難しいと思うことでも、「あれができるのだから、これもできるぞ」と言って励ますことで、その子は現状から先に進み、ついに親を超えることもできるのである。我々一般人の地球環境問題への取り組みにも、同様のことが言える。これは、政治の問題というよりも、心理学が取り扱う分野である。
 
 つまり、環境問題への取り組みにも“よい方法”と“悪い方法”があるのだ。イギリスの科学誌『New Scientist』が8月22日号でそのことを伝えている。それによると、「ああしなさい、こうしなさい」という説教方式の取り組みは効果が少ないのに対し、アル・ゴア氏が訴えたような「気候変動の危機も我々の力で解決できる」式の積極的な"can do"の訴えの方が効果的だそうだ。また、人間の本性は、一般に考えられているように強欲でも近視眼的でもなく、やり方さえ工夫すれば、他人や自然界のために行動するのに驚くほど積極的になれるという。

 この“よい方法”を見つけるために、「自然保護心理学」という新しい学問ができている。英語では「conservation psychology」といって、自然と人間との相互供与関係を、自然保護の観点から研究する学問である。社会心理学や生態学、動物行動学、哲学等の知見を総合して、人間と自然環境との調和した関係の実現を追求する分野である。この学問では、自然界に対する人間の保護的態度や情愛ある関係がどのようにして形成されるのか、環境をどう見るか、環境との触れ合いと子供の成長・発達、自然保護の倫理、自然保護の文化、自然の価値と意味、自然保護の行動などについて研究する。今夏、ブラジルのサンパウロ市で開催された「世界平和のための生長の家教修会」では、世界の伝統的宗教と南北アメリカの先住民の信仰の中で、自然がどう扱われているかという「自然観」の研究発表が行われた。こういう分野も、自然保護心理学が扱う領域と重なっている。宗教と科学とが協力できる分野の1つとして興味深い。
 
 「人間は本来、自然を愛する生きものである」というのが、当り前のようであるが、この学問が見つけ出した知見の1つだ。上掲誌の特集記事で、オランダの社会心理学者、マーク・ヴァン・ヴガト氏(Mark van Vugt)は、そのことを次のように記している--「我々は、人工的な環境よりも自然環境の方を好み、人工的な環境の中では、そこに何かの自然物--樹木や水など--があるのを好む。人間はまた、文化の区別なく、アフリカのサバンナのような広大な風景を好む。ヨーロッパでもアメリカでも、毎年動物園を訪れる人の数は、すべてのプロスポーツ競技に集まる人の数より多い。自然は人間の健康にも影響を与える。病室の窓から自然の風景が見える患者の方が、レンガの壁しか見えない患者よりも早く快復する」。
 
 これらは、人間が明らかに自然の一部であることを示している。だから、この分野の今後の取り組みにおいては、地球環境の「問題」を取り上げる段階から一歩進んで、そういう自然と人間との本来ある親しい関係を取りもどすために、産業を「育てる」という積極的な観点が重要と思う。
 
 谷口 雅宣

| | コメント (0)

2009年7月 7日

アメリカ伝道本部が太陽光発電を導入

 前回は、生長の家総本山の“炭素ゼロ”達成をお伝えしたが、生長の家の温暖化抑制努力は海外でも展開されている。米カリフォルニア州ガーデナ市にあるアメリカ合衆国伝道本部は、昨年10月から太陽光発電装置の設置を検討してきたが、今年6月末には、同Ushqsolarsys 市による設置審査が行われ、南カリフォルニア・エディソン社によるソーラパネルの設置も終り、あとは発電メーターの取り付けを待つばかりとなった。勅使川原淑子・アメリカ教化総長が同伝道本部の屋根に設置されたシステムの写真を送ってくださったが、発電容量や、同伝道本部の電気使用量との比較などの細かい数字は分からない。設置費用は約8万ドル(770万円)で、これによって同伝道本部の事務局サイドの電気使用量(月約2千kWh)をほぼまかなうことができるそうだ。

 勅使川原総長によると、同本部の近隣には太陽光パネルを設置している会社や民家は見当たらず、生長の家のような非営利団体(宗教を含む)が太陽光パネルを設置することは珍しいこともあって、同市や州からの設置許可を得るのに予想以上の時間がかかったという。また、伝道本部を訪れる信徒はもちろん、信徒以外の人々への環境意識の啓発にもつながっていて、幹部の間に喜びが広がりつつあるという。同教化総長は、「車社会のカリフォルニアですが、伝道本部の建物が2階建てですので、道行く車からも目にもふれやすい位置にパネルが設置されており、日ごとに多くの人々に影響を及ぼすものと期待しています」と言っている。

 カリフォルニア州は“日照州”(sunshine State)という異名もあるくらいだから、日照時間も長く、よく乾燥するので野火や山火事が多いのが心配なほどだ。この太陽光発電導入をきっかけにして、「自然と共に伸びる」という言葉の通りにアメリカでの運動が飛躍的に発展することを期待したい。今回の装置導入を決定した同国の幹部・信徒の方々の熱意と、“炭素ゼロ”運動へのご協力に心から感謝申し上げます。

 谷口 雅宣

| | コメント (6)

2009年6月26日

宗教の社会的貢献

 地球温暖化抑制や貧困撲滅という人類的・国際的要請との関係で近年、企業の社会的責任が注目されている。英語ではコーポレート・ソーシャル・レスポンシビリティー(corporate social responsibility)といい、「CSR」と略称される。企業が国際化し巨大化すると、一国の法律では規制できない数々の“網の目”をかいくぐって、多国籍企業が利潤追求のために“不正”を行える可能性が増えてくる。また、大企業は、工場や事務所の進出や撤退、投資、M&Aなどを通じて、地域社会や一国の経済にも影響を与える可能性をもっている。そういう点に着目して、企業活動に倫理的な判断を要請する考え方である。宗教の世界では、あまりそういうことが言われないが、私は公益法人である宗教こそ、そういう視点に敏感であるべきと思う。
 
 現在、宗教法人を含めた公益法人制度の見直しが行われているが、その背景には、きっと上記のような企業活動に対する社会的要請とのバランスの問題があるのだと思う。つまり、現在、宗教法人は原則的に収益に対して非課税である。その理由は、「宗教活動=公益」という古い、単純な考え方によって、宗教が“公益”を目的とした法人(公益法人)だと見なされていてるからだ。しかし、実際の宗教活動の中には、必ずしも公益とは呼べないようなものも含まれるとともに、「宗教法人」という看板を隠れ蓑にして、公益目的でない(もっとありていに言えば、詐欺的な意図をもった)団体が活動する余地が残されているからだろう。私はもちろん、宗教は公益に貢献していると信じる。しかし、宗教は基本的に「心」を扱うものだから、外からは分かりにくいところがあり、それが「うさん臭さ」や「教団の利益優先」というようなマイナスの印象を生んでいることも事実である。
 
 そこで、そういう誤解を払拭するためにも、社会的貢献の“客観的な指標”があるならば、宗教団体はそれを活用して、わかりやすい形のCSRを行う義務があるのではないか、と私は思う。生長の家が、環境経営の国際指標である「ISO14001」の取得に乗り出したのも、そういう視点があったからである。今日、生長の家は国内にあるすべての事業所で「ISO14001」を取得しただけでなく、海外に於いても取得への取り組みを進めている。が、この取り組みだけで社会的責任が果たせているとは思えない。そこで、現下の喫緊の課題である地球温暖化抑制のために“炭素ゼロ”(二酸化炭素の排出をゼロにする)という高い目標を掲げた運動が開始されたのである。その考え方にのっとり、生長の家は排出権を購入し、信徒の移動で排出されるCO2を金銭的に相殺するカーボン・オフセットを一部で実行し、さらに植林活動などを展開している。
 
 が、この“炭素ゼロ”を目指した運動は、しかし1つの矛盾を抱えている。それは、現在の社会全体が、まだ化石燃料を主要エネルギーとする産業構造と政治制度を温存しているからである。この環境の中では、何かを強力に推進しようとすると、必ず化石燃料を燃やすことにつながる。その逆に、化石燃料を燃やさないようにすると、宗教活動を推進することが困難になりがちである。この矛盾を乗り越えるためには、宗教団体内部の努力だけでは、どうしても限界がある。社会に対して、化石燃料を燃やさない方向へ動くように、何らかの働きかけをする必要が生じてきているように思う。
 
 谷口 雅宣

| | コメント (3)

より以前の記事一覧