2013年11月21日

雨の日は木の皿で


今朝、八ヶ岳南麓には霧雨が降っていた。
宮城教区の生長の家講習会が翌日にあるため、私たちは早く自宅を出て、東京から新幹線で仙台まで移動する。こんな日の朝食はサンドイッチが定番になった。しかも、食器洗いをできるだけ簡単にするために、一皿料理である。

新居を建てるとき、食洗機も入れた。ただし、私たちの目的である“炭素ゼロ”の生活を実現するためには、電気製品はよく考えて使わなければならない。晴天時の食洗機使用はほとんど問題ない。電力使用量が発電量よりだいぶ少ないからだ。しかし、今日のような雨天や曇天の場合、食洗機を動かすと、モニターには「買電中」を示す橙色のランプが点る。これは、東京電力から電気を買っているという意味で、“炭素ゼロ”でなくなってしまう。だから、雨天や曇天時の食事には、食器数をできるだけ減らしつつ、見栄えも悪くならない工夫が必要だ。料理は口から食べるだけでなく、目からも、鼻からもいただくからだ。

ということで、雨の日のわが家の朝食には、木目も鮮やかなケヤキの皿が登場することになった。この皿は、日本の森林の重要性を訴えてきたオークヴィレッジ製の漆器で、高級品だ。いつか贈り物としていただいたものを押入れから出してきて、私たちの“森の生活”で活躍することになった。漆器だからナイフやフォークを突き立てて食べるわけにいかない。だから、それに載せる料理は、あらかじめ口に入る大きさに切り分けておくか、傷がつきにくい木製のフォーク、あるいは箸を使う。漆器はもちろん食洗機で洗えないので、手洗いすることになる。

私は、こういう細やかな配慮をしながら食事をすることに、“新しい文化”を感じるのだ。大量生産、大量消費の時代には、朝食は効率よく作って、マヨネーズなどで濃い味をつけ、頑丈な食器に載せてガチャガチャと出し、テレビを見たり新聞を読みながら、会話もなく、ロクに味わわずに短時間で掻き込む人が多かったのではないか? 食後はもちろん食洗機に頼り、前夜の食器がその中に残っていれば、別の食器を出して使う……こんな食事の仕方では、資源やエネルギーの浪費は進んでも、季節の移り変わりを感じながら食材を味わい、その根源である自然の恵みに感謝の気持を起こすことなどないに違いない。つまり、自然と人間とは分離していたのだ。

しかし、自然と共に生きようとする時、人間は自然を常に意識し、自分の行動が自然に与える影響について配慮するだろう。その気持を抽象的なレベルに留まらせず、具体的に、五感をもって確認するための最良の機会が、「食事」の場なのではないだろうか。朝起きて空を仰いで天候を知ったならば、それに合わせてエネルギーの利用法を考え、食器を選び、メニューを考える。これはもう「人間のため」だけの食事ではない。木目の美しい食器に地元の食材を載せ、器の柔らかさを感じながら、ていねいに、ゆっくりと味わいながら食べる。それが雨の日の朝だということが、私にはなぜかピッタリ来るのである。

谷口 雅宣

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2011年8月28日

樹木の大切さを思う

 今日は山形駅前の山形テルサで生長の家講習会が開催され、647人の受講者が集まってくださった。2年前の前回より受講者数は89人(12.1%)減少したが、今回の講習会の推進期間が、ちょうど東日本大震災後の東北地方全体の混乱期に当たったという、やむをえない事情がある。例えば、受講券奉戴式は当初、震災3日後の3月14日に予定されていたが、この日は会場の教化部には数人しか集まらなかったため、行事は事実上延期しなければならなかったという。また、震災後の数カ月、ガソリンの供給が減少したことで、教化部での会合などが予定通りに行えないなど活動の停滞があった。それでも、東北人の粘り強さと教区一丸となった熱心な推進で前回の8割以上を結集したことはありがたく、喜ばしいことだと思う。
 
 講習会後、帰京の列車出発までのわずかな時間、駅からも近い霞城公園に寄った。山形城跡を緑豊かな公園にしたもので、サクラやイチョウなどの大木が何本も残っているのが目立った。私はこの日、午後の講話でドイツとイギリスでの講演会などの報告をさせてもらったが、その時、訪れた街々の写真を示して、両国の人々が樹木を大切にしているという印象を強くもったことを話した。私の住んでいる東京では、日比谷公園や明治神宮など一部の緑地を除けば、街路樹や公園の木を簡単に切り倒してしまうのを苦々しく思っていたが、霞城公園にはまだ多くの大木が残っているのを見て、「日本人もまだ捨てたものではない」と胸をなで下ろしたのである。
 
 樹木の価値とありがたさは、強調しても強調しすぎることはない、と最近よく思う。大きな木が1本あるということは、木陰ができることで土地の乾燥を防ぎ、有害な紫外線から土地が護られ、下草が生えて虫や微生物が繁殖する。それだけでなく、その木には何千種類もの昆虫が棲みついているから、それを食べに鳥類が飛来し、巣作りをする。果実ができればさらに多くの動物がやってくるし、落葉すれば、土地はさらに肥えるだろう。樹木は枝葉に水を溜めるから、大雨が降っても土壌の流失はなく、土中に広がった根は水を浄化しながら、土砂崩れを防いでくれる。もちろん、地震による被害もそこに樹木があるのとないのとでは、大きな違いが出る。
 
 地球温暖化問題が脚光を浴びるようになったことで、植物が二酸化炭素を吸収して酸素を排出してくれることは、多くの人々が知ることになった。しかし、地球を取り囲む大気の構成が、植物の活動なくして現在の状態になりえないということは、あまり知られていないだろう。この大気があることと、その外側にオゾン層があることで、宇宙空間を飛び交っている大量の放射線が、地球の表面にあまり届かないようになっていることは、重要な事実だ。つまり、植物が存在するおかげで、私たち動物は酸素呼吸ができるだけでなく、放射線による遺伝子破壊の危険からも常に護られているのだ。この放射線防護機能は、人間が考え出したどんな方式の原子炉よりも柔軟でありながら、堅牢である。どんな地震が来ようが、どんな津波が押し寄せようが、この放射線防護機能はびくともしない。が、愚かな人間がそんな植物を大量に伐採し、燃やし、それでも足りずに、大昔の植物であった石炭を地下から掘り出して燃やし、また、生物の死骸だった石油を燃やし続けることで、地球の大気の構成を変えようとしているのである。

 こういう観点から考えてみても、原子力エネルギーを人類が利用し続けることが、地球全体の生命にとってどんなに不合理であり、危険であるかが分かるはずだ。民主党の総裁選挙が行われているが、原発からの脱却を明確に訴える候補者がいないのは、誠に残念なことである。
 
 谷口 雅宣

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2011年8月18日

“自然とともに伸びる”方向へ大転換を

 今日は午後4時半から、京都府宇治市の生長の家宇治別格本山の大拝殿で「東日本大震災物故者追悼慰霊祭」がしめやかに挙行された。この御祭は3月11日の大震災とその後の大津波で亡くなった何万人もの犠牲者の御霊をお招きして、人間・神の子、生命無限の真理を説く聖経『甘露の法雨』を読誦し、生前の御霊の御徳を称え、感謝の誠を捧げるためのもの。招霊の後、私は奏上の詞を述べ、慰霊祭の詞に続き玉串奉奠を行った。また、今回は被災地の東北3県の教化部長も壇上で玉串を捧げ、茨城教区の教化部長が聖経の一斉読誦を先導した。
 儀式の終了後、私は概略次のような言葉を述べた:
 
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 本日は、東日本大震災物故者追悼慰霊祭に大勢お集まりくださり、誠にありがとうございました。今年3月11日に起こった東日本大震災により、大変多くの方々の命がこの世から霊界へと移りゆくことになったのは、実に残念なことでした。この大地震がなければ、まだまだこの世で活躍し、私たちと愛を深め親交を広げることのできた何万人もの人々が、自らの意思とは関わりなく、急速に霊界に移行しなければならなかったことの意味を、私たちは深く考えねばならないと思うのであります。
 
 私はその考察の一端を、4月17、18、19日の3回にわたってブログ上に書き、また2つの祈りの言葉として発表しました。「自然と人間との大調和を観ずる祈り」と「新生日本の実現に邁進する祈り」の2つです。これらはすでに機関誌『生長の家』6~7月号にも発表されているので、まだ読んでおられない方はぜひ読んでいただきたいのです。

 これらの中の大きなポイントが1つあります。それは、近年、自然と人間とが対立する現象が顕著になりつつある中で、これが起こったということです。言わば「自然と人間の対立」の最も鮮明な表現が今回の大震災である。何万人もの人の命が、大地震とそのあとの大津波によって一気に奪われた。それだけでなく、原子力発電所の事故により、大勢の生きている人々も生活の場を奪われることになっている。原発は人間が造ったものですが、原子力そのものは自然の力の一部です。

 放射線というのは、地球の大気圏から一歩外の宇宙空間へ出れば、そこらじゅうを飛び交っているものです。それが地上では生物に害を及ばさないようになっている。その理由は、生物同士が協力して、特に植物が地上で生い茂ってくれることで大量の酸素を生み出し、独特の構成の大気を形成しているからです。言わば“透明な放射線防護服”で地球全体を覆って守ってくれている。にもかかわらず、人間は自分のためだけを考えて、生命全体にとって危険きわまりない放射性物質を、地下深くから掘り出し、それをエネルギー源にして使う方法を開発した。
 
 それがちょうど、大東亜戦争の末期に行われたのです。そして広島、長崎にまず原爆として投下され、その後は核兵器の開発競争となり、さらに原子力発電所の世界各地への建設となった。その結果、今日本には54基もの原子力発電所が海岸線に並ぶという状況になっているのです。これと併行して、化石燃料の過剰な消費というのも、永年にわたって世界的に行われてきた。これもまた人間の都合だけを考えて行われている。そのおかげで、生物種が大量に絶滅し、地球温暖化現象や気候変動が起こっていて、私たちの生活を脅かしつつあるということは、皆さんもすでに十分ご承知のことです。
 
 この「自然と人間との対立」関係を解消して、大調和を実現しなければならないというのが、今回の大震災に遭遇した私たちが最も学ばねばならない大切な教えである。私はそのことを強調したいのであります。しかし、これは、大震災の犠牲となった東北地方の人々に最大の責任があるという意味では決してありません。「大震災の意味を問う」というブログのシリーズにも書きましたが、国家の政策レベルと個人の魂の進化のレベルとは、次元が違う問題であり、別に考えなければならないのです。

 大東亜戦争がそのよい例です。明日、精霊招魂神社大祭が行われますが、そこでの祝詞にも書かれているように、個人として戦地で戦った人の大部分は、自己の利益を度外視して国のため、家族のために命を捧げた人々です。その忠義と滅私奉公の精神は魂の浄化に大いに役立ったし、私たちはそういう方々のおかげで戦後を生きることができた。だから、心から感謝の誠を捧げるべきです。しかしそのことと、国家として、日本社会として、戦争を行い、戦争を推進していった責任問題は、明らかに別に存在するのです。日本はそれによって過ちを犯したのであるから、それをつぐない、再び同じ過ちを犯さないように、国家や社会の制度を改善する必要があったし、戦後の日本社会はそういう方向に動いてきたので、今は国際社会の立派な一員として認められ、活躍できるようになっている。

 それと似たことが、今回の大震災でも言えるのです。このことは4月17日のブログにも書きましたが、個人が突然に亡くなる“不慮の死”というのは、魂の成長にとって役立つことが多い。これは谷口清超先生が『新しいチャンスの時』(2002年刊)という本の中で次のように書いておられることからも、分かります。引用文は、突然の交通事故による死に関して述べられたものだが、今回のような自然災害による死についても適用できます--

「このような即死は、高級霊にもありうることだ。それは急速な肉体からの離脱は、多くの業因を脱落するから、ちょうど大急ぎで家を出る時には、ほとんど何ものも持たず(執着を放して)去るのと似ている。だから魂の進歩に役立つのである」。(p. 21)

 このようにして、今回の被災によって多くの人々の魂が執着を脱落して、急速に進歩をとげたということは大いにあり得るし、その通りだったと私は思います。しかし、このことと、人間の集団としての国家や社会が今回の大災害の後に進歩するかどうかは、別次元の問題なのです。
 
 今回は「大地震」という自然災害が直接の原因であるが、しかし、戦後の日本社会の無理な、歪んだ発展の仕方が、震災の被害を拡大したという事実は認めなければならない。それは、地球環境全体を含めた「自然破壊」という方向へ進んできたということです。もちろん、「東北」という一部の地域の人だけが行ったことではなく、政府や行政が一体となって全国的に行った政策の結果です。つまり、唯物的な価値を追い求めすぎて、それを得るためのエネルギー源を莫大な力をもった原子力に依存することを決め、広島と長崎の教訓も忘れ、原子力がもつ生命体への危険性を過小評価してきた。それとともに、生命を扱う農業よりも物質を生み出す工業を優先し、自然が豊かな地方よりも物質が豊かな都会を育成する方策を永く続けてきたのです。
 
 また、自然の力を侮った傲慢さ、そして人間至上主義の問題があります。私は今回の震災後に初めて“津波石”の話を知ったが、そういう津波の危険を訴える我々先祖の警告が無視されて、低地に街や港が建設されたことが津波の被害を拡大した。科学・技術の力を過信してきたと同時に、自然に対して「何があっても大したことはない」という傲慢な考えを持ち続けてきたということです。それは結局、人間至上主義が背後にあるからです。ここから「自然など科学や技術の力で押さえ込んで利用すればいい」という考えが生まれ、それがダム建設や護岸工事、防潮堤の建設、そして原子力発電所の構造などにも反映している。

 我々は「与えれば、与えられる」「奪えば、奪われる」という心の法則を学んでいる。個人のレベルでなく、国家や社会、さらには人類のレベルで自然との関係を振り返れば、我々はこれまで経済発展という目的のために、自然から奪い続けてきたことを反省しなければなりません。森林を切り倒し、生物種を絶滅させ、大量の家畜を毎日殺している。南九州で口蹄疫が発生したとき、我々は短期間に十万頭以上の家畜を殺処分した。そういう我々が、自然界から「奪われない」ですむということはないのです。
 
 自然から奪い、自然から徹底的に搾取するという人間の生き方は、もはや成り立たないことが今、教えられているのです。だから私たちは、“自然とともに伸びる”生き方を開発しなければいけない。このことは、地球規模の気候変動問題でも明らかになりつつあるのだから、今はそういう生き方に日本社会が転換するための貴重な機会であることを知らなければなりません。それを、今回の大震災で犠牲となった御霊さまが説く“観世音菩薩”の教えとして受け取り、御霊さまに心から感謝申し上げるとともに、私たちの生き方を現実に変革していかねばならないと信じるのであります。

 どうか皆さんも、それぞれの立場から自然の中に神を見出し、自然を敬い、自然と調和する生き方を開発し、それを広めていただきたいと念願いたします。
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 谷口 雅宣

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2011年8月16日

ドイツでの国際教修会について (3)

 前回まで本欄で見てきたキリスト教的自然観は、日本の伝統宗教である神道の自然観とはやや異なる。フォクト氏は、「人間は自然に根差した存在である」としながらも、「神を経験する」能力を神から恩寵としていただいている点を強調して、それが自然と人間とを区別するものだという。人間の方が、自然より神に近いとするのである。だから、自然を聖化する汎神論とは異なると説くのである。神道においては「万物に神が宿る」のであるから、神と人との境界が定かでないだけでなく、動植物と人、神と動植物との境界も定かでない。これに対し、キリスト教的世界観では、自然と神とは、明らかに区別された主体同士(distinct entities)として捉えられる。また、人間と神との間にも明らかな区別があるため、人間は「聖なるもの」が抱える負担を軽減されるというのである。これは恐らく、人間には完全性が要求されないという意味だろう。その結果、神と(人間を含めた)被造物との間には自由意思にもとづく関係を結ぶ可能性が生じる、と考えるのである。
 
 ここのところが、日本人にはわかりにくい。いわゆる“神との契約”説である。人間は自由意思にもとづいて神と契約を結んだのだから、神の戒めを守る義務が生じ、神も人間を救う義務が生じるという考え方だ。フォクト氏によると、この神との契約は、人間と神との間だけでなく、自然物と神との間にも同様に存在するという。そして、その根拠として、『創世記』第9章13~16節を挙げる。そこには神の言葉としてこうあるのだーー
 
「すなわち、わたしは雲の中に、にじを置く。これがわたしと地との間の契約のしるしとなる。わたしが雲を地の上に起こすとき、にじは雲の中に現れる。こうして、わたしは、わたしとあなたがた、及びすべての肉なるあらゆる生き物との間に立てた契約を思いおこすゆえ、水はふたたび、すべて肉なる者を滅ぼす洪水とはならない。にじが雲の中に現れるとき、わたしはこれを見て、神が地上にあるすべて肉なるあらゆる生き物との間に立てた永遠の契約を思いおこすであろう」。

 このような「神・人・自然」の“三者分立”の考え方が、キリスト教が環境問題を扱う際のきわめて重要な要素になる、とフォクト氏は言う。例えば、自然の中に“聖なるもの”を見るという点で神道と似ているディープ・エコロジーの立場では、自然はそのままで聖なるものだから、それを変更することは許されないことになる。自然自体が“完全な秩序”であり、“完全な平衡”を体現していると見なされる。とすると、農業も一定の自然の改変であるからできないことになり、遺伝子組み換えや、動植物を使った自然科学上の実験もタブー視されることになるという。これに対し、キリスト教の観点では、自然界の秩序に不完全な点を認める。それは例えば「死」や「闘争」のようなマイナス面である。こういうマイナス面に対して、手を加えて矯正するのが人間の使命だと考えるのである。そして、この見方は、現代の進化論的自然観と共通しているとする。なぜなら進化論では、生物界は常に生存競争による自然淘汰が行われている--つまり、未完成のアンバランスなシステムとしてとらえているからである。
 
 フォクト氏は、ディープ・エコロジーの考え方を批判して、もし自然界がそのままで“聖なるもの”であるならば、人間はその秩序を乱す“自然への最大の災害”となってしまうという。そして、自然環境は人類の滅亡によって最大の利益を得ることになってしまうとする。ディープ・エコロジーのような生命中心主義、あるいは環境中心主義の考え方を突き詰めていくと、そういう結論にならざるを得ないというのである。私は、この件を聞いて、かつて小泉純一郎氏が首相だった時代に、国会答弁で「人間の造ったものだけが地球に害を与えている」と指摘し、「人間こそが異星人と思われる」と発言したことを思い出した。しかしこれは極端な考え方で、人間には地球に害を与えないものを造る意志もあれば、能力もあり、実際にそういう製品を造り始めているという事実もある。ただ、現在の経済制度では、そういう努力がなかなか金銭的に報われない残念な側面があるのである。この点は、人間の努力で修正可能だと私は考える。
 
 谷口 雅宣

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2011年8月13日

ドイツでの国際教修会について

 本欄にしばらくご無沙汰していたが、今回の海外行きについて報告しておこう。目的は、ドイツのフランクフルト市で行われる「世界平和のための生長の家国際教修会」と、ロンドンでの一般講演会のためである。いずれの行事もヨーロッパでは初めてなので、事前準備と会の運営に携わっていただいた地元の幹部・信徒の方々を初め、本部国際部の人々も大変だったと思う。が、幸いにも両行事は成功したため、関係者の方々は今、安堵とともに、大事業を成し遂げた充実感を味わっておられるに違いない。この場を借りて、心から感謝申し上げます。ご苦労さまでした!
 
 すでに妻がブログで触れているが、国際教修会は7月30日と31日の2日にわたり、フランクフルト市のマリティム・ホテルを使って行われ、11カ国から143人が参加した。内訳は、ブラジル(80人)、アメリカ(22人)、ドイツ(10人)、スペイン(8人)、イギリス(7人)、スイス(5人)、ポルトガル(4人)、パナマ(3人)、カナダ(2人)、そしてフランスとオーストリアが各1人だった。このうち、本部講師と本部講師補は34人だった。

 今回の教修会のテーマは「自然と人間との共生・共存に向けた教典解釈に学ぶ」というもので、キリスト教神学において「神・人・自然」の関係が歴史的にどのように捉えられ、それが今、どのように変化し、あるいは変化していないのかを「教典解釈」を通して学ぼうとするものである。加えて、“環境先進国”とも呼ばれるドイツの政策が、キリスト教の影響をどの程度受け、どのように形成されてきたかを、同国の若手カトリック神学者、マルカス・フォクト氏(ミュンヘン大学ルートヴィヒマクシミリアン校教授)の基調講演や本部講師の発表などから学ぶことが目的だった。さらに教修会後には、“環境都市”として世界的に有名なドイツ南西部のフライブルク市(Freiburg)を訪れ、当地の環境対策などを視察することになっていた。
 
 キリスト教と環境問題との関係については、本欄ですでに何回も扱ってきた。また、昨年の生長の家教修会でもこれが研修の一部となり、私は昨年7月11日の本欄で“キリスト教悪玉論”を紹介したから、ここでは詳しく述べない。ごく簡単に言えば、キリスト教の教義に含まれる“人間中心主義”が環境問題の元凶であるとする批判が、1960年代後半からかまびすしく唱えられてきたのである。が、それから40年以上が過ぎた今日、キリスト教の教典解釈においてどのような変化があり、それがさらに現実の環境保護運動や国の環境政策にどのように反映されてきたかを、ドイツの現場で確認しようというのが、今回の主眼だった。その結果、かなりの“教義の変更”が教典解釈によって行われてきたことが確認された。しかし、教典に示された基本的な“考え方の枠組み”は変更がむずかしいため、キリスト教文化圏での今後の環境政策や原子力発電をめぐるエネルギー政策には、必ずしも問題がないとは言えないとの印象をもった。

 例えば、今回のゲストであるマルクス・フォクト氏が加盟するドイツ司教協議会(German Bishops Conference)では、東京電力福島第一発電所の事故を経て、明確に“脱原発”の意思表明をした。これは、今年5月24日に行われた「チェルノブイリとフクシマ後の倫理」(Ethik nach Tschernobyl und Fukushima)という題のシンポジウムに提出された論文で、この中には次のように明確な記述がある--
 
「倫理的な視点から見れば、放射性廃棄物の問題が解決されず、大規模な事故の可能性をもち、さらにテロリストの攻撃に晒される可能性を考えれば、原子力エネルギーの利用は、今日的視点から正当化できるものではない。我々は、再生可能エネルギーの時代への移行を加速し、原子力エネルギーの利用をできるだけ早期にやめるべきである」。
 
 これに対し、カトリック教会の“総本山”であるヴァチカンの態度は、6月14日の本欄でも紹介した教皇ベネディクト16世のメッセージにも表れているように、原子力の利用を明確に拒否することがまだできないでいる。つい半年前に擁護していたものを、手のひらを返したようにすぐに反対するのは難しいことは理解できるが、本件のような大きな問題について発言する場合、メッセージの内容が「不明確である」ことは、マイナスの印象を与えると私は思うのである。が、ここには、教典解釈の難しさが重要な要素として含まれているとも考えられる。今後、原発問題についてのカトリック教会の態度は、世界の動向にも影響を与えると思うので、私は注目している。
 
 谷口 雅宣

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2011年7月 8日

“新しい文明”の構築へ

 政府のエネルギー政策は混迷の度を増しているが、私はこれは“文明の転換”にさしかかった人類全体の混迷の反映であると感じている。産業革命以来、長期にわたって続いてきた“化石燃料文明”または“地下資源文明”の限界が明らかに見えてきた現在、その旧文明を新文明に転換しなければならないことは、多くの有識者が声をそろえて唱えている。しかし、その具体的方法--つまり、移行過程の青写真が構築できないでいるところの混迷状態である。ここで言う“新文明”とは、もちろん再生可能の自然エネルギーを基礎とした“自然共生型文明”であり、“地上資源文明”である。問題は、この“新文明”の基礎となる産業が未成熟で、国の政策決定過程に十分な影響力を発揮しない段階にあることだ。その理由も容易に推測できる。たいていの人間は、変化よりも現状維持を望み、新奇なことより慣れていることを選び、既得権や現有財産に執着するからだ。

 この既得権や現有財産が、明治維新や敗戦などの政治過程によってではなく、自然災害によって脅かされているのが日本の現状ではないだろうか。今ここで「自然災害」という言葉を使ったが、この中には原発事故も含まれている。なぜなら、自然災害とは一般に、人間が、自分を取り巻く自然システムから予期しない被害を受けることだからだ。自然システムの中には当然、核分裂や放射性物質も含まれる。これらの自然の一部を制御できるという前提のもとで構築された発電所が破壊された。建屋や冷却装置を破壊したのは“マクロの自然”であるが、制御不可能となったのは原子炉内部の“ミクロの自然”である。
 
 今回の原発事故は「予期されていた」という意見もあるが、少数の専門家の間で確率論的に事故が予期されていたという事実はあっても、社会全体が予期しなかったことは事実だ。また、今回の原発事故が、直接的には大地震後の大津波によって引き起こされたから、大局的に見てそれを「自然災害」と捉えることはあながち無理とは思わない。もちろんこれは、今回の事故に「人災」の要素が混入していないという意味ではない。経済産業省の幹部や東京電力の経営陣、また歴代の自民党の政策に「原発事故を起こすような自然災害はない」という前提があったことは確かであり、それらの人々の判断に誤りがあったという意味で「人災」の要素は小さくない。
 
 このように考えた場合、過去2回の歴史上の大転換(明治維新、敗戦)よりも、今回の大転換を理解するのは案外容易でないか、と私は考える。過去2回の大転換では、社会基盤や経済の変化、また、国際関係の変化というような「人間社会内」での複雑な動きが大きく関与していた。が、今の大転換は、それより一回り大きい変化--人類とそれを取り巻く自然環境との関係の変化に伴うものである。つまり、過去2回の変化では「人間は自然から無限に得られる」という暗黙の前提は問題にされなかった。が、今回の変化で問題になっているのは、まさにこの“自然無限論”なのだ。世界人口が増大しつづける中、人口の多い新興国が先進国並みの物質消費型生活を目指して経済発展を続けているため、エネルギー需要が激増し、自然が破壊され、大気中の温暖化ガスが増大し、気候変動が起こり、資源獲得競争が激化し、食糧価格が高騰する……という悪循環を断つことができないでいる。人類はもはや“自然無限論”を捨て、“地球有限論”のもとで生きる決意をしなければならない。そして、安定的な自然環境が維持できる範囲内に人類の経済活動を納めながら、世界の中の富の偏在を縮小し、各国が平和裡に共存することができるような制度や仕組みを地球規模で構築していかねばならないのである。
 
 さて、日本において上述した「既得権や現有財産への執着」が顕著なのは、電力業界である。また、重化学工業などもその要素が強い。過去にそれだけ巨大な設備投資をしてきたのだから、当然といえば当然である。しかし、この状態を容認し、放置し続けていると、日本の産業全体が新文明への移行ができず、世界に取り残されるか、あるいは世界と共に資源争奪や権益保護のための紛争に突入する恐れがある、と私は思う。だから、多少の政治的混乱があったとしても、再生可能の自然エネルギーを基幹に据える方向へ、また農林業の振興を図る方向へと日本の産業構造を大きく転換していく必要がある。原発は、ただちに全部を廃炉にすることはできないが、可及的速やかに自然エネルギーの利用へと置き換えていかなければならない。そのためにはまず、電力会社の地域独占制度を廃止することが大切だ。これによって、巨大発電所による中央集中型の発電から、自然エネルギーによる地方分散型のエネルギー供給を実現すべきである。
 
 私はこれらのことを本欄ですでに何回も訴え、最近では5月24日同26日などで言及した。菅首相の政治手法にはいろいろ問題もあるようだが、自然エネルギー利用への熱意は大歓迎だ。これに呼応した孫正義氏のメガソーラー構想にも大賛成である。うれしいことに、この方向へ動き始めている経済人はもっと多くいるようだ。今日の『日本経済新聞』によると、携帯電話最大手のNTTドコモが電力事業への参入方針を明らかにしたという。全国にある携帯電話の基地局の鉄塔周辺に、来年度から太陽光パネルや風力発電設備を設置していき、スマートグリッドで結んで電力の安定化をはかるという。そして、余剰電力は売電する考えだ。また、7日の『日経』には、東京海上アセットマネジメント投信と三井物産が協力して、メガソーラーに投資するファンドを立ち上げることが報道されている。まず100億円規模から初めて、この資金で全国10カ所にメガソーラーを建設し、電力の売電で得た資金を投資元に還元するという仕組みだ。5年後をめどに1千億円規模への拡大を目指すという。
 
 とにかく、それぞれの分野の人々が全速力で、“新しい文明”構築の方向に協力して進んでいくべきと思う。

 谷口 雅宣

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2011年7月 6日

太陽光で生活する (3)

 前回、この題で本欄を書いたときは、小型の太陽光パネルを入手して、それをPC以外の生活に必要な電力にも使おうとしていることを報告した。このパネルの最大出力は30.5Wだから、その際のテストでは、フル充電状態で72Wの液晶テレビが使えた時間は「約20分」と報告した。もちろん、これでは実用的とは言えない。また、私が昼間使っている扇風機--エアコンはもう何年も使っていない--は40W台だから、「長くて1時間か」と予測した。実際に使ってみると、45分から50分だったので、これも夏期の実用には適さない。
 
 そして東京ではいよいよ電力制限が始まる7月に入ったので、省エネ型の扇風機を購入して、来るべき猛暑に備えることにした。ところが、扇風機が入手できないという報告を受けた。渋谷や新宿周辺の家電量販店やデパートは軒並みに品切れ状態で、「札幌店にはある」という話だった。しかし、そんな遠方から取り寄せるのでは“炭素ゼロ”の運動が泣く。というので、秋葉原を探してもらったら、やっと1軒に省エネ型は1種だけが9台ほどあるというのだ。名前を聞いたことのないメーカーのものだったので、少しためらった。が、間近に梅雨明けが予想される現在、扇風機なしの執務は問題だ。ということで、その“新メーカー”に賭けることにした。
 
Electricfan  このメーカーは「ツインバード」(Twinbird)といい、扇風機の製品名は「コアンダエア EF-D945W」である。電源はAC100Vから使えるが、12V用のアダプターを経由するという点で抵抗があった。なぜなら、私の使っている蓄電池のアウトプットが12Vだからだ。これを100Vに変換した後に再び12Vに変換すれば、ロスが生じる。が、これを購入後に解決する手段がないわけではなかろうと考え、思い切って買った。本機の消費電力は、カタログには「3~20W」とあるから、晴天時には太陽光パネルの発電で連続運転が十分可能なはずだ。ついでに本機の仕様について付言すれば、首振り角度は約60度、電源コードの長さは約1.8m、重量は約4.9kg,外寸は 約W 330 × D 325 × H 925mm である。気になるのは、コードがやや短いこと、高さの調節が2段階だけのこと、また、首振り角度が小さいことだ。リモコンはないが、私の用途では不要なので気にならない。価格は約2万円だった。
 
 こうして私の執務室には省エネ扇風機が入り、今日、太陽光による試運転をした。好天だったこともあり、問題なく動いてくれた。運転時間は昼休みの1時間と、夕方の1時間半ぐらいだ。あとの時間は会議で別の部屋にいたため本機は使用せず、その間、太陽光による充電が行われていたことになる。雨天時に問題が起こる可能性はあるが、とにかく使い続けてみようと思っている。「誰からも奪わない風だ……」と思うと、前の扇風機よりも何か涼しい気持がし、風もピュアだと感じる。もちろんこれは、心理的な印象だ。でも、心理的なものが重要であることは、言をまたない。
 
 谷口 雅宣

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2011年6月27日

カトリック教会の原発への姿勢

 前回の本欄では、ドイツのカトリック神学者、マルカス・フォクト氏の環境問題についての考え方を概観した。これはあくまでも「概観」であるから、細部については不明なところがまだ多くあるので、それらの考察は別の機会に譲る。
 
 私が宗教と環境問題との関係で気になっていたことの1つは、原子力利用に関するカトリック教会の見解である。6月14日の本欄でイタリアが国民投票によって“脱原発”を決定したことに触れたとき、私はその決定がローマ教皇の原子力利用に関する見解の変化と関係があり、その教皇の変化は福島第一原発の事故が契機となっているかもしれない、と書いた。これには確たる証拠があるわけではないが、ローマ教皇ほどの立場にある人が長年の見解を変える動機をもつとしたら、東日本大震災と原発事故以外の“大事件”は考えられないと思うからである。
 
 その時の本欄では、「ローマ教皇庁は、これまで原子力エネルギーについて肯定的な態度を示してきた」と書いた。しかし、「肯定的」というのは、抑えた表現なのである。それよりはむしろ「積極的」と書いた方が適当かもしれない。というのは、お膝元であるイタリアが原発に基本的に反対の態度を示していた2007年の夏、ヴァチカンの公式ラジオ局がレナート・マルチーノ枢機卿(Renato Martino)にインタビューして、原子力を“クリーン・エネルギー”の1つとして歓迎すべきだと放送しているのだ。
 
 それによるとマルチーノ枢機卿は、人間と環境に対する最大の安全基準を課し、兵器への利用を禁止すれば、原子力の平和利用に問題はないとして、こう言ったという--「何らかの事前原則や事故災害への恐怖から原子力エネルギーの利用を禁止することは、間違いを招来し、ある場合には逆効果を招くかもしれない」。また、教皇ベネディクト16世は、この年の8月28日に国際原子力機関(IAEA)の設立50周年記念行事に際し、「段階的な合意による核兵器廃止」と「真の開発のための原子力の平和的で確実な利用」を求めたのである。
 
 原子力利用推進のヴァチカンのこの態度は、昨年の秋まで変わっていない。昨年9月27日付のカトリック・ニュース・サービスによると、ヴァチカン特使のエットーレ・バレストレーロ氏(Ettore Balestrero)は、ウィーンで行われたIAEAの総会で発言し、教皇庁は平和と人間の発展のために、すべての国々が安全で確実に原子力エネルギーを利用するというIAEAの仕事を「引き続き支持する」と述べたという。その理由は、原子力エネルギーは、各国の必要に則して利用すれば、貧困や病気との戦いを助け、したがって人類が直面する深刻な問題の平和的解決に寄与するからだという。この後、原子力の利用と関係して何か重大事件が起こったかというと、東日本大震災しか思い浮かばないのだ。

 この世界的大事件に際し、日本人司教の提案がヴァチカンの態度変更の一因になった可能性がある。ヴァチカンのニュースエージェンシー「Agenzia Fides」は、今年3月29日付の大阪発のニュースでこの問題を取り上げ、大阪大司教区補佐司教の松浦悟郎氏が次のように語ったと伝えているーー「我々が直面している問題、つまり原子力発電所の増設の問題は重要です。私が昨年まで長をしていた日本カトリック司教協議会(Catholic Bishop's Conference of Japan)の正義と平和協議会とともに、私たちは日本や世界での原発増設の動きと戦う意識を盛り上げてきました。わたしは、この深刻な事故が、日本と地球全体にとってのレッスンとなり、これらの計画を放棄する契機となるべきだと強く思います。私たちはこの取り組みのために世界のキリスト教徒が団結することを望みます」。

 このように、日本のカトリック司教協議会は原子力の平和利用についても反対の意思が明らかである。また、同協議会のサイトには、原発を“クリーン・エネルギー”とは見なさずに、地球温暖化の原因の1つとしてとらえる姿勢が示されている。
 
 谷口 雅宣

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2011年6月23日

持続可能性と気候変動の正義 (2)

 前回紹介したマルカス・フォクト氏の環境問題についての考え方は、ご本人が「人間中心主義」と呼んではいても、生態系の一部として人類をとらえる中で人間の繁栄に条件と限界を求めるのだから、「限定的人間中心主義」と形容できるだろう。この考え方は、ヴォグト氏自身が言っているように、国連環境開発会議の“リオ宣言”で合意された「持続可能性(sustainability)」の考えとも合致しているから実際的であり、国際的規範としても有効性があると思う。事実、生長の家が計画を進めている“森の中のオフィス”構想の「中・長期的ヴィジョン」などを読んでみると、ヴォグト氏が提示した“限定的人間中心主義”に近い考え方が相当程度盛り込まれていることが分かるだろう。

 人間中心主義の検討に続いて、ヴォグト氏はキリスト教の文脈でよく使われる「神の創造(Creation)」という言葉の意味を問いかけている。この言葉は、キリスト教の重要な概念である「救い」などと比べて、長い間注目されてこなかった。その理由の1つは、聖書に描かれた天地創造の話が、ダーウィンの進化論や科学的研究と比較すると“理性的な考え”とは見なされなかったからだ。このため創造の問題は、人類学や自然科学などから隔絶するというキリスト教倫理学にとって大きな禍根を残すことになった--とヴォグト氏は指摘している。しかし、1989年以降、カトリックやプロテスタントの別を問わず盛んに言われるようになった“神の創造を保護する”という考え方は、まるで自然を社会的な保護の対象にするかのようだから、同氏は「ばかばかしい」と批判している。ヴォグト氏によれば、人類は創造全体の中でほんの微細な一部にすぎないのだから、神の創造全体の保護を人類の義務として背負わせることは、過大な負担だというのである。

 さらに、キリスト教徒が「神の創造」を信じるということは、そこに生態学的な意味での「調和」があると信じることではない、と同氏は言う。この部分は、なかなか厳しい認識だ。自然とは、単なる調和によって特徴づけられるものではなく、紛争や存在をかけた闘争、死や苦しみでさえ一定の役割をもつ1つの秩序体系であり、と同時に、安寧や治癒をもたらす場所としての性格を失わない、と同氏は言う。このような見方をすれば、持続可能性をめぐる神学上の倫理は、生態系の救済を説くものではない。また、自然への倫理ではない。それよりも、自然を一つの窓口として見、自然と人間の文化との、また(自然の)保護と更新との終りのない緊張である、と同氏は説明する。この最後の、難解に聞こえるところの意味は、たぶんこういうことだ--人間と自然とは「本来調和している」という性質のものではなく、相互が干渉し合い、せめぎ合う中で変化していくものである。だから、持続可能性の実現とは、人間の手の加わらない自然の生態系を回復することや、自然界と倫理的につき合うことを意味しないというのだ。
 
 しかし、だからといって、人間の好きなように自然を改変していい、とは同氏は言わない。持続可能性は、それを定めた“リオ宣言”が示すように、生態学にもとづくのではなく、「正義」の考えを地球大に、また世代間に拡大したものだ、と同氏は言う。科学技術の発達やグローバリゼーションの進展を考えれば、持続可能性の要請は当然の論理的帰結だというのである。つまり、現代は、長期的な影響や社会的な相互交流に、空間的、領土的な制約がない時代になっている。だから、地球規模の平等と、世代間の平等の実現が正義となるのである。そういう意味で、地球上の生物圏の機能を保護することは、未来世代のための、また貧困撲滅のための重要な貢献となるのである。ヴォグト氏によると、この持続可能性の前提となる2つの倫理原則は--①未来世代の人間は、現世代と同じ生存権をもつべきである、②地球上どこでも入手できる資源は、すべての人間に平等に与えられるべきである、の2つだ。これら2原則を同氏は「地球規模の世代間平等主義」と呼ぶが、これには早急に一定の制限が課せられるべきであるとする。が、この問題は煩雑になるので、本欄では触れない。
 
 では、ヴォグト氏が目指す“正義”を実現した未来社会とは、どのような姿か? これについては、同氏はこの論文で多くを語っていない。が、それらしきものを書き出してみる--
 
「“より速く、より高く、より多く”という考えは、進歩の理想としては不十分であることが証明された。より少ない資源から生み出された富だけが、より多くの人々に配分されるのだから、正義を実現することができる」。

「持続可能性は、資源節約のための社会的、経済的政策の代名詞であってはならない。それは、倫理的、文化的な変化を目指すものだ。成長は無限だとする現在の進歩についての考え方は、開発にとって不可欠な価値によって置き換えられねばならない。長期的な視点に立った経済の成功は、自然のリズムにどれだけ統合されているかによって評価されるべきである」。
 
「持続可能性は、未来への1つの警告である。その背後にある希望は無限に続く成長ではなく、自然の限界内での充実した生活である」。

 生長の家の“森の中のオフィス”構想とも共通し、あるいは参考になる考えがいくつも見出される。
 
 谷口 雅宣

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2011年6月22日

持続可能性と気候変動の正義

 まもなくドイツで行われる「世界平和のための生長の家国際教修会」でゲスト・スピーカーとして講演するマルカス・フォクト博士(Markus Vogt)の論文を読んだ。「神学的視点から見た持続可能性と気候変動の正義」という題の英語の論文だ。題の日本語訳は大仰に聞こえるが、原題は「Sustainability and Climate Justice from a Theological Perspective」だから、案外シンプルだ。何が書いてあるかと言えば、「地球温暖化に伴う気候変動の問題を解決するためには、何を正義の基準とすべきか」が、ドイツのカトリック神学者の立場から提示されている。ヴォグト博士は、ミュンヘン大学などでキリスト教倫理や神学の教授をしていて、ドイツ司教会議(German Bishop's Conference)のアドバイザーもしている。一読して、同氏が倫理学者、神学者として地球温暖化問題に相当な危機感をもっていることが分かった。
 
「一読」とは書いたが、ヴォグト氏の英語は難解だった。だから、同じ文章を2回、3回読んで理解することもある。これは、私の英語力の問題もあるのだろうが、氏の“ドイツ的厳密さ”が英語にも表れており、さらに氏の学識の広さも関係していると思う。ここでは、1つの文章に神学、経済学、政治学の用語が織り込まれていたりする。印象深かったのは、氏のこの問題に対する真剣さと、思慮深さだ。地球環境問題や気候変動については、日本ではいまだに一部で「自然現象で人間には責任がない」という種類の粗雑な議論が行われていて、それを読んだ人から本欄にも疑問を呈するコメントが付けられたりする。また、経済界にも政界にも、この問題を長期的な視点で深く考えている人はほとんど見当たらない。だから、ヴォグト氏のような哲学的、神学的視点を本欄で紹介することは、我々の心の“視野拡大”のために役立つと思うのである。

 ところで、私は2002年に『今こそ自然から学ぼう』(生長の家刊)という本を出したとき、副題を「人間至上主義を超えて」とした。これには英語訳も添付されていて、主題は「Learning from Nature」であり、副題は「beyond anthropocentrism」である。「anthropocentrism」の「anthropo-」は「人間」とか「人類」という意味であり、「-centrism」は「中心主義」と訳せるから、「anthropocentrism」は「人間中心主義」とも訳せる。事実私は、本の副題では「--至上主義」としたが、本文内では「ーー中心主義」という言葉を使っている。一般の日本人読者にとっては、「至上主義」の方が分かりやすいと思ったからである。この本の中で、私は人間中心主義を次のように説明している--
 
「人間を生態系の中心に置いて、人間のために良好な自然環境を作り上げたり、人間に快適な程度に自然保護を行うというのが1970年代までのエコロジーの考え方だった。この考え方では、人間と自然とが互いに独立した対立関係にあり、しかも自然の価値と人間の価値が対立した場合には、常に人間の価値が優先されたから、“人間中心主義(anthropocentrism)”を出ることがなかった」。(p.28)
 
 これに対し、1980年代以降に生まれた「ディープ・エコロジー」は、人間を自然の一部と見なして、人間の自然観の変革や人間観の“深化”を通して、人間の生活スタイルの変化を要請するものだから、より宗教や信仰に近く、環境問題の解決により有効であるとして、私は好意的に記述している--
 
「1980年代以降に登場したエコロジーでは、しかし人間と自然との関係をもっと深く見つめ直し、人間を自然の一部としてとらえ、自然を支配しようとする人間の態度そのものの中に環境問題の原因を見出したり、人間自身の生き方を変えることで自然との調和ある関係を回復することを目指すような動きが生まれてきた。これは、従来のエコロジーに比べ、より深く問題の本質に迫る考え方であるから、“深い環境保護思想”というような意味でディープ・エコロジーと呼ばれる。また、人間中心主義に対して、“生態系中心主義(ecocentrism)”あるいは“生命中心主義(biocentrism)”などと呼ばれることもある」。(pp.28-29)
 
 ヴォグト氏は、論文の初めの部分でこの「anthropocentrism」を検討しているが、それを頭から否定する立場ではない。それよりは、「生態系の中での人類を見れば、人間中心主義には自ずから成立の条件と限界がある」と見るのである。
 
 それらの条件や限界の具体例を、ヴォグト氏は次のように4点掲げている--
 
 ①科学技術の否定ではなく、自然資源をムダ遣いしないための技術開発を支持し、
 ②富の追求や自由市場を拒否するのではなく、資源節約型の繁栄のために、環境に配慮した社会市場を求め、
 ③倫理の分野では、近代超克型ではなく“第二の近代”を見据えた倫理を目指し、
 ④人間を犠牲にした環境中心主義ではなく、環境を配慮した人間性の実現を目指す

 これらの考え方は、人間中心主義を脱していないし、従来の経済発展の考え方からも抜けきっていない。しかし、ヴォグト氏は、1992年に国連の環境開発会議において採択された“リオ宣言”の27か条の第1条に「人類は持続可能性の中心にある」(Human beings are at the centre of sustainability.)と書かれていることを指摘し、この考え方に議論の余地があることは認めながら、それは今の時点でいろいろな立場の国々から広範囲の合意を得ているのだから尊重すべきだとしている。そして、この宣言の中で、倫理的に有益な視点として最も重要なのは、「自然保護と人類の保護を分けて考えることはできない」という認識だという。
 
 谷口 雅宣

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