今日は午前10時から、長崎県西海市にある生長の家総本山に於いて、「谷口雅春大聖師御生誕日記念式典」が厳かに執り行われた。この式典は、前日に行われた龍宮住吉霊宮秋季大祭と龍宮住吉本宮秋季大祭という2つの御祭に続くもので、海外代表を含む各地からの生長の家の幹部・代表者が集まって、前年の運動の成果を讃え、今後の運動のさらなる発展を誓う場である。私は本式典において祝詞を奏上し、運動の功労者へ表彰状を授与するなどしたほか、大要以下のような挨拶を行った:
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皆さん、本日は谷口雅春大聖師御生誕日記念式典に大勢お集まりくださいまして、誠にありがとうございます。
この11月22日は、昨年までは「谷口雅春大聖師御生誕日記念」に加えて「生長の家総裁法燈継承日記念」という枕詞がついていましたが、今回からは2番目の枕詞は消えました。その理由は説明するまでもありませんが、私が生長の家総裁の法燈を継承させていただいたのが、今年の3月1日の立教記念日だったからです。ですから、今回の秋の記念日は、例年より何かが減ったのではなく、2つの枕詞が春と秋に分かれたということをご了解ください。谷口雅春先生のお誕生日がなくなったのでも、総裁の法燈継承を記念する日がなくなったのでもありません。
さて、今年は全国的に秋の到来が早いように思います。気象庁に問い合わせたわけでもないので確かなことではありませんが、つい数日前には日本列島は寒気に包まれて、冬の到来を思わせるほどでした。東京地方の気温も最高が「9.4℃」という日がありました。生長の家本部の近くにある明治神宮の外苑のイチョウ並木も、ちょうど黄葉が見ごろで、長崎へ来る前日などは黄金色の絨毯を楽しむことができました。ここ総本山でも、公邸のお庭のカエデが奇麗に色づいてきています。こうして美しい自然に接することができるのは、本当にありがたいことと思います。このように今は紅葉が美しい季節ですから、私はこの秋の記念日には「自然界」の話をよくするのであります。今日は「自然を愛する」とはどういうことかを、皆さんと一緒に考えてみたいのであります。
生長の家では現在、“自然と共に伸びる運動”をしようというので、私たちは運動方法や日常生活をいろいろ工夫して、できるだけ地球温暖化が進まないように心がけています。皆さんもこのことはよく心得ておられると思います。日本では政権交替が行われて、温暖化抑制により積極的な民主党が今、温暖化問題に取り組み出したところですが、残念ながら、世界全体の動きはまだまだ経済優先で進んでいるようであります。そのおかげで、温暖化の速度はIPCCが予測した“最悪”のシナリオに近い動きを示しているのが現状です。
私たちは“生活者”としては、できるだけCO2を排出しない生活を心がけることはもちろんです。しかし、特に経済が停滞している現状では、経済復興のためには消費をどんどんしろという人が多いのですから、“信仰者”としては、「なぜ消費によってCO2を排出してはいけないか?」という問いに、宗教の立場から確信をもって答えることができなくてはいけないと思います。それは別の言葉でいえば、「なぜ自然を愛さなかればならないか?」という問いかけでもあります。その答えは、「神の愛を実践する」ためなのであります。仏教的に言えば、仏の「四無量心の実践」です。
「自然を愛そう」などと言うと、皆さんの中には「自然を愛することなど昔からやっている」という人がいるかもしれません。しかし、その「愛」とはどんな種類の愛でしょうか? 産業革命以降のこれまでの人類の文明では、「自然を愛する」とはいっても、それはたいてい自然の“全体”を愛するのではなく、自然物の中から人間にとって利用価値の大きい一部のもの--例えば鉄鉱石、石油、ウラン、木材、牛肉……を取り出して、それを愛する。つまり、自分のそばへもってきて、利用する--五感を満足させる手段として消費する--という意味でありました。自然の中でも人間の利用価値がないものは、“邪魔者”と見なされ、破壊されたり、廃棄物として捨てられてきました。これが経済発展とともに地球全体で大規模に進行してきたために、自然破壊が行われ、公害問題が発生して、さらには今日のような地球規模での気候変動が深刻化してきているのであります。
その理由はなぜなのでしょうか? 人間は「自然を愛する」のをやめたのでしょうか? 私はそうは思いません。なぜなら、今のような紅葉の季節には、大勢の観光客が紅葉狩りに繰り出します。冬にはスキー客が繰り出し、春には山菜採りに繰り出し、花見に繰り出し、夏には海や山に繰り出して自然に接することで幸福感を味わうからです。また、世界中で似たような現象が起こりますから、自然を愛するのは日本人だけではない。それではなぜ、人間は自然を愛しながら自然破壊を続けるのでしょうか? この問題に正しく答えることができなければ、自然保護や温暖化抑制の試みはきっと失敗するでしょう。
私はこれは、「愛する」という言葉の意味をしっかり理解しないところから来ていると考えます。生長の家では、「愛」というものを皆さんに無条件でお勧めしてはいません。これは、講師の先生方ならばよくご存じのことです。仏教でも、愛は煩悩の一つに分類されています。また、キリスト教でもイスラームでも、愛には低いものから高いものまでいろいろの段階があると教えられています。「自然への愛」についても、私たちは古来からある、こういう宗教の知恵から学ぶことが大切です。
生長の家創始者の谷口雅春先生のご著書『新版 生活と人間の再建』には、第8章に「愛の諸段階に就いて」という題をつけて、この問題に明確な答えが示されています。この本は今、生長の家講習会のテキストにもなっていますから、皆さんもお持ちの方が多いと思います。お家へ帰ったら、読み返してみてください。
(同書、pp.148-150 を朗読)
ここで谷口雅春先生が説かれているように、人類のこれまでの「自然への愛」とは愛着の愛であり、執着の愛だったのであります。これは煩悩の1つでありますから、愛すれば愛するほど自然から奪い、自然を破壊する結果になってしまいました。私たちは今やその「煩悩の愛」を超えて、自然に対しても仏の四無量心を表す方向へと歩み出さなければなりません。
では、それは何をすることでしょうか? 四無量心とは「慈・悲・喜・捨」です。すなわち、「慈悲」とは「抜苦与楽」の心です。つまり、人の苦しみを見ては、その苦しみを除いて楽を与えようと思う心です。これを自然界に対して適用すれば、自然が傷つき、多くの生物種が絶滅している現状を見て悲しみ、その自然を回復させ、生物種の保存と繁栄とを実現させようとする心です。また、生物が繁栄している様子を見れば、それを自分の繁栄のように感じて喜ぶ心が「喜」です。別の言葉で言えば、「自然と我とは一体なり」という自他一体の感情を起こし、その通りに生きることです。それが、より高次の「自然への愛」であり、これによって人間は初めて自然を傷つけ、自然から収奪する従来の生き方から離れることができるでしょう。
さて、それでは四無量心の4番目の「捨徳」について考えてみましょう。自然を愛するに「捨」をもってするとはどういうことでしょうか? 谷口雅春先生は次のように説いておられます--
(同書、pp.156-157 朗読)
これを読むとお分かりのように、人間が自然を自分の好みに合わせてつくり変えるのではなく、自然本来の活力を発揮させ、自由に解放してあげることです。それによって、人間の生活に多少不便なことが起こっても、それを「不便」とか「不都合」とか考えないのです。なぜなら、自然と我とは一体なのですから、自然にとって好都合なことは自分にも好都合と感じるからです。人類の多くがこのような心境に到達するのは、まだまだ先のことでしょう。しかし、「神の愛」を実践することの大切さ、仏の四無量心の尊さを知っている信仰者には、こういう生き方に向かって努力することの意義がよく分かるのです。
生長の家は、環境運動ではありません。宗教運動であり、信仰者の生き方を広める運動です。今日、環境問題の重要さは世界的に認知されるようになっていますが、それを宗教上の信仰の問題として捉える人は、残念ながらまだまだ少ないのです。生長の家はそれを行うことによって、今、困難に直面している地球温暖化抑制を精神的・宗教的側面から強力にバックアップしていく使命があると考えます。ですから、私たちは“自然と共に伸びる運動”をぜひ実現させ、その意義を生長の家以外の多くの人々にも伝えて、神の御心を実現していきましょう。
自然の美しいこの秋の記念日にあたって、所感を述べさせていただきました。ご清聴、ありがとうございました。
谷口 雅宣