今日は午後4時半から、京都府宇治市の生長の家宇治別格本山の大拝殿で「東日本大震災物故者追悼慰霊祭」がしめやかに挙行された。この御祭は3月11日の大震災とその後の大津波で亡くなった何万人もの犠牲者の御霊をお招きして、人間・神の子、生命無限の真理を説く聖経『甘露の法雨』を読誦し、生前の御霊の御徳を称え、感謝の誠を捧げるためのもの。招霊の後、私は奏上の詞を述べ、慰霊祭の詞に続き玉串奉奠を行った。また、今回は被災地の東北3県の教化部長も壇上で玉串を捧げ、茨城教区の教化部長が聖経の一斉読誦を先導した。
儀式の終了後、私は概略次のような言葉を述べた:
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本日は、東日本大震災物故者追悼慰霊祭に大勢お集まりくださり、誠にありがとうございました。今年3月11日に起こった東日本大震災により、大変多くの方々の命がこの世から霊界へと移りゆくことになったのは、実に残念なことでした。この大地震がなければ、まだまだこの世で活躍し、私たちと愛を深め親交を広げることのできた何万人もの人々が、自らの意思とは関わりなく、急速に霊界に移行しなければならなかったことの意味を、私たちは深く考えねばならないと思うのであります。
私はその考察の一端を、4月17、18、19日の3回にわたってブログ上に書き、また2つの祈りの言葉として発表しました。「自然と人間との大調和を観ずる祈り」と「新生日本の実現に邁進する祈り」の2つです。これらはすでに機関誌『生長の家』6~7月号にも発表されているので、まだ読んでおられない方はぜひ読んでいただきたいのです。
これらの中の大きなポイントが1つあります。それは、近年、自然と人間とが対立する現象が顕著になりつつある中で、これが起こったということです。言わば「自然と人間の対立」の最も鮮明な表現が今回の大震災である。何万人もの人の命が、大地震とそのあとの大津波によって一気に奪われた。それだけでなく、原子力発電所の事故により、大勢の生きている人々も生活の場を奪われることになっている。原発は人間が造ったものですが、原子力そのものは自然の力の一部です。
放射線というのは、地球の大気圏から一歩外の宇宙空間へ出れば、そこらじゅうを飛び交っているものです。それが地上では生物に害を及ばさないようになっている。その理由は、生物同士が協力して、特に植物が地上で生い茂ってくれることで大量の酸素を生み出し、独特の構成の大気を形成しているからです。言わば“透明な放射線防護服”で地球全体を覆って守ってくれている。にもかかわらず、人間は自分のためだけを考えて、生命全体にとって危険きわまりない放射性物質を、地下深くから掘り出し、それをエネルギー源にして使う方法を開発した。
それがちょうど、大東亜戦争の末期に行われたのです。そして広島、長崎にまず原爆として投下され、その後は核兵器の開発競争となり、さらに原子力発電所の世界各地への建設となった。その結果、今日本には54基もの原子力発電所が海岸線に並ぶという状況になっているのです。これと併行して、化石燃料の過剰な消費というのも、永年にわたって世界的に行われてきた。これもまた人間の都合だけを考えて行われている。そのおかげで、生物種が大量に絶滅し、地球温暖化現象や気候変動が起こっていて、私たちの生活を脅かしつつあるということは、皆さんもすでに十分ご承知のことです。
この「自然と人間との対立」関係を解消して、大調和を実現しなければならないというのが、今回の大震災に遭遇した私たちが最も学ばねばならない大切な教えである。私はそのことを強調したいのであります。しかし、これは、大震災の犠牲となった東北地方の人々に最大の責任があるという意味では決してありません。「大震災の意味を問う」というブログのシリーズにも書きましたが、国家の政策レベルと個人の魂の進化のレベルとは、次元が違う問題であり、別に考えなければならないのです。
大東亜戦争がそのよい例です。明日、精霊招魂神社大祭が行われますが、そこでの祝詞にも書かれているように、個人として戦地で戦った人の大部分は、自己の利益を度外視して国のため、家族のために命を捧げた人々です。その忠義と滅私奉公の精神は魂の浄化に大いに役立ったし、私たちはそういう方々のおかげで戦後を生きることができた。だから、心から感謝の誠を捧げるべきです。しかしそのことと、国家として、日本社会として、戦争を行い、戦争を推進していった責任問題は、明らかに別に存在するのです。日本はそれによって過ちを犯したのであるから、それをつぐない、再び同じ過ちを犯さないように、国家や社会の制度を改善する必要があったし、戦後の日本社会はそういう方向に動いてきたので、今は国際社会の立派な一員として認められ、活躍できるようになっている。
それと似たことが、今回の大震災でも言えるのです。このことは4月17日のブログにも書きましたが、個人が突然に亡くなる“不慮の死”というのは、魂の成長にとって役立つことが多い。これは谷口清超先生が『新しいチャンスの時』(2002年刊)という本の中で次のように書いておられることからも、分かります。引用文は、突然の交通事故による死に関して述べられたものだが、今回のような自然災害による死についても適用できます--
「このような即死は、高級霊にもありうることだ。それは急速な肉体からの離脱は、多くの業因を脱落するから、ちょうど大急ぎで家を出る時には、ほとんど何ものも持たず(執着を放して)去るのと似ている。だから魂の進歩に役立つのである」。(p. 21)
このようにして、今回の被災によって多くの人々の魂が執着を脱落して、急速に進歩をとげたということは大いにあり得るし、その通りだったと私は思います。しかし、このことと、人間の集団としての国家や社会が今回の大災害の後に進歩するかどうかは、別次元の問題なのです。
今回は「大地震」という自然災害が直接の原因であるが、しかし、戦後の日本社会の無理な、歪んだ発展の仕方が、震災の被害を拡大したという事実は認めなければならない。それは、地球環境全体を含めた「自然破壊」という方向へ進んできたということです。もちろん、「東北」という一部の地域の人だけが行ったことではなく、政府や行政が一体となって全国的に行った政策の結果です。つまり、唯物的な価値を追い求めすぎて、それを得るためのエネルギー源を莫大な力をもった原子力に依存することを決め、広島と長崎の教訓も忘れ、原子力がもつ生命体への危険性を過小評価してきた。それとともに、生命を扱う農業よりも物質を生み出す工業を優先し、自然が豊かな地方よりも物質が豊かな都会を育成する方策を永く続けてきたのです。
また、自然の力を侮った傲慢さ、そして人間至上主義の問題があります。私は今回の震災後に初めて“津波石”の話を知ったが、そういう津波の危険を訴える我々先祖の警告が無視されて、低地に街や港が建設されたことが津波の被害を拡大した。科学・技術の力を過信してきたと同時に、自然に対して「何があっても大したことはない」という傲慢な考えを持ち続けてきたということです。それは結局、人間至上主義が背後にあるからです。ここから「自然など科学や技術の力で押さえ込んで利用すればいい」という考えが生まれ、それがダム建設や護岸工事、防潮堤の建設、そして原子力発電所の構造などにも反映している。
我々は「与えれば、与えられる」「奪えば、奪われる」という心の法則を学んでいる。個人のレベルでなく、国家や社会、さらには人類のレベルで自然との関係を振り返れば、我々はこれまで経済発展という目的のために、自然から奪い続けてきたことを反省しなければなりません。森林を切り倒し、生物種を絶滅させ、大量の家畜を毎日殺している。南九州で口蹄疫が発生したとき、我々は短期間に十万頭以上の家畜を殺処分した。そういう我々が、自然界から「奪われない」ですむということはないのです。
自然から奪い、自然から徹底的に搾取するという人間の生き方は、もはや成り立たないことが今、教えられているのです。だから私たちは、“自然とともに伸びる”生き方を開発しなければいけない。このことは、地球規模の気候変動問題でも明らかになりつつあるのだから、今はそういう生き方に日本社会が転換するための貴重な機会であることを知らなければなりません。それを、今回の大震災で犠牲となった御霊さまが説く“観世音菩薩”の教えとして受け取り、御霊さまに心から感謝申し上げるとともに、私たちの生き方を現実に変革していかねばならないと信じるのであります。
どうか皆さんも、それぞれの立場から自然の中に神を見出し、自然を敬い、自然と調和する生き方を開発し、それを広めていただきたいと念願いたします。
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谷口 雅宣