2013年11月21日

雨の日は木の皿で


今朝、八ヶ岳南麓には霧雨が降っていた。
宮城教区の生長の家講習会が翌日にあるため、私たちは早く自宅を出て、東京から新幹線で仙台まで移動する。こんな日の朝食はサンドイッチが定番になった。しかも、食器洗いをできるだけ簡単にするために、一皿料理である。

新居を建てるとき、食洗機も入れた。ただし、私たちの目的である“炭素ゼロ”の生活を実現するためには、電気製品はよく考えて使わなければならない。晴天時の食洗機使用はほとんど問題ない。電力使用量が発電量よりだいぶ少ないからだ。しかし、今日のような雨天や曇天の場合、食洗機を動かすと、モニターには「買電中」を示す橙色のランプが点る。これは、東京電力から電気を買っているという意味で、“炭素ゼロ”でなくなってしまう。だから、雨天や曇天時の食事には、食器数をできるだけ減らしつつ、見栄えも悪くならない工夫が必要だ。料理は口から食べるだけでなく、目からも、鼻からもいただくからだ。

ということで、雨の日のわが家の朝食には、木目も鮮やかなケヤキの皿が登場することになった。この皿は、日本の森林の重要性を訴えてきたオークヴィレッジ製の漆器で、高級品だ。いつか贈り物としていただいたものを押入れから出してきて、私たちの“森の生活”で活躍することになった。漆器だからナイフやフォークを突き立てて食べるわけにいかない。だから、それに載せる料理は、あらかじめ口に入る大きさに切り分けておくか、傷がつきにくい木製のフォーク、あるいは箸を使う。漆器はもちろん食洗機で洗えないので、手洗いすることになる。

私は、こういう細やかな配慮をしながら食事をすることに、“新しい文化”を感じるのだ。大量生産、大量消費の時代には、朝食は効率よく作って、マヨネーズなどで濃い味をつけ、頑丈な食器に載せてガチャガチャと出し、テレビを見たり新聞を読みながら、会話もなく、ロクに味わわずに短時間で掻き込む人が多かったのではないか? 食後はもちろん食洗機に頼り、前夜の食器がその中に残っていれば、別の食器を出して使う……こんな食事の仕方では、資源やエネルギーの浪費は進んでも、季節の移り変わりを感じながら食材を味わい、その根源である自然の恵みに感謝の気持を起こすことなどないに違いない。つまり、自然と人間とは分離していたのだ。

しかし、自然と共に生きようとする時、人間は自然を常に意識し、自分の行動が自然に与える影響について配慮するだろう。その気持を抽象的なレベルに留まらせず、具体的に、五感をもって確認するための最良の機会が、「食事」の場なのではないだろうか。朝起きて空を仰いで天候を知ったならば、それに合わせてエネルギーの利用法を考え、食器を選び、メニューを考える。これはもう「人間のため」だけの食事ではない。木目の美しい食器に地元の食材を載せ、器の柔らかさを感じながら、ていねいに、ゆっくりと味わいながら食べる。それが雨の日の朝だということが、私にはなぜかピッタリ来るのである。

谷口 雅宣

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2011年8月30日

山林の価値を認めてほしい

 ヨーロッパの人々は樹木を大切にするという話を書いたが、「いや待てよ……」と疑いたくなるような話が新聞に載っていた。今日付の『朝日新聞』によると、オーストリアとイタリアの国境にあるグローセ・キニガット(標高約2,689m)とロスコップ(同約2,603m)の2つの山の山頂付近を、オーストリア政府が売りに出したというのである。前者は山頂と周辺の2つの峰を含む約92万平方メートル、後者は山頂を含む約29万平方メートルで、値段はそれぞれ約9万2千ユーロ(約1千万円)と、約2万9千ユーロ(約330万円)という。もちろん、そこに生えている森林もすべて一緒に売り払う話だ。しかし、国民から猛反対されたため、方針転換を余儀なくされたそうだ。
 
 この話になぜ驚いたかというと、自然物に対する経済的評価の低さである。2千メートル級の山の山頂付近を「330万円から1千万円」と評価する考え方は、相当程度の低い人間中心主義だと思った。記事によると、この値段をはじき出したのは、オーストリア政府から国有不動産の管理・売買を委託されている公営企業体だというから、いいかげんな会社ではないだろう。その会社の36歳の報道官は、今回の話に関連して、「公営企業だから納税者に責任がある。2つの峰のような価値の低い物件は徐々に処分していく」と説明したという。また、政府当局者は、「山頂は岩や石ばかり。持っていてもあまり利益がない。外国企業などが高値で買いたいといえば、売る人が出てくるかもしれない」と話したとも書いてある。

 こういうことを政府や公営企業の上層部にいる人々が平気で言うとしたら、その国の人々は樹木などの自然物を大切にすると本当に言えるだろうか、という疑問が湧き上がったのである。しかし、国民がその話を聞いて一斉に反発したのだから、一般のオーストリア人には良識があると考えるべきだろう。問題はやはり、現在の経済学の考え方の中に潜む人間中心主義なのだろう。言い換えれば、山や森林がもつ“生態系サービス”と呼ばれる数々の貴重な機能の評価が、今の経済統計の中からごっそりと抜け落ちていることが問題なのだ。そこから、「金銭的評価=価値」という短絡的思考によって、今回のような愚かなことが真面目に検討される。上記の値段は決して高くはないから、この峰を買おうとしてドイツのソフトウェア会社が名乗りを上げたという。「ぜひ購入して山頂に会社名をつけたい」のだそうだ。また、中東やロシアの投資家からも問い合わせがあったという。

 こういう話を聞くと、日本でもかつて北海道の原野や森林などを外国人や外国企業が購入して問題になったのを思い出す。山林は、飲料水の生産地であることを忘れてはいけない。今、世界中で水不足--特に、飲料水の不足が深刻化している。だから、「飲料水を生産する」という機能だけでもきちんと経済的に評価すれば、山林の値段は上がり、地方の活性化や林業の振興につながるはずだ。これに加えて、「二酸化炭素を吸収する」という山林の機能をきちんと評価すれば、都会偏重のいびつな経済は修正されて、よりバランスのとれた自然尊重の社会に移行すると思うのだ。そういう抜本的な制度改革を新しい政府に求めるのは、どだい無理なのだろうか。
 
 谷口 雅宣

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2011年8月28日

樹木の大切さを思う

 今日は山形駅前の山形テルサで生長の家講習会が開催され、647人の受講者が集まってくださった。2年前の前回より受講者数は89人(12.1%)減少したが、今回の講習会の推進期間が、ちょうど東日本大震災後の東北地方全体の混乱期に当たったという、やむをえない事情がある。例えば、受講券奉戴式は当初、震災3日後の3月14日に予定されていたが、この日は会場の教化部には数人しか集まらなかったため、行事は事実上延期しなければならなかったという。また、震災後の数カ月、ガソリンの供給が減少したことで、教化部での会合などが予定通りに行えないなど活動の停滞があった。それでも、東北人の粘り強さと教区一丸となった熱心な推進で前回の8割以上を結集したことはありがたく、喜ばしいことだと思う。
 
 講習会後、帰京の列車出発までのわずかな時間、駅からも近い霞城公園に寄った。山形城跡を緑豊かな公園にしたもので、サクラやイチョウなどの大木が何本も残っているのが目立った。私はこの日、午後の講話でドイツとイギリスでの講演会などの報告をさせてもらったが、その時、訪れた街々の写真を示して、両国の人々が樹木を大切にしているという印象を強くもったことを話した。私の住んでいる東京では、日比谷公園や明治神宮など一部の緑地を除けば、街路樹や公園の木を簡単に切り倒してしまうのを苦々しく思っていたが、霞城公園にはまだ多くの大木が残っているのを見て、「日本人もまだ捨てたものではない」と胸をなで下ろしたのである。
 
 樹木の価値とありがたさは、強調しても強調しすぎることはない、と最近よく思う。大きな木が1本あるということは、木陰ができることで土地の乾燥を防ぎ、有害な紫外線から土地が護られ、下草が生えて虫や微生物が繁殖する。それだけでなく、その木には何千種類もの昆虫が棲みついているから、それを食べに鳥類が飛来し、巣作りをする。果実ができればさらに多くの動物がやってくるし、落葉すれば、土地はさらに肥えるだろう。樹木は枝葉に水を溜めるから、大雨が降っても土壌の流失はなく、土中に広がった根は水を浄化しながら、土砂崩れを防いでくれる。もちろん、地震による被害もそこに樹木があるのとないのとでは、大きな違いが出る。
 
 地球温暖化問題が脚光を浴びるようになったことで、植物が二酸化炭素を吸収して酸素を排出してくれることは、多くの人々が知ることになった。しかし、地球を取り囲む大気の構成が、植物の活動なくして現在の状態になりえないということは、あまり知られていないだろう。この大気があることと、その外側にオゾン層があることで、宇宙空間を飛び交っている大量の放射線が、地球の表面にあまり届かないようになっていることは、重要な事実だ。つまり、植物が存在するおかげで、私たち動物は酸素呼吸ができるだけでなく、放射線による遺伝子破壊の危険からも常に護られているのだ。この放射線防護機能は、人間が考え出したどんな方式の原子炉よりも柔軟でありながら、堅牢である。どんな地震が来ようが、どんな津波が押し寄せようが、この放射線防護機能はびくともしない。が、愚かな人間がそんな植物を大量に伐採し、燃やし、それでも足りずに、大昔の植物であった石炭を地下から掘り出して燃やし、また、生物の死骸だった石油を燃やし続けることで、地球の大気の構成を変えようとしているのである。

 こういう観点から考えてみても、原子力エネルギーを人類が利用し続けることが、地球全体の生命にとってどんなに不合理であり、危険であるかが分かるはずだ。民主党の総裁選挙が行われているが、原発からの脱却を明確に訴える候補者がいないのは、誠に残念なことである。
 
 谷口 雅宣

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2011年8月25日

ドイツでの国際教修会について (5)

 前回の本欄では、マルカス・フォクト氏の“人間中心主義”について若干の疑問を呈したが、私は彼の神学者としての立場を理解しないわけではない。神学者は、聖書の記述にもとづいて教義の解釈をしなければならないのは、当然だからだ。そして、『創世記』には確かに人間中心主義的な解釈ができる聖句がいくつも含まれている。また、生長の家でも「人間は神の自己実現である」と説いていて、我々人間が動植物とまったく同等の関係で「神の御徳を表現している」とは考えない。生長の家では、人間が他の生物に優れているのは「自由を許されている」という点で、それによって初めてこの世界に「善」を実現することが可能になる、と考える。なぜなら、自由意思のないロボットのような存在は、どのような行動をしても「善悪」の責任を問われることはないからだ。
 
 ところで、フォクト氏が「ものの価値は人間によって創られる」と言ったとき、それはある意味では正しい。その「ある意味」とは、経済学における需要と供給の関係のように狭義で短期的な視点から離れて、生態学で扱われるような広域にわたり長期的な視点から評価した場合の価値である。私たちの日常生活の中でも、あるものをどちらの視点から見るかによって、その価値の評価は変わることがある。
 
 簡単な例を挙げれば、レストランに入ったときのメニュー選びである。我々は一般に安くて、豪華で、良質なものを好むと思われるが、それを「空腹である」という個人的で、短期的な視点--空腹なのは自分であり、空腹の状態は短期的である--だけから見れば、高蛋白、高カロリーで見栄えがよく、比較的安価なメニューを選ぶ人が多いかもしれない。しかし、生長の家の教えを知っていて、地球温暖化や食糧問題に我々の食生活が大いに関係していることを学んでいる人は、より広く、長期的な視点から自分の食生活を考えるだろうから、多少ボリュームは少なくても、肉食を避け、野菜や海産物を主体としたメニューを選ぶようになる。その場合、メニューの中では比較的値段の高いものを選ぶことも十分ありえるだろう。

 こういう例などは、社会が決めた価値と個人の決めた価値とが食い違う場合で、個人が自由意思を行使したのである。そして、高蛋白で肉主体のボリュームのあるメニューは捨てられ、それより値段は高くても、地球環境や世界の食糧供給に害の少ないメニューが選ばれた。だから、ものの価値は人間によって決まるというキリスト教の価値論は当たっている。が、この場合、このレストランでの、この個人の選択が、社会全体の価値観を変えたとは言えない。一個人の一回の食事の選択だけでは、社会全体の価値観は変わらない。では、同じ1つのメニューに対して“複数の価値”があると考えるべきだろうか。となると、その同じメニューを選択する人の数は事実上“無数”だと考えられるから、世界には無数の価値がバラバラに存在するということか。しかし、そう考えてしまうと、世の中で起こるあらゆる出来事の価値は相対的だということになり、「善悪」を評価すること自体が無意味になってくるる。そして、法律や倫理・道徳、宗教の存在価値はなくなってしまう。
 
 だから、神学者が「ものの価値は人間によって創られる」と言うときは、人それぞれがバラバラの価値基準をもっているという意味ではなく、人間には共通する価値基準があり、それがものの“本当の”価値を決めるという意味でなければならない。我々が使っている例にしたがって言えば、安価でボリュームたっぷりのハンバーグ定食を選ぶ人(Aさん)にも、高価だがより低カロリーで、野菜も比較的多いカツオのたたき定食を選ぶ人(Bさん)も、この人類共通の価値基準にしたがって行動したのではないが、食品をめぐる知識をより多く得て、さらに地球環境や食糧・人口問題などの知識も豊富に得たうえで、倫理的判断をせよと言われたならば、AさんもBさんも同様な--本当の--判断をする、ということではないだろうか。これは、実際に今そうなるという話ではなく、そうなる可能性が将来予見できるという話である。つまり、現実には存在していないが、条件が整えばそのようになるはずだという想定された状況である。

 こうなってくると、「ものの価値は人間によって創られる」というのと「ものの(本当の)価値は神によって与えられている」というのと、内容的には違いがなくなってくるのである。とりわけ、人間を“神の似姿”としてとらえるキリスト教においては、そうならざるを得ないのではないかと私は思う。
 
 谷口 雅宣

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2011年8月21日

ドイツでの国際教修会について (4)

 このテーマで前回書いたときから、しばらく日がたってしまった。ドイツのカトリック神学者、マルカス・フォクト氏によるキリスト教の世界観を学んでいる途中だった。それによると、キリスト教には神・人・自然を3つの主体として明確に区別する“三者分立”の考えが強く、さらにそれらの間に「神」「人」「自然」の順に序列がついているのだった。その根拠は、神は創造主であり、すべて原因者だから第1に価値があり、人は、その神を経験できる被造物として2番目に価値を有し、自然はそれができない被造物であるがために3番目の地位に置かれるということだった。ここまでは、論理的にはわかりやすい。が、現代の科学的研究の結果と合致させようとすると、無理が生じる部分がある。特に人間と自然とを截然と分離する考え方は、近年の生物学の発見とは相当矛盾してくるだろう。
 
 ところで、フォクト氏が「ものの価値」について語るとき、私の脳裏には疑問符がいくつも浮かぶ。同氏によると、ディープ・エコロジーでは自然界の価値は自然そのものの中にあるとするが、キリスト教的世界観では、ものの価値は人間が決めるというのである。私は、これには大いに異論がある。確かに資本主義経済の中では、ものの価値は人間によって決められる。簡単に言えば、需要と供給が一致する点でものの値段は決まる。しかし、それはあくまでも経済学であり、宗教ではない。しかし、フォクト氏は、キリスト教的視点では、ものの価値は予め与えられているもの、あるいは自然によって前もって決まっているものではないという。そうではなく、人間同士の検討によって創られるものだという。そして、「これが真に存在論的な意味での“人間中心主義”である」と言うのである。その意味は定かでないが、人間中心主義を否定していないことは確かである。が、その一方で、これは人間だけを問題にすることではないという。この重要な発言についての説明は非常に短くて、難解だ。「これは知識と倫理的判断についての存在論的な前提条件であり、自然の内在的価値を無視しているのではない」というだけである。

 この説明だけでは、同氏の真意を確かめることはできない。が、あえて想像してみるならば、こういうことだろうか--すなわち、キリスト教的見方によれば、人間が他の自然よりも価値があるのは「神を体験する」という理性があるからだ。逆に言えば、自然には理性がない。ということは、価値の存在や高下を判断するのはこの理性によるのだから、自然自体には価値判断の能力がない。だから、自然界には弱肉強食の生存競争が存在している。これをトマス・アクィナスは「自然悪(natural evil)」と呼んだ。もちろん、人間社会にも弱肉強食の現象は存在する。しかし、人間はその状態を見て「悪いことだ」と判断する能力がある。これがつまり「神を体験する」という意味だろう。別の表現を使えば、自分の良心の内に神の声を聴くということだ。そういう“神の似姿”として創られた人間が自然界の出来事の価値判断をせずに、自然自体に--自然のすべての部分に--価値があると考えることは、人間存在自体の意味を否定することになる--これが、同氏のいう「存在論的な前提条件」の意味なのだろう。簡単に言えば、人間の存在の意味を肯定するならば、人間中心主義にならざるを得ないということだろう。

 しかし、この考え方では、「自然から学ぶ」とか「自然の中に神を見出す」ということが可能であるかどうかの疑問が残る。フォクト氏は「自然の中に神性を見出す」というディープ・エコロジーの考え方を否定しているから、論理的一貫性は保たれている。しかし、このような一貫性に固執する態度は、あまりにも左脳偏重ではないかという気がする。人間は誰でも、虚心になって自然現象に相対するとき、神秘性、偉大性、壮大性など、自分を超えた価値の存在を心の中に感じるものである。その感覚は、論理によって説明し尽くせるものではない。そういう感情を“偶像崇拝への誘惑”として否定することが人間らしい生き方であり、しかも神への忠誠を誓うことになるとキリスト教では考えるのだろうか。このへんの疑問は、いつかぜひ同氏に聞いて説明を受けたいと感じる。なぜなら、氏はドイツ人であるだけでなく、フライブルグ市の出身だというからだ。ドイツ人は昔から“森”を愛することで有名であり、ドイツ国内でその“森”と人間との調和的発展が実現している町が、フライブルグ市だからだ。
 
 谷口 雅宣

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2011年8月18日

“自然とともに伸びる”方向へ大転換を

 今日は午後4時半から、京都府宇治市の生長の家宇治別格本山の大拝殿で「東日本大震災物故者追悼慰霊祭」がしめやかに挙行された。この御祭は3月11日の大震災とその後の大津波で亡くなった何万人もの犠牲者の御霊をお招きして、人間・神の子、生命無限の真理を説く聖経『甘露の法雨』を読誦し、生前の御霊の御徳を称え、感謝の誠を捧げるためのもの。招霊の後、私は奏上の詞を述べ、慰霊祭の詞に続き玉串奉奠を行った。また、今回は被災地の東北3県の教化部長も壇上で玉串を捧げ、茨城教区の教化部長が聖経の一斉読誦を先導した。
 儀式の終了後、私は概略次のような言葉を述べた:
 
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 本日は、東日本大震災物故者追悼慰霊祭に大勢お集まりくださり、誠にありがとうございました。今年3月11日に起こった東日本大震災により、大変多くの方々の命がこの世から霊界へと移りゆくことになったのは、実に残念なことでした。この大地震がなければ、まだまだこの世で活躍し、私たちと愛を深め親交を広げることのできた何万人もの人々が、自らの意思とは関わりなく、急速に霊界に移行しなければならなかったことの意味を、私たちは深く考えねばならないと思うのであります。
 
 私はその考察の一端を、4月17、18、19日の3回にわたってブログ上に書き、また2つの祈りの言葉として発表しました。「自然と人間との大調和を観ずる祈り」と「新生日本の実現に邁進する祈り」の2つです。これらはすでに機関誌『生長の家』6~7月号にも発表されているので、まだ読んでおられない方はぜひ読んでいただきたいのです。

 これらの中の大きなポイントが1つあります。それは、近年、自然と人間とが対立する現象が顕著になりつつある中で、これが起こったということです。言わば「自然と人間の対立」の最も鮮明な表現が今回の大震災である。何万人もの人の命が、大地震とそのあとの大津波によって一気に奪われた。それだけでなく、原子力発電所の事故により、大勢の生きている人々も生活の場を奪われることになっている。原発は人間が造ったものですが、原子力そのものは自然の力の一部です。

 放射線というのは、地球の大気圏から一歩外の宇宙空間へ出れば、そこらじゅうを飛び交っているものです。それが地上では生物に害を及ばさないようになっている。その理由は、生物同士が協力して、特に植物が地上で生い茂ってくれることで大量の酸素を生み出し、独特の構成の大気を形成しているからです。言わば“透明な放射線防護服”で地球全体を覆って守ってくれている。にもかかわらず、人間は自分のためだけを考えて、生命全体にとって危険きわまりない放射性物質を、地下深くから掘り出し、それをエネルギー源にして使う方法を開発した。
 
 それがちょうど、大東亜戦争の末期に行われたのです。そして広島、長崎にまず原爆として投下され、その後は核兵器の開発競争となり、さらに原子力発電所の世界各地への建設となった。その結果、今日本には54基もの原子力発電所が海岸線に並ぶという状況になっているのです。これと併行して、化石燃料の過剰な消費というのも、永年にわたって世界的に行われてきた。これもまた人間の都合だけを考えて行われている。そのおかげで、生物種が大量に絶滅し、地球温暖化現象や気候変動が起こっていて、私たちの生活を脅かしつつあるということは、皆さんもすでに十分ご承知のことです。
 
 この「自然と人間との対立」関係を解消して、大調和を実現しなければならないというのが、今回の大震災に遭遇した私たちが最も学ばねばならない大切な教えである。私はそのことを強調したいのであります。しかし、これは、大震災の犠牲となった東北地方の人々に最大の責任があるという意味では決してありません。「大震災の意味を問う」というブログのシリーズにも書きましたが、国家の政策レベルと個人の魂の進化のレベルとは、次元が違う問題であり、別に考えなければならないのです。

 大東亜戦争がそのよい例です。明日、精霊招魂神社大祭が行われますが、そこでの祝詞にも書かれているように、個人として戦地で戦った人の大部分は、自己の利益を度外視して国のため、家族のために命を捧げた人々です。その忠義と滅私奉公の精神は魂の浄化に大いに役立ったし、私たちはそういう方々のおかげで戦後を生きることができた。だから、心から感謝の誠を捧げるべきです。しかしそのことと、国家として、日本社会として、戦争を行い、戦争を推進していった責任問題は、明らかに別に存在するのです。日本はそれによって過ちを犯したのであるから、それをつぐない、再び同じ過ちを犯さないように、国家や社会の制度を改善する必要があったし、戦後の日本社会はそういう方向に動いてきたので、今は国際社会の立派な一員として認められ、活躍できるようになっている。

 それと似たことが、今回の大震災でも言えるのです。このことは4月17日のブログにも書きましたが、個人が突然に亡くなる“不慮の死”というのは、魂の成長にとって役立つことが多い。これは谷口清超先生が『新しいチャンスの時』(2002年刊)という本の中で次のように書いておられることからも、分かります。引用文は、突然の交通事故による死に関して述べられたものだが、今回のような自然災害による死についても適用できます--

「このような即死は、高級霊にもありうることだ。それは急速な肉体からの離脱は、多くの業因を脱落するから、ちょうど大急ぎで家を出る時には、ほとんど何ものも持たず(執着を放して)去るのと似ている。だから魂の進歩に役立つのである」。(p. 21)

 このようにして、今回の被災によって多くの人々の魂が執着を脱落して、急速に進歩をとげたということは大いにあり得るし、その通りだったと私は思います。しかし、このことと、人間の集団としての国家や社会が今回の大災害の後に進歩するかどうかは、別次元の問題なのです。
 
 今回は「大地震」という自然災害が直接の原因であるが、しかし、戦後の日本社会の無理な、歪んだ発展の仕方が、震災の被害を拡大したという事実は認めなければならない。それは、地球環境全体を含めた「自然破壊」という方向へ進んできたということです。もちろん、「東北」という一部の地域の人だけが行ったことではなく、政府や行政が一体となって全国的に行った政策の結果です。つまり、唯物的な価値を追い求めすぎて、それを得るためのエネルギー源を莫大な力をもった原子力に依存することを決め、広島と長崎の教訓も忘れ、原子力がもつ生命体への危険性を過小評価してきた。それとともに、生命を扱う農業よりも物質を生み出す工業を優先し、自然が豊かな地方よりも物質が豊かな都会を育成する方策を永く続けてきたのです。
 
 また、自然の力を侮った傲慢さ、そして人間至上主義の問題があります。私は今回の震災後に初めて“津波石”の話を知ったが、そういう津波の危険を訴える我々先祖の警告が無視されて、低地に街や港が建設されたことが津波の被害を拡大した。科学・技術の力を過信してきたと同時に、自然に対して「何があっても大したことはない」という傲慢な考えを持ち続けてきたということです。それは結局、人間至上主義が背後にあるからです。ここから「自然など科学や技術の力で押さえ込んで利用すればいい」という考えが生まれ、それがダム建設や護岸工事、防潮堤の建設、そして原子力発電所の構造などにも反映している。

 我々は「与えれば、与えられる」「奪えば、奪われる」という心の法則を学んでいる。個人のレベルでなく、国家や社会、さらには人類のレベルで自然との関係を振り返れば、我々はこれまで経済発展という目的のために、自然から奪い続けてきたことを反省しなければなりません。森林を切り倒し、生物種を絶滅させ、大量の家畜を毎日殺している。南九州で口蹄疫が発生したとき、我々は短期間に十万頭以上の家畜を殺処分した。そういう我々が、自然界から「奪われない」ですむということはないのです。
 
 自然から奪い、自然から徹底的に搾取するという人間の生き方は、もはや成り立たないことが今、教えられているのです。だから私たちは、“自然とともに伸びる”生き方を開発しなければいけない。このことは、地球規模の気候変動問題でも明らかになりつつあるのだから、今はそういう生き方に日本社会が転換するための貴重な機会であることを知らなければなりません。それを、今回の大震災で犠牲となった御霊さまが説く“観世音菩薩”の教えとして受け取り、御霊さまに心から感謝申し上げるとともに、私たちの生き方を現実に変革していかねばならないと信じるのであります。

 どうか皆さんも、それぞれの立場から自然の中に神を見出し、自然を敬い、自然と調和する生き方を開発し、それを広めていただきたいと念願いたします。
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 谷口 雅宣

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2011年8月16日

ドイツでの国際教修会について (3)

 前回まで本欄で見てきたキリスト教的自然観は、日本の伝統宗教である神道の自然観とはやや異なる。フォクト氏は、「人間は自然に根差した存在である」としながらも、「神を経験する」能力を神から恩寵としていただいている点を強調して、それが自然と人間とを区別するものだという。人間の方が、自然より神に近いとするのである。だから、自然を聖化する汎神論とは異なると説くのである。神道においては「万物に神が宿る」のであるから、神と人との境界が定かでないだけでなく、動植物と人、神と動植物との境界も定かでない。これに対し、キリスト教的世界観では、自然と神とは、明らかに区別された主体同士(distinct entities)として捉えられる。また、人間と神との間にも明らかな区別があるため、人間は「聖なるもの」が抱える負担を軽減されるというのである。これは恐らく、人間には完全性が要求されないという意味だろう。その結果、神と(人間を含めた)被造物との間には自由意思にもとづく関係を結ぶ可能性が生じる、と考えるのである。
 
 ここのところが、日本人にはわかりにくい。いわゆる“神との契約”説である。人間は自由意思にもとづいて神と契約を結んだのだから、神の戒めを守る義務が生じ、神も人間を救う義務が生じるという考え方だ。フォクト氏によると、この神との契約は、人間と神との間だけでなく、自然物と神との間にも同様に存在するという。そして、その根拠として、『創世記』第9章13~16節を挙げる。そこには神の言葉としてこうあるのだーー
 
「すなわち、わたしは雲の中に、にじを置く。これがわたしと地との間の契約のしるしとなる。わたしが雲を地の上に起こすとき、にじは雲の中に現れる。こうして、わたしは、わたしとあなたがた、及びすべての肉なるあらゆる生き物との間に立てた契約を思いおこすゆえ、水はふたたび、すべて肉なる者を滅ぼす洪水とはならない。にじが雲の中に現れるとき、わたしはこれを見て、神が地上にあるすべて肉なるあらゆる生き物との間に立てた永遠の契約を思いおこすであろう」。

 このような「神・人・自然」の“三者分立”の考え方が、キリスト教が環境問題を扱う際のきわめて重要な要素になる、とフォクト氏は言う。例えば、自然の中に“聖なるもの”を見るという点で神道と似ているディープ・エコロジーの立場では、自然はそのままで聖なるものだから、それを変更することは許されないことになる。自然自体が“完全な秩序”であり、“完全な平衡”を体現していると見なされる。とすると、農業も一定の自然の改変であるからできないことになり、遺伝子組み換えや、動植物を使った自然科学上の実験もタブー視されることになるという。これに対し、キリスト教の観点では、自然界の秩序に不完全な点を認める。それは例えば「死」や「闘争」のようなマイナス面である。こういうマイナス面に対して、手を加えて矯正するのが人間の使命だと考えるのである。そして、この見方は、現代の進化論的自然観と共通しているとする。なぜなら進化論では、生物界は常に生存競争による自然淘汰が行われている--つまり、未完成のアンバランスなシステムとしてとらえているからである。
 
 フォクト氏は、ディープ・エコロジーの考え方を批判して、もし自然界がそのままで“聖なるもの”であるならば、人間はその秩序を乱す“自然への最大の災害”となってしまうという。そして、自然環境は人類の滅亡によって最大の利益を得ることになってしまうとする。ディープ・エコロジーのような生命中心主義、あるいは環境中心主義の考え方を突き詰めていくと、そういう結論にならざるを得ないというのである。私は、この件を聞いて、かつて小泉純一郎氏が首相だった時代に、国会答弁で「人間の造ったものだけが地球に害を与えている」と指摘し、「人間こそが異星人と思われる」と発言したことを思い出した。しかしこれは極端な考え方で、人間には地球に害を与えないものを造る意志もあれば、能力もあり、実際にそういう製品を造り始めているという事実もある。ただ、現在の経済制度では、そういう努力がなかなか金銭的に報われない残念な側面があるのである。この点は、人間の努力で修正可能だと私は考える。
 
 谷口 雅宣

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2011年8月14日

ドイツでの国際教修会について (2)

 マルカス・フォクト氏の基調講演は、教修会参加者が同氏の論文『Sustainability and Climate Justice from a Theological Perspective』(持続可能性と気候変動の正義)を読んだ上で事前に提出した質問に答える形で行われた。この論文の内容については、すでに6月22~23日の本欄で簡単に触れた。論文が難解で多岐にわたるところから、質問も数多く、多岐にわたった。が、それに応える形のフォクト氏の講演は、うまく整理されていた。
 
 最初に氏は、現実問題である地球温暖化などの環境問題に宗教の立場から対応する場合、終末論的な危機や恐怖をあおる悲観主義に陥ることなく、人々が問題解決に勇気をもって取り組めるように積極的な希望を与えるべきだと訴えた。しかし、その希望とは、何か理想的なユートピアが今にも実現するような非現実的な夢であってはならず、人間の弱さや社会の制約などを見極めたうえで、論理的、方法論的にしっかりした目標を掲げるべきだと述べた。ただし、人間は理性的な存在だけではなく、感情や霊性を兼ね備えているから、それとのバランスが取れた方法が求められるという。
 
 その後、フォクト氏は、前回触れた聖書の教典解釈の問題に入っていく。具体的には、『創世記』第1章28節の記述をどのように解釈するか、である。その聖句とは、日本語の口語訳聖書ではこう表現されている--
 
「神は彼らを祝福して言われた、“生めよ、ふえよ、地に満ちよ、地を従わせよ。また海の魚と、空の鳥と、地に動くすべての生き物とを治めよ”。」

 ここで「彼ら」というのは、人間の男女のことである。だから、人間に対して「地に満ちよ、地を従わせよ」という神の命令をどう解釈するかで、人間の行動規範が大きく変化するのである。リン・ホワイトなどの“キリスト教悪玉論”者によれば、この聖句があるために、西洋社会が文化的、歴史的に環境破壊を行ってきたということになる。フォクト氏はこれに対し、「従わせよ」のヘブライ語(原典の言葉)である「rdh または kbs」は、確かに「踏みつける(trample)」「踏みつぶす(stamp)」「征服する(subdue)」などのほか「強姦する(rape)」という意味まで含むけれども、ここでは統治者に相応しい用語として解釈しなければらないという。つまり、責任ある統治者は国民をどう支配すべきかと考えれば、ここの解釈は「責任をもって世話する」ということになるという。そして、この解釈は、2番目の創造物語と調和したものだという。「2番目の創造物語」とは『創世記』第2章に出てくる話で、そこでは、神は人を創造され、エデンの園にすべての植物を生やさせた後に「主なる神は人を連れて行ってエデンの園に置き、これを耕させ、これを守らせられた」(第2章15節)とある。ここの表現と、「地を従わせる」行為とが矛盾していてはいけないということだ。
 
 さらにフォクト氏によれば、『創世記』第1章28節の記述は、その前節にある記述と矛盾して解釈してはならないという。前節には「神は自分のかたちに人を創造された。すなわち、神のかたちに創造し、男と女とに創造された」とある。この「神のかたちの人」(Man in God's image)が、神の被造物であり神が「良し」とされた他の生物を情け容赦なく踏みつぶしたり、征服したり、絶滅させたりすることを、神が命じられるはずがないというのである。だから、ヘブライ語の「rdh」が原典で使われていたとしても、ここでの「地を従わせる」行為は、神による理想的な支配--導き、飼い慣らす--という意味になるという。また、「従わせる」という言葉は上下関係を示しているから、人間が他の生物を支配する場合も、“上下関係をともなった仲間”(hierarchical partnership)だと考えるべきだという。

 人間が他の生物の“仲間”であり、神に準じた特権階級ではないということは、「土のちりで人を造」ったという『創世記』第2章7節の記述にも示されている、とフォクト氏は言う。この「ちり」とは、地上に属するものという意味、つまり自然界に根差すものだという。ただ1点だけ、特権的地位があるとしたら、それは「神を経験する」能力を与えられているということだとする。これが「神のかたちの人」という意味であり、これによって人間は、無条件の愛を実践し、他への責任をもつことができるという。こうして、人間は自然の一部でありながら、自然を支配し、かつ自然に対して責任をもつことが要求されると考えるのである。
 
 谷口 雅宣

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2011年8月13日

ドイツでの国際教修会について

 本欄にしばらくご無沙汰していたが、今回の海外行きについて報告しておこう。目的は、ドイツのフランクフルト市で行われる「世界平和のための生長の家国際教修会」と、ロンドンでの一般講演会のためである。いずれの行事もヨーロッパでは初めてなので、事前準備と会の運営に携わっていただいた地元の幹部・信徒の方々を初め、本部国際部の人々も大変だったと思う。が、幸いにも両行事は成功したため、関係者の方々は今、安堵とともに、大事業を成し遂げた充実感を味わっておられるに違いない。この場を借りて、心から感謝申し上げます。ご苦労さまでした!
 
 すでに妻がブログで触れているが、国際教修会は7月30日と31日の2日にわたり、フランクフルト市のマリティム・ホテルを使って行われ、11カ国から143人が参加した。内訳は、ブラジル(80人)、アメリカ(22人)、ドイツ(10人)、スペイン(8人)、イギリス(7人)、スイス(5人)、ポルトガル(4人)、パナマ(3人)、カナダ(2人)、そしてフランスとオーストリアが各1人だった。このうち、本部講師と本部講師補は34人だった。

 今回の教修会のテーマは「自然と人間との共生・共存に向けた教典解釈に学ぶ」というもので、キリスト教神学において「神・人・自然」の関係が歴史的にどのように捉えられ、それが今、どのように変化し、あるいは変化していないのかを「教典解釈」を通して学ぼうとするものである。加えて、“環境先進国”とも呼ばれるドイツの政策が、キリスト教の影響をどの程度受け、どのように形成されてきたかを、同国の若手カトリック神学者、マルカス・フォクト氏(ミュンヘン大学ルートヴィヒマクシミリアン校教授)の基調講演や本部講師の発表などから学ぶことが目的だった。さらに教修会後には、“環境都市”として世界的に有名なドイツ南西部のフライブルク市(Freiburg)を訪れ、当地の環境対策などを視察することになっていた。
 
 キリスト教と環境問題との関係については、本欄ですでに何回も扱ってきた。また、昨年の生長の家教修会でもこれが研修の一部となり、私は昨年7月11日の本欄で“キリスト教悪玉論”を紹介したから、ここでは詳しく述べない。ごく簡単に言えば、キリスト教の教義に含まれる“人間中心主義”が環境問題の元凶であるとする批判が、1960年代後半からかまびすしく唱えられてきたのである。が、それから40年以上が過ぎた今日、キリスト教の教典解釈においてどのような変化があり、それがさらに現実の環境保護運動や国の環境政策にどのように反映されてきたかを、ドイツの現場で確認しようというのが、今回の主眼だった。その結果、かなりの“教義の変更”が教典解釈によって行われてきたことが確認された。しかし、教典に示された基本的な“考え方の枠組み”は変更がむずかしいため、キリスト教文化圏での今後の環境政策や原子力発電をめぐるエネルギー政策には、必ずしも問題がないとは言えないとの印象をもった。

 例えば、今回のゲストであるマルクス・フォクト氏が加盟するドイツ司教協議会(German Bishops Conference)では、東京電力福島第一発電所の事故を経て、明確に“脱原発”の意思表明をした。これは、今年5月24日に行われた「チェルノブイリとフクシマ後の倫理」(Ethik nach Tschernobyl und Fukushima)という題のシンポジウムに提出された論文で、この中には次のように明確な記述がある--
 
「倫理的な視点から見れば、放射性廃棄物の問題が解決されず、大規模な事故の可能性をもち、さらにテロリストの攻撃に晒される可能性を考えれば、原子力エネルギーの利用は、今日的視点から正当化できるものではない。我々は、再生可能エネルギーの時代への移行を加速し、原子力エネルギーの利用をできるだけ早期にやめるべきである」。
 
 これに対し、カトリック教会の“総本山”であるヴァチカンの態度は、6月14日の本欄でも紹介した教皇ベネディクト16世のメッセージにも表れているように、原子力の利用を明確に拒否することがまだできないでいる。つい半年前に擁護していたものを、手のひらを返したようにすぐに反対するのは難しいことは理解できるが、本件のような大きな問題について発言する場合、メッセージの内容が「不明確である」ことは、マイナスの印象を与えると私は思うのである。が、ここには、教典解釈の難しさが重要な要素として含まれているとも考えられる。今後、原発問題についてのカトリック教会の態度は、世界の動向にも影響を与えると思うので、私は注目している。
 
 谷口 雅宣

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2011年7月 8日

“新しい文明”の構築へ

 政府のエネルギー政策は混迷の度を増しているが、私はこれは“文明の転換”にさしかかった人類全体の混迷の反映であると感じている。産業革命以来、長期にわたって続いてきた“化石燃料文明”または“地下資源文明”の限界が明らかに見えてきた現在、その旧文明を新文明に転換しなければならないことは、多くの有識者が声をそろえて唱えている。しかし、その具体的方法--つまり、移行過程の青写真が構築できないでいるところの混迷状態である。ここで言う“新文明”とは、もちろん再生可能の自然エネルギーを基礎とした“自然共生型文明”であり、“地上資源文明”である。問題は、この“新文明”の基礎となる産業が未成熟で、国の政策決定過程に十分な影響力を発揮しない段階にあることだ。その理由も容易に推測できる。たいていの人間は、変化よりも現状維持を望み、新奇なことより慣れていることを選び、既得権や現有財産に執着するからだ。

 この既得権や現有財産が、明治維新や敗戦などの政治過程によってではなく、自然災害によって脅かされているのが日本の現状ではないだろうか。今ここで「自然災害」という言葉を使ったが、この中には原発事故も含まれている。なぜなら、自然災害とは一般に、人間が、自分を取り巻く自然システムから予期しない被害を受けることだからだ。自然システムの中には当然、核分裂や放射性物質も含まれる。これらの自然の一部を制御できるという前提のもとで構築された発電所が破壊された。建屋や冷却装置を破壊したのは“マクロの自然”であるが、制御不可能となったのは原子炉内部の“ミクロの自然”である。
 
 今回の原発事故は「予期されていた」という意見もあるが、少数の専門家の間で確率論的に事故が予期されていたという事実はあっても、社会全体が予期しなかったことは事実だ。また、今回の原発事故が、直接的には大地震後の大津波によって引き起こされたから、大局的に見てそれを「自然災害」と捉えることはあながち無理とは思わない。もちろんこれは、今回の事故に「人災」の要素が混入していないという意味ではない。経済産業省の幹部や東京電力の経営陣、また歴代の自民党の政策に「原発事故を起こすような自然災害はない」という前提があったことは確かであり、それらの人々の判断に誤りがあったという意味で「人災」の要素は小さくない。
 
 このように考えた場合、過去2回の歴史上の大転換(明治維新、敗戦)よりも、今回の大転換を理解するのは案外容易でないか、と私は考える。過去2回の大転換では、社会基盤や経済の変化、また、国際関係の変化というような「人間社会内」での複雑な動きが大きく関与していた。が、今の大転換は、それより一回り大きい変化--人類とそれを取り巻く自然環境との関係の変化に伴うものである。つまり、過去2回の変化では「人間は自然から無限に得られる」という暗黙の前提は問題にされなかった。が、今回の変化で問題になっているのは、まさにこの“自然無限論”なのだ。世界人口が増大しつづける中、人口の多い新興国が先進国並みの物質消費型生活を目指して経済発展を続けているため、エネルギー需要が激増し、自然が破壊され、大気中の温暖化ガスが増大し、気候変動が起こり、資源獲得競争が激化し、食糧価格が高騰する……という悪循環を断つことができないでいる。人類はもはや“自然無限論”を捨て、“地球有限論”のもとで生きる決意をしなければならない。そして、安定的な自然環境が維持できる範囲内に人類の経済活動を納めながら、世界の中の富の偏在を縮小し、各国が平和裡に共存することができるような制度や仕組みを地球規模で構築していかねばならないのである。
 
 さて、日本において上述した「既得権や現有財産への執着」が顕著なのは、電力業界である。また、重化学工業などもその要素が強い。過去にそれだけ巨大な設備投資をしてきたのだから、当然といえば当然である。しかし、この状態を容認し、放置し続けていると、日本の産業全体が新文明への移行ができず、世界に取り残されるか、あるいは世界と共に資源争奪や権益保護のための紛争に突入する恐れがある、と私は思う。だから、多少の政治的混乱があったとしても、再生可能の自然エネルギーを基幹に据える方向へ、また農林業の振興を図る方向へと日本の産業構造を大きく転換していく必要がある。原発は、ただちに全部を廃炉にすることはできないが、可及的速やかに自然エネルギーの利用へと置き換えていかなければならない。そのためにはまず、電力会社の地域独占制度を廃止することが大切だ。これによって、巨大発電所による中央集中型の発電から、自然エネルギーによる地方分散型のエネルギー供給を実現すべきである。
 
 私はこれらのことを本欄ですでに何回も訴え、最近では5月24日同26日などで言及した。菅首相の政治手法にはいろいろ問題もあるようだが、自然エネルギー利用への熱意は大歓迎だ。これに呼応した孫正義氏のメガソーラー構想にも大賛成である。うれしいことに、この方向へ動き始めている経済人はもっと多くいるようだ。今日の『日本経済新聞』によると、携帯電話最大手のNTTドコモが電力事業への参入方針を明らかにしたという。全国にある携帯電話の基地局の鉄塔周辺に、来年度から太陽光パネルや風力発電設備を設置していき、スマートグリッドで結んで電力の安定化をはかるという。そして、余剰電力は売電する考えだ。また、7日の『日経』には、東京海上アセットマネジメント投信と三井物産が協力して、メガソーラーに投資するファンドを立ち上げることが報道されている。まず100億円規模から初めて、この資金で全国10カ所にメガソーラーを建設し、電力の売電で得た資金を投資元に還元するという仕組みだ。5年後をめどに1千億円規模への拡大を目指すという。
 
 とにかく、それぞれの分野の人々が全速力で、“新しい文明”構築の方向に協力して進んでいくべきと思う。

 谷口 雅宣

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