2011年8月30日

山林の価値を認めてほしい

 ヨーロッパの人々は樹木を大切にするという話を書いたが、「いや待てよ……」と疑いたくなるような話が新聞に載っていた。今日付の『朝日新聞』によると、オーストリアとイタリアの国境にあるグローセ・キニガット(標高約2,689m)とロスコップ(同約2,603m)の2つの山の山頂付近を、オーストリア政府が売りに出したというのである。前者は山頂と周辺の2つの峰を含む約92万平方メートル、後者は山頂を含む約29万平方メートルで、値段はそれぞれ約9万2千ユーロ(約1千万円)と、約2万9千ユーロ(約330万円)という。もちろん、そこに生えている森林もすべて一緒に売り払う話だ。しかし、国民から猛反対されたため、方針転換を余儀なくされたそうだ。
 
 この話になぜ驚いたかというと、自然物に対する経済的評価の低さである。2千メートル級の山の山頂付近を「330万円から1千万円」と評価する考え方は、相当程度の低い人間中心主義だと思った。記事によると、この値段をはじき出したのは、オーストリア政府から国有不動産の管理・売買を委託されている公営企業体だというから、いいかげんな会社ではないだろう。その会社の36歳の報道官は、今回の話に関連して、「公営企業だから納税者に責任がある。2つの峰のような価値の低い物件は徐々に処分していく」と説明したという。また、政府当局者は、「山頂は岩や石ばかり。持っていてもあまり利益がない。外国企業などが高値で買いたいといえば、売る人が出てくるかもしれない」と話したとも書いてある。

 こういうことを政府や公営企業の上層部にいる人々が平気で言うとしたら、その国の人々は樹木などの自然物を大切にすると本当に言えるだろうか、という疑問が湧き上がったのである。しかし、国民がその話を聞いて一斉に反発したのだから、一般のオーストリア人には良識があると考えるべきだろう。問題はやはり、現在の経済学の考え方の中に潜む人間中心主義なのだろう。言い換えれば、山や森林がもつ“生態系サービス”と呼ばれる数々の貴重な機能の評価が、今の経済統計の中からごっそりと抜け落ちていることが問題なのだ。そこから、「金銭的評価=価値」という短絡的思考によって、今回のような愚かなことが真面目に検討される。上記の値段は決して高くはないから、この峰を買おうとしてドイツのソフトウェア会社が名乗りを上げたという。「ぜひ購入して山頂に会社名をつけたい」のだそうだ。また、中東やロシアの投資家からも問い合わせがあったという。

 こういう話を聞くと、日本でもかつて北海道の原野や森林などを外国人や外国企業が購入して問題になったのを思い出す。山林は、飲料水の生産地であることを忘れてはいけない。今、世界中で水不足--特に、飲料水の不足が深刻化している。だから、「飲料水を生産する」という機能だけでもきちんと経済的に評価すれば、山林の値段は上がり、地方の活性化や林業の振興につながるはずだ。これに加えて、「二酸化炭素を吸収する」という山林の機能をきちんと評価すれば、都会偏重のいびつな経済は修正されて、よりバランスのとれた自然尊重の社会に移行すると思うのだ。そういう抜本的な制度改革を新しい政府に求めるのは、どだい無理なのだろうか。
 
 谷口 雅宣

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2011年8月28日

樹木の大切さを思う

 今日は山形駅前の山形テルサで生長の家講習会が開催され、647人の受講者が集まってくださった。2年前の前回より受講者数は89人(12.1%)減少したが、今回の講習会の推進期間が、ちょうど東日本大震災後の東北地方全体の混乱期に当たったという、やむをえない事情がある。例えば、受講券奉戴式は当初、震災3日後の3月14日に予定されていたが、この日は会場の教化部には数人しか集まらなかったため、行事は事実上延期しなければならなかったという。また、震災後の数カ月、ガソリンの供給が減少したことで、教化部での会合などが予定通りに行えないなど活動の停滞があった。それでも、東北人の粘り強さと教区一丸となった熱心な推進で前回の8割以上を結集したことはありがたく、喜ばしいことだと思う。
 
 講習会後、帰京の列車出発までのわずかな時間、駅からも近い霞城公園に寄った。山形城跡を緑豊かな公園にしたもので、サクラやイチョウなどの大木が何本も残っているのが目立った。私はこの日、午後の講話でドイツとイギリスでの講演会などの報告をさせてもらったが、その時、訪れた街々の写真を示して、両国の人々が樹木を大切にしているという印象を強くもったことを話した。私の住んでいる東京では、日比谷公園や明治神宮など一部の緑地を除けば、街路樹や公園の木を簡単に切り倒してしまうのを苦々しく思っていたが、霞城公園にはまだ多くの大木が残っているのを見て、「日本人もまだ捨てたものではない」と胸をなで下ろしたのである。
 
 樹木の価値とありがたさは、強調しても強調しすぎることはない、と最近よく思う。大きな木が1本あるということは、木陰ができることで土地の乾燥を防ぎ、有害な紫外線から土地が護られ、下草が生えて虫や微生物が繁殖する。それだけでなく、その木には何千種類もの昆虫が棲みついているから、それを食べに鳥類が飛来し、巣作りをする。果実ができればさらに多くの動物がやってくるし、落葉すれば、土地はさらに肥えるだろう。樹木は枝葉に水を溜めるから、大雨が降っても土壌の流失はなく、土中に広がった根は水を浄化しながら、土砂崩れを防いでくれる。もちろん、地震による被害もそこに樹木があるのとないのとでは、大きな違いが出る。
 
 地球温暖化問題が脚光を浴びるようになったことで、植物が二酸化炭素を吸収して酸素を排出してくれることは、多くの人々が知ることになった。しかし、地球を取り囲む大気の構成が、植物の活動なくして現在の状態になりえないということは、あまり知られていないだろう。この大気があることと、その外側にオゾン層があることで、宇宙空間を飛び交っている大量の放射線が、地球の表面にあまり届かないようになっていることは、重要な事実だ。つまり、植物が存在するおかげで、私たち動物は酸素呼吸ができるだけでなく、放射線による遺伝子破壊の危険からも常に護られているのだ。この放射線防護機能は、人間が考え出したどんな方式の原子炉よりも柔軟でありながら、堅牢である。どんな地震が来ようが、どんな津波が押し寄せようが、この放射線防護機能はびくともしない。が、愚かな人間がそんな植物を大量に伐採し、燃やし、それでも足りずに、大昔の植物であった石炭を地下から掘り出して燃やし、また、生物の死骸だった石油を燃やし続けることで、地球の大気の構成を変えようとしているのである。

 こういう観点から考えてみても、原子力エネルギーを人類が利用し続けることが、地球全体の生命にとってどんなに不合理であり、危険であるかが分かるはずだ。民主党の総裁選挙が行われているが、原発からの脱却を明確に訴える候補者がいないのは、誠に残念なことである。
 
 谷口 雅宣

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2011年7月28日

旅の空から (3)

 ノルウェーのテロ事件のような深刻な問題とブルーベリーの話を同等に扱うつもりはないが、人間の心理には多くの共通点があるから、同事件の背後にある移民問題とそれとを関連させて考えることはできる。一国内に多民族や多文化が存在している状態は、「多様性」の展開である。今、東京都知事をしている石原慎太郎氏が、かつてこのことを“社会の弱点”として批判したため、問題になったことがある。詳しくは憶えていないが、確かこんな論理だった--日本は単一民族による単一国家だから、団結力があり、社会の安定と安全の面で他国より優れている。これに対して、アメリカは多民族国家だから、社会にまとまりがなく、決定が遅く、治安も悪い。こういう単純な考え方も、典型的な“右”の思考パターンの1つである。今回の事件の容疑者もそれを共有していたようだ。
 
 7月27日付の『朝日新聞』(国際版)によると、ブレイヴィク容疑者は自作のマニフェストの中で、日本の移民政策をほめているらしい。同紙の記事を引用する--
 
「一方、容疑者が文書で絶賛するのが“日本”だ。厳しい移民政策や難民認定の少なさを挙げ、“多文化主義を拒絶して経済発展を成し遂げた”としている。会いたい人物として、ロシアのプーチン首相や旧ユーゴスラビア戦犯のカラジッチ被告と並んで、麻生太郎元首相の名を挙げた」。

 麻生氏にとっては、はなはだ迷惑な話だろうが、政治的に“右”と言われるものの考え方がよく分かる。つまり、何かを達成するためには、物事が一つに純化し、一つの方向に向いているのが効率がよく、したがって優れていると考えるのである。これを推し進めれば結局、軍隊のような制度の国が“優れている”ことになるから、北朝鮮の指導者たちは大いに喜ぶだろう。
 
 私はもちろん、こういう考えには反対である。生長の家は、実相の反映としての多様性を重んじる。自然界には多様性が満ちているが、その度合いが高いほど安定し、失われると不安定になる。このことからも、多様な表現が神の御心であることが分かる。しかし、それが分かるためには、1本のブルーベリーの木だけに注目し、その木が生み出す果実のすべてが自分の所有であると考える偏狭な心から、脱却しなければならない。脱却できない人は、自分の妻がその実を採っても、「盗っ人!」と考えて不快に思うだろう。しかし、そう思わない人は、妻と自分との共通点をよく知っている。妻と自分とが、本質的に利害が一致する存在であることを知っているのである。妻が実を採ったということは、自分の楽しみが減ったのではなく、翌朝の2人の食卓にそれが並ぶか、あるいはジャムに加工されて共に食する機会が来ることを、彼は疑わない。

 確かに、自分一人がすぐに生食する量は減る。しかし、ブルーベリーの実を生で大量に食べることの価値は、そんなに大きなものだろうか? 私はそれよりも、その半量や3分の1の量でもいい。生食だけでなく、フルーツヨーグルトとして、パンケーキやベルギーワッフルの付け合わせとして、またジャムとして食べること、しかも“孤食”ではなく、気の許せる相手と2人で談笑しながら食べることの方が、より価値が高いと考える。
 
 これに加えてカナブンと果実を共有することは、きっとさらに豊かな生き方を約束してくれるだろう。いや、本当にそうだろうか? このことの真偽については、読者の想像力にお任せしよう。
 
 谷口 雅宣

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2011年7月26日

旅の空から (1)

 今は7月26日(火)の午後4時すぎ。正確な時刻はわからない。というか、今の私にはあまり重要でない。この日、午前12時15分に出発予定の成田発JL407便でフランクフルトに向かっている最中である。30~31日の週末2日間を使って行われる「世界平和のための生長の家国際教修会」と、次の日曜日にロンドンで行われる一般講演会のことで、心に余裕がない。ドイツでの講話原稿が25日の午前中に仕上がったばかりで、ロンドンでの講話原稿はまだ3分の1ぐらいしかできていないのが気がかりである。その下書きを、成田からフランクフルトまでの十数時間で書き上げれば……と思っていたが、そう簡単にはいかないようだ。
 
 機中の人となってすでに6時間ほどたっているが、ドイツでの講話で使う画像の制作をPC上でやり今、一段落したところである。
 
Kanabunbb  成田空港のJALのラウンジで、この朝撮った写真を2枚、フェイスブックの私のページにアップした。1つは朝食のサンドイッチで、もう1つは、自宅の庭にあるブルーベリーにしがみついて朝食をとっているカナブンの写真だ。人間も食事をするのだから、カナブンが食事をするのは一向に構わないはずだが、人間が育てている果樹の実にしがみついているのを見ると、つい「このぉ~」という気持になる。「奪われている」と感じるからだ。しかしこの時は、自分がこの家を2週間空けるのだから、その間に熟するブルーベリーはすべて“彼ら”の食事になるか、地に落ちて別の生物のエネルギー源になると予測できた。となると、小さな1粒や2粒、あるいは10粒や20粒でも、カナブンに食べてもらってもいいじゃないか、という気持になったのである。
 
 考えてみれば、この同じブルーベリーの木から私も妻も、それから何十匹ものカナブンも、毎日果実をいただいているのだから、「我々は皆仲間だ」と言えるのである。食卓こそ共にしないが、同じブルーベリーの栄養をいただき、生きる喜びを味わっている。しかも、そのブルーベリー自身は、ほとんど無償で無数の果実を動物たちに、またバクテリアにも提供している。「取る」ということの裏側にある「与える」という行為に注目すれば、「奪う」ように見えている様々な現象が、違う意味をもって人間の心に映ってくるに違いないのである。

 谷口 雅宣

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2011年7月 5日

“緑の教皇”は語る (4)

 キリスト教はダーウィンの進化論とは相容れない教えだと考えている人は多いと思う。実際、アメリカでは、“キリスト教右派”と呼ばれている人々が進化論に反対しており、それに対抗する天地創造説(creationism)や、その科学的表現である「知性による設計論」(intelligent design)を学校で教えさせようとする動きもある。これらについては、2005年の本欄で何回か書いたことがある。(例えば、8月14日同16日9月29日12月23日など)だから私も、「キリスト教は反進化論」と漠然と思っていた。が、ことローマ教皇庁に関する限り、ヨハネ・パウロ2世の頃からカトリック教会は進化論を頭から否定しない姿勢をとってきたようだ。現在の教皇、ベネディクト16世もそれにならい、条件付きで生物の進化を認める態度のようである。『環境のための10の戒律』では「進化と信仰」という項目を設けて、「進化論を認めるためには、生命の意味や起源のような根源的な問いについては、その限界を認め、哲学や信仰が関与する余地を残さなければならない」としている。

 同教皇は、ラッツィンガー枢機卿だった1999年にパリのソルボンヌ大学で講義を行い、それが後に『真理と寛容』(Truth and Tolerance)という本になっているが、その中でこう述べている--

「進化論はしだいに表舞台に上り……“神の仮説”を不要にし、世界を厳密に“科学的”に説明するものとなりつつある。現在、さらに深く問題にすべきことは、進化論の考え方は、現実のすべてを説明する世界共通の理論として提示されるべきか否かということである。この理論を超えて、物事の始原と物の本質についてさらなる疑問を呈することは許されず、また不要であるのか。それとも、そのような究極的な疑問は、自然科学による知識と研究の対象の領域を最終的に超えないのか、ということである」。

 同教皇の講義は、枢機卿時代から学者肌で難解であると言われてきたが、この文章などまさにその典型だと思う。発言者は進化論を擁護しているのか批判しているのか、読者にはよくわからない。しかし、これはたぶん批判しているのだ。カトリック教会にとって何が進化論の問題かといえば、それは「偶然のチャンスによって生物種が残されていく」という適者生存の考え方だ。これでは、生物が生きるための倫理や基準は存在せず、その場、その時に偶然生じた有利な条件が、生物種存続の“理由”になる。と言うよりは、生物種存続の“倫理的理由”は存在しないことになる。となると、神の創造は「無目的」という結論に近づいていくから、キリスト教の基盤は揺れ動かされる。それならば、教皇としては「進化論は間違いである」とハッキリ宣言してもいいと思うのだが、実際はそうではない。
 
 その理由は明らかでないが、私が想像するところ、キリスト教は基本的に科学を肯定しているからだろう。特に、「理性」を神から人への“賜物”と見る伝統が強い。キリスト教では神を理性的存在としてとらえ、人間は“神の似姿”として神性の一部(理性)を分かち与えられていることが、他の生物を支配する正当性の根拠として挙げられる。だから、その理性が積み上げてきた科学の成果によって「生物の進化」が証明されつつある現在、頭から「それは間違いである」とは言いにくいのだろう。ローマ教皇庁がつい最近まで原子力の平和利用を擁護してきたのも同じ理由からだ、と私は推測する。そうなると、科学を否定せずに天地創造を主唱するためには、「進化論だけでは不十分」という言い方にならざるをえないのかもしれない。
 
 同じ『真理と寛容』の中の一節を引用するーー
 
「倫理問題について意味のある、理解可能な基礎を与えずに現実を説明しようとしても、どんなものも不十分に終わる。今や進化論は……進化を基礎とした新思潮を推進するために利用されている。しかし、この進化論の倫理は、基本的な概念として選択モデル--すなわち、生存競争、優勝劣敗、適者生存--を採用せざるをえないから、安寧を与えるものではない。人々はいろいろの仕方でそれを魅力的にしようとしても、進化論は究極的に血に飢えたものの倫理である。そこでは、それ自体が非理性的なものから理性を引き出そうとしているのだから、明らかに失敗している。これらすべては、我々が必要とする世界平和のため、隣人愛実践のため、自己超克のための倫理としては役に立たないのである」。

 ここまで言えば、「進化論は間違い」というに等しい。しかし、「限界がある」という表現に留まるところに“理性”との葛藤があるのだろう。
 
 谷口 雅宣

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2011年6月30日

“緑の教皇”は語る (2)

 前回の本欄に掲げたカトリック教会の“環境のための十戒”は、ヴァチカンの正義と平和協議会が出した正式文書で、その目的は「教会の社会教理大要(Compendium of the Social Doctrine of the Church)の中にある環境についての重要な教えを、十ヵ条に分けて説明する」ためだという。この中には、生長の家の考え方と共通するところもかなりあるが、そうでないところもある。その相違点で大きなものは、第1戒、第5戒、第10戒に表れているように、自然と神とを明確に分離して考えているところだろう。
 
 ところで、『環境のための10の戒律』によると、ローマ教皇が環境についての考えを最初に出したのは、1988年、ヨハネ・パウロ2世の時代のときの「社会問題について」(On Social Concern)という回勅だという。これは教会の内部向けのものだ。公式文書としては、同じ教皇が1990年の世界平和の日に出した「神のすべての創造との平和」(Peace With All of Creation)という文書が、環境問題に絞って書かれた最初のものであるという。この11年後、同教皇の亡くなる前の1月17日に出されたメッセージからの引用が、この『10の戒律』にはある。そこには、ヨハネ・パウロ2世の環境に対する考えがよく表れている。それは、「人間は、他の被造物の潜在脳力すべてを花開かせるために、神による創造を支配する使命を受けている」というものだ。
 
 ここには、「神ー人間ー自然」という序列の価値観が明確に表れている。この基本的な考え方は『創世記』の天地創造物語にもとづいているから、ヨハネ・パウロ2世のオリジナルではなく、恐らくキリスト教に、そしてユダヤ教にも共通したものだ。“環境のための十戒”でも、「自然は利用せよ、ただし悪用するな」「自然は神より劣る」「自然は神にあらず、神からの賜物である」などに、この考え方は表れている。その認識は、人間は神の命によって自然の管理を任されているにもかかわらず、その命に反して自然環境を破壊し、機能不全に陥らせている、というものだ。ヨハネ・パウロ2世の言葉は、こう続く--

「残念ながら、わが地球のいろいろな地域を眺めてみると、人類が神の期待に背いていることがすぐに見て取れる。人間は、特に現代では、木の繁った平原や谷間を何の躊躇もなく破壊し、水を汚染し、地球の生物の生息地を変形させ、空気を汚して呼吸できなくし、地上の水循環と大気循環のシステムを混乱させ、植物の豊かな地域を砂漠化し、産業化を際限なく進め、我々の住む“花壇”を劣化してしまった。だから我々は、“生態上の転換”を支援し、支持していかねばならない。この転換のおかげで、ここ数十年の間、人類は自分たちが向かっている大惨事に気づきだした。人間はすでに創造者の“牧者”ではなく、独立した暴君である。その暴君は、自分が今や奈落に落ちる寸前で止まらねばならないことにやっと気づき始めている」。

 私は、『今こそ自然から学ぼう』(2002年刊)という本の中に「生物界の“暴君”の座から降りるために」という題の一文を書いた。そこでは、「他人の意思を蹂躙して、その人を自己の手段として利用することが人間社会では許されないにもかかわらず、人間以外の生物についてはこれを許すことは、人間を生物界の“暴君”として容認する考え方である」として、人間至上主義を批判している。その表現が、期せずしてヨハネ・パウロ2世のものと一致したことに今、驚いている。
 
 谷口 雅宣
 

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2011年6月19日

表参道にキノコ出る

Hitoyotake  今日は朝から新宿へ行った。パスポートを受け取るためである。6月9日の本欄に申請書類を都庁の旅券課に提出したことを書いたが、1週間後には新しいものが発行されると言われていた。夏休み前の日曜日だから、もしや混雑……と思って“朝一番”の時間に行くことにした。日曜日はたいてい講習会があるので、そういう休日の原宿をゆっくりと歩く機会は珍しい。人もまばらで静かな原宿はいいものだ……と思いながら、明治通りと表参道の交差点を新宿方向へ渡り、JR原宿駅に向かった。と、地下鉄の明治神宮前駅への降り口のところに、奇妙な形の白い塊を見つけた。一見して、空気の入った白いレジ袋が捨ててあるのかと思った。が、近づいていくると、卵大の白いツブツブが密集しているように見える。そして、さらに近づくと、それがキノコの幼菌の群生だと分かった。私と妻は、思わず大声を出してしまった。
 
 東京の原宿でキノコが生えるのは、明治神宮か自宅の庭ぐらいだと高をくくっていたが、表参道の地下鉄の駅の入口で、植え込みの中から群生するキノコもあるのだ。一般にキノコが生える環境は自然が豊かだとされるが、この考えは改めなければいけないのか、と思った。しかし反面、キノコはカビの“親戚”だから、条件さえ整えば都会の真ん中で頭をもたげていても不思議はないのかもしれない。その証拠に、松本零士氏の『男おいどん』というマンガのシリーズでは、じめじめした環境の貧しい家の中では、町中であっても「サルマタケ」というキノコが出ることになっている。もちろん、こんな名前のキノコは存在しない。が、松本氏は自分の経験を元にしている可能性は大きい。
 
Awatake  私が今回のキノコ発見に心を動かしたのは、たぶん自宅と長崎・総本山の公邸の庭とで、連続してキノコと出会っているからだ。「また遭いましたね!」という感じだ。自宅でキノコに遭ったのは先月の26日で、勝手口の脇の陽の当たる植え込みの中に出ているのを妻が見つけた。総本山では、雅春先生の二十六年祭で公邸に泊まったとき、これも妻が最初に見つけて私を驚かせた。これらの場所でキノコが出ること自体は、それほど驚くことではない。過去に何度も目撃している。が、私が感動したのは、それらのキノコKoujitake が食用にできる種であるということだった。自然に囲まれている総本山の公邸は、何らかのキノコは生えるだろう。また、自宅の庭にも、カレバタケのような非食用種はいくつも顔を出す。しかし、今回遭遇したのは、アワタケ(写真左)、もしくはコウジタケ(写真右)と思われるイグチ科の食用キノコだった。長崎の公邸はともかく、東京の原宿で天然の食用種が採れるとなれば、自慢していいと思っていた。
 
 そこで問題になるのが、今回の地下鉄駅前で見つけた“天然キノコ”の種類である。パスポートを受け取ってから帰宅し、キノコの本を調べてみると、それは「ヒトヨタケ」だと思われる。「思われる」と書いたのは、キノコの種の同定は専門家でも難しいからだ。しかし、本にある写真と書かれた記述を読み、自分の撮った写真と見比べてみると、この種以外は考えられない。そこで、この本の説明を引用しよう--
 
「ヒトヨタケーー春~秋、畑地、公園、路傍などに束状に発生。傘は初め長卵形、のちに開いて鐘形となり、小~中型。表面は灰色~淡灰褐色、中央部に鱗片をつけ、周辺は溝線がある。ひだは密、成熟するにつれて白色から紫灰色、黒色と変化し、反り返った傘の周縁部から液化してしたたる。(中略)食。ただし、酒類を飲む前や飲んだのちに食べると激しい二日酔い状の中毒にかかる。ヒトヨタケ属のきのこは“一夜茸”の名のとおり、どれも短命である」。

 ということで、このキノコは食べられる可能性が大だが、酒好きの人は要注意である。また、すぐに“液状化”するようだから、採りに行っても、もう姿を消しているかもしれない。(残っていても食べないでください)

 谷口 雅宣

【参考文献】
○本郷次雄監修『きのこ』(山と渓谷社、1994年)

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2011年6月 7日

CO2の“肥育効果”

 前回本欄を書いてから、少し日がたってしまった。長文の原稿を書いていたので、ブログまで手が回らなかった。この世界は、短い期間に本当にいろいろなことが沢山起こる。日本の政治でもゴタゴタが起こったが、触れる価値があまりないので今は何も言わない。国際関係でも重要なことが起こっているが、改めて別の日に書こうと思う。6月5日には生長の家講習会が埼玉教区の4会場であり、これについては妻がすでに書いてくれた。私はこの日の前日に、講習会での午前の講話の構成を少し変えようと思い、使用するパソコンの画像システムに手を加えた。これにも案外、時間がかかった。多くの人は、パソコンによるプレゼンテーションをマイクロソフト社の「パワーポイント」を使って行うが、私はNeosoft社の「NeoBook」というマイナーなソフトを使う。理由は、このソフトをもう10年以上使っていて、乗り換える気がしないからだ。それでもまだ、このソフトのすべての機能を使っていない。なかなか奥深いところが、また好きである。

 埼玉での講習会の午後の講話では、世界の穀物生産量が“頭打ち”になっていることに触れた。世界人口は増え続けているのに、穀物生産が増えないということは、飢餓人口が増えていることを意味する。そんな中で、中国やインドなどの新興国の経済発展が続いている。人間は、経済が豊かになると肉食を増やす傾向がある。実際に中国ではそれが起こっている。ということは、飢餓人口はさらに増え続けることを意味している。なぜなら、現代の食肉生産には穀物飼料が大量に使われるからだ。こうして、家畜を殺して食する行為は、回り回って人間が同胞の食糧を奪う結果になる。仏教が昔から教えている因果応報の原則は、グローバル経済の中でも確実に進行しているのである。
 
 この世界の食糧問題について、6月4~5日付の国際紙『インターナショナル・ヘラルド・トリビューン』(IHT紙)が人類の“運命”を救おうとする科学者の努力について書いていた。温暖化による気候変動や森林伐採により、世界各地で砂漠化が進んでいるが、水分が少なくても育つ穀類の新種を生み出そうという努力は、穀物消費量の増加に追いついていない。つまり、世界の4大穀物--小麦、米、トウモロコシ、大豆--の在庫は減り続けているのだ。これによって、2007年以降、穀物価格の急騰が2回あった。このことは、可処分所得に占める食費の割合が小さい先進諸国では、あまり騒がれていない。しかし、この割合が大きい途上国では、メキシコからウズベキスタン、イエメンにいたるまで大きな問題となり、暴動が起こった国も少なくない。また、今年の初めから続いているエジプトや北アフリカの政情不安も、食糧価格高騰と関係している。このことは1月の本欄(1月7日 同15日同28日)ですでに触れた通りだ。
 
 しかし、今回のIHT紙の記事のポイントは、食糧高騰と政情不安の問題ではない。そうではなく、地球温暖化にともなう気候変動は、食糧生産に予想以上の悪影響を及ぼしているという危機感だ。地球温暖化の影響を評価した多くの科学者たちは、当初の気温上昇は食糧生産にあまり深刻な打撃を与えないだろうと考えていたらしい。なぜなら、大気中のCO2の上昇も気温の上昇も、植物の成長には一般に有利に働くからだ。日本の環境庁(当時)の予測も、温暖化の初期は国内の農産物の収穫量は上がるとしていたのを、私は覚えている。このCO2上昇による植物の成長増加現象を、科学者たちは“CO2による肥育”(CO2 fertilization)と呼び、2007年の国連のIPCC報告書にも楽観的予測を盛り込んでいた。しかし、この予測の元となった研究は、温室などの人工的環境で行われたものが多かったため、実際の自然環境では違う結果が出ているというのだ。どう違うかといえば、CO2による肥育効果はあったとしても、気温上昇によって害虫が増えたり、旱魃や洪水が起こったり、都市化による地下水の減少が作物の生育に不利に働いているため、全体としては温暖化は食糧の生産増につながっていないというのだ。

 このような状況を知ってみると、日本の農業の振興は急務であり、肉食を減らす運動をさらに盛り上げていく必要があると強く感じるのである。
 
 谷口 雅宣

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2011年5月 4日

早春に舞いもどる

 休暇をとって山梨県・大泉町の山荘に来た。東京を朝の6時過ぎに出て、9時半ごろ着いた。高地のため、まだサクラも咲いていない。が、やっと緑が広がり始めた土の上にタンポポが点々と黄色い花を散らし、フキノトウが花をつけて空を見上げているし、ツクシがつBranches んつんと天を突く。早春を再び体験できるというのも、いいものである。山荘に着き一服したあと、裏山のカラマツ林の様子を見に行った。近ごろは山荘へ行く機会も少なく、手入れをしていないので、林地が荒れていることは分かっていた。が、カラマツの枯れ枝が大量に落ちていて見苦しかったので、少し整備することにした。小一時間、独特に湾曲したカラマツの枝を拾い集め、2つの“山”を作ったところでくたびれた。“森の中”へ移転した後には、こういう作業をきちんとやる必要があるから、一種の“予行演習”としてやってみたが、なかなか手強いと思った。
 
 午後に、手作り家具の工房を見学した。前もって計画していたわけではなく、道路脇で出ていた看板を見て、ふと興味をもったのである。大泉町近辺には家具や工芸品を作る人が結構住んでいて、過去にも2~3カ所を覗いたことがあるが、今回の工房(と言うよりは、工房の経営者)には少し驚かされた。大きな一枚板のテーブルや椅子を作るだけでなく、本格的な漆塗りもする。それだけでなく、農業もし、趣味として植木や山野草を育て、ミツFukinotou バチも飼っている。ご主人も奥さんも気さくな人で、こちらから聞かなくてもいろいろ説明してくれる。それでわかったのだが、ハチミツには大抵、「アカシア」とか「レンゲ」など花の名前がついていて、普通はそういう花の蜜だけを集めて作ったと考えるが、それほど厳密なものではないそうだ。周囲にアカシアの花が咲いているときにハチが集めたものが「アカシアの蜜」とされるのだという。別の花の蜜が混じっている可能性はあるということだ。また、セイヨウミツバチはスズメバチにやられるが、ニホンミツバチはやられないらしい。
 
 年を重ねるほどに、自分の知らないことがどんなに多いかが分かる。“森の生活”の入門者には、学ぶことはいくらでもあるのである。
 
 谷口 雅宣

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2011年4月18日

大震災の意味を問う (2)

 前日に引き続いて本テーマで書く。
「震災の被災者は高級霊なのか」という問いに対しては、そうである場合もあるし、そうでない場合もある、というのが私の答えだった。多くの読者は、こんな答えでは満足しないかもしれない。しかし、そもそも人間の霊が“高級”であるか“低級”であるかという問いは、「人間は神の子である」と説く生長の家の教えから考えると、何となく奇妙である。つまり、「人間・神の子」の教義からすると、すべての霊は高級でなければおかしい。にもかかわらず、ここで“高級”とか“低級”が問題にされるのは、本来完全なる人間の実相が霊界においてどれだけ表現され、開発されつつあるかという、現象身としての「神性開発の程度」の問題だと理解すべきである。
 
 さて次に、2番目の問いについて考えよう。すなわち、現象界の出来事は皆、我々の心の表現であるという「唯心所現」の教えにもとづくと、今回の震災はいったいどんな心の表現であるか、という問題である。このような言葉に置き換えると、2番目の問いは、実は5番目の問いとほとんど同じ内容であることが分かる。5番目の問いは「人心の乱れが震災につながったのか?」だった。この問いは、より一般的な2番目の問いの特殊な形である。だから、2番目の問いにきちんと答えることができれば、5番目に対しても自ずから答えが出るはずだ。
 
 2番目の問いは、また次のような形に言い換えることができる--「我々は今回の大震災を目撃して、それを“舞台”や“映画”に喩えるならば、どのようなストーリーを読み取るべきか?」。ここで念のため断っておくが、この“ストーリー”という言葉は、今回の震災の犠牲者が遭遇した悲劇を面白おかしく形容するために使うのでは決してない。ストーリー(story)という英語は、日本語では「物語」とか「歴史」とか「小説」とか「筋書き」など何種類もの意味を含む語で、中には「おとぎ話」とか「伝説」とか「うそ」という意味まである。が、私はここでは「筋」や「構想」という日本語に該当するものの意味で使いたい。つまり、この大震災をめぐり多くの人々に起こった出来事の細部の違いに注目するのではなく、この大事件の犠牲者や被災者、さらには私を含めた被災しなかった日本国民の大多数に共通する大きな“流れ”や“傾向”は何であるか、ということだ。
 
 こう考えてみると、まず思いつくのは「想定外」という言葉である。この言葉は最近、あまりにも多く使われるので価値が下がってしまったようだが、今回の震災は、日本が国家として、また社会として、さらにそれを構成する大多数の国民にとって、まったく予期せず、準備をしていなかった出来事であると言われることだ。もちろん、国民全体の中には、必ず大地震が来ると信じて準備していたというような例外的な人もいるだろう。が、大多数の日本人は、日本が地震国であり、実際に大きな地震や津波が頻繁に起こってきたにもかかわらず、「それほどのものは来ないだろう」と高を括っていたのである。
 
 このことは、妻がブログで紹介した寒川旭氏の著書『地震の日本史』(中公新書)に書いてあることだ。つまり、東北の三陸地方には、沖合を震源地とする大地震で何回も大津波に襲われてきた歴史があるのだ。比較的最近では、明治29年6月15日にM8・5の大地震があり、その後に襲った大津波で1万戸近くの家屋が失われ、2万人以上の死者が出ている。また、昭和3年3月3日にも三陸沖で地震があり、平均で20mの波高の津波が押し寄せ、死者不明者3千人が出ている。だから、地震の専門家の人たちは、今回のような大地震と大津波が三陸地方で起こる可能性を「知らなかった」はずがない。知っていて警告も発したかもしれないが、社会全体が「そんなものはもう来ない」と考えて相手にせず、「来ても防潮堤で防げる」とか、「原発もこの程度の備えで大丈夫」などと考え、自然の力を侮ってきたのである。
 
 これは、言い換えれば、科学・技術の力を過信してきたと同時に、自然に対して「何があっても大したことはない」という傲慢な考えを持ち続けてきたということだ。それは結局、人間至上主義が背後にあるからである。この考えから「科学や技術の力で自然を押さえ込む」という方法が採用され、それが、ダム建設や護岸工事、防潮堤の建設、そして原発の原子炉の「圧力容器」の構造などにも反映している。
 
 秋田県での講習会でこの問題に触れたとき、私は「何の理由もなく大勢の人命が失われた」という訴えに対して、「本当にそうだろうか?」と疑問を呈した。我々は「与えれば、与えられる」「奪えば、奪われる」という心の法則を学んでいる。個人のレベルでなく、国家や社会、さらには人類のレベルで自然との関係を振り返れば、我々はこれまで自然から奪い続けてきたのである。例えば昨年の今ごろ、南九州で口蹄疫が発生したとき、我々はブタや牛などの家畜に対して、どのような仕打ちをしただろうか? このことは昨年5月の本欄にも書いたが、我々は公衆衛生上の理由ではなく、経済的な理由によって十万頭以上の家畜を殺処分した。また、それ以外にも、経済発展という目的のために、数多くの生物種を絶滅に追いやってきた。そういう我々が、自然界から「奪われないですむ」ということはない、と私は思う。
 
 谷口 雅宣

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