2009年12月13日

奈良県に“神風”?

 奈良教区での生長の家講習会は受講者が539人(7.3%)と大幅に増えた。会終了後の同教区の幹部との懇談会では、講習会推進のための活動が成果に結びついたことを「大成功」と評価する声が多く、「神風が吹いた」とまで言う人もいた。が「神風」は少し意味が違うと思う。なぜなら、元寇の時に吹いたとされる神風は、「戦いの一方に、勝ち目がないことが分かっているのに、自然現象が有利に働いて一気に形勢が逆転した」という意味合いで使われると思うからだ。奈良教区の講習会推進運動には、もともと勝ち目がなかったと私は思わない。

 同教区では、以前から「橿原公苑体育館」をメイン会場とし、奈良市内の「なら100年会館」を第二会場とする態勢で講習会を開催してきた。ところが今回は「100年会館」が予約できず、やむをえずに奈良市内では収容人数が少ない「ならまちセンター」を使い、これに加えて「王寺町地域交流センター」を押さえて、合計3会場で開催した。私はこのことで、各会場近くの信徒の方々の運動によい影響があったのではないかと考える。また、交通の便を考えると、王寺町は、近鉄に加えてJRの関西本線の駅があるうえ、人口が多い大阪市に近接している。そういう「集まりやすい」要素が今回は働いたのではないだろうか。
 
 もちろん、葛原敏雄・教化部長をはじめとした同教区幹部の方々が、これまで以上に熱心な推進活動を展開してくださったことが、大きな原因であることは言うまでもない。同教区からの報告によると、ここでは地域の活性化と小規模単層伝達を進める目的で、昨年度から地区総連単位での勉強会や、ミニ講演会を行い、今年の10月以降は、白鳩会の22総連へ葛原教化部長と橋本久美子・教区連合会長が共に出向いていって、祝福訪問を実践したという。これらを含め、相愛会、青年会等の多くの幹部・信徒の方々の愛念が結実した。奈良教区の皆さんには、今年開催の講習会の最後を飾る、すばらしい結果を出していただいたことに心から感謝申し上げます。

 ところで奈良県では、来年が「平城遷都1300年」に当たるというので、記念イベントをいろいろ考えているらしい。講習会前日の夕方、橿原地方は雨になったので、私たちは付近の散策を取りやめた。その代りに、宿舎となったホテルのロビーを散策して気づいたのは、見慣れないマスコット人形がいろいろの所に据えられていたことだ。これが、この記念イベント用に考案されたキャラクターで、「せんとくん」と「なーむくん」(=写真)の2つだった。あとで調べてみると、これに加えて「まんとくん」というもう1つのキャラクターもあるそうだが、これらの選定に関しては、地元ではひと悶着あったらしい。詳しくは、ウィキペディアの「平城遷都1300年記念事業」の項に解説がある。が、私はそういうゴタゴタをまったく関知せずに、ひと目見て「せんとくん」よりも「なーむくん」がいいと思った。そこで、写真を撮った後に絵封筒に描いたのである。

Chinadoll  私は、「なーむくん」はてっきり女の子だと思った。が、そうではなく、名前は「南無」に由来し、聖徳太子の少年時代の姿をモチーフとして描いたという。「なーむくん」の魅力は、くったくのない笑顔だが、その眉と目は十七条憲法にちなむ漢数字の「一七」で表現されているのだそうだ。ところが、これまたウィキペディアによると、聖徳太子が活躍した時代は平城遷都より100年も前で、太子が拠点とした場所も、平城京が置かれた現在の奈良市近辺の地域との関連も深くないという。まあ、そんなことにいちいち目くじらを立てなくてもいいのかもしれないが、1つの大きなイベントを実行するには、多くの人の意見を集約しなければならない。その難しさが、ここにも表れている。横浜の開港記念150周年記念行事でも、事前の読みと実際の評判との差が明らかだった。「平城遷都1300年」のイベントは、自民党政権時代に決定し、実行委員会の主要メンバーも同党に関係の深い人が多く、支援団体も日本経団連などの自民党寄りの団体が目立つ。今後どうなるか、やや不安が残る。
 
 谷口 雅宣

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2009年12月10日

グラフィティのこと

Graffiti_bra2  私は今夏、ブラジルのサンパウロ市に行ったとき、その街の真ん中に、道路脇の塀やビルの壁などに、巨大なグラフィティがいくつも描かれているのを見て、驚いた。それを写真に撮って本欄(7月28日)で紹介したこともある。グラフィティが珍しかったからではなく、何か“懐かしい”思いがしたのであり、そんなものを地球の反対側で今ごろ見るなど、予想もしていなかったからだ。私が学生の頃の1970年代には、東京にも、ニューヨークにもグラフィティは多く描かれていた。特に、ニューヨークの地下鉄の車体のグラフィティは、若い私に強烈な印象を与えた。

Nyc0923  私は当時、マンハッタンの西120丁目あたりの学生寮に住んでいて、116丁目にあるコロンビア大学に通っていた。ダウンタウンから地下鉄に乗ってこの寮へ帰るためには、西125丁目の駅で降りるのが一番近いのだが、この駅は地下にはなく、高架橋の上にあった。つまり、地下の路線をアップタウンに向かって北上する地下鉄は、この駅の手前で地下から姿を現し、道路の高さを超えて、さらに地上数メートルの高さにある125丁目の駅ホームに入るのである。この過程で、坂を上ることが得意でない地下鉄は、急にスピードを落とし、キイキイ、ガタガタと苦しげに車体を軋ませながら、ゆっくりと駅に入る。その時、グラフィティが塗りたくられた車体を白日の下に晒すのだった。

 その西125丁目の駅が、ハーレムの入口に当たっていた。そこから東に延びる黒人街は、今はだいぶ安全になったようだが、当時は「あまり行くな」と言われていた。実際、在学中、私は必要がない限り、その駅から東側へ行くことを避けていた。そういう“不気味”な印象と、“秩序への反抗”を思わせる地下鉄のグラフィティのイメージが、青年時代の私の中では重なっていた。手っとり早く言えば、グラフィティは一種の“禁断の芸術”であり、“近づくな!”という警告の印。さらには、“不可解なアメリカ”の象徴のようにも感じられたのである。

Nyc0919  それが今夏、ブラジルへ行って30年ぶりに“再会”を果たし、その帰途にニューヨークに寄った際にも、また出会った。そのときの印象は、若い当時のものとは少し違っていた。それは“禁断の芸術”なんかではなく、何か懐かしい、当たり前のポップアートだと感じた。もちろん、このアートが反社会性を含むときは好ましいとは言えないが、許された場所で、他人の財産を無断で汚したりしない場合は、面白い表現手段だと感じたのである。その時に撮影したグラフィティの写真を何枚か、ここに掲げてある。
 
 谷口 雅宣

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2009年12月 7日

宜野湾市へ行く

 5日から6日にかけて、生長の家の講習会のため沖縄県へ行った。同教区の講習会は今回、初めて複数会場の同時中継となった。宜野湾市の沖縄コンベンションセンターをメイン会場とし、与論町中央公民館、石垣市商工会館研修室がサブ会場となった。2年前の前回は、宜野湾市の会場に1,736人の受講者が参集したが、今回は3会場合計で2,026人となり、290人、16.7%の増加となったことは、誠に喜ばしい。これは単に増設した会場分だけ参加者が増えたのではなく、メイン会場への参加者数もわずかだが増加した点で、教区の幹部・信徒の方々の推進への熱意がひしひしと感じられる。さらにこの日、恒例の那覇マラソンが行われたことを考慮すると、スポーツ行事ではなく宗教の講話を選んでくださった方々に、頭が下がる思いがする。
 
 講習会後に、今、政治の焦点となっている米軍の普天間飛行場を見たいと思った。が、聞くところによると、基地内の見学は大臣クラスでも難しいというので、嘉数高台という丘の上から眺めることにした。この高台は、大東亜戦争末期の激戦地で、ゴツゴツとした岩が続く天然の要塞の上に、部厚いコンクリートのトーチカを築き上げ、約2,500人の精鋭部隊が、米軍の攻撃からこの地を死守しようとしたところだ。戦闘は16日間も続き、両軍に多大な死傷者が出た。その時の変形したトーチカが今もそこにある。そういう丘の上から、目と鼻の先に広がる飛行場を見ると、それは“占領軍の陣地”に見えてしまうのである。もちろん、これは錯覚だ。普天間飛行場は現在、主として米軍のヘリコプターと輸送機の発着場で、米軍の駐留の目的は日本とその周辺の安全保障である。
 
 すでに多方面から指摘されているが、この飛行場の問題は市街地のど真ん中にあるということだ。これは、街の真ん中に基地が造られたのではなく、沖縄戦でこの地を占領した米軍が、日本本土決戦に備えて飛行場を建設したのである。街はその後、基地の周辺Ginowancity に建設され、経済成長とともに発展していった。私がここを訪れた時は、飛行場には動くものは何も見えず、音もなく静まりかえっていた。が、普段はヘリコプターの発着などで、周辺の住民は騒音に悩まされているという。「タッチ・アンド・ゴー」の練習もするそうだ。そして、墜落事故も実際にあった。(地図の右側にある「沖縄国際大学」の構内にヘリが墜落した)
 
 さらに地図を見れば分かるが、そういう場所のすぐ近くで生長の家の講習会があったのである。(地図の左端に、赤い文字で「沖縄コンベンションセンター」と表示されている)
 
 谷口 雅宣

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2009年11月29日

長崎で感じたこと

 今日は長崎市の長崎ブリックホールにおいて、長崎南部教区での生長の家講習会が行われた。同教区では2年前の前回の講習会では、長崎市だけでなく西海市の生長の家総本山や島原市、福江市にも会場を設けて、4会場に約6,300人の受講者が集まってくださったが、今回はなぜか長崎市だけに会場を設けたことで、受講者数は約5,200人に激減してしまった。誠に残念なことである。現在、生長の家は、全国を挙げて“炭素ゼロ”運動を推進している中で、長崎県のように離島も含めた広範囲に信徒が生活している地域では、1会場にしぼった講習会の開催はあまり理に適わない。また、大都会はともかく、過疎化・高齢化が急速に進んでいる地方に於いては、1会場にしぼっての開催は長距離の旅行を余儀なくさせるから、高齢者にとって誠に不利である。そういう点から考えても、今回の講習会は開催方法に課題を残したと言える。
 
 その反面、よい点も見出せる。それは、長崎市の中心部に近い広い会場が確保できたことで、同市を中心とした生長の家を知らない人々が来場できる機会が増えたことだ。そういう人たちが実際どれだけ参加したかは分からないが、
教区幹部の方々が各地で熱心に推進してくださったことは確かだから、きっと各所に信仰の“新しい種”が撒かれたに違いない。今後の運動の活性化に大いに期待する。講習会当日は「雨」も予想されていたが、幸い時おり日差しもあるよい天気となり、和やかな雰囲気の中で会がもてたことはありがたく、うれしかった。
 
26martyrs  2年前の前回の講習会では、メイン会場は西海市の生長の家総本山だった。私たちは今回、長崎市に久しぶりに来て、前日には「二十六聖人殉教の地」を見学した。そこの資料館にも行って、初期の日本のクリスチャンがどれほどの苦労と受難のすえに、キリスト教をこの地に定着されたかの一端をかいま見ることができた。「二十六聖人」とは、1597年2月に、豊臣秀吉の命令によって長崎の西坂の丘で十字架に張りつけられて死んだ26人の日本人クリスチャンで、後にカトリック教会から「聖人」の称号を得た人々である。詳しい情報は、日本二十六聖人記念館のサイトにある。当時の日本では、キリスト教が民衆から受け入れられなかったのではなく、受け入れられ過ぎたので為政者が脅威を感じ、弾圧したのである。1549年にフランシスコ・ザビエルによってもたらされたこの教えは、33年後の1582年には信者数が「15万人」にまで拡大したことを示す資料もある。

 その資料館を見学しながら私の脳裏にあったのは、その後の日本におけるキリスト教の信者数のことだった。このことは、今夏のブラジルでの生長の家教修会での講話の時にも触れたが、文部科学省に登録された2006年末の信者数で示せば、日本におけるキリスト教系宗教団体の信者数は、宗教団体全体の登録信者数に対してわずか「1.4%」なのである。これに対して、神道系と仏教系の宗教の信者数は全体の「94%」である。この国ではクリスマスが盛大に祝われ、結婚式が教会で普通に行われ、有名大学を初めとしたキリスト教系の教育施設が数多くある。さらに日本の歴史を振り返ってみても、二十六聖人殉教に見られるように、キリスト教に触れた多くの日本人が、厳しい禁教令にもかかわらず、自らの命と引き替えに教えを守り通してきた事実がある。にもかかわらず、現代日本においては、クリスチャンの割合が「100人に2人」に満たないというのは不思議というほかはない。

 谷口 雅宣

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2009年11月24日

絵封筒展へのご協力に感謝!

 10月24日の本欄で告知させていただいたが、11月20~22日には、秋季大祭を機に生長の家総本山の練成道場第2研修室で「谷口雅宣絵封筒展」が開催された。これには多くの幹部・会員の方に訪れていただき、主催した世界聖典普及協会の報告では、出展された絵封筒全64点は完売されたという。「森林資源再生」という本展の趣旨に賛同し、ご協力くださった読者の皆さんに心から感謝申し上げます。ありがとうございました。
 
 実は、私も妻と一緒にこの展覧会へ行ったのである。21日の夕方のことで、こっそり行っEfutoten_2009 たつもりなのに、楠本行孝・総務以下多くの方々に玄関で出迎えを受け、会場まで案内していただいた。自分の作品を見るのは気恥ずかしいが、人さまにお金を出していただくのに、仕上がり具合を見ないわけにはいかない。私が絵封筒の中に入れた手紙文も、額装中にきちんと納まっているのを見て安心した。その時どういうわけか、会場で“偶然に”会った方々と記念写真を撮ることになった。今日、その写真を回していただいたので、ここに掲げる。
 
 売れてしまった絵封筒は、その縮小版が小関隆史氏の運営するサイト「光のギャラリー~アトリエTK」上にまだ掲載されている。また、今後描く絵封筒は、新しい普及誌と連動するサイト「PostingJoy」の「絵手紙・絵封筒」のコーナーに登録される予定である。私もメンバーの1人として、このサイトに時々顔を出している。絵手紙・絵封筒ファンの読者の方々は、また、ウェブ版「日時計日記」の常連さんも、このサイトのメンバーになって大いに運動を盛り上げていきましょう。

 谷口 雅宣

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2009年11月20日

電子メモ帳を買う

 前から気になっていた製品で、文章作成用の「電子メモ帳」のようなものを買った。移動が多く、ブログのような短い文章を頻繁に作成することが多い私は、移動中の乗り物の中などで文章作成が手軽にできる道具を探していたからだ。もちろん、ノートパソコンでもそれはできる。だが、私のもっている機種は結構重く、しかもウィンドウズの「ビスタ」搭載のものを選んでしまったから、動作が遅いのである。

 最近は「ネットブック」と呼ばれる機種が人気だそうだが、これは私が今持っているノートパソコンよりは軽い。しかし、文章の作成は決して“手軽”というわけではなさそうだ。パソコンを起動し、さらにワープロソフトを立ち上げ……などしているうちに、何分もたってしまうだろう。また、その名前からしてインターネットに接続して使うことが前提となっているから、ブラウザーなど文書作成以外の機能がいろいろついている。それはそれでいいとしても、「手帳」の感覚でどこにでも持って行け、どこででも開いて記入できるような“文房具”を私はほしかったのである。

Pomera1  目をつけていた製品は、文具メーカーのキングジムが開発した「Pomera」である。私はそれを、講習会へ行く途中で、東京駅の地下街にある家電量販店で最初に見た。携帯電話より一回りほど大きく、開くと折り畳まれたキーボードが姿を現す。それをさらに開き、電源を入れ、文章を入力する。終わったら電源を切り、機械を閉じる。ただそれだけの機能だ。しかし、動作が速いという長所がある。スイッチオンから4~5秒で、文字の入力が可能となる。また、電源を落とした後に立ち上げると、前回書きかけの文章がそのまま画面に出るから、すぐに作業が始められる。
 
 私は、パソコンのキーボードの使い心地に案外こだわる。現在使っているノートパソコンはレノボ製だが、この中国のメーカーがIBMからパソコン部門を買い取って「Lenovo」というロゴを貼る前から、IBMのノートパソコンを愛用していた。その理由はキーボードのキータッチが私に合ったからである。適度に柔らかく、キーの沈みが深すぎず、また浅すぎず、Pomera2 しかも打ったときに「打った」という感じがするのである。これに比べて仕事場で使っていたNECのものは、キーの沈み具合がやや深かったから、大げさな感じがし、しかも長い間打っていると指が疲れてきた。だから、Pomeraの場合もキーボードの使い心地が気になった。また、「折り畳み式」というのが心配だった。何か華奢な感じがして、長期間の使用に耐えられるか不安だった。が、店頭で実際に文章を打ってみると、キータッチはレノボのものとあまり変わらないし、「折り畳み」も頑丈とは言えないが、それほど華奢でもなさそうだった。

 そこで思い切って、休日の木曜日に渋谷の量販店で買った。そして使い始めている。まだ十分使いこなしていないが、手軽さが気に入っている。かな漢字変換機能では、ATOKが使えるので使用感は快調である。重要なのはPCとの連携だが、これはUSBケーブルとマイクロSDの2系統があるから、問題があるとは思えない。この文章も、Pomera上で書き始めたものをPCで完成させた。また、何か気づいたことがあったら本欄で報告しよう。
 
 谷口 雅宣

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2009年11月 1日

桜島の火山灰

 今日は鹿児島市で生長の家講習会が開催された。妻と私は前日から鹿児島入りしていて、その日は晴天で夏を思わせる暖かな気温だった。鹿児島県のシンボルである桜島は、普段より多く噴煙を吹き出している、と出迎えの人が教えてくれた。しかも、南風が吹いているため、鹿児島市内に火山灰が降るのだという。そして、そういう日が2~3日続くと、同市内には雨が降って灰を流してくれるのだそうだ。その時はこの話を「へえー」っと思って半信半疑で聞いていたが、翌日になって本当に雨が降ったから、驚いた。そして、講習会が終る頃には再び晴天となった。
 
Haitohana  桜島の火山灰と雨との関係を聞いたとき、ロシアか中国が大きなイベントのある日を晴天にするために、事前に人工雨を降らせるという話を思い出した。ウィキペディアで調べてみると、雨や雪が生じるためには、雲の中に氷の粒ができる必要があり、その氷晶を作るものは空気中に浮かぶ微小な粒子だと書いてある。そして、この微小な粒子とは、「主に海の波飛沫で吹き上げられた塩の核であり、他に陸上から生じた砂塵などの粒子もある」とあった。だから、桜島から吹き上げられた火山灰が、氷の結晶ができる“核”になる可能性はあるのではないか、などと素人考えで想像する。
 
Sunadashi  桜島の火山灰はとても細かいそうだ。だから、桜島に住む人々の家には樋(とい)がないらしい。火山灰が雨で流れずに、樋を詰まらせてしまうのだ。そう言えば昨日、宿舎のホテルの周りを歩いたとき、道路脇に「克灰袋」を置く場所を指定する標識があるのを見つけた。自宅の敷地内に降った火山灰を集めて回収し、建設資材の一部に利用するのだそうだ。そのための袋を「克灰袋」と呼ぶのが、おもしろい。「灰を克服する」という意味だろう。それほど、火山灰はこの地の人々の生活圏に深く侵入してくるのだろう。黒い自動車が灰白色になっていた。植物の葉や花にも灰が積もって、色が変わっていた。戸外を歩いていると、時々目に何か細かいものが入った。そんな中でもジョギングをする人の姿を見かけたから、健康上の問題は深刻でないのかもしれない。
 
Graycar  活火山とともに生きるというのは、なかなか大変なことだと感じた。が、火山があるために、他の地域では味わえないよいこともあるはずだ。講習会の終了後に、鹿児島市の北方にある「仙巌園(せんがんえん)」という所へ寄った。薩摩藩の第19代藩主、島津光久の別邸跡を一般公開しているところで、約5万平方メートルの庭園と立派な平屋の屋敷とは、桜島を正面にして造られている。説明書には「錦江湾を池に、桜島を築山に借景した雄大な庭園」とあるから、昔の人たちがこの山をいかに愛していたかが分かる。噴煙を出しながら刻一刻と表情を変える山が、いつも目の前にあるのとないのとでは、きっと自然に対する考え方や生き方も変わってくるのだと思う。
 
 谷口 雅宣

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2009年10月24日

絵封筒展、開きます

 10月13日の本欄で私の絵封筒について触れたとき、11月に長崎県西海市の生長の家総本山で行われる秋季大祭を機に、これまで描いた作品を集めて絵封筒展を開くことを検討中だと書いた。おかげさまで、総本山と世界聖典普及協会のご協力により、同本山の練成道場第2研修室で「谷口雅宣絵封筒展」を開催することがこのほど決まった。期間は、11月20日の午後から22日の午後3時半までで、約70点の絵封筒が展示即売される予定。昨年夏に宇治別格本山で展覧会を行ったときの絵封筒の出品数は34点だったので、その倍ほどの数がお楽しみいただける。主催者の世界聖典普及協会では、この展覧会に合わせ、私の絵封筒の絵柄をあしらった来年用卓上カレンダーも頒布するという。

 さて、今日は生長の家講習会で群馬県の太田市藪塚町というところに来ている。ここは桐生市の隣町で、講習会は山を一つ越えた桐生市の市民文化会館で行われる。その前日のひと時を、この鄙びた温泉町で過ごすことができた。温泉町とはいうが、温泉宿は私たちが止まったホテルを含めて、3軒ぐらいしかない。かつては栄えた町だったであろうが、今は訪れる人の数が多くないことは、町のあちこちに掲げられた店の看板の古さや、旅館の壁の傷み方、温泉宿近くの神社の庭の荒れ具合などから想像できる。それでも私たちが泊まったホテルには、日帰りで温泉を楽しむ地元の人々が多く集まってきていて、広い駐車場もほぼ満杯状態だった。私たちは夕食前、そんなホテル界隈を散策して、町の様子をゆっくりと味わった。
 
 寂れた町にもいいところはある。特に、“旅人の目”で見る静かな夕暮れ時の田舎道は、Ginnan_gum なぜか心を落ち着かせてくれる。住む人が少なくなっても、その逆に自然の力が諸所に豊かに発揮されているのが分かるからだ。私はそれを地元の産土神社近くにあった廃屋の屋根の上に見た。廃屋の隣には、幹の太さが二抱えもあるイチョウの雌木が立っていて、錆びたトタン屋根の上にびっしりと銀杏の実が落ちていたのである。私はその時、講習会で福岡へ行った際、博多の街のイチョウ並木の下に落ちた銀杏の実を、地元のおばさん達が目を皿のようにして拾っていた姿を思い出した。都会での“貴重品”も、この地では拾う者は誰もいない。その代り、それらは自然の循環の中で、しっかりと役割を果たしながら息づいているのだった。
 
 銀杏を敷きつめてありトタン屋根
 
 谷口 雅宣

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2009年10月22日

キノコ採りと柴刈り

Jigobo09f  休日を利用して大泉町の山荘へ妻と行った。好天のおかげで紅葉はすばらしかったが、逆に山は乾燥していて、キノコは期待していたほど採れなかった。それでもハナイグチ(=写真)とチャナメツムタケを2人で2食分ほど収穫できた。妻はさっそく酢の物と佃煮にしてくれた。

 10月初めに生長の家講習会で小樽へ行ったとき、寿司に添えられてこのハナイグチに似たキノコの酢の物が出てきたのを思い出す。それを見て、2人で驚いたのだった。この種類のキノコは栽培できないと思っていたからだ。そこでキノコの名前を店の人に聞いてみると、「ラクヨウ(落葉)」だという。聞いたことのない名前だった。その店は、キノコを八百屋さんで買ったというが、その八百屋さんは山から採ってくる人から仕入れるそうだ。別のキノコかとも思ったが、後で調べてみると、北海道ではハナイグチをそう呼ぶらしい。我々はもっぱら、山梨風に「ジゴボー」と呼ぶ。何となく親しみが湧く発音だからだ。
 
Jigobo09f2  わが家では、ジゴボーはもっぱら味噌汁に入れて食べていたが、今回は小樽風に酢の物を所望した。独特の香りが引き立つが、これには好き嫌いがあるかもしれない。さらに大根おろしで食べると、香りも柔らかになって美味しかった。チャナメツムタケの方は、佃煮がいい。私はナメコより美味しいと思っている。今回のキノコ採りは、特にジゴボーの収穫は妻の手柄だ。私の方は、ジゴボーをさっぱり見つけられず、古くなりかかったチャナメの“巣”を見つけただけだった。それでも、食べられるのが5~6本あったから嬉しい。

 キノコ採りのほかに、山荘の建つ土地の南側斜面の柴刈りと剪定をやった。山荘はできてから9年目になるから、建った当時にそこにあった木々の中には、8年間で3メートル以上に伸びたものもある。それらが、南の空に見える南アルプスの山影を隠しそうになっていた。直径が10~15センチの立木2本を伐り倒し、枝をはらって片づけた。これが案外の大仕事だった。その他の灌木も、不要なものは伐ってスッキリさせた。普段あまりしない力仕事で、快い汗をいっぱいかいた。妻は、『理想世界』用の原稿を書き上げたのち、山荘北側の林の中で、未生からいつの間にか伸びたクリの木を何本も伐ったという。

 谷口 雅宣

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2009年10月18日

終末論の宗教

 今日は、山梨県韮崎市にある東京エレクトロン韮崎文化ホールで山梨教区の生長の家講習会があった。受講者数は前回を約1割上回る931人となり、古川忠男・教化部長を初めとした同教区幹部の方々とともに、喜びを噛みしめたよい一日となった。その様子は、生長の家が運営するWeb版『日時計日記』に妻が書いているので、ここでは繰り返さない。が、一つだけ付け加えれば、教区全体が早期から一丸となって1つの目的に向かって協力し合ったことが、総合的に大きな力を生みだしたのではないかと思った。山梨教区の皆さん、どうも有難うございました。
 
 ところで、私はこの講習会で1つ“積み残し”をしてしまった。それは、受講者からの質問に回答する際、答えるつもりで紹介した質問に、1つだけ答えるのを忘れてしまったのだ。そこで、この場を借りて回答を書くことにする。質問の主が本欄を読んでくださっていることを願う。その質問というのは、埼玉県八潮市(町名や番地は不明)から参加した16歳の男子学生からのもので、次のような内容だった--
 
「とても分かりやすいご講話をありがとうございます。午前のご講話の中で万教帰一という生長の家の教えを話されていましたが、終末論を唱えている宗教は万教帰一に入るのでしょうか。もしよければ教えて下さい。ありがとうございます」

 この質問にひと言で答えるのは難しいが、敢えてそうするならば「ノー」ということになる。が、ひと口に「終末論」と言っても、その「終末」が何を意味するかによって、信仰全体の内容が大きく変わってしまうから、十把一絡げの答えでは不十分である。例えば、キリスト教はその教義の中に終末論を含む、と言っていいだろう。その大きな理由は、聖書の中に『ダニエル書』や『ヨハネの黙示録』を初めとした「終末」の記述が数多く見出されるからだ。しかし、その記述を読み手がどう解釈するかによって、教えの意味が違ってくる。ちなみに、同書の出だしには、こうある--
 
「イエス・キリストの黙示。この黙示は、神が、すぐにも起こるべきことをその僕(しもべ)たちに示すためキリストに与え、そして、キリストが、御使をつかわして、僕ヨハネに伝えられたものである。ヨハネは、神の言(ことば)とイエス・キリストのあかしと、すなわち、自分が見たすべてのことをあかしした。この預言の言葉を朗読する者と、これを聞いて、その中に書かれていることを守る者たちとは、さいわいである。時が近づいているからである。」(第1章1~3節)

 読者は、ここにある「すぐにも起こるべきこと」とか「時が近づいている」という表現に注目してほしい。聖書が編纂されてから千年以上たっている現在、これらを文字通りの「真理」として受け取った場合、途方に暮れてしまう人が多いに違いない。
 
 同書にはこのあと、ヨハネが「見た」という世界の終末の光景が詳しく描写されるのである。その描写は、聖書の記述の中で最も残酷で恐怖すべきものとも言われ、それが何を意味するかが昔から論争の種となってきた。この書の表面の意味だけをたどれば、同書ではサタンと天使の軍勢が怪物の姿となって大闘争を繰り広げる。そして、最後には、すべての死者が呼び出されてキリストによる審判を受け、罪ありとされた者は“火の池”に投げ込まれ、罪なしとされた者は“夜のない”、神の光に満たされた世界で永遠に生きるのである。
 
 聖書の最後には、このようなストーリーをもった『ヨハネの黙示録』があることは紛れもない事実である。しかし、これによってキリスト教全体を単純に「終末論の宗教」あるいは「終末論を唱える宗教」と呼ぶことはできないと思う。なぜなら、聖書には終末論だけでなく、天地創造からモーセの十戒、出エジプト、バビロン捕囚、数々の旧約の預言者の活動、イエスの誕生、イエスの受難、イエスの復活、使徒の伝道活動などのストーリーと、それらのストーリーに内包された数々の教えが説かれているからだ。アルファベットの中には「A」から「Z」までの26文字が含まれているにもかかわらず、「アルファベットとはZのことである」と言えば、明らかな間違いである。また、「アルファベットとはZに至るために作られた」と考えることも不合理である。だから、「キリスト教は終末論である」という理解は、控え目に言っても「不十分」なのである。

 しかし、そうであったとしても、キリスト教の内部には(仏教やイスラームと同様に)実に多様な考え方が存在しているから、その一部の宗派の人々が、『ダニエル書』や『ヨハネの黙示録』を“最重要の真理の書”として取り上げ、間もなく現実に“世界の終末”が来ると説く指導者の下に、終末論を前面に掲げて運動することがある。こうなると、その宗派は「終末論の宗教」と言っていいだろう。そういう宗教は、過去にいくつも出現しており、ほとんどの場合、自らが信じた通り悲惨な結末を迎えている。私は、その具体例を『心でつくる世界』(1997年刊)の第4章に「終末を召(よ)ぶ教義」と題して詳しく書いたので、興味ある読者は参照されたい。
 
 谷口 雅宣

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