2011年9月 2日

台風に先駆けて広島入り

 大型の台風12号が接近しているため、4日に開催される広島市での生長の家講習会へ行けなくなるリスクを考えて、2日前の今日、広島入りをはたした。急遽変更した午前9時45分羽田発のJAL1605便に妻とスタッフ一行が乗り込んだ際、中国地方はすでに暴風に見舞われていたため、同機は「着陸できない場合は羽田に引き返す」という条件づきで離陸した。講習会へ行くための旅では、1年にだいたい1回、こういう“非常事態”に遭遇する。それでも、過去からずっと「行けなかった」という例はなかったから、今回もそれほど心配していなかった。が、搭乗機が広島上空にさしかかると、機体がククッと吊り上がったり、グッと落ちたりするような上下動がひんぱんに起こり、機体が左右に揺れ動く。機長は出発時のアナウンスで「着陸をやり直すこともある」と言っていたから、さすがに緊張した。そして、広島空港に無事着陸したときは、妻と2人で遠慮がちに拍手をしたのだった。
 
 今回の台風は、大型であるだけでなく、進行速度が遅いから、一箇所に大量の雨をもたらす“雨台風”である。大型なのは、風速15m以上の強風域が半径500km以上の広範囲にわたるからだ。また、いわゆる“台風の目”が中心から100km付近まであって、ドーナツ型をしているのが特徴らしい。私たちは昼ごろに広島市内のホテルに到着したが、雨はまだ小降りの状態だった。しかし、熱気のある強風が吹き荒れていて、「なるほど台風が来ている」という実感がした。が、本当はこのときは、台風の大きなドーナツ型の雲の北側の端が広島市に触れている程度の段階で、夜から翌日にかけてが荒天のピークになる、とテレビの天気情報は伝えていた。
 
Hiroshimamuse  昼食後の午後の時間、私たちはホテルのすぐ向かい側にある「ひろしま美術館」へ出かけ、絵画の鑑賞をした。講習会の旅先で美術館へ行くことは珍しくないが、その際は、講習会後、帰途につくまでのわずかな空き時間に、駆け足状態で鑑賞することになる。が、今回は時間の心配をしないで鑑賞できた。「フランスを中心とするヨーロッパ美術」の展覧会をしていて、マネ、モネ、ルノワール、ゴッホ、ロートレック、ピカソ、マティス、ローランサン、シャガールなどの作品を堪能できた。今回の台風では洪水の被害などが多く出ているが、私は台風に感謝したい気持になった。しかし、講習会の推進や準備に取り組んでいる当地の人々は、さぞ大変なことだと思う。皆さんが、無事に講習会当日を迎えられることをお祈りする。

 谷口 雅宣

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2011年8月30日

山林の価値を認めてほしい

 ヨーロッパの人々は樹木を大切にするという話を書いたが、「いや待てよ……」と疑いたくなるような話が新聞に載っていた。今日付の『朝日新聞』によると、オーストリアとイタリアの国境にあるグローセ・キニガット(標高約2,689m)とロスコップ(同約2,603m)の2つの山の山頂付近を、オーストリア政府が売りに出したというのである。前者は山頂と周辺の2つの峰を含む約92万平方メートル、後者は山頂を含む約29万平方メートルで、値段はそれぞれ約9万2千ユーロ(約1千万円)と、約2万9千ユーロ(約330万円)という。もちろん、そこに生えている森林もすべて一緒に売り払う話だ。しかし、国民から猛反対されたため、方針転換を余儀なくされたそうだ。
 
 この話になぜ驚いたかというと、自然物に対する経済的評価の低さである。2千メートル級の山の山頂付近を「330万円から1千万円」と評価する考え方は、相当程度の低い人間中心主義だと思った。記事によると、この値段をはじき出したのは、オーストリア政府から国有不動産の管理・売買を委託されている公営企業体だというから、いいかげんな会社ではないだろう。その会社の36歳の報道官は、今回の話に関連して、「公営企業だから納税者に責任がある。2つの峰のような価値の低い物件は徐々に処分していく」と説明したという。また、政府当局者は、「山頂は岩や石ばかり。持っていてもあまり利益がない。外国企業などが高値で買いたいといえば、売る人が出てくるかもしれない」と話したとも書いてある。

 こういうことを政府や公営企業の上層部にいる人々が平気で言うとしたら、その国の人々は樹木などの自然物を大切にすると本当に言えるだろうか、という疑問が湧き上がったのである。しかし、国民がその話を聞いて一斉に反発したのだから、一般のオーストリア人には良識があると考えるべきだろう。問題はやはり、現在の経済学の考え方の中に潜む人間中心主義なのだろう。言い換えれば、山や森林がもつ“生態系サービス”と呼ばれる数々の貴重な機能の評価が、今の経済統計の中からごっそりと抜け落ちていることが問題なのだ。そこから、「金銭的評価=価値」という短絡的思考によって、今回のような愚かなことが真面目に検討される。上記の値段は決して高くはないから、この峰を買おうとしてドイツのソフトウェア会社が名乗りを上げたという。「ぜひ購入して山頂に会社名をつけたい」のだそうだ。また、中東やロシアの投資家からも問い合わせがあったという。

 こういう話を聞くと、日本でもかつて北海道の原野や森林などを外国人や外国企業が購入して問題になったのを思い出す。山林は、飲料水の生産地であることを忘れてはいけない。今、世界中で水不足--特に、飲料水の不足が深刻化している。だから、「飲料水を生産する」という機能だけでもきちんと経済的に評価すれば、山林の値段は上がり、地方の活性化や林業の振興につながるはずだ。これに加えて、「二酸化炭素を吸収する」という山林の機能をきちんと評価すれば、都会偏重のいびつな経済は修正されて、よりバランスのとれた自然尊重の社会に移行すると思うのだ。そういう抜本的な制度改革を新しい政府に求めるのは、どだい無理なのだろうか。
 
 谷口 雅宣

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2011年8月28日

樹木の大切さを思う

 今日は山形駅前の山形テルサで生長の家講習会が開催され、647人の受講者が集まってくださった。2年前の前回より受講者数は89人(12.1%)減少したが、今回の講習会の推進期間が、ちょうど東日本大震災後の東北地方全体の混乱期に当たったという、やむをえない事情がある。例えば、受講券奉戴式は当初、震災3日後の3月14日に予定されていたが、この日は会場の教化部には数人しか集まらなかったため、行事は事実上延期しなければならなかったという。また、震災後の数カ月、ガソリンの供給が減少したことで、教化部での会合などが予定通りに行えないなど活動の停滞があった。それでも、東北人の粘り強さと教区一丸となった熱心な推進で前回の8割以上を結集したことはありがたく、喜ばしいことだと思う。
 
 講習会後、帰京の列車出発までのわずかな時間、駅からも近い霞城公園に寄った。山形城跡を緑豊かな公園にしたもので、サクラやイチョウなどの大木が何本も残っているのが目立った。私はこの日、午後の講話でドイツとイギリスでの講演会などの報告をさせてもらったが、その時、訪れた街々の写真を示して、両国の人々が樹木を大切にしているという印象を強くもったことを話した。私の住んでいる東京では、日比谷公園や明治神宮など一部の緑地を除けば、街路樹や公園の木を簡単に切り倒してしまうのを苦々しく思っていたが、霞城公園にはまだ多くの大木が残っているのを見て、「日本人もまだ捨てたものではない」と胸をなで下ろしたのである。
 
 樹木の価値とありがたさは、強調しても強調しすぎることはない、と最近よく思う。大きな木が1本あるということは、木陰ができることで土地の乾燥を防ぎ、有害な紫外線から土地が護られ、下草が生えて虫や微生物が繁殖する。それだけでなく、その木には何千種類もの昆虫が棲みついているから、それを食べに鳥類が飛来し、巣作りをする。果実ができればさらに多くの動物がやってくるし、落葉すれば、土地はさらに肥えるだろう。樹木は枝葉に水を溜めるから、大雨が降っても土壌の流失はなく、土中に広がった根は水を浄化しながら、土砂崩れを防いでくれる。もちろん、地震による被害もそこに樹木があるのとないのとでは、大きな違いが出る。
 
 地球温暖化問題が脚光を浴びるようになったことで、植物が二酸化炭素を吸収して酸素を排出してくれることは、多くの人々が知ることになった。しかし、地球を取り囲む大気の構成が、植物の活動なくして現在の状態になりえないということは、あまり知られていないだろう。この大気があることと、その外側にオゾン層があることで、宇宙空間を飛び交っている大量の放射線が、地球の表面にあまり届かないようになっていることは、重要な事実だ。つまり、植物が存在するおかげで、私たち動物は酸素呼吸ができるだけでなく、放射線による遺伝子破壊の危険からも常に護られているのだ。この放射線防護機能は、人間が考え出したどんな方式の原子炉よりも柔軟でありながら、堅牢である。どんな地震が来ようが、どんな津波が押し寄せようが、この放射線防護機能はびくともしない。が、愚かな人間がそんな植物を大量に伐採し、燃やし、それでも足りずに、大昔の植物であった石炭を地下から掘り出して燃やし、また、生物の死骸だった石油を燃やし続けることで、地球の大気の構成を変えようとしているのである。

 こういう観点から考えてみても、原子力エネルギーを人類が利用し続けることが、地球全体の生命にとってどんなに不合理であり、危険であるかが分かるはずだ。民主党の総裁選挙が行われているが、原発からの脱却を明確に訴える候補者がいないのは、誠に残念なことである。
 
 谷口 雅宣

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2011年7月28日

旅の空から (3)

 ノルウェーのテロ事件のような深刻な問題とブルーベリーの話を同等に扱うつもりはないが、人間の心理には多くの共通点があるから、同事件の背後にある移民問題とそれとを関連させて考えることはできる。一国内に多民族や多文化が存在している状態は、「多様性」の展開である。今、東京都知事をしている石原慎太郎氏が、かつてこのことを“社会の弱点”として批判したため、問題になったことがある。詳しくは憶えていないが、確かこんな論理だった--日本は単一民族による単一国家だから、団結力があり、社会の安定と安全の面で他国より優れている。これに対して、アメリカは多民族国家だから、社会にまとまりがなく、決定が遅く、治安も悪い。こういう単純な考え方も、典型的な“右”の思考パターンの1つである。今回の事件の容疑者もそれを共有していたようだ。
 
 7月27日付の『朝日新聞』(国際版)によると、ブレイヴィク容疑者は自作のマニフェストの中で、日本の移民政策をほめているらしい。同紙の記事を引用する--
 
「一方、容疑者が文書で絶賛するのが“日本”だ。厳しい移民政策や難民認定の少なさを挙げ、“多文化主義を拒絶して経済発展を成し遂げた”としている。会いたい人物として、ロシアのプーチン首相や旧ユーゴスラビア戦犯のカラジッチ被告と並んで、麻生太郎元首相の名を挙げた」。

 麻生氏にとっては、はなはだ迷惑な話だろうが、政治的に“右”と言われるものの考え方がよく分かる。つまり、何かを達成するためには、物事が一つに純化し、一つの方向に向いているのが効率がよく、したがって優れていると考えるのである。これを推し進めれば結局、軍隊のような制度の国が“優れている”ことになるから、北朝鮮の指導者たちは大いに喜ぶだろう。
 
 私はもちろん、こういう考えには反対である。生長の家は、実相の反映としての多様性を重んじる。自然界には多様性が満ちているが、その度合いが高いほど安定し、失われると不安定になる。このことからも、多様な表現が神の御心であることが分かる。しかし、それが分かるためには、1本のブルーベリーの木だけに注目し、その木が生み出す果実のすべてが自分の所有であると考える偏狭な心から、脱却しなければならない。脱却できない人は、自分の妻がその実を採っても、「盗っ人!」と考えて不快に思うだろう。しかし、そう思わない人は、妻と自分との共通点をよく知っている。妻と自分とが、本質的に利害が一致する存在であることを知っているのである。妻が実を採ったということは、自分の楽しみが減ったのではなく、翌朝の2人の食卓にそれが並ぶか、あるいはジャムに加工されて共に食する機会が来ることを、彼は疑わない。

 確かに、自分一人がすぐに生食する量は減る。しかし、ブルーベリーの実を生で大量に食べることの価値は、そんなに大きなものだろうか? 私はそれよりも、その半量や3分の1の量でもいい。生食だけでなく、フルーツヨーグルトとして、パンケーキやベルギーワッフルの付け合わせとして、またジャムとして食べること、しかも“孤食”ではなく、気の許せる相手と2人で談笑しながら食べることの方が、より価値が高いと考える。
 
 これに加えてカナブンと果実を共有することは、きっとさらに豊かな生き方を約束してくれるだろう。いや、本当にそうだろうか? このことの真偽については、読者の想像力にお任せしよう。
 
 谷口 雅宣

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2011年7月27日

旅の空から (2)

 JL407便が離陸して水平飛行に入るまでの時間、25日と26日付の『インターナショナル・ヘラルド・トリビューン』紙を読んだ。空港のラウンジにいた時にドイツから連絡が入り、ノルウェーのオスロでの事件の影響で空港のセキュリティーチェックが厳しくなっていると聞いた。だから、どんな事件であるかを知る必要があると思ったのである。一報程度の情報は、日本の新聞の見出しですでに知っていたが、犯行の動機など詳しいことは知らなかった。
 
 同紙の伝えるところによれば、この事件は現地時間の金曜日(22日)、オスロ市の中心で大規模な爆発が起こったのに続き、近郊にあるウトヤ島(Utoya Island)で行われていた同国第一党の労働党の青年たちの大会会場に、警察官を装った若い男が銃をもって現れ、一人一人にねらいを定めながら次々と大勢を殺害したというもの。日曜日の時点での現地警察の発表では、92人が死亡し97人が負傷したという。
 
 容疑者としてつかまったのは、32歳のノルウェー人の男、アンダース・ベーリング・ブレイヴィク(Anders Behring Breivk)で、犯行を認めており、動機についてはネット上に1500ページにもなるマニフェスト(趣意書)が掲げられ、それには『2083:ヨーロッパ独立宣言』(A European Declaration of Independence)という題がついているという。ブレイヴィク容疑者は、リベラル思想と多文化主義を“文化的マルクス主義”と呼んで敵視していて、イスラム系移民によるヨーロッパ支配に対して今、武器をもって立ち上がらねばならないとしている。つまり、このマニフェストとは、ヨーロッパのキリスト教文化を守るための宣戦布告書のようなものなのである。
 
 これは、未熟で極端な右翼思想の典型だと思う。記事には、同容疑者のことを「キリスト教原理主義者」と表現しているものがあるが、同容疑者は自分であまり宗教性を認めていないようだから、別の動機--恐らく心理的、文化的な理由--からの犯行と思われる。
 
 「多文化主義」(multiculturalism)というのは、同じ一国に複数の文化の共存を認めようとする立場である。文化の中には普通、宗教や法律も含まれているから、この考え方を徹底すると、イスラーム信仰者はその国の法律ではなく、イスラーム法で裁かれるということになり、単一法体系を基本とする法治国家の原則が崩れる。この点、アメリカ合衆国は多民族国家ではあるが、合衆国憲法と各州法を法源とするから、多文化主義ではない。私は、ノルウェーの法制度についてよく知らないが、アメリカよりは多文化主義に傾いているのかもしれない。

 谷口 雅宣

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2011年7月26日

旅の空から (1)

 今は7月26日(火)の午後4時すぎ。正確な時刻はわからない。というか、今の私にはあまり重要でない。この日、午前12時15分に出発予定の成田発JL407便でフランクフルトに向かっている最中である。30~31日の週末2日間を使って行われる「世界平和のための生長の家国際教修会」と、次の日曜日にロンドンで行われる一般講演会のことで、心に余裕がない。ドイツでの講話原稿が25日の午前中に仕上がったばかりで、ロンドンでの講話原稿はまだ3分の1ぐらいしかできていないのが気がかりである。その下書きを、成田からフランクフルトまでの十数時間で書き上げれば……と思っていたが、そう簡単にはいかないようだ。
 
 機中の人となってすでに6時間ほどたっているが、ドイツでの講話で使う画像の制作をPC上でやり今、一段落したところである。
 
Kanabunbb  成田空港のJALのラウンジで、この朝撮った写真を2枚、フェイスブックの私のページにアップした。1つは朝食のサンドイッチで、もう1つは、自宅の庭にあるブルーベリーにしがみついて朝食をとっているカナブンの写真だ。人間も食事をするのだから、カナブンが食事をするのは一向に構わないはずだが、人間が育てている果樹の実にしがみついているのを見ると、つい「このぉ~」という気持になる。「奪われている」と感じるからだ。しかしこの時は、自分がこの家を2週間空けるのだから、その間に熟するブルーベリーはすべて“彼ら”の食事になるか、地に落ちて別の生物のエネルギー源になると予測できた。となると、小さな1粒や2粒、あるいは10粒や20粒でも、カナブンに食べてもらってもいいじゃないか、という気持になったのである。
 
 考えてみれば、この同じブルーベリーの木から私も妻も、それから何十匹ものカナブンも、毎日果実をいただいているのだから、「我々は皆仲間だ」と言えるのである。食卓こそ共にしないが、同じブルーベリーの栄養をいただき、生きる喜びを味わっている。しかも、そのブルーベリー自身は、ほとんど無償で無数の果実を動物たちに、またバクテリアにも提供している。「取る」ということの裏側にある「与える」という行為に注目すれば、「奪う」ように見えている様々な現象が、違う意味をもって人間の心に映ってくるに違いないのである。

 谷口 雅宣

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2011年7月22日

フェースブックへどうぞ……

 妻のブログに、本欄の読者から私の安否を心配するコメントがあった。2週間もブログを更新していないので、健康上の問題が発生したか……と気遣ってくださったようだ。しかし、妻も書いているように、私はすこぶる元気です。ただし、ここ数日の激しい気温の変化も影響して、ややカゼ気味というのが正直なところだ。ブログを更新していない理由は、ドイツとイギリスでの行事の準備に奔走し、余裕を失っているからである。
 
 これまで本欄では、できるだけきちんとしたメッセージを書きたいと思っていたので、“軽い話題”や“つぶやき”の類いは書くのを避けていた。そして、そういうものは専らフェースブックの私のファンページに書いてきた。だから、私の動静に興味がある方はフェースブックに登録して、ファンページの「いいね」欄(日本語モードの場合)または「Like」(英語モードの場合)欄をクリックしてもらいたい。すると、“ファン”の一人となって、私のつぶやきやスナップ写真などが見れるし、コメントも書き込める。

 私は26日に日本を発つが、海外へ出た際も、フェースブックの方が気軽に書き込めるので、たぶん本欄ではなく、そちらへの書き込みが多くなると思う。フェースブックは、自分のメールアドレスとパスワードを登録すれば誰でもメンバーになれるし、世界中の人々との交流ができるから、本欄の読者にもお勧めする。私のページは、いちおう英語で書くことになっているが、ポ語の人、スペイン語の人、そして日本語の人もいる。国際色豊かなので、居ながらにして海外旅行の気分が味わえる。

 それでは、フェースブックでお会いしましょう……。
 (新規登録の方は「こちら」へ)
 
 谷口 雅宣

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2011年6月19日

表参道にキノコ出る

Hitoyotake  今日は朝から新宿へ行った。パスポートを受け取るためである。6月9日の本欄に申請書類を都庁の旅券課に提出したことを書いたが、1週間後には新しいものが発行されると言われていた。夏休み前の日曜日だから、もしや混雑……と思って“朝一番”の時間に行くことにした。日曜日はたいてい講習会があるので、そういう休日の原宿をゆっくりと歩く機会は珍しい。人もまばらで静かな原宿はいいものだ……と思いながら、明治通りと表参道の交差点を新宿方向へ渡り、JR原宿駅に向かった。と、地下鉄の明治神宮前駅への降り口のところに、奇妙な形の白い塊を見つけた。一見して、空気の入った白いレジ袋が捨ててあるのかと思った。が、近づいていくると、卵大の白いツブツブが密集しているように見える。そして、さらに近づくと、それがキノコの幼菌の群生だと分かった。私と妻は、思わず大声を出してしまった。
 
 東京の原宿でキノコが生えるのは、明治神宮か自宅の庭ぐらいだと高をくくっていたが、表参道の地下鉄の駅の入口で、植え込みの中から群生するキノコもあるのだ。一般にキノコが生える環境は自然が豊かだとされるが、この考えは改めなければいけないのか、と思った。しかし反面、キノコはカビの“親戚”だから、条件さえ整えば都会の真ん中で頭をもたげていても不思議はないのかもしれない。その証拠に、松本零士氏の『男おいどん』というマンガのシリーズでは、じめじめした環境の貧しい家の中では、町中であっても「サルマタケ」というキノコが出ることになっている。もちろん、こんな名前のキノコは存在しない。が、松本氏は自分の経験を元にしている可能性は大きい。
 
Awatake  私が今回のキノコ発見に心を動かしたのは、たぶん自宅と長崎・総本山の公邸の庭とで、連続してキノコと出会っているからだ。「また遭いましたね!」という感じだ。自宅でキノコに遭ったのは先月の26日で、勝手口の脇の陽の当たる植え込みの中に出ているのを妻が見つけた。総本山では、雅春先生の二十六年祭で公邸に泊まったとき、これも妻が最初に見つけて私を驚かせた。これらの場所でキノコが出ること自体は、それほど驚くことではない。過去に何度も目撃している。が、私が感動したのは、それらのキノコKoujitake が食用にできる種であるということだった。自然に囲まれている総本山の公邸は、何らかのキノコは生えるだろう。また、自宅の庭にも、カレバタケのような非食用種はいくつも顔を出す。しかし、今回遭遇したのは、アワタケ(写真左)、もしくはコウジタケ(写真右)と思われるイグチ科の食用キノコだった。長崎の公邸はともかく、東京の原宿で天然の食用種が採れるとなれば、自慢していいと思っていた。
 
 そこで問題になるのが、今回の地下鉄駅前で見つけた“天然キノコ”の種類である。パスポートを受け取ってから帰宅し、キノコの本を調べてみると、それは「ヒトヨタケ」だと思われる。「思われる」と書いたのは、キノコの種の同定は専門家でも難しいからだ。しかし、本にある写真と書かれた記述を読み、自分の撮った写真と見比べてみると、この種以外は考えられない。そこで、この本の説明を引用しよう--
 
「ヒトヨタケーー春~秋、畑地、公園、路傍などに束状に発生。傘は初め長卵形、のちに開いて鐘形となり、小~中型。表面は灰色~淡灰褐色、中央部に鱗片をつけ、周辺は溝線がある。ひだは密、成熟するにつれて白色から紫灰色、黒色と変化し、反り返った傘の周縁部から液化してしたたる。(中略)食。ただし、酒類を飲む前や飲んだのちに食べると激しい二日酔い状の中毒にかかる。ヒトヨタケ属のきのこは“一夜茸”の名のとおり、どれも短命である」。

 ということで、このキノコは食べられる可能性が大だが、酒好きの人は要注意である。また、すぐに“液状化”するようだから、採りに行っても、もう姿を消しているかもしれない。(残っていても食べないでください)

 谷口 雅宣

【参考文献】
○本郷次雄監修『きのこ』(山と渓谷社、1994年)

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2011年6月18日

コスタリカから愛を込めて

 中米の国、コスタリカでシニアボランティアとして活躍している武山久恵さんが、14日の本欄にコメントをつける形で、同国の有志が東日本大震災に遭った我々への激励のメッセージを動画で作成してくれたことを教えてくれた。本欄へのコメントという形では読者の目につきにくいので、ここに彼女のメッセージとともに掲載することにした。以前、香港の人々からの感動的な動画メッセージを紹介したが、このようにして世界各国の人々が日本の復興と再起を望んでくれていることを知り、胸が熱くなるのは私だけではあるまい。感謝合掌。
 
 谷口 雅宣

--以下、武山さんのコメント-------------------------

 コスタリカという小さな中米の国でJICAシニアボランティアとして2年間夫とともに活動しております。コスタリカ大学の高齢者のためのコースの活性化が任務です。

 コスタリカは非武装で、エコツーリズムの発祥地で、1月には秋篠宮殿下夫妻もお見えになりました。
3月に日本支援のDIA DE  ARIGATOという、大きなチャリティイベントも開かれ、1万人以上が来場しました・
この6月に日本への素敵な応援ソングができました。

 以前総裁先生が 『雨にも負けず』を香港の方たちが作ってくださり、私も授業で使わせていただきました。そのことを思い出し、ご紹介させていただきたいと思います。

歌詞が素敵です。

  いろいろあるさ、
  失う時、
  苦しい時、
  でも光は来る、
  最後に必ず、
  苦しみが終わり、
  愛がやってくる、
  灰色が過ぎ去り、
  再び色づく、
  愛の海、
  コスタリカからの心からの愛、
  愛の海……

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2011年6月16日

総本山の“太陽”をいただく

Violetta_batteryb  谷口雅春大聖師二十六年祭のために、長崎・西海市の生長の家総本山に来た。前回は4月に谷口輝子聖姉の年祭に来たが、その頃は、私のPCの使用を”炭素ゼロ”化し始めたばかりで、旅先の使用まではカバーしきれなかった。が、今回は、同本山の楠本行孝総務のご好意で、状況が一変した。 総本山では蓄電池を用意し、しかも、同本山の大型太陽光発電装置から電気を引いて、“炭素ゼロ”でフル充電しておいてくださった。これで私のPCは、太陽エネルギーだけで動き続けることになる。

 総本山で用意してくれた電池は、私が本欄でも取り上げた太陽工房の電池格納部「VS12-B20LA」だ。ただしこれは、私が購入したニッケル水素電池使用の「VS12-B07NH」とは異なり、従来型の鉛電池である。実用的には、しかしこちらの方が1クラス上である。例えば、私のは最大出力 64W だが、こちらは 200W。蓄電容量も、ノートパソコン(20W)の使用時間で比べると、私のが最大4時間なのに対し、こちらは12時間も使える。その代わり一回り大きいケースに入っており、どっしりと重い。
 
 この実用型蓄電池は、インバーターの大きさもソケット類も私のものとは全く違う。インバーター内には電動ファンがついていて、熱を追い出す仕組みになっているし、電気の残量を3段階で示すランプも付いている。外部への出力は100Vが2系統、USBが1系統ある。ちなみに、販売価格は1個37,800円で、私のもの(25,800円)より若干高い。

 ところで、私の場合もこの“実用型”の鉛蓄電池を買う選択肢はあったのだが、それを選ばなかった。というのは、「鉛」は昔から人体に害があることが分かっていて、環境意識を説く人間がそれをあえて買うのには、どうしても抵抗があったのだ。しかし、業務用ということになると、自動車内蔵の蓄電池も含めて社会ではまだまだ鉛電池が主流だろう。そんなわけで“実用型”を手配してくださった総本山総務に文句を言うつもりはない。が、この事実は誰でも知っておくべきだと思う。
 
 これに機を合わせたように、16日付の国際紙『インターナショナル・ヘラルド・トリビューン』には、中国での労働者の“鉛害”が深刻であることが報じられている。それも、同国の東部の村でバイクや電動式自転車の電池を造っているメーカーのことだ。操業中の6年間に国の規制値を守らなかったため、工場周辺に住む成人233人と99人の子供について、最高で国の基準の7倍になる鉛が血液から検出されたというのだ。そして問題なのは、この傾向がこの特定の電池メーカーに限らず、中国の同業他社にも共通して見られると報道されていることだ。有害物質の規制は地方政府の役割だというが、急速に発展する中国経済の中では、工場経営者を規制するのに熱心でない役人が多いのだという。何か、日本のどこかの電力会社と政府機関との関係を思い出す話ではある。
 
 そんなわけで、今日の複雑なグローバル社会においては、我々がまったくの善意をもって省エネ努力をする際にも、子供の弁当の食材を選ぶときのような慎重さが常に必要とされるのである。
 
 谷口 雅宣 

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