2011年1月 4日

“ながら族”は肥満しやすい

 新年に入って“よいニュース”を2つ入手した。いずれも我々の食事に関することで、肥満防止のコツを教えてくれている--①食事はしっかり味わって食べよう、②異常な食欲は散歩で解消せよ。この2つは決して耳新しいアドバイスとは言えないが、私を含めて正月の食べ過ぎを気にする人、特に携帯電話やパソコン等から目が離せない人にとっては、この機会に思い出しておくことは有意義かもしれない。

 4日付の『ニューヨーク・タイムズ』電子版によると、食事をしながらメールを打ったり、テレビを見たりする人は、そうでない人よりも1日に食べる量が多くなるという。この研究では、22人からなる2組のボランティア・グループに頼んで、一方のグループには一定時間の食事中にパソコンゲームの「ソリティア」をしてもらい、他方は同じ時間に食事だけをしてもらった後、①食後の満腹感、②30分後の“味のテスト”の際の食事量、③食べたものの記憶の正確さ、の3点を比べた。ただし、実験に参加したボランティアには、この実験の目的は、食べ物の記憶への影響調査だと説明したという。その結果、“ながら族”のグループの人は、自分が何を食べたかをよく憶えていなかっただけでなく、食べた後も満腹感が相当少ないことがわかった。この結果は、身長や体重が同等の人同士で比較しても同じだったという。また、食後30分に行ったクッキーを食べる“味のテスト”では、“ながら族”のグループの人は、そうでないグループの人の倍の量を食べたという。
 
 この研究に関わったジェフリー・ブランストローム博士(Jeffrey M. Brunstrom)は、イギリスのブリストル大学で行動栄養学(behavioral nutrition)を研究している。同博士によると、「パソコンの画面を見るなど、食べ物への注意を反らすような食事をやめれば、その後でスナックが食べたくなるのを防ぐことができるかもしれない」という。また、「問題は、自分が何を食べたか思い出せない点にある。記憶は、食事量の制御に重要な役割を果たしているのに、食事中に別の何かに注意を反らしていると、その記憶が形成されない」という。

 同紙のもう1つの記事は、特に“ながら族”だけを対象にしているのではなく、食欲全般を、またタバコやチョコレートなど特定の嗜好物への欲求を制御するためには、「軽快な散歩」をするのが効果的であることを、過去のいくつかの研究結果から引用している。例えば、2008年に行われた研究では、“チョコレート愛好者”(1日に板チョコを2枚以上食べる人)を集め、3日間チョコレートを食べさせないでおいた後、神経を使うテストをさせた。そして、そののちに銀紙をむいた板チョコを示して欲求の程度を調べたという。すると、トレッドミル上で適度の速さで15分間歩いた人は、そうでない人よりもはるかに少ない欲求を感じ、板チョコを触らせても血圧が上がらないことが分かったという。また、タバコへの欲求についても、2005年に行われた研究で、やはり15分間の散歩を行えば、欲求が急速に減退することが分かっている。さらに、2007年の研究では、短時間の散歩は、喫煙の欲求を減らすだけでなく、中毒症状を和らげ、喫煙の間隔を広げる効果をもつことがわかっているという。

 私は最近、東京の街頭を堂々と歩きながら食事をする若い女性とすれ違って驚いたことがあるが、こういう人はたぶん、耳にはイヤフォーンを差し、軽快な音楽を流しながら、さしずめ「自分はマルチタスクをこなし、時間をムダに使わない優れた生き方をしている」と思っているのだろう。彼女の表情には、何ら羞恥心のようなものは表れていなかった。しかし、どこかの本にも書いたが、このような注意散漫な生き方は、耳からの情報も、舌からの情報も、視覚や触覚からの情報も、きちんと処理されず、記憶に残らず、したがって「生きている」という実感が得られないということが、ここに掲げた研究結果からも言えると思う。そんなところから、「もっとほしい」という食欲の肥大化が起こるのではないだろうか。今の情報氾濫時代には、その処理を自ら正しく選択的に行う努力が必要なのである。
 
 谷口 雅宣

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2010年4月 4日

「わかる」ということ (9)

 ここで、本シリーズ中の私たちの理解をまとめてみよう。まず、「わかる」ということは一見、簡単なことのように思われるが、詳しく調べてみると、大変複雑な心的過程であることが明らかになった。その過程では、まず基本的には、私たちの意識は世界から2つの概念(集合)を切り出して、それらの関係性を組み立てることから始める。この際、ほとんどの場合は、非対称性の原理にしたがって、2つの概念の間の「違い」が意識されるのである。そこにはまた、単なる感覚的な体験ではなく、理性的(意識的)な判断が関与している。が、そのような意識の活動と並行して、無意識のレベルでは対称性の原理が働いていて、意識が切り分けた2つの概念間の「違い」を解消させる方向に力が動いている。この意識と無意識の関係は互いに「相補的」であり、意識が物事を細分化し、自我を孤立化していく方向に働くのに対し、無意識は物事に共通性を見出し、それらを統合する働きをしている。そして、人間の理性は、これら2つの動きを把握し、全体をより高次の統合へと進める力をもっている--そういうことだった。

Mind00  今回は、このような心的過程を図示してみようと思う。意識と無意識の図は、生長の家講習会などで何回も使っているので、読者にも馴染みがあると思う。例の「海中に浮かんだ氷山を横から見た図」を思い出してほしい。ここに掲げた図-1は、その“氷山”を簡略化して三角形として表現している。また、意識と無意識の比率については、1人の人間の心の領域を「10」とすると、意識の大きさは「1」、無意識の大きさは「9」などと言われることがある。が、この数字は数学的な厳密さを表しているのではなく、「大体の感じ」だと理解しておいた方がいい。意識や無意識のボリュームを測定する方法などなく、したがって両者の比率など測定できないからだ。また心は、その中に立体的な概念や記憶も含むと考えられるから、それ自身が“立体”だと考えた方が合理的だ。だから、2次元の平面で描いた図-1よりも、これを3次元化した図-2の方が適当だと思う。「三角形」だった心を、「円錐」に変えている。

Mind01  さて、ここから少し“頭の体操”を要するかもしれない。私たちが何か特定のものと出会った時、心はどのようなことを思い浮かべているかを考えるのである。例えば、読者(女性)が街を歩いているときに、自分の子供の友だちである「A君」のお母さんに出会ったとする。そこで、「まあ、こんな所で偶然ですねぇ~」などという言葉が交わされて、立ち話が始まるとする。この時、話をしている相手のことを、私たちの心はどうイメージしているかを想像してほしい。この「A君のお母さん」は、自分の子供の友だちの母親だから、「自分の子供の母親=自分」と近い関係にある。が、意識は、両者が別人であることを知っている。しかし無意識は、対称化の原理にしたがうから、相手を自分と同一視する傾向にある。だから、相手に対して「親しみ」が湧いてくる。
 
 この「A君のお母さん」がもつイメージは、それだけのものではない。この人は「自分の子供の友だちの母親」だから、その概念に属するすべての人--Bちゃんのママ、D助の母親、Mちゃんのおっかさん etc.……の“代表”でもある。この「代表」の意味は、A君のお母Mind02 さんが自分の子供のすべての友だちの母親の「特徴を典型的に表している」という意味ではなく、この人を契機として、他のすべての友だちの母親が「概念的に連結している」という意味である。意識はそのくらいまでは把握しているだろう。が、無意識は、対称化の原理にしたがうから、もっと広い概念へと近づけ、相手を「すべての人の母親」と同一視する動きを示し、さらには、より大きな概念である「母なるもの」との同一化にも向かうと考えられる。このことを示したのが、図-3である。

 このようにして、私たちはこの世界の特定のものを「わかる」と感じているときには、それを単一な概念として把握しているのではなく、意識と無意識とを動員して概念の「重層的構造」をつくり、それを把握していると考えられるのである。それをここでの例を使って言えば、私たちが「A君のお母さん」を意識するとき、私たちは同時に「自分の子供の友だちの母親」のことを思い起こしており、無意識のレベルでは、さらに「すべての人の母親」や「母なるもの」という概念も含めて、「A君のお母さん」の属性として感じているのだ。それだけではない、今回の図式化では簡便を期するため、ある特定の人を「A君のお母さん」として一面的にしか考えなかった。が、これが実在の人物だと仮定すれば、当然のことながら、この人には別の側面--「○○氏の妻」とか「□□家の嫁」とか「△△夫妻の娘」など--もある。だから、その人物のことを知れば知るほど、彼女をめぐる概念の構造は複雑になっていく。つまり、「A君のお母さんがわかる」と言う場合は、この複雑化の程度にしたがって「わかる」度合いが強まると考えられるのである。

 谷口 雅宣

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2009年6月 6日

恐るべし、ノーシーボ効果

 本欄では、医学でいう「プラシーボ効果」について何回か(最近では2009年2月15日2006年4月3日など)書いたことがある。これは医学的に何の効果もないものを服用しても、それを服用者が「効果がある」と信じた場合に治病的効果が生じることを言う。「服用」と書いたが、必ずしも体内に物質を摂取しなくてもよく、身体に一定の刺激を与えたり、何かの儀式をした場合でも、同様の効果が生じるものもプラシーボ効果と呼ばれることがある。このような健康回復の効果とは逆に、医学的には無害なものでも、それを「有害だ」と信じた場合に、病気になったり、苦しんだり、あるいは死に至るものを「ノーシーボ効果」と呼ぶ。

Ns051609  これら2つの現象は、人間の「信念」や「信仰」と肉体の健不健が密接に関係していることを有力に示しているから、宗教の世界とも関係が深く、その原因やメカニズムについて興味がつきない。ただし、医学が発達した現代においても、これらの詳しいメカニズムはまだ分かっていないようだ。イギリスの科学誌『New Scientist』は、5月16日号の表紙(=写真)に、何カ所にも針を刺された縫いぐるみの人形を描いて、「How beliefs can harm you」(信念はどうやってあなたを傷つけるか)という特集記事を載せている。この絵は、医学的には何の効果もないはずなのに、人形に擬せられた人が苦しみ傷つく……日本では「藁人形に五寸釘を刺す」のと同じイメージだ。
 
 この記事で紹介されていた実例を2つ、以下に掲げる--
 
①ガールフレンドと別れたデレク・アダムズは、人生に希望を失ったために、手元にあった抗鬱病剤を全部服用したという……が、薬を飲んでしまってから、「しまった!」と後悔した。彼は死にたくなくなって、隣に住む人に頼んで病院へ連れていってもらった。が、病院についたとたんに倒れてしまった。体はガタガタ震え、顔面蒼白となり、意識は朦朧とした。血圧は下がり、息は速くなった。しかし、病院でいくら検査しても異常はなかった。体内から毒物も発見されなかった。入院後4時間にわたって、アダムズは生理食塩水を体内に入れる洗浄を行ったが、体調はほとんど改善しなかった。

 そんなところへ、一人の医師がやってきた。アダムズが参加していた抗鬱病剤の臨床試験の担当医だった。アダムズは約1週間前から、この試験のために薬を飲んでいた。飲み始めた当初、彼は気分がウキウキした。が、別れたガールフレンドとの言い争いのために、彼は残っていたその錠剤29個を全部飲んでしまったのだ。臨床試験の担当医の話によると、アダムズは照査実験のグループの中にいた。このグループは、実際の薬の効果を試すグループと比較するために、ダミーの薬を服用させるためのものだ。つまり、彼が飲み過ぎたと思った薬はニセモノで、医学的には無害なものだったのだ。その話を聞いて、アダムズは驚いて涙ながら安心したという。それから15分もたたないうちに、彼の体調はしっかりとし、血圧も心拍数も平常にもどった。
 
②1998年の11月、アメリカのテネシー州の高校で、ある教師がガソリンのような異臭がするのに気がついた。やがて頭痛を覚え、吐き気がし、息苦しさと目まいを感じるようになった。そこで学校は閉鎖され、その後1週間のうちに100人以上の職員や学生が、最初の教師と同様の症状を訴えて、病院で受診することになった。ところが、いくら検査しても、それらの症状の医学的な原因は分からなかった。その1カ月後、アンケート調査を行って分かったことは、症状を訴えた人はほとんどが女性で、クラスメートが同じ症状を覚えたことを見ていたか、知っていたという。英ハル大学(University of Hull)の心理学者、アーヴィン・カーシ博士によると、「我々が知るかぎり、学校の環境には有害物質は一切なかったのに、人々は苦痛を訴え出した」。だから、これは大規模な「ノーシーボ効果」だという。

 カーシ博士の考えでは、クラスメートが症状を訴える様子を見ることで、他の学生の心の中に「病気の予感」が起こり、それが心因性の病気に発展して大規模に広がったのだという。こういう突発的な病気の流行は、世界のどこでも起こる。1998年にはヨルダンでワクチンの集団接種をしたとき、800人が副作用のようなもので苦しみ、そのうち122人は入院治療をした。が、そのワクチンには何も問題がなかったという。

 --このような例を知ってみると、人生の明るい面に注目して生きる「日時計主義」が健康にもいいことが了解できるだろう。
 
 谷口 雅宣

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2009年2月15日

信仰は健康によい

Time090223  アメリカの時事週刊誌『TIME』が、2月23日号で「信仰はどう癒すか」(How Faith Can Heal)と題し、健康をめぐる心と体の相互関係について特集記事を載せている。簡単に言ってしまえば「信仰をもつことは健康にいい」というのが、その記事の結論だ。この種の“心身相関”の話を、私はここ数年、本欄に書く機会がなかった。目立った発表に遭遇しなかったからだ。しかし、この特集記事は最近の医学的知見をまとめているので、大いに参考になる。

 私が前回この問題に触れたのは2006年4月3日の本欄で、その時は「祈りには治病効果がない」という研究結果を紹介した。この研究は、プラシーボ効果について詳しい心臓外科医、ハーバート・ベンソン博士(Herbert Benson)が主任となって行われた信頼性のあるものだったので、その結論に私は少なからずショックを受けた。が、今回の記事で紹介されているコロンビア大学のリチャード・スローン博士(Rchard Sloan)の見解では、祈りの効果を科学的に立証することは“愚者の夢”(fool's errand)だといい、ベンソン氏の研究方法そのものに疑問を呈している。その理由は、祈りの受け手がどれだけ祈られたかは知ることができないし、それが分からなければ祈りの効果は測定できないからだという。
 
 ベンソン氏の研究の詳しい内容は上記の本欄を参照してほしいが、スローン博士のポイントは、患者にとって重要なのは、その人が実際に祈りの対象になったかならなかったではなく、患者本人が、自分が祈りの対象にされたと「思う」か「思わない」かだというのである。もし自分が祈られていると思うならば、そこからプラシーボ効果を起こすメカニズムが患者の心身で働き出し、ある時には“奇蹟的”と思われる効果も発揮するというのである。
 
 プラシーボ効果とは「偽薬効果」とも訳されるが、医学的には1780年代から知られている現象で、砂糖の丸薬など、医学的には全く治療効果のないものでも、それを服用する人が「効果がある」と信じて飲めば、実際に効果が生じることをいう。このことは拙著『心でつくる世界』(1997年)にもやや詳しく書いたが、「信仰によって病気が治る」という場合でも、相当数はこのプラシーボ効果によると思われるのである。が、このことからは、「だから宗教はインチキだ」という結論へ向かうべきではなく、「だから、人間の自然治癒力は驚嘆に値する」とか「人間の心の力は偉大だ」という方向に進むべきだろう。

 この特集記事も、その方向に論を進めている。もし、“砂糖の丸薬”によっても奇蹟的治癒が起こるならば、神への信仰や宗教の教義のように、人々の心を深く動かすものに治病効果がないと考える方が不自然なのだ。こうなると、定期的に教会へ通う人々とそうでない人々との健康状態を統計的に比較する研究が意味をもってくる。テキサス大学の社会人口統計学者、ロバート・ハマー氏(Robert Hummer)が1992年から続けているこの分野の研究成果には、動かし難いものがある。それをまとめると、次の2つに集約される--
 
 ①教会など宗教行事にまったく行かない人は、毎週教会へ行く人に比べて、8年後までに死ぬ確率は2倍である。
 ②まったく教会へ行かない人と毎週行く人との中間段階にある人々の寿命は、両者の中間的位置にある。
 
 このような統計結果が出る理由には、様々なものが考えられる。例えば、教会は一種の社交場であり、コミュニティーを形成するから、そこに集まる人々の間には親しく近い関係が生じるだろう。すると、普段の互いのコミュニケーションも密接になるだろうから、心臓発作や脳梗塞で倒れたときも、教会メンバーの方がそうでない人よりも速く病院に連れて行ってもらえるかもしれない。そうなれば、医学的理由ではなく、社会的理由でも平均寿命は長くなる--という具合にだ。しかし、その一方で、宗教が肉体の一部である脳に影響を与えることで、ストレスに対する心身の反応自体が、宗教を信じる人とそうでない人との間で違ってくることも考えられるのである。
 
 神経科学の発達により、宗教的体験や感性が脳の頭頂葉や前頭葉でのニューロンの活動に関係していることが明らかになってきた。これに、脳の可塑性(変形する性質)を加味して考えると、祈りや瞑想を定期的に行う人と、そうでない人との間には、長い間のうちに脳に構造的な差異が生れるとしても、不思議でない。そして、この記事によると、実際にその通りになるらしいのだ。
 
 ペンシルバニア大学のアンドリュー・ニューバーグ博士(Andrew Newberg)の研究では、100人以上の人が様々な方法の瞑想や祈りを行う中で脳をスキャンして調べたところ、前頭葉が主体となって活動していることが分かったという。そして、祈りや瞑想が深まってくると、頭頂葉がしだいに静かになる--この状態のときに、人は地上的なことから解放された気分になるという。また、称名を唱え続けたり、誦行をしていると前頭葉の活動が静まり、自分が唱えている言葉が、自分とは別の力によって発せられているような気持になるという。そして、このような瞑想を15年以上続けている人の前頭葉は、そうでない人よりも分厚くなっていることが分かったそうだ。また、自分は宗教性が高いと考える人の脳の視床は、非対称的である傾向があるが、対称的な視床をもつ普通の人も、瞑想を8週間実修すると、視床に非対称性が現れることがあるという。
 
 このような研究と、ここには書かなかった様々な研究や発見により、「信仰は健康によい」というのが、今や医学者と宗教者の1つの合意点であるらしい。
 
 谷口 雅宣

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2008年12月 2日

ガンの自然治癒

 ガンの自然治癒が案外多いのではないかという論議が、医学者の間で行われている。医学関係の記事を書いてきたニューヨーク・タイムズのジーナ・コラータ記者(Gina Kolata)が11月26日付の『ヘラルド・トリビューン』紙で報じている。それによると、ガンの自然治癒は昔から医学界では知られているが、それは皮膚ガンや腎臓ガン、それから小児ガンのごく一部で起こるとされていた。しかし、自然治癒がどれだけの頻度で起こるかの研究はされていなかったという。その理由は、ガンは早期治療が原則だから、発見されたものは必ずといっていいほど治療の対象にされ、放置したケースはあまりなかったからだ。

 ところが、このほど The Archives of Internal Medicine (内科学紀要)に発表された研究では、ノルウェーでの乳ガンの治療では、自然治癒が起こった頻度は、これまで考えられていた以上に多いらしいというのである。この研究は、50~64歳の女性の2つのグループの乳ガンの罹患率を6年間にわたって比較したもので、1つのグループは10万9784人の女性が対象で、1992年から6年間が調べられた。ノルウェーでマモグラフィー(乳房X線検査)による乳ガン検査が始まったのは1996年からで、これらの女性はほとんどすべてが96~97年にこの検査を受けたという。これに対してもう1つのグループは11万9472人の女性で、1996年から6年間が調べられた。これらの女性はほとんどすべてが定期検査を受けていたという。2つのグループの違いは、前者が6年間に1~2回検査したのに対し、後者はほぼ毎年検査したということだ。
 
 普通に考えれば、この2つのグループの中で6年間で乳癌が発見される比率はほぼ同じであるはすだ。ところが、実際に調べてみると、定期的に乳ガン検査を受けている人の方がそうでない人よりも22%も多くガンが発見されていたのである。具体的にいうと、定期検査を6年間受けていた10万人のうち1909人から進行性の乳ガンが発見されたのに比べ、定期検査を受けなかった人の場合、乳ガンが発見されたのは10万人のうち1564人だったという。この違いがなぜ生まれたかで論争が起こっているのである。
 
 この研究を行った1人のダートマス大学医学校のギルバート・ウェルチ博士(Gilbert Welch)は、「最もありそうな説明は、これらの女性のうちある人は、一度はガンが見つかったが、別の時には見つからなかったということでしょう」と言う。米国立健康研究所(NIH)の疾病予防所所長、バーネット・クレーマー博士(Barnett Kramer)は、「様々なガンの習性について広い知識のある人は、自然治癒があることは知っています。しかし、これほど頻繁だとは衝撃的です」と語る。
 
 自然治癒以外の説明もできるという。その1つは、ガンの定期検査を受けた人は、更年期障害の治療のためにホルモン投与も受けていたと考えた場合だ。が、ホルモン投与がガンの発症に関わる割合は3%以下だという。もう1つ説明は、マモグラフィーの精度が最近向上したためガンを見つけやすくなったとするものだが、ウェルチ博士らの考えでは、そういう事実はないようだ。また、別の説明では、定期検査を受けた人々には、もともとガンに罹りやすい要因があったとするものだが、2つのグループの女性の間にはガンの危険という点で違いはなく、驚くほど似通っているという。さらにもう1つの説明では、マモグラフィーの検査は完璧でないから、1回の検査では発見が漏れるケースがあるとするもの。定期的な検査では、そういう漏れがなくなるから、ガンの発見率も上昇するというのである。しかし、この場合、第1のグループの女性の発症率は、この研究で比較した6年間以降に上昇するはずであるのに、そういう事実はないという。
 
 そんなこんなで論争に決着はついていないのだが、ここから明らかになっているのは、ガンの問題は「早期発見」だけでは解決しないということだ。つまり、機器の精度が向上して早期発見が行われても、発見されたガンのすべてを治療することの“コスト”が正当化されるかということだ。もし、ガンの中に自然治癒が起こるものがもともと相当数あるならば、「様子を見る」だけで治療をしない選択肢の方が、患者にとっては金銭と心理の両面においてコストが小さいと言えるだろう。問題は、現在の医学では“治るガン”と“治らないガン”の区別がまだできないということだ。
 
 谷口 雅宣

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2008年11月21日

良心的な人は長寿?

「憎まれっ子世にはばかる」という諺があるが、人に憎まれるような人間が、世間ではかえって幅をきかすという意味で、これは「悪者は長生きする」という意味にも解釈できる。英語の諺にある「Ill weeds grow aspace.」(雑草ははびこりやすい)というのと似ている。だから、いわゆる“善い人”や“良心的な人”は長生きしないと考えている人がいるかもしれない。ところが、良心的な人はそうでない人よりも長寿だということが、このほど8900人が関係する調査で明らかになった。10月25日号のイギリスの科学誌『New Scientist』(vol.200 No.2679)が伝えている。

 それによると、カリフォルニア大学リバーサイド校のハワード・フリードマン氏(Howard Friedman)とマーガレット・カーン氏(Margaret Kern)は、既発表の20の研究データの中の8900人の良心的な傾向とそれらの人々の死んだ年齢の関係を調査した。すると、どんな年齢層でも、良心的傾向が弱い人は強い人よりも、50%死ぬ確率が高いことが分かった。この違いの大きさは、寿命に影響があるとされる「社会的地位」と「知性」によっても説明しきれない幅だという。両氏は、さらにこのデータの内訳を細かく調べたところ、「社会的に成功した人」が長生きする確率が最も高いことが分かった。これらの人々は、社会的に尊敬され、自分の時間とエネルギーを社会のために注ぎ込み、同僚や隣人とよく協力し、信頼されているような人々だという。こういう人たちの生活は、より安定していて、ストレスが少ないというのが、長寿の原因の1つらしい。

 考えてみれば当り前のことかもしれないが、「社会的な成功」を早く得ようとして不正や不義を働く人が結構いるところを見ると、「社会的成功」は人生の目的ではなく、良心的生活を実践したことの結果であり、それに随伴して「長寿」というもう一つのご褒美もやってくる--こう考えればいいのである。つまり、「憎まれっ子世にはばかる」という諺は短期的には真理のように見えても、長期的には成立しないのだ。そう言えば、福岡県の米菓会社の和菓子に殺虫剤を混入した人は、良心の呵責に耐えかねて自殺したという。新聞報道によると「40代の男性社員」ということだ。和菓子に殺虫剤を入れてから良心を発動させるのではなく、入れる前に良心の囁きを尊重してほしかった。そうすれば、死ぬことはなかったのである。
 
 また、音楽的才能が豊かで若くして大いに富み、社会的成功をおさめた音楽プロデューサーのK氏(49)が、経営において失敗し、詐欺の容疑でつかまった。K氏は取り調べ中に反省し、係官にこう語ったという--
 
「生活が豪奢になり、お金がどんどん入るそばから思うように使っているうちに“裸の王様”になってしまった。誰にも意見をされず、そんな生活を疑問に思いつつ、ずっと続けた」。(『朝日新聞』)

 この反省を今後の生活の指針にし、“内在の神”の囁きである良心をくらますことなく生きていけば、K氏にも再び社会的成功の道は開けるに違いない。
 
 谷口 雅宣

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2008年3月31日

命はどこにある?

 我々人間には「命がある」というほど明確な実感はないのではないか。デカルトの有名な言葉--「我思う、ゆえに我有り」は、「我思う、ゆえに我に命あり」と言い直すことができる。なぜなら、命のない死体は、そこに確かに存在していても、「我思う」という意識をもたないから、「ゆえに我有り」の結論を出せないからだ。言い換えると、自分が存在するかどうかを判断する意識をもたないものは、それ自身「我有り」と結論できない。だから、「我有り」という否定しがたいデカルトの実感は、意識の有無と深く関係している。では、命があっても意識をもたない者の存在は、どうやったら確認できるだろうか。この点、デカルトは必ずしも明確でない。

 生物学では、「自己意識」--自己を他とは異なる独特の存在であると思う意識--をもつものは、人間と高等な哺乳動物の一部だけだと考える。それを証明するために、動物に鏡を見せて、その行動を細かく観察する実験などをしてきた。では、意識が生まれる元である命の有無は、どのようにして「有り」と結論できるのか。例えば、アメフラシの命の有無は、どうやって判断するのだろうか。生物学者は、アメフラシの神経系を研究し、そこに微弱な電流が起こるか起こらないか、あるいは神経伝達物質が流れるか流れないかを測定するのかもしれない。では、神経系をもたない植物や菌類の命は、どのようにして有る無しを判断するのか。私はその答えを知らない。
 
 しかし、植物の種(たね)が古い地層の中から発見され、それを適切な環境に置いて光や熱を与えると、発芽して成長したという話は珍しくない。そういう“太古のハス”の花が咲いたと、新聞やテレビで報道されたこともある。だから、命の有無は、現代の科学技術においても直接測定することはできないと考えるべきだろう。我々が大病院の治療室で目撃する様々な機械装置は、「命そのもの」を測定しているのではなく、「命の働き」で生じた電流や磁気、物質成分の変化を測定していると考えるべきなのだ。「命そのもの」はそこにあっても、それが動いて作用を生じる場合とそうでない場合があると考えると、古代エジプト人がミイラを保存することにも、キリスト教で土葬を行うことにも、それなりの合理性があるといえる。が、現代の科学ではこれを一般に不合理だと考えている。

 そんなところへ、植物だけでなく、動物も一種の“ミイラ状態”から甦ることを示した研究成果が報告された。アフリカに棲む「ネムリユスリカ」という蚊に似た昆虫の幼虫は、完全に干からびた状態で10年以上たった後にも甦る例があるという。3月25日の『日本経済新聞』が夕刊で伝えている。それによると、この幼虫が乾期の間に完全に干からびても、雨期になると生き返ることは以前から知られていて、その仕組みをこのほど、東京工業大学と農業生物資源研究所のグループが解明したという。その仕組みとは、体中に行き渡らせた糖類をガラスのように固めることで、体の組織を保護するらしい。この研究を参考にすれば、「ヒトの組織を長期間保存したり、乾燥に強い植物を作ったりする」ことが可能になるかもしれない、と記事は書いている。
 
 この例をみても、「命はどこにあるか」という疑問への答えは、科学の力によってもそう簡単に出てこないことが分かる。私たちは今、「命萌え出づる春」を目の前にして、それがどこにあり、どこから来るかをじっくり考えてみるのはどうだろうか? 
 
 聖経に曰く--
 空間の上に投影されたる
 生命の放射せる観念の紋、
 これを称して物質と云う。
 
 谷口 雅宣

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2008年2月 5日

ギョーザ被害はノーシーボ? (2)

 昨日の本欄では、厚生労働省が発表した「中国産冷凍ギョウザ等が原因と疑われる健康被害事例の発生報告数」(2月3日時点)という統計表の数字にもとづき、都道府県別の“健康被害”の数字のバラツキに、何か意味のあるパターンが潜んでいないかを考えた。結果は不成功だったが、その原因がわかった。この統計表の数値の採り方は、かなりいいかげんであることが判明したからだ。もとの数値が精確に把握できていなければ、その数値から統計的に意味のある結論を引き出すことはできない。読者には、私の“ひとり相撲”を観戦させることになり、誠に申し訳なく思う。
 
 わが国のお役所は、実に様々な統計を数多くとっていて、それが容易に入手できるという点では、世界でも珍しい方の部類に属する--という話を、私はアメリカに留学中に聞いていたので、役所の数字を過信していたきらいがある。今回の統計でマズイ部分は、厚労省の側がとても抽象的な表現のカテゴリーを作り、そのカテゴリーに当てはまる数値を、傘下にある全国の各保健所に報告させるという方式をとったことだ。もっと具体的に言うと、抽象的なカテゴリーとは、「当該製品等による健康被害が疑われる事例」と「当該製品等による健康被害が明らかでない事例」の2つである。この2つの言葉には、意味の違いはほとんどない。また、「当該製品等」という表現の解釈の幅は、とても広い。この中に、新聞に名前が出ている中国の会社の製品をすべて含むのか、それともギョーザだけを意味するのか、また「等」という言葉には、ロールキャベツは含むのか、あるいは日本製のギョーザも含むのか、含まないのか、……などの解釈は、もっぱら個々の保健所の判断に委ねた、というのが厚労省の担当者の答えだった。
 
 例えば、上述の表にある「当該製品等による健康被害が明らかでない事例」の中では、静岡県の事例が「132」と他より抜きん出て多い。その理由を同県厚生部食品衛生室に訊くと、この中には実際には健康被害がなくても、ギョーザを食べたので不安だという程度の「健康相談」も含めてしまったという。また、茨城県は同じカテゴリーの数字が「0」になっているが、これは兵庫県と千葉県で問題となった特定の製品だけを対象にして、健康被害が疑われる数字を集計した、というのが同県保健福祉部生活衛生課の答えだった。
 
 そんなこんなで、全国の自治体の保健担当部門はまだ混乱している。厚労省もそういう問題を自覚して、2月4日15時現在の集計では、同じ表の項目名をより厳密な表現に変更した。新しい集計では、上に書いた「当該製品等……」という表現は消え、代わりに「有機リン中毒が疑われ、現在調査を行っている事例数」と「有機リン中毒が否定された事例数」の2つになっている。そして、静岡県の欄では後者の事例数が「132」から「15」に減り、茨城県では「0」が「45」に増えている。また、ギョーザの消費量が多い栃木県は、「29」から「41」に増加している。
 
 私も、現時点での混乱した数字をもとに何か意味のあることを言おうとはしまい。
 
 谷口 雅宣

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2008年2月 4日

ギョーザ被害はノーシーボ?

 中国で作られたギョーザをめぐる中毒事件が複雑な展開を見せているが、4日付の『産経新聞』に興味ある表が載った。3日午後3時までに厚労省がまとめた「健康被害の発生報告数」という都道府県別の数表である。この表は、厚生労働省のウェブサイトにも掲載されている。それを解説した『産経』記事には、「集計した健康被害の相談件数は46都道府県2117人(被害が確定した10人を含む)に上った」が、この10人以外には問題の殺虫剤「メタミドホス」の中毒が疑われるケースは出ていない、とある。これを読むと、実際の中毒は10人でも、「自分も中毒ではないか」と心配して保健所などに相談した人は、その「200倍」以上の数に及んだ、と解釈できる。多くの日本人がこの件で神経質になっていることがうかがえ、記事も「食べ物による体調不良について、多くの人が敏感になっているようだ」との厚労省の見方を紹介している。
 
 この「200倍」の反応をした人の中には、実際に医療機関を訪れ、医師の診断を受けて入院した人が9人、入院しなかった人が379人いたほか、保健所に相談したが医療機関で受診しなかった人が844人、そして、「その他」の分類の中に875人が含まれる。この「その他」の欄は、厚労省の数表では「当該製品等による健康被害が明らかでない事例」という項目になっている。新聞記事では、そこには「日本産ギョーザを食べて体調を崩した」とか「何を食べたか分からないが、1カ月ほど前に体調不良になった」などという、今回の事件とは「関連性がないと判断された事例」もあるという。これは一種の“パニック反応”のようにも思えるし、また、この期間にギョーザを食べた人が、殺虫剤の成分が含まれていなかったにもかかわらず、実際に病気になったケースがある可能性も否定できない。つまり、一部には「ノーシーボ効果」(nocebo effect)と呼ばれるものに該当する反応が起こったのではないか、と私は推測する。
 
 「ノーシーボ効果」については拙著『心でつくる世界』(1997年)にも書いたが、「医学的な要因によらず、信念や恐怖などの心理的原因で病人の症状が悪化したり、時には死に至るような現象」(p.250)のことである。この逆の反応である「プラシーボ効果(placebo effect)」--医学的要因によらず、信念などで病気が快方に向かったり、治ってしまうこと--は有名だから、多くの読者はご存じだろう。では、実際にどれだけの人がノーシーボ効果で病気になったのだろうか? これを推定することは難しいし多分、正確な推定は不可能だ。しかし、あえて推定してみることはできないか?
 
 そこで私が思いついたのは、各都道府県の人口と、今回の“健康被害”の報告数との関係である。上述の数表を見ると、健康被害は福井県を除くほぼすべての都道府県で報告されている。また、今回の事件はマスメディアが集中的に報道しているから、ほぼすべての日本人が知り、関心をもっていると考えられる。このような状況下でノーシーボ効果が起こる場合、それは人口の多いところは多く、少ないところは少ないと考えていいだろう。もちろん、この関係が成立するためには、「ギョーザを食べる」人が日本全国に平均して散らばっていることと、問題があるとされる銘柄のギョーザが、日本全国に平均して売られていたという前提が必要だ。が、これを調べることは今できない。そこで、これらの前提条件が満たされていると仮定したうえで、健康被害の報告数を人口の多寡との関係で眺めてみた。すると、「人口が少ないのに報告数が多い」ところや「人口が多いのに報告数が少ない」ところなどが分かった。一例を示してみると……

[人口に比べて被害が多い県]
 青森県3.68%(1.14)、群馬県3.02%(1.59)、千葉県6.19%(4.77)、静岡県7.89%(2.97)、滋賀県2.93%(1.1)、奈良県4.11%(1.12)、大分県3.12%(0.96)、沖縄県4.06%(1.09)
 
[人口に比べて被害が少ない県]
 埼玉県0.90%(5.54)、東京都5.34%(9.73)、神奈川県4.30%(6.88)、長野県0.52%(1.72)、長崎県0.28%(1.17)、
 
 上の数字の説明をすると、例えば、青森県には日本の人口の「1.14%」が居住しているが、今回の被害の報告は、全体の報告数の「3.68%」と比較的多く報告されている、ということだ。また、埼玉県には日本全体の5.54%の人が住んでいるが、今回の被害報告のうち同県からの報告は、全体のわずか0.90%だった、ということである。今回の事件で、殺虫剤「メタミドホス」が原因だと確定されたのは、千葉市稲毛区の家族2人、千葉県市川市の家族5人、兵庫県高砂市の家族3人だ。だから、千葉県が「人口に比べて被害が多い県」の中に入っているのは不思議でない。しかし、被害の割合(6.19%)と人口の割合(4.77%)のズレは、青森その他の7県よりも「少ない」ことに気がついてほしい。ということは、今回の健康被害の報告数を「ノーシーボ効果」だけで説明することはできないことになる。
 
 では、ほかにどんな要素が加わってこのようなバラツキが生まれたのだろうか? まず思いつくことは、ギョーザの消費量に地域的な偏りがある可能性だ。これは、ある程度統計的に分かっている。総務省統計局の「家計調査から見た品目別支出金額及び購入数量の県別ランキング」を見ると、ギョーザについて、一世帯当たりの年間の支出金額(平成16~18年平均)が主な県庁所在地別に載っている。これによると、ベスト10は、①宇都宮市(4886円)、②京都市(2855円)、③宮崎市(2737円)、④静岡市(2693円)、⑤さいたま市(2557円)、⑥東京区部(2544円)、⑦新潟市(2520円)、⑧大津市(2503円)、⑨金沢市(2471円)、⑨大阪市(2471円)である。宇都宮市がダントツだが、全国平均は2295円だから、それ以下はドングリの背比べだ。上掲の[人口に比べて被害が多い県]の中には、④と⑧を含む県があるものの、[被害が少ない県]の中にも、⑤⑥を含む県がある。また、栃木県が[多い県]の中に含まれず、青森県や沖縄県で被害が比較的多く出ていることの説明が、これではできない。
 
 ということで結局、今回の中国製ギョーザの日本における被害報告件数のバラツキの原因は、よく分からない。歯切れの悪い報告になってしまったが、賢明な読者の頭に何かヒラメキがあれば、ぜひご教示願いたい。
 
 谷口 雅宣

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2007年11月 4日

肉体は“炎”である

 今日、伊勢崎市で行われた生長の家講習会には、群馬県内を中心に約千四百人の受講者が参集し、熱心に講話を聴いてくださった。その午前中の講話で、私は人間の肉体をロウソクの「炎」に喩えて「肉体はナイ」という生長の家の考え方を説明した。ところが昼休みの時間に、妻がこの話は「結構難解でした」と言った。考えてみれば、確かにこの話は「耳から聴く」だけの講話形式によるよりも、読み直しが可能な「文章による論理的説明」に向いていたかもしれない。そう反省して、この場で“難解”な部分の説明を補足してみたい。

Flamee  まず、ロウソクの「炎」について考えてみよう。「炎」とは、燃焼が起こっている空間に生じる現象である。もっと詳しく言えば、ロウソクの成分であるパラフィン等が熱によって気化し、それが空気中の酸素と結びつく酸化反応を起こしている状態にあるとき、その一部が人間の目に「光」として映ったものをこう呼ぶのである。三省堂の『大辞林』は、これを次のように定義している:
 
「気体、または液体や固体からの蒸気が燃焼し高温となって光を発している部分。ろうそくの炎などのように酸素の供給が外側の空気からの拡散による場合は、酸素が十分で酸化性である外炎(酸化炎)と、不十分で還元性の内炎(還元炎)に分けられる」

 ここでの第1のポイントは、「炎」という物質の塊が存在するのではないということだ。人間が目で見たときに、ある温度以上に達した空間の化学反応が、それ以下の温度の空間と区別されて「光」として認識されるのである。「炎」というものが存在するのではなく、人間の目が一定の高温状態の空気の領域を、他の領域と区別して「光」として捉えた部分の呼称である。だから、ここでの第2のポイントは、(当たり前のことだが)「人間の視覚」が介在して初めて「炎」があるということである。

 さらに第3のポイントを挙げると、「炎」とは一種の「流れ」であるということだ。それは川の流れのように、1つのものが現れたらたちまち流れ去り、次の瞬間には別のものが現れ、それがすぐに流れ去り……というように、一定の物質が一定の場所を占めてそこに「在る」のではなく、パラフィン等の成分である可燃性の物質の分子が、高速で酸化反応を起こしながら常住流転しているものの通り道が、人間の目で見ると一つの“塊”のように見えるのを、「炎」と呼ぶのである。それは、「川」という物質が存在するのではなく、一定の量以上の水の流れを、人間が「川」と呼ぶのと同じことである。

 このことが、「肉体はナイ」ということと、どう関係するのか? それは、人間の肉体は本質的に「川」と同じであるから、川が存在しないならば、肉体は存在しないと言えるからである。この理由の詳細を述べよう。
 
 まず言えることは、肉体は物質であるから、分子の集合体であるということだ。分子はもちろん、原子と電子からなるし、それらは素粒子から構成されている。肉体を構成する物質分子は、常に入れ替わっている。このことを、生理学では「新陳代謝」と呼ぶ。この新陳代謝によって、肉体の物質分子が入れ替わる速度は普通、私たちが考えるよりもはるかに速い。ある医学者は、その様子を次のように描いている:
 
「体を本当の姿で見ることができたとしたら、同じものは2度と見られないでしょう。体内の原子の98パーセントが1年前にはなかったものです。ひじょうに堅固なように見える骨格も3カ月前のものとは違います。骨細胞の外形は変わりませんが、あらゆる原子が細胞壁を自由に行き来しており、それによって骨格は3カ月ごとに更新されるのです。(中略)皮膚は1カ月ごとに、胃の内層は4日ごとに、食物とじかに接する胃の表面は5分ごとに新しくなっています。肝臓の細胞はひじょうにゆっくりと更新されますが、細胞の中では川を流れる水のように新しい原子がどんどん流れているので、肝臓は6週間ごとに新しいものに作り替えられています。脳細胞は一度死ぬと補填されることはありませんが、そんな脳でさえ、含まれている炭素や窒素、酸素等は1年前のものとまったく違っているのです」(ディーパック・チョプラ著『クォンタム・ヒーリング--心身医学の最前線を探る』、p.60)

 私たちの肉体の新陳代謝がこのように行われ、さらに物質だけが存在するとするならば、肉体は存在するのではなく、川のようにそこに見えている(現れている)だけの“仮の存在”である。川は水の流れの一つの「呼称」にすぎないのであり、「川」という実体はない。それと同じように、肉体は物質分子の流れの一つの「呼称」にすぎないのであって、「肉体」という実体はない。すなわち「肉体はナイ」のである。
 

 谷口 雅宣

【参考文献】
○ディーパック・チョプラ著/上野圭一監訳、秘田凉子訳『クォンタム・ヒーリング--心身医学の最前線を探る』(春秋社、1990年)

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