2011年4月 1日

「歓喜への道」(2)

 だから、今回の大震災や大津波によってどんな死に方をされた人でも、その実相は完全無欠の神性・仏性であるから、皆尊いというのが真理である。何の前触れもなく、つい数分前まで元気で働いていた人が、いきなり地震で潰され、あるいは津波に巻き込まれて海中に消えていっても、その人の実相が神の子であり、仏であり、円満完全であるということに変わりはない。ただ、最愛の夫や子、家族の肉体が目の前から突然消え、もう会えなくなったために悲しみに打ちひしがれている人がいるのだから、その人に善意から同情し、あるいは感情移入して一緒に涙を流すことは間違っていないし、そうすべきである。が、それだけでは、「人間は皆、神の子であり生き通しである」という信仰をもっているとは言えないのである。
 
「しかし、こんなに悲惨な状態の現実を無視して“神の子はすばらしい”だけではオカシイ!」と感じる人も多いだろう。妻のブログへのコメントでも、そういう不満の表明があった。私のブログの記述についても、「被災地で困難に遭っている人々、救出活動をしている人々が大勢いるのに、ジョギングするなどオカシイ」という人がいた。さらにこの読者は、「たとえジョギングしても、それをブログに書くべきではない」という。そして、宗教指導者は「冷静に成り行きを見守って、祈っているときではないでしょうか」とおっしゃるのである。私はその通りのことをしているが、ブログにはいちいち「今日も神想観をした」などと書かないだけだ。なぜ書かないのか、理由もある。次の聖書の言葉を、この読者は知らないのだろう--

「また祈る時には、偽善者たちのようにするな。彼らは人に見せようとして、会堂や大通りのつじに立って祈ることを好む。よく言っておくが、彼らはその報いを受けてしまっている。」(『マタイによる福音書』第6章5節)

 ブログは、現代の路地や四つ辻のようなものである。誰でもそこに来て、読み、眺め、そしてコメントすることができる。また、「この悲惨な現実」「この人々の苦しみ」などと現象の不完全さを強調する人は、「今あなたがたが“見える”と言い張るところに、あなたがたの罪がある」(『ヨハネによる福音書』第9章41節)という言葉も知らないのだろう。しかし、初心の人はそれでいい。このブログは、誰でも読めるからだ。

 さて、上に書いたヨハネ伝の言葉は、実は清超先生の一文にも引用されている。先生の場合、文語体の聖書からの引用だから、もっと威厳がある--「然(さ)れど見ゆと言う汝らの罪は遺れり」である。「あそこに遺体がある」「ここに家屋の破壊がある」「被災者があふれている」「職場が破壊されている」……これらは、本当に正しい情報だろうか。それとも、実相を覆い隠している外見にすぎないのか。悪を探し求めるマスメディアの“伝言ゲーム”に惑わされているのではないのか。
 
 清超大聖師は、さらにこう説かれる--
 
「一体人間は何のためにこの地に生をうけたのか。仕事をして、金を儲け、事業を発展させ、家庭を安穏に送るためと思うかもしれないが、それならば仏教はこの点について当を得ない教えをして来たことになる。キリスト教も“いかにして事業を発展させるか”を説いているのではなく、明確にイエスは、“まず神の国と神の義を求めよ、然(さ)らば凡てこれらの物は汝らに加えらるべし。この故に明日のことを思い煩うな明日は明日みずから思い煩わん。一日の苦労は一日にて足れり”(マタイ伝6ノ33~34)と教えておられるのである。
“これらの物”とは、何を食い、何を飲むか、如何に着るか、住むか……ということであり、子供の学校をどこにしようかというようなことも、現代社会では含まれると考えて間違いない。全て、現象的なオカゲや地位や事業よりも、神の国と神の義を求め行うことが第一だという主旨である」。(p.14)

 これはなかなか厳しい教えであるが、宗教運動とはそもそも物質的繁栄を目指すものではなく、神意の実現や仏国土の現成が目的なのだ。このことを、先生は「生長の家の光明化運動の根本精神は、出家の精神である」(p.15)と表現されている。それなのに、「水ぶくれの人間や、物ぶくれ、欲望ぶくれの人間がふえてきて、大道を求め行ずるために“乞食(こつじき)”をなす行脚僧が、めっきり減った次第である」(p.17)と嘆かれている。当時の状況と現在の日本との間に、それほど違いはない。だから、次の先生の結論は、今日の状況を見事に示しているのである--
 
「今や日本は金儲けや繁栄を追い求めるか、それとも神の国と神の義を第一に置くところの“真理国家”に“出家する”かの岐路に立っていると言える」。
 
 谷口 雅宣

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2011年3月31日

「歓喜への道」

 谷口清超大聖師のご著書に『歓喜への道--21世紀のために』というのがある。平成4年(1992)4月の出版だが、冒頭に掲げられた同名の一文は平成元(1989)年5月号の機関誌に掲載されたものだ。月刊誌はたいてい、5月号は4月に、6月号は5月に発行されるし、原稿を受け取ってから出版までは約2カ月を要する。ということは、このご文章は、時代が昭和から平成に変わってまもなくの頃、清超先生が書かれた一文と考えられる。それを読ませていただくと、「平成」という新時代に向けて信仰者として何を第一にして進むべきかという重要な指針が力強く説かれていて、感動するのである。私たちは今、未曾有の大地震と大津波、原発事故の被害を身の回りに感じ、まるで“世界の終末”の中にあるような印象をもっているかもしれない。しかし、これで戦後日本の“一時代”が終わるとしても、これから私たちが築き上げる新時代が必ず来ることを疑ってはいけないし、この新時代にこそ、神の御心がより顕著に輝き出た“新生日本”を建設しなければならないと思う。ついては、この清超先生の一文からいくつか学ぶことにしよう。
 
 清超先生はまず最初に「正しい情報が大切」だと説かれている。このことは、今回の災害と原発事故に関しても、私たちはいやというほど感じたことではないだろうか。災害の規模がどれほどか。家族や親戚の安否はどうなっているか。津波の大きさを事前に予測できたのか。原発の危険度を知っていたのか。放射線の体への影響を知っているのか。原発事故の現状は、どれほどの地域に、人に、自然界に危険を及ぼすのか。復旧のコストは、期間は、必要な人員は……。これらの情報が正しく入手できないことに、私たちは困惑してきたのである。だから、「正しい情報が大切」であることは、十分に感じているだろう。現代は情報氾濫の時代だから、「情報を得る」ことは簡単にできる。しかし、ニセ情報も巷にあふれているから、「正しい情報」が何であるかの判断は、情報量が膨大なゆえに一層困難になっている。
 
 そこで先生は、こう説かれている--
 
「そこで情報は金銭で取引きされるとは言っても、その“正確度”が問題であり、もしニセ情報であれば、そのために大きな被害を受けるし、そのマイナスの価値は、はかり知ることが出来ないくらい大きいのである。」(p.6)

「原子力は安全なエネルギーである」という情報を信じてきた多くの人々が、海外の人々も含め、今その“マイナスの価値”を肌身に感じ、震え上がっているに違いない。また情報は、「発信人」と「受け手」が直接授受するだけでなく、両者の間に多くの「中継者」が関与してくることが多い。そして、中継者が多ければ多いほど、情報の中身がゆがめられる可能性が大きくなる。いわゆる“伝言ゲーム”のように、発信人の情報とはまったく異なる内容のものが、“真実”とか“事実”とされる危険度が増してくるのである。このことを先生は、次のように書かれているーー

「しかし発信人の真理をそのまま伝えるということは中々難しく、人は往々にして善意の過ちをおかすものである。」(p.9)

 先生がここで「善意の過ち」と書かれているのは、イエスが人間を“罪の子”と説かなかったのに、「神の子」の自覚に満ちたイエスを尊敬するあまり、弟子たちがへりくだって自分と一般人とを“罪の子”と見なしたことを指している。その気持の中には「教えを曲げよう」とするような悪い意図はないから、善意からの過ちだったと説かれているのである。だから、情報の正確な伝達を期す場合は、善意や同情や感情移入があれば、多少の間違いは許されると考えるのは問題である。ましてや、善意や同情や感情移入さえ表明すれば、宗教上の真理を伝えたことになると考えるのは誤りだ。
 
 では、宗教上の真理とは何か? 先生曰く--「要するに現象の肉体は不完全であり、それは仮相であって、実相は全ての人々が完全無欠の神性・仏性である。この真理を自覚し、伝え、行ぜられるからこそ尊いのである」。(p.10)これを、今回の大災害と大事故に関連させて言い直せば、「これらの惨状や死や深刻な被害は仮相であって、実相は全ての人々が完全無欠の神性・仏性である」ということだ。確かに今、テレビやインターネット、新聞・雑誌では、連日のように人々の不幸や災難や、悲しみや、苦痛、嘘、偽装、経済停滞などが報じられている。しかし、それらを見つめて悲しみを深めていくことが、宗教上の真理を伝えることだと考えるのは誤りだ。先生は再び曰く--「これでは実在の真理そのものがどこかに追いやられ、現象の正確さのみがいたずらに一人歩きする結果になるであろう。しかし生長の家では、現象は実在にあらずと否定するのだ。ある人がどんな生涯を歩んだにしても、そこに完全無欠を求めるのは、現象そのものに実相を求めていることになる。」(p.11)

 谷口 雅宣

 

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2011年3月 1日

日時計主義をさらに広げよう

 今日は午前10時から、東京・原宿の生長の家本部会館ホールにおいて「立教82年生長の家春季記念日・生長の家総裁法燈継承記念式典」が行われた。最高気温が10℃に満たない寒い日だったが、近県の幹部信徒だけでなく、全国から本部褒賞受賞者の皆さんが大勢集まってくださったため、ホールはほぼ満席となり、熱気が溢れた式典となった。私は、受賞者への褒賞授与のほか大略、次のような内容のスピーチをした:
 
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 皆さん、今日は生長の家の立教記念式典に大勢お集まりくださり、ありがとうございます。
 よくご存じのように、今日の立教記念日は、昭和5年、生長の家創始者、谷口雅春先生と谷口輝子先生が月刊誌『生長の家』の創刊号を発行された、その日付から、私たちの運動の出発点として定められた日であります。厳密に言えば、『生長の家』誌創刊号ができ上がったのは前年の暮れなのですが、その記念すべき雑誌の奥付に「昭和5年3月1日」と印刷された。この先生のご意思を尊重して、今日の日を立教記念日としているわけです。
 
 さて、この創刊号については、これまでの立教記念日でたびたびお話ししてきました。特に、この雑誌において初めて「日時計主義」という言葉が使われたことを申し上げて、現在の私たちの運動が立教の精神に根ざしていることを強調してきました。この「日時計主義」を実際生活に表していく方法や手段も、現在では立教当時よりもはるかに充実してきています。例えば、『日時計日記』は平成19年以来、毎年発行されていますし、最近では、これをインターネット上で実践する「ポスティングジョイ」というサイトも充実してきました。先月の25日時点では、登録者数は 2,754人(日2,189, ポ516, 英49)となっています。さらに、日時計主義の精神を運動において展開するために「技能と芸術的感覚をいかした誌友会」という新しいタイプの誌友会も、全国各地で盛んになってきました。そして、その誌友会で制作された絵手紙や絵封筒が、毎月の普及誌や機関誌に掲載されたり、毎年開かれる生長の家の美術展「生光展」に数多く出品されるようになりました。
 
 私もこの日時計主義の拡大運動に貢献したいと考え、『日時計主義とは何か?』『太陽はいつも輝いている』という2冊の本、さらに『自然と芸術について』という小冊子を上梓させていただきました。また、ポスティングジョイのメンバーとなり、講習会の旅先から絵封筒を送ったり、そういう絵を卓上カレンダーの形で皆さんに利用していただいています。さらに、私のブログ上で時々、創作を発表したりしてきました。その創作だけを集めた本が、今日の日に合わせて生長の家から出版されましたので、ここで少し紹介させていただきたいと思います。
 
 この本は、『こんなところに……』という題の短編小説集です。短編小説集としては、『神を演じる人々』(2003年発行)に次いで2冊目です。前作の短編集は、倫理や宗教をともなわない科学技術の“独走”の危険を訴えたものです。そういう主題のものばかりを集めました。この2冊目の短編集は、とてもバラエティーに富んでいます。普通の短編小説もあれば、いわゆる「ショートショート」と呼ばれる数ページほどの短編もあります。また、戯曲に属するような会話だけの短編もあり、童話風の作品もあります。このように表現形式は多様ですが、私がここでやっているのは、「フィクションによって、生長の家の教えをどれだけ伝えられるか」という実験です。ここに収録されたすべての作品が皆、生長の家の教えを扱っているわけではありませんが、そういう作品が多いということです。
 
 中でも、「善と悪」の問題を取り扱っているものが多いと言えます。この問題は、哲学や宗教上の重大なテーマですが、それを論文形式で表現すると、きっと難しくて読んでくれる人はあまりいない。そこで、誰でも読めるような創作にすることによって、生長の家で「悪はない」と言っていることが、より多くの読者に理解されればいい、と考えたわけです。この善と悪との問題は、日時計主義とも密接に関係しています。日時計主義とは、人生の光明面を見て、それを本物だと捉え、悪は本来ないと考えるものの見方であり、生き方です。もし、悪が本当に存在するのであれば、それを無視して生きることは“人生逃避”の弱虫の生き方です。が、悪というものは一見、存在するように見えても、それは自分や社会の心の産物だと分かれば、そういう心や、ものの見方を変えることで悪は消える。これは人生逃避ではなく、“人生創造”の積極的な生き方になります。こういう生き方を、理論で理解するのではなく、小説を読者として体験することで理解してもらいたい、そんな願いを込めて書いた話がいくつもあります。

 そういう作品の中で、本では2番目にある『手紙』という短編について、少しお話ししましょう。
 これは、作家の阿刀田高(あとうだ・たかし)さんの『あの人をころして』という作品に触発されて書いたものです。この作品は、人間心理の深いところにある仕組みを見事に表現した優れた短編です。しかし、このタイトルから分かるように、「人を殺す」という暗い主題を扱っています。この作品では、夫婦と子供1人の普通の家族のところへ、差出人の分からない手紙が毎週届くようになり、そこには千円札1枚と「あの人をころしてください」と書いた便せんが入っているだけなのです。これが一家の主人宛に毎週届く。最初は無視していた主人も、しだいに無視できなくなり、妙な行動をするようになっていく……という話です。結末は言いませんが、日時計主義ではない。そこで私は、これと逆のことを『手紙』という作品の中でやっています。毎週、差出人不明の手紙が来るところは同じですが、そこに書いてあるのは「あの人をころして」ではなく「あの人を生かしてください」なのです。物語の結末も、阿刀田さんの作品とはずいぶん違います。詳しくは申し上げられませんが、本当はこの2つの作品を読み比べていただくと、日時計主義の意味と良さがよく分かるのです。
 
 私は、阿刀田さんや阿刀田さんの作品を批判しているのではありません。ものの見方を変えることによって人生は実際に変わっていくという「唯心所現」の事実を、阿刀田さんの作品も強力に訴えています。が、その方向が、どちらかというと人生の暗部に向かっている。私は、同じ方法で、人生を明るい方向に転換することができるということを描きたかった。まあ、こんな感じで、論理ではなく、描写によって日時計主義を感じさせようという作品が、この本の中にはいくつもあります。だから、生長の家を知らない人たちにもお勧めしていただけば、光明化運動の発展に寄与できるのではないかと期待するわけです。
 
 まあ、そんなことで、皆さんもそれぞれの得意な分野、好きな分野で工夫をされ、また互いに協力し合って、大いに日時計主義を表現し、光明生活を実践してください。これが、生長の家の立教の精神のさらなる展開であり、谷口雅春先生へのご恩返しにもなるのであります。それでは、これをもって立教記念日の所感といたします。
 ご清聴、ありがとうございました。
 
 谷口 雅宣
 

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2011年2月16日

短編小説集『こんなところに……』について

Konnatokoro  私は本欄などで時々、短い創作物を発表してきたが、それらを集めた単行本『こんなところに……』(=写真)が3月の立教記念日に際して生長の家から発刊される。私の短編小説集としては、『神を演じる人々』(2003年発行)についで2冊目となる。全体が4部に分かれていて、収録作品は25編ある。『神を演じる人々』は、科学技術と生命倫理の問題をテーマにしぼった作品17編からなるが、今度の短編集は、「多様なテーマと形式」が特徴と言っていいだろう。普通の短編小説もあれば、ショートショートと呼ばれる極短編作品、名作のパロディー、童話……などだ。4部構成はそれぞれ、第1部「こんなところに……」、第2部「ショートショートでひと休み」、第3部「対話編」、第4部「最後は童話風に……」という題名で、これらの題名を読めば中身が推測できるはずだ。
 
 本全体と第1部の題名が共通して「こんなところに……」となっているが、これは本書の冒頭に収めた短編作品の題名でもある。奇妙な題名をつけた理由は、その作品を読んでもらえば分かるが、それとは別に、本書全体のタイトルにもこれを使った理由がある。それは、私がこれらの短編作品の発想するときの気持を表しているからだ。発想は、予期せずに、思いがけない所で浮かんでくる。いや、「降りてくる」と言ってもいいかもしれない。例えばこの冒頭の作品の発想は、私の仕事場である生長の家本部会館に隣接した東郷神社の境内で得た。いきなり1巻のストーリーが降りたのではなく、記憶に残るいくつもの別々の映画のシーンが、それぞれ断片的で無関係であったものが、いきなり1つの物語にまとまる--そんな感じである。ごく普通の日常生活の場面にドラマが隠れている。それを見つけたときの「こんなところに!」という驚きを表現したかった。
 
 そういう意味で、本書に収録された作品の多くには、私の日常生活の場面や体験が適度にブレンドされている。幼いころや若いころの体験、妻とのやりとりが変形して織り込まれているものもある。また、9・11の同時多発テロなど、世界的大事件の衝撃をどう受け止めるか苦悶しながら書いた作品もある。人生に起こる出来事には、宗教の教義から説明しようとすると「紋切り型」で、「味気」がなかったり、「冷たい」分析になったりで、共感力や説得力が失われるものが少なくない。そんな場合、主人公への感情移入を必要とする小説や戯曲のような表現形式の方が、より深い共感をよぶことがある。本書に収められた作品が、そういう効果を生んでくれれば、作者として喜びこれに勝るものはない。
 
 谷口 雅宣
 
 

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2010年12月11日

電子書籍サービス始まる

 今朝の新聞各紙は、ソニーとシャープによる電子書籍端末の売り出しと、両社の電子書籍配信サービスの開始について大きく報じている。電子書籍については、本欄ではすでに何回か書いているが(例えば11月26日)、今回の記事を読むと、両者のサービスの違いが明確になってきたのが興味深い。

 シャープのサービスは、アメリカで先行する Amazon.com の方式をほとんどそのまま踏襲しているようだ。「ガラパゴス」という名前の多機能端末側に通信機能をつけ、パソコンの助けを借りないで電子書籍をその場でダウンロードできるのが特徴だ。また、端末機の販売も Amazon.com に倣い、注文方式である。具体的には、コンビニ各社と提携して注文を受け付ける。これによって、氏名や住所などのユーザー情報を確実に入手して“囲い込み”が行える。 Amazon.com の場合は、コンビニを使うのではなく、端末の注文をネット経由に限定してきた。私が Amazon.com の「キンドル」を注文した際には、自分の手元に端末が届くころには、ネット上に私の名前等がすでに登録されていた。顧客をつかむ確実な方法だと思う。

 端末機の種類は、画面サイズ5.5インチのものが3万9800円で、10.8インチのものが5万4800円。これは、キンドルより高額である。ただし、キンドルはモノクロ画面だが、こちらはカラー液晶であるし、電子書籍閲覧以外の機能もあるから、単純な比較はできない。電子書籍の配信は、ツタヤと組んで「TSUTAYA GALAPAGOS」というサービスを始めるそうだが、ネットを検索しても、今のところそれに該当するサイトに出会えなかった。

 これに対してソニーの「リーダー」は、より開放的で、自由度が大きい。シャープ機との大きな違いは通信機能を省いている点。電子書籍はPCによってソニーのサイトからダウンロードし、そこから端末側に自分で転送する。機種はシャープと同じように2種をそろえているが、それぞれ文庫本サイズの「ポケット」(約2万円)と、それより大きい「タッチ」(約2万5千円)と、シャープ機の半額である。端末機の販売方式は、通常の家電量販店などの店頭販売だから、買いやすいことは確かだ。ただし、取扱店舗数は今のところ約300点だから、約2万4千店のコンビニで注文ができるシャープ機とどちらが有利か、判断はむずかしい。

 問題は、両社の端末で使える電子書籍の互換性だが、これについてはまだよく分からない。ユーザーとしては、かつてのビデオ・カセットテープの二の舞にならないように祈りたい。

 ところで、10日付の『インターナショナル・ヘラルド・トリビューン』紙に、アメリカの電子書籍のジャンルでは恋愛小説が予想外に売れているという記事が載っていた。それを買うのは、31歳から49歳で恋愛中の女性が多いというのである。この記事は、電子版の恋愛小説がなぜ売れるかを分析していて、その理由が面白い。紙の本であれば、恋愛小説はカバーもタイトルも派手で、どこへでも持って行って読むには抵抗がある。デートには持って行けない。しかし、電子書籍であれば、その人がどんな本を読んでいるのかは他人には分からない。つまり、電子書籍は“本のカバー”の役割をしてくれるし、しかも何冊も持ち歩ける。そんな点が受けているようだ。

 こういう話を聞くと、宗教書も電子版で売れる可能性が十分あるのではないかと思う。大っぴらに持ち歩きにくいうえ、聖書も仏典も大部だ。『生命の實相』も40巻ある。読者はどうお考えか?

 谷口 雅宣

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2010年11月26日

来年は“電子書籍元年”

 いよいよ日本語用の電子書籍端末が発売される。ソニーが25日、欧米などで販売していた携帯端末「リーダー」の日本語版を12月10日に販売開始すると発表しただけでなく、NECビッグローブも小型タブレット端末を12月6日発売すると発表したからだ。すでにアップル社の iPad や iPhone 、その他各社の多機能携帯端末でも電子書籍を読むことはできたが、それらで読めるタイトルの種類や数がきわめて限定されていた。しかし、今回の「リーダー」は、ソニーの欧米での電子書籍配信の経験を生かし、電子書籍を取り扱う配信サービス「リーダー・ストア」の開始と同時に発売される。NECビッグローブも、電子書籍を含むソフト配信サービスを同時立ち上げるから、日本語で読める電子書籍の種類と数が一気に増えることになる。この分野で先行していたアマゾン・ドット・コムは、電子書籍端末の「キンドル」をすでに日本語に対応させているから、あとは“中身”の電子書籍の提供をいつ開始するかを決めるだけだ。来年はいよいよ“電子書籍元年”の様相を呈してきた。

 私は9月19日の本欄で、自分が今使っているキンドルのサイズは「縦20cm、横13cm」とし、重さは「275g」と書いた。これは旧型のキンドルだが、新型のキンドルDXを今年2月に買った奈良教区の山中優氏は、サイズを「縦26.5cm、横18cm」、重さ「535g」と教えてくれた。26日付の『日本経済新聞』によると、これに対してソニーのリーダーは、文庫本ほどのサイズで「5型」と「6型」の2種類があり、重さは「155g」と「215g」というから、キンドルより1回り小さい。問題は文字の読みやすさだが、リーダーの文字サイズは6段階に変えられるし、キンドルと同じように「Eインク」によるモノクロ表示だから、多分、問題ないだろう。

 これに対して、NECの小型タブレットは、表示画面のサイズが「7インチ型」で重さが「370g」というから、リーダーより1回り大きく、キンドルよりは小さいと考えていいだろう。さらにケータイから進化した形で「ギャラクシー Tab」という多機能小型端末がNTTドコモから発売されており、シャープも「ガラパゴス」という多機能端末2種を12月に発売すると同時に配信サービスも開始する。こうしてユーザー側の選択肢がふえてきたことで、電子書籍用の端末は一気に普及するかもしれない。
 
 私はすでにキンドルを持っているので、“2台目”の購入には慎重にならざるをえない。ソニーとNECの仕様を比べてみると、両社とも先行するキンドルを強く意識しているのが分かる。つまり、キンドルと似た仕様にならないように注意している。この点、残念といえば残念である。なぜなら、私はキンドルがパソコンを使わずに本を入手できる点を、高く評価しているからだ。リーダーは、この通信機能を省き、パソコンでダウンロードした電子書籍をUSB経由で取り込む方式だ。NECの端末は通信機能付きだが、カラー表示の画面をもち、本のほかゲームやネット検索サービスも提供している。すでにパソコンと iPod touch をもっている私には、不要の仕様だ。価格は、リーダーが2万~2万5千円、NECの端末は4万2800円だ。この値段から考えると、今のところリーダーが私にはいちばん興味あるハードウエアである。
 
 ところで、ハードウエアについて生長の家が今何かを言っても仕方がないが、それに載せるソフト(コンテンツ)については言うべきこと、考えるべきことが多くあると思う。これまでの紙による本や雑誌は、「出版社 → 世界聖典普及協会 → 教化部」または「出版社 → 取次店 → 販売店」というルートで一般信徒の手に渡っていた。電子書籍は、このルートのうち2番目と3番目をまったく必要としないのである。さらには、著者が直接電子書籍を製作する場合は、私が本サイトで電子本を提供しているように、出版社も必要としないことになる。こういう革命的な流通ルートの変化に、生長の家も早急に対応していかなければならない。この対応で重要なのは、本部が“森の中のオフィス”へ移転した後の運動に即した形で行われることだ。本部や日本教文社など、関係各部門の創造力あふれる健闘に期待している。
 
 谷口 雅宣

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2010年9月28日

単行本『“森の中”へ行く』を出版

Morinonaka_pur1  すでに9月1日号の『聖使命』新聞で報じられたが、表題の本が妻と私の共著として出版された。副題は「人と自然の調和のために生長の家が考えたこと」という長いものだが、この書の内容をよく言い表している。240ページの新書判の本だから、手軽に読んでいただけると期待している。中身は、6割が私、3割が妻、残りの1割は資料、という感じだ。この1冊を読むことで、生長の家がなぜ大都会から“森の中”へ行くのかという理由を、信徒はもちろん一般の読者にも理解してほしい、という気持で作られた。が、その決定にいたるすべてを1冊の本に収めることはできないので、「大筋の理解」が得られればありがたいと思う。
 
 6章立ての構成で、第1章は「自然と人間の調和は可能か?」という題のインタビュー記事だ。これは、普及誌『いのちの環』の今年3月号(vol.3)に載ったのと同じもの。続く第2~4章には、妻が普及誌に書いたエッセーと、白鳩会の幹部研修会などでの講話を収めてある。第5章は主として私のブログから採った文章で構成されており、第6章は私の最近の2回の講演を収めてある。1つは、昨秋11月の生長の家の記念式典での挨拶で、もう1つは、今春3月の立教記念式典でのスピーチである。これらすべては、生長の家国際本部を東京・原宿から八ヶ岳南麓に移転することの意義をそれぞれの角度から説明しているから、多角的な理解が得られると思う。巻末には、この決定と関係が深い基礎的資料を添付した。1つは、「四無量心を行ずる神想観」の新バージョン、2つめは2004年に決まった「“森の中のオフィス”構想の基本的考え方」、3番目は宗教法人「生長の家」の環境方針である。

 本書のカバー写真を見ていただくとある程度わかると思うが、左側は大都会、右側は里山の風景になっていて、今の日本人の生活環境の違いを際立たせている。一般には「田舎から都会へ」の人口移動が依然として続いているが、私たちはその逆を行くという決意を表現したつもりだ。また、口絵としてカラー写真3枚が使われている--①山梨県側から見た八ヶ岳、②オフィス建設予定地の森、③予定地周辺の紅葉、である。生長の家は、このような環境で“自然と共に伸びる”運動をさらに大きく展開していく、というメッセージを読み取っていただきたい。
 
 本書の「はしがき」は今年の8月16日に書いたものだが、それだけを取り出して私の電子ブックのサイトに登録した。そこには、私の本書出版の意図がもっと詳しく書いてあるので、読者の参考に供したい。
 
 谷口 雅宣

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2010年9月22日

本の“自炊”を試みる

 最近、その筋の人々が“自炊”と呼んでいる作業をやってみた。この呼称の由来はよく分からないが、簡単に言うと、自分が所有する本を、自分のノートパソコンや iPhone などの携帯端末用に電子化することである。それによって何冊もの本を持ち運ぶ手間が省け、どこでも本が読めることになる。市販の電子本をネットで買えば同じことができるが、電子化されていない本はまだまだ多く、電子本が入手できたとしても、その値段は紙の本とそれほど違わないから、コストはバカにならない。
 
 本の“自炊”は、持っている本を1冊丸ごとバラバラに解体して、各ページをスキャナーでパソコンに取り込むことで行う。私のように、本を書くことが仕事の重要な一部である人間にとって、これはさすがに躊躇する。が、ある有名な生長の家本部講師が、谷口雅春先生の本が出ると一度に2冊を購入して、1冊を愛蔵用として奇麗なままで取り置き、他の1冊を講話用として、これに傍線を引いたり、注釈を書き込んだり、付箋を貼ったりして、ボロボロになるまで徹底的に利用するという話を思い出して、「電子化した本も徹底的に利用すれば、オリジナルの解体は許される」などと自分にいい聞かせて、この作業をした。それでも、分厚い表紙の立派な上製本を解体する気にはなれず、まずは文庫本を試した。それも最初は、売られていた本ではなく、岩波文庫の『読書のすすめ』という無料の宣伝用冊子で試してみることにした。ページ数も84ページでそう多くないから、テストケースとして最適と思ったのである。
 
 手元にあったシートフィーダー付きの携帯型スキャナーで、案外簡単にできた。ファイルをPDF形式で保存し、それを添付ファイルとして自分の iPod touch へメールで送信し、受け取った後は、無料アプリの「iBooks」を立ち上げてファイルを開くと、自動的にアプリ内の本棚に収納される。それだけのことだ。でき上がったPDFファイルは、「1.5MB」とサイズが大きいのが気になる。また、iPod touch の画面では、文庫本の1ページの文字が小さすぎるので、指の操作で画面を拡大し、スクロールしながら読むのが面倒だ。が、それ以外の点では、十分実用に耐えると感じた。
 
 これに気をよくした私は、次に、自分の本の“自炊”を試みた。が、やはり分厚い本を解体する気にはなれないので、最近生長の家から発行されたブックレット『自然と芸術について』を、電子化の対象に選んだ。こちらの総ページ数は、カラーの口絵を入れて104ページだ。しかし、データー量が多かったらしく、でき上がったPDFファイルは「5MB」を超えてしまった。iPod touch で読もうとすると、画面が小さい上に、1ページを読み込むのに時間がかかるので、実用的とは言えない。ただし、パソコン上では何とか実用に耐える。本欄の読者にはパソコンユーザーも多いので、私の電子本のサイトの「その他」のページに掲げることにした。興味のある人は、覗いてみてください。
 
 谷口 雅宣

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2010年9月19日

キンドルを使う (3)

 今日は、北海道北見市の北見芸術文化ホールで生長の家講習会が行われ、小雨の中ではあったが、668人の受講者が参集して和やかな雰囲気の中で会をもつことができた。あいにく前回の受講者数を上回ることはできなかったが、高齢化と人口減少が進む中、教区の幹部・信徒の熱心に推進活動を展開してくださったことに心から感謝申し上げます。

 講習会を終えて女満別空港から羽田へ向かう機上、11月に発行予定の『小閑雑感 Part 17』の校正ゲラに目を通していた。10月23日のブログまで来て、そこで「キンドル」について書いているのに気がついた。そして、もうほとんど1年がたとうとしていると知って、驚いたのである。「キンドル」(Kindle)とはアメリカ最大手のオンライン・ショップ、Amazon.com が販売している電子書籍を読むための端末機である。これを購入して使い始めたことをその日に書き、「使い心地や変わった使い方などについて、今後も本欄で紹介していくつもりである」などと書いたのだが、その後、本欄で(11月4日に)1回しか報告していないことに思い当った。そこで今日は続編を報告し、読者への約束を果したい。
 
 キンドルについては、すでに雑誌記事や書籍も多く出ていて、興味のある人はそれらを読んでいるだろうから、一般的な機能についての解説はせず、私がどんな用途にこれを利用しているかを少し書こう。この読書端末は、縦20cm、横13cmと、普通のノートパソコンの半分の大きさで、重量も275gと軽いため、携帯性がきわめていい。私は毎日、鞄のポケットに入れて持ち運んでいる。その中には、アメリカの外交専門誌『フォーリンアフェアーズ(Foreign Affairs)』が入っている。この雑誌は季刊で、発行時期に通信機能を使っていると、雑誌がまるごと1冊分自動的にダウンロードされる。このほか、私のキンドルには、十数冊分の英文書籍が入っている。これらの電子本は、新たに購入したものもあるが、すでに購入してあった紙製の英書の中で、読みたいと思いながら持ち運びの点で障害となっていた本を、電子本として新たに購入したものも含まれている。旅行中や旅先などで読むためだ。また、「sample」という印のついたファイルもいくつかある。これは、興味のある本の情報を入手した場合、それを実際に購入する前に、一部を無料で読めるサービスを Amazon.com が提供しているもの。同社は、ネット上ではパソコン向けに“ちょっと見”サービスを提供しているが、キンドル用には、一部(だいたい最初の1章分ぐらい)をサンプルとしてダウンロードできる。これがなかなか役に立つ。
 
Tategaki_kindle  そのほか変わった用途としては、自分の資料保存と閲覧用にもキンドルが使える。商用の日本語の電子本にはまだ対応していないが、自分でつくったPDF形式の文書ファイルは、キンドル上で問題なく読める。これは最近、奈良教区の山中優氏から教えていただいたことだ。うれしいことに、ルビ(振り仮名)も含めて、縦書きの文章もちゃんと表示される。ただし、これをするためには、少し下準備が必要だ。まず、キンドルの画面でも読みやすい字立ての文書を、PDF形式で作成する。次に、その文書をメールに添付して、自分のキンドルのアドレスに送信する。すると、送られた文書をアマゾンの側でキンドル形式に変換して、キンドルに送り返してくれる。ここに掲げた写真は、その文書を画面に表示したサンプルである。
 
 iPhone や iPod touch をもっている人は、キンドルのアプリをダウンロードして使える。このアプリでは、キンドルで購入した電子本を iPhone や iPod touch 上で読むことができる。つまり、A5判の大きさのキンドルでも“かさ張る”と考える場合は、ケータイ上に電子本を落として持ち運びをすればいいのである。ただし、ケータイの画面は小さいから、キンドルに比べれば文章は読みにくくなる。また、英文の場合、キンドルでは辞書機能が自動的に働くが、ケータイ上はそれができない。Amazon.com は、キンドルを日本語電子本に対応させると言っているから、私はそのバージョンアップ版を見て、iPad と比較をしながら、次の対応を考えるつもりである。

谷口 雅宣 

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2010年9月 8日

電子ブックを提供します

 昨今は「電子ブック」「電子書籍」「電子本」などと呼ばれるものが脚光を浴びていて、私も本欄でしばしば注目してきた。この分野はアメリカのネット販売大手「アマゾン・ドット・コム」が「Kindle」という端末を携えて先行し、ソニーが「Reader」をもって後追いをしていたが、今年、アップル社が電子端末「iPad」を発売し、画面の美しさと操作性で人気を博してから、一気に普及しはじめた。また最近では、同社の携帯電話「iPhone」や電子端末「iPod touch」でも電子本が読めるようになったため、生長の家でも普及誌の一部を電子化してサイト上で公開しはじめている。
 
 かつて私も、自分のサイトで短篇小説や短い講話をいくつか電子ファイル(PDF形式)として公開していたが、ブログを書き始めてからは、忙しさもあって、その分野は縮小していた。しかし、世の中が書籍の電子化の方向に一斉に動き出し、日本でも大手印刷会社や書店、出版社などが集まって、日本版の電子本の規格を今秋にも出すという。そんな流れの中で、読者の中にも「iPhone」や「Kindle」を使って文章を読む人が増えてきているのではないかと思う。そこで、私の文章や祈りの言葉なども、需要があるなら提供しようと考えた。

 電子本のファイルの形式は、国内では様々なものが出回っていて統一性がない。が、世界的に最も標準的な形式となっている Adobe社の「PDF」ならば、パソコンも含めて、ほとんどの電子端末で利用可能と思う。そんなことを考えて、私のサイトにも電子本をダウンロードできる場所「電子ブック、あります!」を新設することにした。そこに掲げた電子本の数はまだ少ないが、だんだん内容を充実させていきたいと考えている。

 現在のところ、このサイトの構成は以下の通り--

 ①スピーチ/あいさつ (2篇)
 ②祈りの言葉 (49篇)
 ③短篇小説 (4篇)
 ④その他 (1篇)

 「祈りの言葉」の数が群を抜いて多いが、これは単行本の『日々の祈り』に収録された49篇を1篇ずつバラして電子本化したものだ。好きな祈りを iPhone などに納めて、誌友会や電車の中など、どこでも利用していただけたら幸いである。なお、iPhone と iPod touch の利用者は、電子本を読むためには iTunes のサイトからアプリをダウンロードしておく必要がある。無料で使いやすいものとしては「iBooks」や「Stanza」がお勧めである。また、電子本を使っていただいた感想も、聞かせてほしい。
 
 谷口 雅宣

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