2009年11月 4日

キンドルを使う (2)

 10月23日の本欄で、この電子ブック端末の外観と基本的機能について少し書いた。それから約2週間がたったが、私に分かったことは次の3つである:
 
 ①英文を男女の声で読み上げる。
 ②個人用ファイルを保存できる。
 ③購入した電子ブックのコピーが提供される。
 
 この英文の「読み上げ」の機能には驚かされた。画面に表示されている文章を、結構まともな英語で読み上げてくれる。しかも、男性と女性の2種類の声を選ぶことができ、読み上げる速度も3段階ある。何のためにこれがあるのか定かでないが、想像するところ、自動車の運転中とか、目が疲れた時などに利用できるし、目が不自由な人の役に立つかもしれない。キンドルにはイヤフォン・ジャックもついているから、パソコンにつなげば音声ファイルの作成も可能だろう。ただし“完璧な英語”とは言えないから、発音練習には不向きかもしれない。また、アマゾンが提供する電子ブックや雑誌記事には音声による読み上げができるものと、そうでないものがある点、注意が必要だろう。
 
 次に、ここで言う「個人用ファイル」とは、個人がワープロや画像編集ソフトで作ったファイルのことである。だから、自分で書いた文書やインターネット上の情報、お絵描きソフトで作った画像、デジカメの写真などもキンドルの中に収納できる。ただし白黒画面だから、カラー画像はモノクロ表示になる。使えるファイル形式は、ワードの文書ファイル(DOC, DOCX)のほか、 PDF、 HTML、 TXT、 RTF、 JPEG、 GIF、 PNG、 BMP、 PRC、MOBI、などである。ただし、これらの個人用ファイルはキンドルに直接転送できない。使うときには、電子メールに添付して自分のキンドル用のアドレスに送ると、アマゾン側でファイル変換を行ったものを無線で送り返してくる。これには多少、時間の経過を要する。が、数ページ分のワード文書なら、数分でキンドルに収められる。
 
 最後に書いた「電子ブックのコピー」とは、キンドルで注文した電子ブックや電子記事のコピーが、自分のアマゾンのアカウントに残るということだ。 これがなぜ必要かというと、キンドルでは電子ブックを簡単に削除できるからだ。これは便利な機能だが、操作が簡単なため誤って削除する場合も出てくる。すると、通常の方法では(例えば、ウィンドウズ付属の「ごみ箱」機能のような)現状回復は不可能なのだ。これでは安心して使えないから、コピーをアマゾン側で取っておいてくれる。私も実際、買ったばかりの電子ブックを誤って1冊まるごと削ってしまったことがある。しかし、アマゾンが設けた自分のキンドル用のウェブページにアクセスすれば、そこにコピーがあるのでダウンロードして現状回復できた。これはうれしい機能である。
 
 このようにして、キンドルは電子ブックの購入と読書のための端末としては必要な機能をもっているが、なにせ日本語のファイルを表示しない点が、現在ではボトルネックだ。が、アマゾンでは近々世界各国の言語に対応すると言っているので、そうなれば音楽CDの販売減と似たような現象が、出版業界にも起こる可能性は充分あると言えるだろう。

 谷口 雅宣

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2009年10月27日

本欄が書籍に (9)

Part14_m  本欄の4ヵ月分を集めた単行本『小閑雑感 Part14』(=写真)が、11月1日付で世界聖典普及協会から発売された。カバーしている期間は昨年の7月から10月で、296ページある。前巻の『Part 13』が268ページだから、28ページ多い。写真やスケッチ画などの“色もの”も28点入っている。今回の巻の特徴は、宗教・哲学に関係する文章が多いことで、全部で50篇ある。その中にあるイスラームに関する9篇の文章は、すでに『衝撃から理解へ--イスラームとの接点をさぐる』(2008年)という単行本に吸収されているが、残りはこの本が書籍としては最初だ。未収録のものは、互いに内容が関連しているものが多いから、いずれ加筆修正等をして1冊の本にまとめられればいいと思っている。

 私は最近の本欄で、グーグルのブック検索やアマゾンの電子ブック端末「キンドル」について書きながら、発祥以来、文書伝道を“軸”として運動を展開してきた生長の家であっても、今後はそれだけでは足りず、「雑誌」や「書籍」という形態とは異なる文書--インターネット上の電子情報を駆使した運動を開発する必要性を強く感じてきた。幸いにも、「インターネット講師」の制度が発足し、来年4月からの新しい普及誌と連動した新サイト「PostingJoy」も動き出しているが、やるべきことはまだ多く残っている。

 運動の仕方においても、ひと昔前には月刊誌を「百部一括」したり「千部一括」することが称揚されていたのとは打って変わって、森林伐採を抑えるため、新しい普及誌では、相手を吟味した「手渡し」や「郵送」が主体になる。その際、かつて「百部一括」や「千部一括」によって生れていた普及誌読者や信徒を、全く失ってしまうのではいけないのである。雑誌や本とは異なった媒体で、また異なる場所で、できるだけ多くの人々が真理と接するための工夫や努力は、今後ますます必要になるのである。そういう“新分野”の1つが、インターネット上の電子空間であることは明白だろう。
 
 この本の最後には、10月31日の日付で「本は電子化する」という題の文章が収められていて、私がそういう方向性を当時から考えていたことが分かる。

 谷口 雅宣

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2009年10月23日

キンドルを使う

 10月9日の本欄で、米ネット通販最大手のアマゾン・ドット・コムの電子ブック端末「キンドル」が、日本でも(英語のみで)使えるようになることを書いた。その際、私が注文した同製品が昨日届いたので、さっそく使い始めた。
 
 まず外観からいうと、縦20㎝、横13㎝、厚さ9㎜のサイズは、私の想像より小さかった。送られてきた包みは、アマゾンが使ういつもの濃い茶色の段ボールケースだった。それを見てキンドルに違いないとは思ったが、あまりに小さくて軽量だったので、ひょっとしたら別物かと思った。例えば、「注文が多いので発送が遅れる」などと書いた手紙を添えて、簡単な景品を入れてあるだけのものかもしれい……などという思いが一瞬、頭をよぎった。が、中身はキンドルそのものだった。新聞発表の数字では、重さは「約290g」ということになっているが、実際に測ってみると「275g」である。この軽さが、まず気に入った。これなら気軽に持ち運べる。
 
 しかし、画面の大きさが予想より小さかった。正確にいうと「90mm×122mm」だ。このサイズは、文庫本1ページ分の版面と大体同じである。ここに表示される英文はKindle_disp標準で「47文字×20行」だが、文字の大きさは6段階に変えられるから、自分の視力に合った文字の 大きさを設定すればいい。私の場合、標準の設定でまだ大丈夫のようだ。画面は見やすい。艶消しの灰白色の地に黒い文字で明確に表示される。パソコンのように画面の向こう側からバックライトで照らされる方式ではなく、紙に印刷してあるのに近い見え方である。私がよく読む『ヘラルド朝日』の紙面と、キンドル上に表示された『Foreign Affairs』の記事を比べた写真を、ここに掲げる。
 
 さて、問題は文字の入力である。キンドルには、縦長の表示画面の下に超小型のキーボードがついている。これは、携帯端末のブラックベリーに付属したキーボードに似ていて、左右の親指の先でキーを押す。慣れるまでには少し練習が必要だろう。読書用端末機になぜ文字の入力が必要かと、不思議に思う人がいるかもしれない。が、キンドルには通信機能が内蔵されていて、インターネットが使える。これによってアマゾンのサイトに接続し、ほしい書籍等を探し、その場でダウンロードできるのである。このために、キーワード等を打ち込む必要があり、キーボードが役に立つ。また、機能を限定されたウェブブラウザーもついているから、キーボードからサイトのURLを入力し、携帯電話で見るようにサイトを見ることもできる。恐らく、サイトからの書き込みもできるだろうが、まだそこまでやっていない。
 
 アマゾンのサイトから本のサンプルと雑誌をダウンロードした。どちらも、ものの数秒でキンドルの中に収まる。それをワイヤレスで無言で行うので、不思議な印象だ。どこからともなく文書が湧き出てくる感じだ。画面に表題が出て、それにカーソルを合わせてクリックすると、本は表紙から、雑誌は最初のページから表示される。キンドルの表面の両脇に「NEXT PAGE」(次頁)と「PREV PAGE」(前頁)のボタンがついているから、それを押してページを前後にめくる。読書を途中でやめるときは、そのページに「BOOK MARK」(栞)をつければ、次回に読む時はそこから表示される。本や雑誌の記事をキーワードで検索したり、不明の言葉を辞書で調べることも簡単にできる。このために『The New Oxford American Dictionary』(オックスフォード米語辞典)が最初から同梱されていた。このほか同梱されていたのは『Kindle User's Guide, 1st Ed.』(キンドル・ユーザーガイド第1版)である。

 書き忘れていたが、電源は充電池から供給される。これに充電するためには、通常の電灯線、あるいはパソコンのUSB端子から採る。そのためのケーブルがもちろん付属している。充電時間は、未使用の新品の場合は「3時間」と説明書にはあったが、私の場合は2時間ちょっとでフル充電された。ゆっくり使いながら、使い心地や変わった使い方などについて、今後も本欄で紹介していくつもりである。
 
 谷口 雅宣

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2009年10月12日

グーグルのブック検索 (2)

 グーグル自身は、著作(権)者のこういう心配を意識していて、そうならない方法をいろいろ工夫しているようではある。例えば、現在の日本語のグーグル「ブック検索」では、スキャンした本の全部ではなく、一部が表示される。また、著作(権)者が同意しない本については、検索してもまったく表示されないか、あるいは表示される箇所がきわめて限定的だ。そして、検索ページには、次のような説明文も出る--
 
「図書館プロジェクトでブック検索に登録された書籍の場合は、著作権の状況によって閲覧できる範囲が決められています。Google では、著作権法および著者の多大な努力を尊重しています。著作権が失効しており、著作権保護の対象とならない場合は、書籍全体をブラウズしたり、ダウンロードして読んだりすることができます。著作権で保護されており、出版社または著者がパートナー プログラムに参加していない場合は、図書カード カタログのように、書籍の基本情報と、場合によっては書籍の抜粋、つまり検索キーワードの前後の文章が表示されます。」

 それは確かにその通りなのだが、これは前回の本欄で触れたアメリカでの“和解”が成立する前の、旧バージョンでのサービスのことだ。今後、日本も含めて世界的に実施される新バージョンの「ブック検索」では、1冊の本の全文検索が基本となるだろう。この場合、著作(権)者は、グーグルの新サービスに「登録しない」ことも選べる。が、現在のようにインターネット検索サービスがグーグルによって寡占状態にある場合、そこに登録しないことは、著作物や著作者が世界的に認知されないことになる。だから、著作(権)者は、自分の著作物が事実上、世界的に葬り去られるか、それともグーグルを信頼して全内容の同一性や権利保全の完全性を任せるか、の二者択一を迫られることになるのではないか。
 
 こういうサービスが、国際機関のような公的な機関がやるのであれば、それはむしろ望ましいことだ。が、ご存じのように、グーグルはアメリカの一私企業であり、現に自ら手掛けた検索サービスから莫大な広告収入を得ている。そして、広告の値段は、検索の結果、パソコンの画面に表示される該当書籍の順位と関連させて決まるのである。そういう私企業1社に、全世界の書籍の全文検索と表示順位の決定を任せてしまうリスクは、相当大きいと思う。ここのところが、私にとって最もひっかかる点だ。
 
 グーグルの共同設立者の1人であるセルゲイ・ブリン氏(Sergey Brin)は、10~11日付の『ヘラルド朝日』紙に論説を寄せて、同社のブック検索の目的について述べている。それによると、このサービスの最大の目的は、図書館や古本屋の本棚に埋もれてしまっている絶版本などの古い書籍を、全世界の読書人の前に提供するとともに、それらの書籍の権利者に対して相応の対価を支払うことだという。私は、この目的については異議を差し挟まない。私の心配は、上にも書いたように、この業界で事実上、独占的力をもつ一私企業が、世界中の全書籍の内容を入手し、それを全世界に提供する際に、公平中立の立場からできるとは考えられないという点である。
 
 ブリン氏は、グーグルがこの分野で成功すれば、他社が市場に参入して競争が行われること、また、著作(権)者はグーグルへの書籍の登録をいつでも取り消すことができることなどを挙げて、自らの目的の正当性を訴えている。が、これらの主張は、本質的には「競争によって市場が選択するものが残る」という自由競争の論理であり、公平性への疑問に対する反論になっていない。インターネット検索の市場がグーグルにきわめて有利な方向に“歪んでいる”現状にあっては、公平性を保証するための説得力ある方策を提示してほしい。

 谷口 雅宣

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2009年10月11日

グーグルのブック検索

 インターネット検索最大手のグーグル社(Google)は、その莫大な資金力と斬新な発想を後ろ盾にして次々と“常識”や“前例”を書き換えているが、その業務の中で私が気になっているものがある。それは「グーグル・ブック検索」(Google Books Search)というサービスだ。これは、書籍をスキャンして内容を電子情報化し、それをパソコンレベルで検索/閲覧可能にしようというものである。その規模は“世界的”である。つまり、これまで全世界で出版されたすべての本を対象としてるように見える。「見える」と書いたのは、グーグル自身はそれをハッキリ言わないからだ。が、グーグル・アースやグーグル・ストリートビューなど、これまで彼らが開発してきた新サービスを見ていると、やりだしたことは全世界で徹底してやる会社だから、きっとそれが目標だと思う。
 
 このサービスが実現すれば、昔の絶版本や再販未定本がいつでも手軽に読めるから、利用者にとっては、大変便利になる。が、本の著作者にとってはショッキングな計画だ。私のようなもの書きにとって不安なのは、彼らが著作者や著作権をあまり重視しないように思える点だ。

 言うまでもなく、本には著作権がある。これは、1冊の本を書くのに費やされた著作者の労力や工夫、金銭的負担、学芸的価値などを認め、それを保護するためのものだ。これが保護されず、ある本の一部が、著作者に無断で別の本の一部を構成していたり、小説の主人公の名前が違うだけで、その他の登場人物やプロット、文章表現などのすべてが別の小説と同一であったりしたら、これは著作物の“盗作”であり、盗作者は、著作者よりはるかに楽に、また安価に“著作物”(と言うべきかどうか疑わしいもの)が書ける。盗作者は努力をせずに、著作者の創意や工夫を自分のものとすることができ、本来ならば著作者に行くべき本の印税も、盗作者に行くことになる。これでは、努力して著作物をつくることがバカらしくなるから、優れた著作物をつくろうとする人はいなくなり、つまらないモノマネや、インチキ研究ばかりが社会に氾濫する。文化や学問は衰退するばかりだ。
 
 だから、米国出版社協会(AAP)と米国著作者協会(AG)は2005年、「著作権で保護されている書籍をスキャンしてデータベース化する行為は著作権侵害に当たる」として集団訴訟を起こした。そして昨年、①アメリカにおいて著作権が保護されている書籍、②著作権が失効している書籍、③著作権は保護されているが絶版となり、著作権保有者が見つからない書籍、の3分類に入る書籍を対象に、グーグルの業務を容認する代りに、売り上げを分配するという和解条件(PDF)で合意した。ただし、裁判所でのこの和解内容の審理はまだ終っていない。この和解は、アメリカ国内だけのように見えるが、国外の本も事実上の対象となる。なぜなら、日本やヨーロッパで出版された書籍も、アメリカの図書館などに大量に所蔵されていて、万国著作権条約によって上記3分類のいずれかに含まれると考えられるからだ。

 著作物の盗作の問題は、もちろんグーグル発足以前からある。が、電子情報時代の盗作は、個人のパソコンを使って簡単にできる。昔のように本を見ながら一文字一文字を書き写す必要はなく、数回のキー操作によって何十ページもの複製が数秒でできる場合もある。だから、そういう方法で新聞記事や文学作品が書かれた著作権法違反事件が、日本でも近年増えつつある。グーグルのブック検索が、そういう方向に世界を牽引していかないかどうか、が私の心配である。
 
 谷口 雅宣

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2009年10月 9日

紙を使わない出版 (3)

Kindle  本格的な電子ブックが、いよいよ日本でも使えるようになる。米ネット通販最大手のアマゾン・ドット・コムが、アメリカで成功している電子ブック端末「キンドル」(=写真)を日本を含む100カ国以上で発売する、と発表したからだ。いわゆる“電子ブック”は、日本でもかなり前からパソコン用として流通しているが、本の読み方としてはまだまだ一般的でない。それに、持ち運びが不便である。また最近では、携帯電話で読む“ケータイ小説”が若者の間ではずいぶん人気のようだが、それを単行本化して売っているのだから、“本命”は紙の本なのだろう。また、私のような中高年には、ケータイの画面は小さすぎる。そこへ、縦20㎝、横13㎝、厚さ9㎜で、重さ約290gの「キンドル」(約25,000円)が参入することで、日本の電子本環境は大きく変わる、と私は思う。
 
 実は、ソニーも「リーダー」という電子ブック端末を欧米では出していて、2006年以来、累計で40万台を売っている。日本では2004年に販売を開始したがうまくいかず、3年後に撤退した。「キンドル」は2007年の発売から2年間で50万台を売ったとされる。10月8日の『朝日新聞』によると、ソニーは「キンドル」の上陸を機会に「リーダー」の日本での再発売を検討しているそうだ。
 
 今回の「キンドル」では、しかし日本語の本は読めない。8日の『日本経済新聞』によると、アマゾンCEO、ジェフ・ベゾス氏は、「キンドルで日本語を読むための技術開発にも取り組んでいる。端末を各国で普及させることで、現地でのコンテンツ配信が展開しやすくなる」と言っているが、「日本語の電子書籍の配信開始時期などは現時点では言えない」としている。
 
 私にとっては、それでもキンドルは利用価値が充分あると感じる。というのは、私は毎日、『ニューヨークタイムズ』の国際版である『インターナショナル・ヘラルド・トリビューン』(『ヘラルド朝日』)を読み、英語の雑誌や書籍も読むからだ。これらが紙の本や雑誌より安く、早く手に入るだけでなく、すべて1台のキンドルの中に納まってしまうということになると、無関心ではいられない。蔵書スペースの節約と、持ち運びの便利さは紙の「書籍」の比ではない。ちなみに、キンドル1台の中に収納できる情報は、普通の単行本1500冊分という。
 
 本欄には過去2回(2008年1月28日本年3月10日)、「紙を使わない出版」という題で本の電子化の動きについて書いたが、これは“文書伝道”を旗印にしてきた生長の家の布教活動とも大いに関係がある。来年から登場する新しい普及誌では、紙の雑誌の上だけでなく、インターネット上の電子情報と連動した編集と出版が行われる。これによって読者は、紙の雑誌より多くの情報を得られるだけでなく、情報の流れが「一方通行」から「双方向」に変わる。つまり、「読者参加」の編集範囲が拡大するのである。しかしこの場合、読者はパソコンを使えることが大前提だった。キンドルのような電子ブック端末の使い勝手がよく、また日本語に対応すれば、パソコンなしに本や雑誌が手軽に読めることになり、運動の展開にも大きな影響が出るだろう。
 
 電子ブックの最大の特長は、従来のような「送本」や「配本」の必要がなくなることである。これは「電子情報の移動」に置き換わるから、ケータイでメールを受け取るのと同等の速度と気軽さで、各個人に対して情報が移動する。だから、原理的には従来の印刷・製本・流通・在庫管理の手間がすべて省ける。ということは、そういう業務をしてきた会社や団体は不要になってしまう。運動面で言えば、普及誌の配本にともなう繁雑な諸業務がなくなるのはいいとしても、その過程で行われてきた会員同士の密接なコミュニケーションや、運動組織内部の情報伝達のルートが失われるのである。もちろん、今後すぐそうなるのではない。日本ではどのような機種が、どのような形で受け入れられるかによって、変化の速度と方向性は違ってくるだろう。しかし、“文書伝道”の新しいルートが今後、急速に広がっていくことは確実だろうから、そのための準備は「今」から必要である。
 
 谷口 雅宣

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2009年8月17日

神は偉大でないか? (2)

 『God is Not Great』の第1章で、著者のヒッチェンズ氏は「宗教に対する最も穏やかだが決定的な批判」として突きつけている言葉がある。それはこれだ--「宗教は人間がつくった」。これを聞いて読者は驚くだろうか? 私はまったく驚かない。当然のことと思うからだ。生長の家でも谷口雅春先生を「創始者」と呼んでいて、我々の運動を谷口雅春先生と輝子先生が始めたことは自明である。が、ヒッチェンズ氏が言う意味は、それとは少し違うようだ。彼が言いたいのは、「人間のつくったものは不完全」ということだ。つまり、宗教の教えも「不完全」であり、「間違い」の可能性があることを認めるべきだというのである。私はこれを一般論として、受け入れる。では、すべての宗教の開祖の教えには間違いがあるということか? 
 
 ヒッチェンズ氏が「宗教は人間がつくった」と言うときの「つくった人」とは、どうも「開祖」の意味ではないのだ。というのは、彼は宗教の“間違い”についてこう述べているからだ--「宗教をつくったその人々も、彼らの預言者や救い主やグルが何を言ったか、何を行ったかについて合意できない。ましてや、宗教が始まったのちに新しい発見や発展があり、その動きが(当の宗教に)抑圧されたり、糾弾されたことの“意味”について述べることなど、期待できない」。著者は結局、こう言いたいのだろう。キリスト教もイスラームも仏教も、“開祖”であるイエスやムハンマド、ブッダが本当に何を言ったのかについて、それぞれの内部において合意ができていないし、それらの宗教がそれぞれ後に分裂して、異なる宗派に分かれていったことの意味について、当事者から満足な説明は期待できない--そういうことだろう。この意見も、私にはよく理解できる。
 
 そこで著者は、声を荒げてこう非難する--「にもかかわらず、宗教の信仰者は“知っている”というのだ。単に“知っている”のではなく、“すべてを知っている”というのだ。神が存在することを知っているだけでなく、また、その神が世界を創造し、監督していることを知っているだけでなく、神が我々に何を要求するか--食べ物の種類から戒律まで、さらに性生活の規則まで--も知っているというのだ」。(p.10)著者が苛立っているのは、宗教のこの“すべてを知っている”とする傲慢な態度で、これでは現段階の知識以上の真実の追究はできない。さらに宗教には妙なプライドまであるから、宗教を信じない人にとっては、科学的知見や理性をもって世界の真実について議論する相手にはなりえない、というのである。
 
 読者はもうお気づきと思うが、ヒッチェンズ氏はここで「神」を批判しているのではなく、「宗教」を批判しているのである。「神は偉大でない」というのが著書のタイトルであるが、著者は「宗教は偉大でない」と言っているのだ。少なくともこの章(第1章)においては、そうである。ここに、この本の大きな問題が1つあるような気がする。著者は「神」とは何であるかを、今のところ定義していない。それでいて「神」を批判するのはおかしい。もしかしたら、無神論者である著者には「神」が定義できないから、「神」を最高の権威として考え、行動する人間の集団(宗教)を批判する以外にないのかもしれない。が、我々のような神を信仰する者にとっては、この両者の違いは明白である。
 
 ヨーロッパ16世紀の宗教改革者、マルティン・ルターが、当時の聖俗一致のカトリック教会の肥大化した権力に対抗して、ローマ教皇の至上権を否定し、公会議も誤りを犯す可能性があるとして、“神の言葉”としての聖書と信仰者の良心のみによって人は救われると宣言したとき、ルターは、神を批判したのではなく、宗教を批判したのである。その批判したルター本人が、神を信仰していたことは疑う余地がない。だから、ヒッチェンズ氏のこの著書は、タイトルがいかにセンセーショナルであっても、「組織化された宗教」(organized religion)への批判書であって、神は無傷でそれらの上に聳え立っている--そんな感じがするのである。
 
 ところで、生長の家講習会などで私が述べる“宗教目玉焼き論”を記憶している読者は、ヒッチェンズ氏の批判の矛先が、もっぱら目玉焼きの“白身”(周縁部分)の部分に向かっていて、“黄身”(中心部分)にはまだ触れていないことに気がついてほしい。私は、宗教の“白身”は時代や環境や文化によって変わるべしとの立場だから、これまでの氏の宗教批判には、さほどの抵抗を感じないのだろう。
 
 谷口 雅宣

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2009年5月28日

絵手紙・絵封筒ワークショップ

 今日は朝から、東京・大手町の逓信総合博物館(ていぱーく)の2階で行われている「光のギャラリー 絵手紙・絵封筒展」へ行き、10時からのワークショップを担当した。この展覧会は、TKこと小関隆史氏が運営している絵手紙ブログ「アトリエTK」に投稿された絵手紙・絵封筒の作品を展示したもので、26日から始まっている。小関氏のブログには私も絵封筒を主体に投稿してお世話になってきたので、同氏の依頼をうけて、絵封筒や絵手紙を実際に制作するワークショップの“指導”をすることになった。
 
Tkphoto08  しかし、私は絵については正式な勉強などしておらず、趣味の範囲を出ないと思っているので、人を“指導”する立場にない。そこで、私の時間は「私は絵封筒をこうして描く」という題にしてもらい、主に自分の経験を参加者にお話しすることにした。ただ、生長の家には芸術連盟もあり、現在、新しいタイプの誌友会(少人数の教えの勉強会)で技能や芸術表現を扱うことになっているので、生長の家の教えと芸術表現との関係についてきちんと述べる必要がある。幸いにも、私の書いた小冊子『自然と芸術について』(生長の家刊)がこの日に間に合うように出版されたので、それをテキストに使いながら、50分ぐらいのトークと、絵手紙・絵封筒の制作実習、作品の講評を(あつかましく)行わせていただいた。
 
 TK氏からは事前に、ワークショップの参加予定者は15人ほどと聞いていたが、木曜日は生長の家本部が休館のこともあり、結構多くの本部職員が来てくださったので、狭い会場は人で埋まった。妻も参加者として来てくれた。私のトークは、前半を教えと芸術との関係、後半を私の絵封筒の描き方に分けたが、前者は内容が硬いのでほどほどにして、後者に力点を置いたつもりだ。前者に興味のある人は、上掲の小冊子の方をじっくり読んでいただきたい。後者について知りたい方は、このワークショップはビデオ録画してあるので、いずれご覧になれる機会が来ると思う。

 この展覧会とワークショップは31日(日)まで続くので、首都圏の有志の方はこぞって参加されたい。出品者は98人、作品点数は絵手紙215点、絵封筒74点である。明日以降のワークショップの予定は、次の通り(括弧内は担当者名):

       午前の部(10:00~12:00)    午後の部(14:00~16:00)
 29日(金)「絵手紙・絵封筒にチャレンジ」  「ポストカードをつくろう」
        (小関 隆史)        (竹内 芳美)
 30日(土)「スケッチを生かした絵封筒」   「ポストカードをつくろう」
        (玉井 亜季)         (竹内 芳美)
 31日(日)「楽しく描こう 絵手紙・絵封筒」「ハガキ・封筒に自由に描いてみる?」
        (栗原 麻衣)         (山本 英輔)

 谷口 雅宣

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2009年5月23日

“ミニブログ”が燃えている

「ミニブログ」というのは私がつけた仮名である。本名は「ツイッター」といい、鳥がさえずることを意味する英語「twitter」から来ている。1行から2行の短い言葉を登録し、利用者間で共有するサービスだ。これが今、ネット上で大評判になっている。パソコン、携帯電話、スマートフォンのいずれからも無料で使える。何に使うかは、利用者の想像力しだいという点もおもしろい。

Twitter_logo  中をのぞいてみると、有名人が多いのに驚く。もちろんネット上でのことだから、本人が書いているのか、それともファンが運営しているのか、あるいは全くの偽名なのかは分からない。しかし、アメリカの政治家ではオバマ大統領、ジョン・マケイン氏、アル・ゴア氏はもちろん、カリフォルニア州のシュワルツネッガー知事、テレビタレントのオプラ・ウィンフレイ、自転車選手のランス・アームストロング、大手テレビ局のニュースキャスター、メディアでは『ニューヨークタイムズ』や『BBC』『CNN』『NBC』『タイム』『ライフ』……こういう人々や団体が「つぶやき」(ツイッター自身はそう訳している)をネット上に漏らすことで、何かを実現しようとしているのが分かる。

 最も分かりやすい用途は、『ニューヨークタイムズ』などのメディアの使い方だ。『タイムズ』は、自分のサイトに掲げた記事や映像の“見出し”をツイッターに流している。だから、『タイムズ』の記事に興味がある人は、ツイッター上の同社のページへ行って「フォローする」というボタンをクリックすれば、それ以降、自分のページに“見出し”の配信を受けることができる。そして、興味のある“見出し”をクリックすれば、リンクを通じて記事や映像が見れる。これまでのネット上の新聞の読み方は、①新聞のサイトへ行って、②記事のタイトルを見渡してから、③興味あるものを読む、という3段階の作業が必要だった。しかし、ツイッターによる配信では、①ツイッターへ行く、②興味ある見出しをクリックする、という2段階ですむ。しかも、1紙だけでなく、複数の紙・誌の見出しから選べるのは便利である。
 
 これに比べて、個々の“有名人”のサイトの使い方は、いろいろだ。シュワルツネッガー知事(フォロワー18万2千人)は自分の動静を毎日のように書き込み、ときどき写真も掲示している。これに対して、購読者(フォロワー)の書き込みが多く、それへの同知事の返事も載っている。オプラ(同114万人)の場合は、自分の番組やサイトへの案内や近況報告が多い。かつてABCニュースのキャスターで取材中にイラクで負傷したボブ・ウッドラフ氏(同2千9百人)は、現在自分の財団の活動のために、ツイッターを使っているようだ。彼の財団は、イラクやアフガニスタンから帰還したアメリカ兵への支援活動を行っている。

 宗教運動への利用もいろいろなものが考えられるが、『タイム』誌が6月1日号で取り上げているアメリカの教会の例は、参考になるだろう。それによると、ミシガン州ジャクソン市にあるウエストウインズ・コミュニティー教会では、メンバーを一堂に集めてツイッターの使い方を手ほどきした後、「140字以内で神や信仰について語る」ための時間をもった。チャペルに設置された大型映像装置には、コンピューターの画面が拡大して映し出され、そこへ携帯電話やPCからメンバーがツイッターに書き込んだ言葉が、リアルタイムで表示される。時には冗談が書き込まれることもあるが、「私には、すべてのものの中に神を見出すことは難しい」とか「私が神を求めれば求めるほど、神は私に人のためになることを求める」とか「心の癒しというものは、時につらいこともある」など、真剣な言葉もあったという。教会での礼拝中にこのようにして“つぶやく”ことには、もちろん反対論もある。が、新しい心の通い合いが生まれ、また深まることで、メンバー同士の一体感、神への信仰が深まる--というのが、賛成論者の言い分らしい。
 
 ネット上では、相互に面識のない者同士の新たな関係が世界中で毎日生まれ続けている。多くの人々が心の支えを失っている時代には、このようなネットの特性を生かして、神への信仰をひろめることは宗教者の義務だとの考えが、賛成論者を突き動かしているようだ。

 谷口 雅宣

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2009年4月24日

“誠意ある表現”の大切さ

 今日は午前10時から、長崎県西海市にある生長の家総本山の谷口家奥津城の前で、「谷口輝子聖姉二十一年祭」がしめやかに行われた。お祭には、この日、最終日を迎える長寿ホーム練成会の参加者を初め、近隣教区の信徒等約320人が参集して、生前の輝子先生の御徳を偲びながら焼香、聖経『甘露の法雨』読誦を行った。私は、お祭の最後に概略、次のような挨拶をした:

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 皆さん、本日は谷口輝子先生の二十一年祭にお集まりくださいまして、ありがとうございます。輝子先生は92~93歳で亡くなられ、それからもう20年たったということですから、時がたつのは速いものです。私はこの間、3月1日に生長の家総裁を襲任させていただきましたが、その関係で輝子先生に久しぶりにお会いしたような気分を経験しました。というのは、東京の生長の家本部会館内で、前総裁の谷口清超先生が使っておられた部屋へ私が移ることになり、執務室を引っ越したのです。正確に言うと、まだ書籍等の移動がすべて終っていないので、まだ引っ越しの途中にあります。谷口清超先生の使っておられた総裁室には本がいっぱい残っていて、その中に輝子先生が書かれた『愛の相談室』というのもありました。
 
 この本は昭和59(1984)年の3月7日--つまり、輝子先生のお誕生日--に世界聖典普及協会から発行されたものです。もう25年も前の本です。この本は、実は私が作った本と言ってもいい。当時、私は世界聖典普及協会で出版担当の部長をしていて、部下と一緒に本や講話のカセットテープづくりをしていたのであります。そのことを思い出しました。今日は、その本から引用しながら輝子先生の御徳をお偲び申し上げたいと思うのです。
 
『愛の相談室』の本には、輝子先生のところに来た人生相談や信仰相談の手紙に対して、先生がお答えするという形式の文章がたくさん載っています。その中に「手紙は誠心で」という題のものがあります。この「まごころ」や「誠意」というものを輝子先生は大変重視された方でした。例えば、この相談の少し前のところで、厚化粧をする人について、こんなことを書いておられます--

「こういう人は、その厚化粧を剥した時に、ちょうどお面を取ったように、全く違う人が現われてくると思います。そういうお面を被ったようなお化粧をして、お見合いをしたりしましたならば、その方の結婚生活では死ぬまでお面を被っているわけにはまいりませんから、やがて子供の一人もできた時には、お面どころか薄化粧もしないで、襟垢だらけで汚い汚い女房になってしまいます。その時に、“お面”を見て美しいと思って結婚した男は、その婦人から心が離れてしまうのでございます。
 私は、何事もありのまま正味の姿で、生地そのままの姿でありたいと思います。お見合いの時でさえも、素顔であって欲しいと思うぐらいであります」(p.54)
 
 これは、「人と接するときはウソや見かけ倒しではいけない。誠意をもって接しなければ、いずれウソがバレて、人間関係が破綻する」--そういうことを仰っているのであります。この「厚化粧ではだめだ」というお考えは、手紙については、「真心をもって書けば、多少下手な字でも大丈夫」というお考えにも通じます。この本の94ページに、相談が書かれています--
 
 (相談の箇所を朗読)
 
 これに対して、輝子先生はこう答えておられます--
 
 (pp. 95-96 を朗読)
 
「虚栄心から字をうまく見せようとせずに、少々下手と思っても、誠意をもってていねいに書けば、それは相手に通じる」--そういうご指導です。輝子先生は、そういう生き方をされて来た人でありました。

 この「字をていねいに書く」ということは、最近のようにパソコンやケータイが頻繁に使われるようになってくると、あまり重要でなく感じられるかもしれませんが、そうではないと私は思います。というのは、私のところに手紙をくださる人の中にもいろいろおられて、直筆で書いてくる人が多いのですが、たまにパソコンのプリンターから打ち出した文字だけで、手紙をくださる人もいます。そういう手紙は非常に読みやすいという点ではありがたいのですが、「一体、誰が書いたのか?」と疑問を感じます。つまり、誰が書いてもプリンターで打ち出せば同じだからです。本当にご本人が書いたのならば、自筆のものの方がプリンターで打ち出したものよりも、受け取った相手は「誠意」を感じます。それが多少、下手な字であっても、ていねいにさえ書いてあれば「誠意」を感じます。
 
 それから、最近ではメールを多く使うようになってきました。皆さんの中にも、たいていのことはメールですませてしまう人もおられると思います。私も毎日、メールを使って人と連絡をしています。しかし、自分の「誠意」を示そうと思うときには、メールのような、手っ取り早く機械で作った文字では不十分ですね。また、誠意だけでなく、「好意」「感謝」「尊敬」「ユーモア」などを表現するときも、メールやパソコンよりも、自分の手を使い、下手でもいいから心を込めて書いたものが数段優れています。そういう意味からも、私は講習会の際には「絵封筒」というのをよく描きます。封筒に大きな絵を描いた中に、手紙を入れて出すのです。これは、絵手紙と同じように、ちょっと練習すれば誰にもできるものです。これをするには、メールを打つよりもはるかに多くの時間がかかりますが、その代り、相手に伝える内容は、大変豊かなものとなります。
 
 受け取った相手は、きっと驚くし、喜んでもらえます。これも「まごころ」や「誠意」の表現であります。誠意というのは必ずしも真面目なだけではなく、楽しいものも、ユーモアにあふれたものもあります。ですから、皆さんも光明化運動の中で、あるいはご自分の人間関係の中でも、表面を飾るのではなく、心の中にあるものを素直に表現しながら、誠意をもった生活をしていただきたい。それが、谷口輝子先生が教えてくださった生き方だと思います。
 
 谷口輝子先生の二十一年祭にあたって、所感を述べさせていただきました。ありがとうございます。

谷口 雅宣

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2009年4月21日

本欄が書籍に (8)

 このブログを単行本化した「小閑雑感」シリーズの第13巻、『小閑雑感 Part 13』(=写Part13_gm)が、生長の家の3大運動組織の全国幹部研鑽会と全国大会を期して、5月1日付で世界聖典普及協会から発売される。本欄の昨年3月から6月までのブログ79篇を集めたもので、同協会にはすでに入庫しているので入手可能と思う。カラーのスケッチ画や写真が23点入り、268ページ、定価は1,400円(税込)である。今からちょうど1年前の記述を含むので、特に経済の動向などで今の状況との違いが顕著にわかる。例えば、現在のアメリカや日本などの先進国の経済は“戦後最悪”の局面だと言われているが、1年前の3月22日のブログには「食糧危機が近づいている?」と題して、次のようにある:

「このところ食品の値上がりが続いている。これは日本だけのことではなく、世界的な現象だ。原因もわかっているが、効果的な対策が講じられているとは思えない。原因は、①中進国の経済発展に伴う動物食の増加、②気候変動による農業生産の不安定化、③石油の高騰、④バイオエタノール・ブーム、などだ」(p.59)

 ところが今は、外食の需要が減り、石油の値段は下がり、バイオエタノールはだぶついている。“経済危機”の到来で大量の失業者が出ているから、外食をする人も、自動車に乗る人も減っているのである。これは“悪い”方向への変化とも言えるが、“よい”方向への変化もある。昨年の5月14日に私は「“放置国家”から脱出しよう」と題して、日本政府の環境対策がEU諸国に比べて遅れていることを、次のように苛立っている:
 
「これ(“福田ビジョン”)はかけ声としては相当“意欲的”に聞こえるが、すでにEUが掲げている目標と変わらない。では、EUが実施している温暖化対策に近いものを日本が今、行っているだろうか? 答えは“ノー”である。環境税も排出権取引も、自然エネルギー支援のための優遇策も、ほとんど内容のあるものは実施されていない」(p.147)

 しかし、今年は“経済危機”の中で総選挙をにらんだ政府・自民党が、「グリーン・ニューディール」と称して新たな環境対策を打ち出している。例えば、自動車関連の経済刺激策では、一定の排ガス・燃費基準を満たした車の自動車重量税などを軽減したり、新車購入後13年以上の車を廃棄して環境対応車の新車を購入する場合、普通車で25万円、軽自動車で12.5万円を補助。それ以外に一定の排ガス・燃費基準を満たした新車の場合には、普通車で10万円、軽自動車で5万円を助成するなど、実質的な対策が講じられるようになった。この点は評価されていいが、これらは一時的な優遇策の域を出ていない。これに対し、環境税や排出権取引は、長期的視点に立った税制改正と新制度の導入だ。今の政府は、そこまでの改革には及び腰ということだろう。
 
 このように、現象世界は変転きわまりないということが、1年を経過してみるとよくわかる。しかし、変化せずに続いている“流れ”や“傾向”もあるし、季節の変化のような“繰り返し”もあることは事実である。特に、経済の変化は、1~2年の短期では激しく感じられても、“揺れもどし”が来るのが原則だから、中・長期的には同一パターンの繰り返しになることが多いのは、よく知られている事実である。短期的な変化に目を奪われていると、中・長期的な流れを見失う危険がある。地球温暖化問題の解決には長期的視点が必要だ。その視点から見れば、私はこの1年で“流れ”や“傾向”が変わったとは思わない。

 谷口 雅宣

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2009年3月17日

本は不況に強いのか?

 3月10日の本欄では、インターネット書店「アマゾン」の電子本専用機のことに言及して、「こんなものが日本に上陸したら、紙製の本の売り上げはますます落ち、中小の書店は相当打撃を受けるだろう」などと書いた。ところが、その一方で、ヨーロッパやアメリカの書店では、この不況の中で紙製の本の売り上げが伸びているというのである。16日の『ヘラルド・トリビューン』紙が伝えている。
 
 それによると、フランスでの本の販売数は、昨秋にいったん減ったものの、12月には前年同月比で2%増え、1月には2.4%増となった。金額ベースではさらに良く、1月は前年同月比4%増、2月には7%も増えたという。ドイツでも同様の傾向が見られ、1月の販売数は前年同月比で2.3%増えた。アメリカとイギリスではそれほどよくないものの、昨年は減っていない。が、今年に入って最初の10週間は、約1%の減少だそうだ。しかし、この減少幅は、他の産業が軒並み2桁台の売上減少を示しているのに比べ、驚くほど小さい、と同紙は言う。
 
 なぜこうなのかについては、いろいろの説がある。まず書籍は、新型テレビやゲーム機に比べて安価であるから、絶好の代替品だ。また、失業者が増えているため労働時間が短くなり、空いた時間を読書に使う人が増えたとも考えられる。あるいは、最近数年間の過剰な労働を経験した人々が、今は読書によってものを考えるようになったのかもしれない。さらには、過酷な現実と直面したくない人々が、名作の中に逃げ込んでいるのかもしれない……。

 が、この傾向が長く続くと考えるほど、同紙は楽観的でない。というのは、書籍の売上が伸びているのは小売段階であって、卸段階では逆に減っているからだ。具体的には、アメリカでの昨年の本の卸売総額は2.4%減ったという。理由は、書店側が出版社への注文を減らしているからだ。また、書籍販売への不況の影響は、遅れてやってくる可能性もある。というのは、同紙が指摘しているように、1929年にウォール街で株価が暴落した直後は、書籍販売はさほど減らなかったものの、それから数年たって大恐慌が進行するにつれて本は売れなくなり、多くの出版社が倒産したからだ。が、逆に、不況によって生れた出版社もあるらしい。それは1935年に設立されたペンギン・ブックスで、同社の創業者は「よい本を煙草1箱の値段で」という新しい考えのもとに起業し、成功した。
 
 現在の書籍の好調の理由を考えるのに、参考になるデータがある。それは、このペンギン・ブックスから出ているジョン・ガルブレイス(John Kenneth Galbraith)の名著『大恐慌--1929年』の売上である。一昨年の同書のイギリスでの売上は200冊そこそこにすぎなかったが、昨年は1万2千部も売れたそうだ。ということは、この不況下にあってこそ、人々が求める本を出すことが出版社の命運を決めることになるのである。

 谷口 雅宣

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2009年3月14日

『日時計日記』に自由版できる

Freediary  生長の家が発行している『日時計日記』に“自由版”という新タイプ(=写真)が加わった。まだできたてホヤホヤなので、地域によっては入手できるのは数日後になるかもしれない。従来版の『日時計日記』は左から開く方式で、縦書きもできなくはないが、全体の構成は横書きを前提としている。日付と曜日が印刷されていて、記入項目も指定されているなど“自由度”が限定されていた。これに比べて新版は、右から開く方式を採用、ページからは日付、曜日、記入項目がなくなり、判型が一回り大きくなった。このため、より広いページを自由に使うことができる。また、表紙は上製本の頑丈なつくりになっている。
 
 もう1つの特徴は、1週間に1回の割合で、谷口雅春先生、清超先生、そして私の本からの抜粋文が「今日のあなたへ」という欄に掲載されていることだ。全部で53本の文章があり、それぞれをその週の指針とすることができる。また、日記を書くときの“手がかり”として、生活のアイディアを得るヒントとしても使うことができるだろう。リボンの栞(しおり)がついているのも親切だ。

 日記のつけ方は、各人各様であっていいと思う。1年分の日付をすべて印刷してある従来の『日時計日記』は、「毎日書く」という習慣を作るのに良いし、その年の「記録を残す」という意味でも優れている。一方、この“自由版”は、書く日と書かない日があってもいいが、書くときは書きたいだけ使え、イラストや絵をつけたり、写真やメモも貼りたいという人にとっては、とてもありがたい。また、講師の出講記録や、誌友会の記録などにも使えるだろう。私は、従来版の『日時計日記』をつける前は、文庫本サイズの『マイブック』というのを何年も使っていて、これは事実上、「何も印刷してない文庫本」だった。この“自由版”の印象は、それに近い。ただし、上に書いたように、ずっと大判であり、表紙も用紙もしっかりしているから、机上や本棚の中でも見栄えがする。

Mtimg090314  「善は急げ」という言葉もあるから、私は今日、さっそく最初のページに日付を書き込んで、好きなように使ってみた。読者も、工夫していろいろな用途に使ってみてはいかがだろうか。
 
 谷口 雅宣

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2009年3月10日

紙を使わない出版 (2)

 昨年の1月28日の本欄で「紙を使わない出版」と題して、アメリカで発売された電子本専用機のことに触れた。あれから1年数カ月たったが、3月16日号のアメリカの時事週刊誌『TIME』は、その後の電子本の“進化”について3ページの記事を載せている。それを読むと、最も有望なのは前回触れたアマゾンの「キンドル(Kindle)」の後継機である「Kindle 2」という専用機のようだ。詳しい仕様は、このサイトで見ることができる。私は早くそれを試してみたいのだが、日本への上陸はまだ先のようだ。
 
『TIME』誌の記事によると、359ドルの初代のキンドルはアメリカで約50万台売れたといい、品切れ気味の状態がまだ続いている。後継機は、初代より画面のコントラストと表示速度が向上し、電子本の収納容量が7倍に増えたため、一般的な書籍では1500冊以上が1台に収まるとか。初代同様に汎用ブラウザーがついているからインターネットが使え、テキストを読み上げる機能が新たに加わった。これで重さは約290gだ。1回の充電で2週間使えるというから、海外旅行にも持っていけそうである。こんなものが日本に上陸したら、紙製の本の売り上げはますます落ち、中小の書店は相当打撃を受けるだろう。

 すでにご存じの読者も多いと思うが、キンドルの最大の特徴は、インターネット書店のアマゾンから直接無線で、電子本のデータが入手できる点だ。つまり、電波が通じるところならどこからでも、高速で、廉価な本がほとんど無制限(1500冊)で買える。読書家の悩みである「本の置場」など心配する必要はないし、インターネットで本を探し、即注文して読めるという時代になる。それはもうアメリカでは始まっており、日本でも1年か2年先にはそうなるのだ。こうなると、“文書伝道”の方法はまったく違ってくるのではないだろうか。
 
 もちろん、紙製の本が数年先になくなるとは思わない。しかし現在、「文庫」や「新書」の形で提供されている情報のほとんどは、電子本に移行するような気がする。なぜなら、それらは手軽に1~2回読んで廃棄される種類のものだからだ。これからの我々は、この種の本は電子情報で取っておく一方、紙の手触りや手ごたえを楽しみ、あるいは美的な満足を得たいものは紙製の本として部屋に置いておく……というような使い分けをするのではないだろうか。では、現在、普及誌や機関誌のような雑誌の形で提供している情報は、いったいどうなるのだろう? この点をよく検討し、早い時期に次代に対応できる出版体制を整えておく必要を感じるのである。
 
 谷口 雅宣

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2009年1月28日

生長の家ブッククラブ (4)

 さて、ここまでの説明で、読者は『創世記』第1章と第2章には2つの異なる天地創造の話が書いてあること、そして、第2章の冒頭には「神が天地創造の7日目に休んだ」と書いてあることを理解されたと思う。また生長の家では、第1章の話を“実相世界の創造”、第2章の話を“現象世界の成立”だと解釈することも、前回書いた。そういう解釈ができたとしても、しかし「神が7日目に休んだ」のはなぜかという理由は、判然としていない。マレリー講師の説明でも、その点は明確でない。
 
 そこで私は、私自身の解釈をまとめてみようと考えた。そのためには、マレリー講師も引用した『生命の實相』第11巻52ページの記述--「天地創造の大音楽は、その一音符から次の音符にいたる間の旋律(リズム)の変化に、いうにいわれぬ平和と安息と調和とがある」--と、同講師のこれについての解釈--「一つの楽譜の中には休符を入れることができ、この無音の時があることによって、音を一定の時間味わえ、クレッシェンドの効果を際立たせることができる」--とが有効だと思った。これらに書いてあることは、「音楽は“休み”がなければ音楽にならない」ということである。言い換えると、音楽を楽譜に表せば、最初の音符がずっと長く続くことはなく、第1音符、第2音符、第3音符……というように、次々に異なる音が続いて表記されることになる。そうすることで、リズムが刻まれ、メロディーが生まれるのだ。このためには、第1音符が休み、次に第2音符に移ったあと、第2音符が休み、その次に第3音符に移る……というように、時間軸に沿って「発音」と「無音(休み)」とが繰り返されなければならない。つまり、無音(休み)は、それに先立つ発音を受け止めて、味わうために、なくてはならないものなのである。

 これをさらに言い換えれば、こうなる。音を使って表現するためには、音をあえて止める時間が必要である。ということは、音を発する表現は、無音が伴って初めて可能となるということだ。これはデルガードさんが指摘したように、文章は句点(。)を打って終ることで表現され、人間の生は死によって表現されるのと似ている。逆説的で、複雑な言い方かもしれない。が、マレリー講師も、このことを『真理の吟唱』の中にある「有限そのままに無限を悟る祈り」の一部を引用することで指摘していた。それは、次のような箇所である--
 
「画家は方尺の画布の上に無限をあらわす。無限そのままに無限になるときには、何ものも表現されないのである。無限がみずからを局限して有限ならしめることによって表現は行なわれる。完全なる自由を享受して何らの抵抗もなき空中には絵を描くこともできないのである。画家が、自己の絵筆の自由なる運行に摩擦して抵抗し、絵筆の無限の自由を制限するところに、美しき絵が描かれるのである」。(p.184)

 「有限によって無限が表現される」--これは音楽や絵画に限らず、表現芸術すべてに共通する原則である。しかし、この原則は“現象世界”におけるものであることを忘れてはいけない。現象の表現は、すべて時間と空間によって限定された不自由の中で展開されなければならない。が、それは神によって行われるのではなく、人間の頭の中で起こることである。つまり、神は現象を創造されたのではなく、初めから完全で自由な実相を創造されているのである。それは、表現される前の音楽にも似ている。例えば、モーツァルトの『春』という楽曲は、演奏家が演奏をしなくても、楽譜上に完全な形で存在する。いや、楽譜が存在しなくても、作曲家、モーツァルトの心中に完全な形で存在するのである。が、作曲家の心の中にあるだけでは、彼/彼女には聞こえていても、その他の大勢の人々には聞こえない。聞こえない音楽など、存在しないに等しいのだ。だから、作曲家はそれを楽譜に表し、演奏家は実際に演奏しなければならない。それによって初めて、作曲家も演奏家も音楽と一体となり、聴衆もそれを味わうことができる。聴衆の感動は演奏家に伝わり、さらに作曲家に満足を与える。
 
 この関係が、『創世記』の第1章と第2章の関係にもある。第1章において、神は完全な世界(実相)を創り給うたが、それだけでは、実相の素晴らしさを自ら体現するものも、それを体験する(味わう)ものもいない。そこで、自分のイメージに即して創造した人間に、神の創造を現象として再現し、また味わう役割を与えられたのである。神を作曲家に喩えれば、人間は演奏家であり、かつ聴衆である。作曲家が満足するためには、完璧な音楽ができ上がるだけでは不十分だ。それを誰かが演奏し、誰かが味わうことで作曲家の喜びは本物となる。『創世記』では、神が“6日間”で天地を創造され、完成されたことと、「7日目に休まれた」(創造が止まった)こととは切り離すことができない。神の創造を味わうためには、神の創造が止まらなければならないからだ。そして、この“休止”期間は、人間が神の創造を体験し、味わうための時間と空間(認識の形式)だと解釈できるのである。そうすると、人類の歴史全体が、神の創造を体験し、理解し、その素晴らしさを味わう過程だという結論に達することになる。

 --こんな意味のことを、私はブッククラブのディスカッションに書き込んだのである。
 
 谷口 雅宣

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2009年1月27日

生長の家ブッククラブ (3)

『創世紀』の記述で、神が6日間で天地を創造され、7日目に休んだとあるのはなぜか?--この疑問に最初に答えてくれたのは、ブラジルのサンパウロ市に住む女性信徒、ギゼラ・アパレシーダ・アマラル・デルガードさん(Gisela Aparacida Amaral Delgado)だった。デルガードさんは、「それは、文章の最後につける“点”とか、人生の最後に来る“死”のように、1つのサイクルが終ったことを示すものだと思う」と言った。「それは、ある意味で1つの状況に属していないにもかかわらず、やはりその状況の一部である何かを示すのだと思う」と彼女は言うのである。そして、『生命の實相』第11巻万教帰一篇上から次の箇所を引用した--

「七日ということが、鳴り鳴り続く創造の神業の無限進展をあらわしているとしますと、七日に安息(やす)むということは決して、創造の神業(かみわざ)が終わったときに、“ア疲れた! やれやれ”と思って休むということではないはずであります。創造神は“無限生命”でありますから、生命を出し尽くし精力を出し尽くして、ああくたびれた! 今日一日は休息しようなどという時はないのであります」。(p.52)

 これに対してマレリー講師は、この引用文の次にある谷口雅春先生の文章に注目する。それは--「天地創造の大音楽は、その一音符から次の音符にいたる間の旋律(リズム)の変化に、いうにいわれぬ平和と安息と調和とがある」という箇所で、これについて同講師は、「一つの楽譜の中には休符を入れることができ、この無音の時があることによって、音を一定の時間味わえ、クレッシェンドの効果を際立たせることができる」と述べた。
 
 私はそこで、「鳴り鳴り続く創造の神業の無限進展」という言葉の意味を明らかにしようと思い、こんな質問をしたのだった--
 
 ①もし神の創造が「無限の進展」であるならば、神の創造はまだ完結していないのだろうか?
 ②もし何かが永遠に創造され続けるのならば、創造主はすべてのものを数限りなく複製しているのか、それとも、以前とは違う何かを永遠に創造し続けているのだろうか?

 これに対するマレリー講師の答えは、再び『生命の實相』第11巻からの引用であった--
 
「すでに天地および衆群(すべてのもの)の真創造の神業(みわざ)は竣(お)え給うた。竣(お)えるといっても無限の継続でありますが、その無限に続く創造の業は、霊の世界における天地万物の創造であって、地(物質世界)に発生する以前(まで)の御創造の聖業であると明記されている以上は、霊の世界における無限創造以外に神の真創造はありえないのであります」。(p.62)

 この文章だけをいきなり読んでも、意味はなかなか理解できないだろう。『創世記』の天地創造の意味を知るためには、本当は上の引用文の元である『生命の實相』第11巻をしっかり読むべきだが、ここであえて簡単に解説しよう。

 実は『創世記』には、天地創造の話が「2つ」あるのだ。1つは、第1章から第2章の初めにかけてで、2つめは、第2章4節からその章の最後(24節)までである。神が天地創造の7日目に休んだという話は、第2章の初めの部分に書いてある。この“神の安息”を記述する前に、『創世記』には「こうして天と地と、その万象とが完成した」(口語訳)とはっきり書いてあるのだ。谷口雅春先生が持っておられた文語体の聖書では、それは「かく天地および衆群(すべてのもの)ことごとく成りぬ」と表現されていたようである。このあとに、2番目の天地創造の話が出てくるのである。

 上の引用文で、雅春先生が「地(物質世界)に発生する以前(まで)の御創造の聖業であると明記されている」と書かれているのは、先生の手元にあった“英文聖書”にはそういう意味の文章が第2章4節にあるかららしい。私は、先生の手元にどんな“英文聖書”があったか知らないので、今は確認することができない。しかし、先生ご自身の翻訳によると、そこにはこう書かれていたらしい--
 
「これエホバ神、天地創造の日に、天地と、地に発生する以前の野の植物と、地に発生する以前(まで)の野の草蔬(くさ)とを創造り給いし由来なり」。(p.57)
 
 こうして、先生は、第1番目の天地創造の話は“霊の世界”における真実の天地創造であり、2番目の話は“物質世界”における偽りの天地創造だという解釈に到達されている。言い直すと、最初の天地創造は“実相世界”の創造を描き、2番目の天地創造は“現象世界”の成り立ちを描いていると考えるのである。これは、生長の家独特の『創世記』解釈であるが、同じ書の中に「互いに矛盾する天地創造の話が2つある」という“謎”を見事に解決している。
 
 谷口 雅宣

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2009年1月26日

生長の家ブッククラブ (2)

 前回引用した『創世記』第2章2~3節を読んだ読者は、この日本語訳(口語訳)に曖昧な部分があることに気づかれただろう。それは「神は第7日にその作業を終えられた」という表現で、この日本語だと、第7日目に入ったいつかの時点で「作業を終えられた」と解釈することもでき、その場合、神は第7日目にも少しだけ天地創造をされたことになる。しかし、英語訳の聖書ではその点、もう少し明確なものがある--
 
(A) And on the seventh day God ended his work which he had made; and he rested on the seventh day from all his work which he had made. And God blessed the seventh day, and sanctified it: because that in it he had rested from all his work which God created and made. (King James Version)
 
(B) By the seventh day God finished what he had been doing and stopped working. He blessed the seventh day and set it apart as a special day, because by that day he had completed his creation and stopped working. (Good News Bible, 2nd ed., 1994)

(C) By the seventh day God had finished the work he had been doing; so on the seventh day he rested from all his work. And God blessed the seventh day and made it holy, because on it he rested from all the work of creating that he had done. (New International Version, 1984)

 詳しい分析は省略するが、この3つの英語訳のうち(A)の“欽定約”と称される「King James Version」以外は、神の創造が第7日目にまで入ったかどうかの判断は明確である。他の2つの英語訳を和訳すると、「神は第7日までにその作業を終えられた」となるだろう。つまり、第7日目には、神は何もされずに休まれたという意味であり、神がその日を“聖別”された理由は、まさに天地は完成したからであり、もう何もする必要がなかったからだとの解釈が成立するのである。
 
 マレリー講師は、もちろんこのことを知らなかったわけではない。それどころか、むしろこれ以上のことを、私の少し意地悪な質問(前回参照)に対して答えてくれた。同講師は「神が7日間で天地を創造した」とは「実際に創造活動を行った日だけでなく、休んだ1日を入れたものだ」と言った。さらにそれに続き、同講師は「数字の7は完成を表す」ことを、ユダヤ教の伝統にもとづいて例示してくれた。例えば、旧約聖書(ユダヤ教の聖典)はヘブライ語で書かれているが、この言語で「7」に該当する「Sheh'bah」という語は、「完全」や「充満」を意味する原語から来ていることを指摘。したがって「安息日」という意味の「Sabbath」はここから来ていると述べてくれた。そのことは、『出エジプト記』第20章8~11節に記されている--
 
「安息日を覚えて、これを聖とせよ。6日のあいだ働いてあなたのすべてのわざをせよ。7日目はあなたの神、主の安息であるから、なんのわざをもしてはならない。あなたもあなたのむすこ、娘、しもべ、はしため、家畜、またあなたの門のうちにいる他国の人もそうである」。

 ところで、数字の「7」が「完全」や「完成」を意味することは、聖書のこの箇所だけに書かれているのではない。同じ『出エジプト記』の第25章31~32節と第37章17~24節には、燭台の主柱と支柱は合計7本でなければならないと書かれ、同23章10~13節には、7日目の安息日だけでなく、7年目の安息年も必ず守れと書いてある。また、ユダヤ人がエジプトを出てカナンの地に入ってから50年ごとに“聖なる年”が来るとされるが、そのことを定めた『レビ記』第25章8節には「あなたは安息の年を七たび、すなわち、七年を七回数えなければならない」とある。新約でもこの考え方は継承されていて、有名なのは、自分に罪を犯したものをどれほど赦すべきかという問題で、ペテロが「七たびまでですか?」と訊いたとき、イエスは「七たびを七十倍するまでにしなさい」と答えている(『マタイ』18:21-22)。また、“主の祈り”として知られるキリスト教での模範的祈りでは「七つの願い」が唱えられる。このほか、「七つの徳」「七つの大罪」「七羽の鳩」などの概念の背後には、「7」を完全性の表象として見る考え方が明らかに存在する。
 
 この思想は、しかしユダヤ=キリスト教に特有なものではない。仏教においても「七」は、同じように「完全」や「全体」や「完成」を表現する数字である。菩薩の52の位階を7つに大別したものを「七科」と称し、完全な悟りを表す。また「七覚支」と言えば、悟りを得るための助けとなる7種類の修行項目を指す。「七観音」は、観世音菩薩が衆生救済のために身を変じた“すべて”を表し、「七大」と言えば、宇宙のすべてを「地」「水」「火」「風」「空」「見」「識」の7つに分けたものだ。「七堂」は、完全なる寺院に設置された7つのお堂であり、「七仏」は釈迦を含め、釈迦以前に出現したすべての仏をいう。

 こういう事実をしっかり押さえておくと、神が天地創造の際に「七日目は休んだ」ということの不思議さが浮き彫りになってくる。そこで私は、マレリー講師にこう尋ねたのだった--「しかし、なぜ神は休まなければならなかったのだろう。疲れたからか…退屈したからか…それとも、エネルギーが不足したからか……私にはナゾです」。
 
 谷口 雅宣

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2009年1月25日

生長の家ブッククラブ

 本欄の読者ならSNS(ソーシャル・ネットワーキング・サービス)のことをご存じだろう。昨年10月末に谷口清超先生へ感謝の言葉を書くためにアメリカの大手SNS「フェースブック」(Facebook)に生長の家のグループを開設したところ、日本からも多くの人々に参加していただいた。その後、この日本のグループの動きに目立ったものはないが、同時に開設した英語のグループのメンバーの間からは、新しい動きが始まっている。それは、「Seicho-No-Ie Book Club」(生長の家ブッククラブ)の発足であり、その中で『生命の實相』第1巻を使ったディスカッションが行われていることは、注目に値する。

 これは言わば“『生命の實相』輪読会”のオンライン版で、メンバーは今日現在で37人いる。人数は決して多くはないが、メンバーの住んでいる国を見ると、日本、ブラジル、コロンビア、アメリカ、カナダ、イギリス、ドイツ、スイス、となかなか多彩である。ブッククラブのリーダーは、アメリカのニューヨーク教区教化部長、ブルース・マレリー本部講師(Bruce G. Mallery)で、国際本部の国際部北米課長、メイ利子本部講師がシスオペを務めている。
 
 この種のオンライン・ディスカッションは、フェースブックなどのSNS内では国境を越えて盛んに行われているが、その場合の問題の1つは使用言語である。生長の家ブッククラブでは「英語」を使用言語に定めているため、英語の読解力がある程度のレベルに達していないと、何が議論されているかよく分からない。また、このグループは、今のところ“入会制限”を設けているので、誰でも加入できるわけではない。そこで、日本の読者のうち英語が苦手な人のために、この場を使って同クラブでのやりとりの一部を紹介しよう。
 
 『生命の實相』第1巻は、聖書の『ヨハネの黙示録』第1章12節から20節の引用によって始まる。これに関連して、いろいろな疑問が生まれる。1つは、「生長の家大神」と呼ばれる神が、聖書のこの箇所に出てくる神であるかどうか。また、そうであった場合は、その神はどんな姿形をしているかなどである。私は、このことは重要だと感じたので、昨年の11月25日から3回にわたって本欄に「生長の家大神の姿」と題して書いたのだった。ブッククラブでのディスカッションが、本欄の内容に大いに関係していたのである。
 
 その後、ディスカッションは『生命の實相』第1巻のページの順番に沿って進められ、やがて「七つの光明宣言」の解説に入った。それぞれの項目での細かい議論については省略するが、その過程でマレリー講師は、同巻の冒頭には聖書の『ヨハネの黙示録』が引用され、そこには「七つの燭台の点火者」が出てくることを指摘し、それらの燭台は「七つの信仰」を象徴していると述べた。そして、この「七」は「完成」を意味するから、「七つの信仰」とは「すべての信仰」のことだと解釈した。実際の聖書の記述は、そこまではっきりとは書いてない:
 
「そこで、あなたの見たこと、現在のこと、今後起ろうとすることを、書きとめなさい。あなたがわたしの右手に見た七つの星と、七つの金の燭台との奥義は、こうである。すなわち、七つの星は七つの教会の御使であり、七つの燭台は七つの教会である」。(『ヨハネの黙示録』第1章19~20節)
 
 ここにある「教会」を「信仰/宗教」を意味すると拡大して解釈すれば、それぞれの「信仰/宗教」に伝えられたメッセージは「一つの神」から発せられたものであるから、『黙示録』のこの箇所には「万教帰一」の考え方が示されている、と解釈できる。また、「七」が「完成」を意味することは、聖書の『創世記』において神が7日間で天地を創造したとされていることからも分かる--というのが、同講師のその時の説明だった。
 
 そこで、私は1つの疑問を提示したのだった。それは、『創世記』には、厳密には「神が7日間で天地を創造した」とは書いてないからである。書いてあるのは、神は「6日間」で天地を創造され、7日目には「休まれた」ということだ。聖書の実際の記述はこうである--
 
「神は第7日にその作業を終えられた。すなわち、そのすべての作業を終って第7日に休まれた。神はその第7日を祝福して、これを聖別された。神がこの日に、そのすべての創造のわざを終って休まれたからである」。(『創世記』第2章2~3節)

 私は、マレリー講師に「神は“7日間”ではなく“6日間”で天地創造をされたのだと思ってましたが……」と質問し、ここから、ディスカッションは思わぬ方向へ展開していくのである。
 
 谷口 雅宣

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2008年12月31日

2008年を振り返って

 29日の本欄で今年の“世界情勢”を簡単に振り返ったので、ここではその他のことについて書こう。

 生長の家は2007年度から「“自然と共に伸びる運動”実現のための第1次5カ年計画」を開始したが、それにもとづき、教団の活動に伴う温暖化ガスの排出をなくすという“炭素ゼロ”運動が本格的に始まったのは、今年からだ。まず1月には生長の家の本部が、国連によるクリーン開発メカニズムを利用した温室効果ガスの排出権の信託商品を5千トン分、三菱UFJ信託銀行から購入した。(1月10日)これにより、東京の同本部事務所、長崎県西海市の生長の家総本山、京都府宇治市の生長の家宇治別格本山から出る温室効果ガスの4年分が相殺された--つまり、排出されなかった--ことになる。これに続き、本部は玄関前に小型風力発電システム1基が実験的に導入された。(2月15日)このシステムは、現実の排出削減効果は大きくないが、使用しながら実際の発電でーたーを収集することで、将来の本格利用の参考にするという意味がある。
 
“炭素ゼロ”に向けた努力は、全国の信徒レベルからも始まった。長崎県西海市の生長の家総本山は、交通アクセスが不便な場所にあるため、九州以外から行く場合は航空機の利用も多く、空港からも自動車の利用が不可欠である。しかし、この過程で排出される温室効果ガスを削減するために、旅行会社が始めた“炭素ゼロ旅行”というのを採用する幹部・信徒が増えてきた。まず、埼玉県の信徒139人が、2月の団体参拝練成会に参加するためにこれを行った(2月17日)のに続き、他県からの参加者もこれを採用するようになってきている。また、同総本山にはすでに2000年に大型の太陽光発電装置が設置されたが、このほど新たに総出力50kWの新型光発電装置が練成道場屋上に設置されることが決まり、来年2月の完成を目指して工事が進んでいる。この装置は、同本山で使用される電力総量の約5%を供給することになり、稼働後は、従来の装置と併せると、同本山が使う電力総量の約2割が自然エネルギーで賄われる予定だ。

“炭素ゼロ”を目指す動きは、運動の具体的内容にも反映されている。生長の家では、全国59教区にある教化部会館や地方道場に信徒を集めて行事をすることに主眼が置かれてきたが、この方法だと、交通機関の便がよくない場所だと、どうしても自動車を使うことになる。しかし、これらの行事を地元で、自動車を使わずに行ける場所で行えば、温室効果ガスの削減が可能となる。また、信徒の住居に近い地元で行事を行うことで、参加者の増加も見込める。そういう行事の“地元シフト”がしだいに進んでいるようだ。そして、これを側面からサポートするために日時計主義の生き方を前面に出した“新しいタイプの誌友会”の開催も進んでいる。これについて詳しくは、今年2月29日の本欄や拙著『太陽はいつも輝いている』(副題:私の日時計主義実験録)などを参照されたい。

 生長の家は、すべての宗教の神髄は共通するという「万教帰一」の教えを掲げている。しかし、世界のメジャーな宗教であるイスラームについては、その“共通点”等の詳しい知識はなかった。が、昨年から今年にかけて行われた2回の生長の家教修会で、イスラームについて集中的に学ぶことができた。7月12~13日に東京で行われた生長の家教修会を経て、その結果の一部が2冊の単行本としてまとめられたことは、特筆に値する。なぜなら、イスラームは、まもなくキリスト教を超えて、信者数では世界最大の宗教となることが明らかだからだ。この2冊の本とは、エジプト人イスラーム法学者、カリード・アブ・エルファドル著『イスラームへの誤解を超えて--世界の平和と融和のために』(米谷啓一訳/日本教文社刊)と拙著『衝撃から理解へ--イスラームとの接点をさぐる』(生長の家刊)である。後者の拙著は、前者を含めたエルファドル氏の著書からの引用が多くあるが、日本人の視点から、また万教帰一の立場からイスラームへの理解を試みたものである。生長の家の“イスラーム解釈”としては最初の本と言えるだろう。

 この『衝撃から理解へ』の校正を終え、最後に「はしがき」の文章を編集部へ送ったのは10月17日だった。この頃から父の容態があまりよくなくなった。「急変した」というわけではないが、肉体の機能の面では長い下降線が続いてきた中で、これまでとは違った兆候が見られるようになり、約10日後に、父は蝋燭が燃えつきるように息を引き取られた。「故 生長の家総裁谷口清超先生追善供養祭」は12月17日に行われた。私は追悼の言葉の中で、清超先生が尊重された「自由」の精神によって私のアメリカ留学が叶ったということに触れた。それがなければ、私の人生においては、エルファドル氏の英文著書との出会いも、同氏を生長の家の教修会に招くこともなく、したがって『衝撃から理解へ』という本はこの世に誕生していなかったのである。だから、この書は、ぜひ父に読んでいただきたかった1冊であるが、今生でその願いがかなわなかったのは残念である。
 
 しかし、生長の家は「生命の不滅」を掲げる人類光明化運動であり、具体的には世界の平和を目指す国際平和信仰運動である。その方向に向かって、私たちは今年も確実な一歩を進めたことは誠にありがたいと思う。これからも更に前進するだろう。これは谷口雅春先生、谷口清超先生の数々の偉大なご業績によるものであり、また、世界中の信徒の方々の篤い信仰心とご支援、ご鞭撻のおかげである。変化に満ちた2008年の最終日に当たり、皆々さまに心から感謝申し上げます。ありがとうございます。
 
 谷口 雅宣

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2008年12月28日

本欄が書籍に (7)

Part12_bm  本欄の文章を集めた単行本シリーズ『小閑雑感』の第12巻目(=写真)が、来年1月1日付で世界聖典普及協会から発行される。カバーしている期間は、2007年11月から2008年2月までで、86篇のブログの文章が収録されている。だが事態は、特に世界経済の動きは、本書の文章が書かれた約1年前と現在との間に、大きな違いが生じている。当時は、石油の高騰からバイオエタノールの生産が利益を生むようになり、それが逆に食糧価格の高騰を招いていた。が、今日は、これらすべての値段は下がり、世界不況が深刻化している。仏教で言う「諸行無常」をこれほど鮮明に感じさせる時を、私は過去に知らない。だから、種々の経済指標の上がったり下がったりは結局、人間の心しだいであり、それらに振り回される生活から解放されない限り、我々は心の安寧を得られないということが分かるのである。

 しかし、こういう短期的な経済の浮沈の背後には、もっと重要な問題が隠されていることを忘れてはいけないだろう。それは、人類が今後「自然」とどうつき合っていくかということだ。これを「技術」の問題として捉える人々がいる。つまり、化石燃料の利用の上に立った現在の文明を、自然エネルギーや水素、原子力を基礎とした文明に転換することで、自然との共存は十分可能だと考えるのである。しかし、私はもっと深い「世界観」の問題としてとらえるべきだと感じている。そして、そういう意図で書かれた文章が、本書にはいくつか収録されている。それは、「人間と自然」という3回シリーズであり、「“欲望の街”と“霊的緑地”」「人間と動物の共存」「外来魚とのつき合い方」などである。しかし、これらの文章での考察はまだまだ不十分だ。まだ、入口をウロウロしている状態だ。そこからもっと先へ進むことが、今後の私の課題である。

 既刊の同シリーズともども、読者のご愛顧と忌憚のないご鞭撻をお願い申し上げます。

 谷口 雅宣

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2008年11月 6日

単行本『衝撃から理解へ』

Shogeki2_  前回の本欄で、9・11事件の後に、生長の家では「イスラームという宗教を知る努力が本格化した」と書いた。これは、本欄でも数多くイスラームを取り上げただけでなく、昨年と今年の生長の家教修会でもイスラームをテーマにした研究発表が行われたことを指す。が、このことは、我々がイスラームを完全に理解したという意味ではない。まだ研究の途上にあるが、一部理解が進んだという程度のものだろう。その理解を1冊の本にまとめたものが、まもなく生長の家から発刊される。『衝撃から理解へ--イスラームとの接点をさぐる』という題の拙著で、少し硬い内容の本だが、本欄の読者にはお勧めしたい。
 
 本欄でイスラームについて書いた文章は、すでに『小閑雑感』シリーズ(世界聖典普及協会刊)の第10~11巻などに収録されている。が、このシリーズでは、ブログの形式にならって時系列的にいろいろのテーマの短い文章を並べてあるから、一つのテーマについて集中して読みたい読者には、なかなか使いにくいのである。そこで、2005年夏以降のイスラームに関する記述だけを集め、横書きを縦書きにし、小見出しをつけ、註を補うなどの加筆修正を加えると、四六判で280ページほどの単行本になった。
 
 2部構成になっていて、第1部「イスラームの衝撃」は、ジャーナリズムのイスラームに関する報道から材を取り、今日のイスラーム社会の“外観”を描き、それが私に与えた“衝撃”を語っている。第2部「イスラームへの理解」は、そういう“外観”からは分からない、イスラームの中にある考え方や教え、イスラーム内部の“分裂”の状況などを、研究書などをひもといて理解しようとした試みである。上述したように「よく理解した」のではなく、「一部理解が進んだ」程度である。それでも、読者がこの本を読んでいただけば、イスラーム諸国で今起こっている出来事の“背景”が分かるから、さらに理解を深めるための足掛かりになると思う。巻末には参考文献も付してあるから、意欲的な読者は、それら専門家の著作にもあたり、理解を深めていただきたいと思う。
 
「自分は生長の家を学びたいのであって、イスラームなどどうでもいい」と思う読者には、この本は無理にお勧めしない。しかし、イスラームが世界第2の信者数を抱える大宗教であること、イスラーム諸国の人口動態などからいって、この教えはまもなく世界第1の宗教になること、また、イスラームへの理解がなければ生長の家の「万教帰一」は絵に描いた餅であること、などに思いいたってほしいのである。また、イスラームと生長の家との共通点を知りたい人は、この本の最終章「イスラームと生長の家」をまず読んでから、他の章へと読み進んでもらってもいい。この本には、イスラームの教義についての体系的な説明はない。それに興味のある人は、参考文献をたよりに次の段階へと進まれるのがよいだろう。
 
 谷口 雅宣

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2008年11月 3日

絵封筒、届きました。

 最近、島根県の白鳩会員さんから絵封筒をいただいた。収穫なった稲を丸太に掛けて乾燥させる「稲掛け」を近景とし、遠景には民家とその背後に広がる山々を全面に描いたF_hosh103108 大胆な構図で、受け取った私は「へぇー」としばし見とれてしまった。この方(仮にHさんとする)は、姑の介護などで多忙な毎日を送っておられたが、私の妻が夕食後の短い時間に毎日絵手紙を描いていることを本で読み、また、島根教区の中内英生・教化部長も、実家の母上に絵手紙を送っている話を聞いて、一念発起して自分でも絵手紙を描くことを決意され、夕食後の短い時間にそれを始めたという。今年の6月から開始したと手紙に書いておられるが、なかなかの腕前である。
 
 Hさんは絵手紙を描いているときの心境について、「絵筆をとっていると、いやな思いもいつしか消えてしまいますので不思議です」と書いている。また、私に送ってくださった絵封筒については、次のように述べている--
 
「今回、絵封筒は初めて描いてみました。『光のギャラリー』の本を参考に、絵の中に切手をどう取り込むか考えましたが、ちょっと時間がかかるのが難ですが、絵手紙とは又違ったおもしろさ楽しさがあると思いました」。

 初めて描いたにしては、見事ではないだろうか。
 
 私は、最近の生長の家講習会では、『太陽はいつも輝いている--私の日時計主義実験録』(生長の家刊)から引用しながら、我々の“右脳”が外界の情報を感じたまま受け取っていても、“左脳”がそれを無視したり、解釈によって抑圧したり、捻じ曲げることが多いから、たとえ現象世界であっても、我々はそこから正しいメッセージを受け取っていないことが多い--という話をする。Hさんが上で「絵筆をとっていると、いやな思いもいつしかきえてしまいます」と言っているのは、「いやな思い」というのが、我々の“左脳”の勝手な解釈から来ることを有力に示している。絵を描くことは、普通は“右脳”で行う作業であり、そこで美しいもの、面白いもの、楽しいもの等を感得したときに行われる。そして、そういう「明るいもの」に注意を集中しているときには、我々はその反対の「暗いもの」や「醜いもの」を心中から排除してしまう傾向があるのである。

 そのことを、私は講習会で「我々は対極のものを同時同所に認められない」などと言って説明している。有名な諺の「坊主憎けりゃ袈裟まで憎い」という性向を、少しむずかしく表現しているだけだ。「憎い」という一方の極端な評価が「坊主」にくだされている時には、その同じ場所にある「袈裟」も(どんなに愛すべき袈裟であっても)同種の極端な評価がくだされる--そういうことである。我々の“左脳”は、主として言語による世界の解釈に使われている。そして、言語情報のかなりの部分を、我々はマスメディアから受け取っている。そして、本欄でもしばしば指摘しているように、マスメディアから来る情報のほとんどは“暗く”“悪い”情報である。こうして、“右脳”を活性化して「明るいもの」に注意を振り向けることは、“左脳”がつくり出す過剰に暗い世界のイメージを打ち消す効果を生む、と言っていいだろう。

 谷口 雅宣

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2008年10月31日

本は電子化する

 昨日の本欄にも書いたように、今のインターネット技術を使えば、ひと昔前には考えられなかったことがやすやすとできる。大量の情報が瞬時に世界中に送れるというメリットを、宗教が伝道に活かすことができるか否かで、その宗教の成否が決まってしまう時代になりつつある、と私は思う。いや、今回のアメリカ大統領選挙でも、インターネット技術の利用の仕方が候補者の資金力を左右することが明らかになっているのだから、宗教や政治だけでなく、教育も企業経営も環境保全運動も、発明もリクルートも友達づくりも、農業も漁業も宇宙開発も……ということになってくるだろう。もちろん、宗教上の真理の把握や“悟り”、“愛”や“慈悲”の実践までがコンピューターだけでできると言うつもりはない。が、そういう宗教の“神髄”の部分ではなく、“周縁”の技術的方面でこの技術を活用することは、宗教運動も真面目に検討すべき時になっているのである。

 例えば、生長の家は“文書伝道”によって教勢を伸ばしてきた歴史があるが、今日は宗教が本や雑誌を使って伝道することはごく当り前になっている。また、ひと昔前は、森林伐採によって地球が棲みにくくなるなど考えられなかったから、本や雑誌--とりわけ、人々のためになる宗教、倫理、道徳に関するもの--を出版することは“善いこと”だと考えられてきた。しかし今日では、「地球環境を大切にしよう」という内容の本を出しても、「そういう本の出版が、森林や資源の枯渇を招いている」と批判されることがあるのである。生長の家でも、昔は月刊誌を百部とか千部一括して購読する人は尊敬の眼差しで見られたが、今では疑問視されることもある。これらは皆、伝道や運動の「方法」に関するものであり、それによって伝えられる真理の「神髄」や「内容」ではないから、宗教の“周縁”に属することだ。この“周縁”部分は、時代の要請が変化するとともに、必要なものは変えていくべきことは、私が本欄や生長の家の講習会などで繰り返し訴えてきたことである。
 
 今は、読者が本欄を読んで下さっているように、“文書”は電子情報として世界中を常時飛び回っている。電子情報は、伝統的な紙媒体による「書籍」と違い、運搬費も運搬時間もほとんどゼロ、大きさもほとんどゼロであり、複製が簡単にほとんど無限回できる。この特長を正しく利用すれば、書籍は早々に地上から消滅する--と、ずいぶん前から言われてきた。が、ご覧のとおり、書籍(本)は生き続けている。これは多分、我々人間が、一定の大きさと重さのある「モノを所有したい」という願望をもち続けており、また、書籍のような形態の情報媒体を「持ち歩き」「開き」「ページをめくり」「触れ」「飾る」ことから、満足感を得ているからだろう。が、情報機器の小型化と高機能化が進んでいる昨今は、そういう書籍であっても、売上げはどんどん減っている。そんな環境の中で、昔からの書籍を電子化する作業が大規模に行われていることは、出版業界の一大変化を予告するものだ。
 
 30日付の『ヘラルド・トリビューン』紙は、インターネット検索最大手のグーグルが、アメリカの出版協会と作家協会との訴訟で和解合意に達したことで、絶版本のネット上での公開が実現する素地が整ったことを伝えている。その合意によると、グーグルは1億2500万ドルを支払うことで、ネット上で絶版本を公開し、販売する仕組みを構築することができるという。グーグルは2004年以来、アメリカの大学や研究機関と協力して、それらの蔵書のデジタル化を進めてきた。これまでに700万冊のデジタル化が終っており、このうち400万~500万冊は絶版本という。同社は今、本の検索サービスにおいて、これらの本のうち権利者の許可のないものは、ごく一部しか読めないようにしているが、今回の合意により、本の内容の2割までを無料で読めるようにすることができ、有料では本全体が読めるようにできるという。このサービスにおける収入は、同社が37%を得て、残りの63%を出版社と著作権者で分けるらしい。また、同社がこのサービスに広告を載せた場合は、広告収入もこれと同じ割合で三者に分配されるという。
 
 このような仕組みが日本でも実現すれば、「書店にない」という理由で読めなかった本が、ネット上でいつでも読めることになる。そして、読者が紙媒体の「書籍」という形態にこだわらなくなれば、流通本が絶版本になる速度がしだいに速まり、取次店も書店も不要になる事態に至るかもしれない。しかし、この場合の“絶版本”とは「紙媒体での絶版本」にすぎず、本はネット上で永久に生き続けることになるのかもしれない。これに伴い、書籍の形で流通する本の数は大幅に減るのではないだろうか。これは今、音楽のネット販売が増え、CDの売り上げがどんどん減っている事態の再来である。そういう近未来を見越した現代の新しい“文書伝道”方法の開発が今、緊急に求められているのである。
 
 谷口 雅宣

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2008年8月25日

“百万の鏡”が映すもの (4)

 さて、本シリーズも4回目になったので、そろそろ結論を出さねばならない。が、幸いなことに、読者のコメントの中に“結論”らしきものがあるので、これについてまず述べよう。2人の読者が「図形自体には意味がなく、それを見る人の心の中に意味が想起される」という主旨の答えを述べられた。この答は、谷口雅春先生が『新版 真理』第7巻悟入篇の、問題の図形を提示された箇所に書かれている次の言葉と、ほとんど同じ意味である:
 
「外から来る光線の刺戟は、実は自分の心の内にある無限の相(すがた)のなかから、或る相を浮かび上がらせる契機を与えるだけである。」(同書、p.79)
 
 そうすると、「窓枠」や「田」の字のように見えた図形は、それを見る人の心を映す“鏡”の役割をはたしていることになる。では、その図形が、ここで言う心の“鏡”の役割をはたしているのは、それが何か人為的な工夫を凝らした特殊な図形だからだろうか? それとも、どんな図形でも、同様の役割を果たすと言えるのだろうか? この質問に対する答えは、上に引用した雅春先生の言葉を理解する人は、簡単に分かるだろう。我々の周りにあるどんな図形も皆、我々内部の相を映し出す“心の鏡”である--こう考えていいだろう。
 
 では、「図形」以外のものについてはどうか? ここで「図形」というのは、「描かれた形」あるいは「面・線・点などの集合から成ったもの」(いずれも『新潮国語辞典』の定義)の意味に使おう。換言すれば、図形とは、人為的に平面に描かれた形、または人為的に形成された立体ということになる。そうすると、「図形以外のもの」とは、二次元と三次元上に人為的に形成されなかったもの--つまり、(人間を除いた)自然界の現象すべてを指すことになる。これには、例えば「山」や「木」「草」「川」「海」「岩」「動物」……など無数のものが含まれる。これら無数の自然現象は、はたして「我々内部の相を映し出す“心の鏡”である」と言えるだろうか?
 
 この質問に対する答えを読者に考えてもらっている間に、「自然物」という考え方について少し述べたい。「自然物」という言葉は上掲の辞書では「自然界に存在する有形物」と定義されていて通常、人工物は含まない。これは、自然的(natural)なものに対して人工的(artificial)なものを考える我々の心のクセから来ているのだろう。が、1つ指摘しておけば、我々人間も「自然界に存在する有形物」であることに変わりないのだから、高層ビルのような人工的な建物であっても、サンゴ虫が形成したサンゴ礁と同じように「自然物」と呼んでも間違いではないはずだ。しかし、議論がややこしくなるので、今はそのことを問わずに、“自然”と“人工”を対比させる習慣に従うことにする。
 
 では、自然物とは具体的に何だろうか? それは、上に例示した「山」「木」「草」「川」「海」「岩」「動物」……などだろう。しかし、「山」が本当に自然物であるかどうかは議論の余地が十分あると思う。私の言う意味は、現代においては地球上のほとんどの「山」には人間の手が入っているというようなことではない。そもそも「山」などというものが自然界に存在するか、という問題である。誤解のないように言っておくが、私は一般に「山」と呼ぶものが現象界に存在しないと考えているのではない。そうではなく、「山」に対して「平地」や「里」や「丘」を別のものとして捉える考え方は、人間の独断であり、不自然ではないかということである。
 
 説明しよう。地球の“外皮”に該当する部分を「地殻」と呼び、その表面に堆積したものを「表土」とか「土壌」と呼ぶ。これらは均一でなく、地殻変動や河川の活動などによって隆起したり陥没しているのが自然状態だ。が、その隆起のうち一定の高さ以上のものを、我々は周囲の地殻から視覚的に分けて取り出し、それを「山」と呼んでいるのである。「山が在る」のではなく、何か別のものを「山と呼んでいる」のである。「一定の高さ」がどれだけであるかは、人間が勝手に決めており、それより低いものは「丘」と呼んだり「盛り土」と呼んだり、「堆積」と呼んだり……つまり、これらは、もっぱら人間の心の中の独断的分類であって、その言葉に正確に対応するものが自然界に存在するわけではない。したがって、「山」は自然物として存在しているのではなく、人間の心の反映の一部であるに過ぎない。
 
 この議論に賛成してくれる読者は、同じ論法によって、「草」「木」「川」「海」「岩」「動物」……なども人間の心の反映であって、自然界にそのまま存在するものではない、という議論にも賛成してもらえるのではないか? この結論に達するまでにはもっと説明が必要かもしれないが、スペースの関係で省略する。私がここで言いたいのは、人工物のみならず、自然物も「我々内部の相を映し出す“心の鏡”である」ということだ。このことが分かれば、『天使の言葉』にある“百万の鏡”が何を意味するかも了解されるに違いない。
 
 我々は今、この瞬間にも、上下左右四方四維を“百万の鏡”に取り囲まれているのである--「汝ら億兆の現象も、悉くこれ自己の心の反映(うつし)なることを知れ」ということである。
 
 谷口 雅宣

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2008年8月23日

“百万の鏡”が映すもの (2)

 21日の本欄では、聖経『天使の言葉』から引用して、百万の鏡に映した1つの物体は、百万の異なる姿に見えていても結局、同じ1つの物体であるという喩え話の正しい解釈を考えた。私はこの際、比喩が「鏡」を使っているところに重要なポイントがあると書いた。今回は、そのことを中心に考えてみよう。

 鏡の1つの大きな特徴は、「自分の姿がない」ということである。もちろん、バッグに入るような手鏡であれば、縦何センチ、横何センチという限定された大きさがあり、恐らくプラスチックや木の枠の中にはまっているだろう。しかし、そういう大きさや形は任意のものである。つまり、どんな大きさや形であっても、「鏡であること」は妨げられない。
 
 手鏡も、姿見も、医療用の内視鏡も、歯科医が口の中を見る鏡も、一眼レフ式カメラに内蔵された鏡も、万華鏡も、自動車のバックミラーも、大型反射望遠鏡に使われる鏡も、大きさや形はまちまちだが「鏡」であることに変わりはない。それらの鏡は、その姿形や大きさが重要なのではなく、「何を、より正確に映すか」が重要であり、その目的に従って鏡のサイズや形が変わっていく。つまり鏡は、自分が言わば“無”になって、映す対象の姿形をどれだけ正確に反映するかに奉仕するのである。
 
 このような鏡が、神(唯一神霊)の様々な側面を映して、相異なる姿形を現じているのが我々人間である--と『天使の言葉』は説いている。これは“一即多”と呼ばれる教えでもあり、分かりにくいものの一つである。そこでここに“例題”を掲げよう。下の画像は、谷口雅春先生の『新版 真理』第7巻悟入篇に出てくる図形である--
 
Tambonota  この図形を、『天使の言葉』の中にある「唯一神霊」の位置に置いて考えよう。もちろん、これはあくまでも説明のための便宜上の仮定であって、「神」や「唯一神霊」がこんな単純な図形によって過不足なく表現できると言うつもりはない。まず単純な例で理解した後に、複雑なものへと類推を働かせる--そのための説明である。

 読者は、この図形を何だと考えるだろうか? 人間は物事に名前をつけて、それを考えの“単位”とするが、この図形が何であるかの説明がなければ、自分の知識や記憶の中から、これと形がよく似たものを探し出して、それがこの図形が表象しているものだ、と結論づけるだろう。
 
 谷口雅春先生は、「これは窓の枠の影であります」(同書、p.78)と書いておられる。が、すぐその後に「まあそう思えばそう見えるのである」と続けていられる。つまり、この図形を定義づけるものは、図形そのものではなくて、それを見る人の心だということだ。それも、図形によって、心の中にまったく新しい名前や概念が作られるのではなく、すでに存在する名前や概念や形を当てはめることで、「図形を理解した」と考えるのである。言い換えれば、我々はこの図形を通して「自分の心」にあるものを見るのである。そういう意味で、この図形は、見る者の心を映す「鏡」の役割を果たしていると言うことができる。

 雅春先生は、この図形によって我々の心の中に「窓枠」を想起させられた後で、今度は「しかし或る人はこれを見てこれは(中略)田という字の影だけ書いたのだと言うのです」と書かれている。つまり、同じ図形が「窓枠」にも見えるし「田」の字にも見えるということだ。そこで読者に質問しよう。いったいこの図形は、本当はどちらだと考えるのが正しいだろうか?
 
 谷口 雅宣
 

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2008年8月14日

本欄が書籍に (6)

 すでに一昨日の本欄で触れたが、このブログの文章等を集めた単行本の11巻目、『小閑雑感 Part 11』(=写真)がまもなく世界聖典普及協会から出版される。正式の発行日はPart11_bg 9月1日だが、版元では宇治の大祭に間に合わせようと諸準備を急いでいる。今回の本が扱う時期は、約1年前の2007年7月から10月までの4カ月間で、81篇が収録されている。特徴と言えるのは、イスラームに関する文章を初めとして宗教や哲学に関するものが全体の65%(53篇)と多いこと。それにともない、地球環境問題に関する記述が相対的に減った。しかしこの問題は、すでにマスメディアが日常的に取り上げるようになっているので、私でなければ言えないことは、それほど多くない。
 
 ただ、地球温暖化とそれにともなう気候変動は、ノーベル平和賞をとった国連のIPCC(気候変動に関する政府間パネル)が、受賞当時に予測したよりも急激に進んでいる可能性が高い。だから、本書の「はじめに」にも書いたように、各国の指導者たちはこれを“非常事態”として認識し、強力なイニシアティブによって低炭素社会への産業構造の抜本的変革を行ってほしいのである。以下、「はじめに」から引用する--
 
 地球温暖化は、(人類にとって)巨大で複雑な地球全体の気候システムが「温暖化」へ向っていく現象だから、個人や1国の努力だけではどうにもならない側面をもっている。が、逆に、少しでも多くの個人と国家が温暖化抑制の方向に動かなければ、止められない現象である。また、現在の気候システムには“引き返せない地点”(a point of no return)があると言われていて、その地点まで温暖化が進めばシステム全体が従来とは変質してしまい、もとへもどれなくなると考えられている。これを譬えれば「滝に向かって進む船」のようなものだ。滝から逸れるために舵を切るのでは、間に合わないかもしれないのだ。船の速度が速く、滝の流れが急激であれば、落下から免れる唯一の方法は、左や右へ“舵を切る”のではなく、船を逆行させることだ。そのためには船全体に負担がかかり、転倒したり、マストから落下して犠牲者が出るかもしれない。しかし、船全体と乗組員の大多数は助かるのである。

 --私がここで「船を逆行させる」と言っているのは、化石燃料の利用をやめることを指す。いきなりやめるわけにはいかないから、「増やさない」ところから始めて、早く「減らす」方向へ産業全体を誘導すべきである。これは日本1国のことではなく、地球全体でその方向へ進む合意に達する必要がある。そのための途上国への技術支援と、制度的枠組みの整備を先進国は一致団結して進めるべきと思う。

 この文脈の中で、宗教運動に何ができるだろうか? 現在の資本主義経済は一種の“欲望増幅装置”のような役割をはたして地球資源の枯渇を加速させている。だから私は、宗教はその欲望を沈静化し、「足るを知る」倫理を広め、さらには「与える」喜びを拡大していくべきだと思う。すでに与えられている全てのことを十分味わって感謝し、余分のものは他へ回していく。そういう布施や、菩薩行、愛行の原動力として、宗教は進むべきである。地球温暖化時代には、宗教者の役割は実に大きいと言わねばならない。
 
 谷口 雅宣

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2008年8月13日

水木しげるの“妖怪”

 8月3日の本欄では、先ごろ亡くなった赤塚不二夫さんのマンガと私との関係について、少し書いた。その時に、同じマンガ家の水木しげるさんの名前も出したが、『墓場の鬼太郎』や『ゲゲゲの鬼太郎』等の水木作品については触れなかった。記憶をたどってみると、子どもの頃の私は、マンガの中の“絵”の質にも興味をもっていたから、赤塚マンガとは対照的な水木マンガの“絵”--つまり、根気のいる点描や緻密な線描によって絵に現実味をもたせた作風--には、いつも感心していた。また、それによって描き出される日本の田舎の風景や、そこに溶け込んでは現れる数々の妖怪にも、一種のリアリティーを感じていた。
 
 水木さんがなぜ、墓場や妖怪のマンガばかりを描いてきたのか、私は知らない。が、12日の『朝日新聞』夕刊に載った水木さんのインタビュー記事を読んで、何となくその理由の一端を理解できたように思った。水木さんは、20歳で軍に召集され、21歳のとき陸軍二等兵としてラバウルのあるニューブリテン島の最前線で、何度も死線を潜る経験をしたすえ帰還したそうだ。その時の話を、私は興味をもって読んだのである。
 
 6月19日の本欄で、「ふと思いつくこと」と“高級神霊”の導きとの関係について書いたが、水木さんが九死に一生を得た背後にも、そんな不思議な力が働いていたと解釈できるのである。記事によると、水木さんはある日、10人の小隊で最前線に送られ、不寝番をしながら海から来る敵を見張っていたという。そして、「望遠鏡であちこちのぞいていたら、きれいな色のオウムがいたんですよ。見とれてね、戻る時間がちょっと遅れた」という。この少しの遅れのおかげで、後ろの山から来た敵が小隊の兵舎を襲ったとき、その場に居合わせなかったのだ。水木さんだけが生き残り、やっとの思いで中隊に合流したそうだ。この後、敵の爆撃に遭って左腕を失ったため、水木さんは後方の野戦病院に送られる。このことも、生還できた大きな理由だろう。
 
 いつ敵の攻撃があるかもしれない最前線で、オウムの色の美しさに感動する心境になるというのは、「ふと思いつく」のと似ている。言い換えれば、これは「ふと美に振り向き」、戦う心をしばし忘れることであろう。それによって、水木さんは敵の攻撃を擦りぬけた。その後、左腕は失ったが、後方へ回されたことで、今度は“玉砕”を免れた。この際の水木さんの心境について、本人は次のように語っている--
 
「後方では、現地住民と友達になって、毎日のように集落に通いました。彼らは、食べて、昼寝して、畑を耕して、うまくいっている。規則なんかでがんじがらめじゃない。本当の自由がありました。私の理想の生活ですねえ。しまいには、“畑も家も嫁さんも世話するから残らないか”と真剣に言われたくらい、なかよくなりました」。

 このような水木さんの心境が、憎しみがぶつかり合う戦場や、その「憎しみ」の具象化である爆弾や弾丸から、水木さんを遠ざけていたに違いない。そのために左腕を失ったが、これが右腕でなかったおかげで、私も、私の子供たちも、そして戦後の多くの人々が水木マンガを楽しみ、またそこから多くのことを学ぶことができた。戦争では、何十万、何百万もの命が失われる。しかし、その中の「1人」であっても決して“虫ケラ”でないことを、この話は教えてくれる。「人間1人が生きる」ということの価値を改めて知るとともに、水木さんの戦後の活動の背後には、生還できなかった多くの戦友たちへの想いを感じる。水木しげるが描く“妖怪”は、そんな戦友たちの“魂”ではないだろうか。
 
 谷口 雅宣

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2008年8月 3日

赤塚不二夫さんを偲ぶ

 マンガ家の赤塚不二夫さんが亡くなった。中学・高校と「おそ松くん」や「天才バカボン」を読んで育った私としては、赤塚さんが私より1回り以上年長であるにもかかわらず、「一時代が終わった」と寂しく感じる。1日の本欄を読んだ読者は、高校時代の私は学校の新聞紙上で論陣を張る“硬派”のような印象をもったかもしれない。しかし私は、その一方で、教室や出版部の部室で友人と『少年サンデー』や『少年マガジン』を読んで笑い転げる普通の高校生でもあったのである。また、授業の合間に、ノートの隅にチビ太やイヤミ、デカパンの絵を描いていたことも憶えている。
 
 私は若い頃に赤塚さんのナンセンス・ギャグから“笑い”を大いに頂戴したのだが、結婚後にも“父親”として再びお世話になった。というのは、子どもが小学校へ通いだすと当然、テレビを見たり、マンガを読むようになるが、巷には質の良いマンガが少ないのが親の悩みだった。特に子どもに小遣いをあげるようになると、彼らは本屋へ行って自分でマンガが買えるから、エロ・グロや大人のマンガに触れる機会が生まれる。そういうリスクをできるだけ減らそうと思い、考えついたのが、父親が自分で選んだマンガをどんどん買ってしまうという方法だった。
 
 私は子供のころ、赤塚不二夫だけでなく、横山光輝、桑田次郎、石ノ森章太郎、白土三平、水木しげる、手塚治虫……などのマンガに親しんだ。これらの作家の作品は、スケールの大きさや物語性、人生の描き方、絵の質などで優れていると感じていたので、それらを先に子供たちに味わわせれば、二流・三流のマンガには興味を向けなくなるだろう、と考えたのだ。「悪貨良貨をくじく」と言われるが、その逆も可能であるに違いないと思ったわけだ。成長過程にある子供の心は、実際にはそんな単純にいかないのだが、親としてはそう思うことで安心したかったという面もある。そんなわけで、心配性の父親は、自分が子供の頃に読んだマンガの単行本を、機会を見つけてはいそいそと本屋で買い、子どもたちの本棚を埋めていったのである。
 
 こうしてわが家には、子供にとっては“一時代前”のマンガ文庫ができ上がった。その中でも、子供たちから最も人気のあった作品の1つが「天才バカボン」だった。特に2番目と3番目の子がこれの愛読者となり、同じマンガを何回でも読んだ。休日に部屋で静かにしていると思えば大抵、ベッドの上でマンガを開いてニヤニヤしているのだった。
 
 “恩人”と言えば大袈裟だが、こんな具合にわが家で二代続いてお世話になった赤塚さんの冥福を、心からお祈り申し上げます。
 
 谷口 雅宣

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2008年6月26日

生長の家は温暖化抑制に努めている

 地球温暖化抑制のための対策として、京都議定書で定められた温室効果ガスの排出権取引があることは、本欄の読者ならばすでに十分ご承知のことだろう。これについては本欄で何回も取り上げ、必ずしも諸手を挙げて賛成はしていないものの、その一部については、実質的な温室効果ガス排出削減の効果があると認めてきた。洞爺湖サミットの開催を直前に控えて、政府内部でも排出権取引の方針が煮詰まりつつあるようだ。ただし、あくまでも企業の「自発的な参加」を原則とするうえ、「自主的削減目標」しか設定しないようであり、効果はきわめて限定的だ。6月25日付の『朝日新聞』などが伝えている。私は、東京都が25日に可決した環境確保条例改正案のように、一定規模以上の企業に温室効果ガスの削減を「義務化」するのでなければ、実質的な効果はあまり望めないと思う。

 22日に富山市で行われた生長の家講習会では、参加者の質問の中に生長の家の環境問題への取り組みが不十分ではないかと、疑問を呈する内容のものがあって、私は驚いた。それは62歳の自営業の男性からのもので、こういう内容である--
 
<「生長の家」の信仰を多くの人々に知ってもらうには、マスコミ等による宣伝が少ないと思います。又CO2の削減のアピールも少ないと思います。今のままでは少しもの足りないと思います。>

 そこで私は、生長の家が日本の宗教界では最初に、環境経営の国際基準である「ISO14001」を取得したことや、今年の1月には韓国のフロンガス工場から排出される強力な温室効果ガスの排出削減に貢献して排出権を獲得したこと、また、現在は“炭素ゼロ”運動を強力に推進していることなどを話して、この質問者の誤解を解こうとしたのだった。そんな中で、本欄の読者、濱田貴博さんから、1月10日の本欄へのコメントの形で、生長の家の排出権取得を評価する文章が、最近発刊されたビジネス書に書かれていることを教えていただいた。うれしいニュースである。この本は、北村慶著『排出権取引とは何か--知っておきたい二酸化炭素市場の仕組み』(PHPビジネス新書)で、初版発行日は今年の7月2日(!)であるから、まさに出来たてホヤホヤである。
 
 この本の25ページには、こうある--
 
<日本で初めて「排出権」を信託方式により小口化した三菱UFJ信託銀行の「排出権信託」を購入した先には、企業だけではなく、「生長の家」という宗教法人もあります。「生長の家」は、信者数200万を超える日本を代表する宗教団体です。>

 このあと、生長の家の公式サイトに発表された文章を一部引用してから、さらにこう書いてある--

<「排出権」については、温室効果ガスを排出できる権利--すなわち、地球を汚す権利--と捉えると、環境問題に真摯に取り組んでこられた人々や団体から、環境問題をカネで解決するものではないか、という疑義を受けやすいという側面があります。
 しかし、私たちが生活し、活動していく以上、それが個人の活動であれ、企業活動であれ、宗教活動であれ、温室効果ガスは発生してしまいます。
 その意味で、「生長の家」のように、地球環境への負荷を軽減する自助努力をまず行い、それを補う形で国連で認められた「排出権」を補完的に用いるという考え方は、十分に受け入れられて然るべきものであると思われます。>
 
 私は著者の北村氏について何も知らないが、この書の略歴には、「慶応義塾大学卒、ペンシルベニア大学経営大学院留学。大手グローバル金融機関勤務。日本証券アナリスト協会検定会員、ファイナンシャル・プランナー1級技能士。日米欧で、投資ファンド、M&A仲介・コーポレートアドバイザリー業務、および環境関連のプロジェクト・ファイナンスや金融商品開発に携わる」とあるから、現役のファイナンシャル・プランナーなのだろう。これまで何冊も著書があり、北村氏自身のブログには「金融ビジネス書作家」との肩書きが使われている。

 排出権取引のことが分かりやすく書いてあるので、読者諸賢にも一読をお勧めする。
 
 谷口 雅宣

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2008年6月22日

“神の試練”とは?

 今日、富山市で行われた生長の家の講習会で、私は、生長の家では神を「試練」や「天罰」を与える存在として捉えないという話をした。これは、テキストとして使った谷口雅春先生の『新版 幸福生活論』(2008年、日本教文社刊)に、次のような記述があるのを引用したときだった--
 
「吾々は意識に於いては善なる大生命と調和して生活し、働き、想念し得ると共に又反対することも出来るのです。実相に於いては如何にともあれ、若(も)し吾々の意識が神の意識に対して反抗的に働くならば吾々の生活には凡(あら)ゆる方面に於いて不調和が生ぜざるを得ないのです。このとき所謂(いわゆる)“試練”とか、“神の鞭(むち)”とか、“神の怒”とか云う状態があらわれ、吾等は試みられ、籾摺機(もみすりき)にかけられたる穀物のように篩(ふるい)別けられるのです」。(p. 53)

 この文章は、サラッと読み飛ばしてしまうと、まるで神は“鞭”を振るったり、“怒”ったりしながら、人間に“試練”を与える、と説いているように感じられる。が、注意して読むと、そのまったく逆のことが説かれていることが分かる。この点を明確にしたかったのである。ポイントは「所謂」という言葉だ。この言葉は、「世に言うところの」という意味で、「一般にはこう言われているが……本当は違う」という反語的な意味にも使われる。ここでは、まさにその反語的意味で「所謂」は使われている。そのことを示しているは、この文に先立つ次の一文である--
 
「吾々の生命の流れが、善ひとすじの大生命の流れから分離する、その時、悪と見ゆる状態があらわれて来るに過ぎません。吾々は実相に於いては決して大生命と分離出来ない、併(しか)し吾々の意識の中(うち)に大生命との交通を中断させる如き念が起るとき、三界は唯心の所現であるから、神から見放されたような不幸な状態があらわれるのです」。

 谷口雅春先生は、結局ここでは人間の“自由意思”の問題を説かれているのである。人間には“意思の自由”があるから、実相に於いては神の子の善性を宿しながらも、現象としての個人の意識、集団の意識の部分で「大生命との交通を中断させる如き念が起る」ことがあり、その念にしたがって行動した場合は、現象に於いて「神から見放されたような不幸な状態」が起こるということである。神は彼を本当に「見放す」のではなく、「見放されたように見える」状態が現れるのである。この違いは重要である。「見放す」という行為は、神が人間に対して行うのではなく、人間が“意思の自由”によって、自己の真性であるところの“神の子”を一時的(現象的)に見放すのであり、その結果、実相に於いては大生命と一体でありながら、「善ひとすじの大生命の流れから分離する」ような現象が現れる、ということである。
 
 これは、実相と現象の関係をきちんと理解していない者にとっては、理解がなかなか難しいかもしれない。だから、もっと一般的な宗教にあっては、「神の怒り」「天罰」「試練」「神のムチ」「閻魔大王」などという言葉を使って、我々人間がこの世で行う“意思の自由”の行使を常に見張っている、強大で恐ろしい力の存在を説くのである。一般庶民にはその方が分かりやすく、また効果的な場合もあったからである。しかし、科学的知識の普及と個人の意識の向上が進んだ現代では、その効果はしだいに薄れつつあると言えよう。

 神は、他の生物とは異なった“意思の自由”をもった存在として人間を創造することで、他の生物には不可能な目的を達成しようとされている。その目的とは「善」の実現である。自由のないところには善も悪もない。“悪”とは、“意思の自由”の誤用によって現象的に起こる「神から見放されたような不幸な状態」のことである。本当に「神から見放された」のではなく、自分が“自己の真性”を見放した結果である。悪現象が起こったときは、だから、自己の真性の自覚を深める神想観が大切なのである。
 
 谷口 雅宣
 

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2008年5月20日

どんなご縁で……

 今日の朝食後の食器洗い中、妻と会話をしながら介護の話題になった。その時に妻が教えてくれた“ある作家”のエピソードが心に残ったので、読者の皆さんと共有したいと思い、ショート・スピーチ(約2分)をやった。このとき妻は“ある作家”の名前が思い出せなかったが、後で調べてくれたところによると、その人は耕治人(こう・はると)氏で、このエピソードが載っている本は、耕治人著『そうかもしれない』(晶文社、2007年)である。ただし、このエピソードの解釈は私たち2人のものであって、耕氏の本には書かれていない。
 
 谷口 雅宣

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2008年5月11日

庄野潤三氏の日記

 生長の家の出版・広報部の人が興味あることを教えてくれた。作家の庄野潤三氏が日時計日記をつけている可能性が大きい、というのである。とはいっても、生長の家が出版物として『日時計日記』を発刊したのは2007年版からで、庄野氏の芥川賞受賞はそれより半世紀も前のことだ。だから、もしこの可能性が事実だとしても、我々よりもこの大作家の方が“大先輩”ということになる。で、その可能性を有力に示しているのが、2002年11月にマガジンハウスから発行された『ku:nel』(くうねる)のインタビュー記事だというのである。
 
 私は、『太陽はいつも輝いている』(生長の家刊)の中で庄野氏の小説を取り上げて「小説版の日時計日記」と形容し、そこには「日時計主義と共通する“人間の本性への信頼と讃美”が貫かれている」と書いた。が、庄野氏がもし日時計日記のような「よいことばかり書く日記」をつけていたとしたならば、氏の作品の比類のない質の秘密を知ったような気がして、うれしくなった。

 そこで問題のインタビュー記事だが……インタビューアーの女性が、庄野氏の書斎の机の上に何冊も重ねてある日記のことを、こう書いている。

「毎朝、この部屋に入るといちばんに、前の日のできごとを詳細につける。……そして、日記を開き、それを見ながら原稿にしていく。たいてい、ほぼそのままが原稿になる」。

 さらに、こうある--

「この日記には、嫌なことは書かない。うれしいことだけを取り上げる。だからこそ、小説には“おいしい”“ありがとう”という感謝の言葉が並ぶ」。

 このあと、庄野氏自身の言葉が次のように続く--

「人間が生きていく以上、不愉快なことにも必ず出会うわけですけど、それを大きく取り上げない。それを無視したいという気持ちがあるわけですね。それから、人間は必ず死ぬものですけれど、死ぬってことも考えちゃいけないと、自分に言い聞かせているんですよ。自分が死んだら、家族はどうなるだろうかとか、お葬式はどうかなんてことはね、考えないようにしてる。ありがとうと言えるような事柄が、毎日起こることだけを期待しているわけですね。」(同誌、pp.84-85)

 この「ありがとう」という言葉が、形式ではなく、心から出ることの難しさは、私が『ぱすわあど』でも取り上げた通りである。庄野氏も、そのことにインタビューで触れている。
 
「“ありがとう”というのは、年月の積み重ねでできあがったものです。実生活の経験がまだ少ない人たちは、どんなふうに読むのかなぁと、ちょっと見当がつかないんですけれども。だけど、ぼくは難しいことを書いているわけじゃないから、ぼくが“ありがとう”と言えば、“ほんとに庄野さんはありがとうと思ってるんだろうな”と。それは通じているかもしれません」(同誌、p.85)

 人生の暗黒面を見ないという点については、庄野氏は9・11後の11月に行われた作家の江國香織さんとの対談で、次のように言っている--
 
江國--(前略)さっき炭疽菌の話がでましたが、今、世界ではテロが起きたり、狂牛病騒ぎがあったり、親が子供を殺してしまったりと、陰惨な事件がひっきりなしにあって、新聞やテレビの報道を追っていると、どうしてもそういったことに目が行きがちですが、庄野さんのお書きになるものを読むと、じつはそういうことは本質ではない、大切なことはもっと別な身近なところにあると教えられます。僭越ですが、御自分にとって大切なことと、そうでないことをきっちり分けていらっしゃいますね。

庄野--それはありますね。炭疽菌とかテロとか、そういうことはあっても見ないのです。自分とはかかわりがない。自分に大事なのは、脂身をつつきにくるシジュウカラだという、そういう気持があります。

 これだけの会話では、庄野氏が人生の暗黒面を「見ない」という意味が、「臭いものに蓋」式のことか、それとももっと深い理由があるのかは分からない。が、私は、氏の作品群について「小説版の日時計日記」と書いたことは、それほど間違っていなかったと知り、安心したのである。

谷口 雅宣

【参考文献】
○庄野潤三著『孫の結婚式』(講談社、2002年)

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2008年5月 9日

電子本『ぱすわあど』を登録

 4月下旬に本欄で連載した童話「ぱすわあど」のスタンドアローン版を作ったので、ここに登録する。IBM互換パソコン専用なので、マックでは動作しない。本のページの上で左右のマウス・クリックをすると、ページをめくるというだけの簡単なものである。プログラム・ファイルをできるだけ小さくしたかったので、最小限の機能にした。使ったソフトは「Neobook」というアメリカ製のオーサリング・ソフトである。興味のある読者は、電子本を使ってみて感想を聞かせてください。(下のリンクでマウスを右クリックすればいい)

電子本『ぱすわあど』をダウンロード
 
 谷口 雅宣

追伸:『ぱすわあど』のβ版をVersion 1.0 にアップグレードし、本のページをめくる音をしこみました。ファイルのサイズはほとんど変わっていません。(5月10日記)

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2008年5月 6日

美術館をめぐる

 今日は午後から北杜市の町に下りていき、「小淵沢絵本美術館」と「くんぺい童話館」を訪問した。絵本美術館では私の知らない外国の絵本作家の原画展をやっていた。また、ターシャ・デューダーの絵本を集めたコーナーもあった。連休最終日の午後ということで、多くの人はすでに帰還の途にあるのだろう、美術館は私たち以外には客が2人しかおらず、私たちはゆっくりと原画や絵本の鑑賞ができた。普段は接することのできない画家の絵を見ること、特に原画を見ることは、なかなかいいものだと思った。一方、童話館には私たち以外の客は誰もおらず、館内の展示品や本を眺め、ほしい本を買おうと思ったが、館員の姿もない。諦めて車にもどったところで、童話館の女主人が出てきてくれた。昼まで客の応対に忙しく、それが終ったので2階で「ぼんやりしてしまった」としきりに謝った。

 この童話館は、切絵作家、童話作家である東君平氏(1940-1986)の100冊を超える本や原画などを集めた美術館で、夫人が館長である。私は、館の隅にある小さい6畳ほどのアトリエ風の部屋のことを夫人に尋ねた。すると、それは君平氏が生前に使っていた部屋を再現したものだと教えてくれた。そこに置いてある白い引出し机は、私の娘の部屋にあるものと酷似していたので、何となく親しみを感じた。君平氏はいくつもの机を使ったが、そのうちの1つだそうだ。私はそこで、君平氏の短い童話を集めた『ひとくち童話』と、氏のトレードマークである「くんぺいタヌキ」のぬいぐるみを買った。『ひとくち童話』の中に納められた作品には、短いものは10行以内、見開き2ページで終わってしまうものがいくつもある。それらを読んで、私は最近本欄に書いた「ぱすわあど」のことを思い出した。私のは少しこじつけがましい所があるが、君平氏の作品はきわめて自然で、スッキリしている。子ども用の作品は、こうでなければならないと感心した。
 
 山荘への帰途に目撃した1コマを、君平風に文章と絵にしてみた--
 
 道 路
 
 Catdog ねこが、どうろをわたろうとしました。
 はんたいがわに いぬがいて、
 ねこに ほえました。
 ねこはおどろいて、いぬをみましたが、
 いぬは、かいぬしの手につながれていました。
 そこでねこは、むねをはって
 どうどうと、どうろをわたりました。
 
 谷口 雅宣

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2008年4月16日

日時計主義が直感できる

H_gallery2r_2  昨日の本欄を読んで「日時計主義はコムズカシ~イ」という印象をもった読者がいたとしたら、それは私の説明がマズイからである。もっと簡単に、ひと目で、直感的に「日時計主義は楽しい」「明るい」「オモシロ~イ」と分かる単行本が、このほど生長の家から出た。小関隆史氏の監修になる『光のギャラリー:絵手紙はWebにのって』である。同氏が運営するブログ「絵てがみ教室 ~アトリエTK」は本欄でも紹介したことがあるが、この絵手紙ブログに42人の読者から投稿された182点の作品を集め、フルカラー224ページの立派な本になっている。

 私の本が新書判なのに対し、この本はそれより一回り大きい四六判なので、収録された絵も大きく、ゆったりと鑑賞できる。様々なタイプの個性ある絵が豊富にあるのが見どころである。また、それらを描いた際の作者の気持と、小関氏のていねいで優しいコメントも、ブログに掲載されたままの形で収録されているから、投稿者と運営者の暖かい心の交流が感じられる。日時計主義を絵手紙やスケッチで表現した例として、よい参考になる本である。

 とにかく自由に、伸び伸びと、そして楽々と(つまり妙に緊張せずに)自分の感じたことをそのまま絵に表現すれば、メッセージは人に伝わるものである。上手下手など意識しないことが重要なポイントだ。本欄で「芸術表現について」と題して書いたとき、芸術表現を「対象に美を感じる過程(A)」と「感じた美を客観化する過程(B)」の2段階に分類したが、Aを人生の様々な側面に見出す感性が養われれば、日時計主義の第1の目的は達成される。谷口雅春先生を引用させていただけば、それは「“ものそのもの”(客体)に内在する美を、“感ずる心”(主観)が触発することによって、意識界に浮かび上がらせた」状態である。(『叡智の断片』、p.105)これが「光明面を見る」ということの、もう1つの意味だろう。Bの過程は、Aをマスターした後に、進めていけばいいのである。

 この本のページを繰っていくと、初めて絵手紙を描いた人からプロの画家まで、実に多彩な表現が次々に現れて飽きない。そして、「自分も描いてみよう~」という思いがきっと募ってくるに違いない。そんな読者のために「投稿用のハガキ」まで用意されているのは、さすがの演出である。実はこの本には、私の作品も(ただし“MT”という名前で)『太陽はいつも……』に収録されていないものが20点収録されている。モノクロのスケッチ12点と絵封筒が8点だ。

 谷口 雅宣

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2008年4月15日

『太陽はいつも輝いている』について

Taiyo3_dg2  3月27日の本欄で少し触れたが、5月初めの生長の家の組織の全国大会を期して出版される拙著の見本を今日、受け取った。題は『太陽はいつも輝いている』というもので、副題を「私の日時計主義実験録」とした。内容は、昨年秋に上梓させていただいた『日時計主義とは何か?』の続編と考えていただいたらいい。この本も前著と同じく2部構成で、第1部が“理論編”、第2部が“実践編”と言えるだろう。特に第1部は「続 日時計主義とは何か?」と題していて、前著の第1部「日時計主義とは何か?」を補完する内容となっている。人生の光明面を見るこの生活法を実践する際のテキストとして、前著とあわせてご利用いただけたら幸甚である。

 副題から類推できるように、この本では、私が日時計主義をどのように考え、どのように実践しているかを実例をもって示している。日時計主義の理論的説明としては、すでに前著で「悪は実在しない」ことや「感覚優先と意味優先」のものの見方などについて書いている。本書ではこれに加えて、“右脳”と“左脳”の機能的差違や「偶然はない」という生長の家の考え方、さらに「奇蹟」と「当り前」をめぐる一般的な考え方の誤りなどについて書いている。また、生長の家とは特に関係がなくても、日時計主義に合致する「人生の光明面を描く」文学がすでに存在していることも具体的に示している。この第1部の中で、「偶然」と「奇蹟」をめぐる論考の大部分は、本欄に書いたいくつかの文章をもとにしている。

 第2部はこれら論文調の文章とはまったく趣を異にし、私の「スケッチ画集」と「谷口雅宣句集」で構成されている。スケッチ画は1999年以降に描いたもの38点で、うち6点は絵封筒、9点は絵具や紙を使わずパソコンだけで描いた“PC画”である。句集は、2000年以降に作った句99首を集めてある。絵画が日時計主義の手段たりえるのは、一見何でもない出来事や風景の中に美や愛を見出す心を養い、またそれらを具体的に提示することによって、自分の感動を見る人の心の中に送り込めるからである。同じことは言葉によっても可能だが、言葉には“国境”があるのに対して、絵画にはそれがない。

 言葉の芸術では、俳句は世界最短の形式である。それが日時計主義の実践になりえるのは、「人生や自然の“ひとコマ”や“一瞬”を言葉で固定する」というその独特な機能による。詩や小説は、ある程度の長さの言葉の流れを必要とするため、人生の“ひとコマ”や“一瞬”は描けても、それを主題とはせず、ストーリーや構成の確かさで勝負する。そのため、描かれるものはどうしても複雑化する。しかし俳句は、“ひとコマ”や“一瞬”をスナップ写真のように固定することが目的である。だから、作句後には写真アルバムを見るように、そこに固定された瞬間を再体験することができる。これによって人生の味わいは2倍にも3倍にも深まると思う。また、日時計主義による他人の句を読むことにより、自然の素晴らしさや人生の明るさを、自分の心で追体験できる。それによって、周囲のものへの感性が養われ、ものを見る目が肥えることにもなる。こういう目的のためのメッセージは、長く複雑なものでは困難であり、簡潔で短い方がいいのである。

 最後に本書の題名についてだが、「太陽はいつも輝いている」とは「実相は常に完全である」という言葉のメタフォーである。詳しくは本書の序章に書いたが、地上では夜が来たり、台風に襲われたり、濃霧に進路をふさがれることがあっても、その瞬間にも「太陽は輝いている」という事実を我々は知っている。それと同じように、人生の一見暗く、困難で、苦しい出来事のただ中にあっても「実相は常に完全である」ことを忘れない生き方--これが日時計主義の生き方であり、それを読者にお勧めするのが本書の目的である。

 谷口 雅宣

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2008年2月 2日

偽りの古紙配合率 (3)

 この表題を使って本欄を書くことは、日時計主義の立場からもうしたくなかったのだが、誤った情報を訂正せずに残しておくことはよくないと思い、あえて書くことにした。前回この主題を扱ったとき、日本教文社発行の書籍の本文用紙について「同社発行の書籍で再生紙を使用しているものは全部で15点、このうち古紙の配合率を数字で示した書籍は11点あるという。この11点については、すべて表示通りの配合率であったという」と書いた。ところが、昨夜受け取った同社からの電子メールによると、5点で表示偽装があったというのである。しかも、きわめて残念なことに、生長の家が環境保全意識を高めるために今も運動で使っている次の2点の本は、「本文は古紙100%の再生紙」と表示しながら、実際には古紙配合率は「20%」にすぎなかった:
 
①生長の家本部ISO事務局監修/南野ゆうり著『あなたもできるエコライフ』(2002年)
②生長の家本部ISO事務局監修/南野ゆうり著『あなたもできるエコライフ2』(2004年)

 また、本の奥付に「本書の本文用紙は再生紙を使用しています」と表示した本のうち、次の3点は古紙配合率が「0%」だった:

③田崎久夫著『わが家のエコロジー大作戦』(2003年)
④デイヴィッド・スズキ著/柴田譲治訳『生命の聖なるバランス--地球と人間の新しい絆のために』(2003年)
⑤喰代栄一著『魂の記憶--宇宙はあなたのすべてを覚えている』(2003年)

 このようにして5点の書籍を並べて分かることは、⑤を除く4点までがみな、地球環境問題を正面から扱った書籍である。そういう書籍だからこそ、森林保護を推進する立場から「古紙」や「再生紙」の表示をしているのである。ところが、そんな“顧客”の意図を知りながら、製紙会社は契約通りに古紙を使わないでいて「使っている」顔をしてきたのである。

 上記の本の①には、再生紙のことを「再生紙とは原料に古紙を配合した紙のこと」(p.31)ときちんと説明している。そして、再生紙が「製造工程の中で古紙に含まれるインクを抜く脱墨(だつぼく)という作業があるために、実はバージンパルプだけでつくった紙よりもコストが高く、まだまだ生産量は低いのが現状だ」とも書いてある。つまり、著者と監修者は、再生紙を使うことが却ってコスト高になることを知りながらも「そうしたい」との明確な意思のもとに、「本文は古紙100%の再生紙」という表示を行ったのである。製紙会社は、そういう顧客の意思を踏みにじった。私がもし出版社の社長ならば、こんな製紙会社との関係はさっさと御破算にするだろう。
 
 さて、本題をもっと大きく眺めてみよう。1月31日付の『日本経済新聞』によると、昨年1年間の日本の古紙の輸出量が8年ぶりに減少したという。何となく「えっ?」という気がしないだろうか。1月18日の本欄に書いたように、日本国内の古紙の大部分は中国へ渡るのである。その量が1999年から7年間増え続けていたのが、やっと減少に転じたのだ。つまり、国内でリサイクルされる量が増えたということだろう。同紙はその理由を「製紙原料を確保したい日本の製紙各社が古紙の買い取り価格を引き上げ、中国への流出拡大を食い止めた」からだと書いている。あぁ、もっと早くしてほしかった、と私は思う。製紙会社の環境意識が、社会より1歩遅れていたのである。また、記事には「製紙大手が…(中略)…新聞古紙などをパルプにする設備を増強し始めたことが背景だ」とも書いてある。だから、一時的な“気まぐれ”ではないようだ。
 
 製紙各社は今回の失態を大いに恥じ、今後は社会と地球環境に真面目に配慮した活動を展開することで、名誉挽回をはかってほしい。

 谷口 雅宣

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2008年1月30日

偽りの古紙配合率 (2)

 1月18日の本欄でこの主題を扱ったとき、「現在、製紙会社に“真相”の説明を求めているが、現時点で分かっていることはそう多くない」と書いた。そして、生長の家の機関誌の本文用紙について「エコパルプ70%、古紙30%を使用」というのはメーカーである北越製紙のウソで、本当は「エコパルプ85%、古紙15%」だったことを報告した。また、「エコパルプ」という表現の意味についても解説し、これは再生紙ではなく、植林から得られたバージンパルプであることも述べた。問題は、機関誌よりも発行部数が圧倒的に多い普及誌だが、これについては「<現在のところ「偽装はない」というのが日本教文社の回答である>」と書いたのだった。

 この普及誌の本文用紙について、このほど日本教文社から報告が届いた。結論は、普及誌には「本誌は環境負荷の少ない再生紙を使用しています」とだけ書いてあり、「再生紙を使用している」ことは事実なので、我々“消費者”向けには表示偽装はないという。しかし、出版社と製紙会社との間では古紙の配合率について数字を掲げた契約がある。こちらの方は、偽装があったという内容だ。

 具体的に言おう。最も大量に使われる本文用紙は、普及誌専用に漉かれた「ヘンリーRM」(別名、教文用紙)という紙で、原紙を日本製紙が生産し、富士コーテッドペーパー株式会社が塗工・加工した後に日本教文社に供給されているという。ありがたいことに、こちらの方は古紙配合率は契約通りであるという。数字で示せば、「古紙30~40%、バージンパルプ70~60%」だそうだ。これに対し、北越製紙から供給されている表紙の紙は「ミューマットER」といい、当初の契約では古紙配合率は「15%」だったものが、実際の調査では「10%」であることが分かったという。北越製紙は、日本教文社宛に「この度、実際の古紙配合率が、定められた数字を下回っておりました。貴社の弊社に対する信頼を大きく損ない、多大なご迷惑をおかけしましたことを深くお詫び申し上げます」と書いた「古紙配合率証明書」(1月24日付)を出している。
 
 それでは、『生命の實相』などの書籍用紙はどうだろうか? 日本教文社によると、同社発行の書籍で再生紙を使用しているものは全部で15点、このうち古紙の配合率を数字で示した書籍は11点あるという。この11点については、すべて表示通りの配合率であったという。残りの4点は、普及誌と同様に「再生紙使用」とだけ表示されているので、消費者に対する配合率の偽装はない。ただし出版社に対する契約違反の問題は、現在調査中とか。私が同社から上梓させてもらっている単行本で、古紙配合率を明示したものは『神を演じる人々』(2003年)と『秘境』(2006年)の2点だ。表示は「本書の本文用紙は70%再生紙を使用しています」とある。胸をなで下ろしたしだいである。
 
 谷口 雅宣

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2008年1月28日

紙を使わない出版

 1月18日の本欄で、製紙会社による古紙配合率の“偽装”について書いたとき、そのほとんど“業界ぐるみ”の不誠実さにアゴを落として、「我々はそろそろ、紙を使わない出版活動を本気で考える時期に来ているのではないだろうか?」などと言った。これを読んだ出版関係者が、後日、「まさか本気でそう考えているのでは……」と私の真意を尋ねた。改めてそう訊かれてみて気づいたことがある。それは、私が「紙を使わない出版活動」をすでに行っているということである。このブログが、それである。また、本サイトにある「日々の祈り」もそれだし、「動画メッセージ」もそれである。さらに言えば、私がすでに単行本として出版した二十数冊の中に含まれる文章の大半は、単行本の用紙にインクで印刷される相当前に、インターネット上で世界中に公開されていた。だから、私が18日の本欄に書いたことは決して“過激な発言”などではなく、“抑えた表現”だとも言えるのである。

 それでも、インターネット上の電子出版は、これまでは書店での本の売れ方に比べると影響力が小さかった。その理由の第一は、「本」という物理的な情報媒体の“魅力”が電子情報媒体のそれに勝っていたからだろう。つまり、手に取ってどこへでも持って行け、「開いてページを繰る」という簡単な操作だけで情報を得られること。さらに言えば、造本・装丁などで美的欲求を満たしてくれる点も無視できない。しかし、本には、電子情報に比べて劣る面もある。それは、①情報量が少ない、②木材資源を多く消費する、③場所をとる、④運搬にコストと時間がかかる、⑤製造と運搬、消費の過程で温暖化ガスを排出する、などだ。最後の⑤については、本が電子情報に比べて格段に多いかどうか定かでない。が、電子情報の記録媒体の容量が飛躍的に拡大しつつある今日、この点でも本の劣勢は否定できないだろう。

 読者は、音楽CDの売り上げがどんどん減っているのをご存じだろう。理由は、アップル社のアイポッドに代表されるMP3プレイヤーというデジタル音楽プレイヤーの急速な普及である。さらに、アイポッドへ音楽データを送り込むパソコンの普及と、パソコンから無数の音楽を素早くダウンロードできるアップル社のサービスサイトの登場だ。これにより、CDを買うよりも安価に、素早く、好みの音楽が、ほとんど無制限に自分のポケットに入る。ハードウエアの小型化と大容量化、それにデータを送受する通信環境とソフトウエアの整備が実現して、ここ数年間でMP3プレイヤーによる音楽が、音楽CDを駆逐する勢いに転じた。これと同じことが、紙による本や雑誌と電子出版との間に起こることは十分考えられるのである。
 
 1月28日付の『ヘラルド・トリビューン』は、音楽産業におけるMP3プレイヤーに該当するような革命的変化を起こす“候補”として、昨年11月にアメリカで発売された「キンドル」(Kindle)という電子ブック・リーダーを大きく取り上げている。価格は399ドル(約4万3千円)とやや高価だが、重量約300グラムのハードウエアの中に、単行本200冊分のデータが収納でき、新聞や雑誌、ブログのデータも表示できる。白い画面に灰色4段階で文字を鮮明に表示し、しかもどこからでも無線通信でデータをダウンロードできるという。発売元は、本のネット販売を始めたあのアマゾン・ドット・コム社である。キンドルは発売後6時間で売り切れた後、製造が注文に追いつかない状態が今日まで続いているという。このキンドルの日本語対応版の発売は、もうまもなくだ。

 日本では、通信機能付き小型ゲーム機に対応した電子ブックがすでに発売されている。私は、そのゲーム機上で電子ブックをほんの数ページ読んだことがあるが、遠視が始まっている私の目には、画面と文字が小さすぎた。キンドルの画面はこれより大きいので、見え具合がよければ使えるのでは、と期待している。今後の技術の進歩により、この機種でなくても、電子ブック・リーダーの普及はもう目の前にある。とすると、出版社と流通業者を通さない電子出版が可能となるのである。このことの及ぼす影響は、生長の家を含めた出版業界にとって、はかり知れないものではないだろうか。
 
谷口 雅宣

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2008年1月18日

偽りの古紙配合率

 最近、製紙過程における古紙の混入割合の“偽装”が明るみに出た。生長の家は、昭和5(1930)年の発祥当時から「文書による伝道」を大きな特徴としていて、製紙業界とは関係が深いため、大変残念な思いである。特にここ7~8年は、地球環境問題の解決を目指した運動を全国的に展開し、森林伐採によって生まれるバージンパルプを減らす目的で再生紙の使用を率先して行ってきた。私自身、20冊以上の本を出させてもらっている中で、本の奥付などに「本文100%再生紙使用」「本文70%再生紙使用」などと表示してきた。これらが、ほとんどすべてデタラメだった可能性が大きいというのは、何とも悔しく承服しかねる思いである。製紙会社の言葉を信頼して行った表示が、結果的にウソの表示になっているのである。

 現在、製紙会社に“真相”の説明を求めているが、現時点で分かっていることはそう多くない。1つだけ挙げよう。生長の家で発行している会員向けの機関誌は、表紙に「エコパルプ70%、古紙30%を使用」と表示されている。この「エコパルプ」というのは、紙を漂白する際に塩素を使わないものらしい。原料には、木を伐採してつくるバージンパルプが使われている。今回の問題は、その後ろに書かれた「古紙30%」の数字である。機関誌の用紙を製造している北越製紙によると、昨年の夏ごろまでは表示通りに「古紙30%」を使用していたが、その後は生長の家に無断で「古紙15%」に変更していたという。ということは、現在の機関誌の本文用紙は「エコパルプ85%、古紙15%」が本当なのだ。

 機関誌に比べて圧倒的に発行部数が多い普及誌については、現在のところ「偽装はない」というのが日本教文社の回答である。その最大の理由は、普及誌には機関誌のような、数値による明確な配合割合の表示がなく、目次ページに「本誌は環境負荷の少ない再生紙を使用しています」と書いてあるだけだからだ。この表記だと、「1%」でも「0.5%」でも古紙を使用していれば偽装にならない。が、「偽装」以外にも、出版社と製紙会社間の「契約の履行・不履行」の問題があり、こちらも社会的には重要である。なぜなら現代社会は、契約の当事者間の信頼関係を基礎としているからだ。そこで普及誌の本文用紙の古紙配合率について尋ねてみると、同社は「古紙30%、バージンパルプ70%」で製紙会社と契約しており、今回の問題に際して製紙会社に確認したが、事実この割合に間違いないとの回答を得たという。
 
 17日付の『日本経済新聞』によると、日本製紙の中村雅知社長は記者会見の席上、今回の問題を放置してきた理由を「コンプライアンス(法令順守)より品質を優先した」と釈明したという。私はこの釈明には納得しない。なぜなら、この言い方では「コストが高いものを安く納入した」という意味に聞こえるからである。一つの業界が10年以上も、利益減少を承知で高いものを安く売るなどということはあり得ない。また、古紙の配合率を下げてバージンパルプの配合率を上げることが「品質の向上」だと言うのは、偏面的な説明である。この裏側には、営利企業としての冷静な計算があると私は思う。つまり、現在の国際市場では「バージンパルプより古紙の値段が高い」のではないか? 急速に経済発展する中国では、段ボールなどの原料にするために古紙の需要が高まっている。日本の道路脇に置いてあった古新聞を、正式の回収業者以外の業者が持っていき、問題になったことがある。日本のリサイクル・ルートに乗せるよりも、海外へ輸出する方が金になるという事情があるに違いない。

 ある業界関係者の話では、上に書いたように、古紙そのものが市場から払底していることに加えて、バージンパルプを使って製紙する過程よりも、古紙を混入する過程の方が、化石燃料を多く使わねばならないそうだ。私には、この後者の話もにわかには納得できない。日本国内のリサイクルで発生する温室効果ガスの排出量が、海外の森林から伐採し、チップにして船に積み込み、大洋を渡ってくる過程で生じる温室効果ガスよりも少ない、と言っているのだ。本当はそうではなく、国内の人件費と海外の人件費との差が、コストに大きく反映するからだろう。百歩譲って、業界の説明がすべて正しいとしても、契約時に定められた古紙の混合割合を、相手に無断で変更するような商売は許されるものではない。

 悪業を積んできた企業は、その期間が長ければ長いほど、受け取る悪果も大きくなるだろう。我々はそろそろ、紙を使わない出版活動を本気で考える時期に来ているのではないだろうか?

 谷口 雅宣

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2008年1月 8日

環境運動家の危機感 (3)

Planb3_m  アメリカに住む友人からレスター・ブラウン氏(Lester R. Brown)の新著『Plan B 3.0: Mobilizing to Save Civilization』(プランB第3版--文明を救うための総動員=写真)が送られてきた。すでに邦訳されている『プランB 2.0』(ワールドウォッチジャパン刊)の内容を改訂したものである。後者の本の内容については2006年5月22日の本欄で紹介しているが、今回の改訂版は再生可能の自然エネルギーを基礎とした文明への転換を、より具体的に、より危機感をもって推める内容である。副題にある「mobilize」という英語は、戦争のために産業や資源、人員などを動員することで、ブラウン氏は各国が、それほどの規模と意志をもって地球温暖化を阻止する“臨戦体制”を整えなければ文明の危機が来る、と訴えているのである。『2.0』の英文の副題が「ストレス下の惑星と問題を抱えた文明を救う」であったのと比べると、「文明救済」の方に焦点を当てていることがわかる。この本の著作権表示にある発行年は「2008年」であるから、できたてホヤホヤということだ。

 ブラウン氏は、「はしがき」でこの本の4つの重要な目標として、①気候の安定、②人口の安定、③貧困の撲滅、④良好な地球環境の回復、を挙げている。そして、地球温暖化を最小限に抑えるためには、2020年までにCO2の排出量を80%削減することが必要だとして、そのための詳しい計画を提出している。この計画とは、(1) エネルギー効率の改善、(2) 再生可能エネルギーの開発、(3) 森林伐採の禁止と植林による地上の森林の拡大、という3つの部分からなるものだ。人類は、これらを実現するための技術をすべてもっているから、今やらねばならないのは、「それを実行する政治的意志を築き上げること」(to build the political will to do so)だと訴えている。このあたりの認識は、『不都合な真実』の中でアル・ゴア氏が言っていることと軌を一にしている。
 
 本の細部についてはまだ「拾い読み」程度だが、具体的、現実的な方策が数多く詰まっていて面白い。その小見出しの1つに「風力による充電式ハイブリッド車」(wind-powered plug-in hybrid cars)というのがあったので、いったい何だろうと思って読んだ。まるで“未来の車”のように聞こえるが、これは現在、トヨタなどが公道での走行実験を進めているプラグイン・ハイブリッド車そのもののことである。「風力によって」という意味は、発電用の風車を大幅に増設していけば、夜間の電力はこれで賄えるから、それによって充電した車は事実上「風力によって」動くことになるという意味である。

 ブラウン氏の試算では、この方法で充電した車の走行コストはガソリン代に換算すると1ガロン(3.78リットル)当り1ドル以下になるというから驚きだ。電池の性能が上がり、容量が増えれば、これによって日常の用途での車の使用はすべて風力によることになるから、現在のアメリカ国内のガソリン使用量を「80%」削減できるという。さらに驚くことは、現在の自動車の車体の金属部分は、コストをさほど上げずにポリマー樹脂に替えることができるから、そうすれば重量が半分になってさらにガソリン使用量は減り結局、現在より「90%」も少ないガソリン消費量で、現在と同じ台数を走らせることができるというのである。

 太陽エネルギーの利用については、この本は「太陽光発電」に加えて「太陽熱利用」の現実性を強調している。その最大の理由は、後者の製品の大幅な価格低下である。ブラウン氏が「最近の最も興奮する展開」として挙げているのは、中国では4千万戸の家庭に太陽熱温水器が設置されたことだ。これは、装置の価格低下によって都市部のもみならず農村部にも「燎原の火のように」広がっているという。しかも、中国政府はこの装置を、現在の1億2400万平方メートルから、2020年には3億平方メートルにまで拡大する計画という。氏の試算によると、現在の中国の家々に設置された太陽熱温水器から生まれるエネルギーは、石炭火力発電所54基に相当するという。ヨーロッパでもこの装置は人気だ。オーストリアでは、全家庭の15%が太陽熱温水器を設置している。ドイツでは、2百万人がこの装置の恩恵のもとに暮らしている。欧州では、このほかギリシャ、フランス、スペインがこの装置の導入を加速化しているという。日本の現状は1100万平方メートルだが、2020年までには8000万平方メートルを楽に達成する、とブラウン氏は読んでいる。
 
 邦訳が出たら、読者にも一読をお勧めする。
 
 谷口 雅宣

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2007年12月31日

2007年を振り返って (3)

 さて、最後に私的立場から今年を振り返らせていただこう。
 
 まさに「光陰矢のごとし」の印象とともに今年は終ろうとしているが、その理由の1つは、恐らく著書を多く出させていただいたからだ。発行日でいうと3月1日が『日々の祈り』、9月1日に『小閑雑感 Part 8』、11月22日は『日時計主義とは何か?』で、クリスマスには『小閑雑感 Part 9』(発行日は1月1日)がもう出ていた。講習会の往復の旅程で校正作業をすることもあった。その間、全国大会あり、国際教修会あり、宇治や長崎での大祭もあった。しかし、現在の私のスケジュールは、講習会が全国59教区で毎年行われていたときと比べれば、相当ゆったりしているはずなのである。だから、私が勝手にやることを増やしているのである。

 このブログを書くことが、その1つだろう。誰にも「書いてほしい」と言われたことがないのだから、いつやめても怒られないだろう。が、毎日のアクセス数が600~1000回になっているのを知ると、怠けるのは読者に申し訳ない、と奮起するのである。また、今年は自分用のデジカメを新規に買ったことで、動画を撮映してサイトで公開することを始めた。この動画編集にも時間がかかるが、「百聞は一見にしかず」という映像の訴求力は大きい。このおかげで、絵を描くことが疎かになった。本サイトのギャラリー「わが町--原宿・青山」に掲載したモノクロのスケッチ画は、すべてデジカメ購入以前に描いたものだ。では、それ以後は絵を描かないのかと言えばそうではなく、夏からは「絵封筒」なるものを始めてしまった。絵か動画のどちらかを捨ててしまえば楽になるのだろうが、どちらにも捨てがたい魅力がある。まだまだ「執着が多い」人生と言わねばなるまい。

 秋になって、それまで使っていたノートパソコン(IBM ThinkPad X40)の後継機、レノボの「ThinkPad X61」に乗り換えた。とは言うものの、OSをウインドーズのXPからVistaに変えたので、ソフトの移行が完全にはできず、まだ2台を使い分けている始末だ。ただ、新機種は「タブレットPC」といって、画面に直接ペンで書きこんだり、指示したりできる。この機能のおかげで、紙や絵具を使わずにパソコンだけで絵を描く手段を獲得して喜んでいる。
 
 ところで、昨年12月27日の本欄に書いたアイポッドだが、これによって私も“ながら族”の仲間入りかと恐れたが、結局そうならなかった。全く使っていないわけではなく、CDの音楽や自作の動画を入れて時々楽しんでいるが、私にはもともと「歩きながら何かをする」という習慣がないのと、そうすることで失うことが多いのに気づいたからだ。歩くことは、世界と直接に触れ合う安価で最良の方法ではないか。そのとき、失われつつある都会の自然を感じ、町並みの変化を味わい、人々を観察し、同伴者と会話することで人生が貧しくなるとは、私は思わない。電車の中でも、本を読んだり、ノートをつけることはあるが、「自分好みの音楽に浸る」というのは、どうも私の趣味ではない--そう気づいたからである。

 今年、珍しくクラッシク音楽のコンサートへ行くことができた。東京オペラシティーで行われた千住真理子さんのヴァイオリン・リサイタルで、名手が弾く名器・ストラディバリウスの響きを堪能できたことは誠にありがたかった。私は小学生の頃、ヴァイオリンを習っていたことがあるが、その時の弾き方とは大いに違う、全身を使う力あふれる演奏や、会場の隅々まで届くピアノシモの音など、CDや映画では聴けない素晴らしい生演奏は、今も記憶に残っている。そんな演奏を2時間以上んも続けたあとで、千住さんはファンの要望に応えてサイン会まで行った。一流の芸術家は、サービス精神も一流だと感銘を覚えたものである。

Sundiary2007  さて最後になるが、私も今年初めて『日時計日記』をつけた。私はいつも寝る前に、ベッドの中でこれをつけるが、その際、日記の欄の枠にあまりこだわらずに、航空券の切れ端や、映画や美術展の入場券などをベタベタ貼りつけることがある。記念になると思うからだ。だから、1年たった日記帳は、元のものより分厚くなる。来年版の『日時計日記』の場合、こんな使い方をしていると、1年後には上下巻を収納する紙製ケースに入らなくなるだろう。その場合、どうするか……などと今から考えている。写真は、開いているのが私ので、閉じているのは妻のものだ。
 
 谷口 雅宣

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2007年12月30日

2007年を振り返って (2)

 世界規模の話はほどほどにして、生長の家の運動の方面から今年を振り返ってみる。今年は、昭和5年(1930年)の生長の家発祥時に唱えられた「日時計主義」が再び脚光を浴び、運動の中に具体的に取り入れられた最初の年である。『日時計日記』(2007年版)はすでに昨年秋に発行されたが、実際の記入は今年からである。また、「日時計ニュース.com」や「Web版 日時計日記」も始まっていたが、一般の信徒・会員による利用は今年からである。これらは、実際の運動の中にインターネットを組み入れる新しい試みであり、今後の発展と展開が期待される。そう言えば、2月半ばに上梓させていただいた『日々の祈り』(生長の家刊)も、もともとは私が本サイトに発表した祈りの言葉である。生長の家の運動が、新媒体であるインターネットを利用して多様な広がりを見せている、と感じられる。
 
 この書籍版『日々の祈り』には、「神・自然・人間の大調和を祈る」という副題がついている。その意義について私は2月16日の本欄に書いているが、それを簡単に言えば「実相を祈る」という意味なのである。現象の地上世界では「神は死んだ」とされて久しく、科学を手にした人間は高度先端技術を使って“神を演じる”危険を冒しつつある。また、人間の欲望のままに開発された地球は、温暖化にともなう様々な脅威を人間に与えている。『日々の祈り』では、しかしこのような神-自然-人間の“不調和”は、実相において「ナイ」と宣言し、本来この三者は大調和で「アル」と祈る。これは神想観の実修と同じように、実相を現象にもち来す強力な思念である。だから、『日々の祈り』を唱えることは、日時計主義の実践であるとともに、21世紀の人類が抱える諸問題への宗教的、哲学的対応の1つと言えるのである。
 
 5月に行われた生長の家の4組織による全国大会は、一般の誰もが参加できる大会としては最後のものとなった。それは、地球温暖化の原因である温室効果ガス削減のためである。これによって、生長の家の運動が縮小すると感じている人もいるようだが、来年の白鳩大会は“幹部”を対象にして東西の2会場に5千人を集める予定だから、必ずしも「縮小」ではない。これは、視聴者の多いゴールデンタイムに莫大な費用を払ってコマーシャルを打つのをやめ、求められる情報を、求めている人に絞り込んで伝えることにも比べられる。真理の情報伝達を、より効果的に行うことをねらったもので、地球温暖化時代には、そういう配慮が宗教運動にも求められていると思う。生長の家の3組織の機関誌が64から48に減ページし、『聖使命』新聞が大判のブランケットからタブロイド判に小型化した理由にも、同様の配慮が含まれている。

 地球温暖化抑制の努力については、この7月に、生長の家の全事業所64カ所と関係団体2カ所で「ISO14001」の認証取得が完了したことを抜きに語ってはならない。この努力は平成12年度から8年がかりで続けられ、その間、全国の生長の家幹部・信徒の皆さんの温かく、熱心な協力のもとに行われた。この場を借りて、皆さんに感謝申し上げます。「ISO14001」とは、日常的に環境に配慮した業務を組織的に行っていることを認証する国際基準の1つだ。したがって、これによって「生長の家は環境に配慮した宗教運動である」ということを世界に向かって堂々と宣言することができるのである。
 
 8月には、ニューヨーク市郊外で「世界平和のための生長の家国際教修会」が開催されたが、ここでイスラームの信仰について学んだことは特筆に値する。生長の家の内部にはイスラームの専門家がいないため、エジプト人法学者でカリフォルニア大学ロサンゼルス校の教授、カリード・アブ・エルファドル博士をお招きして、現代イスラームの抱える問題について重要なことを教えていただいた。この教修会に前後して、私も本欄でイスラームについていろいろ学んだことを書いているが、このような本による学習よりも、実際にイスラーム原理主義と戦っている第一線の宗教家、思想家の姿を見、生の声を聞くことの衝撃は大きかった。アブ・エルファドル博士の著作や講演録が、早く邦訳されることを望んでいる。

 秋には、『日時計日記』の2008年版、拙著『日時計主義とは何か?』、そして『日々の祈り』の朗読CDが発行された。読者の皆さんからの要望を容れて、来年版の『日時計日記』は2分冊とし、使いやすくなったと思う。大いに活用され、来年も日時計主義を生き抜くことで、明るく生甲斐に満ちた人生を継続していただきたい。
 
 谷口 雅宣

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2007年12月27日

本欄が書籍に (5)

Part9_bg  本欄の文章を集めた単行本の9巻目、『小閑雑感 Part 9』(=写真)がこのほど世界聖典普及協会から出版された。正式な発行日は来年の1月1日だが、同協会にはすでに入庫ずみだ。今回の本がカバーする時期は昨年11月から今年2月までで、合計90篇の文章が収録されている。それに加えて、本欄のサイドバーから閲覧できる私のスケッチ画集「わが町--原宿・青山」からモノクロの絵が8点掲載されているのが特徴だろうか。あとは、既刊の同シリーズと体裁において大きな違いはない。
 
 内容的な違いについては、この本の「はじめに」に書いたように、11月に出版した『日時計主義とは何か?』(生長の家刊)と密接な関係がある文章が多く含まれる点だろう。私はこうしてブログを書くようになってから、ブログの文章をとっかかりにして、より広く、あるいはより深く考える必要性を感じることがあり、そこから単行本へ発展する可能性がひらけるようになった。『日時計主義……』の本は、そのような可能性から生まれた最初の本と言えるだろう。もちろん『日々の祈り』もブログを母体としている。が、この本は、ブログの文章そのものが単行本になっているから、発展性という面では上記とやや異なる。
 
 単行本化の話が出たついでに、この本には長篇小説『秘境』と『日々の祈り』の解説が含まれていることを付言しておこう。両書には「はしがき」に該当する文章がないので、それぞれの本への私の意図や“思い入れ”を書く場所がなかった。それを本欄に書いたのが、単行本の一部としてこの本に収録された。少し変則的だが、発表の場があるだけでも有り難いことだ。
 
 本シリーズの既刊本ともども、ご愛顧いただければ幸甚である。
 
 谷口 雅宣

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2007年12月25日

「日々の祈り」サイトについて

 昨日は私の56回目の誕生日で、多くの読者から誕生祝いのメールやメッセージをいただいた。この場を借りて御礼申し上げます。皆さん、ありがとうございました。昨朝、谷口清超先生にご挨拶申し上げたとき、「私ももう56歳になって、赤いチャンチャンコが近づいてきました」と言ったら、先生は「ゴロクサンジュー」とおっしゃったのである。だから、私は今後、30代の青年になったつもりで頑張ろうと思う。読者の皆さんもあまり期待せずに、よろしくご指導、ご鞭撻お願い申し上げます。

 昨日は幸い休日だったので家で“ゆっくり”できたはずだが、のんびりしていられない性質で、読者の誕生祝いに応えるつもりで、本欄の姉妹欄である「日々の祈り」のサイトの“バージョンアップ”作業を始めた。祈りの言葉を妻が朗読したCDがすでに出ているが、その音声ファイルをブログ用に変換して、ネット上で聞けるようにした。ついでに、書籍版の『日々の祈り』の編集順にネットからも使えるようにした。つまり、「神を深く観ずるために」「自然を深く観ずるために」「人間を深く観ずるために」「明るい人生観をもつために」「人生のすばらしさを観ずるために」「“病気本来なし”を自覚するために」という章立てを、このサイトにも導入したわけである。
 
 ところで、妻の朗読の音声だが、CDにあるものより一段低音に聞こえることをお断りしておく。理由はよくわからないが、恐らくCDのファイルからの変換の過程で、音が若干変化したのだろう。彼女はしきりに「恥ずかしい」「みっともない」と言っているが、無理に頼んで公開を了承してもらった次第である。ついでに、サイトのデザインも一新したので、“バージョンアップ”作業に2日かかった。本欄に加えて、そちらも御愛顧いただけたら幸甚である。

 谷口 雅宣

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2007年12月21日

“正しい運動”と“善い運動”

 本欄では今年9月に「迷いはどこから来る?」と題したシリーズを掲載し、多くの読者からホットな反応をいただいた。その際、『生命の實相』第14巻倫理篇<下>や『新版 真理』第10巻実相篇から引用して、「善が成立するためには自由が必要である」ことを強調した。後者の中で、谷口雅春先生は、これを「機械的に正しく軌道を走っても、それは“正しい”とは言えても、“道徳的に善ある”と言うことはできない」と述べておられる。そこで、これを前提として生長の家の運動を考えると、私たちの前には機械的に「正しい運動」と道徳的に「善い運動」の2つを考えることができるだろう。その場合、私たちはいったいどちらの運動を目指して進んでいくべきだろうか? これが、今回の私の設問である。もう少し具体的に言うと、熱心な信徒の中には、「これが正しい」と一定の“形”を決めて運動を推進するタイプの人がいて、その“形”から外れたバリエーションを見つけると、「それは間違い!」と言わんばかりの態度で「正しさ」を貫徹しようとする場合があると聞く。そういう問題をどう解決するのが、生長の家として望ましいだろうか?
 
 私がこんな問いかけをする理由は、最近、ある人が手紙をくださって、その中で『日時計日記』の頒布・拡大が大変だと訴えておられたからである。『日時計日記』とは、昨年から生長の家で発行している日記帳のことだ。日記帳というのは、基本的に個人が自分のためにつけるプライベートな記録帳だから、「買いたい人が買ってつける」というのが基本である。だから私は、この人の言っている「頒布・拡大」の意味が最初よくわからなかった。しかし、この手紙の主がおっしゃるには「会員数強制的に」「プレゼント用に買いなさい」という話が“上”から来るというのである。これは何かの間違いだろう、と私は思うのである。

「間違い」という意味は、そういう事実が存在しないというのではなく、何かの間違いで「そうでなければ正しい運動でない」と信じた人がその地方にいて、その間違った考えが、何らかの理由で受け入れられている、という意味である。つまり、「その人」が生長の家の運動を間違って把握しているという意味だ。また、「その人」の周辺の人々も、生長の家の運動を誤解されているに違いない。生長の家は、教義そのものにおいて「自由」を至上価値としていることは、上で触れたようにすでに何度も本欄に書いた。また、「生長の家」に限定しなくとも、宗教上の信仰は一般的に「自由意思」を尊重しないかぎり成立しないものである。このことは、かつて共産主義、社会主義諸国で信仰者が弾圧された歴史が有力に示しているはずだ。自由のない国では、信仰者は大変な苦しみを味わうのである。このことは、日本の歴史ではキリシタン弾圧が示しており、現代においてはイスラーム原理主義が支配している国々において現に示されている。信仰をすることで自由が奪われるならば、信仰によって善の実現は不可能ということになるから、宗教の意義は失われてしまう。

 まぁ、手紙1通の内容をここまで深刻に考えなくていいかもしれないが、とにかく日記帳の半強制的な「頒布・拡大」がもしどこかで行われているとしたら、それは生長の家の信仰を間違ってとらえている一部の人々の行き過ぎであるから、ぜひやめていただきたいのである。また、「プレゼント用に買いなさい」という勧め方も、好ましいとは思えない。なぜなら、「プレゼント」とは本来自発的なものであり、「○○しなさい」と他人に強制したとたんに、「プレゼント」ではなくなってしまうからである。2月14日の“義理チョコ”のような運動から、我々はもう卒業しなければならない。「正しさ」を強制すれば「善さ」はなくなるのである。
 
 谷口 雅宣
 
【参考文献】
○2007年9月17日「迷いはどこから来る? (7)」
○同年9月10日「迷いはどこから来る? (3)」

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2007年12月 3日

“ユダの福音書”の衝撃 (2)

 昨年4月9日の本欄では、“ユダの福音書”と称するキリスト教の聖書の“外典”が現代語へ翻訳されたという話を、同じ表題で書いた。そして、その内容がキリスト教で語られている“ユダの裏切り”の話と大いに違うとして、話題になっていることにも触れた。その内容の大筋は、「イエスの直弟子のうち、師を敵に売った“裏切り者”として侮蔑の対象とされてきたイスカリオテのユダが、実はイエスの教えの唯一の理解者であり、師の命を受けて敵の手引をする役を不本意にも実行した」というものだった。ところが最近、この同じ“ユダの福音書”を研究した人が、「その現代語への翻訳には誤りがあり、正しく翻訳すればユダはやはり“悪者”--神とイエスに敵対する者--として描かれている」という内容の本を出版した。

 この研究者は、ライス大学の聖書学の教授、エイプリル・ドゥコーニック氏(April D. DeConick)で、本の題名は『13番目の弟子--ユダの福音書に本当に書いてあること』 (The Thirteenth Apostle: What the Gospel of Judas Really Says)というものだ。このドゥコーニック教授が12月3日付の『ヘラルド・トリビューン』紙に論説を書いているが、それによると、この“誤訳”が起こった原因は、ユダの福音書の翻訳に携わったナショナル・ジオグラフィック(National Geographic)の側が、原文書をできるだけ外へ出さないようにし、少数の専門家に翻訳を任せてしまったからという。このため、原文書が世界中の大勢の聖書研究者の目に触れなかったために、間違いをチェックしきれなかったのだろう、と推測している。

 ドゥコーニック教授は、ユダの福音書をグノーシス派の文書としてとらえている。その中のメッセージは、ユダは“13番目”と呼ばれる特定の悪魔だということだ。グノーシス派の伝統を引く考えでは、“13番目”は、地上より13層上の世界に棲むイアルダバオス(Ialdabaoth)として知られる悪魔の王である。この派の思想では、イアルダバオスは旧約聖書のヤーウェ(Yahweh)でもあり、嫉妬深く、怒りに満ちた存在で、イエスが示そうとした至高神の敵なのである。だから、ユダはこの“悪魔の王”のために神を妨害するのが目的であって、神の救いのためにイエスを不本意に敵に売るはずがない、というのである。
 
 グノーシス派について、私は拙訳の小説『叡知の学校』(トム・ハートマン著、日本教文社刊)の中で少し触れたが、これは時々“キリスト教最大の異端”などと大袈裟に呼ばれる。グノーシスとは「知識」とか「知恵」という意味のギリシャ語で、グノーシス派の考えでは、人間は究極的存在である至高者(神)と本質的に同一であり、そのことを知る知恵(グノーシス)によって救われる。つまり、“救い主”というような神と人との間の特定の“仲介者”は、必ずしも必要でないのである。生長の家の思想と似ているが、決して同一ではない。上掲の“13番目”の解釈を読んでみても分かるように、グノーシス的思想では、神と悪とは相対立する互角の存在である。これは、生長の家の「善一元」の神への信仰とは相当異なる。この思想については、昨年11月17日の本欄で少し詳しく書いたので、興味のある人はそれを読んでほしい。
 
 そこで問題になるのは、ドゥコーニック教授の考えが正しいとすれば、なぜ当初の“ユダの福音書”の読み方がそれほどひどく間違ったのか、ということである。教授もその点を考察しており、間違いの原因は「ユダヤ教徒とキリスト教徒の関係を改善したい」という希望が理性を晦ませたとして、次のように書いている--「ユダとは、恐怖すべき性格の人間だ。キリスト教徒にとって、ユダはすべてを得ていながら、わずかな金のために神を裏切り、死を招いた。一方、ユダヤ教徒にとっては、彼は何世紀にもわたって、キリスト教徒が自分たちを迫害する理由として使われた」--だから、ユダをイエスの本当の愛弟子として位置づけることで、両者間の永い歴史的争いの原因が消える。その可能性が、多くの学者から客観性を失わせた、と見るのである。

 学問の客観性について、改めて考えさせる見解だと思う。
 
 谷口 雅宣

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2007年11月 9日

『日時計主義とは何か?』について

Sundialismm  『日時計主義とは何か?』という単行本の色校正が終わった。今月下旬の生長の家の秋季大祭を期して発行される拙著だが、実物はまだできていない。しかし、生長の家の講習会のテキストとする予定なので、色校正の用紙と束見本を使って実物に似せたサンプル(=写真)を作った。並製の新書判の本で、表紙カバーの白が目立つ仕上がりになっている。カバーに使われている絵は、私が今年、生長の家教修会のためにニューヨークに行ったさい、ホテルから本部事務所宛に出した「絵封筒」である。また、この本の中には、本ブログに登録されている「わが町--原宿・青山」のスケッチ画が一部、カットとして使われている。

「絵封筒」とは封筒に絵を描いたもののことで、これをもらうと胸がワクワクする(はずである)。その由来は、6月8日の本欄で詳しく紹介したが、フランス在住の絵本作家、デビッド・マッキー氏(David McKee)が元祖で、彼は当初、絵手紙を封筒に入れてロンドンの出版社に送っていたのが、絵心があふれて封筒にまで描くことになったという。私は、芸術やスポーツのこういう自然発生的登場の話が好きだ。そこには自由さと、自発性と、生命の躍動を感じるからである。人間が本来もつ「明るさ」が、そこにある。それは「日時計主義」の展開でもあると、私は思う。

 表紙カバーの絵は、教修会の準備の合間にホテルの部屋で、備え付けの封筒にフルーツを描いたものだ。桃やイチゴ、サクランボなど、日本とは違う格好のフルーツが面白かったし、ホテルの封筒のデザインも面白かった。そう思った時に、むずかしいことは何も考えずに「面白い、面白い」と思いながら描く。それでいいのだと思う。描いた絵封筒に次のような感想文を入れて、投函したのだった。
 
「NYCのホテルでいただいたフルーツを描きました。桃が上から押しつぶしたような格好で面白かったのです。チェリーは赤黒く“美味しい”という感じではありません。イチゴは皮が乾燥していて固いのです。従って日本のイチゴのようにすぐ崩れてしまわず、何日ももちます。果物に対する考え方が違うと思いました」

 現在、この絵封筒は、絵を趣味とする生長の家の仲間が集まっている「光のギャラリー~アトリエTK」の絵封筒ギャラリーに収録されているので、興味のある方はご覧あれ。

 本書にこのことを書く余裕がなかったが、私は「絵を描くこと」自体を日時計主義の実践としてとらえている。さらに言えば、絵だけでなく、俳句も短歌も写真も書も……およそ「表現芸術」と呼ばれているものは皆、それを通して日時計主義を実践する--つまり、世の中に実相世界の「真・善・美」を反映する--ことができる有力な手段だと考えている。ただ、芸術では「真・善・美」の反対である「偽・悪・醜」やその他もろもろのものも表現することができるから、そちらの方を“有意義だ”とか“高級だ”と考える人々が、日時計主義とは異なる創作活動をしているという事実はある。それはそれで表現の自由の問題だから、この社会では許されていいと思う。が、生長の家を知った人々は、自己の“神性表現”の喜びの場として、もっともっと表現芸術を拡大していってもいい……否、拡大していくべきだ、と私は思うのである。

 この本はまた、本欄を揺籃として生まれたと言うことができる。本書は2部構成で、第1部は「日時計主義とは何か?」というその題の通り、日時計主義がどのような考え方で、どんな哲学的、宗教的前提から成り立っているかを解説している。その際、本欄で最近1~2年にわたって書いた文章を土台にした。具体的には、昨年の文章では「狭い戸口」(11月上旬)、「悪を放置するのか?」(3月上旬)、「“悪を認めない”でいいのか?」(6月中旬)などで、今年の文章では「“悪を認める”とは?」(1月下旬)、「感覚と心」(同)、「意味と感覚」(2月上旬)、「わが町--原宿・青山」(同)、などである。これらの文章を書きながら、私は結局、日時計主義についていろいろ考えていたことになる。
 
 第2部には「日時計主義講演録」という題がついている。その名の通り、私の過去の講演や講話のうち、日時計主義に触れたものを集めてある。時期的にいうと、2005年以降のものである。第1部が論文であるのと比べ、話し言葉で書かれているので読みやすいはずだ。

 生長の家からは『日時計日記』が出ていることは、多くの読者がご存じのとおりである。また、2008年版の『日時計日記』もすでに出ているので、本書を読みながら、これらを大いに活用していただければ幸甚である。
 
 谷口 雅宣

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2007年8月23日

本欄が書籍に (4)

Part8  読者の皆さんのおかげで本欄を書き継ぐことができているので、一定期間がたつと、書籍1冊分の文章がたまる。で、今回、出版されるのは『小閑雑感 Part 8』(=写真)で、昨年の7月から10月までに書いた本欄の文章89篇を収めている。そこで、この文章を書く参考にするため、前回、本文と同じ題名で文章を書いたのはいつか……と調べてみたら、昨年の10月18日だった。その時に扱った書籍の題名は『小閑雑感 Part 6』である。「おかしいなぁ~」と思いながら、私はさらに捜した。『Part 7』のことを書いた文章がないからである。私は、自分の本が出版される際には、発行日前に本欄で紹介することにしていた。だから、『Part 7』を紹介する文章がハードディスクのどこかに残っているはずだったが、結局、そんな文章は書かなかったことが分った。

 理由は特にない。『Part 7』の奥付にある発行日は今年5月1日だから、この頃は毎年、生長の家の4つの組織の全国大会があることを思い起こせば、その準備に忙殺されて、私が『Part 7』を本欄で紹介することを失念してしまった可能性が大きい。そして、気がついてみたら、その次の巻である『Part 8』がすでに出版されていたのだ。『Part 8』の奥付に記された発行日はこの9月1日であるが、現物はすでに日本各地で入手できる状態にある。これでは『Part 7』が冷遇されたことになるから、今回の新刊と併せて簡単に紹介しよう。

Part7 『小閑雑感 Part 7』(=写真)がカバーする期間は2006年の3~6月の4カ月で、収録文の数は93篇である。『Part 8』では、同じ4カ月間の文章が89篇あるのと比べると、若干多い。『Part 7』で最も多く扱った主題は「地球環境問題」で全部で42篇あり、「宗教・哲学」に関する文章は23篇だった。そのほか『Part 7』では「“ユダの裏切り”の理由」について3本、「皇室制度の議論を深めよう」と題する文章3本などが特徴的である。
 
 最新刊の『Part 8』では、「地球環境問題」と「宗教・哲学」と関係が『Part 7』とは逆転し、「宗教・哲学」に関する文章が34篇で「地球環境問題」は24篇に減った。私の関心が移動しつつあることが分かる。とは言っても、地球環境問題への関心が薄らいできたという意味ではなく、アル・ゴア氏の『不都合な真実』の成功以来、この問題に真剣に取り組む必要性は“世界の常識”になってきたから、私が本欄で口を酸っぱくする必要性は、逆に減ってきている。
 
 その代わりに、世界第2の宗教であるイスラームに関する記述が増えている。理由は、読者もご存じの通りだ。イラク戦争が泥沼化しつつあり、それに伴ってイスラーム過激派のテロ活動が中東地域の“戦場”だけでなく、先進国内部でも増えつつある。幸い日本は、まだ彼らの攻撃目標の外にあるようだが、イラク戦争で米英軍を支援している立場にあるのだから、いつ目標にされてもおかしくない。そんな時、「イスラームのことはよく分からない」では済まされないのである。イスラームという宗教が問題なのか、それとも当該国が置かれている政治状況が問題なのか、あるいは日米の中東政策が問題なのか……こういう問いにきちんと答えられないのでは、「万教帰一」を信奉する生長の家の人間としても、宗教者としても、あるいは日本国民としても恥ずかしい。そんな意識から、『Part 8』にはイスラームに関する文章だけで十数本ある。『Part 7』には数本しかないから、大きな変化である。

 そのほか、『Part 8』には昨年の生長の家教修会で取り上げられた「肉食」についての考察が、教修会での発表内容に即して5回に分けて書かれている。この問題は宗教的のみならず、地球環境や資源の問題とも密接に関連する現代の重要問題である。さらに、「北朝鮮の核実験」について3本、「核拡散時代への対応」について2本と、宗教とは離れているが、日本が直面する国際政治問題についても考えている。生命倫理の問題では、「夫の死後に妊娠する」こと、「代理母をどう考えるか」など、いずれも日本国内で実際に起ったことを取り上げて、私の信ずるところを書いている。読者の参考にしていただけたら、幸甚である。
 
 谷口 雅宣

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2007年6月 1日

ペーパーレス雑誌現る!

 完全なペーパーレスの雑誌--いずれそんなものも登場するだろうと思っていたが、こんなに早く現れるとは予想していなかった。しかも、中高年向きだというのだから驚いた。小学館がインターネット専用で7つもの雑誌を創刊したのだ。

『フォーマルの流儀』『Designer's Style』『農家に棲む』『ダーウィンのひ孫』『昔、売ります』『江戸前の手引き』『渚でくらす』の7冊で、タイトルを見た限りでは、退職後の“団塊の世代”をターゲットにしたもののように思える。「スーク(SooK):雑誌の市場」というサイトで、それぞれの「創刊0号」が無料で読めるらしい。「らしい」と書いたのは、実際に全部を試してみたわけではないからだ。理由は、ダウンロードに時間がかかり、自宅からダイヤルアップでアクセスするの(今現在)では、時間と経費が気になる。「快適ライフスタイルMagazine」という宣伝文句がついているが、私の私的通信環境では「快適」なアクセスはできそうもない。

 が、職場のLAN経由でアクセスすると流石に使い勝手はいい。フルカラーの雑誌のページを3段階に拡大・縮小できるから、私のように“老眼”が始まっている者にも読みやすく、また見やすい。雑誌本来の「紙のページを繰って読む」という感覚が保たれている点が、これまでのネット上の新聞等とは異なる。6月1日の『日本経済新聞』によると、月750円を払って会員登録すれば、7誌は読みたい放題だという。また、会員以外の人も6~7ページ程度は試し読みができる。そして、バックナンバーは他の電子書籍販売サイトで売る予定らしい。

 なかなか野心的な試みで好感がもてる。その理由は、紙を使わないから森林保護になり、インクでの印刷工程が省け、雑誌の運搬もしないから化学薬品の使用やCO2の排出削減にもなるだろう。ただ、カラー写真を多用した雑誌は、自宅の本棚に入れておき、ときどき開いて見て楽しむという用途があるはずだから、その点での読者の不満は残るかもしれない。恐らくそれを意識して、「7冊750円」という値段にしたのだろう。

 生長の家でも毎月7誌を出しているから、この方面への展開は考えていいはずだ。特に、多部数を買っても活用しきれない場合は、環境保全に逆行する点は見逃せない。また、検索サイトから「生長の家」を探して生長の家のサイトを見つけ出した利用者が、7誌あるどの雑誌も目に触れないまま、別のサイトへと流れていくことのデメリットは、今後ますます拡大していくだろう。「ネット版普及誌」のようなものの早期登場に期待したい。

谷口 雅宣

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2007年3月 1日

日時計主義をさらに進めて

 はや3月となった。3月1日は生長の家の立教記念日なので、今日は午前10時から東京・原宿の生長の家本部会館ホールで「立教78年生長の家春季記念日祝賀式」が挙行された。私は例年のように挨拶を行い、また褒賞者への表彰状の授与などを行った。以下は、そのときの挨拶の概略である:

 本日は、このおめでたい立教記念日を皆様とともに、健康で迎えることができましたことを、神様と皆様に心から感謝いたします。ありがとうございます。
 
 すでに多くの方がご存じのように、今日の3月1日が生長の家の立教記念日であるのは、「生長の家」という名称の月刊雑誌が昭和5(1930)年の3月1日の日付で最初に発行されたからであります。私は、この立教記念日での挨拶にはいつも、この記念すべき『生長の家』誌創刊号から引用して、皆さまにお話をすることにしているのですが、今日もそうしたいと思いまして、ここへ持ってまいりました。
 
 この創刊号の最初の文章は「生長の家の精神とその事業」という題で、ここには「自分はいま生長の火をかざして人類の前に起(た)つ。起たざるを得なくなったのである」という有名な言葉が掲げられています。これは皆さんもよくご存じで、暗唱している人もいると思います。ところで今日は、この文章ではなく、そのあとの2番目の文章をご紹介します。それには「『生長の家』の使命及び読み方」という題がついています。この題にある「生長の家」は、二重鉤括弧で囲まれていますから、第一の意味では雑誌の生長の家のことです。もちろん今日では、生長の家の運動全体のことを指すと広く解釈できるのですが、立教当時は、まだ「運動」などと呼べるような人数はおらず、谷口雅春先生と輝子先生のお2人だけで運動が始まったのですから、「生長の家という名の雑誌」のことを意味していたのです。ですから、ここで言う「生長の家の使命」とは「生長の家という雑誌の発行目的」ということになります。
 
 そういう前提で、この文章を読んでみると、なかなか示唆的で、重要なことが書かれていることに気がつきます。少し読んでみます:
 
 『生長の家』を月々発行して言葉によって此の世を清め、人生を住みよくし、世界の家庭々々を明るくし、個人々々を幸福にすることは生長の家の主要な事業の一つである。それは諸君が『心の法則』を深く研究して行かれるに従って次第に明瞭になってくるであろうように、此の世界は言葉によって支えられているからである。(原文は旧漢字、旧仮名遣い)

 このあと、雅春先生は東西の教典から「言葉の大切さ」を説いた箇所を引用されていますが、その部分は省略します。そして、続いてこう書いておられます:
 
 斯くの如く、東西の経典は筆をそろえて、言葉に生命(いのち)あり、言葉は必ず体を招き、言葉は我らに宿って肉体となることを説いているのである。古え吾々日本人が互いにみこと(みは美称、ことは言)と呼び、互いを神として敬し合ったのはこのためであった。吾らは此の点に於て古代日本に還るべきであることを提言する。吾らは何であるよりも先ず言葉(みこと)である。これは実に否定出来ない。言葉によって吾らは清くもなれば醜くもなり、幸福にもなれば不幸にもなるのである。諸君は毎朝歯ブラシで歯をみがかないであろうか。諸君は、そして歯よりも大切な心があることを自覚しないであろうか。諸君は毎朝歯をみがくのに何故心をみがかないのであるか。又諸君は心を何をもってみがくであろうか。諸君が若し朝起きると一と声『馬鹿野郎』と家族を叱咤するならばその日いちにち不愉快なことを自覚せねばならないであろう。諸君が若し、自己の人生を幸福にし、家庭を明るくし、環境を良化し、運命を改善しようと思われるならば、毎日すくなくとも二三回はそのために作られたる善き、明るき言葉に接しなければならない。それは諸君にとって食事をとるよりも尚絶対に必要なことである。諸君よ、『生長の家』を読め、心を幸福にし、肉体を健康にし、運命を良化せよ。此の目的のために雑誌『生長の家』は生れたのである。(同上、pp.10-11)
 
 このようにハッキリと、『生長の家』の発行目的が書かれています。それは、読者の「心を幸福にし、肉体を健康にし、運命を良化する」ためである--そう書かれています。このことを今日は、皆さんと共に確認したいのであります。つまり、生長の家が出版物を発行する目的は、コトバの力を駆使して、読者を幸福にし、肉体を健康にし、運命を良化させるためであるということです。『生長の家』誌創刊号には、この目的のための生活法として、先ほど紹介した文章に続いて「日時計主義」が提唱されています。このことも、立教記念日では何度もお話しているので、皆さんにとっては旧聞に属するでしょう。

 それから77年が経過しました。今日では、『生長の家』誌は、3種類の機関誌と4種類の普及誌に分化発展してきていますが、その発行目的は変わらないと思うのであります。また、逆に人々の「心を幸福にし、肉体を健康にし、運命を良化する」ためには、月刊誌以外にもあらゆる手段を使うことが、運動の発展であり、使命であるということになります。そういう意味で、創刊号で提唱された日時計主義を実践するためにこのほど、『日時計日記』という日記帳が出版されたことは、すでに皆さんもご存じと思います。このような日記帳が、これまで何十年もの間出版されなかったことは本当は不思議なのですが、昨今の手帳や日記帳ブームもあって、昨年秋に発刊され、大変好評を得ています。これまで4回刷って、3万7千部を発行しています。
 
 また、今日では、科学技術・通信技術の飛躍的な発展により、出版というものが紙を媒体にしたものから、電子信号を媒体としたものへと大きく変化しつつあります。そして、それに伴って、情報の流れが小刻みになり、双方向的になり、また情報量も飛躍的に増加しています。今日では、その溢れかえった大量の情報の中から、「正しい情報を的確に選択する」ことが課題になっています。宗教の世界でも同じことで、正しい教えが、必要とされている人に、必要とされている時と場所に、速く伝わることが重要で、そのために生長の家でもインターネット・サイトをいくつも立ち上げて、紙の媒体による出版活動と連動した電子媒体による運動も開始しています。
 
 例えば、先ほど紹介した『日時計日記』にあわせた形で、ウェッブ版の『日時計日記』が今年から始まっています。これは毎日、日記帳をつけるような感覚で、誰もがインターネット上の『日時計日記』に「よいこと」を書き込める場所です。これによって個人的な日記が、公開日記帳のような性格をもちはじめます。そして、そこに「よいこと」が書き込まれれば、それを読む人すべてに、世界中の人々に「よいこと」が伝わる--こういう新しい効果が生まれています。ふるってご参加ください。
 
 また私も今回、この立教記念日に合わせて『日々の祈り』という本を出させていただきました。『日時計日記』は紙に印刷した書籍が先に出て、それからインターネット版へと発展したのですが、この『日々の祈り』は、私がブログ上で発表した「祈りの言葉」が先に出て、その数が集まったところで書籍として出版されました。全部で49の祈りの言葉を収録していますから、ぜひ皆さまもこれを活用されて、日時計主義の生活を実践していただきたいと思うのであります。この新刊書の中から「観を転換して人生に光明を見る祈り」(同書、p.146)というのを朗読しましょう。
 
 (祈りの言葉は上記のリンクへ)
 
 この本には、このように日時計主義の実践を信仰面から支えていくための祈りの言葉が、人生の様々な場面で使えるように編纂されています。ぜひご利用していただき、個人の信仰深化はもとより、多くの人々に信仰の喜びを伝えていく運動を今後も力強く展開していただきたいと思います。このおめでたい記念日に際して、所感を述べさせていただきました。ありがとうございます。
 
 谷口 雅宣

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2006年12月31日

2006年を振り返って (2)

 地球規模の問題についてでなく、生長の家の運動や私的な方面で今年を振り返ろう。
 
 今年は、1月のブラジルでの「世界平和のための生長の家国際教修会」が最初の“山場”だった。その準備で正月から忙しく、時間ぎりぎりで何とか勤めを果たせたようだ。今回、新しい経験として、ブラジル国内の20のテレビ局で放映される番組の録画をした。日本語での収録だったから緊張は少ないと思っていたが、どうしてどうしてカメラが回っていると思うと言葉も体も固くなるものである。また、9カ国から集まった生長の家の幹部の人々と懇談会をもった際、10人の同時通訳者を動員してのやりとりは、なかなか刺激的で壮観だった。
 
 教修会では「肉食」の抱える様々な問題について検討した。これを、肉食を主体とした食事を伝統とするブラジルやアメリカの人々の前でやったのである。当初は、参加者から反発されたり、「文化の違い」で一蹴されてしまうことを危惧していたが、大半の人々の反応は肯定的だったことはありがたかった。7月4~5日には日本で、これと同じテーマで教修会を行い、世界の宗教がもつ「食物規定」の検討を通して、これまた有意義な研鑽が行われた。この中で重要な点を1つ挙げれば、それらの食物規定は、宗教の教えの“神髄”とか“本質”に当たる中心部分ではなく、時代や環境の変化に応じて定められた周縁部分に当り、したがって「変遷する」ことが明らかになったことだ。

 生長の家は、このような宗教的理由のみならず、環境保全や資源の有効利用のためからも「肉食を減らす」運動を進めているが、この種の具体的な実践の新たな取り組みとして、「生分解性プラスチックの利用」が今年から本格化した。人が多く集まる生長の家講習会等では、食器や弁当箱に何を使うかで二酸化炭素の排出量に結構な違いが出る。このため、7月9日の青森市での講習会を皮切りに、この種の“エコ食器”の利用が進められていることは特筆に値する。これはまた、参加者の環境意識を高めるだけでなく、まだ揺籃期にあるエコ関連産業を育てることにもつながるだろう。そして、従来から全国で進めているISO-14001の活動と、教団施設や信徒宅等への太陽光発電の設置、ハイブリッド車の導入も着々と進んでいる。

 少し私的なことに触れよう。今年、私の単行本は3点が出版された。本欄をまとめた『小閑雑感 Part 5』と同『Part 6』のほかに、かつて月刊『光の泉』誌に連載していた長編小説『秘境』が1冊の本として11月に上梓されたことは、私にとって特にうれしい出来事だった。私は学生時代、同人誌に属して小説家になりたいと思っていた時期もあったから、そんな淡い希望が形の上では実現したことになる。もっとも、私は2003年にすでに短篇小説集『神を演じる人々』を出している。しかし、長編が本になることの手ごたえは、やはり違う。そんな思い入れもあって、本のカバー用に自分で絵を描いてしまった。こんなことも初めてだ。

 最後に、今年は生長の家が発祥当時から推奨し、推進してきた「日時計主義」実践のための道具立てが整った年である。まず、“よいニュース”のみを集めて発信するインターネット・サイト「日時計ニュース.com」が7月31日にスタートした。それから書籍版『日時計日記』(生長の家刊)が10月半ばに産声を上げた。この日記帳は好評で、12月27日の時点で3万1千部が頒布されている。さらに、Web版『日時計日記』が12月20日に始動した。これは、日時計日記をネット上に作って、全世界から書き込もうという野心的な試みである。これに、ノーミートの献立とレストランを紹介する「ノーミート・ブログ」(9月1日スタート)を加えると、生長の家のネット上の活動の場は飛躍的に増加したと言えるだろう。来年はこれらを大いに活用し、内容を充実させていくことだろう。

 今年1年、本欄を応援してくださった世界中の読者の皆さん、2007年が皆さんにとって輝かしい進歩と発展の年でありますように。来年もまたよろしくお願いいたします。
 
谷口 雅宣

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2006年12月20日

Web版『日時計日記』に参加を!

 生長の家のスポンサー・サイトの1つとして“Web版『日時計日記』”が、12月20日にスタートした。『日時計日記』とは、毎日“よいこと”ばかりを記録していくことを目的に今年10月半ば、生長の家から発刊された日記帳である。生長の家では、昭和5年の発足当初から「日時計主義の生活」を提唱してきたが、その具体的な実践を「日記帳」によって支援しようという試みは今回が初めてだ。その“第1弾”となった「2007年版」はなかなかの反響で、発刊以来すでに3刷、3万2千部が流通している。私も、生長の家講習会では受講者に購入を勧めている。

 今回の“Web版”は、「製本した日記帳」があくまでも個人用であり“閉じられた空間”であるのに対し、誰でも書き込める場となったことで“開かれた空間”へとひろがったと言える。それはまた、日本語を読める世界中の人々の共同作業によって、個人的な「よいことの記録」をネット上に構築しようとする野心的な試みと見ることもできる。生長の家のスポンサー・サイトにはすでに「日時計ニュース.com」というのがあるが、ここではネット上の報道記事などから「よいニュース」を集めることで、公的な「よいことの記録」が集積している。これに加え、Web版『日時計日記』ができることで、私的・個人的な「よいことの記録」がネット上に集積していく可能性が拡大したのではないだろうか。

 少し面倒くさい表現をしてしまったが、もっと簡単に考えて下さっていい。それは、製本版『日時計日記』の“マニュアル”や“記入見本”としてWeb版を利用するのである。『日時計日記』には7項目の記入欄があるが、どれもあまり「一般的」とはいえない。だから、初めて記入する人の中には何を書けばいいか戸惑う人もいるだろう。そんな時、Web版のサイトにアクセスすれば、ほかの人が何をどう考え、どう記入しているかが分かる。それを参考にして、自分の製本版の日記帳の欄を埋めるのはどうだろう。また時には、自分だけ知っているのではもったいないような「よいこと」が起こることもある。そんな時、「ねぇねぇ聞いてよ、こんないいことあったんだから」という気持でサイトに書き込めば、きっと大勢の人々と喜びや感動をともにすることができるだろう。

 このような様々の意味から、本欄をご愛読くださっている読者にはぜひ、Web版『日時計日記』のご支援もお願いしたいのである--ということで、“言いだしっぺ”の私としては、発足初日の20日午後5時前に、次のような応援演説をWeb版に書き込んだ:
 
「今日、Web版の『日時計日記』が発足したことで、生長の家の運動に“革命的”な発展がありました! 世界中の生長の家の信徒が、またそうでない全く生長の家を知らない人も、一堂に会して“よいこと”を語り合う場ができたということです。このような場は、生長の家の歴史始まって以来のことではないでしょうか? 大いに活用し、また改良して、オンライン版の光明化運動を進めていきましょう!」

 ところで、製本版の『日時計日記』をお持ちでない読者のために少し補足を……。『日時計日記』にある7項目の記入欄とは、①神想観、②聖典・聖経、③愛行、④祝福・讃嘆・感謝の言葉、⑤私の希望・願い、⑥環境に配慮したこと、⑦日記、である。Web版では毎日、これら7項目の表題だけを掲げた空欄を設けていくので、その中の1項目だけでも、該当するようなことがあれば、コメントとして記入していただきたい。また、とりわけて記入することがない場合でも、誰かの記入を見て「励まし」や「讃辞」をコメントとして書き込んでくだされば、そのこと自体が『日時計日記』の目的に合致すると思う。

  最後に、上記7項目のうち分かりにくい言葉を簡単に解説すると--「神想観」とは、生長の家の推奨する座禅的瞑想法のこと。「聖典」とは生長の家創始者・谷口雅春先生と奥様、生長の家総裁・谷口清超先生と奥様の著作になる単行本のこと。「聖経」は、生長の家で「お経」と呼ばれている聖経『甘露の法雨』『天使の言葉』『続々甘露の法雨』など。「愛行」とは、人に愛を与える行動で、仏教的には布施のこと。法施と物施がある。

谷口 雅宣

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2006年11月19日

『雷の落ちない村』

 大津市で行われた生長の家講習会の帰途、長等公園内にある三橋節子美術館へ寄った。私は三橋氏のことはほとんど何も知らなかったが、病気のため右腕を切断し、絵筆を左手に持ち替えて描いたという話を事前に聞き、興味を抱いた。その時、私の脳裏にあったのは詩画家の星野富弘氏のことである(11月2日の本欄参照)。人間のもつ可能性は実に偉大であり、それが引き出される契機は一見、“不幸な出来事”であることが多いのだ。三橋氏の場合は、悪性の右肩鎖骨腫瘍が診断される以前に、すでに画家としての才能を発揮していたが、手術後に左手で描いた作品の方が評価が高いという点が、素晴らしいと思う。しかしその時、三橋氏は自分の余命が長くないことを知っていたのである。35歳での死は、他人から見れば実に「もったいない」のであるが、本人は周囲の人に「幸せやった」と感謝して旅立ったという。
 
 三橋氏は、宮沢賢治の童話や近江の伝説に取材した絵を多く描いているが、絵本も作っている。私は、その『雷の落ちない村』(小学館、1977年)という作品を買って帰った。この物語は、琵琶湖の畔のある村に住む少年の“怪物退治”の話だ。この自然豊かな村では普通、人々は幸せな生活を送っているのだが、夏になるとやってくる雷の被害で、村人は大変こまっていた。この雷の狼藉を見ていた少年は、ある日「よっしゃ、おれがアイツをやっつけたる」と決意して山へ登る。そして雷に向って何本も矢を放つが、何の手ごたえもない。湖畔でしょげていると、琵琶湖の主である大ナマズが現れて、「雷を寄せつけないためには、その案内をしている雷獣を捕らえねばならない」と教えてくれる。少年は村人にそのことを告げ、村人たちは協力して雷獣を捕らえるための大網を作り、ついにそれを捕らえる。すると雷獣は命乞いをするので、少年は「もう2度と村に雷を落とさない」と約束させて放してやる。それ以後、この村にはもう落雷の被害はなくなった--こういう話である。

 17日の本欄で『トマスによる福音書』について書いたように、私はグノーシス主義のことが頭にあったので、この絵本のストーリーとグノーシス主義の考え方の際立った違いに驚いた。グノーシス主義では、この世界(現象世界)をつくった造物主はきわめて否定的に捉えられる。それは「デーミウールゴス(Demiourgos)」というギリシャ語で表現され、「至高者」と「人間界」の中間の世界に位置し、人間界をも支配していると考えられている。このことは、かつて私が翻訳したトム・ハートマン氏の『叡知の学校』(日本教文社、2002年刊)で次のように説明されている。
 
「世界には2つの創造神がいる。1つは宇宙の創造主で、これは人間とはかけ離れていて近づきがたい。この神が『アイオーン』という超自然的な存在をいくつも造った。そのうちの1つが『ソフィア』という名の処女女神だ。この女神が、今度はちょっとひねくれた神、デミウルゴスを生んだ。デミウルゴスは、基本的には狂った神だ。気がふれたサディストだった。しかし、彼は神であったため、創造の力があった。だから、人間を繁殖させ、拷問にかけるためだけにこの世界を創造した。これが、人生に多くの苦しみがあることを説明するために、ギリシャ人とローマ人が考えたことだ」。(同書、pp.191-192)

 この神話では、デーミウールゴスは人間の苦しみや悲しみにはまったく無頓着である。だから、人間が救われるためには、至高者の使いとしての“子”が天界から降りてきて、自己の本質を知らずにいる人間に対して、その本質を啓示して目覚めさせる必要があった。それにより、救われた人間はデーミウールゴスの支配下から逃れて天界へと帰還することになる。デーミウールゴスは、グノーシス主義では悪しき被造世界の創造者なのだ。人間はそれを相手にせず、自己の本質を知って超然と天界へ上らねばならない。ところが、三橋氏の物語では、自然の力を象徴する雷やその案内者の雷獣は、一見人間を凌駕する力をもっていても、近づいてみると互角の力しかなく、捕えられれば命乞いをするのである。そして、人間の「説得」あるいは「諭し」に応じて自分の行動を改めさえする。
 
 私はここに、日本の神話にあるスサノオノミコトの行動と似たパターンを見る。また「桃太郎」の物語に出てくる「鬼」と人間との関係も思い出す。日本人の感性では、自然は基本的に人間の“仲間”であり、説得し、諭せば人間の利益を守ってくれるのだろう。しかし、グノーシス主義では、自然は人間の利益を冒し、人間を翻弄し、人間の死を喜ぶ。それに対抗するためには、人間は天界からの支援を得て、自然を超克しなければならないのだ。生長の家では「すべては神において一体」と説くから、その点でグノーシス的世界観は生長の家と相当異なると言えるだろう。
 
谷口 雅宣
 

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2006年11月11日

『秘境』について

 かつて『光の泉』誌に連載していた「秘境」という小説が、このたび単行本になって日本教文社から発売された。奥付の日付は11月20だが、すでに配本ずみで読者は入手できるはずだ。290ページある本だから、もっと分厚くなると予想していたが、できたものを手に取ってみると案外薄い。長編の大作を書く作家で、400ページもある本の上下2巻組などを出す人がよくいるが、私にはそんなものを書く余裕もエネルギーもないだろう。今回初めて長編小説を書いてみて、そのことがよく分かった。また、小説の登場人物が“勝手に動く”という体験を、長編を書いて味わった。これは短篇にはない恐ろしさだが、反面、スリリングな面白さもある。恐ろしいのは、登場人物が当初の予定外の言動をして物語を破綻させる危険があること。面白いのは、そういう予想できない言動の中にこそ、真実が隠れているということだ。

 この小説のプロットを思いついたのは、ジョディー・フォスター主演の『Nell』(1994年)という映画のビデオ版を見ていた時だ。この映画は、アメリカ南部の山奥で独りで住んでいた老女が死んだというので、その家へ行った医師が、そこに娘が1人いることを発見するところから始まる。医師が驚いたのは、この娘が現代文明にまったく触れたことがなく、奇矯な行動をすることだった。そこで医師と大学の研究者が協力して、この娘を現代へ引きもどそうとする--そんな話だ。自然の中で不便だが自由に生きる人と、文明社会の中で、便利だが約束事に縛られて生きる人間とが、鮮やかな対照をなしていた。また、この映画は実話にもとづいているとも聞いた。その舞台を、現代日本へ移すとどうなるか? でき上がった小説は、『Nell』とはずいぶん違う雰囲気になったと思う。また、映画とは異なり、自然と人間との関係を正面から扱うことになった。

 小説の主舞台は、山形県の鶴岡市近辺である。一度も行ったことのない土地を舞台に選んだ私は、無謀だったかもしれない。取材のために2~3度現地を訪れ、この土地の生んだ作家、藤沢周平を読むことになった。冬に訪れたときは、自分の想像以上に厳しい土地であることを思い知った。雪が深くて、とても“現場”へ行ける状況ではない。そこでやむを得ず、写真を何枚も撮った。その中の1枚をもとにして、本のカバーになった絵を描いた。この絵は、今年の「聖光展」(生長の家芸術家連盟美術展)にも出したから、ご覧いただいた読者もいるだろう。雪に輝く月山を遠望した絵だ。小説の主要な物語は、夏の数カ月間で終ってしまうが、この土地の人々は厳しい冬も過ごさねばならないということを言外に示したかった。

 小説を書く上で難しかったことの1つは、方言をどうするかということだった。私はまったく庄内弁ができないから、庄内出身の知人に1から10まで添削をお願いして、会話部分を作った。その点では、この貴重な助っ人がいなければ、秘境の少女は小説の中で命を得なかったといえる。主人公は30代の新聞記者だが、この男とライバル社の記者との取材合戦の中に、自然に対する2つの考え方を対照させようとした。現代の日本人は、この2つの相矛盾する考え方の双方を心中にもっているはずだ。そして、時と場合によって、自分の都合のいいように2つを使い分けている。それらの調和的な共存が、地球温暖化時代の人間の生き方を示してくれる……などと期待している。が、実際の作品ではそうはうまくいかず、主人公はある重大な決断をしなければならなくなった。
 
『光の泉』誌での連載では、主人公がこの決断をしたところで物語は終っていた。しかし、このエンディングがあまりに唐突なのと、余韻と将来への期待がほしいという理由で、最後の1章を書き加えた。狙い通りになっているかどうか分からないが、ここには、新聞記者をやめてから、今はブロッガーをやっている私自身への励ましの気持も込められている。

 本書について、読者からのフィードバックをいただければ有難い。本欄にコメントをつけても、「本もよろしく」欄へのコメントでも、また私へのメールでも歓迎します。

谷口 雅宣

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2006年11月 3日

「読ませ大賞」って何?

 本欄から生まれた単行本『小閑雑感』シリーズを発行している世界聖典普及協会の人から、興味ある話を聞いた。このほど「出版文化産業振興財団(JPIC)」がインターネット上で始めた「読ませ大賞」という本のランキング・サイトに、私の最新刊『小閑雑感 Part 6』が載っているというのである。もちろん全国ランキングにあるのではないが、「50~59歳」の「関東地方」の「男性」「会社員」が推薦する本のランキングでは「第1位」というのだから驚いた。私自身、そのサイトへ行って確認したが、何回確認してもちゃんとそこにある。ウーンと唸って考え込んでしまった。理由がわからないのである。
 
 私はこのサイトの名前をまったく知らなかったが、調べてみると「Books.or.jp」という書籍検索サイトと連動していて、「文字・活字文化の日」である10月27日を広める読書推進キャンペーンの一環としてJPICが新しく始めた企画のようだ。本の読者による投票(ハガキとインターネット)でよい本の順位を決め、インターネット上の“口コミ効果”で、良書が全国に広がっていくことが目的だという。投票期間は、インターネットが10月27日~大晦日まで、ハガキでの受付は10月27日~11月30日までという。

 こういう立派なサイトに自分の本がランクされたのだから、唸っていないで素直に喜んだらいいのかもしれない。しかし、私にとっては、闇の中で鼻をつままれたような感じだ。なぜなら、『小閑雑感 Part 6』の奥付の発行日は11月1日で、今日は3日である。もちろん、本そのものは少し前から流通していて、10月29日の和歌山市での生長の家講習会では100部以上頒布された。しかし、この本は一般書店では入手が難しい。できたてホヤホヤの本で、しかも一般に流通していないものが、書籍ランキングの上位に登録されるというのは、どうも解せないのである。まことに申し訳ない言い方になるが、一時は、サイトのソフトウエアにバグがあるのかもしれないと考えた。

 翻ってこのサイトの企画自体を考えれば、なかなか面白いと私は思う。しかし、いくつか問題も考えられる。例えば、ある宗教団体では、信者が特定の有名書店へ行ってその指導者の本を何冊も買うことで、書店でのランキングを上げるなどの不自然な方法を採っているらしい。こうすれば、その書店での“棚”や“平積み”の領域を確保できるだけでなく、新聞・雑誌には有名書店での売れ筋ランキングを発表する欄もあるから、二重三重の宣伝効果が生まれる。それと似たようなことが、このサイトで行なわれる危険性はないのだろうか? 大教団が全国の信者を動員して、指導者の著書を“よい本”としてこのサイトに登録し、ランキングを上げるのを防ぐ対策はできているのだろうか? 
 
 同じような心配は、政治家の著書や政治問題に関する本についても考えられると思う。ことに選挙が近くなると、安倍さんの本と小沢さんの本がランクの上位で競争したり、朝日新聞社の本と扶桑社の本がランクを競うかもしれない。今後、このサイトで発表される投票結果を見れば、ランキングの自然・不自然はいずれ判明するだろう。「ブルータスよ、お前もか!」にならないことを祈るばかりだ。

谷口 雅宣

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2006年10月21日

『小説の一行目』

 最近、この表題のようなタイトルの本を買った。書店の棚に並んだ数々の背表紙の中に、この不思議なタイトルを見つけて、思わずその本を抜き出した。小説家や文芸評論家をめざす人を対象にした一種の“文章読本”か、あるいは小説ファン向けに「1行の味わい方」を解説した本かと思った。しかし、中を開いてみて驚いた。タイトルそのものの内容なのである。つまり、数々の小説の最初の1行目だけを、それぞれ1ページに収めて羅列しただけの本なのである。総ページ数は328ページの分厚い本だが、中身は他人の作品の切れ端を寄せ集めたもの。しかも、昭和10年から今年までの芥川賞、直木賞受賞作品300点から選んでいる。「それはないだろう……」と思って本を置こうとしたが、「せっかくだから」と少し読んでみた。

 真っ白なページの真ん中に1行、次のページにも真ん中に1行……と続いていく。ここで言う1行とは、句点(。)で区切られる1行であって、改行があるかどうかを問わない。有名な川端康成の『雪国』を例に引けば、
 
 国境の長いトンネルを抜けると雪国であった。
 
 の部分である。
 見開きの2ページでは、広い空白が1行と次の1行を引き離しているから、文章としてつなげて読むことはない。また、それぞれの1行には、誰の、何という作品の1行目かなどという解説や補足はいっさいない。ちょうど句集の1ページのように、1行の黒い文字を白地の中に浮き上がらせて「読ます」のである。その1行は、恐らく作家がそのときの全精神を傾けて吐き出した1行だから、読む者の心を捕らえ、想像力をかきたてて離さない。次のページへ目を移すことが憚られるのである。数ページ読んだ私は、編集者の斬新な発想に喝采しながら、本を閉じてしまった。
 
 それは、いろいろな人の顔写真を見る感覚とも似ている。そのどれもが魅力的な男性であり、女性であるとき、視線のやり場に困る……というような気分。あるいはインターネット上の写真だったら、どこかに「拡大」ボタンか、「詳細情報」のボタンがないか探し回る気分である。しかし、そんなものはないのだから、本を閉じ、空を見上げ、動き始めた自分の想像力を、空へ解放するしかない。そんな抑圧されたような、じれったいような、それでいて妙に自由な気分になれる不思議な本である。

 巻末に、この本の“使用法”なるものがいくつか載っている。「自分の状況の置き換えてみる」とか「英語に訳してみる」とか「続きを書いてみる」などあるが、私の場合は3番目をしたい気分になる。日本文学の伝統の中には「本歌取り」というのがあるが、それを小説でやるというのはどうだろうか。また、「狂歌」「替え歌」「パロディー」などもある。機会があったら挑戦してみたい。
 
谷口 雅宣

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2006年10月18日

本欄が書籍に (3)

Part64r  本欄の昨年11月から今年2月分をまとめた本、『小閑雑感 Part 6』(=写真)がまもなく世界聖典普及協会から出版される。4月25日の本欄で前作の『Part 5』の発刊について書いたから、ちょうど半年後の発刊である。文章の数は前作の89篇から83篇に減っているが、これは主として「フィクション」という分類のものを収録しなかったからだ。大部分がノンフィクションである本の中に突然、フィクションが出てくる違和感を避けたかったのと、創作は創作として別の本にまとめる方が読みやすいと思ったからだ。

 この本がカバーする4カ月の間に、生長の家の大きな行事は秋季大祭と記念式典、新年祝賀式、ブラジルでの生長の家教修会、そして建国記念の日祝賀式があった。それぞれについての文章が本書には含まれる。一方、“続き物”の文章では、①科学者の倫理性、②信仰と風刺、③認知された“石油ピーク説”、④政治が科学を抑えている?、⑤実相の表現は簡単か?、という表題が含まれる。①は、韓国のES細胞研究の“権威”とされた科学者が、データを捏造した研究論文を発表した事件について、7回にわたって書いたもの。②は、イスラーム最高の預言者モハンマドの風刺画がヨーロッパの新聞に掲載された事件に関して、3回書いた。③は、私が7~8年前から紹介している説が、ようやく認められてきたという話で、④は、NASA(米航空宇宙局)の気象学者の発言がアメリカ政府によって抑えられているという話だ。⑤は、生長の家の教義の解説である。

 また、クリスマスに関連して「クリスマスは冬至祭?」「クリスマスはアメリカの伝統?」「季語・クリスマス」という題で3回書いた。これらを読んでもらえれば、宗教上の儀式や祭などは、それぞれの土地の文化に都合がいいように脚色され、一部受け入れられ、あるいは一部拒否されながら続いていくのであり、「不変の真理」「普遍の価値」と呼べるようなものとは性質が異なることが理解されるだろう。このことは拙著『信仰による平和の道』(2003年、生長の家刊)の中で、次のように述べたことの証左になるだろう:
 
「宗教というものはそれぞれの発祥の地における地域的、文化的、時代的な特殊な要請にしたがって登場し、成立するものではあるが、それが真理を説き、時代の変遷にもかかわらず発展していくべきものならば、それは成立当初のローカル色や特殊性から脱却し、普遍的な真理を前面に打ち出すとともに、伝播地においては、逆にその土地のローカル色や特殊性を吸収し、応用するだけの“幅”や“柔軟性”をもたねばならない」(pp. 17-18)

 クリスマスは今や、キリスト教最大の行事のようになっているが、12月25日を“救世主・イエス”の誕生日として祝う習慣は、もともとのキリスト教にはなかった。それが、キリスト教がローマの国教となった後に、ローマ人の太陽神崇拝の祝日をキリストの誕生日にしてしまったのだ。また、アメリカ大陸に渡った清教徒たちは当初、クリスマスを「キリスト教的でない」として拒否していたことも、特筆に値する。
 
 ところで、今年1月に生長の家教修会のためにサンパウロとニューヨークへ行った際、スケッチブックに「絵日記」のようなものを描いたが、その絵は本欄に掲載しなかった。今回、本書にまとめる機会にそれら10枚を収録することにした。
 
 この本は、10月25日に発売される。前作に引き続いてご愛顧いただければ幸甚である。
 
谷口 雅宣

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2006年9月27日

電子文書を読む

 読者が今、本欄を読まれているように、電子化された文書を読むことはすでに日常化し、当たり前の出来事になっている。しかし時々、その可能性に驚かされることがある。インターネットの発達で、「時間と空間の制約をほとんど受けずに情報が伝わる」とはよく言われる。私も、海外の出来事をほとんどリアルタイムで、衛星放送やニュース・サイトを介して見たり読んだり聞いたりしてきた。情報の電子化とインターネット技術によって、今や「空間」の問題は克服されつつある。しかし、「時間」がなくなる体験をすることは少ない。

 それを可能にしてくれるのが文書や映像の電子化なのだ。たぶん読者の中には、図書館や博物館のサイトを愛用している人もおられるだろう。その場合、古い文書や遺跡からの出土品の映像なども、手元で見ることができるに違いない。恥ずかしながら、私はそういう経験を今日までしたことがなかった。が、9月16日号の『New Scientist』誌をパラパラと見ていたら、「オンラインの伝説」(Legends online)という題の小さな記事の横に、曇天下に凧を揚げている紳士の絵が並んでいて、「電気から電子へ」(from electric to electronic)というキャプションがついているのが目に留まった。この絵は、ベンジャミン・フランクリン氏(Benjamin Franklin)が雷は電気であることを証明した、あの有名な実験を描いたものだとすぐ分かった。
 
 この絵そのものが、ニューヨーク市立博物館所蔵と書いてあったから、恐らく電子化されたものを同誌の版元がイギリスへ送信してもらったものだ。そのこと自体は驚くことはないが、私が興味をもったのは、記事の内容だった。それによると、ロンドンにある英国王立協会(the Royal Society)は所蔵文書の電子化に取り組んできたが、このほどその一部を期間限定でインターネット上に無料公開したという。その中には、“世界最初の科学雑誌”ともいえる『Philosophical Transactions』(哲学的往来、1665年創刊)誌も含まれていて、同協会のサイトへ訪れるとフランクリンの凧の実験(1752年)を初め、エドムンド・ハレー(Edmund Halley)のハレー彗星の発見(1705年)、ニュートンの反射望遠鏡の発明、スティーブン・ホーキング博士(Stephen Hawking)の最初の論文、DNAの構造を解明したワトソン(James Watson)とクリック(Francis Crick)の1954年の論文などが読める、と書いてあった。

「へぇー」と思った私は、さっそく同サイトへ行ってフランクリンの論文を探したが、見つけたのは当該論文ではなく、同協会に提出されたその論文をめぐるコメントや、フランクリンによる実験の補足説明などを含む4つの文書だった。当時の雑誌のページをスキャナーで読み込んだものを「PDF」の方式でファイル化してある。古いもので「1751年6月」という日付があったから、それを読むと、今から255年前にイギリスの科学者が電気についてどういう考えをもっていたかが伺い知れて、面白い。フランクリンは当時、電気が生体にどのような影響を与えるかを実験していて、ハトやニワトリに電気ショックを与えるとどうなり、同じ電気を七面鳥に与えた場合はどうなり、肉を食べると柔らかくておいしいとか、人間はどの程度の電気ショックに耐えられるかなどの推測をしている。

 こういう実験の過程で、フランクリン自身が誤って電気ショックを受けた話も出てくる。それによると、彼の手から伝わった電気は、直ちに頭から足の先まで全身をかけめぐり、その後数秒間、胴体全体が激しく震え続けたという。彼の意識が正常にもどり、何があったかに思い当たるまでには数分間(some minutes)かかった。感電時には閃光など見えず、音も聞こえず、感電した手にも痛みは感じなかったという。しかし、実験に立ち会った人は、その時大きな音がしたといい、フランクリンの電気を受けた手は事後に腫れあがったという。また、彼の両腕と背中は数時間しびれた状態になり、胸は打撲傷を受けたように1週間後も痛んでいたらしい。
 
 1752年10月1日付のフランクリンの手紙には、実験に使った凧を、どうやって作るかも書いてある。それによると、スギ材で十字形を組み、その上に絹のハンカチを張って凧を作るそうだ。これに尻尾と紐と糸をつける。凧の十字形の縦骨には先の尖った針金をつけ、凧の先から30センチほど上方に出るように固定する。手元側の凧糸には絹のリボンを結び、糸と絹の接点に鍵を結びつける。この手紙には、この凧をどう揚げて、電気をどう取り出すかも書いてあるが、それをここに書くと実験したくなる人が出てくると困る。私は、そういう人の生命を危険に晒したくないので、雷雲が出ている時は、凧揚げは絶対にしないようにお願いして、本稿を終ることにする。
 
谷口 雅宣
 
 

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2006年4月25日

本欄が書籍に (2)

 本欄の昨年7月から10月分がまとまった本、『小閑雑感 Part 5』(世界聖典普及協会刊)ができた(=写真)。昨年12月25日の本欄で前作の『Part 4』の発刊について書いたから、ちょうど4ヵ月で1冊ということになる。前作の総ページ数が264ページなのに比べ、今度のは296ページとやや厚くなった。文章の数は94篇から89篇に減ったのだが、1回分の文章がやや長くなったためと、絵や写真の数が少し増えたからだろう。内容的には、前作よりも「地球環境問題」「エネルギー問題」「宗教・哲学」「文化・芸術」に関する文章が増え、「遺伝子・生命倫理」「ハイテク・先端技術」に関するものがやや減っている。新しく「映画」の感想文も入った。
 
Shokan52g_1  シリーズものでは、前作から続く「芸術は自然の模倣?」の(4)~(6)を初め、「スーフィズムについて」(6回)、「ロンドンのテロ」(4回)、「石油高騰の“効果”は?」(2回)、「信仰と進化論」(2回)などが含まれる。この時期に、私の関心がどこにあったかを窺わせる。
 
 収録された89篇は、誤字、脱字、変換ミス等を修正したほかは、本欄に現在もある文章とほとんど変わらないが、一つだけ大きく変更したものがある。それは、10月30日付の「太陽光発電の導入盛ん」という文章で、本欄ではこの日付の時点で入手できたデータに基づいて書いてある。が、この『Part 5』の本の中では、校正の最終段階--具体的には今年の3月18日--で入手できたもっと新しいデータを突っ込んだ。“邪道”かもしれないが、この本の発行日が今年の「5月1日」であるのに、半年前の古いデータによって「平成17年度」(17年4月~18年3月)の成果を説明することは、統計的に正しくないと思ったからである。

 この文章を書いている現在は、さらに新しいデータが入ってきているが、それによると、平成17年度の生長の家関連の太陽光発電導入実績(3月末締め)は、「過去最高」となっている。この運動に協力していただいている皆さんに、心から感謝を申し上げたい。

 前作の『Part 4』と今回の『Part 5』、そして現在も時々触れることで、アメリカが大きく関わっている重要事項が2つある。それは「イラク戦争」と「地球環境問題」だ。私は『Part 4』でイラク戦争は間違いであると書いた(2005年4月2日)。現在、この考え方はアメリカ国内でも大方の受け入れるところになっていると思うが、当時はまだ“正戦論”が優勢だった。また、同年3月18日には、ブッシュ政権のエネルギー政策の中核をなしていたアラスカの石油開発を可能にする法案を、米上院が僅少差で可決したことを書いた。しかし、今年2月2日の本欄で書いたように、今年の一般教書演説でアメリカの「石油中毒」を認めた同大統領は、今やこの政策を後退させ、原発の増設や石炭の利用、エタノールの生成技術の振興、自然エネルギーの利用、次世代ハイブリッド車の開発を行うと宣言している。

 1年で、世の中は変わるものだと思う。社会が中東の石油に依存していることが、国の安全保障上の問題を惹き起こし、“石油中毒”の生活がハリケーンの巨大化等の地球環境悪化を招いていることを、ブッシュ氏自身が認めるようになったと解釈できるからだ。しかし、原発や化石燃料の温存では、問題解決の先延ばしにすぎず、次世代への責任を果たすことができない。アメリカに安全保障を頼っている日本にも、全く同じことが言えるのだが、日本政府は別の方向を見ているようで、歯がゆいばかりである。

谷口 雅宣

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2005年12月25日

本欄が書籍に

 本欄の3月から6月までの記事が、1冊の本になった(=写真)。以前のシリーズを引き継ぐかたちで『小閑雑感 Part 4』と題して世界聖典普及協会から発行された。前作の『Part 3』は2002年の8月末で終っていたから、2年半のブランクの後の“復活”である。奥付の日付は来年の1月1日だが、もう在庫している。

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 新作は前作や前々作に比べると、絵や写真の数が少ない。その代り、ページ数はほぼ同じでありながら、前作が50篇の記事を収録しているのに対し、新作は94篇と倍増している。それだけ頻繁に書いたということだ。つまり、絵や写真を減った分、文章の数が増えている。これは主として、本欄が「ブログ」の形式に移行して、サイトへの書き込みが簡単になったことと、絵や写真に割く時間がなかったことによる。

 さて、『Part 4』の内容に関してだが、「シリーズ物」あるいは「続き物」と呼べるものが増えている。例えば、前日(12月24日)の記事は「科学者の倫理性 (6)」であるが、同じテーマについて書いた6回目である。重要なテーマに関しては、1日や2日分の文章では充分言い尽くせないし、また新たな発展に対処できないため、最近ではこの方法を使っている。『Part 4』に収録された続き物は「技術の落し穴」と「芸術は自然の模倣?」の2つだが、北朝鮮関係やES細胞に関するものなど、似たテーマを扱ったものを含めると、続き物の数はもっと多い。読者は、巻末に付した「ジャンル別索引」を参照していただけば、それが一目で分かるだろう。

 今回は、発行所の要望にこたえて“サイン本”も用意することにした。すでに100冊ほどサインした。希望者は、世界聖典普及協会のサイトから注文できることになっているが、数が限定されているので、品切れの際はご容赦いただきたい。

 短文の集合である「小閑雑感」シリーズは、このサイトのような検索可能な電子的形態の方が利用しやすいと思うが、本には本の良さがあることも事実である。読者からCD-ROM版を提供してほしいとの声もあるが、具体的イメージがつかみきれず宿題にしている。それとともに、前作の『Part 3』の内容をブログに移行してみた。本ブログのサイドバーにリンクを張ってあるので、興味のある方は覗いてみてほしい。「いまさら旧版を読むこともない」とのご意見もあるだろう。もし「旧版もブログ化してほしい」との声が多ければ、残りの2冊分の移行を考えたい。

谷口 雅宣
 

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2005年11月28日

なぜか手帳ブーム

 世界的に“手帳ブーム”が進行しているらしい。
 今日(11月28日)の夕暮れ時、渋谷のロフトへ行ったら、地下1階の広いフロアーの3分の1以上が、各種手帳とそれを物色する客で溢れかえっていた。12月が近づくと書店や文具店に次年度の手帳が並ぶのは恒例だが、しかし今年は異常に多い。しかも立派な革表紙や布張り(タイシルクなどもある!)で、定価2千~3千円のものが珍しくない。「手帳はタダでもらう」などと思っていた時代が嘘のようだ。

 夢をかなえるための「夢かな手帳」というのが爆発的に売れているらしい。実現したい夢や達成したい目標を手帳に記入して、それに向って自分で立てたスケジュールを手帳に書き込み、自分を励ましながら日々を過ごすためのパーソナル・アシスタントといった感じのものもあれば、超多忙のマルチ人間の時間管理のノウハウを、手帳を通して学ぶことで、何でもバリバリできると謳っているものなど、いろいろだ。手帳の考案者の名前を冠したものも何種類も出ている。コピーライターの糸井重里氏がインターネット上で発行している「ほぼ日刊イトイ新聞」を介して誕生した『ほぼ日手帳』というのは、2002年版からスタートして5年目になる。考案者は日本人だけでなく外国人もいるようだから、世界的にも同様の現象が起こっているのだろう。
 
 私は過去何回か手帳を付けようと試みたことがあるが、長続きせず諦めていた。毎日、その日の出来事や予定を記録するというような細かい作業が多分、苦手なのだ。その代わり、「小閑雑感」シリーズなどを書き、就寝前には簡単なメモ程度の日記をつけている。ところが最近、“旅する手帳”というのに参加した。普通、手帳というのは持ち主が1人いて、その人が最初から最後まで使う。が、この手帳には持ち主がいなくて、多くの人が書き込んでいくらしい。しかも面白いのは、この手帳には「良いこと、楽しいことだけを書く」という条件が付いている。内容は自由で、絵でも文章でも写真でもコラージュでもいいが、記入したら誰か別の人に回して、手帳を埋めていくらしい。もう一つの特徴は、インターネットと連動していることだ。手帳に記入したものをスキャンして主催者に送ると、サイトに掲示してくれる。だから、手元に手帳がなくても、それが誰に渡って、どんな記入があったかがどこからでも分かるという仕組みだ。

 この“旅する手帳”に使われているのは、外国製の革表紙の「MOLESKINE」という、知る人ぞ知る、マニアの多い手帳だそうだ。私も一度それに記入して気に入ってしまい、自分用に大小2冊購入した。今は時々、それを手頃なスケッチブックとして使っている。この“旅する手帳”のサイトを見ると、これと同じ発想のものが、最初はアメリカで始まり、今や全世界を回っていることが分かる。
 
 ところで、昔から生長の家には定価530円の『奇蹟の手帳』というのがある。これは、谷口雅春先生が監修されて昭和54年に初版が発行され、現在第43版というロングセラーだ。この分野でも生長の家は先進的だったのだから、これにさらに工夫を加えれば、現在の手帳ブームに乗って“大化け”する可能性があるのではないか。3500円(革カバーは6800円!)もする『ほぼ日手帳』は昨年7万部を売り、2006年版は10万部に迫る勢いだというのだから……。
 
谷口 雅宣

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2005年5月24日

『秘境』脱稿しました

 小説『秘境』をやっと脱稿した。ちょうど2年前の今ごろに無謀にも開始した連載が、当初予定していた短篇もしくは中篇程度の長さをはるかに超過して、長編小説になってしまった。素人作家の気まぐれに長々と付き合ってくださった読者の皆さんには、何と言って感謝すればよいか分からない。本当に有難うございました。

 生長の家の講習会で4月半ばに山形県村山市へ行ったとき、小説の舞台に同県の鶴岡を使ったためだろうが、この「秘境」に関する質問がいくつか出た。関心をもって読んでくださる人がいると知って嬉しかった。その中で、私がどういう意図をもってこの小説を書いているかと問われたので、何か答えたが、正確にどう言ったのか覚えていないので、ここで少し補足してみよう。--この小説は、自然と人間とがどう付き合っていくことがこれからの時代に必要であるか、を自分自身に問うつもりで書いた。人間は自然を愛していながら、同時に自然を破壊している。このきわめて矛盾した生き方は、産業革命以降に顕著になったが、それ以前になかったわけではなく、農業の発明以来、延々と続いているのである。そして地球環境問題が深刻化している現在、この傾向は強まりこそすれ、決して弱まることはない。その中で、日本人は自然との一体感を大切にしてきたというのは事実であるが、しかし、戦前戦後の近代化と工業化の中で、欧米諸国に負けずに自然破壊を続けていることも事実である。その最も大きな理由は何か、ということを知りたかった。

「そんなことが小説を書いて分かるのか?」とも思うが、この『秘境』ではなく『神を演じる人々』(2003年、日本教文社刊)に収録されている「再生」という短篇の中で取り上げた「ヘビ」がいなくなってしまったことによるのではないか、と思う。この短篇に出てくるヘビは、「畏れるもの」のメタフォーである。人間は神を畏れなくなり、自然現象も恐れなくなり、今や遺伝的原因を改変して自分の運命をも掌中に握ろうとしている。それが人間の幸福のためだから……と考えながら、現代人が古代人や中世の人々と比べて幸福であるかどうかは、実はきわめて疑わしい。そして、最も重大なことは、このような人間の活動が今、地球の生態系と物理バランスを撹乱して、古代人や中世・近代の人々がかつて経験しなかった種類の一大カタストロフィーを招くことが予見されていることだ。

 はっきり言って、私は現代に“宗教”が復権しなければいけないと思う。ただし、その「宗教」とは現在、戦争やテロの正当化に使われているような融通のきかない、狭量で独善的な教義をもつものではなく、自然界の営みの背後に、そして全ての宗教の教えの背後に、絶対的価値をもった存在があることを認め、その要請に人間が自ら従うことを教えるものでなければならない、と思う。人間が自己目的を追求するのではなく、人間が自己の生きる目的を発見するよう導くものが必要と思う。

 いやはや……少し力コブを入れて書いてしまったが、小説はあまり堅苦しくならずに、楽しんで読んでいただければ十分です。

谷口 雅宣
 

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2005年4月13日

失敗と成功

“花金”と言えば「花の金曜日」だが、木曜日が休日の私は“花水”だ。ということで、レオナルド・デカプリオ主演の『アビエイター』を見ることにした。

午後7時開演に間に合うように夕食をすませるつもりで、妻と二人で家を出た。目指すは、映画館のある六本木ヒルズ。ところが、席を確保するために事前に映画館のチケット売場へ行くと、前の会は5時開演で、次の開演は午後8時20分だという。出発前に家から映画館に電話をかけて確認した時間と、大いに違っていた。抗議しようと思ったが、今さらどうにもならない。最終回の8時20分まで待つのはシンドイし、どうしても見たい映画でもなかった。また、「いつでも見れる」と思ったので、悪アガキはやめてスッパリと諦めた。

では、ゆっくりと夕食を……と思って、周囲を歩き回って安めの和食屋へ入った。1時間半ほどたってその店を出て、地下鉄日比谷線の駅近くの本屋へ寄った。時間に余裕のあるときには、我々はよく本屋へ入る。そして、思い思いの棚の前へ行って物色する。だが今日は、私は店の中へすぐには入らず、店先の路上の棚でセールをしていた洋書の前で立ち止まった。「掘り出し物があるかもしれない」と思ったのだ。

この種の路上セールに出される洋書は、流行作家の小説や、英文科の女学生好みの作家の本や旅行書が多い。しかし、場所が六本木だから、ネイティブ・スピーカー用の普通の本もあるかもしれない……などと思いながら、何の気なしに1冊を棚から抜き取った。本当に「何の気なしに」で、背表紙の文字もロクに読まなかった。その本を手に持ちながら、しかし私の目は近くの別の本の表紙に書かれた「SILENT SPRING」というタイトルを読んだ。どこかで聞いたことがある。著者名を見ると「Rachel Carson」とある。そうだ、レイチェル・カーソンの名著『沈黙の春』だった。思わず手に取ってみたが、この本の和訳本の文庫版はもう買って家にある。いくらセールとはいえ、2冊ある必要はないと考え、棚にもどした。

もう一方の手に持っていた本を、私はその時改めて見た。著者の「ROSENBERG」という名前が、記憶に引っかかった。知っている名前だと思ったが、誰なのか思い出せない。タイトルは「the transformed cell」とある。副題は「unlocking the mysteries of cancer」だ。著者は「MD」であり「PHD」であり、癌(cancer)に関する本である。ここまで読んで、私は思い出した。記憶とは不思議なもので、一端をつかむと、それに引かれてズルズルと残りが出てくる長い紐のようだ。癌の免疫療法をアメリカで行っている医師のことを、もう何年も前にABCニュースで見た。その医師の、白髪混じりの短髪とアゴ鬚までも目の裏に浮かんできた。その人の名前が確か「ROSENBERG」なのだった。立ち読みで「まえがき」を読み、確信を得たので買うことにした。セール本の売値はどれも500円だから、私にとっては確かに“掘り出し物”だった。

このローゼンバーグ博士の弟子として働いていた日本人医師が帰国し、癌の免疫療法をしていることを、私はかつて生長の家の講習会で話していたことがある。患者自身の免疫系にあるNK細胞を血液から取り出し、試験管内で大量に増殖させ、それを再び体内にもどして癌細胞と戦わせる--こういう治療法である。人間には本来、癌を治す力があるということを、医学的にこれだけ有力に立証するものはない。そう思って紹介していた。だから、懐かしい気持でこの本を手に持ち、帰途についた。

私は、本とのこういう“予期せぬ出会い”を大切にしている。「本が自分を招ぶ」と言えば迷信臭いかもしれないが、「人間は意識せずに必要な本を見つける能力をもっている」と感じるような出会いを、私は過去に何回も経験している。多分これは「親和の法則」の一部だろう。そのおかげで、お目当ての映画の時間を間違えたという“失敗”も、見事に“成功”に変わってしまった。

谷口 雅宣

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