2009年11月 4日

キンドルを使う (2)

 10月23日の本欄で、この電子ブック端末の外観と基本的機能について少し書いた。それから約2週間がたったが、私に分かったことは次の3つである:
 
 ①英文を男女の声で読み上げる。
 ②個人用ファイルを保存できる。
 ③購入した電子ブックのコピーが提供される。
 
 この英文の「読み上げ」の機能には驚かされた。画面に表示されている文章を、結構まともな英語で読み上げてくれる。しかも、男性と女性の2種類の声を選ぶことができ、読み上げる速度も3段階ある。何のためにこれがあるのか定かでないが、想像するところ、自動車の運転中とか、目が疲れた時などに利用できるし、目が不自由な人の役に立つかもしれない。キンドルにはイヤフォン・ジャックもついているから、パソコンにつなげば音声ファイルの作成も可能だろう。ただし“完璧な英語”とは言えないから、発音練習には不向きかもしれない。また、アマゾンが提供する電子ブックや雑誌記事には音声による読み上げができるものと、そうでないものがある点、注意が必要だろう。
 
 次に、ここで言う「個人用ファイル」とは、個人がワープロや画像編集ソフトで作ったファイルのことである。だから、自分で書いた文書やインターネット上の情報、お絵描きソフトで作った画像、デジカメの写真などもキンドルの中に収納できる。ただし白黒画面だから、カラー画像はモノクロ表示になる。使えるファイル形式は、ワードの文書ファイル(DOC, DOCX)のほか、 PDF、 HTML、 TXT、 RTF、 JPEG、 GIF、 PNG、 BMP、 PRC、MOBI、などである。ただし、これらの個人用ファイルはキンドルに直接転送できない。使うときには、電子メールに添付して自分のキンドル用のアドレスに送ると、アマゾン側でファイル変換を行ったものを無線で送り返してくる。これには多少、時間の経過を要する。が、数ページ分のワード文書なら、数分でキンドルに収められる。
 
 最後に書いた「電子ブックのコピー」とは、キンドルで注文した電子ブックや電子記事のコピーが、自分のアマゾンのアカウントに残るということだ。 これがなぜ必要かというと、キンドルでは電子ブックを簡単に削除できるからだ。これは便利な機能だが、操作が簡単なため誤って削除する場合も出てくる。すると、通常の方法では(例えば、ウィンドウズ付属の「ごみ箱」機能のような)現状回復は不可能なのだ。これでは安心して使えないから、コピーをアマゾン側で取っておいてくれる。私も実際、買ったばかりの電子ブックを誤って1冊まるごと削ってしまったことがある。しかし、アマゾンが設けた自分のキンドル用のウェブページにアクセスすれば、そこにコピーがあるのでダウンロードして現状回復できた。これはうれしい機能である。
 
 このようにして、キンドルは電子ブックの購入と読書のための端末としては必要な機能をもっているが、なにせ日本語のファイルを表示しない点が、現在ではボトルネックだ。が、アマゾンでは近々世界各国の言語に対応すると言っているので、そうなれば音楽CDの販売減と似たような現象が、出版業界にも起こる可能性は充分あると言えるだろう。

 谷口 雅宣

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2009年10月27日

本欄が書籍に (9)

Part14_m  本欄の4ヵ月分を集めた単行本『小閑雑感 Part14』(=写真)が、11月1日付で世界聖典普及協会から発売された。カバーしている期間は昨年の7月から10月で、296ページある。前巻の『Part 13』が268ページだから、28ページ多い。写真やスケッチ画などの“色もの”も28点入っている。今回の巻の特徴は、宗教・哲学に関係する文章が多いことで、全部で50篇ある。その中にあるイスラームに関する9篇の文章は、すでに『衝撃から理解へ--イスラームとの接点をさぐる』(2008年)という単行本に吸収されているが、残りはこの本が書籍としては最初だ。未収録のものは、互いに内容が関連しているものが多いから、いずれ加筆修正等をして1冊の本にまとめられればいいと思っている。

 私は最近の本欄で、グーグルのブック検索やアマゾンの電子ブック端末「キンドル」について書きながら、発祥以来、文書伝道を“軸”として運動を展開してきた生長の家であっても、今後はそれだけでは足りず、「雑誌」や「書籍」という形態とは異なる文書--インターネット上の電子情報を駆使した運動を開発する必要性を強く感じてきた。幸いにも、「インターネット講師」の制度が発足し、来年4月からの新しい普及誌と連動した新サイト「PostingJoy」も動き出しているが、やるべきことはまだ多く残っている。

 運動の仕方においても、ひと昔前には月刊誌を「百部一括」したり「千部一括」することが称揚されていたのとは打って変わって、森林伐採を抑えるため、新しい普及誌では、相手を吟味した「手渡し」や「郵送」が主体になる。その際、かつて「百部一括」や「千部一括」によって生れていた普及誌読者や信徒を、全く失ってしまうのではいけないのである。雑誌や本とは異なった媒体で、また異なる場所で、できるだけ多くの人々が真理と接するための工夫や努力は、今後ますます必要になるのである。そういう“新分野”の1つが、インターネット上の電子空間であることは明白だろう。
 
 この本の最後には、10月31日の日付で「本は電子化する」という題の文章が収められていて、私がそういう方向性を当時から考えていたことが分かる。

 谷口 雅宣

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2009年10月23日

キンドルを使う

 10月9日の本欄で、米ネット通販最大手のアマゾン・ドット・コムの電子ブック端末「キンドル」が、日本でも(英語のみで)使えるようになることを書いた。その際、私が注文した同製品が昨日届いたので、さっそく使い始めた。
 
 まず外観からいうと、縦20㎝、横13㎝、厚さ9㎜のサイズは、私の想像より小さかった。送られてきた包みは、アマゾンが使ういつもの濃い茶色の段ボールケースだった。それを見てキンドルに違いないとは思ったが、あまりに小さくて軽量だったので、ひょっとしたら別物かと思った。例えば、「注文が多いので発送が遅れる」などと書いた手紙を添えて、簡単な景品を入れてあるだけのものかもしれい……などという思いが一瞬、頭をよぎった。が、中身はキンドルそのものだった。新聞発表の数字では、重さは「約290g」ということになっているが、実際に測ってみると「275g」である。この軽さが、まず気に入った。これなら気軽に持ち運べる。
 
 しかし、画面の大きさが予想より小さかった。正確にいうと「90mm×122mm」だ。このサイズは、文庫本1ページ分の版面と大体同じである。ここに表示される英文はKindle_disp標準で「47文字×20行」だが、文字の大きさは6段階に変えられるから、自分の視力に合った文字の 大きさを設定すればいい。私の場合、標準の設定でまだ大丈夫のようだ。画面は見やすい。艶消しの灰白色の地に黒い文字で明確に表示される。パソコンのように画面の向こう側からバックライトで照らされる方式ではなく、紙に印刷してあるのに近い見え方である。私がよく読む『ヘラルド朝日』の紙面と、キンドル上に表示された『Foreign Affairs』の記事を比べた写真を、ここに掲げる。
 
 さて、問題は文字の入力である。キンドルには、縦長の表示画面の下に超小型のキーボードがついている。これは、携帯端末のブラックベリーに付属したキーボードに似ていて、左右の親指の先でキーを押す。慣れるまでには少し練習が必要だろう。読書用端末機になぜ文字の入力が必要かと、不思議に思う人がいるかもしれない。が、キンドルには通信機能が内蔵されていて、インターネットが使える。これによってアマゾンのサイトに接続し、ほしい書籍等を探し、その場でダウンロードできるのである。このために、キーワード等を打ち込む必要があり、キーボードが役に立つ。また、機能を限定されたウェブブラウザーもついているから、キーボードからサイトのURLを入力し、携帯電話で見るようにサイトを見ることもできる。恐らく、サイトからの書き込みもできるだろうが、まだそこまでやっていない。
 
 アマゾンのサイトから本のサンプルと雑誌をダウンロードした。どちらも、ものの数秒でキンドルの中に収まる。それをワイヤレスで無言で行うので、不思議な印象だ。どこからともなく文書が湧き出てくる感じだ。画面に表題が出て、それにカーソルを合わせてクリックすると、本は表紙から、雑誌は最初のページから表示される。キンドルの表面の両脇に「NEXT PAGE」(次頁)と「PREV PAGE」(前頁)のボタンがついているから、それを押してページを前後にめくる。読書を途中でやめるときは、そのページに「BOOK MARK」(栞)をつければ、次回に読む時はそこから表示される。本や雑誌の記事をキーワードで検索したり、不明の言葉を辞書で調べることも簡単にできる。このために『The New Oxford American Dictionary』(オックスフォード米語辞典)が最初から同梱されていた。このほか同梱されていたのは『Kindle User's Guide, 1st Ed.』(キンドル・ユーザーガイド第1版)である。

 書き忘れていたが、電源は充電池から供給される。これに充電するためには、通常の電灯線、あるいはパソコンのUSB端子から採る。そのためのケーブルがもちろん付属している。充電時間は、未使用の新品の場合は「3時間」と説明書にはあったが、私の場合は2時間ちょっとでフル充電された。ゆっくり使いながら、使い心地や変わった使い方などについて、今後も本欄で紹介していくつもりである。
 
 谷口 雅宣

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2009年10月12日

グーグルのブック検索 (2)

 グーグル自身は、著作(権)者のこういう心配を意識していて、そうならない方法をいろいろ工夫しているようではある。例えば、現在の日本語のグーグル「ブック検索」では、スキャンした本の全部ではなく、一部が表示される。また、著作(権)者が同意しない本については、検索してもまったく表示されないか、あるいは表示される箇所がきわめて限定的だ。そして、検索ページには、次のような説明文も出る--
 
「図書館プロジェクトでブック検索に登録された書籍の場合は、著作権の状況によって閲覧できる範囲が決められています。Google では、著作権法および著者の多大な努力を尊重しています。著作権が失効しており、著作権保護の対象とならない場合は、書籍全体をブラウズしたり、ダウンロードして読んだりすることができます。著作権で保護されており、出版社または著者がパートナー プログラムに参加していない場合は、図書カード カタログのように、書籍の基本情報と、場合によっては書籍の抜粋、つまり検索キーワードの前後の文章が表示されます。」

 それは確かにその通りなのだが、これは前回の本欄で触れたアメリカでの“和解”が成立する前の、旧バージョンでのサービスのことだ。今後、日本も含めて世界的に実施される新バージョンの「ブック検索」では、1冊の本の全文検索が基本となるだろう。この場合、著作(権)者は、グーグルの新サービスに「登録しない」ことも選べる。が、現在のようにインターネット検索サービスがグーグルによって寡占状態にある場合、そこに登録しないことは、著作物や著作者が世界的に認知されないことになる。だから、著作(権)者は、自分の著作物が事実上、世界的に葬り去られるか、それともグーグルを信頼して全内容の同一性や権利保全の完全性を任せるか、の二者択一を迫られることになるのではないか。
 
 こういうサービスが、国際機関のような公的な機関がやるのであれば、それはむしろ望ましいことだ。が、ご存じのように、グーグルはアメリカの一私企業であり、現に自ら手掛けた検索サービスから莫大な広告収入を得ている。そして、広告の値段は、検索の結果、パソコンの画面に表示される該当書籍の順位と関連させて決まるのである。そういう私企業1社に、全世界の書籍の全文検索と表示順位の決定を任せてしまうリスクは、相当大きいと思う。ここのところが、私にとって最もひっかかる点だ。
 
 グーグルの共同設立者の1人であるセルゲイ・ブリン氏(Sergey Brin)は、10~11日付の『ヘラルド朝日』紙に論説を寄せて、同社のブック検索の目的について述べている。それによると、このサービスの最大の目的は、図書館や古本屋の本棚に埋もれてしまっている絶版本などの古い書籍を、全世界の読書人の前に提供するとともに、それらの書籍の権利者に対して相応の対価を支払うことだという。私は、この目的については異議を差し挟まない。私の心配は、上にも書いたように、この業界で事実上、独占的力をもつ一私企業が、世界中の全書籍の内容を入手し、それを全世界に提供する際に、公平中立の立場からできるとは考えられないという点である。
 
 ブリン氏は、グーグルがこの分野で成功すれば、他社が市場に参入して競争が行われること、また、著作(権)者はグーグルへの書籍の登録をいつでも取り消すことができることなどを挙げて、自らの目的の正当性を訴えている。が、これらの主張は、本質的には「競争によって市場が選択するものが残る」という自由競争の論理であり、公平性への疑問に対する反論になっていない。インターネット検索の市場がグーグルにきわめて有利な方向に“歪んでいる”現状にあっては、公平性を保証するための説得力ある方策を提示してほしい。

 谷口 雅宣

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2009年10月11日

グーグルのブック検索

 インターネット検索最大手のグーグル社(Google)は、その莫大な資金力と斬新な発想を後ろ盾にして次々と“常識”や“前例”を書き換えているが、その業務の中で私が気になっているものがある。それは「グーグル・ブック検索」(Google Books Search)というサービスだ。これは、書籍をスキャンして内容を電子情報化し、それをパソコンレベルで検索/閲覧可能にしようというものである。その規模は“世界的”である。つまり、これまで全世界で出版されたすべての本を対象としてるように見える。「見える」と書いたのは、グーグル自身はそれをハッキリ言わないからだ。が、グーグル・アースやグーグル・ストリートビューなど、これまで彼らが開発してきた新サービスを見ていると、やりだしたことは全世界で徹底してやる会社だから、きっとそれが目標だと思う。
 
 このサービスが実現すれば、昔の絶版本や再販未定本がいつでも手軽に読めるから、利用者にとっては、大変便利になる。が、本の著作者にとってはショッキングな計画だ。私のようなもの書きにとって不安なのは、彼らが著作者や著作権をあまり重視しないように思える点だ。

 言うまでもなく、本には著作権がある。これは、1冊の本を書くのに費やされた著作者の労力や工夫、金銭的負担、学芸的価値などを認め、それを保護するためのものだ。これが保護されず、ある本の一部が、著作者に無断で別の本の一部を構成していたり、小説の主人公の名前が違うだけで、その他の登場人物やプロット、文章表現などのすべてが別の小説と同一であったりしたら、これは著作物の“盗作”であり、盗作者は、著作者よりはるかに楽に、また安価に“著作物”(と言うべきかどうか疑わしいもの)が書ける。盗作者は努力をせずに、著作者の創意や工夫を自分のものとすることができ、本来ならば著作者に行くべき本の印税も、盗作者に行くことになる。これでは、努力して著作物をつくることがバカらしくなるから、優れた著作物をつくろうとする人はいなくなり、つまらないモノマネや、インチキ研究ばかりが社会に氾濫する。文化や学問は衰退するばかりだ。
 
 だから、米国出版社協会(AAP)と米国著作者協会(AG)は2005年、「著作権で保護されている書籍をスキャンしてデータベース化する行為は著作権侵害に当たる」として集団訴訟を起こした。そして昨年、①アメリカにおいて著作権が保護されている書籍、②著作権が失効している書籍、③著作権は保護されているが絶版となり、著作権保有者が見つからない書籍、の3分類に入る書籍を対象に、グーグルの業務を容認する代りに、売り上げを分配するという和解条件(PDF)で合意した。ただし、裁判所でのこの和解内容の審理はまだ終っていない。この和解は、アメリカ国内だけのように見えるが、国外の本も事実上の対象となる。なぜなら、日本やヨーロッパで出版された書籍も、アメリカの図書館などに大量に所蔵されていて、万国著作権条約によって上記3分類のいずれかに含まれると考えられるからだ。

 著作物の盗作の問題は、もちろんグーグル発足以前からある。が、電子情報時代の盗作は、個人のパソコンを使って簡単にできる。昔のように本を見ながら一文字一文字を書き写す必要はなく、数回のキー操作によって何十ページもの複製が数秒でできる場合もある。だから、そういう方法で新聞記事や文学作品が書かれた著作権法違反事件が、日本でも近年増えつつある。グーグルのブック検索が、そういう方向に世界を牽引していかないかどうか、が私の心配である。
 
 谷口 雅宣

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2009年10月 9日

紙を使わない出版 (3)

Kindle  本格的な電子ブックが、いよいよ日本でも使えるようになる。米ネット通販最大手のアマゾン・ドット・コムが、アメリカで成功している電子ブック端末「キンドル」(=写真)を日本を含む100カ国以上で発売する、と発表したからだ。いわゆる“電子ブック”は、日本でもかなり前からパソコン用として流通しているが、本の読み方としてはまだまだ一般的でない。それに、持ち運びが不便である。また最近では、携帯電話で読む“ケータイ小説”が若者の間ではずいぶん人気のようだが、それを単行本化して売っているのだから、“本命”は紙の本なのだろう。また、私のような中高年には、ケータイの画面は小さすぎる。そこへ、縦20㎝、横13㎝、厚さ9㎜で、重さ約290gの「キンドル」(約25,000円)が参入することで、日本の電子本環境は大きく変わる、と私は思う。
 
 実は、ソニーも「リーダー」という電子ブック端末を欧米では出していて、2006年以来、累計で40万台を売っている。日本では2004年に販売を開始したがうまくいかず、3年後に撤退した。「キンドル」は2007年の発売から2年間で50万台を売ったとされる。10月8日の『朝日新聞』によると、ソニーは「キンドル」の上陸を機会に「リーダー」の日本での再発売を検討しているそうだ。
 
 今回の「キンドル」では、しかし日本語の本は読めない。8日の『日本経済新聞』によると、アマゾンCEO、ジェフ・ベゾス氏は、「キンドルで日本語を読むための技術開発にも取り組んでいる。端末を各国で普及させることで、現地でのコンテンツ配信が展開しやすくなる」と言っているが、「日本語の電子書籍の配信開始時期などは現時点では言えない」としている。
 
 私にとっては、それでもキンドルは利用価値が充分あると感じる。というのは、私は毎日、『ニューヨークタイムズ』の国際版である『インターナショナル・ヘラルド・トリビューン』(『ヘラルド朝日』)を読み、英語の雑誌や書籍も読むからだ。これらが紙の本や雑誌より安く、早く手に入るだけでなく、すべて1台のキンドルの中に納まってしまうということになると、無関心ではいられない。蔵書スペースの節約と、持ち運びの便利さは紙の「書籍」の比ではない。ちなみに、キンドル1台の中に収納できる情報は、普通の単行本1500冊分という。
 
 本欄には過去2回(2008年1月28日本年3月10日)、「紙を使わない出版」という題で本の電子化の動きについて書いたが、これは“文書伝道”を旗印にしてきた生長の家の布教活動とも大いに関係がある。来年から登場する新しい普及誌では、紙の雑誌の上だけでなく、インターネット上の電子情報と連動した編集と出版が行われる。これによって読者は、紙の雑誌より多くの情報を得られるだけでなく、情報の流れが「一方通行」から「双方向」に変わる。つまり、「読者参加」の編集範囲が拡大するのである。しかしこの場合、読者はパソコンを使えることが大前提だった。キンドルのような電子ブック端末の使い勝手がよく、また日本語に対応すれば、パソコンなしに本や雑誌が手軽に読めることになり、運動の展開にも大きな影響が出るだろう。
 
 電子ブックの最大の特長は、従来のような「送本」や「配本」の必要がなくなることである。これは「電子情報の移動」に置き換わるから、ケータイでメールを受け取るのと同等の速度と気軽さで、各個人に対して情報が移動する。だから、原理的には従来の印刷・製本・流通・在庫管理の手間がすべて省ける。ということは、そういう業務をしてきた会社や団体は不要になってしまう。運動面で言えば、普及誌の配本にともなう繁雑な諸業務がなくなるのはいいとしても、その過程で行われてきた会員同士の密接なコミュニケーションや、運動組織内部の情報伝達のルートが失われるのである。もちろん、今後すぐそうなるのではない。日本ではどのような機種が、どのような形で受け入れられるかによって、変化の速度と方向性は違ってくるだろう。しかし、“文書伝道”の新しいルートが今後、急速に広がっていくことは確実だろうから、そのための準備は「今」から必要である。
 
 谷口 雅宣

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2009年8月17日

神は偉大でないか? (2)

 『God is Not Great』の第1章で、著者のヒッチェンズ氏は「宗教に対する最も穏やかだが決定的な批判」として突きつけている言葉がある。それはこれだ--「宗教は人間がつくった」。これを聞いて読者は驚くだろうか? 私はまったく驚かない。当然のことと思うからだ。生長の家でも谷口雅春先生を「創始者」と呼んでいて、我々の運動を谷口雅春先生と輝子先生が始めたことは自明である。が、ヒッチェンズ氏が言う意味は、それとは少し違うようだ。彼が言いたいのは、「人間のつくったものは不完全」ということだ。つまり、宗教の教えも「不完全」であり、「間違い」の可能性があることを認めるべきだというのである。私はこれを一般論として、受け入れる。では、すべての宗教の開祖の教えには間違いがあるということか? 
 
 ヒッチェンズ氏が「宗教は人間がつくった」と言うときの「つくった人」とは、どうも「開祖」の意味ではないのだ。というのは、彼は宗教の“間違い”についてこう述べているからだ--「宗教をつくったその人々も、彼らの預言者や救い主やグルが何を言ったか、何を行ったかについて合意できない。ましてや、宗教が始まったのちに新しい発見や発展があり、その動きが(当の宗教に)抑圧されたり、糾弾されたことの“意味”について述べることなど、期待できない」。著者は結局、こう言いたいのだろう。キリスト教もイスラームも仏教も、“開祖”であるイエスやムハンマド、ブッダが本当に何を言ったのかについて、それぞれの内部において合意ができていないし、それらの宗教がそれぞれ後に分裂して、異なる宗派に分かれていったことの意味について、当事者から満足な説明は期待できない--そういうことだろう。この意見も、私にはよく理解できる。
 
 そこで著者は、声を荒げてこう非難する--「にもかかわらず、宗教の信仰者は“知っている”というのだ。単に“知っている”のではなく、“すべてを知っている”というのだ。神が存在することを知っているだけでなく、また、その神が世界を創造し、監督していることを知っているだけでなく、神が我々に何を要求するか--食べ物の種類から戒律まで、さらに性生活の規則まで--も知っているというのだ」。(p.10)著者が苛立っているのは、宗教のこの“すべてを知っている”とする傲慢な態度で、これでは現段階の知識以上の真実の追究はできない。さらに宗教には妙なプライドまであるから、宗教を信じない人にとっては、科学的知見や理性をもって世界の真実について議論する相手にはなりえない、というのである。
 
 読者はもうお気づきと思うが、ヒッチェンズ氏はここで「神」を批判しているのではなく、「宗教」を批判しているのである。「神は偉大でない」というのが著書のタイトルであるが、著者は「宗教は偉大でない」と言っているのだ。少なくともこの章(第1章)においては、そうである。ここに、この本の大きな問題が1つあるような気がする。著者は「神」とは何であるかを、今のところ定義していない。それでいて「神」を批判するのはおかしい。もしかしたら、無神論者である著者には「神」が定義できないから、「神」を最高の権威として考え、行動する人間の集団(宗教)を批判する以外にないのかもしれない。が、我々のような神を信仰する者にとっては、この両者の違いは明白である。
 
 ヨーロッパ16世紀の宗教改革者、マルティン・ルターが、当時の聖俗一致のカトリック教会の肥大化した権力に対抗して、ローマ教皇の至上権を否定し、公会議も誤りを犯す可能性があるとして、“神の言葉”としての聖書と信仰者の良心のみによって人は救われると宣言したとき、ルターは、神を批判したのではなく、宗教を批判したのである。その批判したルター本人が、神を信仰していたことは疑う余地がない。だから、ヒッチェンズ氏のこの著書は、タイトルがいかにセンセーショナルであっても、「組織化された宗教」(organized religion)への批判書であって、神は無傷でそれらの上に聳え立っている--そんな感じがするのである。
 
 ところで、生長の家講習会などで私が述べる“宗教目玉焼き論”を記憶している読者は、ヒッチェンズ氏の批判の矛先が、もっぱら目玉焼きの“白身”(周縁部分)の部分に向かっていて、“黄身”(中心部分)にはまだ触れていないことに気がついてほしい。私は、宗教の“白身”は時代や環境や文化によって変わるべしとの立場だから、これまでの氏の宗教批判には、さほどの抵抗を感じないのだろう。
 
 谷口 雅宣

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2009年5月28日

絵手紙・絵封筒ワークショップ

 今日は朝から、東京・大手町の逓信総合博物館(ていぱーく)の2階で行われている「光のギャラリー 絵手紙・絵封筒展」へ行き、10時からのワークショップを担当した。この展覧会は、TKこと小関隆史氏が運営している絵手紙ブログ「アトリエTK」に投稿された絵手紙・絵封筒の作品を展示したもので、26日から始まっている。小関氏のブログには私も絵封筒を主体に投稿してお世話になってきたので、同氏の依頼をうけて、絵封筒や絵手紙を実際に制作するワークショップの“指導”をすることになった。
 
Tkphoto08  しかし、私は絵については正式な勉強などしておらず、趣味の範囲を出ないと思っているので、人を“指導”する立場にない。そこで、私の時間は「私は絵封筒をこうして描く」という題にしてもらい、主に自分の経験を参加者にお話しすることにした。ただ、生長の家には芸術連盟もあり、現在、新しいタイプの誌友会(少人数の教えの勉強会)で技能や芸術表現を扱うことになっているので、生長の家の教えと芸術表現との関係についてきちんと述べる必要がある。幸いにも、私の書いた小冊子『自然と芸術について』(生長の家刊)がこの日に間に合うように出版されたので、それをテキストに使いながら、50分ぐらいのトークと、絵手紙・絵封筒の制作実習、作品の講評を(あつかましく)行わせていただいた。
 
 TK氏からは事前に、ワークショップの参加予定者は15人ほどと聞いていたが、木曜日は生長の家本部が休館のこともあり、結構多くの本部職員が来てくださったので、狭い会場は人で埋まった。妻も参加者として来てくれた。私のトークは、前半を教えと芸術との関係、後半を私の絵封筒の描き方に分けたが、前者は内容が硬いのでほどほどにして、後者に力点を置いたつもりだ。前者に興味のある人は、上掲の小冊子の方をじっくり読んでいただきたい。後者について知りたい方は、このワークショップはビデオ録画してあるので、いずれご覧になれる機会が来ると思う。

 この展覧会とワークショップは31日(日)まで続くので、首都圏の有志の方はこぞって参加されたい。出品者は98人、作品点数は絵手紙215点、絵封筒74点である。明日以降のワークショップの予定は、次の通り(括弧内は担当者名):

       午前の部(10:00~12:00)    午後の部(14:00~16:00)
 29日(金)「絵手紙・絵封筒にチャレンジ」  「ポストカードをつくろう」
        (小関 隆史)        (竹内 芳美)
 30日(土)「スケッチを生かした絵封筒」   「ポストカードをつくろう」
        (玉井 亜季)         (竹内 芳美)
 31日(日)「楽しく描こう 絵手紙・絵封筒」「ハガキ・封筒に自由に描いてみる?」
        (栗原 麻衣)         (山本 英輔)

 谷口 雅宣

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2009年5月23日

“ミニブログ”が燃えている

「ミニブログ」というのは私がつけた仮名である。本名は「ツイッター」といい、鳥がさえずることを意味する英語「twitter」から来ている。1行から2行の短い言葉を登録し、利用者間で共有するサービスだ。これが今、ネット上で大評判になっている。パソコン、携帯電話、スマートフォンのいずれからも無料で使える。何に使うかは、利用者の想像力しだいという点もおもしろい。

Twitter_logo  中をのぞいてみると、有名人が多いのに驚く。もちろんネット上でのことだから、本人が書いているのか、それともファンが運営しているのか、あるいは全くの偽名なのかは分からない。しかし、アメリカの政治家ではオバマ大統領、ジョン・マケイン氏、アル・ゴア氏はもちろん、カリフォルニア州のシュワルツネッガー知事、テレビタレントのオプラ・ウィンフレイ、自転車選手のランス・アームストロング、大手テレビ局のニュースキャスター、メディアでは『ニューヨークタイムズ』や『BBC』『CNN』『NBC』『タイム』『ライフ』……こういう人々や団体が「つぶやき」(ツイッター自身はそう訳している)をネット上に漏らすことで、何かを実現しようとしているのが分かる。

 最も分かりやすい用途は、『ニューヨークタイムズ』などのメディアの使い方だ。『タイムズ』は、自分のサイトに掲げた記事や映像の“見出し”をツイッターに流している。だから、『タイムズ』の記事に興味がある人は、ツイッター上の同社のページへ行って「フォローする」というボタンをクリックすれば、それ以降、自分のページに“見出し”の配信を受けることができる。そして、興味のある“見出し”をクリックすれば、リンクを通じて記事や映像が見れる。これまでのネット上の新聞の読み方は、①新聞のサイトへ行って、②記事のタイトルを見渡してから、③興味あるものを読む、という3段階の作業が必要だった。しかし、ツイッターによる配信では、①ツイッターへ行く、②興味ある見出しをクリックする、という2段階ですむ。しかも、1紙だけでなく、複数の紙・誌の見出しから選べるのは便利である。
 
 これに比べて、個々の“有名人”のサイトの使い方は、いろいろだ。シュワルツネッガー知事(フォロワー18万2千人)は自分の動静を毎日のように書き込み、ときどき写真も掲示している。これに対して、購読者(フォロワー)の書き込みが多く、それへの同知事の返事も載っている。オプラ(同114万人)の場合は、自分の番組やサイトへの案内や近況報告が多い。かつてABCニュースのキャスターで取材中にイラクで負傷したボブ・ウッドラフ氏(同2千9百人)は、現在自分の財団の活動のために、ツイッターを使っているようだ。彼の財団は、イラクやアフガニスタンから帰還したアメリカ兵への支援活動を行っている。

 宗教運動への利用もいろいろなものが考えられるが、『タイム』誌が6月1日号で取り上げているアメリカの教会の例は、参考になるだろう。それによると、ミシガン州ジャクソン市にあるウエストウインズ・コミュニティー教会では、メンバーを一堂に集めてツイッターの使い方を手ほどきした後、「140字以内で神や信仰について語る」ための時間をもった。チャペルに設置された大型映像装置には、コンピューターの画面が拡大して映し出され、そこへ携帯電話やPCからメンバーがツイッターに書き込んだ言葉が、リアルタイムで表示される。時には冗談が書き込まれることもあるが、「私には、すべてのものの中に神を見出すことは難しい」とか「私が神を求めれば求めるほど、神は私に人のためになることを求める」とか「心の癒しというものは、時につらいこともある」など、真剣な言葉もあったという。教会での礼拝中にこのようにして“つぶやく”ことには、もちろん反対論もある。が、新しい心の通い合いが生まれ、また深まることで、メンバー同士の一体感、神への信仰が深まる--というのが、賛成論者の言い分らしい。
 
 ネット上では、相互に面識のない者同士の新たな関係が世界中で毎日生まれ続けている。多くの人々が心の支えを失っている時代には、このようなネットの特性を生かして、神への信仰をひろめることは宗教者の義務だとの考えが、賛成論者を突き動かしているようだ。

 谷口 雅宣

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2009年4月24日

“誠意ある表現”の大切さ

 今日は午前10時から、長崎県西海市にある生長の家総本山の谷口家奥津城の前で、「谷口輝子聖姉二十一年祭」がしめやかに行われた。お祭には、この日、最終日を迎える長寿ホーム練成会の参加者を初め、近隣教区の信徒等約320人が参集して、生前の輝子先生の御徳を偲びながら焼香、聖経『甘露の法雨』読誦を行った。私は、お祭の最後に概略、次のような挨拶をした:

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 皆さん、本日は谷口輝子先生の二十一年祭にお集まりくださいまして、ありがとうございます。輝子先生は92~93歳で亡くなられ、それからもう20年たったということですから、時がたつのは速いものです。私はこの間、3月1日に生長の家総裁を襲任させていただきましたが、その関係で輝子先生に久しぶりにお会いしたような気分を経験しました。というのは、東京の生長の家本部会館内で、前総裁の谷口清超先生が使っておられた部屋へ私が移ることになり、執務室を引っ越したのです。正確に言うと、まだ書籍等の移動がすべて終っていないので、まだ引っ越しの途中にあります。谷口清超先生の使っておられた総裁室には本がいっぱい残っていて、その中に輝子先生が書かれた『愛の相談室』というのもありました。
 
 この本は昭和59(1984)年の3月7日--つまり、輝子先生のお誕生日--に世界聖典普及協会から発行されたものです。もう25年も前の本です。この本は、実は私が作った本と言ってもいい。当時、私は世界聖典普及協会で出版担当の部長をしていて、部下と一緒に本や講話のカセットテープづくりをしていたのであります。そのことを思い出しました。今日は、その本から引用しながら輝子先生の御徳をお偲び申し上げたいと思うのです。
 
『愛の相談室』の本には、輝子先生のところに来た人生相談や信仰相談の手紙に対して、先生がお答えするという形式の文章がたくさん載っています。その中に「手紙は誠心で」という題のものがあります。この「まごころ」や「誠意」というものを輝子先生は大変重視された方でした。例えば、この相談の少し前のところで、厚化粧をする人について、こんなことを書いておられます--

「こういう人は、その厚化粧を剥した時に、ちょうどお面を取ったように、全く違う人が現われてくると思います。そういうお面を被ったようなお化粧をして、お見合いをしたりしましたならば、その方の結婚生活では死ぬまでお面を被っているわけにはまいりませんから、やがて子供の一人もできた時には、お面どころか薄化粧もしないで、襟垢だらけで汚い汚い女房になってしまいます。その時に、“お面”を見て美しいと思って結婚した男は、その婦人から心が離れてしまうのでございます。
 私は、何事もありのまま正味の姿で、生地そのままの姿でありたいと思います。お見合いの時でさえも、素顔であって欲しいと思うぐらいであります」(p.54)
 
 これは、「人と接するときはウソや見かけ倒しではいけない。誠意をもって接しなければ、いずれウソがバレて、人間関係が破綻する」--そういうことを仰っているのであります。この「厚化粧ではだめだ」というお考えは、手紙については、「真心をもって書けば、多少下手な字でも大丈夫」というお考えにも通じます。この本の94ページに、相談が書かれています--
 
 (相談の箇所を朗読)
 
 これに対して、輝子先生はこう答えておられます--
 
 (pp. 95-96 を朗読)
 
「虚栄心から字をうまく見せようとせずに、少々下手と思っても、誠意をもってていねいに書けば、それは相手に通じる」--そういうご指導です。輝子先生は、そういう生き方をされて来た人でありました。

 この「字をていねいに書く」ということは、最近のようにパソコンやケータイが頻繁に使われるようになってくると、あまり重要でなく感じられるかもしれませんが、そうではないと私は思います。というのは、私のところに手紙をくださる人の中にもいろいろおられて、直筆で書いてくる人が多いのですが、たまにパソコンのプリンターから打ち出した文字だけで、手紙をくださる人もいます。そういう手紙は非常に読みやすいという点ではありがたいのですが、「一体、誰が書いたのか?」と疑問を感じます。つまり、誰が書いてもプリンターで打ち出せば同じだからです。本当にご本人が書いたのならば、自筆のものの方がプリンターで打ち出したものよりも、受け取った相手は「誠意」を感じます。それが多少、下手な字であっても、ていねいにさえ書いてあれば「誠意」を感じます。
 
 それから、最近ではメールを多く使うようになってきました。皆さんの中にも、たいていのことはメールですませてしまう人もおられると思います。私も毎日、メールを使って人と連絡をしています。しかし、自分の「誠意」を示そうと思うときには、メールのような、手っ取り早く機械で作った文字では不十分ですね。また、誠意だけでなく、「好意」「感謝」「尊敬」「ユーモア」などを表現するときも、メールやパソコンよりも、自分の手を使い、下手でもいいから心を込めて書いたものが数段優れています。そういう意味からも、私は講習会の際には「絵封筒」というのをよく描きます。封筒に大きな絵を描いた中に、手紙を入れて出すのです。これは、絵手紙と同じように、ちょっと練習すれば誰にもできるものです。これをするには、メールを打つよりもはるかに多くの時間がかかりますが、その代り、相手に伝える内容は、大変豊かなものとなります。
 
 受け取った相手は、きっと驚くし、喜んでもらえます。これも「まごころ」や「誠意」の表現であります。誠意というのは必ずしも真面目なだけではなく、楽しいものも、ユーモアにあふれたものもあります。ですから、皆さんも光明化運動の中で、あるいはご自分の人間関係の中でも、表面を飾るのではなく、心の中にあるものを素直に表現しながら、誠意をもった生活をしていただきたい。それが、谷口輝子先生が教えてくださった生き方だと思います。
 
 谷口輝子先生の二十一年祭にあたって、所感を述べさせていただきました。ありがとうございます。

谷口 雅宣

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