「歓喜への道」(2)
だから、今回の大震災や大津波によってどんな死に方をされた人でも、その実相は完全無欠の神性・仏性であるから、皆尊いというのが真理である。何の前触れもなく、つい数分前まで元気で働いていた人が、いきなり地震で潰され、あるいは津波に巻き込まれて海中に消えていっても、その人の実相が神の子であり、仏であり、円満完全であるということに変わりはない。ただ、最愛の夫や子、家族の肉体が目の前から突然消え、もう会えなくなったために悲しみに打ちひしがれている人がいるのだから、その人に善意から同情し、あるいは感情移入して一緒に涙を流すことは間違っていないし、そうすべきである。が、それだけでは、「人間は皆、神の子であり生き通しである」という信仰をもっているとは言えないのである。
「しかし、こんなに悲惨な状態の現実を無視して“神の子はすばらしい”だけではオカシイ!」と感じる人も多いだろう。妻のブログへのコメントでも、そういう不満の表明があった。私のブログの記述についても、「被災地で困難に遭っている人々、救出活動をしている人々が大勢いるのに、ジョギングするなどオカシイ」という人がいた。さらにこの読者は、「たとえジョギングしても、それをブログに書くべきではない」という。そして、宗教指導者は「冷静に成り行きを見守って、祈っているときではないでしょうか」とおっしゃるのである。私はその通りのことをしているが、ブログにはいちいち「今日も神想観をした」などと書かないだけだ。なぜ書かないのか、理由もある。次の聖書の言葉を、この読者は知らないのだろう--
「また祈る時には、偽善者たちのようにするな。彼らは人に見せようとして、会堂や大通りのつじに立って祈ることを好む。よく言っておくが、彼らはその報いを受けてしまっている。」(『マタイによる福音書』第6章5節)
ブログは、現代の路地や四つ辻のようなものである。誰でもそこに来て、読み、眺め、そしてコメントすることができる。また、「この悲惨な現実」「この人々の苦しみ」などと現象の不完全さを強調する人は、「今あなたがたが“見える”と言い張るところに、あなたがたの罪がある」(『ヨハネによる福音書』第9章41節)という言葉も知らないのだろう。しかし、初心の人はそれでいい。このブログは、誰でも読めるからだ。
さて、上に書いたヨハネ伝の言葉は、実は清超先生の一文にも引用されている。先生の場合、文語体の聖書からの引用だから、もっと威厳がある--「然(さ)れど見ゆと言う汝らの罪は遺れり」である。「あそこに遺体がある」「ここに家屋の破壊がある」「被災者があふれている」「職場が破壊されている」……これらは、本当に正しい情報だろうか。それとも、実相を覆い隠している外見にすぎないのか。悪を探し求めるマスメディアの“伝言ゲーム”に惑わされているのではないのか。
清超大聖師は、さらにこう説かれる--
「一体人間は何のためにこの地に生をうけたのか。仕事をして、金を儲け、事業を発展させ、家庭を安穏に送るためと思うかもしれないが、それならば仏教はこの点について当を得ない教えをして来たことになる。キリスト教も“いかにして事業を発展させるか”を説いているのではなく、明確にイエスは、“まず神の国と神の義を求めよ、然(さ)らば凡てこれらの物は汝らに加えらるべし。この故に明日のことを思い煩うな明日は明日みずから思い煩わん。一日の苦労は一日にて足れり”(マタイ伝6ノ33~34)と教えておられるのである。
“これらの物”とは、何を食い、何を飲むか、如何に着るか、住むか……ということであり、子供の学校をどこにしようかというようなことも、現代社会では含まれると考えて間違いない。全て、現象的なオカゲや地位や事業よりも、神の国と神の義を求め行うことが第一だという主旨である」。(p.14)
これはなかなか厳しい教えであるが、宗教運動とはそもそも物質的繁栄を目指すものではなく、神意の実現や仏国土の現成が目的なのだ。このことを、先生は「生長の家の光明化運動の根本精神は、出家の精神である」(p.15)と表現されている。それなのに、「水ぶくれの人間や、物ぶくれ、欲望ぶくれの人間がふえてきて、大道を求め行ずるために“乞食(こつじき)”をなす行脚僧が、めっきり減った次第である」(p.17)と嘆かれている。当時の状況と現在の日本との間に、それほど違いはない。だから、次の先生の結論は、今日の状況を見事に示しているのである--
「今や日本は金儲けや繁栄を追い求めるか、それとも神の国と神の義を第一に置くところの“真理国家”に“出家する”かの岐路に立っていると言える」。
谷口 雅宣