2009年11月24日

絵封筒展へのご協力に感謝!

 10月24日の本欄で告知させていただいたが、11月20~22日には、秋季大祭を機に生長の家総本山の練成道場第2研修室で「谷口雅宣絵封筒展」が開催された。これには多くの幹部・会員の方に訪れていただき、主催した世界聖典普及協会の報告では、出展された絵封筒全64点は完売されたという。「森林資源再生」という本展の趣旨に賛同し、ご協力くださった読者の皆さんに心から感謝申し上げます。ありがとうございました。
 
 実は、私も妻と一緒にこの展覧会へ行ったのである。21日の夕方のことで、こっそり行っEfutoten_2009 たつもりなのに、楠本行孝・総務以下多くの方々に玄関で出迎えを受け、会場まで案内していただいた。自分の作品を見るのは気恥ずかしいが、人さまにお金を出していただくのに、仕上がり具合を見ないわけにはいかない。私が絵封筒の中に入れた手紙文も、額装中にきちんと納まっているのを見て安心した。その時どういうわけか、会場で“偶然に”会った方々と記念写真を撮ることになった。今日、その写真を回していただいたので、ここに掲げる。
 
 売れてしまった絵封筒は、その縮小版が小関隆史氏の運営するサイト「光のギャラリー~アトリエTK」上にまだ掲載されている。また、今後描く絵封筒は、新しい普及誌と連動するサイト「PostingJoy」の「絵手紙・絵封筒」のコーナーに登録される予定である。私もメンバーの1人として、このサイトに時々顔を出している。絵手紙・絵封筒ファンの読者の方々は、また、ウェブ版「日時計日記」の常連さんも、このサイトのメンバーになって大いに運動を盛り上げていきましょう。

 谷口 雅宣

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2009年10月13日

生光展へ行く

 東京・銀座の「東京銀座画廊・美術館」で始まった第31回生光展(生長の家芸術家連盟美術展)を夕方、妻といっしょに見に行った。洋画、日本画、水彩画、木版画などの多くの作品とともに、絵手紙と絵封筒も展示され、ますます多彩・多様となり、見ていて楽しかった。今年の生光展は、全国で「技能や芸術的感覚を生かした誌友会」が開催されていることの影響か、絵手紙が136人から177点、絵封筒が23人から78点と多く、しかも全体としてクオリティーが一段と上がっているように感じられ、頼もしく思った。開催は18日まで。
 
 私は大きな絵を描く時間的余裕がないので、今回も絵封筒の出品で勘弁していただいた。点数は24点で、昨年と同数だ。小関隆氏が運営する「光のギャラリー ~アトリエTK」に、生長の家講習会の旅先から投稿したものがほとんどだ。どこで描いたものかは今、24点すべてを憶えていない。が、絵柄から思い出しつつ都市名を挙げれば…新潟市、福岡市、秋田市、米子市、山形市、函館市、伊勢市、橿原市、和歌山市、小樽市、室蘭市、岡山市、松本市、熊本市、大津市、広島市、静岡市、高松市、松山市、別府市などだ。最近は、講習会でも何点かをご披露することにしているが、映像ではなく、実物を、数を揃えて見ていただくことができるのは、ありがたい。
 
 ところで私の絵封筒だが、昨年8月半ばに京都府の生長の家宇治別格本山で「スケッチ原画展」というのをやらせていただいた際、34点をご披露した。このときのものと今回の展示品を含めた私の絵封筒展を、11月の秋の大祭を機会に、長崎県西海市の生長の家総本山で開催できないか検討している。今回は展示即売をさせていただき、収益金を地球温暖化抑制のための森林の育成に役立てることができれば……などと思案している。宇治の大祭や生光展を「見逃した」と思われる方は、ぜひ総本山へお越しあれ。
 
 谷口 雅宣

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2009年8月27日

ちょっと夏休み

Villadest1  26~27日の2日間、短い夏季休暇で山梨県・大泉町の山荘へ行った。今回は、キノコ採りや庭の草刈りは省略し、長野県の東御市(とうみし)まで足を延ばした。ここは市町村合併をする前は「東部町」と呼ばれていた場所を含んでいて、そこに玉村豊男氏が経営するガーデン・ファームとワイナリー「ヴィラデスト」がある。
 
 玉村氏のことは拙著『太陽はいつも輝いている』(2008年)にも紹介したが、私に絵を描くことを教えてくれた人の一人だ。とは言っても、直接教わったわけではなく、本や作品展を通してである。東京から、北アルプスを望む標高850mの高地に移り住み、野菜を作りながら、絵を描き、本を書き、展覧会をし、ブドウを栽培し、それでワインを作り、ついにレストランまで始めてしまったというマルチ人間である。その奥さんが、実は私の小学校時代の同学年で、いつかはご挨拶に行こうと考えていたのである。昼食時に予約して行ったが、観光バスまで来ていて、店内は人でいっぱいだった。玉村氏も店におられたが、客の案内や指図に忙しく、声を掛けるのは遠慮した。が、帰りがけに奥さんと話す機会があり、35年前の小学生の顔を覚えているか心配だったが、名前を言うと思い出してくださった。ありがたかった。
 
Efuto0908261  ヴィラデストでは数多くの野菜と果物を作っているが、レストランに隣接したオリジナルグッズ販売コーナーで、色とりどりの各種トウガラシを袋に入れて売っていたのが、面白くかつ美しかったので、買って帰った。辛さの段階を記した説明書もあって、とても親切だ。山荘に帰ってから、絵封筒に描いたものをここに掲げよう。

 谷口 雅宣

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2009年8月21日

青柿を拾って

 このところ硬い話題が続いているので、今日は少し気を抜いて書く。ブラジルから帰ってようやく時差ボケから抜け出せたようだが、東京の暑さにはフラフラする思いだ。日中のアマゾンは日向では40℃を超えるが、陰に入ると結構しのげる。これは湿度が低いせいだ。ところが日本の夏は、湿度の高さでへきえきする。これを“超越”するには暑さから逃げるのではなく、かえって外へ出て運動をするテがある。というわけで、今日はジョギングに出かけた。
 
 帰国して2回目だが、体がすっかりナマっていて、1回目はいつもの距離を走れず、走ったあともフラフラで、1日後に筋肉痛が出た。2回目の今日は、前回より距離を延ばしたが、やはり全メニューを消化できなかった。それはそれでいい。もう若くないのだから、無理はいけない、と自分に言い聞かせた。で、衆院選のポスターなどを眺めながら本部事務所に歩いて帰る途中、細い路地に青柿がいくつも落ちているのを見つけた。「ああ、もうそんな季節なんだ」と思った。
 
 この場所では、いつかも青柿を拾ったことがある。調べてみると、昨年の8月22日の本欄にそのことが書いてある。が、その時のものより一回り大きいように感じた。カキの木が成長するのは分かるが、それにともなって実も大きくなるのだろうか。とにかく6~7個も落ちていた。下はアスファルトか砂利なので、割れずに無事のものはなかった。昨年は、傷のないものを見つけてスケッチしたのだが、今年はほぼ“全滅”。この点でも、実が昨年より大きくなったことを示していると思う。質量が大きいものは、地面に落下する衝撃も強いからだ。それでも、わずかに傷んだ状態のものを1つ見つけて持って帰った。
 
 大きさを測ってみると、長さは6センチ、円錐形の実の円周は最大5センチあった。こんな立派な大きさのものが、嵐が吹いたわけでもないのに、ボタボタと落ちてしまっていいものだろうか……と思った。青柿の状態では種も未熟だから、子孫を殖やすための工夫とは言えまい。普通の虫や鳥は青柿を食べないだろうから、別の種類の昆虫かバクテリアの食物となるのかもしれない。それにしても、自然界は豊かだと思った。言い換えれば、このカキの木は、自分が必要とする数以上の実をつけて、他の生物に“大盤振る舞い”をしているのだ。青柿の状態でこれだけ落ち、赤くなってからも、まだ与え続ける。この“与える精神”を見習うべきだと思った。
 
Efuto090821  絵封筒に描いた。青柿は“緑色”と思いきや、決して単色ではなく、黄色や茶色の混ざった緑色もあれば、陰影の部分はほとんど黒い。つややかな肌には、光も映っている。最近、夫婦で絵手紙を描いているというM氏から残暑見舞いの絵手紙をいただいたので、返事をこれに入れるつもりだ。
 
 谷口 雅宣

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2009年7月 9日

ジャーマン・カモミール

Kamomile  今日は、休日を利用してスケッチをした。ジャーマン・カモミールというハーブの一種で、ヒマワリとタンポポを合わせたような黄色い花の愛らしさが好きだ。長い茎の先に花が咲いた様子が、何となくおどけた感じでユーモラスに見える。普通のカモミールの花は白い花弁をもつが、ジャーマン・カモミールは黄色だ。この花をお茶にして飲むカモミール・ティーは、香りがよくておいしい。
 
 曲線の多い植物と対照させるために、手元にあった電卓を一緒に描いた。こちらの色は実物はベージュだったが、黄色の反対色である青に変えてみた。カモミールの葉は細長くて見栄えが貧弱ないので、スペアミントの葉を描き込んだ。バックの橙色は、テーブルの色を前面に敷いたもの。

Kamomile2  タブレットPCに直接手描きしたのだが、それを“印象派”風にソフトウエアで加工したものも添える。
 
 谷口 雅宣

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2009年6月22日

絵封筒便り

Efuto090615  最近、描いた絵封筒を3点紹介する。
 
 赤レンガの建物は、石川教区の講習会で金沢へ行ったときのもの。夕食前、散歩した中央公園に建っていた近代文学館のスケッチである。手前にある白いテーブルと椅子のセットは、実際はもっと沢山あって人が何組か座っていたが、省略して図柄を単純化した。
Efuto090618  
 マンゴーは、宮崎の旧友から送ってきたもの。あまりにも見事な色艶だったので、食べる前に絵封筒に描き、礼状とした。
 
 タマリ漬は、昨日の栃木教区での講習会の帰途、宇都宮駅で買ったもの。駅の土産物売り場には、たくさんの種類のタマリ漬が売られているが、原産地Efuto090622 表示に注意して妻が選んだ。私は、パッケージの緑とラベルの色具合いに惹かれた。切手に注意してほしい。横浜開港150周年記念のものだが、切手とその外枠にまたがって描かれた絵を使って、封筒に印刷されたホテルの名前を隠している。

 谷口 雅宣

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2009年2月25日

写メールサイト

 最近、一行ほどの短い「つぶやき」のようなメッセージをウェブに掲示するサービスがあるということを知り、実験してみた。また、これと連動して写メールをアップするサイトがあることも分かった。私は、ケータイを使わないので写メールはできないが、その代り、簡単な絵をアップするのもいいと思い。やってみた。

 アメリカのサイトらしいので、すべて英語でしたが、日本語を使うこともできそうだ。興味のある人は実験してみてはいかがだろうか。

  つぶやきサイトは http://twitter.com
  写メールサイトは http://twitpic.com

  である。Mtimg090225

 本欄でかつて「秘密を書き込むサイト」の話をしたことがあるが、私は、そんな“暗い”ことではなく、日時計主義的なメッセージや写真、絵などを、どんどん世界に発信できないかと考えた。その1つの場として、こういうサイトの利用も面白いと思う。私が登録した絵をここに掲げる。

 谷口 雅宣

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2009年1月19日

古い記録 (8)

 本シリーズでは、私が少年のころに書いた文章や、撮った写真をもとにして、当時の私がどんな少年で、それがどう成長していったかを辿ろうとしている。前回(1月13日)は、1970年の夏、私が18歳で初めての海外旅行をした時点まで来た。1カ月半の旅行で36枚撮りフィルムを22本分を写したが、それ以降も、私は大学生が享受する特殊な“自由”を生かして、モノクロ写真を撮り続けたようだ。
 
 撮影の対象は、別に決まっていない。近いものでは自分で作ったプラモデルのスポーツカーをだったり、庭の犬、植物、家族はもちろん、大学のある青山から、渋谷や原宿へカメラを持って歩き、町並みや人などを写した。また当時、青山学院高等部から慶応大学へ進んだ友人がいて、その友人とともに車で鎌倉や横浜などに撮影に出かけることもあった。そのころ父は『アサヒカメラ』や『日本カメラ』などの写真雑誌を購読していて、私はそれらを時々借りて、木村伊兵衛や秋山庄太郎などのプロの写真や、その他アマチュアの入選作品を見て刺激されていたのを憶えている。また、2007年10月28日の本欄にも書いたが、森山大道の型破りの写真にも魅力を感じていた。
 
 71~72年には、モデルを使った人物写真を撮っている。ポートレートのスナップは、ブラジルでも結構撮っているが、そうではなく、1人の人物を様々な角度から、また様々な恰好をさせて撮るのだ。貧乏学生だから、もちろんプロのモデルを使うのではなく、同じ大学の女友達に頼んで、モデルになってもらうのである。そんな“にわかモデル”を子供の国や横浜などへ連れて行き、写真に撮っている。
 
 こんなことを書くと、大学では授業にもロクに出ず遊んでいたように聞こえるかもしれないが、決してそうではない。私は法学部の公法学科に在籍していて、専攻は国際法と国際関係論だった。私は学問が嫌いではなかったから、出るべき授業には出て、必要な単位は取得し、さらに成績も悪くなかった。だから、アメリカの大学院にも入れたのだと思う。アメリカの大学は、入学の条件として日本での成績を重視するからだ。ただ、第二外国語としてフランス語を履修したが、これはなかなか難しく、辛うじて及第点だったと記憶している。何しろ、名詞のすべてを男か女に分けて考えるというのが、どうも不合理に思え、しかも煩雑なので閉口した。大学の授業で印象に残っているのは「スピーチ・クリニック」というので、英語の発音やイントネーションに絞り込んで教えてくれる。当時の青山学院ならではの科目で、そこの先生が「Did you eat?」という英語は、「ディヂューイート?」などと言わないで「ジーート?」でいいんだ、と教えてくれたのを憶えている。
 
 こんなことは、しかし記録には残っていない。残っているのは、大学の課外で文学サークルに所属していたことだ。これは「轍の会」という名前の同好会で、『轍』という同人雑誌を発行していた。こんな書き方をすると、何かきちんとした印刷物のように思えるが、ワラ半紙にガリ版刷りのごく“原始的”な印刷物である。しかも、数回発行しただけで、ほどなく廃刊になってしまった。そんな雑誌に、私は詩や、小説のようなものを発表して、同人と合評会をしていたのである。

 谷口 雅宣

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2009年1月13日

古い記録 (7)

    ブラジル旅行で撮った22本のフィルムには何が写っているのか?--その答えは「何でも」と言ってしまっていいだろう。機上から雲や地上を撮ったもの、空港、道路、家並み、街角、海岸、山、瀑布、家畜、鳥、そして人、人、人……。初めて外国を見た少年は、見慣れない、珍しいものを見るたびにレンズを向け、シャッターを押した--そんな様子が残されたフィルムから推測できる。が、その中で「人」が写っている写真が案外多いことに気づく。当時はまだ、日本で外国人を見かけることが少なかったから、“日本人的でない顔”が珍しいのは分かる。しかし、フィルムには日系人の顔も多く写っているから、私が人間一般とその(海外での)生き方に興味をもって写真を撮っていたことは確かだろう。

 カメラを通して、また当地の人々との約1カ月半の接触を通して、私は日本にいた頃の“狭い世界”の外には、実に広大な地球があり、そこには多様な人々と、それらの人々の営みが織りなす複雑で豊かな世界があることを感じて、旅行から帰ってきたに違いない。これによって、“尊大な右翼少年”の世界にヒビが入ったとしても、それは成長の一過程にすぎず、誰の責任でもない。いや、私をこの旅へ誘った父は、むしろ息子が狭い心の殻を破ることを期待していたのではないかと、今にして思うのである。

 さて、この旅行で撮った写真から数枚を下に掲げる。いずれ、まとまった形でご覧に入れることができるかもしれない。

A2801s A2809sA2921sA3603s

 谷口 雅宣

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2009年1月12日

古い記録 (6)

 今日は「成人の日」の休日であったが、わが家の子供たちはみな“成人済み”であるので、1日静かに過ごした。こういう日には昔の記録の整理をすることにしているので、ちょうど私が成人した頃の写真をネガ専用のアルバムに収納する作業をした。それらの写真が今から37年も前のことだと思うと、自分も年をとったものだと、苦いような、懐かしいような、複雑な感慨が湧いてくる。

 昨年12月26日に、18歳のころの私の様子を少し書いたが、写真の整理をしながら思い出したその続きの話をしよう。私が青山学院高等部を卒業して、同学院の大学に入学したのは1970(昭和45)年の4月である。この直前に書いた私の文章を前回に少しご披露したが、相当カタブツで尊大な“右翼少年”であったことが窺われる。当時の騒然とした世相の危機を感じ、学生運動を初めとした左翼の動きを亡国的革命運動としてとらえ、その原因はすべて“占領憲法”にあるとの単純な論理に心酔していた感がある。そんな高校3年生が大学に入れば、当然、反左翼の学生運動--当時は“民族派”と呼んでいた--に身を投じるはずである。が、私の場合はそうならなかった。その理由の詳しいことは、いずれ書く機会もあるだろうから、その時に譲ろう。

 今回は、私と写真との関わりについて書く。それは、あれから35年以上たった今、何日もかけて整理しなければならないほどの写真が、そもそもなぜあるのかという理由になるだろう。父の追善供養祭の時には、故人の「自由を愛する」信条について述べ、それがなければ今の私はないという話をした。これは、父の精神的遺産であるが、これに対して“技術的な遺産”とも呼べるものが写真である。父が写真を数多く撮ったことは、本欄の読者はご存じと思う。父のほとんどの著書の表紙カバーには、自分で撮った写真が使われており、毎年の日めくり型“日訓”の表紙にも、父の写真が使われてきた。父はこれらの写真を、何台ものカメラと交換レンズを組み合わせて撮ってきただけでなく、フィルムの現像を--モノクロだけでなく、カラーも--自分で行った。そのための暗室が家にあるが、この場所は父の手作りである。私は、高校生の頃から、父に誘われてカメラをいじり、大学入学後は暗室作業もするようになった。

 だから、私が高校時代、新聞を発行する出版部に所属することになったのは、父の影響があると言える。写真を撮ることは新聞記者の仕事の一部だからだ。自宅に保存されている写真のネガで、私が撮った一番古いものは、1967年のものだ。私が高校1年の夏、青山学院高等部の生徒会の研修会が高峯高原であり、その様子を35ミリのハーフサイズのカメラで撮っている。その後、前に本欄でも紹介した大学での学生運動の写真、修学旅行で九州へ行った時の写真、生長の家の青年会全国大会、学校の文化祭、クラブ活動、教室のスナップ写真などが、20本ほどのネガの中に収められている。3年間で20本というのは、大した数ではない。だから、高校時代の私の写真の趣味は、それほどのものではなかったといえる。
 
 しかし大学に入ると、その数はいきなり幾何級数的に増えるのである。その契機になったのは、初めての海外旅行だ。これは、18歳の私にとっては“海外旅行”だったが、生長の家の運動ではその年のきわめて大きな行事であった。『生長の家五十年史』(1980年、日本教文社刊)によると、この騒然とした“70年安保”の年の7月20日から9月4日までの47日間、当時、生長の家副総裁だった父は、白鳩会副総裁だった母とともにブラジルへ講演旅行を行った。私は、その両親について行ったにすぎない。一大学生であった私には、生長の家の公式の役職は何もない。なぜついて行ったか私は憶えていないが、そのとき51歳だった父の方からアクションがなければ、私の同行はあり得なかったに違いない。この時、私は使っていた「アサヒペンタックスSP」という一眼レフ式カメラと交換レンズを数本もって、旅先でスナップ写真を撮りまくった。その時の写真はすべてモノクロだが、36枚撮りフィルムで22本が残っている。平均すると、1日当たり18枚ほど撮ったことになる。
 
 谷口 雅宣

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