2010年3月12日

“非核3原則”は守るべきか?

 このほど民主党政権によって日米安保に関するいくつかの“密約”の存在が明らかになったが、読者は驚いただろうか? 私は昨年6月30日の本欄に「ウソの看板は降ろそう」という題をつけ、「政府はもう“実は、非核2原則だった”と発表すべきである」など書いたから、特に驚かなかった。が、今回の大々的な発表のあとで、鳩山首相が“非核3原則”について「これまで通り堅持する」と言ったのには少し驚いた。これまで堅持されてこなかった原則を「これまで通り堅持する」という日本語も奇妙だが、それよりも、永年にわたって通用していなかった原則を、これから「堅持する」ということの意味がよく分からなかったからだ。この“新方針”は岡田外相も共有しているらしく、3月10日付の『朝日新聞』によると、同外相は「核搭載艦船の日本寄港・通過は核の“持ち込み”に当たるとの従来の立場も維持するとした」という。その理由は、寄港が「実際に問題になることはない」からだという。これは、「1992年に米政府が水上艦などから核兵器を撤去している」からという意味らしい。
 
 この“新方針”は10日、国会の場でも繰り返されたから、どうやら現政権は本気でそう考えているようだ。10日付の『朝日』の夕刊によると、同日の衆院外務委員会で岡田外相は、「核を積んだ米艦船が日本に寄港・領海通過する可能性を改めて否定」し、さらに「核兵器を持たず、作らず、持ち込ませず」の非核3原則は「鳩山内閣で見直す考えはない」と述べたという。私は、「非核3原則の有効性の検証は今後、日米の新たな同盟関係の構築を検討する中で慎重に行っていく」ぐらいの発言に留めておくべきだったと思う。なぜなら、鳩山首相が就任早々に述べたように、日米関係を今後の日本外交の基本としていくならば、この問題は日本が単独で決定すべきものではないからだ。とりわけ、来月中旬には、首相がオバマ大統領と会う可能性があるのだから、硬直した考えの表明は、外交的な選択肢を自ら限定してしまうことにもなる。
 
 この問題で重要なことの1つは、アメリカ側の核戦略である。「将来的な核廃絶」を打ち上げたオバマ政権が、この問題でブッシュ時代から変化しているのかしていないのか、私は知らない。岡田外相は本当に知っているのだろうか? 知らないならば、性急すぎる発言である。知っていると仮定すると、その内容はブッシュ時代と同じで、「日本に寄港し、あるいは領海を通過する艦船が核兵器を搭載しているかどうかを明示しない」というものだと理解しているのだろう。この政策は、核兵器の存否について「肯定も否定もしない」(neither confirm nor deny)のだから、英語の頭文字を取って「NCND政策」と呼ばれている。これについて同外相は、すでに「日本の非核3原則とアメリカのNCND政策は一つになり得ない」と言っている。ということは、鳩山内閣が続くかぎり、核兵器(小型の戦術核を含む)を積んだ米航空機や艦船(原潜を含む)の領海通過や寄港・立ち寄りを一切認めないことになる。あるいは、(この選択肢は不合理だが)アメリカ側がNCNDを徹底するならば、日本の意思に反して、核搭載の米艦船に日本の領海を通過させ、入港させることになるのか? これではもはや日米は「同盟国」とは言えない。
 
 そこで残された疑問は、日本の現政権がいわゆる“アメリカの核の傘”を望んでいるかどうかだ。このことについては、私は現政権閣僚からの明確な発言をまだ知らない。「核の傘」とは、日本と友好関係にない核保有国が核兵器による脅しをかけてきた時に、「オタクが核攻撃をした場合には、わが国と同盟関係にあるアメリカが核による圧倒的な報復攻撃をしてくれるゾ」と答えられるための政治的・軍事的担保のことである。この基礎は日米安保条約であるが、それだけでは必ずしも十分でない。安保条約は政治的担保の1つではあるが、そこに書かれた言葉が現実味をもつためには、言葉での約束を十分実行し得るような政治的・軍事関係が現に存在していなければならない。例えば、いま仮に日本国内から米軍基地がほとんどなくなり、中国あるいは北朝鮮からの日本への攻撃に対して、アメリカが報復攻撃する防衛ラインがグアム島まで後退していたとする。また、北朝鮮のミサイルがアメリカ西海岸に到達できる能力をもっていたとする。この時、北朝鮮の意思決定者がアメリカの報復の可能性を信じるに足る政治的・軍事的担保が、日米間に存在するかどうかが重要になる。
 
 日米関係が政治的にギクシャクしていて、軍事的には日米両軍が別個の指令系統で運営され、日本周辺には核兵器を搭載したアメリカの艦船や航空機が存在せず、しかも米中関係も敵対的であった場合、北朝鮮の意思決定者はこう考えるかもしれない--
 
「わが軍のミサイルは、20分間で日本の札幌、東京、大阪、福岡を核攻撃で機能マヒさせることができる。これに対して、アメリカがわが国を報復する場合、所要時間は早くて数時間、場合によっては数日である。この間に、同盟国である中国が、アメリカのわが国に対する核報復攻撃は自国に対する攻撃と見なすと宣言すれば、アメリカはサンフランシスコやロサンゼルスを犠牲にしてでも日本を守るという決断をするとは思えない。だいたい、同盟国中国はアメリカの首都ワシントンを攻撃できる能力をもっているから、米中の核戦争の危険性を考えて、アメリカはわが国を報復攻撃しないだろう」

 このような考えが仮想敵国の意思決定者の心中に起こるならば、たとえ日米安保条約が存在していても“アメリカの核の傘”が事実上存在するかどうか、疑わしい。日本はまだ、北朝鮮や中国との間に充分な信頼関係を築いていないから、現状の国際関係にあっては、“アメリカの核の傘”がまだ必要だと私は思う。ということは、現状においては、報復に使われるアメリカの核兵器が日本周辺にあるかもしれず、ないかもしれないというアメリカのNCND政策は有効だと考える。これはつまり、日本攻撃のための核ミサイルの発射ボタンを押そうとしている仮想敵国に対し、アメリカの報復攻撃の可能性が大きいと考えさせることで、その攻撃を思いとどまらせる--抑止する--ための方策なのである。とすると、日本の“非核3原則”の第3項目は、この機会に撤廃するのがいいと私は考える。
 
 谷口 雅宣

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2010年3月 5日

大地震は“神”の警鐘か?

 アメリカ人の作家、ジェームズ・キャロル氏(James Carroll)が、3日付の『ヘラルド朝日』紙に“自然災害と神”の問題について書いた論説を、興味深く読んだ。これは、1日付でキャロル氏が『ボストン・グローブ』に書いた「ハイチと神」という文章の転載であると思われる。キャロル氏は、FBI捜査官を父親にもち、カトリックの聖職者としての経歴をもつことから、「政治と宗教」の問題など我々にも関係のある分野での発言が多い。本欄でもかつて「信仰による戦争の道」と題して、彼の見解を紹介したことがある。今回の同氏の論説は、「神が存在するなら、なぜ天災によって大勢の人々が死ぬか」という疑問について述べたものである。直接的には今回のハイチの大地震のことを指しているだが、その直後に起こったチリの巨大地震や、その他の大きな自然災害、はたまた戦争による犠牲の理由とも関係しているだろう。彼の答えは、「神も被災者と共に棄てられ、苦悶している」というものだ。
 
 これには説明が必要だろう。キリスト教には「神とイエスは一体」という教義がある。換言すれば、「イエスは神である」のである。その神であるはずのイエスは、ローマ帝国の支配下で無実の罪で十字架刑に処せられ、自らを救うこともできずに、苦しみながら非業の死を遂げた。このような不名誉な存在が実は“神の子”であると信じることで、キリスト教徒は他の信仰者にはない慰め(consolation)を得られるのだ、という。この慰めから、未来に向けた強い精神力と自尊心が生まれるのだという。このキャロル氏の論理は、なかなか分かりにくい。
 
 同氏もそう感じたのか、この論説の半分を割いてその説明をしている。それによると、この問題は、昔から「弁神論」(theodicy)と呼ばれている神学・哲学上の問題であるという。つまり、「無限能力をもち、かつ善である神が、罪のない多くの人々が苦しむことをなぜ許すか」ということである。無限力であるならば、地震を起こすのを止めることもできただろうし、止めない場合でも、人々に前もって地震が起こることを知らせ、避難させることもできたはずなのに……という疑問が言外にある。つまり、こういう大惨事の前では、神の「無限力」と「善」は両立しないのである。大地震の被害を受けた人々は、神が災害を引き起こしたと考えた場合には「無限能力をもつ」ことは認めても、「善である」ことに承服するのが難しい。また、その逆に、災害が神の意志でないと考えた場合には、神は「善である」ことは認められても、災害が起こるのを止められなかったのだから、神は「無限能力をもつ」ことは認めるのが難しい。そうなると、昔から信仰されてきた「無限力かつ善」という神のイメージが崩壊し、「神など存在しない」という結論に達する人も出てくることになる。それを防ぎ、神のために弁明をするための議論が「弁神論」である。
 
 キャロル氏の説明には驚かされる。彼は、十字架上のイエスの苦しみは、肉体的なものだけでなく精神的なものでもあるという。そして、「イエス自身が、神への信仰を失った」のだと同氏は言うのである。これは『マルコによる福音書』の有名な言葉--「エロイ、エロイ、ラマ、サバクタニ」(第15章34節)のことを指している。この意味は、「わが神、わが神、どうしてわたしをお見捨てになったのですか」ということだ。氏によると、これはギリシャ語を原典とする新約聖書の中では珍しく、イエスが実際に話したアラム語で記述された箇所だという。だから、この記述は「歴史上のイエスが体験した実際の、強烈な絶望の時を示している」と同氏は言う。さらに「キリスト教は神の喪失から始まった」とさえ同氏は述べるのである。これは、なかなか厳しい言葉だ。そして、氏は「だから、救済の仕事は人間がすべきだ」と結論する。「もし“愛なる神”がこの世で働かれるとしたら、それは人間の愛の行為を通してである」--氏はこう論説を結んでいる。
 
 私は、キャロル氏の考えがキリスト教を代表するとは思わない。また、氏がこの論説で自分の神観や信仰を十分に説明しているとも思わない。なぜなら、氏は「弁神論」について語りながら、神を弁護することには失敗していると思うからである。しかし、「神の愛は人間の行為を通して現れる」という考えには大賛成である。生長の家では、ハイチ大地震の被災者への救援募金をすでに開始しているが、チリの巨大地震への救援もまもなく始まると期待している。が、忘れてはならないのは、これらはあくまでも「人間」を対象とした救援活動である。近代化以降、人間が自然界全体に及ぼしてきた破壊活動についても、口をつぐんでいてはいけないだろう。現代の科学は、地震などの地殻変動と地球温暖化の間に関係があるとは言っていないが、自然界からの“警鐘”の中には、今の人間の理解を超えるものがあっても不思議はないのである。科学は、まだ自然のすべてを理解してはいないのである。
 
 谷口 雅宣

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2010年3月 3日

『産経』は温暖化懐疑論なのか?

 本欄では過去にも『産経新聞』の報道姿勢に疑問を投げかけたことがある。私は自宅では同紙と『朝日新聞』を購読していて、職場では『日本経済新聞』を読む。こうすると、日本における“保守”と“リベラル”の論調がだいたい分かるだけでなく、いわゆる“経済界”寄りの考えも分かる。すると、経済界にも“保守”と“リベラル”的な思潮があることが分かる。地球温暖化関連の報道では、『産経』は対策に消極的であり、『朝日』と『日経』は積極的である。これらの違いはあって当然だし、自由主義下では違いがある方が健全である。しかし、いやしくも全国紙として、国内の広範囲に数多くの読者をもっている報道機関であるならば、事実を歪曲したり、極端で無責任な言説を弄することは許されないだろう。だから、バランスを欠いた報道が“極端だ”と感じられた場合、私は本欄で異議を唱えてきた。
 
 今回、文句を言いたいのは2日付の『産経』の第一面に載った「地球温暖化論への懐疑」という記事で、ワシントン駐在の古森義久・編集特別委員の署名が入っている。「あめりかノート」というコラム名のようなものがついているから、ワシントンでアメリカ政治を長らく取材してきたジャーナリストが、“現場報告”という意味合いで記事を書いたという意図は分かる。だから、「地球温暖化論への懐疑」という題がついていても、その「懐疑」はアメリカの政界で起こっている現象の1つであるのだろう。日本でもアメリカでも、政治の場ではいくつもの現象が同時に起こっているのが普通である。それをバランスよく伝えるのが報道機関の役割だと思う。それでは、この記事は何を伝えているのだろうか?
 
 はっきり言うと、古森氏の記事は、国連の気候変動に関する政府間パネル(IPCC)が2007年に出した報告書の内容の批判ないしは否定である。古森氏にその意図はないのかもしれないが、記事の書き方から言えば、全体の4分の3がIPCCの報告書に見つかった間違いの指摘と、それによって勢いづいた温暖化否定論者(米共和党に多い)の動きを書いていて、温暖化抑制を訴えてきた元副大統領のアル・ゴア氏の反論は、わずか3行しか紹介していない。問題の報告書に間違いがあったことは事実だから、それを伝えるのに私は反対しない。しかし、だからといって「温暖化論の最大根拠とされた国連報告書が間違いだらけだと判明した」などと書くのは言い過ぎであり、事実とは違う。こんな表現だと、「温暖化論そのものが間違いだ」と言っているのと等しい。そう言うつもりがないのであれば、世界の科学者の圧倒的多数が地球温暖化を認め、その原因が人間の活動であると合意していることについて、記事のどこかで触れるべきである。そうしなければ、『産経』の読者の多くは、「地球温暖化は大ウソ」「温暖化ガス削減努力は無意味」などと考えるだろう。報道機関にはそういう世論操作は許されないし、無責任すぎる。

 この古森氏の記事は、自分の主張に近い人間の動きを選んで取り上げているように見えるから、一種の“感情論”ではないか。『産経』自体は、地球温暖化の存在を認め、その原因が人間の活動によるということも認めている。その証拠に、今日(3日)の「主張」欄では、「問題の多い25%削減ありき」と題して、鳩山政権の「地球温暖化対策基本法案」の内容を批判している。つまり、「25%削減」という数字に反対しているのであり、地球温暖化対策をすること自体には反対していない。いや、むしろ「CO2を出さない原発の増設や稼働率の向上も避けて通れないはずだ」と述べ、また「国内排出量取引制度も国全体の総排出量を減らすことには直結しにくい」と書いて、CO2などの温暖化ガスの排出削減の必要性を説いているのである。
 
 それが社の方針であるならば、古森氏の記事のように、世界の大勢の科学者が時間をかけて積み上げてきた気候変動に関する研究をまとめたIPCCの報告書の内容を、「間違いだらけ」などという乱暴な言葉で一蹴する記事を第1面に掲載する愚をなぜ犯したのだろう……私は理解に苦しむのである。最近の『産経』は、自己主張に執するあまりに、健全なジャーナリズムとしてのバランス感覚を失っている、と私は感じる。
 
 谷口 雅宣

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2010年2月28日

宇宙飛行士の目

 日本の宇宙ステーション「きぼう」に乗り組んで様々な実験をしている宇宙飛行士、野口聡一さんが、宇宙ステーションから撮影している地球の画像を、ほぼリアルタイムでネット上に送っている。私はごく最近、それを知ったのだが、巨大地震に襲われたチリの写真もいくつか見れるし、その他、宇宙飛行士にしか見られない地上の写真が数多く見られることは驚きである。これも、インターネット技術のおかげである。私の妻はよく、「いつか宇宙へ行って地球を眺めたい」と言うが、宇宙へ行かなくても地球から地上が眺められる時代がもう来ているのだ。
 
 このサイトは、アメリカのIT企業「ツイッター(Twitter)」が運営している「ツイットピック(Twitpic)」という画像掲示サイト。野口さんは「Astro_Soichi」という名前で登録していて、28日の夜現在、宇宙空間からの写真は150枚ほどある。その中には、息を吞むほど美しい画像が数多くある。地球も自然界の一部だが、その地上には、地上にいる者には想像できないようなデザインが各所にあることが分かる。大地震に襲われたハイチのポルトープランスの町、雪の札幌、富士山、サンフランシスコの金門橋、雪の融けたキリマンジャロ山頂、東京の夜景、冬の北海道(道東)、桜島、アマゾン河口……どれも印象的だ。
 
 これらの中から私が好きなものを紹介する。写真をクリックするとサイトへ行って拡大写真が見れる。さらに、拡大写真の右上の「+ view full size」をクリックすると、フルサイズが見れる:
 
イラクの砂漠

Mars? Actually salt desert in Iraq. on Twitpic

アラビア砂漠

Arabian desert.As I told you before, desert is beautiful. on Twitpic

グランド・キャニオン

As I mentioned, Mr.President, Grand Canyon is breathtaking! on Twitpic

南パタゴニアの氷河

South Patagonia. One of the most beautiful glaciers of the wo... on Twitpic

 読者にはぜひ一度、訪問をお勧めする。登録すれば、野口さんにメッセージを送ることもできる。
 
 谷口 雅宣

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2010年2月25日

ハイチでも現れた人間性

 前回の本欄では、アメリカの文明批評家、ジェレミー・リフキン氏の「人類史の底を流れる本質的特徴は、相手を思いやる意識の素晴らしい進化である」という言葉を紹介した。この言葉に即座に「その通りに違いない」と膝を打つ人もいるだろう。が、その逆に、600ページを超える氏の近著を読まなければ賛成しない人もいれば、読んでもなお納得しない人もいるだろう。私はと言えば、人類の歴史は、その“神の子”の本性が表現されつつある過程だと考えるから、リフキン氏の言葉に基本的に賛成である。が、実例を示せと言われると、そう簡単ではない。ある人が「善い人」であるという実例を示すことは容易でも、「人類」という全体が「歴史」という長い時間の流れの中で善性を拡大してきたというような、大規模な事実の証明は簡単ではない。そんなことに思いを巡らせていたところ、イギリスの科学誌『New Scientist』の1月30日号(vol 205, No.2745)に、人間の善性を示す最近のよい例が載っていた。
 
 それは、1月に起こったハイチの大地震で、世界の人々がネットを利用してどう動いたかを報じた記事だった。人類史上でも稀に見る大被害をもたらしたこの自然災害のことは、日本でもよく報道されているが、ネット上で何が起こったかについては、あまり語られてこなかった。少なくとも私は、これについてほとんど知らなかった。が、同誌の記事によると、この大地震の被害者救援のために、見ず知らずの多くのボランティアがネット経由で相互協力し、地上で実際の救援活動を行う赤十字社や国際医療組織などを大いに助けたというのである。
 
 例えば、ハイチには「4636」という携帯メール配信サービスがあるそうだ。これは2008年、「Ushahidi.com」という小組織によってもともとはケニアに作られたものだが、このサービスがハイチの被災者や病院などから携帯メールで送られるメッセージを一手に受け付けて、必要な団体や医療組織に伝える役割を果たしたという。そのためには、アメリカ在住のハイチ人など何百人ものボランティアが協力して、ハイチの言葉であるクレオール語(Creole)やフランス語のメッセージを英語に翻訳したという。これには、ハイチ最大の携帯電話サービスも参加し、通信料金は無料となった。このような通信インフラが地震から24時間後に整ったことで、政府自体が機能停止状態にありながらも、ハイチでの救援活動は進行したという。
 
 地震の被災後、ハイチのある病院には200のベッドと医師も看護師もいて、医薬品も備えていたが、患者が一人も到着していなかった。なぜなら、現地の救援組織にはこの病院の情報が伝わっていなかったからだ。そこでこの病院が、自分たちの情報を「4636」に送ったことで、それが多数の救援組織やラジオ局に伝わり、多くの被災者が治療を受けることができたという。
 
 また、「CrisisCommons」という救援組織の活動も注目に値する。この組織は何千人ものボランティアを募って、ハイチの被災地付近の詳細な地図を、「OpenStreetMap」というネット上の地図の上に作り上げたという。被災時にネット上に存在していた地図は、わずかに市内の主要道路と、それに連絡する何本かの路地しか描かれていなかった。が、参加したボランティアたちは、衛星写真や陸上の人々から情報を入手し、病院や治療所、避難所などの位置を書き入れた詳細な地図を作成した。ハイチの政府機関は、これを印刷して人々に配布しただけでなく、GPS装置との連動を図った。これによって、Ushahidiの活動に参加したボランティアたちは、「4636」に携帯メールを送ってきた被災者の位置を、誤差数メートルの正確さで示すことができたという。
 
 海外の大学の専門家たちも救援活動に協力した。イギリスのサウザンプトンにあるImageCatという会社は、被災地の被害状況を衛星写真から分析する仕事を世界銀行から頼まれたという。この作業には普通、何週間も、時には何カ月間もかかるらしい。が、今回は緊急を要するため、同社は、被災地の「地震前」と「地震後」の写真を入手し、それを500平方メートルごとの狭い領域に分解して、それらを欧米の大学にいる何人もの専門家に配布した。倒壊したり崩壊した建物がどれであるかを調べてもらうためである。その結果、専門家たちは数日のうちに、ポルトオープリンス市で倒壊した建物をすべて特定し、その数は5千戸前後になったという。

 このほかにも、ツイッター(Twitter)やフェースブック(Facebook)を使った救援・支援活動が展開されたが、今回のような自発的な救援活動が個人や組織によって効果的に行われた最大の理由は、ネット上で大規模な活動を組織し、実行することができるということを、多くの人々が知った結果である--と、この記事の記者(Justin Mullins)は述べている。
 
 阪神・淡路大震災など、日本での大地震の際にも、ボランティアによる救援活動が自発的に、自然に起こってきたことは我々の記憶に新しい。これらの事実は、「相手を思いやる心」が人間の本性であるというリフキン氏の主張を有力に裏付けていると思う。
 
 谷口 雅宣

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2010年2月24日

感情共有文明は可能か? (2)

 前回の本欄では、ジェレミー・リフキン氏の新著『The Empathic Civilization(感情共有の文明)』の概要を雑誌のインタビュー記事から紹介し、同氏が訴える人類の進むべき方向が生長の家の考えと似ているように感じたので、「時間が許すならばぜひ読んでみたいと思う」などと書いた。が、生長の家では「今を生かせ」と教えられているから、「時間が許すなら」などと言っていると“チャンスの神様”の後ろ髪はつかめない。そう思い直して、私はこの書をすぐ読むことにした。とは言っても、600ページの本をいっぺんに読めるわけではない。前書きだけを読んだのだ。昨日の今日なのにそれが可能なのは、“文明の利器”のおかげである。
 
 昨年10月23日の本欄で、私はアメリカのネット通販最大手のアマゾン・ドット・コムの電子ブック端末「キンドル」を買ったことを書いた。これを使うと、あっというまに入手できた。料金は0円である。というのは、アマゾンを使った人はご存じと思うが、パソコンでこのサイトを見る場合は、本の一部を“立ち読み”できる。キンドルではそこまでできない代りに、「サンプル」をダウンロードできるようになっている。この「サンプル」というのが、パソコンで“立ち読み”できる程度の量に相当する。同書の場合、それが「前書き(introduction)」の部分だったのだ。サンプルを読んで気に入ったら、本の1冊分を買ってくれというわけである。これは大変便利な機能だ。日本語の書籍で同じことができるようになれば、書店へ行って本を買う人の数が大幅に減ってしまうのではないかとさえ思う。

 それで入手した同書の前書きを読んで、私は著者が日時計主義であることを知った。リフキン氏は、人間の本性は「他(ひと)の身になって考えることができる」ことにあり、ホッブスやロック、ベンサム、フロイドなどが唱えた西洋近代の人間観--戦闘的、利己的、巧利的人間像--は間違っていると宣言する。そして、「我々が学校で学ぶ歴史には、本当の人間像は描かれていない」という、ハッとするような真実が述べられるのである。同氏によると、歴史家は大抵、社会における争いや戦いについて書く。偉大な英雄や極悪人たち、技術革新や権力の行使、経済上の不正や、一揆や騒乱などの社会的不満を取り上げる。また、哲学に触れる場合は、権力の配分や執行の仕方について書く。このような暗く、権力闘争的な側面とは逆の、人間相互の社会的なつながりや、相愛協力関係、それらが進化し拡大することで文化や社会にどのような影響を与えたかなどは、ほとんど語られることがない。その理由の1つは、歴史の転換点で重要な役割を担う人々が、怨みや不満をもち、反逆的であり、権威や権力を行使しようとし、あるいは他人を利用して有利な立場に立とうとしたり、不正を破壊して正義を打ちたてようとするような人々であるからだ。

 しかし、それらは人間の“常”ではなく一種の“権力の病理学”だ、とリフキン氏は言う。にもかかわらず、我々はこのような人物群を通して歴史を学んできたため、人間の本性というものを危機や、悲劇、恐るべき不正、恐怖すべき出来事などとの関係で捉えるようになった。そして、このことが、我々の人間観を暗いものにし、人間の本性を善よりも悪の方向へ引き寄せる原因になっている、と氏は分析する。しかし、歴史的事件とは関わりのない、圧倒的多くの普通の日々の生活の中に、人間の本性が現れている、と氏は考える。その普通の日々の生活では、いろいろの苦しみや不正があったとしても、人々は数多くの小さな思いやりと親切な行動の連続で互いに支え合っているのだ、と氏は指摘する。そして、次の氏の言葉は、我々を大いに勇気づけてくれるのである。

「私たちは、他人との日常のやりとりでは、たいてい相手を気遣う。なぜなら、それが私たちの中心的本性だからだ。他人の身になって考えることで、私たちは社会生活を創造し文明を進歩させてきた。だから、端的に言えば、たとえ歴史家から重視されてこなかったとしても、人類史の底を流れる本質的特徴は、この相手を思いやる意識の素晴らしい進化なのである」。

 谷口 雅宣

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2010年2月23日

感情共有文明は可能か?

 アメリカの文明批評家、ジェレミー・リフキン氏(Jeremy Rifkin)が最近、興味深い本を出版したことを知った。『The Empathic Civilization』という題で、日本語に直すと「感情共有の文明」とでもなるだろうか。副題は「the race to global consciousness in a world in crisis」で、「危機の世界で地球規模の意識へ向かって」というような意味だ。600頁を超える大作で、書き上げるのに6年以上かかったという。イギリスの科学誌『New Scientist』のウェブサイトに、2月17日付で同氏のインタビュー記事が掲載されている。

 それによると、今度の本は、人類が地球温暖化にともなう気候変動の危機をどう切り抜けるかを、文明史的観点から考察しているらしい。同氏の処方箋をごく簡単に言えば、分散配置された再生可能エネルギーの利用によって「第3の産業革命」を起こし、互いを思いやる感情共有の文明を築き上げることだ、という。これだけでは、何のことかよく分からないと思うので、以下、補足説明しよう。
 
 リフキン氏は、人間の使う「技術」と「意識」との間には密接な関係があると見る。人類の歴史を振り返ると、「技術革命の後には意識革命が来る」のが常だと分析する。まず人類は、狩猟と漁労の時代から、水を使った農耕へ移行したとき、「文字」というコミュニケーション手段を開発した。これによって、まず、複雑なエネルギーの使い方が可能となった。また、これまでの口伝という方法では「神話的な意識」しか生まれなかったが、文字を使うことで論理的な思考が可能となり、「神学的な意識」が生まれた。さらに、文字を媒介としたこの過程で、他者への感情移入の幅が拡がった。口伝でも感情移入は可能だったが、それは家族や近親者間のごく狭い範囲にとどまっていた。が、文字の発明後は、それを読める人なら誰もが感情を共有することができるようになった。
 
 19世紀の産業革命は、印刷機の発明と、石炭と蒸気機関の利用によって、文字の利用を爆発的に拡大した。読み書きの能力は、公立学校制度の施行とも相まって、ヨーロッパやアメリカでは大衆へと浸透した。すると、神学的な意識は、「イデオロギー的意識」へと変わっていった。このような大きな変化は、20世紀にも起こった。それは、“第2の産業革命”とも言えるエレクトロニクスの発明によってだ。ここから生まれたのが「心理学的意識」である。これらの過程は、エネルギーの利用技術とコミュニケーション技術が併行的に変化し、それにともなって人間の意識も変わって、感情共有の範囲が拡大していく過程だった、とリフキン氏は見る。
 
 ところが、この過程に問題があった。その問題とは、人類の文明が複雑化すると、より多くのエネルギーが使われて、より多くの人々が意識を共有したが、その代り、エントロピーが拡大することになった。エントロピーとは熱力学上の概念で、簡単に言えば、再利用できないもの(CO2や廃棄物など)である。そして、このエントロピーの拡大によって今、地球温暖化が生じているのだ。だから、今日の地球規模の問題を別の言葉で命題化すれば、「感情共有の範囲を拡大させ、かつエントロピーを縮小する方法は何か?」ということになる。リフキン氏の答えは、私が本欄の2段落目で書いたことだ。つまり、「分散配置された再生可能エネルギーの利用と感情共有文明の構築」である。この「感情共有文明」は、世界的なインターネットの普及がもたらす、と同氏は考えているようだ。インタビュー記事だけでは、リフキン氏の主張の細部はよく分からない。が、何となく生長の家が向かっている方向と共通点があるように思う。

 リフキン氏は、私がかつて『神を演じる前に』を書いたときにも、その著書『バイテク・センチュリー』(The Biotech Century)で述べられた批評を大いに参考にさせてもらった人である。バイオテクノロジーによる人類への恩恵は大きいが、同時にリスクも大きいから、きちんとした考えのもとに制御して使うべし、と訴える本だ。英語のオリジナルが1998年に出て、日本語版はその翌年に刊行された。今度の本も、時間が許すならばぜひ読んでみたいと思う。
 
 谷口 雅宣

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2010年2月20日

バイオガソリンは“環境配慮”か?

 最近私は、めっきり自分の車を運転することが少なくなった。妻がブログで書いているが、18日の休日にほぼ3週間ぶりにハンドルを握って、バッテリーの過放電を防いだほどだ。休日には外出しているのだから、「忙しすぎて」ということではない。それよりも、むしろ車の運転にともなう諸々の繁雑なこと--CO2の排出、運動不足、狭い路地での出し入れ、行った先の駐車場と駐車料金、行き先選びの小回りのきかなさ等々--が頭に浮かび、つい別の方法を採用してしまうのだ。都会では、それができるのが有り難い。便利だから、近場でたいていの用は足りてしまうし、少し足を延ばす際にも、地下鉄とJRでほとんどの場所へ行ける。それに冬季は、積雪を考えて山梨の山荘へも行きづらいのである。

 こんな不熱心なドライバーだったから、私は普通のスタンドで入れるガソリンが「バイオガソリン」になっていることを知らなかった。スタンドには目立った表示はなかったから、レシートを見て初めて気がついたのだ。ガソリンと混合するバイオエタノールについては、過去の本欄でいろいろ書いてきた。そして、私がたどりついた結論は、「食料と競合するものは使わない」ということだった。今使われているバイオエタノールは、小麦やトウモロコシ、あるいはサトウキビを原料にしているから、それを使うことは間接的に人の食料を奪うことになる、と考えられる。だから、そのレシートを見て不本意な思いがしたのである。「ナチュラル」と表示された食品を買ったのに、後から添加物入りだと知ったような気分である。販売店は、せめて利用者が選択できるような売り方をしてほしい。が、この選択肢は今後、幅が狭くなりそうである。

 18日付の『日本経済新聞』は、新日本石油が2010年度中に3つの製油所で新たに「バイオガソリン」の生産を始め、これによって「同社製ガソリンの過半がバイオ型になる見通し」と報じている。取り扱うスタンド数は、全国で約2千店になるという。関東地区では、横浜市の同社根岸製油所がバイオガソリンを生産しているが、これを大分製油所、大阪製油所、水島製油所(倉敷市)へ拡大し、これら4製油所で生産されるガソリンの全量が“バイオ型”になるらしい。そして、バイオガソリンだけを売る販売店に「環境配慮」というお墨付きを出すという。

 しかし、「ちょっと待ってほしい」と私は言いたい。このバイオガソリンなるものが本当の意味で「環境配慮」であるのかどうかは、かなり議論の余地があると思う。だいたい、植物性油の含有量は「0.4%」という少量なのだ。CO2の排出削減を本気でやるつもりならば、ブラジルで行っているような「20%」とか「50%」とか「100%」のバイオエタノール混合油を生産・販売すべきと思う。しかし、その方法は採用せずに、「日本独自の規格」として植物油を少量混ぜたものを“バイオガソリン”として売るらしい。私は、ブラジルの大統領が数年前、エタノールの売り込みのために来日したのを覚えている。それは輸入せずに、日本で通用するものだけを流通させようという考えのようだ。何かウサン臭いではないか。これはあくまで憶測だが、きっと国内の自動車メーカーとの関係から編み出した規格だ。ブラジルやアメリカでは、もう何年も前から車はエタノールで走っている。だから、ブラジル産やアメリカ産のエタノールを輸入すれば、ノウハウのない国内メーカーが打撃を受けると考えてのことか、あるいはもっと別の理由か?
 
 19日の『日経』には、大手商社の双日が、ブラジルでのバイオエタノール事業を拡大することを報じている。同社が3分の1を所有するエタノール・メーカーが、ブラジル大手メーカーと事業を統合し、その統合会社が2012年までに年300万キロリットルを生産して、欧米や日本へ輸出するらしい。この規模は、現在のブラジル最大手の生産能力を上回るという。これが実現すると、日本国内では“バイオ型”ガソリンの規格が2つになる恐れがある。新日本石油などは、そうさせないために今から手を打っているのかもしれない。
 
 しかし、いずれの規格が日本での主流となっても、「食料と競合する燃料」であることに変わりはない。ブラジルの場合心配なのは、それに加えてアマゾンの森林破壊が進まないかということだ。だから私は、地球環境や食糧問題をこれ以上深刻化させないために、“ガソリンのバイオ化”よりも、一気に電気自動車へ移行する戦略の方が優れていると思うのだ。
 
 谷口 雅宣

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2010年2月19日

船は遅くていい

「スローライフ」とか「スローフード」という言葉が登場してだいぶ時間がたつが、“スロー産業”という言葉はまだあまり聞かない。現在の産業社会の中では「物を生産する速度を落とすのがいい」という考え方は成り立たないように思うからだ。今回のトヨタのリコール問題なども、燃費の悪いアメリカ車からの乗り換え需要に応じるためには、品質には多少目をつぶってでも、生産ラインをフル回転させて「速く」出荷することがいいとの判断が透けて見える。生産だけでなく、納期も早ければ早いほどいいだろうから、運送会社もスピードや効率が“命”と見なされる。これが産業社会の倫理か……と思っていたところ、「運搬はスローがいい」という新しい基準を適用する企業が出現し、それが成功しているらしい。18日付の『ヘラルド朝日』紙が伝えている。

 この企業とは、オランダの大手船会社「マースク(Maersk)」だ。同社は、石油の値段が1バレル145ドルになった2008年から、貨物船の航行速度を下げることを始めた。これは、フルスピードで回転するエンジンの燃費効率は、最大ではないからだ。同じことは航空機にも言える。自動車も同様で、読者も時速100キロを超える走行は却って燃費効率が悪くなることはご存じだろう。この簡単な原則を適用し、マースク社は、通常の船が公海上を24~25ノットで航行してきた速度を、半分の12ノットにまで減速した。すると、世界の主要航路での燃料消費量を2年間で30%削減することができたという。この削減幅は当然、排出されるCO2の削減量にも適用され、EUの排出権取引制度上、有利になる。このダブルメリットが、何の省エネ投資もなしに手に入ったのだ。
 
 同社の成功を見るにつけ、当初、“スロー輸送”戦術を疑わしく思っていた他社も、ドイツ-中国間の長距離航路で航行速度を下げ始め、今では同航路で20ノット減速航行をしている船は220隻を数えるという。もちろん燃費の向上は、そのまま輸送コストの削減幅に反映するものではない。航行時間が長くなれば、船員の人件費も上がるだろう。また、納期維持のために、マースク社はドイツ-中国航路に新たに2隻を投入したという。それでも、同社は輸送コストの削減が可能になったという。
 
 同社の“スロー輸送”戦術は、純粋に経済的な視点から採用されたように見える。しかし私は、現代人の生活のいろいろな面で、「早いこと」や「速いこと」を評価しすぎるあまり、人間として見るべきもの、感じるべきものが省略され、あるいは忘却されていると思うのである。人間は自然の一部であるから、自然との直接的接触が必要である。いや、直接的接触が「今ある」という実感が必要である。それなのに、多くの人々はケータイの画面に心を奪われ、またヘッドフォンの音楽に心を奪われて、頭上の青空や飛翔するハトたちを見ていない。道路脇の草花や、立木の名前を知らないし、レストランでの食事もきちんと味わっていないのである。生長の家が今、日時計主義を唱えるのは、このような現代の、特に都会生活を送る人々に向かって「遅くていい」「遅いほうがいい」と語りかけることでもある。
 
 谷口 雅宣

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2010年2月11日

建国神話のメッセージを読む

 今日は建国記念の日だったので、東京・原宿の生長の家本部会館では午前10時から「建国記念の日祝賀式」が執り行われた。私はそこで、概略以下のような話をした--

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 皆さん、本日は日本国のお誕生日である建国記念の日、誠におめでとうございます。

 この日は皆さんもご存じのように、『古事記』や『日本書紀』にある日本建国の神話にもとづいて定められた記念日です。建国の日を神話にもとづいて定めている国は世界でも珍しく、日本と韓国ぐらいであります。このことは毎年、申し上げているのですが、大抵の国は近代の民主主義革命が行われた日や、第二次大戦後に植民地解放が行われたときをもって“建国の日”としているのです。これだと建国記念日を正確に定めることが可能ですが、神話にもとづく場合はそれが難しいので、日本では記紀に書かれた日をそのまま「建国の日」ではなく「建国記念の日」として祝うことになっています。これはきわめて合理的なのであります。

 日本の国のように、建国が神話の昔に遡る場合、建国記念日で問題にすべきことは、神話に描かれた出来事が歴史的事実であるかどうかではなく、神話に表現されている建国の「理念」や「理想」と、現代の日本と日本人の生活や考え方の関係でしょう。これについては、私は(2006年以降)過去何年かにわたって、この記念日でお話し申し上げてきた通りです。繰り返しにはなりますが、重要なことなので、今日は以前とは少し別の角度からお話ししましょう。
 
 日本の初代天皇となられたカムヤマトイワレヒコノミコトは、国家統一のため軍を率いて、今の南九州から北上して奈良の橿原の地まで行軍します。これを「神武東征」と呼んでいます。この行程は何年も、一説によっては十数年にも及ぶのですが、最後に、大和地方で強力な抵抗に遭います。この敵軍の大将が長髄彦(ながすねひこ)で、この軍隊との戦闘では大変な苦戦となり、兄の五瀬命(いつせのみこと)が命を落とします。そこで、いったん退却して自ら反省して分かったことは、自分は太陽神である天照大御神の子孫でありながら、太陽の方向に向かって軍を進めることは間違っているということです。だから、紀伊半島を南に迂回し、熊野から大和へ向うことを決め、再び進軍します。ここに1つのメッセージがありました。それは「神の御心に反して行動してはならない」ということです。
 
 このあとも一行は様々な抵抗に遭ったり、困難に遭遇します。が、そのつど、ヤタガラスに道案内をしてもらったり、抵抗勢力の一方が味方になったり、金色のトビが現れて敵軍の戦意をくじいたり、長髄彦が自分の主君に見限られたりして、ついに国家統一を成しとげる。ここに描かれている神武天皇は、単に武力や知恵が優れているだけの“英雄”ではありません。武力では劣り、権謀術数を使わなくても、行った先の土地の人々から認められ、動物にも助けられる。そういう「正統性」がなければならない。これが、神武東征の神話の中にあるもう1つのメッセージです。ちなみに、日本建国の神話には、ヤタガラスと金色のトビという2種類の鳥が出てきますが、神話学では、「鳥と」いうものは、天と地との間、あるいは自然界と人間界の間をとりもつ生物として位置づけられています。つまり、神からのメッセンジャーです。だから、神武天皇は日本統一に当たって神からのメッセージに従った、ということがこの神話には描かれている。
 
 皆さんは、ヨーロッパの歴史を勉強したときに「王権神授説」という言葉を学んだと思います。これは、王権--君主の政治権力は、神から授かったものという考え方です。個人が自分の野心や利益追求のために政治権力をもつということは、正統性が欠けるということで昔から認められなかったのです。だから、「神からいただいた権力である」ということが必要だった。これと同じ考えが、日本の建国神話の中には埋め込まれているのです。それだけではありません。王権神授説が「人間社会を支配する正統性」を示すものであるならば、自然と人間との関係ではどうなのでしょう。これについても、日本の建国神話は興味ある符号に満ちています。
 
 神武天皇の曾祖父、ニニギノミコトは、天上から日向の地に降臨して、コノハナノサクヤヒメと結婚し、海幸・山幸の2人の兄弟をもうけます。ここに「海」と「山」という自然界の2つの代表が登場します。祖父の山幸は、海の神の娘で、ワニに変身することができるトヨタマヒメと結婚し、ウガヤフキアエズノミコトをもうけます。ここでは、海と山とが混合して一体になっています。そして、ウガヤフキアエズとトヨタマヒメの妹のタマヨリヒメとの間に生まれたのが、神武天皇でした。つまり、「天」と「海」と「山」という自然界の3要素を引き継いで生まれたのです。今日は、時間の関係で詳しいことは申し上げられませんが、神武東征の物語の中には、天を象徴する「鳥」だけでなく、海からの協力によっても東征軍が難を逃れるというエピソードが出てきます。こういう種類の人間が、神の御心にしたがうことで人間社会での支配権を得るのが正当である--これが、日本の建国神話の中に埋め込まれたメッセージであると考えられます。

 こういうように考えてみますと、現在、日本の政治権力を握っている人物が、なぜ人気がないのかがよく分かるではありませんか。日本人は、昔から、国の頂点に立つべき人間像をしっかりともっているのです。それは、古くは建国神話の中に記されている。単に金持ちであるとか、多くの政治家を従えているとか、権謀術数に優れているだけでは、日本人は満足しないのです。そういう意味で、この21世紀初頭の時代にも、日本の建国神話から学ぶことはまだ数多くあるのです。私たちは今、民主主義の時代を生きていますから、神話時代のような国をつくることはできません。また、そんな国をつくるべきではないでしょう。しかし、「建国の理想」や「建国の理念」は現代においても大いに通用するものであり、追求すべきものです。そのためには、私たち国民の一人一人がまず、この神武建国の神話に表現された「神の御心にしたがった生き方」を実践することです。また、「海」と「山」に代表される自然界を大切にした生き方を希求すべきです。そして、この理想に少しでも近い政策を掲げ、実行する政治家を選挙によって選ぶのです。
 
 一昨日、この生長の家本部では“森の中のオフィス”に関する説明会がありました。生長の家が、国際本部を八ヶ岳南麓の“森の中”に移転するということは、すでに『聖使命』新聞などで発表されています。この決定が“自然と共に伸びる運動”の一環であることは皆さんもご存じの通りです。今日の話を聞いていただけば、「人類は自然と共に伸びるべし」ということが日本建国の理想の中にも含まれることを、皆さんはご理解いただけたと思います。そういう理念や理想を建国の文書に掲げている国は、世界広しといえども、わが国以外にはないのではないでしょうか。このことを多くの人々に伝え、“自然と共に伸びる運動”の実現に向かって邁進していきましょう。ご清聴、ありがとうございました。
 
 谷口 雅宣

【参考文献】
○中沢新一著『人類最古の哲学』(講談社選書メチエ、2002年)
○大林太良他編『世界神話事典』(角川選書、2005年)

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