2009年11月 6日

レヴィ=ストロース氏、逝く

 すでに報じられていることだが、文化人類学者で偉大な思想家としても知られるレヴィ=ストロース氏(Claude Levi-Strauss)が、100歳で亡くなった。ユダヤ系フランス人で日本文化にも興味をもち、何度も来日して講演録も出版されている。ブラジルの先住民の文化をフィールドワークによって研究して書いた『悲しき熱帯』(1955年)や『野生の思考(パンセ・ソバージュ)』(1962年)などで、人類が混沌とした秩序のない“未開社会”から、しだいに洗練された文化をもつ社会へと発展してきたという西洋中心主義の考え方を否定し、“未開”と見える社会にも一定の秩序と構造が見出せると主張して、当時の西側社会にセンセーションを巻き起こした。神話学の分野でも大きな貢献をしている。日本とブラジルの双方に関係があり、神話にも詳しい思想家だから、生長の家とも直接的な接点があってよさそうだが、その形跡は見つかっていない。
 
 私はしかし、生長の家の万教帰一論を深く理解するためには、この人の研究から学ぶことは数多くあると思う。その1つは構造主義的なものの見方である。構造主義とは、物事の表面からは隠された(潜在的な)構造を見出して、その構造によって現象を理解し、ひいては現象に働きかけようとする立場である。宗教とも関係が深い精神分析学の分野では、「エディプス・コンプレックス」とか「元型」などの概念がそこから生まれている。谷口雅春先生の諸著作の中では「男性原理」に対する「女性原理」という考え方や、「東洋的文化」と「西洋文明」を対比させる方法は、きわめて構造主義的である。神話の分野にも、そういう隠された構造があると考えるのが神話学の立場である。そのことを、レヴィ=ストロース氏は『神話と意味』の中で次のように語っている:
 
「神話の物語は気まぐれで無意味で不条理です。とにかく見たところはそうです。にもかかわらず神話の物語は、世界的に反復して現われるように思われます。ある地点の人が頭の中でこしらえ上げた“奇想天外”の作り話ならば、1つしかないのがあたりまえ--つまり、まったく別の場所に同じ作り話が見出されるのはおかしいはずです。私の問題は、この外見上の無秩序の背後に、ある種の秩序があるのではないかと探ってみること、ただそれだけでした」
(同書、p.15)

 神話は、宗教の出発点であると言えるだろう。日本古来の神道は、『古事記』『日本書紀』などの神話を含む書物を基本としている。聖書の『創世記』は、神話との共通点が多いだけでなく、その一部に神話を含むと言っていいだろう。この教典は、ユダヤ教、キリスト教、イスラームという3大一神教の基礎である。初期仏教の教典やヒンズー教の教典にも、神話が含まれている。そしてこれらの様々な神話は、登場人物の名前や行動などの細部は皆、まちまちで個性的であっても、物語の基本構造は共通しているというのが、神話学が見出したことなのだ。これと同じ考え方が万教帰一論の背後にはある。
 
 こういう研究を続けてきた氏が、同じ本の中で宇宙の秩序について興味あることを言っている:
 
「人類の知的業績を見わたすと、世界中どこでも、記録に残る限り、その共通点は決まってなんらかの秩序を導入することです。もしこれが人間の心には秩序への基本的欲求があることを表わしているとすれば、結局のところ人間の心は宇宙の一部にすぎないのですから、その欲求が存在するのは、多分、宇宙に何か秩序があり、宇宙が混沌ではないからでありましょう。」(同書、p.16)

 レヴィ=ストロース氏は学者であるから、「神」という言葉は使っていない。が、人間の心が求めてやまないものが宇宙にあるという考えが、ここに表明されている。
 
 谷口 雅宣
 
【参考文献】
○レヴィ=ストロース著/大橋保夫訳『神話と意味』(みすず書房、1996年)

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2009年10月26日

終末論の宗教 (4)

 この題で本欄を書くきっかけとなった高校生の質問に対して、私の答えをひと言で表現すれば、「終末論の宗教は本物ではない」ということだった。なぜそう言えるかということは、「唯神実相」と「唯心所現」という生長の家の教義から本欄ですでに説明した。生長の家創始者、谷口雅春先生は、ありがたいことに心霊学的立場からもこれを明快に説明されているので、今回はそれを紹介しよう。

「終末論」は「預言」や「予言」と密接に関係している。キリスト教の教典で終末論を扱った代表的なものは、『ヨハネの黙示録』である。この書は英語では「The Revelation of St. John the Divine」とか「The Revelation to John」などと表記され、略称は「Revelation」である。「revelation」は動詞の「reveal」(啓示する)の名詞形で、日本語の「啓示」の意味だ。「黙示」という日本語は、「黙ったままで相手に意思を表明する」という意味だが、宗教的な文脈では「啓示」と同じである。神は人間に対して、普通は誰にでも聞こえるような声によって“お告げ”をしないから、黙示すると考えられるのだ。

 この『ヨハネの黙示録』には、英語では「The Apocalypse」という別称がある。この語は、ギリシャ語の「apokalupsis」から来ていて、「~から離れる」という意味の接頭語「apo-」と「包み」の意味の「kluptein」からなっている。つまり、「包みから離れる」→「包み隠されていたものが現れる」という意味から、「秘密を暴露する」とか宗教的な「啓示」の意味に使われてきた。特にキリスト教の文脈では、再臨のキリストによる“最後の審判”と、“御国の到来”を説く秘密の書の内容が開示されることが「Apocalypse」であった。この「秘密の書」とは『ヨハネの黙示録』や『ダニエル書』などのことだ。

 このように、“最後の審判”によって世界や歴史の終末が来ることを預言者が語り、また予言が行われることで、ユダヤ=キリスト教信者の間で終末論が時間をかけて形成されてきた。この過程で、何人もの預言者が“世界の終り”についての啓示を受け、それを発表し、ユダヤ民族や世界に対して警鐘を鳴らしてきた。だから、ここで扱う「啓示」には2つの意味があるのである。1つは、代々の預言者が受ける啓示であり、もう1つは、すでに記された“秘密の書”の意味内容の啓示(開示)である。谷口雅春先生は、このうちの前者について、ユダヤ=キリストの文脈を超えた一般論として、私たちがどう判断すべきかを『新版 生活と人間の再建』(2007年)の中に明記されている。(pp.301-302)
 
 先生はここで預言者の質を問題にされている。なぜなら、宗教の開祖らの中には、「我は神の自己実現なり」という高度な霊的自覚に自ら達していないにもかかわらず、憑依霊が「お前は神の子だ」とか「お前は○○神だ」と囁く声を聞いてその気になり、予言や預言をして人々を迷わす者があるからだ。このような質のよくない預言者は、次の4点から判別できるという:
 
 ①「世の終り」を宣言して人心を恐怖に陥れる者は、おおむね憑依による。
 ②動物霊など人間以外の自然霊が憑依した預言者は、人間らしくない奇行を伴う。
 ③憑依現象による預言は、論理的な一貫性がなく、猥雑な語句が交錯する。
 ④憑依による預言は偏執的で、他者に対して強圧的である。

 この4項目の最初に、「終末の預言はおおむね危険である」と示されていることに私たちは注意しなければならない。また、一部の宗教指導者の中に奇行癖があったり、性的な異常行動があったり、他者への旺盛な支配欲があったりする理由が、これによって分かるのである。

 谷口 雅宣

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2009年10月12日

グーグルのブック検索 (2)

 グーグル自身は、著作(権)者のこういう心配を意識していて、そうならない方法をいろいろ工夫しているようではある。例えば、現在の日本語のグーグル「ブック検索」では、スキャンした本の全部ではなく、一部が表示される。また、著作(権)者が同意しない本については、検索してもまったく表示されないか、あるいは表示される箇所がきわめて限定的だ。そして、検索ページには、次のような説明文も出る--
 
「図書館プロジェクトでブック検索に登録された書籍の場合は、著作権の状況によって閲覧できる範囲が決められています。Google では、著作権法および著者の多大な努力を尊重しています。著作権が失効しており、著作権保護の対象とならない場合は、書籍全体をブラウズしたり、ダウンロードして読んだりすることができます。著作権で保護されており、出版社または著者がパートナー プログラムに参加していない場合は、図書カード カタログのように、書籍の基本情報と、場合によっては書籍の抜粋、つまり検索キーワードの前後の文章が表示されます。」

 それは確かにその通りなのだが、これは前回の本欄で触れたアメリカでの“和解”が成立する前の、旧バージョンでのサービスのことだ。今後、日本も含めて世界的に実施される新バージョンの「ブック検索」では、1冊の本の全文検索が基本となるだろう。この場合、著作(権)者は、グーグルの新サービスに「登録しない」ことも選べる。が、現在のようにインターネット検索サービスがグーグルによって寡占状態にある場合、そこに登録しないことは、著作物や著作者が世界的に認知されないことになる。だから、著作(権)者は、自分の著作物が事実上、世界的に葬り去られるか、それともグーグルを信頼して全内容の同一性や権利保全の完全性を任せるか、の二者択一を迫られることになるのではないか。
 
 こういうサービスが、国際機関のような公的な機関がやるのであれば、それはむしろ望ましいことだ。が、ご存じのように、グーグルはアメリカの一私企業であり、現に自ら手掛けた検索サービスから莫大な広告収入を得ている。そして、広告の値段は、検索の結果、パソコンの画面に表示される該当書籍の順位と関連させて決まるのである。そういう私企業1社に、全世界の書籍の全文検索と表示順位の決定を任せてしまうリスクは、相当大きいと思う。ここのところが、私にとって最もひっかかる点だ。
 
 グーグルの共同設立者の1人であるセルゲイ・ブリン氏(Sergey Brin)は、10~11日付の『ヘラルド朝日』紙に論説を寄せて、同社のブック検索の目的について述べている。それによると、このサービスの最大の目的は、図書館や古本屋の本棚に埋もれてしまっている絶版本などの古い書籍を、全世界の読書人の前に提供するとともに、それらの書籍の権利者に対して相応の対価を支払うことだという。私は、この目的については異議を差し挟まない。私の心配は、上にも書いたように、この業界で事実上、独占的力をもつ一私企業が、世界中の全書籍の内容を入手し、それを全世界に提供する際に、公平中立の立場からできるとは考えられないという点である。
 
 ブリン氏は、グーグルがこの分野で成功すれば、他社が市場に参入して競争が行われること、また、著作(権)者はグーグルへの書籍の登録をいつでも取り消すことができることなどを挙げて、自らの目的の正当性を訴えている。が、これらの主張は、本質的には「競争によって市場が選択するものが残る」という自由競争の論理であり、公平性への疑問に対する反論になっていない。インターネット検索の市場がグーグルにきわめて有利な方向に“歪んでいる”現状にあっては、公平性を保証するための説得力ある方策を提示してほしい。

 谷口 雅宣

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2009年10月 3日

五輪のブラジル開催を祝福する

 2016年の夏季オリンピックの開催地が、ブラジルのリオデジャネイロ市に決まった。私は、2006年8月31日の本欄以来、東京での五輪開催に何回も反対してきたから、安堵の思いでこのニュースに接した。

 はっきり言ってしまえば、人類が真剣に地球環境問題を解決しなければならない21世紀には、重厚長大で1点集中型のスポーツイベントは本当は不要なのである。そんな手段によって国威発揚や経済の活性化、そしてインフラ整備をするという考え方自体が、時代遅れである。が、人類全体の“業”の力はとても強いから、この大規模スポーツイベントはこれからも地球のどこかで開催されることになるだろう。その場合、まだ開催されていない国や地域でそれを行い、開催経験のある国や地域は、それに対して人類の“過去の過ち”を繰り返させないようにできるだけ支援を行うというのが、どうにか容認できる妥協点ではないだろうか。とりわけブラジルは、地球生命全体にとって重要なアマゾンやセラードなどの貴重な生態系と資源を有する。それらをこれ以上破壊しないで五輪開催ができれば、人類は21世紀以降に希望を見出すことができるのではないか。そんな新しい視点を採用してくれることを期待して、“リオ五輪”の決定を祝福する。
 
 石原慎太郎・東京都知事は、「史上最もコンパクトな五輪」などをスローガンに“環境負担の軽減”を正面に出して誘致作戦を展開したが、その論理自体が「五輪開催は環境を傷める」という前提に立っている。そういう場合、普通は「五輪はやめよう」と言うのが正しいはずだ。が、政治家としてはそれは絶対言えないから、「他の開催地よりは環境への害が少ない」という曲がった論理になってしまった。これは、今の世界では通用しない。その証拠に、今日の『朝日新聞』によると、東京のプレゼンに対して海外の記者から「このままでは従来のような五輪が開けなくなるという主張は脅迫ではないか」との質問が出されたという。また、『日経』はIOC評価委員会から「我々は国連ではない。そんな大きな問題を持ち出されても……」との声が聞かれたと報じている。

 五輪は環境保全事業ではなく、スポーツイベントである。また、これから経済発展の“果実”を享受しようとしている新興国に対して、「あなたの国の経済発展は温暖化ガスの排出増加につながるから、その量を最小にできる国に栄誉を与えよ」と言うに等しい。この論法は、「地球温暖化抑制のためには経済発展を控えよ」という、温暖化対策をめぐる国際交渉時の先進国の言い分そのものである。五輪の場にそれを持ち込んだことが、大きな“敗因”の1つと言えるだろう。
 
 また、今回の五輪開催地の選定には、国際関係全体の変化が現れていると思う。アメリカのシカゴが最下位で初戦敗退し、東京は下から2番目で予選落ちした。マドリードを推薦したスペインは、すでにバルセロナ五輪(1992年)があったから不利だった。ブラジルは、「南アメリカ初」を前面に掲げて開催権を獲得したが、これは中国に続く「新興国の出番だ」と言っているように聞こえる。『日経』は、“3度目の正直”を射止めたブラジルについて「世界的な経済危機にもかかわらず堅実な成長を維持、BRICsの一角として存在感が増している」ことを挙げ、「新興経済大国の躍進を象徴したものだ」と分析している。

 ブラジルでは日本人(日系人)の社会的地位が高い。同国の歴史上、農業などで社会の発展に大きく貢献してきたからだ。その信頼にも応えるため、今後は、植林活動や環境技術の分野で同国を大いに支援し、2016年には“炭素ゼロ五輪”を実現するような中期計画を策定できないか、と私は夢想するのである。
 
 谷口 雅宣

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2009年9月28日

「生命は不死」は危険な教え?

 9月27日には、福岡教区での生長の家講習会が行われ、光回線を使った4会場同時開催という形式で、合計1万人を超える大勢の受講者が参加してくださった。講習会では午前中の私の講話に対する質問を受け付けているが、今回は小学生から高齢者までのあらゆる年齢層の受講者から、質問用紙18枚が届けられ、とてもバラエティーに富んだ内容だった。が、時間の関係から、すべての質問にはお答えできなかった。そこで、未回答に終った質問の中から重要と思われるものを、本欄で取り上げて回答しよう。

 久留米市に住む52歳の男性の受講者は、「人間の生命は不死」の考え方と「万教帰一」についての説明を聞いて次のような質問を寄せられた--
 
「生長の家の万教帰一というのは非常に感銘を受けるところですが、生き通しの命の教えは、イスラムテロ組織タリバンの“死して来世で幸福となる”という考え方で、死を恐れぬ危険があります。又これは、太平洋戦争の特攻隊の精神にもつながります。もっと命の重さ、人間のすばらしさ(仮の姿の現世でも)を教えるべきと思いますが、いかがでしょうか?」

 上の質問には、この質問者の言いたいことが一部省略されているように思う。それを補うと、恐らくこういうことだ--すべての宗教の神髄は一つであるとする「万教帰一」の考え方には共鳴できるところはあるが、この「一つ」とされる共通の教えの中に「人間の生命は生き通しである」というものを含めるのは、危険だと思う。なぜなら、イスラーム過激派のメンバーは、現世を否定して来世の幸福を成就するために自爆テロを行うのだから、「生命は不死」の教えはそれを正当化してしまう。また、特攻隊の場合も、「生命(魂)の不死」を信じて「靖国神社で会おう!」と誓った若者が、現世を犠牲にして自殺攻撃に突き進んだのである。そういう現世軽視の考え方よりも、現世での生命尊重や、今生の人生のすばらしさを宗教は強調すべきと思うが、どう考えるか?
 
 私は、「生命は不死」の教えが直ちに「自爆テロ」や「現世軽視」につながるとは思えない。それどころか、「生命は不死」という前提からは、いろいろな教えを導き出すことができるのだ。例えば、これに「因果の法則」を組み合わせて、現世で犯した罪は来世にも引き継がれるのだから、罪のない多くの人々を傷つけ、殺した悪業は、来世における幸福ではなく、悪果となって現れる、と説くことができる。また、すべての人々の「生命は不死」なのだから、今、目の前に“敵”として現れている人も、前世においては“味方”であったかもしれず、“恩人”だったかもしれない。だから、殺すなどもってのほかだ、とも説くことができる。さらに、「生命は不死」なのだから、現世においてすべてのものを得ようと焦る必要はない。自分のことだけでなく、他人のために何かすべきである、と諭すこともできるだろう。つまり、「生命は不死」の教えは、「現世軽視」や「他人軽視」の考え方と直接、論理的につながってはいないのである。
 
 それがつながって見えるのは、なぜだろう? その理由は、現世を否定的にとらえるからだ。特に、目の前にいる“敵”が自分をはるかに凌駕する力をもっていると考える場合、現世軽視、現世否定の傾向が強まると思われる。自爆テロリストの場合は、敵が多く、汚辱したこの世界は否定すべきものだと考えて、テロ行為に走るのである。特別攻撃隊の場合も、戦局が日本に不利なことが明確になってから登場した戦法である。つまり、敵の力を思い知ってから、やむを得ないギリギリの戦法として採用された--ということは、現世を否定的にとらえて考えついた手段なのだ。
 
 これに対し、生長の家の教えでは、現世を「現象世界」と呼んではいても、否定的にとらえないのである。それは「日時計主義」の言葉を思い出してもらえば明らかだろう。我々は、現世を「神の子の実相を表現する場」として極めて肯定的にとらえる。また、“悪”や“敵”は実相においては存在しないと考える。だから、現世において“悪”や“敵”が現れたように見えても、それらは「心の影である」として存在を否定してしまう。したがって、「生命は不死」の教えは、生長の家においては「自爆テロ」や「現世軽視」に結びつくことはないのである。
 
 谷口 雅宣

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2009年9月24日

『産経新聞』は大丈夫か?

 私は若い頃、『産経新聞』のお世話になったことは本欄等に書いたと思う。だから、私は同紙に個人的な恨みなどなく、むしろ感謝している。が、最近の同紙の外交に関する報道姿勢には“疑問符”がつきまとってならない。特に、アメリカに民主党のオバマ政権が誕生し、日本でも民主党への政権交代が起ったころから、思いあまって感情に流されるのか、報道記事が評論記事のようである。事実をそのまま伝えればいいものを、エモーショナルな見出しを付けて、読者が記事を読む前から論評してしまうのである。これは、ジャーナリズムとして邪道であり、まるで新聞が“売らんかな”の週刊誌化しつつあるようで、嘆かわしい現象だ。

 先の総選挙で、『産経』が自民党政権の維持を訴えたことを私はそれほど問題にしていない。同紙はもともと「産業経済新聞」であり、産業界と経済界とのつながりが太く、それらの業界の意見を無視しえない立場にあることは理解できる。が、同時に、新聞は“公器”として国民の考えを重視しなければならない。そして、今回の総選挙での国民の選択は明瞭だった。自公政権に対して「ノー」と言ったのである。それは、必ずしも「民主党にイエス」ではない。が、まだ試運転を始めた真新しい政権に対して、初めから疑いの眼差しをもって報道する姿勢には、一流の報道機関にふさわしくない“やっかみ”が感じられ、好感がもてない。特に、外交政策の分野でそれをやることは、『産経』がこれまで重視してきたと主張する“国益”にも反することになる、と私は思う。
 
 もっと具体的に言おう。最も近い例では、今日(24日)の第1面で鳩山首相とオバマ米大統領の初めての会談を伝える記事に、「気まずい“信頼構築”」という見出しをつけた。いったい何が「気まずい」のかと思って記事の中身を読んでみたが、日米首脳の間に「気まずい」空気が流れたなどということはどこにも書いていない。それどころか、首相は会談後に「全体として温かい雰囲気があった。大統領と私との間に何らかの信頼関係のきずなができたのではないか」と評価している。では、大統領の方から何か不満が表明されたのかというと、そういう言葉はなく、『産経』は第3面でオバマ氏の「同盟関係が20世紀後半において強かったように、21世紀もさらに強くなるチャンスだと確信している」という言葉を引用し、「新政権との協力に期待感を表明した」と自ら書いているのである。もちろん、それらを100%額面通りに受け取る必要はないが、「気まずい」ことが事実として起こったのでなければ、そんな表現を使うべきではない。

『産経』は結局、ここで記者の「憶測」を見出しに取っているのである。何を憶測しているかといえば、「民主党が在日米軍再編の見直しなどを公約にしたことで米側の不信が蓄積されている」(第1面記事)ことであり、日本側は今回、「信頼構築」を最優先に掲げていて「緊迫した場面こそなかった」(同)が、「それは懸案を事実上先送りさせたためで、“忍耐”のオバマ政権がいつ態度を硬化させるかはわからない」(同)ということである。つまり、『産経』が言いたいのは、こういうことだろう--日米新首脳の初顔合わせは大過なくスムーズに行われたが、それはオバマ大統領が民主党政権に不信感をもっていても忍耐の人であり、本当に言いたいことをガマンして言わなかったからだ。だから、2人にとっては気まずい初顔合わせであったに違いない。私は、こういうことを『産経』が言ってはいけないとは思わない。しかし、言うのであれば、事実報道を装って記事の本文に紛れ込ませて言うのではなく、堂々と「主張」などの論説欄で言うべきである。また、あくまでも事実報道として言いたいのであれば、「米側の不信が蓄積されている」ことや、オバマ氏が特別に「忍耐の人」であること、または「言いたいことをガマンしている」ことなどの証拠をきちんと記事中に示すべきである。それをやらずに断定的に書くことは、読者の知性を侮った“世論操作”に近いと思う。
 
『産経』は同じ日の第3面でも、第1面と同様のことをしている。それは「“現実統治”迫る米」という見出しの記事である。この記事は、今回の日米首脳会談の解説記事であるが、見出しだけを見ると、今回の首脳会談でオバマ大統領が鳩山首相に対して「もっと現実的な統治をしろ」と迫ったような印象を与える。が、そんな事実は一切ない。「現実的な統治」を迫っているのは、オバマ氏でもなく、国務長官のクリントン氏でもなく、その部下である国務省の日本担当者でもなく、何とこの記事を書いた『産経』の記者なのだ。アメリカ側はそんな注文を一切していないにもかかわらず、『産経』の記者はアメリカに成りかわって、鳩山首相に「現実統治」を迫っているのだ。ということは、この記者は不思議なほどアメリカ大統領に近く、アメリカの外交政策に通暁しており、オバマ氏の心中も知悉していることになる。ところが、記事の最後尾に書いてある次の文章を読めば、そうでないことがわかるのだ--

「今回や11月の訪日の際の首脳会談を通じ、大統領が鳩山首相に“現実の政治”を迫り説得できるかどうか、手腕が問われている」

 なんのことはない。この記者は鳩山首相の政治は非現実的だから、それを修正するためには、アメリカの大統領が「現実政治をしろ」と日本の首相に迫ることが必要であり、それができれば大統領の手腕を認めるというのだ。一介の日本人記者が、アメリカ大統領の手腕をそんなことで判断するのは失礼だし、第一それをやりたいのなら、他国の大統領の手など借りずに、自分が新聞記者として言論によって自らの紙面を使ってやるべきだ。また、それができないのなら、「できない」という現実の中に自分の力不足の原因を認めるべきである。

 最近の『産経』の見出しの取り方は、このように主観的である。これはほんの一例であり、鳩山首相が日本の温室効果ガス削減の中期目標を国連で発表したときも、同じような手法を使って「一般記事の見出しによる意見表明」を行った。それは23日付の同紙の第1面に載った「高過ぎる公約の呪縛」という見出しだ。「高過ぎる」はすでに意見表明だが、「呪縛」は感情の露出でなくて何であろう? 繰り返しになるが、私はこれは新聞の邪道だと考える。意見表明は論説欄で堂々とやればいい。「それをしたがまだ足りないから、一般記事の見出しで警鐘を鳴らすのだ」では、スポーツ新聞とどこが違うのか。また、戦前・戦中の新聞とも似ている。『産経』が今後もそういう方向へ流れていくのであれば、より客観的な情報を求める多くの読者を失うことになるだろう。
 
 谷口 雅宣

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2009年9月18日

米が東欧へのMD配備を中止

 アメリカが突然、東欧諸国へのミサイル防衛(MD)施設の配備計画を中止すると発表した。大統領自身が発表したのだから、最終決定である。新聞各紙は、主として3つの理由を挙げている--①イランの核武装を抑えるためにロシアの協力を得る、②ロシアとの関係改善と核軍縮の進展、③イランの長距離ミサイル開発の遅れ。ブッシュ時代に導入が決定されたこのMD計画は、「イランのミサイルの脅威から欧州と駐留米軍を守るため」として、ポーランド(迎撃ミサイル基地)とチェコ(レーダー基地)に迎撃施設を配備するものだが、ロシアがこれを自国の戦略核を無力化するための施設と見なして、猛然と反対してきた。だから、計画の中止で、ロシアとの関係改善を図り、イランの核開発阻止と戦略核兵器制限条約の更改交渉を一気に進展させたいのだろう。
 
 が、私は、この計画のもう1つの(隠された)目的がどうなったのか、興味がある。それは、テロリストの核攻撃を抑止することだ。私は、すでに2007年5月13日の本欄で、東欧のMD施設は「核自爆テロの抑止を目指した報復攻撃用システム」という側面もあることを指摘した。しかし、この“側面”をもたせたのは、前政権のブッシュ大統領であり、ブッシュ氏の外交思想は“善悪二元論”が基礎となっていた。つまり、“悪の枢軸”を初めとしたテロ国家やテロリスト養成国家を起源とする“テロとの戦い”が必要だとする考え方だ。これに対し、オバマ政権の考え方は“イスラームとの対話”を目指し、イスラーム国家に対しては武力や圧力によるよりも、対話と理解を進めようとするものだった。
 
 この考えを軍事戦略に及ぼした場合、ブッシュ氏の恐れていた「イスラーム過激派による核自爆テロ」の可能性を、オバマ氏は「ない」と判断したのだろうか? それとも「あるかもしれない」と考えたうえで、軍事ではない別の手段で、核自爆テロを抑止する方法を考え出しているのだろうか? そういう点に、私の興味はあるのである。
 
 本欄の読者は、今から約2年前、イスラエルがシリア領内を爆撃したことを憶えているだろうか。これは、北朝鮮の協力を得て建設中だった核関連施設を、完成前に破壊するのが目的だった。シリアはその後、核開発を中止したようであるが、イランはご存じの通り、核開発は独立国の権利であるとの立場を明確にして、欧米諸国と対立している。ということは、欧米諸国が“イランの核”を阻止しない場合、イランとは至近距離にあるイスラエルが、自衛の目的でイランを攻撃する可能性があると言える。そんなことが起これば、中東地域には一気に紛争が広がり、世界は混乱状態に陥るだろう。
 
 そういう緊急性のある状況判断のもとに、今回のアメリカの方針転換が行われたのだ、と私は思う。平たく言うと、ロシアの協力を得てイランの核開発を阻止することに緊急性を感じたための決定ということになる。そういう緊張した国際関係の中でまもなく、鳩山総理となって初めてのG-20と、日米首脳会談が行われることになる。
 
 谷口 雅宣

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2009年9月17日

フランスの“次の手”はGDP改革?

 11日の本欄でフランスが炭素税の導入に向けて動き出したことを書いたが、今度は「GDP」(国内総生産、Gross Domestic Products)という永年使われてきた経済指標について、その見直しを考えているらしい。15日付の『ヘラルド・トリビューン』紙が伝えている。理由は明白で、GDPは人間の“幸福度”や地球環境問題の深刻化とは無関係の指標だからだ。このことは、昔から各方面から指摘され、私も本欄その他で何回か言及してきたが、一国の元首がそれを言い出すのは珍しく、好ましいことだと思う。

 上掲の記事によると、大統領の諮問委員会が7日、サルコジ大統領に対して「現行のGDPは、経済の健全さを表す基準としては不十分であり、持続可能性と人間の幸福(well-being)の要素を取り入れて拡張すべきである」という内容の報告をした。この諮問委員会は、米コロンビア大学のジョセフ・スティグリッツ氏(Joseph E. Stiglitz)とハーバード大学のアマーティア・セン氏(Amartya Sen)という2人のノーベル経済学賞受賞者を含めたメンバーからなる。同委員会は、GDPに象徴される経済発展は本来、人間の幸福増進の手段とすべきものなのに、現在は目的化してしまっている点を問題にしているという。

 とりわけ、市場の機能を表す狭い尺度が、社会の「繁栄」や人間の「幸福」というような広い尺度と混同されている現状を憂え、報告書は「我々は測定するものによって影響される。だから、もし我々の測定の仕方が間違っていれば、それにもとづいた決定にも誤りが出る。諸々の政策は、GDPの値を上げるためではなく、社会の福利を向上させるために遂行されるべきである」と言っている。さらに報告書は、今回の経済不況にも触れ、「GDPの値に過剰に焦点を当てたこと」が金融危機の始まりの一因だとし、政策決定者はGDPによる経済成長に目を奪われ、その蔭に隠れた他のデータ--例えば、家計や企業の負債が増え、維持できなくなっていたこと--を見落としていた、と分析している。これに対し、サルコジ大統領は、この提言の内容を組み入れた報告を行うように国家統計局に指示し、まもなくピッツバーグで行われるG-20の会合で、他国にも同じことを提案する考えだという。
 
 GDPは、一国の内部で生産された商品とサービスの市場価格の総計である。この場合の「商品」の中には武器や特殊車両(戦車や装甲車、消防車、救急車、警察関係車両)も含まれ、また「サービス」の中には軍隊の出動、治安維持、消防活動、災害救助も含まれる。だから、テロや国際紛争、交通事故、火災、天変地異が起こっても、GDPの値は向上することになる。これらが、社会の福利増進や人々の幸福の増大とは関係がないことは明らかだ。また、GDPは国家間の“経済力”の指標と見なされることがあるが、そこに住む国民一人一人の福利の指標ではない。例えば、アメリカはGDPで「世界1位」ではあっても、国連開発計画(UNDP)が定める人的開発指数(human development index)で測ると、「世界15位」にすぎない。この指数には、長寿や健康、知識の入手可能性、生活水準などが含まれていて、それによるベスト3位は、アイスランド、ノルウェー、カナダである。
 
 さらにGDPは、環境の持続可能性を破壊するような活動を把握できない。このことは、今回の報告書でも問題視されているという。例えば、ある途上国が外国企業から鉱山開発を勧められたとする。これを許可すれば、GDPの数値は上がる。が、その際、鉱山使用料はわずかで、周囲の環境が汚染され、労働者が健康被害を被ったとしても、GDPの数値は上がるのである。

 私は、2002年のブログでGDPの欠陥に触れ、そのことを『足元から平和を』(2005年刊)の中でも取り上げ、市場外の価値をも含めた“新しい経済学”の必要性を訴えた。また、この際、人間の手がついていない自然の価値を金銭的に表そうという経済学者の研究も紹介した。さらに、「自然」それ自体を資本としてきちんと評価する「自然資本」の考え方にも触れたのだった。そういう先駆的な人々の正当な努力が、ようやく一国の政策にも反映されつつあるのならば、素晴らしいことだと思う。環境を重視する日本の新政府にも、ぜひ見習ってもらいたい。
 
 谷口 雅宣

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2009年9月13日

倫理的消費者の潮流

 今回の世界的金融危機とそれに続く経済不況の後に、現れるものは何か? かつてと変わらぬ大量生産・大量消費・大量廃棄を奨励する物質主義的資本主義なのか、それとも、地球温暖化抑制や経済格差の是正を視野に入れた、もっと倫理的な経済システムなのか?

 --こういう質問をすれば、恐らく大部分の人は「後者が望ましい」と答えるに違いない。私もそれを希望する。が、「希望する」だけではその実現は保証されない。なぜなら、人間の心には習慣性があり、そういう人間が集まって構成された社会や経済にも、その習慣が色濃く反映されるからである。希望しながら、「でも実現は無理だろうなぁ~」と手をこまねいているだけでは、習慣の力から脱することはできない。
 
 従来の消費生活に疑問を感じ、別の生活を模索しつつ、自らの消費に何らかの倫理を導入する人々を「倫理的消費者」(ethical consumers)と呼ぶらしい。同じようにして、単に金儲けを目的とするのではなく、社会に倫理的なインパクトを与える目的で企業や団体に投資する人々とを「倫理的投資者」(ethical investors)という。そういう人々は、今回の経済危機より前から存在していたことはいた。が、数は少なく、特殊例外的であり、大金持ちの人もいたから、一部には“売名行為”ではないかと批判されることもあった。つまり、社会の“潮流”になることはなかったと言える。が、この経済危機後には、多くの普通のアメリカ市民が、倫理を重視した投資や消費に参加しつつあるようだ。

 アメリカの時事週刊誌『TIME』は、9月21日号に「倫理的消費者の台頭」(The Rise of the Ethical Consumer)という特集記事を載せ、この新しい潮流に注目している。それによると、厳しい経済不況下の今年であっても、アメリカの人々はガソリンの燃費が悪いSUVからプリウスに買い替えたり、フェアトレードのコーヒーを選んで買ったり、かつてない高率で社会的責任を重視する企業に投資したりしているという。『TIME』誌が行った世論調査では、今年1月以降、オーガニック製品を買ったアメリカ人は、10人のうち6人以上という。また、大勢の人々が省エネタイプの電球も買った。さらに、それらの商品の購入動機は、「オーガニック」とか「省エネ」などという商品の性質によるだけでなく、その出所にもよるという。今夏、同誌が1,003人の成人を調査したところ、その82%は、地元や近隣の企業や団体を支援することを意識して、お金を使ったという。また、40%近くの人が、今年商品を買った理由として、それを生産している企業や団体が掲げる社会的、あるいは政治的価値に賛同したことを挙げている。

 アメリカでは1995年以降、企業の社会的責任(SRI)を重視する投資信託が急増している。この種の投資信託は、一般にタバコや、石油、小児労働に関係する企業への投資を避けるところに特徴があるが、そういう投資信託の数は1995年当時は55しかなかったものが、現在は260もあるという。そして、それらへの投資総額は約2.7兆ドルに上り、アメリカの金融市場全体の11%ほどを占めるらしい。このような“倫理的潮流”がつくられつつある要因の一つは、オバマ氏が大統領選挙のキャンペーン中から環境配慮型の製品や産業を称揚し、利益と倫理原則は両立しうることを強調してきたことだが、オバマ大統領の誕生により、社会的責任を重視する人々の活動はさらに盛り上がりを見せているらしい。
 
 生長の家でも“炭素ゼロ”運動の一環として肉食を減らしたり、マイ箸、マイバッグ、マイボトル、グリーン購入のような個人レベルでの活動に加え、太陽光発電装置の設置、会館や道場の建設に際しての設備のグリーン調達などを進めている。企業が社会的責任を果たすことで利益が出るためには、我々消費者の意識が高まることが必要だ。そういう動きが日本のみならず、消費超大国のアメリカでも生まれていることを知って、心強く思った。
 
Wedding  ところで、私は12日に生長の家講習会のために函館市へ行ったが、宿舎となったホテルで面白い光景に遭遇した。ホテルの正面玄関にいたとき、1台の真っ白なリムジンカーが目の前に横づけし、中から着飾った新朗新婦が現われたのだ。そのリムジンカーときたら、普通の高級乗用車2台分の長さだったから、さも大量のガソリンを消費するに違いない。こういう豪華な演出の結婚式をするのが今の若者の“潮流”かと、私は口をあんぐりと開けたのだ。が、中から出てきた2人の幸せそうな姿を見ると、つい赦してあげたい気持にもなった。ところで、上掲の『TIME』誌によると、かの国では「倫理的な結婚式」(ethical weddings)を実現するための活動も行われているという。近々結婚式と縁がある予定の読者は、ぜひ参考にしてほしい。
 
 谷口 雅宣

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2009年9月11日

フランスが炭素税導入へ

 フランスが炭素税の導入に向けて動き出した。サルコジ大統領が10日、2010年からの実施を正式に表明したからだ。『朝日新聞』が11日の夕刊で報じている。それによると、税率はCO2の排出量1トン当たり17ユーロ(約2,200円)で、ガソリンの場合、1リットル当たり約4ユーロセント(約5円)が課税される。当初はこの税率でいくが、段階的に引き上げる方針も示したという。12月に開催される国連の気候変動枠組み条約の第15回締約国会議(COP15)に向けて、主導権をとる意味もあるようだ。
 
 私がこれに注目するのは、フランスは主要先進国としては初めて炭素税の実施に踏み切るからだ。ただし、同国には特殊事情もある。それは、同国が電力の大半を原子力発電に頼っていて、火力発電の割合が少ないということだ。だから、今回の炭素税も電力には適用されないという。しかし、このことは、CO2の排出が少ない原子力発電を大幅に採用している国でもなお、CO2削減をしなければならないという認識がヨーロッパにはあることを示している。また、そうすることが、政治的にも重要な意味をもっているということだ。
 
 炭素税では、北欧の国々が先を行っている。11日付の『ヘラルド朝日』紙によると、炭素税に先鞭をつけたのはスウェーデンで、1991年に導入した。この時はCO2の排出量1トン当たり28ユーロという比率での課税だったが、現在をそれを(例外はあるが)128ユーロにまで上げて実施している。それならば、日本経団連が言うように経済が停滞しているかというと必ずしもそうでなく、導入以来の経済成長率は「44%」だから、年率にすると「2.4%」だ。デンマークはスウェーデンの翌年に炭素税を導入し、その後、フィンランド、ノルウェー、スイス、そしてカナダの一部が導入した。専門家の中には、今後ヨーロッパでは、フランスに続いて炭素税の導入が進むと予測する人がいる。その理由は、最近の経済不況によって、先進各国は企業からの税収が激減したうえ、経済対策で大量の資金を投入して、新税の必要に迫られているからだという。

 サルコジ大統領の炭素税導入の発表は、しかし、フランス国民からは歓迎されていない。8日に『パリ・マッチ』紙に発表された世論調査では、対象者の65%が炭素税に反対しており、55%がその効果を疑っていて、84%が「税負担が重くなる」と感じているという。導入に賛成している環境保護団体も、新税導入から実際のCO2排出量の減少には時間がかかることを認めているという。なぜなら、温暖化ガスを出さないために、一般の国民は省エネ製品に切り替えたり、設備の変更をしたり、車を買い替えたりすることになるが、これにはどれも時間がかかるからだ。しかし、いったんこの動きが始まれば、産業構造にも変化が起らざるを得ないから、簡単には止められないだろう。
 
 日本では民主党への政権交代により、「環境税」の実施に現実味が出てきている。同党の政権公約には、ガソリン税と軽油引取税を一本化する「地球温暖化対策税(仮称)」が掲げられている。また、来年度には自動車関係税の暫定税率の廃止により、新たな財源確保が必要となる。この機会に、新政府が「炭素税」の考え方に近い環境税を導入することは合理的であり、私はぜひ実施してもらいたいと思う。ただし、国民の税負担が多くなることはほぼ確実だろうから、「それでも、地球温暖化を全力で抑制しなければならない」ということを国民が納得するように、「今後の日本経済は“脱化石燃料”の方向に進むことで発展する」というメッセージを明確に打ち出してほしいのである。

 谷口 雅宣

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2009年9月 7日

「温暖化ガス25%減」を貫こう

 民主党の鳩山由紀夫代表が、日本の温室効果ガス排出を「1990年比で25%減」らすとの2020年までの中期目標を宣言した。この数字は、民主党の選挙公約にあったものと変わらないが、これを掲げる前提として「すべての主要国の参加による意欲的な目標の合意」を条件とした点で、より現実的となっている。分かりやすく言い直せば、「今後の交渉で、アメリカを初め、中国やインドなどの温暖化ガス主要排出国が、自ら意欲的な削減目標を設定した場合、日本もこのような規模で温暖化抑制に貢献する」という態度を明確にしたのだ。総選挙後、次期首相となる鳩山氏がこう宣言したことで、麻生首相が6月に表明した「2005年比15%減」(1990年比8%減)の政府目標は事実上、変更されたことになる。都内で行われた「朝日地球環境フォーラム2009」(朝日新聞社主催)での講演で発表したもの。

 私は、同代表が選挙公約通りに、野心的な温室効果ガス削減目標を明確化したことを大いに歓迎する。また、「政治の意思として、あらゆる政策を総動員して実現をめざす」との決意表明も清々しい。ただし、これはまだ“大きなアドバルーン”の段階であるから、それを現実の政策に反映させることは簡単でなく、経済界からの反対があり、時間もかかるに違いない。が、日本の首相(候補)としては近年に珍しい明確な態度表明であり、方向性も間違っていないから、国民として今後、このアドバルーンが落ちてしまわないように、温暖化ガス排出削減に引き続き努力していきたい。

 今回の総選挙のみならず、選挙公約というものは一般に“人気取り”を目的として実質を伴わないものが多い。だから、選挙後に政治・経済の現実に直面し、知らぬ間に“看板を下ろす”ことになったり、下ろさなくても“羊頭狗肉”の政策を実行したりするケースは少なくない。しかし、「地球温暖化抑制」の目標は、国民のためにも、国のためにも、国際平和のためにも、そして地球生命全体のためにも必要不可欠のものである。これが「家計」や「年間所得」や「景気」や「業界」のために、一時的にはマイナスの効果をもたらすことがあっても、国政の中心にある人は看板を掲げ続け、その示す方向に制度を改革し、人材や資源の再分配を行い、国民精神を鼓舞しながら進み続ける必要がある。鳩山氏がそのことを指して「あらゆる政策を総動員」すると言ったのならば、拍手を送りたいのである。また、この大きな目的達成のためには、人気取り政策の一部を(例えば、高速道路無料化政策を)下ろす勇気も必要である。

 『朝日新聞』は9月6日の第1面で、民主党の高速道路無料化の公約の元となったと思われる経済効果の試算が、国土交通省で2年前に行われていたことを報じている。その試算によると、経済効果は高速道路の渋滞増加などで年間「-2.1兆円」になるものの、一般道の渋滞緩和で「+4.8兆円」が見込まれ、差し引きで「2.7兆円」の経済効果が新たに生まれるという。しかし、CO2の排出量がどう変化するかは部分的試算しかしておらず、一般道の渋滞緩和により「1.8%(310万トン)減」という数字があるだけだ。しかし、政府が実際に行った休日の高速料金の「上限千円化」の経験から分かるように、高速道路上の渋滞によってもCO2の排出量が増えることは明白である。こういう細かい点も加えた本格的な試算を行うことにより、高速無料化によってCO2排出量の増加が予想されるならば(私はきっと増加すると思うが)、この時代遅れの人気取り政策をとり下げてほしいのである。国民もきっと納得してくれるに違いない。
 
 谷口 雅宣
 

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2009年9月 4日

アメリカは意外と冷静

 前回も触れたように、次期首相の鳩山由紀夫氏の署名入り“寄稿文”が注目されているが、これに対する冷静な見方もアメリカにはある。4日付の『インターナショナル・ヘラルド・トリビューン』(IHT)は、鳩山-オバマ電話会談を取り上げ、鳩山氏が「我々は日米同盟が日本の外交政策の基盤(foundation)であることを再確認した」と述べたと伝えた。この記事には、縦15cm、横22.5cmの大きな写真がついていて、そこでは鳩山氏がアメリカのジョン・ルース駐日大使と立った姿勢で語り合っている。2人の間にはアメフト選手が被るヘルメットがあって、その説明には「2人が持つのは両者がともに学んだスタンフォード大学のフットボール用のもの」とある。この会談は鳩山-オバマ電話会談の数時間後に行われたらしく、ここでも鳩山氏は「日米同盟は日本の外交政策の基本(basis)」だと伝えたという。

 また、アメリカの時事週刊誌『Newsweek』は、ウェブサイト限定の記事を2日付で掲載し、それに「恐怖は無用。日米摩擦の可能性は興奮しすぎ」という題をつけて問題の沈静化を図っている。この記事では、「鳩山氏は過激派などでは全くない」とし、騒動のもととなった論文は「もっと長い日本語の論文から大意を無視して引用したもの」だと述べ、論文の目的は「グローバリゼーションの闇部に目を向けさせるためで、その全体を否定することではない」ときちんと解説している。そして、日本語の原文には「今日我々は経済のグローバル化を避けることはできない」と書いてある、と付け加えている。
 
 さらにこの記事は、鳩山氏は決して「反米」ではないとし、同氏が若い頃、学者を目指しながら政治に魅力を感じたのは、スタンフォード大学の学生だった1976年の独立記念日(つまり、独立200年祭)に、アメリカの愛国心の高揚に触れてからだと説明している。また、鳩山氏は1998年に、ある会合で自分は「アメリカの大ファンだ」と言ったとも書いている。そして最近でも、同氏はオバマ氏に早期から注目し、自分の今回の選挙でもオバマ流の「チェンジ!」を強調し、選挙で大勝直後には、オバマ大統領に従って地球規模の「対話と協力」を進めたいと述べた、などと随分詳しく解説している。
 
 また、鳩山氏が「反米」ではなくても、「より対等な」対米関係を目指している点についても、同誌は表現が抽象的で不明確であることから誤解が生じているとする。私もこの件は、『Voice』9月号の鳩山論文をきちんと読めば、同氏のスタンスは明確だと思う。そこには、こう書いてある--
 
「もちろん、日米安保体制は、今後も日本外交の基軸でありつづけるし、それは紛れもなく重要な日本外交の柱である。同時にわれわれは、アジアに位置する国家としてのアイデンティティを忘れてはならないだろう。経済成長の活力に溢れ、ますます緊密に結びつきつつある東アジア地域を、わが国が生きていく基本的な生活空間と捉えて、この地域に安定した経済協力と安全保障の枠組みを創る努力を続けなくてはならない」(p.139)

 『Newsweek』の記事では、これに関して民主党政権の外相候補とされている岡田克也氏の言葉を引用し、この「対等」の意味を次のように解説する--

「通商・経済面での交渉では、日米間では長らく対等の関係が続いていて、双方が率直な意見表明を行ってきた。しかし、安全保障の面では、そうでない」。だから、民主党は日米同盟を重視する点は変わらないが、それと同時に、日本がアメリカの“膝の上の犬”(lapdog)であり続けることを欲しないのだ。

 この“膝の上の犬”が何を意味するかというと、それはイラク戦争の盲目的追認であり、米海兵隊8千人のグァムへの移転に、日本の納税者が60億ドル(5,700億円)を支払う合意などを指す、としている。そして、選挙公約は結局、国内向けだから、北朝鮮の核外交や中国の軍備増強などの厳しい国際関係の現実に直面すれば、民主党政権も“理想”を“現実”に合わせる方針転換を余儀なくされるだろう、と記事を締めくくっている。私も、そうなると思うのだ。
 
 谷口 雅宣

 

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2009年9月 3日

鳩山論文の不思議 (2)

 本欄の読者からの貴重な情報で、表題の問題の“不思議”がかなり解消した。鳩山由紀夫氏はご自分のウェブサイトをもっていて、そこに、『Voice』誌に載った日本語論文と、その英訳文(韓国語訳もある)が掲載されているからだ。この後者の英文と、問題になった『ニューヨークタイムズ』紙への“寄稿文”(ご本人は寄稿を否定)は、長さも内容も違う。私が推測するところ、恐らく作者も違うだろう。鳩山氏のサイトにある英文は、日本語原文を省略せずに英語に翻訳してあるが、問題の“寄稿文”は短縮したものの翻訳である。だから、この英文“寄稿文”に対して鳩山氏が「寄稿した事実はない。中身が一部ゆがめられている」と言ったのであろう。さらに注目されるのは、鳩山氏のサイト上の論文には和文にも英訳文にも「8月10日」という日付が入っている点だ。この日付はサイトへの「発表日」だと考えられるから、問題の“寄稿文”が『ニューヨークタイムズ』(電子版)に載る(日付は8月27日、IHTも同じ)までには2週間以上のへだたりがある。この間、鳩山氏のサイトの英文を切り貼りして短縮したダイジェスト版をつくることは、英語を解する人なら誰でもできる。
 
 今日(3日)の『朝日新聞』は、鳩山氏のこの英文が“寄稿”として掲載されるまでの事情を伝えていて、それを読むと今回の“不思議”の原因が、さらに理解される。その記事から抜粋しよう--
 
 鳩山氏の論文はもともと月刊誌「Voice」9月号へ寄稿、「私の政治哲学」の題で掲載された。
 鳩山事務所によると、それを英訳して鳩山氏個人のホームページに載せていたところ、米ロサンゼルス・タイムズ紙から問い合わせを受け、要約掲載を了承したという。ニューヨークタイムズ紙電子版は、ロサンゼルス・タイムズ紙の親会社系列のトリビューン・メディアサービスから配信を受けたが、鳩山氏を「寄稿者」として掲載した。
 鳩山氏は掲載から4日後の8月31日、記者団に対し「(日本の)雑誌に載ったものをその新聞社が抜粋して載せた。一部だけとらえて書かれている」と強調。内容についても「グローバリゼーションの負の部分だけを言うつもりはなかった。決して反米的な考え方を示したものではない」と、真意が伝えられていないと説明する。
 
 つまり、アメリカのメディアのスタッフが鳩山氏の英訳論文を編集して作った“ダイジェスト版”が、鳩山氏側の内容チェックを受けずに発表されたため、鳩山氏からは「中身の一部がゆがめられている」と判断されるような“寄稿文”となったということだ。まあ、こういう行き違いは、あの忙しい選挙の最中には充分ありえるだろう、と私は思う。となると、この事情は米国務省や、ホワイトハウスのアジア担当者にも伝わっているだろうから、オバマ氏には、問題の“寄稿文”ではなく、鳩山氏のサイトに載っている正式の英訳文が渡っているはずだ。が、この論文にもオバマ政権上層部の気になるような表現は、いくつも出てくる。だから、私は9月1日の本欄で、もし誤解があるようならば、「傷口をひろげぬよう、手を打つべきである」と書いたのだった。
 
 ところが、この“関係修復”の努力は、鳩山氏の側から行われたのではなく、意外にもオバマ大統領側から行われたようである。今日の新聞各紙は、3日の未明に、鳩山氏と大統領との電話会談が行われたことを報じている。その会談は、アメリカ側から申し入れられた、と『朝日』は書く。それによると、会談の長さは12分間で、先の総選挙で鳩山氏率いる民主党の勝利を大統領が「おめでとう」と祝ったのに対し、鳩山氏は「勝利は大統領の(当選)のお陰だ。チェンジには勇気がいるが、日本国民に(政権交代の)勇気を与えたのは米国民であり大統領だ」と答えたそうだ。また、鳩山氏は「日米同盟が基軸だ。建設的な未来志向の日米関係を発展させよう」と呼びかけ、「大統領は気候変動、核廃絶・不拡散にリーダーシップを発揮されている。私たちも同じ気持ちの政党だ」などと表明。そして、大統領に「できるだけ早くお目にかかりたい」と早期の日米首脳会談を希望したという。私はこのことを知って、今回の鳩山論文の問題は、前に触れた“宮沢発言”のときより相当早く、日米双方から修復への動きが出ていると感じる。このことは、鳩山氏がまだ正式には日本の首相ではなく、外務省を使えない立場にあることを考えれば、「なかなか悪くない」と思うのである。

 が、こうなってくると、1日の本欄で触れた『産経』の岡本行夫氏の記事が浮き上がってくる。外交評論家として活躍する岡本氏は、次期首相の鳩山氏が自分のウェブサイトに『Voice』誌9月号の論文を日英両語で掲載していることを、知らなかったのだろうか? 私は知らなかった。だから、岡本氏も知らなかったという可能性はある。が、私は外交の専門家ではないが、岡本氏は専門家で、特に外務省の元北米一課長として日米関係のことは知悉している。総選挙で民主党が大勝すれば、“鳩山首相”が日米関係の一翼を担うことになるから、鳩山氏の言動を選挙前から注目していて当然である。だから、『Voice』誌の鳩山論文も読み、そのちゃんとした英訳文もあることを知っていても当然である。にもかかわらず、『産経』に載った岡本氏の論文には、「ニューヨーク・タイムズ紙(電子版)が掲載した鳩山さんの論文」のことしか書いてないのである。この“鳩山論文”がオリジナルの日本語論文の抄訳であることも書いてないし、日本語の原文があることも書いてない。そして、英語による抄訳文をわざわざ日本語に翻訳して、それに対して批判しているのである。これはフェアーでない、と私は思う。日本の政治家が日本語で書いた論文を日本人の評論家が批判するなら、英語に訳されたものを元にして批判するのではなく、日本語の原文を引用して批判すべきである。
 
 『産経』も『産経』である。1日付の紙面で、上記の岡本氏の論文を掲載した第2面のすぐ下に、「鳩山論文の要旨」という題の記事を掲げ、「ニューヨーク・タイムズ(電子版)に掲載された鳩山論文の要旨は次の通り」と書いている。つまり、鳩山氏が預かり知らない英語による抄訳の要約を、さも鳩山氏自身の論旨であるかのように書いている。私は、岡本氏が個人として鳩山氏のウェブサイトの中身を知らなかったということはあると思うが、政治部記者を大勢抱えた『産経新聞』が組織として、次期首相と目されている民主党の党首がウェブサイトをもっていることを知らなかったという可能性はないと考える。また、そこに、問題とする論文の忠実な英訳があることを知らなかったとも考えにくい。では、正式な英訳文もあり、日本語原文もある次期首相の重要な論文の別の抄訳を、自紙で論評しようという外交評論家に対して、「実は、もっと正式な翻訳文があって、そこにはこう書かれています」とアドバイスをしなかったのだろうか? もししなかったのなら、その理由は何か? 今回の鳩山論文に感じる私の“不思議”は、こうして別の方向に向かっていくのである。

 谷口 雅宣

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2009年9月 2日

ブラジルを巡講して

 本欄ではすでに何回か報告したことだが、私がこの8月にブラジルを巡講した際の様子を、短いビデオにまとめた。2分ほどの短編で、サンパウロでの国際教修会(8月1~2日)、ベレンでの一般講演会(8月4日)、サンパウロでの生長の家全国大会(8月8日)の様子に加え、いくつかの未公開の映像も組み入れてある。興味のある方は、ご覧あれ。
 
 谷口 雅宣

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2009年9月 1日

鳩山論文の不思議

 民主党の鳩山由紀夫代表がアメリカの『ニューヨークタイムズ』紙に“寄稿”したという論文が、物議を醸している。私はこの論文を、同紙の世界版である『インターナショナル・ヘラルド・トリビューン』紙(IHT)の8月27日付の紙面で読んだが、「投票日前のこの時期によくぞ出した」と感じた。次の政権を担う責任者としての自覚があると感じたのだが、内容は結構シビアなので驚いた。新聞の発行地であるアメリカ向けのメッセージではないからである。ハッキリ言って“内向き”である。ところが、9月1日の『産経新聞』によると、鳩山氏は「寄稿した事実はない。中身が一部ゆがめられている。論文の全体をみれば反米的な考えを示したものではないと分かる」と記者団に語ったそうだ。しかし、寄稿しないものが掲載されるというのは、明らかな著作権法違反であり、そんなことがアメリカの一流新聞で行われるとは考えにくい。奇妙な話だ。
 
 この論文は「A new path for Japan」(日本の新たな道)と題され、前回の本欄で触れた『Voice』誌(PHP研究所発行)の本年9月号の同氏の論文「私の政治哲学--祖父・一郎に学んだ“友愛”という戦いの旗印」のダイジェスト版として掲載された。元の日本語の論文は10ページにわたるものだが、英文のダイジェスト版はその三分の一ぐらいの長さだ。だから当然、原文の省略が行われており、しかも英語への翻訳だから、単純な「転載」などではない。
 
『産経』の記事は、このいきさつについて、「PHP研究所とIHTの間ではやり取りがあったようだが、IHTとニューヨーク・タイムズでどうなっているのかは知らない。IHTなどが論文を転載する際、事務所に事前許可を求めることはなかった」という鳩山氏の秘書の話を掲載している。しかし、上に書いたように、これは転載ではなく、「編集」と「英語への翻訳」という2つの段階を経た別の著作物である。その内容は当然、原著作者の鳩山氏が目を通すべきであると私は思うが、『産経』の説明では、鳩山氏は知らなかったらしい。となると、当初の私の印象は間違っていたことになる。つまり、鳩山氏は、投票日前に自らの外交姿勢を同盟国であるアメリカの知識層に伝えようと考えてこれを書いたのではなく、何かの手違いで、「内向きの話が、一部を翻訳されて外へ出た」ということか。

 こういう話を聞くと、私は宮沢喜一氏がかつて首相だった時、マネーゲームで利益を上げるアメリカの一部の人々を槍玉に上げて「アメリカの労働倫理は歪んでいる」などと発言したことをメディアがとらえ、外交問題にまで発展したことを思い出す。確かこれも、内向きの会合での発言だったと思う。とにかく、日本語は修飾語を省略して書かれたり発言されることが多いから、それを英語に直訳すると、とんでもない誤解を招くことがある。そのことを鳩山氏のような経歴をもつ人の周辺が知らなかったとは思えないが、なぜかノーチェックで英語の編集翻訳が出てしまったようだ。あるいは、チェックを担当する人が“外交音痴”だったのかもしれない。新政府の出だしでの失敗は、残念なことである。しかし、出てしまったものは仕方がないから、それが本意でないならば、本人が早期にハッキリと否定し、再び外交問題にならないように対処すべきである。宮沢発言の場合も、その対応が遅れたことで尾を引く結果となったからだ。

 ところで、上記の『産経』では、外交評論家の岡本行夫氏が問題の英文ダイジェスト版を取り上げ、一部を日本語に翻訳している。岡本氏が問題視している所は、次のように訳されている--

①「日本は冷戦後、グローバリゼーションと呼ばれるアメリカ主導の市場原理主義に翻弄され続け……人間の尊厳は失われた」
②「グローバル経済は日本の伝統的経済活動を損傷し、地域社会を破壊した」

 ところが、この2つの文章に該当するような箇所は、『Voice』誌の日本語の原文にはない。あえて近い意味の所を引用すれば--
 
①「冷戦後の今日までの日本社会の変貌を顧みると、グローバルエコノミーが国民経済を破壊し、市場至上主義が社会を破壊してきた過程といっても過言でないだろう」
②「各国の経済秩序(国民経済)は年月をかけて出来上がってきたもので、その国の伝統、慣習、国民生活の実態を反映したものだ。したがって世界各国の国民経済は、歴史、伝統、慣習、経済規模や発展段階など、あまりにも多様なものなのである。グローバリズムは、そうした経済外的諸価値や環境問題や資源制約などをいっさい無視して進行した。小国のなかには、国民経済が大きな打撃を被り、伝統的な産業が壊滅した国さえあった」。

 これらを比較すると、私は原論文の編集の過程で誇張が行われ、それが英文に翻訳されることで際立っていった可能性を指摘したい。が、最大の問題は、やはり鳩山氏本人が問題の英文抄訳を「知らない」という点だろう。もしこれが本当であれば、鳩山氏は早急に外交ブレーンの人選を考え直すべきかもしれない。急がなければ、影響はひろがっていく。今日の『日経』の夕刊によると、ベネズエラのチャベス大統領は、「鳩山氏は米国主導の市場原理主義から距離を置き、人間の尊厳回復を政策に掲げている」として、日本の対米政策の変化を注視する構えを示したという。同大統領は「反米」で有名であり、その人から認められるということは、アメリカからは疑われることを意味する。その証拠に、31日のホワイトハウスの記者会見では、アメリカ人記者がギブス報道官に対して、鳩山政権が「中国やロシアと、より近い関係を望んでいるのではないか?」と質問している。(『朝日』夕刊)

 傷口が広がらぬよう、早く手を打ってほしいものだ。
 
 谷口 雅宣

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2009年8月31日

民主党政権の誕生を歓迎する

 台風11号の列島接近と同期するかのように、民主党への“期待の嵐”が列島を覆った。事前予想でも“民主圧勝”と言われていたが、総選挙の蓋を開けてみたら、同党は衆院の他のほとんどの政党から議席をモギ取り、単独過半数である「241議席」を大きく上回る「308議席」を獲得して“堂々と”政界第一党の地位に躍り出た。これが永田町での隠れた政争の結果起ったのではなく、炎天下の白日、国民全体の明確な意思表明として行われたことに、私は今回の総選挙の第1の意義があると思う。日本は、議会での多数党の首班が総理大臣として国政を司る間接民主主義の国だが、今回の総選挙では、公明党の太田代表や国民新党の綿貫代表が落選するなど、それぞれの政党の党首や大臣経験者に対する国民の審判が明確であり、一種の“直接民主主義”の様相を呈する側面もあった。国民の中の“無党派層”が目覚め、動いたことで、やっと日本は民主主義の実感を味わえる国になったと言えよう。
 
 が、私は手放しで喜んでいるわけではない。今回の“民主圧勝”は、しばしば日本人の間違いの原因となってきた「ムードに流れる」性向や、「付和雷同」の傾向が背後にあることが否めないからである。それが証拠に、選挙前や選挙期間中に、真剣な政策論争はほとんど見られなかった。国民に人気のありそうな“お題目”を並べる一方で、対立政党に悪口を投げつける選挙運動は、従来とあまり変わらなかった。が、変った点は、永く続いた政官癒着や権力を握る政治家の醜態、経済政策の誤り、国民の貧富の格差の拡大、外交能力の欠如等……に対して、多くの国民が「もうガマンできない」として現政権への反対を決意したことだろう。これは言わば「ノー」の選択であるから、あるべき日本の未来像を肯定する「イエス」の選択ではない。この点が、次期政権を担う民主党が直面する大きな課題だろう。つまり、戦後の自民党政治が進めてきた政治・経済・外交の路線に対する明確な“代替案”を、ムードや理想としてではなく、具体的で実行可能な政策として提出し、党内の合意を経て、実施に移せるかどうかである。これができなければ、高まった国民の期待はすぐに逆方向に振れて、短命政権になり果てるだろう。

 いつか本欄でも書いたと思うが、私は日本に2大政党制が到来することを待ち望んでいる。そういう意味では、野に下る自民党は崩壊してしまわずに、イギリスの保守党やアメリカの共和党のように、「自由尊重」と「現実主義」の立場から政策を提言し続けてほしいし、民主党は、イギリスの労働党やアメリカの民主党のように、「平等」と「理想主義」の価値を政策に反映させてほしい。まあ、これは英米の例にあえてなぞらえて書いたのだが、日本には日本独自の価値観の組み合わせがあってもいいし、またそうあるべきだろう。とにかく、現状のように、民主党も自民党も内部に“右”から“左”までの考えが混在している状態では、「どっちが政権を取っても同じ」という印象はぬぐい切れず、これが国民の間の政治不信と政治への無関心の原因となっている。今回の大変化を好機として、両党はぜひ政策論争を深めて、政治的に健全で、国民にとって有意義な“対立軸”を固めていってほしいのである。

 だから、私が民主党政権の誕生を歓迎する第1の理由は、政権交替そのものへの支持だ。つまり、政治参加によって政権が交替しうるという事実を国民が体験したという意味で、今回の選挙結果を歓迎するのである。この事実は、2大政党制の前提である。第2の理由は、民主党の掲げる政策の方が、自民党のそれよりも環境への意識が高いからだ。ただしこの面は、実際の政策実行の段階でどのように変更されるか分からない。また、個別の政策では、高速道路の料金をすべて無料化するなど、環境行政に逆行するものも含まれているから、ポピュリズム(国民の人気取り)に流されないよう注意する必要がある。が、概して言えば、自民党は戦後の日本経済を築き上げてきた鉄鋼・重化学・エネルギーなどの“地下資源産業”との関係があまりに強いために、21世紀の人類と地球生命に必要な“地上資源産業”の育成に不熱心である。民主党は、支持基盤にそれら産業の労働組合を抱えてはいるが、新たな産業の育成と環境行政により熱心であるように思われる。そういう点も歓迎できるだろう。
 
 民主党支持の3番目の理由は、ナショナリズムに対する注意深さだ。これまでの自民党政治家の動向を見ていると、ナショナリズムを手放しで歓迎する人々が多すぎると思う。本にも書いたが、ナショナリズムには善悪両面があるのである。このことは、国際関係を学ぶ者にとっては初歩的な確認事項であるにもかかわらず、勉強不足なのか、それとも“大向こう受け”を狙っているのか、とにかく「愛国」を前面に出せば何かが解決するという風情の言論は短見である。もちろん、自民党政治家の全員がそういうタイプではない。が、そういう人々が目立つのである。これに対して、民主党にも“右派”はいるようだが、少なくとも現在の党首である鳩山由紀夫氏は、冷戦後の国際情勢の分析を通して、日本を含めた東アジアにナショナリズムが勃興する危険性をきちんと予測し、それへの対策を外交方針に組み入れる用意があるようだ。(詳しくは、『Voice』誌本年9月号参照)

 もちろん、「看板を書く」ことは比較的容易である。しかし、その看板に偽りない政策を実行することは、また別の問題である。私としては、今後の民主党政権の政治運営を注意深く見守りながら、必要と思うときには国民の1人として意見表明をしていくつもりである。
 
 谷口 雅宣

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2009年8月24日

幸福の方程式 (3)

 前回の本欄に掲げた思考実験の意味を、読者には理解してもらえただろうか? 「分厚い米国産のビーフ・ステーキ」を3つの社会的文脈の中に置いた場合の、人間の幸福とは何かを考え、感じてもらおうというのである。それを再掲すると--

 ① インド・ムンバイの外資系ホテルのレストランで、現地の人におごってもらった。
 ② 北朝鮮政府の招待により、平壌の政府施設でご馳走になった。
 ③ 日本の友人宅に行ったとき、友人の手料理として出された。

 ①の状況下で米国産ビーフ・ステーキが出てくることが実際にあるかどうかは、今は問わない。が、仮に出てきたとすれば、「インド」という国名と「外資系ホテル」というのがキーワードである。インドは、ご存じの通りヒンズー教の国であり、そこでの「牛」は神聖な動物である。それを食することは一種のタブーである。にもかかわらず、「外資系ホテル」(つまり、ヒンズー教徒でない人が多く宿泊し、その客の嗜好に合わせた食事が出る可能性がある場所)ならば、ステーキが出ることがあるかもしれない、と私は考えた。が、仮にそうであっても、ホテル従業員の多くはヒンズー教徒であることが予想される。そういう人々の前で、そういう人々の感情を無視して、我々は本当に「ああ、今日は予想もしていなかったステーキをいただける。ああ有り難い。うれしい!」などと考えながら、幸福感を味わえるだろうか?
 
 ②の場合は、もっと複雑である。北朝鮮政府が日本人を食事に招くなどということは、通常はない。もしあるとしたら、元アメリカ大統領、ビル・クリントン氏が最近、彼の地で金将軍から大歓迎を受けたように、かなり高度な政治的な“手駒”としての利用価値がある、と判断されたからだと考えねばならない。また、現在の状況下では、日本政府は北朝鮮に核開発を断念させる目的で、六カ国協議の枠組みを外さないように注意して交渉している最中である。そんな中で、北朝鮮とは国交がなく、“仮想敵国”とさえ見られているアメリカで生産された牛肉を、北朝鮮が日本人に提供すること自体が奇妙である。これはもしかしたら、北朝鮮側の「我々は日本人の知らないところで、すでにアメリカと直接交渉をして牛肉を入手している」というメッセージかもしれない。そういうものを目の前にして、「ああ、今日は予想もしていなかったステーキをいただける。ああ有り難い。うれしい!」などと手放しで喜び、幸福感を得る日本人がいたとしたならば、そういう人は帰国後、「オメデタイ」を通り越して「アホカ!」と言われるかもしれない。
 
 さて、最後に残った③の場合は、どうだろうか。この状況は、我々には充分ありえるものだから、読者も思考実験をしやすいに違いない。各人の自由な想像にもとづいて「自分だったらどう感じるか」を考えていただけばいいのである。で、私はどうするかと自問してみると、やはりここでも「ああ、今日は予想もしていなかったステーキをいただける。ああ有り難い。うれしい!」という幸福感に包まれることはできない。それよりも、この友人に対して自分が「肉を食べない」ということを知らせなかったことを後悔するだろう。その上で、友人の好意を無にしないために、あえて肉を食べるかどうかを判断しなければなるまい。この場合は、私とその友人との関係がどういう性質であるかによって選択が変わるだろう。いずれにしても苦渋の決断になるような気がする。それを幸福感に昇華させることができるかどうか、今の私には何とも言えない。状況があくまでも「仮想」であるからだ。

 が、理論的に言えば、「お気持は大変ありがたい」と感謝し、しかし「肉は食べません」と言ってその理由をきちんと説明する、という選択肢はあるだろう。また、その逆に、ステーキをいただいてから、「実は、こういう理由で普通肉食はしません」と説明する選択も、あるかもしれない。それを「H=T」の幸福と呼ぶことができるかどうかは、むずかしい。多分、(思考実験の中ではなく)実際の状況においてのみ判断ができると思う。

 結局、私がここで言いたいことは、人間の心に生まれる“幸福感”なるものは、社会的文脈なしには考えられないということである。言い換えれば、人間は、自分個人が客観的にどんなに“幸福な状態”にあるように見えても、その状態が、他人や他の生物の犠牲のもとに成り立っていると感じられる場合は、幸福感は得られないのではないか。これが、人間に与えられた「自他一体感」の意味だろう。そういう感性に優れている人が追求する幸福と、そうでない人のそれとは、相当異なることが予想できるのである。
 
 谷口 雅宣

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2009年8月23日

幸福の方程式 (2)

 私が「H=R-E」の方程式に引っかかった理由は、もう一つある。それは、6月10日付の『ヘラルド・トリビューン』紙に載った別の幸福論を読んでいたからである。それについては、6月14日の本欄ですでに触れているので詳述しないが、簡単に言うと「幸福とは、我々の環境条件にあるのではなく、そこから何を得るかにある」という主旨だ。元国際ジャーナリストのピコ・ライヤー氏(Pico Lyer)が書いていたもので、「幸福は、それを追求しないときに最も自然に現れ」、「自分の望みを必要に合わせることでやってくる」(Happiness comes from matching your wants to your needs.)という内容だった。前回紹介したエリック・ワイナー氏の幸福論と似てはいるが、同一ではない。
 
 ワイナー氏の「H=R-E」という考え方は、「期待すると失望するから、期待しないでいよう」というのだから、物事に対して一種“憶病”であり、消極的だ。目の前で起こる出来事から身を離して、「できるだけ関わりにならなければ、ケガも少ない」と、電車の中の酔っ払いに対するような、「触らぬ神に祟りなし」の態度である。が、ライヤー氏の得た幸福は、物理的、環境的には“不足”の状態に置かれていても、「そこから得られるもの、否、そこからしか得られないものの中にもある」というのだから、環境に対して人間が働きかける積極性、能動性が感じられる。私は、しかしもう一歩突っ込んだ幸福論を提案したかった。

 そのためには、「幸福はどこから来るか?」という根源的問題に答えねばならない。この問いに対しては、ワイナー氏もライヤー氏も同じ答えのように思われる。それは「個人の心」から来るという答えだ。ワイナー氏は「期待しない」という個人の心が、その“反動”として「期待以上の」幸福を生み出すと考える。一方、ライヤー氏は、必要以上に「望まない」「求めない」ことで、目の前の物事の中に幸福を見出す。だから、これらは「個人の心」の中で完結した幸福論と言える。が、これでは、個人と個人をつなぐ「社会」や、社会と社会の間の「国際」問題について、何も語れないのではないか。

 例えば、我々日本人が、世界的には“豊かな生活”といえる中で、米国産のビーフステーキを目の前にして、「H=R-E」の方程式を援用すれば、こんな幸福感(私の幸福感ではないが)を得るのだろうか--
 
「ああ、今日は予想もしていなかったステーキをいただける。ああ有り難い。うれしい!」

 これに対して、ライヤー氏の幸福論では、こんな反応になるのだろうか--
 
「おっ、今日は望んでもいなかったステーキをいただける。国産牛よりは身は固いというが、その代り、悪玉コレステロールは少ないに違いない。それに、こんな値段で分厚い肉が食べられるなんて、実に有り難いことだ!」

 しかし、これら2つの幸福感には、人間として何かが欠けているように私は思う。それは“他者”との関わりである。この場合の“他者”とは、必ずしも「他の人間」だけではなく、「他の生物」とそれを含む「自然」や「環境」も含まれる。人間の中の幸福感は、それを感じる個人の内部で完結するものではなく、その人を含む“他者”との関係において得られるものであるはずだ。それを知るためには、次の思考実験をしてみるといい。つまり、自分が上の架空的人物になり代り、次のような状況下で、部厚いステーキを目の前にしていると想像してほしい--
 
 ① インド・ムンバイの外資系ホテルのレストランで、現地の人におごってもらった。
 ② 北朝鮮政府の招待により、平壌の政府施設でご馳走になった。
 ③ 日本の友人宅に行ったとき、友人の手料理として出された。

 この思考実験をすれば、①~③にある“他者との関係”に応じて、心の中に起こる反応は皆、違ってくると思うのだが……。読者はどうお考えか?
 
 谷口 雅宣

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2009年8月22日

幸福の方程式

 本欄にこんな題をつけると、今回の総選挙に急遽、大量の候補者を出して臨んでいる特定の宗教政党のことを思い出す人がいるかもしれない。が、「幸福」とは基本的に心の中の問題だから、私は政治で簡単に幸福が実現できるとは思っていない。私がこれから書こうとしているのは、8月にブラジルで開催された生長の家ブラジル全国大会での私の講話についてである。ここで私は、実は“幸福の方程式”なるものを提案した。それは、こういうものである:
 
 F = V (Felicidade igual Verdadeira Imagem)
 
 これは、ポルトガル語による表記だから、英語を使えばこうなる:

 H = R (Happiness equals Reality.)
 
 この場合の「Reality」とは「現実」ではなく、生長の家で説く「実相」のことだ。英語圏では、この言葉を「True Image」とも訳しているので、上の方程式は、
 
 H = T (Happiness equals True Image.)
 
 と書き直すこともできる。
 
 この方程式は、「実相が幸福である」とか「幸福は実相から来る」とか「幸福は実相の反映である」という意味である。だから、日本語で方程式を書くとすれば、さしずめ
 
 幸福 = 実相
 
 となる。
 
 私がなぜ、海外での講演で、こんな見慣れない方程式を持ち出したかというと、海外読者の多いニューヨークタイムズ紙の国際版『インターナショナル・ヘラルド・トリビューン』に、これとは違う“方程式”が提案されていたからだ。否、もっと正確に言うと、「方程式」自体ではなく、方程式に表せるような単純化された幸福の定義が掲げられていたからだ。私はそれに異議を唱えるとともに、「生長の家が幸福について何か語るとしたらどうなるか」をブラジルの信徒の方々にお伝えしておきたかった。
 
 私が異議を唱えた記事は、今年7月22日付の上掲紙にあるエリック・ワイナー氏(Eric Weiner)による「Happiness is low expectations」(幸福は期待を下げること)という論説記事である。この題を見ればわかるように、ワイナー氏のポイントは明確で、「現実を見るのに、期待をもたずにすれば幸福が来る」ということだ。ワイナー氏がこの結論に達した理由として挙げているのは、数々の国際調査の結果、デンマーク人が世界で一番幸福だと考えられることだ。もっと詳しく言うと、各国の対象者に幸福であるか否かについて聴き取り調査を行うと、デンマーク人の3分の2が、「人生にとても満足している」と答えるのだそうだ。それも、最近の傾向ではなく、ここ30年間というもの、ずっとこの傾向が続いているという。その原因についてワイナー氏は、「デンマーク人は物事にあまり期待しない性格だから」と分析している。つまり、「期待せずに現実を生きれば、幸福感を味わえる」ということだ。この考え方は、次のような方程式で表現できるだろう:

 H = R - E
 (Happiness equals reality minus expectation)
 
 私はこの記事を読んで、「?」と思ったのである。これは「幸福」の定義というには単純すぎないか。また、「幸福」の定義というよりは、「諦め」とか「無頓着」(indifference)の定義ではないか、とも思った。
 
 谷口 雅宣

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2009年8月20日

神は偉大でないか? (5)

 『God is Not Great』の第5章は、“病気治し”をめぐる宗教の問題である。ここには、生長の家の信仰者にも無縁でないことが書かれていて、興味深い。簡単に言えば、「信仰で治すか、医学で治すか?」の問題だ。特に、病気の原因が医学的にハッキリしている場合、宗教がそれを否定すると、信仰者に悲惨な結果を招く可能性が大きくなる。だから、宗教(あるいは信仰)は有害である、というのが著者、ヒッチェンズ氏の主張である。

 具体的な事例を読むと、世の中にはずいぶん極端な主張をする宗教もあるものだと驚く。もちろん、生長の家では医学を否定しない。が、医学だけでは健康は回復しない、と考える。投薬や手術が健康をもたらすのではなく、人間の内部にある自然治癒力が発揮される必要があり、そのためには「心」の要素が非常に大きい。このことは医学でも認めているから、我々の信仰では「医者を取るか信仰を取るか?」という二者択一の問題は発生しないことが多い。ただし、一度「医者」を選択すると、最近では検査、検査、投薬、投薬……という事態になりかねない状況でもあるから、「できることなら、信仰だけで治したい」という患者の気持も充分理解できるのである。
 
 さて、ヒッチェンズ氏が示す事例をいくつか掲げよう。

 インド北東部のベンガル地方で、著者の友人のカメラマンがユニセフの仕事の一環として子供たちのために小児麻痺のワクチン接種を進めていた時のことだ。どこからともなく妙な噂がひろがってきたという。それは、この薬は西洋の諸国の謀略であって、ワクチンを飲めば生殖機能が不能となり、下痢が続くというのである。その噂の出どころが、イスラーム主義者なのだった。小児麻痺のワクチンは同一人に2回接種しなければならないが、この噂のおかげで、心配した多くの親たちが接種をためらうこととなり、その地方からこの病気を排除することができなくなるのだった。この例は「信仰で治せ」というものではないが、「西洋医学を疑う」という点で、その効果は似ている。
 
 ナイジェリアでは、もっとヒドイことがあった。同じ小児麻痺予防のワクチンの接種について、イスラーム法学者の一団がそれを「イスラームに対するアメリカと国連の陰謀である」というファトワ(イスラーム法にもとづく見解)を出したのだ。ワクチンは、真の信仰者の胤を絶やすためのものだというのである。この法的見解のおかげで、小児麻痺が一時消えていた同国に、数カ月後にはこれが復活した。そればかりでなく、旅行者やメッカへの巡礼者が感染したまま外国へ行ったため、この病気がすでに撲滅されていた他の国--アフリカ3国と遠くイェメンまで--へと小児麻痺は広がったのだ。
 
 これと似たことが、コンドームとエイズとの関係で世界各地で起こったという。それをいちいち書くことは控えるが、問題のポイントだけを言えば、エイズウイルスの感染防止のためにコンドームは有効だという医学的見解に、医学不信と避妊禁制を盾に取って、イスラーム法学者のみでなく、カトリック教会までが声をそろえて反対したのである。その反対理由はばかげている--「すべてのコンドームには、密かに目に見えない細かい穴が開けてあるから」というのである。つまり、コンドームはエイズを感染させるために作られた、と信じているようなのである。しかし、コンドームは避妊具の1つであるから、穴が開いていれば欠陥商品であり、場合によっては訴訟の原因にもなる。だから、「すべてのコンドーム」に穴が開いているはずはない。
 
 アフリカなどでのエイズの蔓延は、こうした宗教的見解の愚かさにも原因がある。
だから、ヒッチェンズ氏は「宗教は、公衆衛生に対する緊急な脅威であり続けている」と手厳しい。また、この章では、ユダヤ教の「割礼」の習慣についての批判もあるが、その詳細は本欄で取り上げるのに相応しくないと考えるので、割愛する。

 谷口 雅宣

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2009年8月18日

神は偉大でないか? (3)

 クリストファー・ヒッチェンズ氏は『God is Not Great』の第2章に、「Religion Kills」という題をつけている。その意味は、もちろん「宗教は殺す」という厳しい批判だ。が、そこに挙げられている数々の実例は、ほとんどが政治がらみの話である。前回の本欄で、私は16世紀ヨーロッパのカトリック教会のことに簡単に触れたが、その当時の社会は“祭政一致”が普通だった。が、これによって政治目標が宗教的熱意(熱狂)によって追求されたり(例えば十字軍)、科学的研究が弾圧される(例えばガリレオ裁判)という大きな弊害が生じたために、近代国家は政教分離を統治原則の重要な柱の1つに据えることになった。だから、それ以前に起こった宗教がらみの政治的対立を、21世紀の現代社会に持ち出して宗教を批判することは不公平であり、不合理である。この点を1つ押さえておきたい。だから、政教分離が適用されないイスラーム社会においては、この問題は現代においても存在する。その場合、そういう政治的対立の責任を「宗教」のみに嫁すことは、やはり不合理と言わねばならないだろう。人間の欲望や野心--つまり、政治的利害が、宗教と同じ程度に関与しているに違いないからだ。

 さて、こうは言ったものの、ヒッチェンズ氏がここで宗教批判の材料として挙げている例の多くは、現代社会での事例である。ボスニア紛争において“民族浄化”政策を冷酷に実行したラドヴァン・カラジッチ(Radovan Karadzic)やラトコ・ムラディッチ(Ratko Mladic)両氏を、ギリシャ正教の大主教が熱心に応援したこと。アイルランドの独立問題で同じキリスト教の“カトリック”と“プロテスタント”が武装組織を結成して殺し合いを演じたこと。レバノンにおける“宗教対立”、パレスチナ問題、インドのボンベイでのヒンズー民族主義の横暴、イラン=イラク戦争、サダム・フセイン統治下のイラクにおける“宗教弾圧”……。これらの中で、宗教的権威が「暴力反対」の意思を全く表明しなかったわけではないが、特に紛争の帰趨に影響力をもつメジャーな宗教(例えば、ローマ教皇庁)の一般的態度は「躊躇」であった。このことに加え、そういう暴力行為に率先して参加した宗教信者が多数あることに、ヒッチェンズ氏は「嫌悪感を覚える」というのである。

 これらの例は、宗教が政治と結びつくことで起こる悪い影響を示している、と私は考える。宗教は、人の信念や感情を動かす力をもっているから、政治の側からは利用したい重要な“資源”の1つである。一方、宗教の側からも、宗教的信条にもとづいた社会改革を実現したい場合、政治は手っ取り早い手段の1つである。政治と宗教は、こうして一種の同盟関係を結び、いわゆる“宗教政党”が結成される。だから、政教分離がされたはずの欧米諸国の中にも、「キリスト教民主同盟」とか「キリスト教右派」などという呼称がいまだに存在するし、日本の政治にも公明党のような政党が大きな影響力をもっている。ここで重要になるのは、政治的対立が深刻化したときに、宗教勢力がそれを沈静化する役割をはたすのか、それとも先鋭化する側に回るのか、の違いである。前者が好ましいことは言うまでもないが、宗教がすでに政治に深く関与している場合、その宗教が前者を選ぶことは大変むずかしい。それよりも、後者を選ぶ方が自分の利益になると考えがちである。つまり、“神の目線”で--すべての存在の福祉実現を目的として--物事を考えることができにくくなり、“宗教の目線”--1宗教団体の利害優先--でしか考えられなくなる。この点で、政教一致は危険な形態と言わねばならない。
 
 ヒッチェンズ氏は、政党政治に関与しなくても宗教が危険である実例として、サルマン・ルシュディー氏(Salman Rushidie)の著作『悪魔の詩』(The Satanic Verses)をめぐる暗殺事件を挙げている。私は、こういう問題になってくると、宗教の教義とその解釈が大変重要な位置を占めてくると思う。ある宗教が神仏に対抗する力をもった「悪」や「魔」の存在を説いている場合、信仰者は周囲の状況によっては、善悪が対立した世紀末的な世界観をもつようになり、激しい暴力に訴えることがある。この件について、私は『心でつくる世界』に実例を出して詳しく書いたから、ここでは説明を省略する。日本ではオウム真理教の事件を思い出していただければ、理解してもらえる読者はいるだろう。ヒッチェンズ氏はしかし、こういう“一部”の過激派宗教の暴力行為だけでなく、その行為に対して他のメジャーな宗教が非難することをせず、または逆に、この宗教的言論弾圧の「被害者」に対して、宗教を冒涜したと非難したことに怒りを表明している。殺人者を非難しない者は、共犯か、少なくとも幇助犯だという論理だろう。

 谷口 雅宣

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2009年8月17日

神は偉大でないか? (2)

 『God is Not Great』の第1章で、著者のヒッチェンズ氏は「宗教に対する最も穏やかだが決定的な批判」として突きつけている言葉がある。それはこれだ--「宗教は人間がつくった」。これを聞いて読者は驚くだろうか? 私はまったく驚かない。当然のことと思うからだ。生長の家でも谷口雅春先生を「創始者」と呼んでいて、我々の運動を谷口雅春先生と輝子先生が始めたことは自明である。が、ヒッチェンズ氏が言う意味は、それとは少し違うようだ。彼が言いたいのは、「人間のつくったものは不完全」ということだ。つまり、宗教の教えも「不完全」であり、「間違い」の可能性があることを認めるべきだというのである。私はこれを一般論として、受け入れる。では、すべての宗教の開祖の教えには間違いがあるということか? 
 
 ヒッチェンズ氏が「宗教は人間がつくった」と言うときの「つくった人」とは、どうも「開祖」の意味ではないのだ。というのは、彼は宗教の“間違い”についてこう述べているからだ--「宗教をつくったその人々も、彼らの預言者や救い主やグルが何を言ったか、何を行ったかについて合意できない。ましてや、宗教が始まったのちに新しい発見や発展があり、その動きが(当の宗教に)抑圧されたり、糾弾されたことの“意味”について述べることなど、期待できない」。著者は結局、こう言いたいのだろう。キリスト教もイスラームも仏教も、“開祖”であるイエスやムハンマド、ブッダが本当に何を言ったのかについて、それぞれの内部において合意ができていないし、それらの宗教がそれぞれ後に分裂して、異なる宗派に分かれていったことの意味について、当事者から満足な説明は期待できない--そういうことだろう。この意見も、私にはよく理解できる。
 
 そこで著者は、声を荒げてこう非難する--「にもかかわらず、宗教の信仰者は“知っている”というのだ。単に“知っている”のではなく、“すべてを知っている”というのだ。神が存在することを知っているだけでなく、また、その神が世界を創造し、監督していることを知っているだけでなく、神が我々に何を要求するか--食べ物の種類から戒律まで、さらに性生活の規則まで--も知っているというのだ」。(p.10)著者が苛立っているのは、宗教のこの“すべてを知っている”とする傲慢な態度で、これでは現段階の知識以上の真実の追究はできない。さらに宗教には妙なプライドまであるから、宗教を信じない人にとっては、科学的知見や理性をもって世界の真実について議論する相手にはなりえない、というのである。
 
 読者はもうお気づきと思うが、ヒッチェンズ氏はここで「神」を批判しているのではなく、「宗教」を批判しているのである。「神は偉大でない」というのが著書のタイトルであるが、著者は「宗教は偉大でない」と言っているのだ。少なくともこの章(第1章)においては、そうである。ここに、この本の大きな問題が1つあるような気がする。著者は「神」とは何であるかを、今のところ定義していない。それでいて「神」を批判するのはおかしい。もしかしたら、無神論者である著者には「神」が定義できないから、「神」を最高の権威として考え、行動する人間の集団(宗教)を批判する以外にないのかもしれない。が、我々のような神を信仰する者にとっては、この両者の違いは明白である。
 
 ヨーロッパ16世紀の宗教改革者、マルティン・ルターが、当時の聖俗一致のカトリック教会の肥大化した権力に対抗して、ローマ教皇の至上権を否定し、公会議も誤りを犯す可能性があるとして、“神の言葉”としての聖書と信仰者の良心のみによって人は救われると宣言したとき、ルターは、神を批判したのではなく、宗教を批判したのである。その批判したルター本人が、神を信仰していたことは疑う余地がない。だから、ヒッチェンズ氏のこの著書は、タイトルがいかにセンセーショナルであっても、「組織化された宗教」(organized religion)への批判書であって、神は無傷でそれらの上に聳え立っている--そんな感じがするのである。
 
 ところで、生長の家講習会などで私が述べる“宗教目玉焼き論”を記憶している読者は、ヒッチェンズ氏の批判の矛先が、もっぱら目玉焼きの“白身”(周縁部分)の部分に向かっていて、“黄身”(中心部分)にはまだ触れていないことに気がついてほしい。私は、宗教の“白身”は時代や環境や文化によって変わるべしとの立場だから、これまでの氏の宗教批判には、さほどの抵抗を感じないのだろう。
 
 谷口 雅宣

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2009年8月 2日

国際教修会でのスナップ

 もうすでに一部で紹介されているが、8月1~2日にサンパウロ市のフンシャル劇場で開催された「生長の家国際教修会」の会場風景をお届けする:

At the SNI Special Conference for World Peace (1) on Twitpic

At the SNI Special Conference for World Peace (2) on Twitpic

At the SNI Special Conference for World Peace (3) on Twitpic

At the SNI Special Conference for World Peace (4) on Twitpic

 谷口 雅宣

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2009年7月16日

ブログの休載について

 7月13日以降、私が本欄を休載していることで、心配している読者がいるといけないので、事情を少し書こう。今夏は、ブラジルのサンパウロ市において「世界平和のための国際教修会」が行われる。そのための日本出発が今月下旬に迫っているので、私は現在、その準備等に忙しい。本欄の執筆には結構、時間とエネルギーが必要なので、これを継続することは教修会の準備を疎かにすることにつながる恐れがある。そのための休載である。

 臓器移植法の改正が行われたことは残念だが、これについてはすでに私の考えを発表ずみだ。また、自民党政権の崩壊が予測されていて、日本の政治状況はきわめて流動的だが、総選挙は私の帰国後の予定である。そこで政権交替が行われても、日本が今より悪くなるとは思えない。そんなわけで、私はしばらく目の前の課題に取り組む考えである。その間、「日時計日記ウェブ版」などの生長の家関係のブログを参照していただければ幸いである。妻の「恵味な日々」もお忘れなく。
 
 谷口 雅宣
 

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2009年7月11日

外交機密の報道姿勢

 6月30日7月3日の本欄に、戦後日本の外交政策の“柱”の1つとされてきた「非核3原則」なるものが、実は「2原則」だったという元外務事務次官の証言について書いた。私の論旨は「施行から30年もたったのだから、いいかげんに本当のことを言おう」というものである。『産経新聞』は、2日の「産経抄」で「外交にウソはつきもので、正直すぎては国が滅びる」という粗雑な議論を展開し、本件を無視しようとしたかに見えた。が、このところ反省もあったのか、“後追い取材”をしてくれている。
 
『産経』は10日付の紙面で、9日に都内で開かれた討論会での自民党の山崎拓氏(外交調査会会長)の発言を、記事にした。同氏は、核搭載の米艦船の日本への寄港について「北朝鮮の核開発を阻止し、朝鮮半島の非核化を実現する上で、米国の核抑止力として、そのような行動は容認されてしかるべきだ」と述べたそうだ。これは、「非核3原則」のうち「持ち込ませず」という(有名無実の)看板をもう降ろそうという意見である。まあ、山崎氏の持論なのだろうが、自民党の外交調査会長としては、むしろ「前からある核持ち込みの密約は、もう大っぴらにされてしかるべきだ」ぐらいの発言をしてほしかった。

 同紙はさらに11日の紙面で、自民党の河野太郎氏(衆院外務委員長)が問題発言をした元外務事務次官(村田良平氏)から聞き取り調査を行ったことを報じている。それによると、河野氏は「村田氏の証言から密約はあったと判断した」という。そして、「外務委員会では今後“密約はない”との答弁の繰り返しは認めない」と、政府の答弁の撤回を求める意向を示したらしい。村田氏の証言の内容は、河野氏が週明けにも詳しく発表するようだが、記事によると、それは『産経』以外の各紙がすでに報道したものと変わらないようだ。この記事を書いたことで、『産経』は本件について事実上、各紙と同一レベルに並んだことになる。『朝日』の“後追い”をするのは、さぞ口惜しかったろう。
 
 一方、本件で先を走る『朝日』は、10日の紙面でさらに衝撃的なことを報じた。それは、問題の核持ち込みの“密約”と関連した文書を、外務省幹部が2001年の情報公開法施行前に廃棄するように指示していた、というのである。この記事の取材源は「複数の元政府高官」と「元外務省幹部」であり、それぞれが匿名を条件に証言したという。ただ、この情報の確度は100%とは言えず、証言のしかたも「……と聞いている」という伝聞の形式であったり、「破棄された可能性が高い」とか「極秘に保管されている可能性は残っていると思う」という表現で証言されている。
 
 さらに『朝日』は11日の社会面と社説でもこの件を取り上げ、これらの外務省幹部の行為は、日本の外交史の検証を不可能にする背信的行為であり、民主主義の基本を無視していると批判している。社説から正確に引用すると--

「国益がからむ外国政府との交渉で密約が必要だったとしても、それは後年、国民に公開し、妥当性について説明するのが政府の責任であるはずだ」
「主権者である国民に対して、政府が重大な事実を隠し、その証拠も処分してしまう。これではとても民主主義とは言えないではないか」

Nonukes  私は、この2点について全く同感である。これらの点で『産経』が政府や外務省に対して何の発言もしないことは、『朝日』に抜かれた口惜しさを考慮しても、ジャーナリズムとしては奇異な態度だと私は思う。
 
 今日は、生長の家の講習会のために鳥取県米子市に来ているが、夕方、宿舎のホテルの近くにある米子市役所付近を散歩した。土曜日だから役所は閉まっており、人影はほとんどなかった。と、静まり返ったその正面広場に高々と立っている看板が目についた。「非核平和宣言都市 米子市」と縦に大きく書いてある。これと似た宣言をしている都市や県が日本にはもっとあるが、今回の“非核2原則の密約”のことを思うと、民主主義は「宣言だけでは守れない」ことを強く感じるのである。
 
 谷口 雅宣

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2009年7月 7日

アメリカ伝道本部が太陽光発電を導入

 前回は、生長の家総本山の“炭素ゼロ”達成をお伝えしたが、生長の家の温暖化抑制努力は海外でも展開されている。米カリフォルニア州ガーデナ市にあるアメリカ合衆国伝道本部は、昨年10月から太陽光発電装置の設置を検討してきたが、今年6月末には、同Ushqsolarsys 市による設置審査が行われ、南カリフォルニア・エディソン社によるソーラパネルの設置も終り、あとは発電メーターの取り付けを待つばかりとなった。勅使川原淑子・アメリカ教化総長が同伝道本部の屋根に設置されたシステムの写真を送ってくださったが、発電容量や、同伝道本部の電気使用量との比較などの細かい数字は分からない。設置費用は約8万ドル(770万円)で、これによって同伝道本部の事務局サイドの電気使用量(月約2千kWh)をほぼまかなうことができるそうだ。

 勅使川原総長によると、同本部の近隣には太陽光パネルを設置している会社や民家は見当たらず、生長の家のような非営利団体(宗教を含む)が太陽光パネルを設置することは珍しいこともあって、同市や州からの設置許可を得るのに予想以上の時間がかかったという。また、伝道本部を訪れる信徒はもちろん、信徒以外の人々への環境意識の啓発にもつながっていて、幹部の間に喜びが広がりつつあるという。同教化総長は、「車社会のカリフォルニアですが、伝道本部の建物が2階建てですので、道行く車からも目にもふれやすい位置にパネルが設置されており、日ごとに多くの人々に影響を及ぼすものと期待しています」と言っている。

 カリフォルニア州は“日照州”(sunshine State)という異名もあるくらいだから、日照時間も長く、よく乾燥するので野火や山火事が多いのが心配なほどだ。この太陽光発電導入をきっかけにして、「自然と共に伸びる」という言葉の通りにアメリカでの運動が飛躍的に発展することを期待したい。今回の装置導入を決定した同国の幹部・信徒の方々の熱意と、“炭素ゼロ”運動へのご協力に心から感謝申し上げます。

 谷口 雅宣

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2009年7月 3日

7月2日の「産経抄」

 6月30日の本欄で、自民党政府の長年の重要政策とされてきた「非核3原則」なるものが、実は「2原則」に過ぎなかったとの新聞各紙の報道を取り上げ、「ウソをつくのはもうやめよう」と書いたが、2日の『産経新聞』は、国家の機密保護のためにはウソもやむを得ないし、「正義は国を滅ぼす」と「産経抄」で述べている。まさか本欄に向かっての発言ではないだろうが、ジャーナリズムに籍を置いたものとしては看過できないので、ひと言述べさせていただく。
 
 外交に機密事項があるのは当り前、と私は書いた。しかし、そのことと、政府が「機密事項はない」と国民に向かってウソをつき続けることとは、まったく性質が違う。今回の問題は、元外務次官が「核持ち込みの密約があった」と認めたこと自体がニュースなのではなく、(これは私の考えだが)現在の内閣官房長官が「密約はないというのが歴代の政府の立場なので、ないというほか仕方がない」などと、バカなウソをつき続けていることなのだ。しかし、「産経抄」はこう書くのだーー
 
▼密約の存在を否定する政府を、「嘘つき」と非難するのはたやすい。しかし、国家の安全保障に関するやむを得ない機密は、どこの国にも存在する。それを一切認めないという姿勢は、山本(夏彦)の代表的な名言につながる。「正義は国を滅ぼす」▼

 何か支離滅裂な論理のように、私には感じられる。自民党政府は、1967年12月に「非核3原則」を方針として発表し、それを“堅持”するのが日本の外交政策だ、と今日まで言い続けているのだ。冷戦時代においては、日本は国家防衛の基本戦略として「アメリカの核の傘に依存する」との方針を掲げ、国民の大半もそれを支持していた。が、冷戦後の現在は、ソ連の後継国であるロシアや、中国の持つ核兵器よりも、北朝鮮やその他のテロ集団がもつ核兵器の方が日本の安全にとってより大きな脅威なのである。そういう大きな時代の変化、国際情勢の変化の中で、大方の専門家がウソだと分かっている「非核3原則」なるものを堅持し続けることは政治家として「愚か」であると同時に、国民に対して「不誠実」であり、「国益」にも反する、と私は思う。
 
 また、上に「産経抄」から引用したような言葉は、政府の高官の発言ならいい。なぜなら、この文は事実上、「核の持ち込みがあるかどうかは機密事項である」と言っているのだから、「機密事項はある」ことを認めているのだ。しかし、官房長官は今回も「機密(密約)はない」と発言し、ウソを重ねた。この場合、「機密がある」というのが真実であり、「機密はない」というのはウソである。これらのことを全く問題にしないで「取るに足らない出来事」と評価するのは、ジャーナリズムとしての役割を忘却した態度ではないだろうか。歴代の政府が採用してきた外交方針を、単に「外交には機密がある」という理由だけで擁護し続けることがジャーナリズムの使命ではあるまい。

 外交や国際政治には、国民の目から一時的に隠さなければならないことはある。が、30年もの間隠すことがあってはならない。そういう隠蔽体質の権力が長く政権の座にあるときに、「真実を言え」というのがジャーナリストであり、言わないときには自ら危険を冒してでも「真実を報道する」のがジャーナリストである。28年前、私にそれを教えてくれた『産経新聞』が、今日まるで“御用新聞”のようなことを書くのが悲しくてならない。
 
 谷口 雅宣

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2009年7月 1日

映画『人生に乾杯!』

 我々夫婦にとって週末の今日、銀座まで足を延ばしてハンガリー映画『人生に乾杯!』を見た。私としては、特に前評判を聞いていたわけではなく、予告編を見て「老夫婦が銀行強盗をする奇妙な映画」という印象をもっていただけだが、妻がどこかで評判を聞いて所望した。1967年のアメリカ映画に『俺たちに明日はない』というのがあったが、それと似たような内容かとも思ったが、似たようでいて違うし、違うようでいて似ていた。このアメリカ映画は、1930年代に実在したボニーとクライドという若い男女2人組の強盗が、強盗旅行をする話だ。だから、「明日はない」という捨て鉢の言い方がピッタリくる。しかし、ハンガリー映画の主人公2人は老夫婦で、すでに人生の大半を生きたすえでの強盗旅行である。その映画の邦題を「人生に乾杯!」(原題は Konyec=終り)としたのは、私には何か「やりすぎ」と感じた。
 
 が、その大きな理由は、この映画が作られたハンガリーという国の事情をよく知らなかったためだ。知ってみると、「そういう翻訳もあるかもしれない」と半ば納得する。この作品を見る読者は、映画の背景を知っていた方がいいと思うので、少し説明しよう。
 
 1950年代後半が、この映画の出だしのシーンである。東西冷戦のまっただ中のハンガリーは、ソ連圏に編入されている。法政大学の南塚信吾教授がこの作品のプログラムに解説文を書いているが、それによると、社会主義の制度下では、最後の20年間の給料に応じて年金生活者の生活は保証されていた。当時は、平均賃金とほぼ同額の年金がもらえたという。ところが、1989年の東欧革命で資本主義の考え方が導入されると、物価上昇が始まり、年金生活は苦しくなってくる。1996年からは年金制度が市場化されて、若い勤労者は私的年金基金に加入することになるが、老人にはこれが適用されないので、高齢者の年金は年ごとに相対的に減価することになる。例えば、2000年ごろの平均賃金は15万フォリントだったが、高齢の年金生活者が受け取る額は4~5万フォリントしかなかったという。こうなると、高齢者を生活苦が襲い、公営のアパートの家賃も払えなくなる人が続出する。戦後の厳しい時代を懸命に生きてきた彼らは、自分たちの責任でない“制度改革”によって貧困に陥ることになる。これに輪をかけたのが、西欧諸国から流入する先進国資本による東欧経済の支配である。これらは、“無慈悲で野蛮な資本主義”として東欧の人々の目に映るようになる。だから、「反体制のために立ち上がった老夫婦」というイメージが主人公の2人には付されている。
 
 このことを知ってみると、この作品の強盗旅行は反社会的ではなく、反グローバリズム・反西欧資本的な“人間性回復”のための大冒険とも解釈でき、それを敢行した老夫婦に対し、作品中の多くの人々が歓声を送る感情も理解できるのである。ついでに言えば、老夫婦の夫は、かつては共産党の要人付き運転手で、妻の方は元伯爵令嬢という“社会的距離”の大きさを越えて結ばれた。その夫婦が最晩年に再び情熱を燃やして、不合理な社会に反旗を翻すという設定になっている。
 
 ところで、私の妻もこの映画のことにブログで触れ、映画館は「ほぼ満席で、若い人も多く、こんな地味な映画が、好まれるのかと意外に思いました」と書いている。私も同じ感想をもったのだが、もしかしたら、今の世界的経済不況に義憤をもやす若者が「不合理な社会に反旗を翻す老夫婦」に共感するのかもしれない。
 
 谷口 雅宣

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2009年6月30日

ウソの看板は降ろそう

「非核3原則」は虚構だった--元外務事務次官の村田良平氏(79)が、そういう意味のことを新聞記者に語った、と今朝の新聞は伝えている。私が確かめたところでは、『朝日』と『日経』がこの記事を載せているが『産経』はなぜか無視した。また、掲載した両紙の見出しは私の表現のように“刺激的”ではなく、「米軍の核兵器持ち込み 元次官“密約文書あった”」(朝日)と「60年日米安保で密約 “有事の国内核配備も対象”」(日経)という表現だ。が、『日経』が載せている村田氏との一問一答を読むと、どうも「非核3原則」そのものが日米の合意でないように解釈できる。だから、私はあえて冒頭のように表現した。

「非核3原則」とは、核兵器を「持たず」「作らず」「持ち込ませず」という日本政府の方針で、1967年12月に当時の佐藤栄作首相が国会で表明して以来、歴代の内閣が“堅持する”と言ってきた。このうち時々問題になるのは3番目の「持ち込ませず」という原則で、この「持ち込む」という言葉の意味があいまいなため、米軍の艦船や航空機が日本の領土内に一時的に「立ち寄る」場合、これを「持ち込む」と解釈するかしないのかで、日米間の大きな理解の差が生まれる。アメリカ側ですでに公開されている資料によれば、1960年の安保改定時には、核兵器を積んだ米軍艦船の寄港などは「持ち込み」に含まれないとの“密約”があったとされている。これに対し、池田勇人内閣は、寄港も持ち込みに当たるとの解釈を打ち出して、それ以来、政府はこの見解を維持している。

 改定安保条約には「事前協議条項」というのがあって、在日米軍に核兵器を含む大きな装備の変更が行われる際には、事前協議をすることが定められた。日本政府は、核の持ち込みがあるならば、アメリカはこの取り決めにしたがって事前に日本に協議を求めてくるはずだが、これまでそういう要請は1度もないから、核の持ち込みはなく、したがって非核3原則は守られている--という論法を繰り返してきた。しかし、この事前協議の対象として、核兵器搭載の航空機や艦船の「領海通過」や「寄港」が含まれないとしたら、米軍の核兵器は何十年もの間、日本の領土に入ったり出たりしていた可能性が強い。ということは、「非核3原則」は実質的には「2原則」に過ぎなかったことになる。
 
 私は、1981年の元駐日アメリカ大使のライシャワー氏の発言や、2000年のアメリカ外交文書の公開によって明らかなように、「非核3原則」とは日本の国内向けの政治標語であり、日米の政府間には「非核2原則」しかなかったと考える。外交に機密事項があることは当り前であり、それを「ない」と言い張るのは、あまりにも見え透いたウソである。それに、「核持ち込み」の問題は、冷戦時代には国家存亡の重要さをもつ抑止力の成立にかかわる。もっと分かりやすく言うと、「日本の国土やその周辺に核兵器があるかないかがよく分からない」ということが、潜在敵国に対して抑止力をもつのである。核兵器は、その所在が分からないことが重要なのだ。これは、国の防衛について少し勉強した人なら誰でも知っている事実である。だから、ウソをつくのはもうやめよう。
 
 政府はもう「実は、非核2原則だった」と発表すべきである。北朝鮮の核開発の問題がこじれている現在、これはアメリカの“核の傘”を強化する効力をもつから、日本の国益にもかなうのである。私は、村田元外務次官の今回の発言は、その目的でなされたのではないかと思う。『日経』の記事によると、外相経験者である自民党の町村信孝氏は、村田発言に対して「公務員の守秘義務は死ぬまであるのではないか。そこをどう考えているのか」と不満を漏らしたそうだが、公務員は国民の意思に対しても忠実でなければならない。国民は真実を知るべき時期に来ている。そして、冷戦後の新しい外交・国防政策を選択すべきときは、今なのである。
 
 谷口 雅宣

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2009年6月26日

宗教の社会的貢献

 地球温暖化抑制や貧困撲滅という人類的・国際的要請との関係で近年、企業の社会的責任が注目されている。英語ではコーポレート・ソーシャル・レスポンシビリティー(corporate social responsibility)といい、「CSR」と略称される。企業が国際化し巨大化すると、一国の法律では規制できない数々の“網の目”をかいくぐって、多国籍企業が利潤追求のために“不正”を行える可能性が増えてくる。また、大企業は、工場や事務所の進出や撤退、投資、M&Aなどを通じて、地域社会や一国の経済にも影響を与える可能性をもっている。そういう点に着目して、企業活動に倫理的な判断を要請する考え方である。宗教の世界では、あまりそういうことが言われないが、私は公益法人である宗教こそ、そういう視点に敏感であるべきと思う。
 
 現在、宗教法人を含めた公益法人制度の見直しが行われているが、その背景には、きっと上記のような企業活動に対する社会的要請とのバランスの問題があるのだと思う。つまり、現在、宗教法人は原則的に収益に対して非課税である。その理由は、「宗教活動=公益」という古い、単純な考え方によって、宗教が“公益”を目的とした法人(公益法人)だと見なされていてるからだ。しかし、実際の宗教活動の中には、必ずしも公益とは呼べないようなものも含まれるとともに、「宗教法人」という看板を隠れ蓑にして、公益目的でない(もっとありていに言えば、詐欺的な意図をもった)団体が活動する余地が残されているからだろう。私はもちろん、宗教は公益に貢献していると信じる。しかし、宗教は基本的に「心」を扱うものだから、外からは分かりにくいところがあり、それが「うさん臭さ」や「教団の利益優先」というようなマイナスの印象を生んでいることも事実である。
 
 そこで、そういう誤解を払拭するためにも、社会的貢献の“客観的な指標”があるならば、宗教団体はそれを活用して、わかりやすい形のCSRを行う義務があるのではないか、と私は思う。生長の家が、環境経営の国際指標である「ISO14001」の取得に乗り出したのも、そういう視点があったからである。今日、生長の家は国内にあるすべての事業所で「ISO14001」を取得しただけでなく、海外に於いても取得への取り組みを進めている。が、この取り組みだけで社会的責任が果たせているとは思えない。そこで、現下の喫緊の課題である地球温暖化抑制のために“炭素ゼロ”(二酸化炭素の排出をゼロにする)という高い目標を掲げた運動が開始されたのである。その考え方にのっとり、生長の家は排出権を購入し、信徒の移動で排出されるCO2を金銭的に相殺するカーボン・オフセットを一部で実行し、さらに植林活動などを展開している。
 
 が、この“炭素ゼロ”を目指した運動は、しかし1つの矛盾を抱えている。それは、現在の社会全体が、まだ化石燃料を主要エネルギーとする産業構造と政治制度を温存しているからである。この環境の中では、何かを強力に推進しようとすると、必ず化石燃料を燃やすことにつながる。その逆に、化石燃料を燃やさないようにすると、宗教活動を推進することが困難になりがちである。この矛盾を乗り越えるためには、宗教団体内部の努力だけでは、どうしても限界がある。社会に対して、化石燃料を燃やさない方向へ動くように、何らかの働きかけをする必要が生じてきているように思う。
 
 谷口 雅宣

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2009年6月23日

ツイッターは“諸刃の剣”?

 5月23日の本欄で「ツイッター」という短文専用のミニブログの大盛況ぶりを紹介したが、イランの大統領選挙をめぐる混乱の中で、治安当局によってテレビや通常のウェブサイト等の情報手段を奪われた“改革派”の市民が、ツイッターやユーチューブなどを使って“西側”の支援を受けながら抗議活動を展開していることが伝えられている。これに対しイラン当局は、BBCやタイム誌などの外国のメディアを締め出す一方で、革命防衛隊傘下の民兵組織を使って“改革派”の抗議を鎮圧していると言われる。しかし、“改革派”は、その弾圧の様子を映像と音声で記録してツイッターやユーチューブに登録することで、かつては一流メディアにしかできなかったような生々しい現場報道を全世界に流している。インターネットの驚異的な底力を示していると思う。
 
 上記したサービスに加入している読者はすでにご存じかもしれないが、「Iran」「Iran election」などのキーワードを入れて検索すると、そういう映像や写真、関連記事を簡単に見ることができる。これらの中には、一流メディアが自己規制によって流さないような残酷なシーンも含まれているから、注意してほしい。
 
 私は「インターネットの驚異的な底力」と書いたが、この“底力”とは技術力のことだから、政治的対立の中で使われる場合は、当事者双方に利用されるものだ。ところが、今回のイランの内政混乱では、“改革派”のネット利用ばかりにメディアの注目が集まっている。そして、彼らの動きが、かつての「ベルリンの壁崩壊」や「イラン革命」をもたらした“草の根”運動に比較されていることに、私はどこか危うさを感じる。“市民”が使える技術は“反市民”も使えることを忘れてはいけない。その使用を当局が禁止しないということは、使用させることによって得られるメリットを失いたくないからかもしれないのだ。
 
 そういうことをエウゲニー・モロゾフ氏(Evgeny Morozov)が22日付の『ヘラルド朝日』紙の論説欄に書いているのを読んで、私は「なるほどそうだ……」と思った。その記事は「ツイッターは諸刃の剣」という題で、今回のイランの“改革派”の抗議活動にツイッターが使われていること関して、次のように指摘する--
 
「抗議活動を組織することは、それを宣伝することとは相当異なる。前者には厳格な秘密が要求されるが、後者はその全く逆を目指している。ツイッター上でデモ活動の支援について語ることは、政府やその支援者から不必要に注目されることになるだけだ」

「ツイッター上に彼ら(保守派)の声がないということは、彼らが自分の支持者を組織するために同じ道具に頼っていないということではない。彼らは彼らの場所でペルシャ語でやっていて、我々はそれがどこかを知らないだけかもしれないのだ」

 このように、インターネットの“底力”は今や一国の政治状況に影響を与えるほどになっている。それは“諸刃の剣”だから、マイナスの影響があることも考慮しなくてはいけないが、プラスの影響を考えたとき、宗教運動への有効な利用をもっと積極的に検討する時期に来ていると思う。
 
 谷口 雅宣

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2009年6月20日

もっと野菜を食べよう

「世界に住む人の6人に1人が飢えている」--そんな報告書が出た。国連の食糧農業機関(FAO)が19日に発表したもので、栄養不足の“飢餓”の状態にある人口が昨年より1億500万人増えて、今年中に10億2千万人になるというのだ。飢餓人口増加の原因は、昨年からの世界的な経済危機や食糧価格の高止まりなどで、20日付の『朝日新聞』によると「6人に1人」という割合は過去最悪なのだそうだ。

 FAOの予測では、昨今の経済危機の影響で、今年は先進国から途上国への投資が前年比で32%減少するだけでなく、途上国への援助(ODA)も約25%減少する。また、食糧価格の高止まりは、新興国での需要急増やバイオ燃料への転用拡大などで続いており、2006年の水準と比べるとまだ24%も高いという。世界で飢餓人口が多い地域は、アジア・太平洋が6億4200万人でトップ。続いて、サハラ以南のアフリカが2億6500万人、中南米が5300万人という。
 
 もちろん、日本人も経済危機の影響を受けている。ところが、「生活全般に満足している」人の割合は、3年前から16.5ポイントも増えて55.9%いるのだという。19日に内閣府がまとめた今年度の「国民生活選好度調査」の内容を、今日の『産経新聞』が伝えている。それによると、「暮らしが悪い方向へ向かっている」と感じている人の割合は89.5%おり、「老後の生活の見通しは明るくない」と答えた人も87.9%と大部分だった。ところが、「生活全般に満足しているか?」との質問には、10.3%が「満足」と答え、45.6%が「まあ満足」と答えた。これに対し、「不満」は5.6%、「どちらかといえば不満」は14.1%だから、日本は本当に恵まれているのだ。因みに、24.2%は「どちらでもない」と答えた。
 
 だから、日本人はもっと「人に与える」ことをしないといけない。私は、不況下で生活の満足度が「上がっている」ことを問題にしているのではない。それは大変結構なことだが、それで“自己満足”しているのではいけないと思う。「6人に1人」が飢えている世界を前にして、「私たちは生活に満足している」と言っても「それが何だ?(so what?)」と言われるだけだ。何か「他に与える」行動を起こすべきではないだろうか? それにはいろいろな選択肢があるが、最も簡単で、自分のためにもなり、他人のためにもなるのが「もっと野菜を食べる」ことだと思う。言い換えれば、「肉食を減らす」ことだ。肉食が飢餓や地球温暖化の原因になっていることは、すでにいろいろの所に何回も書いたから省略する。
 
 元ビートルズのメンバーの1人、ポール・マッカートニー氏は菜食主義者で知られているが、この15日に、地球温暖化を防ぐために「ミートフリー・マンデー」(meat-free Monday、肉抜き月曜日)というキャンペーンを始めたそうだ。畜産業から排出される温室効果ガスの排出を減らすためという。『朝日新聞』が20日の夕刊で伝えている。肉主体の食生活をするイギリス人にとっては、「1週間に1日」の肉抜きは“適当”かもしれない。が、魚もよく食べる我々日本人には、「週に2~3日」の肉抜きも不可能でないと思う。その代り、おいしい野菜を食べればいい。殺生を減らせるし、健康にもいいし、生活の満足度も向上すると私は思う。
 
Peppers  なぜそう思うか? 野菜にはいろいろの種類があり、どれも皆「美しい」からだ。それに比べ、肉は美しいだろうか? 私は野菜や果物を絵に描くことはあるが、肉を描きたいと思ったことはない。自分の皮膚の下に似たようなものがあることを知っているからだ。そんなことを思わないですむ“肉抜きの日”をつくって、野菜や果物の絵を描く--それだけで満足度が2倍も3倍も向上するのではないだろうか。

 最近、美しいパプリカをいただいたので、絵に描いた。
 
 谷口 雅宣

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2009年6月17日

大自然から神のアイディアを受けて

 今日は午前10時から、長崎県西海市の生長の家総本山で谷口雅春大聖師二十四年祭が厳かに執り行われた。前日に続いて、長崎地方は朝から好天で、暑いほどの日差しの中、同本山の谷口家奥津城前の広場には、谷口雅春先生の教恩に感謝し、御徳を偲ぶ大勢の信徒・幹部が集まった。この御祭の後、私は概略次のような挨拶を参列者の皆さんに申し上げた--

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 本日は、谷口雅春大聖師の二十四年祭に大勢お集まりくださいまして、誠にありがとうございます。谷口雅春先生が、この長崎の地に移転されたのは昭和50年で、それから10年間この地で生活され、昭和60年6月に昇天されました。それから24年たったわけですが、この総本山の地は練成会での献労や本山職員の方々のご努力によって、もともと豊かだった自然が、さらに豊かになりつつあります。かつてのバブル期には、ここに隣接するオランダ村が繁栄していましたから、周辺は週末や休日などにはずいぶんにぎわったようであります。しかし、そういう一時的な“開発”の時期もすぎて、今は人間の節度ある営みと自然との調和が実現していると思います。そのことは、皆さん自身が本山へ来られるたびに感じておられることと思います。今はちょうどハナショウブが終ろうとする中、アジサイが美しい季節であります。こういう心温まる自然と人間の関係を、これからもずっと守っていきたいと感じます。
 
 生長の家は今、ご存じのように、地球温暖化を抑制するために“炭素ゼロ”を目指した運動を推進しつつあります。その中で、この総本山は生長の家では初めて、大規模な太陽光発電装置が設置されたのを初め、ISO14001にもとづく業務の改善、境内地の森林の間伐やシイタケ栽培などを通して、自然と共に生きるノウハウを蓄積してきています。時には、イノシシとの難しい関係もあるかもしれませんが、そういう経験も含めて、総本山は今後の生長の家の“自然と共に伸びる運動”にとって重要な役割をはたしていくと思います。
 
 先ほども述べましたが、谷口雅春先生は昭和60年に亡くなられましたが、その1年前に出版されたご本に『続 真理の吟唱』というのがあります。これは、その年より前に、ときどき月刊誌に発表されていたお祈りの言葉70篇を集めて単行本にしたものです。皆さんは、『真理の吟唱』というご本の方はよくご存じと思います。こちらはその14年前の昭和45年(1970年)に出たものですから、先生が本山に居を移される以前に書いた祈りの言葉です。が、この『続 真理の吟唱』には、雅春先生が総本山に移られてから書いたお祈りの言葉が収録されているのではないか、と私は思います。ただし、詳しく調べたわけではないので、そうでないものも含まれているかもしれません。このご本の中に「正しき神徠(インスピレーション)を感受する祈り」というのがありますので、今日はこの祈りの言葉を紹介して、先生の自然についての教えを学びたいと思います。
 
 この祈りの中で、先生は「葉脈」を例にとって、その流れの美しさと、同じ木の葉であっても葉脈が同じものは1つもないことを指摘しておられます。木が根から吸収する水分や栄養素を葉の先端まで送る“血管”のような役割をしています。これは大抵、1本の中心線が通っていて、そこから葉の隅々までに細い脈が左右対称に分かれて通っています。デザイン的にも「中心帰一」がはっきり分かるものです。そのことを念頭におきながら、祈りの言葉を聞いてください--
 
 (「正しき神徠を感受する祈り」の一部を朗読)
 
 このように、「自然界には、魂の進歩発達に必要なアイディアが無数にある」と先生は説かれています。それは現に我々の前にあるのに、もし受け取れないのならば、それは自然界を創造された神様の愛と我々の心の波長が合わないからだと教えてくださっています。私たちは今、経済的には世界的に困難な状態にあると言われています。また、日本の場合、政治的にも混乱した状態にあります。文明的にも化石燃料を多用する文明から、そうでない文明へと移行していく時期にあるのです。そして、ご存じのように、我々の運動も転換しています。これらすべては、一見“困難の時期”に見えるかもしれませんが、同時にそれは“新しい時代の幕開け”の時なのです。神の無限のアイディアを受信して、現象界に現す絶好の機会だと言えます。先ほどの祈りの言葉にもありましたが、神のアイディアは無限に多様であり、しかも神は愛でありますから、その実現は人類のみならず、生類すべてが喜ぶ結果になるに違いないのです。そのアイディアは私たちの目の前にある。それを得るためには、太陽のように明るき心と三正行が必要だと教えられました。
 
 今日、ここに集まられた皆さんは、雅春先生が愛された総本山の自然をしっかりと感受され、それぞれの生活の場に帰られましても、自然界の無限の恵みに感謝し、そこに充満する神からのアイディアを常に受けながら、自然と人間の生活を調和させる新しい生き方を創造し、お仕事や生活にそれを実践し、またそういう新しい光明化運動を築き上げていく原動力となっていただきたいと、心から念願する次第です。
 
 谷口雅春大聖師の二十四年祭に当たって、所感を述べさせていただきました。ありがとうございます。
 
 谷口 雅宣

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2009年6月13日

臓器移植法改正は不要である (2)

 9日の本欄で、国民の間に合意が存在しない中で、臓器移植法改正を急ぐ現政権のやり方に対して疑問を呈したが、今日(13日)の『朝日新聞』は「見切り採決に“訳あり”」という見出しで、法改正を急ぐ側の“事情”を説明している。これを読むと、現在の政治というものが、民意の汲み上げや、国民の将来、倫理観などの大所高所を見据えた立場から行われるよりも、国会対策とか政治家個人の特殊事情などを優先して行われている様子がよく分かる。実に嘆かわしいことだ。

 その中でもきわめつけは、いわゆる“A案”を提出した富岡勉・衆議院議員が法改正を急ぐ理由として、「選挙後にはたくさん法案が出て、2、3年先になってしまう」とコメントしている点だ。1997年施行の現行の同法に、3年をめどとした見直し規定があるのに、一度も見直しをしていないことに良心の呵責を感じているらしいのだが、前述したように、WHOが渡航移植を規制する動きを示したことで、見直しには「絶好の機会」と感じたようだ。ところが、改正案の審議時間は97年には26時間かけたのに対し、今回は8時間で打ち切られ、自民党のある国会対策幹部は、「採決は中間報告から間を置かない方がよい。(議員が)地元に帰る回数が増えれば意見を言われて判断が揺らぎ、棄権が増える」などと発言したそうだ。つまり、国民の意見をよく聞くと議員の考えがグラつくから、衆院厚生労働委員会からの中間報告が出た時点で、法案はすぐ採決してしまった方がいいというお考えのようなのだ。これが、自民党政治家が考えている“民主主義”の実態である。
 
 また、少し信じられないのは、息子から生体肝移植を受けた河野洋平・衆院議長が、この法案の通過を引退の“手土産”にしたいとの熱意に燃えているからだという話だ。その動きに、与党側も「唯一首相になれなかった“元自民党総裁”へのはなむけにしたい」と合意したというのだ。この話がもし本当なら、今の与党政治は「公私混同もはなはだしい」と言わねばならない。その上で『朝日』はこう書いている--「与党はすべてが廃案になることも覚悟し本会議での採決に突っ込む構え」。これらの情報を総合すれば結局、こうなるだろう--現在の政権と与党は、現行の臓器移植法に定められた「3年後の見直し」を先延ばしにしてきた怠慢を糊塗するために、「人の死」という重要な問題に関して国民の間に合意ができていないにもかかわらず、かっこうだけ「国会で見直した」形を作って総選挙に入ろうしている。その方が、いろいろな意味で(政治家の私的な都合も含めて)好ましいと考えている。
 
 私は、こんな解釈は間違いであってほしいと思う。臓器移植法改正案の見切り採決について“正しい解釈”があれば、どなたか教えてください。
 
 谷口 雅宣

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2009年6月11日

日本の中期削減目標は「90年比-8%」

 麻生首相は10日、2020年までの日本の温室効果ガス削減の中期目標を発表したが、既報のとおりそれは「05年比15%減」である。これは、日本が議長国として成立させた京都議定書の基準年(1990年)と比べると「-8%」であり、同議定書目標値--2012年までに1990年比-6%--から、8年間にわずか2ポイントの削減をすれば足りる目標である。にもかかわらず、同首相は「この目標は石油危機の時を上回るエネルギー効率の改善をめざす極めて野心的なもの」と自画自賛したそうだ。その理由は恐らく、アメリカの現在の中期目標が「90年比0%」、カナダが「同-3%」、オーストラリアが「同-5%以上」であるのと比べたからだろう。しかし、EUは「同-20%以上」を掲げているから、日本のこの目標値では、中国、インドなどの新興国や、温暖化の被害が深刻な発展途上国からの譲歩や評価を受けることは難しいだろう。ただ、留意しておきたいのは、この目標値が海外からの排出権購入などを含まず、国内対策だけで行うとした“真水”分の数値であることだ。
 
 これに対する新聞の評価は、実にまちまちである。私は自宅で『朝日』と『産経』をとっているが、特に2紙の態度は対照的だ。前者は、これを「緩い目標を求める経済界と、厳しい目標が必要だという環境団体の主張の間をとった」と表現し、「先進国全体で90年比25~40%削減する必要がある」との認識がEU、途上国、新興国間で広がっていることを指摘して、京都議定書に続く条約として国際間で今後決まる正式な目標策定では、「より大きな削減目標を迫られる可能性がある」と予測している。これに対して後者は、「日本の実績を踏まえれば“2005年比4%減”が妥当な目標であった」と残念がり、「日本に苛酷な重荷がのしかかる」にもかかわらず、「身を削る思いで達成しても地球の温暖化防止には、焼け石に水であるのがむなしい」と嘆いている。『朝日』は、「温室効果ガスの削減に努力すればするほど技術革新が促され、産業や社会の低炭素化とともに新たな経済成長の道も開ける」と主張して、未来に目を向けているが、『産経』は、この目標を「国の経済と国民生活にかなりの苦痛を強いる」と消極的に評価し、経済団体の見方を代弁するかのように、「目標達成に向けて多額の設備投資負担を強いられ、国際競争力の低下を招く恐れがある」としたり、「国内経済の空洞化が加速するとの懸念が高まっている」と否定的だ。
 
 しかし、数字だけでは分からなくても、具体的な政策や省エネ努力を見ると分かることもある。例えば、政府は今回掲げた目標値を達成した際のシミュレーションをしているが、そこには「どこの家庭にも省エネタイプの冷蔵庫やエアコン、薄型テレビがあり、街を走る自動車の20%がハイブリッド車などのエコカー」(『産経』)になった姿が描かれている。あと10年でこれを達成することが、日本の平均的家庭にとって「過酷な重荷がのしかかる」ことだと私には思えない。また、今回の目標値決定で“目玉”になっている施策は太陽光発電の導入促進だが、政府は今後、家を建てる人の7割以上が同発電装置を導入すれば、10年後には、現状の20倍の約530万世帯に同装置が設置される、と予測している。この「530万世帯」とは、東京都に例をとれば、2000年時の一般世帯総数に匹敵するから、これを10年間で実現するというのは、確かに「野心的」と言っていいだろう。このため、太陽光発電による電力の買取り価格を現行より引き上げる代りに、電力使用料を値上げする方策の実施がすでに表明されている。私はこの点に、好意的に注目している。

 しかし、国際的環境保護団体であるWWFは、早くも10日付の報道でかなり手厳しく日本の中期目標を批判している。それによると、日本が今回、京都議定書の基準年でなく2005年を削減目標の基準としたことは、「日本は1990年のレベルから排出量を減らさなければならないのに、実質的な行動をせずに、逆に7%以上増えたことを見えなくするためである」としている。また、日本がすでにエネルギー効率を向上させているため、これ以上の努力はコスト高となり不公平だという議論に対しては、各国の排出削減努力は、コスト分析に加えて、一人当たりのGDPなどで表される「行動余力」と、過去から現在に至る一人当たりの排出量で示される「排出責任」を基にして判断すべきものとしている。そして、麻生首相に対して、「すぐに考えを変え、コペンハーゲンでの国際交渉に向けて25%以上の削減目標を設定することで、真の指導者としての能力を発揮すべきである」と呼びかけている。
 
 谷口 雅宣

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2009年6月 5日

環境対応車の行方

 アメリカの“ビッグ3”の凋落を目の前にしている今、ガソリンやLPGなどの化石燃料で走る自動車の将来は見えたと言える。では、次世代の自動車の主力は何か? これに答えるのは難しい。なぜなら、「次世代」という言葉の意味する期間をどうとらえるかで、正解が変わる可能性があるからだ。恐らく「10年先」「20年先」「50年先」で、主力となるテクノロジーは大いに違ってくる。その動向は、科学技術の進展と密接に関係しているから、私のような素人には予測不可能である。そこで本欄では、「次世代」をとりあえず「10年先」と考え、自動車の技術が「どこへ向かうか」ではなく、「どこへ向かうべきか」と考えた場合の“希望的予測”を述べようと思う。
 
 私はこの場合、①電気自動車、②ハイブリッド車、③燃料電池車、というランクづけをしたい。「どこへ向かうか」と考えた場合、①と②は入れ替わると思う。が、私は、「どこへ向かうべきか」という視点から、電気自動車の開発を大いに希望するのである。理由は、電気自動車は、化石燃料を主体とした現在の自動車燃料のインフラを大きく変更する可能性があるため、人類の化石燃料依存からの脱却を加速させるのに対し、ハイブリッド車の蔓延は、化石燃料のインフラ維持を正当化するため、地球温暖化の抑制という点では効果が劣ると思うからである。
 
 むずかしい書き方をしてしまったので、具体的に説明しよう。本欄の読者ならば、現在の自動車ユーザーの好みが、GM車のような大型大馬力のものから日本車のような小型低燃費のものにシフトしている点は、すでにご存じだろう。“石油ピーク説”を支持している私としては、ガソリンの値段が将来急速に下がることはないと考えるので、自動車ユーザーの「小型低燃費志向」も当分変わらないと考える。このことは、現在のハイブリッド車人気が有力に示している。5月12日の『日経』は、軽自動車を除く国内の乗用車販売に占める環境対応車の比率が、今年度にも1割を超すと予測した。実際、ホンダのハイブリッド車の国内販売台数は、今年度は前年度比の5倍もあり、トヨタのハイブリッド車も約5割増が見込まれている。
 
 6月に入ってから、新聞各社はたて続けに“次世代”志向の環境対応車の販売計画を伝えている。まず、トップランナーのトヨタは、本欄では(2006年2月3日6月14日などで)と「充電式ハイブリッド車」呼んできたプラグインハイブリッド車(PHV)を今年末にリース販売すると発表した(4日付『産経』『朝日』など)。これに対し、電気自動車で先行する三菱自動車は、「プラグイン電気自動車(PEV)」と称する車種を、2013年までに国内で発売すると発表した。PHVとPEVの共通点は、ガソリンエンジンと電気モーターを1基ずつ搭載し、家庭用電源から充電できることだが、相違点はPHVがガソリンエンジンを動力として使うのに対し、PEVはこれを発電用に特化している点だ。小さい体躯なのに動力源を2つも搭載する理由は、現在電気容量で最高水準にあるリチウムイオン電池をもってしても、1回の充電で160kmほどしか走れないからだ。その不足分を、PHVはガソリンエンジンで直接補い、PEVはガソリンエンジンで発電することで間接的に補うという戦略である。
 
 これに対して、4日付の『産経』によると、日産自動車が来年から発売するという電気自動車(EV)は、この「充電容量の不足」の問題を画期的な方法でクリアすることを目指している。それは、電気自動車に対して現行のガソリンスタンドの役割をする充電スタンドを各地に設け、電気の残量が少なくなったEVの電池をフル充電のものと交換するシステムである。これだと、ガソリン車の給油に必要な時間と同程度の時間で電池交換ができるという。このシステムについては、昨年12月8日の本欄で少し紹介したが、米カリフォルニア州のベンチャー企業が普及を進めているもので、すでにポルトガルやイスラエルなどで実証実験が行われている。国内では、この4月から横浜市で実証実験が始まっているから、日産は来年からの販売が可能と踏んだようだ。
 
 上に書いたように、ハイブリッド方式の自動車は、PHVもPEVも化石燃料への依存を払拭できない。これらは、1台の車に2系統の動力を積むという技術的な複雑さを伴うから、居住性や運搬重量、コストの点で1系統の動力車より不利である。この点、電気モーターしか使わないEVは、シンプルな構造が保証されるから低コスト化が期待でき、不要な1系統分の容積を居住性と運搬重量に振り向けることができる。しかし、問題は電池交換のためのインフラ整備である。これを「不利」と見るか「有利」と見るかは意見の分かれるところだろう。が、私は、短期的には不利であっても、中・長期的には社会全体にとって有利だと考える。そういう意味で、今回の日産の決断を私は大いに応援したい気持である。

 私が電気自動車の将来性を買う理由は、もう1つある。それは今後、蓄電池の技術が進歩することで、2系統の動力を組み合わせて使うハイブリッド技術は不要になると思うからだ。現在のリチウムイオン電池の性能で、EVは160km走るというが、これは直線距離で東京から静岡市、諏訪市、黒磯市までだ。5月20日の『朝日』によると、日立製作所はこのほど、従来型の1.7倍の出力をもつリチウムイオン電池を開発し、2013年から量産する予定だという。この新型電池だと、単純計算では1回の充電で東京から名古屋、新潟、仙台まで行けそうだから、大抵の用途はこれで済んでしまう。だから、PHVもPEVも、あと4~5年で競争力を失う可能性があるのである。それなら、インフラ整備に多少時間とコストがかかっても、電気自動車の開発に注力するのが得策だと私は思う。
 
 谷口 雅宣

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2009年5月30日

信仰による戦争の道 (2)

 これに対して、もっと厳しい評価をしているのが、前回の本欄で言及したジェームズ・キャロル氏の論説である。彼によると、この資料カバーの一件は外部に知られようが知られまいが、政治的・軍事的判断を誤らせる極端な種類のキリスト教信仰が政権トップにあった証拠だとし、9・11以後のブッシュ政権の外交政策全体に疑問を投げかけているように見える。
 
 キャロル氏が指摘する宗教的狂信の危険性とは、次のようなものだ--

①目的遂行に固執した宗教的熱狂は、宗教についてだけでなく、政治・軍事方面にも批判的精神を受けつけない。

②軍の内部で改宗を進める者は、部隊の結束を築くために、「イエス」のような宗教的シンボルを利用して個々の兵士が作戦の目的、指令、そしてそれに従う自己に対する疑念を払拭させようとする。しかし、疑念というものは、他の選択肢への道であるから、軍指導者の最大の友である。

③死後の世界や死後の救いを最高の価値とする信仰は、現世を生きる価値を低く見る。特に、破壊と暴力の後に来る“神の国”を望む終末への信仰は、そういう破壊と暴力を惹き起こす要素となる。

④宗教的原理主義は、教典に書かれた言葉の一言一句を文字通りに尊重して、その言葉が書かれた文脈を無視する傾向がある。そして、そこからは、これと似た“軍事的原理主義”を生む可能性がある。それは、目の前にある軍事的脅威にのみ注目し、それが生まれてくる原因--例えば、「なぜこれだけの数の自爆攻撃志願者が生まれるのか?」などという、より広い社会的・政治的“文脈”を無視する傾向である。

⑤自分を“神の意志を実行する軍隊”として見るものは、戦場でも“神”のようにふるまう傾向がある。すなわち、遠方から自らの手を汚さずに、非戦闘員を含めた敵地の住民に対して過大な力を行使する傾向である。

⑥世界を“善”と“悪”に二分して見る宗教的視点は、敵地の住民の本当の意志や感情を見誤らせる。

⑦3つの一神教の聖地がある中東地域は、この種の宗教的狂信による武力行使を許す場所としては最悪の場所である。

 私は上の分析に概ね賛成するが、⑤については異議を唱えたい。なぜなら、ここで指摘されている「神のような振る舞い」とは、「残虐で無答責」という意味だからだ。旧約聖書に出てくる“神”は、確かにそのような振る舞いをするのだが、そのような神への信仰は、生長の家とは無縁である。しかし、人間を罪深く、価値の低い存在として見る信仰では、全能の絶対神は、人間を虫ケラのように殺戮して何ら顧みることはない。だから、そういう「特定の神」への信仰が問題なのであって、「神への信仰」一般が残虐行為を生むと考えるのは間違いである。また、⑥については、本欄ですでに何回も書いてきたように、「唯神実相論」の生長の家ではありえない考え方である。

 このように考えてくると、「神への信仰」一般が政治や軍事面での正しい判断を誤らせるのではなく、その信仰の内容が問題であることが分かる。神のほかに“悪”があると信じたり、神は罪人を容赦なく罰するという種類の信仰に身を任せる人々は、いったん“悪”のラベルを貼った人に対しては、人権無視の残虐な仕打ちをする傾向がどうしても出てくるだろう。それは、相手に対する自信というよりは恐怖心の裏返しなのだ。そして、アブグレイブやガンタナモ収容所での数々の悲劇が起っていった。私には、そう思えるのだ。
 
 谷口 雅宣
 

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2009年5月29日

信仰による戦争の道

 2001年9月11日の同時多発テロ事件以後、本欄ではアメリカの前大統領ジョージ・W・ブッシュ氏がイラク戦争を開始した“理由づけ”に関して、懐疑論を唱えつづけてきた。ブッシュ氏によると、イラク戦争は一種の“自衛”のための戦争であり、したがって正当化される。その主な理由は、①9・11の首謀者であるオサマ・ビンラーデンをイラクが支援してきた、②イラクは核兵器を含む大量破壊兵器(WMD)を開発している、の2点だった。ただし、これだけでは、伝統的な自衛戦争の開始要件を満たさないので(つまり、イラクからの攻撃は受けていないから)、これらに加えて、③その国家がアメリカないしアメリカ国民を攻撃する意図をもっている、という要件を満たした場合は、実際に攻撃を受ける前であっても(または、攻撃を受ける前にこそ)“先制攻撃”または“防衛的介入”を行う権利がある--こういう新しい戦略理論を打ち出したのだった。これが有名な「ブッシュ・ドクトリン」である。さらに、この理論にもとづいてアメリカの攻撃対象になりうる国を“悪の枢軸”として特定した。

 これらの理論は、9・11後のアメリカの“テロとの戦争”に向けた“新しい戦略”として、純粋に政治的な観点から策定されたように見える。私も長い間、そう思っていた。しかし、その一方で、ブッシュ氏はキリスト教右派の強力な支援を受けてきただけでなく、本人が「神」や「宗教」を信仰することを公然と認めてきた。このことは、政策としては人工妊娠中絶反対やES細胞の研究への制限など、好ましい結果に結びついていた。私は、そのことを評価するのにやぶさかでない。しかし、ブッシュ政権の最大の問題は、アフガニスタンとイラクで2つの戦争を始め、それが大統領退陣後も継続され、現在に於いても多くの人々に死や苦しみをもたらしていることだ。だから、この2つの戦争を生み出したブッシュ氏の戦略理論には、どこかに問題があるのである。私は、その問題点は「悪を認める」という同氏の、宗教的な信念とも思える強い態度であると指摘してきたが、その態度が個別具体的にどのような誤った判断を生み出したかについては、よく分からなかった。
 
 ところが、最近になって、イラク戦争開始当時の大統領近辺の情報が明らかになるとともに、この疑問に一部光を当てると思われる文書が発見され、アメリカのメディアなどで取り上げられている。それを簡単に言えば、「ブッシュ氏は聖書の言葉からヒントを得て戦争を始めた可能性がある」ということだ。アメリカにいかにキリスト教信者が多いとしても、大統領が聖書の言葉に触発されて戦争を始めたとすると、アメリカの“国是”とも言われる「政教分離」の原則と矛盾するばかりか、アメリカという国家の情報処理能力や判断の信頼性にも疑問が出る事態にもなりかねない。
 
 私は、5月26日付の『ヘラルド・トリビューン』紙に載ったジェームズ・キャロル氏(James Carroll)の論説から、このことを知った。キャロル氏によると、『ジェントルマンズ・クォータリー』(Gentleman's Quarterly)という季刊誌の最新号にロバート・ドレイパー氏(Robert Draper)が書いた記事が、最初にこのことを伝えた。この記事には、ブッシュ時代の国防長官だったラムズフェルド氏が政権内部においてどれほど嫌われ、また一度決まった方針でも、自分の気に入らないものの実施をどうやって遅らせてきたなどという、“ラムズフェルド悪玉論”が展開されている。が、その記事の最初のところに、イラク戦争開戦前後、国防総省が大統領のブリーフィングのために使った文書の中に、戦場の兵士などの写真を聖書の言葉で飾った資料が含まれている、との指摘があるのである。
 
 記事によると、この資料の作成者はラムズフェルド氏自身ではなく、統合参謀本部と国防長官に直接情報を提供する立場にある空軍のグレン・シャッファー少将(Glen Shaffer)の発想によるもので、開戦前の段階では、戦いを前にした政権中枢部の緊張感をほぐす目的で、ユーモアのつもりで作られた資料カバー(cover sheets)だったそうだ。が、戦争が始まり、死者が出はじめると、クリスチャンであるシャッファー氏は資料カバーに聖書の言葉を使うのがいいと考えたらしい。しかし、同省上層部にはイスラーム教徒の分析官もいたから、国防総省内の何人もの同僚はこれに反対した。が、シャファー氏は「上司のリチャード・マイヤーズも国防長官も、それに大統領自身がこれをお好みだ」と答えたという。
 
 ここで問題になるのは、戦争の開始や目的遂行に必要な冷静な判断と宗教的信念とが両立するか、ということだ。記事を書いたドレイパー氏は、「このことが知れたら、このようなイメージは“ブッシュ政権は宗教戦争を遂行しようとしている”との印象を強め、イスラーム世界との緊張感を高めることになる」として、疑義を表明している。

 谷口 雅宣

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2009年5月27日

自然エネルギーは無限? (2)

 本欄に25日に出した“クイズ”の正解を言おう。
 現在、地球に存在していて利用可能の自然エネルギーの量は、

 ①水力 → 7.2TW
 ②風力 → 870TW
 ③太陽光→ 86,000TW
 ④地熱 → 32TW

 ということのようだ。
 これに比べて、人類全体が現在消費しているエネルギーの総量は「15TW」でしかないのだそうだ。

 この数字が正しければ、太陽エネルギーの利用技術を開発することで、人類のエネルギー問題は解消してしまうことになる。私はこの数字を知って、まさに“目覚むる心地”がしたのである。英語にも「eye-opening」という言葉がある。目がまん丸に開いてしまうとと共に、スッキリと問題が整理されるということだろう。それに、上に掲げた自然エネルギーの分類は、厳密にいうと“排他的”でない。つまり、それぞれの分類の中に他の分類の要素が混じることがないのが“排他的”選択肢だ。ところが、「水力」とは、地上での水の循環(降水 → 河川 → 海水 → 蒸発)の力を利用したエネルギーだから、これが起こる原因には太陽から来る熱が含まれている。また、「風力」が得られるのも、太陽から来る熱が大きな原因だ。「地熱」についても、地球が誕生した原因は太陽だから、地中のマグマは太陽からの恩恵でもある。

 このように考えていけば、人類が太古から「太陽神」を拝んできたことは、まったく“合理的”と言えるのではないか? 太陽エネルギーはまた、我々人間の肉体を内部から支えてくれてもいる。何のことかといえば、それは「人間の食物」のことだ。食物連鎖のピラミッドを思い出してほしい。最下段にあるのは「植物」だが、これは太陽エネルギーを光合成によって内部に取り込んで生きる。この植物の貯めた栄養素を食べて「動物」が生きている。そして人間は、この双方を食して肉体生命を維持しているのだ。
 
 では、化石燃料とは何か? それは、太古に生きた植物や動物の死骸が地中深くに埋もれ、永い時間の経過の中で化学反応を起こし、可燃性の固体や液体、気体に変化したものだ。ということは、これまた太陽の恩恵なくして考えられない。今日、人類が抱えている最大の問題である地球温暖化は、これらの太陽エネルギーの蓄積を“正しく”利用できていないところに原因がある。言い直せば、地下に蓄積された太陽エネルギーを偏って利用しているために、地上と大気圏内での太陽エネルギーの循環を加速させているということだろう。となると、これを抑制するためには、地下に蓄積されたエネルギーの利用を減らし、地上で得られるエネルギーをもっと利用すればいい。つまり、地下資源の利用を減らし、地上資源の利用を増やすことで事態は解決する。中でも、太陽光の直接利用はきわめて合理的と言わねばなるまい。

 最初に掲げた数字から単純計算をすれば、太陽は、現在の人類のエネルギー需要の実に「5,700倍」もの莫大なエネルギーを、常に地球に降り注いでくれているのである。
 
 --天照御親神の大調和の命射照らし地球(くに)静かなりぃ~。
 
 谷口 雅宣

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2009年5月23日

“ミニブログ”が燃えている

「ミニブログ」というのは私がつけた仮名である。本名は「ツイッター」といい、鳥がさえずることを意味する英語「twitter」から来ている。1行から2行の短い言葉を登録し、利用者間で共有するサービスだ。これが今、ネット上で大評判になっている。パソコン、携帯電話、スマートフォンのいずれからも無料で使える。何に使うかは、利用者の想像力しだいという点もおもしろい。

Twitter_logo  中をのぞいてみると、有名人が多いのに驚く。もちろんネット上でのことだから、本人が書いているのか、それともファンが運営しているのか、あるいは全くの偽名なのかは分からない。しかし、アメリカの政治家ではオバマ大統領、ジョン・マケイン氏、アル・ゴア氏はもちろん、カリフォルニア州のシュワルツネッガー知事、テレビタレントのオプラ・ウィンフレイ、自転車選手のランス・アームストロング、大手テレビ局のニュースキャスター、メディアでは『ニューヨークタイムズ』や『BBC』『CNN』『NBC』『タイム』『ライフ』……こういう人々や団体が「つぶやき」(ツイッター自身はそう訳している)をネット上に漏らすことで、何かを実現しようとしているのが分かる。

 最も分かりやすい用途は、『ニューヨークタイムズ』などのメディアの使い方だ。『タイムズ』は、自分のサイトに掲げた記事や映像の“見出し”をツイッターに流している。だから、『タイムズ』の記事に興味がある人は、ツイッター上の同社のページへ行って「フォローする」というボタンをクリックすれば、それ以降、自分のページに“見出し”の配信を受けることができる。そして、興味のある“見出し”をクリックすれば、リンクを通じて記事や映像が見れる。これまでのネット上の新聞の読み方は、①新聞のサイトへ行って、②記事のタイトルを見渡してから、③興味あるものを読む、という3段階の作業が必要だった。しかし、ツイッターによる配信では、①ツイッターへ行く、②興味ある見出しをクリックする、という2段階ですむ。しかも、1紙だけでなく、複数の紙・誌の見出しから選べるのは便利である。
 
 これに比べて、個々の“有名人”のサイトの使い方は、いろいろだ。シュワルツネッガー知事(フォロワー18万2千人)は自分の動静を毎日のように書き込み、ときどき写真も掲示している。これに対して、購読者(フォロワー)の書き込みが多く、それへの同知事の返事も載っている。オプラ(同114万人)の場合は、自分の番組やサイトへの案内や近況報告が多い。かつてABCニュースのキャスターで取材中にイラクで負傷したボブ・ウッドラフ氏(同2千9百人)は、現在自分の財団の活動のために、ツイッターを使っているようだ。彼の財団は、イラクやアフガニスタンから帰還したアメリカ兵への支援活動を行っている。

 宗教運動への利用もいろいろなものが考えられるが、『タイム』誌が6月1日号で取り上げているアメリカの教会の例は、参考になるだろう。それによると、ミシガン州ジャクソン市にあるウエストウインズ・コミュニティー教会では、メンバーを一堂に集めてツイッターの使い方を手ほどきした後、「140字以内で神や信仰について語る」ための時間をもった。チャペルに設置された大型映像装置には、コンピューターの画面が拡大して映し出され、そこへ携帯電話やPCからメンバーがツイッターに書き込んだ言葉が、リアルタイムで表示される。時には冗談が書き込まれることもあるが、「私には、すべてのものの中に神を見出すことは難しい」とか「私が神を求めれば求めるほど、神は私に人のためになることを求める」とか「心の癒しというものは、時につらいこともある」など、真剣な言葉もあったという。教会での礼拝中にこのようにして“つぶやく”ことには、もちろん反対論もある。が、新しい心の通い合いが生まれ、また深まることで、メンバー同士の一体感、神への信仰が深まる--というのが、賛成論者の言い分らしい。
 
 ネット上では、相互に面識のない者同士の新たな関係が世界中で毎日生まれ続けている。多くの人々が心の支えを失っている時代には、このようなネットの特性を生かして、神への信仰をひろめることは宗教者の義務だとの考えが、賛成論者を突き動かしているようだ。

 谷口 雅宣

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2009年5月20日

自動車は“環境性能”重視へ

 アメリカにオバマ政権が生まれたことで、同国内はもちろん世界各地で様々な変化が起こっているが、今後の自動車の開発競争は“環境性能”をめぐるという方向に決まったようだ。本欄等で何年も前からそれを訴えてきた私としては、うれしい限りだ。この分野で世界をリードしてきた日本の自動車産業にとっても、歓迎すべきことだろう。これはアメリカ時間の19日、米政府が発表した自動車の燃費規制の強化策によるもので、19~20日付の新聞各紙が伝えている。
 
 それによると、今回の規制強化策は、すでに決定していた米政府の燃費基準強化策の実施を、当初予定の2020年から2016年に4年繰り上げるというもの。この燃費強化により、2016年以降、同国で販売される自動車は、1リットル当り「15.1km」以上でなければならないことになる。現行は「10.6km」以上だから、業界にはかなり大幅な燃費向上が求められることになる。また、20日の『日本経済新聞』の説明によると、新政策では、この“最低基準”とは別に“目標値”として「16.5km」が求められているが、この数字は、現在のホンダの新型ハイブリッド車「インサイト」の燃費に相当するという。つまり、日本の先端的自動車の環境性能は、アメリカより7年も進んでいるということだ。
 
 しかし、同じ『日経』の別の記事では、トヨタとホンダのハイブリッド車の燃費が比較されていて、そこではトヨタの「旧型プリウス」の最高燃費が「35.5km」、「新型プリウス」が「38km」、ホンダの「インサイト」は「30km」になっている。ということは、アメリカでの燃費基準は「最高燃費」ではなく、別の数字(平均燃費?)によるものらしい。また、この新規制は2016年に突然始まるのではなく、2012年から現行の基準を毎年5%ずつ引き上げることで実施するというから、アメリカの自動車業界は、“待ったなし”の厳しい転換を迫られることになる。
 
 20日付の『ヘラルド・トリビューン』紙によると、米政府のこのような厳しい規制に対して、自動車業界は猛然と反発していると思いきや、「これは我々が求めてきた全国一律の基準であり、実施への時間的余裕も製品開発計画上、無理がないものだ」と歓迎しているというから、驚いた。同記事の分析では、米業界のこのような方針転換は、政治的状況の変化と業界の脆弱な経済体質によるものらしい。つまり、業界寄りの共和党政権が倒れたうえ、老舗のクライスラーの破産に加え、最大手のGMも、政府から大量の資金援助を受けてなお合理化を進めなければならない状況だから、“牙”を抜かれてしまったのだ。

 このような経緯を考えてみると、今回の経済危機は必ずしも“悪い結果”だけを生み出しているのではないことが分かる。困難は時として人間を苦しめることがあるが、その困難を乗り越えることで、新しい可能性に向かって飛躍するものもいる。私は、日本の自動車メーカーがさらに優れた環境性能を実現してほしいと願っているが、それと同時に、アメリカの自動車業界の中から、そのような“ヒーロー”が必ず頭をもたげてくると期待している。
 
 谷口 雅宣

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2009年5月19日

温暖化時代に陸地が隆起

 地球温暖化が起こると氷河や極地の氷が解け、その水は海へ流れ出て、海面上昇が起こり……というシナリオは、すでに多くの人々が知っている。ところが、アメリカ北端の州・アラスカのジュノー市では、氷河の融解にともなって海面が下降しているという。その理由は、陸上に積み上がっていた氷河の重さが減ることによって、陸地が膨張しつつあるかららしい。19日の『ヘラルド・トリビューン』が伝えている。

 地質学者の調査によると、グリーンランドその他のいくつかの地域では、200年以上前にあった氷河融解によって、これと同様の現象が起こったという。が、ジュノー市とその周辺では年間9メートルの割合で氷河が退縮しており、この速度はその当時より速いらしい。これによって、地域の住民の生活には様々な問題が起こっている。まず、海面から陸地が隆起することで地下水面が下降する。すると、湿地や河川は干上がってしまう。湿地帯には乾いた土地が出現するから、隣地との境界があいまいになり、土地をめぐる紛争が起こる。また、氷河から解けた水は沈殿物も一緒に海岸地域に運んでいくから、水は濁り沈泥がたまり、船舶の運航に支障ができる。
 
 アラスカ州南東部の地図をひろげてみると分かるが、このあたりはロッキー山脈が海岸近くまでせり出していて、そこから流れ出る多くの川と、海岸に近接する島々が網目状の複雑な水路をつくっている。そこへ融けた氷河から大量の沈殿物が流れ込むのだから、島と島、島が陸がつながり、川が干上がり、水路は消滅し、森に変化するという現象が起こっているのだ。これによって生態系が大きく変化しつつある。この地方の人間の生活と密接に関係しているのがサケだが、水路が濁ったり、泥で埋まってしまえば、サケは産卵の機会を失ってしまう。

 陸地の隆起のもう一つの原因は、プレート(岩板)の移動だ。これは日本列島の地震の原因でもあるが、アラスカ州南東部の場合は、太平洋プレートが北アメリカプレートを押し上げる位置にあるという。この力と氷河融解との総合効果により、ジュノー近くの土地の隆起は年間8センチ近くという“信じられない”速度で起こっているという。科学者の試算では、ここの土地は過去200年で3メートルも上昇し、温暖化の影響も加わると、これから2100年までにあと90センチ盛り上がるという。

 労せずして自分の土地が増えていくことは一見、よいことのように思える。しかし、それと共に周囲の生活環境も一変してしまうのだから、この地方の人々の戸惑いは深刻なのだ。
 
 谷口 雅宣

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2009年5月13日

運命を獲得する (2)

 個人の運命についても、細部までが本人の誕生前に定められていることを、『ハディース』の「予め定められること」の章は次のように書いている--

「預言者は言った。『アッラーが天使に母の胎の管理を委ねたとき、彼は“主よ、一滴の精液、主よ、血の塊、主よ、肉の塊”と言い、やがて神が創造の業を終えようとされるとき、天使は“主よ、男ですか、女ですか。不幸ですか、幸福ですか。その糧はどれほどですか。またその寿命はいかほどですか”と尋ねるであろう。このように人が母の胎内に居るとき、これらのことはすべて予め定められる』と」

 イスラームの伝統の中にはこのような運命観があるので、アラビア語の「書く」という意味の動詞「カタバ(kataba)」には、通常の意味に加えて「運命をあらかじめ定める」という意味も付与されている、と大川玲子氏は言う。このことを踏まえて、同氏は映画『アラビアのロレンス』(1962年)の中に出てくる主人公とベドウィンの首領との会話の中に、英国人とアラブ人の運命観の違いが、「書く」という言葉の用法によって見事に表現されていることを指摘している。(『聖典「クルアーン」の思想』、pp.137-140)
 
 私もこのシーンを覚えているが、その時の英語は確か「It is written.」だったと思う。何事かが起こることが確実である時に、アラビア語では「それは書かれている」と言うのだ。どこに書かれているかはモスレムの間では自明だから、あえて言わないのだろう。ところが、映画の主人公のロレンスは、ある人物の死について「書かれている」と言われたことに反発し、その人物を助けに行く。その時、そこへは行けないと反対するアラブ人に対して、逆に「それは書かれているのだ……ここにね」と言って、自分の頭を指差す。これが、アラブ人とイギリス人の運命観の違いなのだそうだ。それで結局、ロレンスは自分の考えを実行に移して、その人物を助け出す。これによって、ベドウィンの間では一気に英雄となる。なぜなら、自分の運命を自分で切り開くことなど、イスラームでは考えられないかららしい。

 こういう文脈でアラブ人の運命観を提示すると、それはまるで迷信臭い“遅れた信仰”のようなニュアンスに聞こえる。しかし、私は、『スラムドッグ$ミリオネア』の主人公が、最後のクイズの正解を言い当てたときに、「It is written.」という言葉を漏らしたのを覚えている。この主人公は、「自分は必ず正解を言い当てる」あるいは「言い当てねばならない」との強い意志をもってクイズを勝ち抜いてきたのだから、この時に言った「It is written.」は、『アラビアのロレンス』でベドウィンの首領が言った同じ言葉とは、ずいぶんニュアンスが違うように思う。むしろそれは、同じ時にロレンスが言った「It is written.」に近い意味の言葉だと私には感じられた。つまり、ジャマールは、幼時から好意を寄せていたラティカと結ばれることを自分の運命と信じ、そのために彼女を不幸な境遇から救おうと努力し、そして意を決して挑戦したクイズだから、必ず勝利することを祈り、かつ信じてベストを尽くした。その彼が、最後の勝利を手にしたときに「It is written.」と言ったのだから、それは“天の書”に書いてあることだけを指すのではなく、自分の心にも深く刻印されてきたことも指しているに違いないのである。
 
『ハディース』の同じ章に、人間は生れたときから運命が決まっているという教えに対して、ある信徒が「それなら予め定められたことに身を任せるべきではないでしょうか?」と訊いた時、ムハンマドはこう答えたと書いてある--「いや、そうすべきではない。力一杯行うだけだ。そうすれば、すべてのことは容易になる」。彼はさらに続けて、「喜捨を好み、懼神のこころ敦く、いと美わしい報酬を固く信ずる者もある。そういう者には我らが安らぎの道を易しくしてやろうぞ」と唱えたという。

 イスラームでいう「運命」とは、こういう真剣な努力と信念をともなったものを指すと考えれば、「運命を獲得する」という表現は私には納得できるのである。その場合、これは「内部理想の実現」という考えと違いはなく、“天の書”とは、生長の家で言う「実相」と似通ってくるのではないだろうか。

 谷口 雅宣

【参考文献】
○大川玲子著『聖典「クルアーン」の思想--イスラームの世界観』(講談社現代新書、2004年)
○牧野信也訳『ハディース--イスラーム伝承集成』全6巻(中公文庫、2001年)

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2009年5月12日

運命を獲得する (1)

 7日の本欄でアカデミー賞受賞映画『スラムドッグ$ミリオネア』について書いたとき、イスラームの信仰の中にある「運命を獲得する」という考え方について触れた。この考え方は、現在イスラームの“正統派教義”の端緒となった「アシュアリー派」の教説や『ハディース』の中にある。私は『衝撃から理解へ--イスラームとの接点をさぐる』(2008年)の中で、小杉泰氏の言葉を引用して、この理論を次のように描いた--
 
「人間は主体的選択を繰り返して人生を生きているが、その主体的選択によって、あらかじめ決められている自分の運命を『獲得』しているのだ」(p.157)

 こんなややこしい考え方がなぜ必要かというと、イスラームでは徹底した「唯一絶対神」信仰が求められるからだ。神は創造主であり、それは唯一絶対であるということになると、人間の運命も神の創造以外には考えられない。しかし一方で、人間に自由意思があると考えると、人間は自由に自分の「行動を選択する」ことになる。これを言い換えれば、人間は自分の「行動を創造する」のだ。そして、その行動を原因として、何かの結果が生じる。すると、その結果も神ではなく、人間が創造したことになってしまう。こうして、神の唯一絶対性は人間によってどんどん侵蝕されていく。この矛盾を解決するために考え出されたのが、この「運命の獲得」論である。
 
 イスラームにおける「運命」のとらえ方は、我々日本人とは少し異なるようだ。日本では、運命とは「超自然的な力に支配されて人の上に訪れるめぐり合わせ」であり、「天命によって定められた人の運」(『大辞林』)だ。この「超自然的な力」とは、必ずしも「創造神」でなくてもよく、「天命」は複数の神によるものでも問題はなさそうだ。また、「運勢」とか「開運」「衰運」という言葉が示すように、運命には勢いがあって、開けたり、衰えたりするのだから、多少変化してもいいことになっている。ところが、イスラーム研究者の大川玲子氏によると、イスラームの信仰には、この世で起こるすべてのことは天地創造の時点ですべて決定ずみとするような、厳密な運命観がある--
 
「ムスリムの『サヒーフ』“運命”(カダル)章には、アッラーが諸事象を天地創造の5万年前に書いた、という内容のものがある。このハディースが言おうとしているのは、アッラーが天地創造のはるか昔に、その後に生じること全てに関してあらかじめ決定していたということである。これがイスラームの運命観である」(『聖典「クルアーン」の思想』p.134)

 これと似た考え方は、ムハンマドの言行録である『ハディース』の「創造の初め」の章にある預言者の言葉にも表れている--

「そこで預言者は『初めにアッラーのみが存在し、それ以外は何もなかった。次に神の玉座が水の上に現われ、神は板の上にすべてのものの名を書き、天と地を創造された』と言った」

 これは、天地創造の時点で、神はすべてのものの名前を天上にある「板の上」に書き、それにしたがってすべてのものが創造された--という考え方である。つまり、この世で起こるすべての現象は、創造の時点で“天の書”に書かれていたのだから、それ以外のことは今後も起こらないというのである。この“天の書”という言葉は大川氏の造語だが、根拠のないものではなく、『ハディース』その他のイスラームの文書にしばしばこれに類する表現が現れる。例えば、『ハディース』の上記の文章のすぐあとには、次のようなものがある--

「アブー・フライラによると、神の使徒は『万物の創造を終えたとき、アッラーは玉座の上にある書の中に“わたしの恵みは怒りにうち勝った”と書かれた』と言った」
 
「神の使徒」とはムハンマドのことだが、その言葉として、神は万物の創造後に「書の中に……書かれた」とあるのである。それはいったいどんな書物なのだろう? 大川氏によると、『ハディース』の1つには、天地創造の際の「全事象が書かれた可能性のある場所として『護られた書板』が挙げられて」おり、また、よく引用されるイスラームの伝承には、次のようなものもあるという--

「最初にアッラーが創造したものは『筆』である。アッラーは『筆』に『書け』と言った。『筆』が『何をですか、主よ』と尋ねると、アッラーは『カダル(=運命)を書け』と答えた。『筆』はそれから[最後の]時が起こるまでにあること全てを書き記した」(p. 136)

 このように、天地のすべてのものが予め“天の書”に書き記されているのだから、個人の運命がその例外であるはずがないのである。
 
 谷口 雅宣

【参考文献】
○大川玲子著『聖典「クルアーン」の思想--イスラームの世界観』(講談社現代新書、2004年)
○牧野信也訳『ハディース--イスラーム伝承集成』全6巻(中公文庫、2001年)

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2009年5月 7日

映画『スラムドッグ$ミリオネア』

 私にとっては大型連休の最終日である7日、日比谷で映画鑑賞をした。現代のインドを舞台とした『スラムドッグ$ミリオネア』で、今年のアカデミー賞8部門受賞という鳴り物入りだ。が、派手な印象はまったくなく、予想していた混雑もなかった。インド生まれの作家の小説を原作に、イギリス人監督によるインド人の映画だ。こういう映画を見たのは初めてなので、一種のカルチャー・ショックを経験した。とにかく、インドのスラム街とそこで生きる人々の生活が、子供である主人公の視点から克明に描写されるのが衝撃的だ。この“衝撃”とは、ゴミの山と排泄物、売春、暴力、不正、不条理がひしめく中に、貧困を知らない人がいきなり放り込まれた時、感じるような衝撃だ。
 
 荒筋を簡単にいえば、この貧民街から出た1人の少年が、テレビのクイズ番組を奇蹟的に勝ち進んでミリオネアになる--それだけだ。私は、映画を見る前からこの程度の筋を聞いていたから、少年はトンデモない天才か秀才かと思っていた。しかし、そうではなく、主人公が困窮生活の中で知ったことが、ちょうどうまい具合にクイズの問題として出る、という“よい偶然”の連続によるのである。これだけだと「うまくできすぎた話」で終ってしまうが、主人公がそういう知識を得るために、どのような苦境を乗り越えてきたかが、フラッシュバックの手法で、たたみかけるように画面に映し出されるのが、何とも迫力がある。主人公は「ジャマール」という名前の男の子だが、幼少時代(7歳)、少年時代(13歳)、青年時代(18歳)を3人の俳優が演じる。その3人の間に見事な一貫性がある。

 この一貫性を補強するのが、愛情である。主人公には幼少期から一緒に育った「ラティカ」という女の子がいて、その子との兄妹愛のようなものがやがて恋愛に育ち、その子と一緒になりたいという純粋な動機から、ジャマールはクイズ番組に出るのである。社会的には階級制度がまだあるインド社会で、最下層に属するこれらの人々が、純粋な動機によって“頂上”を目指すという物語の構造が、観客の共感を誘うのだろう。それからもう一つ、「運命」(destiny)という言葉がこの映画のキーワードだ、と私は思った。映画の各所で、主人公は思いつめた目で「これは運命だ」という言葉を吐く。そして、困難を次々に克服してしまう。私は最初、これは単なる口癖だろうと思ったが、もっと深い意味があるようだ。
 
 主人公の育った貧民街の人々は、ヒンズー教が盛んなインドでは少数派の、モスレム(イスラーム信者)のようだ。ヒンズー教徒から襲撃されたことや、ジャマールの兄が神に祈る姿から、そう言えると思う。すると、イスラームの信仰の中にある「運命の獲得」という考え方が思い出される。普通、「運命」とは、生まれた時から存在する一定の“人生コース”のようなものを言う。だから、それはすでに「在る」ものであり、神から「与えられた」ものである。ということは、人間が努力によって手に入れるべきものではない。ところが、一部のイスラームでは、人間は信仰とこの世での努力によって、「よい運命を獲得する」という考え方が採用されている。これを「運命の獲得」論と呼び、難解なことで有名だ。(詳しくは、拙著『衝撃から理解へ』、pp.156-157参照)
 
 この映画では、主人公はイスラーム信仰者として明確には描かれていないが、彼の貧困から脱しようとする懸命な努力と、ラティカへの一途の愛は明らかだ。また、彼がクイズ番組に出ている時、その目は確信に満ちている。そして成功するたびに、「これは運命だ」という言葉が口から飛び出す。その結果、クイズに勝って、恋人も手に入れてしまうのである。これを見て、私は「よい運命を獲得する」という理論は、神学者の理論としては難解でも、実践者あるいは信仰者の理論としては分かりやすい、と妙に納得してしまった。
 
 谷口 雅宣

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2009年4月22日

日本を“資源大国”と呼ぶべきか?

 アメリカの経済誌『Forbes』の日本版が、6月号で「“資源大国ニッポン”のポテンシャル」という題の特集記事を組んでいる。私はすでに昨年の8月20日9月5日の本欄で、21世紀の今は、日本を「資源小国」と呼ぶ古い発想を切り替えるべしと提言し、地熱発電に加え、「太陽エネルギーや風力、潮力などの“地上資源”に注目すれば、まったく違う可能性が展開してくる」と述べた。この特集記事は、それと全く同じアイディアを述べているのではないが、“言葉の力”を使って人々の発想の転換を図るという意味では、大いに好感がもてる。

 しかし、特集の内容を細かく読むと、日本周辺の海底資源には大きな可能性があるから、その開発に注力せよという主旨だ。特に、メタンハイドレートとレアメタル、レアアースの開発を進めろという内容だから、地球温暖化の問題を真剣に考えているとは思えない。メタンハイドレートとは、メタンと水が低温高圧下で結晶化したもので、東海・近畿の南方にある「東部南海トラフ」と呼ばれる海域などで鉱床が確認されている。これを堀り出してメタンガスを抽出し、エネルギー源にしようという構想である。これが混じる砂層は、水深1千メートルほどの海底からさらに300~400メートル下にあるらしい。そういう「深層」に多くあることが分かっているのに加え、海底や湖底の「表層」にもあるらしい。これまでの調査によると、日本で1年間で消費する天然ガスの量に換算して、100年分のメタンハイドレートが日本周辺の海域には存在しているという。
 
 読者はすでにお気づきと思うが、これは一種の化石燃料である。だから、石油や天然ガスをエネルギー源として使うのと同じ問題--温室効果ガスの排出--がある。その点にこの特集記事は何も言及していない。また、ここでは自民党の中川秀直・衆議院議員がインタビューに答えて、こんな発言もしている--
 
「南海トラフに相当量あると予測されるメタンハイドレートと、銅・鉛・亜鉛・金・銀の重金属やゲルマニウム、ガリウムなどのレアメタルを含む海底熱水鉱床が期待されるのは当然ですが、今まであまり期待感のなかった石油・天然ガスについても、探査・開発が海洋政策の柱の一つに位置づけられた点に注目しています」

 この言い方だと、海洋資源の開発と利用の仕組みが整ってきたから、日本は周辺海域の資源をどんどん開発し、エネルギー源やハイテク機器の材料として利用するのがいい、と言っているように聞こえる。中川氏だけでなく、この特集全体が、なぜ地球温暖化の問題に触れないのか、私は不思議に思うのである。中川氏は、自民党の政調会長だったときから海洋基本法の制定に尽力してきた人だが、今後の展望を次のように評価する--
 
「昨年3月に閣議決定された海洋基本計画では、当面の探査・開発の対象として、石油・天然ガス、メタンハイドレート、海底熱水鉱床が挙げられています。そのうち、メタンハイドレートと海底熱水鉱床については、今後10年間で商業化を実現する目標が立てられています」

 私は、日本としては地球温暖化の原因となる化石燃料のようなエネルギー資源の開発はやめて、今後は風力、潮力、波力等の再生可能エネルギーの開発に全力投球すべきと考えるのだが、同氏によると「波や潮流による自然再生エネルギーも可能性の高いところですが、今いちばん注目されているのがエネルギー・鉱物資源です」ということになるらしい。だから、ここでいう「資源大国」という言葉の背後には、あまり新しい発想はないようである。
 
 谷口 雅宣

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2009年4月21日

本欄が書籍に (8)

 このブログを単行本化した「小閑雑感」シリーズの第13巻、『小閑雑感 Part 13』(=写Part13_gm)が、生長の家の3大運動組織の全国幹部研鑽会と全国大会を期して、5月1日付で世界聖典普及協会から発売される。本欄の昨年3月から6月までのブログ79篇を集めたもので、同協会にはすでに入庫しているので入手可能と思う。カラーのスケッチ画や写真が23点入り、268ページ、定価は1,400円(税込)である。今からちょうど1年前の記述を含むので、特に経済の動向などで今の状況との違いが顕著にわかる。例えば、現在のアメリカや日本などの先進国の経済は“戦後最悪”の局面だと言われているが、1年前の3月22日のブログには「食糧危機が近づいている?」と題して、次のようにある:

「このところ食品の値上がりが続いている。これは日本だけのことではなく、世界的な現象だ。原因もわかっているが、効果的な対策が講じられているとは思えない。原因は、①中進国の経済発展に伴う動物食の増加、②気候変動による農業生産の不安定化、③石油の高騰、④バイオエタノール・ブーム、などだ」(p.59)

 ところが今は、外食の需要が減り、石油の値段は下がり、バイオエタノールはだぶついている。“経済危機”の到来で大量の失業者が出ているから、外食をする人も、自動車に乗る人も減っているのである。これは“悪い”方向への変化とも言えるが、“よい”方向への変化もある。昨年の5月14日に私は「“放置国家”から脱出しよう」と題して、日本政府の環境対策がEU諸国に比べて遅れていることを、次のように苛立っている:
 
「これ(“福田ビジョン”)はかけ声としては相当“意欲的”に聞こえるが、すでにEUが掲げている目標と変わらない。では、EUが実施している温暖化対策に近いものを日本が今、行っているだろうか? 答えは“ノー”である。環境税も排出権取引も、自然エネルギー支援のための優遇策も、ほとんど内容のあるものは実施されていない」(p.147)

 しかし、今年は“経済危機”の中で総選挙をにらんだ政府・自民党が、「グリーン・ニューディール」と称して新たな環境対策を打ち出している。例えば、自動車関連の経済刺激策では、一定の排ガス・燃費基準を満たした車の自動車重量税などを軽減したり、新車購入後13年以上の車を廃棄して環境対応車の新車を購入する場合、普通車で25万円、軽自動車で12.5万円を補助。それ以外に一定の排ガス・燃費基準を満たした新車の場合には、普通車で10万円、軽自動車で5万円を助成するなど、実質的な対策が講じられるようになった。この点は評価されていいが、これらは一時的な優遇策の域を出ていない。これに対し、環境税や排出権取引は、長期的視点に立った税制改正と新制度の導入だ。今の政府は、そこまでの改革には及び腰ということだろう。
 
 このように、現象世界は変転きわまりないということが、1年を経過してみるとよくわかる。しかし、変化せずに続いている“流れ”や“傾向”もあるし、季節の変化のような“繰り返し”もあることは事実である。特に、経済の変化は、1~2年の短期では激しく感じられても、“揺れもどし”が来るのが原則だから、中・長期的には同一パターンの繰り返しになることが多いのは、よく知られている事実である。短期的な変化に目を奪われていると、中・長期的な流れを見失う危険がある。地球温暖化問題の解決には長期的視点が必要だ。その視点から見れば、私はこの1年で“流れ”や“傾向”が変わったとは思わない。

 谷口 雅宣

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2009年4月16日

フロリダの誌友会を地方紙が報道

 アメリカのフロリダ州に住む生長の家の信徒、シザー・モッタさん(Cesar Mota)らがこのほど行った英語誌友会の様子が、14日付の地元紙『サウスフロリダ・サン・センティネル』(South Florida Sun-Sentinel,)で紹介された。記事はインターネット上の電子版にも掲載されているので、日本からも読める。この電子版では、誌友会の参加者が「笑いの練習」をする様子が動画で見れるほか、生長の家の簡単な説明もある。それによると、フロリダに生長の家の教えが伝わったのは10年以上前で、ブラジル人のグループがフォート・ローダーデイル市(Fort Lauderdale)の美容院で誌友会を開くようになったからという。その後、生長の家の運動はブラジル人コミュニティーを中心に順調に広まり、現在はマルゲイト市(Margate)に集会所をもつ300人規模のグループに発展しているという。今回の誌友会は、このマルゲイト市のセンターで行われたもの。

 この記事で取り上げられているのは、「笑いの練習」だけでなく、ポルトガル語を話すブラジル人が英語で誌友会を開いたこと、また、参加者の中にはプロテスタントの福音派教徒やカトリック教徒、それにユダヤ教徒もいることなど。また、生長の家の説明には、次のようにある--
 
「生長の家は1930年代に日本で発達し、70から80年代にかけては、大勢の日系移民が移住したブラジルで勢力を拡大した。現在は約180万人の信徒を擁する。“生長の家”とは“無限の成長の家”という意味で、仏教、神道、キリスト教の要素を取り入れた教義をもつ。その中心的な教義の1つは、“すべての宗教は同じ普遍的真理--神は完全であり、善のみを創造された--を基礎としている”ということ」

 --新聞記事としては結構、まともに伝えてくれているのでありがたい。また、アメリカでの生長の家については、次のように説明している--

「アメリカでは、1954年に日系移民がハワイで最初に生長の家のセンターを開設し、現在は7つの州に約6千人の会員がいる。アメリカ国内の会員のほとんどは日系人だが、フロリダだけは例外だと、カリフォルニア州にあるアメリカ合衆国伝道本部の川上真理雄・副教化総長は語った」

 インターネット時代には、このような事実がすぐに伝わり、報道記事もいながらにして読める。間違った報道ではダメージも大きいが、正しく伝わることのメリットは大いに評価できる。
 
 谷口 雅宣

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2009年4月10日

天皇皇后両陛下のご結婚50年をお祝いして

 昭和34年に天皇皇后両陛下がご結婚されてから、今日でちょうど50年目になるというので、朝からメディアにはお祝いの言葉と映像が続いていた。大東亜戦争後の厳しい時代から高度経済成長時代、公害の深刻化、沖縄の本土復帰、冷戦の終了など、変化多い半世紀を、数々のご苦労やご努力を表に出されずに、我々国民のために明るく公務を全うされてきた両陛下に心から感謝申し上げ、お二人の固い絆をお祝い申し上げます。天皇皇后両陛下、ご結婚50年誠におめでとうございます。

 今日の新聞各紙は、この日のために8日に行われた記者会見で両陛下が述べられたお言葉を伝えているが、その中で私の心に強く響いたポイントが2つある。1つは、天皇陛下が日本国憲法で規定された「象徴天皇制」を高く評価されている点だ。『朝日新聞』によると、陛下のご発言は次の通りである--
 
「(前略)私は即位以来、昭和天皇をはじめ過去の天皇の歩んできた道にたびたび思いを致し、また、日本国憲法にある、天皇は日本国の象徴であり日本国民統合の象徴であるという規定に心を致しつつ、国民の期待に応えられるよう願ってきました。象徴とはどうあるべきかということは、いつも私の念頭を離れず、その望ましいあり方を求めて今日に至っています」

 このあとに陛下が話されたことは、私にとって驚きだった--
 
「なお大日本帝国憲法下の天皇のあり方と、日本国憲法下の天皇のあり方を比べれば、日本国憲法下の天皇のあり方の方が、天皇の長い歴史で見た場合、伝統的な天皇のあり方に沿うものと思います」

 このお言葉の背景には、明治の開国から大東亜戦争の敗戦に至る時代は、日本にとっては言わば“危機の時代”であったから、天皇のあり方も一種の“危機対応型”にならざるを得なかったとのお考えがあるのだろうか……私としては、そう推測させていただくのである。明治憲法下では、天皇は国家元首であるだけでなく、軍隊を直接掌握する権限が与えられていた。国政に関しても、現憲法では許されない権限をもっていた。それよりも、今の象徴天皇制の方が、日本の長い歴史の伝統により近い、とのご認識なのである。
 
 また、私の印象に残った2番目は、この「伝統」についての両陛下のお言葉だった。天皇陛下は、皇室の伝統を次世代にどう引き継いでいくかという質問に対して、こう述べられた--
 
「先ほど、天皇のあり方として、その望ましいあり方を常に求めていくという話をしましたが、次世代にとってもその心持ちを持つことが大切であり、個々の行事をどうするかということは、次世代の考えに譲りたいと考えます」

 このお言葉は、「伝統を墨守する」というのとは大きく異なる。伝統的行事をすべて守っていくとはおっしゃらずに、「天皇の望ましいあり方」に沿うのであれば、個々の行事の改廃については次世代の判断に任せるとのお考えである。この点について、もっと明確な意思を表明されたのが皇后陛下である。
 
 皇后陛下は、天皇陛下が皇室の伝統的行事や祭祀について「昭和天皇の御代のものをほぼ全部お引き継ぎになりました」と述べられ、「伝統があるために、国や社会や家がどれだけ力強く、豊かになれているかということに気づかされる」と述べられた後に、伝統のマイナスの側面についても、次のように明言された--
 
「一方で、型のみで残った伝統が社会の進展を阻んだり、伝統という名の下で古い慣習が人々を苦しめていることもあり、この言葉が安易に使われることは好ましく思いません」

『産経新聞』は今日の「主張」欄で皇室典範の改正について触れ、女性天皇や女系の天皇の可能性について「男系による皇位継承の伝統を破るもの」とし、「伝統を守りつつ、弥栄をはかるには旧皇族の復帰など皇室の拡充を真剣に考えるべきだ」と述べている。が、天皇皇后両陛下ご自身は「伝統墨守」のお考えではないことを、我々はしっかり理解しておこう。

 谷口 雅宣

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2009年4月 7日

北朝鮮の“飛翔体”

 北朝鮮が5日午前に「テポドン2」なる“飛翔体”を遠く太平洋まで飛ばしたことで、日本中は大騒ぎだった。そのほとぼりが一応収まりつつあるところで頭を冷やして考えてみると、何かがそれほど大きく変化したわけではない、と私は思う。私は「北朝鮮の核実験」という題でこれまで本欄に3回にわたって書いた。最初が2005年5月10日、2回目は2006年10月8日、そして3回目はその翌日である。その中で間違っていた予測が1つある。それは、北朝鮮が核実験をしたら「その影響はきわめて大きい。韓国や日本の安全保障とも深く関わってくる……」などと書いた4年前の判断は、どうやら外れたようだ。4年間で、ほとんど何も変わらなかった。韓米安保も日米安保も同じ状態で、変ったことと言えば韓国が北朝鮮に対して“厳しく”当るようになり、その逆にアメリカには“悪の枢軸”をやめて“対話”を掲げるオバマ政権が誕生したこと。あとは、かの国の“金さん”が一度脳卒中になり最近、げっそり痩せた姿の写真を発表したことぐらいだろうか?

 この件での私の認識は、上記の3回目の文章とあまり変わっていない。簡単に言うと、日米安保体制が健全に機能し、日米関係が良好であるかぎり、アメリカの核の抑止力が働いているから、北朝鮮の“核の脅威”が深刻化したとは思わない。理由は、その時の文章に詳しく書いた。その中にこういう記述がある--
 
「まず第一に、核兵器を持ったということと、それが軍事的な脅威になることとは、必ずしも同義ではない。核兵器は、ある国の内部にあるだけでは軍事的脅威ではない。それを仮想敵国の内部まで一定の信頼性をもって運搬する手段が必要である」

Tepodon  2006年7月に北朝鮮が行ったミサイル発射実験では、「テポドン2」はうまく飛ばなかったが、今回はだいたい予告したコースを飛んで、太平洋にまで達したから、この「運搬手段」の信頼性はやや増した。そういう意味で、北朝鮮の“核の脅威”は確かに「増大した」と言える。が、その増大の程度は日本にとって「深刻」とはまだ言えない段階である。その最大の理由は、良好な日米関係に加えて、今回の実験も「失敗」と呼んでいいからだ。

 「実験失敗」という評価は、実験直後からアメリカ側から暗示されていた。アメリカの本土防衛を担当する北米航空宇宙防衛司令部(NORAD)は、現地時間5日未明に声明を出して「(衛星の)軌道上に乗った物体はない」と確認した(6日『日経』)。7日付の『日経』によると、河村健夫官房長官は6日の記者会見で「衛星が軌道を周回しているという認識は持っていない」と述べ、防衛省の増田好平事務次官も「米国からも“軌道に乗ったものはない”と説明を受けている」と語った。また、インタファクス通信は、ロシアの軍参謀本部高官も6日に「我々の情報では軌道上に衛星はない」と認めたと伝えた。『朝日新聞』も7日付で米ロ日韓4カ国が「“打ち上げ失敗”で一致」したと報じた。同紙は7日の夕刊ではさらに詳しく、防衛省が「データを総合した結果、人工衛星を軌道に乗せるために必要な秒速約8キロには速度が達していなかったと確認した」と報じている。

 アメリカのメディアの評価は、もっと厳しい。7日付の『ヘラルド・トリビューン』紙は、「失敗は“恐るべき国”を目指す北朝鮮に痛手」(Failure hurts Pyongyang's quest to be a feared entity)という見出しの記事を載せ、「追尾データを詳しく見ると、ミサイルは搭載物ともども海中に落下した」という専門家の分析を紹介している。それによると、この実験を“密かな成功”と見るのは間違いで、これは同国の過去の一連のヘマの続きであり、同国の品質管理には問題があるとの見解だ。特に、ハーバード大学の天文学者で衛星とロケット打ち上げを監視しているジョナサン・マクドゥウェル氏(Jonathan McDowell)は、今回の実験は“後退”であるとし、「(北朝鮮の)ミサイルは、短期的には何ら脅威とならない」と述べている。また、別の専門家は、北朝鮮から技術提供を受けたはずのイランが、今年2月にすでに小さな衛星を地球の軌道上に乗せるのに成功していることを指摘し、北朝鮮の抱える問題を示唆している。
 
 これらのことから判断すると、今回の北朝鮮の実験により、同国が大陸間弾道弾(ICBM)の能力を得たとは言えないし、近い将来に得る可能性も少ない。したがって、同国がアメリカ本土に脅威を与える可能性は、少なくとも短期的には存在しない。よって、わが国にはアメリカの核の抑止力が引き続いて有効に働くと見るべきだろう。
 
 谷口 雅宣

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2009年3月24日

なぜ今「地球環境工学」か? (3)

「地球環境工学」を語りながら、私はここまで肝腎なことを1つ書かなかった。それは、この新しい科学技術が「具体的に何をするか」ということである。前回紹介した『NewScientist』誌は、この技術について「地球の自動温度調節装置を調整すること」と表現し、具体的手法として、太陽光を拡散させて弱めるために「大気中に微細な塵をばらまく」ことや、「宇宙空間に鏡を大量に打ち上げる」ことなどを挙げている。しかし、その一方で「植林」も地球環境工学の“原始的方法”だとしているところを見ると、若干、概念の混乱があるのかもしれない。が、読者にこの概念のイメージを理解してもらうために、同誌の挙げている例をすべて列挙してみる:

(1) 宇宙鏡の設置(space mirrors)--上述の通り。

(2) 植 林(foresting)--省略。

(3) エーロゾル散布(aerosols)--成層圏に煙霧質の粒子を散布する。

(4) 人工雲の作製(cloud seeding)--海水を粒子にして大気中に散布する。

(5) 人工木の埋設(artificial trees)--炭素を固定した人工木を地中に埋める。

(6) 反射性作物の栽培(reflective crops)--太陽光の反射効率が高い作物を植える。

(7) 生物炭化法(biochar)--農業廃棄物を炭化させて土中に埋める。(2月9日の本欄参照)

(8) 海洋肥沃化(ocean fertilization)--海中への鉄分付加でプランクトンを活性化。

(9) 海洋への炭酸注入(carbonate addition)--粉末の石灰岩を海中に投入する。

 これらの具体策を見て気がつくことは、ほとんどのものが比較的安価に実行できることだ。「安価」という意味は、現在考えられている温暖化抑制のための諸方策--省エネ、省資源、リサイクル、炭素税、排出権取引、自然エネルギー開発など--に比べて、コストが安く見えるということだ。また、一国の決断で実行できるという点も見逃すことができない。この2つの要素は、しかし地球環境工学の長所であると同時に問題点でもある。なぜなら、安価で実行しやすい方策は、国際的な取り決めなしに、また環境への影響評価を軽視して実行されやすいからである。
 
 『NewScientist』誌によると、この危険性は実際、2005年11月にあったという。当時、国連のIPCC(気候変動に関する政府間パネル)の副議長で、ロシアの地球気象環境研究所の所長であったユーリ・イズラエル氏(Yuri Izrael)は、プーチン大統領に対して、ロシアは今すぐ大気圏に60万トンの硫酸塩エーロゾルを散布すべきだと提言したのだ。この方法は、上記のリストの3番目にあるものだが、2007年に行った実験によって、硫酸塩による太陽光の遮蔽は、地球のある箇所に深刻な旱魃をもたらす危険があることが分かったのだ。

 だから、このような危険性を無視して地球環境工学を実施することは、国際紛争の原因になるのである。事実、アメリカはベトナム戦争時代、敵のホーチミン・ルートの補給路を断つ目的で人工雨を降らせる実験をしたことがある。つまり、この技術は戦争目的に使用できるし、実際にそうされたことがあるのだ。これによって「国連環境変容技術の敵対使用禁止協定」(UN Convention on the Prohibition of Military or Any Other Hostile Use of Environmental Modification Techniques, ENMOD)が作られ、今日までにアメリカを含む70カ国が批准していることは重要である。この技術の“悪用”が、人類全体にとって、さらには地球全体の生態系にとって深刻な問題を投げかける可能性を忘れてはならないだろう。
 
 谷口 雅宣
 

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2009年3月23日

なぜ今「地球環境工学」か? (2)

 地球の平均気温に「4℃の上昇」が起こった場合の科学者のシミュレーションを、3月21日の本欄で紹介した『New Scientist』の記事から拾って紹介しよう。

 同誌は、それが起こった時の地球環境を「人類がかつて経験したことのない変わり果てた地球」だと表現する。が、人類が登場する前の地球には、そういう“温暖時代”があったらしい。それは今から5500万年前で、海底深くに凍結し化学的に封印されていたメタンが、地上に噴き出したことで始まったと言われる。これによって5ギガトンの炭素が大気中に放出され、地球の平均気温は5~6℃も上昇し、極地に熱帯林が出現したという。また、海には二酸化炭素が融け出して酸化したため、海洋生物の大量死が起こった。加えて、氷の融解によって、海面は現在より100メートルも高い位置まで上昇し、南アフリカからヨーロッパあたりまで砂漠になった。「4℃の上昇」が起こると、これと似た現象が起こると予測されている。
 
 これは理論上の想定で、実際に何がどう起こるかは、気温上昇のスピードと、極地の氷がどれだけ融けるかによって変わってくるらしい。が、この“温暖時代”の大きな特徴の1つは、現在の地球で人間の居住と食糧生産に適した場所の多くが、居住にも農業にも適さなくなることだ。また、水温の上昇による海水の膨張や、氷河の融解、高波などで、当初は海面が2メートル上昇し、さらにグリーンランドや南極の氷が融け出せば、さらなる海面上昇が起こるという。NASAのゴッダード宇宙科学研究所のジェームズ・ハンセン所長(James Hansen)によると、大気中のCO2の濃度が現在の「385ppm」から「550ppm」になれば、地球上から氷は完全に消え、海面上昇は80mに達するという。

 人類が居住地と農地を失う理由は、熱帯地域の砂漠化によるらしい。現在、地球上の土地の半分は北緯30度から南緯30度の熱帯に位置していて、この地域が特に気候変動に対して脆弱であるという。平均気温が4℃も上がると、例えば、インド、バングラデッシュ、パキスタンなどでは、短期間に激しい熱帯モンスーンが訪れる。これが、現在より洪水の被害を拡大する一方で、地表の熱は上がっているから、蒸発も速く起こる。そこで、アジア地域では旱魃が悪化するという。これらの影響で、バングラデッシュでは土地の3分の1が失われると予測されている。
 
 アフリカのモンスーンも激化するという。モンスーンが運ぶ雨により、サハラ砂漠から南方の地域は恐らく一度は緑化すると予測する人がいる。その一方で、アフリカ大陸全土を、深刻な旱魃が襲うとする予想もある。また、地表の温度が上がることで水分が減少するから、中国大陸、アメリカ合衆国南西部、中米地域、南米のほとんどと、オーストラリアで得られる淡水の量は減少する。サハラ砂漠は北上しながら拡大して、中央ヨーロッパに達する。さらに、温暖時代には氷河は消えてしまうから、ヨーロッパ・アルプス、ヒマラヤ、南米のアンデスなどからの水量は激減し、その結果、アフガニスタン、パキスタン、中国、ブータン、インド、ベトナムなどで水不足が深刻化するという。

 このように見てくると、地球上で人類が生活できる地域は、北極と南極に近いごく限られた土地ということになる。ガイア理論の提唱者であるジェームズ・ラブロック博士(James Lovelock)によると、極地付近の地域以外には人が住めなくなるため、「人類は極めて困難な状況に置かれるし、私は、こういう困難を切り抜けられるほど人類が利口とは思わない。人類は生物種としては生き残るだろう。しかし、今世紀中に出る犠牲者の数はとてつもなく大きくなる」という。
 
 地球環境の将来について、このように深刻な予測が、名の通った科学者や一流の研究機関の間にあることを知ってみると、そんな事態を防ぐためには「あらゆる手段を使うべし」という意見が出ることも頷ける。「今、地球環境工学の実地研究に乗り出すべきだ」という考えは、こういう文脈で表明されているのである。
 
 谷口 雅宣

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2009年3月22日

速度を落とせ

 今日、大津市で行われた滋賀教区の生長の家講習会では、朝から小雨模様であったにもかかわらず、前回を1割強上回る3,763人の受講者が集まってくださった。鈴木幸利・教化部長をはじめ、同教区の幹部・会員の皆さま方の並々ならぬご努力に、心から感謝申し上げます。体験談も粒ぞろいで、聖歌隊の合唱もよかった。講習会終了後の幹部懇談会でも、和やかな雰囲気の中で、中身のある意見交換ができたことはありがたかった。

 講習会の午後の講話で、私は現在の世界的な経済危機の克服のために、一部の政府が大量の資金をつぎ込んで公共事業や大規模プロジェクトの実施を考えていることを、遠回しに批判した。欲望を駆り立てて“人間本位”の世界をつくり上げようとするこれまでの手法が、「良好な地球環境の維持」の要請とはもはや両立しないと考えているからだ。この点は、前回の本欄を読み返していただければ了解してもらえると思う。
 
Slower 「スローライフ」とか「スローフード」という言葉が使われるようになっているが、現代人の“先を急ぐ”生き方の限界を示しているのが今日の経済状況であり、政治の無能であると思う。今朝、大津市で泊まったホテルから下を見ると、雨で濡れた道路に大きく白文字で「速度落せ」と書かれていた。その言葉が、今の人類全体への警告のように思えたので、写真に撮った。私たちは「緑の森」「青い海」が自分たちにとってどれだけ大切かを、忘れかけているのではないか。

 谷口 雅宣

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2009年3月21日

なぜ今「地球環境工学」か?

 私は最近、「ジオエンジニアリング」(geoengineering)という言葉が気になっている。アメリカの外交専門誌『Foreign Affairs』(フォーリン・アフェアーズ)が3~4月号の表紙の見出しにこの言葉を使ったし、イギリスの科学誌『New Scientist』が2月28日号(vol.201, No.2697)の論説の見出しに、やはりこれを使っている。

 ジオ(geo)とは「地球の」とか「地理に関する」という意味の接頭語だ。従って、ジオグラフィー(geography)は「地理」であり、ジオロジー(geology)は「地質学」、ジオポリティックス(geopolitics)は「地政学」である。エンジニアリングはもちろん「工学」のことだから、「地球」や「地球環境」を工学の対象とするのが「ジオエンジニアリング」である。新しい言葉だから、私の使う英和辞典にも英英辞典にもまだ載ってない。
 
 ご存じのように、遺伝子工学(genetic engineering)は、人間が生物の遺伝子を操作することによって、生物を人間の目的に合わせて制御したり、改変する学問だから、ジオエンジニアリングは「地球や地球環境を人間の目的に合わせて制御し、改変する学問」ということになる。私はそれを「地球環境工学」とここでは訳した。
 
 賢明な読者はすでにお気づきと思うが、著書や本欄などを通して遺伝子工学に疑義をはさんできた私にとって、「地球環境工学」はさらに疑わしい考え方である。それは私が、宗教家であるからではない。多くの科学者が「地球環境を人間の力で操作するためには、遺伝子操作よりもさらに慎重な配慮が必要だ」ということをよく知っている。第一、「今日の深刻な地球温暖化の原因は、人間の活動による温室効果ガスの増大である」という事実が、地球環境工学の難しさを証明していると言えるからだ。産業革命によって、我々は当初まったく意図せずに、地球環境を悪い方向に変える技術と文明を創造した。そして今日、悪いと知りながらも、この方向を逆転できないでいる。自分の行動の過ちを正せない人間が、何を今さら「地球環境工学」か?
 
 私が「ジオエンジニアリング」という言葉を目にした最初の印象は、そういうものだった。ところが今日、生長の家講習会のために滋賀県大津市に向かう新幹線の中で上記の『New Scientist』誌を読んだ私は、この学問が今、科学者の間では“最後の手段”として論議の対象になっていることを知った。私が言っているのは、経済危機とか北朝鮮のミサイルのことではない。現在の人類の意識と世界の政治・経済制度では地球温暖化を止めることができないから、人類の犠牲を最小限に食い止めるために、科学技術を動員して地球環境の操作に、あるいは少なくともそういう技術の研究に着手すべしという議論が、環境学者や気象学者の間で行われているのである。
 
「4℃の上昇」というのが、ここでのキーワードである。つまり、地球の平均気温の上昇がこのレベルに達すると、地球環境の変化は後戻りできない状態になるらしい。そして、何年後にこの段階に達するかといえば、あるコンピューター・モデルは「2050年」にはなるという。が、それは悲観的予測で、多くの科学者は「2100年」までにはそうなると予測しているようだ。我々の子や孫の時代だ。これはもちろん、現在の京都議定書での取り決めが実現せず、さらなる政治的努力も効果がないという前提に立っているのだろう。つまり、“最悪の事態”の到来を予測して、今から準備を始めるべきだとの考え方である。
 
 科学者がそれほどの危機感を抱く理由は、「4℃の上昇」が起こった場合の地球環境のシミュレーションを知れば了解できる。が、そのことは、次回以降に譲ろう。

谷口 雅宣

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2009年3月19日

ブラジル全土で“ネット研修会”

 日本の生長の家では、地球温暖化抑制のための“炭素ゼロ”を目指した運動を展開していることは、多くの読者はすでに御存じのことだ。このためには、交通機関の選択を含んだ国内での人の移動や、集会の持ち方など多方面に工夫が必要であることは言うまでもない。全国59教区に置かれた教化部会館や6箇所の本部直轄練成道場では、環境経営システムの国際基準であるISO14001の認証をすでに得ているから、日常的な活動の中では、国際基準にもとづく温室効果ガス削減の努力を続けているところだ。しかし、宗教運動には人と人との密接なコミュニケーションが不可欠である。宗教は伝統的に、この人と人との直接対面による“魂の触れ合い”が核心となって発展してきたから、「人を集める」ことなくして宗教行事は考えられなかった。

 しかし、昨今の通信技術の劇的な進歩によって、「人を集める」機能の一部を通信技術が肩代わりすることが可能になっている。都道府県単位で行われる生長の家講習会では、衛星による複数会場への同時中継が行われることは、もはや珍しくない。また、全国行事においても、白鳩会の全国大会が衛星中継によって数カ所で同時開催されてきたし、昨年12月には「故生長の家総裁、谷口清超先生追善供養祭」が光回線を使ったインターネット中継によって、全国60箇所以上に配信された。そして、今年5月初めにも、生長の家白鳩会の幹部研鑽会が全国3カ所で同時中継される予定だ。
 
 これは日本国内の事情だが、生長の家の信徒数が日本を上回るブラジルでは、通信事情が日本より悪いと聞いていたので、全国に向けた行事の同時中継など当分先の話だと考えていた。ところが、ラテン・アメリカ教化総長、向芳夫・本部講師の報告によると、ブラジルではこの3月15日に、全国にある83の教化支部を会場にして、今年上半期の講師研修会をインターネット中継によって実施したというから、驚いた。研修会は午前10時に始まり、開会式からインターネットで配信したらしい。また、本部講師が担当する4つの研修と、昼食を挟んだ後の地元講師会長による研修などが行われた。向総長自身は、今年8月にサンパウロで行われる「世界平和のための生長の家国際教修会」の参加促進と「祈りの力について」と題する研修も担当したという。同総長は、この画期的取り組みについて「終了後、各教化支部からの反響も聴取しましたが、皆さん大変喜んでくれました」と報告してくださった。

 また、この“ネット研修会”に参加したサンパウロ市の地方講師によると、参加対象になったのはブラジル国内の約3千人で、この中には地方講師だけでなく、昨年の地方講師試験受験者も含まれるという。サンパウロ教区では60人の地方講師が“ネット研修会”に参加した。研修会を指導したのは、向教化総長のほか、村上真理枝・副教化総長、北原オリンピオ・本部講師、高橋信治・本部講師の4人という。効果的な研修会となったかどうか、参加者の反応が知りたいところだ。
 
 ブラジルはすでに、自動車の燃料としてバイオエタノールを使っているが、日本の20倍の広さがあるこの国で、このような形で講師研修会が行われれば、二酸化炭素の削減効果はさらに大きいに違いない。日本の“炭素ゼロ”に向けた運動にも、大いに参考になる試みである。
 
 谷口 雅宣

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2009年3月17日

本は不況に強いのか?

 3月10日の本欄では、インターネット書店「アマゾン」の電子本専用機のことに言及して、「こんなものが日本に上陸したら、紙製の本の売り上げはますます落ち、中小の書店は相当打撃を受けるだろう」などと書いた。ところが、その一方で、ヨーロッパやアメリカの書店では、この不況の中で紙製の本の売り上げが伸びているというのである。16日の『ヘラルド・トリビューン』紙が伝えている。
 
 それによると、フランスでの本の販売数は、昨秋にいったん減ったものの、12月には前年同月比で2%増え、1月には2.4%増となった。金額ベースではさらに良く、1月は前年同月比4%増、2月には7%も増えたという。ドイツでも同様の傾向が見られ、1月の販売数は前年同月比で2.3%増えた。アメリカとイギリスではそれほどよくないものの、昨年は減っていない。が、今年に入って最初の10週間は、約1%の減少だそうだ。しかし、この減少幅は、他の産業が軒並み2桁台の売上減少を示しているのに比べ、驚くほど小さい、と同紙は言う。
 
 なぜこうなのかについては、いろいろの説がある。まず書籍は、新型テレビやゲーム機に比べて安価であるから、絶好の代替品だ。また、失業者が増えているため労働時間が短くなり、空いた時間を読書に使う人が増えたとも考えられる。あるいは、最近数年間の過剰な労働を経験した人々が、今は読書によってものを考えるようになったのかもしれない。さらには、過酷な現実と直面したくない人々が、名作の中に逃げ込んでいるのかもしれない……。

 が、この傾向が長く続くと考えるほど、同紙は楽観的でない。というのは、書籍の売上が伸びているのは小売段階であって、卸段階では逆に減っているからだ。具体的には、アメリカでの昨年の本の卸売総額は2.4%減ったという。理由は、書店側が出版社への注文を減らしているからだ。また、書籍販売への不況の影響は、遅れてやってくる可能性もある。というのは、同紙が指摘しているように、1929年にウォール街で株価が暴落した直後は、書籍販売はさほど減らなかったものの、それから数年たって大恐慌が進行するにつれて本は売れなくなり、多くの出版社が倒産したからだ。が、逆に、不況によって生れた出版社もあるらしい。それは1935年に設立されたペンギン・ブックスで、同社の創業者は「よい本を煙草1箱の値段で」という新しい考えのもとに起業し、成功した。
 
 現在の書籍の好調の理由を考えるのに、参考になるデータがある。それは、このペンギン・ブックスから出ているジョン・ガルブレイス(John Kenneth Galbraith)の名著『大恐慌--1929年』の売上である。一昨年の同書のイギリスでの売上は200冊そこそこにすぎなかったが、昨年は1万2千部も売れたそうだ。ということは、この不況下にあってこそ、人々が求める本を出すことが出版社の命運を決めることになるのである。

 谷口 雅宣

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2009年2月19日

宗教は暴力抑制の源泉か?

 アメリカ人の政治コラムニスト、トーマス・フリードマン氏(Thomas L. Friedman)が19日付の『ヘラルド・トリビューン』の論説の中で、「宗教と文化は、ひとつの社会における最も重要な抑制の源泉である」と書いていた。この文章は、それだけ読めば、宗教に好意的な評価をしていると受け取られる。しかし、フリードマン氏がここで書いているのは、昨年11月にインドのムンバイで起こった無差別殺戮事件の犯人のことなのである。もっと具体的に言えば、この事件で軍や警察と撃ち合って射殺された9人のテロリストの死体が、埋葬の引き受け手がないまま、病院の死体安置所に放置されていることを書き、その話の続きに「宗教は……重要な抑制の源泉である」と述べているのである。そして、彼はこの9人のことを「パキスタン人のイスラーム・テロリストたち」(Pakistani Muslim terrorists)と呼んでいるから、彼らテロリストが宗教的動機によって残忍な無差別殺戮をしたことを同氏は認めている。政治分析には明晰な論理を展開する同氏だが、宗教の問題では何か混乱していると感じた。

 フリードマン氏の言いたいことは、こういうことだ--宗教信者による自殺的テロは、開かれた社会の中ではほとんど防ぐことができない。なぜなら、公道や公共の場ですべての人の身体検査をすることはできないからだ。これを防ぐ唯一の方法は、社会そのものの中にある。ある文化や信仰コミュニティーが自殺的テロ行動を堂々と、明確に、首尾一貫して否定するようになれば、金属探知機や警官の増員よりも有力な抑止力になる--というのである。そして、この後に、最初に引用した言葉を書いている。同氏はここで、テロリストの遺体の引き取りを「堂々と、明確に、首尾一貫して」拒否したインドのイスラーム・コミュニティーのことを誉めているのだが、その同じイスラーム信者の中にテロリストがいるという矛盾については、なぜか口を閉ざしている。
 
 私は、フリードマン氏が宗教や文化に与える評価に反対するつもりはないが、宗教が内部に抱える矛盾についても、もう少し書いてほしかった。この矛盾の背後には、宗教で最も重要な「教義の解釈」の問題が横たわっている。インドのイスラーム社会では、無差別自爆テロは教義に反するとして明確に否定されているが、アラブの主流であるスンニ派のイスラーム解釈とメディアの間では、それが容認されるだけでなく、一部では“殉教者”として称賛される。このようなまちまちの解釈が行われるのは、イスラームという宗教が伝統的に柔軟な、幅広い解釈を許してきたからであり、また、アラブのスンニ派の解釈が過激になりやすい原因の1つには、イスラエルとの長期にわたる武力紛争があり、この紛争の一方の当事者を西洋社会が支援してきたという事実もある。だから、宗教や文化そのものが、暴力の抑制の源泉であるのではない。このことは、日本人ならばオウム真理教の活動を振り返ってみればよく分かるだろう。

 宗教の教えの中には、暴力の発動を抑制するものもあれば、それを正当化するものを含む場合もある。大体においては、前者が後者を上回っているのが普通の宗教だ。しかし、宗教が国家権力や社会から圧迫を受け、あるいは独自の教義解釈が一人歩きをして社会から遊離していくと、“窮鼠猫を噛む”式の教義解釈が成立して、暴力的行動が現れることがある。私はそのことを『心でつくる世界』(1997年)の中で、アメリカとフランスでの実例を挙げて詳しく書いている。そういう理由で、私は宗教の教義を「すべてよし」とするのではなく、その中の重要なもの(中心部分)とそうでないもの(周縁部分)とを分離する試みを提案しているのである。
 
 谷口 雅宣

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2009年2月18日

ブラジルの子供たち

 かつて私が学んだコロンビア大学の『SIPA NEWS』の今年1月号がラテン・アメリカ特集を組んでいたので、興味深く読んだ。生長の家では今夏、ブラジルで「世界平和のための国際教修会」が予定されていて、そこにはラテン・アメリカ諸国から大勢の人が集まる予定になっているからだ。また昨今は、ブラジルを筆頭としたラテン・アメリカ諸国の経済発展が話題になっているからでもある。そんな中で、私はこの出版物を読んで、自分が日本とも関係の深いこの新興大国に何回か行っているにもかかわらず、その実情をあまり知らないことに気がついた。
 
 この出版物は、同大学の国際公共学校(School of International and Public Affairs)が年2回出す、ニュースレターのようなものだ。その中のマッシモ・アルピアン氏(Massimo Alpian)の記事には、リオ・デジャネイロの貧民街の子供たちの様子が描かれている。そこでは、11歳そこそこの男の子が、首からAK-47型ライフル銃を下げて歩いているのに出会うそうだ。彼の表現によると、リオは今、世界で最も暴力が多く、かつ最も自然が美しい街の1つである。その理由は、風光明媚の自然の中で貧困が蔓延しているかららしい。ブラジルは、急速な経済成長にもかかわらず、社会的不平等が世界で最も顕著な国の1つという。具体的には、全人口の10%を占める富裕層が国の富の50%を稼ぎ出す一方で、約34%の国民が貧困層に属するという。「ファヴェーラ」という貧民街に住む人の数は、正確には不明だが、政府の概算によると全人口の20%にも及ぶらしい。
 
 貧民街の生活は、麻薬と暴力から自分を守る日々だという。そして、頼みの綱であるはずの警察官の行動は、人権侵害も起こるほど無秩序で、予測困難なのだという。最近、イギリスの人類学者、ルーク・ドウドニー氏(Luke Dowdney)が行った研究によると、18歳未満の少年少女が1年間に銃によって殺される数は、世界で正式に“戦闘地域”に指定されているどの場所よりも、リオの街が多いそうだ。貧民街は、麻薬密売組織によって運営され、子供たちはそういう組織の縄張りを守るために武装させられるのである。そのため、1988年から2002年までの14年間で、リオ市内で銃によって殺された若者の数は、ほとんど4千人に達するという。現在、武装した子供は、リオ市内だけで5千人から6千人もいるというから驚きだ。
 
 そんな中で、「ヴィヴァ、リオ!」などのNGOが行っている対策は“平和教育”と呼ばれている。これは、子供が暴力にさらされている地域で、教育や紛争の仲裁活動を行うことで、子供たちのものの見方を変える活動らしい。また、上記のドウドニー氏が始めたプロジェクトでは、教育に加えて、子供たちの生活スタイルの転換をねらっている。これは、子供たちにスポーツをさせたり、職業訓練、指導者になる訓練、紛争仲裁のための訓練をするものだ。そのために、F1レーサーやスポーツ界の有名人を招いたりもする。それをメディアが報道することで、貧民街の子供たちは、ギャングの世界とは別に、もっと目標にすべき生き方があることを知って、ライフルの代りに本を取るようになるというのだ。
 
 リオ・デジャネイロは、世界の都市の中でも相当大きな大都市だ。だから、この街の子供たちが置かれた状況が、ブラジル全土に当てはまるわけではあるまい。もっと静かで、麻薬や暴力のない地域も多いに違いない。また、生長の家のような宗教の活動が、子供たちの教育の向上に大きく貢献しているはずだ。しかし、今回知った上記の数字を見ると、ブラジル社会の発展のために我々のやるべき仕事は、まだ数多くあることが分かるのである。
 
 生長の家は、雑誌や本で教えを伝える“文書伝道”で発展してきた。これは、「文章が読める人」を中心に教えが広まったことを意味する。だから時々、生長の家のことを“インテリ宗教”と呼ぶ人もいる。日本のように識字率が高い社会では、“文書伝道”は必ずしもインテリだけを教化しない。しかし、そうでない社会では、多くの人々に教えを伝えるためには、文書伝道の方法が必ずしも有効でないこともあるだろう。ブラジルの場合はどうか? ブラジルの識字率はラテン・アメリカの中でも高い方だ、と私は思っていた。が、そうでもないらしいことを今回の出版物で初めて知った。
 
 谷口 雅宣

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2009年2月14日

バレンタインデー

 今朝、6時前のNHKのラジオ放送を聞くともなく聞いていたら、女性の気象予報士が「今日の天気は昨日と同じように荒れて、強い風も吹くでしょう」と言ったあとで、
「チョコレートを届けに行くかたは、十分気をつけてください」
 と言った。
「えっ、何に気をつけるの?」
 と私が言うと、妻が何か答えたが私には聞きとれなかった。だから、「風に飛ばされないように」ってことだろうと思って、私は大声で笑った。
 発言したご本人がユーモアのつもりで言ったならば、なかなかセンスがある。が、そうでなかった場合は、相当やせ型の人なのかと思ってしまう。

 この不況の中でも、チョコレートは売れ続けていると聞いた。最近は“逆チョコ”というのがあるそうで、男から目当ての女性に渡すのがはやっているらしい。女性の経済力がつき、相対的に男性の立場が弱くなってきたことと関係があるに違いない。が、バレンタインデーには「女性から男性に贈る」という決まりは日本だけのようだし、私たち夫婦のように商業主義に懐疑的な人間は、チョコレートの授受にこだわらずに、ゆっくりと2人の時間をもつことにした。何をしたかは、今回は言わないことにしておく。
 
Mtimg090214  仕事場でもらったチョコレートを眺めながら発想したイメージを、絵に描いた。今日の世界同時不況は、人間の期待や欲望を実際の価値以上にどんどん膨らませてきたことから起こった。それらがいつかは崩れると知りながらも、目の前の短期的利益を得ることで満足し、期待が外れ、無理な想定が破綻することから目を背けてきた我々の心は、きっとこんな感じの“肥大した心臓”で表すことができる。日没は近い。こんな生き方を変えなければ、我々に明日は来ないかもしれない。
 
 谷口 雅宣

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2009年2月11日

“建国の理想”を虚心で読む

 今日は午前10時から、東京・原宿の生長の家本部会館ホールで「建国記念の日祝賀式」が開催され、国歌斉唱、伊勢皇大神宮・橿原神宮遥拝などの後、私は概略次のようなスピーチを行った:

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 皆さん、本日は日本国の誕生日を祝う建国記念の日です。誠におめでとうございます。
 すでにご存じの通り、この日は、日本の古典である『日本書紀』などにこの国の始まりとして記されている日を、太陽暦になおして定めたものであります。日本の場合は、世界でも珍しく、国の始まりが“神話の世界”にまで遡らねばならないほど、永い歴史をもっています。このため一時期には、この2月11日を“日本の誕生日”として祝うことに、「歴史的事実でない」などという理由で反対する人々もいたのですが、最近ではそういうことを言う人は大部少なくなっています。この日が“日本の誕生日”である理由は、『日本書紀』などに、初代の天皇である神武天皇が、橿原の地に都を定めたのがこの日だと書いてあるからです。何千年も前のことは、そのことが正確な歴史的事実であるかどうかよりも、それが象徴する意味の方が重要なのであります。
 
 これは、日本だけに当てはまることではない。例えば、イエス・キリストが誕生した日がいつであるかは、歴史学的には特定できていません。もちろん、12月25日がその日だと考える人は世界中に多いのでありますが、そんなことは聖書にも書いてないし、歴史家の間では否定されています。さらに言えば、その日は、古代ローマで崇められていた太陽神のお祭りの日に合わせて、当時のローマ教皇が作為的に定めた日だという説さえあります。しかし、現代を生きる我々は、キリスト教徒はもちろん、そうでない多くの日本人も、クリスマスには“愛の教え”を説いたイエスという聖人がかつてこの世に誕生したということに思いを馳せ、我々の愛する人々と会ったり、プレゼントの交換をしたり、また知らない人にも愛を与えたりして、人間のもつ愛の素晴らしさ、ひいては神の愛のありがたさを実感する時をもとうとするのです。イエスの誕生日が考古学的にも、歴史学的にも定まっていなかったとしても、多くの人類は12月25日にクリスマスを祝うのです。それで何も問題はない。
 
 イエスは約2000年前に活躍した人です。古典に記された日本の建国は紀元前662年になっていますから、神武天皇はイエスより昔の“神話の世界”に生きた人です。だから、日本の建国の日が歴史学や考古学によって特定できなくても、それを祝う行事を日本人が古典に記された日にもつことに何も不思議はないし、クリスマスを祝うよりもっと自然であり、本当は何もやましいところはないのであります。
 
 しかし、日本の誕生日の場合は、一つ不幸な特殊事情があり、それが「建国記念の日」を全国民がこぞって祝うに至っていない理由になっています。それは、かつて行われた日中戦争と大東亜戦争において--この日は当時「紀元節」と呼ばれていましたが--この2月11日の国の誕生日が、隣国である朝鮮や中国を武力で支配しようとする試みに、大いに利用されたということです。もっと具体的に言えば、『日本書紀』巻第三に書かれている神武天皇の「橿原奠(けん)都の詔」の中に書かれた「六合を兼ねて都を開き、八紘をおおいて宇(いえ)となさん」という言葉が、日本による異民族支配の口実に使われたのであります。これも皆さんがよくご存じの通りです。だから戦後は、このことを嫌う大勢の人が、神武天皇のこの詔勅に、あるいは神武天皇という人物そのものに拒否感を抱きつづけてきました。これは、誠に不幸なことだと言わねばなりません。なぜなら、古典に記された自国の誕生の意義を否定することは、自分を否定することにつながるからです。
 
 生長の家はもちろん、そのような立場ではありません。生長の家は、いわゆる「八紘一宇」や「八紘為宇」という言葉が、政治的スローガンとして戦前の日本の侵略行為に利用されたことは認めますが、神武天皇の詔勅そのものは少しも侵略的でないと考えます。これは、詔勅の文章をよく読んでみれば分かります。また、神武建国を記した古典の内容をきちんと読めば分かります。この2つのことの違いを、もうはっきりと言うべきときに来ていると私は思います。かつての政治スローガンは、古典が記していることとは意味が違うのです。当時の軍部と政治家が、古典の記述を拡大解釈し、さらには曲解して政治目的に利用したということです。
 
 しかし、もうそういう時代は半世紀以上も昔に過ぎ去りました。だから、この21世紀初頭の我々は、偏見や先入観のないスッキリとした頭で古典の文章を読んで、そこから建国の理想や理念を汲み取るべきなのです。どのような理想を汲み取るかということについては、私は数年前からこの建国記念日で申し上げている通りです。これはすでに3年前の『小閑雑感』(Part 6)に書きましたが、思い出していただくために繰り返して申し上げましょう:
 
 (2006年2月11日の文章から引用する。同書、pp.246-247)
 
 このように、「背に日の神の御心を負いたてまつる」ということと「刃に血ぬらずして」というのが日本建国の理想であると、ここには書いてあります。また、「八紘為宇」という言葉に関しては、『日本書紀』巻の第三にこうあります。これは神武天皇の「橿原奠都の詔」の中にある文言です:
 
「上は乾霊(あまつかみ)の国を授けたまいし徳(みうつくしび)に答え、下は皇孫(すめみま)の正しき道を養いたまいし御心を弘めむ。しかうして後に、六合(くにのうち)を兼ねて都を開き、八紘(あめのした)をおおいて宇(いえ)にせんこと、また可(よ)からずや」

 この文章は、明らかに2つの部分に分かれています。つまり、「まずAをして、その後にBをすることが良い」と書いてあります。そして、Aとは、「我々の先祖や神々が日本という国を徳によって打ち立てたことを確認して感謝し、我々の子孫には、その御先祖からいただいた正しい道を実現していくという精神を、しっかりと人々に弘め伝える」ということです。そして、その後に初めてBをする--すなわち「国の天地と四方を統合して都を開き、八紘--国の隅々までを覆って家にする」のです。AとBとの間に「しかうして後に」という接続詞がきちんと入っていることを見落としてはいけません。Aとは、「神の御心に聴いて、その徳を人々に広める」ことです。これは建国の理想の周知徹底であり、一種の道徳教育と言えるかもしれない。それをした後に、初めて周囲を統合して都をつくり、統一的な政治を国内のすみずみまで及ぼす--それが理想であると書かれている。この順序を間違ってはいけないのに、かつての日本はAもBも同時にやろうとし、しかも天皇の意志を軽視して、刃に血を塗ることを先行させて中国大陸で泥沼の戦争をしたわけです。

 我々はその間違いを再び犯してはいけない。日本建国の理想とは、あくまでも平和裡に諸民族の共存を進めることです。そして、それに当たっては「背に日の神の御心を負いたてまつる」--つまり「神の御心に沿う」ということが絶対条件なのです。そういう高邁な理想が日本の古典に書いてあるということを、私たちは忘れてはいけない。生長の家は、この「神の御心に従う」生き方を推し進めていく運動です。だから、日本建国の理想を実現する運動でもあるのです。軍隊や政治が先行するのではいけない。神の御心が先行して初めて「刃に血ぬらずして」物事が決着する。そういう意味で、今日の建国記念の日に当って、あらためて生長の家の国際平和運動の重要性と、その使命の大きさを感じるしだいであります。
 
 ご清聴、ありがとうございました。
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 谷口 雅宣

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2009年2月 9日

ラブロック博士は語る

 オーストラリアのビクトリア州での山火事は、東京都の1.5倍の面積を焼きつくし、死者は160人を超え、さらに燃え続けている。同国での史上最悪の山火事らしいが、山火事自体はこの夏の乾燥した時季のオーストラリアでは珍しくないそうだ。ただ、長期にわたる旱魃と猛暑続きは例年にない現象のようだ。メルボルンでは7日、観測史上最高の46.4℃を記録したという。この地はコアラの好物であるユーカリの森が多く、この幹や葉には油分が多いために、乾燥状態で引火すれば燃え広がるらしい。地球温暖化にともなう気候変動が影響しているならば、今回の山火事の犠牲者は、自然災害によるのでなく“人災”によるとも考えられるのだ。

 私がこんな言い方をするのは、地球温暖化によって大勢の人が死ぬという予想を、最近読んだからだ。イギリスの科学誌『New Scientist』の1月24日号に、「ガイア理論」で有名なイギリス人、ジェームズ・ラブロック博士(James Lovelock)のインタビュー記事が載っていた。今年90歳になるという同博士が、今の地球環境についてどう考えているか知ろうと思い、私はそれを読んだ。が、同博士は相当悲観的で、地球の温度が今世紀中に2℃上昇すれば、世界人口は現在の6分の1以下の10億人に減ってしまうという。
 
 ラブロック博士によると、現在行われている環境対策のほとんどは、巨大な詐欺すれすれのものだという。排出権取引は、政府から巨額の補助金を得られるから、金融会社や産業側がまさに望むところだろうが、気候変動に対してはほとんど効果がない。そのかわりに、多くの人々に多くの金を分配していい気分にさせるから、人々が真剣に考える時期が来るのを遅らせるだけだという。また、風力発電にも手厳しい。風力で1ギガワットの電力を得るには、2千5百平方キロもの土地が必要だから、風車はイギリスの美しい田園風景を破壊してしまう、と嘆いている。さらに、二酸化炭素を地中や海中へ固定することについては、「時間のムダだ」という。「気違いじみた」考えで、「危険だ」ともいう。時間がかかりすぎるし、エネルギーを浪費すると指摘する。
 
 原子力発電については、イギリス国内のエネルギー問題を解決する方法の1つではあるが、これによって地球全体の気候変動の問題は解決しないという。また、排出削減の方法としては、時間がかかりすぎるという。
 
 それなら、人類は破滅に向かっているのかと訊くと、博士は「我々を救う方法が1つある」と言う。それは「炭を大量に土中に埋める」ことだという。これは、例えば、農業から出る廃棄物には、植物が夏季に吸収した炭素が含まれるから、これを土中で分解しないタイプの炭に変えて、土に埋める方法を提案している。こうすることで、地球の物質循環システムの中からまとまった量の炭素を抜き取ることができるという。
 
 こんなことで、本当に効果があるのだろうか? 博士は言う--

「地球上のバイオスフェアー(生物圏)からは毎年、550ギガトンの炭素が出る。我々人間が出すのは、そのうちたった30ギガトンにすぎない。植物によって固定された炭素の99%は、バクテリアや線虫や昆虫などによって1年ぐらいで大気中に排出されてしまう。我々にできることは、そういう炭素の“消費者”をごまかして、農業廃棄物を低酸素状態で燃やし、炭に変えて、畑の中にスキ込んでしまうことだ。これで、CO2は少しだけ出るが、ほとんどの炭は炭素に変換される。また、この酸化過程の副産物としてバイオ燃料が作られるから、農民はこれを販売して利益を得られる」。

 ラブロック博士は、自分のことを「楽観的な悲観論者」(optimistic pessimist)と呼ぶ。その理由は、人類は結局は死滅しないと思うからだという。しかし、犠牲者の数は想像をはるかにしのぐ。地球の平均気温が今世紀中に2℃上昇すれば、大量の人間が死んで、10億人かそれ以下の数しか残らないという。現在の世界人口は約65億人だから、6分の1以下に減ってしまうというのだ。4℃の上昇では、現在の10分の1以下に減少するという。この主な理由は、食糧不足だそうだ。が、今回のような山火事や洪水、それに伴う伝染病による死もあるに違いない。このような人類の大量死は、過去の氷河期と氷河期の間にもあって、そのときの地上の人口はわずか2千人ほどだったという。21世紀においても最悪の場合、こういう状態が再来すると博士は警鐘を鳴らすのである。

 谷口 雅宣

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2009年2月 6日

八つ子の誕生が教えるもの

 バラク・オバマ氏が米大統領に就任した直後(1月24日)の本欄で、私は新大統領が生命倫理の分野でも、前任者のブッシュ氏から方針を転換し、ES細胞の研究に連邦政府の援助をひろげる決定を「来週にも表明する」らしいと書いた。これは、ABCニュースが「早ければ」という言葉を添えてそう伝えたからだ。しかし、あれから2週間たった今、まだその発表はない。恐らく、もっと緊急性のある経済対策の方に時間を取られているからだろう。しかし、オバマ政権下では、人の幹細胞を使った再生医療の研究が今後、加速度的に進むとの期待感が広がっていて、アメリカの時事週刊誌『TIME』は2月9日号で、幹細胞研究を特集として大きく取り上げている。
 
 それを読んで印象に残ったのは、現在の再生医療研究では、ES細胞(胚性幹細胞)の研究とiPS細胞(人工多能性細胞)の研究が併行して行われているということだ。ES細胞の万能性をiPS細胞で実現するためには、ES細胞を研究して、それが体の各組織や臓器に分化していく仕組みをよく理解する一方で、iPS細胞を使ってそれとの違いを確認することが重要だと考えているようだ。つまり、ES細胞は実際の受精卵から得た細胞だから、再生医療や発達医療に必要な“本当の”または“自然の”情報をもっているが、倫理的、技術的、社会的な問題を抱えているので、その代用として、人工的に得られるiPS細胞を使っていく--そんな意図が感じられるのである。
 
 しかし、技術というものは、人間の意図とは無関係に発達するという側面がある。だから、強力な技術の開発は、強力な“善”の効果を発揮し得ると同時に、その逆の効果も発揮し得ることを忘れてはいけない。特に、ES細胞のような(生物学的な意味での)「人間の発生」に深く関わる重大な技術は、誤用や悪用の道を開かないように、できるだけ早期から倫理規定を整えておく必要がある。が、その一方で、このような強力な技術は、正しく使えば人道的にも経済的にも大きな利益をもたらすから、早期に倫理規定を整えることに抵抗を感じる人も出る。特にアメリカのような自由と自己決定を重んじる社会では、このような倫理規定への抵抗が強い。両者のバランスをとることは容易でないから、技術の乱用から“犠牲者”が出ることで、初めて倫理的配慮の重大さを思い知るというパターンが繰り返される傾向がある。
 
 最近、報道されたアメリカにおける「八つ子」の誕生も、このパターンに一致している。これは今年の1月26日に、ロサンゼルス郊外で不妊治療によって八つ子が生れたという話だ。が、さらに世間を驚かせたのは、八つ子を生んだ母親にはすでに6人の子供がいて、その子らの誕生にも不妊治療が用いられたということだ。5日付の『ヘラルド・トリビューン』紙が伝えるところによると、この八つ子を生んだ女性は、33歳のナディア・スールマンさん(Nadya Suleman)で、すでに2~7歳の子6人(男4人、女2人)がいる。新たに生まれた八つ子は、男6人と女2人だ。ナディアさんの母親の話によると、ナディアさんの最初の6人の子は人工受精で生まれたといい、その時に作られた凍結受精卵から八つ子が生まれたらしい。

 この母親の言では、ナディアさんは十代の頃から子をもつことに執着していて、子育ては上手であるけれども、今回は「明らかにやりすぎた」(obviously she overdid herself)という。ナディアさんは昨年1月に離婚しているが、彼女の14人の子供はどれも前夫の子ではないというのだから、夫婦間には複雑な問題があったのだろう。ナディアさん自身は、カリフォルニア州立大学で青少年向けカウンセリングの学位をとり、昨年春までは大学院に通っていたという。最近はある病院で精神科の技師をしていたが、出産を控えて退職した。母親は100万ドルの負債を抱えて破産手続きを申請中というから、この家庭には14人の子供育てる経済力はないと考えていいだろう。
 
 そんな中で八つ子を生んだことが、社会的な批判を浴びているようだ。「八つ子」という珍しさから、いくつかのメディアから仕事の話が来ていて、そういう経済的報酬を目的に“子だくさん”を選んだという疑いがかけられているらしい。ペンシルバニア大学の生命倫理学者、アーサー・カプラン氏(Arthur Caplan)は、すでに6人の子がいるにもかかわらず、本人の経済力を考えても、そもそも医師が彼女に不妊治療をする必要があったかどうかなど、このケースは倫理的に大きな疑問があると指摘している。
 
『TIME』誌は上掲号に続く2月16日号でこれを取り上げ、アメリカでの生命倫理規定との関係を説明している。それによると、昨年の6月、ちょうどスールマンさんの胎内で受精卵が成長を始めたころ、アメリカ生殖医療協会(ASRM, American Society for Reproductive Medicine)は、不妊治療の目的で子宮に移植する受精卵の数に関するガイドラインを改訂した。そして、34歳以下の女性の場合は、1998年に定めた「3個以内」という数を「2個以内」に減らしたところだったという。もちろん、今回の「8個」の受精卵は、いずれの規定からも大きく外れている。が、この規定はあくまでも「ガイドライン」だから、法的拘束力も罰則もない。また、八つ子が生まれたのは、受精卵の移植数が8だったからか、あるいは8以下の受精卵から同一遺伝子情報をもつ受精卵が分離した結果、8になったのかは、現段階では不明である。
 
 私がこの八つ子の件をやや詳しく書いたのは、多様な価値観が認められる自由な社会においては、強力な技術の誕生は、当初まったく予想できなかった用途にも、その技術が使われる可能性があるという点を実例をもって示すためである。しかし、それでは法規制によって問題は解決するだろうか? 同誌の記事の中で、南カリフォルニア大学の不妊治療専門家、リチャード・ポールソン教授(Richard Paulson)は、こんな疑問を提示している:
 
 ①我々は、1家族のメンバーを(例えば)6人に限定する法律を制定するのか?
 ②我々は、多胎妊娠時に子を選択する義務を法律に規定すべきなのか?

 谷口 雅宣

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2009年2月 4日

牛は名前で呼ぼう

 ロンドンに住む生長の家の信徒、ジョン・フラッドさん(John Flood)から興味ある情報が舞い込んだ。乳牛についての研究結果で、「牛は名前で呼ぶ方が、そうでない場合より乳の出が多い」のだそうだ。ニューキャッスル大学の農業食糧地域開発学部(School of Agriculture, Food and Rural Development)がイギリス各地の農業者516人を対象にして行った研究で、人間と動物との関係を研究する専門誌『アンスロズース』(Anthrozoos)誌に発表された。

 それによると、牛に名前をつけて呼んでいる農家(46%)では、名前をつけていない54%の農家よりも1頭当たりの牛乳の収量が相当多いという。この研究の中心となったキャサリン・ダグラス博士(Catherine Douglas)に言わせると、その増加量は「250リットル」になり、平均的な大きさの牛では1日「2パイント」(1.14リットル)の増量になるらしい。同博士は、「この研究によって、牛に優しくて面倒見のいい多くの農家の人たちが昔から信じていたことが、証明された」という。さらに同博士は、「この研究で分かったことは、牛という動物は、複雑な感情を体験できる知性をもった存在だと、イギリスの農業者は大体において考えているということ。また、個々の牛をよく理解し、それぞれに名前をつけて呼ぶだけで、牛乳の生産量を相当増やすことができるということです」と言っている。
 
 ところで、なぜそうなるかという理由だが、BBCのニュースの説明では、名前をつけて飼われている牛は、飼い主から愛され、自分の価値を認められていると感じるから、そうでない牛よりもストレス・ホルモンであるコーチゾルの分泌が少ない。これによって安心して牛乳を生成することができる--というのである。このニュースに登場する牧畜家、デニス・ギッブ氏(Dennis Gibb)は、個々の牛を“個性をもった存在”として扱うことが非常に大切だと言い、自分の飼っている牛たちを「娘たち(girls)」とか「レディーたち(ladys)」と呼ぶだけでなく、個々の牛に「サラ」とか「ウェンディー」「ハイライト」などと名前をつけて呼んでいる。

 私にこの研究を教えてくれたフラッド氏は、「この話は、牛乳生産にとどまらず、あらゆる生物にとって調和が大切であることを教えてくれます。ロンドンの生長の家では、生長の家の哲学と環境を敬うことの大切さについて語ることが多いので、このニュースについて皆に伝えました」と報告してくださった。彼の妻であるソニアさんも、「このニュースを見たとき、これは生長の家の教えと同じことを言っていると思いました。つまり、“コトバの力=愛”ということです。こういう方法で、もしイギリス中の農家の人々や乳牛生産者が動物愛護を実践すれば、人工的な方法で、例えば、牛乳生産のためにだけに妊娠を強要したりする必要はなくなります」と感想を述べている。
 
 家畜と飼い主との心の交流については、日本でもいろいろ美しい話を聞くことがある。だから、今回の話にはそれほど驚かないが、科学的な研究成果としてイギリスで認められたということは評価したい。というのは、イギリスの人々は牛肉をたくさん消費するからだ。かつて狂牛病がイギリス全土に不安を引き起こしたことで、イギリスの食肉消費量は一時下がった。その後、また上向いているだろう。乳牛に愛を与える人は、肉牛にも愛を与えるに違いないから、肉食の減少に結びつくことを私は願っている。
 
 谷口 雅宣

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2009年1月31日

ネットで祈り懺悔する

 ネット社会の発展は、宗教の世界にも影響を与えずにはおかない。生長の家でも昨年の12月、谷口清超先生の追善供養祭の模様をリアルタイムで全国にネット配信したが、そういう情報の“一方通行”だけでなく、“双方向”で、しかも心の深部に関わる情報さえ、ネットを経由させようとする試みが始まっているようだ。1月28日付の『ヘラルド・トリビューン』紙によると、先日、旧暦の正月にあたる「春節」を迎えた中国では、香港の黄大仙(Wong Tai Sin)寺院に初詣に参拝する人が数多くあるが、今年はパソコンの画面を通した“ネット参拝”ができるようにしたところ、2万人を超える人々がログインして参拝したという。この寺院は、香港で最大の道教寺院で年間に約300万人の参拝客が訪れるという。

 “ネット参拝”の試みは、院内の神殿修復のために参拝スペースが狭くなったため、その不足分を補う目的もあって昨年12月から始まったという。が、それだけでなく、伝統とネット技術をうまく組み合わせることで、現代人の参拝をより便利にすることも考えたらしい。ネット参拝のためには、参拝者はサイトにログインし、名前とメールアドレスを登録後、何を祈るかを「健康」「繁栄」「家庭調和」などのオプションから選択する。これが終ると、画面には神殿の前で線香を備える手がアニメーションで現れ、「あなたの願いを黄大仙にお祈り申し上げます」という意味の文字が出てくるという。そして、実際に祈願が行われている様子が、毎週、サイトでは放映されているらしい。
 
 このネット参拝設置により、同寺院のサイトに海外や中国本土からアクセスする人が増え、寺院への寄付金も増加しているという。ちなみに、12月のサービス開始以来、7万人以上の“ネット参拝者”がサイトを訪れたというから、この試みは今のところ成功しているといえるだろう。
 
 アメリカには、カリフォルニアを本拠地とする「ゴッドチューブ」(GodTube)という動画登録サイトがあり、ここには毎月300万人のユーザーが訪れるという。この名前は、もちろん「ユーチューブ」(YouTube)を意識したもので、サイトの構成もユーチューブとよく似ている。ただし、ここでは「自分のメッセージ」を発信するのではなく、「神のメッセージ」を動画として発信する点で違うのだろう。
 
 アメリカの時事週刊誌『TIME』の2月9日号には、“匿名告白サイト”とも“懺悔サイト”とも呼べそうなネットサービスが取り上げられている。これらは 「DailyConfession.com」(日ごとの告白)や 「GroupHug.us」(仲間と抱き合おう)などで、特定の宗教色のないものとして発足したが、人気を博したため、そのアイディアを教会が一部採用して自分たちのサイトに導入したものもあるらしい。この種のサイトの特徴は、匿名で書き込む代りに、書き込んだ内容はすべて公開されるから、世界中のネット利用者が読むことができる点だ。これは従来、教会の密室で牧師や神父にだけ“罪”を告白するのとは大いに違う。教会での告白は、聖職者が仲介となって「神」に向かって告白し、罪の赦しを乞うのだが、告白サイトでは、「一般大衆」に向かって自分の恥部をさらけ出すのだから、宗教的な意味はあまりない。それよりも、「真実を隠してきた」という自分の“罪の意識”が多少なりとも軽くなるという心理的な効果があるだろう。しかし、同記事も指摘しているが、告白は完全な匿名だから、その内容が真実であるかどうかは全く不明だ。だから、露出狂的な傾向のある人が針小棒大な告白をしたり、まったくデタラメの告白も排除できないだろう。
 
 これに対して、「PostSecret.com」(秘密の掲示)というサイトは少しヒネリを入れ、オフラインとオンラインを連動させている。ここでは、メールによる告白に加え、サイトの住所と宛名を印刷した葉書をオフラインで人々に配布して、その葉書に告白を書いて送り返してもらう方式を採る。そして、返ってきた葉書をスキャンしてサイトに掲げてある。それを見ると、絵や写真を使ったデザイン的で、多様な葉書が多く、書かれた告白の深刻さよりも、絵柄や文字の組み合わせなどの創造性が表面に出ていて面白い。
 
 これらのサイトを眺めてみると、生長の家で運営している「ウェブ版日時計日記」や「絵手紙」のサイトとの共通点が感じられるとともに、そこからさらに発展させたネット利用が考えられるような気がするのである。
 
谷口 雅宣

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2009年1月30日

“テロとの戦争”は終った

 私がかねてから願っていたように、アメリカが主導してきた“テロとの戦争”は終ったようだ。快哉を叫びたい。私は今年に入って1月8日、20日、21日の本欄で、アメリカの新しいオバマ政権は、前任のブッシュ政権が始めた“テロとの戦争”をやめるのではないかと期待を込めて予測してきたが、その通りになった。26日、ホワイトハウスから送られたアラビア語テレビ局「アル・アラビア」(Al Arabiya)とのインタビュー番組で、オバマ大統領は、「私の仕事は、イスラーム世界には、自分の人生を生き、子供らに自分以上の人生を送らせたいと願うだけの素晴らしい人々が満ちていることを、アメリカ国民に知らせることだ」と述べたという。28日付の『ワシントンポスト』紙などが伝えている。同大統領は、このインタビューで「イスラーム世界に対する私の仕事は、アメリカ人はあなたがたの敵ではないと伝えることだ。我々はときに間違いを犯すし、我々は完全ではなかった」とも発言したから、前政権のイスラーム世界に対する政策に誤りがあったことを認めたとも言える。
 
 このインタビューでの詳しいやりとりの記録をネットで捜したが、見つからなかった。しかし、29日付の『ヘラルド朝日』紙にロジャー・コーエン氏(Roger Cohen)が書いている論説の中に、結構詳しい引用がある。それによると、大統領は「我々の使う言葉は重要だ」と“言葉の力”の大切さを指摘したうえで、「私は、アルカイーダのような暴力を使い、テロを行う組織と、我々の政権やその行動に単に反対する人々、あるいは自国がどう進むべきかという点で特定の視点をもっている人々とを明確に分ける。我々には意見の不一致があって当然だし、その場合も互いに敬意を払うことはできる」と述べたという。コーエン氏はこれらの発言を聞いて、「9・11後のブッシュ・ドクトリンを新大統領がひっくり返したことは、重大な進展である」と評価している。そして、イスラーム社会に対するブッシュ政権の態度が、ぶっきらぼうで、攻撃的で、尊大で、イスラエル一辺倒だったのに対し、オバマ氏の態度に配慮があり、敬意が込められ、自己に厳しく、バランスがとれているとして、「驚くべき変化」(a startling departure)だと誉めている。
 
 同氏は、もちろん「言葉だけでは問題は解決しない」と言っているが、言葉を大切にする生長の家の立場からすれば、アメリカ大統領からイスラーム世界への“好意”や“尊敬”の念がテレビ画像を通して示されることで、今後の世界の動きに大きな変化が訪れる“種”が確実に植え付けられた、と評価できる。これからは、多少時間がかかっても、対立する双方でこの“種”を大切に育てていってほしい。

 日本のメディアがこのことをほとんど伝えていないのは残念だが、28日付の『日本経済新聞』は、これがオバマ氏の大統領として最初の外国メディアとの単独会見であったと述べ、「オバマ政権は発足から1週間で中東重視の外交姿勢を具体的に明示し、アラブ・中東の親米国にも協力を促す格好となっている」などと書いている。「格好となっている」というのは妙な表現だが、恐らく「そういう解釈もできる」という意味だろう。つまり、深刻な情勢となっているガザ紛争を解決するための手段として、アラビア語のメディアを使ったという、何となく懐疑的な視点である。しかし、この件に対するホワイトハウスの発表は、「アメリカとイスラーム世界との関係に大胆な変化を提供した」というものだから、オバマ氏自身にはそういう意図があると考えていいだろう。
 
 オバマ政権は、地球環境問題への本格的な取り組み姿勢を示していることに加え、今回のイスラーム社会への態度の変化、特に実質的に“ブッシュ・ドクトリン”の廃止宣言を行ったことは、大いに評価したい。
 
 谷口 雅宣

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2009年1月28日

生長の家ブッククラブ (4)

 さて、ここまでの説明で、読者は『創世記』第1章と第2章には2つの異なる天地創造の話が書いてあること、そして、第2章の冒頭には「神が天地創造の7日目に休んだ」と書いてあることを理解されたと思う。また生長の家では、第1章の話を“実相世界の創造”、第2章の話を“現象世界の成立”だと解釈することも、前回書いた。そういう解釈ができたとしても、しかし「神が7日目に休んだ」のはなぜかという理由は、判然としていない。マレリー講師の説明でも、その点は明確でない。
 
 そこで私は、私自身の解釈をまとめてみようと考えた。そのためには、マレリー講師も引用した『生命の實相』第11巻52ページの記述--「天地創造の大音楽は、その一音符から次の音符にいたる間の旋律(リズム)の変化に、いうにいわれぬ平和と安息と調和とがある」--と、同講師のこれについての解釈--「一つの楽譜の中には休符を入れることができ、この無音の時があることによって、音を一定の時間味わえ、クレッシェンドの効果を際立たせることができる」--とが有効だと思った。これらに書いてあることは、「音楽は“休み”がなければ音楽にならない」ということである。言い換えると、音楽を楽譜に表せば、最初の音符がずっと長く続くことはなく、第1音符、第2音符、第3音符……というように、次々に異なる音が続いて表記されることになる。そうすることで、リズムが刻まれ、メロディーが生まれるのだ。このためには、第1音符が休み、次に第2音符に移ったあと、第2音符が休み、その次に第3音符に移る……というように、時間軸に沿って「発音」と「無音(休み)」とが繰り返されなければならない。つまり、無音(休み)は、それに先立つ発音を受け止めて、味わうために、なくてはならないものなのである。

 これをさらに言い換えれば、こうなる。音を使って表現するためには、音をあえて止める時間が必要である。ということは、音を発する表現は、無音が伴って初めて可能となるということだ。これはデルガードさんが指摘したように、文章は句点(。)を打って終ることで表現され、人間の生は死によって表現されるのと似ている。逆説的で、複雑な言い方かもしれない。が、マレリー講師も、このことを『真理の吟唱』の中にある「有限そのままに無限を悟る祈り」の一部を引用することで指摘していた。それは、次のような箇所である--
 
「画家は方尺の画布の上に無限をあらわす。無限そのままに無限になるときには、何ものも表現されないのである。無限がみずからを局限して有限ならしめることによって表現は行なわれる。完全なる自由を享受して何らの抵抗もなき空中には絵を描くこともできないのである。画家が、自己の絵筆の自由なる運行に摩擦して抵抗し、絵筆の無限の自由を制限するところに、美しき絵が描かれるのである」。(p.184)

 「有限によって無限が表現される」--これは音楽や絵画に限らず、表現芸術すべてに共通する原則である。しかし、この原則は“現象世界”におけるものであることを忘れてはいけない。現象の表現は、すべて時間と空間によって限定された不自由の中で展開されなければならない。が、それは神によって行われるのではなく、人間の頭の中で起こることである。つまり、神は現象を創造されたのではなく、初めから完全で自由な実相を創造されているのである。それは、表現される前の音楽にも似ている。例えば、モーツァルトの『春』という楽曲は、演奏家が演奏をしなくても、楽譜上に完全な形で存在する。いや、楽譜が存在しなくても、作曲家、モーツァルトの心中に完全な形で存在するのである。が、作曲家の心の中にあるだけでは、彼/彼女には聞こえていても、その他の大勢の人々には聞こえない。聞こえない音楽など、存在しないに等しいのだ。だから、作曲家はそれを楽譜に表し、演奏家は実際に演奏しなければならない。それによって初めて、作曲家も演奏家も音楽と一体となり、聴衆もそれを味わうことができる。聴衆の感動は演奏家に伝わり、さらに作曲家に満足を与える。
 
 この関係が、『創世記』の第1章と第2章の関係にもある。第1章において、神は完全な世界(実相)を創り給うたが、それだけでは、実相の素晴らしさを自ら体現するものも、それを体験する(味わう)ものもいない。そこで、自分のイメージに即して創造した人間に、神の創造を現象として再現し、また味わう役割を与えられたのである。神を作曲家に喩えれば、人間は演奏家であり、かつ聴衆である。作曲家が満足するためには、完璧な音楽ができ上がるだけでは不十分だ。それを誰かが演奏し、誰かが味わうことで作曲家の喜びは本物となる。『創世記』では、神が“6日間”で天地を創造され、完成されたことと、「7日目に休まれた」(創造が止まった)こととは切り離すことができない。神の創造を味わうためには、神の創造が止まらなければならないからだ。そして、この“休止”期間は、人間が神の創造を体験し、味わうための時間と空間(認識の形式)だと解釈できるのである。そうすると、人類の歴史全体が、神の創造を体験し、理解し、その素晴らしさを味わう過程だという結論に達することになる。

 --こんな意味のことを、私はブッククラブのディスカッションに書き込んだのである。
 
 谷口 雅宣

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2009年1月27日

生長の家ブッククラブ (3)

『創世紀』の記述で、神が6日間で天地を創造され、7日目に休んだとあるのはなぜか?--この疑問に最初に答えてくれたのは、ブラジルのサンパウロ市に住む女性信徒、ギゼラ・アパレシーダ・アマラル・デルガードさん(Gisela Aparacida Amaral Delgado)だった。デルガードさんは、「それは、文章の最後につける“点”とか、人生の最後に来る“死”のように、1つのサイクルが終ったことを示すものだと思う」と言った。「それは、ある意味で1つの状況に属していないにもかかわらず、やはりその状況の一部である何かを示すのだと思う」と彼女は言うのである。そして、『生命の實相』第11巻万教帰一篇上から次の箇所を引用した--

「七日ということが、鳴り鳴り続く創造の神業の無限進展をあらわしているとしますと、七日に安息(やす)むということは決して、創造の神業(かみわざ)が終わったときに、“ア疲れた! やれやれ”と思って休むということではないはずであります。創造神は“無限生命”でありますから、生命を出し尽くし精力を出し尽くして、ああくたびれた! 今日一日は休息しようなどという時はないのであります」。(p.52)

 これに対してマレリー講師は、この引用文の次にある谷口雅春先生の文章に注目する。それは--「天地創造の大音楽は、その一音符から次の音符にいたる間の旋律(リズム)の変化に、いうにいわれぬ平和と安息と調和とがある」という箇所で、これについて同講師は、「一つの楽譜の中には休符を入れることができ、この無音の時があることによって、音を一定の時間味わえ、クレッシェンドの効果を際立たせることができる」と述べた。
 
 私はそこで、「鳴り鳴り続く創造の神業の無限進展」という言葉の意味を明らかにしようと思い、こんな質問をしたのだった--
 
 ①もし神の創造が「無限の進展」であるならば、神の創造はまだ完結していないのだろうか?
 ②もし何かが永遠に創造され続けるのならば、創造主はすべてのものを数限りなく複製しているのか、それとも、以前とは違う何かを永遠に創造し続けているのだろうか?

 これに対するマレリー講師の答えは、再び『生命の實相』第11巻からの引用であった--
 
「すでに天地および衆群(すべてのもの)の真創造の神業(みわざ)は竣(お)え給うた。竣(お)えるといっても無限の継続でありますが、その無限に続く創造の業は、霊の世界における天地万物の創造であって、地(物質世界)に発生する以前(まで)の御創造の聖業であると明記されている以上は、霊の世界における無限創造以外に神の真創造はありえないのであります」。(p.62)

 この文章だけをいきなり読んでも、意味はなかなか理解できないだろう。『創世記』の天地創造の意味を知るためには、本当は上の引用文の元である『生命の實相』第11巻をしっかり読むべきだが、ここであえて簡単に解説しよう。

 実は『創世記』には、天地創造の話が「2つ」あるのだ。1つは、第1章から第2章の初めにかけてで、2つめは、第2章4節からその章の最後(24節)までである。神が天地創造の7日目に休んだという話は、第2章の初めの部分に書いてある。この“神の安息”を記述する前に、『創世記』には「こうして天と地と、その万象とが完成した」(口語訳)とはっきり書いてあるのだ。谷口雅春先生が持っておられた文語体の聖書では、それは「かく天地および衆群(すべてのもの)ことごとく成りぬ」と表現されていたようである。このあとに、2番目の天地創造の話が出てくるのである。

 上の引用文で、雅春先生が「地(物質世界)に発生する以前(まで)の御創造の聖業であると明記されている」と書かれているのは、先生の手元にあった“英文聖書”にはそういう意味の文章が第2章4節にあるかららしい。私は、先生の手元にどんな“英文聖書”があったか知らないので、今は確認することができない。しかし、先生ご自身の翻訳によると、そこにはこう書かれていたらしい--
 
「これエホバ神、天地創造の日に、天地と、地に発生する以前の野の植物と、地に発生する以前(まで)の野の草蔬(くさ)とを創造り給いし由来なり」。(p.57)
 
 こうして、先生は、第1番目の天地創造の話は“霊の世界”における真実の天地創造であり、2番目の話は“物質世界”における偽りの天地創造だという解釈に到達されている。言い直すと、最初の天地創造は“実相世界”の創造を描き、2番目の天地創造は“現象世界”の成り立ちを描いていると考えるのである。これは、生長の家独特の『創世記』解釈であるが、同じ書の中に「互いに矛盾する天地創造の話が2つある」という“謎”を見事に解決している。
 
 谷口 雅宣

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2009年1月26日

生長の家ブッククラブ (2)

 前回引用した『創世記』第2章2~3節を読んだ読者は、この日本語訳(口語訳)に曖昧な部分があることに気づかれただろう。それは「神は第7日にその作業を終えられた」という表現で、この日本語だと、第7日目に入ったいつかの時点で「作業を終えられた」と解釈することもでき、その場合、神は第7日目にも少しだけ天地創造をされたことになる。しかし、英語訳の聖書ではその点、もう少し明確なものがある--
 
(A) And on the seventh day God ended his work which he had made; and he rested on the seventh day from all his work which he had made. And God blessed the seventh day, and sanctified it: because that in it he had rested from all his work which God created and made. (King James Version)
 
(B) By the seventh day God finished what he had been doing and stopped working. He blessed the seventh day and set it apart as a special day, because by that day he had completed his creation and stopped working. (Good News Bible, 2nd ed., 1994)

(C) By the seventh day God had finished the work he had been doing; so on the seventh day he rested from all his work. And God blessed the seventh day and made it holy, because on it he rested from all the work of creating that he had done. (New International Version, 1984)

 詳しい分析は省略するが、この3つの英語訳のうち(A)の“欽定約”と称される「King James Version」以外は、神の創造が第7日目にまで入ったかどうかの判断は明確である。他の2つの英語訳を和訳すると、「神は第7日までにその作業を終えられた」となるだろう。つまり、第7日目には、神は何もされずに休まれたという意味であり、神がその日を“聖別”された理由は、まさに天地は完成したからであり、もう何もする必要がなかったからだとの解釈が成立するのである。
 
 マレリー講師は、もちろんこのことを知らなかったわけではない。それどころか、むしろこれ以上のことを、私の少し意地悪な質問(前回参照)に対して答えてくれた。同講師は「神が7日間で天地を創造した」とは「実際に創造活動を行った日だけでなく、休んだ1日を入れたものだ」と言った。さらにそれに続き、同講師は「数字の7は完成を表す」ことを、ユダヤ教の伝統にもとづいて例示してくれた。例えば、旧約聖書(ユダヤ教の聖典)はヘブライ語で書かれているが、この言語で「7」に該当する「Sheh'bah」という語は、「完全」や「充満」を意味する原語から来ていることを指摘。したがって「安息日」という意味の「Sabbath」はここから来ていると述べてくれた。そのことは、『出エジプト記』第20章8~11節に記されている--
 
「安息日を覚えて、これを聖とせよ。6日のあいだ働いてあなたのすべてのわざをせよ。7日目はあなたの神、主の安息であるから、なんのわざをもしてはならない。あなたもあなたのむすこ、娘、しもべ、はしため、家畜、またあなたの門のうちにいる他国の人もそうである」。

 ところで、数字の「7」が「完全」や「完成」を意味することは、聖書のこの箇所だけに書かれているのではない。同じ『出エジプト記』の第25章31~32節と第37章17~24節には、燭台の主柱と支柱は合計7本でなければならないと書かれ、同23章10~13節には、7日目の安息日だけでなく、7年目の安息年も必ず守れと書いてある。また、ユダヤ人がエジプトを出てカナンの地に入ってから50年ごとに“聖なる年”が来るとされるが、そのことを定めた『レビ記』第25章8節には「あなたは安息の年を七たび、すなわち、七年を七回数えなければならない」とある。新約でもこの考え方は継承されていて、有名なのは、自分に罪を犯したものをどれほど赦すべきかという問題で、ペテロが「七たびまでですか?」と訊いたとき、イエスは「七たびを七十倍するまでにしなさい」と答えている(『マタイ』18:21-22)。また、“主の祈り”として知られるキリスト教での模範的祈りでは「七つの願い」が唱えられる。このほか、「七つの徳」「七つの大罪」「七羽の鳩」などの概念の背後には、「7」を完全性の表象として見る考え方が明らかに存在する。
 
 この思想は、しかしユダヤ=キリスト教に特有なものではない。仏教においても「七」は、同じように「完全」や「全体」や「完成」を表現する数字である。菩薩の52の位階を7つに大別したものを「七科」と称し、完全な悟りを表す。また「七覚支」と言えば、悟りを得るための助けとなる7種類の修行項目を指す。「七観音」は、観世音菩薩が衆生救済のために身を変じた“すべて”を表し、「七大」と言えば、宇宙のすべてを「地」「水」「火」「風」「空」「見」「識」の7つに分けたものだ。「七堂」は、完全なる寺院に設置された7つのお堂であり、「七仏」は釈迦を含め、釈迦以前に出現したすべての仏をいう。

 こういう事実をしっかり押さえておくと、神が天地創造の際に「七日目は休んだ」ということの不思議さが浮き彫りになってくる。そこで私は、マレリー講師にこう尋ねたのだった--「しかし、なぜ神は休まなければならなかったのだろう。疲れたからか…退屈したからか…それとも、エネルギーが不足したからか……私にはナゾです」。
 
 谷口 雅宣

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2009年1月25日

生長の家ブッククラブ

 本欄の読者ならSNS(ソーシャル・ネットワーキング・サービス)のことをご存じだろう。昨年10月末に谷口清超先生へ感謝の言葉を書くためにアメリカの大手SNS「フェースブック」(Facebook)に生長の家のグループを開設したところ、日本からも多くの人々に参加していただいた。その後、この日本のグループの動きに目立ったものはないが、同時に開設した英語のグループのメンバーの間からは、新しい動きが始まっている。それは、「Seicho-No-Ie Book Club」(生長の家ブッククラブ)の発足であり、その中で『生命の實相』第1巻を使ったディスカッションが行われていることは、注目に値する。

 これは言わば“『生命の實相』輪読会”のオンライン版で、メンバーは今日現在で37人いる。人数は決して多くはないが、メンバーの住んでいる国を見ると、日本、ブラジル、コロンビア、アメリカ、カナダ、イギリス、ドイツ、スイス、となかなか多彩である。ブッククラブのリーダーは、アメリカのニューヨーク教区教化部長、ブルース・マレリー本部講師(Bruce G. Mallery)で、国際本部の国際部北米課長、メイ利子本部講師がシスオペを務めている。
 
 この種のオンライン・ディスカッションは、フェースブックなどのSNS内では国境を越えて盛んに行われているが、その場合の問題の1つは使用言語である。生長の家ブッククラブでは「英語」を使用言語に定めているため、英語の読解力がある程度のレベルに達していないと、何が議論されているかよく分からない。また、このグループは、今のところ“入会制限”を設けているので、誰でも加入できるわけではない。そこで、日本の読者のうち英語が苦手な人のために、この場を使って同クラブでのやりとりの一部を紹介しよう。
 
 『生命の實相』第1巻は、聖書の『ヨハネの黙示録』第1章12節から20節の引用によって始まる。これに関連して、いろいろな疑問が生まれる。1つは、「生長の家大神」と呼ばれる神が、聖書のこの箇所に出てくる神であるかどうか。また、そうであった場合は、その神はどんな姿形をしているかなどである。私は、このことは重要だと感じたので、昨年の11月25日から3回にわたって本欄に「生長の家大神の姿」と題して書いたのだった。ブッククラブでのディスカッションが、本欄の内容に大いに関係していたのである。
 
 その後、ディスカッションは『生命の實相』第1巻のページの順番に沿って進められ、やがて「七つの光明宣言」の解説に入った。それぞれの項目での細かい議論については省略するが、その過程でマレリー講師は、同巻の冒頭には聖書の『ヨハネの黙示録』が引用され、そこには「七つの燭台の点火者」が出てくることを指摘し、それらの燭台は「七つの信仰」を象徴していると述べた。そして、この「七」は「完成」を意味するから、「七つの信仰」とは「すべての信仰」のことだと解釈した。実際の聖書の記述は、そこまではっきりとは書いてない:
 
「そこで、あなたの見たこと、現在のこと、今後起ろうとすることを、書きとめなさい。あなたがわたしの右手に見た七つの星と、七つの金の燭台との奥義は、こうである。すなわち、七つの星は七つの教会の御使であり、七つの燭台は七つの教会である」。(『ヨハネの黙示録』第1章19~20節)
 
 ここにある「教会」を「信仰/宗教」を意味すると拡大して解釈すれば、それぞれの「信仰/宗教」に伝えられたメッセージは「一つの神」から発せられたものであるから、『黙示録』のこの箇所には「万教帰一」の考え方が示されている、と解釈できる。また、「七」が「完成」を意味することは、聖書の『創世記』において神が7日間で天地を創造したとされていることからも分かる--というのが、同講師のその時の説明だった。
 
 そこで、私は1つの疑問を提示したのだった。それは、『創世記』には、厳密には「神が7日間で天地を創造した」とは書いてないからである。書いてあるのは、神は「6日間」で天地を創造され、7日目には「休まれた」ということだ。聖書の実際の記述はこうである--
 
「神は第7日にその作業を終えられた。すなわち、そのすべての作業を終って第7日に休まれた。神はその第7日を祝福して、これを聖別された。神がこの日に、そのすべての創造のわざを終って休まれたからである」。(『創世記』第2章2~3節)

 私は、マレリー講師に「神は“7日間”ではなく“6日間”で天地創造をされたのだと思ってましたが……」と質問し、ここから、ディスカッションは思わぬ方向へ展開していくのである。
 
 谷口 雅宣

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2009年1月22日

中国のネット規制

 インターネット人口を国別で比較すると、今や中国が1位だと聞いた。しかし、この電子媒体は“自由な発言”(free speech)がその特徴である。これは善い方向にも悪い方向にも働くことは、ネットを使っている読者はすでによくご存じだろう。中国は社会主義を奉じており、政治的には共産党の独裁が国是である。このことも読者はよくご存じのとおりだ。では、政治的自由が許されていない国で、ネットにおける“自由な発言”が可能だろうか? 答えは「否」である。それならば、中国でのネット上の発言の不自由さはどの程度だろう? 
 
 本欄では2006年2月17日5月11日付で、中国国内のネット規制について書いたが、実際のところ、その様子は私にはよく分からなかった。ところが、今回のアメリカ大統領就任に際して、具体的な規制の様子が一部判明した。中国国営の新華社通信のウェッブサイトでは、オバマ氏の演説の一部が削除されていたのだ。22日の『ヘラルド・トリビューン』紙が伝えている。
 
 それによると、オバマ氏は就任演説の中で、かつてアメリカがファシズムにも共産主義にも勝利したことについて、それは単に武力によるだけでなく、強固な同盟関係と強い信念があったからだと言っている。原文を示そう--
 
 Recall that earlier generations faced down fascism and communism not just with missiles and tanks, but with sturdy alliances and enduring convictions.
(先人たちがファシズムと共産主義に対峙して勝利したのは、ミサイルや戦車によるだけではなく、断乎とした同盟関係と強固な信念にもよることを思い出してほしい)
 
 中国の公式な英字紙『China Daily』にもこの英文はほとんどそのまま載っているが、唯一「communism」(共産主義)という言葉が省かれていて、その中国語訳にも「共産主義」の文字はないという。つまり、中国国内では、アメリカは「ファシズム」には勝利していても「共産主義」にはまだ勝利していないということだ。
 
 また、昨日の本欄で引用している、「イスラーム世界」に向かってオバマ氏が考えを述べた部分は、その段落が全部削られているらしい。その理由は、中国にイスラーム教徒がいないからではなく(かなりの人数がいる)、その段落に「腐敗と謀略によって、また反対者を抑圧することで権力にしがみついている人々には、こう言おう。あなた方は歴史の誤った側にいるのだ」という文章があるからだと思われる。つまり、「反対者を抑圧する」ことは、中国政府がずっとやってきたことで、それがアメリカ新大統領によって批判されているとなると、難しい問題が出てくる可能性があるからだ。
 
 これらのことは、一体何を意味しているのだろうか? それは、中国政府が国内で流れる情報だけでなく、海外から入ってくる情報にもいちいち“検閲”を加えているということだ。また、同国政府が、米中関係に相当気を遣っていることも窺える。彗星のように登場したアメリカの若き大統領が、中国国内の“反対勢力”を支援していると受け取られた場合、その人気ゆえに、中国国内での反米感情が増幅するか、または同国内での反政府運動が盛り上がる。いずれの場合も、米中関係をむずかしくする可能性がある--そんなことをいろいろ考えながら、中国政府の当局は、海外メディアの情報にいちいち手を加えているのである。何ともご苦労なことである。
 
 谷口 雅宣

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2009年1月21日

オバマ演説を聴く

 アメリカ合衆国第44代大統領になったバラク・オバマ氏の就任演説を聞いた。アメリカと世界の深刻な政治・経済状況をしっかりと捉えたうえで、建国の理想を前面に打ち出して、それを実現するために、未来世代のために、共に汗を流そう--という内容の、格調高い演説だった。ヤフーのニュースサイトに動画があり、別のニュースサイトに演説のテキスト全文が載っていた。動画では、大統領本人の表情や仕草が克明にわかり、聴衆のどよめきや拍手が聞こえる。それを首都ワシントンでの演説から12時間後には、地球の反対側の東京で、1人の個人が自由な時間に、テレビも新聞も利用せずに入手できる。「地球は狭い」との感慨を深くした。

 私が最も関心をもっていた“テロとの戦争”(war on terror)という言葉は、演説中ついに1回も使われなかった。このことで、オバマ新政権の外交政策の基本姿勢がはっきりしたように思う。“テロとの戦争”はやっと終息したのだ。私はこれを歓迎する。しかし、“テロリスト”との個別具体的な戦いは終っていない。この違いは微妙なので、少し説明しよう。
 
 私がここでいう“テロとの戦争”とは、第1にその用語のことであり、第2に、この用語の背後にあるものの見方である。用語の問題点は、すでに何回も述べたが、テロとは「恐怖」のことだから、恐怖と闘うのに武器や軍隊をもってするのは間違いである。テロの意味を「テロリズム」という手段だと考えた場合も、問題がある。何かの目的を遂行するための「手段」を相手にして、それと武器をもって戦うというのでは、問題は解決しない。問題なのは、テロによって遂行しようとする「目的」の方である。それを解決すれば、テロという手段はもちろん、その他の手段も使われなくなる。

 “テロとの戦争”という言葉の背後にある考え方は、前回の本欄でも触れたように、様々な個別具体的目的をもったテロリストたちを十把一絡げにして“敵”と見立てるのである。これでは、敵でないものを敵に回し、これまで関係がなかった敵と敵とを団結させる--換言すれば「認めたものが現れる」という唯心所現の法則が発動するから、敵はどんどん増えるのである。そんな戦略は破綻する以外なく、現にブッシュ時代の“テロとの戦争”はテロリストを増やすという逆効果を生んだのだ。
 
 しかし、“テロとの戦争”という架空の敵との戦争は終っても、個別具体的にテロを手段として向かってくるグループや国家に対しては、戦い続けねばならない。そのことを、オバマ演説は明言している。それは、次のような箇所である--
 
 For those who seek to advance their aims by inducing terror and slaughtering innocents, we say to you now that our spirit is stronger and cannot be broken; you cannot outlast us, and we will defeat you.
 (自分たちの目的遂行のために恐怖心を起こさせ、罪のない人々を切り殺そうとする者に、今私たちは言おう。私たちの戦う意志はより強固になった。これを崩すことはできない。君たちは先に倒れるのだ。私たちは必ず君たちを打ち負かすだろう)
 
 この部分には、従来だったら“テロとの戦争”という言葉が使われたはずである。それを今回は、「目的(aim)」と「手段(by ....ing)」とを注意深く分けて述べている。しかも、イスラーム(Islam)や原理主義(fundamentalism, extremism, radicalism)という言葉は一切使われていない。ということは、目的が変わらなくても、テロリズムという手段さえ使わなければ、アメリカは交渉のテーブルにつく用意がある--というメッセージにも読めるのである。しかし、テロリズムを放棄しなければ、アメリカは全力を挙げてテロリストを負かすまで戦うだろう--そういう強い決意が示されている。

 こことは全く別の箇所に「イスラーム教徒」に対する呼びかけが出てくる。そのこと自体が、前政権とは決定的に違う。つまり、オバマ演説は、「テロリスト」と「イスラーム」とを、意識的に全く別に扱っているのである。そして、イスラームについてはこう言う--
 
 To the Muslim world, we seek a new way forward, based on mutual interest and mutual respect. To those leaders around the globe who seek to sow conflict, or blame their society's ills on the West, know that your people will judge you on what you can build, not what you destroy. To those who cling to power through corruption and deceit and the silencing of dissent, know that you are on the wrong side of history; but that we will extend a hand if you are willing to unclench your fist.
(イスラーム世界にはこう言おう。私たちは、共通の利益と相互への尊敬に基づいて新たな前進の道を追求する。紛争の種をまき、あるいは自らの社会が抱える問題を西洋社会のせいにする国々の指導者に対しては、こう言おう。あなた方の国民は、何を破壊するかでなく、何を築き上げられるかによってあなた方を判断すると知るべきだ。腐敗と謀略によって、また反対者を抑圧することで権力にしがみついている人々には、こう言おう。あなた方は歴史の誤った側にいるのだ。しかし、あなた方が握りしめた拳を開くつもりなら、私たちは支援の手を差し延べるだろう)

 ここには、イスラーム世界の中で民主主義の動きを抑圧している国に対する姿勢が表明されている。具体的な国名が出ていないが、それは恐らく、アメリカの同盟国であるサウジアラビアなどが含まれているからだ。その一方で、イランのようにかつて“悪の枢軸”を構成していた国に対しても、相手の出方によっては「支援の手を差し延べる」可能性を明確に打ち出している。
 
 このように見ていくと、オバマ新政権の外交政策では、従来の「2項対立的」で「軍事力主体」のものから、交渉を重視した、より柔軟な外交が模索されると推測できるのである。
 
 谷口 雅宣

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2009年1月20日

英外相が“テロとの戦争”を批判

 1月8日の本欄で、まもなく始動するアメリカのオバマ新政権では、ブッシュ政権下で盛んに使われた「テロとの戦争」(war on terror)という用語が廃止されるのではないかとの期待を表明した。が、アメリカと共にこれを推進してきたイギリスでは、ミリバンド外相がすでにこの用語や考え方は「間違いだった」とはっきり言っているという。今日の『朝日新聞』が社説で取り上げている。
 
 それによると、同外相が「テロとの戦争」を批判したのは1回だけでなく、「先週、インド・ムンバイでの演説やBBC、英紙でそう明言した」のだそうだ。そこで、BBCのウェブサイトを調べてみると、1月15日付で「ミリバンド、“テロとの戦争”を批判」(Miliband criticises 'war on terror')というインタビューがあり、そこからさらに調べると、1月15日付の雑誌『ガーディアン』に外相本人が寄稿していることが分かった。その内容は、『朝日』の社説が簡潔にまとめている通りだ。
 
 ミリバンド外相が挙げる「テロとの戦争」の用語が間違っている理由は、3つある--①テロを政治手段とする集団は多様であるのに、それらを十把一絡げにすることで、テロ集団を相互に団結させる、②軍事手段を重んじるあまり「法の支配」を軽んじて民衆の支持を失う、③そもそも団結の基礎となるのは、何かに「反対する」ことではなく、共通の価値を「支持する」ことである。
 
 私は2005年6月1日の本欄で、「“テロに対する戦争”という言葉は、問題の立て方が間違っている」と書いた。なぜなら、「テロ(terror)」とは「恐怖」という意味であり、恐怖は、第一に恐怖する人の心の中にあるのだから、それと戦うのに実際の兵器はさほど役に立たないのだ。さらに続けてこう書いた--「恐怖は“外”にあるのではなく“内”にある。“外”をいくら叩いても“内”にあるものは壊れない。或る“敵”を外に見出しそれを倒しても、次なる“敵”が内部の(恐怖の)投影としてまた外に現れる。否、“テロとの戦争”という言葉を使う限り、自ら“敵”を外側に作り出さざるを得ないのだ。戦争には、具体的な“敵”が必要だからだ」

 この文章は、“テロとの戦争”を「する側」の心理を描いたものだが、これをテロとの戦争を「仕掛けられる側」の立場から描けば、上記のミリバンド外相の①の分析になる。つまり、“テロ集団”の側から見れば、アメリカのような超大国(イランでは“大悪魔”と呼ばれている)から宣戦布告されたのだから、イスラーム社会は「小異を捨てて大同につく」ことが至上命令になるのである。日本の諺に「窮鼠猫を噛む」というのがあるが、より多くの人々を「窮鼠」の心境に追いやることは暴力拡大の道なのである。
 
 私は2007年1月14日15日の本欄で、当時のイギリス首相、トニー・ブレアー氏(Tony Blair)の“テロとの戦争”を推進する考え方に反対した。同氏は、地球環境問題への取り組みの姿勢は称賛に値するが、戦争の問題については“ブッシュのプードル”などと揶揄されるほど、ブッシュ氏の考えに近かった。あれから2年たって、イギリスも外相が交代して「テロ」に対する考え方が変わってきた。大いに歓迎したい。あとは、アメリカの新大統領、オバマ氏の「テロ観」がどうであるかが重要になってくる。
 
 谷口 雅宣

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2009年1月16日

上を向いて歩こう (3)

 これまで本題でこのブログを書くとき、私は“大不況”とか“経済危機”などと呼ばれる今日の困難な経済状況にも「良い面」があるから、それを認めて明るく前進することを訴えてきた。例えば、昨年10月11日の本欄にはこう書いた--
 
「株価の下落は消費マインドを減退させるというが、それはそのままCO2の排出削減になるし、自然破壊の速度が鈍ることを意味する。人間の諸活動の“過剰”な部分が削り取られて、もっと自然と共存できる技術や生き方、諸制度が新たに工夫できる素地が整えられるかもしれないのである。いや、まさに今、そちらの方向に人類は大きく舵を切るべきだ。枯渇する資源を争奪して富を増やすことから、枯渇しない自然エネルギーの利用と、他国や自然との共存に向かって産業構造を切り替える時期に来ているのだ」

 また、私の生活と仕事の場である東京・原宿のきらびやかな“繁栄”については、「ヴァニティー・ストリート」(虚栄通り)と呼んで批判したり、作家の工藤美代子さんが命名した「欲望の街」という表現に賛同したりした。私がブログでいくら批判しても、世界の高級ブランド・ショップにとっては痛くもかゆくもない。が、世界的経済不況がやってくると、さすがにダメージが大きい。贅沢品や装飾品は、消費者の購入リストから真っ先に削られるからだ。その証拠に、ルイ・ヴィトンは最近、豪華な大型店の東京への出店を取りやめた。シャネルも、200人の臨時雇用者の自宅待機を決定した。が、仕事が減るだけでは必ずしも“良い面”とは言えない。仕事の内容そのものが“自然共存型”や人間の“精神向上型”に変化していくべきである。

 ところが、そうした贅沢品や装飾品の“発祥地”のように言われるフランスで、「これから精神性の向上を重視した生き方が始まる」として不況を歓迎する声が上がっているという。16日の『ヘラルド・トリビューン』紙が伝えている。それによると、『ル・フィガロ』誌は最近号の12ページを割いて、慎ましい生活のための手引を特集し、人々は今年、仕事を減らして家族との時間を大切にするだろうと予測している。専門家に言わせると、これはフランスでの“価値観の革命”だという。また、世界5大宝飾店に挙げられるモーブッサン(Mauboussin)の会長は、今回の不況からフランスの贅沢品産業を救うためには、価格の大幅引き下げをしなければならないと主張し、自ら「愛の機会」(Chance of Live)という名の1カラットのダイヤの指輪の値段を、通常より3分の1安くしたという。
 
 フランス言論界ではもっと厳しい反省が行われ、贅沢品産業が死滅することが国家の浄化に必要だという意見さえ出ているらしい。また、アメリカ式資本主義の信奉者で、就任時には、より多く稼ぐためにより多く働こうと訴えたサルコジ大統領も、考え方を変えたようだ。同大統領は先週、世界経済に道徳的価値を導入することをねらった政治家・経済人の会合で演説し、古い金融秩序は「非道徳的で制約のない資本主義によって悪用された」ため、「富の象徴が富自体より尊重されることになった」と現状を批判した。そして、国家には資本主義の過剰を規制する役割があると述べたという。

 あるインタビューの中で、シャネルのデザイナーであるカール・ラゲルフェルド氏(Karl Lagerfeld)などは、「今のような劇的な変化がなければ、創造的な進化というものは起こらない。華美や虚飾の時代は終わった。人造ダイヤを散りばめた赤い絨毯は、もういらない。私はこれを“新しい節度”と呼びたい」と言う。が、シャネルの人員整理は騒がれ過ぎた、と同氏は言い、先週同社がパリとモスクワで行ったオートクチュールのショーでは、2007年のパリとロンドンのショーより17%も売り上げが伸びたことを強調したそうだ。
 
 原宿の表参道に象徴される世界の贅沢品業界が今後、どうなるか私には分からない。しかし、虚飾や過剰な消費を反省する動きは現に世界中で起こっているのだから、この流れを生かした“自然共存”“精神向上”の産業が育っていくことを、私は心から願っている。
 
 谷口 雅宣

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2009年1月10日

無神論を広告する (2)

 前回本欄で紹介した「無神論者バスキャンペーン」(Atheist Bus Campaign、ABC)の動きは、欧米で大きな論争に発展しつつあるようだ。キリスト教信者が多いこれらの国々では、無神論者であることは、ひと昔前のゲイの人々がそうであったように、何か“肩身の狭い”思いがともなってきたようだ。しかし、イギリスを起点としたこのキャンペーンを契機にして、無神論者の“カミングアウト”が始まったとの見方もある。
 
 ネット上には、すでに無神論者バスのオフィシャル・ウェブサイトが作られていて、大手SNSのフェースブック上でもそのグループが活動している。10日夜の時点で、そのグループの会員数は1万5千人を超えている。さらに、各地にバス広告を走らせるための資金カンパ用のグループもできている。これに対して、同じフェースブックに「無神論者が進めるバス広告に反対する」(Against Atheist Promoting Bus Adverts)というグループも作られている。

 1月7日付のイギリス紙『ガーディアン』によると、ABCの活動は、伝統的にカトリック信者の多いスペインにも広がっている。今週、同国で初めてのキャンペーンがバルセロナ市で行われるという。バスに掲げる広告文は、イギリスでのものの忠実な翻訳らしい。そして、その後、マドリッドやヴァレンシアでもキャンペーンが行われる予定だ。
 
 これに対し、バルセロナのカトリック大司教は、「神への信仰は心配のもとにはならないし、人生の楽しみの障害にもならない」と反論している。また、教会関係者の中には、この広告キャンペーンを「すべての宗教に対する攻撃だ」と非難し、それに許可を出した政府に対して怒りを振り向ける人もいる。
 
 同紙は、スペインのカトリック教会側のこういう動きに関連して、教会がしだいに政治問題に関わるようになってきたことを指摘している。同教会は、サパテーロ首相の社会党政府が同性婚を認め、離婚手続きを簡略化し、学校の授業から宗教教育の時間を減らそうしていることに一貫して反対してきたし、妊娠中絶法の改正の動きにも反対しているという。同国では国と教会は形の上では分離しているが、教会は政府の資金援助を受けている。だから、スペインにおけるABCの活動は、イギリスにおけるよりも物議をかもし出す可能性がある。

 谷口 雅宣

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2009年1月 9日

無神論を広告する

「悔い改めなさい」「神を信じなさい」--年末の渋谷や原宿の駅頭には例年、そんな声が響きわたる。昨年末にもそんな光景を私は何回も見た。彼らはどこからともなく姿を現し、プラカードにそんな言葉を掲げ、プラカードに付けたスピーカーから録音の声を響かせて、駅頭に立つ。これは言わば「神」を広告しているのだ。私にとっては一種の“同業者”だから、それはそれでいいのだが、広告の方法にもっと工夫があっていいと、いつも思う。今日の我々は、あらゆるものが広告物となり、また広告媒体になる時代に生きているから、こんな形での「神」の広告も許されて当然だ。が、「神はいない」という広告はどうだろう? 日本のように表現の自由が許されている社会では、もちろんそんな広告があってもいいはずだが、私はまだお目にかかったことがないし、聞いたこともなかった。が、イギリスで昨年、そんなキャンペーンが展開されたという。8日付の『ヘラルド・トリビューン』紙が伝えている。

 同紙によると、この広告キャンペーンは、『ガーディアン』紙のウェブサイトから生まれたそうだ。ある日、コメディー作家のアリアン・シェリーン氏(Ariane Sherine)は、このサイトに短い評論を書いて、宗教の宣伝とは逆のことをしてもいいはずだ、と日頃の不満を漏らしたという。というのも、彼女がバスの側面に貼った広告を見て、ある宗教サイトにアクセスしたところ、「不信仰者は永遠の業火に焼かれる」などと書かれているのを見て、根拠も示さずにヒドイ言い草だ、とカチンと来たのである。すると、彼女の評論を読んだ人の間に共感者のグループが生まれ、「神はいない」というメッセージをバスに貼る「無神論キャンペーン」の計画ができ上がった。昨年10月にこの計画が発表された時、この有志グループは8千ドルほどの資金が集まればいいと考えていた。が、この計画には、『利己的遺伝子』で有名になった無神論科学者のリチャード・ドーキンス氏(Richard Dawkins)や、哲学者のA・C・グレーリング氏(A. C. Grayling)、英国ヒューマニスト協会(British Humanist Association)などが乗ったため、わずか4日間で15万ドルが集まり、すぐに20万ドル以上の資金になったという。

 そして昨年末、800台のバスを使って英国全土をめぐるキャンペーンが行われた。そこに使われたのは、こんな広告文だった--

「たぶん神はいない」
「だから安心して人生を楽しんで!」

 これはかなり直接的な表現だが、同様の趣旨で昨年11月にアメリカのワシントンで行われた広告キャンペーンでは、サンタクロース姿の男の写真の上にこんな文字をかぶせた、もう少し婉曲な表現が使われたという--

「なぜ神なんか信じるの?」
「ただ“善い”だけでいいじゃない」

 イギリスの広告を仕掛けたグループは「無神論者バスキャンペーン」(Atheist Bus Campaign)という名前で、来週には、ロンドンの地下鉄に1千枚の広告ビラを掲示する計画だという。

 上の広告文は、もちろん英語からの翻訳である。原文は、最初の2本が「There's probably no God.」と「Now stop worrying and enjoy your life.」。2番目の2本は「Why believe in a god?」と「Just be good for goodness's sake.」だ。2番目の2本目の英語は訳しにくいので、かなり自由訳にしたが、意味はそう変わらないと思う。

 イギリスの広告文の背後にある考え方は、興味深い。人々は「神がいて見ている」という意識のもとにビクビクとして生きているというのだろうか? 「神の存在」と「人生の享受」とが両立しないとの前提が透けて見える。これに対しアメリカの広告文は、アメリカ的な明るい楽観主義が感じられる。神など信じなくても、人間は善なる生活ができるという前提があるようだ。そこで、私がこの広告キャンペーンに反論を試みるなら、どんな文章を掲示するか考えてみた--
 
「人生は素晴らしい」
「だから神は無神論者も愛される」

「なぜ神を疑うの?」
「自分の“良心”は疑わないのに」

 読者も、反論広告を考えてみては?
 
 谷口 雅宣

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2009年1月 8日

「テロとの戦争」をやめよう (2)

 まもなく始動するオバマ新政権下の駐日大使に、ハーバード大学教授、ジョセフ・S・ナイ氏(Joseph S. Nye, Jr.)が起用されるらしい。今日の『朝日新聞』夕刊が1面トップで伝えている。政権発足前に駐日大使が決まるのはきわめて異例であるだけでなく、すでに名前が上がっている国家安全保障会議(NSC)のアジア上級部長、国務省の東アジア・太平洋担当次官補、ペンタゴン(国防総省)のアジア・太平洋担当次官補などの顔ぶれと合せて見ると、「日本に厚い配慮をした布陣」であり、オバマ政権の東アジアにおける“日本重視”の姿勢が明らかになったというのが『朝日』の分析である。これまで『産経新聞』などは、オバマ政権は日本よりも“中国重視”だとの予測をしていたようだが、そういうわけでもなさそうである。
 
 日米は長い同盟関係にある一方、米中の間に同盟関係はないから、アメリカの“日本重視”は当り前といえば当り前である。しかし、一国の影響力という点では、人口や経済力、軍事力の面で中国が日本に勝ることも自明だから、アメリカが“中国軽視”をすることもないだろう。中国は核兵器をもち、アメリカの国債を大量に保有しているから、軽視などできるはずがない。外交や国際関係は、“重視”とか“軽視”などという単純な言葉で表すことはできないものである。
 
 そんなことよりも、ナイ氏の起用によって、アメリカが唱導してきた“テロとの戦争”が終わるのではないか、と私は期待している。というのは、『朝日』も指摘しているが、同氏は外交に軍事力などの“ハードパワー”を多用するよりも、価値観や文化などの“ソフトパワー”を活用することを唱えてきた人だからだ。ブッシュ氏は、ご存じのように、国際関係の中に“善”と“悪”の二項対立の考え方を持ち込み、かつてはイラク、イラン、北朝鮮などを“悪の枢軸”と決めつけて、それらとは交渉も拒否し、軍事力をもって対峙する外交政策を展開した。理由は、それらの国が「テロを支援している」というのである。そして、9・11以降は、それら“支援国家”を含めた“テロとの戦争”を唱導して、圧倒的な軍事力によってアフガニスタンのタリバン政権を倒し、イラクのフセイン政権を転覆した。が、この“ハードパワー”優先の政策が何をもたらしたかは、今の我々はよく知っている。“悪”を認めて、それに大量のミサイルを撃ち込んでも、“悪”は破壊されなかったのである。
 
 これに対して、ナイ氏は、文化の違いや考え方の差、心理的な行き違いなどからも紛争が生じることがあるから、そういう“ソフトパワー”の活用によっても紛争の処理や仲裁は可能だとするのである。私は、同氏の論文を数多く調べたわけではないが、2007年2月10日の本欄で紹介した論文には、そういう考え方がよく表れている。この論文でナイ氏は、2005年7月のロンドンでのテロ事件に関連して、“テロとの戦争”という言葉の使い方に大きな問題があることを指摘している。当時の本欄の文章から引用すると--
 
「ナイ教授によると、イギリスの情報機関であるMI5がテロリストを取り調べたところ、彼らの心の軌跡には共通したパターンがあることに気がついたという。それぞれのテロリストは、過激思想や、様々な社会的・政治的不満をもっていることは確かだが、そういう若者に宗教的使命感にも似た精神の高揚や、より大きな目的意識をもたせて行動に至らせるものは、“戦争”という言葉や、“戦い”をめぐる物語なのだという。アルカイーダは、そういう単純だが強力なメッセージをメディアやインターネットを通じて伝達する能力に優れているらしい。テロ行動に出た人々の間には、<イスラーム社会は今、西側諸国から一斉攻撃を受けている。だから、イスラーム信者は世界中で、イスラーム共同体を敵の攻撃から護るのが信仰者個人としての義務だ>という考え方が浸透しているというのだ。そんな中で、西側諸国が“戦争”や“”戦い”という言葉を使えば、彼らの信念をより強固にし、テロ活動への参加者を増やすことになる」。

 もう2年も前の分析だが、このようなイスラーム社会内部の「心の問題」に注意を払いながら外交を展開していくことが重要だと考える人は、きっと日本社会内部の「心の問題」にも留意して日米関係を考えてくれるものと私は期待する。とにかく、「テロとの戦争」という“悪”の存在を前提とした看板は、早急に下してもらえるとありがたい。
 
 谷口 雅宣

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2009年1月 7日

バイオ燃料で日米協力を

 日本における環境対策について、2回ほど“夢のような話”を書いた。そこで今回は、もう少し現実的なことを書こう。とは言っても、“夢”の代りに相当“期待”が混じっていることは否めない。そして、今度はアメリカの話だ。日本が不況下に“経済優先”で環境問題への取り組みを遅らせているあいだに、オバマ政権率いる“新しいアメリカ”は、環境対策で日本を追い抜くかもしれないのだ。

 京都議定書を取りまとめた日本政府だが、「温暖化は存在しない」などとうそぶいていたブッシュ氏の消極姿勢に気がねして、温暖化対策にはこれまで積極策を採らなかった。このため、今や同議定書で表明した国際公約を守れない可能性が現実化している。そんな中で、オバマ次期大統領に任命されたアメリカの新しいエネルギー相は、温暖化抑制のためにかなり積極的な対策を講じそうだ。この人はスティーヴン・チュー氏(Steven Chu)という人で、カリフォルニア州バークレー市にあるローレンス・バークレー国立研究所(Lawrence Berkeley National Laboratory)の所長。永年、「自動車や火力発電所や産業から排出される二酸化炭素が、地球温暖化の直接の原因だ」と明確に述べ、早急な排出削減を求めてきた科学者であるという。だから、アメリカのエネルギー政策が大きく転換する可能性があるのだ。1日付の『ヘラルド朝日』紙が伝えている。
 
 それによると、チュー氏はまだエネルギー政策について公式に発言していないが、これまでの彼の行動を見れば今後の予想ができる。チュー氏は、2004年にバークレーの国立研究所の所長になり、生物エネルギー合同研究所(The Joint BioEnergy Institute, JBEI)を傘下に作った。このJBEI(ジェイベイと読む)は今、エネルギー省から5年間で1億3500万ドルの予算を得て、合成生物学の技術を使って植物繊維を燃料に換える研究を進めている。しかし、チュー氏が所長になった当時、国立研究所ではこの分野の研究がほとんど行われていなかったという。研究員は、それぞれがバラバラのテーマの研究をしていたところへ、チュー氏が来て、研究の方向性を「燃料」に絞り込んで研究者を集めたという。これには、チュー氏のネームバリューが役に立ったようだ。というのは、彼は1997年のノーベル物理学賞の受賞者の1人だったからだ。

 今、トウモロコシやサトウキビから作られているバイオエタノールは、食糧との競合の問題が指摘されていることは、本欄で何回も書いてきた。この“第1世代”のバイオ燃料の後には、食糧と競合しない雑草などから燃料を作る“第2世代”の開発が求められており、その分野の研究に早い時期から取り組んできたのがチュー氏である。だから今後、アメリカが第2世代のバイオ燃料の開発を加速させることが十分予測できる。日本でも、本欄で触れてきたように、食糧と競合しない竹、籾殻、木材などを原料とする第2世代のバイオエタノールの研究は進んでいる。

 また、北海道との関連で言えば、昨年9月1日の本欄で紹介したススキの一種「ジャイアント・ミスカンサス」(GM)は、トウモロコシよりも有望のようだ。GMは現在、北海道大学と米イリノイ大学が共同研究しているところだから、この分野での日米協力を両国政府が本格的に支援してくれることを、私は大いに期待している。
 
 谷口 雅宣
 

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2009年1月 5日

北海道“夢の国”計画 (2)

 私の“初夢”的構想から生まれた「自然資本産業省」(自産省)は、北海道にあって何をするのか? それを述べる前に、この機関の設立の前提となっている「自然資本」(natural capital)の考え方を簡単におさらいしておこう。

 自然との一体感を重んじる我々日本人にとっては、この概念はむしろ“当り前”であって不思議なところは何もない。ごくごく簡単に言えば、「手つかずの自然には価値がある」ということだ。しかし、今日の政治経済制度では、この当り前の考え方が「ものの値段」に反映されていない。最も分かりやすい例は、土地の値段である。賃貸アパートや戸建て住宅を探した経験のある人はよくご存じだが、土地の値段は「駅から○分」「バス停から○分」「○○空港から何分」というように、「人工物からの距離」で評価される。もちろん、距離が短い方に“価値がある”とされるのである。これに対して、手つかずの自然がある土地は“価値がない”とされているから、「大雪山頂から○分」「富士山頂から○分」「阿蘇内輪山から○分」などという不動産表示はない。誰もそんな土地をほしがらないと思われているのだろう。

 が、しかし、我々は「手つかずの自然には価値がある」ということを学んできた。神道や仏教、修験道が信仰の対象や施設をわざわざ山奥に設置してきたのはそういう理由だろうが、現代においてもエコロジー(生態学)を学んだ人間には、そのことは自明である。にもかかわらず、現在のほとんどの国の経済制度では、「手つかずの自然」の価値はものの値段に反映されていないか、反映されていても、その評価は最小限だ。これをきちんと貨幣価値に置き換えて評価しようというのが自然資本の考え方である。

 私は2002年8月の本欄で、地球全体での自然資本を貨幣価値で表した研究を紹介した。この研究者は手つかずの自然に、①気候調整、②土壌形成、③栄養素の循環、④野生種の動植物提供、⑤燃料・繊維類・薬草の供給、⑥自然美の提供などの価値を認めて、それを具体的な数値(ドル表記)で表したのである。それによると未開発の地球の自然の価値は「年間平均38兆ドル」という。これが、開発による環境破壊で「毎年2500億ドル」の損失を生んでいるというのだ。詳しくは、上記の本欄や拙著『足元から平和を』(2004年、生長の家刊)を参照してほしい。
 
 この考え方を経済に導入する1つの方法は、健全な生態系を維持している自然環境を管理している人には、その生態系サービスの価値に該当する対価を支払う、ということである。森林の間伐や下草刈り、養蜂、食害を防ぐための狩猟、田圃の維持などに「生態系サービス」補完の意味を認め、正当な対価を払うのが理にかなっている。これに対して、海外からの輸入品や地元産以外の物品に対しては「カーボンフットプリント」の概念を導入して、環境への負荷(生態系サービスに対するマイナスの価値)を値段に反映させるのがいい。同じことは、森林を伐採して農地や商業地に転換すること、道路を建設して森林を分断し、あるいは地下水脈に損害を与えること、工場や動力源から有毒物質や有毒ガス、温室効果ガスを排出することにもいえる。これらの行為は、生態系へのマイナスの価値としてきちんと円貨で評価して、製品やサービスの値段に反映させる。これをいきなり日本全国に導入するには、かなりハードルが高いだろうから、食糧の自給が可能である北海道にまず導入する。食費の変動を最小限に止めるためである。

 北海道でのもう1つの問題は、長い冬場のエネルギー消費と広大な土地を往き来するための燃料コストである。これは、自然エネルギーの全面的導入と、自動車の全面電化によって対応する。そのためには、「炭素税」の施行が必要だ。これは、CO2の排出量に応じた税金であるから、航空機やガソリン車、ディーゼル車による人と物の移動が、電気自動車より高くつくようになり、買い替えが進む。また、これによる税収は、各種の環境対策に使われる。具体的には、私はこれを、①自然エネルギーの振興と、②電気自動車のインフラ整備に使うのがいいと思う。自然エネルギーでは、道ではすでに風力、太陽光、バイオマスなどが利用されているが、これをもっと大々的に導入するための補助金とする。そして、作られた電力を配電網に供給して全道で共有する。ここで、「農業」と「産業」と「エネルギー」と「環境」という4つの政策の調和が必要になるが、そのすべてを管轄する自産省においては、問題は比較的少ないだろう。
 
 自動車の電化計画について、少し補足しよう。すでに昨年12月8日の本欄に書いたが、電気自動車(EV)の本格的導入は北海道のような広さの土地がやりやすいようだ。実際、これをポルトガルやイスラエル、デンマークなど北海道サイズの小国で積極的に展開しているベンチャー企業がある。日本のEVとそれに使うリチウムイオン電池の技術は、インフラさえ整備できれば、連続走行距離は実質的に無限大に延長できる段階まで来ている。このインフラとは、高速給電と電池交換ができる給電所網である。この給電所が提供する電気を風力や太陽光、バイオマス発電から得られれば、EVの利用は限りなく“炭素ゼロ”に近づいていく。そして幸いなことに、北海道では風は多く、日照時間は長く、バイオマスは豊かである。
 
 こうして“炭素ゼロ”と食糧自給、自然と産業との調和が実現する土地には、やる気のある起業家や若者が先を争って移住するに違いない。
 
 谷口 雅宣

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2009年1月 4日

北海道“夢の国”計画

 「夢」という言葉にはいくつかの意味がある。「夢を描け」とか「夢のある話」などという場合は、「理想」とか「未来への展望」などという肯定的な意味合いが含まれる。その一方、常識を欠いた荒唐無稽な話は「夢のような話」とか「夢物語」と呼ばれて、否定的にとらえられる。これから書こうとしているのは、恐らくこの2つの中間的な意味での夢の話だ。まぁ正月に見る“初夢”のようなものとして聞いていただければ幸いである。
 
 私は、北海道を“半独立国家”としたい。それを今年に行われる総選挙の公約とし、「日本大改革党」という政党を旗揚げしよう。英語名は「Revolution-in-Japan Party (RIJ)」--通称「リッジ党」だ。なぜ北海道かと言えば、そこは日本列島最大の島であり、最大の地方公共団体であり、本州とは国際海峡によって分離され、広大な大陸的地形と自然環境を有し、また歴史的にも進取の開拓精神に富んだ人々が「Boys be ambitious!」の声に共鳴して、それこそ“夢”を描きながら愛情をもってつくり上げてきた土地であるからだ。日本を改革するのであれば、このように地理的な独自色と自由度を有し、進取の改革精神が存在するところから始めるのが、最も合理的である。

 私は、北海道が好きだ。上に挙げた理由以外にも、そこに住む人々の物事に捉われず、しかも親身になって相互協力し合う平等精神が好きだ。これらは、「男女×歳にして席を同じうせず」などという旧い文化が通用しない厳しい自然環境の中で育まれてきたもので、アメリカの開拓精神とも通じるところがある。人間はこのような中から、豪壮で斬新で、新時代を切り拓くような力に満ちたアイディアを生み出すものである。オバマ政権の“後追い”をするわけではないが、今人類が直面している文明的変化(1月1日本欄参照)に正しく早急に対応するには、日本においては「北海道」の自然と人間の活力を動員することが最も有効だと考える。

 リッジ党が政権を取った暁には、首都機能の一部を札幌に移転する。これに先立って、行政機構の大幅再編を行う。省庁では環境、農林水産、経済産業の3省を合併して、「自然資本産業省」(自産省)を設立する。国土交通省は廃止し、同省内にあった観光庁と北海道開発局は自然資本産業省に組み入れ、残る気象庁、運輸安全委員会、海上保安庁は総務省へ編入する。これにより、自然そのものの価値を認める「自然資本」の考え方にもとづいた産業育成の考え方が、初めて行政に反映されることになる。環境行政は1本化し、不要な道路建設は極力避けられるだろう。この新しい自然資本産業省を札幌に設置するのである。
 
 自産省の構想は、イギリスの環境食糧地域省(Department for Environment, Food and Rural Affairs, Defra)の考え方に倣ったものである。この新しい行政機構は、2001年6月、旧農業水産食糧省(Ministry of Agriculture, Fisheries and Food, MAFF)、旧環境交通地域局(Department of Environment, Transport and the Regions, DETR)、それに内務省(Home Office)の一部が合併して設立された。理由は、MAFFが口蹄疫の蔓延に十分対処できなかったとの反省からである。Defra の主な政策目標は「持続可能の開発」(sustainable development)である。それは、「世界の全ての人々が基本的な必要を満たしたうえ、未来世代の生活の質を犠牲にすることなく、より豊かな生活の質を享受できる種類の開発」と定義される。1国の行政機関が、「世界のすべての人々」を対象にするという、このような広大な目標のもとに組織されたことは、まさに画期的と言うべきだろう。同省が管轄する範囲は、農業と環境、持続的開発、気候変動・大気汚染への対応、自然環境保護、動植物・農業地域の保護育成など、かなり広い。

 私が注目しているのは、Defraが、農業や水産業に環境保護の役割を認め、保護育成していくことで持続的開発を実現しようとしている点だ。また、環境保護と両立した農水産業の育成を行うことで、イギリスの食糧自給率を第二次大戦前の3割台から7割へと大幅に改善してきた実績があることだ。その手段として補助金が使われてきたが、日本のように「コメを作らないこと」に対して出すのではなく、「自然環境を維持・管理すること」に対して出すという自然資本の考え方が明確に導入されていて、合理性がある。わが国のように、環境と農水産業を管轄する役所が分離している状況では、このような政策の実行は難しいだろう。

 私の自産省の構想では、これにさらに農水産業以外の産業を加えた全産業を1つの省に管轄させるのである。というのは、北海道の場合、自然エネルギーによるエネルギー自給の可能性があると考えるからである。これをスムーズに行うためには、資源エネルギー庁を経産省の傘下に置いておくのでは農水産業との連携プレーが難しい。また、自然エネルギー開発に伴う環境問題に有効に対処するためにも、環境、農水産業、資源・エネルギー供給の三者を統括する官庁が必要だと考えた。確かに、1つの役所だけが肥大化することは好ましくない結果を招く恐れはある。それが心配の場合は、経産省から資源エネルギー庁だけをはがして自産省に組み入れる選択肢があるかもしれない。
 
 さて、こうしてでき上がった自然資本産業省だが、北海道の地に設置されて一体何をするのか--そのことは、次回以降に語ろう。
 
 谷口 雅宣

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2009年1月 1日

新年のごあいさつ

 読者の皆さん、新年明けましておめでとうございます。

Newyear2009  旧年中は、本欄を通じて多くのご支援、ご鞭撻をいただいたことを心から感謝申し上げるとともに、本年も従来にも増してご愛顧くださりますようお願い申し上げます。また、昨年の父の昇天に際しては多くの方々から暖かい励ましのお言葉を賜りましたこと、感謝にたえません。さらに12月の追善供養祭には、多くの皆さまがインターネットを介してご出席くださり、法恩と故人の生前の御徳を共に偲び感謝する機会がもてましたことを、心から御礼申し上げます。生長の家では人間の生命は永遠であると信じますが、世の中の習慣に従い、賀状でのご挨拶は控えさせていただきました。

 今年は「丑年」ということで、張子の赤ベコを登場させました。ちょっとブタのようにも見えますが、“本人”はあくまでも牛のつもりで張り切っています。今日は、穏やかな晴天の下、午前10時から東京・原宿の生長の家本部会館ホールで新年祝賀式が挙行され、私は概略、次のような挨拶をさせていただきました--
 
---------------------------------------------------------
 皆さん、平成21年、2009年の新年が明けまして、誠におめでとうございます。
 昨年1年は、実に変化の大きい年でありました。これは世界経済が大きく変動しただけでなく、国際政治にも大きな変化が起こっていて、これが早晩、日本の政治や経済にも大きく影響すると思われます。現在、私たちが経験してる変化には、次の3つの大きな流れがあると思います--
 
 ①文明の移行期にある
 (化石燃料を基礎とした地下資源文明から自然エネルギーなどの地上資源文明への移行)
 ②アメリカの一極支配から多極化の時代への移行
 ③世界のキリスト教からイスラームへの移行、

 しかし、これらの変化はすべて“人間社会”でのことです。このような大きな変化がある中でも、1年は365日で終り、また新たな年の元旦が来るという暦の繰り返しは変わらないのであります。これは、地球と太陽との関係に変化がないからです。春夏秋冬は相変わらず繰り返され、それに伴って自然界は一定のリズムを保ち、人間も自然の一部として、肉体の機能の中にこの不変のリズムが刻みこまれています。これは地球温暖化が進行しても、大きくは変わらないと思われます。ですから、この現象世界では“不変のリズム”の中で変化が起こりつつあるということが分かるのであります。

 このような環境の中では、変化に適切に対応しなければならないことはもちろんですが、その「適切な対応」とは、変化の背後にある“不変のリズム”を正しく把握して行わなければ難しい。これは、揺れているブランコの上でお手玉をするようなものです。自分の乗っているブランコの揺れ方をしっかりと把握しておかねば、お手玉は下に落ちてしまうのです。そういう意味で、この21世紀初頭の変化の時代でも、古人の知恵に不変のものを見出してそこから学ぶことは非常に重要だと思います。
 
 今年は「丑年」ということなので、動物の牛に因んだ諺を、今日は2つ引用したいと思います。

 ①黒牛(こくぎゅう)白犢(はくとく)を生む
 ②牛の歩みも千里
 
 最初の諺は、「塞翁が馬」というのと似た意味です。この世のめぐり合わせ、吉凶禍福はどう変わるか分からない。吉が必ずしも吉でなく、凶も必ずしも凶ではないということ。黒い牛が白い子牛を産むこともある。2番目の諺は、「牛の歩み」というのは「牛歩戦術」などとも使われますが、「ゆっくりとした歩み」ということです。そういうスローペースであっても、何事も怠らずに努力を続ければ、結局「千里」を行くことができる--つまり、大きな成果を挙げられるという意味です。

 「牛の歩み」の方は分かりやすいのですが、「黒牛白犢」の方は多少複雑なので説明が必要でしょう。これは『列子』という中国の古典にあるものです。こんな話です--

 宋の国に三代にわたって徳行を積んでいる人がいた。その家の黒い牛が白い子牛を産んだというので、孔子様に尋ねたところ「めでたい」と言ったので、子牛を天帝に寄贈した。ところが1年後、その家の主人が失明してしまった。このあとまた、飼っていた黒牛が白い子牛を産んだので、主人は再び孔子に吉凶を尋ねたところ、「めでたい」という答えだったので、また生まれた子牛を天子様に贈呈した。すると1年後、今度は息子の方が失明してしまった。その後、楚の国が宋を攻めて城を取り囲んだため、健康な男のほとんどは兵に取られて戦士した。しかし、この親子は目が見えなかったために戦争に加わらず、生き残った。そして、楚が引き揚げると、親子の目が見えるようになったという。

 このように、人生に起こる吉凶禍福は、何が本当の吉で何が本当の凶かは、軽々に判断できないということです。逆に言えば、我々が普通に考える“不幸”も“幸福”も、結局我々の心の影であるということです。このことは今、世界の自動車産業が直面している変化を見るとよく分かります。

 “ビッグ3”の経営危機が問題になっていますが、これは地球温暖化と石油資源の枯渇という2つの大きな流れを読むことができなかった、アメリカの自動車産業の対応の誤りであると言えます。しかし、これは今だから言えるのであって、10年ぐらい前は、大型で燃費の悪い、しかし馬力のあるアメリカの自動車はどんどん売れていたのです。また、アメリカではガソリンへの税金が少ないので、燃費の悪さも家計への負担にならなかった。それに比べて日本では、ガソリンへの税負担が大きく、そのために燃費の良い自動車を開発しなければ消費者が買ってくれないという、メーカーにとっては“不利”な条件が課されていたのです。

 しかし、この一見“不利な条件”が課されていたために、日本のメーカーは必死になって小型化や軽量化などをして燃費の改善に取り組み、優秀なロータリー・エンジンとかガソリンと電気を使う“ハイブリッド動力”などの画期的な技術を開発した。そして、今の産業全体の流れを生み出し、“ビッグ3”を追い越してしまったのです。一見“不幸”と見えた条件が“幸福”を生み出しているのです。しかし、この“幸福”は一朝一夕で実現したのではなく、諺の言葉を借りれば「牛の歩みも千里」に達するという信念のもと、コツコツと努力を積み上げていくことで本当に“千里”(大きな成果)に達したわけです。

 このように考えれば、我々の目の前にある“不幸”や“不運”などは、実は次の時代の“幸福”や“幸運”につながっていることが分かります。別の言葉で言えば、本当の意味での“不幸”や“不運”などは存在しないのです。それは、我々の適切な対応を引き出すための“呼び水”であり、“招待状”である。我々はその招待状に書かれた言葉を正しく理解し、正しい方向に舵を切り、そして「牛歩千里」の信念のもとに努力を積み重ねていくことで“幸福”をつかむことができるのです。
 
 谷口雅春先生の『真理の吟唱』には、このことを力強く宣言するお祈りの言葉がたくさん書かれています。特に、この中の「人生の苦難を克服する祈り」「困難を克服して伸びる祈り」「無限の富者となる祈り」などをお読みになれば、私たちは困難の中にあっても、大いに伸びる「黒牛白犢」の知恵を得られると思います。時間の制約もあるので、ここでは3つの祈りを全部ご紹介できませんので、3番目の「無限の富者となる祈り」だけを朗読いたします--

 (「無限の富者となる祈り」を朗読)
 
 それでは皆さま、今年も神想観をしっかり実修して神様のアイディアを受信して“正しい方向”を目指しながら、実相顕現の運動と神性表現の生活を明るく、コツコツと続けてまいりましょう。これをもって新年のご挨拶といたします。ご清聴、ありがとうございました。

 谷口 雅宣

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2008年12月31日

2008年を振り返って

 29日の本欄で今年の“世界情勢”を簡単に振り返ったので、ここではその他のことについて書こう。

 生長の家は2007年度から「“自然と共に伸びる運動”実現のための第1次5カ年計画」を開始したが、それにもとづき、教団の活動に伴う温暖化ガスの排出をなくすという“炭素ゼロ”運動が本格的に始まったのは、今年からだ。まず1月には生長の家の本部が、国連によるクリーン開発メカニズムを利用した温室効果ガスの排出権の信託商品を5千トン分、三菱UFJ信託銀行から購入した。(1月10日)これにより、東京の同本部事務所、長崎県西海市の生長の家総本山、京都府宇治市の生長の家宇治別格本山から出る温室効果ガスの4年分が相殺された--つまり、排出されなかった--ことになる。これに続き、本部は玄関前に小型風力発電システム1基が実験的に導入された。(2月15日)このシステムは、現実の排出削減効果は大きくないが、使用しながら実際の発電でーたーを収集することで、将来の本格利用の参考にするという意味がある。
 
“炭素ゼロ”に向けた努力は、全国の信徒レベルからも始まった。長崎県西海市の生長の家総本山は、交通アクセスが不便な場所にあるため、九州以外から行く場合は航空機の利用も多く、空港からも自動車の利用が不可欠である。しかし、この過程で排出される温室効果ガスを削減するために、旅行会社が始めた“炭素ゼロ旅行”というのを採用する幹部・信徒が増えてきた。まず、埼玉県の信徒139人が、2月の団体参拝練成会に参加するためにこれを行った(2月17日)のに続き、他県からの参加者もこれを採用するようになってきている。また、同総本山にはすでに2000年に大型の太陽光発電装置が設置されたが、このほど新たに総出力50kWの新型光発電装置が練成道場屋上に設置されることが決まり、来年2月の完成を目指して工事が進んでいる。この装置は、同本山で使用される電力総量の約5%を供給することになり、稼働後は、従来の装置と併せると、同本山が使う電力総量の約2割が自然エネルギーで賄われる予定だ。

“炭素ゼロ”を目指す動きは、運動の具体的内容にも反映されている。生長の家では、全国59教区にある教化部会館や地方道場に信徒を集めて行事をすることに主眼が置かれてきたが、この方法だと、交通機関の便がよくない場所だと、どうしても自動車を使うことになる。しかし、これらの行事を地元で、自動車を使わずに行ける場所で行えば、温室効果ガスの削減が可能となる。また、信徒の住居に近い地元で行事を行うことで、参加者の増加も見込める。そういう行事の“地元シフト”がしだいに進んでいるようだ。そして、これを側面からサポートするために日時計主義の生き方を前面に出した“新しいタイプの誌友会”の開催も進んでいる。これについて詳しくは、今年2月29日の本欄や拙著『太陽はいつも輝いている』(副題:私の