2011年6月15日

サダムに電話する

 週末の水曜日の夜、妻と一緒に久しぶりに銀座で映画を見た。イラクのモハメド・アルダラジー監督の『バビロンの陽光』(Son of Babylon)という作品で、ベルリン映画祭でアムネスティ賞と平和賞を同時受賞した。イラク人監督の映画を見るのは2~3回目だろうか。欧米や日本の映画を見慣れていた私は、「何と違うことか」との印象をもった。単調と言えばきわめて単調で、単純と言えば単純そのもののストーリーである。ある老女とその孫が、12年も音信不通である自分の息子(孫の父)の消息をたずねて、イラク北部から南部のナーシリーヤへ1千キロもの旅をする--それだけである。しかし、この旅が行われたのが、イラク戦争でサダム・フセイン政権が倒れてから3週間後であり、この老女がイラク人ではなく、同国で弾圧されていたクルド人であることが分かると、その長い旅程が、老女と子供にとって危険きわまりないものだと了解され、観客の心には“サスペンス映画”を見るような緊張感が生まれるのである。
 
 戦争がまだ完全に終わっていない地を、老女と子供だけで、ほとんどヒッチハイクのような方法で延々と旅をする。その間に、多くの人々に遭い、助けられたり邪魔者扱いされたり……しかし、いわゆる“悪役”のような人間は出てこない。あえて言えば、途中の検問所で人々に銃を突きつけるアメリカ兵が“悪者”のような感じがしないでもない。人々は何か大きな不条理な力が自分たちの大切なものを奪っていくのを、ただひたすら堪え忍んでいる。私が「違う」と感じたのは、こういう“起伏”や“抑揚”や“白黒”がはっきりしない映画を、これまであまり見たことがなかったからだ。その構成上の不鮮明さと、画面に展開される果てしなく広い平坦な砂漠とが相まって、眠気さえ覚えてきた。
 
 イラク戦争については、私は本欄でも国際政治の観点から結構書いてきた。が、その観点から明確であったことが、この映画ではほとんど不明確である。例えば、サダム・フセインは、民族独立を志向するクルド人に対しては血も涙もなく、化学兵器を使って大量虐殺をした。この事件は現地では「アンファル」と呼ばれている。映画の中でも、どこそこで“集団墓地”が発見されたという話が出てくるが、これなどは決して日本人が考える「墓地」ではなく、虐殺後の死体投棄所のことなのだ。で、そういうクルド人虐殺に荷担したというイラク人が、主人公の老女と子供の世話をしようとする。「あんたらを放っておけない」と言うこの元兵士は、「強制されたから仕方がなかった」と弁明する。そして、罪滅ぼしをしたいという意図が明確である。老女は当初、彼の援助を激しく拒否するが、やがて心を許すようになる。皆、何かの犠牲者なのだ、というメッセージがそこにある。
 
 では、そんな巨大な悪であるサダム・フセインが倒れたのだから、それを実行したアメリカ軍が英雄のように描かれるかと言えば、決してそうではない。上に書いたように、米兵は「サダムを倒したからもっと恐ろしい」という感じで描かれる。たぶんイラクの民衆の正直な感覚なのだろう。ところで、今日の本欄の題名である「サダムに電話する」という語だが、これは映画の会話の中に“暗号”のように使われる。が、意味していることは明確である。最初、トラックの運転手はこの言葉を放ってから、用足しに姿を消す。それを見ていた主人公の少年は、映画の終わりのほうでそのマネをして、「サダムに電話する」と言ってから、適当な藪を探して小便をする。しかし、どうしてこの言葉が用足しを意味するのか……私は考え込んでしまった。
 
 読者はどう考えるだろうか? 私の憶測を言おう--この言葉は、日本だったらさしずめ「特高に連絡する」というほどの意味だろう。が、相手の目の前で密告を公言する人はいない。ということは、「人には言えないことをする」という意味ではないだろうか? サダムの治政下では、もちろんこの言葉は口に出せない。が、映画はサダムが倒れた後を描いている。冗談でこう言って、独裁政権崩壊の現実を噛みしめているのではないだろうか。
 
 谷口 雅宣

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2011年4月21日

原発問題への視点

 休日を利用して、妻と渋谷で映画を見た。『ミツバチの羽音と地球の回転』(鎌仲ひとみ監督)という題で、美しい自然の風景が映し出されそうに聞こえるが、実は原発問題をテーマにしたドキュメンタリー映画だ。妻が19日の新聞記事を見て提案したので、私はタイムリーな主題に惹かれて二つ返事で賛成した。135分のその映画を見て、私はぜひ本欄で内容を紹介しようと思った。原子力をめぐる日本のエネルギー問題を真面目に考える人は、この映画が訴える視点を無視してはいけないと思った。

 瀬戸内海の西側の入り口近くに「祝島」(いわいじま)という小さな島がある。現在の人口は500人足らずだが、昔はその10倍あったという。山口県上関(かみのせき)町に属し、日本の田舎の例に漏れず、人口減少と高齢化が進んでいる。ということで、“地方の振興”を旗印にして、祝島の対岸3.5kmの上関町内に中国電力が原子力発電所を建設する
計画が、2008年9月に町議会で承認された。祝島の人口が同じ町の他の地域より少ないので、反対票が多数にならなかったのだ。しかし、島民にとっては死活に関わる問題なので、計画承認後も、島民は団結して反対運動を展開する。

 その反対運動が描かれていく途中で、映画の舞台はスウェーデンに飛んで、同国のエネルギー政策に焦点が合わされる。特に、そこのオーバートオーネオ市は、同国最北にあり、26年前には失業率も高く、平均収入も同国最下位だった。が、市民は同国で最初に持続可能都市になると宣言し、風車を建て、豊富な森林資源を利用して木質ペレットによる地域暖房のインフラを造った。これによって化石燃料の使用は劇的に減少し、持続可能な自然エネルギーだけに頼る生き方の実現が見えてきている。同国には原発も存在するが、1980年の国民投票で「脱原発」を決めたから、残存の原発は政府の援助もなく、事故の際の補償は無制限とされたため、廃炉になっていくらしい。

 この2つの国の差は、どこにあるのか?--というのが、この作品の訴えようとするものだ。最大の違いは、スウェーデンが電力会社の独占を廃して、配電送電の電力線を公共物として開放したことだ。これに対して日本は、ご存知のように、戦後一貫して10の電力会社が発電・配電・送電を地域的に実質独占している。そして、原発や火力発電所のような大規模・集中型の施設を造ってきたので、小規模・分散型の自然エネルギーの活用は、構造的に排除されているのである。今回の原発事故により、この産業構造の問題に加えて、政治や行政との“癒着”の問題も大きいことが実感されている。

 日本ではまだ原発への支持率が高いが、これは恐らく「それ以外に選択肢がない」と思っている国民が多いからだろう。しかし、この作品ではずいぶん違う側面が描かれている。風力や太陽光はもちろん有望だが、「波力」というのに注目している。自然エネルギーによって高効率で電力を得ることができる方法は、現在は風力が一番だが、その風が海水を動かした波力は、物理学的にいうと発電効率もエネルギー効率も風力より高いという。そして、日本が“島国”であることを考えれば、“資源”がいかに豊富であるかがわかる。しかも、この分野の技術面でも日本はトップクラスにあるらしい。

 本作品の上映は、オーディトリウム渋谷(03-5459-1850)で4月26日まで。

 谷口 雅宣

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2010年8月16日

映画『ザ・コーヴ』(The Cove)

 最近見た映画の中に『ザ・コーヴ』がある。これは、2009年度アカデミー賞の長編ドキュメンタリー賞などを受賞したアメリカ映画である。ご存じの読者も多いと思うが、そんな名誉ある映画を、日本では大手の映画館が上映をやめた。理由は、この映画が日本のイルカ漁を批判的に扱っていて、政治的に“右寄り”と言われる人たちに「反日的」というレッテルを貼られたからだ。そんな理由で映画館が上映を渋るのは、「言論の自由」「表現の自由」を標榜する民主主義国として恥ずかしいかぎりだ。が、幸いにも中小の映画館には気骨ある経営者がいたおかげで、この映画が何をどう言っているのかを知る機会を私に与えてくれたのである。結論を先に言ってしまえば、私はこれを見て知らなかったことをいろいろ知り、とても勉強になった。
 
 日本では伝統的に、動物の屠殺場は一般市民の目から隠されてきた。そして、屠殺や動物の体の処理にかかわる人々を差別してきた歴史がある。このことを思い出させる内容だった。が、知らなかったことは、その動物の中に「イルカ」もいたということだ。クジラとイルカは同じ仲間とは聞いていたが、日本では悪名高い“調査捕鯨”とは別に、小型船による沿岸捕鯨で、ツチクジラ、イシイルカ、バンドウイルカ、マダライルカ、スジイルカなど多数(捕獲枠は年間2万頭)が捕獲され、それらの肉が「クジラ肉」や「イルカ肉」と表示して売られている、ということも知らなかった。クジラもイルカも同類であれば、どちらの表示でも“偽装”ではないのだろう。さらに知らなかったことは、これらのクジラ類の肉の水銀汚染について、厚生労働省は規制基準をもっていないということだ。これには少し驚いた。
 
 環境化学研究者、小野塚春吉氏によると、1973年に当時の厚生省は行政上の指導指針として「総水銀0.4ppm、メチル水銀0.3ppm」という暫定的規制値を定めた厚生省環境衛生局長通知を出したが、この文書には「魚介類の水銀の暫定的規制値について」という表題がついていたため、哺乳類であるクジラやイルカは魚介類でも魚類でもないという解釈から、規制基準はないのである。しかし、多くの読者はご存じのように、海中では「小さいものは大きいものに捕食される」という原則があるから、海中の汚染物質は大型魚の体内に最も高濃度に蓄積されていく。特に、クジラの仲間でも歯をもったハクジラ類に属するイルカは、海中の食物連鎖の頂点にあるから、体内の水銀濃度が高くなる確率が高い。にもかかわらず、その肉の有害物質による汚染は規制されていないのである。
 
 映画の主な舞台は、和歌山県太地町の風光明媚なリアス式海岸の入江である。入江を英語で「cove」といい、それに「the」という定冠詞がつくと「ある特定の入江」という意味になる。その特定の入江は、外部から見えず、近づけないようになっていて、そこでイルカの追い込み漁が行われてきた。その様子を記録するためにアメリカから来た撮影隊が、地元の人々の反感や妨害を受けながら、ついに“屠殺”の現場を撮影することに成功する--というのがストーリーだ。私は今、「風光明媚」と書いたが、映画の中に出てくる風景は、そういう表現に当てはまらない。わざと暗く、陰湿な感じに色落としがされている。これは恐らく、「善」と「悪」とを峻別するアメリカ的考え方によるものと私は解釈した。風景だけでなく、撮影に反対する地元の人々も、顔が隠され、暗く、何か空恐ろしい雰囲気である。それが残念でならない。
 
 私が指摘したいのは、この映画が「善が悪をくじく」式の単純な発想で成り立っている点だ。地元民の反対を押し切って撮影した映画だから、自ずから限界があることは確かだ。しかし、山田洋次監督が撮るような美しい自然の中で、その地で生きる人々が、恐らく良心の呵責に耐えながらも行わねばならない“屠殺”がある--そういう観点からイルカ漁を描く方が、日本の観客には訴える力が強かったのではないかと思った。
 
 谷口 雅宣

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2010年6月15日

情報の質について (5)

 これまで本シリーズでは、今日の情報社会で得られる「情報の質」について考え、それが我々の感覚と密接に関係した“右脳的情報”から離れて、しだいに“左脳的情報”に偏向しつつあることを確認してきた。しかし、この傾向は、単純な一方向的な変化ではなく、IT技術の発達により、左脳的(論理的)判断によって選択された情報が右脳的(感覚的)に表現されることで、情報の受け手にとっては、より“リアル”な仮想現実として体験される--そういう重層的な変化が起こっていると考えられるのである。
 
 ここまでの検討では、私は情報の「量」についてあまり述べてこなかった。しかし、シリーズ1回目の冒頭で、「情報過多」と「インフォメーション・オーバーロード」を問題にしたように、入力される情報量が正常に処理できる範囲を超えてしまえば、我々の脳の情報処理は質的にも低下してしまう。今回は、この問題について触れよう。
 
 私はすでに本欄や『日時計主義とは何か』や『太陽はいつも輝いている』の中で、我々がいわゆる“外界”と接する際、注意の向け方によって脳の左右分業が行われること、それに伴い、外界と接しながら、外界からの情報を受け取れない場合があることなどを書いた。また本欄では、“ながら族”の習慣がきらいな私は、携帯電話を持たず、アイポッドも音楽再生用としては使うのをやめたことも書いた。その代り、パソコンはよく使うことも書いてきた。私はこのように、IT機器やAV機器を言わば“注意深く”使っているのだが、この種の機械が大好きで、何でも併行して使う人も増えてきているらしい。つまり、「マルチタスク人間」の登場である。
 
 小規模のマルチタスクは、すでに一般化している。歩きながら食事をしたり、本を読んだり、電話をしたりする人は珍しくなく、運転中の電話や読書、食事もよく見られる。危険だからと法律で禁じられても、あまり効果がない。しかし、「情報過多」と言われる場合は、この程度のマルチタスクではない。その一例が、6月8日付の『ヘラルド朝日』紙に載っていたが、これには驚かされたのである。
 
 この人は、ITベンチャー企業家、コード・キャンベル氏(43)で、サンフランシスコ市郊外の高級住宅地にブレンダ夫人(39)と16歳の息子、8歳の娘と住む。ここが彼のホーム・オフィスだ。記事に添付された写真を見ると、彼は4台のコンピューター・スクリーンの前に座り、同じテーブルの上にはアイパッドやゲーム機も見える。キャンベル氏は、夜寝るときはラップトップPCかアイフォンをベッドに持ち込み、目覚めるとすぐにネット情報を見る。朝食は食べるには食べるが、彼もブレンダ夫人もテーブルに自分のアイパッドを置き、その操作をしながらの食事である。アイパッドを使わないときは、2人ともPCの画面を見て食事する。その時、夫は画面で電子メールをチェックし、夫人は同じ画面の隅に表示されたテレビニュースを見ていたりする。せっかくの家族旅行にも、大人も子供もIT機器やゲーム機をもっていくから、家族同士の絆が深まるかどうかは疑わしい。
 
 キャンベル家の例は、もちろん極端である。が、この記事によると、一般的アメリカ人もこの方向に近づいているらしい。ある調査によると、2008年のアメリカ人の情報消費量は、1960年に比べて3倍だという。多くの情報の中で、人は注意を分散させることになる。仕事でコンピューターを使う人は、1時間に37回近く、画面の切り替えをするという。カリフォルニア大学サンディエゴ校の調査では、平均的なアメリカ人は1日に12時間分のテレビやネット情報を消費するという。この場合、ネットとテレビを同時に1時間見ている人の情報消費は、「2時間」とカウントしている。また、別の調査では、平均的PCユーザーは、1日に40のウェブサイトを見るという。このような情報消費量の急増によって、生産性が向上することは事実だろう。が、それはある一定の限界までのことで、マルチタスクの度合いが増えるにつれて、情報処理の質は減退するという実験結果はいくつも出ているらしい。
 
 具体的な実験結果は省略するが、私が興味をもったのは、マルチタスクをする人の心理状態のことだ。情報刺激を受けることで脳のドーパミン系が活性化されるため、中毒症状を起こす可能性があるという。その場合の「中毒」は、薬物やアルコール中毒の類よりは、過食症やセックスの中毒に近いものだという。IT機器から得られる「情報の質」についてのこれまでの考察を思い出していただけば、そういう左脳的情報に中毒症状を起こすことの危険性は明らかではないだろうか。マルチタスク人間は、家族との関係にも困難を来すだろうから、私はやはり、右脳的情報に注意を振り向ける練習は、今後ますます必要になってくると考える。
 
 谷口 雅宣

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2010年1月 7日

アバターもエクボ

 話題の映画『アバター』を見てきた。ハリウッド映画らしく、ジェットコースターに乗るような“山”や“谷”があり、しかも善と悪が明確で、最後に善が勝つという非常にわかりやすい映画だった。少し残念だったのは、見たのが“3D映像版”でなかった点だが、娯楽映画としてはそれでも充分楽しめた。しかし、私がこの映画を本欄で扱おうと思ったのは、娯楽として推薦するためではなく、地球環境問題が背景にあることを読者に知ってほしかったからだ。そんなことは充分ご承知の人も多いかもしれないが、私は知らなかった。私はむしろ、人間の遺伝子組み換えなどを扱ったサイエンス・ホラーかと思っていた。理由は、映画の題名による。
 
「アバター」という言葉は、インターネットの世界ではずいぶん前から使われてきたが、ネットを使わない人、あるいは使ってもメールのやりとり程度の使用者には、説明が必要だろう。

 アバターとは、匿名性を特徴とするインターネットの世界で使われる、利用者の“仮の姿”である。こんな書き方が難解ならば、「利用者の顔写真の代りに使われるマンガ風のキャラクター」と言った方がいいかもしれない。生長の家が運営しているSNS「ポスティングジョイ」でもアバターが使われているから、サンプルは簡単に見られる。ウィキペディアによると、世界で初めてアバターを使うネットサービスが始まったのは1985年で、日本では1990年からという。語源はサンスクリット語のアヴァターラ(avataara)で、インドの神話や仏教の文脈では「(神仏の)化身」という意味らしい。そのヒンディー語形「アヴタール」を英語表記したのがアバター(avatar)である。だから、宗教とも関係がある。
 
 上記のSNSで使われているアバターは、小さな正方形の枠内に収まったマンガ風の顔か、その他の画像だが、他のサービスでは、「顔」だけでなく全身のアバターも珍しくなく、しかも立体感のある3D画像で、画面上で動くものも少なくない。こうなってくると、利用者は「自分がこうなりたい」と願う“夢の姿”や“理想的イメージ”に合わせてアバターを作ったり、選んだりするようになる。ここまでは現在、ネット上で現実に行われていることだ。が、映画では、これを一気にSF的に拡大して「別の肉体をもった人間」として登場している。しかも、地球上の人間ではなく、別の天体に棲む“半人半獣”としてである。
 
 映画のストーリーを明かすのはできるだけ避けるが、ここに書いた「半人半獣」という言葉が生むかもしれない誤解は、正しておきたい。この天体に棲むのは「人類」と呼んでもいい。外見上、地球人と違う点は青い肌をして尾が生えていて、鼻がつぶれた格好で、背丈がやけに高いことぐらいだ。3メートル以上もあるだろうか……。が、彼らの文明は、地球人の観点からは“未開”であり、宗教は“原始的”なシャーマニズム、社会は祭政未分化の狩猟・漁労社会である。その代り、自然界の他の生物と完全に調和した生き方をしている。そこへ、地球人が希少資源の獲得のために大挙してやってくる--そういう想定である。映画の設定では、この時、地球はすでに自然が破壊されて棲めない状態になっている。つまり、地球をダメにした人類が、一種の“植民地”の候補地としてこの天体をねらっているというものだ。

 この映画では、善と悪とが明確だと上に書いたが、“善”とは自然至上主義的考え方であるのに対し、現代人の多くがもつ人間至上主義的な視点が“悪”として扱われている。しかし、このように単純な図式では、映画上の問題は解決できても、21世紀の現実の問題は解決できないだろう。現代人の心の中には、程度の差こそあれ、この2つの考え方のいずれもが共存している。そして、この2つをどう調整して現実生活を生きるか、で悩んでいるのである。にもかかわらず、この映画では、一方が他方を“悪”として駆逐してしまうことで物語を終らせている。だから、心理的にはスッキリとして気持はいいのだが、現実問題としては何も与えてくれない。そういう意味で、この作品は鑑賞者の心のモヤモヤをある程度解消してくれる力はあるが、新しい洞察を与えてくれるものではない。
 
 そうは言ったが、優れた面も多くある。まず、映像の斬新さに驚かされた。『スター・ウォーズ』(Star Wars、1977年)と『ジュラシック・パーク』(Jurassic Park、1993年)を併せたような迫力ある画面や音声だけでなく、CGによる“自然描写”には目を奪われる。ここからは、『もののけ姫』(Princess Mononoke、1997年)に出てくる自然の繊細さも読み取れる。ただし、この場合の「自然」は地球上のものではない。だから、我々が知っている「自然」とは異なっていなければならないのだが、異なりすぎると、鑑賞者は拒絶する。だから、「自然ではないが自然である」と感じるような、きわどいバランスが必要である。ジェームズ・キャメロン監督(James F. Cameron)は、それをうまく実現していると私は思う。“半人半獣”の異星人の姿が、そのよい例だ。彼らが画面に登場してしばらくは、その犬のような風貌が違和感をかもし出す。が、物語が展開するにしたがって、彼らの生活や考え方が自分の中の一側面を表していることが了解されてくる。すると、彼らに親しみを覚え、同情し、憧れに近い感情まで引き出される。そして、映画が終りに近づくと、不思議なことに、彼らの外見上のグロテスクさが気にならなくなるのである。まさに、「アバターもエクボ」となるのである。
 
 谷口 雅宣

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2009年10月29日

映画『私の中のあなた』

 水曜日の夕方、久しぶりに映画を見た。生命倫理を扱う真面目な映画だと子供から聞かされたからだ。キャメロン・ディアス扮する母親が、自分の娘(アビゲイル・ブレスリン)の骨髄性白血病を治すために、遺伝子操作の技術を使って骨髄型が一致する妹を産む--という想定だ。つまり、姉の病気治療のために妹を生み育て、妹の肉体が医療に利用されるという状況の中で、家族はどうあるべきか? こういう重い問いかけが背後にある、と私は思いながらこの映画を見た。しかし、この生命倫理の問題は「背後にある」ままで物語は終ってしまう。正面に出てくるのは、3人の子供のうち、死にかけている1人だけに全力集中して愛を注ぎ込む母親と、その周囲の家族の“愛の葛藤”である。こう書くと、この映画は“暗い作品”との印象が生まれるかもしれないが、驚くほど明るい。それは多分、家族全員が、白血病の姉娘(ソフィア・ヴァジリーヴァ)を愛し、彼女のために尽くす気持を共通してもっているからだろう。
 
 原作は、大ベストセラーになったジョディ・ピコー(Jodi Picoult)の小説『私の中のあなた』(My Sister's Keeper)ということだが、私はその小説を知らなかった。また、映画は原作と重要な点でいくつか違うらしい。だから、もしかしたら原作は生命倫理の問題にもっと突っ込んだ考察をしているかもしれない。が、映画を見たかぎりでは、これは親子の愛、家族の愛の物語である。そういう作品になった理由を、ニック・アサヴェテス監督(Nick Cassavetes)は、インタビューの中でこう語っている--
 
「映画のもとになった小説を読んだらとても感動的だったけど、スタジオが映画化したいと言った時はまだ迷いがあったんだ。でも、家族が子供の死とどう向き合うかというシンプルなストーリーなんだと考え始めて、これなら出来ると思ったんだよ」。

 つまり、監督自身が、この作品を生命倫理の問題として描かなかったのだ。その理由について、同監督は詳しく話していない。が、アメリカでの幹細胞の研究について同監督が考えを述べているのを読むと、人間の判断力に相当の信頼をおいているのが分かる--
 
「これはあくまでもぼくの個人的な意見だけど、幹細胞のリサーチは進めるべきだと思う。ホルモンと幹細胞は医療の未来だよ。すごく多くの倫理的問題や道徳的問題を生み出すことになるだろうけどね。人間として自分たちが正しい選択をする能力があると信じるべきだよ。もし文明が進んで、人がもっと長く生きることになり、今の人類が変化していくことになってもそれを怖れるべきじゃない。それは子供たちの、孫たちの世界であって、ぼくたちは少なくともよりよいところにしようとするべきだよ」。

 この人間への信頼と楽観主義とが、重い主題をもったこの映画を、明るく、救いのある作品に仕上げているのだろう。その点で、私は読者にこの作品をお薦めする。ただし、私の不満を言わせてもらえば、これはきっと“理想的な家族像”だということだ。自分自身が生きるためにではなく、兄弟の生命維持のために生まれたと知った子供が皆、この物語のように素直に、愛深く生きるかどうか……それは近い将来、小説ではなく、現実が語ることになるに違いない。

 谷口 雅宣

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2009年7月 1日

映画『人生に乾杯!』

 我々夫婦にとって週末の今日、銀座まで足を延ばしてハンガリー映画『人生に乾杯!』を見た。私としては、特に前評判を聞いていたわけではなく、予告編を見て「老夫婦が銀行強盗をする奇妙な映画」という印象をもっていただけだが、妻がどこかで評判を聞いて所望した。1967年のアメリカ映画に『俺たちに明日はない』というのがあったが、それと似たような内容かとも思ったが、似たようでいて違うし、違うようでいて似ていた。このアメリカ映画は、1930年代に実在したボニーとクライドという若い男女2人組の強盗が、強盗旅行をする話だ。だから、「明日はない」という捨て鉢の言い方がピッタリくる。しかし、ハンガリー映画の主人公2人は老夫婦で、すでに人生の大半を生きたすえでの強盗旅行である。その映画の邦題を「人生に乾杯!」(原題は Konyec=終り)としたのは、私には何か「やりすぎ」と感じた。
 
 が、その大きな理由は、この映画が作られたハンガリーという国の事情をよく知らなかったためだ。知ってみると、「そういう翻訳もあるかもしれない」と半ば納得する。この作品を見る読者は、映画の背景を知っていた方がいいと思うので、少し説明しよう。
 
 1950年代後半が、この映画の出だしのシーンである。東西冷戦のまっただ中のハンガリーは、ソ連圏に編入されている。法政大学の南塚信吾教授がこの作品のプログラムに解説文を書いているが、それによると、社会主義の制度下では、最後の20年間の給料に応じて年金生活者の生活は保証されていた。当時は、平均賃金とほぼ同額の年金がもらえたという。ところが、1989年の東欧革命で資本主義の考え方が導入されると、物価上昇が始まり、年金生活は苦しくなってくる。1996年からは年金制度が市場化されて、若い勤労者は私的年金基金に加入することになるが、老人にはこれが適用されないので、高齢者の年金は年ごとに相対的に減価することになる。例えば、2000年ごろの平均賃金は15万フォリントだったが、高齢の年金生活者が受け取る額は4~5万フォリントしかなかったという。こうなると、高齢者を生活苦が襲い、公営のアパートの家賃も払えなくなる人が続出する。戦後の厳しい時代を懸命に生きてきた彼らは、自分たちの責任でない“制度改革”によって貧困に陥ることになる。これに輪をかけたのが、西欧諸国から流入する先進国資本による東欧経済の支配である。これらは、“無慈悲で野蛮な資本主義”として東欧の人々の目に映るようになる。だから、「反体制のために立ち上がった老夫婦」というイメージが主人公の2人には付されている。
 
 このことを知ってみると、この作品の強盗旅行は反社会的ではなく、反グローバリズム・反西欧資本的な“人間性回復”のための大冒険とも解釈でき、それを敢行した老夫婦に対し、作品中の多くの人々が歓声を送る感情も理解できるのである。ついでに言えば、老夫婦の夫は、かつては共産党の要人付き運転手で、妻の方は元伯爵令嬢という“社会的距離”の大きさを越えて結ばれた。その夫婦が最晩年に再び情熱を燃やして、不合理な社会に反旗を翻すという設定になっている。
 
 ところで、私の妻もこの映画のことにブログで触れ、映画館は「ほぼ満席で、若い人も多く、こんな地味な映画が、好まれるのかと意外に思いました」と書いている。私も同じ感想をもったのだが、もしかしたら、今の世界的経済不況に義憤をもやす若者が「不合理な社会に反旗を翻す老夫婦」に共感するのかもしれない。
 
 谷口 雅宣

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2009年6月18日

映画『路上のソリスト』

 休日を利用して、妻と日比谷へ映画を見に行った。イギリス人監督が、ロサンゼルスの路上生活者と新聞記者の心の交流を描いたドキュメンタリー調の映画で、実話にもとづいている。騒々しい路上で一人でバイオリンを弾いている黒人のホームレスの男に注目した新聞記者が、ふと相手に声をかけてみると、その男がニューヨークの名門音楽学校に通っていた、と漏らす。プロの“勘”で「面白い話」が書けると感じた記者は、取材を進めていくうちに、そのバイオリニストはチェロの奏者であり、プロになれなかった事情がしだいに明らかになる。そこで記者は、プロへの復帰の道を開こうとするが……というような筋だ。クラッシク音楽--特にベートーヴェンが好きな人には、お勧めだ。また、ロサンゼルス市の「スキッド・ロウ地区」と呼ばれるスラム街の様子(ただし、実写ではない)がふんだんに出てくるから、社会見学もできる。が、考えさせられたのは、心に病のある人を、社会として、また個人としてどう扱うべきかという点だった。
 
 これは、あくまでも私の個人的見方である。ついでに、もう一つ個人的な観点を言わせてもらえば、私はこの作品を見ながら、記者と取材対象の精神的距離はどうあるべきか、を考えた。これは、私が実際に記者をした経験と比較して感じたことだ。ものを書く人間は、作品中の“主人公”に自分を投影しがちである。フィクションならそれでいい。が、ジャーナリズムでこれをやると、事実が事実でなくなる危険がある。そこで、取材対象と書き手の間には“一定の距離”が必要になるのだが、取材する相手はその“距離”に対して不信感を抱くことがある。その不信感を取り除くために、一線を超えるべきかどうかの判断は難しい。この映画の場合、相手は心に病をもつ社会的弱者だから、なおさらそれが難しいと思う。作品中の記者は、この判断を一度誤って危険な目に遭う。が、その後、お互いの心の交流がとりもどせた様子が描かれるところは、感動的である。
 
 昨今の経済活動の大幅後退で、日本でもアメリカでも多くの人々が仕事を失い、路上生活者の数は増えているだろう。そういう一人一人の背後には、この映画のソリストと似たような人生劇が隠されているに違いない。それに気づくためにも、本欄の読者には本作品をお勧めする。
 
 谷口 雅宣
 
 

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2009年5月13日

運命を獲得する (2)

 個人の運命についても、細部までが本人の誕生前に定められていることを、『ハディース』の「予め定められること」の章は次のように書いている--

「預言者は言った。『アッラーが天使に母の胎の管理を委ねたとき、彼は“主よ、一滴の精液、主よ、血の塊、主よ、肉の塊”と言い、やがて神が創造の業を終えようとされるとき、天使は“主よ、男ですか、女ですか。不幸ですか、幸福ですか。その糧はどれほどですか。またその寿命はいかほどですか”と尋ねるであろう。このように人が母の胎内に居るとき、これらのことはすべて予め定められる』と」

 イスラームの伝統の中にはこのような運命観があるので、アラビア語の「書く」という意味の動詞「カタバ(kataba)」には、通常の意味に加えて「運命をあらかじめ定める」という意味も付与されている、と大川玲子氏は言う。このことを踏まえて、同氏は映画『アラビアのロレンス』(1962年)の中に出てくる主人公とベドウィンの首領との会話の中に、英国人とアラブ人の運命観の違いが、「書く」という言葉の用法によって見事に表現されていることを指摘している。(『聖典「クルアーン」の思想』、pp.137-140)
 
 私もこのシーンを覚えているが、その時の英語は確か「It is written.」だったと思う。何事かが起こることが確実である時に、アラビア語では「それは書かれている」と言うのだ。どこに書かれているかはモスレムの間では自明だから、あえて言わないのだろう。ところが、映画の主人公のロレンスは、ある人物の死について「書かれている」と言われたことに反発し、その人物を助けに行く。その時、そこへは行けないと反対するアラブ人に対して、逆に「それは書かれているのだ……ここにね」と言って、自分の頭を指差す。これが、アラブ人とイギリス人の運命観の違いなのだそうだ。それで結局、ロレンスは自分の考えを実行に移して、その人物を助け出す。これによって、ベドウィンの間では一気に英雄となる。なぜなら、自分の運命を自分で切り開くことなど、イスラームでは考えられないかららしい。

 こういう文脈でアラブ人の運命観を提示すると、それはまるで迷信臭い“遅れた信仰”のようなニュアンスに聞こえる。しかし、私は、『スラムドッグ$ミリオネア』の主人公が、最後のクイズの正解を言い当てたときに、「It is written.」という言葉を漏らしたのを覚えている。この主人公は、「自分は必ず正解を言い当てる」あるいは「言い当てねばならない」との強い意志をもってクイズを勝ち抜いてきたのだから、この時に言った「It is written.」は、『アラビアのロレンス』でベドウィンの首領が言った同じ言葉とは、ずいぶんニュアンスが違うように思う。むしろそれは、同じ時にロレンスが言った「It is written.」に近い意味の言葉だと私には感じられた。つまり、ジャマールは、幼時から好意を寄せていたラティカと結ばれることを自分の運命と信じ、そのために彼女を不幸な境遇から救おうと努力し、そして意を決して挑戦したクイズだから、必ず勝利することを祈り、かつ信じてベストを尽くした。その彼が、最後の勝利を手にしたときに「It is written.」と言ったのだから、それは“天の書”に書いてあることだけを指すのではなく、自分の心にも深く刻印されてきたことも指しているに違いないのである。
 
『ハディース』の同じ章に、人間は生れたときから運命が決まっているという教えに対して、ある信徒が「それなら予め定められたことに身を任せるべきではないでしょうか?」と訊いた時、ムハンマドはこう答えたと書いてある--「いや、そうすべきではない。力一杯行うだけだ。そうすれば、すべてのことは容易になる」。彼はさらに続けて、「喜捨を好み、懼神のこころ敦く、いと美わしい報酬を固く信ずる者もある。そういう者には我らが安らぎの道を易しくしてやろうぞ」と唱えたという。

 イスラームでいう「運命」とは、こういう真剣な努力と信念をともなったものを指すと考えれば、「運命を獲得する」という表現は私には納得できるのである。その場合、これは「内部理想の実現」という考えと違いはなく、“天の書”とは、生長の家で言う「実相」と似通ってくるのではないだろうか。

 谷口 雅宣

【参考文献】
○大川玲子著『聖典「クルアーン」の思想--イスラームの世界観』(講談社現代新書、2004年)
○牧野信也訳『ハディース--イスラーム伝承集成』全6巻(中公文庫、2001年)

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2009年5月12日

運命を獲得する (1)

 7日の本欄でアカデミー賞受賞映画『スラムドッグ$ミリオネア』について書いたとき、イスラームの信仰の中にある「運命を獲得する」という考え方について触れた。この考え方は、現在イスラームの“正統派教義”の端緒となった「アシュアリー派」の教説や『ハディース』の中にある。私は『衝撃から理解へ--イスラームとの接点をさぐる』(2008年)の中で、小杉泰氏の言葉を引用して、この理論を次のように描いた--
 
「人間は主体的選択を繰り返して人生を生きているが、その主体的選択によって、あらかじめ決められている自分の運命を『獲得』しているのだ」(p.157)

 こんなややこしい考え方がなぜ必要かというと、イスラームでは徹底した「唯一絶対神」信仰が求められるからだ。神は創造主であり、それは唯一絶対であるということになると、人間の運命も神の創造以外には考えられない。しかし一方で、人間に自由意思があると考えると、人間は自由に自分の「行動を選択する」ことになる。これを言い換えれば、人間は自分の「行動を創造する」のだ。そして、その行動を原因として、何かの結果が生じる。すると、その結果も神ではなく、人間が創造したことになってしまう。こうして、神の唯一絶対性は人間によってどんどん侵蝕されていく。この矛盾を解決するために考え出されたのが、この「運命の獲得」論である。
 
 イスラームにおける「運命」のとらえ方は、我々日本人とは少し異なるようだ。日本では、運命とは「超自然的な力に支配されて人の上に訪れるめぐり合わせ」であり、「天命によって定められた人の運」(『大辞林』)だ。この「超自然的な力」とは、必ずしも「創造神」でなくてもよく、「天命」は複数の神によるものでも問題はなさそうだ。また、「運勢」とか「開運」「衰運」という言葉が示すように、運命には勢いがあって、開けたり、衰えたりするのだから、多少変化してもいいことになっている。ところが、イスラーム研究者の大川玲子氏によると、イスラームの信仰には、この世で起こるすべてのことは天地創造の時点ですべて決定ずみとするような、厳密な運命観がある--
 
「ムスリムの『サヒーフ』“運命”(カダル)章には、アッラーが諸事象を天地創造の5万年前に書いた、という内容のものがある。このハディースが言おうとしているのは、アッラーが天地創造のはるか昔に、その後に生じること全てに関してあらかじめ決定していたということである。これがイスラームの運命観である」(『聖典「クルアーン」の思想』p.134)

 これと似た考え方は、ムハンマドの言行録である『ハディース』の「創造の初め」の章にある預言者の言葉にも表れている--

「そこで預言者は『初めにアッラーのみが存在し、それ以外は何もなかった。次に神の玉座が水の上に現われ、神は板の上にすべてのものの名を書き、天と地を創造された』と言った」

 これは、天地創造の時点で、神はすべてのものの名前を天上にある「板の上」に書き、それにしたがってすべてのものが創造された--という考え方である。つまり、この世で起こるすべての現象は、創造の時点で“天の書”に書かれていたのだから、それ以外のことは今後も起こらないというのである。この“天の書”という言葉は大川氏の造語だが、根拠のないものではなく、『ハディース』その他のイスラームの文書にしばしばこれに類する表現が現れる。例えば、『ハディース』の上記の文章のすぐあとには、次のようなものがある--

「アブー・フライラによると、神の使徒は『万物の創造を終えたとき、アッラーは玉座の上にある書の中に“わたしの恵みは怒りにうち勝った”と書かれた』と言った」
 
「神の使徒」とはムハンマドのことだが、その言葉として、神は万物の創造後に「書の中に……書かれた」とあるのである。それはいったいどんな書物なのだろう? 大川氏によると、『ハディース』の1つには、天地創造の際の「全事象が書かれた可能性のある場所として『護られた書板』が挙げられて」おり、また、よく引用されるイスラームの伝承には、次のようなものもあるという--

「最初にアッラーが創造したものは『筆』である。アッラーは『筆』に『書け』と言った。『筆』が『何をですか、主よ』と尋ねると、アッラーは『カダル(=運命)を書け』と答えた。『筆』はそれから[最後の]時が起こるまでにあること全てを書き記した」(p. 136)

 このように、天地のすべてのものが予め“天の書”に書き記されているのだから、個人の運命がその例外であるはずがないのである。
 
 谷口 雅宣

【参考文献】
○大川玲子著『聖典「クルアーン」の思想--イスラームの世界観』(講談社現代新書、2004年)
○牧野信也訳『ハディース--イスラーム伝承集成』全6巻(中公文庫、2001年)

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