2009年10月29日

映画『私の中のあなた』

 水曜日の夕方、久しぶりに映画を見た。生命倫理を扱う真面目な映画だと子供から聞かされたからだ。キャメロン・ディアス扮する母親が、自分の娘(アビゲイル・ブレスリン)の骨髄性白血病を治すために、遺伝子操作の技術を使って骨髄型が一致する妹を産む--という想定だ。つまり、姉の病気治療のために妹を生み育て、妹の肉体が医療に利用されるという状況の中で、家族はどうあるべきか? こういう重い問いかけが背後にある、と私は思いながらこの映画を見た。しかし、この生命倫理の問題は「背後にある」ままで物語は終ってしまう。正面に出てくるのは、3人の子供のうち、死にかけている1人だけに全力集中して愛を注ぎ込む母親と、その周囲の家族の“愛の葛藤”である。こう書くと、この映画は“暗い作品”との印象が生まれるかもしれないが、驚くほど明るい。それは多分、家族全員が、白血病の姉娘(ソフィア・ヴァジリーヴァ)を愛し、彼女のために尽くす気持を共通してもっているからだろう。
 
 原作は、大ベストセラーになったジョディ・ピコー(Jodi Picoult)の小説『私の中のあなた』(My Sister's Keeper)ということだが、私はその小説を知らなかった。また、映画は原作と重要な点でいくつか違うらしい。だから、もしかしたら原作は生命倫理の問題にもっと突っ込んだ考察をしているかもしれない。が、映画を見たかぎりでは、これは親子の愛、家族の愛の物語である。そういう作品になった理由を、ニック・アサヴェテス監督(Nick Cassavetes)は、インタビューの中でこう語っている--
 
「映画のもとになった小説を読んだらとても感動的だったけど、スタジオが映画化したいと言った時はまだ迷いがあったんだ。でも、家族が子供の死とどう向き合うかというシンプルなストーリーなんだと考え始めて、これなら出来ると思ったんだよ」。

 つまり、監督自身が、この作品を生命倫理の問題として描かなかったのだ。その理由について、同監督は詳しく話していない。が、アメリカでの幹細胞の研究について同監督が考えを述べているのを読むと、人間の判断力に相当の信頼をおいているのが分かる--
 
「これはあくまでもぼくの個人的な意見だけど、幹細胞のリサーチは進めるべきだと思う。ホルモンと幹細胞は医療の未来だよ。すごく多くの倫理的問題や道徳的問題を生み出すことになるだろうけどね。人間として自分たちが正しい選択をする能力があると信じるべきだよ。もし文明が進んで、人がもっと長く生きることになり、今の人類が変化していくことになってもそれを怖れるべきじゃない。それは子供たちの、孫たちの世界であって、ぼくたちは少なくともよりよいところにしようとするべきだよ」。

 この人間への信頼と楽観主義とが、重い主題をもったこの映画を、明るく、救いのある作品に仕上げているのだろう。その点で、私は読者にこの作品をお薦めする。ただし、私の不満を言わせてもらえば、これはきっと“理想的な家族像”だということだ。自分自身が生きるためにではなく、兄弟の生命維持のために生まれたと知った子供が皆、この物語のように素直に、愛深く生きるかどうか……それは近い将来、小説ではなく、現実が語ることになるに違いない。

 谷口 雅宣

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2009年7月 1日

映画『人生に乾杯!』

 我々夫婦にとって週末の今日、銀座まで足を延ばしてハンガリー映画『人生に乾杯!』を見た。私としては、特に前評判を聞いていたわけではなく、予告編を見て「老夫婦が銀行強盗をする奇妙な映画」という印象をもっていただけだが、妻がどこかで評判を聞いて所望した。1967年のアメリカ映画に『俺たちに明日はない』というのがあったが、それと似たような内容かとも思ったが、似たようでいて違うし、違うようでいて似ていた。このアメリカ映画は、1930年代に実在したボニーとクライドという若い男女2人組の強盗が、強盗旅行をする話だ。だから、「明日はない」という捨て鉢の言い方がピッタリくる。しかし、ハンガリー映画の主人公2人は老夫婦で、すでに人生の大半を生きたすえでの強盗旅行である。その映画の邦題を「人生に乾杯!」(原題は Konyec=終り)としたのは、私には何か「やりすぎ」と感じた。
 
 が、その大きな理由は、この映画が作られたハンガリーという国の事情をよく知らなかったためだ。知ってみると、「そういう翻訳もあるかもしれない」と半ば納得する。この作品を見る読者は、映画の背景を知っていた方がいいと思うので、少し説明しよう。
 
 1950年代後半が、この映画の出だしのシーンである。東西冷戦のまっただ中のハンガリーは、ソ連圏に編入されている。法政大学の南塚信吾教授がこの作品のプログラムに解説文を書いているが、それによると、社会主義の制度下では、最後の20年間の給料に応じて年金生活者の生活は保証されていた。当時は、平均賃金とほぼ同額の年金がもらえたという。ところが、1989年の東欧革命で資本主義の考え方が導入されると、物価上昇が始まり、年金生活は苦しくなってくる。1996年からは年金制度が市場化されて、若い勤労者は私的年金基金に加入することになるが、老人にはこれが適用されないので、高齢者の年金は年ごとに相対的に減価することになる。例えば、2000年ごろの平均賃金は15万フォリントだったが、高齢の年金生活者が受け取る額は4~5万フォリントしかなかったという。こうなると、高齢者を生活苦が襲い、公営のアパートの家賃も払えなくなる人が続出する。戦後の厳しい時代を懸命に生きてきた彼らは、自分たちの責任でない“制度改革”によって貧困に陥ることになる。これに輪をかけたのが、西欧諸国から流入する先進国資本による東欧経済の支配である。これらは、“無慈悲で野蛮な資本主義”として東欧の人々の目に映るようになる。だから、「反体制のために立ち上がった老夫婦」というイメージが主人公の2人には付されている。
 
 このことを知ってみると、この作品の強盗旅行は反社会的ではなく、反グローバリズム・反西欧資本的な“人間性回復”のための大冒険とも解釈でき、それを敢行した老夫婦に対し、作品中の多くの人々が歓声を送る感情も理解できるのである。ついでに言えば、老夫婦の夫は、かつては共産党の要人付き運転手で、妻の方は元伯爵令嬢という“社会的距離”の大きさを越えて結ばれた。その夫婦が最晩年に再び情熱を燃やして、不合理な社会に反旗を翻すという設定になっている。
 
 ところで、私の妻もこの映画のことにブログで触れ、映画館は「ほぼ満席で、若い人も多く、こんな地味な映画が、好まれるのかと意外に思いました」と書いている。私も同じ感想をもったのだが、もしかしたら、今の世界的経済不況に義憤をもやす若者が「不合理な社会に反旗を翻す老夫婦」に共感するのかもしれない。
 
 谷口 雅宣

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2009年6月18日

映画『路上のソリスト』

 休日を利用して、妻と日比谷へ映画を見に行った。イギリス人監督が、ロサンゼルスの路上生活者と新聞記者の心の交流を描いたドキュメンタリー調の映画で、実話にもとづいている。騒々しい路上で一人でバイオリンを弾いている黒人のホームレスの男に注目した新聞記者が、ふと相手に声をかけてみると、その男がニューヨークの名門音楽学校に通っていた、と漏らす。プロの“勘”で「面白い話」が書けると感じた記者は、取材を進めていくうちに、そのバイオリニストはチェロの奏者であり、プロになれなかった事情がしだいに明らかになる。そこで記者は、プロへの復帰の道を開こうとするが……というような筋だ。クラッシク音楽--特にベートーヴェンが好きな人には、お勧めだ。また、ロサンゼルス市の「スキッド・ロウ地区」と呼ばれるスラム街の様子(ただし、実写ではない)がふんだんに出てくるから、社会見学もできる。が、考えさせられたのは、心に病のある人を、社会として、また個人としてどう扱うべきかという点だった。
 
 これは、あくまでも私の個人的見方である。ついでに、もう一つ個人的な観点を言わせてもらえば、私はこの作品を見ながら、記者と取材対象の精神的距離はどうあるべきか、を考えた。これは、私が実際に記者をした経験と比較して感じたことだ。ものを書く人間は、作品中の“主人公”に自分を投影しがちである。フィクションならそれでいい。が、ジャーナリズムでこれをやると、事実が事実でなくなる危険がある。そこで、取材対象と書き手の間には“一定の距離”が必要になるのだが、取材する相手はその“距離”に対して不信感を抱くことがある。その不信感を取り除くために、一線を超えるべきかどうかの判断は難しい。この映画の場合、相手は心に病をもつ社会的弱者だから、なおさらそれが難しいと思う。作品中の記者は、この判断を一度誤って危険な目に遭う。が、その後、お互いの心の交流がとりもどせた様子が描かれるところは、感動的である。
 
 昨今の経済活動の大幅後退で、日本でもアメリカでも多くの人々が仕事を失い、路上生活者の数は増えているだろう。そういう一人一人の背後には、この映画のソリストと似たような人生劇が隠されているに違いない。それに気づくためにも、本欄の読者には本作品をお勧めする。
 
 谷口 雅宣
 
 

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2009年5月13日

運命を獲得する (2)

 個人の運命についても、細部までが本人の誕生前に定められていることを、『ハディース』の「予め定められること」の章は次のように書いている--

「預言者は言った。『アッラーが天使に母の胎の管理を委ねたとき、彼は“主よ、一滴の精液、主よ、血の塊、主よ、肉の塊”と言い、やがて神が創造の業を終えようとされるとき、天使は“主よ、男ですか、女ですか。不幸ですか、幸福ですか。その糧はどれほどですか。またその寿命はいかほどですか”と尋ねるであろう。このように人が母の胎内に居るとき、これらのことはすべて予め定められる』と」

 イスラームの伝統の中にはこのような運命観があるので、アラビア語の「書く」という意味の動詞「カタバ(kataba)」には、通常の意味に加えて「運命をあらかじめ定める」という意味も付与されている、と大川玲子氏は言う。このことを踏まえて、同氏は映画『アラビアのロレンス』(1962年)の中に出てくる主人公とベドウィンの首領との会話の中に、英国人とアラブ人の運命観の違いが、「書く」という言葉の用法によって見事に表現されていることを指摘している。(『聖典「クルアーン」の思想』、pp.137-140)
 
 私もこのシーンを覚えているが、その時の英語は確か「It is written.」だったと思う。何事かが起こることが確実である時に、アラビア語では「それは書かれている」と言うのだ。どこに書かれているかはモスレムの間では自明だから、あえて言わないのだろう。ところが、映画の主人公のロレンスは、ある人物の死について「書かれている」と言われたことに反発し、その人物を助けに行く。その時、そこへは行けないと反対するアラブ人に対して、逆に「それは書かれているのだ……ここにね」と言って、自分の頭を指差す。これが、アラブ人とイギリス人の運命観の違いなのだそうだ。それで結局、ロレンスは自分の考えを実行に移して、その人物を助け出す。これによって、ベドウィンの間では一気に英雄となる。なぜなら、自分の運命を自分で切り開くことなど、イスラームでは考えられないかららしい。

 こういう文脈でアラブ人の運命観を提示すると、それはまるで迷信臭い“遅れた信仰”のようなニュアンスに聞こえる。しかし、私は、『スラムドッグ$ミリオネア』の主人公が、最後のクイズの正解を言い当てたときに、「It is written.」という言葉を漏らしたのを覚えている。この主人公は、「自分は必ず正解を言い当てる」あるいは「言い当てねばならない」との強い意志をもってクイズを勝ち抜いてきたのだから、この時に言った「It is written.」は、『アラビアのロレンス』でベドウィンの首領が言った同じ言葉とは、ずいぶんニュアンスが違うように思う。むしろそれは、同じ時にロレンスが言った「It is written.」に近い意味の言葉だと私には感じられた。つまり、ジャマールは、幼時から好意を寄せていたラティカと結ばれることを自分の運命と信じ、そのために彼女を不幸な境遇から救おうと努力し、そして意を決して挑戦したクイズだから、必ず勝利することを祈り、かつ信じてベストを尽くした。その彼が、最後の勝利を手にしたときに「It is written.」と言ったのだから、それは“天の書”に書いてあることだけを指すのではなく、自分の心にも深く刻印されてきたことも指しているに違いないのである。
 
『ハディース』の同じ章に、人間は生れたときから運命が決まっているという教えに対して、ある信徒が「それなら予め定められたことに身を任せるべきではないでしょうか?」と訊いた時、ムハンマドはこう答えたと書いてある--「いや、そうすべきではない。力一杯行うだけだ。そうすれば、すべてのことは容易になる」。彼はさらに続けて、「喜捨を好み、懼神のこころ敦く、いと美わしい報酬を固く信ずる者もある。そういう者には我らが安らぎの道を易しくしてやろうぞ」と唱えたという。

 イスラームでいう「運命」とは、こういう真剣な努力と信念をともなったものを指すと考えれば、「運命を獲得する」という表現は私には納得できるのである。その場合、これは「内部理想の実現」という考えと違いはなく、“天の書”とは、生長の家で言う「実相」と似通ってくるのではないだろうか。

 谷口 雅宣

【参考文献】
○大川玲子著『聖典「クルアーン」の思想--イスラームの世界観』(講談社現代新書、2004年)
○牧野信也訳『ハディース--イスラーム伝承集成』全6巻(中公文庫、2001年)

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2009年5月12日

運命を獲得する (1)

 7日の本欄でアカデミー賞受賞映画『スラムドッグ$ミリオネア』について書いたとき、イスラームの信仰の中にある「運命を獲得する」という考え方について触れた。この考え方は、現在イスラームの“正統派教義”の端緒となった「アシュアリー派」の教説や『ハディース』の中にある。私は『衝撃から理解へ--イスラームとの接点をさぐる』(2008年)の中で、小杉泰氏の言葉を引用して、この理論を次のように描いた--
 
「人間は主体的選択を繰り返して人生を生きているが、その主体的選択によって、あらかじめ決められている自分の運命を『獲得』しているのだ」(p.157)

 こんなややこしい考え方がなぜ必要かというと、イスラームでは徹底した「唯一絶対神」信仰が求められるからだ。神は創造主であり、それは唯一絶対であるということになると、人間の運命も神の創造以外には考えられない。しかし一方で、人間に自由意思があると考えると、人間は自由に自分の「行動を選択する」ことになる。これを言い換えれば、人間は自分の「行動を創造する」のだ。そして、その行動を原因として、何かの結果が生じる。すると、その結果も神ではなく、人間が創造したことになってしまう。こうして、神の唯一絶対性は人間によってどんどん侵蝕されていく。この矛盾を解決するために考え出されたのが、この「運命の獲得」論である。
 
 イスラームにおける「運命」のとらえ方は、我々日本人とは少し異なるようだ。日本では、運命とは「超自然的な力に支配されて人の上に訪れるめぐり合わせ」であり、「天命によって定められた人の運」(『大辞林』)だ。この「超自然的な力」とは、必ずしも「創造神」でなくてもよく、「天命」は複数の神によるものでも問題はなさそうだ。また、「運勢」とか「開運」「衰運」という言葉が示すように、運命には勢いがあって、開けたり、衰えたりするのだから、多少変化してもいいことになっている。ところが、イスラーム研究者の大川玲子氏によると、イスラームの信仰には、この世で起こるすべてのことは天地創造の時点ですべて決定ずみとするような、厳密な運命観がある--
 
「ムスリムの『サヒーフ』“運命”(カダル)章には、アッラーが諸事象を天地創造の5万年前に書いた、という内容のものがある。このハディースが言おうとしているのは、アッラーが天地創造のはるか昔に、その後に生じること全てに関してあらかじめ決定していたということである。これがイスラームの運命観である」(『聖典「クルアーン」の思想』p.134)

 これと似た考え方は、ムハンマドの言行録である『ハディース』の「創造の初め」の章にある預言者の言葉にも表れている--

「そこで預言者は『初めにアッラーのみが存在し、それ以外は何もなかった。次に神の玉座が水の上に現われ、神は板の上にすべてのものの名を書き、天と地を創造された』と言った」

 これは、天地創造の時点で、神はすべてのものの名前を天上にある「板の上」に書き、それにしたがってすべてのものが創造された--という考え方である。つまり、この世で起こるすべての現象は、創造の時点で“天の書”に書かれていたのだから、それ以外のことは今後も起こらないというのである。この“天の書”という言葉は大川氏の造語だが、根拠のないものではなく、『ハディース』その他のイスラームの文書にしばしばこれに類する表現が現れる。例えば、『ハディース』の上記の文章のすぐあとには、次のようなものがある--

「アブー・フライラによると、神の使徒は『万物の創造を終えたとき、アッラーは玉座の上にある書の中に“わたしの恵みは怒りにうち勝った”と書かれた』と言った」
 
「神の使徒」とはムハンマドのことだが、その言葉として、神は万物の創造後に「書の中に……書かれた」とあるのである。それはいったいどんな書物なのだろう? 大川氏によると、『ハディース』の1つには、天地創造の際の「全事象が書かれた可能性のある場所として『護られた書板』が挙げられて」おり、また、よく引用されるイスラームの伝承には、次のようなものもあるという--

「最初にアッラーが創造したものは『筆』である。アッラーは『筆』に『書け』と言った。『筆』が『何をですか、主よ』と尋ねると、アッラーは『カダル(=運命)を書け』と答えた。『筆』はそれから[最後の]時が起こるまでにあること全てを書き記した」(p. 136)

 このように、天地のすべてのものが予め“天の書”に書き記されているのだから、個人の運命がその例外であるはずがないのである。
 
 谷口 雅宣

【参考文献】
○大川玲子著『聖典「クルアーン」の思想--イスラームの世界観』(講談社現代新書、2004年)
○牧野信也訳『ハディース--イスラーム伝承集成』全6巻(中公文庫、2001年)

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2009年5月 7日

映画『スラムドッグ$ミリオネア』

 私にとっては大型連休の最終日である7日、日比谷で映画鑑賞をした。現代のインドを舞台とした『スラムドッグ$ミリオネア』で、今年のアカデミー賞8部門受賞という鳴り物入りだ。が、派手な印象はまったくなく、予想していた混雑もなかった。インド生まれの作家の小説を原作に、イギリス人監督によるインド人の映画だ。こういう映画を見たのは初めてなので、一種のカルチャー・ショックを経験した。とにかく、インドのスラム街とそこで生きる人々の生活が、子供である主人公の視点から克明に描写されるのが衝撃的だ。この“衝撃”とは、ゴミの山と排泄物、売春、暴力、不正、不条理がひしめく中に、貧困を知らない人がいきなり放り込まれた時、感じるような衝撃だ。
 
 荒筋を簡単にいえば、この貧民街から出た1人の少年が、テレビのクイズ番組を奇蹟的に勝ち進んでミリオネアになる--それだけだ。私は、映画を見る前からこの程度の筋を聞いていたから、少年はトンデモない天才か秀才かと思っていた。しかし、そうではなく、主人公が困窮生活の中で知ったことが、ちょうどうまい具合にクイズの問題として出る、という“よい偶然”の連続によるのである。これだけだと「うまくできすぎた話」で終ってしまうが、主人公がそういう知識を得るために、どのような苦境を乗り越えてきたかが、フラッシュバックの手法で、たたみかけるように画面に映し出されるのが、何とも迫力がある。主人公は「ジャマール」という名前の男の子だが、幼少時代(7歳)、少年時代(13歳)、青年時代(18歳)を3人の俳優が演じる。その3人の間に見事な一貫性がある。

 この一貫性を補強するのが、愛情である。主人公には幼少期から一緒に育った「ラティカ」という女の子がいて、その子との兄妹愛のようなものがやがて恋愛に育ち、その子と一緒になりたいという純粋な動機から、ジャマールはクイズ番組に出るのである。社会的には階級制度がまだあるインド社会で、最下層に属するこれらの人々が、純粋な動機によって“頂上”を目指すという物語の構造が、観客の共感を誘うのだろう。それからもう一つ、「運命」(destiny)という言葉がこの映画のキーワードだ、と私は思った。映画の各所で、主人公は思いつめた目で「これは運命だ」という言葉を吐く。そして、困難を次々に克服してしまう。私は最初、これは単なる口癖だろうと思ったが、もっと深い意味があるようだ。
 
 主人公の育った貧民街の人々は、ヒンズー教が盛んなインドでは少数派の、モスレム(イスラーム信者)のようだ。ヒンズー教徒から襲撃されたことや、ジャマールの兄が神に祈る姿から、そう言えると思う。すると、イスラームの信仰の中にある「運命の獲得」という考え方が思い出される。普通、「運命」とは、生まれた時から存在する一定の“人生コース”のようなものを言う。だから、それはすでに「在る」ものであり、神から「与えられた」ものである。ということは、人間が努力によって手に入れるべきものではない。ところが、一部のイスラームでは、人間は信仰とこの世での努力によって、「よい運命を獲得する」という考え方が採用されている。これを「運命の獲得」論と呼び、難解なことで有名だ。(詳しくは、拙著『衝撃から理解へ』、pp.156-157参照)
 
 この映画では、主人公はイスラーム信仰者として明確には描かれていないが、彼の貧困から脱しようとする懸命な努力と、ラティカへの一途の愛は明らかだ。また、彼がクイズ番組に出ている時、その目は確信に満ちている。そして成功するたびに、「これは運命だ」という言葉が口から飛び出す。その結果、クイズに勝って、恋人も手に入れてしまうのである。これを見て、私は「よい運命を獲得する」という理論は、神学者の理論としては難解でも、実践者あるいは信仰者の理論としては分かりやすい、と妙に納得してしまった。
 
 谷口 雅宣

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2009年3月25日

映画『パッセンジャーズ』

 今日は我々にとって“週末”の水曜日だったので、日比谷で映画鑑賞をした。妻も私もロドリゴ・ガルシア監督作品のこの映画の前評判をまったく知らなかったが、久しぶりに見ごたえのある作品に出会えたと思った。「パッセンジャーズ」は乗客という意味だから、恐らく飛行機墜落事故の映画……というぐらいの知識しかなかったが、そういうアクション性だけでなく、心理サスペンスとラブストーリーも入っており、加えて上質の宗教性も加味されている。それらの要素が、93分の作品の中できちんと表現されているのは、驚きだった。この見事な多面性を可能にしたのは、作品の最終部に仕掛けられた“どんでん返し”だ、と私は思う。

 これが何であるか言えないことを、読者は了解してほしい。この作品の醍醐味は、その“どんでん返し”を経験した鑑賞者の心に、複雑な謎が一気に解けた解放感と、静かな人間的感動が拡がっていくところにある。映画でなければ恐らく得られないそんな機会を、私は読者から奪いたくない。

 主演は女優のアン・ハサウェイで、若い心理セラピストを演じる。彼女は、不時着した航空機から奇蹟的に助かった5人の乗客のカウンセリングをする。この主人公は、いわゆる“心的外傷後ストレス障害”(PTSD)を“治療”しようとするのだが、5人の患者は1人、また1人と治療から脱落していく。かと思うと、妙に明るい男性患者が、彼女を口説こうと様々な手で言い寄ってくる。そのうち、事故機の航空会社が生存者の数を誤魔化している疑いが芽生える。かと思うと、彼女の上司が隠しごとをしている様子である--こうして主人公は、何か大きな“陰謀”のただ中にいる自分を発見して、もがくのである。

 映画は、主人公の目を通して周囲の状況を描いていくが、その同じ“周囲の状況”が、映画の最終部の“どんでん返し”によって主人公の思い込みから解放されると、映画鑑賞者にはまったく別の意味をもって見えてくる--それが圧巻である。これによって、鑑賞者は、同一の“事実の連続”が、2つの異なった意味をもっていることを知る。そして、“悪い意味”や“悪意”として感じられてきたことが、突然、“よい意味”をもった“善意”の行動であることが分かるのである。この体験は、人生の艱難に際して、環境は自心の展開であると知り、周囲の人々は皆、自分に何かを教えてくれる導き手であったと感じる宗教的体験とも似ている。上述した「上質の宗教性」とは、このことを言っている。
 
 「肉体の死は、人間の魂の解放である」と言われるが、この作品を見ると「なるほど、そうかもしれない」と納得される。昔の映画では『オールウェイズ』(1989年)や『ゴースト/ニューヨークの幻』(1990年)が同じ主題をもっと正面から扱っていて、私は好きだった。が、この作品はそれを言わば“斜め”に扱おうとして“凝った仕掛け”を使っている。が、それに騙されても、悪い気はしないから不思議だ。
 
 谷口 雅宣

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2008年12月22日

映画『PARIS』

 今日は夕方、渋谷の Bunkamura のル・シネマで封切りとなった『PARIS』という映画を見に行った。フランスの首都・パリを舞台とした現代のいくつもの人間模様を、同時並行的に描いていくセドリック・クラピッシュ監督(Cedric Klapisch)の作品である。私はこの監督のことをよく知らなかったが、クラピッシュ氏は「群像ドラマに長けた映像作家」ということで、『百貨店大百科』『猫が行方不明』『スパニッシュ・アパートメント』などの作品が日本でも人気だそうだ。ところが、これらの作品はパリを舞台としていても、「パリ」という街そのものを描いていなかった。また、都市を描いている作品は、同氏の母国・フランスではなく、ロンドンやバルセロナ、サンクトペテルブルクなどの外国の都市だったという。が、今回の作品で、同氏は初めてパリ自体を描いた。同氏自身の言葉によれば、この作品は「僕の過去の全作品と響き合っている」し、「今までやってきたことを総括したかった」のだという。
 
 映画に出てくる“人間模様”とは--①ソーシャルワーカーの姉とダンサーの弟、②ファッション業界にいる姉妹、③歴史学者の兄と建築家の弟、④市場の商人たち、⑤パン屋の女主人とエジプト人の使用人、⑥アフリカにいるカメルーン人、⑦魅力的女学生、などだ。映画の導入部では、これらの人々がパリを舞台に無関係に描かれていくが、やがて一部が重なり合い始める--ファッションモデルはカメルーン人に声をかけ、ソーシャルワーカーは市場に買い物に行き、ダンサーはパン屋でパンを買うために並ぶ。そして歴史学者は、教え子である美しい女学生に惹かれていく……。クラピッシュ監督に言わせると、「パリのポートレイトを創りたいなら画一化してはダメだ。複雑なパリの街並みを認めること」が大切だという。この言葉の通り、映画の前半はなかなか複雑である。
 
 主人公は、上の①の関係にいる「ダンサー」で、彼は致命的な心臓病が発見されて、移植手術を待つ身となる。すると、彼の中に人生に対する“新しい視点”が生まれる。それは、一種の“旅人の視点”だ。まもなくこの人生の全てを置いて旅立つかもしれない彼にとっては、人生の出来事のすべてが、美しく楽しいものはもちろん、生きていくための人々の不満も、いさかいも、心配も、苦しみも……すべてが愛おしく、貴重なものに感じられるのである。そして、ダンサーは、エッフェル塔の見えるアパートの高層の部屋からバルコニーへ出て、パリ全都で行われている人々の営みを見るともなく、想像する作業に身を委ねる。

 クラピッシュ監督は、この手法によって描きたかったことを、こう表現する--「孤独な人々にも互いに交差する道はあるものだ。多くの映画はひとりの人生を描くが、この映画では様々な人の生活の断片を追うことで、たくさんの道があることを描きたかった。個々の道が集合的な感情を創り上げているんだ」。私は、この意図は本作品において見事に実現されていると思う。映画の最終部では、主人公が移植手術のためにタクシーで病院へ向うシーンがあるが、その時、彼が車窓から見るパリの風景の中に、①から⑦までの登場人物すべてがあり、それぞれが独自の人生を生きつつあることが巧みに表現されていく。そして、困難な手術に直面して「死」を覚悟しているはずの主人公が、人生のすべてを容認する心境を得て幸せな顔をしていることに、映画鑑賞者は気づくのである。

 私は、パリには一度しか行ったことがないが、本作品を見てまた行きたくなった。フランス映画は、憂鬱で暗い作品が多いと言われるが、この作品は人へのニヒルな愛情に溢れていて好感がもてる。個々の登場人物の生き方にはいろいろ問題があるが、それら人間相互の様々な営みのすべてを受け入れ、愛しむ視線がある。それは日時計主義にも通じる所があると思うのだ。
 
 谷口 雅宣

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2008年12月15日

靴のサイズは10

 今朝のニュースで一斉に報道されたのが、記者会見の席上、靴を投げつけられた米ブッシュ大統領の映像だった。大統領としては最後となるイラク訪問で、マリキ首相とともに報道陣の前に立って話し始めたところで、イラク人記者がやにわに立ち上がり、大統領めがけて自分の靴を1足、また1足と、何か叫びながら投げつけた様子が、克明な映像で世界中に伝わった。この行為は、こういう状況下では、そういう結果になるということを十分計算して行われたに違いない。
 
 私はこれを見ていて、さすがにブッシュ氏だと感心したことが2つある。1つは、常にフィットネスに心がけているというだけあって、至近距離から力いっぱい投げつけられた靴を、2回とも見事にかわした点だ。特に最初の1投は、まったく予測不可能な状況下で胸のあたりに飛んできたものを、全身を使ったダッキングによってよけた。これは、ブッシュ氏の運動神経のよさを示している。私だったら、恐らくよけきれなかっただろう。感心したことの2つめは、そういう深刻な状況下(投げられたものがナイフだったらと考えれば)でも、事後にマイクの場所から逃げ出さずに、記者団に向かって「靴のサイズは10(約28センチ)だった」とジョークを飛ばしたことだ。これもよほど度胸がすわり、かつユーモア精神がなければできないことだ。

 今日の『日本経済新聞』夕刊の記事によると、このイラク人記者はイラク資本の放送局のカイロ駐在員で、靴を投げるときに「これは別れのキスだ。おまえは犬だ」と叫んだという。また今朝、NHKの衛星放送経由で流れた英BBCニュースによると、この記者は一度イラク国内で拉致されて拷問を受けた経験があるという。また、『朝日新聞』の夕刊によると、この記者が叫んでいたアラビア語は「別れのキスだ。犬め」「夫を失った女性、親を失った子どもたちからの贈り物だ」という意味だったらしい。とにかく、イラク戦争を端緒とした永年のアメリカ軍支配に対する人々の不満を、象徴的に表した出来事だったといえる。
 
 ジャーナリストは第一に、“客観的映像”や“客観的記述”で物事の真相を人々に伝える義務がある。また、それを基礎として、自分の考えや意見を述べることも許される。しかし、ジャーナリスト本人が“報道される対象”になることで自分の意見を表明するという方法は、あまり見聞したことがない。これは「グリーンピース」のような環境運動の“過激派”がよく使う方法だ。しかし、一つ間違えば、客観性を無視して事件を捏造することにつながるから、ジャーナリストとしては“禁じ手”である。恐らくこのイラク人記者は、それを承知でこの行為に及んだのだ。我々はそこから、今のイラク人の心境を推し量ることができるだろう。
 
 谷口 雅宣

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2008年8月 9日

休日のドライブ

 8日の本欄に書いたように、短い休日をとることができたので、八ヶ岳南麓の大泉町まで足を延ばした。その際、以前(6月13日、7月3日)にも使った小型のビデオカメラを車に設置して道中を撮映しておいた。このほどそのファイルを編集し、約2時間の道程を5分弱の動画にまとめたので、ここに掲載する。単に道路が映っている……と言えばそれまでのものだ。が、都心から山の奥まで、できるだけ変化に富んだ映像をつなぎ合わせてみた。風景の変遷を見ていると、人間という生物がいかに多様な環境を形成し、そこで生きてきたかを改めて感じる。画面の解像度があまり密でないのは、カメラの性能ではなく、撮映時の設定を「320 x 240」にしたからである。あくまでも“スケッチ”のつもりである。
 
 谷口 雅宣

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2008年7月23日

映画『あの日の指輪を待つきみへ』(Closing the Ring)

 今日は、妻と2人で新宿に映画を見に行った。私たちは“週末”である水曜日に、よくこういう行動をする。リチャード・アッテンボロー監督の『あの日の指輪を待つきみへ』(Closing the Ring)というイギリスとカナダの合作映画である。前評判などはまったく知らず、直前にインターネットの紹介文を読み、「じゃあ、これにするか」と選んだものだった。が、幸いなことに内容が案外よかった。日本語の題名からは、普通の恋愛もの--それも相当甘い感じの内容に思えたが、原題は「輪を閉じる」という意味にもなるから、「ナゾを解く」感じの面白さがある。

 ひと言でいえば「戦争に引き裂かれた恋」である。日本のドラマでも、戦場へ行った若い兵士とその許婚の悲恋はよく描かれるが、この作品は、その状況をアメリカとイギリスへ持っていったと考えればいい。第二次大戦でイギリス支援のために北アイルランドのベルファスト上空を飛んでいたアメリカ軍機が、天候不良で山に墜落する。それに乗っていた若い軍人テディ(スティーヴン・アメル)の死を、米ミシガン州で帰りを待つ許婚のエセル・アン(ミーシャ・バートン)は「遺体がない」という理由で、信じようとしない。テディの2人の親友--チャックとジャック--が戦場で負傷して帰国し、遺品を届けても、エセルは簡単に信じようとしない。この3人の親友には、しかし秘密があった。それは、3人が戦場へ行く前、テディはチャックとジャックに、自分に万一のことがあったらエセルの面倒を見てほしいと頼んだことだ。具体的には、チャックには彼女との結婚を依頼し、ジャックにはその2人を助けてほしいと頼み、3人は互いに固い約束をした。

 この3人の“親友の誓い”が成立した大きな要因は、3人ともエセルを好いていたからだ。愛する女性のための親友同士の誓いである。これに戦場での生死をともにする体験が加わると、より強固な“戦友の誓い”が生まれる。ところが、当のエセルには、そのことが告げられなかったことで悲劇になるのである。チャックは約束通りエセルと結婚するが、夫婦関係は形だけのものとなり、ジャックはエセルに恋愛感情をもち続けながらも、それを告白できない。若いころの“美しい誓い”は、生き残った親友と、残された恋人の人生を深く、長く縛り続けることになる。

 映画の展開は複雑で、テディの死から50年たった1991年から始まる。エセルと結婚したチャックが70代で死んでから、まもなくの時点だ。エセルとチャックの間にはマリーという娘がいるが、父親好きのこの娘は、父の死を悲しまない母に不信感を抱き、母にそれを詰問する中で、過去の出来事がしだいに明らかにされていく。なかなか凝った構成で、途中で、北アイルランドで武装闘争をするアイルランド共和軍(IRA)のテロ活動との接点も出てきて、手に汗を握るシーンもある。が、私の理解した範囲では、映画の中心テーマは「愛」である。男女間の愛だけでなく、親友同士の愛も、親子の愛も含まれる。しかし、ここで描かれる愛は、さまざまな形の「執愛」である。エセルは50年前の(死んだ)許婚に愛を向け続け、彼女と結婚したチャックは50年間、報われない愛をエセルに注ぎ、ジャックは3回の結婚をへてもなお、エセルを忘れられない。こうなってくると、“親友の誓い”として行った若い頃の約束が、一見美しいようであっても、親友と恋人の自由を奪う残酷な“呪い”のような様相を呈してくる。

 執愛は、愛の対象を縛るだけでなく、愛する側をも縛る。これだけでは救いのない物語になるが、映画の終り近くで、執愛の誤りを正す努力が行われるのが感動的だ。具体的に何が起こるかは、言わない方がいいだろう。老いたエセルの役を73歳のシャーリー・マクレーンが演じるが、複雑な内面の表現は見ごたえがある。本当の愛は、相手に自由を与えることだというメッセージを、私はこの映画から読み取った。
 
 谷口 雅宣

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2008年6月25日

映画『西の魔女が死んだ』(The Witch of The West Is Dead)

 今日は水曜日の“週末”ということで、妻と一緒に恵比寿の映画館で『西の魔女が死んだ』(長崎俊一監督)という作品を観た。梨木香歩原作(新潮文庫)のこの映画は、100万部のロングセラーを達成した原作を読んだ妻が、かねてから公開を待ち望んでいたものだ。だから私は、彼女の“おとも”として行った、という感じだった。ストーリーは事前に妻から聞いていたから、それほど起伏のある展開ではないことは知っていた。が、この作品はストーリーで見せるものではないことが、すぐ分かった。八ヶ岳山麓で独りで暮らす老女(サチ・パーカー)のもとに、孫である女子中学生(高橋真悠)が不登校の心を癒すために世話になる--筋はそれだけだ。が、この祖母と孫との田舎生活の中から、人生の意義と「人間は死なない」というメッセージが紡ぎ出されるのである。会話と演技とメッセージ性を重視した、静かな感動を与える作品である。

 妻によると、この映画は原作にとても忠実に作ってあるという。そのことから考えると、私はこのような内容の小説が100万人にも読まれるということに、少なからず驚いた。単行本の『西の魔女が死んだ』(楡出版)は平成6年刊で、小学館の新装版は同8年、新潮文庫版は同13年刊である。この文庫版が今年2月刊の「51刷」の帯に「映画化」決定を謳っている。14年間で100万部を売ったとすると、単純に計算して1年間に7万部強という人気である。

 その中で、老女は孫にこんな言葉を語る--

「人の注目を集めることは、その人を幸福にするでしょうか」
「精神力っていうのは、正しい方向をきちんとキャッチするアンテナをしっかりと立てて、身体(からだ)と心がそれをしっかり受け止めるていう感じですね」
「死ぬ、ということはずっと身体に縛られていた魂が、身体から離れて自由になることだと、おばあちゃんは思っています。きっとどんなにか楽になれてうれしいんじゃないかしら」
「魂は身体をもつことによってしか物事を体験できないし、体験によってしか、魂は成長できないんですよ。ですから、この世に生を受けるっていうのは魂にとっては願ってもないビッグチャンスというわけです」

 これだけ取り出して並べると、何となく宗教臭く聞こえるかもしれない。が、これらが語られる合間には、祖母と孫はニワトリの世話をしたり、野イチゴのジャムを作ったり、シーツの洗濯をしたり、作物を収穫したりして、中学生の孫は実生活の大変さと面白さを学んでいく。だから、そんな“臭み”は感じられない。これはもちろん、著者、梨木香歩氏の文章の構成力と表現の自然さにある。また、物語が、八ヶ岳山麓の森の中という“非日常”の中で展開されることにもよるのだろう。生長の家では今、「技能と芸術的感覚を生かす」ことが勧められているが、同じメッセージでも、それをどう表現するかで大いに違いが出てくるものだと感心させられた。

 ところで、この作品では“西の魔女”役のサチ・パーカー氏(Sachi Parker)が、折り目正しい日本語を明瞭に話しているのが印象的だった。彼女は個性派女優、シャーリー・マクレーンの娘で、父親はスティーブ・パーカーという映画製作者。日本好きの両親のおかげで2~12歳まで日本で暮らしていたそうだ。が、今回のセリフは難しかった、とこの映画のプログラムの中で言っている。同じプログラムのインタビューでは、彼女は次のように言っている--「私は、人生のネガティブなところに、重点を置きません。その時間があっても長く続かないように心がけています。愛するものたちに、感じたものをそのままコミュニケートするのです」。何となく日時計主義のように聞こえる。また、原作の小説にもそんな記述がいくつか見られるから、興味をもった読者には一読をお勧めする。
 
 谷口 雅宣

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2008年6月13日

原宿を歩く

 今日の関東地方は梅雨の中休みの快晴で、気持のいい1日だった。アメリカでは、中部の諸州で豪雨が続き、川の氾濫で大勢の人々が家を失っている。これは農産物にも影響を及ぼし、「コーンベルト」と呼ばれるアイオワ州、イリノイ州などの中西部では、トウモロコシやダイズの植え付けが大幅に遅れただけでなく、洪水の被害が広がっているという。アメリカは世界最大のトウモロコシ生産国であり、輸出国でもある。これによって現在、値上がり中の穀物の値段がさらに上がる可能性もあり、世界の経済は予断を許さない。今日(6月13日)の『産経新聞』などが伝えている。
 
 幸いにも日本は、そのような大規模の洪水がまだ発生していない。今年の雨は数日降ったあとに、今日のように上がってくれる。そんな日に原宿の街を歩いた映像を動画にまとめてみた。今回の映像は「揺れる」のが気になる。これは、新しく入手した小型ビデオカメラを野球帽に装着して、歩きながらハンドフリーで撮ったからだ。考えてみれば、我々の目は、帽子と一緒に上下動を繰り返しながら世界を見ているのである。にもかかわらず、我々の歩行中の世界は、こんなに揺れ動かない。その理由は、恐らく我々の脳が網膜上で揺れ動く像を修正しつつ、世界を安定化しているからだ。何という優れものか、と改めて思う。
 
 谷口 雅宣

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2008年5月29日

ゆったりと休日

 雨の休日は普通、「あいにく」と形容したくなるが、今日は「幸い」と言える日だった。前日の天気情報で「朝から雨」と言っていたから、まず「どこかへ行こう」と思う必要がない。前日はちょうど、朝から午後3時すぎまで会議をしていて、そのあとは生長の家の機関誌の締め切りに間に合わそうと、根をつめて原稿を書いていて、午後6時ごろにそれを仕上げて編集部へ送信……というような仕事だったから、今日は息抜きがしたかった。その通りになったから「幸い」なのである。それで、朝食後、長年の懸案だった本とDVDの整理をすることにした。
 
 子供が家を出て行ってから、もう何年にもなるが、彼らの置いていった本と、その後に夫婦がそれぞれ買った本、また私が録画してためていたDVDとが同じ本棚の中でひしめいたのである。DVDにはABC、BBC、CNNなどの英語のニュースが記録してあり、ごくたまにだが、それを原稿の材料に使ったこともある。そのほかにもドキュメンタリーや映画の録画もあった。これらは皆プラスチック・ケースに収めて、その本棚に並んでいた。が、これらは利用頻度が少ないから、別の形で保管することにした。しかし、すべて一度に本棚から撤去するわけにはいかなかったから、今日はまず1段分を取り除いて、別のケースに収納した。これによって空いたスペースを利用して、本を文庫、新書、四六判にそれぞれ棚を分けて収納することができた。
 
 実は、この作業の途中で、古いVHSのビデオがまだ随分家に残っていることに気がついた。このうち重要だと思うものは残し、それ以外を廃棄するつもりでダンボールの箱に入れていくと、1箱がいっぱいになった。こういう作業をしながら考えたことは、「本当に必要な情報は、そんなに多くない」ということだった。好奇心が旺盛の若い頃は、「知らないものはみんな知りたい」と思って情報をできるだけ記録していくが、楽しむための映画の録画であっても、同じ映画を2回以上見たものがないことはないが、その数は本当に少ない。このことは本についても言える。だから、本や映画のビデオを手元に取っておくのは、実用的な理由からよりも、むしろ感情的(あるいは感傷的)な理由からの場合の方が多いのではないか。その感情とは、「一度感動を与えてくれた情報は、そのまま消えてしまっては寂しいから、物理的な形で取っておきたい」--というものだろう。

 午後からは、妻を連れ出してジョージ・クルーニー主演の映画『フィクサー』(Michael Clayton)を日比谷に見に行った。“典型的なアメリカ映画”という感じだった。善人と悪人が出てきて、映画の中途から終盤にかけて悪が猛威を振るうが、最後にどんでん返しで善が勝利してメデタシメデタシ……というわけだ。エンターテイメントとしてはこれでいいのだが、「どこか薄っぺらいなぁ~」という感想をもって映画館を出た。この映画のプロデューサーは、つい最近亡くなったシドニー・ポラック氏(Sydney Irwin Pollack, 1934-2008)だ。彼は、この映画で俳優としても出演していて、主人公の上司として悪の執行を指示している。その役柄と73歳の死とは直接関係があるとは思わないが、死因はガンだという。

 5月28日付の『ヘラルド・トリビューン』紙によると、ポラック氏の両親はロシアからの移民1世で、ともにプールドゥー大学に在学中に出会ったという。ポラック氏の作品のうち、私の記憶にあるのは『追憶』(The Way We Were, 1973年)と『トッツィー』(Tootsie, 1982年)、それに『コンドル』(Three Days of the Condor, 1975年)ぐらいだろうか……。妻は『追憶』が大好きで、VHSでもDVDでも何回も見ていた。私も、それが母校のコロンビア大学を舞台としているので数回見た。アカデミー賞で監督賞をとった『愛と哀しみの果て』(Our of Africa, 1985年)は昔、VHSに録画したがまだ見ておらず、DVDに移行してある。近いうちに見ようと思う。

 谷口 雅宣

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2008年3月20日

生命の不死を想う

 春分の日の今日は、午前10時から、東京・原宿の生長の家本部会館で「布教功労物故者追悼春季慰霊祭」がしめやかに執り行われた。私はこの御祭の斎主として奏上の詞を奉げ、概略次のような言葉を述べた:

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 皆さん、本日はこの慰霊祭にお集まりいただきまして、誠にありがとうございます。このお祭りは、生長の家の運動に功績のあった人で霊界へ旅立たれた方々の御霊をお招きし、生前のご活躍への感謝と霊界でのさらなる幸福と、我らの運動へのご加護をお願いする大変有意義なものであります。今回は、243柱という多くの御霊様をお祀りすることになりました。
 
 この中で筆頭にお名前を読んだのが生長の家の長老であった清都松夫さんでした。この方は、多くの方はご存じの通り、谷口輝子先生のお姉さまの清都桂さんの息子さんですから、私にとっても親戚に当ります。清都長老とは、ちょうど1年前の3月22日の思い出があるのです。その日は木曜日で休日だったので、私は妻と2人で渋谷の映画館にデンゼル・ワシントン主演の『デジャヴー』という映画を見に行ったのです。私たちは早めに入館して映画の始まりを待っていたら、上映間際になって、白髪の老人が1人でスーッと入って来て、私たちよりかなり前の席に座ったのです。その後姿は、どう見ても清都長老だったので、私たちは驚きました。なぜなら、この映画はミステリー・アクション物で、ストーリーは複雑で、派手な仕掛けがいろいろある映画だったからです。あの静かで、温厚な清都長老が好むような映画とは思えなかったのでした。

 後でご本人から聞いたところ、清都長老はミステリー物の映画が好きで、一人でもよく見に行っていたそうです。また、これは別の人から聞いた話ですが、長老は本部退職後も定期券を買い、世田谷のご自宅から渋谷の行きつけの喫茶店へ通い、そこで本を読んでおられたそうです。私はこういう話を聞いて、一人の人間には他人には分からない、いろいろな側面があるのだなぁとつくづく思いました。人間はこのように、内部に多様性をもち、様々な可能性を秘めていて、たかだか100年くらいの一生の間は、すべての側面を開花させることはできないし、またそうする必要もない。なぜなら、人間には“次の生”があるからです。別の言葉で言えば、人間は再生しながら、多様な側面を表現していくのです。きっと清都長老も、次の生でやりたいことの準備をしていたのだと思います。
 
 私は昨年のこの日にも、慰霊祭を春分の日にするということは、大変時宜を得た習慣だと申しあげました。その理由は、自然界では、これから植物も動物も生命力をどんどん発揮し、花咲き、実を結び、発展するという「成長」の初めにあるのが、今の時季であるからです。空気はまだ寒く、外を歩くにはコートがいる時期ではありますが、辺りには春を知らせる植物の新芽、花、香り、鳥の声や昆虫の羽音などが聞こえます。このように、春は“生命再生”の時期ですから、慰霊祭をするのにふさわしいのです。皆さんも、年をとってきたらやることがないなどと考えずに、新しいことでも何でも積極的にやってみてください。それが次の生への準備になるからです。
 
 ご存じのように、生長の家では「人間の生命は不死なり」と説きます。生長の家だけでなく、多くの信仰でもそのように説いてきました。しかし、これまたご存じのように、人間の肉体は死にます。ここにいる私たちすべても、時期が来ればやがて必ず肉体を失います。しかし、それが本当の人間の死ではないことを、私たちは教わっています。先ほど読んだ聖経『甘露の法雨』には、人間の肉体の死のことを、カイコが繭を食い破って羽化登仙することになぞらえて、「人間もまた肉体の繭を食い破って霊界に昇天せん」と書かれています。「人間は生命なるがゆえに、常に死を知らず」とも説かれています。
 
 私たちの周りに、カイコを見る機会はもう少なくなってきましたが、しかしモンシロチョウは飛んでいます。今、飛んでいなくても、やがて飛んできます。ガも飛んできます。また、ハエやハチやゴキブリには、すでにお目にかかっている人がいるでしょう。春という季節は、このように生命が本来の“不死”の姿を表す時季ですから、霊界への転生を想う慰霊祭にふさわしいと言わなければなりません。
 
 スイスで生まれ、アメリカで活躍した精神科医で、終末医療の先駆けとなった人に、エリザベス・キューブラ=ロスという人がいます。臨死体験を扱った『死ぬ瞬間』などの本が世界的なベストセラーになったので、ご存じの方も多いと思います。この人も、人間の死のことを「蝶がサナギから出る」ことになぞらえています。日本で1995年に出た『死後の真実』(日本教文社刊)の中には、次のような箇所があります:
 
「何年も死にゆく患者さんたちと共に働き、彼らから人生とは何なのか、もう今となっては遅い最期となって何を悔やむのかなど教えてもらっているうちに、私は一体死とは何なのかと考えるようになりました。
 私の教室で、幽体離脱の体験を一番最初に話してくれたのはシュワルツ夫人という患者さんで、これが世界中からのケースを集めるきっかけとなりました。今では、オーストラリアからカリフォルニアまで、何百ものケースが手元にあります。その全てに共通している特徴があります。それは、誰もが皆、自分の肉体を脱ぐのをはっきりと感じており、私たちが科学的用語を使って理解しているような死は、存在しないことにも気づいている、ということです。死とはただ、チョウがマユを脱ぐのと同じで、肉体を脱ぐだけに過ぎません。より高い意識への移行であり、そこでは再び、知覚し、理解し、笑い、成長し続けることができるようになります。唯一失うものと言えば、もう必要のなくなった肉体のみです。要するに、春になると冬のコートはもうぼろぼろになって必要ないから、捨ててしまうことと同じなのです。死とは、つまりそういうことなのです。」(pp. 56-57)

 キューブラ=ロス博士がこのような考えに至った背景には、2万件以上の実際の体験者のデータがあるそうです。また、この本の中で、博士は「人間が死なないということは死んでみれば分かる」ということを何度も書いています。だから、私たちも運動の先達や諸先輩がたとい肉体を失われたとしても、今のこの春の季節のように、霊界での新しい境涯に於いて、新たな生命の息吹とともに活動を始められていることを知らなければなりません。そして、これらの御霊さまは皆、今生において人類光明化の善行を積まれた方々ですから、霊界においても私たちと同じ目的で、神の国、仏の浄土実現の活動を進めてくださっているに違いない。と同時に、私たち家族や運動の同志を導いて下さることに感謝し、これからの日々を明るく、愛深く生き、「人間の生命は不死である」という真理宣布に益々邁進していきたいと思うのであります。

 春の慰霊祭に当たってご挨拶を申し上げました。ありがとうございます。

谷口 雅宣

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2008年3月12日

映画『地上5センチの恋心』

 今日は私にとって“週末”である水曜日なので、妻と一緒に映画を見た。久し振りである。フランス映画で原題は、主人公の名前である「Odette Toulemonde」だが、「地上5センチの恋心」という日本語の題名が、どうやってここから生まれるのか不思議である。よほどヒネッた題でないと日本では観客が集まらないのだろうか、と思う。内容を月並みな表現で言えば、仕事をもつ中年の未亡人と、妻のいる人気作家との恋を描いたラブコメディーというところか。各所に「アレッ?」と思う工夫が仕掛けてあるが、本欄の読者に注目していただきたいのは、ヒロインの明るさと生き方が「日時計主義」を思わせるという点である。

 今回は恥ずかしながら、慣れない、緊張した私の“肉声”で以下、コメントする。

谷口 雅宣

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2008年1月 7日

ロボット犬の襲来

 正月休みを利用して人形劇を作った。と言っても、ほんのイタズラのようなものだ。わが家ではクリスマス時に2人が誕生日を迎えるので毎年、家族パーティーを自宅でやる。その際、プレゼントとしてもらった動物の指人形と、犬の形をしたプラスチック製の電動按摩器を使って、ショート・コントのようなものをやったところをデジカメで撮映しておいた。後日それを見たら、何かのストーリーになりそうな気がしたので、追加のシーンを撮映しておいた。それをこの休み中に編集してできたのが、この作品である。
 
 伊勢へ行った時に完成させて人々に見せたが、大人には評判が良くなかったが、子供たちには喜ばれた。要するに「幼稚っぽい作品」ということだ。私としては、アメリカの外交政策のことを考えながらまとめたのだが……。
 
 谷口 雅宣

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2007年10月17日

映画『大統領暗殺』

 私にとって“週末”である今日、妻とともに日比谷へ行き、現アメリカ大統領、ジョージ・W・ブッシュ氏のイラク政策を扱った『大統領暗殺』(Death of a President)を見た。「実物が映画に登場する」という話題性に誘われたわけだが、ケネディー大統領の暗殺を描いた『JFK』やドゴール仏大統領を狙う『ジャッカルの日』のようなドラマチックな仕立てを期待していたので、拍子ぬけした感じだ。この映画は徹頭徹尾、ドキュメンタリー・タッチなのだ。それも、大統領のスピーチ・ライター、シークレット・サービス員、FBI捜査官、容疑者の妻、犯人の息子などが、それぞれ単独でインタビューに答えながらストーリーが進んでいくという、かなり地味な手法である。こういう「語り」の部分が多いので、勢い映像は単調になり、途中で眠気を覚えるところもあった。そして、全体を見終わってから残ったのは「真面目な映画」という印象である。映画のつくり方はこれとは相当違うが、中身のメッセージは、マイケル・ムーア監督が同大統領を批判して作った『華氏911』と基本的に同じだと感じた。
 
 映画を観る前に気になっていたのは、アメリカがいかに表現の自由を大切にする国であっても、「現職の大統領を画面に登場させて殺す」という方法がはたして妥当なのかという点だった。が、見終わってから、「こういう表現の仕方もありえるなぁ」と感じた。大統領への批判は、ムーア監督の映画のように“陰謀説”を声高に主張するのではなく、またブッシュ氏個人への怒りや憎しみを見せつけるのでもなく、三軍の総司令官であり、政治の最高責任者である「大統領」という職にある人間が、「戦争をする」という決定を下した場合に生じる重大な結果を淡々と描いていく形で行われる。その場合、俳優ではなく、批判の対象になっている本人を画面に登場させることで、最大の効果をねらったと思われる。そのリアリティーが、かえって誇張を抑えた表現を要求するのだろう。大統領自身はまっとうに描き、残酷なシーンや病室での様子を含まない点は好感がもてる。
 
 イスラーム系の若いアメリカ人が誤認逮捕され、有罪判決を受けるが、真犯人は愛国的な退役軍人だったというストーリーはなかなか考えさせられる。こういう複雑な心理的変化は、敗戦後の日本人の心の変化とも共通する部分があるのではないだろうか。“聖戦”や“皇軍必勝”を信じて若い息子を戦場に送り出した人が、戦後になって日本や日本軍の様々な“悪業”の話を聞いたとき、それを信じれば「裏切られた」「最愛の息子を奪われた」などと感じ、国家に対して深い怨念を抱くことはあるだろう。その怨念を向ける対象が、国家元首の地位にいる人になることは、それほど不思議でない。トム・クルーズが主演した『7月4日に生まれて』という映画でも、ベトナム戦争を戦った帰還兵が反戦運動に参加し、国を恨み、批判する様子が描かれていた。戦争とは、そのように人の心を翻弄し、傷つけるものなのだ。

 地味な映画であるためか、観客の中には若者の数が少なかった。大勢は中年以上の人々で、しかも会場には半分も人が入っていない。公開してそれほど時間がたってないのだから、「評判がよくない」と考えざるを得ない。自分たちとさほど年の差がない自衛隊員が現地へ派遣されていたのに、若者はこういう現実的で、真面目な映画にはあまり関心がないのだろうか? そう不満に思いながら、帰途についたのである。
 
 谷口 雅宣

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2007年9月13日

迷いはどこから来る? (5)

 前回、本題を扱った際の結論は、「迷いとは、欲望追求のために自由を行使せんとするところから来る」だった。ところで私は昨夜、妻と渋谷で『厨房で逢いましょう』というドイツとスイス合作の映画を観た。これは、世界で有数のウデをもつ料理人が人妻に恋をし、彼女を惹きつけておくために極上の料理を提供しつづけるという筋の映画だ。私は、この映画の邦題の軽さから考えて、「気楽に楽しもう」程度の気持で観はじめたが、どうしてどうして内容はヘヴィーな“欲望追求”を扱った映画だった。原題は「Eden」--『創世記』の昔に人間が失った楽園の名前である、と同時に主人公の恋人の名前でもある。

 主人公の極上料理のシェフは、職業病ともいえる肥満のために男性としての機能に障害があるという設定だが、そのことがかえって、美人の人妻の安心感と自己正当化をもたらすことになる。つまり、「自分は料理を味わいに彼のもとに通うのであって、浮気の目的ではない」という正当化だ。一方、主人公の料理人は、自分の作る料理を陶然として食べる彼女を眺めることに喜びを感じ、さらに料理のウデを上げていく。2人は互いを「お友だち」だと主張し、実際にそう信じているようだが、第三者の目からは尋常な関係に見えない。やがて、人妻の夫が2人の関係に気づき……というように、物語は危うい方向に進んでいく。

 食事とセックスとの間に深い関係があることは、フロイトの説明をまつまでもない。だから、食べることの快楽を求めて男のもとへ通う人妻は、夫にとって明らかに“浮気妻”なのである。しかし、妻本人はそれを認めようとしない。なぜなら、夫との性生活はむしろ料理人の登場以降、“改善”しているからだ。食事を快楽追求という観点から見直してみると、我々の現在の食生活の“罪深さ”や“迷いの濃さ”が浮き彫りになってくる。映画の中には、主人公の料理人がカモの羽毛をひたすらむしり取っていくシーンや、ブタの皮を一気にはぐシーンがあったりするから、「映画制作者はカトリック教徒ではないか」などと想像してしまう。まさにこの映画は、「欲望追求のために自由を行使する」男女の迷いの深さを描いている、と私は感じた。

 この文脈の中で、『無門関』の「趙州勘婆」の公案を思い出そう。9月10日の本欄で触れた「O氏」が、迷いの問題に対する“雅春先生の回答”だとしている公案である。今回、この公案を語ることができるのはO氏の手紙のおかげだから、その機会を与えてくださったことに大いに感謝するものである。

 かの国の五台山の麓に老婆が住んでいるが、その家の前で道が2つに分かれているという。そこで旅人はどちらの道を行けば五台山に達するかに迷い、よく老婆に尋ねるのである。すると老婆は、「真っ直ぐに行け」と答える。「真っ直ぐとはどちらか?」と訊いても、答えは変わらず、やはり「真っ直ぐに行け」である。そこで旅人は、自分で選んだ道の方へと3歩、5歩……と歩き出す。すると、老婆は「足もとが危ういぞ、あんな恰好で行きよる」と言って嘲笑うのである。では、「真っ直ぐに行く」とは、どう行くことなのだろう?(公案はこの後も続くが、今はここで留める)。

 この映画の主人公の“迷い”はどこから来たのか? また、それを去るためにはどうすればいいか? 主人公が「真っ直ぐ行く」とはどうすることなのか? 等々について、読者からのフィードバックをいただけたら幸甚である。
 
 谷口 雅宣

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2007年6月13日

映画『善き人のためのソナタ』

 水曜日は私にとって“週末”なので、『善き人のためのソナタ』という映画を見に恵比寿へ行った。当初、そのタイトルから韓流の恋愛モノのような映画を想像していたが、ネットで内容を調べると大変真面目な社会派の映画で、アカデミー賞外国語映画賞に推薦されたなどとあり、妻と私の趣味に合った。冷戦時代の末期、東ドイツの一党独裁体制を維持するために存在した国家監視システムと、それに抵抗する芸術家グループの葛藤、ベルリンの壁崩壊の影響などを描いている。それを実現するために、相対立する国家保安員と劇作家の心の動きを克明に追うという難しい手法を使っている点で、なかなか見ごたえがある。

 東ドイツの国家秘密警察のことを「シュタージ」と呼ぶそうだが、これはナチス・ドイツのゲシュタポにも比較される政治・思想警察・国民監視機関である。この映画のパンフレットによると、シュタージの行状については東西ドイツ統一後も長い間、映画化することはタブーとされ、今回やっと17年後に映像によって再現されたのだという。ドイツでは昨年3月の公開以来、1年以上のロングランとなり、観客の動員記録を伸ばしている。扱っている主題はノンフィクションだが、登場人物は実在でない。監督のフロリアン・ヘンケル・フォン・ドナースマルク氏は、西ドイツのケルン生まれで34歳の若さだ。映画制作に当たっては、元シュタージ職員を含む多くの関係者から聴き取り調査をするなど、4年がかりで綿密な調査を行ったうえで撮影に入ったという。
 
 ストーリーの細部を書くのは避けるが、大筋を言えば、“反体制派”の疑いをかけられた人気劇作家を24時間の監視体制下に置いた国家保安員のヴィースラー大尉が、その劇作家の電話も会話もセックスの様子も盗聴しながら、しだいに被監視者の信条や心情に近づき、上司への報告を偽るなどして、イデオロギーの支配から解放されていく話だ。映画の終りに向って“ベルリンの壁崩壊”が起こるが、元国家保安員の主人公は、統一後の生活は恵まれないながら、自信と信念をもって生きる様子が描かれる。
 
 この主人公を演じたウルリッヒ・ミューエ氏(54)自身が、東ドイツのグリンマ生れである。彼は自分の役柄について、パンフレットのインタビューの中で次のように語っている:
 
「ヴィースラーのような人物は実際に存在していたのです。シュタージにとって彼らは非常に危険な存在で、80年代に入るまで背信したシュタージ職員は死刑に処せられていました。彼は英雄でもあり、同時に矛盾を抱えた人物です。しかしこうした密やかな勇気は想像以上に東ドイツに蔓延していたのではないでしょうか。でなければ1989年、たった数カ月でDDR(東ドイツ)が崩壊することはなかったでしょう」

 どんな環境にあり、自身がどんな生き方をしていても、人間には正邪の判断ができる“核心”のようなものがある。たとえ時間はかかっても、大勢の人間のその良心のうねりが人類を正しい方向へ導いていくだろう--そういうメッセージを、私はこの映画から読み取った。朝鮮半島の“壁崩壊”を考えるうえでも、本欄の読者にお勧めしたい作品である。
 
谷口 雅宣

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2007年5月10日

映画『クイーン』(The Queen)

 休日を利用して、東京・日比谷で映画『クイーン』を見た。この映画は、ダイアナ元皇太子妃の事故死というセンセーショナルな出来事を取り上げ、現英国女王のエリザベス2世、トニー・ブレアー現首相とその夫人など、実在する現役の著名人役を多く登場させて、現代の英王室の内情やイギリス国民との微妙な関係を描いていることなどから、当初から話題だった。内容的にも、それぞれの重要な人物間の複雑な心理が生き生きと描かれている点が評価され、エリザベス2世役のヘレン・ミレン(Helen Mirren)は第79回アカデミー賞の主演女優賞を受けた。実は、私と妻は座席を予約するために、水曜日の最終回の上映の1時間以上前に映画館へ行ったのだが、その晩の席はすべて売り切れだったため、翌日の初回の上映を見に行ったのだ。
 
 私はイギリス王室の内情についてよく知らないから、この映画がどれだけ事実の正確な描写であるか分らない。しかし、一国の国家元首や現役の首相を初めとした有力政治家を登場させたドキュメンタリー・タッチの映画が、さほど批判を受けずに上映されているどころか、外国での受賞が誇らしげに語られるところから判断すると、事実とさほど大きく違わない内容なのだと推測する。また、映画のパンフレットには「事実を正確に描いた物語」とされているし、そこには本作品の脚本を書いたピーター・モーガンの次のような言葉が引用されている:
 
「話をしてくれる人には誰でも会いに行きました。王室一族とブレアに関しては数多くの伝記作家がいますし、彼らには王室の侍従から秘書、執事からメイドそして公僕に至るまで情報源があります。そこにはあらゆる素材が転がっている。あとはそれをどこまで話として面白くするかという問題だけでした」。

「話として面白くする」という言葉があるから、誇張やフィクションの部分も含んでいるのだろうが、女王や王室と元皇太子妃との関係、女王と首相の関係や立場の違い、首相夫妻の関係などの重要なポイントは、正確に描かれていると判断していいと思う。

 それで私の感想だが、私は日本の実情と比較せずに見ることはできなかった。まず驚くべきことは、現在の王室を映画に描いたという事実そのものである。わが国では週刊誌や月刊誌が、皇室について事実かどうか分らないことをあれだけ勝手に書いているとしても、皇室と政治についての事実を正確に押さえ、リアリティーをもって主張する映画を制作することは、恐らく現状では不可能ではないかと思う。それは多分、民主主義がそこまで成熟していないからだ。自分と政治的立場が異なる人の意見を、暴力によって封殺しようとする試みが、ごく最近でも何回も起こっている。そういう意味で、私はこの映画が制作されたこと自体が、イギリスという国の文化の優秀性を表していると思う。
 
 さて、映画の内容だが、これまた日本の現状との比較は不可避である。イギリス王室の男女関係の奔放さは誉められるものではないが、そのことを自省する皇太子や王族の姿を期待してはいけない。そういう点では、私は日本の皇室の優秀性に疑いをもたない。ダイアナ妃は全くの庶民から王室に嫁した人ではないが、それでも(少なくとも映画の中では)“庶民の代表”として国民から見なされていたように感じ、不思議に思った。イギリス王室は現在でも莫大な資産をもち、政治権力も一部だが有している。そして女王は、ダイアナの死を知っても、皇太子と離婚後で王室の一員でないことを理由に、頑として「無関係」との立場を貫こうとする。しかし、国民の不満が日増しに拡大する中で悩み、ついに庶民派で若い労働党党首、ブレア首相の助言を容れて、王室の伝統にない行動を決断する。この頑なな“伝統護持者”の姿と、日本の皇室の伝統を自ら変えていこうとされている今上陛下の姿とは、きわめて対照的である。
 
 共通点ももちろんある。その第一は、両者とも後継者の問題が深刻であることだ。国民の意識や感覚と乖離している王制は、永続することは不可能である。国民の意識との乖離を縮めるためには、ある程度の伝統の変更は不可避だろう。問題は、どの程度の変更が伝統の「破壊」でなく「継続」と言えるかということだ。日本もイギリスも、この難しい判断を下さねばならない時期に来ていると思った。
 
谷口 雅宣

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2007年2月28日

映画『ダーウィンの悪夢』(Darwin's Nightmare)

 生長の家代表者会議も終ったので、ひと息入れようと思い、妻を誘って渋谷の映画館へ行った。目当ては、2004年のヴェネツィア国際映画祭の受賞作である表題の映画だ。しかし、上映館が少なく、新聞には新宿にある1カ所しか出ていなかったので、インターネットで検索したら、渋谷にもう1カ所あった。渋谷には多くの映画館があり、そこに住む私たちはこれまでいろいろな所で映画を見たが、その映画館は聞いたことがなかった。地図では東急本店の向い側ということなので、「それでは……」と出かけることにした。

 その映画館は目立たないビルの3階にあって、チケット売場から奥へ入ると“穴倉”のような小さな部屋に、背の低いソファーや椅子が並んでいた。観客の入りは7割ほど。昔あった「ジャズ喫茶」の一方の壁面にスクリーンがかかっている……そんな感じだ。映画館だと思わなければ、芝居小屋にも見える。映写機も、液晶プロジェクターのようなものが天井に1つ付いているだけだ。これでクリアーな映像が見えるのかどうか心配したが、いざ上映が始まると、そんな心配は無用だった。

 この映画は、生物多様性と南北問題の双方を含んだ真面目なドキュメンタリーである。映像は、決して美しくない……というよりは、恐ろしくヒドイ状態の場面もある。が、そのことが却って、どうしても悪条件下で撮らねばならなかったというリアリティーを表現していた。同じドキュメンタリーでも、前回紹介した『不都合な真実』は、確かなカメラワークと見事な編集、美しい音楽で鑑賞者を惹きつけたが、この映画はBGMも効果音もほとんどない。撮影者は、被写体の人の前でカメラを回し、脇で質問する声が聞こえ、画面の人はそれに答えるのに困惑したり、嫌がったり、得意になったり、あるいは敵意を示す。そんな人々のナマの映像が、鑑賞者の前に突きつけられる。だから、「映画の世界に浸って楽しもう」などと思っていくと、とんでもないシッペ返しを食らう。そこには、豊かで平和な国・日本とはまるで別の、残酷なほど貧しく、神経が疲れるほど危険な社会が展開する。

 この映画は、タンザニア、ケニア、ウガンダの3国に囲まれたアフリカ最大の湖、ヴィクトリア湖の、タンザニア側の1部落の生活に焦点を当てている。この湖は、琵琶湖の100倍、九州の2倍の広さで、多種多様の生物を育み、生物の進化を目の当たりにすることができるというので、「ダーウィンの箱庭」と呼ばれていた。ところが、1954年と1962年に、そこに棲息していなかったナイルパーチという大型淡水魚を誰かが放流した。漁獲量を増やすためとの善意でやったことらしいが、ナイルパーチは肉食もするため在来種を駆逐してどんどん殖えていった。日本の湖に放たれたブラックバスや、ブルーギルのことを思い出してほしい。これに工場廃水の流入や森林伐採も加わって、ヴィクトリア湖の生態系が破壊された。が、その一方で、タンザニアにはナイルパーチを加工してヨーロッパや日本へ輸出する産業が発達して、それによって仕事が創出され、豊かになる人々も一部現れた。
 
 映画では、EU政府の役人らしき人が現地へやってきて、自分たちの援助で新しい産業のインフラづくりに成功したと満足気に発言するシーンが映し出される。しかし、彼らが設置した高価な解体処理施設、冷凍・冷蔵設備を通って出てくる魚は、現地の人々の経済力をはるかに上回るのだ。つまり、大勢のタンザニア人が参加して漁獲される1日500トン(!)ものナイルパーチは、現地の人々には買えず、豊かなヨーロッパ人、日本人の食卓に載るのである。否、もっと正確に言おう。タンザニアの普通の貧しい人々は、ナイルパーチからフィレ肉を取った後の残骸を拾い集めて、それをフライにしたものを食することで、かろうじて飢えをしのいでいる。人々の間にはエイズなどの病気が蔓延し、親を失った子どもたちは「ストリート・チルドレン」となって、盗みやケンカや毒物汚染の中で生きている……。
 
 ナイルパーチとは、日本ではかつて「白スズキ」の名で流通していた魚で、2003年の法改正により、現在ではそのままの名を表示して売っている。わが国は、年3千トン前後をタンザニア、ケニア、ウガンダから輸入していて、2004年にはその量が4千トンになったという。レストランや給食などで白身魚フライとして使われるほか、スーパーで味噌漬けや西京漬けとしても売られているという。読者は今度、レストランやスーパーへ行った際、この魚をじっくり観察し、そして考えてみてほしい。我々はアフリカの人々を助けているのか、それとも搾取しているのか……?。また、どうすることが、彼らの生活を助けることになるのかと。
 
谷口 雅宣

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2007年2月 7日

映画『不都合な真実』

 元アメリカ副大統領のアル・ゴア氏(Al Gore)が主演する映画『不都合な真実』(An Inconvinient Truth)を見に、妻と2人で日比谷へ行った。この映画については、試写会の招待状をもらっていたが、時間の都合がつかずに他の人に行ってもらい、その人から大体の内容を聞いていた。地球温暖化の危機を訴える真面目なマルチメディア・プレゼンテーションだという話だったから、あまり期待していなかった。私が生長の家の講習会でやっているのと大差ないだろう、くらいに思っていたからだ。しかし、彼のプレゼンテーションは、私のものより数段上だった。画面が大きく、しかも動くというだけでなく、複雑な現象を視覚化し、手短に分かりやすく提示する手法は、どんなテーマにも応用できる第1級のもので、さすが千回以上も続けてやっているだけあると思わせる。

 ゴア氏は、2000年の大統領選挙で現ブッシュ大統領と大接戦を演じ惜敗した後、アメリカ全土のみならず、世界各地を巡って、このプレゼンテーションを繰り返しながら、技を磨き上げてきた。そんな感じがした。そういう「聴衆を納得させ、説得する」方法の1つの模範として、生長の家の講師は一見する価値があると思う。もちろん、地球温暖化のメカニズムや、その影響がどんなに広範囲で劇的でありえるかという科学的知識を学ぶうえでも、よい参考になる。が、この側面では、私が知らなかったこと、講習会等で話さなかったことは、そう多くなかった。また、残念に思ったのは、ゴア氏が「肉食」が地球環境に及ぼす影響についてまったく触れなかったことだ。彼はビーフ・ステーキが好物なのか、などとつい思ってしまった。

 私が知らなかったことの中に、北極海の氷の厚さのことがある。この氷の厚さを測定することは、アメリカ海軍の必須の仕事だったというのである。それは、原子力潜水艦の行動の自由と直接関係している。原潜の軍事上の特徴は、何カ月もの長期にわたって海中に潜行したまま作戦行動ができるという点である。このことと、原潜が核ミサイルを搭載しているという事実を併せて考えると、「潜在敵国に居場所を知られずにどこからでも攻撃できる」という核抑止力の大きさが理解できる。しかし、この核抑止力が保証されるためには、海面が分厚い氷で覆われていてはいけないのである。アメリカの潜在敵国とは長い間、ソ連であり、今はその後継国、ロシアである。ロシアへの攻撃がしやすいのは北極海だろう。そしてこれと同じことは、ロシア側にも言える。つまり、ロシアがアメリカを攻撃する場合、北極海は重要な拠点である。ということは、そこの氷の状態がどうであるかは、米ロ双方にとって国家安全保障上の重要事項なのだ。
 
 ゴア氏が映画で指摘しているのは、彼が原潜に乗って北極海へ行った際(それがいつかは明らかでないが)、北極海の氷が年々薄くなっている事実を知らされたということだ。一方、私が講習会でもたびたび触れるように、アメリカ航空宇宙局は、人工衛星から定期的に北極海の氷の状態を写真撮影している。これによって北極海の氷の「面積」の推移が正確にわかる。その面積が年々縮小していることは、私が本欄でも紹介した通りである。だから、アメリカ政府高官にとっては、北極海の氷が年々縮小し、その「厚さ」も年々減少していること--つまり、地球温暖化が進んでいること--はよく知られた事実であったのだ。にもかかわらず、その原因が人間の活動であることを米大統領が長い間認めようとしなかったことは、驚くべきことではないだろうか。
 
 この映画と、昨年7月6日の本欄で紹介した『ホワイト・プラネット』の2本を見れば、地球温暖化の深刻さを知識として理論的に理解するだけでなく、失われつつある地球環境や生態系の壮大で繊細な美しさを感情的に納得できるはずである。両作品が早くDVD化されることを私は期待している。
 
谷口 雅宣

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2006年10月25日

映画『記憶の棘』(Birth)

 水曜日の今日は、私にとって週末である。そこで夜、妻と2人で映画を見に日比谷まで行った。ニッコール・キッドマン主演でこのタイトルとなれば、内容は恐らくサイコ・サスペンスということになるが、英語の原題はなぜか“Birth”(誕生)である。そして、「輪廻転生を描いている」というのが巷の評判だった。私はだから、霊界の話でも出てくるかと思い、少し期待していた。

 ご存じの読者もいると思うが、私は最近、生長の家講習会で生まれ変わりの話をすることがある。その際、ジム・B・タッカー著/笠原敏雄訳の『転生した子どもたち』(日本教文社刊)という本の内容を紹介する。この本は、真面目な学問的研究を一般向けにまとめたもので、秋季慰霊祭の挨拶の中でも触れた(9月23日の本欄参照)。原著には「子どもの前世の記憶についての科学的研究」(A Scientific Investigation of Children's Memories of Previous Lives)という副題がついている。著者のタッカー氏(Jim B. Tucker, MD.)は、ヴァージニア大学の心理学者、イアン・スティーブンソン(Ian Stevenson)博士の弟子に当たる人で、児童精神科医である。このことから分かるように、「前世の記憶」を科学的に扱う人たちは、心理学や精神病理学の専門家なのである。だから、この映画もサイコ・サスペンスと宗教性の両面を兼ね備えていたのだった。

 私はこの本や、スティーブンソン博士の『前世を記憶する子どもたち』(日本教文社刊)を読んでいたので、映画のストーリーを追いながら「あれっ?」と思うことが2~3回あった。しかし、キッドマンの迫真の演技は、その不自然さを凌駕して覆い隠し、私の目を最後まで画面に釘付けにした。私は彼女が出演する映画では『アイズ・ワイド・シャット』(1999年)『ザ・インタープリーター』(2005年)などを見ているが、この作品での演技は文句なく最高だと思った。言葉を多くしゃべらずに、表情だけで、内心の心の揺れや、迷い、憎しみ、哀れみ、絶望などを見事に表現している。ジョナサン・グレイザー監督(Jonathan Glazer)の特徴的な長回しのカメラワークも見ごたえがある。特に、再婚する許婚の男とオペラハウスで演奏を聴きながら、10歳の男の子が前夫の生れ変わりであると信じるにいたる主人公の心の変化が、大写しされた表情の中で展開するシーンは、圧巻である。背後に流れる音楽も表情豊かである。

 ストーリーをまだ紹介していないが、詳しい話は避けよう。簡単にいえば、最愛の夫を失って10年後、ようやく再婚を決意した主人公の前に10歳の男の子が現れて「あなたはぼくの妻だ」と主張し、再婚を妨害しようとする話だ。始まってまもなくのシーンの中に、最後のどんでん返しを説明する重要な伏線が描かれているから、見逃さないように。

 グレイザー監督は、この男の子が主人公の前夫の生れ変わりであるのかないのかを聞かれて、インタビューアーにこう答えている。
 
「どちらもあり得るように、どちらの側においても理論が通るように作ったんだよ。僕の頭の中では作ろうとしているものははっきりしているけど、映画の最後を定義づけてくれと言われても、それはできない。この映画にはひとつ以上の真実があるということだ。それは何なのか。映画を見た人たちの気持にゆだねたいと思っているんだ」(森山京子氏訳)

「ひとつ以上の真実がある」という言葉は、味わい深いと思う。科学者から見たら精神病理学の対象のように見えるものが、別の人から見れば立派な心霊現象であることがある。前者にとって「偶然」としか考えられないことが、後者にとっては絶対的な「必然」となる。どれが真実であるかは明らかにされない方が、人にとっては幸福であることもある。あるいは、どちらも真実であることもあり得るだろう。ただ、この映画を見て言えることは、「前世の記憶」をもつことが幸福の原因にはならないということ。幸福は「今」の中にあるのである。

谷口 雅宣

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2006年9月 6日

映画『ユナイテッド93』

 妻と2人で日比谷に映画を見に行った。『ユナイテッド93』である。これは一度、8月の公開直後に見ようとして映画館まで行ったが、あまりの混雑で席が取れなかったものだ。が、今回は館内の人は疎らだった。9・11の5周年までに見ておきたかったのである。映画が現実を正確に反映しているかどうかの問題はあったが、ブッシュ氏の“テロとの戦争”を批判してきた私としては、そのテロの“現場”を知らないことに負い目を感じていた。映画の感想をひと言で表せば、「大統領の気持はよく分かる」ということか。あれだけの“奇襲”を受け、大統領自身、身の危険を感じて専用機で空へ逃れたのだが、その後、彼がアメリカ国民の怒りを体現して武力行使に出たとしても、無理はないと感じた。座席に釘付けになったまま、1時間51分がたちまち過ぎた。
 
 9・11にはアメリカ国内で4機がハイジャックされたが、そのうちテロリストの目標を外して墜落した唯一機が「ユナイテッド航空93便」である。乗客乗員が一丸となってテロリストと戦い、目的達成を阻んだのである。機内での心身両面の戦いはもちろん壮絶だったが、私の印象に残ったのは、連邦航空局指令センター内の様子である。ここでは、アメリカ上空を飛ぶ約4500機の航空機の情報をリアルタイムでモニターし、全米20ヵ所以上の航空交通官制施設と連絡を取りながら、安全運行のために必要な措置をとる場所だ。そこに並ぶ何十台ものスクリーンから、機影が1つ消え、2つ消える。その理由を知ろうと管制官がマイクを握る、叫ぶ、連絡に走る。まったくの混乱が、後に続く。

 映画では当時、同センターの総指揮をとっていたベン・スライニー氏本人が、自分役で出演している。それだけでなく、他の管制官や軍関係者が何人も出演しているから、ポール・グリーングラス監督(Paul Greengrass)の意図が、当時の実際の状況をできるだけ忠実に再現することにある、と分かる。スライニー氏も、「監督からの要求は正確さを極めることでした。ですから内容は事実そのままです」と言う。そして、このシーンで描かれているのは、当時、アメリカ中の管制官も、空軍関係者も、ハイジャックの目的が身代金ではなく、自爆テロであることを全く予想できなかったという点だ。

 映画中のテロリストのことに触れよう。9月4日の本欄にも書いたが、ブッシュ氏は、これまで一貫して“善”と“悪”を対立させた世界観を披露してきたが、この映画は違っていた。別の言い方をすれば、グリーングラス監督はテロリストを“悪魔化”していなかった。私はこの点に好感がもてたのだが、反面、その暗示することの重大さに震撼させられた。ユナイテッド93便のハイジャック犯は4人だが、みな敬虔でストイックなイスラーム信者として描かれている。また、上官の指令通りに任務を実行しようとする兵士の趣きもある。乗っ取りの際は、迅速、無慈悲に行動するが、乗っ取り機が任務を完遂できるかどうかに不安を感じ、神に祈り、恐怖に顔を引きつらせる。彼らが乗っ取り機の前方で身を震わせて神に祈るとき、同じ機内の後方では、テロリスト制圧の成功を神に祈る乗客乗員の姿がある。

 神への信仰が、人間の不安を和らげ、希望を与えるために大きな役割を果たしていることがよく分かる。しかし、善悪の対立が先鋭化した状況においては、神への信仰は戦いを正当化し、必然化する大きな力となる。だから、単に「神を信じる」だけでは、平和は必ずしも実現しない。神が人間の良心や理性を認め、祝福される存在か、あるいは人間の良心や理性に対して沈黙を要請する存在か、この点を信仰者は深く考察する必要があるのである。
 
 最後に、この映画に日本人が出てくることについて。彼はもちろん俳優だが、実際のユナイテッド93便にも「久下季哉(くげ・としや)」という日本人の青年が1人乗っていた。当時、早稲田大学理工学部2年生で、2000年2月に英語研修でユタ大学に1ヵ月学び、翌年8月、周遊旅行のため再び渡米してカナダへも足を延ばした。現地の大学の様子を見聞する目的もあったといい、9月11日、帰国のためにニューヨークからサンフランシスコへ向うこの機に乗った。1970年代の後半、アメリカを1人で旅した私自身の記憶が蘇ってきて、胸が締めつけられる。私がその機に乗っていたら、いったい何を考え、何をしただろうか……。
 
谷口 雅宣

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2006年7月 6日

映画『ホワイト・プラネット』

 北極の温暖化の様子を描いたドキュメンタリー映画『ホワイト・プラネット』(The White Planet)を見た。題名から思い出したのは、温暖化によって氷河期が襲来するというストーリーのSF映画だったが、こちらはもっと地味な話だ。しかしSFの特撮ではなく本物の映像なので、冬の北海道も見たことがない私にとっては、極寒の広大な“白い世界”に棲息する数多の生物たちの姿がとても感動的だった。地球温暖化の現状を知るためには、必見の映画の1つである。私は、同じ主題を扱ったドキュメンタリーをいくつかテレビで見たことがあるが、映画館の大スクリーンに広がる映像の力とは、とても比較できるものではない。

 フランスとカナダの共同制作で、ゆっくりとしたフランス語のナレーションが流れる。原題は「La Planete Blanche」だ。監督は、フランスで自然科学番組を制作してきたティエリー・ラゴベール(Thierry Ragobert)とティエリー・ピアンタニダ(Thierry Piantanida)の2人組。これまで何度も北極の調査撮影に参加してきたというだけあって、自分の庭を撮影しているかのような自然さで、北極の大自然が眼前に展開されるのには圧倒される。大平原を走るカリブーの大群を追う空撮あり、クジラに密着する水中撮影あり、生まれてまもない子に乳を与えるホッキョクグマ(シロクマ)の母を大きく描く雪中撮影あり、海中プランクトンの一種であるクリオネの人間そっくりのダンスあり……一体どうやって動物にこれほど近づけるのか、驚かされるばかりである。そういう被写体について、ピアニタンダ監督は「どの動物も、映画の主役になれるような特異性や絶対的な独創性を持っています」と誉めるが、本当にその通りだと思った。

 私は今年の5月初め、生長の家の全国大会で『TIME』誌4月3日号の表紙の写真--氷の溶けかけた海面を心配そうに眺めるシロクマの写真--を参加者に見せ、シロクマが最近、溺死しているのが発見されていることを話した。この写真については4月2日付の本欄でも触れたが、溺死の話は、今年5月号の『Vanity Fair』誌に元アメリカ副大統領のアル・ゴール氏が書いていたことだ。しかし、人に話しながら、自分では溺死の原因がよく分かっていなかった。ところがこの映画を見て、それがよく分かったと思った。

 シロクマは、氷の海を泳ぐことに何の苦労もない。彼らの分厚い毛皮は、マイナス50度の極寒の中でも充分な暖かさを保つから、氷水(せいぜいマイナス数度)は“温水”といったところか。映画の中でも、上手なイヌカキ(クマカキ?)で泳いでいた。それより問題なのは、氷上での餌探しだ。ヒグマなど温帯に棲むクマはサケなどをよく獲るが、シロクマが魚を獲るシーンはなかった。それより、氷上で休んでいるアザラシを餌にしているらしい。アザラシは海中では猛スピードで泳げるが、氷上では実にたどたどしく這う。それを追いかけて捕獲する。ただし、アザラシも事情をよく知っているから、氷上で休むときも、すぐに逃げられるように水の近くにいる。また、北極の氷原はガチガチに凍ってはおらず、数十センチの厚さに雪が積もったような感じで、サクサクとしている。そのサクサクの中にできた浅い穴に隠れているアザラシもいる。シロクマは、そういうアザラシを見つけると最初は忍び寄り、最後には猛然とダッシュして追撃し、氷原の中に頭を突っ込んで、見えないアザラシに噛みつくのである。そして、失敗することも多いそうだ。
 
 これが彼らの猟の方法だとすると、海上の氷が溶けだすことは重大な結果に結びつく。それは、我々がドロンコの沼や田んぼに落ちた時を想像するといい。走るどころか、前方にきちんと歩くことさえ至難の業だ。そんな中ではアザラシなど捕獲できないから、シロクマは食事不足で衰弱する。さらに、温暖化は海上の氷と氷の間の距離が広げていくから、別の氷原を求めて海を泳ぐシロクマにとっては、それは決死の遠泳になるのだろう。気候の微妙な変化は、厳しい自然界でギリギリに生きている生物たちにとっては、致命的な結果をもたらす。こうして最近、ホッキョクグマは絶滅危惧種に指定されたのである。

 ところで、この映画で北極のことをなぜ「プラネット(惑星)」と呼ぶかというと、そこが人間のよく知っている地球とは別の、きわめてユニークな(そして美しい)生態系を保ってきた場所だかららしい。そういう稀有の自然が今音をたてて破壊されつつある、と感じた。
 
谷口 雅宣

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2006年6月10日

中国、信仰者の声に動く?

 中国で映画『ダ・ヴィンチ・コード』が上映開始から3週間で中止となった。理由は、国内のカトリック信者から反対が多いからというもののようだが、にわかには信じられない。共産党独裁の社会主義国で、いったん政府が承認した興行が国民の要望で中止されるということになれば、同じ国民の要望が強ければ、承認されていない興行を認めない理由がなくなってしまうからだ。10日の『日本経済新聞』は、上映中止の「理由は不明」としている。が、続いて「中国カトリック愛国会など宗教団体が“内容がカトリックを冒涜している”などと上映禁止を呼びかけており、政府がそうした声に配慮したとの見方が出ている」と書いて、政府が国民の一部の要望を容れたとの見方を臭わせている。
 
 5月7日の本欄でも書いたが、ローマ・カトリック教会は現在、中国政府とは対立関係にある。その理由の一つは、中国政府が最近ヴァチカンに無断で、自分の支配下にある中国カトリック愛国会の司教を何人も任命したからだ。また、中国には「愛国会」の傘下に入らずにヴァチカンに忠誠を誓うカトリック教徒が“地下組織”として活動しており、その数は400万から1200万人と言われている。5月25日の本欄でも触れたが、この映画に対して、ローマ・カトリック教会は公開早々から信者にボイコットを勧め、また主としてアジアの教会指導者が強い不快感を表明してきたし、インドではハンガーストライキさえ行われた。だから、キリスト教徒の反対が理由で上映を中止するなら、そもそも上映を許可したこと自体、説明がつかない。「試しに許可してみたが、反対が大きすぎたからやめた」というのだろうか? 中国政府は、外国映画の輸入にいつからそんなに不用意になり、また国民に対していつからそんなに弱腰になったのかと思う。
 
 10~11日付の『ヘラルド・トリビューン』紙は、北京のジョセフ・カーン(Joseph Kahn)記者の記事の中で、この決定は中国のカトリック指導者たちと国営の映画配給会社の間の政治的妥協によるもの、という見方を書いている。「愛国会」は、ヴァチカンの影響下にある地下教会組織との間で競争関係にあるため、カトリック教徒の神経を逆撫でするような映画には反対せざるを得ない。一方、配給会社は高い金を払ってハリウッド映画を輸入したのだから、それなりの利益を得ないうちに教会側の要望を呑むわけにいかない。そこで、22日間の興行で1億元(1300万ドル)以上の収入を得たところで“手を打った”というわけだ。この成績は、今年中国で公開されたどの映画をも上回っているという。
 
 私は、上掲の記事を読んで、もう一つの配慮が今回の決定の背後にあると感じた。それは、中国政府が「社会不安」を未然に防ごうとして動いた、ということだ。映画『ダ・ヴィンチ・コード』は、5月19日に全世界同時に公開された。その後、すぐにヴァチカンから映画ボイコットの支持が出され、対抗する「愛国会」も映画反対の意思表明を行った。そのうちに、地方のカトリック信者による反対デモなども起こってきて、一部では「上映館を燃やす」との過激な意見まで表明されるようになったという。こういう自発的な運動の盛り上がりを、中国政府は最も恐れたのではないだろうか。宗教の信者による政府への抵抗は、彼らは「法輪功事件」で苦い経験をしている。今回は、そうならない前に手を打って上映中止に持ち込んだ。しかも、興行収入はしっかりと手にしている。「臆病」というべきか、「お見事」と言うべきか……。

 この結果は、しかし中国の民主化にとっては一つの進歩なのかもしれない。なぜなら、(もし私の上記の推理が正しければ)カトリック信者の反対運動が実際に政府を動かしたということになるからだ。徐々にではあるが、中国社会は経済だけでなく、こういう面でも変化しつつあるのだろう。
 
谷口 雅宣

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2006年5月25日

映画『ダ・ヴィンチ・コード』

 ロン・ハワード監督の映画『ダ・ヴィンチ・コード』を見た。ベストセラー小説の原作の方は“荒唐無稽の探偵小説”くらいに思って読んでいなかったが、映画の印象もそれと大差なかった。ただ、映画界だけでなく、宗教界やジャーナリズムを巻き込んだ一種の社会現象になっているので、休日に一見しておくのも悪くないと思った。すでにいろいろな所で評論されているので、あまり多く語ることはないのだろうが、宗教を生業としている者の立場から少し感想を書いてみよう。
 
 まず「宗教はアブナイ」というメッセージがこの映画にも盛り込まれていると感じ、悲しく思った。もっとハッキリ言えば、「宗教は神の名において殺人や異常行動を繰り返してきた」というメッセージである。そして、私が悲しく思った理由は、それが「事実でない」からではなく、一部の宗教においてはその側面があることを認めざるを得ないからだ。しかし、いかにフィクションといっても、現存する世界宗教のことを「世紀の陰謀をつづけてきた」と言わねばならない心理状態は、日本に住む人間としては理解に苦しむものだった。また、その宗教内に実在する組織の名を挙げている点も、私には「やりすぎ」だと感じられた。そうまでしなければならない特別の理由が原作者や監督の側にあるならば、それを知りたいとも思う。
 
 本欄でも何回か取り上げた“モハンマドの風刺漫画事件”のことを思い出すと、イスラム教の文脈でこのような映画を作ることは考えられないのに、キリスト教の場合は何をしてもいいのかと驚かされる。まぁ、西洋社会はそれだけ「表現の自由」を尊重するという点から学ぶべきこともあるのだと思う。また、中世ヨーロッパのキリスト教支配には、それだけ過酷な面があったのかもしれない。さらに推測すれば、西洋社会では、キリスト教に関する知識が広く行き渡っているとともに、伝統的な神学とは異なる聖書学や考古学による“事実検証”も進んでいるから、この程度の“歪曲”はあまり問題にされないのかもしれない。

 こんな推測を私にさせるのは、ローマ・カトリック教会の中心者である法王からは、まだ何のコメントも出ていないからだ。「創作物語に文句をいうのは、大人気ない」ということか。また、文句を言えば言うほど、映画や本が売れるという心配があるからかもしれない。しかし、キリスト教が少数派であるアジア諸国では、そんな余裕はないようである。5月18日の『ヘラルド・トリビューン』紙によると、9割は仏教徒だというタイでは、キリスト教の諸団体が映画の最後の15分間をカットするように国の検閲機関に申し出たが結局、その要望は断られ、映画の最初と最後に「この映画はフィクションです」という断り書きを入れることになった。またインドでは、カトリックの団体の代表者が映画の上映に反対してムンバイの中心部でハンガーストライキを始めたそうだ。国民の83%がキリスト教徒だというフィリピンでは、マニラの大司教が原作と映画を「キリストの聖性に対する攻撃」だと批判したが、上映禁止は要求しなかった。1700万人以上がクリスチャンである韓国でも、映画は「キリストの神聖性を穢し、事実を歪曲している」との批判があったが、上映禁止にはならなかったようだ。
 
 ところで、上記の記事では、タイのプロテスタント派のキリスト教者が、この映画の筋について「もし、イエス・キリストに妻と子がいたならば、キリスト教は崩壊してしまいます」と言っている。しかし、本当にそうだろうか、と私は思う。キリスト教の伝統的な教義では、確かにイエス独りが「神の子」であるとともに「神」そのものであるから、「神の子」が「普通の人間」との間に子をもうけることなどあり得ないかもしれない。しかし、イエスは人間の実相が皆「神の子」であると説いたと解釈すれば、イエスに妻がいようが子がいようが、また、肉体イエスの遺伝子が現代に引き継がれていようがいまいが、イエスの教えは映画の1本や2本--あるいは、千本や2千本--によって微塵も傷つけられることはないのである。

 イエスとマグダラのマリアの関係については、昔から各方面で注目されている。谷口雅春先生の『新版 ヨハネ伝講義』(1997年、日本教文社刊)の352~353ページには、興味ある記述があるので参照されたい。

谷口 雅宣

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2006年3月29日

映画『シリアナ』

 渋谷の映画館で『シリアナ』という作品を見た。「石油・CIA・アラブがからんだ話」という程度の予備知識しかなかったのだが、映画が始まって監督や役者の名前が出てくるところで、原作が『See No Evil』(悪を見ず)だとあるのを見て、内容が分かった。1月24日の本欄に、私がその日にニューヨークの書店で買った本のリストが掲げてあるが、そこにこの本の名前が含まれている。副題は「The True Story of A Ground Soldier in The CIA's War on Terrorism」(CIAでテロと戦う地上兵士の実話)で、この本の日本語版の題は『CIAは何をしていた?』(ロバート・ベア著/佐々田雅子訳、新潮社、2003年)という。映画の内容も、そういう政治色の強いものだった。

 2時間以上の映画だが、ストーリーはアメリカとアラブの地で同時併行的に展開していく上、3~4人の異なった登場人物の視点から重層的に描かれていくので、複雑でわかりにくいことは否定できない。しかし、そのことが却ってリアリティーを生み出している。なぜなら、現実は複雑でわかりにくいからだ。これらの人物とは、CIA工作員、エネルギー・アナリスト、パキンスタンからの出稼ぎ労働者、そしてワシントンの法律家である。通常はあまり関係のなさそうなこれらの人物が、「テロリズム」という現象を媒介として皆つながって描かれている点が興味がある。

 ノンフィクションの原作をベースにし、監督もリアリズムを追及しているから、前に本欄で取り上げた『亡国のイージス』のような“肩すかし”は食わされなかった。私は「平和」「環境」「資源」の問題は今日、互いに密接に関連していると述べてきたが、この作品は「環境」を除いた残り2つの問題の関連をよく描いている。さらに、そこに「貧困」と「悪政」の要素を加えて説得力のあるものになっている。ごく簡単に言うと、テロリズムが生まれる背景には、少数がとてつもなく豊かな王国にいる、とてつもなく貧しい人々の絶望感があり、この悪政を守っているのが国益優先のアメリカの対外政策だ--というのが監督の訴えようとしている点だろう。ここでテロリストは、家族と同信の仲間のために“巨悪”を狙って自爆する純粋な少年として描かれている。
 
 マイケル・ムーアの映画『華氏911』(2004年)を見た時も感じたのだが、こういう政府批判の映画が堂々と上映され、正しく評価されるという点で、アメリカは立派であり、羨ましい。本作品の製作総指揮を行い、自らCIA工作員を演じたジョージ・クルーニー(George Clooney)は、今年のアカデミー賞助演男優賞を受賞した。彼は「この作品は反アメリカ的だと思いますか?」との質問に対して、次のように答えている:
 
「いや、むしろ、すごくアメリカ的な作品だと思ってるんだけど。そうじゃなかったら、僕らは作らないしね。アメリカっていうのは、疑問を投げかける自由を持った国だ。疑問を投げかけるのは、僕らの権利でもあり、そして義務でもある。この映画はそのために作ったんだから」

 ところで、映画の題名になっている「シリアナ」の意味だが、これはワシントンの政策シンクタンクが使う一種の“業界用語”で、「アメリカの利益にかなう中東の新しい国」という意味だそうだ。そういう国を作ることがアメリカの国益になるとして、対外政策が練られているのだ。地域的にはシリア、イラン、イラク辺りを指すらしいから、現在アメリカは、イラクをシリアナにしようと努力していることになる。

谷口 雅宣

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2005年12月21日

映画『SAYURI』

 話題になっている『SAYURI』を妻と2人で見にいった。すでに新聞記事をいくつか読んでいて、この映画に「本当らしさを期待してはいけない」というメッセージを受け取っていた私は、それほどガッカリしなかった。しかし、それにしても「文化が違う」ということは、同じテーマを扱ってもこれほど表現が違うのか、と驚きながら映画館を出た。そういう意味では、アメリカ人が考えた“エキゾチックな日本”を体験できたのは、面白かった。
 
 出だしからアップテンポのジャズ風の音楽--和太鼓でリズムを取っているのだろうが、その使い方が何となくアフリカ的でおどろおどろしい。それを背景に、極貧の漁村の家から少女が2人、病気の母親の治療費や家族の生活費のために置屋に売り渡される。少女たちの目線から描かれているから、説明的な描写は一切なく、「夜、わけも分からず見知らぬ男に連れて行かれる」という邪悪で、暴力的な導入部である。似たような状況はテレビドラマ『おしん』にも出てくるが、日本人が描く場合、不本意にも子を手放さねばならない親のつらさがきちんと出ているが、この映画は“親心”を省いた残酷な描写である。

 花柳界の描き方は何とも場末的である。もっと具体的に言うと、上流階級が風流に遊ぶ京都が、まるで新宿の歌舞伎町のようだ。また、芸者の着る最高級の着物をカメラがアップで映しているのだが、薄暗い質屋の店頭に吊るした中古の着物のように見える。芸者の舞は、宝塚と歌舞伎を混合したように、大仰でしかもテンポが速い……そういう“違和感”を感じているうちに気づいたことは、この映画は「日本」や「芸者」を描いているのではなく、「日本」や「芸者」を大道具、小道具として使いながら、現代アメリカ人の心情を描いている、ということだ。だから、日本がエキゾチックに感じられるのである。
 
 原作は、アーサー・ゴールデンという日本美術史を学んだアメリカ人の小説『Memoris of a Geisha』で、監督は『シカゴ』のロブ・マーシャル。おまけに製作はスティーブン・スピルバーグだから、作品に“日本人の視点”を要求してはいけないのだ。原作はベストセラーになったそうだが、邦訳本(があったとしても、それ)についてあまり話を聞かないのは、その辺の事情があるのかもしれない。

 もう一つ面白かったのは、「過去が未来にすり替わる」ような体験をしたことだ。ハリウッド映画だから、登場する芸者たちが英語をしゃべるという“異国情緒”は当然だ。これに加えて当初、大物芸者2人が中国人であることが表情や物腰から気になっていた。しかし、ドラマが佳境に入り、彼女たちが彼女たちの個性のまま、桃井かおりや工藤夕貴と一緒に同じ置屋でいたわり合ったり、競い合ったり、憎み合ったりしているのを見ているうちに、私は物語の舞台が「戦前の京都」であることを忘れ、そこはまるで近未来のシカゴかロサンゼルスであるかのような錯覚に陥った。近未来ならば、「英語でしゃべる芸者」がいてもおかしくないし、彼女たちが中国人でも中国系シンガポール人でも日本人でもおかしくない。さらに彼女らが、昔の日本の芸者のような立ち居振る舞いをしなくても、全く違和感はない。
 
 映画『ブレード・ランナー』の導入部には、ハリソン・フォード扮する警察官が未来のロサンゼルスの盛り場を歩き回るシーンがあるが、私は『SAYURI』を見ながら、なぜかそれを思い出していた。
 
谷口 雅宣

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2005年10月 6日

映画『蝉しぐれ』

 休日の木曜日を利用して、妻と二人で映画『蝉しぐれ』を見た。NHKテレビでも放映された藤沢周平氏原作の時代劇だが、私はこのドラマを見ていなかった。時代劇は『ザ・ラスト・サムライ』『北の零年』以来だが、見た印象は前掲2作より弱かった。この作品を見たいと思った理由は2つある。1つは、小説『秘境』を書いたときに藤沢氏の作品の1つに登場してもらい、以来、氏に親しみを感じていたこと。もう1つは、藤沢氏の故郷である山形県鶴岡市周辺が『秘境』の舞台であり、その取材のために私はその地を3回ほど訪れていて、懐かしさを感じていたからだ。『蝉しぐれ』の舞台も鶴岡ということになっている。そういう私の側の「期待」が大きすぎて、それに比べられた本映画は迷惑だったかもしれない。

 私は藤沢氏の原作を読んでいないから、これから書くことは皆、黒土三男監督作品の映画についての感想である。2時間11分の長さにしては、人間心理の描写に不満が残った。中に盛り込んだものが多すぎたため、かえって主人公や相手役の心の深みを描ききれなかったのかもしれない。例えば、自然描写は秀逸である。“古き良き日本”の春夏秋冬の風景が美しい「断片」として、作品中に散りばめられている。それは素晴らしいのだが、その環境の中で生きる主人公らの心の描写が、きわめて抑制されている。江戸時代の武家の人々は、こういう忍耐と我慢の生活を送っていたのかもしれないが、観客はその抑制された動作や表情から内心を読み取るのに努力が要求される。少なくとも、私はそうだった。一種の「忍耐の美学」なのかもしれないが、それを好む人と好まない人がいるだろう。

 藤沢氏自身は『蝉しぐれ』について、こう書いている--「一人の武家の少年が青年に成長して行く過程を、(中略)剣と友情、それに主人公の淡い恋愛感情をからめて書いてみた」。問題はこの“淡い恋愛感情”だと思う。映画作品では、主人公の文四郎(市川染五郎)と相手役のふく(木村佳乃)の恋愛は、決して「淡い」ようには見えない。真剣に愛し合っているのだが、江戸時代の社会通念や習慣、武士として、あるいは女としての様々な義務に縛られて、燃える思いを遂げることができない。そういう辛く、哀しい悲恋物語のように、私は感じた。ラストシーンの1つは、三島由紀夫の『春の雪』のように、女は自分の性(さが)を棄てるために尼僧になるのだが、その別離のときの二人の表情は「淡い恋」のそれでは決してないのである。この点に黒土監督の脚色があるのかもしれないが、それならば、恋の成就を拒否してきた当時の社会に対する、主人公らの全く受け身の、諦めた態度が、現代人である観客は不満に感じると思う。

 とはいうものの、私は結構泣かせてもらった。妻も少し泣いたそうだが、私ほどには涙を流さなかったという。暗い館内で涙の量など分かるはずはないと思うのだが、妻には分かるらしい。ところで題名の「蝉しぐれ」だが、映画の各所でBGMのような効果をもって使われている。出だしは、そのものズバリのアブラゼミの大合唱だが、ラストシーンは、一艘の舟が漂う湖面を渡る単独のヒグラシの声。その舟の中で主人公が仰向けになって横たわっている。何ともやるせないのである。
 
谷口 雅宣
 

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2005年8月17日

『亡国のイージス』

 映画『亡国のイージス』を見た。購読している産経新聞が推薦していたからだ。しかし、120万部も売れているという原作は読んでいなかったから、内容については「自衛隊のイージス艦が叛乱を起す話」程度の知識しかなかった。それで、感想を結論的に言ってしまうと「映画としては失敗ではないか」ということだ。ほとんどの人は原作を読んでから映画館へ行くのだろうが、私は映画だけを見て、「何がどうなってこんなことになるのか」がほとんど理解できなかった。だから、映画館を出てからも周囲いっぱいの「?」マークを眺めていたという次第である。かつて『ザ・ラスト・サムライ』を見たときは、その壮絶なエンディングの伝えるメッセージをかなり批判的に捉えたが、映画の言っていることは比較的よく分かった。しかし今回は、「この映画、何を言いたいの?」という感想だった。

 まぁ、これだけの感想では、情熱をもって制作した数多くの人々に申し訳ないので、何が不満なのかを少し書かせてもらおう。最大の不満は、「リアリティーがない」ということである。もちろん映像は実写や精巧なセットを使っているから、いわゆる“リアル”ではある。しかし、ストーリー展開が速すぎるためか、あるいは説明不足(結局同じことだが)なのか、登場人物が何を考え、何を感じているのかがサッパリ分からない。自衛隊ならば、国民の生命と財産を護ることが第一任務であるのに、それを敢えて放棄し、逆に国籍不明の外国人と結託してテロを画策するのである。それならば「なぜそうするのか?」の説明が必要である。が、「ある防衛大学生の論文」に同調したとか、日本社会に愛想をつかせたとか、防衛庁内部の問題に嫌気が差したとか……そんないいかげんな理由で最新鋭護衛艦を乗っ取られるのではタマラナイ。もちろん、原作にはもっといろいろ書き込んであるのだろう。しかし、映画ではこの「動機」の部分がほとんど描かれていない。いきなり、乗っ取り事件が始まるのである。

 動機が不明なのは副艦長に同調した叛乱グループだけでなく、国籍不明(北朝鮮のようだが)の東洋人グループの目的もよく分からない。乗っ取った艦を東京湾内に進入させて、大量破壊兵器で市民を殺戮すると脅しながら、その脅しの目的がさっぱり不明である。いや、ストーリー上は箇条書きの要求が出てくるのだが、その要求のいちいちが、乗っ取り犯にとってなぜ利益になるのかが全然分からない。だから、“脅し”自体にもリアリティーが出てこないのである。私にとって一番理解できたのは、国家安全保障会議(?)の中のやりとりだけである。あそこで首相や大臣が何を考え、何をしようとしているかは比較的理解できた。が、叛乱軍と外国勢力との結びつきは“あり得ない”と感じられた。映画は、その説明をすっ飛ばしているか、あるいは描いてもいいかげんである。そして結局、印象に残っているのは、キッタハッタの大立ち回りのような艦内での戦闘シーンである。これでは、ハリウッド映画とどこが違うというのだろうか。

 ところで、映画鑑賞後、頭の中の「?」のいくつかでも解消しようと思ってプログラムを買った(1000円もした!)。そして中身を読んでから、私が上のような不満をもった理由がいくぶんか理解できた。私は、産経新聞が力を入れて推薦するのだから、この映画は、「国家」とか「国防」についてきちんとした主張をもっているのかと期待していたのだ。しかし、原作はともかく、この映画はそういう「思想性」を極力排除して作ったものだというのである。防衛庁情報局内事本部長の役をした佐藤浩市氏が、その間の事情をインタビューの中で次のように語っている:

「思想的背景の部分もおおいにある物語ですから、それが前面に出てしまって、複雑に見えてしまうと、お客さんがそこに引っ掛かっちゃうんじゃないか、ということですね。大切なことは、この映画はあくまで、特定の層を狙わない、老若男女幅広い層に観ていただける映画ということで、受け止め方、感じ方は様々でいいんです。あまりに特異な部分はできるだけ排除して、幅広い方々に理解して、考えてもらえるようにするにはどう演じたらいいのか、ということを阪本監督とも話をしました」

 原作の“特異”な部分をできるだけ排除して、誰にでも受け入れられるような作品にした--こういう作り方がハリウッド映画とどう違うのだろう? 所詮、映画は大衆エンターテイメントということか。最後まで疑問の残る映画だった。

谷口 雅宣


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