2009年10月 3日

五輪のブラジル開催を祝福する

 2016年の夏季オリンピックの開催地が、ブラジルのリオデジャネイロ市に決まった。私は、2006年8月31日の本欄以来、東京での五輪開催に何回も反対してきたから、安堵の思いでこのニュースに接した。

 はっきり言ってしまえば、人類が真剣に地球環境問題を解決しなければならない21世紀には、重厚長大で1点集中型のスポーツイベントは本当は不要なのである。そんな手段によって国威発揚や経済の活性化、そしてインフラ整備をするという考え方自体が、時代遅れである。が、人類全体の“業”の力はとても強いから、この大規模スポーツイベントはこれからも地球のどこかで開催されることになるだろう。その場合、まだ開催されていない国や地域でそれを行い、開催経験のある国や地域は、それに対して人類の“過去の過ち”を繰り返させないようにできるだけ支援を行うというのが、どうにか容認できる妥協点ではないだろうか。とりわけブラジルは、地球生命全体にとって重要なアマゾンやセラードなどの貴重な生態系と資源を有する。それらをこれ以上破壊しないで五輪開催ができれば、人類は21世紀以降に希望を見出すことができるのではないか。そんな新しい視点を採用してくれることを期待して、“リオ五輪”の決定を祝福する。
 
 石原慎太郎・東京都知事は、「史上最もコンパクトな五輪」などをスローガンに“環境負担の軽減”を正面に出して誘致作戦を展開したが、その論理自体が「五輪開催は環境を傷める」という前提に立っている。そういう場合、普通は「五輪はやめよう」と言うのが正しいはずだ。が、政治家としてはそれは絶対言えないから、「他の開催地よりは環境への害が少ない」という曲がった論理になってしまった。これは、今の世界では通用しない。その証拠に、今日の『朝日新聞』によると、東京のプレゼンに対して海外の記者から「このままでは従来のような五輪が開けなくなるという主張は脅迫ではないか」との質問が出されたという。また、『日経』はIOC評価委員会から「我々は国連ではない。そんな大きな問題を持ち出されても……」との声が聞かれたと報じている。

 五輪は環境保全事業ではなく、スポーツイベントである。また、これから経済発展の“果実”を享受しようとしている新興国に対して、「あなたの国の経済発展は温暖化ガスの排出増加につながるから、その量を最小にできる国に栄誉を与えよ」と言うに等しい。この論法は、「地球温暖化抑制のためには経済発展を控えよ」という、温暖化対策をめぐる国際交渉時の先進国の言い分そのものである。五輪の場にそれを持ち込んだことが、大きな“敗因”の1つと言えるだろう。
 
 また、今回の五輪開催地の選定には、国際関係全体の変化が現れていると思う。アメリカのシカゴが最下位で初戦敗退し、東京は下から2番目で予選落ちした。マドリードを推薦したスペインは、すでにバルセロナ五輪(1992年)があったから不利だった。ブラジルは、「南アメリカ初」を前面に掲げて開催権を獲得したが、これは中国に続く「新興国の出番だ」と言っているように聞こえる。『日経』は、“3度目の正直”を射止めたブラジルについて「世界的な経済危機にもかかわらず堅実な成長を維持、BRICsの一角として存在感が増している」ことを挙げ、「新興経済大国の躍進を象徴したものだ」と分析している。

 ブラジルでは日本人(日系人)の社会的地位が高い。同国の歴史上、農業などで社会の発展に大きく貢献してきたからだ。その信頼にも応えるため、今後は、植林活動や環境技術の分野で同国を大いに支援し、2016年には“炭素ゼロ五輪”を実現するような中期計画を策定できないか、と私は夢想するのである。
 
 谷口 雅宣

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2006年6月23日

フツーの話題

 夜、私が本欄の執筆をしようとノートパソコンの画面を見つめていたら、妻が「もっと普通の話題にしてよ」とのたまわく。私が不審な顔を向けると、彼女は続けて「もっとみんなが読みやすい話題よ……」と仰る。最近“硬い話”ばかりが続いていることが気になっていた矢先だから、私は納得してあたりを見回した--新聞は、ワールドカップで日本がブラジルに敗退したことを大きく報じているが、私はサッカーが特に好きというわけではない。今日の明け方、夢うつつで事の次第をラジオで聞いても、「そうだろうなぁ」と思っただけだ。日本のサッカーは歴史が浅いから、世界一に負けても不思議はない。口惜しがる妻には、「クロアチアが柔道の世界選手権で日本に負けたようなものさ」などとホザイた。
 
『朝日新聞』の夕刊1面に、中田英寿選手が緑のグラウンドで両膝を立て、仰向けになり、黄色い布で顔を覆っている写真が大きく載っている。足元には白く光るペットボトルがポツンと立っている。写真説明に曰く--「中田英は試合後、放心したように10分近い間、ピッチの中央で寝ころんだ。目が真っ赤に充血していた。試合で泣いたのは初めてだろう。『疲れていただけです』とだけ答えた。次のW杯について聞かれても無言だった」。10分も我を忘れて倒れ込む……というのは、やはり相当な衝撃だったのだろう。

 同紙によると、今朝の試合中継(NHK)の視聴率は、関東地区で午前4時45分から3分間が34.4%に達したという。ちょうど、前半のロスタイムに日本がブラジルに1-1と追いつかれた頃の時刻だ。それ以外の試合前半は22.8%だったという。この時間に関東地方の4人に1人が観戦していたのだから、日本のサッカーファンもだいぶ増えたのだと思う。あとは、子どもの頃からしっかり練習するプレーヤーの層が厚くなっていけばいいのだ。野球だって、そうやって大勢の人々が長時間をかけて、全体の実力を上げてきたから今、大リーガーを何人も輩出するまでになった。日本の野球は1871(明治4)年からだから、135年の歴史がある。その上に「日本人大リーガー」がある。外見だけをマネて、海外へ行けば何とかなるものでもあるまい。
 
 ジーコ監督も試合後のインタビューで「世界との差は?」と聞かれて、こう言っている--「プロ意識だ。まず、外国に行くのもいいが、自分のチームで試合に出られるようにしなければいけない。代表で初めて一所懸命やるのではなく、クラブの練習や試合ですべてを出し尽くすことだ」。
 
 サッカーは90分間走り続けるのだから、基礎体力をしっかりつけなければならない。技術も相当な練習をしなければ磨かれない。こういう場合、体力と精神力の勝負になるから“先進国”も“途上国”も関係なくなってしまうのだろう。日本も負けたが、アメリカもガーナに2-1で敗れた。悲観することはない。また、次の試合に向けて練習を積めばいいのである。
 
谷口 雅宣

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2005年4月19日

野球の多民族化

昨日は、野球が進歩しているか否かを“四割打者”の出現との関係で書いたが、その時、密かに書かなかったことがある。それは、イチローの大リーグでの活躍は、彼が日本人であるがゆえかもしれない、と考えていたことだ。もう少し分かりやすく言うと、日本の野球はアメリカの野球と相当違うと言われているから、イチローはその「違い」を有利に活用して大リーグを“手玉”にとっているのかもしれない--そんな憶測を否定できないでいた。

ところが、大リーグのことを「アメリカの野球」などと単純化して考えていたのが間違いであることが分かった。それは、大リーガーの三分の一は、アメリカ人ならぬ外国人が占めることを知ったからだ。4月19日付の『朝日新聞』によると、大リーグ機構がまとめた今シーズンの開幕時の選手出身地の集計では、登録選手829人中の29.2%に当る242人はアメリカ国外の出身者だそうだ。この“国外者比率”は、昨シーズンの27.3%を上回るという。アメリカ外出身者の最多はドミニカ共和国の91人、2番目はベネズエラの46人、3番目に多いのはプエルトリコの34人、以下、メキシコ(18人)、カナダ(15人)、日本(12人)、パナマ(6人)、韓国(5人)、コロンビア(2人)、オーストラリア(2人)……と続く。大きな傾向は、中南米出身者が増える一方で、黒人選手が減っているという。

こういう数字を考慮に入れると、イチローの活躍は「アメリカ野球に対する日本野球の進出」などではないことが分かる。“アメリカ野球”そのものが多国籍化、多民族化している。多様な民族的特徴をもった選手が大リーグに参加する中で、打率四割を記録する選手が出てきているのだ。これはもう「日本野球」などと大雑把に表現するのは間違いだ。それは“イチロー野球”であり“松井野球”であるのだろう。グールド博士が言うように、それは spread of excellence (優秀さの拡大)が起こっているのであり、やはり「野球は進歩している」と言わねばならない。こういう多様化の中での優秀さの拡大が、アメリカ社会の強みであるのだろう。

ところで、ひと昔前のことだが、ある日本の政治家が「日本社会がいろいろな意味で外国よりも有利なのは、日本が単一民族からなる社会だからだ」という意味の発言をして物議をかもしたことがある。グールド流の発想とは、いかに違う考え方か、と改めて驚かされる。

谷口 雅宣
 

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2005年4月18日

大リーグは衰退中?!

 大リーグは衰退に向かっているのか!? 4月17日のホワイトソックス戦でのイチローの活躍を知って、私はこんな感想をもった。

 かつて本欄の前身である『小閑雑感 Part 3』で、アメリカの進化生物学者、スティーブン・J・グールド博士の死を悼んで書いたとき(2002年5月22日)、同博士の著書『フルハウス』(早川書房刊)に出てくる大リーグの打率の“進歩”の考え方を紹介した。それによると、米野球界では1941年にテッド・ウィリアムズがシーズン中、最高打率「0.406」を記録して以来、いわゆる“四割打者”は出ていないが、これは野球の進歩であって退歩ではない--こういう考え方である。理由は明快である。高打率の打者が出るというのは、守備側の投手や野手の努力にもかかわらず、一人の打者がそれを上回って打ち続けるということだから、野球全体のレベルが上がっていない証拠と考えられるからだ。逆に、ある打者の“一人勝ち”ができにくくなることは、投手も野手も実力を伸ばしていることを示し、それこそ野球の進歩と言える、というわけだ。

 ところが今シーズンのイチローは、四割の打率を今のところキープしている。それどころか、17日のホワイトソックス戦では、1回の先頭打者で0-1からいきなり本塁打を放ち、7回には中前安打した。1試合で3打数2安打1打点、しかも5回と7回には盗塁も決めている。イチローを好きか嫌いかの問題は別にして、1選手の“やりたい放題”でプロの試合が進むというのは、野球全体としてはやはり問題があるだろう。が、まだシーズンは始まったばかりだ。私はイチローのファンの一人だが、グールド博士のファンでもある。後者のファンとしては、イチローが今後、今までの好調子を維持しつづけることは難しいと考えるのだが、前者のファンとしてはぜひ、進化生物学者の鼻を明かしてほしいとも考える。

 もちろんグールド博士も、今後決して四割打者は現れないと言っているのではない。著書から引用しよう:

 「私は、これから誰も再び0.400を打つことはないと言っているのではない。ただ、そのような記録は極端に稀な--野球史の初期に結構見られたようなものではなく、多分、100年に1回来る洪水のようなものとなると言っているのだ。テッド・ウィリアムズ以来、50年も記録が涸れているという事実は、このことを示している。(中略)しかし、いつか誰かが、きっとまた0.400を打つだろう。そして、その時の記録は、以前のどの時代よりはるかに困難なものだから、それに相応しくはるかに名誉あるものなのだ。」(Steven Jay Gould, Full House: The Spread of Excellence from Plato to Darwin, p.132)

 うん、これを読むと安心する。テッド・ウィリアムズ以来すでに63年たっているのだから、四割打者出現の確率は年々高まっているのだ。それが今期のイチローでなかったとしても、来年のイチローであるかもしれないし、また、別の誰かかもしれない。記録の再来が遅れれば遅れるほど、野球の進歩が証明されるというわけだ。読者は今期、野球とイチローのどちらに期待するだろうか?

谷口 雅宣

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