2009年11月 4日

キンドルを使う (2)

 10月23日の本欄で、この電子ブック端末の外観と基本的機能について少し書いた。それから約2週間がたったが、私に分かったことは次の3つである:
 
 ①英文を男女の声で読み上げる。
 ②個人用ファイルを保存できる。
 ③購入した電子ブックのコピーが提供される。
 
 この英文の「読み上げ」の機能には驚かされた。画面に表示されている文章を、結構まともな英語で読み上げてくれる。しかも、男性と女性の2種類の声を選ぶことができ、読み上げる速度も3段階ある。何のためにこれがあるのか定かでないが、想像するところ、自動車の運転中とか、目が疲れた時などに利用できるし、目が不自由な人の役に立つかもしれない。キンドルにはイヤフォン・ジャックもついているから、パソコンにつなげば音声ファイルの作成も可能だろう。ただし“完璧な英語”とは言えないから、発音練習には不向きかもしれない。また、アマゾンが提供する電子ブックや雑誌記事には音声による読み上げができるものと、そうでないものがある点、注意が必要だろう。
 
 次に、ここで言う「個人用ファイル」とは、個人がワープロや画像編集ソフトで作ったファイルのことである。だから、自分で書いた文書やインターネット上の情報、お絵描きソフトで作った画像、デジカメの写真などもキンドルの中に収納できる。ただし白黒画面だから、カラー画像はモノクロ表示になる。使えるファイル形式は、ワードの文書ファイル(DOC, DOCX)のほか、 PDF、 HTML、 TXT、 RTF、 JPEG、 GIF、 PNG、 BMP、 PRC、MOBI、などである。ただし、これらの個人用ファイルはキンドルに直接転送できない。使うときには、電子メールに添付して自分のキンドル用のアドレスに送ると、アマゾン側でファイル変換を行ったものを無線で送り返してくる。これには多少、時間の経過を要する。が、数ページ分のワード文書なら、数分でキンドルに収められる。
 
 最後に書いた「電子ブックのコピー」とは、キンドルで注文した電子ブックや電子記事のコピーが、自分のアマゾンのアカウントに残るということだ。 これがなぜ必要かというと、キンドルでは電子ブックを簡単に削除できるからだ。これは便利な機能だが、操作が簡単なため誤って削除する場合も出てくる。すると、通常の方法では(例えば、ウィンドウズ付属の「ごみ箱」機能のような)現状回復は不可能なのだ。これでは安心して使えないから、コピーをアマゾン側で取っておいてくれる。私も実際、買ったばかりの電子ブックを誤って1冊まるごと削ってしまったことがある。しかし、アマゾンが設けた自分のキンドル用のウェブページにアクセスすれば、そこにコピーがあるのでダウンロードして現状回復できた。これはうれしい機能である。
 
 このようにして、キンドルは電子ブックの購入と読書のための端末としては必要な機能をもっているが、なにせ日本語のファイルを表示しない点が、現在ではボトルネックだ。が、アマゾンでは近々世界各国の言語に対応すると言っているので、そうなれば音楽CDの販売減と似たような現象が、出版業界にも起こる可能性は充分あると言えるだろう。

 谷口 雅宣

| | コメント (0)

2009年10月27日

本欄が書籍に (9)

Part14_m  本欄の4ヵ月分を集めた単行本『小閑雑感 Part14』(=写真)が、11月1日付で世界聖典普及協会から発売された。カバーしている期間は昨年の7月から10月で、296ページある。前巻の『Part 13』が268ページだから、28ページ多い。写真やスケッチ画などの“色もの”も28点入っている。今回の巻の特徴は、宗教・哲学に関係する文章が多いことで、全部で50篇ある。その中にあるイスラームに関する9篇の文章は、すでに『衝撃から理解へ--イスラームとの接点をさぐる』(2008年)という単行本に吸収されているが、残りはこの本が書籍としては最初だ。未収録のものは、互いに内容が関連しているものが多いから、いずれ加筆修正等をして1冊の本にまとめられればいいと思っている。

 私は最近の本欄で、グーグルのブック検索やアマゾンの電子ブック端末「キンドル」について書きながら、発祥以来、文書伝道を“軸”として運動を展開してきた生長の家であっても、今後はそれだけでは足りず、「雑誌」や「書籍」という形態とは異なる文書--インターネット上の電子情報を駆使した運動を開発する必要性を強く感じてきた。幸いにも、「インターネット講師」の制度が発足し、来年4月からの新しい普及誌と連動した新サイト「PostingJoy」も動き出しているが、やるべきことはまだ多く残っている。

 運動の仕方においても、ひと昔前には月刊誌を「百部一括」したり「千部一括」することが称揚されていたのとは打って変わって、森林伐採を抑えるため、新しい普及誌では、相手を吟味した「手渡し」や「郵送」が主体になる。その際、かつて「百部一括」や「千部一括」によって生れていた普及誌読者や信徒を、全く失ってしまうのではいけないのである。雑誌や本とは異なった媒体で、また異なる場所で、できるだけ多くの人々が真理と接するための工夫や努力は、今後ますます必要になるのである。そういう“新分野”の1つが、インターネット上の電子空間であることは明白だろう。
 
 この本の最後には、10月31日の日付で「本は電子化する」という題の文章が収められていて、私がそういう方向性を当時から考えていたことが分かる。

 谷口 雅宣

| | コメント (0)

2009年10月23日

キンドルを使う

 10月9日の本欄で、米ネット通販最大手のアマゾン・ドット・コムの電子ブック端末「キンドル」が、日本でも(英語のみで)使えるようになることを書いた。その際、私が注文した同製品が昨日届いたので、さっそく使い始めた。
 
 まず外観からいうと、縦20㎝、横13㎝、厚さ9㎜のサイズは、私の想像より小さかった。送られてきた包みは、アマゾンが使ういつもの濃い茶色の段ボールケースだった。それを見てキンドルに違いないとは思ったが、あまりに小さくて軽量だったので、ひょっとしたら別物かと思った。例えば、「注文が多いので発送が遅れる」などと書いた手紙を添えて、簡単な景品を入れてあるだけのものかもしれい……などという思いが一瞬、頭をよぎった。が、中身はキンドルそのものだった。新聞発表の数字では、重さは「約290g」ということになっているが、実際に測ってみると「275g」である。この軽さが、まず気に入った。これなら気軽に持ち運べる。
 
 しかし、画面の大きさが予想より小さかった。正確にいうと「90mm×122mm」だ。このサイズは、文庫本1ページ分の版面と大体同じである。ここに表示される英文はKindle_disp標準で「47文字×20行」だが、文字の大きさは6段階に変えられるから、自分の視力に合った文字の 大きさを設定すればいい。私の場合、標準の設定でまだ大丈夫のようだ。画面は見やすい。艶消しの灰白色の地に黒い文字で明確に表示される。パソコンのように画面の向こう側からバックライトで照らされる方式ではなく、紙に印刷してあるのに近い見え方である。私がよく読む『ヘラルド朝日』の紙面と、キンドル上に表示された『Foreign Affairs』の記事を比べた写真を、ここに掲げる。
 
 さて、問題は文字の入力である。キンドルには、縦長の表示画面の下に超小型のキーボードがついている。これは、携帯端末のブラックベリーに付属したキーボードに似ていて、左右の親指の先でキーを押す。慣れるまでには少し練習が必要だろう。読書用端末機になぜ文字の入力が必要かと、不思議に思う人がいるかもしれない。が、キンドルには通信機能が内蔵されていて、インターネットが使える。これによってアマゾンのサイトに接続し、ほしい書籍等を探し、その場でダウンロードできるのである。このために、キーワード等を打ち込む必要があり、キーボードが役に立つ。また、機能を限定されたウェブブラウザーもついているから、キーボードからサイトのURLを入力し、携帯電話で見るようにサイトを見ることもできる。恐らく、サイトからの書き込みもできるだろうが、まだそこまでやっていない。
 
 アマゾンのサイトから本のサンプルと雑誌をダウンロードした。どちらも、ものの数秒でキンドルの中に収まる。それをワイヤレスで無言で行うので、不思議な印象だ。どこからともなく文書が湧き出てくる感じだ。画面に表題が出て、それにカーソルを合わせてクリックすると、本は表紙から、雑誌は最初のページから表示される。キンドルの表面の両脇に「NEXT PAGE」(次頁)と「PREV PAGE」(前頁)のボタンがついているから、それを押してページを前後にめくる。読書を途中でやめるときは、そのページに「BOOK MARK」(栞)をつければ、次回に読む時はそこから表示される。本や雑誌の記事をキーワードで検索したり、不明の言葉を辞書で調べることも簡単にできる。このために『The New Oxford American Dictionary』(オックスフォード米語辞典)が最初から同梱されていた。このほか同梱されていたのは『Kindle User's Guide, 1st Ed.』(キンドル・ユーザーガイド第1版)である。

 書き忘れていたが、電源は充電池から供給される。これに充電するためには、通常の電灯線、あるいはパソコンのUSB端子から採る。そのためのケーブルがもちろん付属している。充電時間は、未使用の新品の場合は「3時間」と説明書にはあったが、私の場合は2時間ちょっとでフル充電された。ゆっくり使いながら、使い心地や変わった使い方などについて、今後も本欄で紹介していくつもりである。
 
 谷口 雅宣

| | コメント (3)

2009年10月12日

グーグルのブック検索 (2)

 グーグル自身は、著作(権)者のこういう心配を意識していて、そうならない方法をいろいろ工夫しているようではある。例えば、現在の日本語のグーグル「ブック検索」では、スキャンした本の全部ではなく、一部が表示される。また、著作(権)者が同意しない本については、検索してもまったく表示されないか、あるいは表示される箇所がきわめて限定的だ。そして、検索ページには、次のような説明文も出る--
 
「図書館プロジェクトでブック検索に登録された書籍の場合は、著作権の状況によって閲覧できる範囲が決められています。Google では、著作権法および著者の多大な努力を尊重しています。著作権が失効しており、著作権保護の対象とならない場合は、書籍全体をブラウズしたり、ダウンロードして読んだりすることができます。著作権で保護されており、出版社または著者がパートナー プログラムに参加していない場合は、図書カード カタログのように、書籍の基本情報と、場合によっては書籍の抜粋、つまり検索キーワードの前後の文章が表示されます。」

 それは確かにその通りなのだが、これは前回の本欄で触れたアメリカでの“和解”が成立する前の、旧バージョンでのサービスのことだ。今後、日本も含めて世界的に実施される新バージョンの「ブック検索」では、1冊の本の全文検索が基本となるだろう。この場合、著作(権)者は、グーグルの新サービスに「登録しない」ことも選べる。が、現在のようにインターネット検索サービスがグーグルによって寡占状態にある場合、そこに登録しないことは、著作物や著作者が世界的に認知されないことになる。だから、著作(権)者は、自分の著作物が事実上、世界的に葬り去られるか、それともグーグルを信頼して全内容の同一性や権利保全の完全性を任せるか、の二者択一を迫られることになるのではないか。
 
 こういうサービスが、国際機関のような公的な機関がやるのであれば、それはむしろ望ましいことだ。が、ご存じのように、グーグルはアメリカの一私企業であり、現に自ら手掛けた検索サービスから莫大な広告収入を得ている。そして、広告の値段は、検索の結果、パソコンの画面に表示される該当書籍の順位と関連させて決まるのである。そういう私企業1社に、全世界の書籍の全文検索と表示順位の決定を任せてしまうリスクは、相当大きいと思う。ここのところが、私にとって最もひっかかる点だ。
 
 グーグルの共同設立者の1人であるセルゲイ・ブリン氏(Sergey Brin)は、10~11日付の『ヘラルド朝日』紙に論説を寄せて、同社のブック検索の目的について述べている。それによると、このサービスの最大の目的は、図書館や古本屋の本棚に埋もれてしまっている絶版本などの古い書籍を、全世界の読書人の前に提供するとともに、それらの書籍の権利者に対して相応の対価を支払うことだという。私は、この目的については異議を差し挟まない。私の心配は、上にも書いたように、この業界で事実上、独占的力をもつ一私企業が、世界中の全書籍の内容を入手し、それを全世界に提供する際に、公平中立の立場からできるとは考えられないという点である。
 
 ブリン氏は、グーグルがこの分野で成功すれば、他社が市場に参入して競争が行われること、また、著作(権)者はグーグルへの書籍の登録をいつでも取り消すことができることなどを挙げて、自らの目的の正当性を訴えている。が、これらの主張は、本質的には「競争によって市場が選択するものが残る」という自由競争の論理であり、公平性への疑問に対する反論になっていない。インターネット検索の市場がグーグルにきわめて有利な方向に“歪んでいる”現状にあっては、公平性を保証するための説得力ある方策を提示してほしい。

 谷口 雅宣

| | コメント (2)

2009年10月11日

グーグルのブック検索

 インターネット検索最大手のグーグル社(Google)は、その莫大な資金力と斬新な発想を後ろ盾にして次々と“常識”や“前例”を書き換えているが、その業務の中で私が気になっているものがある。それは「グーグル・ブック検索」(Google Books Search)というサービスだ。これは、書籍をスキャンして内容を電子情報化し、それをパソコンレベルで検索/閲覧可能にしようというものである。その規模は“世界的”である。つまり、これまで全世界で出版されたすべての本を対象としてるように見える。「見える」と書いたのは、グーグル自身はそれをハッキリ言わないからだ。が、グーグル・アースやグーグル・ストリートビューなど、これまで彼らが開発してきた新サービスを見ていると、やりだしたことは全世界で徹底してやる会社だから、きっとそれが目標だと思う。
 
 このサービスが実現すれば、昔の絶版本や再販未定本がいつでも手軽に読めるから、利用者にとっては、大変便利になる。が、本の著作者にとってはショッキングな計画だ。私のようなもの書きにとって不安なのは、彼らが著作者や著作権をあまり重視しないように思える点だ。

 言うまでもなく、本には著作権がある。これは、1冊の本を書くのに費やされた著作者の労力や工夫、金銭的負担、学芸的価値などを認め、それを保護するためのものだ。これが保護されず、ある本の一部が、著作者に無断で別の本の一部を構成していたり、小説の主人公の名前が違うだけで、その他の登場人物やプロット、文章表現などのすべてが別の小説と同一であったりしたら、これは著作物の“盗作”であり、盗作者は、著作者よりはるかに楽に、また安価に“著作物”(と言うべきかどうか疑わしいもの)が書ける。盗作者は努力をせずに、著作者の創意や工夫を自分のものとすることができ、本来ならば著作者に行くべき本の印税も、盗作者に行くことになる。これでは、努力して著作物をつくることがバカらしくなるから、優れた著作物をつくろうとする人はいなくなり、つまらないモノマネや、インチキ研究ばかりが社会に氾濫する。文化や学問は衰退するばかりだ。
 
 だから、米国出版社協会(AAP)と米国著作者協会(AG)は2005年、「著作権で保護されている書籍をスキャンしてデータベース化する行為は著作権侵害に当たる」として集団訴訟を起こした。そして昨年、①アメリカにおいて著作権が保護されている書籍、②著作権が失効している書籍、③著作権は保護されているが絶版となり、著作権保有者が見つからない書籍、の3分類に入る書籍を対象に、グーグルの業務を容認する代りに、売り上げを分配するという和解条件(PDF)で合意した。ただし、裁判所でのこの和解内容の審理はまだ終っていない。この和解は、アメリカ国内だけのように見えるが、国外の本も事実上の対象となる。なぜなら、日本やヨーロッパで出版された書籍も、アメリカの図書館などに大量に所蔵されていて、万国著作権条約によって上記3分類のいずれかに含まれると考えられるからだ。

 著作物の盗作の問題は、もちろんグーグル発足以前からある。が、電子情報時代の盗作は、個人のパソコンを使って簡単にできる。昔のように本を見ながら一文字一文字を書き写す必要はなく、数回のキー操作によって何十ページもの複製が数秒でできる場合もある。だから、そういう方法で新聞記事や文学作品が書かれた著作権法違反事件が、日本でも近年増えつつある。グーグルのブック検索が、そういう方向に世界を牽引していかないかどうか、が私の心配である。
 
 谷口 雅宣

| | コメント (1)

2009年6月23日

ツイッターは“諸刃の剣”?

 5月23日の本欄で「ツイッター」という短文専用のミニブログの大盛況ぶりを紹介したが、イランの大統領選挙をめぐる混乱の中で、治安当局によってテレビや通常のウェブサイト等の情報手段を奪われた“改革派”の市民が、ツイッターやユーチューブなどを使って“西側”の支援を受けながら抗議活動を展開していることが伝えられている。これに対しイラン当局は、BBCやタイム誌などの外国のメディアを締め出す一方で、革命防衛隊傘下の民兵組織を使って“改革派”の抗議を鎮圧していると言われる。しかし、“改革派”は、その弾圧の様子を映像と音声で記録してツイッターやユーチューブに登録することで、かつては一流メディアにしかできなかったような生々しい現場報道を全世界に流している。インターネットの驚異的な底力を示していると思う。
 
 上記したサービスに加入している読者はすでにご存じかもしれないが、「Iran」「Iran election」などのキーワードを入れて検索すると、そういう映像や写真、関連記事を簡単に見ることができる。これらの中には、一流メディアが自己規制によって流さないような残酷なシーンも含まれているから、注意してほしい。
 
 私は「インターネットの驚異的な底力」と書いたが、この“底力”とは技術力のことだから、政治的対立の中で使われる場合は、当事者双方に利用されるものだ。ところが、今回のイランの内政混乱では、“改革派”のネット利用ばかりにメディアの注目が集まっている。そして、彼らの動きが、かつての「ベルリンの壁崩壊」や「イラン革命」をもたらした“草の根”運動に比較されていることに、私はどこか危うさを感じる。“市民”が使える技術は“反市民”も使えることを忘れてはいけない。その使用を当局が禁止しないということは、使用させることによって得られるメリットを失いたくないからかもしれないのだ。
 
 そういうことをエウゲニー・モロゾフ氏(Evgeny Morozov)が22日付の『ヘラルド朝日』紙の論説欄に書いているのを読んで、私は「なるほどそうだ……」と思った。その記事は「ツイッターは諸刃の剣」という題で、今回のイランの“改革派”の抗議活動にツイッターが使われていること関して、次のように指摘する--
 
「抗議活動を組織することは、それを宣伝することとは相当異なる。前者には厳格な秘密が要求されるが、後者はその全く逆を目指している。ツイッター上でデモ活動の支援について語ることは、政府やその支援者から不必要に注目されることになるだけだ」

「ツイッター上に彼ら(保守派)の声がないということは、彼らが自分の支持者を組織するために同じ道具に頼っていないということではない。彼らは彼らの場所でペルシャ語でやっていて、我々はそれがどこかを知らないだけかもしれないのだ」

 このように、インターネットの“底力”は今や一国の政治状況に影響を与えるほどになっている。それは“諸刃の剣”だから、マイナスの影響があることも考慮しなくてはいけないが、プラスの影響を考えたとき、宗教運動への有効な利用をもっと積極的に検討する時期に来ていると思う。
 
 谷口 雅宣

| | コメント (1)

2009年5月23日

“ミニブログ”が燃えている

「ミニブログ」というのは私がつけた仮名である。本名は「ツイッター」といい、鳥がさえずることを意味する英語「twitter」から来ている。1行から2行の短い言葉を登録し、利用者間で共有するサービスだ。これが今、ネット上で大評判になっている。パソコン、携帯電話、スマートフォンのいずれからも無料で使える。何に使うかは、利用者の想像力しだいという点もおもしろい。

Twitter_logo  中をのぞいてみると、有名人が多いのに驚く。もちろんネット上でのことだから、本人が書いているのか、それともファンが運営しているのか、あるいは全くの偽名なのかは分からない。しかし、アメリカの政治家ではオバマ大統領、ジョン・マケイン氏、アル・ゴア氏はもちろん、カリフォルニア州のシュワルツネッガー知事、テレビタレントのオプラ・ウィンフレイ、自転車選手のランス・アームストロング、大手テレビ局のニュースキャスター、メディアでは『ニューヨークタイムズ』や『BBC』『CNN』『NBC』『タイム』『ライフ』……こういう人々や団体が「つぶやき」(ツイッター自身はそう訳している)をネット上に漏らすことで、何かを実現しようとしているのが分かる。

 最も分かりやすい用途は、『ニューヨークタイムズ』などのメディアの使い方だ。『タイムズ』は、自分のサイトに掲げた記事や映像の“見出し”をツイッターに流している。だから、『タイムズ』の記事に興味がある人は、ツイッター上の同社のページへ行って「フォローする」というボタンをクリックすれば、それ以降、自分のページに“見出し”の配信を受けることができる。そして、興味のある“見出し”をクリックすれば、リンクを通じて記事や映像が見れる。これまでのネット上の新聞の読み方は、①新聞のサイトへ行って、②記事のタイトルを見渡してから、③興味あるものを読む、という3段階の作業が必要だった。しかし、ツイッターによる配信では、①ツイッターへ行く、②興味ある見出しをクリックする、という2段階ですむ。しかも、1紙だけでなく、複数の紙・誌の見出しから選べるのは便利である。
 
 これに比べて、個々の“有名人”のサイトの使い方は、いろいろだ。シュワルツネッガー知事(フォロワー18万2千人)は自分の動静を毎日のように書き込み、ときどき写真も掲示している。これに対して、購読者(フォロワー)の書き込みが多く、それへの同知事の返事も載っている。オプラ(同114万人)の場合は、自分の番組やサイトへの案内や近況報告が多い。かつてABCニュースのキャスターで取材中にイラクで負傷したボブ・ウッドラフ氏(同2千9百人)は、現在自分の財団の活動のために、ツイッターを使っているようだ。彼の財団は、イラクやアフガニスタンから帰還したアメリカ兵への支援活動を行っている。

 宗教運動への利用もいろいろなものが考えられるが、『タイム』誌が6月1日号で取り上げているアメリカの教会の例は、参考になるだろう。それによると、ミシガン州ジャクソン市にあるウエストウインズ・コミュニティー教会では、メンバーを一堂に集めてツイッターの使い方を手ほどきした後、「140字以内で神や信仰について語る」ための時間をもった。チャペルに設置された大型映像装置には、コンピューターの画面が拡大して映し出され、そこへ携帯電話やPCからメンバーがツイッターに書き込んだ言葉が、リアルタイムで表示される。時には冗談が書き込まれることもあるが、「私には、すべてのものの中に神を見出すことは難しい」とか「私が神を求めれば求めるほど、神は私に人のためになることを求める」とか「心の癒しというものは、時につらいこともある」など、真剣な言葉もあったという。教会での礼拝中にこのようにして“つぶやく”ことには、もちろん反対論もある。が、新しい心の通い合いが生まれ、また深まることで、メンバー同士の一体感、神への信仰が深まる--というのが、賛成論者の言い分らしい。
 
 ネット上では、相互に面識のない者同士の新たな関係が世界中で毎日生まれ続けている。多くの人々が心の支えを失っている時代には、このようなネットの特性を生かして、神への信仰をひろめることは宗教者の義務だとの考えが、賛成論者を突き動かしているようだ。

 谷口 雅宣

| | コメント (1)

2009年5月22日

手書きと手描き

 最近、手書きと手描きの味に目覚めている。「手書き」とは、文章を紙にペンで書くことであり、「手描き」とは、絵をPC上に手で描くことである。前者は、ワープロやパソコンが登場する前には誰でもやっていたことだから、説明はいらないだろう。後者は、パソコンの周辺機器の1つである「ペン・タブレット」に類する小道具を使う代りに、紙や絵筆や絵の具を使わないでPC上に直接絵を描くことである。
 
 文章を紙にペンで書くことは、パソコンを使う従来の書き方より、概してよほど時間がかかる。が、私が記者時代は、それしか方法がなかったから、粗雑なワラ半紙でできた桝目の大きい原稿用紙に、ボールペンでバンバン書いた。その場合、締め切り時間に追われて書くのがほとんどだから、記者は“速書き”の工夫をする。私が学んだ書き方は、ボールペンを持った手を宙に浮かせて書く方法だ。普通は、効き手の小指の脇の部分を原稿用紙に接しながら書く。が、これだと、手と紙の間で摩擦が起こって書く速度が鈍くなる。そこで、当時のベテラン記者は、手を原稿用紙から離して(つまり、宙に浮かせて)書く速記法を使っていた。書道で筆を持つときのように、ペンを立てて持って書くのである。これだと、書く速度は確かに速くなるが、文字の格好は崩れてしまう。それを崩れないように書く練習をするのである。

 私の今の書き方は、そんな特殊な方法ではなく、普通の当り前の方法だ。400字または200字詰め原稿用紙に万年筆で書く。それに、従来のパソコンを使った方法も併用している。現に今、この文章はPC上で書いている。ではなぜ、紙にペンで書くようになったのかというと、事務所を移動して、万年筆と原稿用紙に対面したからだ。この辺の事情については、機関誌7月号に文章を書いたので詳しいことはそちらに譲る。が、ごく簡単に言えば、事務所の引越しの際に、父が使っていた原稿用紙の“山”と、以前誰かからもらった万年筆に対面して、その双方を捨てずに活かそうと思ったからだ。それですでに何本か原稿を書いたが、本欄に登場したものでは、「矢印探偵は行く」がそれに当たる。
 
「手描き」の方は、やや専門的になる。私が普段使っているパソコンはノート型のタブレットPCであることは、どこかに書いた。このパソコンでは、特殊なペンを使って画面に直接絵を描くことができる。そのようにして描いた絵を、私はすでに2007年10月から本欄等で発表している。(例えば、同年10月6日同月11日同月18日など)では、最近何が新しくなったかというと、これと似たようなことをオンラインでやる「手書きブログ」なるものが、登場したことだ。ここへ登録して、サイトにつながると、パソコン上ではなく、オンラインでつながったサーバー上に、直接絵を描くことになる。

 これまでの方法では、私が描いた絵はあくまでも私の“手元”のPC上に描かれる。ところが、新しいブログでは、ネット上の“先方”の機械に直接描き込むから、描いた絵を再びネットに上げる手間が大幅に省略できる。が、その反面、“先方”の機械にはネット経由で大勢の人々が描き込むから、お絵描きソフトの機能はかなり限定されている。例えば、絵の大きさは一定で、使える色の数も少なく、編集機能も最低限しかない。しかし、そういう限定された環境にあることが、かえって描き手の工夫を誘い、変わった、味のある絵を生み出すことがある--そういうことに気がつき出したのである。
 
Briosh  実は、今年4月7日の本欄に掲載した絵は、この「手書きブログ」から生まれた。また、私の英語のブログにも、そこからいくつかの絵を掲載している。まだまだ“テスト中”の範囲を出ないが、機械的なものと手作りのもの--デジタルとアナログとの不思議な組み合わせに魅力を感じている。ここに、最近の作品を掲げる。
 
 谷口 雅宣

| | コメント (0)

2009年5月 3日

第61回生長の家青年会全国大会終わる

 今日は午前10時から、東京・渋谷の明治神宮会館で「生長の家青年会全国大会」が行われた。第61回であるから、戦後の日本の歴史とともに歩んできた生長の家青年会の伝統を想い起こさせる。前日、相愛会と栄える会合同の全国幹部研鑽会が行われたその場所に、1,086人の青年が集まった。昨年の参加者(1,154人)より若干減ったが、青年会員は834人で、昨年(813人)より増加したことは大変よかった。

 私は、前日に引き続いて、午後から1時間の講話を担当したが、参加者の中には未会員の青年もいるため、生長の家の基本教義を説明しながらの講話となった。したがって、講話の最後の方で時間が足りなくなったという印象は否めない。が、参加者の皆さんが熱心に聞いてくださっているのが感じられ、ありがたかった。

 感想を若干述べれば、「日時計ニュース」というプログラムが面白かった。ネット上には同名のブログがすでにあるので、私は何をするのか訝った。が、ふたを開けてみると、各地の青年会員の活躍ぶりをビデオでレポートするもので、“手作り”のユーモアや人間味が感じられてよかった。そのままネット上に登録すれば、全国の会員が活用できるかもしれない、などと思った。体験談もバラエティーがあり、運動に参加する青年達の“幅”が感じられた。

Delphinium2  前日の本欄では、相愛会幹部が運営するブログを紹介したが、今日の大会でも、青年会員がブログを使って誌友会のフォローや日時計主義を実践していることを知った。その1つは「としまとしまりす」で、もう1つは「日時計生活富山版」である。本欄の読者からの声援をお願いする。
 
 ここ2日間は花束をいただいたので、今日は私の家の庭に咲く花のスケッチをここに掲げ、青年大会をはじめ3日間の行事を“縁の下”から支えてくださった多くの人々への感謝のしるしとします。皆さん、ありがとうございました。
 
 谷口 雅宣

| | コメント (14)

2009年5月 2日

第1回生長の家相愛会・栄える会合同全国幹部研鑽会終わる

 今日は昨日に引き続いて、初めての「生長の家相愛会・栄える会合同全国幹部研鑽会」が行われた。会場は東京・渋谷の明治神宮会館で、生長の家本部の“お膝元”である。豊かな神宮の森の中に、全国から1,811人の幹部の方々が集まって日時計主義による真象の拡大と両運動組織のさらなる飛躍を誓い合った。私は前日と同じく、午後から1時間の講話を担当した。内容もほぼ同様だったが、時間配分はうまくいったものの、時間を気にし過ぎたところがあって、各ポイント間の連絡がスムーズにつながらなかったきらいがある。講話は“生モノ”でなかなか難しい、と思った。両組織からの報告によると、参加者の内訳は相愛会が1,353人、栄える会が458人で、1年前の本欄に載せた数字と比べると、相愛会は192人、栄える会は104人も増加した計算になる。参加促進にご尽力くださった全国の皆様に心から感謝申し上げます。
 
 今回の研鑽会の特徴は、両組織の“壮年層”の活動に焦点を当てたことだろう。このため参加者も比較的若い人々が目立ち、体験発表や活動報告にも新しい展開が感じられた。その中で、私のようにブログでの活動を昨秋から開始した幹部がいることを知り、心Delphinium 強く思った。この人は、島根教区の相愛会副連合会長の持田正悦さんで、デジカメ写真と俳句を組み合わせた「写俳日記」というブログを展開中だ。今日、そのことを檀上で発表されたのに、今日付でブログがすでに更新されているのには驚いた。生長の家以外の読者からも反応があるというので、インターネットを通した伝道活動として大いに期待される。そのほかにも、いろいろ素晴らしい発表があったが、割愛させていただく。
 
 研鑽会でいただいた花束の中から、今日の空のように青が美しいデルフィニウムをスケッチした。両組織の皆さん、実行委員の皆さん、ありがとうございました。
 
 谷口 雅宣

| | コメント (3)

2009年3月19日

ブラジル全土で“ネット研修会”

 日本の生長の家では、地球温暖化抑制のための“炭素ゼロ”を目指した運動を展開していることは、多くの読者はすでに御存じのことだ。このためには、交通機関の選択を含んだ国内での人の移動や、集会の持ち方など多方面に工夫が必要であることは言うまでもない。全国59教区に置かれた教化部会館や6箇所の本部直轄練成道場では、環境経営システムの国際基準であるISO14001の認証をすでに得ているから、日常的な活動の中では、国際基準にもとづく温室効果ガス削減の努力を続けているところだ。しかし、宗教運動には人と人との密接なコミュニケーションが不可欠である。宗教は伝統的に、この人と人との直接対面による“魂の触れ合い”が核心となって発展してきたから、「人を集める」ことなくして宗教行事は考えられなかった。

 しかし、昨今の通信技術の劇的な進歩によって、「人を集める」機能の一部を通信技術が肩代わりすることが可能になっている。都道府県単位で行われる生長の家講習会では、衛星による複数会場への同時中継が行われることは、もはや珍しくない。また、全国行事においても、白鳩会の全国大会が衛星中継によって数カ所で同時開催されてきたし、昨年12月には「故生長の家総裁、谷口清超先生追善供養祭」が光回線を使ったインターネット中継によって、全国60箇所以上に配信された。そして、今年5月初めにも、生長の家白鳩会の幹部研鑽会が全国3カ所で同時中継される予定だ。
 
 これは日本国内の事情だが、生長の家の信徒数が日本を上回るブラジルでは、通信事情が日本より悪いと聞いていたので、全国に向けた行事の同時中継など当分先の話だと考えていた。ところが、ラテン・アメリカ教化総長、向芳夫・本部講師の報告によると、ブラジルではこの3月15日に、全国にある83の教化支部を会場にして、今年上半期の講師研修会をインターネット中継によって実施したというから、驚いた。研修会は午前10時に始まり、開会式からインターネットで配信したらしい。また、本部講師が担当する4つの研修と、昼食を挟んだ後の地元講師会長による研修などが行われた。向総長自身は、今年8月にサンパウロで行われる「世界平和のための生長の家国際教修会」の参加促進と「祈りの力について」と題する研修も担当したという。同総長は、この画期的取り組みについて「終了後、各教化支部からの反響も聴取しましたが、皆さん大変喜んでくれました」と報告してくださった。

 また、この“ネット研修会”に参加したサンパウロ市の地方講師によると、参加対象になったのはブラジル国内の約3千人で、この中には地方講師だけでなく、昨年の地方講師試験受験者も含まれるという。サンパウロ教区では60人の地方講師が“ネット研修会”に参加した。研修会を指導したのは、向教化総長のほか、村上真理枝・副教化総長、北原オリンピオ・本部講師、高橋信治・本部講師の4人という。効果的な研修会となったかどうか、参加者の反応が知りたいところだ。
 
 ブラジルはすでに、自動車の燃料としてバイオエタノールを使っているが、日本の20倍の広さがあるこの国で、このような形で講師研修会が行われれば、二酸化炭素の削減効果はさらに大きいに違いない。日本の“炭素ゼロ”に向けた運動にも、大いに参考になる試みである。
 
 谷口 雅宣

| | コメント (3)

2009年3月12日

電子写真立て

 今日は休日を利用して、前々から興味をもっていたデジタル・フォトフレーム(電子写真立て)というものを買いに、渋谷へ行った。私の場合、写真はもっぱらデジカメで撮り、撮った写真は暇を見てノートパソコンのハードディスクへ転送する。そして1年に1回ぐらい、CDかDVDへ焼いておく。写真をこんなふうに扱っていると、紙にプリントした形で写真を見ることがほとんどない。もちろんアルバムなど存在しないから、「あそこで写真を撮った」という記憶のあるうちはまだいいが、それも薄れてくると、写真があることも忘れてしまう。しかし、だからといって、撮りためた写真をプリントしてアルバムを作る気には、とてもなれない。そうする時間も、できたアルバムを収めるスペースもないからだ。うまく言い表せないが、具体的な「紙」として残っていないデジタル写真は、脳内の記憶として一種“抽象化”してしまうのである。そんな頼りなさを、この新製品が満たしてくれるかもしれないと思ったのである。
 
 早い話、デジタル・フォトフレームとは、キーボードがない小型のノートパソコンである。今どきのノートパソコンは、通信や動画表示、音楽演奏、スケッチブック等の諸機能を備えているが、そういうものをすべて取り除いて、単に「画像の保存」と「表示」だけに機能をしぼった薄型のパソコンだと思っていい。こんな説明で分かりにくい人には、こう言おう--写真立て全体が液晶パネルであり、そこへ何枚もの写真が自動的表示される--そんな製品だ。「何枚も」と書いたが、その数は10や20ではなく、1000や2000の規模だ。電源を入れると、自分の選んだ写真が、指定した時間間隔をおいて、次々と自動的に表示される。表示の仕方は、パソコンの画面でスライドショーを眺めるのとほとんど変わらない。それなら、写真をパソコンで見ていればいいようだが、パソコンはご存じのように機能があり過ぎるし、操作が複雑である。だから、スイッチを入れただけでポンと写真が映る--写真しか映らない--装置が考案されたのだろう。価格は、どの機種も「2万円」前後だ。
 
Dpf_pola  私が買ったのは、ポラロイド社の8インチのデジタルイメージフレーム(=写真)で、型番は「XSJ-008431B」だ。写真はJPEGフォーマットにしか対応していないが、音声(MP3)と動画(AVI)も再生するところに惹かれた。つまり、「写真立て」だけの機能ではなく、音楽や声も出るし、ムビーも見られる。それでいて1キロを切る重量だから、壁に掛けて使えるのである。日本や韓国の会社も、似たような機能と仕様の製品を出していて、当初はソニーの製品を考えていたが、人気があるためか、渋谷の大型量販店2軒で「在庫がない」と言われた。そこで店頭で見て、画面が明るい2機種の中からこれを選んだのである。もう一方の機種は、2007年のモデルからあまり変わっていないというのでやめた。

 家に帰ってから、さっそく妻と私のデジカメから写真を転送して、スライドショーを走らせた。写真の切り替えには色々なパターンが使えるから、静止画でありながら動画の雰囲気を作ることもできる。難点もいくつかあるが、まだ機能を十分に使いこなしていないせいかもしれない。いずれ、機会を見て使い勝手等を読者に報告しよう。

 谷口 雅宣

| | コメント (0)

2009年3月10日

紙を使わない出版 (2)

 昨年の1月28日の本欄で「紙を使わない出版」と題して、アメリカで発売された電子本専用機のことに触れた。あれから1年数カ月たったが、3月16日号のアメリカの時事週刊誌『TIME』は、その後の電子本の“進化”について3ページの記事を載せている。それを読むと、最も有望なのは前回触れたアマゾンの「キンドル(Kindle)」の後継機である「Kindle 2」という専用機のようだ。詳しい仕様は、このサイトで見ることができる。私は早くそれを試してみたいのだが、日本への上陸はまだ先のようだ。
 
『TIME』誌の記事によると、359ドルの初代のキンドルはアメリカで約50万台売れたといい、品切れ気味の状態がまだ続いている。後継機は、初代より画面のコントラストと表示速度が向上し、電子本の収納容量が7倍に増えたため、一般的な書籍では1500冊以上が1台に収まるとか。初代同様に汎用ブラウザーがついているからインターネットが使え、テキストを読み上げる機能が新たに加わった。これで重さは約290gだ。1回の充電で2週間使えるというから、海外旅行にも持っていけそうである。こんなものが日本に上陸したら、紙製の本の売り上げはますます落ち、中小の書店は相当打撃を受けるだろう。

 すでにご存じの読者も多いと思うが、キンドルの最大の特徴は、インターネット書店のアマゾンから直接無線で、電子本のデータが入手できる点だ。つまり、電波が通じるところならどこからでも、高速で、廉価な本がほとんど無制限(1500冊)で買える。読書家の悩みである「本の置場」など心配する必要はないし、インターネットで本を探し、即注文して読めるという時代になる。それはもうアメリカでは始まっており、日本でも1年か2年先にはそうなるのだ。こうなると、“文書伝道”の方法はまったく違ってくるのではないだろうか。
 
 もちろん、紙製の本が数年先になくなるとは思わない。しかし現在、「文庫」や「新書」の形で提供されている情報のほとんどは、電子本に移行するような気がする。なぜなら、それらは手軽に1~2回読んで廃棄される種類のものだからだ。これからの我々は、この種の本は電子情報で取っておく一方、紙の手触りや手ごたえを楽しみ、あるいは美的な満足を得たいものは紙製の本として部屋に置いておく……というような使い分けをするのではないだろうか。では、現在、普及誌や機関誌のような雑誌の形で提供している情報は、いったいどうなるのだろう? この点をよく検討し、早い時期に次代に対応できる出版体制を整えておく必要を感じるのである。
 
 谷口 雅宣

| | コメント (3)

2009年2月25日

写メールサイト

 最近、一行ほどの短い「つぶやき」のようなメッセージをウェブに掲示するサービスがあるということを知り、実験してみた。また、これと連動して写メールをアップするサイトがあることも分かった。私は、ケータイを使わないので写メールはできないが、その代り、簡単な絵をアップするのもいいと思い。やってみた。

 アメリカのサイトらしいので、すべて英語でしたが、日本語を使うこともできそうだ。興味のある人は実験してみてはいかがだろうか。

  つぶやきサイトは http://twitter.com
  写メールサイトは http://twitpic.com

  である。Mtimg090225

 本欄でかつて「秘密を書き込むサイト」の話をしたことがあるが、私は、そんな“暗い”ことではなく、日時計主義的なメッセージや写真、絵などを、どんどん世界に発信できないかと考えた。その1つの場として、こういうサイトの利用も面白いと思う。私が登録した絵をここに掲げる。

 谷口 雅宣

| | コメント (1)

2009年1月31日

ネットで祈り懺悔する

 ネット社会の発展は、宗教の世界にも影響を与えずにはおかない。生長の家でも昨年の12月、谷口清超先生の追善供養祭の模様をリアルタイムで全国にネット配信したが、そういう情報の“一方通行”だけでなく、“双方向”で、しかも心の深部に関わる情報さえ、ネットを経由させようとする試みが始まっているようだ。1月28日付の『ヘラルド・トリビューン』紙によると、先日、旧暦の正月にあたる「春節」を迎えた中国では、香港の黄大仙(Wong Tai Sin)寺院に初詣に参拝する人が数多くあるが、今年はパソコンの画面を通した“ネット参拝”ができるようにしたところ、2万人を超える人々がログインして参拝したという。この寺院は、香港で最大の道教寺院で年間に約300万人の参拝客が訪れるという。

 “ネット参拝”の試みは、院内の神殿修復のために参拝スペースが狭くなったため、その不足分を補う目的もあって昨年12月から始まったという。が、それだけでなく、伝統とネット技術をうまく組み合わせることで、現代人の参拝をより便利にすることも考えたらしい。ネット参拝のためには、参拝者はサイトにログインし、名前とメールアドレスを登録後、何を祈るかを「健康」「繁栄」「家庭調和」などのオプションから選択する。これが終ると、画面には神殿の前で線香を備える手がアニメーションで現れ、「あなたの願いを黄大仙にお祈り申し上げます」という意味の文字が出てくるという。そして、実際に祈願が行われている様子が、毎週、サイトでは放映されているらしい。
 
 このネット参拝設置により、同寺院のサイトに海外や中国本土からアクセスする人が増え、寺院への寄付金も増加しているという。ちなみに、12月のサービス開始以来、7万人以上の“ネット参拝者”がサイトを訪れたというから、この試みは今のところ成功しているといえるだろう。
 
 アメリカには、カリフォルニアを本拠地とする「ゴッドチューブ」(GodTube)という動画登録サイトがあり、ここには毎月300万人のユーザーが訪れるという。この名前は、もちろん「ユーチューブ」(YouTube)を意識したもので、サイトの構成もユーチューブとよく似ている。ただし、ここでは「自分のメッセージ」を発信するのではなく、「神のメッセージ」を動画として発信する点で違うのだろう。
 
 アメリカの時事週刊誌『TIME』の2月9日号には、“匿名告白サイト”とも“懺悔サイト”とも呼べそうなネットサービスが取り上げられている。これらは 「DailyConfession.com」(日ごとの告白)や 「GroupHug.us」(仲間と抱き合おう)などで、特定の宗教色のないものとして発足したが、人気を博したため、そのアイディアを教会が一部採用して自分たちのサイトに導入したものもあるらしい。この種のサイトの特徴は、匿名で書き込む代りに、書き込んだ内容はすべて公開されるから、世界中のネット利用者が読むことができる点だ。これは従来、教会の密室で牧師や神父にだけ“罪”を告白するのとは大いに違う。教会での告白は、聖職者が仲介となって「神」に向かって告白し、罪の赦しを乞うのだが、告白サイトでは、「一般大衆」に向かって自分の恥部をさらけ出すのだから、宗教的な意味はあまりない。それよりも、「真実を隠してきた」という自分の“罪の意識”が多少なりとも軽くなるという心理的な効果があるだろう。しかし、同記事も指摘しているが、告白は完全な匿名だから、その内容が真実であるかどうかは全く不明だ。だから、露出狂的な傾向のある人が針小棒大な告白をしたり、まったくデタラメの告白も排除できないだろう。
 
 これに対して、「PostSecret.com」(秘密の掲示)というサイトは少しヒネリを入れ、オフラインとオンラインを連動させている。ここでは、メールによる告白に加え、サイトの住所と宛名を印刷した葉書をオフラインで人々に配布して、その葉書に告白を書いて送り返してもらう方式を採る。そして、返ってきた葉書をスキャンしてサイトに掲げてある。それを見ると、絵や写真を使ったデザイン的で、多様な葉書が多く、書かれた告白の深刻さよりも、絵柄や文字の組み合わせなどの創造性が表面に出ていて面白い。
 
 これらのサイトを眺めてみると、生長の家で運営している「ウェブ版日時計日記」や「絵手紙」のサイトとの共通点が感じられるとともに、そこからさらに発展させたネット利用が考えられるような気がするのである。
 
谷口 雅宣

| | コメント (0)

2009年1月25日

生長の家ブッククラブ

 本欄の読者ならSNS(ソーシャル・ネットワーキング・サービス)のことをご存じだろう。昨年10月末に谷口清超先生へ感謝の言葉を書くためにアメリカの大手SNS「フェースブック」(Facebook)に生長の家のグループを開設したところ、日本からも多くの人々に参加していただいた。その後、この日本のグループの動きに目立ったものはないが、同時に開設した英語のグループのメンバーの間からは、新しい動きが始まっている。それは、「Seicho-No-Ie Book Club」(生長の家ブッククラブ)の発足であり、その中で『生命の實相』第1巻を使ったディスカッションが行われていることは、注目に値する。

 これは言わば“『生命の實相』輪読会”のオンライン版で、メンバーは今日現在で37人いる。人数は決して多くはないが、メンバーの住んでいる国を見ると、日本、ブラジル、コロンビア、アメリカ、カナダ、イギリス、ドイツ、スイス、となかなか多彩である。ブッククラブのリーダーは、アメリカのニューヨーク教区教化部長、ブルース・マレリー本部講師(Bruce G. Mallery)で、国際本部の国際部北米課長、メイ利子本部講師がシスオペを務めている。
 
 この種のオンライン・ディスカッションは、フェースブックなどのSNS内では国境を越えて盛んに行われているが、その場合の問題の1つは使用言語である。生長の家ブッククラブでは「英語」を使用言語に定めているため、英語の読解力がある程度のレベルに達していないと、何が議論されているかよく分からない。また、このグループは、今のところ“入会制限”を設けているので、誰でも加入できるわけではない。そこで、日本の読者のうち英語が苦手な人のために、この場を使って同クラブでのやりとりの一部を紹介しよう。
 
 『生命の實相』第1巻は、聖書の『ヨハネの黙示録』第1章12節から20節の引用によって始まる。これに関連して、いろいろな疑問が生まれる。1つは、「生長の家大神」と呼ばれる神が、聖書のこの箇所に出てくる神であるかどうか。また、そうであった場合は、その神はどんな姿形をしているかなどである。私は、このことは重要だと感じたので、昨年の11月25日から3回にわたって本欄に「生長の家大神の姿」と題して書いたのだった。ブッククラブでのディスカッションが、本欄の内容に大いに関係していたのである。
 
 その後、ディスカッションは『生命の實相』第1巻のページの順番に沿って進められ、やがて「七つの光明宣言」の解説に入った。それぞれの項目での細かい議論については省略するが、その過程でマレリー講師は、同巻の冒頭には聖書の『ヨハネの黙示録』が引用され、そこには「七つの燭台の点火者」が出てくることを指摘し、それらの燭台は「七つの信仰」を象徴していると述べた。そして、この「七」は「完成」を意味するから、「七つの信仰」とは「すべての信仰」のことだと解釈した。実際の聖書の記述は、そこまではっきりとは書いてない:
 
「そこで、あなたの見たこと、現在のこと、今後起ろうとすることを、書きとめなさい。あなたがわたしの右手に見た七つの星と、七つの金の燭台との奥義は、こうである。すなわち、七つの星は七つの教会の御使であり、七つの燭台は七つの教会である」。(『ヨハネの黙示録』第1章19~20節)
 
 ここにある「教会」を「信仰/宗教」を意味すると拡大して解釈すれば、それぞれの「信仰/宗教」に伝えられたメッセージは「一つの神」から発せられたものであるから、『黙示録』のこの箇所には「万教帰一」の考え方が示されている、と解釈できる。また、「七」が「完成」を意味することは、聖書の『創世記』において神が7日間で天地を創造したとされていることからも分かる--というのが、同講師のその時の説明だった。
 
 そこで、私は1つの疑問を提示したのだった。それは、『創世記』には、厳密には「神が7日間で天地を創造した」とは書いてないからである。書いてあるのは、神は「6日間」で天地を創造され、7日目には「休まれた」ということだ。聖書の実際の記述はこうである--
 
「神は第7日にその作業を終えられた。すなわち、そのすべての作業を終って第7日に休まれた。神はその第7日を祝福して、これを聖別された。神がこの日に、そのすべての創造のわざを終って休まれたからである」。(『創世記』第2章2~3節)

 私は、マレリー講師に「神は“7日間”ではなく“6日間”で天地創造をされたのだと思ってましたが……」と質問し、ここから、ディスカッションは思わぬ方向へ展開していくのである。
 
 谷口 雅宣

| | コメント (0)

2009年1月22日

中国のネット規制

 インターネット人口を国別で比較すると、今や中国が1位だと聞いた。しかし、この電子媒体は“自由な発言”(free speech)がその特徴である。これは善い方向にも悪い方向にも働くことは、ネットを使っている読者はすでによくご存じだろう。中国は社会主義を奉じており、政治的には共産党の独裁が国是である。このことも読者はよくご存じのとおりだ。では、政治的自由が許されていない国で、ネットにおける“自由な発言”が可能だろうか? 答えは「否」である。それならば、中国でのネット上の発言の不自由さはどの程度だろう? 
 
 本欄では2006年2月17日5月11日付で、中国国内のネット規制について書いたが、実際のところ、その様子は私にはよく分からなかった。ところが、今回のアメリカ大統領就任に際して、具体的な規制の様子が一部判明した。中国国営の新華社通信のウェッブサイトでは、オバマ氏の演説の一部が削除されていたのだ。22日の『ヘラルド・トリビューン』紙が伝えている。
 
 それによると、オバマ氏は就任演説の中で、かつてアメリカがファシズムにも共産主義にも勝利したことについて、それは単に武力によるだけでなく、強固な同盟関係と強い信念があったからだと言っている。原文を示そう--
 
 Recall that earlier generations faced down fascism and communism not just with missiles and tanks, but with sturdy alliances and enduring convictions.
(先人たちがファシズムと共産主義に対峙して勝利したのは、ミサイルや戦車によるだけではなく、断乎とした同盟関係と強固な信念にもよることを思い出してほしい)
 
 中国の公式な英字紙『China Daily』にもこの英文はほとんどそのまま載っているが、唯一「communism」(共産主義)という言葉が省かれていて、その中国語訳にも「共産主義」の文字はないという。つまり、中国国内では、アメリカは「ファシズム」には勝利していても「共産主義」にはまだ勝利していないということだ。
 
 また、昨日の本欄で引用している、「イスラーム世界」に向かってオバマ氏が考えを述べた部分は、その段落が全部削られているらしい。その理由は、中国にイスラーム教徒がいないからではなく(かなりの人数がいる)、その段落に「腐敗と謀略によって、また反対者を抑圧することで権力にしがみついている人々には、こう言おう。あなた方は歴史の誤った側にいるのだ」という文章があるからだと思われる。つまり、「反対者を抑圧する」ことは、中国政府がずっとやってきたことで、それがアメリカ新大統領によって批判されているとなると、難しい問題が出てくる可能性があるからだ。
 
 これらのことは、一体何を意味しているのだろうか? それは、中国政府が国内で流れる情報だけでなく、海外から入ってくる情報にもいちいち“検閲”を加えているということだ。また、同国政府が、米中関係に相当気を遣っていることも窺える。彗星のように登場したアメリカの若き大統領が、中国国内の“反対勢力”を支援していると受け取られた場合、その人気ゆえに、中国国内での反米感情が増幅するか、または同国内での反政府運動が盛り上がる。いずれの場合も、米中関係をむずかしくする可能性がある--そんなことをいろいろ考えながら、中国政府の当局は、海外メディアの情報にいちいち手を加えているのである。何ともご苦労なことである。
 
 谷口 雅宣

| | コメント (8)

2009年1月15日

休日のモーニングサービス

 休日を利用して、自動車運転免許証の更新をした。更新場所は、家からいちばん近い「新宿センター」という所へ行くことにした。公安委員会から来た案内葉書によると、都庁の第二本庁舎2階にあるという。5年前も確かそこで更新したはずだが、記憶が定かでない。ただ、大勢の人が列をつくっていて、手続きに時間がかかったという印象があったから、朝一番で行って午前中にすませられれば幸いと思った。受付は午前8時半から始まるというので、それなら朝食を新宿駅周辺でとり、その足で更新場所へ行くのが効率的だと考えた。同行してくれるという妻に「待ち時間は長いかもしれないよ」と警告すると、「読みたい本を持っていくから大丈夫」という答えだった。
 
 平日の朝の新宿駅は大混雑だと覚悟して行ったが、まだ7時半すぎだったので、案外楽に歩けた。妻は月2回、西口の住友ビルへ古典文学の講義を聞きにいっているので、土地勘がある。それにひきかえ私は、新宿駅の混雑が苦手で、特に迷路のような地下街は敬遠してきた。そこで、朝食場所探しを彼女に任せると、妻はすぐにコーヒーショップやレストランのある場所へ私を連れて行ってくれた。
 
Mtimg090115  喫茶店でモーニングサービスを食べるなど、何年ぶりかと思う。前回、モーニングサービスを食べた時の記憶はまったくない。ひょっとしたら記者時代以来かもしれない。何かわくわくした気持で妻の見つけた店に入り、それをメニューから注文する。出てきたのは、側面が波を打った楕円形のグラタン皿のようなものの中に、サラダとオムレツとトーストを盛り上げた“豪華版”だった。名古屋の喫茶店のモーニングサービスはスゴイと聞いているが、それほどではなくても、私には十分な量だった。

「時間がかかる」と思っていた免許証更新は、流れ作業のような手続きによってテキパキと進み、9時半すぎには終ってしまった。交付された新しい免許証にはICチップが埋め込まれていて、そこに個人データが記録されているという。その代り、免許証の表面にある「本籍地」の欄が空欄である。説明によると、本籍地の情報はICチップには記録されていても、表示されないのだという。今回は本籍地が空欄だが、次回以降の更新で「住所」も「氏名」も順次表示されなくなるとか。個人情報保護のための措置だというが、何となく奇妙な感じだ。最終的には、「普通」とか「中型」などという免許の種類と、顔写真だけが表示されるようになるらしい。

 都庁から新宿駅へもどる途中で、発売されたばかりの小型ノートパソコンのデモをやっていた。ソニーのVAIO「タイプP」という製品で、“ポケットスタイルPC”と銘打ち、「ズボンのポケットに突っ込んで持ち運べる」という触れ込みだ。私はこの類の小型パソコンを待望していたから、さっそくキーボードのテストをしてみた。ソフトなタッチで打ちやすいことは打ちやすい。が、使いなれている現有のレノボ製品のような“指応え”がなくて、頼りないといえばいえる。また、小型化しているだけあって、キーの配置がやや不自然だ。特に、頻繁に使う[Enter]キーの位置が現有のものと若干ズレているのが気になった。が、これらは慣れの問題かもしれない。気に入ったのは、重さが「640g」と軽い点。ただ、問題はその価格が「約10万円」と高いことだ。他社の動きを見てから、また考えようと思った。

谷口 雅宣

| | コメント (6)

2008年6月16日

“後ろの目”をどうする?

 だいぶ前の本欄で、私がアイポッドを使い出した話を書いた。正確に言えば、それは2006年12月27日の本欄で、「ながら族へ転向?」という題のものだ。しかし最近では、私はアイポッドをあまり使っていない。理由は、大きく分けて2つある。1つは、パソコンを換えたこと。もう1つは、やはり私は“ながら族”のライフスタイルに馴染めないからだ。

 アイポッドは、自分で使うパソコンの内容と“同期”させて使う。この意味は、パソコンの特定のフォルダー上にあるファイルと、アイポッド内のファイルとは正確に対応している必要がある、ということだ。これによって、パソコン上で加除されたファイルが自動的にアイポッド上にも反映される。私は当初、この機能は「使いやすい」と感じていた。ところが、パソコンを新しくすると、新しいパソコンに古いパソコンのファイルを全部複写しておかないと、アイポッド上のファイルが自動的に入れ替わってしまう。これは実に「使いにくい」のである。もう1つ不便なのは、妻がアイポッドをもらったので、その中に私のパソコンの音楽ファイルから選んで複写しようと考えたが、これが事実上不可能なのである。理由は、上に書いたように、PCとアイポッドは“同期”が原則だからだ。しかも、1つのアイポッドに対して同期できるのは、特定のパソコン1台きりだ。別のパソコンから好きなファイルだけ選んで複写することは、(不可能でないとしても)非常に面倒くさいのである。
 
 “ながら族”が好きになれない理由は、拙著『日時計主義とは何か?』か『太陽はいつも輝いている』を読んでくださった読者なら、簡単に想像がつくだろう。イヤフォンを両耳に挿して街を歩くことは、少なくともその時間帯は、“感覚優先”の世界を拒否することになるのだ。音楽を聴くことは“感覚優先”であることは事実だが、その代わり、聴いている音楽以外の音は耳から入りにくいから、外界で起こる出来事に対する“現実感”が大分薄らいでしまう。別の言い方をすれば、肉体のもつ五感のうち聴覚だけが別のものに向いているから、心の中で他の感覚との間で注意の奪い合いが起こるのである。そして、「考えごとをしながら街を歩いている」のと似た結果になる。つまり、「心ここに有らざる」状態だから、私の言う“感覚優先”の生き方とは全く異なるのである。空の青さ、風のさわやかさ、道端の花の美しさ、すれ違う人々の表情、新しい店飾り……などに、この状態では気がつくことができない。
 
 今日の『産経新聞』には、もっと危ない話も載っていた。それは、人間が歩行中などに普通に使っている“後ろの目”が、イヤフォンで音楽を聴いている人には使えない、という話だ。いわゆる“後ろの気配”を私たちが感じるのは、聴覚によるらしいが、イヤフォンから来る音を聴いている人には、それが感じられない。同じことは、携帯電話で話している人にも言える。意識が片耳から来る音に集中しているからだ。だから、道路を歩いていて突然、ケータイを耳に当てながら立ち止まる人がいて、私もぶつかりそうになったことがある。こういう人々は、歩道を猛スピードで走る自転車にぶつかる確率も、ぐんと増えるに違いない。さらに物騒なのは、さいたま市では、イヤフォンをして歩く女性ばかりを後ろから狙ったひったくり事件があり、今月4日に少年が逮捕されたという。さらに想像すれば、秋葉原での通り魔事件で刺された人のうち、イヤフォンで聴いていたり、ケータイを使っていた人の割合はどのくらいか、が気になる。
 
 日時計主義を標榜する私が、あまり暗い想像をしてはいけないが、“文明の利器”と言われるものも、使い方を間違えば不幸の原因になるのである。上記の通り魔事件の容疑者は、自分が“ケータイ中毒”であることを認めている。機械は「使うもの」であり、「使われるもの」ではないのである。
 
 谷口 雅宣

| | コメント (0)

2008年1月25日

“火星人”の幻影

 地球にとっては“隣国”ならぬ“隣星”である火星には、なぜか「人がいる」あるいは「生物がいる」という説が昔から途絶えることがない。21世紀の現代には、さすがにタコのような形をした「火星人」を信じる人はいないだろうが、火星の表面では今も探査車が走り回っていて、様々な映像を送ってきているのは、そういう人類の“夢”がなせる仕業でもあるだろう。ところが、その火星上の探査車が送ってきた写真の1枚に「火星人の姿」を捉えたと思われるものがあり、最近、アメリカの動画共有サイト「ユーチューブ」などに掲載されて話題になっている。
 
 私は2005年6月11日の本欄などで火星の“人面岩”について書いたが、そのポイントを簡単に言えば、「人間は自分の内にあるものを外に見る」ということだ。これは「唯心所現」の原理を言い直したものだが、特に「顔」のような形については、それに敏感に反応する神経細胞が人間の脳の中にあることが分かっているから、科学的にも立証されたと言えよう。が、今回話題になっている映像は「顔」だけでなく「全身」である。しかも、デンマークのコペンハーゲン港にある人魚像のように、脚を半ば組んだ女性のような姿をしているのだから、見る人を驚かせる。

 私が見た映像は、イギリスのテレビ局ITNが1月23日にユーチューブに登録した番組で、2日後の25日の12時15分の時点で16万7千回視聴され、3057件のコメントが書き込まれていた。すでに“人面顔”事件を経験している人々が多いから、この“人魚像”を信じているようなコメントは少なく、「ねつ造だろう」とか「影の方向がおかしい」とか「大きすぎる」とか「別の角度からの写真がない」とか「本物だったらNASAがもう発表しているはずだ」などと疑念を示すものがほとんどである。しかし、中には「米政府は宇宙人に関する情報を隠し続けている」とか「砂人間が棲んでいるとしたらスゴイ」などの毛色が変わったコメントもある。

 私が思うに、火星探査車が撮った写真の中には、この“人魚”のような映像以外にも、地球上の様々なものを連想させる形が数多くあるのではないか。NASA(米航空宇宙局)の科学者は、そんなものをいちいち発表しているヒマはないのだ。だいたい、NASAがすでに発表済みの古い写真の中にも、「ピラミッド」とか「町の広場」などの名前のついた形が堂々と存在している。今回、彼らが何も言わないのは、“人魚”の映像がそこにあることを科学的に説明する必要はもうない、と考えてのことだろう。これは航空宇宙学や惑星物理学の問題ではなく、簡単な心理学の問題だからだ。しかし、それにしても、人間は「見える」ということに如何に影響されるかを実感する写真である。そして「写真」という言葉が、今回ほど皮肉に聞こえることはない。
 

 谷口 雅宣

| | コメント (2)

2007年12月31日

2007年を振り返って (3)

 さて、最後に私的立場から今年を振り返らせていただこう。
 
 まさに「光陰矢のごとし」の印象とともに今年は終ろうとしているが、その理由の1つは、恐らく著書を多く出させていただいたからだ。発行日でいうと3月1日が『日々の祈り』、9月1日に『小閑雑感 Part 8』、11月22日は『日時計主義とは何か?』で、クリスマスには『小閑雑感 Part 9』(発行日は1月1日)がもう出ていた。講習会の往復の旅程で校正作業をすることもあった。その間、全国大会あり、国際教修会あり、宇治や長崎での大祭もあった。しかし、現在の私のスケジュールは、講習会が全国59教区で毎年行われていたときと比べれば、相当ゆったりしているはずなのである。だから、私が勝手にやることを増やしているのである。

 このブログを書くことが、その1つだろう。誰にも「書いてほしい」と言われたことがないのだから、いつやめても怒られないだろう。が、毎日のアクセス数が600~1000回になっているのを知ると、怠けるのは読者に申し訳ない、と奮起するのである。また、今年は自分用のデジカメを新規に買ったことで、動画を撮映してサイトで公開することを始めた。この動画編集にも時間がかかるが、「百聞は一見にしかず」という映像の訴求力は大きい。このおかげで、絵を描くことが疎かになった。本サイトのギャラリー「わが町--原宿・青山」に掲載したモノクロのスケッチ画は、すべてデジカメ購入以前に描いたものだ。では、それ以後は絵を描かないのかと言えばそうではなく、夏からは「絵封筒」なるものを始めてしまった。絵か動画のどちらかを捨ててしまえば楽になるのだろうが、どちらにも捨てがたい魅力がある。まだまだ「執着が多い」人生と言わねばなるまい。

 秋になって、それまで使っていたノートパソコン(IBM ThinkPad X40)の後継機、レノボの「ThinkPad X61」に乗り換えた。とは言うものの、OSをウインドーズのXPからVistaに変えたので、ソフトの移行が完全にはできず、まだ2台を使い分けている始末だ。ただ、新機種は「タブレットPC」といって、画面に直接ペンで書きこんだり、指示したりできる。この機能のおかげで、紙や絵具を使わずにパソコンだけで絵を描く手段を獲得して喜んでいる。
 
 ところで、昨年12月27日の本欄に書いたアイポッドだが、これによって私も“ながら族”の仲間入りかと恐れたが、結局そうならなかった。全く使っていないわけではなく、CDの音楽や自作の動画を入れて時々楽しんでいるが、私にはもともと「歩きながら何かをする」という習慣がないのと、そうすることで失うことが多いのに気づいたからだ。歩くことは、世界と直接に触れ合う安価で最良の方法ではないか。そのとき、失われつつある都会の自然を感じ、町並みの変化を味わい、人々を観察し、同伴者と会話することで人生が貧しくなるとは、私は思わない。電車の中でも、本を読んだり、ノートをつけることはあるが、「自分好みの音楽に浸る」というのは、どうも私の趣味ではない--そう気づいたからである。

 今年、珍しくクラッシク音楽のコンサートへ行くことができた。東京オペラシティーで行われた千住真理子さんのヴァイオリン・リサイタルで、名手が弾く名器・ストラディバリウスの響きを堪能できたことは誠にありがたかった。私は小学生の頃、ヴァイオリンを習っていたことがあるが、その時の弾き方とは大いに違う、全身を使う力あふれる演奏や、会場の隅々まで届くピアノシモの音など、CDや映画では聴けない素晴らしい生演奏は、今も記憶に残っている。そんな演奏を2時間以上んも続けたあとで、千住さんはファンの要望に応えてサイン会まで行った。一流の芸術家は、サービス精神も一流だと感銘を覚えたものである。

Sundiary2007  さて最後になるが、私も今年初めて『日時計日記』をつけた。私はいつも寝る前に、ベッドの中でこれをつけるが、その際、日記の欄の枠にあまりこだわらずに、航空券の切れ端や、映画や美術展の入場券などをベタベタ貼りつけることがある。記念になると思うからだ。だから、1年たった日記帳は、元のものより分厚くなる。来年版の『日時計日記』の場合、こんな使い方をしていると、1年後には上下巻を収納する紙製ケースに入らなくなるだろう。その場合、どうするか……などと今から考えている。写真は、開いているのが私ので、閉じているのは妻のものだ。
 
 谷口 雅宣

| | コメント (2)

2007年10月 6日

パソコンで絵を描く

 私は最近、長らく使っていたノートパソコンを“新調”して、ここ1週間ぐらい数々の移行作業を行っている。OSをWindows XP から Vista に思い切って変更してみたが、画面表示があまりにも違うので、あわてて旧式のXPのタイプに画面設定を変更して使うことにした。パソコンは毎日使う“道具”だから、とにかく慣れているものを無理に変更することはない、と私は思う。旧い機械は、キーボードのキーの文字が一部はげてきて読みにくくなっているのはいいとしても、ハードディスクが一杯になってきただけでなく、アクセスが遅くなり、実用上も不都合を感じるようになっていた。XPには、ハードディスクの“クリーンアップ”機能が付いているが、それを2~3回実行しても目立った変化はなかった。使わなくなったデータ等のファイルは、CDやDVDへ移しかえることもしているが、ご存じのように、私は最近になってビデオを撮るようになった。すると、ハードディスクがデータで埋まっていく速度がぐんと増したのである。
 
 新しい機械には、密かに期待していたことがいくつかある。その1つは、パソコンの画面をスケッチブック代りにしたいということだ。これは、ペン型の入力装置をマウスの代りに使う「タブレットPC」と呼ばれるモデルで可能だと考えていた。昨年6月15日同22日の本欄では、「ペンマウス」という付属装置を買って絵を描いたことを書いたが、これでは本物のペンのような動きができず、不自由さに閉口した。当時もタブレットPCを買おうかと考えたが、その際は旧いノートパソコンの方がまだまだよく動き、ハードディスクの残量も相当あったので買うのをやめたのだ。あれから1年が過ぎて、OSも新しくなったところで、ついにタブレットPCの購入を決意したというわけだ。
 
 タブレットPCは、普通のノートパソコンで液晶ディスプレイを開いた状態から、さらに目の前のディスプレイを裏向きに180度回転することができる。そして、回転後のディスプレイをキーボード上に覆いかぶせることができる。こうすると、ノートパソコンを閉じて液晶ディスプレイだけが見える状態になる。これの操作にはキーボードが使えないため、画面を特殊のペンで触れて操作することになる。このペンにはマウスと同等の機能があるから、“お絵描きソフト”を使い、画面上にペンを走らせれば、スケッチブックの代用になるはずだと考えた。旧PCでは、デジカメの写真や図版などをNeosoft社の「NeoPaint」というソフトを使って処理していたが、新PC上にはこのソフトをまだインストールしていない。しかし、新PCには、Windows 付属の「ペイント」という“お絵描きソフト”が入っていたので、まずはそれを使って実験的に絵を描いてみた。
 
 さほどの出来とは言えないが、ペンマウスを使ったものより自然な線が描けていると思う。機会をみて、いろいろ試してみたいと思う。
 
 谷口 雅宣

Teabottle Niigata
 

| | コメント (1)

2007年10月 4日

本欄のモードを変更しました

 本欄には最近、いやがらせのコメントが来るようになったので、不本意ながらモードを一部変更した。これまでは、私の文章に対するコメントは本欄上に即座に表示されるようになっていたが、今後は、私がそれらを読んだ上で「公開」の処置をとったもののみが表示されるように変更した。従って、私が本欄にアクセスしない時間に書き込まれたコメントは、どんな内容のコメントであっても私が読まない限り本欄に表示されないことを、読者にはご了承いただきたい。本欄を訪れる圧倒的多数の読者は悪意のない方々であるにもかかわらず、ごく少数の読者のためにこのような処置を採らざるを得ないことを、誠に残念に思う。

 ところで、この機会にコメントする際に「本名」か「ペンネーム」のいずれを使うかという問題について、私の考えを述べさせていただこう。私が、自分のウェッブサイト名に本名を使っていることからもお分かりのように、私はこれまで基本的にネット上で本名主義を貫いてきた。これは、自分の発言が講話やスピーチであろうと、雑誌であろうと、単行本であろうと、ネット上であろうと、同等に責任をもつべきと信じるからである。ネット上の発言は「匿名性」が大きな特徴であることは確かだが、それを悪用する人が相当数いることもまた確かである。本欄へコメントする人は「悪用」を考えない人がほとんどと信ずるが、それにしても、匿名であることの気安さから発言がつい無責任な方向に流れる可能性は否めない。

 だから、読者にはぜひコメントを本名でお願いしたいし、できるならば、最初のコメントの際に、お住まいの都道府県や生長の家との関係なども簡単に教えていただけると、私の方でも答えやすいのである。生長の家の組織と関係のある読者が、本名を使うことで組織上の不都合が起こることを危惧する気持も、私はわかる。その場合は、ペンネームで書き込まれることを私は拒否しないが、その際は、悪意のある書き手との区別が私には難しくなるため、答えるべきか否かの判断に慎重になることをご理解願いたい。このような不都合を避けるためには、書き込みの際に私宛にメールを送っていただき、その中に本名とペンネームを書いていただくという方法もある。つまり、「私の本名は何の誰兵衛ですが、コメントは○×△□を使います」と事前に教えてもられえば、手間はとるものの双方の心配は解消されるのではないだろうか。
 
 また、本欄へのコメントに対して、私が必ず答えると思わないでほしい。読者ご自身が、コメントしたい時にコメントし、したくない時にはコメントしない自由をお持ちのように、私にも答えたいときに答え、答えたくないときには答えない自由を許していただきたい。私が答えないのは、単に忙しい場合、質問の内容が理解できない場合、すでに答えているのに理解してもらえない場合、考え方が違いすぎて意見が噛み合わない場合、答えないことで何かを言いたい場合……などいろいろある。そういう理由も、いちいち言うつもりはない。

 とにかくこの場は、できるだけ友好的に、互いを尊重し、互いに魂を高め合い、信仰と生きる喜びを語りあう場にしたいと熱願しているので、読者の皆さまにはぜひ、ご協力いただきたいのである。
 
 谷口 雅宣

| | コメント (1)

2007年5月17日

“電子取材”の可能性

 インターネットの発展は、社会にどんな変化をもたらすかよく分からないところがある。情報が入手しやすくなったことは良いことだろうが、反面、情報の洪水を整理するのが困難になりつつある。遠方に足を運ばなくては得られなかった情報が、家庭やオフィスから簡単に入手できるのは嬉しいが、逆に、遠方に行く「過程」で得られる情報が抜け落ちていても、気がつかないことがある。そんな欠落が個人の生活範囲におさまっていればまだいいが、公共の場にも広がった場合、社会全体が判断ミスを起こす原因にもなりかねない。こんな疑問とも関係した出来事が最近、南カリフォルニアとインドとの間に起こっていることを知った。
 
 インドは今、経済発展盛んなBRICs諸国の一画として注目されているが、この4国のうちインドが有利なのは「英語を話す」という点だ。コンピューター・ソフトの開発言語の多くは英語を母体としているから、インド人には比較的マスターしやすいとも聞く。だから、インターネットを経由して、アメリカなど英語圏の国のソフト開発などを行う“下請け”的仕事や、電話による受付や相談などのサービス産業が活発化し、インド経済は発展し続けていると聞く。ところが最近、南カリフォルニアのロサンゼルス郊外にあるパサデナ市の出来事を追うローカル新聞『Pasadena Now』()の記者として、インドに在住する2人のインド人が雇われ、ちょっとした話題になっている。16日の『ヘラルド・トリビューン』が伝えている。
 
 誤解がないように明確にしておくと、この2人の記者は、インドからパサデナ市に来て取材活動をするのではなく、自国にいるままで地球の裏側のカリフォルニア州の町のニュースを書くのである。そんなことが、どうやってできるのか? 記事によると、1人の記者はインド経済の中心地であるムンバイに住んでいて、そこからパサデナ市議会の様子をモニターし、記事を書くのだそうだ。議会にカメラを置き、インターネット経由で映像と音声を送れば、これは可能である。この方法が有利な点は、人件費の差だけではなく、時差を利用できるからだ。カリフォルニアの早朝は、インドでは午後の早い時間に当たるそうだ。だから、議会が深夜を過ぎて翌日まで継続した場合でも、インドでは記者はまだフレッシュな頭で記事を書いて送信できるから、カリフォルニアの読者はその日の早朝に記事が読めるというわけだ。

 これに対して、多くのジャーナリストは否定的な見解を示しているらしい。遠く異国に住む外国人が、自国のローカルな町のニュースを正確に報道できるわけがないというわけだ。日本に当てはめれば、高知県の東洋町議会での“町おこし”政策をめぐる記事を、ブラジルのサンパウロ市にいる日系人記者が書いたとしたら、そういう記事の載った新聞を東洋町民はどんな気持で読むか--そういう問題である。『Pasadena Now』紙の編集長、ジェームズ・マクファーソン氏(James Macpherson)は、地元で記者を育てる時間がないし、自分はパサデナ生まれでこの町の様子をよく知っているから、送られてきた記事を自分がチェックすれば、公平さや正確さは保てると言っているらしい。何となく言い分はわかる。

 そこで興味をもった私は『Pasadena Now』のサイトを見てみたが、そこにリンクされているパサデナ市のサイトには、市議会の様子を記録した映像ファイルがきちんと保管されているのを知った。つまり、市議会の議事はリアルタイムに放映されているだけでなく、過去のファイルも世界中の人に公開されているのである。内容は多少編集されているかもしれないが、1つのファイルの放映時間は最短で1時間、最長では5時間16分もあるから、恐らくほとんど編集が加わっていない。アメリカとは何とオープンな社会かと驚いた。
 
 政治や文化、考え方の違う外国人に自国の情報を集めてもらうのは、やはり考えものだ。しかし、補助的な取材や翻訳面では助かることも多いだろう。また、取材や情報収集の担い手を外国にまで求めなくても、自国内に適当な書き手を見つければ、その人がたとえ遠方にいても、インターネットによる“電子取材”は有効に活用できるかもしれない。情報手段としてのインターネットの可能性は、まだまだ広がると感じた。
 
谷口 雅宣

| | コメント (6)

2007年5月 8日

電脳紙芝居『青くんと緑くん』

M_aokuntpage  本欄の読者の皆さんの要望に応え、先日の生長の家の組織の全国大会で私が演じた電脳紙芝居が、生長の家のサイトで公開された。この紙芝居は、4月12日の本欄に書いた「デジタルからアナログへ」という文章に対して、白鳩会員の酒井幸江さんがつけたコメントから生れたものである。当初は、そこに書いた絵具の喩え話を「絵本にしてほしい」という要望だったが、私の方で「全国大会に間に合うかもしれない」と思い、パソコン上で画像を操作する方式を目指して急遽制作、5月1日の白鳩大会と同3日の青年大会での発表にこぎつけた。今回、ネット上に公開することで、これらの大会に参加できなかった多くの人々の目や耳に触れることになるため、制作側としては緊張している。
 
 理由は、映像や音声の質が必ずしも満足いくレベルに達していないからだ。“やっつけ仕事”と言えば大会参加者には失礼だろうが、とにかく時間に追われて作ったものだから、質は試作品の域を出ない。しかし、デジタルとアナログのそれぞれの考え方を目に見える形に表現してあるため、ブログのような文章主体の媒体では伝えきれないメッセージが、それなりに伝わるのではないかと期待している。音声は、会場での録音を数カ所編集しただけのものだから、不自然な部分もある。何しろほとんどぶっつけ本番でやったので、声色の使い分けなどうまくいっていない点は、ご容赦いただきたい。編集をしてくださった本部の出版・広報部の方々に、この場を借りて感謝します。

 この紙芝居を作るのに使ったソフトは、Neosoft というアメリカの会社が出している Neobook で、私が生長の家講習会で普段から使っているものだ。プレゼンテーション用の ソフトではマイクロソフト社のパワーポイントが有名だが、私はそれが出る前から Neobook を使っているので、このメジャーなソフトを使いそびれてしまっている。パワーポイントは、小回りがきかない大柄なソフトだと思っていたが、アル・ゴア氏の映画『不都合な真実』を見て、その多機能ぶりに感嘆した。覚える機会があったら、パワーポイントもぜひマスターしたいとも思うが、使い慣れている Neobook から“転向”する労力を考えると、それがいつになるかは自信がない。
 
 なお、生長の家本部では、この試作品の公開を機に、私以外の人たちの作品も掲載する「電脳紙芝居」のセクションをサイト上に新設した。この方面で光明化運動に貢献したい方は、どんどん挑戦していただきたい。
 
 谷口 雅宣

| | コメント (11)

2007年3月 1日

日時計主義をさらに進めて

 はや3月となった。3月1日は生長の家の立教記念日なので、今日は午前10時から東京・原宿の生長の家本部会館ホールで「立教78年生長の家春季記念日祝賀式」が挙行された。私は例年のように挨拶を行い、また褒賞者への表彰状の授与などを行った。以下は、そのときの挨拶の概略である:

 本日は、このおめでたい立教記念日を皆様とともに、健康で迎えることができましたことを、神様と皆様に心から感謝いたします。ありがとうございます。
 
 すでに多くの方がご存じのように、今日の3月1日が生長の家の立教記念日であるのは、「生長の家」という名称の月刊雑誌が昭和5(1930)年の3月1日の日付で最初に発行されたからであります。私は、この立教記念日での挨拶にはいつも、この記念すべき『生長の家』誌創刊号から引用して、皆さまにお話をすることにしているのですが、今日もそうしたいと思いまして、ここへ持ってまいりました。
 
 この創刊号の最初の文章は「生長の家の精神とその事業」という題で、ここには「自分はいま生長の火をかざして人類の前に起(た)つ。起たざるを得なくなったのである」という有名な言葉が掲げられています。これは皆さんもよくご存じで、暗唱している人もいると思います。ところで今日は、この文章ではなく、そのあとの2番目の文章をご紹介します。それには「『生長の家』の使命及び読み方」という題がついています。この題にある「生長の家」は、二重鉤括弧で囲まれていますから、第一の意味では雑誌の生長の家のことです。もちろん今日では、生長の家の運動全体のことを指すと広く解釈できるのですが、立教当時は、まだ「運動」などと呼べるような人数はおらず、谷口雅春先生と輝子先生のお2人だけで運動が始まったのですから、「生長の家という名の雑誌」のことを意味していたのです。ですから、ここで言う「生長の家の使命」とは「生長の家という雑誌の発行目的」ということになります。
 
 そういう前提で、この文章を読んでみると、なかなか示唆的で、重要なことが書かれていることに気がつきます。少し読んでみます:
 
 『生長の家』を月々発行して言葉によって此の世を清め、人生を住みよくし、世界の家庭々々を明るくし、個人々々を幸福にすることは生長の家の主要な事業の一つである。それは諸君が『心の法則』を深く研究して行かれるに従って次第に明瞭になってくるであろうように、此の世界は言葉によって支えられているからである。(原文は旧漢字、旧仮名遣い)

 このあと、雅春先生は東西の教典から「言葉の大切さ」を説いた箇所を引用されていますが、その部分は省略します。そして、続いてこう書いておられます:
 
 斯くの如く、東西の経典は筆をそろえて、言葉に生命(いのち)あり、言葉は必ず体を招き、言葉は我らに宿って肉体となることを説いているのである。古え吾々日本人が互いにみこと(みは美称、ことは言)と呼び、互いを神として敬し合ったのはこのためであった。吾らは此の点に於て古代日本に還るべきであることを提言する。吾らは何であるよりも先ず言葉(みこと)である。これは実に否定出来ない。言葉によって吾らは清くもなれば醜くもなり、幸福にもなれば不幸にもなるのである。諸君は毎朝歯ブラシで歯をみがかないであろうか。諸君は、そして歯よりも大切な心があることを自覚しないであろうか。諸君は毎朝歯をみがくのに何故心をみがかないのであるか。又諸君は心を何をもってみがくであろうか。諸君が若し朝起きると一と声『馬鹿野郎』と家族を叱咤するならばその日いちにち不愉快なことを自覚せねばならないであろう。諸君が若し、自己の人生を幸福にし、家庭を明るくし、環境を良化し、運命を改善しようと思われるならば、毎日すくなくとも二三回はそのために作られたる善き、明るき言葉に接しなければならない。それは諸君にとって食事をとるよりも尚絶対に必要なことである。諸君よ、『生長の家』を読め、心を幸福にし、肉体を健康にし、運命を良化せよ。此の目的のために雑誌『生長の家』は生れたのである。(同上、pp.10-11)
 
 このようにハッキリと、『生長の家』の発行目的が書かれています。それは、読者の「心を幸福にし、肉体を健康にし、運命を良化する」ためである--そう書かれています。このことを今日は、皆さんと共に確認したいのであります。つまり、生長の家が出版物を発行する目的は、コトバの力を駆使して、読者を幸福にし、肉体を健康にし、運命を良化させるためであるということです。『生長の家』誌創刊号には、この目的のための生活法として、先ほど紹介した文章に続いて「日時計主義」が提唱されています。このことも、立教記念日では何度もお話しているので、皆さんにとっては旧聞に属するでしょう。

 それから77年が経過しました。今日では、『生長の家』誌は、3種類の機関誌と4種類の普及誌に分化発展してきていますが、その発行目的は変わらないと思うのであります。また、逆に人々の「心を幸福にし、肉体を健康にし、運命を良化する」ためには、月刊誌以外にもあらゆる手段を使うことが、運動の発展であり、使命であるということになります。そういう意味で、創刊号で提唱された日時計主義を実践するためにこのほど、『日時計日記』という日記帳が出版されたことは、すでに皆さんもご存じと思います。このような日記帳が、これまで何十年もの間出版されなかったことは本当は不思議なのですが、昨今の手帳や日記帳ブームもあって、昨年秋に発刊され、大変好評を得ています。これまで4回刷って、3万7千部を発行しています。
 
 また、今日では、科学技術・通信技術の飛躍的な発展により、出版というものが紙を媒体にしたものから、電子信号を媒体としたものへと大きく変化しつつあります。そして、それに伴って、情報の流れが小刻みになり、双方向的になり、また情報量も飛躍的に増加しています。今日では、その溢れかえった大量の情報の中から、「正しい情報を的確に選択する」ことが課題になっています。宗教の世界でも同じことで、正しい教えが、必要とされている人に、必要とされている時と場所に、速く伝わることが重要で、そのために生長の家でもインターネット・サイトをいくつも立ち上げて、紙の媒体による出版活動と連動した電子媒体による運動も開始しています。
 
 例えば、先ほど紹介した『日時計日記』にあわせた形で、ウェッブ版の『日時計日記』が今年から始まっています。これは毎日、日記帳をつけるような感覚で、誰もがインターネット上の『日時計日記』に「よいこと」を書き込める場所です。これによって個人的な日記が、公開日記帳のような性格をもちはじめます。そして、そこに「よいこと」が書き込まれれば、それを読む人すべてに、世界中の人々に「よいこと」が伝わる--こういう新しい効果が生まれています。ふるってご参加ください。
 
 また私も今回、この立教記念日に合わせて『日々の祈り』という本を出させていただきました。『日時計日記』は紙に印刷した書籍が先に出て、それからインターネット版へと発展したのですが、この『日々の祈り』は、私がブログ上で発表した「祈りの言葉」が先に出て、その数が集まったところで書籍として出版されました。全部で49の祈りの言葉を収録していますから、ぜひ皆さまもこれを活用されて、日時計主義の生活を実践していただきたいと思うのであります。この新刊書の中から「観を転換して人生に光明を見る祈り」(同書、p.146)というのを朗読しましょう。
 
 (祈りの言葉は上記のリンクへ)
 
 この本には、このように日時計主義の実践を信仰面から支えていくための祈りの言葉が、人生の様々な場面で使えるように編纂されています。ぜひご利用していただき、個人の信仰深化はもとより、多くの人々に信仰の喜びを伝えていく運動を今後も力強く展開していただきたいと思います。このおめでたい記念日に際して、所感を述べさせていただきました。ありがとうございます。
 
 谷口 雅宣

| | コメント (0)

2007年1月 1日

年頭に当って思うこと

 平成19年、2007年という新年が明けて、私の住む東京・原宿の周辺は一変した。人々が朝早くから大勢集まり、初詣や初売りに長い列をつくる。このエネルギーは信仰の力というよりは、習俗や習慣の力を表しているのだろう。生長の家では、午前10時からJR原宿駅近くの本部会館ホールで恒例の新年祝賀式が行われ、私は大略、以下のような年頭の所感を述べた:

------------------------------------------------------
 皆さん、新年明けましておめでとうございます。
 今年も晴天のもと、皆さんとともに無事に健康で新年を迎えられたことを心から感謝いたします。本年は十二支では「亥」の年で、イノシシの年とされているので、イノシシに関する諺を2つご紹介しましょう。

 1つは、「豕(いのこ)を抱いて臭きを知らず」というもので、これは「自分の欠点や醜さは、自分ではなかなか気づかないことを言うたとえ」とされています。「豕」とは「豚」という漢字からヘンを除いた右側の文字で、この字はイノシシのこともブタのことも指すようです。ブタは臭いものだが、それを抱えている本人には臭さが分からない、ということでしょう。私は、この喩をブタだけでなく、家畜全体に適用させて考えることができると思います。人間は、太古の昔から家畜を飼って生きてきましたが、近年、その家畜の大量飼育がどんな問題を引き起こしているか、自分ではなかなか気がつかないということです。

 昨年12月17日の私のブログに書いたことですが、国連の食糧農業機関(FAO)がその月に『Livestock's Long Shadow(家畜の長い影)』という題の報告書を出しました。それによると、世界の産業の畜産部門が生み出す温室効果ガスは、運輸部門が排出する割合(全体の13.5%)を上回る「18%」に達するというのです。運輸部門の中には、航空機や船舶、そして無数の自動車から出る排気ガスなどが含まれるのですが、それよりも畜産業が排出する温室効果ガスの量が多いというのに、私は驚きました。この畜産部門が排出するガスには、餌となる穀物を育てるための化学肥料や、餌そのものの製造過程から出る分、牧養地開拓のための森林伐採で排出される分、また糞の処理過程で出る分、家畜自体が出すメタンガス、家畜とその飼料の運搬過程から出るガスなどが含まれます。

 このほか、私が講習会でも紹介している数字もその報告書には載っていました。それは、世界の農地の3分の1が家畜の飼料生産に使われているということです。食糧が足りなくて困っている人間が大勢いるのに、家畜に大量の穀物を与えているのです。ですから、諺の話にもどれば、我々人類は「豕を抱いて臭きを知らず」というよりは、「家畜を食して危うきを知らず」という状態にあると言えるでしょう。

 イノシシに関する2番目の諺は、「猪も七(しち)代目には豕(いのこ)になる」です。この諺は分かりやすいので、あまり解説する必要はないでしょう。野生のイノシシも飼いならされて七代たてば、ブタになるということです。安楽な環境下では、生物は堕落してしまうという意味に解釈できます。

 そのことに関しては、年末のテレビ番組で、解剖学者の養老猛氏が、フィリピンの島にある監獄を取材していたのを思い出します。そこは、模範囚に対しては非常に寛大な措置をとっているそうです。鉄格子や塀などはもちろんなく、普通の家で、家族を呼び寄せて一緒に暮らせるのです。そこで生活する模範囚の1人の話では、彼はマニラかどこかの都市でケンカをして、人を殺してしまった。その罪の償いのためにここにいるが、この島の自然の中で農業をしている方が、都会での一見自由な生活より幸福だというのです。便利な都会の生活よりも、不便な自然の中の生活が幸福だというのはなぜでしょうか?
 
 養老氏の解説では、現代の都会の生活は、人間の体に備わった五官を活用せず、体も使わず、エアコンの効いた部屋の中で単調な仕事を続けるのがほとんどで、そういう環境では、人間はストレスが昂じて、簡単なきっかけで暴走してしまうことがあるというのです。しかし、人間は一見不便な自然界の中に置かれると、脳だけでなく、五官をフルに活用して、自然界から必要な情報を得、また体全体を使って生存のための工夫をしなければならない。そこでは、人間は自分の感情や欲望を抑制することを学び、またそのようにして、環境と折り合いをつける生き方を習得する。と同時に、そういう努力の中に幸福があるというのです。自然とのギブアンドテイクが本来の人間の生き方であり、そこに幸福がある。
 
 例えば、オフィスの中では一定の温度と湿度、一定の照明、一定の環境が保たれていて、人間はそれで幸福のように見えるけれども、風景も一定であり、一緒に仕事する人も一定であり、仕事も一定である。この変化のない単調な環境は、本来人間がその中で生きてきた自然とは異質のものであるから、幸福感は得られない。極端な話、オフィスの中で仕事をしていれば、その日に雨が降っても、雪が降っても、それに気づかずに過ぎてしまうことがある。しかし、自然界では、日が昇り、日は動き、日は沈む。その過程に、無限の変化があり、美しさがある。雨にも雪にも、厳しさがあると同時に、それぞれの楽しさ、美しさがある。
 
 現代人は、そういう自然の無限の変化を言葉と概念に置き換えて、単純化してしまっている。これによって科学や技術が発展したことは素晴らしいが、その反面、人間と自然との直接的関係が失われている。我々も都会の便利さや、頭でっかちの考え方で生きているのでは、人間全体の“半分”の生き方しかしていないことになる。それは野生のイノシシの生き方ではなく、飼いならされたブタの生き方です。そういう意味で、今年は便利で心地のいい現代文明に飼い慣らされたブタの生き方ではなく、自然との接点を失わないイノシシの生き方を忘れずに過ごしたいと思うのであります。

 さて、話は変わりますが、新年は様々なものが新しくなる。新しくないものも新しくすることによって、さらなる発展を期するときです。例えば皆さんは、新しい日記帳を買いましたか? 私は、昨年の新年祝賀式でこんな話をしました--
 
「創始者、谷口雅春先生は“朗らかに笑って生きよ”という言葉を掲げて生長の家を始められ、私たちは今日まで“日時計主義”の生活を大いに進めてきました。また、これからもさらに進めていきたいと思うのです。なぜなら、この“日時計主義”こそ、実相独在の信仰と唯心所現の真理を体現した生活の実践だからです。つまり、現象的にはまだ“光明”が充分現れていなくても、現象の背後にある実相を信じて、それをコトバで認め、引き出すことで、地上に“光明”が現れる――そういう信仰と原理なくして、日時計主義は成立しないからです。
 私たちは今、主として雑誌や書籍などの印刷媒体を使った運動をしていますが、“明るいニュース”や“楽しい出来事”は、インターネットや衛星放送などのもっと新しい手段や媒体を通すことで、印刷媒体よりも早く、世界中に伝えることができます。昭和初期に印刷媒体を使った生長の家が、平成の時代にもっと新しい媒体を使わない理由はない。そういうことについても今後大いに工夫して、効果的な運動を進めていきたいと思います」

 昨年こう言ったことが、1年後には皆さんの絶大な応援とご協力によって実現しつつあります。ここに持ってきた『日時計日記』は大変好評で、昨年12月27現在で3万1千部出ました。これに先立ってインターネット上では「日時計ニュース.com」がスタートし、クリスマス前にはWeb版『日時計日記』も動き出しました。このような様々な道具を使い、さらに新しい方法を工夫し、今年も日時計主義の生き方をあらゆる機会に展開しながら、人類光明化運動を大いに発展させていきたい。このように年頭に当って念願するしだいです。皆さん、よろしくお願いいたします。

[当日の挨拶の音声(MP3)は、 入手できます]

谷口 雅宣

| | コメント (2) | トラックバック (0)

2006年12月31日

2006年を振り返って (2)

 地球規模の問題についてでなく、生長の家の運動や私的な方面で今年を振り返ろう。
 
 今年は、1月のブラジルでの「世界平和のための生長の家国際教修会」が最初の“山場”だった。その準備で正月から忙しく、時間ぎりぎりで何とか勤めを果たせたようだ。今回、新しい経験として、ブラジル国内の20のテレビ局で放映される番組の録画をした。日本語での収録だったから緊張は少ないと思っていたが、どうしてどうしてカメラが回っていると思うと言葉も体も固くなるものである。また、9カ国から集まった生長の家の幹部の人々と懇談会をもった際、10人の同時通訳者を動員してのやりとりは、なかなか刺激的で壮観だった。
 
 教修会では「肉食」の抱える様々な問題について検討した。これを、肉食を主体とした食事を伝統とするブラジルやアメリカの人々の前でやったのである。当初は、参加者から反発されたり、「文化の違い」で一蹴されてしまうことを危惧していたが、大半の人々の反応は肯定的だったことはありがたかった。7月4~5日には日本で、これと同じテーマで教修会を行い、世界の宗教がもつ「食物規定」の検討を通して、これまた有意義な研鑽が行われた。この中で重要な点を1つ挙げれば、それらの食物規定は、宗教の教えの“神髄”とか“本質”に当たる中心部分ではなく、時代や環境の変化に応じて定められた周縁部分に当り、したがって「変遷する」ことが明らかになったことだ。

 生長の家は、このような宗教的理由のみならず、環境保全や資源の有効利用のためからも「肉食を減らす」運動を進めているが、この種の具体的な実践の新たな取り組みとして、「生分解性プラスチックの利用」が今年から本格化した。人が多く集まる生長の家講習会等では、食器や弁当箱に何を使うかで二酸化炭素の排出量に結構な違いが出る。このため、7月9日の青森市での講習会を皮切りに、この種の“エコ食器”の利用が進められていることは特筆に値する。これはまた、参加者の環境意識を高めるだけでなく、まだ揺籃期にあるエコ関連産業を育てることにもつながるだろう。そして、従来から全国で進めているISO-14001の活動と、教団施設や信徒宅等への太陽光発電の設置、ハイブリッド車の導入も着々と進んでいる。

 少し私的なことに触れよう。今年、私の単行本は3点が出版された。本欄をまとめた『小閑雑感 Part 5』と同『Part 6』のほかに、かつて月刊『光の泉』誌に連載していた長編小説『秘境』が1冊の本として11月に上梓されたことは、私にとって特にうれしい出来事だった。私は学生時代、同人誌に属して小説家になりたいと思っていた時期もあったから、そんな淡い希望が形の上では実現したことになる。もっとも、私は2003年にすでに短篇小説集『神を演じる人々』を出している。しかし、長編が本になることの手ごたえは、やはり違う。そんな思い入れもあって、本のカバー用に自分で絵を描いてしまった。こんなことも初めてだ。

 最後に、今年は生長の家が発祥当時から推奨し、推進してきた「日時計主義」実践のための道具立てが整った年である。まず、“よいニュース”のみを集めて発信するインターネット・サイト「日時計ニュース.com」が7月31日にスタートした。それから書籍版『日時計日記』(生長の家刊)が10月半ばに産声を上げた。この日記帳は好評で、12月27日の時点で3万1千部が頒布されている。さらに、Web版『日時計日記』が12月20日に始動した。これは、日時計日記をネット上に作って、全世界から書き込もうという野心的な試みである。これに、ノーミートの献立とレストランを紹介する「ノーミート・ブログ」(9月1日スタート)を加えると、生長の家のネット上の活動の場は飛躍的に増加したと言えるだろう。来年はこれらを大いに活用し、内容を充実させていくことだろう。

 今年1年、本欄を応援してくださった世界中の読者の皆さん、2007年が皆さんにとって輝かしい進歩と発展の年でありますように。来年もまたよろしくお願いいたします。
 
谷口 雅宣

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2006年12月27日

ながら族へ転向?

 私がまだ中高生時代に「ながら族」という言葉があった。何かをしながら、別のことを同時にする人のことを指す言葉だが、主として、ラジオやステレオから流れてくる軽音楽やDJを聴きながら勉強をする学生のことを、親が批判的に指摘するときに使われていたと思う。今では勉強中に音楽を聴くことは当たり前で、ソニーがウォークマンを発売して以来、歩きながらの音楽も、ジョギング中やスポーツジムでの運動中の音楽も、とりたてて問題にする人はいない。携帯電話の普及後は、この傾向がさらにエスカレートしていて、歩きながら、デートしながら、トイレにいながら、食事しながらの、遠くにいる人との会話は当たり前になった。だから「ながら族」という言葉は死んだのだろう。

 私はこの「~しながら」の行動が昔から苦手だった。中高生時代に「ながら族」の勉強をしなかったという意味ではない。多分したことはあるが、それが集中力を分散させてしまうことを意識していたから、試験勉強中は避けていた。ウォークマンが出ても買わず、ディスクマンも買わず、MDプレイヤーも、携帯電話も買っていない。その代わり、パソコンはかなり早く始めた方で、最初に買ったのは、今の小型ゲーム機ほどの大きさで「ポケット・コンピューター」と呼ばれたシャープのPC-1500だ。それ以来、ラップトップからノートブックへと移行するなど、パソコンの持ち歩きは私にとって「当たり前」になっている。しかし、パソコンは「ながら族」的な使い方はできない。つまり、歩きながらパソコンをしたり、食事中のパソコンは無理だ。その点、私の機械の使い方は“一点集中型”なのだろう。

 ところが、機械の小型化の流れは止まることを知らず、かつては畳1畳分の空間を占めたハイファイ・ステレオセットが、今ではワイシャツの胸ポケットに入るまで小さくなった。しかも、レコードのオートチェンジャー付きだ。そんなものを手に入れた場合、さすがの一点集中型人間も、宗旨替えをして「ながら族」に転向したくなる。そうなのである。私の誕生祝いに、アップル社の携帯プレーヤー「アイポッド」をくれた人(々)がいるのだ。機械が嫌いでない私はすぐ夢中になり、ここ2~3日、新しい玩具をもらった少年のようにそれをいじりながら、しだいに魅力にとりつかれていく自分を感じている。

Ipod00  アイポッドは、パソコンの付属品として使う。別の言い方をすると、パソコンを“母艦”に喩えると、アイポッドはそれを基地として音楽や映像を搭載して飛び立つ“航空機”のような関係にある。パソコンは、どんなに小型のノートパソコンでも、ハンドバッグやポケットには入らない。しかし、そこから音楽と映像だけをアイポッドに転送すれば、軽々と町を歩きながら、ショッピングをしながら、食事をしながらでも音楽や映像を楽しめる、ということで、これは恐るべき「ながら族」の発想だ。この発想に対して、私が“一点集中”の自分のポリシーをどこまで守りとおせるかは、予断を許さない。が、使ってみなければ何事も始まらないので、私はとりあえず、持ち運び用の音楽を入れてみることにした。

 とは言っても、私のノートパソコンに予め音楽が入っていたわけではない。かつて作ってあった自作のCDから、映画のサウンドトラックを転送した。そのCDにはBBCニュースの音声ファイルも入っていたから、それも転送した。そして聴いてみると、自分が透明な音の世界に包まれていくのがよく分かる。「透明な」というのは「音に透明感がある」という意味ではなく、私の周囲に“二重映しの世界”ができるという意味だ。私の体を包み込む至近距離に「音だけの世界」が広がり、これまで「現実」と思っていた世界が、その外側に後退していった。こうして弱まった“現実感”の中で、妻が私に何かを語りかけている。幸福感に満ちた私は、彼女に笑顔で答えるが、相手の言葉など聞いていないから、きっとトンチンカンな返事をしたのだろう。目の前の妻はあきれたような顔をする。コミュニケーションが、とたんに希薄化してしまったのだ。

 --ああ、これが現代の“ながら族”の棲む世界なのだ、と私は納得し、イヤフォンを耳から外した。

谷口 雅宣

| | コメント (3) | トラックバック (0)

2006年12月21日

グーグルで火星を眺める

 アメリカのインターネット検索大手、グーグル(Google.com)は話題に事欠かないが、パソコンと衛星からの地上の写真を一挙に近づけた「グーグル・アース」(Google Earth)というサービスに続いて、「グーグル・ムーン」(Google Moon)や「グーグル・マース」(Google Mars)というのを始めるらしい。12月20日付の『ヘラルド・トリビューン』が伝えている。

 グーグル・アースは、地球上のどの地点も衛星写真を使ってパソコン画面に表示するサービスで、軍事施設も表示させることで問題になったことがある。我々のような一般人にとっては、自分の故郷や海外の有名な都市、ニュースで話題の場所などを実際に上空から“見ている”ような仮想現実感を与えてくれるため、きわめて興味深く、かつ有用である。私も、興味半分で自宅を上空から見たり、小説の取材を補強したりすることに利用させてもらったことがある。この画期的なサービスを提供してきたグーグルが、こともあろうにアメリカ政府の1機関であるNASA(航空宇宙局)と組んで、今度は「月」や「火星」の上空からの画像をパソコン上に表示するサービスなどが可能な、広範囲な提携の契約を18日に締結したという。
 
 その記事によると、この契約によって、月や火星の表面を歩く宇宙飛行士の見る風景と同じような克明な画像を、地上の誰もがパソコン上で見ることができる可能性が開けるという。また、スペースシャトルや宇宙ステーションの動きをリアルタイムに見ることも可能になるかもしれない。火星については、グーグルは現在、限定的な二次元画像を「Google Mars」として提供しているが、これがもっと細かく、鮮明な画像として、我々が火星上空を飛んでいるかのような現実感をもって見えるようになるのだ。これは大変な“進歩”あるいは“変化”と言わねばならないだろう。が、その反面、“逆効果”も生まれるのでは、と私は想像する。
 
 私は、昨年6月11日の本欄で、火星にある“人面岩”の話に触れたことがある。また、本欄の前身である『小閑雑感 Part 1』では、2001年6月1日に「火星の顔」と題して少し詳しくこの話を紹介したので、ここでは簡単な説明に留めよう。火星の“人面岩”とは、火星の「シドニア(Cydonia)」と呼ばれる地域にある全長3kmほどの台地のような地表の隆起で、これが上空のある角度から見ると「人間の顔」のように見えたことから、「火星上の顔(Face on Mars)」と呼ばれるようになった。そして、「そんなものが偶然にできるはずがないから、知性のある何者かが造ったに違いない」という議論が起こって、一時騒がれたのである。

 しかし、よく考えてみると、火星は地球とまったく環境が違う惑星だから、そこにたとえ高等生物がいたとしても、その顔(もしそんなものがあるとしたら)が、地球上の動物がもつ「顔」と似ている--つまり、目が2つ横に並び、その間に鼻が縦にあり、鼻の下には横長の口がついている--保証はどこにもないのである。別の言い方をすれば、火星の動物には目が5つあったり、鼻がなかったり、口が上と下に2つついていても、それはそれで「顔」と言えるはずである。また、イソギンチャクを上から見たような恰好の「顔」があってもいいはずである。にもかかわらず、写真上にありありと“人間の顔”のようなものが写っていると、それが別の天体で撮影されたものであっても、我々は「顔だ」と考えてしまう。これは結局、我々の心の中にある「顔」のイメージを火星上に投影しているにすぎず、「客観的な判断」とは言えないのである。

 そういう騒ぎが実際に起こったのであるから、今後、グーグル・アースが鮮明な画像によって提供されることで、「火星人はいる」という議論が再燃する可能性がある。「月のウサギ」説はまさか出ないとは思うが、グーグル・ムーンによっても「知性ある生物がいる」との議論が起こるかもしれない。そんな事態が起こったら、それは宇宙科学ではなく、心理学の問題だと考えた方がいいだろう。火星には“ピラミッド”とか“町の広場”と呼ばれている所もある。我々は結局、自分の心の中にあるものを“外界”に投影するのである。

谷口 雅宣

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2006年12月20日

Web版『日時計日記』に参加を!

 生長の家のスポンサー・サイトの1つとして“Web版『日時計日記』”が、12月20日にスタートした。『日時計日記』とは、毎日“よいこと”ばかりを記録していくことを目的に今年10月半ば、生長の家から発刊された日記帳である。生長の家では、昭和5年の発足当初から「日時計主義の生活」を提唱してきたが、その具体的な実践を「日記帳」によって支援しようという試みは今回が初めてだ。その“第1弾”となった「2007年版」はなかなかの反響で、発刊以来すでに3刷、3万2千部が流通している。私も、生長の家講習会では受講者に購入を勧めている。

 今回の“Web版”は、「製本した日記帳」があくまでも個人用であり“閉じられた空間”であるのに対し、誰でも書き込める場となったことで“開かれた空間”へとひろがったと言える。それはまた、日本語を読める世界中の人々の共同作業によって、個人的な「よいことの記録」をネット上に構築しようとする野心的な試みと見ることもできる。生長の家のスポンサー・サイトにはすでに「日時計ニュース.com」というのがあるが、ここではネット上の報道記事などから「よいニュース」を集めることで、公的な「よいことの記録」が集積している。これに加え、Web版『日時計日記』ができることで、私的・個人的な「よいことの記録」がネット上に集積していく可能性が拡大したのではないだろうか。

 少し面倒くさい表現をしてしまったが、もっと簡単に考えて下さっていい。それは、製本版『日時計日記』の“マニュアル”や“記入見本”としてWeb版を利用するのである。『日時計日記』には7項目の記入欄があるが、どれもあまり「一般的」とはいえない。だから、初めて記入する人の中には何を書けばいいか戸惑う人もいるだろう。そんな時、Web版のサイトにアクセスすれば、ほかの人が何をどう考え、どう記入しているかが分かる。それを参考にして、自分の製本版の日記帳の欄を埋めるのはどうだろう。また時には、自分だけ知っているのではもったいないような「よいこと」が起こることもある。そんな時、「ねぇねぇ聞いてよ、こんないいことあったんだから」という気持でサイトに書き込めば、きっと大勢の人々と喜びや感動をともにすることができるだろう。

 このような様々の意味から、本欄をご愛読くださっている読者にはぜひ、Web版『日時計日記』のご支援もお願いしたいのである--ということで、“言いだしっぺ”の私としては、発足初日の20日午後5時前に、次のような応援演説をWeb版に書き込んだ:
 
「今日、Web版の『日時計日記』が発足したことで、生長の家の運動に“革命的”な発展がありました! 世界中の生長の家の信徒が、またそうでない全く生長の家を知らない人も、一堂に会して“よいこと”を語り合う場ができたということです。このような場は、生長の家の歴史始まって以来のことではないでしょうか? 大いに活用し、また改良して、オンライン版の光明化運動を進めていきましょう!」

 ところで、製本版の『日時計日記』をお持ちでない読者のために少し補足を……。『日時計日記』にある7項目の記入欄とは、①神想観、②聖典・聖経、③愛行、④祝福・讃嘆・感謝の言葉、⑤私の希望・願い、⑥環境に配慮したこと、⑦日記、である。Web版では毎日、これら7項目の表題だけを掲げた空欄を設けていくので、その中の1項目だけでも、該当するようなことがあれば、コメントとして記入していただきたい。また、とりわけて記入することがない場合でも、誰かの記入を見て「励まし」や「讃辞」をコメントとして書き込んでくだされば、そのこと自体が『日時計日記』の目的に合致すると思う。

  最後に、上記7項目のうち分かりにくい言葉を簡単に解説すると--「神想観」とは、生長の家の推奨する座禅的瞑想法のこと。「聖典」とは生長の家創始者・谷口雅春先生と奥様、生長の家総裁・谷口清超先生と奥様の著作になる単行本のこと。「聖経」は、生長の家で「お経」と呼ばれている聖経『甘露の法雨』『天使の言葉』『続々甘露の法雨』など。「愛行」とは、人に愛を与える行動で、仏教的には布施のこと。法施と物施がある。

谷口 雅宣

| | コメント (2) | トラックバック (0)

2006年11月 3日

「読ませ大賞」って何?

 本欄から生まれた単行本『小閑雑感』シリーズを発行している世界聖典普及協会の人から、興味ある話を聞いた。このほど「出版文化産業振興財団(JPIC)」がインターネット上で始めた「読ませ大賞」という本のランキング・サイトに、私の最新刊『小閑雑感 Part 6』が載っているというのである。もちろん全国ランキングにあるのではないが、「50~59歳」の「関東地方」の「男性」「会社員」が推薦する本のランキングでは「第1位」というのだから驚いた。私自身、そのサイトへ行って確認したが、何回確認してもちゃんとそこにある。ウーンと唸って考え込んでしまった。理由がわからないのである。
 
 私はこのサイトの名前をまったく知らなかったが、調べてみると「Books.or.jp」という書籍検索サイトと連動していて、「文字・活字文化の日」である10月27日を広める読書推進キャンペーンの一環としてJPICが新しく始めた企画のようだ。本の読者による投票(ハガキとインターネット)でよい本の順位を決め、インターネット上の“口コミ効果”で、良書が全国に広がっていくことが目的だという。投票期間は、インターネットが10月27日~大晦日まで、ハガキでの受付は10月27日~11月30日までという。

 こういう立派なサイトに自分の本がランクされたのだから、唸っていないで素直に喜んだらいいのかもしれない。しかし、私にとっては、闇の中で鼻をつままれたような感じだ。なぜなら、『小閑雑感 Part 6』の奥付の発行日は11月1日で、今日は3日である。もちろん、本そのものは少し前から流通していて、10月29日の和歌山市での生長の家講習会では100部以上頒布された。しかし、この本は一般書店では入手が難しい。できたてホヤホヤの本で、しかも一般に流通していないものが、書籍ランキングの上位に登録されるというのは、どうも解せないのである。まことに申し訳ない言い方になるが、一時は、サイトのソフトウエアにバグがあるのかもしれないと考えた。

 翻ってこのサイトの企画自体を考えれば、なかなか面白いと私は思う。しかし、いくつか問題も考えられる。例えば、ある宗教団体では、信者が特定の有名書店へ行ってその指導者の本を何冊も買うことで、書店でのランキングを上げるなどの不自然な方法を採っているらしい。こうすれば、その書店での“棚”や“平積み”の領域を確保できるだけでなく、新聞・雑誌には有名書店での売れ筋ランキングを発表する欄もあるから、二重三重の宣伝効果が生まれる。それと似たようなことが、このサイトで行なわれる危険性はないのだろうか? 大教団が全国の信者を動員して、指導者の著書を“よい本”としてこのサイトに登録し、ランキングを上げるのを防ぐ対策はできているのだろうか? 
 
 同じような心配は、政治家の著書や政治問題に関する本についても考えられると思う。ことに選挙が近くなると、安倍さんの本と小沢さんの本がランクの上位で競争したり、朝日新聞社の本と扶桑社の本がランクを競うかもしれない。今後、このサイトで発表される投票結果を見れば、ランキングの自然・不自然はいずれ判明するだろう。「ブルータスよ、お前もか!」にならないことを祈るばかりだ。

谷口 雅宣

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2006年9月27日

電子文書を読む

 読者が今、本欄を読まれているように、電子化された文書を読むことはすでに日常化し、当たり前の出来事になっている。しかし時々、その可能性に驚かされることがある。インターネットの発達で、「時間と空間の制約をほとんど受けずに情報が伝わる」とはよく言われる。私も、海外の出来事をほとんどリアルタイムで、衛星放送やニュース・サイトを介して見たり読んだり聞いたりしてきた。情報の電子化とインターネット技術によって、今や「空間」の問題は克服されつつある。しかし、「時間」がなくなる体験をすることは少ない。

 それを可能にしてくれるのが文書や映像の電子化なのだ。たぶん読者の中には、図書館や博物館のサイトを愛用している人もおられるだろう。その場合、古い文書や遺跡からの出土品の映像なども、手元で見ることができるに違いない。恥ずかしながら、私はそういう経験を今日までしたことがなかった。が、9月16日号の『New Scientist』誌をパラパラと見ていたら、「オンラインの伝説」(Legends online)という題の小さな記事の横に、曇天下に凧を揚げている紳士の絵が並んでいて、「電気から電子へ」(from electric to electronic)というキャプションがついているのが目に留まった。この絵は、ベンジャミン・フランクリン氏(Benjamin Franklin)が雷は電気であることを証明した、あの有名な実験を描いたものだとすぐ分かった。
 
 この絵そのものが、ニューヨーク市立博物館所蔵と書いてあったから、恐らく電子化されたものを同誌の版元がイギリスへ送信してもらったものだ。そのこと自体は驚くことはないが、私が興味をもったのは、記事の内容だった。それによると、ロンドンにある英国王立協会(the Royal Society)は所蔵文書の電子化に取り組んできたが、このほどその一部を期間限定でインターネット上に無料公開したという。その中には、“世界最初の科学雑誌”ともいえる『Philosophical Transactions』(哲学的往来、1665年創刊)誌も含まれていて、同協会のサイトへ訪れるとフランクリンの凧の実験(1752年)を初め、エドムンド・ハレー(Edmund Halley)のハレー彗星の発見(1705年)、ニュートンの反射望遠鏡の発明、スティーブン・ホーキング博士(Stephen Hawking)の最初の論文、DNAの構造を解明したワトソン(James Watson)とクリック(Francis Crick)の1954年の論文などが読める、と書いてあった。

「へぇー」と思った私は、さっそく同サイトへ行ってフランクリンの論文を探したが、見つけたのは当該論文ではなく、同協会に提出されたその論文をめぐるコメントや、フランクリンによる実験の補足説明などを含む4つの文書だった。当時の雑誌のページをスキャナーで読み込んだものを「PDF」の方式でファイル化してある。古いもので「1751年6月」という日付があったから、それを読むと、今から255年前にイギリスの科学者が電気についてどういう考えをもっていたかが伺い知れて、面白い。フランクリンは当時、電気が生体にどのような影響を与えるかを実験していて、ハトやニワトリに電気ショックを与えるとどうなり、同じ電気を七面鳥に与えた場合はどうなり、肉を食べると柔らかくておいしいとか、人間はどの程度の電気ショックに耐えられるかなどの推測をしている。

 こういう実験の過程で、フランクリン自身が誤って電気ショックを受けた話も出てくる。それによると、彼の手から伝わった電気は、直ちに頭から足の先まで全身をかけめぐり、その後数秒間、胴体全体が激しく震え続けたという。彼の意識が正常にもどり、何があったかに思い当たるまでには数分間(some minutes)かかった。感電時には閃光など見えず、音も聞こえず、感電した手にも痛みは感じなかったという。しかし、実験に立ち会った人は、その時大きな音がしたといい、フランクリンの電気を受けた手は事後に腫れあがったという。また、彼の両腕と背中は数時間しびれた状態になり、胸は打撲傷を受けたように1週間後も痛んでいたらしい。
 
 1752年10月1日付のフランクリンの手紙には、実験に使った凧を、どうやって作るかも書いてある。それによると、スギ材で十字形を組み、その上に絹のハンカチを張って凧を作るそうだ。これに尻尾と紐と糸をつける。凧の十字形の縦骨には先の尖った針金をつけ、凧の先から30センチほど上方に出るように固定する。手元側の凧糸には絹のリボンを結び、糸と絹の接点に鍵を結びつける。この手紙には、この凧をどう揚げて、電気をどう取り出すかも書いてあるが、それをここに書くと実験したくなる人が出てくると困る。私は、そういう人の生命を危険に晒したくないので、雷雲が出ている時は、凧揚げは絶対にしないようにお願いして、本稿を終ることにする。
 
谷口 雅宣
 
 

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2006年9月20日

グーグル・ニュースに“待った”

 私は8月4日の本欄で「ニュース配信の新潮流」と題して、アメリカの新聞や雑誌社のサイトに、他社のニュースや記事の見出しを表示する“潮流”のことを紹介した。「ロボット検索」を得意とするグーグルやヤフーのニュース・サービスに対抗する新潮流だと思ったのだが、ここへ来てこの種のサービスに対して著作権問題で“待った”がかかった。ベルギーの裁判所がこのほど、グーグルに対してグーグル・ニュースのサイトからベルギーの新聞のコンテンツをすべて削除させる決定を下したからだ。それに従わない場合は、1日当たり100万ユーロ(127万ドル=約1億5千万円)の罰金が科されるという。今日(20日)付の『ヘラルド・トリビューン』紙が伝えている。
 
 それによると、この決定に伴い、グーグルはグーグル・ニュースのサイトからベルギーに本部をもつフランス語とドイツ語の新聞のコンテンツを削除したという。グーグルを提訴していたのは、ベルギーの主要な新聞の著作権保護を支援している「コピープレス」(Copiepresse)という組織。ベルギーでの第1審法廷は今月開かれたが、グーグルの言い分では、そのことと判決内容を知ったのは15日になってからという。グーグルのロンドン駐在スポークスマンは、この決定に対して控訴する意向を示しているが、ベルギーの新聞のコンテンツは、18日からグーグルのサイトから消えているらしい。

 コピープレスのマーガレット・ボリボン氏(Margaret Boribon)がロイター通信に語ったところでは、訴訟を起こしたのは、グーグルが新聞社の仕事から利益を得ているためであり、コピープレスはグーグルに対して記事の使用許諾をきちんと得て、使用料を払うように求めているのだという。これに対しグーグル側は、「我々はユーザーが記事を探しやすくし、また多くのユーザーを新聞社のサイトへ導くことで、新聞社に利益を与えている」と反論している。グーグルはさらに、「新聞社は、自社の記事がわが社のサイトに掲示されることに反対ならば、そう言ってくれれば削除するという方針を明確にしている」として、訴訟など全く不要だと主張している。しかし、新聞社や通信社に言わせれば、「本当の問題は、我々が大金を使って世界中から集めたニュースの見出しや写真、記事の価値を、彼らが認めないことにある」という。

 どちらの言い分にも一理があると思う。双方の言い分の中で明確になっていないが、この問題の基本にあるのは、インターネットによる広告収入だ。ネット上でニュースが読めることになって、新聞や雑誌の売り上げが減っている。ネット上の記事の多くが無料で簡単に入手できるのに対し、新聞や雑誌は有料だからだ。部数が減れば当然、広告収入は減る。これに対しネット上の広告収入は増加しているが、パソコンの1画面に「多種のニュースを一覧する」という機能には限界がある。物理的な限界に加え、ライバル社のニュースまで表示するわけには行かない。しかしユーザーの立場から言えば、「複数のライバル同士の記事を読み比べられる」というメリットは、1社からは得がたい新しい価値だ。そういうサイトへ行くユーザーが増えれば、そこの広告収入が増加する。

 インターネットという便利で新しい媒体が登場することで、従来より高度な情報を得られる価値は棄てがたい。しかし、その一方で、従来型の情報収集の質が落ちるようでは、元も子もない。時間がかかっても、両者が共存する道を見つけ出してほしい。
 
谷口 雅宣

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2006年8月11日

イスラームはどうなっている?

 今日のトップニュースは、イギリスからアメリカに向う旅客機の爆破テロを未然に阻止したというロンドン警視庁の発表だった。9・11テロを上回る6~10機の爆破計画を数ヵ月にわたって内偵していたところ、一気に危険な状況になってきたため、一斉摘発を実行し20数人を逮捕したという発表だ。まだ逃亡中の実行犯もいる関係から詳細な情報は伏せられているが、例のごとく「アルカイーダの関与」の可能性が言われている。また、爆破方法は、ペットボトルに入れた2種類の液体を機上で混ぜ、使い捨てカメラのストロボ発火装置に連結して爆発させる--などと、かなり具体的だ。もしこの方法が本当に計画されていたならば、これは自爆テロに違いない。拘束された容疑者のほとんどはパキスタン系イギリス人というから、ロンドン・テロと同じ「先進国で生まれ育ったイスラム系青年」によるテロ計画ということになる。

 日本はちょうどお盆休みの“民族大移動”のピークにあるが、今後は飛行機での移動はかなりの不便を伴うことになりそうだ。私は昨夜、青森空港から羽田まで飛んで帰ってきたが、その際、フライトの時間が30分ほど遅れた。これも上記の事件と関係があるような気がする。しかし、機上でまだペットボトル入りのお茶が飲めたことは幸いだった。

「イスラームは危険な宗教である」というメッセージが、またまた世界中に発信されてしまった。「一部の過激派は暴力的でも、イスラームの大多数は平和愛好である」という従来の言い方が、だんだん説得力をもたなくなってきている。これは大変残念なことだ。イスラームの信奉者は、今こそ「イスラームはテロを容認しない」という明確なメッセージを大々的に世界に向けて発信してほしい、と私は心から願うのである。9・11の際にそれがなかったことが、イスラーム全体に対する大きな誤解を生み出したことを思い出してほしい。

 かつて本欄に「イスラームに“ヴァチカン”はない」という話を書いた。それは、イスラーム社会内部では、数多くのイスラム法学者が互いに異なった解釈をしても、いずれの解釈も認められるということを、キリスト教の経験に当てはめて言ったものだ。イスラームには、中心となる宗教的権威がないのである。言い方を変えれば、イスラームは中央集権的な宗教組織ではないということにもなる。このことは、その土地の、その時の事情に合わせた柔軟なイスラム法解釈を可能にするという意味では美点であるが、その反面、アルカイーダのようなイスラーム内部の“異端”を批判できないという意味で、イスラーム全体にとって大きな弱点ではないかと思う。
 
 部外者である私がこんなことを言っても、イスラームの信奉者には「余計なお世話」と思われるかもしれないが、イスラーム内部にもこのことを危機感をもって訴えている人はいるのである。UCLA(カリフォルニア大学ロサンゼルス校)でイスラム法を教えているカーレド・アブ・エルファドル氏(Khaled Abou El Fadl)は、昨年出版した The Great Theft: Wrestling Islam from The Exremists (大いなる窃盗--過激派からイスラームを救う闘い)の中で、「今日のイスラーム社会に於いては法解釈の権威が危機に瀕しており、混乱の極みにある」(p.26)として、次のように書いている:
 
「これらのイスラム法学者の意見は信者にとって説得力はあるが、義務を与えたり法的拘束力をもつものではない。法学者の意見は一般に“ファタワ(fatawa)”と呼ばれていて、ある特定の個人の特殊な問題について出されることもあれば、公的な問題について出されることもある。伝統的には、1人の法学者がファタワを出す資格を得るためには、一定の厳しい条件が定められていた。また、問題が深刻になればなるほど、それについてファワタを出せる人の資質は高くなければならなかった。現代に於いては、そういう資質や資格を守らせる機関の権威は失墜してしまったか、あるいは全くなくなってしまった。だから今日、法的あるいは社会的な制約がない中で、実際には誰でも自分をイスラム法学者だと宣言し、ファタワを出すことができるのである」(pp.28-29)

 上記のことに加え、現代ではインターネットによって誰でも簡単に、世界に向けて自分の意見を発表することができるという現実を考えてみよう。そういうコンピューターの操作やソフトウェアの製作に長けているのは、イスラーム法学者などの宗教の専門家や伝統的な教育を受けた年長の人々であるよりも、科学者やエンジニア、情報科学の専攻者などの比較的若い人々である。今、そういう人々がウェッブサイトを開設し、自称イスラム法学者として、そこにイスラーム法にもとづくファタワを発表しているとしたら、いったいどうなるだろう? かつてモハンマドの風刺画がヨーロッパの新聞や雑誌に発表されてから、世界中で大混乱と暴動が起こったが、その原因の1つにこのようなイスラーム内部の問題が関係しているような気がしてならないのである。

 谷口 雅宣

| | コメント (2) | トラックバック (1)

2006年8月 4日

ニュース配信の新潮流

 グーグルやヤフーなどのインターネット検索サービスが、いろいろな意味で「世界を変える」と言われてきたが、本当にそういう動きが出てきている。最近のものでは、アメリカの大手新聞や時事週刊誌のサイトが、競争相手のサイトからのニュースや記事の見出しを、自分のサイトに表示することを始めている。日本でこれをやれば、例えば『朝日新聞』のサイトに『讀賣新聞』や『産経新聞』の記事の見出しが並ぶようなもので、従来の常識からは全く考えられないものだ。8月2日の『ヘラルド・トリビューン』紙がそういう動向を報じている。

 同紙の記事によると、『ワシントン・ポスト』と『ニューヨーク・サン』と『デイリー・オクラホマン』という3つの新聞は、このほどインターネットのニュース収集サービス会社の「インフォーム・コム(Inform Technologies LLC.)」と契約し、何百ものニュース・サイトやブログの記事情報を集めて自社サイトにリンクを表示することにしたという。(8月4日現在、上記3社のサイトには他社のニュースの見出しは出ていない)
 
 日本もアメリカも同じだろうが、新聞やテレビのニュース・サイトは、自社の集めたニュースと提携関係にある社のニュースしか載せないのが普通だ。しかし、この新しい動きが起こってきたのは、ニュース各社が一丸にまとまったわけではなく、グーグルやヤフーのやり方に対抗するためだ。両社は、いわゆる“ロボット検索”という技術を使って、インターネット上に公開されているすべてのニュース記事を、見出し、内容、アドレスと共にキーワード等に従って分類・保存している。この作業は、何台ものコンピューターによって昼夜を分かたず自動的に行われるため、「ロボット」の名が冠されているのだ。

 また、ニュース記事だけでなく世界中のブログや写真なども、同様の手段で巨大なデーターベースに収納されているらしい。そして、グーグルの場合は「グーグル・ニュース」というサービスを利用すると、ユーザーが指定したキーワードの含まれるすべての記事のアドレス(いわゆる「リンク」)を表示してくれる。だから、ユーザーは別々の新聞の別々の記事を自分で探さずに、そのリンクをたどるだけで、全世界のニュースから自分の関心のある記事だけを簡単に読むことができるのである。重要なポイントは、この種のサービスは、新聞やニュース各社の「記事そのもの」には全く手をつけずに、それらのインターネット上の「アドレス」のみをユーザーの前に示すという点だ。だから、記事の無断複製には該当しないと考えられているようである。
 
 こういう自動検索サービスが始まると、ユーザーはそのサービスのサイトだけを見れば、他のいくつものサイトへ行く必要はない。すると、従来型の記事を提供する新聞社や放送局のサイトの広告収入は減ってしまうのである。今回の3新聞社の対応は、これらの検索サービスに奪われた“読者の”(したがって広告収入の)奪還作戦なのである。

 ところで、このようにして他社のニュースの「リンク」だけを集めることができるならば、インターネット上を流れる様々なニュースから「明るいニュース」だけを選び出し、そのリンクを1箇所に表示することも理論的にはできるはずだ。恐らくそういう考え方にもとづいて、生長の家では「日時計ニュース」なるものを実験的に始めた。「人生の光明面を見るべし」との考え方にもとづいた有意義な試みと思うので、読者も応援いただければありがたい。
 
谷口 雅宣

| | コメント (3) | トラックバック (1)

2006年7月22日

「偶然はない」ということ

 ハイテク社会、インターネット社会は「偶然に満ちている」と感じることが多い。国際線の航空機で前の座席にすわる人、ホテルでの隣室のカップル、エスカレーターを降りてくるあの顔、この顔、ネット検索で見つけた店、出会ったサービス、興味をもった広告……これらは皆、突然我々の目の前に現われ、こちらから何もアクションを起こさなければ、そのまま消えていく。これが「偶然」でなくて何だろう? そんな実感をもった読者も多いに違いない。

 私は最近、ネット検索でプロ/アマの写真家が集まるサイトを見つけた。特段、目的の写真があったわけではない。特定の写真家を探していたのでもない。何となく「人の写真でも見てみようか」と思いながら「photoblogs」という言葉に引かれて、マウスを動かした。「photo」は写真であり、「blogs」はこのブログのようなウェブ上の日記(複数)だから、「ウェブ写真日記集」という意味だろう。2~3回のマウス・クリックの後、画面に現われた写真を見て、私は息を呑んだのである。誤解しないでほしい。何かマズイ写真が出たのではなく、帽子を被って横断歩道を行く1人の老人のカラー写真が現われただけだ。しかし問題は、その人が私の父とそっくりだったのだ。

 老人は、目の覚めるようなスカイブルーの半袖シャツを着て、白っぽいベージュの帽子を被り、左手をズボンのポケットに入れ、右手は黒い色の傘かステッキのようなものを持ち、横断歩道を渡っている。やや上方から撮った写真で、目から下の顔の左半分が見える。年齢は70~80代だろうか。帽子のツバぎりぎりに見える目と口元、そして、やや前屈みになった上半身の感じが、私の父と瓜二つなのである。しかし、多くの読者はご存じのとおり、父は今自宅で療養中である。とすると、かなり前に撮られた写真かもしれないと思い、写真掲載の日付を見ると今年の7月18日--つい最近である。私は考え込んでしまった。

 私が“偶然”に出会った写真ブログは、アンディー・グレイ(Andy Gray)という人が運営している「JapanWindow.com」というサイトだった。「窓から見た日本」というような意味だろう。東京などの日本の街中で撮ったスナップを主体にした写真が掲載されており、それぞれに簡単なコメントがついている。私の父に似た人の写真には、「帽子、シャツ、男 (Hat, Shirt, Man)」という題がついていて、その下に次のようなコメントがある--「男が1人、大きな帽子を被り、下ろしたてのシャツを着て東京の通りを渡っている。群衆の中から飛び出すような力強さがある。奇妙な話だが、アメリカではこういう人に会ってもユニークだと感じない。しかし、時と場所によるのだ」。

 グレイ氏は、恐らく渋谷のハチ公前の交差点かどこかでこの写真を撮った。被写体の「何か」が撮影者を惹きつけたのだ。その写真を、世界中の人が見ることのできるインターネット上に置いた。インターネット人口は数十億人とも言われるから、その中のウェッブページが合計で何枚になるのか、見当もつかない。その無数のページの中からある日、私がこの写真を見つけた。その確率は正確には私に分からないが、かなり稀であることは確かだ。これが「偶然」でなければ、何を偶然と呼べるだろう。
 
 しかし、翻って考えてみると、我々は「常に」「何か」に出会っているが、それを「偶然だ!」とは驚かない。例えば、朝の出勤時に、玄関から出たときに出会う1匹のアリを見て、「このアリと自分が出会う確率は?」などと計算することはない。大体、そんなものが視野に入っていても注目しないから、意識の表面に上らないのが普通だ。だから、「アリに出会った」とも思わないのである。意識に刻印されるものは、自分がその時関心をもっているものだけだ。我々はインターネット上で数多くの写真に出会っていても、ほとんどのものは「見過ごす」のである。注目するのは、自分に関心のあるものだけだ。「あの老人」の写真も、だから“偶然”私の目の前に現われたのではない。私の意識が、インターネットの大海の中を“関心の緒”をたどって探り当てたものである。端的に言えば、父への関心がなければ、あの写真を画面に出すことはなかったのである。
 
 ところで、問題の写真を見たい読者は、このリンクをたどってグレイ氏のサイトへ行ってほしい。そこでのやりとり(ただし英語)を読めば、それが本当に父の写真であるかどうかが判明するに違いない。
 
谷口 雅宣

| | コメント (3) | トラックバック (0)

2006年7月11日

ココログがおかしい

 本欄を掲載しているアット・ニフティー(@nifty)の「ココログ」のサービスが、数日前から実質“ダウン”の状態だ。前回の講習会の記事も、何度もやり直し、時間をかけてやっとアップした。しかし、症状が治らずにこれから(今日の14時から)約2日間かけてメンテナンスをするらしい。その間、私の書き込みができなくなるかもしれないので、ここで予め報告しておきたい。早く正常になってくれることを祈るばかりだ……
 
谷口 雅宣
 
 

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2006年6月27日

ブログ内検索できます

 本欄に「ブログ内検索」という機能をつけた。画面左上のサイドバーに「ブログ内検索」と書かれた四角形の“穴”があるが、そこに好きなキーワードを入れて、「ブログ内検索」という文字をマウスでクリックすれば、私が過去に本欄に書いた文章の中で、そのキーワードが含まれるすべての文章を表示する仕組みである。自分で使ってみて、なかなか便利なので驚いている。

 一度、キーワードで検索すると、文章の表題が新しいものから順番に表示される。この数が多すぎる場合、「AND検索」というのを引き続きすることができる。これは、条件を加えて、対象となる文章を絞り込むためである。例えば、最初「バイオエタノール」というキーワードで検索をかけると、十数個の表題が出てくるが、これをもっと絞り込んで、「バイオ」と「SUV」という2語を共に含む文章を読みたい場合、検索用の“窓”には「バイオ」と「SUV」の2語を入力し、両者の間にスペースを入れる。これで検索をかければ、対象はもっと絞り込まれる……こんな具合である。

 新機能の使用感について、読者の感想をいただければ幸いである。
 
谷口 雅宣

| | コメント (11) | トラックバック (0)

2006年6月22日

ペンマウスで絵描き

 休日を利用して、6月15日の本欄で書いた「ペンマウス」で絵描きに挑戦してみた。実は、16日に長崎へ行った際も、旅先で見つけた小物を対象にしてペンマウスの使い方を練習していた。1つは縫いぐるみのウサギの人形で、もう1つは急須である。柔らかいものと硬いものを描いてみて、質感の表現がどうなるのか確認するつもりだった。

Stuffedrabit  ウサギ人形は、漫画的に線描で輪郭をとってから、着色した。急須の方は白画面に黒線で描いてから、光と影の濃淡を強調してモノトーンで描いた。線がまだブルブルしているのが気になるが、それもまた“味”の一種かもしれないと思い、残すところは残しておいた。セピア調の色は、パソコンならではの色処理である。

Teapot2  今日は、家にある青いガラス瓶に挑戦した。この瓶は大小2つあって、色が美しいので過去にも何回かスケッチしたことがある。その時の絵とパソコンだけで描いたものの比較もしてみたかった。描いてみてよく分かったのは、紙にペンと水彩で描いた方が、PCでペンマウスを使って描くよりもはるかに容易であり、短時間でできる。出来ばえについては、現物を見比べていただくのが一番いいと思い、ここに掲げることにする。水彩画は、葉書大の紙に6年前に描いたものをスキャンした。どちらが水彩か説明は不要と思う。

BluebotwcBluebottle_1

谷口 雅宣

| | コメント (3) | トラックバック (0)

2006年6月15日

ペンマウスを買う

 最近、絵を描く機会が極端に少なくなってきた。「絵心が出ない」というと、何か「やる気が出ない」感じの怠惰な人間のように聞こえるが、「文章を書く」ことと「絵を描く」ことの脳の領域が違っていて、片方をフルに使っていると、他方がお留守になるのかもしれない。この「脳の領域」とは、よく“左脳”とか“右脳”などと呼び分けられているものだ。しかし、本当は双方を適度に使うのが、人間としてベターであるに違いない。
 
 ということで、文章作成に毎日使っているノートパソコンを、絵を描くためにも使えないかと考えて、休日を利用して新宿駅西口のヨドバシカメラまで足を延ばした。最近、キーボードを使わずにペンで画面を触れるだけで入力できる「タブレットPC」というのが出ていると知ったので、それで絵を描くテストをしてみたかった。絵は、紙の上に鉛筆やペンで描くのがいいに決まっているが、それをPCで利用するためには、描き終った絵をスキャンして取り込む作業が必要となる。これには案外手間がかかり、色調やペンタッチなどをオリジナルに近づけるのに苦労する。だから、直接PCで絵が描ければ、スキャンニングの手間が省けるだけでなく、スケッチブックなどの画材を持ち運ぶ必要もなく、さらに絵の保存もPCだけで効率的に、省スペースで行える--そんな虫のいいことを考えていた。
 
 目当てにしていたのは富士通のLOOX-Pシリーズ「FMVLP70S」という機種で、サイズが232 × 167mm と小型である。重さも1kg を割る軽量だから、使い勝手さえよければスケッチブック代りに持ち運べるだろうと考えていた。しかし、現物を触ってみると、ペンタッチはいいのだが、キーボードを使おうとすると小さすぎて文字がスムーズに入力できない。また画面も小さくて見にくい。私は「文章も絵も」と欲張っていたから、別の機種を探した。すると、レノボの ThinkPad シリーズにタブレットPC(ThinkPad X41 Tablet)があり、これはキーボードも使いやすく画面も大きかった。しかし、私が現在使っている機種(ThinkPad X40)とほぼ同じスペックなので“上等すぎる”のである。結局、「PCは2台もいらない」という結論に落ち着いた。資源のムダだし、ファイルの管理が複雑になる。そして何よりも、値段が高い--富士通機は23万円、レノボ機は24万円だ。

 そこで現有のPCに接続して、ペンで絵が描ける周辺機器を探した。すると、絵の具メーカー「ぺんてる」が出している「エアペン」というのと、ワコム社の「インテュオス」というのが目についた。前者は、手帳様のメモ用紙にペンで字や絵を描くと、そのストロークの1つひとつを機械が記憶し、あとでPCへその情報を転送する方式だ。これだと、手帳セットだけを持ち運べるが、どうも色が使えないようであり、手続きも煩雑だ。後者は、PCのUSBポートに接続したタブレットの上に絵を描く大掛かりな方式で、プロ仕様だ。旅先に持っていくわけにはいかない。
 
 結局、私が選んだのは「ペンマウス」と呼ばれるものだった。値段は 9,420円。これは基本的には光学式マウスそのものであり、ペン型であるところだけが違う。これだとマウス同様に気軽に持ち運べるし、ソフトウエアも、今使っている「NeoPain」という“お絵かきソフト”で取りあえずは用が足りると思った。販売員は「入力はこちらが正確です」と、USB接続式のペン・タブレットを勧めたが、私は簡単で安価な方を選んだ。1万円未満だから、テストのつもりで買ったのだ。
 
Pensample01  帰宅して早速、使ってみると、販売員の言っていたことがよく分かった。ウィンドウズに標準で付いている「ペイント」という“お絵かきソフト”を使ったことがある人は知っていると思うが、マウスで自由な線を手描きすることは非常に難しい。それがペン型のマウスであれば、相当描きやすくなるだろうと私は考えた。これが大きな間違いだった。確かに普通のマウスでするよりは描きやすいが、マウスパッドの上を行くペンのわずかな動きや角度の違いで、描線がトンデモナイ方向へ滑ってしまう。「紙の上にペンで線を引く」という簡単な作業が、ペンマウスでやるといかに困難であるかを思い知らされた。
 
Pensample02  昨年8月21日の本欄で、灘波田龍起画伯が晩年に病床で描いた絵の話に触れたが、その時の鉛筆やペンの線が、縮れ毛のように絡み合っていたことの意味がよく分かった。灘波田画伯は、恐らく脳の損傷で手先が自由に動かせなくなっていたのだ。それでも絵を描こうとすると、物の輪郭を線で表現するのではなく、絡み合った無数の細かい線の重なり具合で濃淡を作り、その濃淡の違いの中から輪郭が浮かび上がるような絵になっていた。私が最初にペンマウスで描いたのも、そんな感じの奇妙な線画になった。さらに色々工夫して、もっとまともな絵を描こうとやってみた。その2点をここで披露します。笑ってやってくだされ。
 
谷口 雅宣

| | コメント (2) | トラックバック (0)

2006年4月20日

アメリカ版“わらしべ長者”

「わらしべ長者」という昔話は、誰でも知っているだろう。或る日ある男が1本のわらしべを偶然拾い、旅の途中でそれと品物を次々と交換し、ついに長者になる話だ。「長者」になる話と「幸福な結婚」を得る話の2種類があるらしく、後者は『今昔物語集』『宇治拾遺物語』『雑談集(ぞうだんしゅう)』などにもあって、仏教色が濃いという。最初に「わら」を拾い、それを大切にするという点で米作文化をもつ日本独自のものと思われがちだが、インドの古代説話にも似たものがあり、朝鮮には日本と同型の説話があるという。だから、もっと広い「東洋」の考え方から出たものか?……そんなことを思っていたら、現代の北アメリカ--つまり、カナダとアメリカ--でそれが大々的に進行中らしい。18日放送されたABCニュースが伝えている。
 
 事の起こりは、カナダのケベックに住む26歳のカイル・マクドナルド氏(Kyle MacDonald)が、昨年の7月12日、「赤いゼムクリップ1個を家と交換しよう」と思い立ち、インターネット上に「One Red Paperclip」(1個の赤いゼムクリップ)というブログを立ち上げた所から始まる。彼が日本の民話を知っていたとは思えないが、発想は「小さなものから始めて、少しずつ価値あるものへと交換して、最終的には自分とガールフレンドが一緒に住む家と交換すしよう」というもので、「わらしべ長者」を地でゆく考え方だ。その計画をブログに発表し、交換相手を募っていった。すると、バンクーバーの2人から提供のあった「魚型のボールペン」と7月半ばに交換できた。その直後には、アメリカのシアトルに住む彫刻家から「人の顔」をあしらった「ドアノブ」とボールペンを交換する話がまとまった。続く25日には、マサチューセッツ州アムハーストに住む人と「バーベキュー用ストーブ」とドアノブを交換することができた。
 
 物々交換のためには、マクドナルド氏は提供者の所へ出かけていくという。だから、遠方からの提案を受け入れるのは大変だ。が、まもなくバーベキュー用ストーブが欲しいという人が現れて、9月24日には大陸横断の末、カリフォルニア州サンクレメンテで「赤い発電機」との物々交換が成立した。その2ヵ月後には、マクドナルド氏は再び大陸横断をしてニューヨーク市へ行き、クイーンズで「即席パーティー」を行った。これは厳密にいうと物々交換ではないが、その際、30ガロン(114リットル)の樽入りビール、バドワイザーのネオン広告板がついてきた。次に、この即席パーティーとの交換が成立したのは「スノーモービル」だった。この頃には、マクドナルド氏のブログは有名になっていたから沢山のオファーが集まっるようになっていたが、ケベックの冬を前にしてスノーモービルは必需品だった。
 
 こうしてスノーモービルは「ヤークへの旅」と交換され、この旅は「大型バン」と交換され、大型バンは音楽CD製作のための「スタジオでの録音の契約」と交換され、スタジオ契約は「フェニックス市での1年間のアパート生活」と交換されている……「1軒の家」とはまだ言えないが、マクドナルド氏は、計画当初の目的にかなり近い所まで接近しているのである。
 
 日本語の検索エンジンで「わらしべ長者」を検索してみると、沢山のサイトが出てくる。しかし、その一部を覗いた限りでは、これほど大掛かりで、成功している“交換ゲーム”はまだないようだ。多くは、フリーマーケットでの連鎖型物々交換の規模を超えていない。その違いがどこにあるのか定かでないが、どうも「ボランティア精神」の大きさと関係があるような気がする。「他人の目的を助ける」という心の大きさと言ってもいいかもしれない。それからもう一つ、「発想の柔らかさ」の違いがあるかもしれない。北アメリカでの“わらしべゲーム”を見ていると、「他人の目的」への協力だけでなく、インターネットでの人気やメディアを利用した「自社の宣伝」「歌手のプロモーション」などと抱き合わせて、「ウィンウィン」(提供する側も受ける側も得をする形)の企画に仕立て上げられている。学ぶ点が多くあると思う。

谷口 雅宣

| | コメント (0) | トラックバック (1)

2005年3月16日

ブログのこと

オンラインでの発言は--あの悪名高き「2チャンネル」に代表されるように--名前を隠し、身分も隠し、下品で、乱暴で、言いたい放題など、ジャーナリズムとは無関係なものが多いと考えていた。でも、どこの世界にも真面目に生きようとする人はいるもので、ちゃんと実名を出し、身分も明かし、事実関係を丁寧に検証して発言する者も多く出てきていることは喜ばしいことだ。

このブログ(blog)をする人を「ブロッガー(blogger)」と言い、ブロッガーが集まってワイワイ議論をするインターネット上の空間を「ブロゴスフェアー(blogosphere)」と呼ぶようだ。「blog」という英語は「ブログする」という意味の動詞としても使われるようで、3月15日付けの『ヘラルド朝日』紙には、次のような文章があった:

A producer at MSNBC.com, Will Femia, who monitors blogging, said he was surprised by how well that call worked.

 英語のレッスンでした……。

谷口 雅宣

| | コメント (2) | トラックバック (0)

2005年3月15日

2日目の言葉

さて、とりあえずスタートした blog であるが、こんな“雑記帳”のようなものが何かの役に立つかと疑っていたら、今朝は目の覚めるような記事に遭遇した。

 『産経新聞』の3月15日づけ第4面に、「ブログの影響力」と題して、同社の近藤豊和記者が書いているところによると、今やblogは、ホワイトハウスでの記者会見に記者を派遣するような位置に達しているそうだ。ブッシュ政権によって個人のツブヤキがそれほど重要なのかと思ったら、さにあらず。会見に出席するblog主宰者のギャレット・グラフ氏(23)は、かつてブッシュ氏と大統領選を争ったディーン民主党議員のPR担当官だったというから、相当な書き手であり、多分はじめからジャーナリストなのだと思う。

 まあ、私は首相官邸の記者会見に出席しようなどとは夢にも思っていない。

谷口 雅宣

| | コメント (1) | トラックバック (0)