ドイツでの国際教修会について
本欄にしばらくご無沙汰していたが、今回の海外行きについて報告しておこう。目的は、ドイツのフランクフルト市で行われる「世界平和のための生長の家国際教修会」と、ロンドンでの一般講演会のためである。いずれの行事もヨーロッパでは初めてなので、事前準備と会の運営に携わっていただいた地元の幹部・信徒の方々を初め、本部国際部の人々も大変だったと思う。が、幸いにも両行事は成功したため、関係者の方々は今、安堵とともに、大事業を成し遂げた充実感を味わっておられるに違いない。この場を借りて、心から感謝申し上げます。ご苦労さまでした!
すでに妻がブログで触れているが、国際教修会は7月30日と31日の2日にわたり、フランクフルト市のマリティム・ホテルを使って行われ、11カ国から143人が参加した。内訳は、ブラジル(80人)、アメリカ(22人)、ドイツ(10人)、スペイン(8人)、イギリス(7人)、スイス(5人)、ポルトガル(4人)、パナマ(3人)、カナダ(2人)、そしてフランスとオーストリアが各1人だった。このうち、本部講師と本部講師補は34人だった。
今回の教修会のテーマは「自然と人間との共生・共存に向けた教典解釈に学ぶ」というもので、キリスト教神学において「神・人・自然」の関係が歴史的にどのように捉えられ、それが今、どのように変化し、あるいは変化していないのかを「教典解釈」を通して学ぼうとするものである。加えて、“環境先進国”とも呼ばれるドイツの政策が、キリスト教の影響をどの程度受け、どのように形成されてきたかを、同国の若手カトリック神学者、マルカス・フォクト氏(ミュンヘン大学ルートヴィヒマクシミリアン校教授)の基調講演や本部講師の発表などから学ぶことが目的だった。さらに教修会後には、“環境都市”として世界的に有名なドイツ南西部のフライブルク市(Freiburg)を訪れ、当地の環境対策などを視察することになっていた。
キリスト教と環境問題との関係については、本欄ですでに何回も扱ってきた。また、昨年の生長の家教修会でもこれが研修の一部となり、私は昨年7月11日の本欄で“キリスト教悪玉論”を紹介したから、ここでは詳しく述べない。ごく簡単に言えば、キリスト教の教義に含まれる“人間中心主義”が環境問題の元凶であるとする批判が、1960年代後半からかまびすしく唱えられてきたのである。が、それから40年以上が過ぎた今日、キリスト教の教典解釈においてどのような変化があり、それがさらに現実の環境保護運動や国の環境政策にどのように反映されてきたかを、ドイツの現場で確認しようというのが、今回の主眼だった。その結果、かなりの“教義の変更”が教典解釈によって行われてきたことが確認された。しかし、教典に示された基本的な“考え方の枠組み”は変更がむずかしいため、キリスト教文化圏での今後の環境政策や原子力発電をめぐるエネルギー政策には、必ずしも問題がないとは言えないとの印象をもった。
例えば、今回のゲストであるマルクス・フォクト氏が加盟するドイツ司教協議会(German Bishops Conference)では、東京電力福島第一発電所の事故を経て、明確に“脱原発”の意思表明をした。これは、今年5月24日に行われた「チェルノブイリとフクシマ後の倫理」(Ethik nach Tschernobyl und Fukushima)という題のシンポジウムに提出された論文で、この中には次のように明確な記述がある--
「倫理的な視点から見れば、放射性廃棄物の問題が解決されず、大規模な事故の可能性をもち、さらにテロリストの攻撃に晒される可能性を考えれば、原子力エネルギーの利用は、今日的視点から正当化できるものではない。我々は、再生可能エネルギーの時代への移行を加速し、原子力エネルギーの利用をできるだけ早期にやめるべきである」。
これに対し、カトリック教会の“総本山”であるヴァチカンの態度は、6月14日の本欄でも紹介した教皇ベネディクト16世のメッセージにも表れているように、原子力の利用を明確に拒否することがまだできないでいる。つい半年前に擁護していたものを、手のひらを返したようにすぐに反対するのは難しいことは理解できるが、本件のような大きな問題について発言する場合、メッセージの内容が「不明確である」ことは、マイナスの印象を与えると私は思うのである。が、ここには、教典解釈の難しさが重要な要素として含まれているとも考えられる。今後、原発問題についてのカトリック教会の態度は、世界の動向にも影響を与えると思うので、私は注目している。
谷口 雅宣