2011年8月13日

ドイツでの国際教修会について

 本欄にしばらくご無沙汰していたが、今回の海外行きについて報告しておこう。目的は、ドイツのフランクフルト市で行われる「世界平和のための生長の家国際教修会」と、ロンドンでの一般講演会のためである。いずれの行事もヨーロッパでは初めてなので、事前準備と会の運営に携わっていただいた地元の幹部・信徒の方々を初め、本部国際部の人々も大変だったと思う。が、幸いにも両行事は成功したため、関係者の方々は今、安堵とともに、大事業を成し遂げた充実感を味わっておられるに違いない。この場を借りて、心から感謝申し上げます。ご苦労さまでした!
 
 すでに妻がブログで触れているが、国際教修会は7月30日と31日の2日にわたり、フランクフルト市のマリティム・ホテルを使って行われ、11カ国から143人が参加した。内訳は、ブラジル(80人)、アメリカ(22人)、ドイツ(10人)、スペイン(8人)、イギリス(7人)、スイス(5人)、ポルトガル(4人)、パナマ(3人)、カナダ(2人)、そしてフランスとオーストリアが各1人だった。このうち、本部講師と本部講師補は34人だった。

 今回の教修会のテーマは「自然と人間との共生・共存に向けた教典解釈に学ぶ」というもので、キリスト教神学において「神・人・自然」の関係が歴史的にどのように捉えられ、それが今、どのように変化し、あるいは変化していないのかを「教典解釈」を通して学ぼうとするものである。加えて、“環境先進国”とも呼ばれるドイツの政策が、キリスト教の影響をどの程度受け、どのように形成されてきたかを、同国の若手カトリック神学者、マルカス・フォクト氏(ミュンヘン大学ルートヴィヒマクシミリアン校教授)の基調講演や本部講師の発表などから学ぶことが目的だった。さらに教修会後には、“環境都市”として世界的に有名なドイツ南西部のフライブルク市(Freiburg)を訪れ、当地の環境対策などを視察することになっていた。
 
 キリスト教と環境問題との関係については、本欄ですでに何回も扱ってきた。また、昨年の生長の家教修会でもこれが研修の一部となり、私は昨年7月11日の本欄で“キリスト教悪玉論”を紹介したから、ここでは詳しく述べない。ごく簡単に言えば、キリスト教の教義に含まれる“人間中心主義”が環境問題の元凶であるとする批判が、1960年代後半からかまびすしく唱えられてきたのである。が、それから40年以上が過ぎた今日、キリスト教の教典解釈においてどのような変化があり、それがさらに現実の環境保護運動や国の環境政策にどのように反映されてきたかを、ドイツの現場で確認しようというのが、今回の主眼だった。その結果、かなりの“教義の変更”が教典解釈によって行われてきたことが確認された。しかし、教典に示された基本的な“考え方の枠組み”は変更がむずかしいため、キリスト教文化圏での今後の環境政策や原子力発電をめぐるエネルギー政策には、必ずしも問題がないとは言えないとの印象をもった。

 例えば、今回のゲストであるマルクス・フォクト氏が加盟するドイツ司教協議会(German Bishops Conference)では、東京電力福島第一発電所の事故を経て、明確に“脱原発”の意思表明をした。これは、今年5月24日に行われた「チェルノブイリとフクシマ後の倫理」(Ethik nach Tschernobyl und Fukushima)という題のシンポジウムに提出された論文で、この中には次のように明確な記述がある--
 
「倫理的な視点から見れば、放射性廃棄物の問題が解決されず、大規模な事故の可能性をもち、さらにテロリストの攻撃に晒される可能性を考えれば、原子力エネルギーの利用は、今日的視点から正当化できるものではない。我々は、再生可能エネルギーの時代への移行を加速し、原子力エネルギーの利用をできるだけ早期にやめるべきである」。
 
 これに対し、カトリック教会の“総本山”であるヴァチカンの態度は、6月14日の本欄でも紹介した教皇ベネディクト16世のメッセージにも表れているように、原子力の利用を明確に拒否することがまだできないでいる。つい半年前に擁護していたものを、手のひらを返したようにすぐに反対するのは難しいことは理解できるが、本件のような大きな問題について発言する場合、メッセージの内容が「不明確である」ことは、マイナスの印象を与えると私は思うのである。が、ここには、教典解釈の難しさが重要な要素として含まれているとも考えられる。今後、原発問題についてのカトリック教会の態度は、世界の動向にも影響を与えると思うので、私は注目している。
 
 谷口 雅宣

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2011年7月28日

旅の空から (3)

 ノルウェーのテロ事件のような深刻な問題とブルーベリーの話を同等に扱うつもりはないが、人間の心理には多くの共通点があるから、同事件の背後にある移民問題とそれとを関連させて考えることはできる。一国内に多民族や多文化が存在している状態は、「多様性」の展開である。今、東京都知事をしている石原慎太郎氏が、かつてこのことを“社会の弱点”として批判したため、問題になったことがある。詳しくは憶えていないが、確かこんな論理だった--日本は単一民族による単一国家だから、団結力があり、社会の安定と安全の面で他国より優れている。これに対して、アメリカは多民族国家だから、社会にまとまりがなく、決定が遅く、治安も悪い。こういう単純な考え方も、典型的な“右”の思考パターンの1つである。今回の事件の容疑者もそれを共有していたようだ。
 
 7月27日付の『朝日新聞』(国際版)によると、ブレイヴィク容疑者は自作のマニフェストの中で、日本の移民政策をほめているらしい。同紙の記事を引用する--
 
「一方、容疑者が文書で絶賛するのが“日本”だ。厳しい移民政策や難民認定の少なさを挙げ、“多文化主義を拒絶して経済発展を成し遂げた”としている。会いたい人物として、ロシアのプーチン首相や旧ユーゴスラビア戦犯のカラジッチ被告と並んで、麻生太郎元首相の名を挙げた」。

 麻生氏にとっては、はなはだ迷惑な話だろうが、政治的に“右”と言われるものの考え方がよく分かる。つまり、何かを達成するためには、物事が一つに純化し、一つの方向に向いているのが効率がよく、したがって優れていると考えるのである。これを推し進めれば結局、軍隊のような制度の国が“優れている”ことになるから、北朝鮮の指導者たちは大いに喜ぶだろう。
 
 私はもちろん、こういう考えには反対である。生長の家は、実相の反映としての多様性を重んじる。自然界には多様性が満ちているが、その度合いが高いほど安定し、失われると不安定になる。このことからも、多様な表現が神の御心であることが分かる。しかし、それが分かるためには、1本のブルーベリーの木だけに注目し、その木が生み出す果実のすべてが自分の所有であると考える偏狭な心から、脱却しなければならない。脱却できない人は、自分の妻がその実を採っても、「盗っ人!」と考えて不快に思うだろう。しかし、そう思わない人は、妻と自分との共通点をよく知っている。妻と自分とが、本質的に利害が一致する存在であることを知っているのである。妻が実を採ったということは、自分の楽しみが減ったのではなく、翌朝の2人の食卓にそれが並ぶか、あるいはジャムに加工されて共に食する機会が来ることを、彼は疑わない。

 確かに、自分一人がすぐに生食する量は減る。しかし、ブルーベリーの実を生で大量に食べることの価値は、そんなに大きなものだろうか? 私はそれよりも、その半量や3分の1の量でもいい。生食だけでなく、フルーツヨーグルトとして、パンケーキやベルギーワッフルの付け合わせとして、またジャムとして食べること、しかも“孤食”ではなく、気の許せる相手と2人で談笑しながら食べることの方が、より価値が高いと考える。
 
 これに加えてカナブンと果実を共有することは、きっとさらに豊かな生き方を約束してくれるだろう。いや、本当にそうだろうか? このことの真偽については、読者の想像力にお任せしよう。
 
 谷口 雅宣

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2011年6月23日

持続可能性と気候変動の正義 (2)

 前回紹介したマルカス・フォクト氏の環境問題についての考え方は、ご本人が「人間中心主義」と呼んではいても、生態系の一部として人類をとらえる中で人間の繁栄に条件と限界を求めるのだから、「限定的人間中心主義」と形容できるだろう。この考え方は、ヴォグト氏自身が言っているように、国連環境開発会議の“リオ宣言”で合意された「持続可能性(sustainability)」の考えとも合致しているから実際的であり、国際的規範としても有効性があると思う。事実、生長の家が計画を進めている“森の中のオフィス”構想の「中・長期的ヴィジョン」などを読んでみると、ヴォグト氏が提示した“限定的人間中心主義”に近い考え方が相当程度盛り込まれていることが分かるだろう。

 人間中心主義の検討に続いて、ヴォグト氏はキリスト教の文脈でよく使われる「神の創造(Creation)」という言葉の意味を問いかけている。この言葉は、キリスト教の重要な概念である「救い」などと比べて、長い間注目されてこなかった。その理由の1つは、聖書に描かれた天地創造の話が、ダーウィンの進化論や科学的研究と比較すると“理性的な考え”とは見なされなかったからだ。このため創造の問題は、人類学や自然科学などから隔絶するというキリスト教倫理学にとって大きな禍根を残すことになった--とヴォグト氏は指摘している。しかし、1989年以降、カトリックやプロテスタントの別を問わず盛んに言われるようになった“神の創造を保護する”という考え方は、まるで自然を社会的な保護の対象にするかのようだから、同氏は「ばかばかしい」と批判している。ヴォグト氏によれば、人類は創造全体の中でほんの微細な一部にすぎないのだから、神の創造全体の保護を人類の義務として背負わせることは、過大な負担だというのである。

 さらに、キリスト教徒が「神の創造」を信じるということは、そこに生態学的な意味での「調和」があると信じることではない、と同氏は言う。この部分は、なかなか厳しい認識だ。自然とは、単なる調和によって特徴づけられるものではなく、紛争や存在をかけた闘争、死や苦しみでさえ一定の役割をもつ1つの秩序体系であり、と同時に、安寧や治癒をもたらす場所としての性格を失わない、と同氏は言う。このような見方をすれば、持続可能性をめぐる神学上の倫理は、生態系の救済を説くものではない。また、自然への倫理ではない。それよりも、自然を一つの窓口として見、自然と人間の文化との、また(自然の)保護と更新との終りのない緊張である、と同氏は説明する。この最後の、難解に聞こえるところの意味は、たぶんこういうことだ--人間と自然とは「本来調和している」という性質のものではなく、相互が干渉し合い、せめぎ合う中で変化していくものである。だから、持続可能性の実現とは、人間の手の加わらない自然の生態系を回復することや、自然界と倫理的につき合うことを意味しないというのだ。
 
 しかし、だからといって、人間の好きなように自然を改変していい、とは同氏は言わない。持続可能性は、それを定めた“リオ宣言”が示すように、生態学にもとづくのではなく、「正義」の考えを地球大に、また世代間に拡大したものだ、と同氏は言う。科学技術の発達やグローバリゼーションの進展を考えれば、持続可能性の要請は当然の論理的帰結だというのである。つまり、現代は、長期的な影響や社会的な相互交流に、空間的、領土的な制約がない時代になっている。だから、地球規模の平等と、世代間の平等の実現が正義となるのである。そういう意味で、地球上の生物圏の機能を保護することは、未来世代のための、また貧困撲滅のための重要な貢献となるのである。ヴォグト氏によると、この持続可能性の前提となる2つの倫理原則は--①未来世代の人間は、現世代と同じ生存権をもつべきである、②地球上どこでも入手できる資源は、すべての人間に平等に与えられるべきである、の2つだ。これら2原則を同氏は「地球規模の世代間平等主義」と呼ぶが、これには早急に一定の制限が課せられるべきであるとする。が、この問題は煩雑になるので、本欄では触れない。
 
 では、ヴォグト氏が目指す“正義”を実現した未来社会とは、どのような姿か? これについては、同氏はこの論文で多くを語っていない。が、それらしきものを書き出してみる--
 
「“より速く、より高く、より多く”という考えは、進歩の理想としては不十分であることが証明された。より少ない資源から生み出された富だけが、より多くの人々に配分されるのだから、正義を実現することができる」。

「持続可能性は、資源節約のための社会的、経済的政策の代名詞であってはならない。それは、倫理的、文化的な変化を目指すものだ。成長は無限だとする現在の進歩についての考え方は、開発にとって不可欠な価値によって置き換えられねばならない。長期的な視点に立った経済の成功は、自然のリズムにどれだけ統合されているかによって評価されるべきである」。
 
「持続可能性は、未来への1つの警告である。その背後にある希望は無限に続く成長ではなく、自然の限界内での充実した生活である」。

 生長の家の“森の中のオフィス”構想とも共通し、あるいは参考になる考えがいくつも見出される。
 
 谷口 雅宣

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2011年6月22日

持続可能性と気候変動の正義

 まもなくドイツで行われる「世界平和のための生長の家国際教修会」でゲスト・スピーカーとして講演するマルカス・フォクト博士(Markus Vogt)の論文を読んだ。「神学的視点から見た持続可能性と気候変動の正義」という題の英語の論文だ。題の日本語訳は大仰に聞こえるが、原題は「Sustainability and Climate Justice from a Theological Perspective」だから、案外シンプルだ。何が書いてあるかと言えば、「地球温暖化に伴う気候変動の問題を解決するためには、何を正義の基準とすべきか」が、ドイツのカトリック神学者の立場から提示されている。ヴォグト博士は、ミュンヘン大学などでキリスト教倫理や神学の教授をしていて、ドイツ司教会議(German Bishop's Conference)のアドバイザーもしている。一読して、同氏が倫理学者、神学者として地球温暖化問題に相当な危機感をもっていることが分かった。
 
「一読」とは書いたが、ヴォグト氏の英語は難解だった。だから、同じ文章を2回、3回読んで理解することもある。これは、私の英語力の問題もあるのだろうが、氏の“ドイツ的厳密さ”が英語にも表れており、さらに氏の学識の広さも関係していると思う。ここでは、1つの文章に神学、経済学、政治学の用語が織り込まれていたりする。印象深かったのは、氏のこの問題に対する真剣さと、思慮深さだ。地球環境問題や気候変動については、日本ではいまだに一部で「自然現象で人間には責任がない」という種類の粗雑な議論が行われていて、それを読んだ人から本欄にも疑問を呈するコメントが付けられたりする。また、経済界にも政界にも、この問題を長期的な視点で深く考えている人はほとんど見当たらない。だから、ヴォグト氏のような哲学的、神学的視点を本欄で紹介することは、我々の心の“視野拡大”のために役立つと思うのである。

 ところで、私は2002年に『今こそ自然から学ぼう』(生長の家刊)という本を出したとき、副題を「人間至上主義を超えて」とした。これには英語訳も添付されていて、主題は「Learning from Nature」であり、副題は「beyond anthropocentrism」である。「anthropocentrism」の「anthropo-」は「人間」とか「人類」という意味であり、「-centrism」は「中心主義」と訳せるから、「anthropocentrism」は「人間中心主義」とも訳せる。事実私は、本の副題では「--至上主義」としたが、本文内では「ーー中心主義」という言葉を使っている。一般の日本人読者にとっては、「至上主義」の方が分かりやすいと思ったからである。この本の中で、私は人間中心主義を次のように説明している--
 
「人間を生態系の中心に置いて、人間のために良好な自然環境を作り上げたり、人間に快適な程度に自然保護を行うというのが1970年代までのエコロジーの考え方だった。この考え方では、人間と自然とが互いに独立した対立関係にあり、しかも自然の価値と人間の価値が対立した場合には、常に人間の価値が優先されたから、“人間中心主義(anthropocentrism)”を出ることがなかった」。(p.28)
 
 これに対し、1980年代以降に生まれた「ディープ・エコロジー」は、人間を自然の一部と見なして、人間の自然観の変革や人間観の“深化”を通して、人間の生活スタイルの変化を要請するものだから、より宗教や信仰に近く、環境問題の解決により有効であるとして、私は好意的に記述している--
 
「1980年代以降に登場したエコロジーでは、しかし人間と自然との関係をもっと深く見つめ直し、人間を自然の一部としてとらえ、自然を支配しようとする人間の態度そのものの中に環境問題の原因を見出したり、人間自身の生き方を変えることで自然との調和ある関係を回復することを目指すような動きが生まれてきた。これは、従来のエコロジーに比べ、より深く問題の本質に迫る考え方であるから、“深い環境保護思想”というような意味でディープ・エコロジーと呼ばれる。また、人間中心主義に対して、“生態系中心主義(ecocentrism)”あるいは“生命中心主義(biocentrism)”などと呼ばれることもある」。(pp.28-29)
 
 ヴォグト氏は、論文の初めの部分でこの「anthropocentrism」を検討しているが、それを頭から否定する立場ではない。それよりは、「生態系の中での人類を見れば、人間中心主義には自ずから成立の条件と限界がある」と見るのである。
 
 それらの条件や限界の具体例を、ヴォグト氏は次のように4点掲げている--
 
 ①科学技術の否定ではなく、自然資源をムダ遣いしないための技術開発を支持し、
 ②富の追求や自由市場を拒否するのではなく、資源節約型の繁栄のために、環境に配慮した社会市場を求め、
 ③倫理の分野では、近代超克型ではなく“第二の近代”を見据えた倫理を目指し、
 ④人間を犠牲にした環境中心主義ではなく、環境を配慮した人間性の実現を目指す

 これらの考え方は、人間中心主義を脱していないし、従来の経済発展の考え方からも抜けきっていない。しかし、ヴォグト氏は、1992年に国連の環境開発会議において採択された“リオ宣言”の27か条の第1条に「人類は持続可能性の中心にある」(Human beings are at the centre of sustainability.)と書かれていることを指摘し、この考え方に議論の余地があることは認めながら、それは今の時点でいろいろな立場の国々から広範囲の合意を得ているのだから尊重すべきだとしている。そして、この宣言の中で、倫理的に有益な視点として最も重要なのは、「自然保護と人類の保護を分けて考えることはできない」という認識だという。
 
 谷口 雅宣

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2011年6月18日

コスタリカから愛を込めて

 中米の国、コスタリカでシニアボランティアとして活躍している武山久恵さんが、14日の本欄にコメントをつける形で、同国の有志が東日本大震災に遭った我々への激励のメッセージを動画で作成してくれたことを教えてくれた。本欄へのコメントという形では読者の目につきにくいので、ここに彼女のメッセージとともに掲載することにした。以前、香港の人々からの感動的な動画メッセージを紹介したが、このようにして世界各国の人々が日本の復興と再起を望んでくれていることを知り、胸が熱くなるのは私だけではあるまい。感謝合掌。
 
 谷口 雅宣

--以下、武山さんのコメント-------------------------

 コスタリカという小さな中米の国でJICAシニアボランティアとして2年間夫とともに活動しております。コスタリカ大学の高齢者のためのコースの活性化が任務です。

 コスタリカは非武装で、エコツーリズムの発祥地で、1月には秋篠宮殿下夫妻もお見えになりました。
3月に日本支援のDIA DE  ARIGATOという、大きなチャリティイベントも開かれ、1万人以上が来場しました・
この6月に日本への素敵な応援ソングができました。

 以前総裁先生が 『雨にも負けず』を香港の方たちが作ってくださり、私も授業で使わせていただきました。そのことを思い出し、ご紹介させていただきたいと思います。

歌詞が素敵です。

  いろいろあるさ、
  失う時、
  苦しい時、
  でも光は来る、
  最後に必ず、
  苦しみが終わり、
  愛がやってくる、
  灰色が過ぎ去り、
  再び色づく、
  愛の海、
  コスタリカからの心からの愛、
  愛の海……

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2011年6月15日

サダムに電話する

 週末の水曜日の夜、妻と一緒に久しぶりに銀座で映画を見た。イラクのモハメド・アルダラジー監督の『バビロンの陽光』(Son of Babylon)という作品で、ベルリン映画祭でアムネスティ賞と平和賞を同時受賞した。イラク人監督の映画を見るのは2~3回目だろうか。欧米や日本の映画を見慣れていた私は、「何と違うことか」との印象をもった。単調と言えばきわめて単調で、単純と言えば単純そのもののストーリーである。ある老女とその孫が、12年も音信不通である自分の息子(孫の父)の消息をたずねて、イラク北部から南部のナーシリーヤへ1千キロもの旅をする--それだけである。しかし、この旅が行われたのが、イラク戦争でサダム・フセイン政権が倒れてから3週間後であり、この老女がイラク人ではなく、同国で弾圧されていたクルド人であることが分かると、その長い旅程が、老女と子供にとって危険きわまりないものだと了解され、観客の心には“サスペンス映画”を見るような緊張感が生まれるのである。
 
 戦争がまだ完全に終わっていない地を、老女と子供だけで、ほとんどヒッチハイクのような方法で延々と旅をする。その間に、多くの人々に遭い、助けられたり邪魔者扱いされたり……しかし、いわゆる“悪役”のような人間は出てこない。あえて言えば、途中の検問所で人々に銃を突きつけるアメリカ兵が“悪者”のような感じがしないでもない。人々は何か大きな不条理な力が自分たちの大切なものを奪っていくのを、ただひたすら堪え忍んでいる。私が「違う」と感じたのは、こういう“起伏”や“抑揚”や“白黒”がはっきりしない映画を、これまであまり見たことがなかったからだ。その構成上の不鮮明さと、画面に展開される果てしなく広い平坦な砂漠とが相まって、眠気さえ覚えてきた。
 
 イラク戦争については、私は本欄でも国際政治の観点から結構書いてきた。が、その観点から明確であったことが、この映画ではほとんど不明確である。例えば、サダム・フセインは、民族独立を志向するクルド人に対しては血も涙もなく、化学兵器を使って大量虐殺をした。この事件は現地では「アンファル」と呼ばれている。映画の中でも、どこそこで“集団墓地”が発見されたという話が出てくるが、これなどは決して日本人が考える「墓地」ではなく、虐殺後の死体投棄所のことなのだ。で、そういうクルド人虐殺に荷担したというイラク人が、主人公の老女と子供の世話をしようとする。「あんたらを放っておけない」と言うこの元兵士は、「強制されたから仕方がなかった」と弁明する。そして、罪滅ぼしをしたいという意図が明確である。老女は当初、彼の援助を激しく拒否するが、やがて心を許すようになる。皆、何かの犠牲者なのだ、というメッセージがそこにある。
 
 では、そんな巨大な悪であるサダム・フセインが倒れたのだから、それを実行したアメリカ軍が英雄のように描かれるかと言えば、決してそうではない。上に書いたように、米兵は「サダムを倒したからもっと恐ろしい」という感じで描かれる。たぶんイラクの民衆の正直な感覚なのだろう。ところで、今日の本欄の題名である「サダムに電話する」という語だが、これは映画の会話の中に“暗号”のように使われる。が、意味していることは明確である。最初、トラックの運転手はこの言葉を放ってから、用足しに姿を消す。それを見ていた主人公の少年は、映画の終わりのほうでそのマネをして、「サダムに電話する」と言ってから、適当な藪を探して小便をする。しかし、どうしてこの言葉が用足しを意味するのか……私は考え込んでしまった。
 
 読者はどう考えるだろうか? 私の憶測を言おう--この言葉は、日本だったらさしずめ「特高に連絡する」というほどの意味だろう。が、相手の目の前で密告を公言する人はいない。ということは、「人には言えないことをする」という意味ではないだろうか? サダムの治政下では、もちろんこの言葉は口に出せない。が、映画はサダムが倒れた後を描いている。冗談でこう言って、独裁政権崩壊の現実を噛みしめているのではないだろうか。
 
 谷口 雅宣

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2011年6月14日

イタリアが“脱原発”を決定

 本欄のために割く時間が少なくなっている。7月にドイツで行われる国際教修会や新刊書の仕事が増えているからだ。しかし、うれしいことはきちんと「うれしい」と表現するのが日時計主義だから、これについては書かせてほしい。ドイツとスイスに次いで、イタリアが国民投票によって原発からの撤退を決めた。東日本大震災による福島第一発電所の大事故が人類に何かを与えるとしたら、それはこの種の“反面教師”としての教えなのかもしれない。このイタリアからの朗報については、『朝日新聞』と『日本経済新聞』の報道姿勢の違いが面白い。
 
 脱原発の姿勢が明らかな『朝日』は、こう伝える--
 
「原発再開の是非を問うイタリアの国民投票は、投票最終日の13日、投票率が50%を超えて成立した。開票が始まり原発反対派が9割を超えて圧勝し、新規建設や再稼働が凍結される見通しとなった。投票不成立を目指したベルルスコーニ政権への大きな打撃となった」。

 これに対し、原発に同情的な『日経』では、記事はこうなる--
 
「イタリアで12~13日に実施された原子力発電の再開の是非を問う国民投票が成立し、政府の原発再開の計画を否決した。内務省の発表によると、投票率は約57%に達し、成立の条件である50%を上回った。福島第1原発の事故後、主要国で原発政策に関する国民投票は初めて。他国からの電力購入や再生可能エネルギーの利用拡大など戦略の練り直しは必至だ」。

 読者は「あれーっ」という感じをもたないだろうか。『朝日』を読むと、国民の9割が原発反対であるかのような印象を受けるが、『日経』では“僅少差”で原発の運転再開が否決されたと読める。しかし、注意深く読み直してみると、国民投票が成立するためには、2日間で有権者の半数が投票しなければならず、その投票者の9割(正確には 94.5%)が“脱原発”を選択したのだと分かる。『朝日』は、この9割を「圧勝」と評価して記事の頭に書いているが、『日経』はそうとらえず、引用した記事の最初の段落には「57%」という投票率の数字だけを書いている。事実を冷静に考えれば、投票した人のうちの94.5%は全体の53.6%だから、「圧勝」という『朝日』の表現は明らかに言い過ぎであり、「否決」としか言わない『日経』は言わなすぎだと私は思う。もちろん両紙とも、記事の後の方ではすべての情報を開示しているが、忙しい読者は記事を最後まで読まないだろうから、受け取る印象はずいぶん違ったものになる。両紙の編集デスクは、もちろんそのことを十分心得ていて「記事づくり」をしている。新聞報道とはそんなものだ。
 
 ところで、この国民投票が行われる前に、ローマ教皇が原子力発電に否定的見解を述べたという事実を読者はご存じだろうか。私は、これが今回の結果に少なからぬ影響を与えたのではないかと考える。6月9日付でカトリック・ニュース・エージェンシーが流したニュースによると、ベネディクト16世はこの日、駐バチカン大使が集まった会合で「世界はもっとクリーン・エネルギーの開発を進めるべきだ」と発言したという。この日はちょうど、スイスが“脱原発”を決めた日だったから、教皇がいう「クリーン・エネルギー」に原子力発電は含まれていない。
 
 この集まりは、シリアなど7カ国の新任バチカン大使との謁見の場で、教皇は「今年前半は、自然や科学技術、人々に影響を与えた多くの悲劇に見舞われた」として、東日本大震災とその影響による福島第一原発の事故に言及した。と同時に、教皇は「人間は、自然を守る仕事を神に任されているのだから、科学技術に支配されたり、その対象になってはならない」と述べたという。また、「人類は心を入れ替えて、環境を敬うライフスタイルを採用し、クリーン・エネルギーの研究と開発を支援しなければならない。神の創造の遺産を尊重し、人類に害を及ぼさないことーーこれが政治と経済の優先課題とならなければならない」と述べたという。

 ローマ教皇庁は、これまで原子力エネルギーについて肯定的な態度を示してきたが、福島第一原発の事故を契機として、否定的な見解に変わったと見られる。教皇の発言は「原子力」を直接名指ししていないが、今回の発言の中で「無限に強力で、究極的に制御不能のテクノロジー」に過度の信頼を置くことは、人間から人間性を奪うと述べていることから、原発への過度の依存を批判していると解釈できる。この発言はまた、教皇の母国であるドイツが“脱原発”の決定をしたことと無関係ではあるまい。
 
 谷口 雅宣

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2011年6月 7日

CO2の“肥育効果”

 前回本欄を書いてから、少し日がたってしまった。長文の原稿を書いていたので、ブログまで手が回らなかった。この世界は、短い期間に本当にいろいろなことが沢山起こる。日本の政治でもゴタゴタが起こったが、触れる価値があまりないので今は何も言わない。国際関係でも重要なことが起こっているが、改めて別の日に書こうと思う。6月5日には生長の家講習会が埼玉教区の4会場であり、これについては妻がすでに書いてくれた。私はこの日の前日に、講習会での午前の講話の構成を少し変えようと思い、使用するパソコンの画像システムに手を加えた。これにも案外、時間がかかった。多くの人は、パソコンによるプレゼンテーションをマイクロソフト社の「パワーポイント」を使って行うが、私はNeosoft社の「NeoBook」というマイナーなソフトを使う。理由は、このソフトをもう10年以上使っていて、乗り換える気がしないからだ。それでもまだ、このソフトのすべての機能を使っていない。なかなか奥深いところが、また好きである。

 埼玉での講習会の午後の講話では、世界の穀物生産量が“頭打ち”になっていることに触れた。世界人口は増え続けているのに、穀物生産が増えないということは、飢餓人口が増えていることを意味する。そんな中で、中国やインドなどの新興国の経済発展が続いている。人間は、経済が豊かになると肉食を増やす傾向がある。実際に中国ではそれが起こっている。ということは、飢餓人口はさらに増え続けることを意味している。なぜなら、現代の食肉生産には穀物飼料が大量に使われるからだ。こうして、家畜を殺して食する行為は、回り回って人間が同胞の食糧を奪う結果になる。仏教が昔から教えている因果応報の原則は、グローバル経済の中でも確実に進行しているのである。
 
 この世界の食糧問題について、6月4~5日付の国際紙『インターナショナル・ヘラルド・トリビューン』(IHT紙)が人類の“運命”を救おうとする科学者の努力について書いていた。温暖化による気候変動や森林伐採により、世界各地で砂漠化が進んでいるが、水分が少なくても育つ穀類の新種を生み出そうという努力は、穀物消費量の増加に追いついていない。つまり、世界の4大穀物--小麦、米、トウモロコシ、大豆--の在庫は減り続けているのだ。これによって、2007年以降、穀物価格の急騰が2回あった。このことは、可処分所得に占める食費の割合が小さい先進諸国では、あまり騒がれていない。しかし、この割合が大きい途上国では、メキシコからウズベキスタン、イエメンにいたるまで大きな問題となり、暴動が起こった国も少なくない。また、今年の初めから続いているエジプトや北アフリカの政情不安も、食糧価格高騰と関係している。このことは1月の本欄(1月7日 同15日同28日)ですでに触れた通りだ。
 
 しかし、今回のIHT紙の記事のポイントは、食糧高騰と政情不安の問題ではない。そうではなく、地球温暖化にともなう気候変動は、食糧生産に予想以上の悪影響を及ぼしているという危機感だ。地球温暖化の影響を評価した多くの科学者たちは、当初の気温上昇は食糧生産にあまり深刻な打撃を与えないだろうと考えていたらしい。なぜなら、大気中のCO2の上昇も気温の上昇も、植物の成長には一般に有利に働くからだ。日本の環境庁(当時)の予測も、温暖化の初期は国内の農産物の収穫量は上がるとしていたのを、私は覚えている。このCO2上昇による植物の成長増加現象を、科学者たちは“CO2による肥育”(CO2 fertilization)と呼び、2007年の国連のIPCC報告書にも楽観的予測を盛り込んでいた。しかし、この予測の元となった研究は、温室などの人工的環境で行われたものが多かったため、実際の自然環境では違う結果が出ているというのだ。どう違うかといえば、CO2による肥育効果はあったとしても、気温上昇によって害虫が増えたり、旱魃や洪水が起こったり、都市化による地下水の減少が作物の生育に不利に働いているため、全体としては温暖化は食糧の生産増につながっていないというのだ。

 このような状況を知ってみると、日本の農業の振興は急務であり、肉食を減らす運動をさらに盛り上げていく必要があると強く感じるのである。
 
 谷口 雅宣

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2011年6月 2日

科学技術は選択すべし

 前回の本欄では、“人間が生んだ地球”の上で「技術社会を放棄せずに、人間の尊厳を保って生きていくにはどうすべきか?」という問いかけをした。アメリカの2人の大学教授は、先端技術の「影響をより深く知り、その中で理性的に、責任をもって、倫理的に生きる」べきだと書いていたが、具体的にどうしたらいいかは述べていない。私は、年ごとに強力となり、影響力を増しつつある科学技術について、全部を否定したり、全部を丸ごと肯定するのではなく、それぞれの技術の性格をよく知り、それを使うであろう我々人間の(現象的な)性質を考慮し、理性的に、責任をもって、倫理的に考えれば、ある種の科学技術については、人類として使用を禁じたり、制限するという「取捨選択」が行われるべきだと考える。
 
 このことは、核兵器や生物・化学兵器などの大量破壊兵器に関しては、相当程度の国際合意ができている。また、戦争法規の分野でもかなりの合意があり、“人道に関する罪”という新しい概念もできつつある。大体、「兵器」と呼ばれるものは皆、科学技術の産物である。その中で破壊力が著しいものを選んで、開発や使用を制限することができるのだから、戦争のためでない科学技術の分野でも、同じことができないはずはない、と私は考える。そういう意味で、今日、原子力発電という技術を取り上げ、今後の利用の是非について世界中が検討を進めていることは、好ましいことだと思う。世界的な合意は簡単にはできないだろうが、“人間の作品”を全面的に肯定する段階から、人類は一歩成長したと見ることができるからだ。

 ところで、福島第一発電所の事故の調査・検証委員会の委員長になった畑村洋太郎・東大名誉教授が、5月30日の『日本経済新聞』で“人間の性質”について興味ある見解を述べている。それによると、人間には次の3つの習性がある--
 
 ①見たくないものは見ない、
 ②考えたくないことは考えない、
 ③都合の悪い事柄はなかったことにする

 畑村名誉教授によると、これらの習性から生じた“人間万能”の錯覚が、今回の大震災で津波被害や原発事故を拡大させたというのである。簡単に言えば、人間は間違い、失敗するという事実を忘れ、科学技術の力を“過信”したことが悲劇を生んだのだ。その畑村氏が、こう言っている--
 
「原子力はエネルギーを取り出すのに大切だが、ものすごく危ないものだとの前提で付き合うべきだった。完全に制御することはできないうえ、いったん制御が外れると暴走を止めるのは容易でないことを認識しておくべきだった」。

 が、同時に畑村氏は「日本が原子力を使わずに生きていけるとは思わない」と書いている。私はこの点、同氏とは意見が違う。今、日本全体の原発の7割ほどが停止している。しかし、日本人はちゃんと生きているのだ。25日の『朝日新聞』夕刊によると、日本学術会議は目下、原発の即時撤退から段階的な自然エネルギーへの代替、原発推進まで4つの選択肢を検討しているという。すなわち、①原発を即時全面停止して火力などで代替する、②5年程度で原発分の電力を自然エネルギーと省エネで代替する、③20年程度で原発分の電力を自然エネルギーで代替する、④誰もが安全だと認める原子炉をつくり、将来も重要なエネルギーとして位置づける--の4段階だ。
 
 私はこの中では、ぜひ②を選んでほしい。もし、いろいろな理由でそれが無理なら、せめて③の方向へ日本は進むべきだと思う。新しくやることは山積している。菅内閣の不信任案が国会で否決されたが、日本の政治家はこんな政争にうつつを抜かしている暇などないのである。

 谷口 雅宣

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2011年5月26日

菅首相の“新”エネルギー政策を歓迎する

 今朝(26日)の新聞各紙は、OECD(経済協力開発機構)の設立50周年記念行事での菅直人首相のエネルギー政策見直し演説について、大きく報じた。東日本大震災の経験から学び、日本の発電量全体に占める再生可能の自然エネルギーの割合を「2020年代のできるだけ早い時期に20%にする」という中期目標を発表するというのだ。これは国際会議の場での意見表明だから、数値目標をともなった事実上の国際公約と言える。日本の自然エネルギーの利用割合は2009年時点で約9%というから、これを10年間で倍増以上させる考えだ。また、この9%の大半は水力発電によっていて、大型ダム建設が困難な現状では、今後の増加分のほとんどは風力や太陽光などの再生可能エネルギーで賄わねばならない。
 
 昨年6月に策定した政府のエネルギー基本計画では、総電力に占める自然エネルギーの割合は「2030年までに20%」とされていた。同時に、原子力発電の割合は「50%以上」となっていたので、私にとっては大変遺憾だった。原発は、人間至上主義の“権化”のようなものであり、しかも世代間倫理を軽視しているからだ。それが、大震災と福島第一原発の事故を経験したことで、今回の大幅方針転換となった。今後の原発の増設はほとんど不可能だろうから、日本は自然エネルギーの目標割合「20%」を達成するために、経済も産業も政治も、様々な新規分野に本気になって取り組んでいかなければならない。日本経済は、いよいよ「自然と共に伸びる」形で進んでいかねばならないのだ。
 
 前回の本欄で触れた孫正義氏のメガソーラー構想についても、今日の各紙は“後追い”記事を書いている。それを読むと、菅首相と孫氏が何か仲良く連携しているように感じるのは、私だけだろうか。『日本経済新聞』によると、孫氏が率いるソフトバンクは19の地方自治体と組んで「自然エネルギー協議会」という政策協議会を今年7月上旬に結成するという。この協議会は、再生可能の自然エネルギーの利用普及に向けて政策提言をまとめる場で、ソフトバンクは1カ所あたり2万キロワット程度の太陽光発電所の建設に出資するらしい。『日経』の表現では、「電力不足への懸念が広がる中、同社が主導して電力会社に依存しない仕組み作りを目指す」という。
 
 具体的には、農地転用への規制緩和を提言し、全国の休耕田や耕作放棄地に太陽光発電所を建設することを考えているようだ。また、風力や地熱の利用も視野に入れているという。この協議会に参加を表明している自治体は、北海道、秋田、埼玉、神奈川、山梨、長野、静岡、愛知、福井、三重、岡山、広島、香川、高知、佐賀、長崎、熊本、大分、宮崎の19だが、『朝日新聞』によると、大阪や兵庫など7府県を抱える「関西広域連合」も参加を検討しているという。また『日経』は26日の夕刊で、鳥取県の平井伸治知事が、孫氏の計画に参加する意思を表明したことを伝えた。孫氏の計算では、全国の休耕田や耕作放棄地の合計は54万ヘクタールだが、この2割で太陽光発電を行えば5千万キロワットの電力供給が実現するから、「今夏のピーク時の東京電力の供給能力に匹敵する」のだそうだ。
 
 ところで、生長の家の国際本部が2年後に移転する予定の山梨県北杜市には、すでにメガソーラーの施設がある。北杜市はこの分野では先進的で、2006年度から長坂町夏秋および塚川地区(秋田工業団地とその周辺)のおよそ10ヘクタールの土地に、NTTファシリティーズなどと共同で、電機各社の太陽光発電パネルを大量に並べた2メガワット(2000kW)級の大規模太陽光発電システムを構築し、「大規模電力供給用太陽光発電系統安定化等実証研究北杜サイト」として、系統連系時に電力系統側へ悪影響を及ぼさないシステムの開発を目指した実証研究を行ってきた。この研究は今年3月で終了し、4月からは北杜市営の「北杜サイト太陽光発電所」として新たにスタートしている。
 
 このような動きをさらに前進させるために、生長の家も“地域貢献”を含めた努力を続けていく考えである。
 
 谷口 雅宣

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