2009年11月 1日

桜島の火山灰

 今日は鹿児島市で生長の家講習会が開催された。妻と私は前日から鹿児島入りしていて、その日は晴天で夏を思わせる暖かな気温だった。鹿児島県のシンボルである桜島は、普段より多く噴煙を吹き出している、と出迎えの人が教えてくれた。しかも、南風が吹いているため、鹿児島市内に火山灰が降るのだという。そして、そういう日が2~3日続くと、同市内には雨が降って灰を流してくれるのだそうだ。その時はこの話を「へえー」っと思って半信半疑で聞いていたが、翌日になって本当に雨が降ったから、驚いた。そして、講習会が終る頃には再び晴天となった。
 
Haitohana  桜島の火山灰と雨との関係を聞いたとき、ロシアか中国が大きなイベントのある日を晴天にするために、事前に人工雨を降らせるという話を思い出した。ウィキペディアで調べてみると、雨や雪が生じるためには、雲の中に氷の粒ができる必要があり、その氷晶を作るものは空気中に浮かぶ微小な粒子だと書いてある。そして、この微小な粒子とは、「主に海の波飛沫で吹き上げられた塩の核であり、他に陸上から生じた砂塵などの粒子もある」とあった。だから、桜島から吹き上げられた火山灰が、氷の結晶ができる“核”になる可能性はあるのではないか、などと素人考えで想像する。
 
Sunadashi  桜島の火山灰はとても細かいそうだ。だから、桜島に住む人々の家には樋(とい)がないらしい。火山灰が雨で流れずに、樋を詰まらせてしまうのだ。そう言えば昨日、宿舎のホテルの周りを歩いたとき、道路脇に「克灰袋」を置く場所を指定する標識があるのを見つけた。自宅の敷地内に降った火山灰を集めて回収し、建設資材の一部に利用するのだそうだ。そのための袋を「克灰袋」と呼ぶのが、おもしろい。「灰を克服する」という意味だろう。それほど、火山灰はこの地の人々の生活圏に深く侵入してくるのだろう。黒い自動車が灰白色になっていた。植物の葉や花にも灰が積もって、色が変わっていた。戸外を歩いていると、時々目に何か細かいものが入った。そんな中でもジョギングをする人の姿を見かけたから、健康上の問題は深刻でないのかもしれない。
 
Graycar  活火山とともに生きるというのは、なかなか大変なことだと感じた。が、火山があるために、他の地域では味わえないよいこともあるはずだ。講習会の終了後に、鹿児島市の北方にある「仙巌園(せんがんえん)」という所へ寄った。薩摩藩の第19代藩主、島津光久の別邸跡を一般公開しているところで、約5万平方メートルの庭園と立派な平屋の屋敷とは、桜島を正面にして造られている。説明書には「錦江湾を池に、桜島を築山に借景した雄大な庭園」とあるから、昔の人たちがこの山をいかに愛していたかが分かる。噴煙を出しながら刻一刻と表情を変える山が、いつも目の前にあるのとないのとでは、きっと自然に対する考え方や生き方も変わってくるのだと思う。
 
 谷口 雅宣

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2009年10月24日

絵封筒展、開きます

 10月13日の本欄で私の絵封筒について触れたとき、11月に長崎県西海市の生長の家総本山で行われる秋季大祭を機に、これまで描いた作品を集めて絵封筒展を開くことを検討中だと書いた。おかげさまで、総本山と世界聖典普及協会のご協力により、同本山の練成道場第2研修室で「谷口雅宣絵封筒展」を開催することがこのほど決まった。期間は、11月20日の午後から22日の午後3時半までで、約70点の絵封筒が展示即売される予定。昨年夏に宇治別格本山で展覧会を行ったときの絵封筒の出品数は34点だったので、その倍ほどの数がお楽しみいただける。主催者の世界聖典普及協会では、この展覧会に合わせ、私の絵封筒の絵柄をあしらった来年用卓上カレンダーも頒布するという。

 さて、今日は生長の家講習会で群馬県の太田市藪塚町というところに来ている。ここは桐生市の隣町で、講習会は山を一つ越えた桐生市の市民文化会館で行われる。その前日のひと時を、この鄙びた温泉町で過ごすことができた。温泉町とはいうが、温泉宿は私たちが止まったホテルを含めて、3軒ぐらいしかない。かつては栄えた町だったであろうが、今は訪れる人の数が多くないことは、町のあちこちに掲げられた店の看板の古さや、旅館の壁の傷み方、温泉宿近くの神社の庭の荒れ具合などから想像できる。それでも私たちが泊まったホテルには、日帰りで温泉を楽しむ地元の人々が多く集まってきていて、広い駐車場もほぼ満杯状態だった。私たちは夕食前、そんなホテル界隈を散策して、町の様子をゆっくりと味わった。
 
 寂れた町にもいいところはある。特に、“旅人の目”で見る静かな夕暮れ時の田舎道は、Ginnan_gum なぜか心を落ち着かせてくれる。住む人が少なくなっても、その逆に自然の力が諸所に豊かに発揮されているのが分かるからだ。私はそれを地元の産土神社近くにあった廃屋の屋根の上に見た。廃屋の隣には、幹の太さが二抱えもあるイチョウの雌木が立っていて、錆びたトタン屋根の上にびっしりと銀杏の実が落ちていたのである。私はその時、講習会で福岡へ行った際、博多の街のイチョウ並木の下に落ちた銀杏の実を、地元のおばさん達が目を皿のようにして拾っていた姿を思い出した。都会での“貴重品”も、この地では拾う者は誰もいない。その代り、それらは自然の循環の中で、しっかりと役割を果たしながら息づいているのだった。
 
 銀杏を敷きつめてありトタン屋根
 
 谷口 雅宣

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2009年10月12日

グーグルのブック検索 (2)

 グーグル自身は、著作(権)者のこういう心配を意識していて、そうならない方法をいろいろ工夫しているようではある。例えば、現在の日本語のグーグル「ブック検索」では、スキャンした本の全部ではなく、一部が表示される。また、著作(権)者が同意しない本については、検索してもまったく表示されないか、あるいは表示される箇所がきわめて限定的だ。そして、検索ページには、次のような説明文も出る--
 
「図書館プロジェクトでブック検索に登録された書籍の場合は、著作権の状況によって閲覧できる範囲が決められています。Google では、著作権法および著者の多大な努力を尊重しています。著作権が失効しており、著作権保護の対象とならない場合は、書籍全体をブラウズしたり、ダウンロードして読んだりすることができます。著作権で保護されており、出版社または著者がパートナー プログラムに参加していない場合は、図書カード カタログのように、書籍の基本情報と、場合によっては書籍の抜粋、つまり検索キーワードの前後の文章が表示されます。」

 それは確かにその通りなのだが、これは前回の本欄で触れたアメリカでの“和解”が成立する前の、旧バージョンでのサービスのことだ。今後、日本も含めて世界的に実施される新バージョンの「ブック検索」では、1冊の本の全文検索が基本となるだろう。この場合、著作(権)者は、グーグルの新サービスに「登録しない」ことも選べる。が、現在のようにインターネット検索サービスがグーグルによって寡占状態にある場合、そこに登録しないことは、著作物や著作者が世界的に認知されないことになる。だから、著作(権)者は、自分の著作物が事実上、世界的に葬り去られるか、それともグーグルを信頼して全内容の同一性や権利保全の完全性を任せるか、の二者択一を迫られることになるのではないか。
 
 こういうサービスが、国際機関のような公的な機関がやるのであれば、それはむしろ望ましいことだ。が、ご存じのように、グーグルはアメリカの一私企業であり、現に自ら手掛けた検索サービスから莫大な広告収入を得ている。そして、広告の値段は、検索の結果、パソコンの画面に表示される該当書籍の順位と関連させて決まるのである。そういう私企業1社に、全世界の書籍の全文検索と表示順位の決定を任せてしまうリスクは、相当大きいと思う。ここのところが、私にとって最もひっかかる点だ。
 
 グーグルの共同設立者の1人であるセルゲイ・ブリン氏(Sergey Brin)は、10~11日付の『ヘラルド朝日』紙に論説を寄せて、同社のブック検索の目的について述べている。それによると、このサービスの最大の目的は、図書館や古本屋の本棚に埋もれてしまっている絶版本などの古い書籍を、全世界の読書人の前に提供するとともに、それらの書籍の権利者に対して相応の対価を支払うことだという。私は、この目的については異議を差し挟まない。私の心配は、上にも書いたように、この業界で事実上、独占的力をもつ一私企業が、世界中の全書籍の内容を入手し、それを全世界に提供する際に、公平中立の立場からできるとは考えられないという点である。
 
 ブリン氏は、グーグルがこの分野で成功すれば、他社が市場に参入して競争が行われること、また、著作(権)者はグーグルへの書籍の登録をいつでも取り消すことができることなどを挙げて、自らの目的の正当性を訴えている。が、これらの主張は、本質的には「競争によって市場が選択するものが残る」という自由競争の論理であり、公平性への疑問に対する反論になっていない。インターネット検索の市場がグーグルにきわめて有利な方向に“歪んでいる”現状にあっては、公平性を保証するための説得力ある方策を提示してほしい。

 谷口 雅宣

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2009年10月11日

グーグルのブック検索

 インターネット検索最大手のグーグル社(Google)は、その莫大な資金力と斬新な発想を後ろ盾にして次々と“常識”や“前例”を書き換えているが、その業務の中で私が気になっているものがある。それは「グーグル・ブック検索」(Google Books Search)というサービスだ。これは、書籍をスキャンして内容を電子情報化し、それをパソコンレベルで検索/閲覧可能にしようというものである。その規模は“世界的”である。つまり、これまで全世界で出版されたすべての本を対象としてるように見える。「見える」と書いたのは、グーグル自身はそれをハッキリ言わないからだ。が、グーグル・アースやグーグル・ストリートビューなど、これまで彼らが開発してきた新サービスを見ていると、やりだしたことは全世界で徹底してやる会社だから、きっとそれが目標だと思う。
 
 このサービスが実現すれば、昔の絶版本や再販未定本がいつでも手軽に読めるから、利用者にとっては、大変便利になる。が、本の著作者にとってはショッキングな計画だ。私のようなもの書きにとって不安なのは、彼らが著作者や著作権をあまり重視しないように思える点だ。

 言うまでもなく、本には著作権がある。これは、1冊の本を書くのに費やされた著作者の労力や工夫、金銭的負担、学芸的価値などを認め、それを保護するためのものだ。これが保護されず、ある本の一部が、著作者に無断で別の本の一部を構成していたり、小説の主人公の名前が違うだけで、その他の登場人物やプロット、文章表現などのすべてが別の小説と同一であったりしたら、これは著作物の“盗作”であり、盗作者は、著作者よりはるかに楽に、また安価に“著作物”(と言うべきかどうか疑わしいもの)が書ける。盗作者は努力をせずに、著作者の創意や工夫を自分のものとすることができ、本来ならば著作者に行くべき本の印税も、盗作者に行くことになる。これでは、努力して著作物をつくることがバカらしくなるから、優れた著作物をつくろうとする人はいなくなり、つまらないモノマネや、インチキ研究ばかりが社会に氾濫する。文化や学問は衰退するばかりだ。
 
 だから、米国出版社協会(AAP)と米国著作者協会(AG)は2005年、「著作権で保護されている書籍をスキャンしてデータベース化する行為は著作権侵害に当たる」として集団訴訟を起こした。そして昨年、①アメリカにおいて著作権が保護されている書籍、②著作権が失効している書籍、③著作権は保護されているが絶版となり、著作権保有者が見つからない書籍、の3分類に入る書籍を対象に、グーグルの業務を容認する代りに、売り上げを分配するという和解条件(PDF)で合意した。ただし、裁判所でのこの和解内容の審理はまだ終っていない。この和解は、アメリカ国内だけのように見えるが、国外の本も事実上の対象となる。なぜなら、日本やヨーロッパで出版された書籍も、アメリカの図書館などに大量に所蔵されていて、万国著作権条約によって上記3分類のいずれかに含まれると考えられるからだ。

 著作物の盗作の問題は、もちろんグーグル発足以前からある。が、電子情報時代の盗作は、個人のパソコンを使って簡単にできる。昔のように本を見ながら一文字一文字を書き写す必要はなく、数回のキー操作によって何十ページもの複製が数秒でできる場合もある。だから、そういう方法で新聞記事や文学作品が書かれた著作権法違反事件が、日本でも近年増えつつある。グーグルのブック検索が、そういう方向に世界を牽引していかないかどうか、が私の心配である。
 
 谷口 雅宣

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2009年10月 4日

小樽、火点し頃

Beforedark  今日は、北海道の小樽市で生長の家の講習会があった。好天の中、年季が入った小樽市民会館には、前回を40人近く上回る1,464人の受講者が集まってくださり、半日、和やかな雰囲気のもとに会がもてたことは、誠にありがたかった。「年季が入る」という表現は、一つの仕事に長年従事している「人」を表す言葉で、建物に使うことは邪道かもしれない。が、この町には、相当数の歴史的建造物がよく保存されているから、こういう擬人法が何となくしっくり合うのである。

Evening  前日に宿泊したホテルは、中高年の観光客を中心にほぼ満室だった。妻と連れ立って夕暮れの町を歩いたが、風があって「寒い」と思った。10月の北国だから当然だが、今年の夏以降では初めてで、もうそこまで来ている冬の気配を感じた。小樽港には、大型客船の「飛鳥」が停泊中で、その白い船影が町に華やかさを添えていた。しかし、私たちはそういう港や運河近くのダウンタウンではなく、もっと高台にある駅周辺を散歩した。そこは観光地とは趣がやや違い、庶Barbourshop民の生活が感じられる小路がある。そこを通ると、ネパール人が経営するカフェなど、予期しない小さな店が現れ、興味がつきない。本当は、 そういう店に入りたいところだが、限られた時間では“印象”を写真に記録するしかなかった。
 
 谷口 雅宣

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2009年9月 2日

ブラジルを巡講して

 本欄ではすでに何回か報告したことだが、私がこの8月にブラジルを巡講した際の様子を、短いビデオにまとめた。2分ほどの短編で、サンパウロでの国際教修会(8月1~2日)、ベレンでの一般講演会(8月4日)、サンパウロでの生長の家全国大会(8月8日)の様子に加え、いくつかの未公開の映像も組み入れてある。興味のある方は、ご覧あれ。
 
 谷口 雅宣

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2009年8月14日

日本に帰りました

 今日の午後、ニューヨークから成田へもどった。順調な飛行で時差ボケ以外は、特に体調の変化はない。7月26日から3週間の旅だったが、終ってしまえばあっけない感じだ。帰りの航空機の中でニューヨークで買った本を読み、また同市で撮った写真のアルバム作成をした。本については、別の機会に紹介することがあるかもしれない。写真アルバムはこのサイトに公開したので、興味のある方はご覧あれ。
 
 谷口 雅宣

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2009年8月12日

谷口純子氏の講話

 8月8日に行われた「生長の家ブラジル全国大会」で谷口純子・生長の家白鳩会総裁が行った講話の様子を公開する。私が自分の席から撮った動画を編集し、本人の許可を得て、ユーチューブに登録したものだ。雰囲気だけでもお伝えできればと思う。
 
 また、ブラジル人の青年が私たちのブラジル到着時(28日)の様子をユーチューブに登録してあるのを見つけたので、その日付のところに挿入してある。興味のある方をご覧あれ。
 
 谷口 雅宣

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2009年8月 5日

アマゾン群馬の森へ(現地時間4日)

アマゾン群馬の森(1)... on Twitpic ベレン市郊外約50kmにある。在北伯群馬県人会が取得した540ヘクタールの土地で、アマゾンの原始林の保全と再生林の維持を行っている。巨木の前で記念撮影。

アマゾン群馬の森(2)... on Twitpic 森の中に巨大なキノコがあると思ったが、実は木の実の殻。素焼きの土器のような重さと頑丈さがあって、自然に蓋ができるのが不思議だ。

サンタ・バーバラ... on Twitpic サンタ・バーバラの町。高級住宅地のある同名の街がロサンゼルスの郊外にあるが、こちらの町は素朴な小さい町。群馬の森は、この町の近く。

ドラゴンフルーツを食べる... on Twitpic お土産にいただいたドラゴンフルーツ。ホテルに帰ってから食べた。切り口の鮮やかさに比べ、味は結構薄い。

ベレンの町... on Twitpic 宿舎のホテルから展望したベレンの町。向こう側にアマゾン河が広がる。

 谷口 雅宣

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2009年8月 2日

国際教修会でのスナップ

 もうすでに一部で紹介されているが、8月1~2日にサンパウロ市のフンシャル劇場で開催された「生長の家国際教修会」の会場風景をお届けする:

At the SNI Special Conference for World Peace (1) on Twitpic

At the SNI Special Conference for World Peace (2) on Twitpic

At the SNI Special Conference for World Peace (3) on Twitpic

At the SNI Special Conference for World Peace (4) on Twitpic

 谷口 雅宣

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2009年7月30日

グラフィティー作家のこと

 29日の本欄でご覧に入れたサンパウロ市の大きな“落書き”について、少し補足しよう。

 ツイッターで知り合ったブラジル人によると、この“壁画”の作者は、オタヴィオとグスタヴォ・パンドルフォ(Otavio and Gustavo Pandolfo)という双子のアーティストで、当地では「オス・ゲメオス」(双子)という名で知られているそうだ。サンパウロ生まれの35歳で、1987年ごろからグラフィティーを描くようになり、サンパウロ市を初めとしたブラジル国内だけでなく、オランダやサンフランシスコでの“作品”もあるらしい。
 
「作品」などという言葉を使うと、街での落書きを誉めているような誤解を招くかつかもしれないが、落書きは大抵の町では違法行為だ。が、グラフィティー・アーティストはそんなことは承知の上で、街中の意外なところ--高くて手が届きそうもない場所、危険な場所など--に、自分の名前やイニシャルを図案化した“サイン”を描いたりする。

 オス・ゲメオスの作品は、1980年代末のアメリカのヒップホップ・カルチャーの模倣から始まったが、1993年以降から絵の色調やデザインに“ブラジル色”が反映されてきたという。その特徴の1つは“黄色い顔の人物”で、またサンパウロの社会的、政治的状況を反映した題材、さらにはブラジルの昔話に取材したものなどテーマは多岐にわたる。興味のある人は、彼らの公式サイトを参照されたい。

 谷口 雅宣

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2009年7月28日

ブラジルに着きました

 しばらく御無沙汰していたが、生長の家の国際教修会などのためブラジルのサンパウロ市に来ている。短文やスナップ写真などをミニブログ「ツイッター」に随時掲載しているので、興味のある読者は本欄ではなく、サイドバー上に出るリンクをたどって、そちらを参照されたい。以下は、最新のスナップ写真。 

Sao Paulo, 27 July 2009 (1) on Twitpic サンパウロの町

Sao Paulo, 27 July 2009 (2) on Twitpic

町には落書きが多い、高級住宅地の壁にまで描かれているのは驚くが、この写真のように、なかなか見ごたえのあるものもある。

Sao Paulo, 27 July 2009 (3) on Twitpic

この町には東京並みの人口が住むが、そこに1千カ所以上も“貧民窟”があるらしい。この写真はその一部。

Sao Paulo, 27 July 2009 (4) on Twitpic

町中では大型トレーラーが猛然と走るのが、少しコワイ。日本のダンプカーの倍ほどの長さのものもある。その“横腹”を撮った。

 谷口 雅宣

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2009年7月 5日

室蘭にて

 今日は室蘭市文化センターと苫小牧市民会館の2会場を使って、室蘭教区での生長の家講習会が開催された。室蘭地方は朝から霧がかかっていたが、雨は降らず、講習会終了時には青空が輝く好天になっていた。両会場で合計2,289人の人々が受講してくださった。前回より大幅に減少したのは残念だが、一日和やかな雰囲気で講習会が行われたことは誠にありがたかった。熱意をもって推進活動を展開してくださった教区幹部の皆さまには、この場を借りて心から御礼申し上げます。
 
 前日の夕方、妻と2人で室蘭市内を散策した。同じ教区の苫小牧市では人口は増えているそうだが、ここは人口減少なのか、宿舎付近の商店街は相変わらずの“シャッター通り”だった。が、大型ショッピングセンターまで足を延ばすと、結構人々が集まっていて、にぎわいを見せている。そこで少し驚いたのは、センター内にパチンコ店ができていたのはまだいいが、隣接して保育所がある。「なぜ?」と思ったが、妻がすぐに回答を教えてくれた。小さい子供のいる若い奥さんたちが、心おきなくパチンコやスロットマシンを使えるようにという店側の“配慮”だろう、というのだ。

Murobento  が、ここにも良い点はある。それは新鮮な食材が豊富に、しかも安価にあることだ。ものの値段に詳しい妻の言うことには、東京の値段の半分ぐらいだそうだ。例えば弁当では、冷やし中華が150円、とんかつ弁当は280円、ハンバーグ弁当、チキンカツ弁当は398円……など。妻は、地元産の採れたてのホワイト・アスパラが安い(168円)と言って購入した。私はそれを絵封筒に描いて、午後の講話の時間に皆さんにご披露した。
 
Chikyumis2  講習会後には、地球岬に立ち寄った。広大な海が展望できるため「地球が丸いことが分かる」という意味の名前だそうだが、あいにく霧が出ていて海は見えず、その代り、雲の上に浮かんだような幻想的な雰囲気を楽しむことができた。自然の変化を肌で直接感じることができるのは、ありがたいことである。
 
 谷口 雅宣

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2009年6月22日

絵封筒便り

Efuto090615  最近、描いた絵封筒を3点紹介する。
 
 赤レンガの建物は、石川教区の講習会で金沢へ行ったときのもの。夕食前、散歩した中央公園に建っていた近代文学館のスケッチである。手前にある白いテーブルと椅子のセットは、実際はもっと沢山あって人が何組か座っていたが、省略して図柄を単純化した。
Efuto090618  
 マンゴーは、宮崎の旧友から送ってきたもの。あまりにも見事な色艶だったので、食べる前に絵封筒に描き、礼状とした。
 
 タマリ漬は、昨日の栃木教区での講習会の帰途、宇都宮駅で買ったもの。駅の土産物売り場には、たくさんの種類のタマリ漬が売られているが、原産地Efuto090622 表示に注意して妻が選んだ。私は、パッケージの緑とラベルの色具合いに惹かれた。切手に注意してほしい。横浜開港150周年記念のものだが、切手とその外枠にまたがって描かれた絵を使って、封筒に印刷されたホテルの名前を隠している。

 谷口 雅宣

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2009年5月16日

信濃川の夜景

 新潟北越教区での生長の家講習会のために、新潟市に入った。信濃川を目の前にしたホテルを宿にしているが、あいにくの小雨模様のため、いつもの散策は中止した。が、その代り、暮れてゆく新潟の町を部屋の窓からゆっくり眺める時間がもてた。

Shinanoriver  眼下に万代橋が見える。そこを上下方向に行き来する車や、バイク、そして人……。その流れとは対照的に、左右方向に白波を引きながら時々、船が通る。この川は、人間の動きを邪魔したり、助けたりしながら、はるか昔の時代から同じ方向に流れ続けてきたのだ。その悠久の流れの中で、人間が川に対してできることはそう多くない。が、川から得る恩恵は、きわめて大きく多種多様だ--飲料水、灌漑水、漁場、交通手段、洗濯用水、工業用水、水の循環、栄養素循環、風景美、レジャー、文化の交流……。

 江戸川、淀川、ハドソン川、ナイル河、黄河、チグリス=ユーフラテス河……。古来、人間は川辺に集落を形成し、文化や文明を築いてきた。それは、川から得られる恩恵の大きさを知っていたからだ。物質的に見れば、川とは、水が高いところから低いところへ流れている場所にすぎない。が、その「流れる」という一見単純な事象の中から、無限の恩恵と可能性が現れてくる。妻とそんなことを語り合いながら、信濃川を臨む窓辺で夕食をした。その際、撮った写真をここに掲げる。
 
 谷口 雅宣

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2009年5月14日

横浜でバラを愛でる

Rosegarden2  今日は、休日を利用して“親孝行”に出かけた。とは言っても行き先は横浜で、本欄の読者はご存じのように、我々夫婦が足繁く行く町だ。しばらく行っていなかったこともあり、またバラの美しい季節なので、花好きの母が喜ぶ顔が見たかったのである。お目当ての場所は、横浜・山手の「港の見える丘公園」。午前9時過ぎに東京を出ると、幸い道路は空いていて、40分ほどで目的地に着いてしまった。

Redroses  バラは、横浜市の“市の花”である。この公園には8千平方メートルの市営のローズガーデンがあり、約80種の千八百株のバラが植えてある。横浜開港当時、この山手の丘にはフランス軍とイギリス軍が駐屯し、その後、フランス領事館やイギリス総領事公邸などが建設された。この英総領事公邸を市が買い取り、現在の「イギリス館」となった。そして、イギリスの国の花がバラであることに因み、市政100周年を記念して、平成元年に“市の花”が制定されたという。

Artistroses  好天だったこともあり、公園にはすでに多くの中高年男女が来ていて、カメラを構えたり、スケッチブックを広げたりして、一年のこの時季にしか見られない“バラの美”を記録しようとしていた。バラ園のど真ん中に椅子を置き、カンバスを立て、色とりどりのバラたちを描いている画家もいた。私も、さっそくデジカメを使って同じ行動をとることにした。母も妻も、それぞれに花々を記録したことは言うまでもない。

Rosegarden  その時の記録のいくつかを、ここにご披露する。
 
 谷口 雅宣

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2009年4月 8日

夜桜を見る

 水曜日は私にとって“週末”……ということで、夕方、妻と2人で明治神宮外苑にあるレストランへ行き、ゆっくりと夕食をいただいた。数カ月前にオープンした店で、新聞にも紹介が出ていたので、席が空いているか心配した。が、客の数は意外に少ない。そうなのだ。昨今の厳しい経済事情のおかげで、このごろ街のレストランは空いているし、道路を走る自動車の数も減った。人々は生活防衛に必死なのだ。
 
 食後、青山通りを六本木方向へ渡り、さらに路地に入ってゆっくりと散歩した。このあたりは飲食店が多いのだが、どの店も客はまばらである。そのうちに、目の前がボォーッと明るくなったのは、満開のサクラ並木のせいだった。都内の“サクラの名所”の1つである青山墓地まで来ていた。と、この付近はなぜか人通りが多いのである。我々は、街灯の光を受けて夜空に白く光るサクラを愛でながら墓地内を進んだ。
 
Cherrynight  夜、墓場を歩くことはあまりない。が、満開のサクラが頭上を覆い、足元に続く白い花びらの絨毯を踏みしめて歩いていると、そこが「墓場だ」という気があまりしないのである。それでも、照明の当たらない側道は暗く、不気味な感じがするので、我々は街灯のある道を行くことにした。と、道の両側で人の声がするのである。それも、1人や2人ではなく、大勢が談笑している風情である。また、沿道の所々に、二人連れなどがしゃがみ込んで何かを食べている。夜桜見物の人々だった。

 好奇心に惹かれた私は、ためらう妻の腕を引いて側道へ入った。すると、暗がりのあちこちに10人、20人と円陣を構えて人々が座っているのである。「こんな暗いところに…」と私が言うと、妻は「目が慣れてきたら、そうでもないのかも…」と言う。私は彼らの写真撮影を試みたが、ストロボを発光させなかったためか、暗さに強いデジカメにも、ほとんど何も写らなかった。
 
 側道を引き返しながら、ふと「もし迷った霊が付近にいたら…」などと思う。また、「10人のグループで来たはずなのに、よく数えてみたら11人いたとか…」などと想像する。いや、今見た人々は皆、地べたに座っていたから、ひょっとして地縛霊…?

 夜桜には、妄想を起こさせる力があるのかもしれない。
 
 谷口 雅宣

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2009年4月 4日

公衆電話という存在

Telephones  多くの子どもが携帯電話を持ち歩くようになった今日、公衆電話はほとんど使われない。しかし、何かの緊急の用事で使わなければならない人のために、今は“公衆”が集まる場所にわずかに残されている。その姿は、いつ来るとも知れない利用者を「ただ待つ」という奉仕の精神を体現しているようだ。その一方で、電話を置けば暗がりでは不都合だということで、照明をつけねばならず、子どもの利用も考えて、低い位置に1台は設置しよう、などという配慮が必要になる。
 
 電話は人間の道具である。もっと具体的に言えば、それは我々の“口”と“耳”の延長である。それが、誰にでも利用できる形に開放されているのが公衆電話だった。その公衆電話がなくなっていき、代りに我々は、頭部についている温かいものに加えて、もう1セットの冷たい“口”と“耳”を懐に忍ばせるようになった。ケータイはどんどん進化して、今では我々に“目”も与えてくれるし、“脳”も使わせてくれる。つまり我々は、自分の“分身”を懐やハンドバッグに入れて持ち歩くようになった。ケータイはもはや、“道具”の領域を超えたと言える。

 そんな時代に、古く良き道具である公衆電話を街角で見かけると、何かホッとした気分にならないだろうか。“彼ら”は、他人と共用される「道具」としての本質を持ちつづけているために、万人の心に「懐かしい」思いを起こさせてくれるのだろう。しかし、我々の持つケータイは誰とも共用できず、したがって他人の目には“異物”のように映るか、あるいは“悪用”の対象になる。

 公衆電話のガッシリとした体躯を見ていると、フワフワとしたケータイの軽さが、現代人の心の拠り所を象徴しているように感じられた。
 
 谷口 雅宣

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王様の顔

Blackking  昨日の本欄に続き、私が撮ったスナップ写真を掲げて、私がなぜシャッターを押したかなどの感想を読者に紹介しよう。ただし、今回は文章によるのではなく、私の“語り”を聞いてください。
 
 谷口 雅宣

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2009年4月 2日

休日のベンチ

 休日に妻とショッピングに出かけた。春休みであるうえ、サクラの満開が報じられているせいか、家族連れのほか男女のカップルも多く、街のにぎわいは普段の木曜日とは様変わりなのに驚いた。が、それと同時に何か懐かしさを感じた。私は、生長の家本部に勤める前は、長い間、大多数の人同様に日曜日が休日である生活をしていたから、その時代を思い出したのである。当時は、まだ小さかった子供を連れて、にぎやかな公園や混雑したデパートを歩いたり、ファミレスの入口にできた人の列にも並んだものだ。子供は、家族と一緒に行動するのが普通だし、それが当り前だった。
 
Playinggames  ところが今日、ショッピング・モールの片隅に並んだベンチを見て、「へぇ~」と思った。子供たちだけが座っているのはよしとしても、その彼らが全員、持参した小型ゲーム機に熱中しているのである。私の子供にもゲーム機に熱中する時代はあったが、友達と一緒に遊んでいるときに、各人がゲームをしているという光景はなかったと思う。最近のゲーム機では「対戦」ができるからか……とも考えてみたが、機械を通した友達関係とはいったい何だろう……と何となく納得できない。が、とにかく、その様子を記録した。
 
 谷口 雅宣

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2009年3月22日

速度を落とせ

 今日、大津市で行われた滋賀教区の生長の家講習会では、朝から小雨模様であったにもかかわらず、前回を1割強上回る3,763人の受講者が集まってくださった。鈴木幸利・教化部長をはじめ、同教区の幹部・会員の皆さま方の並々ならぬご努力に、心から感謝申し上げます。体験談も粒ぞろいで、聖歌隊の合唱もよかった。講習会終了後の幹部懇談会でも、和やかな雰囲気の中で、中身のある意見交換ができたことはありがたかった。

 講習会の午後の講話で、私は現在の世界的な経済危機の克服のために、一部の政府が大量の資金をつぎ込んで公共事業や大規模プロジェクトの実施を考えていることを、遠回しに批判した。欲望を駆り立てて“人間本位”の世界をつくり上げようとするこれまでの手法が、「良好な地球環境の維持」の要請とはもはや両立しないと考えているからだ。この点は、前回の本欄を読み返していただければ了解してもらえると思う。
 
Slower 「スローライフ」とか「スローフード」という言葉が使われるようになっているが、現代人の“先を急ぐ”生き方の限界を示しているのが今日の経済状況であり、政治の無能であると思う。今朝、大津市で泊まったホテルから下を見ると、雨で濡れた道路に大きく白文字で「速度落せ」と書かれていた。その言葉が、今の人類全体への警告のように思えたので、写真に撮った。私たちは「緑の森」「青い海」が自分たちにとってどれだけ大切かを、忘れかけているのではないか。

 谷口 雅宣

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2009年3月14日

『日時計日記』に自由版できる

Freediary  生長の家が発行している『日時計日記』に“自由版”という新タイプ(=写真)が加わった。まだできたてホヤホヤなので、地域によっては入手できるのは数日後になるかもしれない。従来版の『日時計日記』は左から開く方式で、縦書きもできなくはないが、全体の構成は横書きを前提としている。日付と曜日が印刷されていて、記入項目も指定されているなど“自由度”が限定されていた。これに比べて新版は、右から開く方式を採用、ページからは日付、曜日、記入項目がなくなり、判型が一回り大きくなった。このため、より広いページを自由に使うことができる。また、表紙は上製本の頑丈なつくりになっている。
 
 もう1つの特徴は、1週間に1回の割合で、谷口雅春先生、清超先生、そして私の本からの抜粋文が「今日のあなたへ」という欄に掲載されていることだ。全部で53本の文章があり、それぞれをその週の指針とすることができる。また、日記を書くときの“手がかり”として、生活のアイディアを得るヒントとしても使うことができるだろう。リボンの栞(しおり)がついているのも親切だ。

 日記のつけ方は、各人各様であっていいと思う。1年分の日付をすべて印刷してある従来の『日時計日記』は、「毎日書く」という習慣を作るのに良いし、その年の「記録を残す」という意味でも優れている。一方、この“自由版”は、書く日と書かない日があってもいいが、書くときは書きたいだけ使え、イラストや絵をつけたり、写真やメモも貼りたいという人にとっては、とてもありがたい。また、講師の出講記録や、誌友会の記録などにも使えるだろう。私は、従来版の『日時計日記』をつける前は、文庫本サイズの『マイブック』というのを何年も使っていて、これは事実上、「何も印刷してない文庫本」だった。この“自由版”の印象は、それに近い。ただし、上に書いたように、ずっと大判であり、表紙も用紙もしっかりしているから、机上や本棚の中でも見栄えがする。

Mtimg090314  「善は急げ」という言葉もあるから、私は今日、さっそく最初のページに日付を書き込んで、好きなように使ってみた。読者も、工夫していろいろな用途に使ってみてはいかがだろうか。
 
 谷口 雅宣

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2009年3月12日

電子写真立て

 今日は休日を利用して、前々から興味をもっていたデジタル・フォトフレーム(電子写真立て)というものを買いに、渋谷へ行った。私の場合、写真はもっぱらデジカメで撮り、撮った写真は暇を見てノートパソコンのハードディスクへ転送する。そして1年に1回ぐらい、CDかDVDへ焼いておく。写真をこんなふうに扱っていると、紙にプリントした形で写真を見ることがほとんどない。もちろんアルバムなど存在しないから、「あそこで写真を撮った」という記憶のあるうちはまだいいが、それも薄れてくると、写真があることも忘れてしまう。しかし、だからといって、撮りためた写真をプリントしてアルバムを作る気には、とてもなれない。そうする時間も、できたアルバムを収めるスペースもないからだ。うまく言い表せないが、具体的な「紙」として残っていないデジタル写真は、脳内の記憶として一種“抽象化”してしまうのである。そんな頼りなさを、この新製品が満たしてくれるかもしれないと思ったのである。
 
 早い話、デジタル・フォトフレームとは、キーボードがない小型のノートパソコンである。今どきのノートパソコンは、通信や動画表示、音楽演奏、スケッチブック等の諸機能を備えているが、そういうものをすべて取り除いて、単に「画像の保存」と「表示」だけに機能をしぼった薄型のパソコンだと思っていい。こんな説明で分かりにくい人には、こう言おう--写真立て全体が液晶パネルであり、そこへ何枚もの写真が自動的表示される--そんな製品だ。「何枚も」と書いたが、その数は10や20ではなく、1000や2000の規模だ。電源を入れると、自分の選んだ写真が、指定した時間間隔をおいて、次々と自動的に表示される。表示の仕方は、パソコンの画面でスライドショーを眺めるのとほとんど変わらない。それなら、写真をパソコンで見ていればいいようだが、パソコンはご存じのように機能があり過ぎるし、操作が複雑である。だから、スイッチを入れただけでポンと写真が映る--写真しか映らない--装置が考案されたのだろう。価格は、どの機種も「2万円」前後だ。
 
Dpf_pola  私が買ったのは、ポラロイド社の8インチのデジタルイメージフレーム(=写真)で、型番は「XSJ-008431B」だ。写真はJPEGフォーマットにしか対応していないが、音声(MP3)と動画(AVI)も再生するところに惹かれた。つまり、「写真立て」だけの機能ではなく、音楽や声も出るし、ムビーも見られる。それでいて1キロを切る重量だから、壁に掛けて使えるのである。日本や韓国の会社も、似たような機能と仕様の製品を出していて、当初はソニーの製品を考えていたが、人気があるためか、渋谷の大型量販店2軒で「在庫がない」と言われた。そこで店頭で見て、画面が明るい2機種の中からこれを選んだのである。もう一方の機種は、2007年のモデルからあまり変わっていないというのでやめた。

 家に帰ってから、さっそく妻と私のデジカメから写真を転送して、スライドショーを走らせた。写真の切り替えには色々なパターンが使えるから、静止画でありながら動画の雰囲気を作ることもできる。難点もいくつかあるが、まだ機能を十分に使いこなしていないせいかもしれない。いずれ、機会を見て使い勝手等を読者に報告しよう。

 谷口 雅宣

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2009年2月25日

写メールサイト

 最近、一行ほどの短い「つぶやき」のようなメッセージをウェブに掲示するサービスがあるということを知り、実験してみた。また、これと連動して写メールをアップするサイトがあることも分かった。私は、ケータイを使わないので写メールはできないが、その代り、簡単な絵をアップするのもいいと思い。やってみた。

 アメリカのサイトらしいので、すべて英語でしたが、日本語を使うこともできそうだ。興味のある人は実験してみてはいかがだろうか。

  つぶやきサイトは http://twitter.com
  写メールサイトは http://twitpic.com

  である。Mtimg090225

 本欄でかつて「秘密を書き込むサイト」の話をしたことがあるが、私は、そんな“暗い”ことではなく、日時計主義的なメッセージや写真、絵などを、どんどん世界に発信できないかと考えた。その1つの場として、こういうサイトの利用も面白いと思う。私が登録した絵をここに掲げる。

 谷口 雅宣

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2009年2月21日

少女と少年

Mtimg090219  この少女の絵は、私が最近訪れた写真学校の作品展で出会った写真を見て、それを水彩で描き直したものだ。
 インドの少女のようだが、私はこの少女の見開いた両眼の力強さに惹かれた。写真に写った目は、やや緊張していて、どこか怯えたような雰囲気がある。が、私がそれを見て描いたこの絵では、引き締まった口元とも相まって、相手を睨みつけるような強さがある。それに、この子の喉元は、どう見ても少女ではなく少年のようだ。

 私が妻にそのことを言うと、
「えぇ~、でも着てるものは女の子でしょう」
 と言って、簡単には同意してくれない。
 そこで私は、
「女の子の衣装を着た少年だよ」
 と言ったが、妻は分かったような、わからないような顔をした。

 私の頭の中にあったのは、昔、子どもの頃に読んだ、白土三平の作品だった。確か『カムイ外伝』か何かだったと思うが、主人公のカムイは美男子の忍者で、たまに女装したりするのだ。もちろん、個人の趣味でするのではなく、任務遂行のためだ。そんなイメージが、この絵と重なって感じられる。
 
 私は幼稚園時代から男女共学の環境で学んだ。小学校では、4年生まで女の先生が担任で、自らバットを握って野球の指導もしてくれた。当時は、「長馬」という遊びが流行っていて、これを男女の別なくやったのを覚えている。2チームに分かれて、「馬」になる側と「馬に乗る」側で戦う。前者のチームは一列に並び、腰を前に曲げて背中を平にし、胴の長い馬の形をつくる。その上に、後者のチームが一人ずつ走って飛び乗っていく。そして、「乗る側」が馬を潰すか、最後に乗った人が「馬の側」の大将とのジャンケンに勝てば、乗り手チームが勝ちとなり、再び乗ることができる。しかし、乗り手が馬から振り落とされるか、ジャンケンに負ければ、馬と乗り手は交替しなければならない。
 
 こんな荒っぽい遊びを、男女で一緒にやっていた。この頃は、女子の方が男子より早く成長するから、体の大きさでは女子が勝ることは珍しくない。子どもの頃の男女の差は、だからほんとうに微妙なものだ。そんなわけで、私が少女を描くつもりで少年の絵になったことも、ご容赦いただきたい。

 谷口 雅宣

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2009年2月17日

古い記録 (9)

 1月13日の本欄で、私は大学に入学した1970年に、最初の海外旅行をしたことに触れた。そして、この旅行で撮った写真について「いずれ、まとまった形でご覧に入れることができるかもしれない」と書いた。このほど、その写真39枚を本欄読者に公開することにした。このブログのサイドバーで絵封筒を小さく表示しているが、そこをクリックしても見ることができるが、その場合は少し複雑な手続きが必要なので、39枚を一覧できるサイトのリンクを下に掲げた。これらは「First overseas trip」(初めての海外旅行)という題のアルバムに収められている。すべてモノクロ写真で、当時の私や父母の写真もある。

 初めての海外旅行のアルバム

 谷口 雅宣

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2009年2月 3日

早くも節分

 このあいだ新年になったばかりと思っていたら、もう節分だそうだ。日本の伝統を重んじる妻には、「忙しいから…」という理由で節分を省略することは許してもらえない。夕方に帰宅したら、食堂のテーブルの上にはきちんと料理が整えられている。それを見て、私は思わず、
「わぁー、きれい!」
 と言ってしまった。
Setsushi  関西方面では、節分に豆まきをするだけでなく、お寿司を食べるのだという。ごらんのように、太巻きに酢蓮根、金目鯛の澄まし汁、菜花の白和えの並んだ食卓を、妻は用意しておいてくれた。ここまでしてもらったので、私は豆まきで“鬼役”を演じようと心に決めたのである。
 
 食事の話題は、季節のめぐりの速さである。妻は、庭の紅梅の花のついた枝を、隣家の母宅へ持っていったことを話し、私は今日、街でフキノトウを見つけたことと、庭の池の周りにまたヒキガエルが出て、コロコロと鳴いていたこと、門を入った暗がりで1匹を踏んでしまったことなどを話した。
 
 夕食の後は、古式にのっとり豆まきの儀式--ということになるところ。しかし、何せものの本によると、豆まきの起源である宮中の追難式(ついなしき)では、殿上人が鬼に扮した舎人(とねり)を追い回し、桃の弓に蘆(あし)の矢をつがえて射るという大がかりなもの。とてもそこまでできない我々は、妻が殿上人、私が鬼になって、ごくごく簡単に、奇妙な豆まき遊びをしたのだった。

 節分や豆から逃れ蟇を踏む

 谷口 雅宣

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2009年1月19日

古い記録 (8)

 本シリーズでは、私が少年のころに書いた文章や、撮った写真をもとにして、当時の私がどんな少年で、それがどう成長していったかを辿ろうとしている。前回(1月13日)は、1970年の夏、私が18歳で初めての海外旅行をした時点まで来た。1カ月半の旅行で36枚撮りフィルムを22本分を写したが、それ以降も、私は大学生が享受する特殊な“自由”を生かして、モノクロ写真を撮り続けたようだ。
 
 撮影の対象は、別に決まっていない。近いものでは自分で作ったプラモデルのスポーツカーをだったり、庭の犬、植物、家族はもちろん、大学のある青山から、渋谷や原宿へカメラを持って歩き、町並みや人などを写した。また当時、青山学院高等部から慶応大学へ進んだ友人がいて、その友人とともに車で鎌倉や横浜などに撮影に出かけることもあった。そのころ父は『アサヒカメラ』や『日本カメラ』などの写真雑誌を購読していて、私はそれらを時々借りて、木村伊兵衛や秋山庄太郎などのプロの写真や、その他アマチュアの入選作品を見て刺激されていたのを憶えている。また、2007年10月28日の本欄にも書いたが、森山大道の型破りの写真にも魅力を感じていた。
 
 71~72年には、モデルを使った人物写真を撮っている。ポートレートのスナップは、ブラジルでも結構撮っているが、そうではなく、1人の人物を様々な角度から、また様々な恰好をさせて撮るのだ。貧乏学生だから、もちろんプロのモデルを使うのではなく、同じ大学の女友達に頼んで、モデルになってもらうのである。そんな“にわかモデル”を子供の国や横浜などへ連れて行き、写真に撮っている。
 
 こんなことを書くと、大学では授業にもロクに出ず遊んでいたように聞こえるかもしれないが、決してそうではない。私は法学部の公法学科に在籍していて、専攻は国際法と国際関係論だった。私は学問が嫌いではなかったから、出るべき授業には出て、必要な単位は取得し、さらに成績も悪くなかった。だから、アメリカの大学院にも入れたのだと思う。アメリカの大学は、入学の条件として日本での成績を重視するからだ。ただ、第二外国語としてフランス語を履修したが、これはなかなか難しく、辛うじて及第点だったと記憶している。何しろ、名詞のすべてを男か女に分けて考えるというのが、どうも不合理に思え、しかも煩雑なので閉口した。大学の授業で印象に残っているのは「スピーチ・クリニック」というので、英語の発音やイントネーションに絞り込んで教えてくれる。当時の青山学院ならではの科目で、そこの先生が「Did you eat?」という英語は、「ディヂューイート?」などと言わないで「ジーート?」でいいんだ、と教えてくれたのを憶えている。
 
 こんなことは、しかし記録には残っていない。残っているのは、大学の課外で文学サークルに所属していたことだ。これは「轍の会」という名前の同好会で、『轍』という同人雑誌を発行していた。こんな書き方をすると、何かきちんとした印刷物のように思えるが、ワラ半紙にガリ版刷りのごく“原始的”な印刷物である。しかも、数回発行しただけで、ほどなく廃刊になってしまった。そんな雑誌に、私は詩や、小説のようなものを発表して、同人と合評会をしていたのである。

 谷口 雅宣

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2009年1月17日

父と息子 (2)

 14日の本欄で、18歳の息子を海外講演旅行に連れ出した父の意図について考えたが、その時、「本人に直接訊いたことではないので断定はできない」と書いた。が、その後、古い資料に当たっているうちに、「ほぼ断定できる」と思われる父の文章を見つけた。それは、『理想世界』誌の昭和45(1970)年8月号に載った「窓」の冒頭の一文である。当時、原稿が雑誌になるには2カ月はかかったろうから、5~6月ごろに書かれた文章であろう。講演旅行への出発はその年の7月20日である。だから、父はこの文章を書いてから講演旅行に出発したのである。以下、少し長いが全文を引用する--
 
「○数多くの動物心理学者の研究によると、全ての動物は、その幼少期に巣や箱や柵の中に閉じ込められていると、成長してからの能力に重大な欠陥が生じて来るのである。幼少期に数多くの体験をつみ、自由に飛びまわることの出来た動物は、非常に力がつき、能力があらわれる。それ故、動物は幼少期の“教育”が如何に大切かということが分る訳である。これは人間についても勿論当てはまるのであって、幼少年期に“間違った教育”をされ、“型”にはめられてしまうと、折角の才能が圧殺され、使いものにならなくなってしまうのである。それ故青年諸君は、自分で自分を限定して、自分を小さな“心の柵”の中に閉じこめるような愚かなことをしてはならない。我々は“自由”の天地で、のびのびと才能をのばそう。それは人間を“神の子・無限力”と認めることであり、思い切って新しい行動に踏み出すことである。やっても見ないうちから、“私には出来ません”といって尻込みしてしまうようなことでは駄目だ。未知の世界に勇敢にとび出して行ってこそ、そこにあなたの才能がひらける道がある。断じて自己限定するな。自己を卑小なるものと思いちがうな。“神の子・人間”を認めることだ。そしてその如く行動することが、何よりも大切である」。(p.76)

 父は私を、型にはめて育てたくないと思い、新しい体験を通して能力を磨き出したいと思ったのである。また、少々大変なことでもやってみるべきだ、と考えたに違いない。では、私は旅行先で、写真撮影以外に何をやったのだろうか?
 
 私のこの頃の記憶はまことに頼りないので、上掲誌の記録をたどってみた。すると同誌11月号の「窓」の欄外にこんな記述があった--
 
「☆7月31~8月2日迄開催された、第16回全伯青年大会は、見事目標の1万名結集を達成! 遂にブラジル青年会は、世界一の動員数を得ました。例年通り、イビランガの独立記念塔の前で、今年は青年会総裁谷口清超先生による世界平和の祈りが行なわれ、又、雅宣様もブラジルの青年会員に約40分間の講話をされ、大変な人気を呼んだということです」。(同誌、p.79)

 これを読むと、私はどうやらこの全伯青年大会で講話をすることが、ブラジル旅行での公的任務だったと推測できる。それ以外に何をしたかは同誌の文章には書いていないが、掲載されている写真には、父母が現地の高官等を表敬訪問する際に同席していたり、現地の子供に表彰状のようなものを授与していたり、戸外で人々と共に起立し、父母と並んで祈る姿が写っている。また、帰国後には、10月4日、東京・調布市の生長の家本部練成道場で「約50分にわたって、南米各地での体験をもとに、生々とした講演をされ」たという記事もそこにあった。

 私がこの2回の講演で何を話したかという記録は、残念ながら手もとには残っていない。が、父母にただついて行っただけではないことは、確かなようだ。
 
 谷口 雅宣

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2009年1月14日

父と息子

 前回の本欄で、父が18歳の私を海外への講演旅行に誘った理由について触れた。これは、本人に直接訊いたことではないので断定はできないが、子供の教育や教団運営における父の「自由尊重」の精神を実地に体験している立場から考えると、「もっと広い世界を見せてやろう」という父の愛と子への期待が背後にあったと信じる。
 
 1970年の父母のブラジル講演旅行の翌年に発刊された父母の共著『通い合う愛』(日本教文社刊)の中に、父が自分の父(荒地清介)について書いている文章がある。私の父は、結核療養所に入っていた時に自分の父が亡くなったことを、次のように表現している--
 
「私が療養所に在所中、父が山口市で死没したという報を受けましたので、私は急いで帰郷致しましたが、父の死に目には会えませんでした。私の成育を楽しみとし、私の行動にたいして全面的に信頼して、私の自由を完全に許してくれた父が死ぬ迄に私は何一つ親孝行の行ないをせず、未だ社会に出て安心させることもなく、遂にあの世へ旅立たせてしまったかと思うと、私は涙が流れて仕方がありませんでした」。(p. 250)

「息子に自由を与える」という教育法は、だから父が荒地の祖父から学んだものであることが分かる。父の場合、それによって紆余曲折はあったものの結局、生長の家の信仰にたどりついき、そして「この生長の家の大真理を、全人類に向かって宣布する使命を戴いたことを、誠に幸せであると思うものであります」(谷口雅春大聖師追善供養祭での言葉)との実感を得たのである。だから、父には「自由を与える教育は正しい」との信念があったことは疑う余地がない。
 
 ところで、父は1970年の14前、36歳の時にもブラジル等へ講演旅行をしている。この際は足かけ5カ月間の長旅で、しかも初めての海外旅行である。そして、その印象を、後の著書『キリスト』の「はしがき」にこう記している--
 
「私がブラジル、ペルー、アメリカ等に講演旅行を続けていたとき、本書の出版計画が私に知らされたのであった。私はその頃、痛切にキリストの偉大な御教えとその業績に打たれていた。ブラジルの街々を訪問すると、先ず第一目につくのが、高くそそりたつキリスト教会であり、キリストの像であった。凡ての国民によって日曜日は教会へ行く日と定められ、カナダ等では酒類の一般販売も禁じられ、日曜日のスポーツ、娯楽等も制限せられて聖なる信仰の集いが護られている州も沢山あった。私はこれら新大陸に於て今もなおキリストが生きつづけているのを感じた」。
 
 このような強い印象を、息子にも味わわせてやりたいと思ったに違いない。当時の日本は政情不穏が続き、学生は勉強などせずデモや投石を繰り返しているばかりだ。そんな中で、狭量な右翼少年のまま大学生活に入ってほしくない。もっと広い世界を知れ!--私には、そんな父の声が今も聞こえるような気がするのである。

 父が最初に出した本は、谷口雅春先生との共著『世界光明思想全集』である。これは、小冊子ではあるが全40巻ある。この全集が完結した年に、私が生まれた。その一部は、後に谷口清超宗教論集第5巻『光明思想の先駆者』(1971年、日本教文社刊)に収録されるが、その本の「はしがき」に父はこう書いている--
 
「これは“光明思想”の源流をさぐり、それを要約・紹介したものであり、この仕事もまだ完成されているわけではないが、既刊の中からも、その全部をここに収録することは出来なかった。それ故、世界の光明思想家の中のごく一部の人々の紹介にとどまるけれども、これらの人々は非常にすばらしい“神の子・人間”の境地に達せられた人々であり、吾々の信仰ときわめて近似しているのである。そこで、この一篇をひもとくことによって、きっと広大な光明思想の霊的裾野の原野を眺望し、その頂上のいかに高きかを推察して頂けることを確信する」。

 この文章が書かれたのは、父が息子を連れて海外講演旅行を行った翌年の秋である。生長の家を、東洋の小国に生まれた狭量な右翼的信仰運動だと考える視点は、ここにはない。このような“広い視点”を息子にもたせたいという願いが、父の本心だったと私は思う。
 
 谷口 雅宣

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2009年1月13日

古い記録 (7)

    ブラジル旅行で撮った22本のフィルムには何が写っているのか?--その答えは「何でも」と言ってしまっていいだろう。機上から雲や地上を撮ったもの、空港、道路、家並み、街角、海岸、山、瀑布、家畜、鳥、そして人、人、人……。初めて外国を見た少年は、見慣れない、珍しいものを見るたびにレンズを向け、シャッターを押した--そんな様子が残されたフィルムから推測できる。が、その中で「人」が写っている写真が案外多いことに気づく。当時はまだ、日本で外国人を見かけることが少なかったから、“日本人的でない顔”が珍しいのは分かる。しかし、フィルムには日系人の顔も多く写っているから、私が人間一般とその(海外での)生き方に興味をもって写真を撮っていたことは確かだろう。

 カメラを通して、また当地の人々との約1カ月半の接触を通して、私は日本にいた頃の“狭い世界”の外には、実に広大な地球があり、そこには多様な人々と、それらの人々の営みが織りなす複雑で豊かな世界があることを感じて、旅行から帰ってきたに違いない。これによって、“尊大な右翼少年”の世界にヒビが入ったとしても、それは成長の一過程にすぎず、誰の責任でもない。いや、私をこの旅へ誘った父は、むしろ息子が狭い心の殻を破ることを期待していたのではないかと、今にして思うのである。

 さて、この旅行で撮った写真から数枚を下に掲げる。いずれ、まとまった形でご覧に入れることができるかもしれない。

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 谷口 雅宣

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2009年1月12日

古い記録 (6)

 今日は「成人の日」の休日であったが、わが家の子供たちはみな“成人済み”であるので、1日静かに過ごした。こういう日には昔の記録の整理をすることにしているので、ちょうど私が成人した頃の写真をネガ専用のアルバムに収納する作業をした。それらの写真が今から37年も前のことだと思うと、自分も年をとったものだと、苦いような、懐かしいような、複雑な感慨が湧いてくる。

 昨年12月26日に、18歳のころの私の様子を少し書いたが、写真の整理をしながら思い出したその続きの話をしよう。私が青山学院高等部を卒業して、同学院の大学に入学したのは1970(昭和45)年の4月である。この直前に書いた私の文章を前回に少しご披露したが、相当カタブツで尊大な“右翼少年”であったことが窺われる。当時の騒然とした世相の危機を感じ、学生運動を初めとした左翼の動きを亡国的革命運動としてとらえ、その原因はすべて“占領憲法”にあるとの単純な論理に心酔していた感がある。そんな高校3年生が大学に入れば、当然、反左翼の学生運動--当時は“民族派”と呼んでいた--に身を投じるはずである。が、私の場合はそうならなかった。その理由の詳しいことは、いずれ書く機会もあるだろうから、その時に譲ろう。

 今回は、私と写真との関わりについて書く。それは、あれから35年以上たった今、何日もかけて整理しなければならないほどの写真が、そもそもなぜあるのかという理由になるだろう。父の追善供養祭の時には、故人の「自由を愛する」信条について述べ、それがなければ今の私はないという話をした。これは、父の精神的遺産であるが、これに対して“技術的な遺産”とも呼べるものが写真である。父が写真を数多く撮ったことは、本欄の読者はご存じと思う。父のほとんどの著書の表紙カバーには、自分で撮った写真が使われており、毎年の日めくり型“日訓”の表紙にも、父の写真が使われてきた。父はこれらの写真を、何台ものカメラと交換レンズを組み合わせて撮ってきただけでなく、フィルムの現像を--モノクロだけでなく、カラーも--自分で行った。そのための暗室が家にあるが、この場所は父の手作りである。私は、高校生の頃から、父に誘われてカメラをいじり、大学入学後は暗室作業もするようになった。

 だから、私が高校時代、新聞を発行する出版部に所属することになったのは、父の影響があると言える。写真を撮ることは新聞記者の仕事の一部だからだ。自宅に保存されている写真のネガで、私が撮った一番古いものは、1967年のものだ。私が高校1年の夏、青山学院高等部の生徒会の研修会が高峯高原であり、その様子を35ミリのハーフサイズのカメラで撮っている。その後、前に本欄でも紹介した大学での学生運動の写真、修学旅行で九州へ行った時の写真、生長の家の青年会全国大会、学校の文化祭、クラブ活動、教室のスナップ写真などが、20本ほどのネガの中に収められている。3年間で20本というのは、大した数ではない。だから、高校時代の私の写真の趣味は、それほどのものではなかったといえる。
 
 しかし大学に入ると、その数はいきなり幾何級数的に増えるのである。その契機になったのは、初めての海外旅行だ。これは、18歳の私にとっては“海外旅行”だったが、生長の家の運動ではその年のきわめて大きな行事であった。『生長の家五十年史』(1980年、日本教文社刊)によると、この騒然とした“70年安保”の年の7月20日から9月4日までの47日間、当時、生長の家副総裁だった父は、白鳩会副総裁だった母とともにブラジルへ講演旅行を行った。私は、その両親について行ったにすぎない。一大学生であった私には、生長の家の公式の役職は何もない。なぜついて行ったか私は憶えていないが、そのとき51歳だった父の方からアクションがなければ、私の同行はあり得なかったに違いない。この時、私は使っていた「アサヒペンタックスSP」という一眼レフ式カメラと交換レンズを数本もって、旅先でスナップ写真を撮りまくった。その時の写真はすべてモノクロだが、36枚撮りフィルムで22本が残っている。平均すると、1日当たり18枚ほど撮ったことになる。
 
 谷口 雅宣

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2008年12月26日

古い記録 (5)

 前回の本欄では、私が高校時代の1969年に大学構内で撮った写真をご披露した。当時の私が学校の新聞を作るクラブに所属していたことはすでに書いたが、高校の新聞が大学の学生運動を記事にすることはないだろうから、私はクラブ活動とは離れた所で、自ら選んでそういう写真を撮っていたのである。しかも、自分が“谷口一派”の御曹司だと知られたら危険であろう環境の中で、高校生の身でありながら大学生の写真を撮っていた。こんな向こう見ずで好奇心の強い性格が、私には高校生の頃からあったのである。現場へ行って取材をし、帰って来て記事を書くというのは、ジャーナリストの仕事そのものである。だから、私は“ジャーナリストの卵”ではあったかもしれないが、その時点ではそんな仕事につきたいなどと思っていなかった。
 
 この頃、高校の新聞や生高連の機関誌以外にも、私の文章を掲載してもらえる媒体があった。それは、今は生長の家から分かれた財団法人「新教育者連盟」が発行していた『新教育者通信』という月刊小冊子だった。私はそこに高校2年の時から見開き2頁の文章を書くことを許された。教育者の立場からではなく、教育される側の立場からの“現場報告”といった感じの文章である。その雑誌の1969年3月号に、私は「大学紛争の背景」という題の文章を書いている。高校2年生のくせに、いかにも物知り顔のタイトルだ。だから、そこに書かれていることは、事実に即しているかどうかよりも、当時の私が大学紛争をどのように見ていたかを示す文章として、意味があるだろう。そこには、こうある--
 
「大学紛争が現在の大学制度、ひいては教育制度全体の矛盾を示していることは事実であり、その矛盾に反対するために学生が立ち上っているという見方は間違っていないが、この素朴な学生の感情を利用しているものがいるということも事実であり、戦後の価値感(ママ)の崩壊によって心の支えのなくなった学生が、共産主義によってもたらされるであろう理想社会を信じ、その実現のために戦っているという見方をしてはいけないだろうか。
 来年の七〇年を目当てに、左翼学生運動はいよいよその暴力革命的色彩を濃くしていくであろう。もはや傍観や利己主義的発言は許されない。各人は国家的視野に立って、真剣にこれらの問題を考えるべきである」。
 
 これは、全国の学校の教師が読む小冊子に高校2年生が書くべき言葉ではない。当時の私は、雑誌に文章を書くということの意味をよく分かっていなかったから、まるで高校生を相手にしたような文章を大人に向かって書いてしまっている。が、そういう知ったかぶりで未熟な点を黙認して読んでみれば、この文章の背後にある高校2年生の考え方の“大筋”が見えてくる。それは、当時の教育制度には問題があり、その解決に努力する学生運動には意味を認めるが、その反面、こういう学生の純粋でナイーブな感情を利用する政治勢力があり、左翼の学生運動はそれによって暴力革命の方向に誘導されている。この危機に際してもはや傍観できないから、もっと真剣に解決策を考えよう--そういうことを訴えている。

 つまり、左翼の暴力革命の可能性が高まっているという危機感が、当時の私の日常生活にも影を落としていたのである。「何を大袈裟な……」と思う読者がいるかもしれないが、各地の大学がヘルメット姿の学生に占拠され、授業は行われず、紺色の防護服を着た機動隊員と放水車が町角の風景となった異様に緊迫した社会状況は、今日の平穏な社会からは想像が難しい。そして、この緊迫感は安保改定の節目となる1970年に入ってからは、さらに募っていくのである。同年の2月号に書いた私の文章は、社会を“右側”から見た紋切型で矛盾に満ちたものでありながら、そんな緊迫感だけはよく伝えていると思う--
 
「ここで我々がはっきりと認識しなければならないのは、現在に於てもこの占領政策の遺恨が種々の定着した形で日本の精神を隠蔽しているということである。それは占領軍に与えられたままのこの現行教育体制とそれに便乗した日共・進歩的文化人の亡国教育であり、乱闘国会であり、日教組教育であり、青年層の祖国喪失であり、国防意識の消滅であり、性道徳の退廃である。実際、現代日本の精神的荒廃は極限に達した感がある。朝夕の新聞の三面記事はそのほんの一例であるが、三億円事件のようなサスペンスに富んだヒロイックな事件の不安定な周期の合間に、(…中略…)親殺し、小児殺し、祖父殺しなどの記事が濃縮されて掲載され、それが余りに頻繁であるが為に読者を道徳的不感症に陥れている。そしてこのような戦後的情況の集大成として押しつけられた日本国憲法と称する占領憲法が未だに温存され、一部の人々から平和憲法などとして崇められている現状を見るにつけ、私は日本の危機を叫ばずにはいられない」。

 社会の“悪”に注目して憤りの念に燃え、その原因を特定の政治体制に帰して危機を叫ぶ--典型的なデマゴギーの論理が、悲しいかな、高校3年の私の心中に忍び込んでいるのが分かる。

 谷口 雅宣

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2008年12月25日

古い記録(4)

 跳び石の休日のおかげで、自宅に保管されていた昔の写真を整理する時間がもてたため、私の高校時代の記録を“発掘”した。本題でこの欄を書くのは、今年の8月以来(7月31日8月1日同4日)だが、読者にもこの発掘作業の続編をお届けする。8月までに書いたのは、私の高校時代のことだった。その頃私は青山学院高等部の出版部に所属していて、「日本国憲法無効論」などで論陣を張っていた。私は当時、生高連(生長の家高校生連盟)にも参加していて、そこの東京の機関誌に文章を書いたりもした。その内容については、前回までにお伝えした通りである。当時の日本社会の状況は今とはまったく異なり、警察の機動隊と学生を中心とした若者との対立が全国で常態化しており、一部では“革命前夜”の様相を呈していたのである。

 当時の若者の多くは、ベトナム戦争をアメリカの帝国主義侵略戦争と考え、その国と安全保障条約を結んで基地を提供している日本は、侵略戦争の片棒をかつぐ“悪政”を敷いているとして、1970年に改定の節目を迎える日米安保条約を“粉砕”すると息まき、警察と激しく衝突していた。私の通っていた青山学院のある青山通りでは、歩道の敷石がほとんどはがされ、機動隊との対立に備えて学校内に持ち込まれた。これを砕いて投石に使うのである。清涼飲料の瓶は“火炎瓶”に使われ、工事現場からは鉄パイプが盗まれて“槍”に加工された。これらの武器は学生会館のどこかに隠され、会館周囲には、教室から持ち込んだ机や椅子やべニア板でバリケードが組み上げられた。つまり、「戦争反対」を叫びながら、彼らは国の治安機関との間では戦争に近い暴力的対立を深めていた。
 
 生長の家はこの中で、「生長の家学生会全国総連合」(生学連)という組織をつくって、各大学の学生会を単位とした伝道と啓蒙活動を行っていたが、日本の大学では上のような“左翼”の側からの言論が大勢を占めることに危機感を覚え、反共、反暴力、安保擁護の立場を鮮明にして“民族派”の運動に参加したのだった。私が高校の新聞紙上に書いた政治的な論説は、この“右側”からの言論の受け売りと焼き直しにすぎない。別の言い方をすれば、大学や社会での“左右の対立”が、高校の新聞紙上にも反映していたということだ。
 
Bw001s  青山学院に限って言えば、ここでは神学部の学生を中心とした反安保の“左側”の運動が盛んだったが、そこへ生長の家の学生による“民族派”の反対運動が起こったことで、厳しい学内対立になったようである。「ようである」と推量して書いたのは、当時高校生だった私には、その様子が詳しく分からないからだ。が、姉2人が青山学院に籍を置いていた関係もあり、高校と同じ敷地内にある大学には出入りすることも多く、私は実際にそこへ行って写真を何枚も撮っている。その写真のうち2枚をここに掲げる。1枚は、青学大構内で集会をする安保反対の学生運動参加者たちだ。ヘルメットをかぶった学生のアジ演説を聴いている。

Bw004s  もう1枚は、大学の建物の柱に書かれた落書きの写真だ。「落書き」ではあるが、内容はかなり“脅し”に近い。文字が一部光っていて読みにくいが、「青学大に巣食う 右翼肉体派 ○○○○ 谷口一家(生長の家天皇万才派 谷口雅春の孫)」と書いてある。実際には固有名詞がきちんと書かれているが、ご本人の名誉のために写真ではボカした。このほかにも「天皇万才派 ○○○○の早セ田大学右翼と結びついた暴力を許さないぞ」「右翼 ○○○○ 谷口(生長の家)一派を殺せ」などという物騒なものもあった。これらの伏せ字の所には、当時の青学大の生長の家学生会の代表者の名前が入っていた。いずれの写真も1969年に撮った。3枚目のBw010s 写真は、これより1年後のもの。生長の家青年会の街頭行進の様子である。日本の国論が二分して対立していた時代には、使われる言葉もずいぶん大変なものだ。それにしても、「右翼肉体派」とか「天皇万才派」というような呼称はオカシナ見当違いである。

 私は、こういう騒然とした雰囲気の中で高校から大学へ進学したのである。
 
 谷口 雅宣

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