2011年6月19日

表参道にキノコ出る

Hitoyotake  今日は朝から新宿へ行った。パスポートを受け取るためである。6月9日の本欄に申請書類を都庁の旅券課に提出したことを書いたが、1週間後には新しいものが発行されると言われていた。夏休み前の日曜日だから、もしや混雑……と思って“朝一番”の時間に行くことにした。日曜日はたいてい講習会があるので、そういう休日の原宿をゆっくりと歩く機会は珍しい。人もまばらで静かな原宿はいいものだ……と思いながら、明治通りと表参道の交差点を新宿方向へ渡り、JR原宿駅に向かった。と、地下鉄の明治神宮前駅への降り口のところに、奇妙な形の白い塊を見つけた。一見して、空気の入った白いレジ袋が捨ててあるのかと思った。が、近づいていくると、卵大の白いツブツブが密集しているように見える。そして、さらに近づくと、それがキノコの幼菌の群生だと分かった。私と妻は、思わず大声を出してしまった。
 
 東京の原宿でキノコが生えるのは、明治神宮か自宅の庭ぐらいだと高をくくっていたが、表参道の地下鉄の駅の入口で、植え込みの中から群生するキノコもあるのだ。一般にキノコが生える環境は自然が豊かだとされるが、この考えは改めなければいけないのか、と思った。しかし反面、キノコはカビの“親戚”だから、条件さえ整えば都会の真ん中で頭をもたげていても不思議はないのかもしれない。その証拠に、松本零士氏の『男おいどん』というマンガのシリーズでは、じめじめした環境の貧しい家の中では、町中であっても「サルマタケ」というキノコが出ることになっている。もちろん、こんな名前のキノコは存在しない。が、松本氏は自分の経験を元にしている可能性は大きい。
 
Awatake  私が今回のキノコ発見に心を動かしたのは、たぶん自宅と長崎・総本山の公邸の庭とで、連続してキノコと出会っているからだ。「また遭いましたね!」という感じだ。自宅でキノコに遭ったのは先月の26日で、勝手口の脇の陽の当たる植え込みの中に出ているのを妻が見つけた。総本山では、雅春先生の二十六年祭で公邸に泊まったとき、これも妻が最初に見つけて私を驚かせた。これらの場所でキノコが出ること自体は、それほど驚くことではない。過去に何度も目撃している。が、私が感動したのは、それらのキノコKoujitake が食用にできる種であるということだった。自然に囲まれている総本山の公邸は、何らかのキノコは生えるだろう。また、自宅の庭にも、カレバタケのような非食用種はいくつも顔を出す。しかし、今回遭遇したのは、アワタケ(写真左)、もしくはコウジタケ(写真右)と思われるイグチ科の食用キノコだった。長崎の公邸はともかく、東京の原宿で天然の食用種が採れるとなれば、自慢していいと思っていた。
 
 そこで問題になるのが、今回の地下鉄駅前で見つけた“天然キノコ”の種類である。パスポートを受け取ってから帰宅し、キノコの本を調べてみると、それは「ヒトヨタケ」だと思われる。「思われる」と書いたのは、キノコの種の同定は専門家でも難しいからだ。しかし、本にある写真と書かれた記述を読み、自分の撮った写真と見比べてみると、この種以外は考えられない。そこで、この本の説明を引用しよう--
 
「ヒトヨタケーー春~秋、畑地、公園、路傍などに束状に発生。傘は初め長卵形、のちに開いて鐘形となり、小~中型。表面は灰色~淡灰褐色、中央部に鱗片をつけ、周辺は溝線がある。ひだは密、成熟するにつれて白色から紫灰色、黒色と変化し、反り返った傘の周縁部から液化してしたたる。(中略)食。ただし、酒類を飲む前や飲んだのちに食べると激しい二日酔い状の中毒にかかる。ヒトヨタケ属のきのこは“一夜茸”の名のとおり、どれも短命である」。

 ということで、このキノコは食べられる可能性が大だが、酒好きの人は要注意である。また、すぐに“液状化”するようだから、採りに行っても、もう姿を消しているかもしれない。(残っていても食べないでください)

 谷口 雅宣

【参考文献】
○本郷次雄監修『きのこ』(山と渓谷社、1994年)

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2011年4月14日

被災地の海岸を行く (2)

 前日の私たちの行動については妻のブログの方が詳しいので、宮城県教化部を訪問して以降の私たちの行動は、そちらを参照してほしい。今回は、次の日の行動について簡単に記す。
 
 私たちは午前10時ごろに秋保温泉の宿舎を出て、海岸沿いに福島県の相馬市まで南下することにした。まず仙台市にもどって仙台南部道路を海岸方向に東進、今泉から同東部道路に入り、そこを海岸線に沿って南下した。この道路は常磐自動車道に接続していて山元まで行ける。その高架式の自動車専用道路の上から見えた光景は、大変なものだった。津波の浸食で道路左側の海岸沿いの土地は、ほとんどの建物が広大な地域にわたって消失しており、見渡すかぎりの土色の平原に、瓦礫や残留物が無秩序に散乱しているのだった。
 
Miyagidistr_10  ハンドルを握っていた私は、それを克明に見ることができなかったが、助手席の妻が驚愕の声を上げ、嘆息し、うなるのを聞きながら、視野の端々にとらえられる惨状を見ていた。大津波の襲来後、1カ月たっているのだが、この広大な地域の惨状にはほとんど手がつけられていない。国道に降りてからは、道路のあちこちが陥没したり、亀裂が入っていたりする中をさらに南下して、相馬港の入口付近まで行った。大きな火力発電所があり、「新地」と書かれた金属製の住所表示の標識が、津波の力で支柱からひん曲がっMiyagidistr_13 ていたから、恐らくここは相馬共同火力発電の新地発電所ではないかと思う。付近では、運送用トラックが林に突っ込んでいたり、重機が転倒していたり、陸上にある分厚いコンクリート製の防潮堤の先端が引きちぎられていたりして、今回の津波の破壊力の大きさが思い知らされたのだった。
 
 相馬市からは国道113号線を西へ走り、鹿狼山を通って丸森町、梁川町経由で東北自動車道へ入った。新宿着は午後7時ごろだったから、休憩を入れて9時間ぐらいの行程だった。
 
 谷口 雅宣

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2011年4月13日

被災地の海岸を行く

 思い立って東北の東海岸へ行った。史上稀なる大震災と大津波の被害はメディアを通して見ていたが、人やカメラを通してではなく、自分の目で見る必要を感じていたからだ。先遣隊として東北救援の旅から帰ってきた戸島幹雄・総務部長から前日、現場の様子を聞き、どういうルートで行けばよいか助言してもらっていた。朝6時半ごろ妻とともに東京・渋谷の公邸を車で出て、まずガソリンを補充。そして、首都高に乗ったのは7時ごろだった。長時間の運転は2~3時間なら平気だが、片道6時間かかるという話なので、覚悟を決め、いざという時は妻に運転を頼むつもりだった。目的地は仙台市だが、その途中、相馬市、岩沼市、名取市も通る可能性を考えていた。「可能性」と書いたのは、現地の様子が皆目わからず、車で行ける状態なのかどうか自信がなかったからだ。実際に行った戸島氏は「行けます」と太鼓判を押してくれるのだが、テレビなどで見た相馬市の破壊のすさまじさが脳裏にあって、無理はしまいと考えていた。

 東北自動車道は、建設資材や重機、自動車、貨物コンテナ、石油製品などを積んだ大型車両が、北に向かってずいぶん多く走っていた。また、関東以西のナンバーの乗用車も、結構多く走っていて、中には「救援派遣」とか「災害派遣」などと書いた紙や布を窓に貼っている車もいる。そういう車と共にひたすら北上し、8時45分ごろには上河内のサービスエリアに着き、そこで一度休憩をとった。そこからは「運転しましょうか」という妻の好意に甘えた。11時ごろには白石市に到達し、そこから一般道へ出た。ここから先は被災地なので、再び私がハンドルを握り、JR東北本線と北東方向に併行する国道4号線を走り、海岸へと近づいていった。岩沼市に入るまでは、付近の民家やビルに目立った損害は認められなかった。郊外型の大型店もちゃんと営業しているようだった。ただ、瓦屋根の家の中に、一部を青や白のビニールシートで補修した跡の見えるものが、ポツンポツンとあった。復旧作業は、だいぶ進んでいるのだと思った。

Miyagidistr_07  ところが、岩沼市も仙台空港に近づいていくと、風景が一変した。特に、海岸に併行して北上する仙台東部道路を境にして、それより海岸寄りの地域は「色」が変わって見えた。内陸部の地域は普通に色数があるのだが、海岸に近い地域は全体が土色をして見えるのだ。つまり、津波に襲われて土砂をかぶったままの状態にある。そして、仙台空港の周辺地域に行ったが、そこはまるで“地獄”か“戦場”のような破壊の跡が、延々と広がっているのだった。私と妻は、そこで写真を何枚も撮った。が、外に出ていると異様な臭気もするので、長居を避けて内陸部へ引き返した。

Miyagisni_members  生長の家の宮城県教化部は、内陸部の仙台市太白区にある。私たちはその方向へ進み、近くで昼食をとってから教化部を訪問した。前もって何の連絡もしていなかったので、教化部の方々を大変驚かせてしまった。しかし、高坂幸雄・教化部長を初めとした職員の人たちは、休む日もなく復旧活動にフル回転していると聞いていたので、その妨げになりたくなかったからだ。同教化部長など教区五者の人々や事務局長は、県北東部の石巻や気仙沼方面へ救援活動に出ておられた。私たちは教化部の建物の被害状況について説明を受け、大道場での聖経読誦を所望した。私は当初、海岸付近に立って聖経読誦をしようと思っていたが、現場がそんな状況でないし、信徒の方々とともに実相軸の前でそうすることの意義の方が大きいと考えた。今回の地震と津波の犠牲者の御霊に対し、また災害からの復興に尽力するすべての人々の無事と成功を祈り、聖経を読誦させていただいた。

 破壊された街並み、家々、自動車、道路などが脳裏に焼きつく中、常住完全なる実在を説く真理の言葉の朗誦には、自然と力が入るのだった--
 
 万物はこれ神の心、
 すべてはこれ霊、
 すべてはこれ心、
 物質にて成るもの一つもなし。
 物質はただ心の影、
 影を見て実在と見るものはこれ迷。
 汝ら心して迷いに捉わるること勿れ。
 ……
 
 谷口 雅宣
 

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2011年4月 4日

東日本大震災の写真

 前岩手教区教化部長の矢野俊一・非常任参議が、大震災後の3月23日に岩手県宮古市から山田町、大槌町あたりの海岸沿いを調査し、震災の惨状を撮った写真を提供してくださった。そのうち16枚を選んで、私のフェイスブックのページに登録した。撮影は、同教区相愛会事務局長の森田真司氏である。

 谷口 雅宣 

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2011年3月14日

東北地方太平洋沖地震 (3)

Cimg01922  茨城県教化部の被災状況を示す写真を公開します。大道場の天井が落ちています。痛々しいかぎりです。

 
 しかし、私のフェイスブックのページには、海外の生長の家信徒の方々から大震災被災者への暖かい支援を伝えるメッセージが次々に届いています。その一部をここに紹介します。
 
 アメリカ合衆国伝道本部の川上真理雄・副教化総長によると、同伝道本部では祈りのグループを結成して、3月12日の午前11時から、聖経読誦と祈りを開始しています。また、この動きをアメリカ各教区に広げる指示を出したそうです。

Presidentepru2  ブラジル・サンパウロ州のプレシデンテプルデンテ市では、生長の家の会館に信徒が集まり、仙台市の津波被害者の支援のための聖経『甘露の法雨』読誦の会合がもたれました:

 ブラジル・サンパウロ州の青年会幹部、シェイラ・ミヤザキ・デ・リマ(Sheila Miyazaki de Lima)さんからは、ブラジルのテレビ局SBT(Sistema Brasileiro de Televisao)が報道したニュースのリンクが送られてきました。このニュースの最後には、ブラジル伝道本部での被災者支援のための連続聖経読誦の様子が映し出されています。

 谷口 雅宣

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2011年3月11日

東北地方太平洋沖地震

 日本の観測史上最大といわれるM8・8の大地震が東北地方中心に起こり、最高7メートルもある大津波が列島の太平洋岸を襲った。まだ被害状況の詳細はわからないが、テレビ等で伝えられる揺れの大きさや津波のすさまじさから考えると、阪神淡路大震災なみの相当数の被災者と、甚大な被害が出ているものと思う。被害に遭われた大勢の方々に心からお見舞い申し上げるとともに、被災者の救助と救援活動に尽力されている政府各機関を初め関係者、ボランティアの皆々さまに、心から感謝申し上げます。また、海外からもたくさんのお見舞いのメッセージと祈りの念をいただいています。感動するとともに、“神の子”の同志との一体感を感じます。
 
 1回目の地震が起こった午後3時前、私は東京・原宿の本部会館にある執務室で原稿書きの最中だった。ゆらゆらと揺れが始まったときは「また地震だな~」と思ったが、揺れはすぐ止まるとたかをくくっていた。ところが揺れは収まるどころか次第に大きくなり、棚の上の本や置物が落ち始めたので、私は自分のデスクの下へもぐり込んだ。階下へ降りるのは手遅れだと思ったからだ。本部の建物は古くて、今の耐震基準を満たしていない。だから、もしかしたら崩壊するかもしれないと思った。その時、頭の中にあったのは、ニュージーランドのクライストチャーチ市を襲った地震で、日本人が多く学んでいた英語学校の建物のことだった。が、幸いなことに揺れはだんだん収束していった。
 
 午後3時から執務室で人と会う約束があったから、揺れが収まると隣室の秘書たちに頼んで、床に落ちた本や書類を片付けてもらった。そして、予定通り来訪したその人と面談を始めた。そうこうしている間に、2回目の揺れが来た。今度は明確な縦揺れだった。面談の相手と顔を見合わせ、「下へ降りたほうがいい」と合意した。そして、階段を伝って1階まで降り、隣接する東郷神社のピーターハウスの前で、揺れが収まるのを待った。そこには、同じように危険を感じて外を出た本部職員が何人もいて、その数はだんだん増えていった。
 
Eq11008  2回目の揺れが収まると、私は面談相手とともに再び執務室へもどり、そこで手短に用事をすませてからテレビを見た。いつも落ち着いた態度でニュースを報じているキャスターが、声を震わせていた。そこに映し出された映像は尋常でなかった。特に津波の大きさに舌を巻き、早く帰宅しようと決めた。残った仕事は家でもできるものばかりだったからだ。こうして帰宅できた私は、幸運だった。東京の鉄道は地下鉄を含めてすべて止まっていたから、多くの職員が長時間かけて、バスや徒歩を使って帰宅し、あるいは地下鉄などの運行再開を待って帰宅したのだろう。
 
Eq11009  自宅の被害はなかった。ただ、高い場所にあった多くの物が落ち、一部の花瓶やコップなどが壊れた。私が帰宅したとき、妻はそれらの片付けをほとんど終わっていたが、私の書斎では本が散乱していた。大きなもので壊れたのは、庭にあった石灯籠ぐらいである。また、ガスが止まっていた。が、これも夕食前には出るようになっていたので、食事も普通にいただけたのは本当にありがたかった。

 私は、7年前に新潟中越地震を長岡駅で経験しているので、揺れに対する恐怖はそれほどではなかった。あの時は、立っていられないほどの揺れで、駅の床に這いつくばって恐怖に耐えたのだった。それと比べて、「まだ大丈夫」という気持がずっとあった。しかし、今回の地震の激甚さはその比較ではないだろう。被災地の一刻も早い復興を心からお祈り申し上げます。
 
 谷口 雅宣
 

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2011年3月10日

自然を囲い込む

Kangol_2

 アメリカのSNS「フェイスブック」上に、私が英語の“ファン・ページ”を開設したとはすで に本欄に書いた。そのサイト上で最近、「Tokyo ambivalence」という写真シリーズを始め た。アンビバレンスとは、「相反(矛盾)する感情」とか「両面価値」などと訳されるが、私は東京で出会う様々な事象の中に、人間が自然に対して抱く相反する想いを感じ、それらを写真に定着したいと考えたのである。休日などに街を散歩していると、この主題に合うものが案外多いことに気づく。ほんの思いつきで始めたことだが、発表ずみの写真はすでに8枚になった。そのうち何枚かを、ここに紹介しよう。

 2009年にブラジルのサンパウロ市で行われた生長の家教修会で世 界の宗教がもつ自然観を学んだとき、仏教誕生の地である古代インドでは、「森」に代表される自然界は何か不気味で恐ろしいものとして捉えられ、これに対して「都市」には安全と平和があるとの考えが強かっ たとの発表があった。それによると、大乗仏教の『大般若経』には、未開の大自然の中に生活する菩薩は、昆虫による病気や、水不足、食料不足に苦しみ、その経験から人々に対する自他一体感を得ると説かれ、さらに、この菩薩の悟りによって出現する仏国土とは、「大都市近くの喜びの木のようであろう」と書かれてあるという。
 
Wheat  しかし、その反面、釈迦の前生物語の中には、彼が多くの動物にたいして慈悲を行じたことで、世界の人々を救う導師として生まれ変わることができたとの教えが書かれている。これは、「人間と動物の魂は互いに入れ替わる」という教えで、自然と人間との間に大きな垣根はない。また、中国へ渡った仏教は、中国人の自然観の影響を受けて、動物だけでなく、いわゆる“山川草木国土”のような非情(心をもたないもの)にも仏性が宿るという教義を獲得し、それが日本に伝わって、土着の山岳信仰や神道の自然観を吸収して、「自然そのものの中に救いがある」とする考え方に結びついたことを学んだのである。

Lacoste  つまり、最古の世界宗教である仏教の中に、自然に対するアンビバレンス(相反する感情)が内包されている。また、仏教だけでなく、ユダヤ教とキリスト教の聖典である『創世記』にも、自然界の事物に対する相互に矛盾する記述があることを、私は昨年7月の本欄(7月13日、同月16日)などで指摘してきた。だから、日本人だけでなく、人間一般の心の中には、自然界に対する忌避や恐れがあると同時に、憧憬や愛があると言えるだろう。それならば、都市空間に置かれた人間の製作物にも、このようなアンビバレンスを反映したものがあるに違いない、と私は考えたのである。
 
Inisdeout_3  そのような考えを脳裏に秘めて街を歩くと、目にする光景の中に、私の予想に合致するようなものが案外目につくのである。それは我々人間が、動物や植物などの自然界の事物を「好む」のであるが、全体を受け入れるのではなく、一部を「囲い込む」ことで自然を無害化して受け入れ、精神の安定を得る--そんなイメージを想起させる。言わば「盆栽」や「箱庭」のように自然を愛するのである。
 
 谷口 雅宣

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2010年10月23日

旭川の珈琲店

 生長の家の講習会で旭川市に来た。事前の天気情報では最高気温が15℃、最低は4℃という話だったので、スプリングコート持参である。広大な空には、目に沁みるような青さの中で白い雲が点々としている。刈り取りの終った田がどこまでも続く中、冠雪した大雪山系の山々を横目で見ながら車で走る。木々の紅葉と黄葉が、常緑樹の緑を背に浮き上がって見える--自然のパノラマを堪能しているうちに、灰色のビルが立ち並ぶ市街地に、突然来ていた。
 
Halloween02  午後の早い時間に宿舎に着いたので、市内をゆっくり散策できた。“買い物公園”という名の屋根のない広い商店街で、黒い服装の子供連れの一団が整列しているので近づいていくと、ハローウィンのイベントをしていた。行列を作って歩きながら「トリック・オァ・トリート」と言い、出店の人から何かもらうイベントのようだ。そんな一団は、東京でもあまり見かけない。中には青い目の人、黒い肌の人もいる。なかなか国際的だ。イベント会場では、オバケ・カボチャの製作指導もしていたし、カボチャはタダで提供していた。さすが農業国・北海道である。
 
 私たちは、そんな中を抜けて、お目当ての“あの珈琲店”を探した。妻は、4年前にここへ来たときに入ったというが、私は憶えていない。それでも、商店街から逸れて狭い路地へ入っていくと、何となく思い出してきた。蔦がからまる古い木造の平屋で、錆びた金属製のGarden2 看板がある店……廃業していなければ、まだあるはず……。ありがたいことに、その店は4年前と変わらぬ姿で、そこにあった。珈琲亭「ちろる」である。この店は、間口は狭いが奥行きが深く、裏口を出ると中庭まである。落ち着いた色の木製の家具や暖炉がある中で、人々が静かに談笑している。私の学生時代には、こういう店が東京にもたくさんあった。そこへ入って何時間も友達と話をしていた頃を思い出し、懐かしい気持になる。中庭では、青いベンチの背後に伸びた蔦の紅葉が見事だった。そんな店で、私たちはパンプキン・パイを食べながら半時間ほど過ごし、翌日のための英気を養った。
 
 谷口 雅宣

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2010年9月 5日

暑さを超えて前進!

 今日は福島市のパルセいいざかで生長の家講習会が行われ、前回を71人(4.7%)上回る1,594人の受講者が参集してくださった。日本列島全体に“炎天”が続き、京都ではほとんど40℃にも達するなど過酷な気象が続くが、その中で、人口減少にもかかわらず、休場敏行・教化部長をはじめとした福島教区の幹部・信徒の皆さんが熱心に推進してくださったおかげである。この場を借りて、心から感謝申し上げます。本年度当初から累計すると、11教区で行われた講習会の受講者は、8教区で前回を上回る数となり、全体で前回比累計「+1,641人」となった。運動に明らかな盛り上がりが見られるようで、誠にありがたいことである。
 
 講習会後の幹部との懇談会で、成功要因の1つとして丁寧な駐車場対策が挙げられた。これは前回、駐車場スペースが不足したために来場者が会場前まで来たのに帰ってしまうという残念な事態を改善したものだ。今回は、駐車のためにより広いスペースを確保しただけでなく、実行委員の駐車は会場から遠い所に定め、会場と駐車場間をワゴン車などで連絡する対策を講じたという。また、高齢者の受講に配慮して、参加者の移動などFukushimaskyには車椅子を利用できることを事前に周知させ、当日はバスから会場への移動や、会場内での利用に20台の車椅子をフル回転させたという。このようなきめ細かい配慮が、高齢者が安心して参加できる環境をつくったのだろう。が、それだけではない。会場内には若い人たちの姿も数多く見られたから、新人勧誘の対策も功を奏したに違いない。
 
 講習会の旅先では、私たちはよく宿舎や駅周辺を散歩するのだが、昨日も今日も気温は35℃前後になり、強烈な日差しにも恐れ入って、宿舎とその隣のデパートに“避難”することにした。写真は、宿舎の窓からの風景である。空の大きさと雲の雄大さは、東京ではめったに見られないものだった。
 
 谷口 雅宣

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2010年8月30日

日本の地方は衰えない

 昨日は滝川市のたきかわ文化センターで生長の家講習会が行われ、前回を129人(6.5%)上回る2,125人の受講者が各地から参集してくださった。会場は、後部の座席がせり上がっていく大きな“階段教室”といった雰囲気で、演壇上の私は、真正面を見ながら話ができるという稀な機会を得た。稀ついでにもう一つ言えば、午前中の妻の講話の最中に、会場から「ワン、ワン」という声が響いたのには驚いた。受講者の1人が、膝の上に愛犬を載せて参加していたのである。その後、イヌの声は聞こえなくなったが、私の講習会経験で初めての出来事だった。講話に対する質問も10個と、この規模の講習会では多く出たのはよかった。ただし、1人で4つの質問を書いた人の分も含む。また、「質問ではありません」という注釈付きで、次のような感想をよこしてくださった千歳市の70代の女性の言葉が印象に残った--
 
「平成の時代となり22年間、この間、平成の子供達は成長し、その世代に合った年齢の方々がこの教えに関心を持ち始めている様に思います。日本が平和でも、テレビ等、あらゆる面で世界の戦争が見える時代。今こそ若い世代に教えを伝える責任があると思う。」

 空知地方は、例にたがわず高齢化と過疎化が進み、人口の減少が続いているが、その中で、このような気骨ある多くの先輩信徒・幹部の皆さんが、今回も熱心に講習会を推進してくださったおかげで、前回を上回る数の受講者が来てくださったのだと思う。この場を借りて、皆さんに心から感謝申し上げます。
 
Bookshelf  ところで、ここに掲げた写真は、滝川の町を妻と散策している時に、商店の中を窓の外から撮影したものだ。なかなか立派な本棚があるのを見つけて、思わずシャッターを押した。よく見ていただくと分かるが、この本棚と中に並んだ本は本物ではなく、ミニチュアである。8月13日の本欄でご披露した私のミニチュア本棚より、数段すぐれている。「やはりプロの仕事は違う」と思った。こういう感覚とウデをもつ人々がこの地に残っているということは、私に希望を与えてくれた。そう言えば、宿泊したホテルのことでも、妻と笑顔で合意したことがある。それは、毎回利用するこのホテルが、年を経るとともに外観だけでなく室内の設備も古びてきているのが寂しかったのだが、今回は違った。1階にあるレストランが新しくなっていて、東京の渋谷や原宿近辺でもザラにはないような美味で、上品なイタリア料理を出してくれた。しかも、値段は半額ほどだ。北海道ならではの地元の新鮮な食材が使われていたこともあるが、やはりそれを使う料理人が優れているからだ。

 こういう体験をしてみると、私は「日本の地方が衰える」というのは、一種の“ニセ伝説”ではないかと思う。伝説を信じる者はそれに縛られるが、信じずに自分のベストを尽くし、人々の求めるものを与えられる者は成長し、繁栄するに違いない。

 谷口 雅宣

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