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2011年8月30日

山林の価値を認めてほしい

 ヨーロッパの人々は樹木を大切にするという話を書いたが、「いや待てよ……」と疑いたくなるような話が新聞に載っていた。今日付の『朝日新聞』によると、オーストリアとイタリアの国境にあるグローセ・キニガット(標高約2,689m)とロスコップ(同約2,603m)の2つの山の山頂付近を、オーストリア政府が売りに出したというのである。前者は山頂と周辺の2つの峰を含む約92万平方メートル、後者は山頂を含む約29万平方メートルで、値段はそれぞれ約9万2千ユーロ(約1千万円)と、約2万9千ユーロ(約330万円)という。もちろん、そこに生えている森林もすべて一緒に売り払う話だ。しかし、国民から猛反対されたため、方針転換を余儀なくされたそうだ。
 
 この話になぜ驚いたかというと、自然物に対する経済的評価の低さである。2千メートル級の山の山頂付近を「330万円から1千万円」と評価する考え方は、相当程度の低い人間中心主義だと思った。記事によると、この値段をはじき出したのは、オーストリア政府から国有不動産の管理・売買を委託されている公営企業体だというから、いいかげんな会社ではないだろう。その会社の36歳の報道官は、今回の話に関連して、「公営企業だから納税者に責任がある。2つの峰のような価値の低い物件は徐々に処分していく」と説明したという。また、政府当局者は、「山頂は岩や石ばかり。持っていてもあまり利益がない。外国企業などが高値で買いたいといえば、売る人が出てくるかもしれない」と話したとも書いてある。

 こういうことを政府や公営企業の上層部にいる人々が平気で言うとしたら、その国の人々は樹木などの自然物を大切にすると本当に言えるだろうか、という疑問が湧き上がったのである。しかし、国民がその話を聞いて一斉に反発したのだから、一般のオーストリア人には良識があると考えるべきだろう。問題はやはり、現在の経済学の考え方の中に潜む人間中心主義なのだろう。言い換えれば、山や森林がもつ“生態系サービス”と呼ばれる数々の貴重な機能の評価が、今の経済統計の中からごっそりと抜け落ちていることが問題なのだ。そこから、「金銭的評価=価値」という短絡的思考によって、今回のような愚かなことが真面目に検討される。上記の値段は決して高くはないから、この峰を買おうとしてドイツのソフトウェア会社が名乗りを上げたという。「ぜひ購入して山頂に会社名をつけたい」のだそうだ。また、中東やロシアの投資家からも問い合わせがあったという。

 こういう話を聞くと、日本でもかつて北海道の原野や森林などを外国人や外国企業が購入して問題になったのを思い出す。山林は、飲料水の生産地であることを忘れてはいけない。今、世界中で水不足--特に、飲料水の不足が深刻化している。だから、「飲料水を生産する」という機能だけでもきちんと経済的に評価すれば、山林の値段は上がり、地方の活性化や林業の振興につながるはずだ。これに加えて、「二酸化炭素を吸収する」という山林の機能をきちんと評価すれば、都会偏重のいびつな経済は修正されて、よりバランスのとれた自然尊重の社会に移行すると思うのだ。そういう抜本的な制度改革を新しい政府に求めるのは、どだい無理なのだろうか。
 
 谷口 雅宣

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コメント

雅宣先生、有難うございます。私は昔は、父母が農業をし、また村で、小さな店を開いて村の人のために働いていました。父は炭焼きもしていました。またその頃は、営林署の社宅が、家の隣にあり、父はその営林署の人の手伝いをして、たくさんの木を植林してきました。でも時代と共に、店もやめ、町に移り住み、田畑は人に貸し、父も亡くなり、山はそのままの状態です。父がいるときは、休みになると、父は、一人でその田舎に自転車で走り帰り、一日を過ごし働いていました。その時の父の気持ちは、私にはわかりませんでした。が今、父の気持ちが痛いほどにわかります。父がどんなに、自然を愛してきた事かが、若いときは、ただ都会にあこがれるばかりでしたが、今本当に、神・自然・人間の大調和を考えさせられます。再拝

投稿: 有馬真由美 | 2011年8月31日 08:34

私もその記事を読んで、驚きました。でも、反対意見が殺到したと知ってほっとしました。と同時に、ほとんど価値のない山と評価されたと知って、かなりのショックをうけました。
山の存在が地球にとって、なくてはならないものだと(決して過言ではないと思います)思う私は、非常に残念でなりません。それこそ、温暖化防止の鍵は山の存在にあり!!ぐらい重要に考えています。
「山の価値を認めてほしい」
本当に、そう思います。必ずや、認めざるを得なくなる時がくると信じます(合掌)

投稿: 水野奈美 | 2011年8月31日 20:22

有馬さん、
 そうですか。お父様は森を愛していらしたのですね。戦後の日本の政治・経済が工業化と貿易優先で進んでいった結果ですね。これからは、そういう方向をある程度逆転させねばなりませんね。

水野さん、
 「温暖化防止の鍵は山の存在にある」--その通りですね。そして、その山には森がなければなりませんね。

投稿: 谷口 | 2011年8月31日 21:07

雅宣先生、今思うと、私は、貧しい国のことを知り、中学のとき、海外青年協力隊員になって、技術援助をしてお役に立ちたいと思い、高専の工業化学科に入学しました。途中、いろんなことがあって、協力隊員にはなれませんでした。その後、『足元から平和を』に出ているあの缶ジュースの試験室、ラジカセなど海外に工場をたくさん立てて、安く出来る会社の技術サービスに、道路拡張のため、立ち退きの費用算出のための建築物などの見積もりの仕事をしていました。今思うといろいろの思いに駆られます。新しい家も古いよき家もいろんなものがありました。その頃は技術さえあれば、良くなっていくと思っていました。生長の家に導かれ、本当に大切なものが何であるかを気づかせていただく毎日です。有難うございます。再拝

投稿: 有馬真由美 | 2011年8月31日 22:21

合掌ありがとうございます。私の今は亡き父親はいつも日曜日になると山林に行って枝打ちをしていました。私への形見分けのつもりだったようです。売れば金になると言われて一生懸命やっていたようです。谷口先生のご文章を読んで少しショックを受けました。あまり財産としての価値はないのですね。生長の家のみ教えに触れてからは、真剣に考えていませんでした。宇治の練成に参加して長田先生から環境破壊の話を聞いた時、分かっているつもりでしたのでちょっと意外な感じでした。これからは父親の遺産は当てにしないでおこうと思います。私の住んでいる各務原では3年ぐらい前に大規模な森林火災が発生していて、誌友さんたちが集まると未だにその事が話題に上ります。焼け跡に植樹をしたりといろいろやっています。信者の一人として何をすべきか考えさせられる出来事だと思います。他にやるべき事はあるのでしょうか。時々ホームページを覗いて回答を見つけたいと思います。再拝

投稿: 横山啓子 | 2011年9月 1日 23:52

合掌ありがとうございます。先月の25日の生長の家講習会は、誠にありがとうございました。谷口雅宣先生夫婦の講話は、大変素晴らしかったです。再拝。

投稿: 佐藤友香 | 2011年9月 6日 22:04

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