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2011年8月21日

ドイツでの国際教修会について (4)

 このテーマで前回書いたときから、しばらく日がたってしまった。ドイツのカトリック神学者、マルカス・フォクト氏によるキリスト教の世界観を学んでいる途中だった。それによると、キリスト教には神・人・自然を3つの主体として明確に区別する“三者分立”の考えが強く、さらにそれらの間に「神」「人」「自然」の順に序列がついているのだった。その根拠は、神は創造主であり、すべて原因者だから第1に価値があり、人は、その神を経験できる被造物として2番目に価値を有し、自然はそれができない被造物であるがために3番目の地位に置かれるということだった。ここまでは、論理的にはわかりやすい。が、現代の科学的研究の結果と合致させようとすると、無理が生じる部分がある。特に人間と自然とを截然と分離する考え方は、近年の生物学の発見とは相当矛盾してくるだろう。
 
 ところで、フォクト氏が「ものの価値」について語るとき、私の脳裏には疑問符がいくつも浮かぶ。同氏によると、ディープ・エコロジーでは自然界の価値は自然そのものの中にあるとするが、キリスト教的世界観では、ものの価値は人間が決めるというのである。私は、これには大いに異論がある。確かに資本主義経済の中では、ものの価値は人間によって決められる。簡単に言えば、需要と供給が一致する点でものの値段は決まる。しかし、それはあくまでも経済学であり、宗教ではない。しかし、フォクト氏は、キリスト教的視点では、ものの価値は予め与えられているもの、あるいは自然によって前もって決まっているものではないという。そうではなく、人間同士の検討によって創られるものだという。そして、「これが真に存在論的な意味での“人間中心主義”である」と言うのである。その意味は定かでないが、人間中心主義を否定していないことは確かである。が、その一方で、これは人間だけを問題にすることではないという。この重要な発言についての説明は非常に短くて、難解だ。「これは知識と倫理的判断についての存在論的な前提条件であり、自然の内在的価値を無視しているのではない」というだけである。

 この説明だけでは、同氏の真意を確かめることはできない。が、あえて想像してみるならば、こういうことだろうか--すなわち、キリスト教的見方によれば、人間が他の自然よりも価値があるのは「神を体験する」という理性があるからだ。逆に言えば、自然には理性がない。ということは、価値の存在や高下を判断するのはこの理性によるのだから、自然自体には価値判断の能力がない。だから、自然界には弱肉強食の生存競争が存在している。これをトマス・アクィナスは「自然悪(natural evil)」と呼んだ。もちろん、人間社会にも弱肉強食の現象は存在する。しかし、人間はその状態を見て「悪いことだ」と判断する能力がある。これがつまり「神を体験する」という意味だろう。別の表現を使えば、自分の良心の内に神の声を聴くということだ。そういう“神の似姿”として創られた人間が自然界の出来事の価値判断をせずに、自然自体に--自然のすべての部分に--価値があると考えることは、人間存在自体の意味を否定することになる--これが、同氏のいう「存在論的な前提条件」の意味なのだろう。簡単に言えば、人間の存在の意味を肯定するならば、人間中心主義にならざるを得ないということだろう。

 しかし、この考え方では、「自然から学ぶ」とか「自然の中に神を見出す」ということが可能であるかどうかの疑問が残る。フォクト氏は「自然の中に神性を見出す」というディープ・エコロジーの考え方を否定しているから、論理的一貫性は保たれている。しかし、このような一貫性に固執する態度は、あまりにも左脳偏重ではないかという気がする。人間は誰でも、虚心になって自然現象に相対するとき、神秘性、偉大性、壮大性など、自分を超えた価値の存在を心の中に感じるものである。その感覚は、論理によって説明し尽くせるものではない。そういう感情を“偶像崇拝への誘惑”として否定することが人間らしい生き方であり、しかも神への忠誠を誓うことになるとキリスト教では考えるのだろうか。このへんの疑問は、いつかぜひ同氏に聞いて説明を受けたいと感じる。なぜなら、氏はドイツ人であるだけでなく、フライブルグ市の出身だというからだ。ドイツ人は昔から“森”を愛することで有名であり、ドイツ国内でその“森”と人間との調和的発展が実現している町が、フライブルグ市だからだ。
 
 谷口 雅宣

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コメント

 マルカス・フォクト氏の回答が楽しみです。
早期に実現されることを期待しております。

 失礼致します。

投稿: 横山浩雅 | 2011年8月23日 04:21

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