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2011年8月16日

ドイツでの国際教修会について (3)

 前回まで本欄で見てきたキリスト教的自然観は、日本の伝統宗教である神道の自然観とはやや異なる。フォクト氏は、「人間は自然に根差した存在である」としながらも、「神を経験する」能力を神から恩寵としていただいている点を強調して、それが自然と人間とを区別するものだという。人間の方が、自然より神に近いとするのである。だから、自然を聖化する汎神論とは異なると説くのである。神道においては「万物に神が宿る」のであるから、神と人との境界が定かでないだけでなく、動植物と人、神と動植物との境界も定かでない。これに対し、キリスト教的世界観では、自然と神とは、明らかに区別された主体同士(distinct entities)として捉えられる。また、人間と神との間にも明らかな区別があるため、人間は「聖なるもの」が抱える負担を軽減されるというのである。これは恐らく、人間には完全性が要求されないという意味だろう。その結果、神と(人間を含めた)被造物との間には自由意思にもとづく関係を結ぶ可能性が生じる、と考えるのである。
 
 ここのところが、日本人にはわかりにくい。いわゆる“神との契約”説である。人間は自由意思にもとづいて神と契約を結んだのだから、神の戒めを守る義務が生じ、神も人間を救う義務が生じるという考え方だ。フォクト氏によると、この神との契約は、人間と神との間だけでなく、自然物と神との間にも同様に存在するという。そして、その根拠として、『創世記』第9章13~16節を挙げる。そこには神の言葉としてこうあるのだーー
 
「すなわち、わたしは雲の中に、にじを置く。これがわたしと地との間の契約のしるしとなる。わたしが雲を地の上に起こすとき、にじは雲の中に現れる。こうして、わたしは、わたしとあなたがた、及びすべての肉なるあらゆる生き物との間に立てた契約を思いおこすゆえ、水はふたたび、すべて肉なる者を滅ぼす洪水とはならない。にじが雲の中に現れるとき、わたしはこれを見て、神が地上にあるすべて肉なるあらゆる生き物との間に立てた永遠の契約を思いおこすであろう」。

 このような「神・人・自然」の“三者分立”の考え方が、キリスト教が環境問題を扱う際のきわめて重要な要素になる、とフォクト氏は言う。例えば、自然の中に“聖なるもの”を見るという点で神道と似ているディープ・エコロジーの立場では、自然はそのままで聖なるものだから、それを変更することは許されないことになる。自然自体が“完全な秩序”であり、“完全な平衡”を体現していると見なされる。とすると、農業も一定の自然の改変であるからできないことになり、遺伝子組み換えや、動植物を使った自然科学上の実験もタブー視されることになるという。これに対し、キリスト教の観点では、自然界の秩序に不完全な点を認める。それは例えば「死」や「闘争」のようなマイナス面である。こういうマイナス面に対して、手を加えて矯正するのが人間の使命だと考えるのである。そして、この見方は、現代の進化論的自然観と共通しているとする。なぜなら進化論では、生物界は常に生存競争による自然淘汰が行われている--つまり、未完成のアンバランスなシステムとしてとらえているからである。
 
 フォクト氏は、ディープ・エコロジーの考え方を批判して、もし自然界がそのままで“聖なるもの”であるならば、人間はその秩序を乱す“自然への最大の災害”となってしまうという。そして、自然環境は人類の滅亡によって最大の利益を得ることになってしまうとする。ディープ・エコロジーのような生命中心主義、あるいは環境中心主義の考え方を突き詰めていくと、そういう結論にならざるを得ないというのである。私は、この件を聞いて、かつて小泉純一郎氏が首相だった時代に、国会答弁で「人間の造ったものだけが地球に害を与えている」と指摘し、「人間こそが異星人と思われる」と発言したことを思い出した。しかしこれは極端な考え方で、人間には地球に害を与えないものを造る意志もあれば、能力もあり、実際にそういう製品を造り始めているという事実もある。ただ、現在の経済制度では、そういう努力がなかなか金銭的に報われない残念な側面があるのである。この点は、人間の努力で修正可能だと私は考える。
 
 谷口 雅宣

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コメント

人間を動物か植物かと言えば、動物ということになるのではないでしょうか。体毛なども退化しているとはいえちゃんと生えています。それを脱毛などすると不自然なことになってしまうと思います。人間も動物の一種だと思うのです。他の動物と人間とは違うという意味で、人間は動物ではないとかいうのではないでしょうか。進化の過程をたどっていけば、それは明らかではないでしょうか。人間が体内でたどる進化の過程でもそれは明らかではないでしょうか。いくら大脳などの新皮質が発達しているとはいえ。過去を否定しては、脳髄などの呼吸中枢はいつごろ発達したことになるのでしょうか。いくら理性が発達しているといっても、呼吸ができなければ人間は生物としてこの地球上で生存することはできません。
呼吸、それは生命の根幹にかかわる部分だと思うのです。
 人間はサルから生まれたのではないとか言いますが、哺乳類であることは否定できないことであり、それ以前の爬虫類や両生類の直に発達した部分を否定すれば生物としての生存そのものが成り立ちません。新しい部分が発達いしているとはいえ、その基礎はそれまでの過程の上に成り立っているのだと思います。祖先や神にに感謝するということは、生命の起源や宇宙の起源にまでさかのぼって感謝することと同じだと思います。なぜ目や手足などをもつようになったのか、脊椎動物になったのはいつごろか、魚類も脊椎動物です。内蔵の仕組みなどもかなりさかのぼって考えることができるのではないでしょうか。それら無しでは、人間は生物として地球上に存在し、繁殖することもできないと思います。また、アボリジニの人々がカエルが自分たちの先祖であると考えるのが、未開の先住民の後れた迷信、滑稽な信仰だと考えるのか、哺乳類も両生類から発生したのだから、あながち間違いとは言えないと考えるのか。そういう違いがあると思います。日本は西欧化によって、近代ヨーロッパの思想の影響を受けているとはいえ、そのなかに真実があるとは限りません。自然や宇宙を注意深く観察し、研究することによって本当のことがわかってくるのではないでしょうか。天動説もそうですが、その時代の宗教的権威が社会が認めていることが必ずしも真実ではないということもあると思います。人間至上説ではなく、謙虚に事実を認めることから、動物的存在としての人間や自分というものを知ることもできるのではないでしょうか。

投稿: 田原健一 | 2011年8月17日 00:39

人間は、神の個性化と教えられています。又、神とは自然であると教えられています。その意味で人間は、自然の一部であり、また、他の動植物も自然の一部であり、だからこそ人間は、自我の殻を破れば、自分は自然と一体だとわかるときが来るのだと思います。また、総裁先生がカナブン君とブルーベリーを共有されたような暖かい世界をも知ることもできるようになるのではと思います。総裁先生についてしっかり学んでいきたいと思います。合掌

投稿: 赤嶺里子 | 2011年8月18日 16:12

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