« 2011年6月 | トップページ | 2011年8月 »

2011年7月28日

旅の空から (3)

 ノルウェーのテロ事件のような深刻な問題とブルーベリーの話を同等に扱うつもりはないが、人間の心理には多くの共通点があるから、同事件の背後にある移民問題とそれとを関連させて考えることはできる。一国内に多民族や多文化が存在している状態は、「多様性」の展開である。今、東京都知事をしている石原慎太郎氏が、かつてこのことを“社会の弱点”として批判したため、問題になったことがある。詳しくは憶えていないが、確かこんな論理だった--日本は単一民族による単一国家だから、団結力があり、社会の安定と安全の面で他国より優れている。これに対して、アメリカは多民族国家だから、社会にまとまりがなく、決定が遅く、治安も悪い。こういう単純な考え方も、典型的な“右”の思考パターンの1つである。今回の事件の容疑者もそれを共有していたようだ。
 
 7月27日付の『朝日新聞』(国際版)によると、ブレイヴィク容疑者は自作のマニフェストの中で、日本の移民政策をほめているらしい。同紙の記事を引用する--
 
「一方、容疑者が文書で絶賛するのが“日本”だ。厳しい移民政策や難民認定の少なさを挙げ、“多文化主義を拒絶して経済発展を成し遂げた”としている。会いたい人物として、ロシアのプーチン首相や旧ユーゴスラビア戦犯のカラジッチ被告と並んで、麻生太郎元首相の名を挙げた」。

 麻生氏にとっては、はなはだ迷惑な話だろうが、政治的に“右”と言われるものの考え方がよく分かる。つまり、何かを達成するためには、物事が一つに純化し、一つの方向に向いているのが効率がよく、したがって優れていると考えるのである。これを推し進めれば結局、軍隊のような制度の国が“優れている”ことになるから、北朝鮮の指導者たちは大いに喜ぶだろう。
 
 私はもちろん、こういう考えには反対である。生長の家は、実相の反映としての多様性を重んじる。自然界には多様性が満ちているが、その度合いが高いほど安定し、失われると不安定になる。このことからも、多様な表現が神の御心であることが分かる。しかし、それが分かるためには、1本のブルーベリーの木だけに注目し、その木が生み出す果実のすべてが自分の所有であると考える偏狭な心から、脱却しなければならない。脱却できない人は、自分の妻がその実を採っても、「盗っ人!」と考えて不快に思うだろう。しかし、そう思わない人は、妻と自分との共通点をよく知っている。妻と自分とが、本質的に利害が一致する存在であることを知っているのである。妻が実を採ったということは、自分の楽しみが減ったのではなく、翌朝の2人の食卓にそれが並ぶか、あるいはジャムに加工されて共に食する機会が来ることを、彼は疑わない。

 確かに、自分一人がすぐに生食する量は減る。しかし、ブルーベリーの実を生で大量に食べることの価値は、そんなに大きなものだろうか? 私はそれよりも、その半量や3分の1の量でもいい。生食だけでなく、フルーツヨーグルトとして、パンケーキやベルギーワッフルの付け合わせとして、またジャムとして食べること、しかも“孤食”ではなく、気の許せる相手と2人で談笑しながら食べることの方が、より価値が高いと考える。
 
 これに加えてカナブンと果実を共有することは、きっとさらに豊かな生き方を約束してくれるだろう。いや、本当にそうだろうか? このことの真偽については、読者の想像力にお任せしよう。
 
 谷口 雅宣

| | コメント (4)

2011年7月27日

旅の空から (2)

 JL407便が離陸して水平飛行に入るまでの時間、25日と26日付の『インターナショナル・ヘラルド・トリビューン』紙を読んだ。空港のラウンジにいた時にドイツから連絡が入り、ノルウェーのオスロでの事件の影響で空港のセキュリティーチェックが厳しくなっていると聞いた。だから、どんな事件であるかを知る必要があると思ったのである。一報程度の情報は、日本の新聞の見出しですでに知っていたが、犯行の動機など詳しいことは知らなかった。
 
 同紙の伝えるところによれば、この事件は現地時間の金曜日(22日)、オスロ市の中心で大規模な爆発が起こったのに続き、近郊にあるウトヤ島(Utoya Island)で行われていた同国第一党の労働党の青年たちの大会会場に、警察官を装った若い男が銃をもって現れ、一人一人にねらいを定めながら次々と大勢を殺害したというもの。日曜日の時点での現地警察の発表では、92人が死亡し97人が負傷したという。
 
 容疑者としてつかまったのは、32歳のノルウェー人の男、アンダース・ベーリング・ブレイヴィク(Anders Behring Breivk)で、犯行を認めており、動機についてはネット上に1500ページにもなるマニフェスト(趣意書)が掲げられ、それには『2083:ヨーロッパ独立宣言』(A European Declaration of Independence)という題がついているという。ブレイヴィク容疑者は、リベラル思想と多文化主義を“文化的マルクス主義”と呼んで敵視していて、イスラム系移民によるヨーロッパ支配に対して今、武器をもって立ち上がらねばならないとしている。つまり、このマニフェストとは、ヨーロッパのキリスト教文化を守るための宣戦布告書のようなものなのである。
 
 これは、未熟で極端な右翼思想の典型だと思う。記事には、同容疑者のことを「キリスト教原理主義者」と表現しているものがあるが、同容疑者は自分であまり宗教性を認めていないようだから、別の動機--恐らく心理的、文化的な理由--からの犯行と思われる。
 
 「多文化主義」(multiculturalism)というのは、同じ一国に複数の文化の共存を認めようとする立場である。文化の中には普通、宗教や法律も含まれているから、この考え方を徹底すると、イスラーム信仰者はその国の法律ではなく、イスラーム法で裁かれるということになり、単一法体系を基本とする法治国家の原則が崩れる。この点、アメリカ合衆国は多民族国家ではあるが、合衆国憲法と各州法を法源とするから、多文化主義ではない。私は、ノルウェーの法制度についてよく知らないが、アメリカよりは多文化主義に傾いているのかもしれない。

 谷口 雅宣

| | コメント (1)

2011年7月26日

旅の空から (1)

 今は7月26日(火)の午後4時すぎ。正確な時刻はわからない。というか、今の私にはあまり重要でない。この日、午前12時15分に出発予定の成田発JL407便でフランクフルトに向かっている最中である。30~31日の週末2日間を使って行われる「世界平和のための生長の家国際教修会」と、次の日曜日にロンドンで行われる一般講演会のことで、心に余裕がない。ドイツでの講話原稿が25日の午前中に仕上がったばかりで、ロンドンでの講話原稿はまだ3分の1ぐらいしかできていないのが気がかりである。その下書きを、成田からフランクフルトまでの十数時間で書き上げれば……と思っていたが、そう簡単にはいかないようだ。
 
 機中の人となってすでに6時間ほどたっているが、ドイツでの講話で使う画像の制作をPC上でやり今、一段落したところである。
 
Kanabunbb  成田空港のJALのラウンジで、この朝撮った写真を2枚、フェイスブックの私のページにアップした。1つは朝食のサンドイッチで、もう1つは、自宅の庭にあるブルーベリーにしがみついて朝食をとっているカナブンの写真だ。人間も食事をするのだから、カナブンが食事をするのは一向に構わないはずだが、人間が育てている果樹の実にしがみついているのを見ると、つい「このぉ~」という気持になる。「奪われている」と感じるからだ。しかしこの時は、自分がこの家を2週間空けるのだから、その間に熟するブルーベリーはすべて“彼ら”の食事になるか、地に落ちて別の生物のエネルギー源になると予測できた。となると、小さな1粒や2粒、あるいは10粒や20粒でも、カナブンに食べてもらってもいいじゃないか、という気持になったのである。
 
 考えてみれば、この同じブルーベリーの木から私も妻も、それから何十匹ものカナブンも、毎日果実をいただいているのだから、「我々は皆仲間だ」と言えるのである。食卓こそ共にしないが、同じブルーベリーの栄養をいただき、生きる喜びを味わっている。しかも、そのブルーベリー自身は、ほとんど無償で無数の果実を動物たちに、またバクテリアにも提供している。「取る」ということの裏側にある「与える」という行為に注目すれば、「奪う」ように見えている様々な現象が、違う意味をもって人間の心に映ってくるに違いないのである。

 谷口 雅宣

| | コメント (5)

2011年7月22日

フェースブックへどうぞ……

 妻のブログに、本欄の読者から私の安否を心配するコメントがあった。2週間もブログを更新していないので、健康上の問題が発生したか……と気遣ってくださったようだ。しかし、妻も書いているように、私はすこぶる元気です。ただし、ここ数日の激しい気温の変化も影響して、ややカゼ気味というのが正直なところだ。ブログを更新していない理由は、ドイツとイギリスでの行事の準備に奔走し、余裕を失っているからである。
 
 これまで本欄では、できるだけきちんとしたメッセージを書きたいと思っていたので、“軽い話題”や“つぶやき”の類いは書くのを避けていた。そして、そういうものは専らフェースブックの私のファンページに書いてきた。だから、私の動静に興味がある方はフェースブックに登録して、ファンページの「いいね」欄(日本語モードの場合)または「Like」(英語モードの場合)欄をクリックしてもらいたい。すると、“ファン”の一人となって、私のつぶやきやスナップ写真などが見れるし、コメントも書き込める。

 私は26日に日本を発つが、海外へ出た際も、フェースブックの方が気軽に書き込めるので、たぶん本欄ではなく、そちらへの書き込みが多くなると思う。フェースブックは、自分のメールアドレスとパスワードを登録すれば誰でもメンバーになれるし、世界中の人々との交流ができるから、本欄の読者にもお勧めする。私のページは、いちおう英語で書くことになっているが、ポ語の人、スペイン語の人、そして日本語の人もいる。国際色豊かなので、居ながらにして海外旅行の気分が味わえる。

 それでは、フェースブックでお会いしましょう……。
 (新規登録の方は「こちら」へ)
 
 谷口 雅宣

| | コメント (2)

2011年7月 8日

“新しい文明”の構築へ

 政府のエネルギー政策は混迷の度を増しているが、私はこれは“文明の転換”にさしかかった人類全体の混迷の反映であると感じている。産業革命以来、長期にわたって続いてきた“化石燃料文明”または“地下資源文明”の限界が明らかに見えてきた現在、その旧文明を新文明に転換しなければならないことは、多くの有識者が声をそろえて唱えている。しかし、その具体的方法--つまり、移行過程の青写真が構築できないでいるところの混迷状態である。ここで言う“新文明”とは、もちろん再生可能の自然エネルギーを基礎とした“自然共生型文明”であり、“地上資源文明”である。問題は、この“新文明”の基礎となる産業が未成熟で、国の政策決定過程に十分な影響力を発揮しない段階にあることだ。その理由も容易に推測できる。たいていの人間は、変化よりも現状維持を望み、新奇なことより慣れていることを選び、既得権や現有財産に執着するからだ。

 この既得権や現有財産が、明治維新や敗戦などの政治過程によってではなく、自然災害によって脅かされているのが日本の現状ではないだろうか。今ここで「自然災害」という言葉を使ったが、この中には原発事故も含まれている。なぜなら、自然災害とは一般に、人間が、自分を取り巻く自然システムから予期しない被害を受けることだからだ。自然システムの中には当然、核分裂や放射性物質も含まれる。これらの自然の一部を制御できるという前提のもとで構築された発電所が破壊された。建屋や冷却装置を破壊したのは“マクロの自然”であるが、制御不可能となったのは原子炉内部の“ミクロの自然”である。
 
 今回の原発事故は「予期されていた」という意見もあるが、少数の専門家の間で確率論的に事故が予期されていたという事実はあっても、社会全体が予期しなかったことは事実だ。また、今回の原発事故が、直接的には大地震後の大津波によって引き起こされたから、大局的に見てそれを「自然災害」と捉えることはあながち無理とは思わない。もちろんこれは、今回の事故に「人災」の要素が混入していないという意味ではない。経済産業省の幹部や東京電力の経営陣、また歴代の自民党の政策に「原発事故を起こすような自然災害はない」という前提があったことは確かであり、それらの人々の判断に誤りがあったという意味で「人災」の要素は小さくない。
 
 このように考えた場合、過去2回の歴史上の大転換(明治維新、敗戦)よりも、今回の大転換を理解するのは案外容易でないか、と私は考える。過去2回の大転換では、社会基盤や経済の変化、また、国際関係の変化というような「人間社会内」での複雑な動きが大きく関与していた。が、今の大転換は、それより一回り大きい変化--人類とそれを取り巻く自然環境との関係の変化に伴うものである。つまり、過去2回の変化では「人間は自然から無限に得られる」という暗黙の前提は問題にされなかった。が、今回の変化で問題になっているのは、まさにこの“自然無限論”なのだ。世界人口が増大しつづける中、人口の多い新興国が先進国並みの物質消費型生活を目指して経済発展を続けているため、エネルギー需要が激増し、自然が破壊され、大気中の温暖化ガスが増大し、気候変動が起こり、資源獲得競争が激化し、食糧価格が高騰する……という悪循環を断つことができないでいる。人類はもはや“自然無限論”を捨て、“地球有限論”のもとで生きる決意をしなければならない。そして、安定的な自然環境が維持できる範囲内に人類の経済活動を納めながら、世界の中の富の偏在を縮小し、各国が平和裡に共存することができるような制度や仕組みを地球規模で構築していかねばならないのである。
 
 さて、日本において上述した「既得権や現有財産への執着」が顕著なのは、電力業界である。また、重化学工業などもその要素が強い。過去にそれだけ巨大な設備投資をしてきたのだから、当然といえば当然である。しかし、この状態を容認し、放置し続けていると、日本の産業全体が新文明への移行ができず、世界に取り残されるか、あるいは世界と共に資源争奪や権益保護のための紛争に突入する恐れがある、と私は思う。だから、多少の政治的混乱があったとしても、再生可能の自然エネルギーを基幹に据える方向へ、また農林業の振興を図る方向へと日本の産業構造を大きく転換していく必要がある。原発は、ただちに全部を廃炉にすることはできないが、可及的速やかに自然エネルギーの利用へと置き換えていかなければならない。そのためにはまず、電力会社の地域独占制度を廃止することが大切だ。これによって、巨大発電所による中央集中型の発電から、自然エネルギーによる地方分散型のエネルギー供給を実現すべきである。
 
 私はこれらのことを本欄ですでに何回も訴え、最近では5月24日同26日などで言及した。菅首相の政治手法にはいろいろ問題もあるようだが、自然エネルギー利用への熱意は大歓迎だ。これに呼応した孫正義氏のメガソーラー構想にも大賛成である。うれしいことに、この方向へ動き始めている経済人はもっと多くいるようだ。今日の『日本経済新聞』によると、携帯電話最大手のNTTドコモが電力事業への参入方針を明らかにしたという。全国にある携帯電話の基地局の鉄塔周辺に、来年度から太陽光パネルや風力発電設備を設置していき、スマートグリッドで結んで電力の安定化をはかるという。そして、余剰電力は売電する考えだ。また、7日の『日経』には、東京海上アセットマネジメント投信と三井物産が協力して、メガソーラーに投資するファンドを立ち上げることが報道されている。まず100億円規模から初めて、この資金で全国10カ所にメガソーラーを建設し、電力の売電で得た資金を投資元に還元するという仕組みだ。5年後をめどに1千億円規模への拡大を目指すという。
 
 とにかく、それぞれの分野の人々が全速力で、“新しい文明”構築の方向に協力して進んでいくべきと思う。

 谷口 雅宣

| | コメント (4)

2011年7月 6日

太陽光で生活する (3)

 前回、この題で本欄を書いたときは、小型の太陽光パネルを入手して、それをPC以外の生活に必要な電力にも使おうとしていることを報告した。このパネルの最大出力は30.5Wだから、その際のテストでは、フル充電状態で72Wの液晶テレビが使えた時間は「約20分」と報告した。もちろん、これでは実用的とは言えない。また、私が昼間使っている扇風機--エアコンはもう何年も使っていない--は40W台だから、「長くて1時間か」と予測した。実際に使ってみると、45分から50分だったので、これも夏期の実用には適さない。
 
 そして東京ではいよいよ電力制限が始まる7月に入ったので、省エネ型の扇風機を購入して、来るべき猛暑に備えることにした。ところが、扇風機が入手できないという報告を受けた。渋谷や新宿周辺の家電量販店やデパートは軒並みに品切れ状態で、「札幌店にはある」という話だった。しかし、そんな遠方から取り寄せるのでは“炭素ゼロ”の運動が泣く。というので、秋葉原を探してもらったら、やっと1軒に省エネ型は1種だけが9台ほどあるというのだ。名前を聞いたことのないメーカーのものだったので、少しためらった。が、間近に梅雨明けが予想される現在、扇風機なしの執務は問題だ。ということで、その“新メーカー”に賭けることにした。
 
Electricfan  このメーカーは「ツインバード」(Twinbird)といい、扇風機の製品名は「コアンダエア EF-D945W」である。電源はAC100Vから使えるが、12V用のアダプターを経由するという点で抵抗があった。なぜなら、私の使っている蓄電池のアウトプットが12Vだからだ。これを100Vに変換した後に再び12Vに変換すれば、ロスが生じる。が、これを購入後に解決する手段がないわけではなかろうと考え、思い切って買った。本機の消費電力は、カタログには「3~20W」とあるから、晴天時には太陽光パネルの発電で連続運転が十分可能なはずだ。ついでに本機の仕様について付言すれば、首振り角度は約60度、電源コードの長さは約1.8m、重量は約4.9kg,外寸は 約W 330 × D 325 × H 925mm である。気になるのは、コードがやや短いこと、高さの調節が2段階だけのこと、また、首振り角度が小さいことだ。リモコンはないが、私の用途では不要なので気にならない。価格は約2万円だった。
 
 こうして私の執務室には省エネ扇風機が入り、今日、太陽光による試運転をした。好天だったこともあり、問題なく動いてくれた。運転時間は昼休みの1時間と、夕方の1時間半ぐらいだ。あとの時間は会議で別の部屋にいたため本機は使用せず、その間、太陽光による充電が行われていたことになる。雨天時に問題が起こる可能性はあるが、とにかく使い続けてみようと思っている。「誰からも奪わない風だ……」と思うと、前の扇風機よりも何か涼しい気持がし、風もピュアだと感じる。もちろんこれは、心理的な印象だ。でも、心理的なものが重要であることは、言をまたない。
 
 谷口 雅宣

| | コメント (2)

2011年7月 5日

“緑の教皇”は語る (4)

 キリスト教はダーウィンの進化論とは相容れない教えだと考えている人は多いと思う。実際、アメリカでは、“キリスト教右派”と呼ばれている人々が進化論に反対しており、それに対抗する天地創造説(creationism)や、その科学的表現である「知性による設計論」(intelligent design)を学校で教えさせようとする動きもある。これらについては、2005年の本欄で何回か書いたことがある。(例えば、8月14日同16日9月29日12月23日など)だから私も、「キリスト教は反進化論」と漠然と思っていた。が、ことローマ教皇庁に関する限り、ヨハネ・パウロ2世の頃からカトリック教会は進化論を頭から否定しない姿勢をとってきたようだ。現在の教皇、ベネディクト16世もそれにならい、条件付きで生物の進化を認める態度のようである。『環境のための10の戒律』では「進化と信仰」という項目を設けて、「進化論を認めるためには、生命の意味や起源のような根源的な問いについては、その限界を認め、哲学や信仰が関与する余地を残さなければならない」としている。

 同教皇は、ラッツィンガー枢機卿だった1999年にパリのソルボンヌ大学で講義を行い、それが後に『真理と寛容』(Truth and Tolerance)という本になっているが、その中でこう述べている--

「進化論はしだいに表舞台に上り……“神の仮説”を不要にし、世界を厳密に“科学的”に説明するものとなりつつある。現在、さらに深く問題にすべきことは、進化論の考え方は、現実のすべてを説明する世界共通の理論として提示されるべきか否かということである。この理論を超えて、物事の始原と物の本質についてさらなる疑問を呈することは許されず、また不要であるのか。それとも、そのような究極的な疑問は、自然科学による知識と研究の対象の領域を最終的に超えないのか、ということである」。

 同教皇の講義は、枢機卿時代から学者肌で難解であると言われてきたが、この文章などまさにその典型だと思う。発言者は進化論を擁護しているのか批判しているのか、読者にはよくわからない。しかし、これはたぶん批判しているのだ。カトリック教会にとって何が進化論の問題かといえば、それは「偶然のチャンスによって生物種が残されていく」という適者生存の考え方だ。これでは、生物が生きるための倫理や基準は存在せず、その場、その時に偶然生じた有利な条件が、生物種存続の“理由”になる。と言うよりは、生物種存続の“倫理的理由”は存在しないことになる。となると、神の創造は「無目的」という結論に近づいていくから、キリスト教の基盤は揺れ動かされる。それならば、教皇としては「進化論は間違いである」とハッキリ宣言してもいいと思うのだが、実際はそうではない。
 
 その理由は明らかでないが、私が想像するところ、キリスト教は基本的に科学を肯定しているからだろう。特に、「理性」を神から人への“賜物”と見る伝統が強い。キリスト教では神を理性的存在としてとらえ、人間は“神の似姿”として神性の一部(理性)を分かち与えられていることが、他の生物を支配する正当性の根拠として挙げられる。だから、その理性が積み上げてきた科学の成果によって「生物の進化」が証明されつつある現在、頭から「それは間違いである」とは言いにくいのだろう。ローマ教皇庁がつい最近まで原子力の平和利用を擁護してきたのも同じ理由からだ、と私は推測する。そうなると、科学を否定せずに天地創造を主唱するためには、「進化論だけでは不十分」という言い方にならざるをえないのかもしれない。
 
 同じ『真理と寛容』の中の一節を引用するーー
 
「倫理問題について意味のある、理解可能な基礎を与えずに現実を説明しようとしても、どんなものも不十分に終わる。今や進化論は……進化を基礎とした新思潮を推進するために利用されている。しかし、この進化論の倫理は、基本的な概念として選択モデル--すなわち、生存競争、優勝劣敗、適者生存--を採用せざるをえないから、安寧を与えるものではない。人々はいろいろの仕方でそれを魅力的にしようとしても、進化論は究極的に血に飢えたものの倫理である。そこでは、それ自体が非理性的なものから理性を引き出そうとしているのだから、明らかに失敗している。これらすべては、我々が必要とする世界平和のため、隣人愛実践のため、自己超克のための倫理としては役に立たないのである」。

 ここまで言えば、「進化論は間違い」というに等しい。しかし、「限界がある」という表現に留まるところに“理性”との葛藤があるのだろう。
 
 谷口 雅宣

| | コメント (0)

2011年7月 2日

“緑の教皇”は語る (3)

 ヨハネ・パウロ2世のもとで薫陶を受けたラッティンガー枢機卿は、2005年に新教皇に選ばれてベネディクト16世になった。『環境のための10の戒律』によると、このドイツ人教皇になって変わったことの1つは、教皇庁から環境問題に関するメッセージが定期的、継続的に発信されるようになったことだという。地球規模にひろがった環境問題に危機感を覚え、その保全や改善を訴える世界の指導者は少なくないが、ローマ教皇でなければ説けない視点とは何だろうか? それは、「神の創造」と「救済」とを不可分(inseparable)のものとして捉える点だ。
 
「神の創造」とは、『創世記』第1章、第2章に描かれているように、世界の始まりに神が天地創造をしたという考えだ。それによると、神は6日間で天地創造を終え、人間を含めてでき上がったすべてのものを眺めて「はなはだ良い」と満足したのである。ところがその後、神が禁じた“善悪を知る木”の実を人間が食べたことで、世界は混乱する。この混乱状態から世界を救うためにキリストが遣わされ、その十字架上の死によって「救済」への道が開かれることになる。いろいろなものを省略してごく簡単に言えば、これがキリスト教の教義の骨格である。「神の創造 → 人間の堕落 → 世界の救済」という一方向の時間の流れ(歴史)の中で救いが行われると考える点で、リニアー(線形)な世界観が背後にある。

 この考え方に立てば、神の創造ははるか前にすでに終わっていて、人間は堕落し世界は混乱中であるのが今だ。そして救済は、未来のいつの日にかやってくることになる。とすると、歴史上遠く離れた「創造」と「救済」とは、あまり関係がないはずなのである。神が「はなはだ良い」とどれほど評価した世界が最初に創造されたとしても、人間によってそれがズタズタにされて“原型”とどめない状態になれば、最後に来る「救い」で、世界は元どおりに修復されることになるのだろうか? 聖書は、この点について明確でない。いや、むしろ『ヨハネの黙示録』などに描かれた“世界の終末”と“キリスト再臨”の光景は、『創世記』に描かれた始原の世界とは異質に感じられる。この点は、キリスト教の自然観では不明確なところだ。
 
 このキリスト教のリニアーな歴史観の中で、ベネディクト16世は最初の「創造」と最後の「救済」を「不可分」とすることによって、これまで低く見られてきた自然の位置を高める試みをしているように見える。2007年にカトリックの聖職者間で行われた質疑応答の際、ベネディクト16世は以下のような発言をしたという--

「この数十年というもの、神による創造の教えは神学の中でほとんど消えてしまった。我々は、それによって引き起こされた被害を知っている。救済者は創造者なのだ。そして我々が救済者としてだけでなく、創造者として神の偉大さを不足なく宣言しなければ、救済というものの価値を低めてしまう。天地創造の過程に神が何の役割ももたず、神が単なる歴史の文脈の中に追放されてしまったならば、神はどうやって我々の生の全体を知ることができるだろうか? 神はどうやって人類全体に救済をもたらし、世界全体を救済することができるだろうか? だから私は、神による創造の教えを再生させ、創造と救済とが不可分であるという新しい理解を重視するのである。我々は改めて知らねばならない--神は霊の創造者(Creator Spiritus)であり、始原においてすべてが生まれた唯一の理由であり、我々人間の理由は1つの閃光にすぎない」。

 なかなか意味の取りにくい文章だが、1つのポイントは、天地創造をした神が、そのあとの歴史の過程で人間社会や自然環境にどんな変化が起こったかに無関心であっては、最後の時間に世界と人類を救済することはむずかしい、としている点だろう。全知全能であるはずの神が、「歴史の文脈の中に追放される」とか、「人間の生の全体を知らない」などという表現は奇妙だが、ここでは結局、それまでのキリスト教徒の関心の在処を批判しているのではないかと思う。
 
 谷口 雅宣

| | コメント (1)

« 2011年6月 | トップページ | 2011年8月 »