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2011年7月 5日

“緑の教皇”は語る (4)

 キリスト教はダーウィンの進化論とは相容れない教えだと考えている人は多いと思う。実際、アメリカでは、“キリスト教右派”と呼ばれている人々が進化論に反対しており、それに対抗する天地創造説(creationism)や、その科学的表現である「知性による設計論」(intelligent design)を学校で教えさせようとする動きもある。これらについては、2005年の本欄で何回か書いたことがある。(例えば、8月14日同16日9月29日12月23日など)だから私も、「キリスト教は反進化論」と漠然と思っていた。が、ことローマ教皇庁に関する限り、ヨハネ・パウロ2世の頃からカトリック教会は進化論を頭から否定しない姿勢をとってきたようだ。現在の教皇、ベネディクト16世もそれにならい、条件付きで生物の進化を認める態度のようである。『環境のための10の戒律』では「進化と信仰」という項目を設けて、「進化論を認めるためには、生命の意味や起源のような根源的な問いについては、その限界を認め、哲学や信仰が関与する余地を残さなければならない」としている。

 同教皇は、ラッツィンガー枢機卿だった1999年にパリのソルボンヌ大学で講義を行い、それが後に『真理と寛容』(Truth and Tolerance)という本になっているが、その中でこう述べている--

「進化論はしだいに表舞台に上り……“神の仮説”を不要にし、世界を厳密に“科学的”に説明するものとなりつつある。現在、さらに深く問題にすべきことは、進化論の考え方は、現実のすべてを説明する世界共通の理論として提示されるべきか否かということである。この理論を超えて、物事の始原と物の本質についてさらなる疑問を呈することは許されず、また不要であるのか。それとも、そのような究極的な疑問は、自然科学による知識と研究の対象の領域を最終的に超えないのか、ということである」。

 同教皇の講義は、枢機卿時代から学者肌で難解であると言われてきたが、この文章などまさにその典型だと思う。発言者は進化論を擁護しているのか批判しているのか、読者にはよくわからない。しかし、これはたぶん批判しているのだ。カトリック教会にとって何が進化論の問題かといえば、それは「偶然のチャンスによって生物種が残されていく」という適者生存の考え方だ。これでは、生物が生きるための倫理や基準は存在せず、その場、その時に偶然生じた有利な条件が、生物種存続の“理由”になる。と言うよりは、生物種存続の“倫理的理由”は存在しないことになる。となると、神の創造は「無目的」という結論に近づいていくから、キリスト教の基盤は揺れ動かされる。それならば、教皇としては「進化論は間違いである」とハッキリ宣言してもいいと思うのだが、実際はそうではない。
 
 その理由は明らかでないが、私が想像するところ、キリスト教は基本的に科学を肯定しているからだろう。特に、「理性」を神から人への“賜物”と見る伝統が強い。キリスト教では神を理性的存在としてとらえ、人間は“神の似姿”として神性の一部(理性)を分かち与えられていることが、他の生物を支配する正当性の根拠として挙げられる。だから、その理性が積み上げてきた科学の成果によって「生物の進化」が証明されつつある現在、頭から「それは間違いである」とは言いにくいのだろう。ローマ教皇庁がつい最近まで原子力の平和利用を擁護してきたのも同じ理由からだ、と私は推測する。そうなると、科学を否定せずに天地創造を主唱するためには、「進化論だけでは不十分」という言い方にならざるをえないのかもしれない。
 
 同じ『真理と寛容』の中の一節を引用するーー
 
「倫理問題について意味のある、理解可能な基礎を与えずに現実を説明しようとしても、どんなものも不十分に終わる。今や進化論は……進化を基礎とした新思潮を推進するために利用されている。しかし、この進化論の倫理は、基本的な概念として選択モデル--すなわち、生存競争、優勝劣敗、適者生存--を採用せざるをえないから、安寧を与えるものではない。人々はいろいろの仕方でそれを魅力的にしようとしても、進化論は究極的に血に飢えたものの倫理である。そこでは、それ自体が非理性的なものから理性を引き出そうとしているのだから、明らかに失敗している。これらすべては、我々が必要とする世界平和のため、隣人愛実践のため、自己超克のための倫理としては役に立たないのである」。

 ここまで言えば、「進化論は間違い」というに等しい。しかし、「限界がある」という表現に留まるところに“理性”との葛藤があるのだろう。
 
 谷口 雅宣

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