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2011年7月 2日

“緑の教皇”は語る (3)

 ヨハネ・パウロ2世のもとで薫陶を受けたラッティンガー枢機卿は、2005年に新教皇に選ばれてベネディクト16世になった。『環境のための10の戒律』によると、このドイツ人教皇になって変わったことの1つは、教皇庁から環境問題に関するメッセージが定期的、継続的に発信されるようになったことだという。地球規模にひろがった環境問題に危機感を覚え、その保全や改善を訴える世界の指導者は少なくないが、ローマ教皇でなければ説けない視点とは何だろうか? それは、「神の創造」と「救済」とを不可分(inseparable)のものとして捉える点だ。
 
「神の創造」とは、『創世記』第1章、第2章に描かれているように、世界の始まりに神が天地創造をしたという考えだ。それによると、神は6日間で天地創造を終え、人間を含めてでき上がったすべてのものを眺めて「はなはだ良い」と満足したのである。ところがその後、神が禁じた“善悪を知る木”の実を人間が食べたことで、世界は混乱する。この混乱状態から世界を救うためにキリストが遣わされ、その十字架上の死によって「救済」への道が開かれることになる。いろいろなものを省略してごく簡単に言えば、これがキリスト教の教義の骨格である。「神の創造 → 人間の堕落 → 世界の救済」という一方向の時間の流れ(歴史)の中で救いが行われると考える点で、リニアー(線形)な世界観が背後にある。

 この考え方に立てば、神の創造ははるか前にすでに終わっていて、人間は堕落し世界は混乱中であるのが今だ。そして救済は、未来のいつの日にかやってくることになる。とすると、歴史上遠く離れた「創造」と「救済」とは、あまり関係がないはずなのである。神が「はなはだ良い」とどれほど評価した世界が最初に創造されたとしても、人間によってそれがズタズタにされて“原型”とどめない状態になれば、最後に来る「救い」で、世界は元どおりに修復されることになるのだろうか? 聖書は、この点について明確でない。いや、むしろ『ヨハネの黙示録』などに描かれた“世界の終末”と“キリスト再臨”の光景は、『創世記』に描かれた始原の世界とは異質に感じられる。この点は、キリスト教の自然観では不明確なところだ。
 
 このキリスト教のリニアーな歴史観の中で、ベネディクト16世は最初の「創造」と最後の「救済」を「不可分」とすることによって、これまで低く見られてきた自然の位置を高める試みをしているように見える。2007年にカトリックの聖職者間で行われた質疑応答の際、ベネディクト16世は以下のような発言をしたという--

「この数十年というもの、神による創造の教えは神学の中でほとんど消えてしまった。我々は、それによって引き起こされた被害を知っている。救済者は創造者なのだ。そして我々が救済者としてだけでなく、創造者として神の偉大さを不足なく宣言しなければ、救済というものの価値を低めてしまう。天地創造の過程に神が何の役割ももたず、神が単なる歴史の文脈の中に追放されてしまったならば、神はどうやって我々の生の全体を知ることができるだろうか? 神はどうやって人類全体に救済をもたらし、世界全体を救済することができるだろうか? だから私は、神による創造の教えを再生させ、創造と救済とが不可分であるという新しい理解を重視するのである。我々は改めて知らねばならない--神は霊の創造者(Creator Spiritus)であり、始原においてすべてが生まれた唯一の理由であり、我々人間の理由は1つの閃光にすぎない」。

 なかなか意味の取りにくい文章だが、1つのポイントは、天地創造をした神が、そのあとの歴史の過程で人間社会や自然環境にどんな変化が起こったかに無関心であっては、最後の時間に世界と人類を救済することはむずかしい、としている点だろう。全知全能であるはずの神が、「歴史の文脈の中に追放される」とか、「人間の生の全体を知らない」などという表現は奇妙だが、ここでは結局、それまでのキリスト教徒の関心の在処を批判しているのではないかと思う。
 
 谷口 雅宣

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コメント

進化、永遠の進化を可能なさしめる信仰として生長の家があることをローマ教皇ヴェネディクト16世のコメントに対する総裁谷口雅宣先生の解釈において感得できる。そのことが「万教帰一」に込められた神の意図を正しく理解する事になると合点します。進化できる生長の家に万感の信頼を捧げます。と同時に神の御心を体現される総裁の連綿を心から祈念します。
世界の平和を持ち来たすのは、真理を自覚した人々の多数出現であります。

投稿: satou.kouichi | 2011年7月 4日 22:32

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