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2011年6月17日

“新しい文明”の構築へ向かって

 今日は午前10時から、長崎県西海市の生長の家総本山の谷口家奥津城前で、谷口雅春大聖師二十六年祭がしめやかに執り行われた。この日、同本山では東京第一、群馬、山梨、京都第一、奈良、新潟北越、島根、宮崎の8教区からの団体参拝練成会が行われており、年祭にはこれら練成参加者と地元長崎北部の信徒など約690人が参列した。私も妻と共に参列し、玉串拝礼、聖経一斉読誦のあと、概略以下のような挨拶をした:

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 皆様、本日は谷口雅春大聖師の二十六年祭に大勢お集まりくださり、有難うございます。今日はあいにくの曇天で、朝方は小雨もぱらつく天気でしたが、ちょうど26年前の今日も、こんな天気であったことを覚えています。しかし今年は、いつもの年とは違うようです。ご存知のように、3月に東日本大震災と原発事故があり、そこからの復興や復旧がはかばかしく進まない現状があり、日本の政治も経済も正常とは言えない状態が続いています。

私は4月に谷口輝子聖姉の二十三年祭でここへ越させていただきましたが、その際は、「針供養」の話をいたしました。裁縫で使う針の、古くなったものを感謝の気持ちを込めて供養する習慣です。それは、輝子先生がどんなにものを大切にされたかという話でした。そして、そういう伝統行事をもつ日本人は、有機物も無機物も大切にしてきたのだから、現代の我々もエネルギーのムダ遣いや電力のタレ流しなどやめて、“新しい文明”への転換を進めていくべきだとお話ししました。これは、『聖使命』紙の6月1日号に載っています。

 このことは、「物質はない」という生長の家の教えとも深く関係しています。谷口雅春先生は、「物質はない」という意味は、一見物質のように見えるものでもそれは神の命の表れ、仏の現成であるから、感謝して大切に使えと教えられました。「物、物にあらず、物と言うなり」ということです。この世界を物質の集まりだと見、それらの金銭的価値に心を捉えられた生活をしていると、それらすべてを無に帰してしまうような今回の大震災に遭い、物質以外のものの大切さを痛感させられるものです。今、日本全体が、物質的繁栄を追求してきた戦後の生き方を見直し、自然とともに生きる“新しい文明”の構築に向かって歩き出さねばならない時期に来ているのであります。

 生長の家は、その“新しい文明”とは、日時計主義のものの見方から生まれると考えるのであります。日時計主義とはご存知のように、谷口雅春先生が『生長の家』誌創刊号で提唱された「人生の光明面を見る」生き方のことです。皆様方も団体参拝練成会などでそれを学んでおられますが、この思想は世界に通用する立派な哲学であり、宗教的にも深い信仰に根差すものです。そのことについては、私も本などで詳しく説明していますが、今日は雅春先生のご著書から学ぼうと思います。

 昨年のこのお祭の際、私は『信仰の科学』という先生のご本を紹介しましたが、今回もそこから引用したいと思います。この本は数ある雅春先生のご著書の中でも、「外国人との共著」であるという点で珍しい一冊です。ですから、ここに書かれたことは「文化の枠を超えている」と言えるのです。今風の表現を使えば“グローバルスタンダード”になり得る内容が、ここにあります。この本で説かれていることの1つが、日時計主義のものの見方なのです。このことは昨年もお話しましたが、今日はもっと具体的に紹介したいと思います。なぜなら今、日本の経済と政治は、大きな転換点にあるからです。日本だけではありません。大震災と原発事故を経験した日本が、今後どのような方向に向かうかは、世界が注目しています。いや、すでに世界の一部では大きな変化が起こっています。今後この変化が、正しい方向に向かうのか、それとも間違った方向へ進むかで人類の運命が変わってくるのです。
 
 『信仰の科学』の第2章で雅春先生が注目しているのは、「神の国は汝らのうちに在り」(『ルカによる福音書』第17章21節)という有名な聖書の句です。また、「古き天と古き地とは過ぎ去り」(『ヨハネの黙示録』第21章1節)「われ一切(すべて)のものを新たならしめん」(同5節)という聖句も取り上げて、それらに共通する意味について先生は解説されています。
 
 ところで、この生長の家総本山に来られた方は、ここの自然の美しさに感動して、この地を“聖地”だと形容する人がいます。しかし、生長の家では、現象世界に“聖地”があるとは教えません。地球上の地理的な一点に実相世界があるなどとは説きません。ですから、皆さんもこの本山のことを「聖地だ」とは言わないでください。自然の美しさに感動してそう言いたくなる気持は分かります。しかし、その場合は「聖地のようだ」と言ってください。それならまだ容認できます。冗談を言っているように聞こえるかもしれませんが、“聖なる地”や“神の国”や“天国”がどこにあるかという問題は、宗教上も大変重要なので間違いのないようにお願いいたします。
 
 谷口雅春先生は、『信仰の科学』の中で、「神の国」や「天国」がどこにあるかについて、次のように教示されています。引用します--
 
「キリストの言葉の真義は、全世界が、否、全宇宙が、天地万物一切のものに生命(いのち)を賦与する力を持つところの神の愛によって溢れるばかりに満たされているということなのである。心の眼が開いていない者にとっては、天国とは何か日常とかけ離れた異常のものであり、朝顔の花の開花とか日の出などというような日常茶飯事とは、何の関係もないと考えるかも知れぬのである。彼等は“朝顔が三輪咲いている”というただその事実そのものの中にすら、見出すことのできる神の国を理解することが出来ぬのである。もしあなたの友人が、“いいね、太陽が美しく輝(て)っている”とあなたに話しかけた場合に、あなたは“そうかね、太陽が照っていたって、われわれとは何の関係もないことだ。彼はただ自分の役目を果たしているだけだ。太陽が輝(て)っているそのことが、なぜそんなに愉(たの)しいんだ”と答えるだろうか。天国はこれに心の眼を閉じている者の前には姿をあらわさぬのである。それ故に天国を見出すためには、貴方の心の眼は開かれねばならぬのである。心の眼が開かれている者にとっては、神の愛は至るところに遍在し給うのである。彼等は親の愛を感じ、子の愛を感ずることが出来るのであり、こうして彼等は天国を至るところに見出すことが出来るのである。」(p.54)
 
 こういう先生の言葉を読むと、私たちが今、練成会や誌友会などで、日時計主義の実践として絵手紙や絵封筒をを描いたり、俳句を詠んだりしていることの意味がお分かりになると思います。私たちは普通、効率優先で左脳を主体にした生活をしていることが多いので、ものを素直に見たり、聴いたり、感じたりすることを忘れがちです。すると、周りの世界にすでに与えられているものが見えない、聞こえない、感じられない。それで不満を抱いて、どこか別の所から何かを持ってくるべきだとか、逆に、自分が別の場所へ行けばもっと幸福になるだろうとか、あるいはもっと別の社会にすれば感動が得られるだろうなどと思う。そういう“迷いの心”を捨てて、まず今、目の前にすでに与えられている神の恵みを見よ、感ぜよ、聴け、味わえ、という観の転換のための実践……これが「技能や芸術的感覚を生かした誌友会」などの役目です。
 
 しかし、皆さんの中には、そういう芸術的実践の意味はわかったけれども、それをすることと家庭問題や就職問題の解決、あるいは病気の治癒とは関係がないと思う方もいるかもしれません。しかし、雅春先生は、この日時計主義のものの見方と実践が、人間関係の調和とも大いに関係がある、と説かれています。その部分を引用します--
 
「もしあなたが、一輪の名もない野の花の中にすら、天国を見出すことが出来るならば、あなたの夫や妻の中に、そして息子や娘の中に、天国を見出すことは、いかにいっそう自然であることであろう。もしあなたが一茎のわらびの中にすら、“あっ、ここにわらびが一本新しく生まれている”と叫んで、新たなる悦びを見出し、このようにして、それがもつ神秘的な美しさに目覚めるならば、自分の妻や子供に大きな悦びを見出さぬということは決してあり得ないのである。もしそうであるならば、あなたの家庭は何と仕合せなことだと思う。このような家庭に住む人たちは決して互いに倦(あ)きることはないのである。もしあなたが夫や妻や子供に対して、倦怠を感じるならば、それはあなた自身が生まれ変っていないことを示すのであり、それで、あなたは全てのことを新鮮味がなく陳腐に感じざるを得なくなっているのである」。(pp.59-60)

 このようにして、すでに与えられているもの、人々、人間関係……などの光明面に注目し、そこから“神の国”や“聖地”を感じる生き方--それが生長の家の生き方なのであります。こういうものの見方、生き方が多くの人々の間に広まっていけば、物やエネルギーを浪費する生き方や、「もっと欲しい」「まだ足りない」という精神的飢餓感から、私たちは解放されるのです。そして、もっと自然と調和した“新しい文明”の構築へと進むことができます。そういう運動を、日本から起こしていかなければなりません。今がそのチャンスです。ぜひ、皆さまと共に、この“神の国”の実現運動をいよいよ強力に、そして心を込めて推進していきたい。
 
 谷口雅春大聖師の二十六年祭に当たり、所感を述べさせていただきました。ご清聴、ありがとうございました。
 
 谷口 雅宣

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コメント

総裁先生、総本山でのお言葉を早速にお書きくださいましてありがとうございます。自宅誌友会にても「技能と芸術的感覚を生かす誌友会」を開かせていただき、参加者一同喜びでひと時を過ごすことができています。その中で、たまに、先生がご配慮くださっている点を考えることもありましたが、しかし、お答を明確にいただくことができて大変にありがとうございました。「信仰の科学」にはこのような素晴らしい内容があったということを再度お教え賜り、ますます良書と確信を深めました。なんと、偉大なみ教えにつかせていただいていることか、昨日は感動、喜びにて終始させていただきました。我が家の「隅田の花火」(あじさい)の葉の緑が深く美しいです。神様は一つ一つに個性的な丁寧な作成を施されましたね!!様々なご指導のおかげ様でこのような眼を開くことができるようになりました!金子糸子

投稿: 金子糸子 | 2011年6月18日 06:36

素晴らしいスピーチですね!!!
ライブで聴きたかったです!

「信仰の科学」も大好きだったので、さらに嬉しいです!! \(@^o^)/..

投稿: 辻井映貴 | 2011年6月18日 08:27

合掌、「聖地」とは言わず「聖地のようだ」ですね。

総本山や神域、大自然の中などの聖地のような所は、自分の魂の奥底を、より鮮明に映し出してくれる大きな鏡ではないかと思います。

そして、すべての人の魂の奥底には、完全円満な神の子の生命が宿っていて、それが映し出されて見える。

だから皆さんがとても感動されて、あたかもその場所が「聖地のように見える」のでしょう。

ただ、あくまでも鏡でありますから、「聖地」ではないのですね。

投稿: 澤田敏宏 | 2011年6月19日 00:29

  
 合掌 ありがとうございます。

“神の国”の実現運動に邁進させていただきます。

    有難うございます。うれしいです!

           再 合掌
       

投稿: 山本 順子 | 2011年6月19日 08:41

合掌 ありがとうございます。
私は総本山にて、谷口雅春大聖師二十六年祭に参列することが出来たこと、そして総裁先生の素晴らしいスピーチをLIVEで拝聴出来たことに感謝いたしております。
私もご挨拶で改めて感じた事は「既に与えられている全てのもの一切に感謝し、その奥にある美しさ・与えられている“いのちの有り難さ”を観る心眼の眼を開くことが、本物の愛を出す日時計生活の神髄であり実践であり、生長の家の御教えを多くの方に伝導し、人類光明化運動に邁進する礎では」と思いました。
単層伝達ではない、新しい文明・運動に期待を寄せて、アイデアを色々と発揮して(笑)、私も共に人類光明化運動に邁進する一人として頑張り続けます!!

ありがとうございます。

山本 広美 拝

投稿: 山本広美 | 2011年6月19日 17:39

合掌 総裁先生 いつもご指導ありがとうございます。
 今回、初めて大聖師谷口雅春先生の年祭に参列させていただきました。奇しくも、島根教区の団体参拝練成会は従来、1月~3月(特に2月がほとんど)でしたが、今年度は有難いことに6月になりました。前回から3ヶ月おいての団体参拝練成会でしたが、「大聖師谷口雅春先生の26年祭に直接参列させていただけることと、総裁先生のご挨拶を直接お聞きすることができる」ということで、盛り上がって、今までの「団参」を遥かに超えた喜びに溢れた「団参」でした。
 いつも、私の「団参」の目的の一つは大聖師谷口雅春先生、聖姉谷口輝子先生、大聖師谷口清超先生への感謝の思いが深まる奥津城への参拝でしたが、今回は思いもしなかった「直接参列」と「直接拝聴」が実現したのですから…。
 この度は、4月の聖姉谷口輝子先生の23年祭のご挨拶と関連したお話で、「日時計主義のものの見方」の大事なことの理解を更に深めることができましたことは、それも直接拝聴できたことは本当にありがたいことでした。
 「日時計主義のものの見方」は谷口雅春先生から出発し、谷口雅春先生ご夫妻、谷口清超先生ご夫妻によって深められ、広がり、そして総裁先生ご夫妻によってさらに、その理論の展開と実践・練習方法を具体的にご教示くださっておりますことに心から感謝させていただいておりましたが、今回の総裁先生のご挨拶で、更に、その考え方・方法の素晴らしさの確信が益々強固になりました。まさしくグローバルスタンダードな考え方だと思わせていただくようになりました。
 谷口輝子先生の23年祭のご挨拶では、輝子先生の考え方と実践をご紹介いただいて、天地一切のものは神仏の現れ、神仏の愛の現れであるということ…(「生活の中で物を大切にして、まるで魂が宿っているように扱って感謝して使う」----そういう文化)を、古いものではなく、常に私たち日本民族の中に流れているものであること、それは日本人のDNAの中にちゃんとあるものであるとご教示くださり、本当にありがたいことと、こみ上げる嬉しさを感じさせていただいたのですが、また、思いださせていただきました。持参していた『聖使命』紙6月1日号を読ませていただき、「日時計主義のものの見方、生き方」の一貫性を改めて心に刻ませていただきました。
 先般、発生した東日本大震災によって、「足るを知る」ことの大切さ、「当たり前がいかにありがたいことか」「私たちは如何に恵まれていることか、にも拘わらず感謝していないこと」に気づかせていただけたのですね。総裁先生の「自然と人間の大調和を観ずる祈り」で理解を深めさせていただきましたことにも改めて感謝させていただきます。
 「真象を観て真象を表現すること」は本当に素晴らしい実相の顕現方法であり、それを誌友会や練成会で実践・練習していくことは、「日時計日記をつけること」とともに、ものの観かた、考え方を「日時計主義」的に自分自身に定着させて行くのに本当に素晴らしいことだと、つくづく思わせていただきました。今でも、この実践の功徳を感じておられる方は大勢いらっしゃると思いますが、今後、その体験者がその体験を発表なさる方が益々多くなるのではと思っております。
 総裁先生のおっしゃる「新しい文明」の進展に微力の微力ではありますが、貢献できればと思っております。
 この度の総裁先生のご挨拶の中で、「総本山を聖地と呼ばないように」とおっしゃいまして、正直????と思いました。「住吉大神の顕斎の場である総本山」「谷口雅春先生の思いが砂一粒にまで至っていると教えていただいている総本山」をどうして「聖地」と呼んではいけないのかな?と…。私は、長い間、総本山も宇治別格本山も「聖霊天降る聖なる地…聖地」だと思っていましたので…。N教化部長に解説を求めて理解できました。世界では「聖地」で戦争が…。正しく深いご教示を本当にありがとうございました。
 最後に、もう一つ感謝を伝えさせていただきます。26年祭の時に、高齢の方のお世話で、いつもお世話なさっている女性の方に、I相愛会事務局長が援助のため同行して温故資料館付近に降りたそうです。そして、付近の道路で、一台の車が上から近づいて来たそうです。車の窓を開けて、総裁先生が少人数の自分たちに手をお振りいただいたそうです。皆さん感動だったと感謝しておられました。お聞きした私も感動し、ありがたく嬉しく思い思いました。深く深く感謝させていただきます。総裁先生 白鳩会総裁先生 本当にありがとうございました。
再感謝合掌 島根教区 石田 盛喜代
 

投稿: 石田 盛喜代 | 2011年6月20日 08:54

合掌 
ありがとうございます.
このようにインターネットで 総裁先生のご指導が頂けますこと 感謝申し上げます.
「天国はこれに心の眼…」からはノートに書き写して
しっかり学ばせて頂きます.
ありがとうございます.
再拝

投稿: 金坂 千位子 | 2011年6月20日 22:38

生長の家総裁谷口雅宣先生:
合掌 有難うございます。谷口雅春大聖師26年祭での総裁先生ご挨拶(ブログ)を、当日夕刻のネット上で待ち受け、飛びつく思いで拝読させて戴きました。
 すでに100日を数えた今、なお震災の傷痕が深く浸透し、反面、復興、復旧が遅々として、難航している最中に拝受しました,この“新しい文明の構築に向かって”のお言葉は、まことに神啓に満ち、力強く、来るべき『生長の家』とわが日本国、更には地球人類の「歓喜への道」を眺望させて戴くに相応しものでした。本当にそれは、とても感動的でしたので、私は身震いさえも覚えました。

 顧みますと、震災直後から、多くの識者の諸々の意見がマスコミを賑わす中、私たちは、真に有難くも、連日のブログを通して、総裁先生から直々に、実に尊い二つの"祈り"のお言葉を始めとして、数々の深遠、卓越、適確なご指導を頂くことが出来ました。そして、このような大震災がもたらす真の意味、原発事故の本質的問題点、今必要とする人心や生活の刷新などについて、連日にわたり次々と拝受して参りました。私は、この、大変すばらしいお祈りのお言葉を始め、ブログでのご指導の各要点を、速報的にその都度少冊子に纏め、最寄の誌友会に持参、読誦させて戴きましたが、どの会場に於いても、参加者は等しく神の大愛に抱擁される安堵感と、神の子の自覚に立ち、“新生日本の建設”への参画意欲を高めるなど、実に適切な伝道をさせて頂くことが出来ましたことを、ここに篤く感謝し、ご報告申し上げます。

 そして、更にこの度は、「信仰の科学」(SCIENCE OF FAITH)からのご引用による、「日時計主義の物の見方」こそが、今後の日本の経済と、政治とを代表し、世界が注目する「人類の運命」を決する指針となるものであるとの大いなるお言葉を承るにいたりました。
 私は、「生命の実相」第21巻、102~104頁の、災害の因縁をお説きのところで, そのとき救世の導師が出現されると示されてあるところを思い起こし、とても神秘な、ありがたい感に打たれました。今まさに時は来たれりだと感じました。そして、次に掲げる総裁先生のご指導を奉持、伝道する決意を固めました次第です。
ーーー << すでに与えられている物、人々、人間関係などの光明面に注目し、そこから神の国や聖地を感じる生き方ーーそれが、生長の家の生き方なのです。こういうものの見方、生き方が多くの人々の間に広まつて行けば、物やエネルギーを浪費する生き方や、「もっと欲しい」「まだ足りない」という精神的飢餓感から私たちは解放されるのです。そして、もっと自然と調和した“新しい文明”の構築、へと進むことができます。そういう運動を、日本から起こしていかなければなりません、今がそのチャンスです。ぜひ、皆様とともに、この"神の国"の実現運動をいよいよ強力に、そして心を込めて推進していきたい。 >> ーー

 有難うございます。今後とも、何卒よろしくご指導をお願い申しあげます。 合掌

投稿: 丹羽敏雄 | 2011年6月20日 22:45

合掌 ありがとうございます。
6月17日、谷口雅春大聖師二十六年祭でのご挨拶の中で、「総本山を聖地と呼ばないように」とおっしゃったことについては、石田盛喜代さんもコメントされていますように、えっ????と感じられた信徒もいらっしゃると思います。が、ここで総裁先生が強調されているのは、「神の国は汝らのうちに在り」で、地球上の地理的な一点に実相世界(聖地)があるのではない、「(心の眼が開かれている者にとっては)あなたが今いるところ、いずこも聖地である」ということだと解釈させて頂きました。ありがとうございます。合掌再拝

投稿: 岡 正章 | 2011年6月23日 16:45

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