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2011年6月22日

持続可能性と気候変動の正義

 まもなくドイツで行われる「世界平和のための生長の家国際教修会」でゲスト・スピーカーとして講演するマルカス・フォクト博士(Markus Vogt)の論文を読んだ。「神学的視点から見た持続可能性と気候変動の正義」という題の英語の論文だ。題の日本語訳は大仰に聞こえるが、原題は「Sustainability and Climate Justice from a Theological Perspective」だから、案外シンプルだ。何が書いてあるかと言えば、「地球温暖化に伴う気候変動の問題を解決するためには、何を正義の基準とすべきか」が、ドイツのカトリック神学者の立場から提示されている。ヴォグト博士は、ミュンヘン大学などでキリスト教倫理や神学の教授をしていて、ドイツ司教会議(German Bishop's Conference)のアドバイザーもしている。一読して、同氏が倫理学者、神学者として地球温暖化問題に相当な危機感をもっていることが分かった。
 
「一読」とは書いたが、ヴォグト氏の英語は難解だった。だから、同じ文章を2回、3回読んで理解することもある。これは、私の英語力の問題もあるのだろうが、氏の“ドイツ的厳密さ”が英語にも表れており、さらに氏の学識の広さも関係していると思う。ここでは、1つの文章に神学、経済学、政治学の用語が織り込まれていたりする。印象深かったのは、氏のこの問題に対する真剣さと、思慮深さだ。地球環境問題や気候変動については、日本ではいまだに一部で「自然現象で人間には責任がない」という種類の粗雑な議論が行われていて、それを読んだ人から本欄にも疑問を呈するコメントが付けられたりする。また、経済界にも政界にも、この問題を長期的な視点で深く考えている人はほとんど見当たらない。だから、ヴォグト氏のような哲学的、神学的視点を本欄で紹介することは、我々の心の“視野拡大”のために役立つと思うのである。

 ところで、私は2002年に『今こそ自然から学ぼう』(生長の家刊)という本を出したとき、副題を「人間至上主義を超えて」とした。これには英語訳も添付されていて、主題は「Learning from Nature」であり、副題は「beyond anthropocentrism」である。「anthropocentrism」の「anthropo-」は「人間」とか「人類」という意味であり、「-centrism」は「中心主義」と訳せるから、「anthropocentrism」は「人間中心主義」とも訳せる。事実私は、本の副題では「--至上主義」としたが、本文内では「ーー中心主義」という言葉を使っている。一般の日本人読者にとっては、「至上主義」の方が分かりやすいと思ったからである。この本の中で、私は人間中心主義を次のように説明している--
 
「人間を生態系の中心に置いて、人間のために良好な自然環境を作り上げたり、人間に快適な程度に自然保護を行うというのが1970年代までのエコロジーの考え方だった。この考え方では、人間と自然とが互いに独立した対立関係にあり、しかも自然の価値と人間の価値が対立した場合には、常に人間の価値が優先されたから、“人間中心主義(anthropocentrism)”を出ることがなかった」。(p.28)
 
 これに対し、1980年代以降に生まれた「ディープ・エコロジー」は、人間を自然の一部と見なして、人間の自然観の変革や人間観の“深化”を通して、人間の生活スタイルの変化を要請するものだから、より宗教や信仰に近く、環境問題の解決により有効であるとして、私は好意的に記述している--
 
「1980年代以降に登場したエコロジーでは、しかし人間と自然との関係をもっと深く見つめ直し、人間を自然の一部としてとらえ、自然を支配しようとする人間の態度そのものの中に環境問題の原因を見出したり、人間自身の生き方を変えることで自然との調和ある関係を回復することを目指すような動きが生まれてきた。これは、従来のエコロジーに比べ、より深く問題の本質に迫る考え方であるから、“深い環境保護思想”というような意味でディープ・エコロジーと呼ばれる。また、人間中心主義に対して、“生態系中心主義(ecocentrism)”あるいは“生命中心主義(biocentrism)”などと呼ばれることもある」。(pp.28-29)
 
 ヴォグト氏は、論文の初めの部分でこの「anthropocentrism」を検討しているが、それを頭から否定する立場ではない。それよりは、「生態系の中での人類を見れば、人間中心主義には自ずから成立の条件と限界がある」と見るのである。
 
 それらの条件や限界の具体例を、ヴォグト氏は次のように4点掲げている--
 
 ①科学技術の否定ではなく、自然資源をムダ遣いしないための技術開発を支持し、
 ②富の追求や自由市場を拒否するのではなく、資源節約型の繁栄のために、環境に配慮した社会市場を求め、
 ③倫理の分野では、近代超克型ではなく“第二の近代”を見据えた倫理を目指し、
 ④人間を犠牲にした環境中心主義ではなく、環境を配慮した人間性の実現を目指す

 これらの考え方は、人間中心主義を脱していないし、従来の経済発展の考え方からも抜けきっていない。しかし、ヴォグト氏は、1992年に国連の環境開発会議において採択された“リオ宣言”の27か条の第1条に「人類は持続可能性の中心にある」(Human beings are at the centre of sustainability.)と書かれていることを指摘し、この考え方に議論の余地があることは認めながら、それは今の時点でいろいろな立場の国々から広範囲の合意を得ているのだから尊重すべきだとしている。そして、この宣言の中で、倫理的に有益な視点として最も重要なのは、「自然保護と人類の保護を分けて考えることはできない」という認識だという。
 
 谷口 雅宣

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