今日は午前10時から、長崎県西海市の生長の家総本山の谷口家奥津城前で、谷口雅春大聖師二十六年祭がしめやかに執り行われた。この日、同本山では東京第一、群馬、山梨、京都第一、奈良、新潟北越、島根、宮崎の8教区からの団体参拝練成会が行われており、年祭にはこれら練成参加者と地元長崎北部の信徒など約690人が参列した。私も妻と共に参列し、玉串拝礼、聖経一斉読誦のあと、概略以下のような挨拶をした:
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皆様、本日は谷口雅春大聖師の二十六年祭に大勢お集まりくださり、有難うございます。今日はあいにくの曇天で、朝方は小雨もぱらつく天気でしたが、ちょうど26年前の今日も、こんな天気であったことを覚えています。しかし今年は、いつもの年とは違うようです。ご存知のように、3月に東日本大震災と原発事故があり、そこからの復興や復旧がはかばかしく進まない現状があり、日本の政治も経済も正常とは言えない状態が続いています。
私は4月に谷口輝子聖姉の二十三年祭でここへ越させていただきましたが、その際は、「針供養」の話をいたしました。裁縫で使う針の、古くなったものを感謝の気持ちを込めて供養する習慣です。それは、輝子先生がどんなにものを大切にされたかという話でした。そして、そういう伝統行事をもつ日本人は、有機物も無機物も大切にしてきたのだから、現代の我々もエネルギーのムダ遣いや電力のタレ流しなどやめて、“新しい文明”への転換を進めていくべきだとお話ししました。これは、『聖使命』紙の6月1日号に載っています。
このことは、「物質はない」という生長の家の教えとも深く関係しています。谷口雅春先生は、「物質はない」という意味は、一見物質のように見えるものでもそれは神の命の表れ、仏の現成であるから、感謝して大切に使えと教えられました。「物、物にあらず、物と言うなり」ということです。この世界を物質の集まりだと見、それらの金銭的価値に心を捉えられた生活をしていると、それらすべてを無に帰してしまうような今回の大震災に遭い、物質以外のものの大切さを痛感させられるものです。今、日本全体が、物質的繁栄を追求してきた戦後の生き方を見直し、自然とともに生きる“新しい文明”の構築に向かって歩き出さねばならない時期に来ているのであります。
生長の家は、その“新しい文明”とは、日時計主義のものの見方から生まれると考えるのであります。日時計主義とはご存知のように、谷口雅春先生が『生長の家』誌創刊号で提唱された「人生の光明面を見る」生き方のことです。皆様方も団体参拝練成会などでそれを学んでおられますが、この思想は世界に通用する立派な哲学であり、宗教的にも深い信仰に根差すものです。そのことについては、私も本などで詳しく説明していますが、今日は雅春先生のご著書から学ぼうと思います。
昨年のこのお祭の際、私は『信仰の科学』という先生のご本を紹介しましたが、今回もそこから引用したいと思います。この本は数ある雅春先生のご著書の中でも、「外国人との共著」であるという点で珍しい一冊です。ですから、ここに書かれたことは「文化の枠を超えている」と言えるのです。今風の表現を使えば“グローバルスタンダード”になり得る内容が、ここにあります。この本で説かれていることの1つが、日時計主義のものの見方なのです。このことは昨年もお話しましたが、今日はもっと具体的に紹介したいと思います。なぜなら今、日本の経済と政治は、大きな転換点にあるからです。日本だけではありません。大震災と原発事故を経験した日本が、今後どのような方向に向かうかは、世界が注目しています。いや、すでに世界の一部では大きな変化が起こっています。今後この変化が、正しい方向に向かうのか、それとも間違った方向へ進むかで人類の運命が変わってくるのです。
『信仰の科学』の第2章で雅春先生が注目しているのは、「神の国は汝らのうちに在り」(『ルカによる福音書』第17章21節)という有名な聖書の句です。また、「古き天と古き地とは過ぎ去り」(『ヨハネの黙示録』第21章1節)「われ一切(すべて)のものを新たならしめん」(同5節)という聖句も取り上げて、それらに共通する意味について先生は解説されています。
ところで、この生長の家総本山に来られた方は、ここの自然の美しさに感動して、この地を“聖地”だと形容する人がいます。しかし、生長の家では、現象世界に“聖地”があるとは教えません。地球上の地理的な一点に実相世界があるなどとは説きません。ですから、皆さんもこの本山のことを「聖地だ」とは言わないでください。自然の美しさに感動してそう言いたくなる気持は分かります。しかし、その場合は「聖地のようだ」と言ってください。それならまだ容認できます。冗談を言っているように聞こえるかもしれませんが、“聖なる地”や“神の国”や“天国”がどこにあるかという問題は、宗教上も大変重要なので間違いのないようにお願いいたします。
谷口雅春先生は、『信仰の科学』の中で、「神の国」や「天国」がどこにあるかについて、次のように教示されています。引用します--
「キリストの言葉の真義は、全世界が、否、全宇宙が、天地万物一切のものに生命(いのち)を賦与する力を持つところの神の愛によって溢れるばかりに満たされているということなのである。心の眼が開いていない者にとっては、天国とは何か日常とかけ離れた異常のものであり、朝顔の花の開花とか日の出などというような日常茶飯事とは、何の関係もないと考えるかも知れぬのである。彼等は“朝顔が三輪咲いている”というただその事実そのものの中にすら、見出すことのできる神の国を理解することが出来ぬのである。もしあなたの友人が、“いいね、太陽が美しく輝(て)っている”とあなたに話しかけた場合に、あなたは“そうかね、太陽が照っていたって、われわれとは何の関係もないことだ。彼はただ自分の役目を果たしているだけだ。太陽が輝(て)っているそのことが、なぜそんなに愉(たの)しいんだ”と答えるだろうか。天国はこれに心の眼を閉じている者の前には姿をあらわさぬのである。それ故に天国を見出すためには、貴方の心の眼は開かれねばならぬのである。心の眼が開かれている者にとっては、神の愛は至るところに遍在し給うのである。彼等は親の愛を感じ、子の愛を感ずることが出来るのであり、こうして彼等は天国を至るところに見出すことが出来るのである。」(p.54)
こういう先生の言葉を読むと、私たちが今、練成会や誌友会などで、日時計主義の実践として絵手紙や絵封筒をを描いたり、俳句を詠んだりしていることの意味がお分かりになると思います。私たちは普通、効率優先で左脳を主体にした生活をしていることが多いので、ものを素直に見たり、聴いたり、感じたりすることを忘れがちです。すると、周りの世界にすでに与えられているものが見えない、聞こえない、感じられない。それで不満を抱いて、どこか別の所から何かを持ってくるべきだとか、逆に、自分が別の場所へ行けばもっと幸福になるだろうとか、あるいはもっと別の社会にすれば感動が得られるだろうなどと思う。そういう“迷いの心”を捨てて、まず今、目の前にすでに与えられている神の恵みを見よ、感ぜよ、聴け、味わえ、という観の転換のための実践……これが「技能や芸術的感覚を生かした誌友会」などの役目です。
しかし、皆さんの中には、そういう芸術的実践の意味はわかったけれども、それをすることと家庭問題や就職問題の解決、あるいは病気の治癒とは関係がないと思う方もいるかもしれません。しかし、雅春先生は、この日時計主義のものの見方と実践が、人間関係の調和とも大いに関係がある、と説かれています。その部分を引用します--
「もしあなたが、一輪の名もない野の花の中にすら、天国を見出すことが出来るならば、あなたの夫や妻の中に、そして息子や娘の中に、天国を見出すことは、いかにいっそう自然であることであろう。もしあなたが一茎のわらびの中にすら、“あっ、ここにわらびが一本新しく生まれている”と叫んで、新たなる悦びを見出し、このようにして、それがもつ神秘的な美しさに目覚めるならば、自分の妻や子供に大きな悦びを見出さぬということは決してあり得ないのである。もしそうであるならば、あなたの家庭は何と仕合せなことだと思う。このような家庭に住む人たちは決して互いに倦(あ)きることはないのである。もしあなたが夫や妻や子供に対して、倦怠を感じるならば、それはあなた自身が生まれ変っていないことを示すのであり、それで、あなたは全てのことを新鮮味がなく陳腐に感じざるを得なくなっているのである」。(pp.59-60)
このようにして、すでに与えられているもの、人々、人間関係……などの光明面に注目し、そこから“神の国”や“聖地”を感じる生き方--それが生長の家の生き方なのであります。こういうものの見方、生き方が多くの人々の間に広まっていけば、物やエネルギーを浪費する生き方や、「もっと欲しい」「まだ足りない」という精神的飢餓感から、私たちは解放されるのです。そして、もっと自然と調和した“新しい文明”の構築へと進むことができます。そういう運動を、日本から起こしていかなければなりません。今がそのチャンスです。ぜひ、皆さまと共に、この“神の国”の実現運動をいよいよ強力に、そして心を込めて推進していきたい。
谷口雅春大聖師の二十六年祭に当たり、所感を述べさせていただきました。ご清聴、ありがとうございました。
谷口 雅宣