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2011年6月30日

“緑の教皇”は語る (2)

 前回の本欄に掲げたカトリック教会の“環境のための十戒”は、ヴァチカンの正義と平和協議会が出した正式文書で、その目的は「教会の社会教理大要(Compendium of the Social Doctrine of the Church)の中にある環境についての重要な教えを、十ヵ条に分けて説明する」ためだという。この中には、生長の家の考え方と共通するところもかなりあるが、そうでないところもある。その相違点で大きなものは、第1戒、第5戒、第10戒に表れているように、自然と神とを明確に分離して考えているところだろう。
 
 ところで、『環境のための10の戒律』によると、ローマ教皇が環境についての考えを最初に出したのは、1988年、ヨハネ・パウロ2世の時代のときの「社会問題について」(On Social Concern)という回勅だという。これは教会の内部向けのものだ。公式文書としては、同じ教皇が1990年の世界平和の日に出した「神のすべての創造との平和」(Peace With All of Creation)という文書が、環境問題に絞って書かれた最初のものであるという。この11年後、同教皇の亡くなる前の1月17日に出されたメッセージからの引用が、この『10の戒律』にはある。そこには、ヨハネ・パウロ2世の環境に対する考えがよく表れている。それは、「人間は、他の被造物の潜在脳力すべてを花開かせるために、神による創造を支配する使命を受けている」というものだ。
 
 ここには、「神ー人間ー自然」という序列の価値観が明確に表れている。この基本的な考え方は『創世記』の天地創造物語にもとづいているから、ヨハネ・パウロ2世のオリジナルではなく、恐らくキリスト教に、そしてユダヤ教にも共通したものだ。“環境のための十戒”でも、「自然は利用せよ、ただし悪用するな」「自然は神より劣る」「自然は神にあらず、神からの賜物である」などに、この考え方は表れている。その認識は、人間は神の命によって自然の管理を任されているにもかかわらず、その命に反して自然環境を破壊し、機能不全に陥らせている、というものだ。ヨハネ・パウロ2世の言葉は、こう続く--

「残念ながら、わが地球のいろいろな地域を眺めてみると、人類が神の期待に背いていることがすぐに見て取れる。人間は、特に現代では、木の繁った平原や谷間を何の躊躇もなく破壊し、水を汚染し、地球の生物の生息地を変形させ、空気を汚して呼吸できなくし、地上の水循環と大気循環のシステムを混乱させ、植物の豊かな地域を砂漠化し、産業化を際限なく進め、我々の住む“花壇”を劣化してしまった。だから我々は、“生態上の転換”を支援し、支持していかねばならない。この転換のおかげで、ここ数十年の間、人類は自分たちが向かっている大惨事に気づきだした。人間はすでに創造者の“牧者”ではなく、独立した暴君である。その暴君は、自分が今や奈落に落ちる寸前で止まらねばならないことにやっと気づき始めている」。

 私は、『今こそ自然から学ぼう』(2002年刊)という本の中に「生物界の“暴君”の座から降りるために」という題の一文を書いた。そこでは、「他人の意思を蹂躙して、その人を自己の手段として利用することが人間社会では許されないにもかかわらず、人間以外の生物についてはこれを許すことは、人間を生物界の“暴君”として容認する考え方である」として、人間至上主義を批判している。その表現が、期せずしてヨハネ・パウロ2世のものと一致したことに今、驚いている。
 
 谷口 雅宣
 

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2011年6月28日

“緑の教皇”は語る

 前回の本欄では、原子力利用についてのカトリック教会の態度の変化を眺めてみたが、これは、現在のローマ教皇庁は核兵器拡散問題や地球環境問題などへの取り組みに不熱心だと言いたかったからではない。それとは逆に、ベネディクト16世は、2005年4月に前任者のヨハネ・パウロ2世からカトリック教会を引き継いで以来、地球温暖化問題への取り組みを熱心に進めているのだ。

 私は、その取り組みの全貌を知らないが、時おり報道されるニュースの中から、例えば2007年9月4日の本欄では、ヴァチカンが通常業務の一部を“炭素ゼロ”にするために植林地を購入したことや、2010年1月18日には、ヴァチカン駐在の100人近くの各国大使を集めた場で、前年末の国連気候変動枠組み条約締約国会議(COP15)が不調に終わったことを教皇自身が批判したことなどを読者に伝えてきた。このような側面に注目して、今の教皇のことを“緑の教皇”(Green Pope)と呼ぶ人もいるらしい。

 その“緑の教皇”が語った言葉を記録した本がある。それを読むと、現在の教皇庁の環境問題についての考え方がよく分かる。この本は、『Ten Commandments for The Environment』(環境のための10の戒律)という題で、「Pope Benedict XVI speaks out for Creation and Justice」(教皇ベネディクト16世、神の創造と正義のために語る)という副題がついている。2009年の出版で、ウーディーン・コーニグ=ブリッカー(Woodeene Koenig-Bricker)という人の著作の形になっているが、「引用はすべてヴァチカンの公式ウェブサイトから」と書いてあるし、著作権表示の中に「(c)Libereria Editrice Vaticana」という表記も加えているから、恐らくヴァチカン公認の出版物だろう。

 タイトルにある「10の戒律」とは、明らかにモーゼの十戒(the Ten Commandments)を意識した表現である。たぶん教会としては、この本にそれだけの重みをもたせたいのだろう。その“環境のための十戒”を以下に列挙しよう--
 
1.自然は利用せよ、ただし悪用するな (Use, Don't Abuse)
2.人間は神より少し劣る ( Little Less Than a God)
3.地球はすべてのためにあり、すべては地球のためにある (One for All, All for One)
4.技術は人のために使え、ただし被造物を敬いながら (It's Not a Brave New World)
5.自然は神にあらず、神からの賜物である (Gaia Isn't God)
6.進歩の代価を考えよ (What Price Progress?)
7.物資は隅々に行き渡らせよ (Flowing Like a River)
8.環境への責任を法とせよ (We're All in The Same Boat)
9.欲望の奴隷となるな (Discipline Is Not A Four-Letter Word)
10.“神の賜物”として自然に対せよ (It's All Gift)

 谷口 雅宣

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2011年6月27日

カトリック教会の原発への姿勢

 前回の本欄では、ドイツのカトリック神学者、マルカス・フォクト氏の環境問題についての考え方を概観した。これはあくまでも「概観」であるから、細部については不明なところがまだ多くあるので、それらの考察は別の機会に譲る。
 
 私が宗教と環境問題との関係で気になっていたことの1つは、原子力利用に関するカトリック教会の見解である。6月14日の本欄でイタリアが国民投票によって“脱原発”を決定したことに触れたとき、私はその決定がローマ教皇の原子力利用に関する見解の変化と関係があり、その教皇の変化は福島第一原発の事故が契機となっているかもしれない、と書いた。これには確たる証拠があるわけではないが、ローマ教皇ほどの立場にある人が長年の見解を変える動機をもつとしたら、東日本大震災と原発事故以外の“大事件”は考えられないと思うからである。
 
 その時の本欄では、「ローマ教皇庁は、これまで原子力エネルギーについて肯定的な態度を示してきた」と書いた。しかし、「肯定的」というのは、抑えた表現なのである。それよりはむしろ「積極的」と書いた方が適当かもしれない。というのは、お膝元であるイタリアが原発に基本的に反対の態度を示していた2007年の夏、ヴァチカンの公式ラジオ局がレナート・マルチーノ枢機卿(Renato Martino)にインタビューして、原子力を“クリーン・エネルギー”の1つとして歓迎すべきだと放送しているのだ。
 
 それによるとマルチーノ枢機卿は、人間と環境に対する最大の安全基準を課し、兵器への利用を禁止すれば、原子力の平和利用に問題はないとして、こう言ったという--「何らかの事前原則や事故災害への恐怖から原子力エネルギーの利用を禁止することは、間違いを招来し、ある場合には逆効果を招くかもしれない」。また、教皇ベネディクト16世は、この年の8月28日に国際原子力機関(IAEA)の設立50周年記念行事に際し、「段階的な合意による核兵器廃止」と「真の開発のための原子力の平和的で確実な利用」を求めたのである。
 
 原子力利用推進のヴァチカンのこの態度は、昨年の秋まで変わっていない。昨年9月27日付のカトリック・ニュース・サービスによると、ヴァチカン特使のエットーレ・バレストレーロ氏(Ettore Balestrero)は、ウィーンで行われたIAEAの総会で発言し、教皇庁は平和と人間の発展のために、すべての国々が安全で確実に原子力エネルギーを利用するというIAEAの仕事を「引き続き支持する」と述べたという。その理由は、原子力エネルギーは、各国の必要に則して利用すれば、貧困や病気との戦いを助け、したがって人類が直面する深刻な問題の平和的解決に寄与するからだという。この後、原子力の利用と関係して何か重大事件が起こったかというと、東日本大震災しか思い浮かばないのだ。

 この世界的大事件に際し、日本人司教の提案がヴァチカンの態度変更の一因になった可能性がある。ヴァチカンのニュースエージェンシー「Agenzia Fides」は、今年3月29日付の大阪発のニュースでこの問題を取り上げ、大阪大司教区補佐司教の松浦悟郎氏が次のように語ったと伝えているーー「我々が直面している問題、つまり原子力発電所の増設の問題は重要です。私が昨年まで長をしていた日本カトリック司教協議会(Catholic Bishop's Conference of Japan)の正義と平和協議会とともに、私たちは日本や世界での原発増設の動きと戦う意識を盛り上げてきました。わたしは、この深刻な事故が、日本と地球全体にとってのレッスンとなり、これらの計画を放棄する契機となるべきだと強く思います。私たちはこの取り組みのために世界のキリスト教徒が団結することを望みます」。

 このように、日本のカトリック司教協議会は原子力の平和利用についても反対の意思が明らかである。また、同協議会のサイトには、原発を“クリーン・エネルギー”とは見なさずに、地球温暖化の原因の1つとしてとらえる姿勢が示されている。
 
 谷口 雅宣

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2011年6月23日

持続可能性と気候変動の正義 (2)

 前回紹介したマルカス・フォクト氏の環境問題についての考え方は、ご本人が「人間中心主義」と呼んではいても、生態系の一部として人類をとらえる中で人間の繁栄に条件と限界を求めるのだから、「限定的人間中心主義」と形容できるだろう。この考え方は、ヴォグト氏自身が言っているように、国連環境開発会議の“リオ宣言”で合意された「持続可能性(sustainability)」の考えとも合致しているから実際的であり、国際的規範としても有効性があると思う。事実、生長の家が計画を進めている“森の中のオフィス”構想の「中・長期的ヴィジョン」などを読んでみると、ヴォグト氏が提示した“限定的人間中心主義”に近い考え方が相当程度盛り込まれていることが分かるだろう。

 人間中心主義の検討に続いて、ヴォグト氏はキリスト教の文脈でよく使われる「神の創造(Creation)」という言葉の意味を問いかけている。この言葉は、キリスト教の重要な概念である「救い」などと比べて、長い間注目されてこなかった。その理由の1つは、聖書に描かれた天地創造の話が、ダーウィンの進化論や科学的研究と比較すると“理性的な考え”とは見なされなかったからだ。このため創造の問題は、人類学や自然科学などから隔絶するというキリスト教倫理学にとって大きな禍根を残すことになった--とヴォグト氏は指摘している。しかし、1989年以降、カトリックやプロテスタントの別を問わず盛んに言われるようになった“神の創造を保護する”という考え方は、まるで自然を社会的な保護の対象にするかのようだから、同氏は「ばかばかしい」と批判している。ヴォグト氏によれば、人類は創造全体の中でほんの微細な一部にすぎないのだから、神の創造全体の保護を人類の義務として背負わせることは、過大な負担だというのである。

 さらに、キリスト教徒が「神の創造」を信じるということは、そこに生態学的な意味での「調和」があると信じることではない、と同氏は言う。この部分は、なかなか厳しい認識だ。自然とは、単なる調和によって特徴づけられるものではなく、紛争や存在をかけた闘争、死や苦しみでさえ一定の役割をもつ1つの秩序体系であり、と同時に、安寧や治癒をもたらす場所としての性格を失わない、と同氏は言う。このような見方をすれば、持続可能性をめぐる神学上の倫理は、生態系の救済を説くものではない。また、自然への倫理ではない。それよりも、自然を一つの窓口として見、自然と人間の文化との、また(自然の)保護と更新との終りのない緊張である、と同氏は説明する。この最後の、難解に聞こえるところの意味は、たぶんこういうことだ--人間と自然とは「本来調和している」という性質のものではなく、相互が干渉し合い、せめぎ合う中で変化していくものである。だから、持続可能性の実現とは、人間の手の加わらない自然の生態系を回復することや、自然界と倫理的につき合うことを意味しないというのだ。
 
 しかし、だからといって、人間の好きなように自然を改変していい、とは同氏は言わない。持続可能性は、それを定めた“リオ宣言”が示すように、生態学にもとづくのではなく、「正義」の考えを地球大に、また世代間に拡大したものだ、と同氏は言う。科学技術の発達やグローバリゼーションの進展を考えれば、持続可能性の要請は当然の論理的帰結だというのである。つまり、現代は、長期的な影響や社会的な相互交流に、空間的、領土的な制約がない時代になっている。だから、地球規模の平等と、世代間の平等の実現が正義となるのである。そういう意味で、地球上の生物圏の機能を保護することは、未来世代のための、また貧困撲滅のための重要な貢献となるのである。ヴォグト氏によると、この持続可能性の前提となる2つの倫理原則は--①未来世代の人間は、現世代と同じ生存権をもつべきである、②地球上どこでも入手できる資源は、すべての人間に平等に与えられるべきである、の2つだ。これら2原則を同氏は「地球規模の世代間平等主義」と呼ぶが、これには早急に一定の制限が課せられるべきであるとする。が、この問題は煩雑になるので、本欄では触れない。
 
 では、ヴォグト氏が目指す“正義”を実現した未来社会とは、どのような姿か? これについては、同氏はこの論文で多くを語っていない。が、それらしきものを書き出してみる--
 
「“より速く、より高く、より多く”という考えは、進歩の理想としては不十分であることが証明された。より少ない資源から生み出された富だけが、より多くの人々に配分されるのだから、正義を実現することができる」。

「持続可能性は、資源節約のための社会的、経済的政策の代名詞であってはならない。それは、倫理的、文化的な変化を目指すものだ。成長は無限だとする現在の進歩についての考え方は、開発にとって不可欠な価値によって置き換えられねばならない。長期的な視点に立った経済の成功は、自然のリズムにどれだけ統合されているかによって評価されるべきである」。
 
「持続可能性は、未来への1つの警告である。その背後にある希望は無限に続く成長ではなく、自然の限界内での充実した生活である」。

 生長の家の“森の中のオフィス”構想とも共通し、あるいは参考になる考えがいくつも見出される。
 
 谷口 雅宣

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2011年6月22日

持続可能性と気候変動の正義

 まもなくドイツで行われる「世界平和のための生長の家国際教修会」でゲスト・スピーカーとして講演するマルカス・フォクト博士(Markus Vogt)の論文を読んだ。「神学的視点から見た持続可能性と気候変動の正義」という題の英語の論文だ。題の日本語訳は大仰に聞こえるが、原題は「Sustainability and Climate Justice from a Theological Perspective」だから、案外シンプルだ。何が書いてあるかと言えば、「地球温暖化に伴う気候変動の問題を解決するためには、何を正義の基準とすべきか」が、ドイツのカトリック神学者の立場から提示されている。ヴォグト博士は、ミュンヘン大学などでキリスト教倫理や神学の教授をしていて、ドイツ司教会議(German Bishop's Conference)のアドバイザーもしている。一読して、同氏が倫理学者、神学者として地球温暖化問題に相当な危機感をもっていることが分かった。
 
「一読」とは書いたが、ヴォグト氏の英語は難解だった。だから、同じ文章を2回、3回読んで理解することもある。これは、私の英語力の問題もあるのだろうが、氏の“ドイツ的厳密さ”が英語にも表れており、さらに氏の学識の広さも関係していると思う。ここでは、1つの文章に神学、経済学、政治学の用語が織り込まれていたりする。印象深かったのは、氏のこの問題に対する真剣さと、思慮深さだ。地球環境問題や気候変動については、日本ではいまだに一部で「自然現象で人間には責任がない」という種類の粗雑な議論が行われていて、それを読んだ人から本欄にも疑問を呈するコメントが付けられたりする。また、経済界にも政界にも、この問題を長期的な視点で深く考えている人はほとんど見当たらない。だから、ヴォグト氏のような哲学的、神学的視点を本欄で紹介することは、我々の心の“視野拡大”のために役立つと思うのである。

 ところで、私は2002年に『今こそ自然から学ぼう』(生長の家刊)という本を出したとき、副題を「人間至上主義を超えて」とした。これには英語訳も添付されていて、主題は「Learning from Nature」であり、副題は「beyond anthropocentrism」である。「anthropocentrism」の「anthropo-」は「人間」とか「人類」という意味であり、「-centrism」は「中心主義」と訳せるから、「anthropocentrism」は「人間中心主義」とも訳せる。事実私は、本の副題では「--至上主義」としたが、本文内では「ーー中心主義」という言葉を使っている。一般の日本人読者にとっては、「至上主義」の方が分かりやすいと思ったからである。この本の中で、私は人間中心主義を次のように説明している--
 
「人間を生態系の中心に置いて、人間のために良好な自然環境を作り上げたり、人間に快適な程度に自然保護を行うというのが1970年代までのエコロジーの考え方だった。この考え方では、人間と自然とが互いに独立した対立関係にあり、しかも自然の価値と人間の価値が対立した場合には、常に人間の価値が優先されたから、“人間中心主義(anthropocentrism)”を出ることがなかった」。(p.28)
 
 これに対し、1980年代以降に生まれた「ディープ・エコロジー」は、人間を自然の一部と見なして、人間の自然観の変革や人間観の“深化”を通して、人間の生活スタイルの変化を要請するものだから、より宗教や信仰に近く、環境問題の解決により有効であるとして、私は好意的に記述している--
 
「1980年代以降に登場したエコロジーでは、しかし人間と自然との関係をもっと深く見つめ直し、人間を自然の一部としてとらえ、自然を支配しようとする人間の態度そのものの中に環境問題の原因を見出したり、人間自身の生き方を変えることで自然との調和ある関係を回復することを目指すような動きが生まれてきた。これは、従来のエコロジーに比べ、より深く問題の本質に迫る考え方であるから、“深い環境保護思想”というような意味でディープ・エコロジーと呼ばれる。また、人間中心主義に対して、“生態系中心主義(ecocentrism)”あるいは“生命中心主義(biocentrism)”などと呼ばれることもある」。(pp.28-29)
 
 ヴォグト氏は、論文の初めの部分でこの「anthropocentrism」を検討しているが、それを頭から否定する立場ではない。それよりは、「生態系の中での人類を見れば、人間中心主義には自ずから成立の条件と限界がある」と見るのである。
 
 それらの条件や限界の具体例を、ヴォグト氏は次のように4点掲げている--
 
 ①科学技術の否定ではなく、自然資源をムダ遣いしないための技術開発を支持し、
 ②富の追求や自由市場を拒否するのではなく、資源節約型の繁栄のために、環境に配慮した社会市場を求め、
 ③倫理の分野では、近代超克型ではなく“第二の近代”を見据えた倫理を目指し、
 ④人間を犠牲にした環境中心主義ではなく、環境を配慮した人間性の実現を目指す

 これらの考え方は、人間中心主義を脱していないし、従来の経済発展の考え方からも抜けきっていない。しかし、ヴォグト氏は、1992年に国連の環境開発会議において採択された“リオ宣言”の27か条の第1条に「人類は持続可能性の中心にある」(Human beings are at the centre of sustainability.)と書かれていることを指摘し、この考え方に議論の余地があることは認めながら、それは今の時点でいろいろな立場の国々から広範囲の合意を得ているのだから尊重すべきだとしている。そして、この宣言の中で、倫理的に有益な視点として最も重要なのは、「自然保護と人類の保護を分けて考えることはできない」という認識だという。
 
 谷口 雅宣

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2011年6月19日

表参道にキノコ出る

Hitoyotake  今日は朝から新宿へ行った。パスポートを受け取るためである。6月9日の本欄に申請書類を都庁の旅券課に提出したことを書いたが、1週間後には新しいものが発行されると言われていた。夏休み前の日曜日だから、もしや混雑……と思って“朝一番”の時間に行くことにした。日曜日はたいてい講習会があるので、そういう休日の原宿をゆっくりと歩く機会は珍しい。人もまばらで静かな原宿はいいものだ……と思いながら、明治通りと表参道の交差点を新宿方向へ渡り、JR原宿駅に向かった。と、地下鉄の明治神宮前駅への降り口のところに、奇妙な形の白い塊を見つけた。一見して、空気の入った白いレジ袋が捨ててあるのかと思った。が、近づいていくると、卵大の白いツブツブが密集しているように見える。そして、さらに近づくと、それがキノコの幼菌の群生だと分かった。私と妻は、思わず大声を出してしまった。
 
 東京の原宿でキノコが生えるのは、明治神宮か自宅の庭ぐらいだと高をくくっていたが、表参道の地下鉄の駅の入口で、植え込みの中から群生するキノコもあるのだ。一般にキノコが生える環境は自然が豊かだとされるが、この考えは改めなければいけないのか、と思った。しかし反面、キノコはカビの“親戚”だから、条件さえ整えば都会の真ん中で頭をもたげていても不思議はないのかもしれない。その証拠に、松本零士氏の『男おいどん』というマンガのシリーズでは、じめじめした環境の貧しい家の中では、町中であっても「サルマタケ」というキノコが出ることになっている。もちろん、こんな名前のキノコは存在しない。が、松本氏は自分の経験を元にしている可能性は大きい。
 
Awatake  私が今回のキノコ発見に心を動かしたのは、たぶん自宅と長崎・総本山の公邸の庭とで、連続してキノコと出会っているからだ。「また遭いましたね!」という感じだ。自宅でキノコに遭ったのは先月の26日で、勝手口の脇の陽の当たる植え込みの中に出ているのを妻が見つけた。総本山では、雅春先生の二十六年祭で公邸に泊まったとき、これも妻が最初に見つけて私を驚かせた。これらの場所でキノコが出ること自体は、それほど驚くことではない。過去に何度も目撃している。が、私が感動したのは、それらのキノコKoujitake が食用にできる種であるということだった。自然に囲まれている総本山の公邸は、何らかのキノコは生えるだろう。また、自宅の庭にも、カレバタケのような非食用種はいくつも顔を出す。しかし、今回遭遇したのは、アワタケ(写真左)、もしくはコウジタケ(写真右)と思われるイグチ科の食用キノコだった。長崎の公邸はともかく、東京の原宿で天然の食用種が採れるとなれば、自慢していいと思っていた。
 
 そこで問題になるのが、今回の地下鉄駅前で見つけた“天然キノコ”の種類である。パスポートを受け取ってから帰宅し、キノコの本を調べてみると、それは「ヒトヨタケ」だと思われる。「思われる」と書いたのは、キノコの種の同定は専門家でも難しいからだ。しかし、本にある写真と書かれた記述を読み、自分の撮った写真と見比べてみると、この種以外は考えられない。そこで、この本の説明を引用しよう--
 
「ヒトヨタケーー春~秋、畑地、公園、路傍などに束状に発生。傘は初め長卵形、のちに開いて鐘形となり、小~中型。表面は灰色~淡灰褐色、中央部に鱗片をつけ、周辺は溝線がある。ひだは密、成熟するにつれて白色から紫灰色、黒色と変化し、反り返った傘の周縁部から液化してしたたる。(中略)食。ただし、酒類を飲む前や飲んだのちに食べると激しい二日酔い状の中毒にかかる。ヒトヨタケ属のきのこは“一夜茸”の名のとおり、どれも短命である」。

 ということで、このキノコは食べられる可能性が大だが、酒好きの人は要注意である。また、すぐに“液状化”するようだから、採りに行っても、もう姿を消しているかもしれない。(残っていても食べないでください)

 谷口 雅宣

【参考文献】
○本郷次雄監修『きのこ』(山と渓谷社、1994年)

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2011年6月18日

コスタリカから愛を込めて

 中米の国、コスタリカでシニアボランティアとして活躍している武山久恵さんが、14日の本欄にコメントをつける形で、同国の有志が東日本大震災に遭った我々への激励のメッセージを動画で作成してくれたことを教えてくれた。本欄へのコメントという形では読者の目につきにくいので、ここに彼女のメッセージとともに掲載することにした。以前、香港の人々からの感動的な動画メッセージを紹介したが、このようにして世界各国の人々が日本の復興と再起を望んでくれていることを知り、胸が熱くなるのは私だけではあるまい。感謝合掌。
 
 谷口 雅宣

--以下、武山さんのコメント-------------------------

 コスタリカという小さな中米の国でJICAシニアボランティアとして2年間夫とともに活動しております。コスタリカ大学の高齢者のためのコースの活性化が任務です。

 コスタリカは非武装で、エコツーリズムの発祥地で、1月には秋篠宮殿下夫妻もお見えになりました。
3月に日本支援のDIA DE  ARIGATOという、大きなチャリティイベントも開かれ、1万人以上が来場しました・
この6月に日本への素敵な応援ソングができました。

 以前総裁先生が 『雨にも負けず』を香港の方たちが作ってくださり、私も授業で使わせていただきました。そのことを思い出し、ご紹介させていただきたいと思います。

歌詞が素敵です。

  いろいろあるさ、
  失う時、
  苦しい時、
  でも光は来る、
  最後に必ず、
  苦しみが終わり、
  愛がやってくる、
  灰色が過ぎ去り、
  再び色づく、
  愛の海、
  コスタリカからの心からの愛、
  愛の海……

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2011年6月17日

“新しい文明”の構築へ向かって

 今日は午前10時から、長崎県西海市の生長の家総本山の谷口家奥津城前で、谷口雅春大聖師二十六年祭がしめやかに執り行われた。この日、同本山では東京第一、群馬、山梨、京都第一、奈良、新潟北越、島根、宮崎の8教区からの団体参拝練成会が行われており、年祭にはこれら練成参加者と地元長崎北部の信徒など約690人が参列した。私も妻と共に参列し、玉串拝礼、聖経一斉読誦のあと、概略以下のような挨拶をした:

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 皆様、本日は谷口雅春大聖師の二十六年祭に大勢お集まりくださり、有難うございます。今日はあいにくの曇天で、朝方は小雨もぱらつく天気でしたが、ちょうど26年前の今日も、こんな天気であったことを覚えています。しかし今年は、いつもの年とは違うようです。ご存知のように、3月に東日本大震災と原発事故があり、そこからの復興や復旧がはかばかしく進まない現状があり、日本の政治も経済も正常とは言えない状態が続いています。

私は4月に谷口輝子聖姉の二十三年祭でここへ越させていただきましたが、その際は、「針供養」の話をいたしました。裁縫で使う針の、古くなったものを感謝の気持ちを込めて供養する習慣です。それは、輝子先生がどんなにものを大切にされたかという話でした。そして、そういう伝統行事をもつ日本人は、有機物も無機物も大切にしてきたのだから、現代の我々もエネルギーのムダ遣いや電力のタレ流しなどやめて、“新しい文明”への転換を進めていくべきだとお話ししました。これは、『聖使命』紙の6月1日号に載っています。

 このことは、「物質はない」という生長の家の教えとも深く関係しています。谷口雅春先生は、「物質はない」という意味は、一見物質のように見えるものでもそれは神の命の表れ、仏の現成であるから、感謝して大切に使えと教えられました。「物、物にあらず、物と言うなり」ということです。この世界を物質の集まりだと見、それらの金銭的価値に心を捉えられた生活をしていると、それらすべてを無に帰してしまうような今回の大震災に遭い、物質以外のものの大切さを痛感させられるものです。今、日本全体が、物質的繁栄を追求してきた戦後の生き方を見直し、自然とともに生きる“新しい文明”の構築に向かって歩き出さねばならない時期に来ているのであります。

 生長の家は、その“新しい文明”とは、日時計主義のものの見方から生まれると考えるのであります。日時計主義とはご存知のように、谷口雅春先生が『生長の家』誌創刊号で提唱された「人生の光明面を見る」生き方のことです。皆様方も団体参拝練成会などでそれを学んでおられますが、この思想は世界に通用する立派な哲学であり、宗教的にも深い信仰に根差すものです。そのことについては、私も本などで詳しく説明していますが、今日は雅春先生のご著書から学ぼうと思います。

 昨年のこのお祭の際、私は『信仰の科学』という先生のご本を紹介しましたが、今回もそこから引用したいと思います。この本は数ある雅春先生のご著書の中でも、「外国人との共著」であるという点で珍しい一冊です。ですから、ここに書かれたことは「文化の枠を超えている」と言えるのです。今風の表現を使えば“グローバルスタンダード”になり得る内容が、ここにあります。この本で説かれていることの1つが、日時計主義のものの見方なのです。このことは昨年もお話しましたが、今日はもっと具体的に紹介したいと思います。なぜなら今、日本の経済と政治は、大きな転換点にあるからです。日本だけではありません。大震災と原発事故を経験した日本が、今後どのような方向に向かうかは、世界が注目しています。いや、すでに世界の一部では大きな変化が起こっています。今後この変化が、正しい方向に向かうのか、それとも間違った方向へ進むかで人類の運命が変わってくるのです。
 
 『信仰の科学』の第2章で雅春先生が注目しているのは、「神の国は汝らのうちに在り」(『ルカによる福音書』第17章21節)という有名な聖書の句です。また、「古き天と古き地とは過ぎ去り」(『ヨハネの黙示録』第21章1節)「われ一切(すべて)のものを新たならしめん」(同5節)という聖句も取り上げて、それらに共通する意味について先生は解説されています。
 
 ところで、この生長の家総本山に来られた方は、ここの自然の美しさに感動して、この地を“聖地”だと形容する人がいます。しかし、生長の家では、現象世界に“聖地”があるとは教えません。地球上の地理的な一点に実相世界があるなどとは説きません。ですから、皆さんもこの本山のことを「聖地だ」とは言わないでください。自然の美しさに感動してそう言いたくなる気持は分かります。しかし、その場合は「聖地のようだ」と言ってください。それならまだ容認できます。冗談を言っているように聞こえるかもしれませんが、“聖なる地”や“神の国”や“天国”がどこにあるかという問題は、宗教上も大変重要なので間違いのないようにお願いいたします。
 
 谷口雅春先生は、『信仰の科学』の中で、「神の国」や「天国」がどこにあるかについて、次のように教示されています。引用します--
 
「キリストの言葉の真義は、全世界が、否、全宇宙が、天地万物一切のものに生命(いのち)を賦与する力を持つところの神の愛によって溢れるばかりに満たされているということなのである。心の眼が開いていない者にとっては、天国とは何か日常とかけ離れた異常のものであり、朝顔の花の開花とか日の出などというような日常茶飯事とは、何の関係もないと考えるかも知れぬのである。彼等は“朝顔が三輪咲いている”というただその事実そのものの中にすら、見出すことのできる神の国を理解することが出来ぬのである。もしあなたの友人が、“いいね、太陽が美しく輝(て)っている”とあなたに話しかけた場合に、あなたは“そうかね、太陽が照っていたって、われわれとは何の関係もないことだ。彼はただ自分の役目を果たしているだけだ。太陽が輝(て)っているそのことが、なぜそんなに愉(たの)しいんだ”と答えるだろうか。天国はこれに心の眼を閉じている者の前には姿をあらわさぬのである。それ故に天国を見出すためには、貴方の心の眼は開かれねばならぬのである。心の眼が開かれている者にとっては、神の愛は至るところに遍在し給うのである。彼等は親の愛を感じ、子の愛を感ずることが出来るのであり、こうして彼等は天国を至るところに見出すことが出来るのである。」(p.54)
 
 こういう先生の言葉を読むと、私たちが今、練成会や誌友会などで、日時計主義の実践として絵手紙や絵封筒をを描いたり、俳句を詠んだりしていることの意味がお分かりになると思います。私たちは普通、効率優先で左脳を主体にした生活をしていることが多いので、ものを素直に見たり、聴いたり、感じたりすることを忘れがちです。すると、周りの世界にすでに与えられているものが見えない、聞こえない、感じられない。それで不満を抱いて、どこか別の所から何かを持ってくるべきだとか、逆に、自分が別の場所へ行けばもっと幸福になるだろうとか、あるいはもっと別の社会にすれば感動が得られるだろうなどと思う。そういう“迷いの心”を捨てて、まず今、目の前にすでに与えられている神の恵みを見よ、感ぜよ、聴け、味わえ、という観の転換のための実践……これが「技能や芸術的感覚を生かした誌友会」などの役目です。
 
 しかし、皆さんの中には、そういう芸術的実践の意味はわかったけれども、それをすることと家庭問題や就職問題の解決、あるいは病気の治癒とは関係がないと思う方もいるかもしれません。しかし、雅春先生は、この日時計主義のものの見方と実践が、人間関係の調和とも大いに関係がある、と説かれています。その部分を引用します--
 
「もしあなたが、一輪の名もない野の花の中にすら、天国を見出すことが出来るならば、あなたの夫や妻の中に、そして息子や娘の中に、天国を見出すことは、いかにいっそう自然であることであろう。もしあなたが一茎のわらびの中にすら、“あっ、ここにわらびが一本新しく生まれている”と叫んで、新たなる悦びを見出し、このようにして、それがもつ神秘的な美しさに目覚めるならば、自分の妻や子供に大きな悦びを見出さぬということは決してあり得ないのである。もしそうであるならば、あなたの家庭は何と仕合せなことだと思う。このような家庭に住む人たちは決して互いに倦(あ)きることはないのである。もしあなたが夫や妻や子供に対して、倦怠を感じるならば、それはあなた自身が生まれ変っていないことを示すのであり、それで、あなたは全てのことを新鮮味がなく陳腐に感じざるを得なくなっているのである」。(pp.59-60)

 このようにして、すでに与えられているもの、人々、人間関係……などの光明面に注目し、そこから“神の国”や“聖地”を感じる生き方--それが生長の家の生き方なのであります。こういうものの見方、生き方が多くの人々の間に広まっていけば、物やエネルギーを浪費する生き方や、「もっと欲しい」「まだ足りない」という精神的飢餓感から、私たちは解放されるのです。そして、もっと自然と調和した“新しい文明”の構築へと進むことができます。そういう運動を、日本から起こしていかなければなりません。今がそのチャンスです。ぜひ、皆さまと共に、この“神の国”の実現運動をいよいよ強力に、そして心を込めて推進していきたい。
 
 谷口雅春大聖師の二十六年祭に当たり、所感を述べさせていただきました。ご清聴、ありがとうございました。
 
 谷口 雅宣

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2011年6月16日

総本山の“太陽”をいただく

Violetta_batteryb  谷口雅春大聖師二十六年祭のために、長崎・西海市の生長の家総本山に来た。前回は4月に谷口輝子聖姉の年祭に来たが、その頃は、私のPCの使用を”炭素ゼロ”化し始めたばかりで、旅先の使用まではカバーしきれなかった。が、今回は、同本山の楠本行孝総務のご好意で、状況が一変した。 総本山では蓄電池を用意し、しかも、同本山の大型太陽光発電装置から電気を引いて、“炭素ゼロ”でフル充電しておいてくださった。これで私のPCは、太陽エネルギーだけで動き続けることになる。

 総本山で用意してくれた電池は、私が本欄でも取り上げた太陽工房の電池格納部「VS12-B20LA」だ。ただしこれは、私が購入したニッケル水素電池使用の「VS12-B07NH」とは異なり、従来型の鉛電池である。実用的には、しかしこちらの方が1クラス上である。例えば、私のは最大出力 64W だが、こちらは 200W。蓄電容量も、ノートパソコン(20W)の使用時間で比べると、私のが最大4時間なのに対し、こちらは12時間も使える。その代わり一回り大きいケースに入っており、どっしりと重い。
 
 この実用型蓄電池は、インバーターの大きさもソケット類も私のものとは全く違う。インバーター内には電動ファンがついていて、熱を追い出す仕組みになっているし、電気の残量を3段階で示すランプも付いている。外部への出力は100Vが2系統、USBが1系統ある。ちなみに、販売価格は1個37,800円で、私のもの(25,800円)より若干高い。

 ところで、私の場合もこの“実用型”の鉛蓄電池を買う選択肢はあったのだが、それを選ばなかった。というのは、「鉛」は昔から人体に害があることが分かっていて、環境意識を説く人間がそれをあえて買うのには、どうしても抵抗があったのだ。しかし、業務用ということになると、自動車内蔵の蓄電池も含めて社会ではまだまだ鉛電池が主流だろう。そんなわけで“実用型”を手配してくださった総本山総務に文句を言うつもりはない。が、この事実は誰でも知っておくべきだと思う。
 
 これに機を合わせたように、16日付の国際紙『インターナショナル・ヘラルド・トリビューン』には、中国での労働者の“鉛害”が深刻であることが報じられている。それも、同国の東部の村でバイクや電動式自転車の電池を造っているメーカーのことだ。操業中の6年間に国の規制値を守らなかったため、工場周辺に住む成人233人と99人の子供について、最高で国の基準の7倍になる鉛が血液から検出されたというのだ。そして問題なのは、この傾向がこの特定の電池メーカーに限らず、中国の同業他社にも共通して見られると報道されていることだ。有害物質の規制は地方政府の役割だというが、急速に発展する中国経済の中では、工場経営者を規制するのに熱心でない役人が多いのだという。何か、日本のどこかの電力会社と政府機関との関係を思い出す話ではある。
 
 そんなわけで、今日の複雑なグローバル社会においては、我々がまったくの善意をもって省エネ努力をする際にも、子供の弁当の食材を選ぶときのような慎重さが常に必要とされるのである。
 
 谷口 雅宣 

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2011年6月15日

サダムに電話する

 週末の水曜日の夜、妻と一緒に久しぶりに銀座で映画を見た。イラクのモハメド・アルダラジー監督の『バビロンの陽光』(Son of Babylon)という作品で、ベルリン映画祭でアムネスティ賞と平和賞を同時受賞した。イラク人監督の映画を見るのは2~3回目だろうか。欧米や日本の映画を見慣れていた私は、「何と違うことか」との印象をもった。単調と言えばきわめて単調で、単純と言えば単純そのもののストーリーである。ある老女とその孫が、12年も音信不通である自分の息子(孫の父)の消息をたずねて、イラク北部から南部のナーシリーヤへ1千キロもの旅をする--それだけである。しかし、この旅が行われたのが、イラク戦争でサダム・フセイン政権が倒れてから3週間後であり、この老女がイラク人ではなく、同国で弾圧されていたクルド人であることが分かると、その長い旅程が、老女と子供にとって危険きわまりないものだと了解され、観客の心には“サスペンス映画”を見るような緊張感が生まれるのである。
 
 戦争がまだ完全に終わっていない地を、老女と子供だけで、ほとんどヒッチハイクのような方法で延々と旅をする。その間に、多くの人々に遭い、助けられたり邪魔者扱いされたり……しかし、いわゆる“悪役”のような人間は出てこない。あえて言えば、途中の検問所で人々に銃を突きつけるアメリカ兵が“悪者”のような感じがしないでもない。人々は何か大きな不条理な力が自分たちの大切なものを奪っていくのを、ただひたすら堪え忍んでいる。私が「違う」と感じたのは、こういう“起伏”や“抑揚”や“白黒”がはっきりしない映画を、これまであまり見たことがなかったからだ。その構成上の不鮮明さと、画面に展開される果てしなく広い平坦な砂漠とが相まって、眠気さえ覚えてきた。
 
 イラク戦争については、私は本欄でも国際政治の観点から結構書いてきた。が、その観点から明確であったことが、この映画ではほとんど不明確である。例えば、サダム・フセインは、民族独立を志向するクルド人に対しては血も涙もなく、化学兵器を使って大量虐殺をした。この事件は現地では「アンファル」と呼ばれている。映画の中でも、どこそこで“集団墓地”が発見されたという話が出てくるが、これなどは決して日本人が考える「墓地」ではなく、虐殺後の死体投棄所のことなのだ。で、そういうクルド人虐殺に荷担したというイラク人が、主人公の老女と子供の世話をしようとする。「あんたらを放っておけない」と言うこの元兵士は、「強制されたから仕方がなかった」と弁明する。そして、罪滅ぼしをしたいという意図が明確である。老女は当初、彼の援助を激しく拒否するが、やがて心を許すようになる。皆、何かの犠牲者なのだ、というメッセージがそこにある。
 
 では、そんな巨大な悪であるサダム・フセインが倒れたのだから、それを実行したアメリカ軍が英雄のように描かれるかと言えば、決してそうではない。上に書いたように、米兵は「サダムを倒したからもっと恐ろしい」という感じで描かれる。たぶんイラクの民衆の正直な感覚なのだろう。ところで、今日の本欄の題名である「サダムに電話する」という語だが、これは映画の会話の中に“暗号”のように使われる。が、意味していることは明確である。最初、トラックの運転手はこの言葉を放ってから、用足しに姿を消す。それを見ていた主人公の少年は、映画の終わりのほうでそのマネをして、「サダムに電話する」と言ってから、適当な藪を探して小便をする。しかし、どうしてこの言葉が用足しを意味するのか……私は考え込んでしまった。
 
 読者はどう考えるだろうか? 私の憶測を言おう--この言葉は、日本だったらさしずめ「特高に連絡する」というほどの意味だろう。が、相手の目の前で密告を公言する人はいない。ということは、「人には言えないことをする」という意味ではないだろうか? サダムの治政下では、もちろんこの言葉は口に出せない。が、映画はサダムが倒れた後を描いている。冗談でこう言って、独裁政権崩壊の現実を噛みしめているのではないだろうか。
 
 谷口 雅宣

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2011年6月14日

イタリアが“脱原発”を決定

 本欄のために割く時間が少なくなっている。7月にドイツで行われる国際教修会や新刊書の仕事が増えているからだ。しかし、うれしいことはきちんと「うれしい」と表現するのが日時計主義だから、これについては書かせてほしい。ドイツとスイスに次いで、イタリアが国民投票によって原発からの撤退を決めた。東日本大震災による福島第一発電所の大事故が人類に何かを与えるとしたら、それはこの種の“反面教師”としての教えなのかもしれない。このイタリアからの朗報については、『朝日新聞』と『日本経済新聞』の報道姿勢の違いが面白い。
 
 脱原発の姿勢が明らかな『朝日』は、こう伝える--
 
「原発再開の是非を問うイタリアの国民投票は、投票最終日の13日、投票率が50%を超えて成立した。開票が始まり原発反対派が9割を超えて圧勝し、新規建設や再稼働が凍結される見通しとなった。投票不成立を目指したベルルスコーニ政権への大きな打撃となった」。

 これに対し、原発に同情的な『日経』では、記事はこうなる--
 
「イタリアで12~13日に実施された原子力発電の再開の是非を問う国民投票が成立し、政府の原発再開の計画を否決した。内務省の発表によると、投票率は約57%に達し、成立の条件である50%を上回った。福島第1原発の事故後、主要国で原発政策に関する国民投票は初めて。他国からの電力購入や再生可能エネルギーの利用拡大など戦略の練り直しは必至だ」。

 読者は「あれーっ」という感じをもたないだろうか。『朝日』を読むと、国民の9割が原発反対であるかのような印象を受けるが、『日経』では“僅少差”で原発の運転再開が否決されたと読める。しかし、注意深く読み直してみると、国民投票が成立するためには、2日間で有権者の半数が投票しなければならず、その投票者の9割(正確には 94.5%)が“脱原発”を選択したのだと分かる。『朝日』は、この9割を「圧勝」と評価して記事の頭に書いているが、『日経』はそうとらえず、引用した記事の最初の段落には「57%」という投票率の数字だけを書いている。事実を冷静に考えれば、投票した人のうちの94.5%は全体の53.6%だから、「圧勝」という『朝日』の表現は明らかに言い過ぎであり、「否決」としか言わない『日経』は言わなすぎだと私は思う。もちろん両紙とも、記事の後の方ではすべての情報を開示しているが、忙しい読者は記事を最後まで読まないだろうから、受け取る印象はずいぶん違ったものになる。両紙の編集デスクは、もちろんそのことを十分心得ていて「記事づくり」をしている。新聞報道とはそんなものだ。
 
 ところで、この国民投票が行われる前に、ローマ教皇が原子力発電に否定的見解を述べたという事実を読者はご存じだろうか。私は、これが今回の結果に少なからぬ影響を与えたのではないかと考える。6月9日付でカトリック・ニュース・エージェンシーが流したニュースによると、ベネディクト16世はこの日、駐バチカン大使が集まった会合で「世界はもっとクリーン・エネルギーの開発を進めるべきだ」と発言したという。この日はちょうど、スイスが“脱原発”を決めた日だったから、教皇がいう「クリーン・エネルギー」に原子力発電は含まれていない。
 
 この集まりは、シリアなど7カ国の新任バチカン大使との謁見の場で、教皇は「今年前半は、自然や科学技術、人々に影響を与えた多くの悲劇に見舞われた」として、東日本大震災とその影響による福島第一原発の事故に言及した。と同時に、教皇は「人間は、自然を守る仕事を神に任されているのだから、科学技術に支配されたり、その対象になってはならない」と述べたという。また、「人類は心を入れ替えて、環境を敬うライフスタイルを採用し、クリーン・エネルギーの研究と開発を支援しなければならない。神の創造の遺産を尊重し、人類に害を及ぼさないことーーこれが政治と経済の優先課題とならなければならない」と述べたという。

 ローマ教皇庁は、これまで原子力エネルギーについて肯定的な態度を示してきたが、福島第一原発の事故を契機として、否定的な見解に変わったと見られる。教皇の発言は「原子力」を直接名指ししていないが、今回の発言の中で「無限に強力で、究極的に制御不能のテクノロジー」に過度の信頼を置くことは、人間から人間性を奪うと述べていることから、原発への過度の依存を批判していると解釈できる。この発言はまた、教皇の母国であるドイツが“脱原発”の決定をしたことと無関係ではあるまい。
 
 谷口 雅宣

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2011年6月13日

太陽光で生活する (2)

Solarpanel_s  前回この題で本欄を書いてから、早いものでもう1カ月たった。その間、昨日までの段階では、この方面での進歩はLED電球を買い増したぐらいだった。が、今日は“飛躍的進歩”があった。注文していた太陽光発電パネルが届いたからだ。と言っても、屋根に搭載するあの大型のパネルではなく、ポータブル式の軽量パネルである。私が自宅屋根の太陽光パネルから“自立モード”で電気を取り出し、それを保存しておくための蓄電池を買ったことは、「太陽光でパソコンを使う」というシリーズの中ですでに書いた。この電池にためた電気は、私の主要な仕事の道具であるPCを、すべて“炭素ゼロ”化するのが当初の目的だった。そして、この目的はほぼ達成している。その上に太陽光発電パネルを買った理由は、次の2つである:
 
 ①今夏の電力不足に対応する、
 ②山荘での省エネ
 
 福島第1原発の事故の影響で、今夏首都圏では電力の15%使用削減が求められている。私の家では、夏場のエアコン使用をやめてすでに久しい。本部の私の執務室でも、来客時などを除いてエアコンはほとんど使用せず、もっぱら扇風機の世話になってきた。だから、電力の使用を削減する余地はあまり残っていない。そこで考えたのは、太陽エネルギーで扇風機を回すことだった。また、ポータブル式の太陽光パネルならば、大泉町の山荘へ行った際にも使える。山荘の日照条件は大変よいから、太陽光パネルを持ち込めば、パソコンを動かすためだけでなく、いろいろの用途に使えると考えたのである。
 
 そこで、以前紹介した蓄電池を入手した後の5月8日に、同じ注文先である太陽工房にパネルを発注した。それが、今ごろ届いたのだ。その理由は、大震災の被災地からの注文が多く、そちらを優先するというメーカー側の意図に従ったからだ。同社からは、「被災地の皆様より、弊社の生産能力を上回るご注文をお受けしたうえ、増産に伴う部品納品の遅れにより発送が遅くなり、ご不便、ご迷惑をおかけしまして申し訳ありません」というメールが届いた。被災地支援は望むところだから、この程度の遅延は問題ではない。
 
 さて、使用状況を報告しよう。まずパネルの大きさや重さだが、段ボール箱に入って届けられたものは、片手でつかんで楽々と持ち上げられる。重さは約2kg。思っていたより軽量だった。外寸は 420mm×594mmで、厚さはパネル部分が約5mm だから、結構コンパクトである。これに長さ3mの防水、防塵の電気出力用のケーブルがついている。その先端を、蓄電池の箱から出ている外部端子に差し込めばすぐに使える。最大出力は、30.5Wである。このパネルの値段は、消費税込みで39,800円。
 
 今日は一日中曇り空だったが、執務室のベランダの芝生の上にパネルを置いて充電した。充電中に、畜電池の100V用端子に電気スタンドを差し込んで使ってみたが、問題なく使える。しかし、さらにテレビを併用しようとしたら、それはできなかった。スタンドの21W程度の蛍光形の電球は光っているが、テレビは映像が映らない。電力不足である。テレビ単独の使用は問題ない。フル充電後に、テレビが電池だけでどのくらい使えるかを調べてみた。約20分は見られたが、その後は画面が点いたり消えたりの状態になった。執務室のテレビは、2008年製のシャープのAQUOSの「LC-20D30」で、定格消費電力は「72W」とある。自宅のテレビは「55W」だから電池だけで30分は見られるだろう。扇風機は40W台だから、長くて1時間か。しかし、昼間は発電しながらの使用だから、使用時間はもっと伸びるだろう。正確なデータは、もっと暑くなってから実際に使ってみて報告しよう。
 
 谷口 雅宣

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2011年6月 9日

“魔法の電球”を買う

 今日は休日を利用して、パスポートの更新のために妻と新宿の都庁ビルまで足を運んだ。昨年の7月に有効期限が切れていたのに気づかなかったのを、今夏、ドイツで行われる国際教修会に間に合わせるためである。夏休み前なので混雑を覚悟して、早めに家を出て地下鉄の駅で顔写真の撮影をすませ、新宿駅で朝食をとり、朝9時の開場前に都の旅券課へ行った。幸い先着は2人しかおらず手続きも簡単にすんだおかげで、午前の時間がポカッと空いた。

Magicbulb1  そこで、普段したくてもできなかったことができた。東急ハンズで“魔法の電球”を見つけて購入したのだ。これは、簡単に言えば「充電式LED電球」である。何が“魔法”かと言えば、ソケットから外しても点灯するからだろう。これは以前、新聞記事で見て知っていたのだが、渋谷の量販店では扱っておらず、ネット経由でしか入手できないと思い、購入をためらっていたのだ。LED電球は安くないので、実物を見て決めたいからだ。が、新宿のハンズ5階に“山積み”されていた。今夏の電力不足を乗り切る手段として売れているに違いない。

 私がこれを求めたのも、似たような理由だ。以前に本欄に書いたようMagicbulb2 に、私は自宅にある太陽光発電装置を利用して、パソコンの使用を“炭素ゼロ”にすることをほぼ達成している。が、さらなるCO2の排出削減をしたいと考えていたので、充電式LED電球の登場はありがたい。この製品が魅力的なのは、普段はLED電球として省エネ効果を発揮するだけでなく、いざ停電という時に懐中電灯に早変わりするからだ。その際、電球本体と螺旋状のソケット接続部との間が伸びて、手で握りやすくなる。わが家では、停電時に備えてロウソクを何本かそろえているが、それ以外は4月27日の本欄で紹介した蓄電池を利用しようと思っていた。しかし、蓄電池を常に満タンにしておく手間は、案外ばかにならない。その点この電球は、普段の使用中に充電しているから、非常時にすぐ使えるし、余分なスペースを必要としない。

この製品は、「Magic Bulb」(MB4W-A)という商品名の充電式バッテリー内蔵のLED電球で、普通の白熱電球でいえば40Wの明るさがある。添付された説明書によると、明るさは240lm、充電時間は4~5時間、自家発光時間は平均で3時間という。東急ハンズ新宿店での価格は、3,900円で1年間の保証書もついている。ただし、不良品の交換の際は「パッケージ類をすべて残してあれば」などの条件がついている。輸入販売元は東京・千代田区にある「ラブロス」という会社で、本体に「made in PRC」と書いてあるから中国製のようだ。「PRC」とは People's Republic of China の略である。

 谷口 雅宣

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2011年6月 7日

CO2の“肥育効果”

 前回本欄を書いてから、少し日がたってしまった。長文の原稿を書いていたので、ブログまで手が回らなかった。この世界は、短い期間に本当にいろいろなことが沢山起こる。日本の政治でもゴタゴタが起こったが、触れる価値があまりないので今は何も言わない。国際関係でも重要なことが起こっているが、改めて別の日に書こうと思う。6月5日には生長の家講習会が埼玉教区の4会場であり、これについては妻がすでに書いてくれた。私はこの日の前日に、講習会での午前の講話の構成を少し変えようと思い、使用するパソコンの画像システムに手を加えた。これにも案外、時間がかかった。多くの人は、パソコンによるプレゼンテーションをマイクロソフト社の「パワーポイント」を使って行うが、私はNeosoft社の「NeoBook」というマイナーなソフトを使う。理由は、このソフトをもう10年以上使っていて、乗り換える気がしないからだ。それでもまだ、このソフトのすべての機能を使っていない。なかなか奥深いところが、また好きである。

 埼玉での講習会の午後の講話では、世界の穀物生産量が“頭打ち”になっていることに触れた。世界人口は増え続けているのに、穀物生産が増えないということは、飢餓人口が増えていることを意味する。そんな中で、中国やインドなどの新興国の経済発展が続いている。人間は、経済が豊かになると肉食を増やす傾向がある。実際に中国ではそれが起こっている。ということは、飢餓人口はさらに増え続けることを意味している。なぜなら、現代の食肉生産には穀物飼料が大量に使われるからだ。こうして、家畜を殺して食する行為は、回り回って人間が同胞の食糧を奪う結果になる。仏教が昔から教えている因果応報の原則は、グローバル経済の中でも確実に進行しているのである。
 
 この世界の食糧問題について、6月4~5日付の国際紙『インターナショナル・ヘラルド・トリビューン』(IHT紙)が人類の“運命”を救おうとする科学者の努力について書いていた。温暖化による気候変動や森林伐採により、世界各地で砂漠化が進んでいるが、水分が少なくても育つ穀類の新種を生み出そうという努力は、穀物消費量の増加に追いついていない。つまり、世界の4大穀物--小麦、米、トウモロコシ、大豆--の在庫は減り続けているのだ。これによって、2007年以降、穀物価格の急騰が2回あった。このことは、可処分所得に占める食費の割合が小さい先進諸国では、あまり騒がれていない。しかし、この割合が大きい途上国では、メキシコからウズベキスタン、イエメンにいたるまで大きな問題となり、暴動が起こった国も少なくない。また、今年の初めから続いているエジプトや北アフリカの政情不安も、食糧価格高騰と関係している。このことは1月の本欄(1月7日 同15日同28日)ですでに触れた通りだ。
 
 しかし、今回のIHT紙の記事のポイントは、食糧高騰と政情不安の問題ではない。そうではなく、地球温暖化にともなう気候変動は、食糧生産に予想以上の悪影響を及ぼしているという危機感だ。地球温暖化の影響を評価した多くの科学者たちは、当初の気温上昇は食糧生産にあまり深刻な打撃を与えないだろうと考えていたらしい。なぜなら、大気中のCO2の上昇も気温の上昇も、植物の成長には一般に有利に働くからだ。日本の環境庁(当時)の予測も、温暖化の初期は国内の農産物の収穫量は上がるとしていたのを、私は覚えている。このCO2上昇による植物の成長増加現象を、科学者たちは“CO2による肥育”(CO2 fertilization)と呼び、2007年の国連のIPCC報告書にも楽観的予測を盛り込んでいた。しかし、この予測の元となった研究は、温室などの人工的環境で行われたものが多かったため、実際の自然環境では違う結果が出ているというのだ。どう違うかといえば、CO2による肥育効果はあったとしても、気温上昇によって害虫が増えたり、旱魃や洪水が起こったり、都市化による地下水の減少が作物の生育に不利に働いているため、全体としては温暖化は食糧の生産増につながっていないというのだ。

 このような状況を知ってみると、日本の農業の振興は急務であり、肉食を減らす運動をさらに盛り上げていく必要があると強く感じるのである。
 
 谷口 雅宣

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2011年6月 2日

科学技術は選択すべし

 前回の本欄では、“人間が生んだ地球”の上で「技術社会を放棄せずに、人間の尊厳を保って生きていくにはどうすべきか?」という問いかけをした。アメリカの2人の大学教授は、先端技術の「影響をより深く知り、その中で理性的に、責任をもって、倫理的に生きる」べきだと書いていたが、具体的にどうしたらいいかは述べていない。私は、年ごとに強力となり、影響力を増しつつある科学技術について、全部を否定したり、全部を丸ごと肯定するのではなく、それぞれの技術の性格をよく知り、それを使うであろう我々人間の(現象的な)性質を考慮し、理性的に、責任をもって、倫理的に考えれば、ある種の科学技術については、人類として使用を禁じたり、制限するという「取捨選択」が行われるべきだと考える。
 
 このことは、核兵器や生物・化学兵器などの大量破壊兵器に関しては、相当程度の国際合意ができている。また、戦争法規の分野でもかなりの合意があり、“人道に関する罪”という新しい概念もできつつある。大体、「兵器」と呼ばれるものは皆、科学技術の産物である。その中で破壊力が著しいものを選んで、開発や使用を制限することができるのだから、戦争のためでない科学技術の分野でも、同じことができないはずはない、と私は考える。そういう意味で、今日、原子力発電という技術を取り上げ、今後の利用の是非について世界中が検討を進めていることは、好ましいことだと思う。世界的な合意は簡単にはできないだろうが、“人間の作品”を全面的に肯定する段階から、人類は一歩成長したと見ることができるからだ。

 ところで、福島第一発電所の事故の調査・検証委員会の委員長になった畑村洋太郎・東大名誉教授が、5月30日の『日本経済新聞』で“人間の性質”について興味ある見解を述べている。それによると、人間には次の3つの習性がある--
 
 ①見たくないものは見ない、
 ②考えたくないことは考えない、
 ③都合の悪い事柄はなかったことにする

 畑村名誉教授によると、これらの習性から生じた“人間万能”の錯覚が、今回の大震災で津波被害や原発事故を拡大させたというのである。簡単に言えば、人間は間違い、失敗するという事実を忘れ、科学技術の力を“過信”したことが悲劇を生んだのだ。その畑村氏が、こう言っている--
 
「原子力はエネルギーを取り出すのに大切だが、ものすごく危ないものだとの前提で付き合うべきだった。完全に制御することはできないうえ、いったん制御が外れると暴走を止めるのは容易でないことを認識しておくべきだった」。

 が、同時に畑村氏は「日本が原子力を使わずに生きていけるとは思わない」と書いている。私はこの点、同氏とは意見が違う。今、日本全体の原発の7割ほどが停止している。しかし、日本人はちゃんと生きているのだ。25日の『朝日新聞』夕刊によると、日本学術会議は目下、原発の即時撤退から段階的な自然エネルギーへの代替、原発推進まで4つの選択肢を検討しているという。すなわち、①原発を即時全面停止して火力などで代替する、②5年程度で原発分の電力を自然エネルギーと省エネで代替する、③20年程度で原発分の電力を自然エネルギーで代替する、④誰もが安全だと認める原子炉をつくり、将来も重要なエネルギーとして位置づける--の4段階だ。
 
 私はこの中では、ぜひ②を選んでほしい。もし、いろいろな理由でそれが無理なら、せめて③の方向へ日本は進むべきだと思う。新しくやることは山積している。菅内閣の不信任案が国会で否決されたが、日本の政治家はこんな政争にうつつを抜かしている暇などないのである。

 谷口 雅宣

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