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2011年6月 7日

CO2の“肥育効果”

 前回本欄を書いてから、少し日がたってしまった。長文の原稿を書いていたので、ブログまで手が回らなかった。この世界は、短い期間に本当にいろいろなことが沢山起こる。日本の政治でもゴタゴタが起こったが、触れる価値があまりないので今は何も言わない。国際関係でも重要なことが起こっているが、改めて別の日に書こうと思う。6月5日には生長の家講習会が埼玉教区の4会場であり、これについては妻がすでに書いてくれた。私はこの日の前日に、講習会での午前の講話の構成を少し変えようと思い、使用するパソコンの画像システムに手を加えた。これにも案外、時間がかかった。多くの人は、パソコンによるプレゼンテーションをマイクロソフト社の「パワーポイント」を使って行うが、私はNeosoft社の「NeoBook」というマイナーなソフトを使う。理由は、このソフトをもう10年以上使っていて、乗り換える気がしないからだ。それでもまだ、このソフトのすべての機能を使っていない。なかなか奥深いところが、また好きである。

 埼玉での講習会の午後の講話では、世界の穀物生産量が“頭打ち”になっていることに触れた。世界人口は増え続けているのに、穀物生産が増えないということは、飢餓人口が増えていることを意味する。そんな中で、中国やインドなどの新興国の経済発展が続いている。人間は、経済が豊かになると肉食を増やす傾向がある。実際に中国ではそれが起こっている。ということは、飢餓人口はさらに増え続けることを意味している。なぜなら、現代の食肉生産には穀物飼料が大量に使われるからだ。こうして、家畜を殺して食する行為は、回り回って人間が同胞の食糧を奪う結果になる。仏教が昔から教えている因果応報の原則は、グローバル経済の中でも確実に進行しているのである。
 
 この世界の食糧問題について、6月4~5日付の国際紙『インターナショナル・ヘラルド・トリビューン』(IHT紙)が人類の“運命”を救おうとする科学者の努力について書いていた。温暖化による気候変動や森林伐採により、世界各地で砂漠化が進んでいるが、水分が少なくても育つ穀類の新種を生み出そうという努力は、穀物消費量の増加に追いついていない。つまり、世界の4大穀物--小麦、米、トウモロコシ、大豆--の在庫は減り続けているのだ。これによって、2007年以降、穀物価格の急騰が2回あった。このことは、可処分所得に占める食費の割合が小さい先進諸国では、あまり騒がれていない。しかし、この割合が大きい途上国では、メキシコからウズベキスタン、イエメンにいたるまで大きな問題となり、暴動が起こった国も少なくない。また、今年の初めから続いているエジプトや北アフリカの政情不安も、食糧価格高騰と関係している。このことは1月の本欄(1月7日 同15日同28日)ですでに触れた通りだ。
 
 しかし、今回のIHT紙の記事のポイントは、食糧高騰と政情不安の問題ではない。そうではなく、地球温暖化にともなう気候変動は、食糧生産に予想以上の悪影響を及ぼしているという危機感だ。地球温暖化の影響を評価した多くの科学者たちは、当初の気温上昇は食糧生産にあまり深刻な打撃を与えないだろうと考えていたらしい。なぜなら、大気中のCO2の上昇も気温の上昇も、植物の成長には一般に有利に働くからだ。日本の環境庁(当時)の予測も、温暖化の初期は国内の農産物の収穫量は上がるとしていたのを、私は覚えている。このCO2上昇による植物の成長増加現象を、科学者たちは“CO2による肥育”(CO2 fertilization)と呼び、2007年の国連のIPCC報告書にも楽観的予測を盛り込んでいた。しかし、この予測の元となった研究は、温室などの人工的環境で行われたものが多かったため、実際の自然環境では違う結果が出ているというのだ。どう違うかといえば、CO2による肥育効果はあったとしても、気温上昇によって害虫が増えたり、旱魃や洪水が起こったり、都市化による地下水の減少が作物の生育に不利に働いているため、全体としては温暖化は食糧の生産増につながっていないというのだ。

 このような状況を知ってみると、日本の農業の振興は急務であり、肉食を減らす運動をさらに盛り上げていく必要があると強く感じるのである。
 
 谷口 雅宣

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コメント

合掌有り難うございます。
肉食を減らす運動は、及ばずながらマクロビオティックの普及に今後益々力を入れていくことで進めていく所存です。(自然食品店を営んでおります)

先日の焼肉店の問題にしても、被害に遭われた方に申し上げにくいことですが、そもそも肉を食べなければ被害に遭わずに済んだのに‥と思ってしまいます。肉でなくても、植物タンパクや雑穀等をうまく使えば充分美味しい料理が作れますし、栄養も摂れます。私もまだまだ勉強中ですが、環境のためにも肉体の健康のためにも、生涯をかけてこの問題に取り組んでいきます。(いつか、行政にも働きかけ、“肉を使わない学校給食”を実現させるのが目標です)

投稿: 前川 淳子 | 2011年6月 8日 09:15

雅宣先生・純子先生埼玉教区講習会では久しくご指導頂きましてありがとうございました
私は川口会場で役務をいたしました駅前のホールでしたので沢山の方がご参加くださいましたご参加の皆様に気持ち良く受講していただこうと思い役務を全ういたしました
雅宣先生・純子先生のお声が会場一杯に鳴り響き素晴らしい雰囲気でした
昨日も今日も雅宣先生の御講話が大変分かりやすく午後も残って受講されたと白鳩さんの旦那様がお話しされたと何人もの方が嬉しそうにお話くださいました
ありがとうございました

投稿: 山田愛子 | 2011年6月 8日 20:49

 五月には田植えがあり、近くで雉が鳴いていました。この前は、畑で玉ねぎの収穫を手伝いました。ホトトギスや鶯の鳴き声が聞こえました。すこし暑くなってきましたが、今はまだ爽やかな風が吹き、働きやすい気候です。

濠濮(ごうぼく)の間の想い

〔「濠」は、いまの安徽省を流れる川。「濮」は、山東省を流れる川〕世俗を離れ、自然の中で悠々自適の生活をする境地をいう。
出典:〔『世説新語』言語〕〔『荘子』秋水〕
故事:『世説新語』に、晋の簡文帝が華林園で、「心に適う場所は遠くにあるとは限らない。木々の茂みや川の流れにも、自ずから濠水や濮水のほとりの想い〔=閑静な境地〕があり、鳥獣禽魚も自然にやって来て人に親しむ」と語ったという話に基づく。なお、ここでいう、「濠水のほとりの想い」とは、『荘子』に載るつぎのような文に基づく。あるとき、荘子が恵子と濠水のほとりをぶらぶらし、水中の魚を見て「はやが泳いでいる。魚も楽しいのだな」といった。すると恵子は「魚でもないのに、楽しいなどわかるはずはない」と言った。「それなら、あなたは私ではないから、どうして私には魚の楽しみがわからないということがわかろうか」と反論。以下、そんなやりとりの中に、絶対の境地に立てば万物は一体で心も互いに通いあうという荘子の思いが述べられている。

成語林 旺文社刊より

昔は祭りの時位しか肉を食べなかったのではないでしょうか。それも、残飯や草などを餌としてやっていたのだと思います。家という字も屋根の下で人間の糞を豚が食べている様子を象形文字としてあらわしたものだそうです。それなら、ごみも出ず穀物を家畜のえさにすることもなかったのではないでしょうか。私が子供のころは、卵も今と違って高価で、家で大根の葉やコゴメ(小さくて食用にならない米)などをやって鶏を飼っていました。年を取って卵を産まなくなると、絞めて肉にして食べていました(今考えると、少し可哀相ですけど御馳走でした。でも、店に肉として並んでいるのではなく、そうして私たちの食べ物になるのだという認識がありました)。以前は飛田給の本部錬成道場などでも鶏や豚を飼っていたことがあったようですね。

投稿: 田原健一 | 2011年6月 8日 22:25

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