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2011年6月23日

持続可能性と気候変動の正義 (2)

 前回紹介したマルカス・フォクト氏の環境問題についての考え方は、ご本人が「人間中心主義」と呼んではいても、生態系の一部として人類をとらえる中で人間の繁栄に条件と限界を求めるのだから、「限定的人間中心主義」と形容できるだろう。この考え方は、ヴォグト氏自身が言っているように、国連環境開発会議の“リオ宣言”で合意された「持続可能性(sustainability)」の考えとも合致しているから実際的であり、国際的規範としても有効性があると思う。事実、生長の家が計画を進めている“森の中のオフィス”構想の「中・長期的ヴィジョン」などを読んでみると、ヴォグト氏が提示した“限定的人間中心主義”に近い考え方が相当程度盛り込まれていることが分かるだろう。

 人間中心主義の検討に続いて、ヴォグト氏はキリスト教の文脈でよく使われる「神の創造(Creation)」という言葉の意味を問いかけている。この言葉は、キリスト教の重要な概念である「救い」などと比べて、長い間注目されてこなかった。その理由の1つは、聖書に描かれた天地創造の話が、ダーウィンの進化論や科学的研究と比較すると“理性的な考え”とは見なされなかったからだ。このため創造の問題は、人類学や自然科学などから隔絶するというキリスト教倫理学にとって大きな禍根を残すことになった--とヴォグト氏は指摘している。しかし、1989年以降、カトリックやプロテスタントの別を問わず盛んに言われるようになった“神の創造を保護する”という考え方は、まるで自然を社会的な保護の対象にするかのようだから、同氏は「ばかばかしい」と批判している。ヴォグト氏によれば、人類は創造全体の中でほんの微細な一部にすぎないのだから、神の創造全体の保護を人類の義務として背負わせることは、過大な負担だというのである。

 さらに、キリスト教徒が「神の創造」を信じるということは、そこに生態学的な意味での「調和」があると信じることではない、と同氏は言う。この部分は、なかなか厳しい認識だ。自然とは、単なる調和によって特徴づけられるものではなく、紛争や存在をかけた闘争、死や苦しみでさえ一定の役割をもつ1つの秩序体系であり、と同時に、安寧や治癒をもたらす場所としての性格を失わない、と同氏は言う。このような見方をすれば、持続可能性をめぐる神学上の倫理は、生態系の救済を説くものではない。また、自然への倫理ではない。それよりも、自然を一つの窓口として見、自然と人間の文化との、また(自然の)保護と更新との終りのない緊張である、と同氏は説明する。この最後の、難解に聞こえるところの意味は、たぶんこういうことだ--人間と自然とは「本来調和している」という性質のものではなく、相互が干渉し合い、せめぎ合う中で変化していくものである。だから、持続可能性の実現とは、人間の手の加わらない自然の生態系を回復することや、自然界と倫理的につき合うことを意味しないというのだ。
 
 しかし、だからといって、人間の好きなように自然を改変していい、とは同氏は言わない。持続可能性は、それを定めた“リオ宣言”が示すように、生態学にもとづくのではなく、「正義」の考えを地球大に、また世代間に拡大したものだ、と同氏は言う。科学技術の発達やグローバリゼーションの進展を考えれば、持続可能性の要請は当然の論理的帰結だというのである。つまり、現代は、長期的な影響や社会的な相互交流に、空間的、領土的な制約がない時代になっている。だから、地球規模の平等と、世代間の平等の実現が正義となるのである。そういう意味で、地球上の生物圏の機能を保護することは、未来世代のための、また貧困撲滅のための重要な貢献となるのである。ヴォグト氏によると、この持続可能性の前提となる2つの倫理原則は--①未来世代の人間は、現世代と同じ生存権をもつべきである、②地球上どこでも入手できる資源は、すべての人間に平等に与えられるべきである、の2つだ。これら2原則を同氏は「地球規模の世代間平等主義」と呼ぶが、これには早急に一定の制限が課せられるべきであるとする。が、この問題は煩雑になるので、本欄では触れない。
 
 では、ヴォグト氏が目指す“正義”を実現した未来社会とは、どのような姿か? これについては、同氏はこの論文で多くを語っていない。が、それらしきものを書き出してみる--
 
「“より速く、より高く、より多く”という考えは、進歩の理想としては不十分であることが証明された。より少ない資源から生み出された富だけが、より多くの人々に配分されるのだから、正義を実現することができる」。

「持続可能性は、資源節約のための社会的、経済的政策の代名詞であってはならない。それは、倫理的、文化的な変化を目指すものだ。成長は無限だとする現在の進歩についての考え方は、開発にとって不可欠な価値によって置き換えられねばならない。長期的な視点に立った経済の成功は、自然のリズムにどれだけ統合されているかによって評価されるべきである」。
 
「持続可能性は、未来への1つの警告である。その背後にある希望は無限に続く成長ではなく、自然の限界内での充実した生活である」。

 生長の家の“森の中のオフィス”構想とも共通し、あるいは参考になる考えがいくつも見出される。
 
 谷口 雅宣

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