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2011年6月30日

“緑の教皇”は語る (2)

 前回の本欄に掲げたカトリック教会の“環境のための十戒”は、ヴァチカンの正義と平和協議会が出した正式文書で、その目的は「教会の社会教理大要(Compendium of the Social Doctrine of the Church)の中にある環境についての重要な教えを、十ヵ条に分けて説明する」ためだという。この中には、生長の家の考え方と共通するところもかなりあるが、そうでないところもある。その相違点で大きなものは、第1戒、第5戒、第10戒に表れているように、自然と神とを明確に分離して考えているところだろう。
 
 ところで、『環境のための10の戒律』によると、ローマ教皇が環境についての考えを最初に出したのは、1988年、ヨハネ・パウロ2世の時代のときの「社会問題について」(On Social Concern)という回勅だという。これは教会の内部向けのものだ。公式文書としては、同じ教皇が1990年の世界平和の日に出した「神のすべての創造との平和」(Peace With All of Creation)という文書が、環境問題に絞って書かれた最初のものであるという。この11年後、同教皇の亡くなる前の1月17日に出されたメッセージからの引用が、この『10の戒律』にはある。そこには、ヨハネ・パウロ2世の環境に対する考えがよく表れている。それは、「人間は、他の被造物の潜在脳力すべてを花開かせるために、神による創造を支配する使命を受けている」というものだ。
 
 ここには、「神ー人間ー自然」という序列の価値観が明確に表れている。この基本的な考え方は『創世記』の天地創造物語にもとづいているから、ヨハネ・パウロ2世のオリジナルではなく、恐らくキリスト教に、そしてユダヤ教にも共通したものだ。“環境のための十戒”でも、「自然は利用せよ、ただし悪用するな」「自然は神より劣る」「自然は神にあらず、神からの賜物である」などに、この考え方は表れている。その認識は、人間は神の命によって自然の管理を任されているにもかかわらず、その命に反して自然環境を破壊し、機能不全に陥らせている、というものだ。ヨハネ・パウロ2世の言葉は、こう続く--

「残念ながら、わが地球のいろいろな地域を眺めてみると、人類が神の期待に背いていることがすぐに見て取れる。人間は、特に現代では、木の繁った平原や谷間を何の躊躇もなく破壊し、水を汚染し、地球の生物の生息地を変形させ、空気を汚して呼吸できなくし、地上の水循環と大気循環のシステムを混乱させ、植物の豊かな地域を砂漠化し、産業化を際限なく進め、我々の住む“花壇”を劣化してしまった。だから我々は、“生態上の転換”を支援し、支持していかねばならない。この転換のおかげで、ここ数十年の間、人類は自分たちが向かっている大惨事に気づきだした。人間はすでに創造者の“牧者”ではなく、独立した暴君である。その暴君は、自分が今や奈落に落ちる寸前で止まらねばならないことにやっと気づき始めている」。

 私は、『今こそ自然から学ぼう』(2002年刊)という本の中に「生物界の“暴君”の座から降りるために」という題の一文を書いた。そこでは、「他人の意思を蹂躙して、その人を自己の手段として利用することが人間社会では許されないにもかかわらず、人間以外の生物についてはこれを許すことは、人間を生物界の“暴君”として容認する考え方である」として、人間至上主義を批判している。その表現が、期せずしてヨハネ・パウロ2世のものと一致したことに今、驚いている。
 
 谷口 雅宣
 

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